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井伏鱒二聚芳閣入社は大正十三年十一月か : 井伏聚芳閣勤務時代の検証

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(1)前 田 貞 昭. ないかという論もある。明治書院の﹃現代日本文学大辞典﹄の. り∴・. しかしこの葬芳閣時代の期間については、もう少し長いのでは. で米田年譜などを引いた後、. 井伏鱒二緊芳閣入社は大正十三年十L月か -井伏衆芳閣勤務時代の検証-. l、緊芳閤入退社時期各説 井伏鱒二が、早稲田の先輩・光成信男の仲介で、当時の新興出版. であるが、それには八大正一三、当時新宿にあった出版書韓衆. 芳闇に入社。一時やめたことがあったが、断続して'大正一五. 井伏鱒二の項は、この作家と長年の親友であった浅見淵の執筆. まで勤める)とある。しかし'これにも﹃父の罪﹄の訳書にふ. 社・東芳闇に勤務したことは広-知られているO早い時期の詳細な. 代の文学﹄六八井伏鱒二集)(河出書房新社、一九六五年十月八日). れていない。/﹃父の罪﹄は前述したように″大正十三年九月. 井伏年譜は米田清Tの手によって作られてきたが、その一つ、﹃現. 所収﹁年譜﹂は大正十三年から十四年にかかる時期を次のように記. いうことになろう。この訳書が同社によって認められたものか。. とするとへこの訳書を衆芳闇から出版してから同社に勤めたと. 十日″という奥付を持つのであるから、従来の年譜などに従う. :・:・. 述している。 大正l三年二九二四)二七歳11月、出版社衆芳闇に勤. しかし一方、衆芳闇との関係がこれ以前からのものであり'同. めるようになる。三か月後に退社。 大正1四年(1九二五)二八歳1月﹁うちあわせ﹂を衆芳. ママ. 閣発行、松本清太郎編集の﹃文学界﹄に発表。春へ1且帰郷し. うに当時はかなりの流行のようになっておりへ井伏訳の後も'. のとも考えられる。(ズーデルマンものの出版は'先に見たよ. 戦後昭和二十八年の角川文庫﹁憂愁夫人﹂まで二十冊ほどを数. 社から請われた仕事の1つとして井伏がこの訳業に携わったも. 以後、この、大正十三年十l日東芳閣入社、大正十四年に1旦退社. える。)もしそうだとすればへ衆芳閣時代の初めも大正十三年. たが、一か月後に上京へ再び衆芳闇に勤務。奥付のない本を出. したものの、再度勤務し、その一箇月後退社という説は、後に井伏. 十一月からもう少しさかのぼらなければならないこととなる。. し、差恥のあまり一か月で退社。. かし、この﹁定説﹂に疑問が出されなかったわけではない。例えば'. (三十四∼三十五貢). 自身の校閲を経て権威化され'﹁定説﹂の如き扱いを受けてきた。し. 涌田佑は﹃私注・井伏鱒二﹄(明治書院へ一九八一年一月二十五日). 41.

(2) と言い、同書附載﹁書誌及び研究参考文献を配した井伏鱒二年譜﹂. 発行)を手がける。五月、衆芳闇を退社する。. 断続し出版社衆芳闇へ勤務﹂と記載している。さらに'浦田は、そ. 五年秋説(浦田)と複数の説が存在する。ただし、元同僚・浅見淵. は大正十四年春以後説(米田)へ大正十五年五月説(松本)、大正十. 説(米田)、大正十三年五月説(涌田)へ最終的な退社時期について. このように衆芳闇への初回入社時期に関しては大正十三年十1月. の当否はさし措いて﹃井伏鱒二-作家の思想と方法-﹄(明治. の大正十三年の項では、﹁この年の五月頃から大正一五年頃まで、. 書院、一九八六年九月二十五日)所収同題年譜で、﹁大正一五年秋. の証言や松本の考証が示しているように'大正十四年最終退社説は. 寄らない時期へ佐々木味津三追悼文﹁中央沿線の会﹂(昭和九年三. 本稿では入社時期を姐上に載せてみたいのだが'年譜など思いも. 成立しない。. 五十二巻第六号一九八七年六月一日。のち﹃井伏鱒二-宿縁の文. 松本武夫は﹁井伏鱒二の﹁衆芳閣﹂勤務時期﹂(﹃解釈と鑑賞﹄第. 頃まで'断続し出版社衆芳闇へ勤務﹂と退社時期を記述をしている。. 学-﹄武蔵野書房、一九九七年四月五日.なおへ以下に引-松本. 月)で'井伏は次のように語っている。. 十年前へ私が出版所に勤めてゐたときへその出版所から佐々. の見解は全て単行本所収同題論文に拠る)で'関係部分を次のよう にまとめている。. 十一月、光成信男の措介で'出版社衆芳闇に、新雑誌﹃趣味と. とき、著者の佐々木氏がやって来て、甚だ嬉しさうな顔をした。. 図してその書物を地方の取次店に発送する荷づ-りをしてゐた. ときのことで、純文学的な短篇集であった。私が少年店員に指. 木氏の単行本が出た。まだ佐々木氏が連載小説を書きださない. 科学﹄の編集記者として入社する。この雑誌に﹁テリア種のい. 私は初対面であった。/﹁再版ですか?﹂/さういって佐々木. 大正十三年(一九二四)二十六歳. ろいろ﹂と題する翻訳記事を書-。十二月、担当した﹃日本の. 一月へ再び緊芳闇に勤務するO二月へ担当した本﹃日本幽囚実. 正期の文芸叢書﹄(雄松堂出版、l九九八年十1月二十日。﹁衆芳闇. 日発行)しかない。紅野敏郎は、この井伏文を摘録しながらへ﹃大. ら出した著書は﹃二人の異端者﹄(大正十三年九月一日印刷、同五. ﹁十年前﹂といえば大正十三年に当たるO佐々木昧津三が東芳闇か. は新版全集に拠る). (新版﹃井伏鱒二全集﹄第四巻四l七貢。以下、井伏文の引用. 氏は更らに嬉しさうな顔をした。. 演劇の説﹄(伊井蓉峰著)が刊行される。 大正十四年二九二五)二十七歳 一月、﹃趣味と科学﹄(第一巻第言号)発行。出版部に移る。四 月へ崇芳闇を退社する。. 記﹄(ガローニン著)の奥付を落したまま出版してしまい'恥. 大正十五年(一九二六)二十八歳. じ入って退社する。三月へ復職し、辰野隆の﹃仏蘭西文芸閑談﹄. の﹁新作家叢書﹂﹂の項)で、﹁純文学的な短篇集﹂を﹃二人の異端. ・ ・ l 、. (五月五日発行)と里見醇の小説集﹃をんな﹄(五月二十三日. 42.

(3) 者﹄とし、﹁このとき井伏鱒二はまだ衆芳闇に勤めていた﹂と記し o. ている(八十二頁)o紅野のこの言はへその意EgIは措いても、大正. 十三年九月衆芳閤在社説の提示と解してよいかも知れない. しかし'﹁十年前へ私が出版所に勤めてゐたときへその出版所か ら佐々木氏の単行本が出た﹂との一文を、直ちに﹃二人の異端者﹄ 発行日の大正十三年九月五日に在社していたと解するのは速断にす. るまい。. 井伏の回想文によって憶測することは措いて'井伏に関わる観点. では未紹介の、緊芳閣入社を報じた当時の雑報資料を提示しておき. たい。﹃読売新聞﹄大正十三年九月二十日発行第一七〇六六号第四. ▲宵島俊吉氏井伏鱒二氏と共に東芳闇に入り十一月創刊の. 面掲載の﹁よみうり抄﹂に次のようにある。. この﹁よみうり抄﹂の次々項には﹁▲高梨直郎氏足立欽一氏令妹. ﹁趣味と科学﹂の編韓に従事する. れた一文であって'必ずしもへ初版・初刷の発行日に在社している. 幾代子と結婚したさうだ﹂ともある。両記事の情報源は'衆芳閣関. ぎる可能性もある。佐々木と出会った挿話の状況説明のために置か. ことを意味しないかも知れない。いや、奥付記載の発行日・印刷納. 係者のようで(足立は衆芳閣社主、高梨も衆芳閣員)、その分、信. よ し お. 本日も疑い出せば、疑えないことはない。. 日発行第一七〇八八号第七両﹁読書界出版界﹂欄掲載無署名﹁盲人. もう一つ、﹃読売新聞﹄から引いておこう。大正十三年十月十二. 頼度は高いと思われる。宵島俊吉(本名は勝承夫)・井伏の入社時. が杖無しで闇を歩-やうだ﹂という記事である。創立(大正十三年. これに関わる別の資料と突き合わせてみよう。当時は衆芳闇の主. き復讐﹂と広告を載せへ巻末の﹁策芳閣出版だより﹂に'九月二十九. 版出来◇長篇小説二人の異端者附へ短篇二つ/母の上京/寂し. 三月)以来半年ほどの間で次々に新刊を繰-出した衆芳闇を'青年. 期と共に'﹃趣味と科学﹄が十一月創刊予定であったことにも注目. 日に内務省から指示されて、﹃二人の異端者﹄から四頁分を切り取っ. 文士の揃った異色の出版社として取り上げへ﹁青年文士﹂﹁新人﹂と. しておきたい。. て削除改訂版とし、取次店へもその旨通知したという記事を掲載. して高梨・宵島・松本清太郎とともに﹃父の罪﹄を訳した井伏の名. 力雑誌と称してよい﹃文学界﹄大正十三年十1月号(十1月lR発. している。﹁中央沿線の会﹂にいう﹁再版﹂(増刷分を指すのか、削. 行、十月十五日印刷)は、扉裏に﹁佐々木味津三氏著◇再版売切三. 除改訂版を言うのも唆味だが)と﹃文学界﹄広告のそれが同じだと. するのが穏当だろうとは思われる。が'突き詰めると'記事掲載の. 右に引いた﹁よみうり抄﹂を見る限り、九月二十日前後に入社と. た、十月には在社を前提とする記事を掲載しているのである。. このように同時代の新聞は、九月に井伏の衆芳閣入社を伝え、ま. 前も挙げられているのだ。. ﹁再版﹂発送作業に井伏が携わったことになる。初対面というから. すれば、九月末か十月と思われる佐々木味津三﹃二人異端者﹄の. には、入社後早い時期であることは確かだろう。佐々木は大正十三 年十1月二十二日以降虻門周囲炎のため身動きできずに'翌年四月 に漸-回復しているので、佐々木の発病以前であることは間違いあ. 43.

(4) 四. 貢. ). を編輯責任者として'其の一部を読者応募の原稿によるの目的. (. 九月二十日時点で'宵島と井伏が既に入社していたと言うのか、そ. 。. この衆芳閣発行﹃文学界﹄創刊号は国会図書館、日本近代文学館な. た. どにも架蔵されていないために現物を確認していないが、右の記事. し. 十四年十二月十三日﹁よみうり抄﹂では'十一谷義三郎が大島へ静. で注目したいのは'編集責任者の中に勝承夫(宵島俊吉)の名前が. 刊. で. 養に出かける予定との記事があるが結局はそれを止めたとかへまた、. 創. れともその予定を記したのか、必ずしも明瞭ではないようだ。大正. 大正十四年十二月二十七日には、勝の﹃深夜の犬﹄を文芸日本社か. 挙げられていることだ。. する井伏文で左右されたきたところがないわけではない。例えば、. 那/宵島俊吉/松本清太郎/足立欽ことへ﹃文芸年鑑﹄と同じ四. 集規定﹂を掲載しへその末尾には﹁編輯局厳選/責任者/高梨直. は三段組で最下段を奥付に宛て、残る上・中の二段で﹁毎号懸賞募. 実物を調査できた十l月発行﹃文学界﹄第一巻第二号奥付記載頁. ∵こ. ら近刊としているが刊行には至らなかったといったこともある。井. 先の涌田の入退社時期は井伏﹁半生記﹂(l九七〇年十一月∼十二. 名の名前を連ねている(なお、﹃文学界﹄誌上では、多-筆名の宵. 伏自身の回想も編棒Lへ衆芳閣勤務時期を巡る諸説も、論者が依拠. 月)に拠り'松本の考証は専ら﹁満身療病﹂(一九四九年十月)に. 様に'井伏が﹁難肋集﹂(昭和十l年五月∼十二月)でへ. 勝の衆芳閣入社時期を問題にするのは、先の﹁よみうり抄﹂と同. ある。. もへその校了時点迄に衆芳閣に入社していたことを証明する記述で. て先の記事を執筆したのであれば、勝承夫(宵島俊吉)が'遅-と. もし、久木逸夫が実見した﹃文学界﹄大正十一二年十月創刊号に拠っ. 島俊吉を用いている)0. 拠るといった具合だ。 本稿では、衆芳閣刊行の﹃文学界﹄などの周辺資料から﹁よみう り抄﹂に言う入社時期を検証し、﹁定説﹂の如き観のある大正十三 年十一月入社説の当否を明らかにしたいと思う。 二へ勝承夫の棄芳閣在勤時期 大正十三年を震災からの復興と共に各種文字雑誌が創刊された年 として振り返る久木逸夫は、(大正十四年版)﹃文芸年鑑﹄(二松堂. 輯部には勝承夫、浅見淵へ中地勇、狩野鐘太郎といふやうな人. この出版所の編輯顧問は十一谷義三郎へ主任は川添利基、編. がゐた。勝承夫は私と同じ日に入社したがへ彼は山田順子女史. 書店、大正十四年三月十五日)所収﹁大正十三年の文壇﹂の﹁二. のほか﹃文学界﹄﹃科学﹄﹃世紀﹄を挙げる。そして、年少の文学愛. 文芸に関係ある雑誌﹂において、十月創刊雑誌として﹃文芸時代﹄. の小説﹁流るるままに﹂が出版されると問もな-退社した。. と述べているからだ。大正十五年二月に入社した浅見淵の名前があ. (第六巻四十八頁). 好者に向けた投書雑誌の色彩が濃い﹃文学界﹄について次のように 述べている。 ﹁文学界﹂は足立欽一、松本清太郎、勝承夫、高梨直即の四名. 44.

(5) のときに同僚その他であった東芳閣員と解されるが、勝に関しては. るように、ここに列挙された人々は'井伏が勤務期間中のいずれか. ことになろう。. 九月二十日発売で'奥付には十月1日の発行日が記載されたという. から類推しゆけば、﹃文学界﹄十月創刊号は、九月十五日印刷納本、. 抄﹂以外に、勝・井伏の入社時期を記した資料を見出していない。. た加富貴l・金子洋文・岡田伊三郎の社外原稿が締切の十1月二十. 大正十四年新年号﹁編輯後記﹂には'同号の創作欄に予定してい. l・I,. 井伏と同日に入社したと明言している。現在のところへ﹁よみうり. 資料はないが、﹃文学界﹄という月刊誌の編集過程や校了日・印刷. ることができる。またへ実見できた通巻第二号以後の﹁毎号懸賞募. 日に間に合わず、掲載できなかったとの断わりがある。これによっ. 集規定﹂では投稿締切を前々月二十五日としている。貢数調節が容. 納本日・発売日から、創刊号に勝の名前が掲出される日限を推定す. ﹃文学界﹄の現在確認できる号の法定文字に基づいて'﹃文学界﹄. 易な投稿原稿は、前々月二十五日という締切であったのだろうかと. て少な-とも、新年号の社外原稿締切が前々月二十日であったとす. 大正十三年十月創刊号の発行日付は十月l日と推定できる。実際の. ることは不可能ではない。. 発売日は、﹃q<Sq<ァ(ダムダム)﹄創刊号(大正十三年十月十. いたということだ。. 推定される。いずれにしろへ前々月下旬には原稿整理が始められて. 年末年始時期へしかも、﹁新年特別増大号﹂という編輯・印刷・. 日)に掲載された﹃文学界﹄創刊号広告の﹁九月廿日発行﹂の文字、. ﹁よみうり抄﹂が﹁▲﹁文学界﹂創刊号昨日衆芳闇から発売され. また﹃読売新聞﹄大正十三年九月二十一日発行第1七〇六七号掲載. 稿締切その他の日程と同様に扱うことには問題が残ろうか。例えば. 校正に手間が掛かるものを、総貢数も把握できていない創刊号の原. ﹃文学界﹄大正十三年十一月号第1巻第二号は十月十五日印刷納. た﹂とあるのに拠れば九月二十日である。. 大正十三年十丁月号第7巻第二号は六十余頁で定価二十五銭であるO. アンケート回答や附録﹁現代日本文士録﹂十六頁などを併せて'通. 創刊号の定価は二十五銭である。大正十四年新年号は定価七十銭へ. 常号の三倍程の頁数になるoしかし、創刊号にも、新年号と同程度. ﹁十二月十日印刷﹂とあるが'表四には﹁十二月十五日印刷納本﹂ とある。この新年号を十二月二十日発売とする広告が﹃文学界﹄大. 本O大正十四年7月新年号(第二巻第言号、通巻第四号)奥付には. 正十三年十二月号第一巻第三号表四に掲載されている。井伏の兄・. の準備期間を置いたとするとへ新年号で前々月二十日を社外への依. 掲載の広告も同様である。﹃文学界﹄大正十四年一月号は、表四に. 刊行に至るまでの日程を想定してみよう。大正十三年八月下旬に社. 大正十四年新年号に倣って、﹃文学界﹄大正十三年十月創刊号の. 頼原稿の締切日に設定していたことは'一つの指標としてよい。. 従って十二月十五日印刷納本(十二月十日印刷納本では発売日との. 外依頼原稿の締切を設定し'続いてその取りまとめや誌面の割付な. (大正十四年一月一日発行、大正十三年十二月二十八日印刷)表三. 文夫が郷里で発行していた﹃郷土﹄大正十四年新年号第三巻第l号. 間隔が開きすぎる)へ十二月二十日発売としてよいだろう。これら. 45.

(6) 九月十五日と想定される印刷納本日直前迄ずれ込むと思われる)と. 者による原稿執筆(もちろん、埋草的な記事はもっと時期が下り、. どの入稿直前の原稿整理・原稿指定作業を開始する。他方、社内記. 入社すれば既に原稿料を貰っていたへと考えて九月入社の可能性を. もへ極端な話へ﹃父の罪﹄発行日には入社していな-ても、翌日に. 松本は、十一月入社説の是非を改めて検証したのではない。しか. たように'大正十三年九月へ十月、十一月、十二月と﹁月単位﹂に. 探ってもよいはずなのだが、それを﹁月単位﹂で括って九月入社説. 並べ、九月(九月を含む)以前を﹃父の罪﹄発行時に稿料受積と見. を排しているようにも見える。従来の多-の生活年譜がそうであっ. 今述べたような編集・印刷日程であれば、(大正十四年版)﹃文芸. て除-Oそして、従来の十一月入社説を覆す材料がないことを以て、. その印刷所入稿作業が進行Lへ九月中旬にさしかかると蕨終校正の. 年鑑﹄にいう﹁編輯責任者﹂、あるいは﹃文学界﹄﹁毎号懸賞募集規. 大正十三年十1月衆芳閣勤務説(これが入社か在勤かは微妙な表現. 開始へ九月十五日印刷納本という体裁で、九月二十日発売である。. れる下限は、大正十三年九月十五日頃である。勝と同日に入社した. 定﹂にいう﹁責任者﹂のメンバーとして勝の名前が創刊号に掲げら. だが)を追記したようだ。. ﹃日本の演劇の説﹄が大正十三年十二月五日発行(大正十三年十二. 1日発行)に掲載されていることへ井伏が編集を担当した伊井蓉峰. かったことを意味するのかへあるいは﹃父の罪﹄発行時点でもまだ. それが'﹃父の罪﹄訳稿を衆芳闇へ渡した時点ではその社員ではな. の時はまだ勤めていない。だから原稿料を-れたんだ﹂だけでは'. この﹁牛込鶴巻町﹂を出して-るとう松本が記録した井伏発言﹁そ. (第六巻四七四頁). ゐたので出版所は原稿と引換へに稿料を-れた。. らかじめ小島君︹前田注、小島徳弥のこと︺が交渉して-れて. て出来あがった三百枚近-の原稿を出版所に持って行-と、あ. 私はその表題を﹁猫橋﹂と訳さないで﹁父の罪﹂とした。そし. 前、既に手にしていたようだ。そこには次のようにある。. 年九月二十七日に初収録)を信じれば'翻訳料は﹃父の罪﹄発行以. 次に引-井伏の﹁牛込鶴巻町﹂(初出未詳。﹃山川草木﹄昭和十二. という﹁よみうり抄﹂﹁難肋集﹂の言を信頼すれば'井伏もまた九 月十五日前後迄には衆芳闇に入社していなければならない。 ﹁よみうり抄﹂記事を除-と、今まで述べてきたことは、﹃文学 界﹄大正十三年十月創刊号を見ない限りへ推定を何度か重ねて状況. しかし、大正十三年十一月緊芳閣入社説が'それ以上の根拠を持. 証拠をあげつらうだけであったかも知れない。. つかというと、実は甚だ怪しい。 松本武夫は、﹃趣味と科学﹄編集記者として入社した井伏の翻訳. 月一日印刷)であること、さらに、大正十三年九月十日発行ズウデ. 衆芳闇に勤めていなかったことを意味するのか、断定は悼られる。. 文がその創刊号(大正十三年十二月二十八日印刷、大正十四年1月. ルマン原作井伏訳﹃父の罪﹄の原稿料を得たのは衆芳閣勤務以前だっ. 大正十三年十1月衆芳閣入社説に関しては'井伏がその年譜を校. たからだという井伏証言があること-以上の三点によって、﹁︹大正 十三年十1月、緊芳閣勤務︺という項は認められよう﹂と言う。. 46.

(7) 閲した結果として﹁定説﹂化したが'しかし、それを直接証明する. また本文中に﹁一記者﹂の匿名で﹁﹁買はれた貞操﹂の会﹂という. その写真の出席者を紹介したキャプションに井伏鱒二の名前がある。. 記者として入社したと言い、事実、その創刊号発行日付が翌年一月. うり抄﹂には同出版記念会が﹁昨夜開かれた﹂とあるので、日付は. 貞操﹂の会﹂では九月二十六日開催とあるが、九月二十八日﹁よみ. 大正十三年九月三十日発行第1七〇七六号第四面掲載﹁﹁買はれた. 記念会の模様を伝える記事が掲載されている。なお、﹃読売新聞﹄. ものは管見の限りでは存在しない。. 一日となっていて、時日が空きすぎるところに難点が生じた。しか. 九月在社説を採ると、﹁満身療病﹂で井伏が﹃趣味と科学﹄編集. し、先に引いた﹁よみうり抄﹂では﹃趣味と科学﹄の創刊予定は. この'衆芳閣社主・足立欽一の義弟で歌人だったという高梨直即. 二十七日としてよいだろう。. の出版記念会に井伏が出席していたことは、い-つかの事実を推測. t月7日の発行日付を持つことによってへ十一月入社説が結果的に. 十1月となっていた。現存する﹃趣味と科学﹄創刊号が大正十四年. 補強されていたのだが、﹃趣味と科学﹄創刊予定は大正十三年十一. させ'またへ確認もさせる。. 第一は'大正十三年九月二十七日の時点で、井伏が東京にいたと. 月だったわけで、﹁満身療病﹂の記述と九月在社説とは必ずしも矛 盾しない。. いうことである。. 第二は、先の記念会に勝が宵島俊吉の筆名で出席者として挙げら. また﹃趣味と科学﹄編集に関しては、大正十四年四月一日発行 (大正十四年三月二十五日印刷納本)﹃趣味と科学﹄第一巻第四号. この大正十三年九月二十七日までの間、勝の著作で衆芳闇を版元と. れ'それが衆芳閣社員としての列席であると推測されることである。. する詩集などは見あたらない。大正十一二年三月創業の衆芳閣発行の. ﹁編輯後記﹂冒頭に﹁三月号は編輯者が変ったためにへいろく編. 雑誌は'﹃文学界﹄﹃趣味と科学﹄を除けば、大正十四年三月創刊. 輯上の手落ちがあったり﹂とある。﹁満身創痕﹂で井伏が記してい るのとは多少違って、井伏たちが﹃趣味と科学﹄編集に関わったの. の時期に、東芳閣関係雑誌へ勝が寄稿したことはあり得ない。﹃買. ﹃彼岸﹄、同年九月創刊﹃詩神﹄しかな-、この大正十三年九月迄. は創刊号と第二号(大正十四年二月号)で'第二号の編集を終えた 後、﹁出版部へまはされた﹂可能性もある。. 井伏が﹁レギーネを愛す﹂を載せた﹃文学界﹄大正十三年十一月. 九月二十七日(大正十三年)の日付を持つ一枚の写真を見てみたい。. 席は'衆芳閣社員としての出席という可能性が非常に高いO. 検しなければならないが、この点を取り敢えず措-として、勝の出. も失敗し、現在は衆芳閣社員たり﹂とあるへ高梨直即との接点も点. 生まれで﹁新聞、雑誌等の記者を為し又吉雄﹁裳文閣﹂を経営せL. はれた貞操﹄の著者で、(大正十四年版)﹃文芸年鑑﹄には、千葉県. 号第一巻第二号の口絵に'﹁九月二十七日銀座キタニホン楼上/. 三、高梨直郎氏著﹃買はれた貞操﹄出版紀念の会. 高梨直郎氏著﹃員はれた貞操﹄出版紀念の会﹂という写真があり、. 47.

(8) いた井伏が、この記念会に衆芳闇への寄稿家として招かれたのか、. の罪﹄を大正十三年九月十日(九月五日印刷)に衆芳闇から出して. して出席していたのではないかと推測されることである。既に﹃父. 第三は'第二の指摘と関わるが、勝と同様に井伏も衆芳閣社員と. では井伏を兼芳閣社員と見なしてよいo﹁レギーネを愛す﹂の原稿. とする﹃文学界﹄に掲載されている以上、遅-とも十月十五日時点. 社出版物の広告的側面を持っている。それが奥付に十月十五日印刷. 物を標題の1部としているように、宣伝文とは言わないまでも、自. 愛す﹂という詩それ自体が、同年九月十日発行﹃父の罪﹄の作中人. 勝の場合と同様だ。しかし、勝・井伏の二人が揃って出席している. ない。また、井伏と高梨との接点を十分に調査し得ていないのはう. せている(﹁長詩﹂は、短歌・俳句の﹁短詩﹂に対する語)のもう. が﹁新しい詩人の道﹂を寄稿Lへ選者として﹁長詩選後小感﹂を載. 遡った時点での衆芳閣入社である。同じようにこの十l月号には勝. は、それ以前には入稿していなければならないから、十月十五日を. o. あるいはへ衆芳閣員として列席したのかを直接明らかにする材料は. ことがへこの場合、大きな意味を持つのではあるまいか。勝あるい. いったことが'便宜として行なわれてきた。雑誌の発行日には注意. 載された著作に関して、それを生活年表の﹁十月﹂の項に配すると. 従来の作家の生活年表が著作年表を兼ねるため、雑誌の十月号に掲. うものの根拠が薄弱であることが理解されるのであろう。ただし、. この点を検討しただけでも、大正十三年十一月衆芳閣入社説とい. 勝が井伏と同様の事情の下にあったことの証しだ。. は井伏が一人だけ出席していたのならばともか-'九月二十七日時. たがゆえのことと推測されるのである。. 点で、二人が同席していることは'二人が揃って衆芳閣社員であっ. この写真を掲載した﹃文学界﹄大正十三年十一月号から、井伏と. 井伏﹁習作時代﹂(昭和十年二月。第五巻一八三頁)や﹁私の原. するが'印刷納本臼・発売日などのことが、まだ、十分な考慮を払. 衆芳闇に関わる些少のことがらについて触れておこう。. せると、緊芳闇から出した翻訳﹃父の罪﹄で原稿料を貰い、その次. 楕料﹂(一九五〇年三月二十二日。別巻一'七十二頁)を読み合わ. われて来なかった結果だと評してよいかも知れない。. う井伏発言を引き出している。別の言い方をすれば'﹃父の罪﹄の. 訪れ、初校が出た時に足立から茶席(前後の文脈からすると、これ. 演劇の説﹄の制作を担当し、その校正のことで伊井が度々衆芳闇を. ﹁満身療病﹂二九四九年十月)中で井伏は、伊井蓉峰﹃日本の. 四へ﹃日本の演劇の説﹄など. に原稿料を貰ったのは﹃不同調﹄掲載の﹁歪なる図案﹂であったと 回顧されている。また、先に触れたように、松本武夫は、﹃父の罪﹄. 後、﹃不同調﹄昭和二年二月号に﹁歪なる図案﹂を掲載するまでは、. は和風二階建て衆芳閣社屋二階の編集部や一階の営業部とは別にへ. で原稿料を貰ったのは、まだ衆芳闇の社員ではなかったからだとい. すれば'﹃文学界﹄大正十三年十1月号に掲載されている﹁レギー. 一階にあった茶室のことか。浅見淵は﹃昭和文壇側面史﹄(講談社、. 原稿料の入る仕事をしなかったということである。井伏の言を信頼. ネを愛す﹂の原稿料は貰わなかったことになる。否へ﹁レギーネを. ・IS.

(9) で伊井に紹介されたと述べている(第十三巻三〇四頁∼三〇六頁)0. 著作集﹄第二巻、河出書房新社、一九七四年十月十日に拠る)で'. 一九六八年二月二十四日。﹁新宿の緊芳閣﹂の項。ただしへ﹃浅見淵. でもあるまい。その一節は次のようである。. の﹃日本の演劇の説﹄の宣伝効果を狙ったものであることは言うま. に﹁(欽一述M筆記)﹂とある)を掲載している。十二月五日発行. 同年十二月一日発行)は'足立欽一﹁蓉峰氏からきいた話﹂(文末. 貢の編集にそれほどの手間は掛からなかったと思われる。因みにへ. 発表の﹁活版刷りの原稿﹂であったというから、その全二百九十六. 井蓉峰氏新著とした同書の広告に宛てている)。﹁満身療病﹂では既. その男は江戸へ来なければならな-なって'留守になるので冗. なものだと思ってそのま1神棚へ上げて置いたんですが、丁度. すなあ'そいつにマッチをつけるとぽっと燃え上るんです。変. 黒い塊の石つころを拾って来たんです。それが今のまあ石炭で. 道に行って重宝がられてゐたわけなんですが、その男が或る時、. ﹁その男は読み書きも相当出来る男でして'江戸を発って北海. 貞 操 -. 足立がいつもいた下の座敷は砂壁の茶室になっていたと記している). この﹃日本の演劇の説﹄は大正十三年十二月一日印刷へ同月五日. 同書の広告二種が﹃文学界﹄大正十三年十l月号(大正十三年十月. 発行である(﹃文学界﹄大正十四年新年号第二巻第言号表四は'伊. 十五日印刷へ同年十l月一日発行)に見える.巻末広告の﹁衆芳閣出. 談半分女房に'. って/世に公表せんとする三百枚の力篇/﹃日本の演劇の話﹄十1. 用事も片付いて再び北海道へ帰って行った男は、それも冗談. と言って江戸へ発ってしまったんで'=. -俺の留守にふざけたことをするとへこの石に火が燃えるぞ、. ママ. 版だより﹂の二貫目には'﹁天下の名優伊井蓉峰氏が親し-執筆を. 月中旬発売﹂へ次の頁には﹁衆芳閣近刊予告﹂として他の書目とと. 界﹄大正十三年十一月号の奥付記載印刷日は十月十五日である。そ. と思われる。この﹃日本の演劇の説﹄近刊広告が掲載された﹃文学. -それぢや、あの石に火をつけてみりや直ぐわかる。ふざ. と、しきりに弁解する。. -そんな莫迦なことあうありやしないよ。. と、云った訳なんです'女房は、. -俺の留守にふざけた事をしたんだらう?. のやうにふざけた気持で女房に、. もに﹁十一月上旬発売﹂とある。二百九十六頁、十八台半程度のも のであるから、三校までとって(﹁満身療病﹂には辰野隆の著書で 三校で校了とした記事がある)一箇月前後で印刷作業は終わるもの. うするとへこの十月十五日を遡る数日以内の時点で、十一月上旬あ. けたことをしなけりや火がつかねえ、若し、してりやそれが燃. (5). るいは十一月中旬を目途にして﹃日本の演劇の説﹄の制作が進行し. える。. とその男はマッチをすって、そいつへ火をつけるとパット燃. ていたと推定される。となると'十月上旬頃には東芳閣員である井. ﹃文学界﹄大正十三年十二月号(大正十三年十一月二十四日印刷、. 伏が原稿整理を終えて'印刷所へ入稿していたと見なければなるまい0. 49.

(10) とし、井伏が担当した本であるということを考慮すると'談話﹁蓉. の﹁M﹂である可能性が高い。それだけに印象深い蓉峰の談話とし. 峰氏からきいた話﹂を筆記した﹁M﹂とは、井伏鱒二のイニシャル. え上る。何んにも言はず女房は自害してしまった。﹂ この貞操は余へ伊井氏に、友人近藤栄一君のものせし沙本姫. 遅-とも﹃日本の演劇の説﹄の初校の出た時期に、井伏が在社し. て井伏に記憶されていたのではあるまいか。. ︹前田注、前掲、征野﹃大正期の文芸叢書﹄七十八頁に拠れば' 近藤栄7﹃抄本姫﹄は衆芳闇から大正十三年五月五EI刊行︺の 内容を語りつ1ある時、女の貞操観念の一例として伊井氏物語. ていたということは確実だ.十一月上旬という発行予定から判断す. もう少し繰り上げてもよい。原稿整理や割付作業、印刷所への入稿. ればへこの初校は遅-とも十月下旬には出ていたと推測されるし、. が'それを遡るのは言うまでもない。. られき。伊井氏の近時ものせし﹁日本の演劇の説﹂はよ-この. 井伏は'同じ話柄を'蓉峰の談話として﹁満身療病﹂に記している。. 思想を語るに相応はしきものと思ふ。. その記述を素直に受け取れば'衆芳闇の茶席で足立から蓉峰に紹介. 芳閣に在社していたことを明瞭に指示している。大正十三年九月下. ここに取り上げてきた複数の資料は'大正十三年十月に井伏が衆. 五'おわりに. か。﹁満身療病﹂では、この談話を引いた後、﹁伊井の女性観に当て. しかし、それだけが元になって﹁満身療病﹂に録されたのだろう. された際に聞いた、印象深い談話だったとして読める。. はまってゐるのだらう﹂と感想を付け加えている。この感想は、右. 旬には在社していたとしなければ理解し難い事象も示した。. ただ、﹁よみうり抄﹂の勝・井伏の入社報道や﹃文学界﹄創刊号. 引用文の小見出し﹁貞操﹂あるいは﹁女の貞操観念の一例﹂という. 広告と、前引の﹃文芸年鑑﹄掲載久木文との間に不整合がな-もな. 評と通じ合う。しかもへ井伏は'蓉峰が語った挿話を、﹁黒い胸像﹂ (昭和六年十1月八日)へ﹁をんな﹂(初出未詳.﹃田園記﹄収録本文. 掲載の﹃文学界﹄創刊号広告の﹁懸賞作品募集規定﹂には選者名が. ﹃文学界﹄に言及していない。第二に、﹃Q<ァQ<iS(ダムダム)﹄. 掲げられず、井伏・勝の名前はどこにもない。特に第一点は'﹃文. い。第一に、﹁よみうり抄﹂が﹃趣味と科学﹄の名前を挙げても'. 語るのか。井伏は、﹁奥付けのない本﹂二九六〇年十l月)で﹁入. 末尾には﹁六年十二月﹂とあって、それが初出掲載日付と考えられ. 社して二カ月日に雑誌編集部から出版部へまわされた。仕事は単行. 学界﹄発刊準備段階は勿論のこと、創刊号校了時点でもまだ勝・井. る)と相次いで自作のモチーフに用いている。この事実はへ何を物. 本の割り付けと校正とへその本の広告文を書-ことであった。﹂と. されたとも考えられるのである。﹃文学界﹄創刊号を見ない限り決. ﹃文芸年鑑﹄の久木文が'﹃文学界﹄通巻第二号以降によって執筆. 伏が入社していなかったことを示すものとも解し得る。すなわちへ. 基づ-﹃日本の演劇の説﹄であったが、井伏が担当したと記してい. 言う(第二十一巻五一一貫)。﹁満身療病﹂には、足立欽一の企画に. る。浅見淵の﹃昭和文壇側面史﹄は井伏が足立に気に入られていた. 50.

(11) 着のつかないことだが、そこに名前がなければ、逆に、九月十五日. た﹁定説﹂異議という企図はなかったとも思われる。またへ. に勤めていた﹂という表現を見る限りへ紅野としては井伏の文. ﹃二人の異端者﹄には、百五十頁を超える表題作に'﹁母の上. 壇進出以前の境遇に関心を向けていて'年譜の細部に立ち入っ. 京﹂﹁寂しき復讐﹂のそれぞれ約五十貢の作品二つが併録され、. から二十日前後の間に'勝・井伏が衆芳闇に入社したことを裏付け. 大正十三年九月中・下旬に井伏が兼芳闇に入社したのは確かだと. る証拠として捉え直すことができよう。. 思われる。日付まで確定する資料を探索し得ていないが、現在のと. 扉や広告文では﹁長篇小説﹂と銘打たれている。井伏のいう. (3)大正十三年十二月号第一巻第三号は十一月二十四日印刷納本。. 二巻第三号・第六号、第三巻第言号を所蔵。. 月∼大正十四年七月)へ日本近代文学館には第1巻第三号へ第. (2)国会図書館には第l巻第二号∼第二巻第七号(大正十三年十一. ﹁純文学的な短篇集﹂とも若干の相違が存する。. ころ披見できる同時代資料の内へ日付が見えるのは﹁よみうり抄﹂ 記事である。敢えて踏み込んだ場合、その掲載日を採って﹁九月 二十日﹂前後としてお-のが無理がないと言うべきか。 大正十三年四月以後と言われる山口県柳井滞在と上京のこと、ま. かけているので筆を欄-が、いずれにしても、最早、大正十三年. た、その後の罪芳閣退社のことなど課題は残っている.紙数も尽き. 十l月緊芳閣入社説を放棄しなければならないのは明白であろう.. 載に従って記述する。. (4)表四には十月二十二日印刷納本とあるが'本稿では奥付の記. 一目)の﹁あら-れ会欄﹂には、井伏は﹁十二三年前へ私が某. (l)同じ昭和九年には﹃あら-れ﹄第二巻第七号(昭和九年七月. 半月間で仕上げた﹂という体験談もある(志水松太郎﹃出版事. 月もあれば充分である﹂との証言や、﹁四六判四百頁余の物を、. ﹁普通の仕事ならば先づ如何に永-要かつても﹂へ﹁二十日か一ケ. (5)時期は十年ほど後になるが、本文二二七頁のものについて、. 出版所に勤めてゐた﹂と書いていて'これだと大正十年か十一. 業とその仕事の仕方﹄改訂増補第二版へ峯文荘、昭和十二年六. 注. 年緊芳閣勤務になる。行文上の綾などもあって、井伏の年代記. 月7日。二九〇頁)0. マ. マ. マ. (まえださだあき・兵庫教育大学). 述をそのまま年譜上の事実に重ね難い。なおへ征野敏郎﹃近代 日本文学誌1本・人・出版社-﹄(早稲田大学出版部へ マ. 一九八八年十月二十1日)では'井伏﹁中央沿線の会﹂にいう. ﹁純文学的な短篇集﹂を﹁衆英閣発行の﹃呪はれた生存﹄﹂と して記述している(六九7貢)o﹃大正期の文芸叢書﹄で本文に 引いたように改められたが'﹁このとき井伏鱒二はまだ緊芳閣. 51.

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