Title
占領初期の沖縄における社会教育政策−「文化部」の政策
と活動を中心に−
Author(s)
平良, 研一
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(2): 31-63
Issue Date
1982-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5701
沖縄大学紀要第2号(1982年)
占領初期の沖縄における社会教育政策
「文化部」の政策と活動を中心に- 平良研 はじめに I社会教育政策形成の背景 Ⅱ「文化部」の社会教育政策と活動の特徴 1.「文化部」の設置の背景と若干の問題 2.沖縄諮詞委員会文化部について a沖縄民政府文化部について おわりに lまじめに 沖縄の戦後史は、最近あらゆる領域にわたって研究が深めらね特殊な米軍事 支配下で複雑な経緯をたどってきた戦後沖縄の実像が実証的に解明されてきて いる。 特に近年、極秘文書として米国に秘蔵されていた種々の公文書類が公開さ れるようになり、また国際政治関係の研究者が精力的に資料の発掘調査につ とめており、これまで不明であった対日占領政策、そこにおける沖縄の取り扱 いや占領。統治方針の問題も次第に明らかになってきている。しかし、「占領」 という政治形態における民衆の複雑多様な対応の仕方や生き方・自己形成のあ り方など、いわば社会のひだに深く分け入る事柄に関しては未だ明らかにされ ていない多くの問題が残されているように思われる。こうした問題は、社会教 育の一つの対象領域となるものであり、時の社会教育政策や活動の実態の解明 は沖縄戦後史の内容を豊かにし、その実像を浮き彫りにする重要な手がかりに -31-沖縄大学紀要第2号(1982年) なるものと考える。しかし、現在われわれが手にすることのできる社会教育関 係の資料は極めて少ない。したがって、関係者からの聞き書きや潜在的な資料の 発掘を含めた本格的な調査。研究はむしろこれからだと言ってもよいであろう。 1) 本J、論は、占領初期(1945年~1948年)の社会教育、特に沖縄諮詞 委員会文化部から沖縄民政府文化部時代までの社会教育政策について検討し、そ の特質を明らかにすることを目的にしている。資料上の制約から不充分な記述 に終ることを恐れるものであるが、上記テーマに関する本質と実態の輪郭をい くらかでも浮き彫りにできればと考え、敢えて筆をとった。筆者としては、この 小論が-つのたたき台ともなれば幸いに思う。 -1社会教育政策形成の背景 占領下沖縄の社会教育を考察していく上で、それを包み込む米軍の対沖縄占 領・統治政策の問題を避けて通ることはできない。ここでは一応これまでの 「占領」に関する研究を若干参考にしながら、沖縄の本土からの「分離」をめ ぐる問題と占領政策の特徴について筆者なりに概観しておきたい。 アメリカは連合国の一つとして第二次世界大戦に参加し、太平洋戦争に勝利 した1945年に事実上日本の単独占領を果たした。周知のように、その後アメ リカ占領軍は、あらゆる分野にわたって「戦後改革」.「民主化政策」を断行 していった。1946年には早くも新憲法が公布され、教育の分野では同年に アメリカ教育使節団が来日し、その「報告書」に基づいて翌年には教育基本法 が制定された。こうした矢継ぎ早やの諸民主化政策は、戦前狂気の天皇制ファ シズム体制下に組み込まれ抑圧されてきた日本人民にとって、たしかに青天の へきれきとも言うべきものであった。しかし一方で、沖縄は敗戦と同時に本士 から分離され、日本の-地方として軍政がしかれることもなく、したがって上 記「戦後改革」から一切無縁の状態に置かれたのである。それ以降、1972 -32-
沖縄大学紀要第2号(1982年) 年の復帰の時点まで、アメリカの直接的な軍事支配が貫徹されるという特異な 歴史をたどることになる。 こうした沖縄占領をめぐる歴史的事実は、アメリカの日本単独占領の本質を 問い、さらには教育をはじめとする戦後の目覚ましい「民主改革」なるものの 2) 内実を問し、返す重要な内容を含んでいると思われる。 沖縄の戦後を方向づけた「分離占領」の経緯については、琉球大学の大田昌 秀教授がアメリカ側の資料に基づいて示唆に富む論考を提供している。それに よれば、沖縄が日本から分離ざれ基地の対象に選ばれたのは、単に戦略上重要 な地理的条件を備えているからというだけではなく、歴史的にも文化的にも古 くから本土とは「異質」の要素を内包し、植民地的な取り扱いさえ受けてきて おり、したがって沖縄は、「分離処分も可能な別地域と見なされてきたからで 3) はないか」、ということである。しかも、アメリカの沖縄への歴史的地理的関 心は、すでにペリー提督の沖縄来航(1853年)以来の蓄積があったのであ り、アメリカが,9世紀後半、帝国主義列強としてアジアに眼を向けていく過 程で、沖縄の太平洋地域における戦略上の重要性が認識されてきていたのであ る。 第二次世界大戦に至る国際情勢は、アメリカを含む帝国主義列強間の植民争 奪の確執が熾烈に展開されていたのであり、アメリカが太平洋戦争に勝利する と同時に日本の単独占領を果たしたことは、アジア支配の主導権を確立するため に当初から予定された戦略であった、とみるのが妥当であろう。そして、沖縄の 「分離」は、この戦略を有効に遂行していく上で不可藝欠なことと認識されてい たと考えられる。しかし、日本の-県である沖縄を分離するに際しては当然な んらかの抵抗が予想されたはずであり、分離を断行するにあたっては、それが 可能だと判断する根拠が必要であった。米軍はその根拠を、日本と琉球の間の 屈折した歴史的関係に基づく意識の「ずれ」や本土との心理的な「距離感」の 存在に求めプご・米軍は㎡すでに沖縄上陸以前に沖縄の歴史的背景、民俗、習慣、 -33-
沖縄大学紀要第2号(1982年) 教育、産業等、とりわけ沖縄人の意識や行動様式については詳細な研究を行っ ており、それは更に軍政要員の「手引」として、実際の住民対策=宣撫工作に 5) も活用されることになるのである。「琉球列島民事手引(CIVILAFFAIRS HANDBOOK)」には、「琉球人と日本人の関係の中には潜在的な不和、離反の
種が内在しているため、それを政治的に矛U用することも可能であろうjlと述べ
'られているが、この内容|ま、米統合司令長官マッカーサーが米人記者に対して
行った次の発言とも符合している。「米軍が沖縄を保有することにつき日本人 に反対があるとは思われない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本人 7) は戦争を放棄したカコらである」。 上記マッカーサー談話に象徴的に示されているように、アメリカ占領軍は 「沖縄研究」に基づいて沖縄の本土からの分離を正当化し、やがて来る「対日 講和」において、この間の既成事実の上に単独保有を確定することを企図して いたと言えよう。こうして沖縄は、戦後のアメリカ極東戦略上の特別地域とし て、27年間にわたって軍事支配下に置かれ続けることになるのである。 これまで概観した沖縄の分離占領の過程と「沖縄研究」に基づく軍政当局の沖縄観は、言うまでもなく、占領政策全体に様々な形で反映され、占領政策は
本土とは違った特徴を滞びて展開される。 沖縄では本土のように間接統治の下に計画的な「戦後改革」がなされること もなく、米軍の直接統治の下に「基地の島」を前提とした軍事優先の枠組みの 中で占領政策は遂行されていく。すなわち、「統治の主体」はあくまでも軍政 府であり、「軍政府が琉球列島を統治するかぎりは恒久的な民政府も、完全な 8) るデモクラシーも確立することは出来ない」ということであった。こうして軍 政下であることの制約を強調しながら、一方では経済の自立を早く達成させて いく目的から住民の自発性と協力を促がし、「住民の才能や地方の事情に応じ 9) て」教育の事業を極力行ってし、く方針を示している。 -34-沖縄大学紀要第2号(1982年) ともあれ、軍政に支障を及ぼさないかぎりという限定で、少くとも初期の対 住民施策においては、やや柔軟で臨機応変に対応していく姿勢が散見される。 それは別の面から見れば「場当り的」と言われ、占領初期の一つの特徴的な傾
向とも言われ言:)こうした傾向は、統治の方針が必ずしも明確でない当初の段
階で当然ありうることであり、また一つには、沖縄の極度に混乱した状況にお ける軍政要員の一種の当惑と配慮を示しているとも受けとれる。しかし、その 本質については更に深めて検討してみなければならないように思われる。 当初、アメリカ本国の政策準備の遅れと命令の抽象性のために、GHQの方 針も担当官によって左右される場合が多く、さらに地方軍政レベルでは、「全 11) 〈担当官の個性によって強力に屈折する場合カヌ多かつた」といわれ、そしてま た地方軍政官の資質は玉石混滑であり、「かれらの個人的知識、教養、パーソ ナリティー、情熱が、ワシントンやGHQの占領政策の抽象性・暖昧性を補完 する形で実際の占領政策の運営に発揮され、占領政策の成否を決定する重要な 12) 一因となった」ということである。このことは、占領初期の沖縄の場合にもイ固 々の例に関してはほぼ妥当すると言えよう。しかし、この問題を単にそれだけ で片付けてよいのかという疑問が残る。なぜなら、すでに述べたように、米軍 は占領以前から沖縄の本土との「異質性」を比較研究し、アジア・極東戦略の 観点から沖縄分離の意向を基本的に定めていたのであり、初期の対沖縄占領政 策について一概に、“暖昧卿であり、“場当り的騨であるとするのは本質的に は妥当でないと考える。すなわち、初期の占領政策に試行錯誤的な側面があっ たとはいえ、軍政要員は予め用意されていた詳細な「沖縄研究」を踏まえて、 「民心の安定」、「秩序の回復」のための任務についたわけであり、むしろ本 質的には状況にかなった明確な政策路線に基づいて臨んだとも言える。このこ とについては、社会教育政策の問題とかかわって次章で改めて論及するつもり である。 さて、これまで概観した沖縄の「占領」についての観点から初期の社会教育 -35- 』(''1純」W:紀喫蛇2;」(l982fll 政策総体を概括的に言うならば、それは通常の「社会教育」と言うよりも、将 米の沖繩の「地位」(基地としての)を見通した占領政策の地ならし的な性格 を滞びた“宣撫的文化政策“とでも称すべきものであったと言えよう.したが って、こうした-つの段階として状況に応じた様々な対応が、時には場当り的
とも言える形であらわれたとしても何ら不自然ではないと考えるのである。
言うまでもなく、他国の占領において住民に対するイデオロギー政策は核心
的な側面である。それはその国、地域の歴史的状況や民衆の動向に応じて、時
には強硬な、また場合によっては柔軟な(あるいは巧妙なと置きかえてもよい) 政策がとられる。占領初期の沖縄の場合、それは沖縄の歴史と伝統を重視する 文化政策を中心として展開されることになる。かかる文化政策は、戦前日本の極端な天皇制ファシズムとの対比において住民に民主的で解放的な印象を与え、
さらには虚脱の状態にある住民の「文化」への飢餓感にうったえることによっ て、占領政策の一環としてそれなりの成果を収めたと言えよう`、 戦後沖細の社会教育は、これまで概観した占領政策の枠組みの中で、且つま た占甑政策の-構成要素として軍政府指令の下に組織され、その活動を開始する。 Ⅱ|文化部」の社会教育政策と活動の特徴 1.「文化部」設置の背景と若干の問題太平洋戦争における最も激戦の地となった戦後沖縄の「荒廃」の状況は、占
鎖政策を遂行する米軍当局にとっても恐らく予想をはるかに越えるものであっ た。占領軍としては何はともあれ、混乱する住民を秩序回復のために管理して いかねばならず、また住民の側でも、まず、いかに生きるかが最大の関心事であった。こうして住民収容所が全島各地につくられ、沖縄の「戦後」が始まる。
沖縄戦は、沖縄守備軍の壊滅した1945年6月に事実上終結したのであるが、
その時にはすでに各地の収容所で新たな時代の「生活」が始まっていたのであ る。その中で、沖縄中部の石川収容所は、あらゆる意味で戦後の出発点であり -36-'|'細〃洲AWMU(1982(1) 象徴的な存在であったと言える。 石川収容所では軍の命令で様々な管理組織(部門)かつくられるが、なかで 13) も特筆すべきものは「学校」である。それは「石jIl学園」として今に伝えらオし るもので、「アメリカ軍からは、ただ子供達を管理しろということだったので すが、集まった子供達を見ていると(『Iとかしなければならないという気になっ 14) て」、最初]は'1,学校4年生以下の子供を集めて「授業」を始めている。そして、 それが「軍の命じた保護・管理の域を逸脱したとみたかどうか、アメリカ軍は 15) この学|割を少くとも子供達がいる間は四六時中二人の専属のMPが着祝した」、 というように、そこではかなり積極的な「教育活動」が行われていたことがう かがえる。こうしたことは沖繩の各地の収容所で見られたことであり、まさに 沖縄の戦後は、食うや食オ)ずの収容所での教育の営みから姑洲,九とに;うことが できろ。 さて、石jIl収容所では上記の小学生対象の「教育」は|初呼数育部」とい.) 一つの部門でなされたものであるが、その他に社会教育部、(1二座、術l1i、沿安 16) 等の10部門が置かれ、住民の秩序維持に当らせプこといオ)れる。ここで、われ われの関心から特に注目すべきことは、「社会教育部」が設けられていること である。従来、戦後沖繩における社会教育政策機関の噴矢は後に述べる「文化 部」とされているが、この記録からみれば、「…そうではなく、実はこの社会 17) 教育部にその源流を求めるべきであろう」と指摘されているように、この石」|l 収容所の社会教育部が社会教育機構U、少くとも原初形態であると言えるかもし れない。ただし、この「社会教育部」は収容所内での、しかも極めて短期間の
ものであ6《)活動内容についての記録もなく、その実態は全く不明である。お
そらく、「民心の安定」や「治安」にかかわる様々な任務を課されていたので はないかと推察される。いずれにせよ、収容所内での当面の秩序を維持するた めに子供の管理が必要だったと同様に、、おとな',に対する管理の必要上、ご く日然なかたちで[社会教育部」が設けられたと考えられる。ちなみに、敗戦 -37-沖縄大学紀要第2号(19821f) eOCO⑥O 直後の北部の収容所瀬高地区では、「山里政勝氏が社会教育主事として任命さ れ、主として子供の校外指導に当てられた。事務所は学務課と称して事務員も 19)
二人任命された」(傍点弓|用者)とあるように、「学務課」の下に「社会教育主
事」が置かれ、主に子供の「保護」を目的とするものではあったカヘ「社会教育」が存在したことを示している。しかしこのような収容所時代の「行政機構」
は、その内容について特に米軍から指示があったわけではなく、未だほぼ戦前
そのままの発想に基づいた、いわば戦前の「連続」と言うべき傾向が強く、そ
れらをもって戦後沖縄の政策機構の始まりとするには無理があるように思
われる。いずれにせよ、戦後の不安と混乱の中で曲りなりにも各地で管理及び 「自治」組織ともいうべきものがつくられ、戦後の新しい事態に対処していく 胎動が見られたことは確かである。 このようにして間もなく、全島を統括する行政機構が必要とされるようになり、収容所の中心となっていた石川に沖縄初の行政機関即ち「沖縄諮詞委員
20)会」(1945年8月~1946年3月、以下「諮詞委員会」)が冒延生する。
そして同委員会は、軍政府の指示の下に戦後処理をはじめ、すべての住民施策
を統括していくことになる。諮詞委員会には13の部門が設置されたが、その
中で「人心の安定を期し生活の更新と趣味の向上を図ろ必要上i1ふら、いわゆ
る社会教育の領域を担当する部門として設置されたのが「文化部」であり、後
に詳述するように、住民に対する「啓蒙、宣伝、娯楽」など、広い意味の教育
・文化政策を遂行していく。 第一回諮託リ委員会議事録によれば、当初文化部は軍政府側の提示した部門に 22)は含まれておらず、後に沖縄側の要望で追カロして認められたことになっている。
ところで、この件をめぐって若干の疑問が出てくる。-つは、すでに収容所時代
に「社会教育部門」が設けられているにもかかわらず、諮詞委員会時代になっ て何故に文化部という名称が使われるようになったかということである。いま 一つは、アメリカでは学校以外の、、おとな',に対する教育を一般に、Adult -38-沖縄大学紀要第2号(1982年) EducationM成人教育)と称しているが、その時軍政府は何故にその呼称を 使わせなかったのかということである(後になって成人教育課が設置される)。 この問題は、初期の社会教育政策の特質を考える上で無視できない内容を含ん でいるとも思われるが、今のところそれを説明する資料は見当らない。そこで、 当時の状況と後の文化部の実態から敢えて推察するとすれば、およそ次のよう に考えられる。 すなわち、当初は沖縄の指導者にとっても軍政府直属の正式の機関の呼称と しては戦前の暗いイメージにつながる「社会教育」よりも、イメージの良いソ フトな「文化部」が当面得策であるとの判断があったかもしれない。またこの 頃は未だ戦火の消えやらない混乱の時期であり、軍政府にとっては占領政策を スムーズに遂行していくための“地ならし,'として、まず沖縄の伝統文化を尊 重する施策を中心に軍に対する警戒心をやわらげ、プラスのイメージを植えつ ける政策が重視される状況であった。実際に、沖縄は元々伝統文化志向の強い 地域であり、後述する軍の芸能を中心とする文化政策は、虚脱の状況の中で 「文化」に飢えた住民から総じて好感をもって迎えられた。したがって、文化 部は軍政府の意図にもかなった名称であったし、また軍政府より協力を要請さ れた沖縄の指導層にとっても、住民に人間らしく生きていくための新しい沖縄 の復興を促がしていくためにも、当面の「社会教育」の方針を「文化」に定め たとしても何ら不思議ではなかった。 以上述べたような観点から-米軍はなぜ最初から文化部を部門に加えなか ったかとの疑問は残るが-文化部は少くとも客観的には、政策的にも実践的 にも占領直後の状況に最も適した機構であったと言えよう。 2.沖縄諮詞委員会文化部について これまで主に文化部設置の経緯と政策形成の背景について若干の考察を試み たのであるが、ここでは文化部の社会教育政策の特質について、いくつかの活 -39-
沖縄大学紀要第2号(1982年) 動の実際に即して検討してみたい。 この時期は、未だ戦火の跡が消えやらぬ混沌とした状況で、ほとんどの住民 は収容所の生活を余儀なくされているか、あるいは元の居住地への移動が行わ 23) れているという不安定な状況下にあった。したカゴって、確固とした行政機構を 整備する態勢はととのっておらず、諮詞委員会の機構にしても極めて大雑把な ものにならざるをえなかった。次の図からわかるように、文化部の機構も当面 必要とされる施策を遂行していくための便宜的なものであったと言えよう。 図(1)沖縄諮詞委員会の社会教育行政機構 (1945年8月~1946年3月)
文Ⅱ部lZi閲エ繭WW当n噸
(前掲、「琉球史料第三集」より) 上記機構の下に戦後沖縄の社会教育行政はその端緒を開かれ、その後沖紺眠 政府文化部を経て、1948年に琉球成人教育課が設置されるまで、社会教育 に関する施策はすべて文化部の統轄の下に遂行されることになる。 まず、諮絢委員会文化部の政策について端的に言えば、占領政策をより効果 的に遂行していく基盤づくりのための「宣撫工作」を直接的に担うものであっ た。すなわち、この時期は米軍政府にとっては収容所内での秩序を維持し、兀 の居住地(市町村)への移動を図り、出来るだけ早く自給のための生産を促か し、より安定した統治が遂行できる社会ノ,蝿を終IWiすることが緊急の課題であ ったし、それにはまず、虚脱の状態にある住乢に復興への意欲を喚起すること が先決条件だったのである。そのことは、すでに1945年7月27LI付で砿 政府の対住民宣伝機関である「ウルマ新報」が発fllされていることにも示され ている。すなわち、軍政をより効果的にすすめていくために住此の』''1解と協力 を得る必要から、住民への宣伝・宣撫政策が特に重視されたのである。その特 -40-沖縄大学紀要第2号(1982年) 徴は、沖縄を本士から物理的にも精神的にも分離していく基本方針の下に、沖 縄の特異な歴史を考慮し、独特の伝統文化を尊重するという観点が貫ぬかれて いることである。それは後にふれるように、文化部の社会教育政策のいわば要 ともなるものであった。すなわち結論的に言いかえれば、文化部の社会教育政 策は、「民心の安定」、「社会秩序の回復」、「自給経済」を促がしていく手
段として「啓蒙、宣伝、娯楽j詮提供する方向で具体的な活動が展開される仕
組・構造になっていたのである。 図1に示されているとおり、文化部は社会教育担当と芸能担当の二つの部署 を設け、各々文化主事を配置して社会教育全般を統轄した。機構上、社会教育 と芸能が独立したかたちで並列しているのが注目されるが、文化部時代を通し て「芸能方面」は極めて活発で、時には「社会教育」を包み込んでいる印象さ え受ける。それは既に述べたように、特に初期の社会教育政策が、いわゆる宣 撫的文化政策ともいうべき性格を付与されていたことから肯首できよう。「社会教育方面」では、当時の担当者の証言や「文化部月報脇どによれば、
主に講演会、伝道集会、スポーツ競技大会、衛生思想の普及hIi動など、多様な 事業を行っている。ところで、上記の講演会が「通俗講演会」とよばれ、ま た46年からの氏政府時代には「教化講演会」となっていることからしても、当時 の社会裁育は未だ戦前的な発想から抜け切っていなかった-面がうかがえる。 1948年頃までの文化部による「通俗講演会」は、特に講師を選定し、組 織的になされたものではなく、文化部の職員(主に部長、課長)が軍配給のジ ープを駆って北部の山村に到るまで、ほとんど単独で巡回講減したというのが 28) 尖''1fである。その内容については、今のところ詳しい資料がなく、当時の扣当 者の証言や断片的な資料に拠るほかはない。それらによると、いわゆる[デモ クラシー」を中心とする政治や新しい選挙制度の話、戦後の時事問題、宗教講 [活・キリスト教の話、迷信打破に関する話蕊総じて戦後の新しい社会におけ る生き方、生活の改善などについての講演を各地の学校を使って行っている。 -41-沖縄大学紀要第2号(1982年) それは、46年に民政府文化部になってから特に活発に行われるようになる。 記録に「各地区において延べ24回に及ぶ通俗講演会を開催」とあるが、それ に対し当時の担当者(社会教育官)の-人は「私は毎日でした。24回どころ ではないですね。各学校を利用しまして、父兄の方々とか附近住民を集めて社 会教育的立場から話しをしました。私などは事務所を出たら名護方面をずっと
回って、,週間や,0日間も毎日でしたj9L述懐している。まさに巡業なみの
講演活動を行っていたことがうかがえる。 キリスト教の伝道。普及活動も見逃がすことはできない。米軍は、沖縄占領 に際して従軍牧師を伴ってきただけではなく、その後多くの伝道師を派遣し、 普及活動に従事させた。よく知られているように、キリスト教の伝道活動は欧 米帝国主義列強が植民地において行ってきた宣撫政策の常道であり、それは沖 縄においても例外ではなかったのである。当初は日曜学校が各地で開かれ、大規模の伝道大会が盛んに開催されているがio菫年の民政府文化部では機構を再
編し、さらに活発に行われるようになる。このことについては次章で改めてふ れるつもりである。 ところで「芸能方面」は、先にも若干述べておいたように、文化部の大きな 柱であり、軍政府にとっても占領政策を賞撤していく上での“地ならし卿とし て重視され、また同時に、すべてが灰じんに帰した状況の中で住民の側からも 渇望されていることでもあった。実際、諮詞委員会文化部長ハンナ大尉(後に 少佐)の命により生き残りの芸能人が招集され、いわゆる芸能団が結成されて いる。それは、石川市で開かれた文化部主催の公演会では大成功を収め、以後、 「巡回慰問演芸団」として各地の米軍キャンプで公演を重ね、さらには全島津 々浦々を巡回慰問し、住民から熱狂的な歓迎を受けた。46年には「芸能連盟」 が結成され、さらに活発な活動が展開されていく。それは「為政者の文化政策遂行のためにつくられた機関であることに本質的な特徴があり…j]し言われて
いるように、たしかに軍政府の宣撫工作の一環として把えることができる。し -42-沖縄大学紀要第2号(1982年) かし、同時にそれは戦争で打ちひしがれた民衆に喜びと誇りを与え、ある意味 では復興への意欲を喚起した-面は否定できないであろう。 さて軍政府文化部長ハンナは、こうした伝統芸能の尊重・奨励ばかりではなく、焼 け残りの諸文化財を収集させて自ら「博物館」をつくり、また図書館づくりに 32) も大きく貢献している。このような積極的な施策は、軍政府狽Iによれば、米軍 人に沖縄のすぐれた伝統文化を紹介し、その文化の高さを認識させ、軍人を教 33) 育したい、という名目でなされたものであった。軍政府のかかる「意図」はさ て置いて、 ̄連の文化政策は、戦後の虚脱の中で「文化」に飢えていた住民か ら大いに歓迎されたことは確かである.このことは、戦前の日本政府が、皇民 化政策の ̄環として沖縄方言をはじめ伝統文化を排除した歴史的背景があるの で、なおさらのことであった。こうして各地で伝統芸能が復活し、村芝居も活発 に行われるようになり、戦後の復興に-つの活力を与えたことは否定できない。 そして、こうしたことが同時に占領政策としての重要な役割でもあったことは 言うまでもない。 そこで、この時期の特徴をなしているハンナをはじめとする軍政担当将校の 目覚ましい活躍とその政策的意図について少し深めて検討しておきたい。 文化部の時代、特に45年から46年にかけてはアジアの歴史や文化に造詣 の深い軍政担当官が配置され、その'情熱的な活躍と柔軟な姿勢が当時の沖縄側 から高く評価され語り継がれている。たとえば、最初の軍政府政治部長マード ック中佐は後にエール大学人類学部長をつとめたアメリカ人類学界のすぐれた 学究であり、石川市で初の市長、議員の選挙をすすめた時、諮詞委員が時期尚 早として反対するのを押さえて婦人参政権を認めるなど、その民主的な施策は高 く評価されている。また、後任のカードウェル、ワトキンスも博士号をもつ 「学者将校」で住民に対して理解があり、「インテリ将校だけに軍の政策を強 34) 要しなかった」と評価されている。こうした軍政官たちの柔軟な姿勢、あるい は文化部を通してすすめられた「デモクラシー」の啓蒙活動や伝統芸能.文化 -43-
沖縄大学紀要第2号(1982年) 奨励の政策は、戦前の軍国主義下で抑圧され、政治に対して暗いイメージを抱 35) いていた沖縄の民衆に一種の驚きと好感をもって迎えられた。その中でも、す でに述べたハンナ少佐の活躍は文化・教育部長として面目躍如たるものがあり、 戦後の沖縄教育の再建に努め、文芸復興をもたらした人として一様に絶賛とも 36) 言える評価力x与えられてし、る。 それでは、このようなハンナ少佐ら初期の軍政担当官の活動に関して、当時 の沖縄側関係者による上記の評価をそのまま肯定してよいのであろうか。この ことについては、アメリカの対沖縄統治資料など第一次的な関係資料が手許に ないので断定的な言及は避けねばならないが、占領政策の形成過程や文化部設 置の背景などから一定の基本的な判断は可能であると考える。まず結論的に言 えば、例えばハンナ少佐は単に偶然に沖縄に派遣され、たまたま学究としての 立場から教育、文化問題に情熱を燃やしたというのではなく、少くとも占領政 策の基本路線は踏まえていたとみるべきではないか、ということである。なぜ なら、すでにIでふれたように、米占領軍は当初から沖縄を本土から分離し基 地として保有していく意図を持っていたのであり、それを可能とする根拠とし て本土との歴史的「異質性」に着目し、その「心理的ギャップ」を有効に矛U用 していく意図を示していたからである。したがって、占領直後の軍政担当官に 人類学、言語学、またいわゆる東洋学の領域の学者が配置されたことは、偶然 にそうなったというのではなく、沖縄の状況に見合った占領政策の ̄環として の「宣撫工作」を意図したものとみるべきであろう。勿論、ハンナ少佐を中心 として展開された文化政策は、直接的にGHQの指令に基づくものではなかっ たであろうし、また、そこには学究としての個性と情熱が反映されていたで あろうことも否定できない。しかし、このことによってハンナ少佐の活躍を占 領政策全体の視野から見ることなく、専ら個人の学識や良識に基づく業績とし て評価することは、事柄の本質を見失うことにならないであろうかbともあれ、 ハンナ少佐らの活動には例の「沖縄研究」に基づく沖縄分離の方針が一脈買い -44-
沖縄大学紀要第2号(1982年) かれており、且つ占領政策を効果的に遂行していくための政策的な意図が根底 にはあったと思われるのである。こうした観点からすれば、ハンナ少佐が高い 評価を与えられていること自体、当時の文化政策が対住民宣撫工作としてそれ なりの効果を発揮したことを意味するものであり、客観的に彼は有能な「宣撫 工作担当将校」として評価される一面を持っていたとも言えよう。以上、やや 冗長にハンナ少佐に対する「評価」をめぐって敢えて私見を述べたのであるが、 これらの問題は文化部の本質と実態を明らかにしていくためにも、今後さらに 確かな資料的裏付けをもって究明されねばならない。
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(事実上軍政府教育部の直属一筆者 (前掲、「琉球史料』、『沖縄の戦後教育史』より作成)上記機構図で見るとおり、諮詞委員会時代の簡素な組織を再編、強化し、い
よいよ本格的に社会教育を推進していく姿勢がうかがえるであろう。こうした 体制強化の背景には、住民の収容所からの移動がほぼ完了した段階で住民を 「復興」へ立ち上がらせ、軍政を整えていこうとする米軍政府当局の意図があ ったことは言うまでもない。軍事占領下における機構の変遷は、常に時の情勢に即応して、占領政策を何らかの形で強化していくことにほかならない。この
ことは、事ある度に出されてくる軍政府の指令・通達類にもよくあらわれており、機構の改変に際し、「自治」や「民主主義」の拡大を期待するのは幻想で
しかなかった。すなわち、「統治の主体」はあくまで軍政府であり、そこにお いては、「'恒久的民主政府も、完全なるデモクラシーも確立することはできな い。ただ琉球列島を統治するに際して、軍政府は実行しうるかぎりにおいて『民主主義の原則』を用いるj7Lいうことであった。このように沖縄民政府の
成立は、占領政策の一層の強化を意味するものだったのであり、それに沿って文化部は社会教育jE嫌をより明確に打ち出し、「新沖縄の建設」のための民衆
の啓蒙・社会教育活動へ積極的に乗り出していく。,勿論、このような米軍政府
の規制あるいは軍事統治の枠の中でも、実際に社会教育の方針を起草し且つ実 施に移していくのは他ならぬ沖縄の人間であり、そこには占領政策に対する微 妙な屈折と矛盾が存在した。そこで以下において、文化部が打ち出した社会教 育の方針や「要項」などを検討し、この時期の社会教育政策の特質を明らかに していきたい。 -46-沖縄大学紀要第2号(1982年) 沖縄民政府文化部は、その発足と同時に、社会教育の政策、実施方針をかな りの意気込みをもって提起している。1946年の「社会教育指導要項」(如 何にして民衆を指導するか)、47年「文化部の目標」、同年「市町村文化事 38) 業要項」等力xそれである。これらに共通して見られることは、当時の担当者が 軍政府の規制を受けながら、沖縄再建へ向けて何とか民衆の活力を引き出して いこうとする積極的な姿勢である。そして同時に、戦前的な発想と新たな時代 の理念が混在したかたちの意図的・組織的な社会教育への始動を読みとること ができる。 まず、「指導要項」において、「私共は過去における生活を反省し確実なる 指導原理を樹立してポツダム宣言に示された世界平和の建設に貢献しなければ
ならないj匙して、社会教育の基本理念と方針について詳しく提示している。
例えば「目的原理」として、「世界文化を理解し、世界平和を建設する」意味 での「新沖縄建設に対する信念を培う」ことをあげ、更に「方法原理」として、 「生活の更新と趣味の向上を促し以て民心の安定を図り文化人としての教養を 高めること」をうたっている。以上を「根本基調」として、更に次のような具 体的な方針が述べられている。即ち、「宗教心の啓培」(迷信の打破)、「真 のデモクラシーの啓蒙」、「産業精神の確立」(自給自足の精神)、「道義心 の発揚」(風紀の矯正、衛生思想の普及等)、「健全娯楽の普及」、「言語の 陶治」(日本語を用いる一方、英語の普及を図る)、「体育の奨励」等である。 それは、1947年の「文化部の目標」の「緊急教化事項」に改めてまとめら れているが、全体としてみると、やはり占領政策の一環としての色彩はぬぐえ ず、また一方では新しい時代の「思想」が見られるとしても、戦前の教化的、 訓戒的な傾向は否めない。しかし同時に、本土の情報を何らかのかたちで取り 入れながら、一定の独自の見解や方針が示されていることは注目される。そこ で、これらの「要項」の内容に関して、占領政策との関連を含めて若干付け加 えて述べておきたい。 -47-沖縄大学紀要第2号(1982年) まず、「要項」で第一にめざされていることは「新沖縄の建設」であり、そ
れを担う「世界文化人トシテノ教養ト品格j匙備えた人間像である。この理念
は、戦前の偏狭な国家主義を払拭するという観点から述べられていることは明 らかであるが、同時に「世界語としての英語の普及」、「世界的な宗教」を強 調していることを合わせて考えると、そこには軍政府の沖縄統治の意図(日本 からの分離)が反映されていたと言えよう。また一方で、こうした「世界的」 な理念が、この時期に活発に展開される沖縄士着の伝統文化。芸能の奨励政策 と一体となって遂行されたことは注目に値する。しかし、この一見矛盾した政 策は、米軍の対沖縄占領政策の大前提(基地としての分離保有)からすれば、 何ら不自然なものではなかったし、初期の宣撫工作としてそれなりの効果を発 揮したものである。もっとも、いわゆる言語政策については、「英語は食糧と同様に重要になりつつあるj1Lして、成人に対する英語教育の普及に努めるが、
結局のところ、学校教育でも所期の意図に反して英語を徹底することができな 42) かつた。この,点からすれば、アメリカの沖縄における「植民地政策」は大きな 制約を受けることになったと言える。 そこで再び「指導要項」に目を向けてみよう。そこでは「デモクラシーの啓 蒙」と「宗教心の啓培」は、「世界的文化人」をつくるために不可欠の社会教 育活動として強調されている。まず「デモクラシー」についてみると、それは「常に生成発展するもので固定的なものではない。又国によってその内容はち
゛●●●。・・・・・・ がうものである。吾等は沖縄独特のデモクラs/-を確立して新沖縄を建設しなければならないj3(傍点、引用者)としていることが注目される。ここに言う
「沖縄独特のデモクラシー」とは一体何を意味しているのであろうか。その文 脈からは定かではないが、恐らく沖縄の自立あるいは主体性を確立していくと いう意味を込めて使われているのかもしれない。すでに述べたように、米軍政 府は占領政策の許す範囲で「民主主義」を容認したのであり、文化部を通じて 遂行される「デモクラシー」の啓蒙活動には、おのずから限界があった。なる -48-沖縄大学紀要第2号(1982年) ほど「指導要項」には、「人権の尊重」、「平等の参政権」、「言論、集会、 結社の自由」など民主主義の原則が-通り述べられているが、結局、「縦の関 係にある厳正なる指導原理は秩序ある団体生活を保持する意に於いて……完全 44) なる調ポロをはかるようにしなければならない」と結ばれているように、軍政下 であることからくる規制をまぬがれてはいない。ともあれ、「デモクラシー」 は文化部の社会教育の中心的な内容として、市町村の講演会や座談会、文化講 習会を通じて積極的に普及がはかられた。 一方、いわゆる「世界的な宗教」=キリスト教の布教は、文化部の教化課。 宗教係による社会教育活動として重視された。それは、米軍政府にとっては宣 撫工作の一環であり、沖縄の側からすれば、「迷信の打破」=生活改善の一つ の手段として、社会教育の役割を実質的に担うものであった。即ち、新沖縄の 建設=近代化を目ざすには、「非科学的即ち迷信」(「指導要項」)である士 着の信仰(ノロ、ユタ)や自然崇拝を極力排除し、「世界的な宗教、即ちキリ スト教、仏教」(「市町村文化事業要項」)でなければならない、ということ であった。こうして、宗教政策には大いに力が注がれ、図2で示した機構や宗 教団体を通じて市町村の末端まで浸透がはかられていく。そして各地に教会が 建てられ、当初かなり布教の成果を収めたことは確かである。しかし、結果的 にはキリスト教が著しく増加し定着したということはなく、また、「ノロ」、 「ユタ」などの信仰が駆逐されたわけでもなかった。結論的に言えば、文化部 の宗教政策は沖縄の「近代化」に対してそれほど影響を及ぼしたとは言えず、 また占領政策としても、かつてのアジアの植民地におけるような成果を収める 45) ことはできなかった。 ところで、この時期のもう一つの柱とも言うべき芸能・芸術の分野は、芸術 課の所管の下に新たな展開をみせる。まず「指導要項」についてみると、そこ でも例の「世界的」という観点が貫ぬかれており、広い視野から多様な芸術活 動を推進していくことが提唱されている。諮詞委員会時代から特に伝統芸能が -49-
沖縄大学可紀要第2号(1982年) 重視されてきたことは既に述べたとおりであるが、この要項では、「それ(琉 球の古典一引用者注)を保存し、尊重することは大切であるが、然し転換期に
ある時代思想の啓蒙を促すものとして不適当であるj6Lして、新しい時代の音
楽、美術演劇等を振興していく必要性を強調していることが注目される。「市 町村文化事業要項」においても、更にその趣旨と具体的な方針が示され、実際 に市町村段階で積極的な普及、奨励活動が進められていった。 その頃1946年から47年にかけて、「芸能連盟」、「美術家協会」、「文 芸家協会」、楽団や演劇集団、舞踊研究団体などが次々に設立され、芸術文化 活動は、戦後の混乱の中から堰を切ってほとばしり出た観を呈した。こうした 中で、文化部芸術課は、芸能団の市町村巡回公演をはじめ、歌謡集の出版と普 及活動、演劇会及び音楽会の開催、さらには「民衆,情操の陶治と民主沖縄の文化高揚のためjVL映画とラジオの復興を図るなど、目覚ましい活動を展開した。
当時このような芸術・文化活動がいかに重視されていたかということは、芸能 団員や美術家が厳しい審査を経て芸術課の正職員として採用されていたことか らも察することができる。 ところで、先の「指導要項」において、広く芸術運動を促がしていく観点か ら伝統芸能偏重を戒めているが、それは従来の文化部の政策が特に変更された ことを意味するものではなく、また占領政策としての規制が緩和されたという ことでもないであろう。軍政府は「デモクラシー」の国アメリカを沖縄の住民 に理解させることと同時に、米軍人にも沖縄文化の良さを紹介するという名目 の下に、依然として伝統芸能尊重政策をとり続け、演芸会などを盛んに開催さ せた。実際、このことによって文化部は多'忙を極め、職員の帰宅が夜中に及ぶこともまれではなかったと、当時の担当主事は述懐していざj)また、こうした
文化部の仕事に対して、「芝居文化部」とか、米軍のタイコ持ちだ、というような非難があったとも証言している:,尖の「指導要項」における「世界的芸術」
の振興方針には、少くともこの「非難」の声が反映されていたであろうし、ま -50-沖縄大学紀要第2号(1982年) た米軍としても、いつまでも「伝統芸能」に固執する必要はなく、盛り上がり つつある住民の多様な文化的要求に可能なかぎり応えていくことが占領政策上 も得策と考えられたであろう。しかし、軍政府はこの点でも決して規制をゆる めたわけではない。軍政府による検閲体制は、むしろ強化されていったのであ る。 沖縄民政府になってから、文化部は演劇・芸能の審査制度を設け、脚本の検 閲等も行ってきたが、これに対し、1948年2月に沖縄文芸家協会から「演 劇の取締撤廃要望」が出されている。それは、劇団の民主化や脚本の二重検閲(軍 と民間による)を廃して簡素化することなどを求めているもので、少くとも文面では検 閲の撤廃を要求してはいない。即ち要望の趣旨は、「思想一表現の自由を尊重し軍国 ●●●●●●●●●●●●●● 主義、超国家主義並びI'て封建主義思想の宣伝、米国占領目的を阻害するかのど ●●●●●●●●●●●●◎●③●●●● とき作品以外の脚本上演を自由ならしめるとともして、琉球古典戯曲。組踊その
他舞踊等は検閲の必要なからしめることiO(傍点引用者)というものであった。
傍点引用部分から分かるように、「思想表現の自由を尊重し」と言いつつ、軍 政府の目をかなり意識した表現をとっている。このことは、軍政府が演劇や出 版物の内容に厳しい検閲の目を光らせていたことを物語るものであり、また直 接軍政府に向けられてはいないが、軍による自由の抑圧に対し、沖縄の民衆の 間にも次第に「抵抗」の意識が芽生えてきたことを示している。1947年か ら48年にかけては、政党が次々と結成され、言論・出版活動も活発化してい く時期であり、そして地域においては青年会や婦人会が結成され、それぞれ様 々なかたちでの学習や運動を開始していく。こうした動きは、あるいは「村お こし」運動として、一つのうねりのように地域へ波及していった。このような 状況の中で、青年や婦人の「自由」や「自治」への意識も次第に培われていく のである。先の「要項」の中で提唱された「新沖縄の建設」は、この「村おこ し」の運動から始まったのであり、またそれを喚起した-つの活力源が、既に みた芸能・文化活動であったということも付け加えておかねばならない。ハン -51-沖縄大学紀要第2号(1982年)
ナ少佐以来の宣撫工作としての文化政策は、このように為政者の意図を超えて、
独自の展開をしていく矛盾を秘めていたのである。だからこそ為政者は、こうし
たことに歯止めをかける手だてを決して怠ることはないのである。例えば米軍
政府は、46年6月に石川市で開かれた沖縄再建に関する意見発表会で政府批判の発言があったとして、「集会及び集合に於ける言論指導に関する件」(警
察署長、市町村長、学校長宛)という通達を出し、その中で「民政府ノ政策ハ
軍政府ノ方針デアル、今日ハ絶対二民政府批判ノ話ヲスルコトハデキヌ。今後
ハ直二中止ヲ命ジ記録シテ報告シテ呉レj1と強い調子で警告している。こうし
た通達類は、48年にかけ次々に出されており、その内容は一様に、沖縄は日
本とは異なり統治の主体はあくまでも軍政府であり、帰属が確定するまでは自 52)治も民主主義も桁U限されるのは当然である、と念を押す趣旨のものであった。
このような米軍政府の動向の背景には、中国革命の成立、朝鮮戦争を前にした アジアの激動が反映していたことは明らかである。すなわち、アジアにおける沖縄の戦略的地位は増々高まり、軍事統治政策を一層強化していく必要にせま
られたのである。このような状況の中で、芸術・文化をはじめ各分野の活動が
下から盛り上がり、自由と自治を求める意識が高揚していくことは、それだけ
軍政府との矛盾対立が深まることを意味した。実際、その後間もなく基地建設
が強化され、強制土地接収が始まるなかで、50年代の「島ぐるみ闘争」が激 化していったことは周知のとおりである。 これまで、主に「要項」に基づいて文化部の中心的な社会教育施策の特徴を概観してきたのであるが、文化部の「事業」は実に多様であり、残された問題
も少なくない。そこで、これらの詳細については別の機会にゆずるとして、次に社会教育の活動の場としての「施設」と「団体」、特に青年団に関する問題を
補足し、本小論をひとまず結びたいと思う。この時期の文化部の社会教育活動は、未だ「馬小屋」といわれた学校や部落
-52-沖縄大学紀要第2号(1982年) の事務所などで行われていたというのが実I情である。ところで既にあげた「市 町村文化事業要項」では、あらゆる分野において「立派な琉球文化を新しく建 設してゆく」観点から、いくつかの「文化施設」を設置する必要と方針を提起 している。その中で特に注目されるのは公民館(附簡易図書館)である。それ は、500人を収容できる講堂、各種娯楽室、談話室、料理室及び食堂、更に 「郵便局、理髪所、薬局等も設置したいし、或いは自転車、ラジオ、農機具等
の実費修理所もあってほしいj3Lいう具合に、文字どおり総合的な文化センタ
ーを構想している。それは文化部独自の構想ではなく、戦後日本で初めて公民館の基本的考え方を示した「寺中構想j従基づいて起草されたものである。し
かしそこには、戦火で灰じんに帰した町や村に若者を引きつけ、「村おこし」 に立ち上がらせようとする切実な願いと夢が託されていたことが感じとれる。 文化部は、この公民館を公営として市町村に設置していく方針で臨んだが、財 政的裏付けは全くなく、その実現を勿論みてはいない。しかし、1950年代 半ば頃から現われる「部落(字)公民館」に素朴ではあるがその基本理念は受 け継がれ、部落の各種集会・行事、講習・学習活動、自治と生産、更には子ど もの遊び場及び学習所として、地域の実情に即した幅広い「社会教育」の機能を果 していくことになる。 上記の公民館の例でも分かるように、文化部は社会教育施設について構想を 提示したが、財政的な支えはなく、その期間中ほとんど実績を残していない。 たしかに、復帰前には部落公民館が全島で6百余を数えているが、それらは政 55) 府の援助によるものではなく、ほとんど地域住民が自前で建てたものである。 こうした施設の状況において、文化部の社会教育が団体中心の傾向になったの は当然の成り行きであった。このことは、社会教育の中心を担う教化課が主として「青年団、文化団体.軍政府所属牧師の進言を得て宗教団体の指導j蓬行
っていたということにも示されている。それは同時に、「教化」という名称の 使用からもわかるように、当時の社会教育は、団体中心の権力的な教え込み= -53-沖縄大学紀要第2号(1982年) 57)
教イヒという戦前の発想をとどめていたことを物語っている。ともあれ、この時
期は社会教育施設と言えるものはほとんどなく、しかも占領政策と戦前的な教化思想が混在した政策的枠組みの中で、各種の「教化団体」等を通じて多彩な
活動が展開されたのである。 そこで最後に、「団体」の中から特に青年会を選んで、その若干の経過と運 動の特質について述べておきたい。いつの時代でもそうであるが、とりわけ青年の動向は社会の関心の的であり、
その対策には常に大きな力が注がれる。ましてや、戦争で灰じんに帰した沖縄
にあって、精神的にも深く傷つき虚脱の状態に陥し入れられた青年をいかに立 ち上がらせ復興に向かわせるかということは、当時の人々の最大の関心事の一 つであったと言ってもよい。そしてまた、沖縄の青年がどのような方向に動き 出すかは、米軍当局にとっても注目するところであった。 軍政府は1945年12月14日の沖縄諮詞委員会に対し、「沖縄として男女青年団を組識する必要があるか否か、この問題は研究して次の会議で討議す
る。過去に青年団があったがその結果はよかったか悪かったか聞きたい。その組織は沖縄建設に必要かどうかj匙問いかけた。それに対し、委員会でも色々
と論議が交わされ、戦前軍国主義下の青年団のイメージから否定的な意見も出 されたが、一応文化部としては「各地区に於て自発的に組織する所ではそれで 59) よいことにしよう」(当山正堅文イヒ部長)という結論に達した。こうして文イヒ 部は、しばらくの間、講演会や演劇活動、体育競技会などで青年会とのかかわ りを持つが、組織問題には直接ふれることはなかった。積極的にかかわり出す のは、1948年4月以降、琉球成人教育課が設置されてからである(図2(1) 参照)。 さて、青年達は収容所からの移動を終えた各地域で、治安対策、荒地の耕作、家屋建設あるいは各種行事において、中心的な働き手でなければならなかった。
そこでは自然に集団的な力が心要となり、また青年を中心に村芝居などの演劇 -54-沖縄大学紀要第2号(1982年) ・芸能活動が盛んに催されるなかで相互の結びつきも深まり、まず部落単位の 青年会が次々に結成されるようになる。部落青年会のほとんどが46年6月頃 60) までに結成されたといわれている。勿論この頃はまだ正式の団体としては認め られておらず、1946年7月のニミッツ布告で言論、集会、結社の自由の制 限が一応解かれたことによって初めて公認されたのである。こうして、47年 にかけて急速に市町村青年会が結成され、更にその連合体である地区青年会の 結成へと進み、1948年12月に中央組織の「沖縄青年連合会」の結成をみ るに至っている。 しかし、青年会結成の経緯をみると、当初から様々な問題を含みながら発展 してきたことがわかる。特に初めの頃は、「初代会長のほとんどを市町村長か 学校長がやっていたため、青年たちの考え方とくいちが出たりして思うようにい 61) かず、一応は活発に推進していたものが、や力xて組織の弱体化の要素となった」 と言われているように、上からの教化的発想から組織運営がなされるという問 題もあった。しかし、やがて青年たちは青年会を自らの研修の場にしようと努 力するようになり、また「自主性」ということが論議されるなかで、「自主的 62) に学習態勢をつくりだし」、次第にこうした組織問題も解決していった。この ようにして、沖縄の青年団は初期の「村おこし」の中から地域再建と変革への 自覚を高め、米軍事支配下の様々な矛盾と対時していく方向を確立していくの である。 こうした姿勢は、次の沖縄青年連合会の結成宣言に集約的に表現されている。 即ち、「我等沖縄青年は、青年会に対する旧来の観念を打破して、綱領を体得 し堅固な信念をもって自主独立の立場から非民主的な反動勢力を根絶し、凡ゆ る部面に対して民主的革新を断行する」(1948年12月17日)。そして 更に、会則の2条(目的)で、「本会は会員相互の知徳の練磨と体位の向上を 図ると共に民主的各種の革新運動を通じ、文化の昂揚を推進し世界人としての 自覚を以て沖縄の興隆に寄与することを目的とする」と、その革新的な姿勢を -55-
沖縄大学紀要第2号(1982年) 明確に打ち出した。 ところがそれに対し、軍政府側は当然のように干渉してきたのである。軍政 府情報教育副部長ディーフェンダーファーは、先の「目的」条項にある「各種 の革新運動を通じ……」の文言について問い正し、「これは革命と同じように
とれるので、この条文から削除してほしいj3L指示してきた。それに対し#
縄青年連合会では総会を開いて論議し、結局、「青年運動は革新的でなければ ならないという結論をあくまで堅持し-中略一とうとうディーフェンダー ファー氏を説得、沖縄における青年運動の神髄を確立した。こうして米軍の言 うことは絶対的であった当時において、一歩もゆずらず堂々と自己を主張し、相手を納得させた沖縄青年連合会の態度は、県民から高く評価されたj4Lいう
ことである。 上記のことは1949年の出来事であり、ちょうどこの頃はアジアの激動を 反映して米軍事政策が一層強化され、沖縄が「暗黒時代」へ突入していく時期 であった。こうした状況の中で、しかも軍政府に直属した社会教育行政の枠の 中で、「社会教化」の団体である青年団が「村おこし」の運動から始まり、臆 境浄化・道義高揚運動」、「生活改善運動」、更に基地をめぐる士地闘争、復 帰運動へとかかわっていく軌跡は、社会教育政策と活動の内的矛盾を戦後沖縄 で初めて顕在化したものとして特筆されねばならない。それは、歴史的社会的 事象としての教育が内包する必然的な矛盾であり、常に問われ続けていく重要 な問題である。 おわりに 本小論の目的は、「文化部」の政策を中心に、戦後初期の社会教育の特質を 明らかにすることであった。一応書き終えて、果して所期の目的にどれほど近 づきえたか、いささか心もとない感を禁じえない。 実際に執筆にとりかかってみて、このテーマが、今の筆者にとっていかに身 -56-沖縄大学紀要第2号(1982年) に余るものであるかを痛く思い知らされた。アメリカの対沖縄占領政策そのも のが、未だ未知の部分を数多くはらんだ論争的なテーマであり、先ずそれが筆者 に一つの愈壁”を感じさせた。しかし、占領政策は当時のすべての営みを根本的に規 定する政治形態であり、その問題を避けて通ることはできない。そこで筆者は、若干 の研究者の論考を参考にしながら、敢えてI章にみるような稚拙な素描を試みた次 第である。そして、この占領政策が、どのような形で「社会教育」に反映され、 実際においてどのように展開されていくのかを追究しようと考えた。否、それ は、占領政策の枠の中で社会的教育がどのように“始動興していったのか- と言いかえるべきであろう。なぜなら、戦後初期の極度に混乱した状況におい て、体系的な社会教育などが未だ存在する余地はなかったからである。ある意 味では、「社会秩序の回復」にかかわるすべてが「社会教育」であったとも言. える。しかし、こうした混沌とした中でも米軍事占領は既成の事実であり、曲 りなりにもその政策の線に沿って「社会教育」が必要とされ、ある種の形をと って遂行されていく。筆者は、それを一言で「宣撫的文化政策」と名付けるこ とにした。それは、細部にわたってみれば語幣があるかもしれないが、少くと も初期の文化部に関しては妥当するものと考えている。こうした政策的な問題 に関しては、本小論においてもある程度深めて検討されている。しかし、政策 が実際に社会教育として具体化されていく過程については不明な点が多く、明 確なかたちで言及できなかったうらみがある。それは、「社会教育」に関する 米軍政府側の資料が、今のところほとんど見あたらないということにもよって おり、その面での調査は今後の重要な課題である。また、政策と住民の対応の 関係、即ち政策との矛盾関係を含めた社会教育活動の実態の詳細については、 解明すべき多くの問題が残されている。今後、聞き取りなど多方面からのアプ ローチで究明していかなければならない。 -57-
沖縄大学紀要第2号(1982年) 注 1.ここでは明確な時期区分を行ったわけではなく、沖縄戦後史で第一期といわれる ※ 期間(1945年から1949年頃まで)にほぼ相当する時期で、「文化部」カゴ続 いた期間の意である。 ※新崎盛暉『戦後沖縄史』(日本評論社)参照。 2.占領初期のアメリカの「民主改革」については、これまで筆者力俔たかぎりでは、 アメリカカ坂ファシズム民主主義国であるとの観点から、米国占領軍の日本におけ る「民主改革」に過大の評価が与えられているように思われる。その点は、第二次大 戦前のアメリカの国家としての本質が帝国主義国家であったことからすれば疑問と せざるをえない。したがって、教育の分野でよく言われる1950年代を境とする 「逆コース」論も、戦後初期のアメリカ民主主義を絶対化しているように恩われ 肯首しがたい。勿論極端なファシズムからの解放を結果としてもたらしたことは 確かであるが、問題は、それが真に日本の「民主化」につながる内容であったかと いうことであろう。 、3.大田昌秀「占領下の沖縄」(岩波講座「日本歴史」23巻、1979年、P327) なお、「占領」の問題に関しては、その他に思想の科学研究会編『日本占領軍』 (上・下)、徳間書店。岩波講座『目本歴史』22巻。大m昌秀「戦後改革と沖縄 の分舶(「世界」1979年4月号)など参照。 4.前掲『日本歴史』所収大田論文、P327~328. 5.同上P297~298. 6.宮城悦二郎「占領者の眼」、沖縄タイムス、1982年1月8日(連載)。 7.中野好夫編『戦後資料沖縄』1969年、日本評論社、P4. 8沖縄民政府知事官房発行「情細1948年6月、「琉球列島における統治の主 体」前掲「戦後賛料沖繩jP11より。 9.同上P10、「琉球の政府について」(軍政府) 10中野好夫・新崎翻琿『沖縄戦後史」1976年、岩波書店、P17(「本国政府の -58-
1111'細い』よ>MMH11,凶〉」(ルリトイツ|) 政策的袈付けをもたない-M世米11【の占価文配は、いオ)ば'''1接11'Ⅲ乢笹lJl1b式を《Lっ ていたか、同時にまた、きわめて場当り的でもあった」)。 11竹「ili栄治「対日占価政策の形成と腱開」岩波講廊「11本llMj22をノリillX、I〕54 121可Ib l3、その後身である城Iii1小学校の「戦磯教育発祥の地」という(iI1又には、1945年 5月7日開校とある。 14曽根{言一「石川学園のiidiiju.『琉球の文化」第5〉j、l974イト5)]、琉球文化 社P43. 15.同上、P43o 16.111]縄市町村奨会編|「地力「I治七1M記念,;Ml955イ1t、P42.ドイj川IljliM 昭和51年、P528. 17.1;城嗣久「11J価期の南西諸島における社会教育政策」、琉球入学撒育Lf:部紀'班第 22集、19781JもP177. 18前掲「石川Ilj誌」では1945年5月初旬に委員{Ijll度か設けM1犬とあり(1)528)、 8月に沖純諮拘委員会文化部力殻iiTさオIるまでのほほ3ケノjllll。 191)i褐|「地方「1治七1M41記念誌jP31o 201945年8月15日1Fの命令で各収容所から代表か招集さオ|「iilll細人IlX沸,1リ会」 が#燃され、20日に選挙によって15名の委員が進ばオL、正式に発足した。委Lj 長は志書屋孝信。諮iiリ委員会は米甑の諮問機関であったか「逐次執jij機関としての ’1ノ|補を見せるようになった」(前掲「地方自治七周年記念誌」、P40)。 21.第一lrliill1柵蹴`河委員会議録、1945年8月2911、liillLjl石ノll11jiiMP555o 221TI上。 23.1945年10月23日付で「移動iil画及び政策」が発表され.本絡的な移動が 開蜷1946年半ば頃までには大体一段落をつげている.12月には米1倣府か ら「沖縄行政機械改革要綱」が発表され、町村をできるだけ戦前の区域として'1)建 する方向が示されていそ。imLlI「地方自治七周年記念誌』等参照。 -59-