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成熟期に於ける日本フアシズム運動とその特質(一) -軍部クーデターを中心にして-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

成熟期に於ける日本フアシズム運動とその特質(一) −軍

部クーデターを中心にして−

Author(s)

翁長, 助裕

Citation

沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 5(1): 73-103

Issue Date

1964-08-01

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10805

(2)

成熟期に於ける日本ファシズム運動とその特質

(一)

l

軍 部 ク ー デ タ ー を 中 心 に し て │ │ 翁

助 裕

二、三用事件とその意義 三、軍部クーデターとその意義 四 、 五 二 五 事 件 と そ の 日 本 的 精 神 構 造 論 ( 一 )

﹁東洋の一民族が興隆する可能性を有することを西洋が論じたときには、諸君は必らずそ ζ に恐怖の調子を看取したにちが いない。その理由は、西洋の繁栄を助長する力は悪の力であり、その力が西洋の側に保有されているかぎりは、世界は僚えお ののいても西洋自身は安全だからである。:::悪魔の猟犬は単にヨーロッパの犬小屋でのみ飼育されるものではなく、日本で もやはり飼い馴らし、人聞の不幸を餌 K 与えて養いうる乙とを日本が証明するまでは、西洋諸国は日本に対して何の尊敬も払 ( 1 ﹀ わなかった

O

i

-悪魔の踊りを自分たちと同じ踊り方で日本が踊りうる ζ とを知るまでは、日本を対等にみなかった。﹂タゴ 七

(3)

七 回 Jl

ノ 日本フア V ズムは実に悪魔の踊りを踊り狂って、遂には破滅した。 ζ の小論では、何故に悪魔の踊りを日本が踊らねばなら なかったか、という ζ とを問題への姿勢としてはもつが、むしろアプローチへの直接的態度としては、その踊りかたをいくら かでも明らかにしたいという ζ ろにある。そしてこの踊りかたを支えていたものはなんであったか、というととが、乙の小論 の 主 題 で あ る 。 日本フア V ズムは昭和二十年八月十五日という古今未曽有の出来事の招来によって、確かに自己の踊りにピ

9

才ツドをうつ た。そして戦後の幾多の民主々義的改革の実施は、日本を本質的に変貌させたかのようである。踊りそ

ω

ものは全く過去のも

ω

となった。即ち、機構としてのフア

ν

ズムは、その姿を完全に没し去ってしまったのである。 しかし、ぁ

ω

踊りを支えていたものは一体どうなったのであろうか。日本フア

ν

ズムがいわゆる﹁上からのプアジズム﹂と いわれる裂をとり、 天皇自身であり、そしてさらに戦後の諸民主的改革も、まさに﹁上から﹂与えられたものであった ζ とを思うとき、日本フア ( 2 ) そしてそれが機構としてのフア

ν

ズムの消滅とともに果して消え去っ そして特に日本に於て真の民主々義を確立するために、ゆるが しかもそのフア

ν

ズム体制に決定的なピリオツドを打ったのが外ならぬその体制の頂点をなすと乙ろの

V

ズムを支えていたものがなんであったかという ζ と 、 たのかどうかというととは、今後の展望を明彩にするために、 せに出来ない大きな問題といえるであろう。 言葉をかえて云うならば、日本ブア

ν

ズムの踊りの﹁主体性﹂が問われるべきである、という乙となのである。単に国家機 構之してのブア

ν

ズムに問題のメルクマールを設定するならば、八-一五による国家機構の完全な破砕によって、その問題は 過 去 に 於 て ど う で あ っ た か 、 と い う 態 度 に 終 っ て し ま う で あ ろ う し 、 ﹁ 現 在 ﹂ 及 び ﹁ 未 来 ﹂ が 、 八 ・ 一 五 と い う ( S V 歴史の一結果によって切断されてしまう。 ﹁ 過 去 ﹂ と 、 日本の﹁現在﹂を正確に把握し、 ﹁未来﹂へのグイジヨシを如何に形成するかを真剣に考える態度、 その態度をそのま﹀に

(4)

﹁過去﹂に平行移動させて考える姿勢が要請されるべきである。八・一五という歴史の一結果は、問題をさらに進展させこそ すれ、それ自体は何等問題の解答を与えはしないだろう。 我々は明治維新以降の日本の近代化の過程と、その特質を常に問題にし、 ︽ 4 ) ]五であった ζ とを忘れてはならない。 その近代化の結果が日本プア

ν

ズムであり、八・ さて日本フア

ν

ズムの特質は、国家機構や制度に勿論大きな原因があったことは言を俊たないが、それにも増して、日本の 伝統的精神的風土及びそこに立脚点をおく﹁人々﹂の固有の精神構造を明らかにせずしては、日本フア V ズムを解明する ζ と はけだし不可能である。 心-の・ハ 習.ラ 慣・ノレ で ド あ ・ り ラスキは、ヨーロッパ近代社会に於ける自由主義の性格を論じて、 ( 5 ) 一個の心構え(ム

l

ド)の問題であることを強調している。 それが一個の故説であるよりはむしろ 近代日本に於て、明治維新以降、無政府主義、ナシジカリズム、共産主義、社会主義、自由主義等々の諸々の教説が怒祷 の如くに押し寄せ、そして移入されながら、それらがいづれもしっかりとした根を日本の土壌におろすことなく、 ブ ア

ν

ズ ム の進行の前になしくずしにされてしまった事実は、まさに一個の教説を如何に信奉しようとも、 その教説が心の習慣となり心 構えにまでならなければ、実践的(生産的)な意味を喪失してしまうことを如実に物語るものである。 そして特に﹁日本のど ζ にも存在しなかったのは、自己の世界の自由を守ろうとして、フアツ

ν

ヨ化の始めから終りまで首 ( 6 ) 尾一貫して、徹底的に抵抗した自由主義であった。﹂ ζ とを思えば、精神における主体性 H 心構えの問題は、日本フア

ν

ズ ム の核心を解く重要な鍵ともなるであろう。 フア

ν

ズムへの抵抗体が、日本に於て遂に確立され得なかったこと(ましてや反フアツ

ν

ヨ統一戦線などは絶対に形成され えなかった﹀は、ブルジョア・デモクラ

νl(

ラスキのいう自由主義の理念)が実体としては日本に於て無であったことと密 七 五

(5)

七 六 接な関係をもっと思う。昭和に入って、社会主義思想及び社会運動に勝圧が加えられると、日本のブア V ズム化を阻止する勢 力が最早存在しなかった ζ と、そして共産主義者と社会民主々義者がその後みずから転向していった昭和八

t

一 六 年 の 時 期 に 、 民主々義と自由主義にも弾圧の手がのびて、京大事件、美濃部達吉の天皇機関説攻撃、矢内原事件、河合栄治郎事件等々と、学 聞の自由と大学の自治の存亡に関わる権力者側の凶暴な圧迫があいついでおきながら、 ζ れにたいして見るべき抵抗運動が遂 ︿ 7 v に展開されえなかったこと、さらに滝川や美濃部らが個人的に批判され弾圧されてしまうと、あとには、彼等の教説がフア U V ズムの怒講の中で全く跡をもとどめなくなってしまったこと、 等々の事実は、 日 本 フ ア リ V ズムを単に機構上のものとして、 或いは、権力の所在としてのみ分析して終ることの不充分さを示すものといえよう。滝川や河合、美濃部らの自由主義的教説 も、近代日本に於ては遂に心の習慣にまで迷することが出来なかった。何故にであろうか

l

それを明らかにするためには、機 構論からの分析のみでなく、もっと奥深くひそむ近代日本の思考形態とそれに基づく行動そ観察してみる必要があると思うの ( 8 ) である。近代日本にあっては、自己の世界の自由を真に守ろうとする人間像が最後まで確立されなかったのだ、といっても決 して云い過ぎではないと思う。そのことは、 日 本 フ ア リ V ズムの特殊的形態を決定することに於て大きな意味をもってくるに途 、 ﹂ F F 為 、 J O ' V J I 吋 ' v 乙の小論での問題意識は、極めて簡略に述べると以上のような関点に立っている。と ζ ろで本論に入る前に、日太ブア V 一体日本プア V ズムはいつ頃をもって出発点とすればよいのか:::。 ζ れ は 日 本 ブ ア リ V ズムが、いわゆる﹁なしくずし

ω

フ ア リ V ズム﹂と称される如く、ドイツ、イタ H J アのように明確な行動規約を持ち、 ズム運動の時代区分について若干述べてみたい。 しかも運動の絶対的指導者(ヒットラーやムヅソリ

i

ニ)を先頭にして進む一つの団体なり、政党なりを中心に終始展開され ていったのと異って、既存の国家機構そのものが漸次フア

ν

ズム化を計って行くという型(前者の下からのフア V ズムに対し て日本の場合は上から

ω

フ ア リ V ズムと云われている)なので、何年伺月からフア

ν

ズムが始まった、と規定することは閣離で ( 9 ) ある。文困難であるところに日本フア

ν

ズムの特徴があるのではあるが:::。

(6)

それにしても一応﹁満州事変﹂が一つの契機をなしたことは否めない。昭和四年(一九二九年)に始まった世界恐慌の影響 が、日本に於ては就中農業恐慌として最大の猛威をふるい、昭和五年の農作飢躍による農民の言語に絶する窮状は、今までの フアジズム運動を急進化させる要因とはなったが、かかる圏内的状況を背景に、さらに第一の仮想敵国であったソグエト・ロ V アに・たいする格好の攻撃基地である満州への、 日本資本主義のあくなき植民地化の願望が、満州事変となって起ると、赤化 阻止の至上目的をもったフア

ν

スト団体は一勢に立ち上った。日本は満州占領に成功するとさらに上海事変を起し、遂には国 際連盟を脱退して戦争への準備を着々として進行させたのである。とにかく満州事変を契機にして日本プア v v ズムは大きくは ばたいたと云えよう。勿論、満州事変以後卒然として日本プア

ν

ズムが出現したわけではなく、それ以前にそれを用意した諸 ( 叩 ) 々の社会的要因があったのであるが、いづれにせよ、満州事変が日本のプア V ズムを決定的に促進する契機となった。 従って日本フアリ V ズムは先づ満州事変前後から始まって、八-一五の終戦をもって終る、といっても大きな間違いを犯すこ

( u v

とにはならないであろう。さて以上の関点に立って云うならば、日本フア

ν

ズム運動は大別して三段階に分けて考察すること が で き る 。 て、満州事変から昭和十一年の一一、二六事件まで。 即ち、準備期としては第一次世界大戦終了の頃ハ大正八、九年)より満州事変(昭和六年﹀に至る時期であり、成熟期とし 完成期として、二・二六粛軍の時代から第二次世界大戦終了のいわゆる 八-一五までの、乙の三段階がそれぞれの特徴をもって成立しているといえよう。 小論では、日本フア V ズムの運動形態を満州事変前後に限って考察したいと思う。日本フア V ズム運動の成熟期とも云うべ きこの時期に、日本ブア V ズムは大きく飛躍しつつも、その内的矛盾は益々増大していった。即ち﹁フアリ V ズムという問題が

( ロ

)

国民の前に大きくクローズ・アップされたのは何といってもこの時期で:・最も重要な時代﹂でもあるのである。 と ζ ろでニ・ニ六事件は満州事変が日本フア V ズムを促進する決定的契機となったのと同じく、 日本フア V ズム史上重要な エポツクを形成した。前述したように、 日本ブアジズムは普通﹁上からのフアジズム﹂と呼ばれているが、その ζ とは下から 七 七

(7)

七 八 の フ ア u v メム運動が全然なかった ζ とを意味しない。むしろ一一・二六事件までは下からのフア

ν

ズム運動が顕著であった。そ れがその主導権を国家機構の側に奪われて、結局は既存の政治体制の内部的再編成という型でフアジズムを完成せしめ、もつ ばら上からの国家統制の一方的強化というプロセスを現象せしめたのだが、二・二六事件 ζ そが今までの下からのフア

ν

ズ ム 運動に終止符を打たせたのであった。一一・ニ六粛軍はフア

ν

ズム体制化の主導権が天皇制国家機構の側に完全に把握された ζ とを象徴している。それ以後、下からのブア

ν

ズム運動は絶滅してしまって、近衛新体制運動とか翼賛国民運動に吸収されて 全く官制的色彩にぬりつぶされてしまったのである。 成熟期の日本フア V ズム運動はかかる意味で独自的な意義を持ってい る

小論では先づ口として三月事件をとりあげて、軍部クーデターの端初的意義と、軍部クーデターとして表現されてきたとの 時期のフアジズム運動の特質をいくらかでも浮きぼりにするととから始めたい。そして円ではかかる軍部クーデターの日木的 意義について考え同に於て五・一五事件という日本最初のクーデターをとりあげて、事件そのものよりもむしろそれを支えて いる思考形態、精神構造といったものを探ってみたいと思う。 以上どれ一つを取っても大きな問題であるといえよう。しかしあえて大きな問題を採用したのは、問題をまず大きな視点か ら術敵して、日本フア V ズム運動の流れを包括的に把握しておく ζ と が 、 次 に 、 その中の個別的な問題をもっと微視的に追求 し、解明していくための必要な前提であると考えたからに他ならない。かかる煮味から小輸は一一・二六宥件前史としての序説 的な意図をもっていると云ってよいと思う。 ( 注 ) ( 1 ﹀ 乙 れ は タ ゴ l ル が ﹁ 日 本 の 国 家 主 義 ﹂ を 論 じ た エ ッ セ イ の 巾 の 一 節 で あ る 。 タ ゴ ー ル 、 宮 本 記 清 訳 ﹁ 東 洋 と 西 洋 ﹂ 参 照 e ( 2 ) ﹁ ま ず フ ァ シ ズ ム の 分 析 の 場 合 に メ カ ニ ズ ム と し て の 、 即 ち 国 家 機 構 と し て の フ ァ シ ズ ム と 、 一 つ の 連 動 と し て の フ ア 竺 ス ム

(8)

というものを一応区別することが出来るわけであります﹂丸山真男﹁現代政治の思組と行動﹂上巻二五

t

二 六 頁 ・ ︽ S ) かかる見解をもっ一人として、かつての神山茂夫氏を挙げることが出来る・即ち﹁ H 進歩的 H 理論家の宜伝家とおもわれる人 々のあいだに、旧天皇制を軍国主義的な封建的な絶対主義的君主制であるとする見解を H 批判 H し 乙 れ を H 車 服 H したと称す る H 天皇制ファシズム論 H なるものが暗什している﹂・﹁すでにすぎさったふるい戦略段階の、国家の本質 H 絶対主ぎ天皇制 という規定が、大きな革命的激動期(八・一五以後を指す、オナガ)をへたあとになって、あらためて論争され、しかも、そ の党︽日本共産党を指す、オナガ V の旧来の正式決定や主張に反するような規定 H 天皇制ファシズム諭が平気でおこなわれ・: ・ : ﹂ 。 神 山 茂 夫 ﹁ 現 代 日 本 国 家 の 史 的 究 明 ﹂ 四 頁 、 九 頁 、 参 照 。 かかる見解除、単にある一つの党の内部の論争だからといって簡単に片づけられえないものをもっている・ ﹁ あ ら た め て 論 争 さ れ ﹂ る こ と が 乙 の 場 合 、 是 非 と も 必 要 で あ る し 、 ﹁理論﹂は常に継承発展していくものであるととを忘れ て い る 見 解 で あ る と 云 え よ う ・ かかる見解にあっては、旧天皇制 H 軍事的、封建的専制支臨 H 絶対主論的君主制、という﹁旧来の﹂カテゴリーで凡てが事足 りてしまうのである@しかし﹁神山批判﹂が主題でもないので、乙乙では単にかかる見解なり、態度が﹁克服﹂されきれず、 末だに横行していることを指摘するにとどめる・ ︽ 4 ﹀ ォ lエン・ラテイモアは﹁アヲアにおける解決﹂の中で日本ファシズムと近代化の関係に触れて次のようにのべている。 ﹁日本のファシズムは、ドイツのそれよりもっと深いととろに根ざしている。ニ

O

世紀の手が中世の頭脳で指導されている日 木の全社会現象位、典型的にファシスト的なものはありえない。 中世的であって、ファシズムの言語道断さを作り出すには、新しい技術をその手として取入れながら、ただ人々の精神を変え ﹁近代化﹂がはじまった時の日本における社会構造は恐しく ず に そ の ま h にしておけばよかったのである。﹂石岡雄﹁近代日本政治構造の研究﹂三一頁参照。 ( 5 ) ﹁しからばわれわれが本書で論じなければならない自由主義とはどんなものであるか。とれを叙述する乙とは容易ではなく、 定議するととはもっと容易ではない@なぜならばそれは一個の教説であるよりはむしろ心の習慣であるからである o ﹂ ﹁ し か 七 九

(9)

O

し、自由主義は既に私が強調したように一個の教説であると同じく一個の心構え(ムード)である@﹂ ラスキ、石上良平訳﹁ヨーロッパ自由主義の発達﹂五 1 六 頁 参 照 。 ( 6 ) 藤間省三﹁天皇制とファシズム﹂檎座﹁現代思組﹂第五巻所収論文一七五頁。 ( 7 ) コ尽大(滝川﹀事件は、一滝川側人の問題ではなく、まさに天皇制軍部、官僚、右翼勢力によってしくまれた学界にたいする 五・一五事件であり、﹁政党政治﹂復活のため全力をあげて画策しつつあった政党連合運動にたいする追打ちをもかねたもの だった。だからこれにたいして、当時反軍部 H 反右翼勢力闘争として、ひろく中小プルヲヨア、中小農民から自・問主義インテ リ層、既成政党の一部から一部産業資本家までまき乙んで、強力な合法闘争として展開する乙とも不可能ではなかったのであ る。しかるに進歩陣営はもちろんのとと、学者も自由主義インテリも、なんら広範な抗議にたちあがらなかった@とれは自由 主義そのものの敗北を意味した。﹂岸本英太郎、小山弘建﹁日本近代社会用品鶴史﹂一三九頁。 との叙述はそのま﹄美濃部、河合その他の一連の事件にもあてはまる。自由主義そのものの敗北以前の問題を示唆する事例と い ・ え よ " つ @ ︿ 8 ) ただし、小論では日本の精神構造を分析するためへの前提としての、日木つアシズムを先づ附廠する作業だけに終ってしまうか も知れない@乙乙では単に問題意識として強調しておく@ ( 9 ) ﹁(日本では﹀ど乙からフアツジヨ時代になったかはっきりいえない・一歩一歩漸進的にウアシズム休制が明治憲法の定めた 国家体制の枠の内で完成して行った﹂ ︿

m )

丸山真男﹁現代政治の恩怨と行動﹂上巻八

O

頁 。 丸山前掲書二八

I

二九頁参照。即ち﹁よく日本は満州事変を境にしてファシズム時代に入ったといわれていますが、あらゆる 面からいって満州事変というものの前に相当のフアジズムの準備期があるのであります﹂

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11 、 ・〆 問中惣五郎もその著﹁日本ファシズム史﹂でその著述を満州事変直前から始めている・木下半治氏も﹁日本国家主義運動史﹂ に於て、日本の全社会の風潮が急転向し始めた原因として満州事変を高く評価している。尚藤谷俊雄﹁国民の抵抗﹂歴史学研

(10)

究 会 、 日 本 史 研 究 会 編 ﹁ 日 本 歴 史 講 路 ﹂ 第 六 巻 一 六 二 頁 参 照 ・ ﹁ し か し そ の 始 点 に つ い て は 、 変 に お く の が 妥 当 で あ ろ う と 思 う 。 ﹂ 丸 山 、 前 掲 書 三 一 頁 。 一 九 一 一 一 一 年 ( 似 和 六 ) の 満 州 事 ( 四 ) ( 一 一 )

三月事件とその意義

三月事件とは、当時の陸軍の中央部にいた中堅幹部が、民間フアリ V メトの大川周明らと提携して軍部独裁政権の樹

V

一 任 期 そ うとしたクーデター計画で、昭和六 年 三月に当局によって摘発された事件である。 三月事件のもつ意義は極めて大きい。それは特に次の三つの理由から、成熟期における日本フア V ズム運動の方向とその性 格を規定する契機ともなったからである。 十

i

それ以前のフアリ V ズム運動は民間フアリ V スト述の﹁物好きというような色彩﹂ (丸山真男)が小心であったが、コ一月事 件は民間フア

ν

スト(アクトロ

l

)

と軍部(国家機構の主柱的な存在)が始めて提携して余てた 事 件であった。そして民間

7

ア V スト逮はそれ自身の力で運動を展開させることなく、軍部乃至官僚という既存の国家機構の内部における勢力と結合する ζ とによって、始めて日本フア v v ズム運動の有力な悶子となりえたのだが、その起点が三月事件であった。 満州事変がプアリ V ズム運動の対外的展開であるとすれば、三月事件はそれの対内的展開をなすものであった。即ち満州 事変は、﹁満州を対

y

戦略の軍事基地にしようとする家部特有の回目険主義と、三月事件の失敗により対外戦争を国家改造の契 ( 1 ﹄ 機にしようとする隠謀がからみ﹂あっておこったものであった。その意味で 三 月事件と満州 事変 は表裏一体となって、成熟期 における日本ブアリ V ズム運動の起点を形成したといえる。三月事件の失敗は満州事変によって十分に代置されえたのである。 その後の臼木ブア V ズム運動は、対外戦争によって危機感を盛り上げて、その危機感を利用して圏内改造を企てていくというロ (τj 八

(11)

八 ースをたどっていくが、この日本フアVズム運動の常套手段は三月事件と満州事変、そして満州事変直後の十月事件のからみ 合いに於て、最も象徴的である。そして、日本フア

ν

ズム運動の成熟期の起点は、実に日本の対外戦争の公然たる開始とまさ に一致していることに注目せねばならない。成熟期の日本フアVズム運動は対外侵略の為の圏内体制の建直しのためのもので あった。圏内改造のための三月事件、対外侵略のための満州事変は、逆にいって対外侵略のための三月事件であり、そして圏内 改 造

ω

ための満州事変でもあった。 ζ の 両 者 が 凝 結 し た 成 熟 期 の 日 本 フ ア

ν

ズム運動の起点が設定されるのであ ﹁ 点 ﹂ に 、 る

三月事件のクーデター計酬を見ると、現体制になんらかの変更を加えんとしていることは理解出来るが、その計両の成 功後のプヲシが全く欠如している。未来へのグイジヨシが欠如している乙とと、行動に対する責任倫理がないことの二つは、 日本プア V ズム運動の一大特質であるといわれているが、三月事件はかかる行動様式の最初の具体的あらわれであった。その ( ヨ 後のクーデターが凡て失敗に帰してしまったのは、いづれも三月事件と大同小異の性格をもって計岡されたからで二一一月事件を 克服する ζ と は 日 本 フ ア リ V ズム運動に於て遂に不可能であったのである。 では次に三月事件そのものを見てみよう。当時の日本は、金融恐慌による国家財政の混乱と、そして日本資本主義の矛盾の 最大のしわょせを受けていた農村の極度の疲幣とが、国際的な諸条件(中国の国民革命の成功と反日運動、ツグエト連盟の確 立と朝鮮、中国における民族運動の高まり等々﹀と呼応して、不安極まりない社会状況をかもし出していた。かかる社会状況 にあって、大正デモクヲ

νl

の伝統の中から生れ育ってきた政党政治は、天皇制国家体制の枠内で徒らに空転するのみで、な んらの有効的な解決策を提出することができなかった。政党政治は政党閣の取引きと、汚職の連続であった。一方、第一次大 戦後、ヲ V シトシ会議における米、英、日の三大海軍国の主力艦の比率が五、五、一ニに定められ(一九二二年﹀戦争根絶を唱 っ た パ

9

の不戦条約が成立し(一九二八年﹀、世界的に平和の気運が進行していて、軍備縮少の空気が濃厚であった。とのよ うな空気の中で、政党内閣は常に軍備縮少を要望し、政策として掲ザていた。そして軍備縮少の空気が寵ちに一般的な軍人軽

(12)

視の風潮にまでなうていた。当時の軍人は﹁到ると ζ ろ道行く人々の軽侮の的となり、軍服姿では電車に乗るのも一屑身が狭い ( 2 ) といふやうな状態﹂であった。そして﹁国民に対し、また政治にたいする陸軍の発言が弱くなり、統師権が統治権に従属して ( 3 ) ゆくかのような形勢が強まって﹂もいったのである。 さらに軍隊には農村の子弟が多く、農村は軍隊の基盤ともなっていたが、 その農村が、都市(日本資本主義)の繁栄と腐敗 のために疲幣枯渇していき、軍隊の基盤を危くしているのだという考えが、軍部及び民間ブアリ V スト達(農本主義の台頭﹀の 聞で根強く芽生えてきていた。 三 一 テ

i

ぞによれば﹁嘗ては資本主義発展を助けた寄生地主的土地所有制は、そのことのために、現在のどとき深刻な農業 危機を招致し、資本主義経済危機の重要部分となり発達の力強い程桧となっている﹂﹁しかして是等の矛盾の全ては資本主義一 ︽4 ) の枠内では解決し得ないのである。しかもその解決は迫られている﹂のであった。このような状態の全てが政党政治の責任に 帰せられ、さらに国内の労働不安、社会不安の原因が資本家にあると考えられて、政党政治を打破して、軍部の強力な政織を 日本の国際的、圏内的諸矛盾を解決し得うるのだ、との主張が軍 部及び民間フア

ν

スト達の聞で台頭してきでいたのである。三月事件は、このような社会的背景のもとで起った。 さて、軍部特に陸軍はまず園内政治に於ける権力回復を目指した。そしてその手段がクーデターによる政権獲得であり、そ の第一歩が三月事件であった。﹁イタ H J アやドイツのフア V ズムが民閣の社会主義的綱領をもった政党によって展開され、大 衆運動と総選挙を通じて政権をにぎり、従来の国家機関と融合していったのに反して、日本では民間のブア

ν

スト勢力は、大 衆組織をもたず、天皇中心主義をかかげていた点で比較にならない程小さい。しかしこの欠陥をおぎなって、フアジズムの有 ︽5) 力な促進者としてあらわれたのが陸軍﹂であったのである。 三月事件の原動力は桜会である。桜会は字垣大将を陸相に、杉山中将を次官とする陸軍省、及び金谷大将を参謀総長とする 樹立することが緊急な課題であり、 そのことによってのみ、 参謀本部の少壮将校を中心として昭和五年九月下旬に結成された。 その目的は﹁本会ハ国家改造ヲ以テ終局ノ目的ト V 之が為 八

(13)

八 四 ︽6 ) メ要モスレパ武力ヲ行使スルモ辞セス﹂とし﹁現役陸軍将校中ニテ階級ハ中佐以下、国家改造ニ関心ヲ有

ν

私心ナキモノ﹂を ( 7 v 会員としていた。そして﹁内外に対する諸政の一新と軍部政権の樹立を目的とするクーデターについて謀議を凝らし﹂ていた 団体が桜会である。そして軍部独裁政権の手で満州、中国の侵略を断行するという計闘をたてていた。桜会は大川周明等の民 間プア

ν

スト述とも密接な連絡をもっていた。桜会の中心人物は橋本欣五郎中佐である。橋本中佐がトルコ駐在武官の時に、 ︽ 8 ) ︽ 9 ) トルコではケマル・パリ V ヤの革命が起ったが、橋本中佐はこれに﹁心酔して帰朝﹂した。この﹁トルコのケマル・パ V ヤの共 (MW) 和革命やその独裁政治をまねて:::革命をおこない、軍部独裁をしこうという計画のもとに集った団体﹂が桜会であり、その クーデター計州が三事件である。これを見ても、三月事件がその本質に於て、トルコの模倣にしか過ぎず、独創性が欠如して ﹁和魂洋才﹂は明治維新以来の近代日本を形成するための重要なテクニックとなったが、 ﹁魂﹂と﹁才﹂を切断したと ζ ろから日本の悲劇は始まった。近代技術はまさに近代精神の確立によって真の機能を発揮する。 日本にあっては、その両者がそれぞれの方向に向かって、つっ走ったが故に、ますますその矛盾が拡大再生産されたのであ る。トルコのケマル・パリ V ヤは君主制そのものを打倒したと ζ ろにその意義が評価されるべきであるのに、橋本中佐は、その ための手段(テクニック)であるケマル独裁と軍部の役割のみを評価して、それを模倣して日本にも軍部独裁政権を樹立せん いたといえるのではないだろうか。 としたのであったが、ケマル・パ

v v

ヤ革命の君主打倒という﹁精神面﹂は全く切り離してしまったのである。文、君主制打倒 などは到底彼にあっては思いもつかない ζ とであったといえよう。 ﹁和魂洋才﹂的イデオロギーの悲喜劇は三月事件に於ても 見事に上演されたのだといえるのではなかろうか。 ( U ) さて三月事件の計画なるものを見てみると大略次の如きものである。 l ' ド ー 、 二月中、大規模に無産三派連合の内閣糾弾の大演説会を開催し、大いに倒閣の気勢をあげ、且つ議会に向かって大デモ シ ス ト

ν

l

v

v

ヨジを行い、本格的に決行する場合の偵察的準備を行う。

(14)

ω

一二月、労働法案上提の日に、大川周明の計画に依り民間側の左翼及び右翼一万人を動員し八方より議会に対しデモを行 い、政友、民政両政党本部、首相官邸を爆破。各隊の先頭には計画に諒解ある幹部を配して統制をとり、各隊に抜万隊をおい て必然に予期される警察隊の阻止を排除。 国軍隊は非常集合を行い、議会を保護する名目で乙れを包囲し、内外一切の交通を遮断する。そして予め将校(主として 桜会所属の)を各道路に配しておく。 同 ζ の情勢に於て某中将(真崎甚三郎中将と云われている)は小磯軍務局長と建川参謀本部第二部長の何れか一人及び数 人の将校を率いで議場に入り、各大臣に対し﹁国民は今や現内閣を信任せず。字垣大将を首相とする内閣をのみ信頼す。今や 国家は重大なる時期に会す。宜しく善処せられるべし﹂と宣言して総辞職を決行させる。 体ン幣原首相代理以下に辞表を提出させる。ゎ大命が字垣大将に降下するよう予め準備し策動しておく。 以上の計画は、彼等がクーデター成功後の内閣主班に予定していた字垣大将が途中から変心してしまったととによって挫折 した。字垣は最初は乗気であったが、浜口首相が佐郷屋留雄に射撃されて(昭和五年十一月十四日﹀そ

ω

病勢が長びいたため に 1 民政党内に宰垣を次の首相にしようとの運動が強まってきたので、字垣はクーデターまで起して政権を取らなくても合法

( m v

的に内閣を組識できる見込みがあるとして、 ζ の計画を中止させた。 v 以上が三月事件の全貌である。そ乙にはクーデターそのものの計画はあっても、実行後のプラシは何一つないといってよい だ ろ う 。 乙 ζ で分っているととは字垣一成を首班にするという ζ とだけであり、それも大命がそ乙に下る ζ とを期待しているに 過ぎない。従って字垣一人の変心によってもろくも挫折してしまうし、大命がそとに下らなければ ζ れ叉、どう仕様もないの だ。しかもその実行計画自体も実に杜撰極まりないものであった。田中清小佐の手記によれば次の如くである。 ﹁遂ユ予定計画ノ如クニ無産三派聯合ノ内閣攻撃ノ演説会ハ開カ

ν

p

。然 V 共其ノ規模ノ小、気勢ノ不振ハ驚クパカ

p

9

。又当時ノ無産派中堅夕刊 JV 大衆党々首麻生久ト会見セル時、大川博士トノ間ニ連絡極メテ薄ク、 一万人動員ノ如キハ、全 八 五

(15)

( m v

ク架空的夢想ニ過ギずルヲ明ユセ

p

﹂ その無計画性を暴露して余りあるものがあるといえよう

0

2

月事件はかくして失敗したが、そが後の軍郎によるクーデター 計画もこれと大同小異のものであった。乙 ζ で我々はドイツ・ナテにおけるヒットラーがミユンヘシ暴動の失敗(一九二三年 十一月八日)から彼なりに多くの教訓をくみ取って、それをその後の運動に見事に反映させて遂には革命を成功させていった プロセスを想起せずにはおれない。それに比して、日本のブアジズム運動は、峻隊さ、一 貫 性の無さが指摘されうるであろ う。そこにはその運動過程を貫徹する一つの確固不抜たる精神が欠如している。たとえその過 程 がマイナスの方向軸を有して いたにせよ、マイナスに於ける絶対的精神の不在は、プラスに於てもそれが期待されえないことを意味してはいまいか。如何 なる革命にせよ、まず第一に要請されねばならないのはその革命を支えると ζ ろの哲学の存在であり、精神の確立である。日 その運動は確固とじてマイナスの方向を志向してさえいなか 本フア

ν

ズムにはその哲学、精神がなかった。その限りに於て、 ったのだ。むしろ方向そのものさえ定まらなかったのが日本ブア

ν

メム運動であろう。状況を自己に布利に展開させるための プランは用意されずに、まさに状況ペツタ

p

ズム的であったのが日本フアリ V ズム運動であった。 私は、政治は一つのドラマヂであると考える。ドラマであるためには、先づ第一にそのドラマの製作者が存在していなければ ならない。ドラマは何よりも製作者の意図を反映するものだからである。ドイツ・ナチズムのあの体制 ζ そは、まさに近代歴 史上最大の政治的ドラマであった。そしてそのドラマの上演の為には製作者としてのヒットラーの存在は不可欠であったとせ ねばならない。日本フア v v ズム運動にあっては、この製作者が不在であった。従ってドラマ自体も製作者不明

ω

峻昧 模糊とし たものになってしまう。しかも何よりも近代日本にあっては、近代が不在なのだ。何故ならば、近代 ζ そは、まさにドラマを 作る主体が租人としての人聞に移行した ζ とによって成立したのだから、個人としての入閣の確立がなかった近代日本に於て

(16)

( M ) 川村、園近状という名のドラマは上演されなかったのではあるまいか。日本ブア v v ズム運動

ω

型態は、かかる関点と決して無関係 ではあり得ない。 ( 注 ) ︿ 1 ﹀ 清 夫 清 三 郎 ﹁ 現 代 政 治 史 年 表 ﹂ 一 四 三 頁 。 重光葵﹁昭和の動乱﹂上巻一間員。重光氏は当時の風潮をさらに次の様に述べている。 何 が 用 が あ る か と い ふ や う な 談 話 が 軍 人 の 乗 客 に 聞 え よ が し に 行 わ れ る 。 長 剣 は 一 一 般 の 乗 客 に 邪 魔 に さ れ た @ ﹂ ︿ 2 ) ﹁ た と へ ば 拍 車は電 車の中で ( 同 頁 V ︿ 3 v ね ず 、 ま さ し ﹁ 大 日 本 -帝 国 の 崩 壊 ﹂ 一

O

八 頁 。 ﹁ 日 本 共 産 党 政 治 テ l ゼ 草 案 ﹂ ( 4 V ︽ 一 九 三 一 年 v o 石堂・山辺編﹁コミンテルン、日本に関するテlゼ集﹂五ニ頁。 ︿ 5 ) ね ず 、 ま さ し 前 掲 番 一

O

二 頁 。 ( 6 ) 問 中 清 少 佐 手 記 ﹁ 粛 軍 二 関 ス ル 意 見 書 ﹂ 七 八 頁 。 ︽ 7 v 重 光 葵 前 掲 書 二 一 頁 。 ︿8 v ケマル・パシヤの革命とは、オツトマン帝国の君主制と英、仏、ギリシャなどの外国軍の箪政を倒して、共和国を樹立し民主的 諸改革を行った革命で、一九二三年にケマルはトルコ共和国初代大統領に就任した。しかしその革命方式は軍部を背景とした ( 9 ) 一党独裁であった。それについては﹁政治学 事 典﹂三五一頁。及びねず、まさし前掲沓一

O

三 頁

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O

凹 頁 参 照 。 重 光 葵 、 前 掲 書 二 一 一 良 、 尚 、 問 中 惣 五 郎 ﹁ 北 一 輝 ﹂ 三 六 八 頁 参 照 。 ﹁ 橋 本 は : ・ ト ル コ 駐 在 武 官 中 ケ マ ル ・ パ シ ヤ の 独 裁 政 治 の 影 響 を う け た と い わ れ る ﹂ 。 ね ず 、 ま さ し 前 掲 書 一

O

二 頁 。

( m

v

︿U ) 森 正 蔵 ﹁ 施 風 二 十 年 ﹂ 四 三 頁 以 下 参 照 。 八 七

(17)

( ロ ﹀

ゆ ず 垣 の 変 心 に つ い て 、 重 光 葵 前 掲 者 二 二 頁 ね ず 、 ま さ し 前 掲 昌 一

O

六頁、森正蔵前掲 ME 円 四 四 頁 3hhJ 照 ω 問 中 少 佐 手 記 ﹁ 粛 軍 二 関 ス ル 意 見 書 ﹂ 八 四 一 良 。

( m v

( M ) 個人としての人間の集合体が即ち M M g H L O ﹁ 人 民 ﹂ で あ る 。 近 代 政 治 の 本 質 は 、 リ ン カ ー ン の ・ 演 説 ﹁ 人 民 の 人 民 に よ る 人 民 の た め の 政 治 ﹂ で あ っ た 。 例 え ば パ リ の 不 戦 条 約 は 世 界 各 国 が ﹁ 人 民 の 名 に お い て

2

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凶 ) 戦 争 放棄を厳粛に宣言する﹂ものであったが、日本ではこの﹁人民の名において﹂の字句が、条約の締結俗、批准の所在としての 天皇の大権に反するものとして問題になり、遂には﹁帝国政府は、一九二八年八月二十七日パリにおいて署名せられたる戦争 放棄に関する条約第一条中の﹁その各自の人民の名において﹂なる字句は、帝国憲法の条章より観し、日本国に限り通用なき も の と 了 解 す る こ と を 宣 言 す る ﹂ と の 政 府 宣 言 を 発 表 し 、 こ れ を 付 加 し た 上 で 、 伊 東 己 代 治 に よ れ ば 批 准 し た の で あ る 。 M M O B -o 云々の文句は明らかに憲法違反であったのだ。日本に於ける近代がいかなるものであったか、乙の事例だけをもって し で も 明 ら か で あ ろ う 。 尚、パリ不戦条約と﹁人民の名において﹂については、新名丈夫﹁附利政治史﹂一三五頁以下及び飯塚治二﹁日本の精神的風 士 一 ﹂ 三 四

1

三 五 参 照 。 (一一一)

軍部クーデターとその意義

成熟期の日本ブアリ V ズム運動の特徴はクーデターによる国家改造という手段に於ける急進性と、民間プアリ V スト遠の思想的 影響を受けながらも、運動の担い手としての主体が軍部に設定されてきたということである。それ以前の右翼運動が﹁まだ一部 の物好きというような色彩を脱しなかった﹂のに比して、この時期に於てはそれが﹁軍部とくに青年将校と結びついて急激に ( 1 ) 政治的実践力を発揮する﹂ようになってくる。特に昭和六年に入ると、民間フア

ν

ズム運動も過去の分散的な右翼運動から脱 皮して、さらに統一的な政治力を形成しようとの動きが意識的に表現されて﹁フアリ V ズム運動が単に左翼運動に対する反動と

(18)

( 2 ﹀ いう消極的なものから脱却して一つの社会運動としての性格を露呈して﹂き始めた。例えば満州事変直前に分散的な諸右翼団 体を糾合して結成された全日本愛国者共同斗争協議会即ち日協や大日本生産党の誕生などは、 その具体的あらわれともいえ る。全日本愛国者斗争協議会は行地社青年部の狩野敏、平田九郎、雪竹栄等が中心となって右翼団体の結集を呼びかけて、そ の声に集ったのが旧急進愛国党

ω

津久井龍雄、伊地知義一、旧日本国民党の八幡博堂、鈴木善一、国民戦線社の馬場国義、東 亜連盟の山本重太郎等である。この中心団体及びメンバーの他に日本労働会、興国農民組合、愛国無産青年同盟、大日本青年 同盟、聖匁社、江東青年雄弁研究会、小綿純労働者組合等々をも糾合するという文字通り諸右翼団体の急進派分子の協同戦線 を結成したのである。 ζ の会は昭和六年三月に結成されて翌七年七月の神武会に発展的解消するという僅か一年間の存在であ 機関紙として﹁興国新聞﹂を発行したり、 右翼運動にない活動を展開し、さらに組織閣でも加盟各団体の青年部を再組織して全日本愛国者斗争協議会前衛隊と称する るが、その聞に演説会、 民 衆 大 会 、 示威大会等を盛んに開催したり、 今までの 行動隊を編成したり、 かなり意欲的な試みを実行している。 成熟期の臼本フアリ V ズム運動がそれ以前或いはそれ以後の運動 に 比 し て 、 ( 3 v た 。 ﹁ 下 か ら ﹂ の運動的性格を有している ζ との意義は極めて大である。 例えば日協の綱領は次の如きものであっ 我等は亡国議会を覆滅し天皇親政の寛現を期す。 我等は産業大権の確立により資本主義の打倒を期す。 我等は圏内階級対立を克服し国威の世界的発揚を期す。 ζ の綱領にも見られるように、二・二六事件までのブア V ズム運動は少なくとも下からのフア V ズム運動的性格を持ってい て、何事かを改革せんとの意気には燃えていたのである。一一・二六事件以後はかかる綱領の存在意義を失ってしまって、全国 民皆んなが天皇の赤子となって大同団結していくプロセスに統合されてしまうのである。 八 九

(19)

O

例えば乙の時期のブア

ν

ズム運動の統一の方向とその積極的な意欲ぶりなどを、大日本生産党について簡単に見てみよう。 大日本生産党は同じく昭和六年六月に大阪に於て結成された。これは﹁日協によって示された統一、結成の方向をもっと大 規模且つ組織的になしとげた﹂ものであり、そして﹁ ζ れは、旧型の国粋団体の草分けともいうべき黒龍会が、時代の潮流に 梓さして近代的国民主義団体として更生せんがために、大阪地方の中小商工業者並びに国粋団体を基礎として組織せられたる ( 4 v ものである﹂。大日本生産党はその第一回大会を同年十一月に東京に於て開催した。参加団体は、黒龍会、明徳会、回天時報 社、日本国民党、大日本青年党、本地日本同盟、大阪同仁会、大阪北浜自治会、大阪印刷職工組合経親会、大阪市電自動車親 友会、日本光風会、洛北青年同盟、公徳会、京都市電自動車組合、古神道実行会、神州護国党、三木組、興良会の十八団体であ った。さらにその組織を九州炭抗の立野、佐々木一派の入党、大阪の陸軍労働組合の同党支持等と、不充分ではあるといえ、 労働者層にまで拡大していっているのは注目に価いする。木下半治氏は大日本生産党に就いて次のように述べている。 ﹁旧い型の国粋団体が多少とも大衆に基礎を置く正常的な労働組合一を傘下に収め得たのは、 ζ の大日本生産党を以て瞭矢と するといって宜しかろう。元来大日本生産党の組織において注目すべき点は、それが最初から中小商工業者即ち中産階級を自 己の組織的基礎として選んだことにあり、

l

而して ζ の点も近代的国家主義団体たる一つの要件ではあるが

l

大衆的な労働組 ( 5 ) ム口をも獲得したという事実は、それにもまして注意すべき点といはねばならない﹂と。昭和七年二月の第三次普選総選挙に於 ける同党の敗北を反省して、さらに労働組合の組織に努力した結果、同年十月二十日に結成された大日本生産党職業組合聯合 会の参加労働組合の主なものは、大阪金属労働者組合、大阪化学産業労働組合、大阪紡織産業労働組合、全国鉄道構内立売従 業員同盟、大阪借家人協議会、大阪合同労働組合、大阪製材従業員向上会、東京海員同盟等々であり、今までの右翼団体の単 なる反動性を脱却して積極的な社会運動を展開せんとり意欲を示し始めてきたといってよいのではないか。しかも尚、民間プ

ν

ズムはそれ自体としては大きな政治力を形成する ζ とが出来ずに、即存の国家機構の内部に於ける政治力、特に軍部の力 を主たる推進力として利用する ζ とに於で、始めてその存在意義を確固たるものにしえたということは、成熟期の日本フア

ν

(20)

ズム運動の最大の特質とせねばならない。 a ζ の点にイタ

p

ァ、ドイツのフア

ν

ズム運動との決定的差異があ忍。イタリア、ドイツの場合は、下からのフア

ν

ズム運動 が国家機構を、特に国防軍を操作しながら国家機構そのものを占拠していったのであるが、その場合の操作主体はその運動の 中核に厳然として存在していた 1 特にナチズムの場合、状況ペツタ

D

ズムに墜落する乙となく、そのマイナスの方向に状況そ のものを転換させていくプロセスは我々の驚異すると乙ろであった。 ζ れは状況に対して自己の主体性を確立することに於て 始めて可能であった。 ζ れに反して日本の場合は、運動を進行させていくに当って、諸々の社会的政治的条件を戦略戦術的に 操作していくための﹁主体﹂が一貫して欠如していたといえるのではないだろうか。 そしてさらに強調せねばならないのは、日本フア

ν

ズム運動のプロセスに於ける﹁大衆﹂の欠如である。運動それ自体の展 開に於て大衆は全ぐ不在である。大衆は国家の底辺奥深く出澱しきってしまっているのだ。ドイツナチズムはまさに大衆の喝 采を政治的な挺子として登場してきた。又、それなくしてはナチズムのあの政治的一大ドラマは展開され得なかったのである が、かかる民主的粉飾の度合こそが、ドイツ、イタ

p

アと日本とのフアVズム運動を明確に区別するメルクマールでもある。 それは又、両者に於ける近代デモクヲ

νl

の社会的定着の程度と密接な関連性を有するであろう。 近代デモクヲ

νl

は、今まで政治的地平線の彼方にあった無産者大衆が、政治的地平線の此方に登場する乙とによって成立 した。従って近代デモクヲ

νi

の定着は同時に、その矛盾としての無産者大衆の政治的社会的カの増大を意味するものでなけ ればならない。そのととは近代デモグラ

VI

の破綻としてあらわれたフア

ν

ズム運動が、国家社会主義的綱領をもっ ζ とによ って始めて労働者農民を把握するととが出来、その ζ とによってのみ政治的実践力を発揮し、貫徹させる乙とが出来た乙とと パラ

ν

ルな関係にある。実に大衆の喝采 ζ そがその運動の存立を決定し得たのだ。だから乙そ、ナチズムにあっては近代的政 治技術の駆使が何にも増して顕著であり、又大衆操作のテクニックが驚く程に発揮され、それとの関係で操作主体

(pl

ν

ヅプ)そのものの確立が必然的に要請されたのである。 九

(21)

九 乙 れ に 反 し て 、 日本フア V ズム運動は大衆の政治的登場が無かった。それは日本に於ける近代デモクラ V l の底の浅さに最 大の原因があったといえると思う。。その ζ とに、さらに拍車をかけたのが、運動の担い手側のもっていた英雄主義、即ち﹁志 士意識﹂である。そして、 その﹁志士意識﹂とそが軍部に於て最も濃厚であり、フア V ズム運動に於ける志士は軍部の中にこ そ期待されたのであった。そのことが、フア V ズム運動に於ける大衆的組織の稀薄さを軍隊組織に依って代置させようとの志 向と一体となるとき、三月事件以後の軍部クーデターとして表現されてくる。日本プア V ズム運動の士山士が軍部に於て最も期 侍されていたことを次の橘孝三郎の言葉によって見てみよう。 ﹁斯様な国民社会的革新はただ救国済民の大道を天意に従って歩み得るの志士の一団によってのみ開拓さるるものである﹂ ﹁革新を呼ぶ者は先づ身を国民に捧げて立たねばなりません。救国済民の大道にた Y 死を以て俸げたる志士の一団のみよく革 新の国民的大動行を率いて立ち得ぺく、国民大衆はまたかくの如き志士にのみ従ふ外ないのであります。:::市して日本の現 ( 6 ) 状を見る時、何処よりも先に皆様の如き軍人層にかやうな志士を見出す外ないのであります。﹂ 橘孝三郎は五・一五事件の民間側の中心人物である。さらに、軍部に多大の思想的影響を与えた北一輝は支那革命(辛亥革 命)に参加して、軍隊の革命に於ける重要性を学んで帰ってきて﹁自己の社会主義を実現する革命は軍隊が主力だ、軍事革命 ︽ 7 v は軍事独裁を必要とする。という信念を確立した﹂が、彼は軍部の役割(日本フアリ V ズム運動の中に於ける﹀をより具体的に 規定して次の様に述べている。 ﹁彼等(宗教仁らを指す)は其の軍隊との聯絡運動に於て大隊長以上に結托せざることを原則としたり。革命さるべき程に堕 落せる固に於ては大隊長以上の栄位に在る者は悉く飽食暖衣の徒にして官険の気慨なきは固より。特に己に斯る栄位を得たる は軍功学識にあらずして一に請托贈賄の賜なるが故に、其関係上直ちに反覆密告に出づべきは推想し得ぺし。彼等は文大隊長 以下に聯絡するに於て.も下級士宮に働け司令手と、兵士を招ぐ手とを互に相聞知せゴらしむる ζ とを規定したり。斯る複雑煩累

(22)

なる手数を重ねずしては陰謀の漏洩を保つ能はざるほどに道念の稲川廃し国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。:::嘗て大 ( 8 ) 陽が西より出でざる如く古今革命が上層階級より起れることなし。﹂ 二六事件となってあらわれてくるが、 北のこの考えはニ・ それ以前の軍部クーデターにも大きな影響を与えているのであ る。このようにして日'本のフア V ズム運動は軍部を主たる推進力として展開されていくのであるが、しかしながら、志士意識 をもったところの少数者の観念的理想主義の運動として展開されて、広汎な大衆を運動に組織化し動員するということがない 限りに於て、日本フア V ズム運動は甚しく空想的観念的で非計画的なものとして規定されざるを得ない。 我々は次に十月事件及び五・一五事件等の軍部クーデターに於てそれを見てみよう。 ( 注 ) ( 1 ) 丸 山 真 男 ﹁ 現 代 政 治 の 思 組 と 行 動 ﹂ 上 巻 三 一 頁 ( 2 ) 丸 山 真 男 、 同 布 、 三 二 頁 ,園、 3 、 ・J 木 下 半 治 ﹁ 日 本 国 家 主 義 運 動 史 ﹂ 八 二 頁 参 照 。 ( 4 ) 木 下 半 治 同 右 八 三 頁 ( 5 ) 木 午 半 治 H 八 五 頁 ︿6 ﹀ 橘 孝 三 郎 ﹁ 日 本 愛 国 革 新 本 裁 ﹂ 丸 山 真 男 前 掲 沓 五 三 頁 よ り 引 用 。 ( 7 ﹀ 久 野 収 、 鶴 見 俊 輔 ﹁ 現 代 日 本 の 思 惣 ﹂ 一 六

O

頁 ( 8 ) ﹁ 文 那 革 命 外 山 火 ﹂ 北 一 締 著 作 集 第 二 巻 三 三 頁 。 九

(23)

九 四

(

)

一五事件とその日本的精神構造

( 1 ) ︽ 2 ﹀ 三月事件の直後に満州事変が勃発した。三月事件は実に﹁満州事変のための圏内的整調﹂であり﹁呼び水﹂でもあったとい えよう。そして同時に満州事変は圏内改造のための一つの圧力でもあった。 圏内的行きづまりを国際的戦争によって一挙に解決しようという帝国主義特有の性格が満州事変に於て露骨にあらわれてき たのである。そして逆にいえば、国際的侵略と呼応した形で、園内改造をスムースに行おうとするやり方が満州事変であり、 そして一連の軍部クーデターであったのだ。 ζ の点にもドイツなどとの根本的相違がある。ドイツやイ夕刊 y アは、圏内体制を 完全にフア

ν

ズム化してから、国際的フアジズム侵略を遂行している。日本はまず満州にモデル・ヶ

l

スとしてのプア

ν

ズ ム 国家を樹立した。軍部の完全な主導権のもとに於てである。そして、 そのモデル・ヶ

l

スを圏内に逆輸入する型で日木のプア

ν

ズム化を計るのである。この ζ と は 、 日本がマックス・クエパ

l

の云う伝統的カ

p

スマ的支配者としての万世一系の天皇に よって統治されていて、フア V ストによる新しいドラマの自作自演が不可能であったことと、さらに天皇制的倫理観念と対立 するものをもたずに、むしろ即存の倫理観念をより徹底化する方向で運動が進行していったが故に、日本のフア V ズム運動が ドイツ、イタ

p

アのように国.内改造を先に完了するというコ

l

スから離反してしまったことを意味すると思う。そしてフア

ν

ズム運動による圏内改造は日本に於ては遂に実現され得なかった。成熟期の運動は少なくとも下からのフア V ズム運動として の性格を持っていたが、ニ・二六粛軍以後は体制の国家主義の方に全く吸収されて、その独自性を失ってしまった ζ とは、日 本 フ ア リ V ズムに関しての重要な問題点としてクローズ・アツグされるであろう。それにしても、満州事変こそは国際的にも、 圏内的にも、日本の運命をまさに決定する一大契機とはなった。そレて﹁乙れ ζ そが以後一四年間たえまなくつづき、日本国 ︽ 3 ﹀ 民を苦悩のどん底に陥しいれた大戦争の第一歩﹂であり、日本フア V ズムの対外的侵略の行動開始であった ζ とを我々はしっ

(24)

かりと認識せねばならない。さらに﹁大東亜戦争﹂は決して昭和十六年十二月八日に始まったのではなくて、まさに昭和六年 (一九三一年)九月十八日の満州侵略の自にその起点をおかねばならぬととを強調せねばならない。そのととは、日中戦争を 単に支那事変として軽く扱って済ました支配者層の物の考え方と、その考え方にいとも見事に呼応していった日本国民のメシ 夕日テイの問題を究明せねばならないという日本近代史の大きなテ

i

マと直結してくるのではなかろうか。 さて満州事変の圏内的反応として、日本フア V ズム運動の一頁に記されねばならないのが十月事件である。 ζ れもやはり橋 本中佐、長男小佐らを中心としたクーデター計画であるが、一二月事件との相違は、三月事件が字垣大将等の変心によって失敗 ( 4 ) した乙とを反省して﹁上層部とは分離して、改めて第二十八期生以下の尉官にも呼びかけた﹂ ζ とと、首班候補を字垣から荒 木貞夫中将にかえた乙とぐらいである。しかし乙 ζ で、上級将校から下級将校へその比重が移行していることは注目に伺いす る。即ち﹁橋本一派ニ参加セシトセ

ν

兵カ中 ︽ 5 ) ル 信 仰 上 ヨ

p

セルモノ四中隊﹂との問中清少佐の手記を見ると、我々は ζ ζ で北一輝の﹁嘗て太陽が西より出でざる如く古今 付大川周明博士ニ対スル信仰上ヨ

p

セルモノ一中隊 け西岡税、北一輝ニ対ス 革命が上層階級より起れるととなし﹂との思恕を想起せざるを得ないのである。 しかしこの事件も又、紙上のブラシにのみ終って三月事件と同様、荒木中将が橋本らに﹁中止をすすめ、きかれずとみて保 ( 6 ) 護検束の名で首脳部を隔離したため﹂に未遂に終り、とれ又、暗から暗に葬むられた。尚、失敗の原因として﹁指導部が維新 の志士を夢みて豪遊し、方々の待合をアジトとし、 ζ れにたいして尉官将校が反感を感じてはなれかけるし、警視庁にもかぎ ︽ 7 ) つ け ら れ た ﹂ ζ とを挙げる乙とが出出来る。そして指導者のかかる不謹慎な行為が尉官以下の人々を佐官級以上の上層部と離 れさせた原因であり、二・ニ六事件が完全に尉官級以下の将兵によって遂行された ζ とと無関係ではない。我々はこ﹄で二・ ニ六事件と北一輝との関係を、前述した北一輝の軍事革命の思想と考え合わして再び想起せざるを得ない。 ︽ 8 ) ところで﹁ ζ の陸軍の十月事件の失敗に憤慨﹂して海軍側と提携して登場したのが﹁一人一殺﹂の血盟団事件である。 ζ れ は結局、民間側フフジスト達だけによって行われたが、最初の計画では井上日現派と海軍側が一緒になって決行される筈であ 九 五

(25)

った。しかし﹁間もなく上海事変のために海軍側同志は出征するものが続出して共同行為に出づる ζ とが不可能となったた ︽ 9 ) め﹂に井上一派のみで決行して、前蔵相井上準之助(昭和七年二月九日暗殺)及び三井合名理事長田琢磨ハ同年三月五日暗殺﹀ とそれぞれ﹁一人一殺﹂を敢行した。ととろでそれ以前に、井上一派と海軍側が凝議して﹁海軍側を分離し一先づ井上一派の ( 叩 ) みで決行し海軍側は他日を期する ζ と﹂を決定したが、その決定の覆行が即ち五・一五事件であった ζ とは記憶されねばなら ( 口 ) ‘

( u

v

ない。従って﹁血盟国事件は単なる個人的なるテロ事件ではなく﹂日本フア V ズム運動に於て、大きな歴史的意義を有する事 件 で あ っ た 。 十月事件が三月事件を反省して上層部を切り離して尉官クラスと結びつき、そして字垣を荒木にかえ、血盟国事件が少なく とも前ニ者の失敗を反省して陸軍を離れて海軍側と結びつくという、かかる思考形態は、日本フア V ズム運動特有のものとい えよう。その反省の仕方になんらラジカルなものがなく、行き当りばったり式の心情的発露のみがあるのである。そこには新 しい事態に於ける予測可能なものに対する考慮が全然払われていない。即ち過去の失敗を真剣に反省して、その結果生れてく る未来への設計が全く欠如しているのであるから、従って未来への設計が無い以上、未来に対する責任倫理の確立なども到底 不可能である。あるのはただ破壊のみであり、志士が先端に立って破壊行動をやればあとはどうにかなるという、いわば﹁神 話的な才プテイミズム﹂がたえずそ乙では支配的にならざるを得ない。即ち﹁我々は破壊を引受けて破れる覚悟でゐるのだか (日召自伝)のである。そこではた Y 破壊のみが意味を持つ。それは何故 ら、建設案の ζ とまで研究しようといふ気はない﹂ で あ ろ う か 。 日本の近代化は和魂洋才式に行われた。近代国家として出発するためにはどうしても近代技術の摂取は必要である。しかも 尚、伝統的支配としての天皇制秩序を維持するためには、伝統的観念としての和魂が温存されねばならない。新しい近代技術 の発展はしかし、かかる伝統的封建的な魂の温存をおびやかさずには期待されない。日本の近代化(都市化と機械化)のテ v v ポが﹁和魂﹂の安住の地であり﹁忠孝一致﹂の精神が最もスムースに貫徹されうると ζ ろの農村を侵蝕するかたちで促進され

(26)

るとき、魂

ω

純粋さを守り、農村の疲弊を救わんとして立ち上る志士連の行為は、なによりもまず、安住の地への侵入者であ る日本の近代的要素全てを破壊することを至上目的として遂行される。 そうする ζ と が 、 伝統的秩序を維持するととにもな り、さらにその秩序に立脚する彼らの一君万民主義の思想を貫徹する乙とにもなる。現状はあまりにも一君と万民との聞に介 在する腐敗物が多く、国家秩序の支柱であった筈の一君と万民との全人格的な心情的結合を妨げている。その腐敗物を先づ破 壊せねばならない。そうすれば、おのずから一君万民主義の理想社会に立ち還るととが出来るのだから、建設などという作業 は必要ではない。実に破壊することだけが彼らの念頭にあるのである。日本フアジズムはかくして立ち還るための運動として 遂 行 さ れ て い く 。 さて軍部の失地回復の目的は、満州事変という戦争の勃発によって半ば逮せられた。昭和四年七月に成立した浜口内閣は、 そのブルジョア的政策の強行のために専制の反撃をうけて、浜口首相は遂に翌五年十一月、東京駅頭に於て右翼青年佐郷屋留 雄に狙撃されて重傷を負い、その傷の悪化のために総辞職して、かわって同じく民政党内閣の若槻礼次郎内閣が昭和六年四月 a ︽ 問 ) に成立したが、乙れ叉、安逮内相の協力内閣論が原因で総辞職した。﹁その退陣は、幣原協調外交の敗北と政党政治没落の第 ︽ U ) 一歩を意味﹂するものであった。さらにこれは民政党の緊縮政策及び対支不干渉政策、戦争不拡大政策等の一連の平和的ブル ジョア的政策がフア

ν

ズム的対外侵略政策へ道をゆずったことを意味している。 民政党内閣にかわって犬養政友会内閣が昭和六年十二月十三日成立。翌七年三月に第十八回衆議院総選挙が行われたが、

( m v

﹁選挙民は政友会の強硬政策に期待し、政友会が圧勝した。﹂その結果は政友会三

O

四(一三三名増﹀に対して民政党は一四 七(九九名減)無産派五、その他十名にすぎなかった。いかに国民が民政党の緊縮政策、協調外交にあき足りなさを感じてい ︽ M m ﹀ たかが分る。この選挙によって﹁軍部もフア

ν

ストも戦争とフア

ν

ズムへの自信を強めた:::﹂。乙の選挙の最中に起きたの が血盟国事件であり、乙れを受けついだのが先述したように五・一五事件であった。実に﹁昭和五年ハ一九三

O

年)頃より日 本社会にび漫し来たり、種々の小事件にその鋭鋒を示しつつあった革新的、国民主義的風波は、昭和七年五月十五日に起つ穴 九 七

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九 八 事件によって、 た 。 そ , 0) 最・ 頂 上 tこ i茎 し た と い ひ 得 る で あ ろ ( う17 L.、J

そしてこれは実行に移された日本最初のクーデター計繭であっ この事件参加の勢力は、 ' A 古賀清志・中尉を指導者とする海軍側。け士宮候補生を以て固める陸軍側。 ζ の両者は一体と なって軍人行動隊を形成した。さらに吋愛郷塾頭橘孝三郎を中心とする民間側の行動隊。同として、民間側の行動隊援助隊 として神武会頭大川周明を始め紫山塾頭本間憲一郎、天行会頭頭山秀三らがあった。古賀清志会中心とする海軍の青年将校は、 陸軍士官学校生徒とともに犬養首相を首相官邸に襲って射殺した。別の一団は内大臣牧野伸顕邸、政友会本部、日本銀行など を襲撃し、また橘孝三郎のひきいる農民決死隊は東京周辺の変電所を襲ったがいずれも失敗した。事件そのものについてはこ ζ で詳述しないで、 ζ の事件を支えていたイデオロギーともいうべき事柄に触れてみたい。乙の事件ではまず絶対的な指導者 が居ない。勿論、井上日召や橘孝三郎、大川周明、北一輝らの思想的影響を受けてはいるが、それも海軍側は井上の影響を、 陸軍側は大川や北、民間側は橘といった具合である。軍法会議に於て三上卓中尉は次のように求べている。﹁:::私をして ︽

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五 ・ 一 一 一 五 事 件 の 首 魁 が 何 人 ' で あ る か を 論 断 す る ζ とを許されるならば首魁は被告全部である﹂と。唯一無二の責任者が居ない のである。全部である、ということは結局誰でもないのだ。三上のこの発言を支えている精神こそは、八・一五に於ける一億 総倣悔の精神とその本質に於て同じである。かかる論理の帰結がまさに一億総倣悔であった。 と ζ ろで政治的運動を行うとき、何よりも先ずその運動を貫徹させるための

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ツプの確立が強く要請されねばなら ぬ。五・一五事件に於てはそれが無い。クーデターという政治的運動の最も激的な表現に於て

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ツプが確立されてい な

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のである。これは日本フア

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ズム運動の全過程を通じて云えることでもある。全ては天皇に帰一し奉る運動となってしま っ て い る の だ 。

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ツプの確立が無いから、その行動は勢い冷静な状況判断と計画に依拠することなく、心情的発作と なって表現されてくる。五'・一五事件の参加者が皆それぞれの心情的発露を示すのみで、組織としての明確さを欠いていたの

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も、運動それ自体の﹁核﹂みたいなものがあって、その﹁核﹂を中心として形成され展開されるという ζ とがなかったからで はないか。丸山真男氏は近代日本の学問や文化、いろいろな社会の組織形態というものが、ササラ塑でなくてタコツポ視であ ることを指摘して、かかるタコツボ型の生み出す日本的特質を鋭く分析している。例えば組織について云うと、日本の組織体 はみんなタコツポ化してしまっているので、﹁その組織体は、それに属するメシバーというものをまるごと飲み込んでしまう わけで:::。メシパーをまるがかえにしてしまうから、従ってその相互の聞に共通の言葉、共通の判断基準というものが自主 ( m m ﹀ 的に、つまり下から形成されるチヤジスはおのずから甚だ乏しくなる﹂。近代日本にあっては、近代化の過程に於て学問と か、知識とか、技術とかいったものが、それぞれ個別化されたま h に移植きれてきたので、それらを支えている根本的なもの が見失われてしまった。従ってそれぞれのものなり、人聞なりを結びつける共通の元みたいなものが欠如していて、丸山氏の それらのものを包括的に掌握するものは結局超権威的 云うようにそれぞれがタコツボ化してしまっているのである。それで、 なものか、或いは過去の美しい想い出への回帰というかたちで出てくる。即ち﹁戦前の日本では:::こういうタコヅポ化した ︽

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組織体の聞をつないで国民的意識の統一を確保していたものが天皇制﹂であったのである。 五・一五事件はなんら近代的合理的な組織のもとに行われたものではなかった。それは単に天皇に帰一し奉るための、やむ にやまれぬ至情の此露にしか過ぎない。三上中尉は云う。 周 到 ) ない﹂さらに﹁私の確信する限り吾人の革命は私心や階級的反感に基く暴動或いは反乱とは全く異っている。唯祈る所は天皇 治下の国民の幸福にある。憎む所はこれに反する邪悪の徒輩である。私は犯した罪は知っているが、気持は純一-無維にして⋮一 ( 盟 ) 挙唯だ愛国心に基くものであったことは公言できます﹂。ここではすべての価値判断の基準が天皇親政、君民一如といった国 体観念に設定されて、善悪の判断がその視角からのみなされる。 ﹁私共はやらずにをられないからやったといふ外表現の方法を知ら それ以外の価値観、 倫理観はく、だらぬものとして排除され ぃ。日本国体に即し、 ﹁革命と維新とは同意義である。 ζ れに関する支那及び英米のや h こしい議論は必要がな 日本人としての充分なる検討をすればそれで充分だ。五円々の維新市命ば天患い親政、君民一如の国政経施 る。即ち三よ中尉はさらに述べる。 九 九

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