Author(s)
上江洲, 基
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(7): 57-68
Issue Date
1990-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5739
「春秋左氏傳」に見る
倫理観念の發達
基 上江洲 次 目 緒論 第1章 1.周魯の礼制の乱れについて イ周国の礼制の乱れについて ロ魯国の礼制の乱れについて 2左伝に見えろ「礼書」の意味する6の 第2章 1節 非礼記事の概略 2節 非礼記事に見える徳目についての検討 結論 参考文献 緒 iii 中国古代社会は、段・周(西周・東周)それぞれの時代を経過する過程に於 いて、次第に呪術宗教的もしくは氏族宗教的段階を脱却し、人間的意義をめざ し追求し人間の人間たる所以を確立しはじめた時代といわれろ。諸子百家の論 争が花を咲かせた春秋戦国時代に於いては、人智も相当に進歩していたものと -57-考えられるから、非合理的な論理、原始的宗教的神秘観から脱却して、合理性 を有する判断が必要であったと思われろ。 人類思想史に於いて、思想が新しく発展して行く場合には、唐突に新しい概 念で説かれることはなく、常にこれまでの思想・習慣に依附して説明解釈し、 修正發展していくものであろう。古代社会に於いては尚一層既制のものを大事に 取り扱わねばならなかったと思われろ。それは孔子に於いて「子所堆言、詩 書執禮、皆雅言也。」と見えるように孔子の生涯を一言で言い表わすなら ばよき古代中国の探求であったろうことはまちがいない。いわゆる古代中国の 伝統文化が当時攪頭してきた思想の根抵となっていたと考えられるからである。 人智の進歩により、人間自らの存在を考えようとする哲学的思想能力が胚胎し はじめたといわれる春秋時代に於いては、原始宗教より発達してきたといわれ る礼の観念に於いても、合理的解釈が加えられねばならない。それが宗教的儀 礼から、倫理・道徳的礼へと移行して行く過程と思われる。孔子に於いては原 始的宗教儀礼の意から出発したと言われる礼を貴族間における社会儀礼・家族 間における孝悌を中心として、それぞれの倫理を確立せんが為に、また礼を客 観的に教育の基本とする為の条件として徳目としての仁を説き、「人而不仁、 如礼何゜人而不仁、如樂何」(八僧)といって仁を中心に立てて礼を追求す する哲学の基盤を形成していったものと考えられた。 第1章 1局苔の礼制の乱れについて イ周国の礼制の乱れについて 「左伝」の非礼記事の中で当時の周の天子に対する批判が多数記録されてい る。非礼行為であれば、当時の天子であれその礼に倖ろ行為に対し容赦なく批 判したものとおもわれる。しかしそのことは、換言すれば当時の周国の礼制が 乱れ、天子自身、礼の然るべき本来の姿を見失っている証拠と考えられろ。そ の具体的例を検討してみたい。 -58-
天王使宰垣來歸惠公仲子之贈。綴、且子氏未蕊。故名。 贈死不及P、弔生不及哀。豫凶事非禮也。 隠公元年 に見えるように、周王が贈った娼が葬式に遅れて間に合わなかったことは兎
も角としても、生存している人(仲子)に対して死亡した時に贈る物を贈った
のである。またこのような喪礼に関する非礼行為のみならず、 毛伯偉來、求金、非禮也。 天王使家父來求車、非禮也。 文公九年 桓公十五年 に見えるように、周の天子は諸侯に対して要求すべきでないものを要求し、 非とされていろ。魯が周王の要求に応えたかどうかは「左伝」には見あたらな いが、此の如く非礼行為が行われた当時に於いて周の礼が如何に乱れていたか が推定できろ。然らばその天子の行為に対して、如何あるべきであったかとい うと、 天子不私求財文公十五年 と見えており、また諸侯にしても、 諸侯不貢車服桓公十五年 とはっきりと定められていたようである。更に周に於いての禮制が権威を失い、形骸化されていたであろうことは、成
公二年の記事に、 晉侯使蟄朔猷齊捷干周中略王以輩伯宴、 而私賄之。使相告之曰、「非禮也。勿籍」 -59-周の定王は、晋を恐れるばかりに、正式でない私宴を開いて、私かに贈物を とどけた。しかし、定王自らこの行為が非礼であることを知っていながら敢て この非礼行為をしたのである。そして介添えの者に自分の行為が非礼であるか ら記録することを禁じた。
礼の意義の中で消極的な存在であった絶対侵すべからざる禁忌としていた禮
がこの定王の時に於いては人智で如何ともすることのできるものに変化、或は 軟弱化していた証であろうか。 この記事は、実に周の礼制の崩壊を如実に示すものであると考えられろ。 ロ魯国の礼制の乱れについて 春秋時代に於いて礼制の乱れは独り周国に限らず古代中国全国家に及んでい たものと思われろ。左伝に晋の韓宣子が魯を訪問しその典籍文物制度を参観して「周の礼は、みな魯に伝えられている。今にして周公の徳と周王朝創立の由
来を知ることができた。」と魯に礼が存するのを贄えた記事が見られろ。また周公の血統であり、孔子の生国であり、また「春秋」の書かれたといわれる魯
国に於いても礼制の乱れは例外ではなかったようである。 小数之輿、子勝曰、於東方。曾子曰、於西方、敏斯席突。 小敵之輿在西方。魯禮之本失也。 右の「礼記」檀弓上の記事は、魯の国で礼の伝承が次第にまちがってきたこ とを指すものである。 「左伝」の非礼記事全体から見ても魯公の非礼行為が多く批判されている。この問題は「左伝」が魯国の史記であるといわれる「春秋」の一つの傳である
から魯の事柄が多く批判されるのは当然としてかたづけられる問題とはおもえ
ない。「左伝」の非礼記事を検討して行くと理解されることではあるが、先の
成公二年の記事を除けば非礼と知りつつ非礼行為を成しているのではなく行為
の主体者は自分の行動が礼にかなっているか否かが解らないで、非禮行為を侵
している非禮記事が多いのである。それ故ある行動の結果「非礼也」と批判す
-60-ろ記事が多く見うけられるのである。当時、礼の何たるかは言うに及ばず、禁
忌として行ってはいけないとする非礼行為すら判断することが不可能であった
と推測されろ。 2左伝に見える「*L谷」の意味すろもの周・魯の礼制が乱れてきていた事実は、先の非礼記事から見ても明らかであ
るが、それが何に起因するかは別途の研究であろう。また同時にこれまでの宗
教儀礼的なカテゴリーのみではとらえることのできない、ヒューマニズムを中
心とした倫理的基盤の上に成り立った礼が出現しはじめたのも、ちょうどその
時期であったと思われる。時の為政者、権力者達は、その新しい礼の規範とす
べきよりどころを明確に求めることが容易でなかった時代であったろうことも
想像に難くない。 「左伝」哀公三年に、 子服景伯至。命宰人出禮書、とあり「礼書」に関する記事が見えている。「礼書」なる書物の存在や信懸
性の問題は兎も角として、かかる書物はこれまでにない新しい思想・制度が擾
頭しはじめた時に、その思想・制度の基準或はそれを習得せんが為の衝動に裏
打ちされてはじめて存在が要求され、且つ存在価値が認められるものであろう。
もし一般常識として、普くその思想、或は制度が予め認識されていようものな
ら、「礼書」のような書物は特別に必要を来たすものとは思われない。古代の
事実を即座に今日の社会現象と比較することの危険なることは承知しているが、
敢えて今日の法律に例を借りて考えてみろと、(礼と法とは、中国古代に於い
て、根本的に性格が異質であろうが)我々は、法のことを意識的に考えること
なく日夜生活営んでいるわけであるが、特殊な事柄に対応する時には、今日の
法律書、「六法全書」の如きものをふまえずしては、円滑な社会生活をおくる
ことは、不可能である。然るに、中国古代に於いても、ただ慣習的に踏襲しさ
えすればよかった宗教的儀礼を中心とした原始的礼意識から、人間を中心とし
-61-た倫理的礼と移行しはじめた過渡期に於いて、当時の為政者、諸侯達は自らの 行動の裏づけともなる「礼書」に規範を求め、且つ学ばねばならなかったもの と考えられろ。蓋し、かかる書物の存在が云々されるということは、これまで の生活習慣からの認識方法では理解・解釈することのできない、新しい思想が 胚胎し展開していく過程であると見なして、まずまちがいないものと思う。こ の礼書の出現に、これまでの様々な原始観念の非合理性を払拭して形成されは じめられて来た、所謂春秋思想、或は経思想の誕生を裏付けるものではないか と考える所以である。 第2章「左伝」における礼思想の展開 1節非礼記事の概略 「左伝」の非礼記事の中に、宗教的威儀観の上に立脚した礼思想のみでは解 釈されない多くの非礼記事が見られろ。その中に中国古代哲学の中心的概念、 つまり義・信・孝・譲等の徳目の立場から、礼に倖ろ行為と批判されている多 くの非礼記事が記録されていろ。 ●●●● そのことは、中国古代に於し、て原始観念の非合理性が払拭され、春秋思想の 黎明期が到来したことをものがたるものではないか。この小論はかかる仮説の 下に論の展開を試みたものである。 さて、「左伝」における礼の概念は相当広範囲のものを含んでいろ。それ故、 それらの調査研究は今日の自分に及ぶところでない、そこで、「左伝」の中に は、礼とともに、その反対の概念である「非禮」も散見されるのである。nm があまりに膨大な研究テーマであるなら、然らばその否定形である「非礼」を 調査分析して、一体何が礼に倖ろ行為として非礼とされていたのかを調査分析 することによって「左伝」に見られる「非禮也」とは、-体どういうことを意 味するのか検討を試みた。 左伝に見られる非礼記事を検討して見ろと、 L喪礼に関するもの 2婚礼に関するもの -62-
3軍礼に関するもの 4暦法に関する6の 5.賓礼に関すろもの 6.対人関係を中心とした倫理的なもの 大まかに上の如く分類される。上の1~5までは、それぞれの事件に対して、 礼に詳しいと思われる者が特に「非礼也」と批判しており、その身分は、天子 から諸侯、大夫、婦人に至るまで厳しい批判がなされていろ。 またそれらの非礼記事は、批判者が自分の勝手な意志で判断したものではな く、「左伝」全体を通して見てもその根拠がちゃんと伝統的な礼に根ざしてい て、それらは中国の長い歴史の上に築かれた礼の観念に基づいて批判・識刺さ れていろ。であるから「非礼也」と批判しながら、多くの記事は即座に本来礼 はどうあるべきであると、教え示しているのである。その場で非礼也と批判し ながら本来の礼のあり方を直接説いていない記事も見うけられるが、それらは 「左伝」の中の別の時代の記事の中に於いてだいたい見ることができる。 ここで問題なのは6の記事であるが、それらは1~5の非礼記事にあてはま らぬ記事である。その非礼記事は「非礼也」と批判をしながらも、的確に本来 礼がどうであるべきかの解答を欠いたものが多い。(それらは具体的に後で説 明するが)中には「非礼也」と批判する諌言者すら本来の礼は如何あるべきか 理解していないのではないかと思われる記事も存在するのである。 1~5までの非礼記事は、だいたいに於いて吉・凶・軍・賓・嘉いわゆる古 代中国の中心的な存在であると思われる礼の中に直接的でないにしる属してい ろ。またそれらの礼は、悠久な中国古代史の上に根をはったものであり、それ ぞれの儀式的儀礼の理論はもとより、それらの宗教的儀礼行為は如何あるべき かということについては古代中国の歴史の上に体系的に確立していたと考えら れろ。そのことは、今日見ることのできる「儀礼」「礼記」諸文献の語るとこ ろである。それ故「非礼也」と批判する者は、本来斯く斯くすべきで、それに 則らない行為は非礼也と容易に批判し、且つ本来的あり方を教え示すことがで きたものと思われろ。所調、頭の中にそれぞれのモデルともいうべき青写真を 有しているのである。そうして必要に応じてそれらを引き出してきて、その行 -63-
為の如何を判断すればよかったのである。また、その青写真の中に見られない 礼に遭遇した場合でも、有識者であるから礼にかなっているか否かという位の ことは判断できたものと思われる。しかし本来如何あるべきかはおろか、何故非 非礼なのかということに関しては、説明が不可能であることは、「非礼也」と批 批判しながら、本来的礼のあり方を示していない「左伝」の多くの記事から見 ても想像に難くない。 この礼に詳しい有識者をも、鋳躍させた礼非礼こそ、春秋時代に擾頭してき た新たな礼、所謂、原始観念の上に成り立っていた礼を、倫理的に意義づける ために、非合理的な要素を全て払拭して、義・信・譲・孝らのいくつかの徳目 を兼ねそなえ、人間倫理を中心として新たに邉頭してきた礼ではなかろうか。 このような現象こそ、原始的礼から倫理的礼思想への変革期であり、非合理 的要素をおおいに秘めながら踏襲され続けられた神秘宗教の時代に幕を閉じ、 春秋思想、いわゆる経思想への夜明けともいえる時代であったと考えられろ。 またこの時代は実に中国の古代哲学の基礎が形成され始めた時期であったと 考えられろ。「左伝」の書かれたと思われる時代は、ちょうどそのような思想 的過渡期に遭遇したため多義に解釈出来得る礼やその他の多くの概念が「左伝」 の中に数多く見うけられるものと考えるものである。 2節非礼記事に見える徳目についての検討 「左伝」に見られる礼が、原始的な礼制を踏襲しながらも、これまでにない 人間を中心とした新たな倫理的礼の展開がなされたであろうことは、「左伝」 の中に見える非礼記事のその批判の内容が、これまでの礼の骨子的存在と思わ れろ。宗教儀礼を中心とした、所謂吉凶軍賓嘉の範囑のみでは解釈・説明がつ かなくなっていることから明らかである。またそれらが、特に、義、p忠・信・ 孝・譲等の徳目を含む記事の中に多く見られることも注目すべき点である。そ れらを検討して行くことにする。 孝、礼之始也、文公二年 君子日、護、禮之主也雲公十三年 -64-
忠信、禮之器也。卑譲、禮之宗也。昭公二年 のように礼の記事の中に、孝・讓・義・信の徳目との関連が見られる。裏公 十三年に見える護の概念は、後に孟子が説いた酔譲之心、禮之端也。(公係丑 上)とする思想と同質のものと思われろ。 これらの礼は、いずれも宗教儀礼的な冠婚葬祭の礼とは、質を異にし、対人 関係に於ける礼、即ち倫理道徳的礼である。これらの礼こそ、これまでの宗教 的儀礼観から長い年月の間に洗練されて春秋時代に篦頭してきた道徳礼の姿で あったと考えられる。またその道徳礼は、その実践概念である、孝・讓・義・ 信のようなそれぞれの徳目を単に実践の目標とするのみでなく、「左伝」の非 礼記事の中に多く見られる、喪礼に関する非礼行為を侵す者に対して、「非礼 也」と厳しく批判しているように、これらの徳目に反するような行為に対して は天子であれ、諸侯であれ、ただちに「非礼也」との識刺を浴びせているので ある。 ●● 且合諸侯而滅兄弟、非禮也。與衞偕命、而不與偕復、 非信也。同罪異罰、非刑也。禮以行義、信以守禮、刑以正邪。 僖廿八年 と見えるように、兄弟関係にある国(曹)を滅ぼすということが非礼であり 且つ信でないとしていろ。これは明らかに後に展開された儒教的倫理観と同系 統の思想である。 また、直接的には徳目が見えない記事に ●● o輩而如公曰、「尤人而i;ii【之非禮也」 定公六年 ●● o公代筥取向非禮也。ZP國以禮不乱。伐而不治乱也。 以乱卒乱何治之有。無治何以行禮。宣四年 とあり、これらの記事は、信・孝・義等の具体的徳目の概念こそ見えないが、 -65-
その非とされている内容は明らかに儒教的徳論の立場から非礼と批判されてい
る。また桓公二年「経」に、 夏四月取部大鼎干宋戊申、納大廟 とあり「伝」に ●●取部大鼎干宋、戊申納干大廟非禮也。
と見え、賄賂として贈られた大鼎を大廟に奉納し百宮に見せびらかした桓公
の背徳行為を戒めていろ。また、 ●●o季文子以宰之功立武宮、非禮也。鶏於人以救其難、
不可以立武。立武由己、非由人也。成公六年
o季武子以所得於齊之兵作林鍾而銘魯功焉。
●● 藏武仲謂季孫曰、非禮也。 と見えるように、他人の力を借りて戦功を立てたのであれば'虞ましやかにすべきであるのに武官をたてたり、銘に書きこむなどということは諸侯の態度に
倖ろ背徳行為として、いずれも徳論の立場から非礼と諌言されているのである。
またこれまでのような非礼記事とは異なるが、礼が単なる立ち居振舞いの坐
作威儀のようなものは儀であるとする記事が昭公二十五年に見えていろ。
o子大叔見趙簡子。簡子間揖讓周旋之禮焉。 ● ●●封曰、「是儀也、非禮也。」簡子曰、「敢問、
何謂禮」封曰、「吉也聞諸先大夫子産、曰「夫禮天之經也。地之義也、民之行也。云々』」
と見えるように、子産の言葉を引用して礼を説明しているが、その説明が的 -66-確でなく、だらだらと様々な概念を羅列することに終っている。このような現 象は、喪礼、婚礼の如き礼は斯く斯くあるべきであると的確に説明されている 非礼記事に対して、礼の姿力形の上からのみはもはや、説明することが不;可能であ り、人類文化の精神的、所産である倫理道徳へと、拡大されていることを意味 するものではないか。その礼の変遷が宗教的思想から、倫理的礼思想への移行 であったと考えられろ。それ故表面的、形上的儀を中心とした、宗教的礼と異 なり人間相互の倫理を中心とする道徳的礼を説明解釈し自らの存在を正統づけ るのに相当な客観的言語を必要としなければならなかったものと考えられろ。 これが原始的ネ偲想の社会から春秋思想への移行、所謂経学思想を形づくりな がら倫理的礼思想を中心とした社会への発展、つまり中国古代哲学の基礎を形 成するに至る過程であったと考えられろ。 そのような観点から、かかる時期に成立したと思われろ「左伝」に見られる 礼思想は、その多くの非礼記事に見えるが如く、「非礼也」としながらも、「然 らば本来如何あるべきか?」との問いに的確に解答することのできない非礼記 事が多く散見される理由であると思うのである。 実に「左伝」の成立した時期は、まさにかかる礼が宗教儀礼から道徳儀礼へ 変遷しはじめた過渡期であったと考えるしだいである。 結語 原始的礼思想から倫理的徳目を中心とした礼思想への移行が「左伝」の非礼 記事の中に多く見られる事実から、これが春秋思想、経思想の培養、形成され て行く過程に於いて中心的役割を果した新しい倫理的な礼の姿ではないか、と いう仮定の下に、左伝に見える非礼記事を手懸かりとして、論を進めてきたわ けである。 今回の調査研究は左伝の記事を中心資料とし、今文系統の「公羊伝」「穀染 伝」との比較検討、更には、「礼記」「儀礼」との検討にまで到らなかった。 礼の研究は当然かかる文献よりの検討は、避けられないものと思われろ。今後、 これらの観点より考察して行きたいと考えていろ。 -67-
参考文献 「中国原始観念の発達」 「礼の意義と構造」敏傍書房 「左伝の思想史的研究」東洋文庫 「春秋」日本評論社 「左伝の成立と其の展開」大修館 「支那経学史論」 「中国思想史」東京大学出版会 加藤常賢 西晋一郎 小糸夏次郎 津田田左右吉 竹内照夫 鎌田正 本田成之 加藤常賢監修 -68-