はじめ
に
本稿の目的は、朝鮮出兵時の奉公人 逃亡に関する五月三日付豊臣秀 吉 朱印状の年代比定であ る。 ( 1) 秀吉発給文書の年代比定は織豊期研 究における緊要な課題である。 本 年、永禄八(一五六五)年~天正一 一(一五八三)年までの発給と 判 断される秀吉発給文書を収録する『 豊臣秀吉文書集一』が刊行され た。 ( 2) そ の 前提 をな してい るの は、 三鬼清 一 郎 『 豊 臣 秀吉 文書 目録 』、 同 『豊臣秀吉文書目録(補遺1) 』、藤井 讓治『秀吉文書集成』である (以 下、 それ ぞれ 『目 録』 、『 補遺 』、 『 集 成』と 略 ) 。 ( 3) こ れ らに おい ても 年 代 未 詳 とさ れて いる 文書 は多 数あ り、 『豊 臣秀 吉文 書集 』の 編集 に携 わる 藤井氏 が 指 摘 す るよう に年 代比 定は喫緊の 課 題 と もな って い る。 ( 4) また 、 当 然ではあるが、秀吉発給文書の年代 比定は織豊期研究の一環として の 朝鮮出兵研究においても喫緊の課題 であり続けてきた。当該研究を 牽 引している中野等氏の秀吉朱印状の 分析を主とした研究によって、 そ の年代比定は格段に進展し た。 ( 5) し かし、依然として、年代未詳ある い は年代誤認のものが散見する。本稿 で検討の俎上にのせる五月三日 付 秀吉朱印状もまたしかりである。 この五月三日付秀吉朱印状は『目録 』では年代未詳とされている。 ま た、収録刊本等で提示された同朱印 状の年代は天正二〇(文禄元、 一 五九二)年・文禄二年・文禄三年・ 慶長三(一五九八)年の四説が あ る。さらに、最近では慶長二年とみ る新説も提示されている。問題 の 秀吉朱印状の年代に関しては五説が 存在するのであり、まさに諸説 紛々の 観を 呈し てい る。本 稿で は、 こ れ らの 諸説を 紹介 ・検 討し つつ 、 年 代比定を試みることにする。 一 問題の豊臣秀吉朱印状と年代に 関する諸説 まず 、『 目録 』の順に した がっ て、 問題 の五 月三 日付 豊 臣 秀吉 朱印 状 八 通の宛所の人名と同書で示された出 典を掲げ る。 ( 6)「在高
麗奉公人」に関する豊臣秀吉朱印状の
年代比定
津 野 倫 明
( 地域変動論コース) 一1―宗義智、 「宗 家朝鮮陣文書」 2―島津義弘、 「 島津家文書(一) 」 3―島津忠豊(豊久) 、 「永吉島津文 書三」 4―伊東祐兵、 「 伊東系譜」 5―鍋島直茂・鍋島勝茂(清茂) 、 「 鍋島文書四」 6―立花宗茂、 「 立花文書三」 7―松浦鎮信、 「 松浦文書四」 8―小早川秀包、 「早大荻野研究室所蔵文書五」 次にそれぞれの翻刻を掲げ、収録刊 本等で提示された年代を確認し て ゆこう。 史料A―1 各在高 麗 奉公 人上 下共、 走 日本 へ於 相 越 者 、聞付 次第 成敗可 仕候、 自 然拘置、何かと違乱之輩有之者、可 致言上候、急度可被加御成 敗 候、猶浅野 弾 正少弼 ( 長 政 ) ・稲 葉 兵庫 頭 ( 重 通 ) 可 申候也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 羽 柴對馬侍従 ( 宗 義 智 ) との へ 本稿では、 大韓民国国史 編纂委員会 所 蔵の写真によ る翻刻を掲げ た。 ( 7) つ とにこの文書の翻刻を掲載した武田 勝蔵氏の論考では文禄三年のも の と みな され てい る。 ( 8) また、 『朝 鮮史料 叢 刊 第 十 九宗家 朝鮮 陣文 書』に も 翻刻が掲載されており、天正二〇( 文禄元)年に比定されてい る。 ( 9) 史料A―2 各 在高麗 奉行 人 (ママ ) 之 上下共、走日本へ 於相越者、聞付次 第成敗可仕 候 、自然拘置、何角違乱之輩有之者、 可致言上候、急度可被加御 成 敗候、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫頭 可申候也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 羽 柴薩摩侍従 ( 島 津 義 弘 ) との へ 本稿 では 、『 大日本古 文書 島津 家文 書』 の翻 刻を 掲げ た 。 同書 では 文 禄三年 に比 定さ れてい る。 ( 10) また、 『鹿児 島県 史 料 旧記雑 録後 編二 』にも 翻刻が 掲載 され てお り、 「文 禄二 年歟 」と する 「朱 カキ 」 が 付さ れて い る。 ( 11) な お 、 同 書で は「 奉行 人 (ママ ) 」 の 部 分は「 奉公人 」と翻 刻されて い る 。 史料A―3 各在高 麗奉公 人上下 共、走 日本へ 於相 越 者、聞 付次第 成敗可 仕候、 自 然拘置、何かと違乱之輩有之者、可 致言上候、急度可被加御成 敗 候、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫可申 候也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 島津 又七 郎 ( 忠 豊 ) との へ 本稿 では 、『 鹿児島県 史料 旧記 雑録 拾遺 家わ け九 』所 収 「 永吉 島津 家 文書」 の翻 刻を 掲げた 。同 書で は「文禄三 年カ 」とさ れて い る。 ( 12) また 、 『鹿児 島県 史料 旧記 雑録 後編 二』 にも翻刻 が掲 載さ れて おり 、「 文禄 二 年 歟」とする「朱カキ」が付されてい る。 ( 13) 史料A―4 各 在高麗奉公人之上下共、走日本へ於 相越者、聞付次第成敗可仕 候 、自然拘置、何角違乱之輩有之者、 可致言上候、急度可被加御 成 敗候、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫頭 可申候也、 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 二
五月三日 御 秀 吉 朱印 伊 藤民部大輔 ( 伊 東 祐 兵 ) との へ 本稿 で は 、『 宮 崎県史 史料 編近 世4 』所 収「 伊東 祐帰 氏 旧 蔵文 書」 の 翻 刻 を掲 げた 。同 書 で は 文 禄 三 年 に 比 定 され てい る。 ( 14) また、 『日 向古文 書 集成』にも翻刻が掲載されており、 同書では「文禄三年カ」とされ てい る。 ( 15) 史料A―5 各 在高麗奉公人々上下共、走日本へ於 相越者、聞付次第成敗可仕 候 、若拘置、何角違乱之輩有之者、可 致言上、急度可被加御成敗 候 、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫可申候 也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 鍋島 加賀 守 ( 直 茂 ) との へ 同 信濃 守 ( 勝 茂 ) との へ 本稿 で は 、『 佐 賀県史 料集 成古 文書 編第 三巻 』所 収「 鍋 島 家文 書」 の 翻 刻を掲げた。同書では「慶長三年カ 」とされてい る。 ( 16) 史料A―6 各在高 麗 奉公 人上 下共、 走 日本 へ於 相 越 者 、聞付 次第 成敗可 仕候、 自 然拘置、何かと違乱之輩有之者、可 致言上候、急度可被加御成 敗 候、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫可申 候也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 羽 柴柳川侍従 ( 立 花 宗 茂 ) との へ 本稿では、 『福岡 県史近世史料編柳川藩初期(上) 』所収「立花家文 書 」の翻刻を掲げた。同書には年代に かかわる記載はな い。 ( 17) 史料A―7 各 在高麗奉公人上下共、日本へ於相越 者、聞付次第成敗可仕候、 自 然拘置、何角違乱之輩有之者、可致 言上候、急度可被加御成敗 候 、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫可申候 也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 松浦 刑 部卿法印 ( 鎮 信 ) 本稿 では 、『 平戸松浦 家資 料』 所収 「松 浦文 書」 の翻 刻 を 掲げ た。 同 書 によれば、包紙には「到来 文 禄三年 五 ノ三日 」と記さ れてい る。 ( 18) 史料A―8 各在高 麗奉公 人上下 共、走 日本へ 於相 越 者、聞 付次第 成敗可 仕候、 自 然拘置、何かと違乱之輩有之者、可 致言上候、急度可被加御成 敗 候、猶浅野弾正少弼・稲葉兵庫頭可 申候也、 五月三日 ○(秀吉朱印) 羽 柴久留米侍従 ( 小 早 川 秀 包 ) との へ 本稿 では 、『 早稲田大 学所 蔵荻 野研 究室 収集 文書 下巻 』 の 翻刻 を掲 げ た 。同書では文禄元(天正二〇)年に 比定されてい る。 ( 19) ま た、同書に は 「「 松 浦 家 蔵 御 内 書 写 」 参 照 (『豊公 遺文 』三 五二 ―三 頁) 」と する附 記があ る。 『豊 公遺文』 には 宛所 を欠 く、 史料 A― 3・ 6 と 同文 の秀 吉 朱 印状が掲載されており、天正二〇年 に比定されてい る。 ( 20) 史料A―1~8の年代については天 正二〇(文禄元)年説・文禄二 年 説・文禄三年説・慶長三年説が存在 してきたわけだが、後述のごと 高 知 大 学人文 学部人 間文 化学科 ・人文 科学 研究 第 21号 三
く 、最近曽根勇二氏がA―8を慶長二 年とみる新説を提示している。 次 章以下では、これらの諸説を検討し つつ、年代を限定・確定してゆ き たい。 二 副状による年代の限定 問 題の 秀吉 朱印 状の 年 代 に 関 し て は 、 前 述 の 五 説が 存在 する 。ま ず、 文 禄 三年 説に つい て私 見を 述べ てお き た い。 『平 戸松 浦家 資料 』に よれ ば、史料A―7の包紙 には「到来 文 禄三年 五 ノ三日 」と ある 。そのためであろう、 同 書では年代はとくに示されていない 。この包紙との関連で注目され る の は 、『 史 料 綜 覧 巻 十 三 』 の 文禄三 年五 月三 日条で ある 。同 条に は「秀 吉 、肥前平戸ノ松 浦宗静 鎮 信 ヲシテ、 士卒 ノ朝鮮ヨリ逃 レ帰リ、或ハ之ヲ 蔵 匿 スル 者ヲ 捕ヘ 、殺 サ シ ム 」 と あ り 、 典 拠 史 料 とし て「 松浦 家文 書」 「 松浦家世伝」があがってい る。 ( 21) お そらく、包紙の所見に依拠して文 禄 三年のものと判断されたのであろう 。こうしてみると、多数派を占 め ている文禄三年説はしかるべき根拠 を有しているかのようにも思わ れ る。しかし、後述のごとく、文禄三 年説は成立しえず、史料A―7 の 包紙の記載は誤りと判断せざるをえ ない。 次に孤高の慶長三年説について私見 を述べておきたい。史料A―5 は 『 佐賀 県史 料集 成古 文 書 編 第 三 巻 』 で は 慶 長 三 年に 比定 され てお り、 そ の 根拠 は「 直茂 公譜 考補 」と 考え ら れ る。 「直 茂公 譜考 補」 では 慶長 三 年の鍋島直茂の行動に関連する文書 として史料A―5の写が掲載さ れて い る。 ( 22) お そらく、この所見が慶長三年説の根 拠となっているので あ ろう。議論を先取りすれば、本稿で はこの慶長三年説の妥当性を認 め ることになる。 さて、曽根勇二氏は最近の論考で慶 長二年とみる説を提示した。こ の 論考において曽根氏が着眼した史料 によって、多数派の文禄三年説 だ けでなく天正二〇(文禄元)年説・ 文禄二年説も退けられる。その 重 要な史料は、次の五月三日付浅野長 政・稲葉重通連署状である。 史料B 為 御意申入候、各在高麗奉公人下々 、自然退屈候而走候者も可 有 之候条、左様之族、聞付次第可有成 敗候、若拘置、何角違乱之 輩 於有之者、可被申上候、急度可被 仰付旨、以御朱印被 仰出 候 、其御心得尤存候、恐惶謹言、 浅野弾正少弼 五月三日 長政(花 押) 稲葉兵庫頭 重通(花 押) 羽 柴薩摩侍従 ( 島 津 義 弘 ) 殿 御陣所 この史料Bを収録する『大日本古文 書島津家文書』では年代は未詳 とされ てい る。 ( 23) また、 『 鹿 児 島 県 史 料旧 記雑 録後 編二』 にも 掲載 されて お り 、 「文禄二年歟 」とする「朱カキ」が付されてい る。 ( 24) この史料B と前掲の史料 A―8に関 す る曽根氏の見 解を紹介しよ う。 ( 25) 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 四
これ(本稿の史料A―8に該当する 秀吉朱印状―津野註)は、 朝鮮出 兵 の逃 亡兵 に対す る禁止 令で あ り 、 朝鮮の 日本 軍にお いて、 日 本へ逃亡する者が続出したことに対 し、秀吉は報告があれば、 す ぐさま必ず厳罰に処すと宣言する。 さらにもし逮捕した者が不 服 を言うようならば、報告することも 指示し、これも必ず厳罰に す ることも通達した。朝鮮出兵の緒戦 から、このような法令は頻 繁 に出されたが、出された時期が問題 となる。これには本状の副 書 とも言うべき内容のもの( 『島津家文書』一七五一号) があり、 そ れは以下である。 ( 本稿の史料Bを掲載―津野註) 両書の宛所は、小早川秀包(隆景の 弟)と島津義弘に異なって は いるが、 内容から すると、 両書が直 書(秀吉 朱印状) と副書( 浅 野 長政・稲葉重通連署状)の関係にあ ることが明白である。むし ろ 小早川氏と島津氏のいずれにも出さ れたことこそが、この秀吉 の 意思は「法令」となって、数多くの 在陣大名に出されたことも 確 認できるが、ここでは浅野が「長政 」と記したことに注目され たい 。 表 (曽 根論 考 掲 載 「 表 : 五奉 行連 署 状 ( 一 覧 )」 ― 津野 註) で も 確 認できるように、天正・文禄年間、 浅野は「長吉」と署名して おり、 「 長 政 」と 称 す るのは 慶長 年間 からで あ る 。宛所 の 島 津義弘 が 「薩摩侍従」と称するようになるの もこの頃である。したがっ て 両書とも慶長二年と比定するのが自 然である。また慶長二年に 出 された逃亡禁止 令には、 「今度 、高麗へ被差遣付 而、其 方家来共 、 自 然逐電之族、於在之者、追先々可加 成敗候、相拘候者、共ニ可 為曲事 候 条 、聞立 可言 上候也 」( 久留 島文書 ・菅 文書・ 燈 心 文庫所 蔵 文書)との事例があり、いずれも「 慶長弐 二月廿日」と明記 されて いる。 ここ でも「 家来」 が逃 亡 す る ことも 想定 されて おり、 両 書にある「上下共」の表現と一致す る。 (後略) まず、史料A―1~8の文意につい て私見を述べておきたい。曽根 氏は、 「朝 鮮出 兵の逃亡 兵に 対す る禁 止令 であ り、 朝鮮 の 日 本軍 にお い て 、日本へ逃亡する者が続出したこと に対し、秀吉は報告があれば、 す ぐさま必ず厳罰に処すと宣言する」 と述べている。確かに、秀吉に は 朝鮮在陣中の奉公人の逃亡を禁止す る意図があり、その前提として 逃亡が 続出 して いた とみ てよ い。 しかし、 「聞 付次 第成 敗 可 仕候 」の 部 分はと くに 「可 仕」 に注 意す るな らば、 「 聞 き つ け 次 第 に 処 罰 せ よ 」 と い う文意であろう。つまり、秀吉は宛 所の諸将に処罰するよう命じた のであ る。 また 、曽 根氏は 「も し逮 捕 し た者 が不服 を言 うよ うな らば 」 と 述べているが、 「 拘置」は逃亡した奉公人を匿うことで あり、 「何か と違乱 之輩 」は 匿っ た奉公 人の 引き 渡 し に応 じない 者の こと であ ろう 。 そ して、秀吉はそのような者がいれば 、秀吉に報告するよう命じ、必 ず 秀吉自身が処罰することを伝えたの である。 文意 の理 解に 関し ては 異論 があ るものの 、「 朝鮮 出兵 の 緒 戦か ら、 こ の ような法令は頻繁に出された」のは 指摘どおりで、まさに「出され た 時期が問題となる」のであり、かか る問題意識のもとで史料Bの存 高 知 大 学人文 学部人 間文 化学科 ・人文 科学 研究 第 21号 五
在 に着眼した点は曽根氏の卓見である 。 曽 根氏 は史 料A ―8 と史 料B に該 当 す る文 書に 関し て、 「両 書の 宛所 は 、小早川秀包(隆景の弟)と島津義 弘に異なってはいるが、内容か ら すると、両書が直書(秀吉朱印状) と副書(浅野長政・稲葉重通連 署 状)の関係にあることが明白である 」と述べている。なにゆえ、史 料 Bと同じく『大日本古文書島津家文 書』に収録され、宛所も島津義 弘 になっている史料A―2ではなくA ―8との関係を重視したのかは 不 明であるが、右の曽根氏の指摘と史 料A―2の内容や末尾の記載か ら して、この史料Bを史料A―2の副 状とみることに議論の余地はあ る まい。おそらくは、A―1・3~8 にも史料Bと同内容の連署状が 副 えられていたはずである。 ここで史料Bの連署者に着目してみ よう。まず、浅野長政(長吉) で あるが、史料Bには「長政」とある 。長政の「長吉」から「長政」 へ の改名は秀吉死後とみる説があっ た。 ( 26) し かし、相田文三氏の研究に よれば 、「 長 吉 」 が最後 に確 認さ れる のは 文禄 五( 慶長 元 ) 年二 月二 五 日 であり、一方「長政」の初見は慶長 二年四月一八日であ る。 ( 27) また 、 も う一人の連署者稲葉重通の死去は慶 長三年一〇月三日であ り、 ( 28) 秀吉 の それは慶長三年八月一八日である。 よって、史料Bの年代の上限は 文 禄五年、下限は慶長三年となる。 次に史料Bの宛所に着目してみよう 。曽根氏は「島津義弘が「薩摩 侍 従」と称するようになるのもこの頃 である」と述べているが、義弘 の 任侍従は天正一六年六月一五日であ り、 ( 29) 同 年八月五日付秀吉判物の 宛 所にも「羽柴薩摩侍従」とあ る。 ( 30) こ の事実は慶長二年説の瑕疵とは ならな いも のの 、慶 長二年 説の 根拠 と し ては 十分で はな い。 ここ では 、 義 弘の行動に注目したい。史料Bの脇 付は「御陣所」なので、義弘が 朝 鮮在陣中であることがわかる。義弘 は文禄四年五月一四日に朝鮮を 発 って帰国の途についており、朝鮮に 再渡海して島津勢在番の加徳倭 城 へ到着したのは慶長二年四月三〇日 であっ た。 ( 31) よ って、史料Bが文 禄 五年のものである可能性はない。 以上の考察により、史料Bそして史 料A―1~8の年代は慶長二年 も しくは慶長三年に限定される。 三 年代の確定 前章における考察により、史料B・ 史料A―1~8の年代は慶長二 年 もしくは慶長三年に限定された。本 章ではこの二説のうちどちらが 妥 当なのかを検討し、年代を確定して ゆく。 まず、曽根氏が史料A―8・史料B との関連性を指摘した「慶長二 年 に出された逃亡禁止令」に着目して みよう。 史料C 今度高 麗へ被 差遣候 付而、 其方家 来者 共 、自然 逐電之 族於在 之者、 先 々を追、可加成敗候、相拘候者共ニ 、可為曲事候条、聞立可言 上 候也、 慶長弐 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 六
二月廿日 ○(秀吉朱印) 来島 出雲 守 ( 通 総 ) との へ 史 料C は『 今治 郷土 史資 料編 古代 ・ 中 世( 第二 巻) 』所 収「 久留 島家 文 書」の秀吉朱印状である が、 ( 32) 『 目録』 ・『補遺』 ・『集成』によれば、 藤堂 高虎 宛、 ( 33) 加藤 嘉明 宛、 ( 34) 菅達 長 宛、 ( 35) 太田 一 吉 宛の ( 36) ほ ぼ 同 文の秀 吉朱 印 状 もある。 これらについて曽根氏は「いずれも 「慶長弐 二月廿日」と明記さ れ ている。ここでも「家来」が逃亡す ることも想定されており、両書 に ある「上下共」の表現と一致する」 と関連性を指摘している。この 関 連性は慶長二年説を補強しているよ うに思われる。しかし、曽根氏 が 「朝鮮出兵の緒戦から、このような 法令は頻繁に出された」と述べ る ように逃亡に関する秀吉朱印状は以 前から発給されており、史料C の ような秀吉朱印状は慶長二年説の瑕 疵とはならないものの、慶長三 年 説を退ける根拠にはならない。 また、宛所のメンバーも気になると ころである。慶長二年、秀吉は 慶 長の役を開始するにあたり、部隊編 成・在番体制とともに軍目付任 命 を渡海諸将に告知し た。 ( 37) こ の時、六番隊に土佐の長宗我部元親 、伊 予 の来島通総・藤堂高虎・加藤嘉明・ 池田秀雄、豊後の中川秀成、淡 路 の菅達長が編成されていた。これら のうち「四国衆」は淡路の菅勢 と ともに必要に応じて「船手」つまり 水軍に編成されることになって お り、その召 集権は藤堂高 虎・加藤嘉 明 ・脇坂安治に 付与されてい た。 ( 38) ま た、七名の軍目付が任命されており 、そのうち太田一吉は釜山倭城 在 番の小早川秀秋の「御目付」とされ てい た。 ( 39) 史料Cの受給者のうち来島通総・藤 堂高虎・加藤嘉明・菅達長はい ずれも 六番 隊に 編成 されて おり 、ま た 水 軍に 編成さ れう る諸 将で ある 。 あ るいは秀吉は水軍の軍紀保持を意図 していたのかもしれない。太田 一 吉については、軍目付ゆえに命令が 通達されたのではなかろうか。 史 料Cと水軍との関係については後考 をまつことにし、ここでは史料 C の受給者がA―1~8の受給者とは まったく一致しない点に注目し た い。この点からすると、やはり、史 料Cのような秀吉朱印状は慶長 二 年説の瑕疵とはならないものの、慶 長三年説を退ける根拠にはなる まい 。 以下では、視点をかえて、A―1~ 8の受給者の動向について考え て みたい。文禄五(慶長元)年九月に 秀吉は再出兵を決定していたも の の、主力である西国諸大名が本格的 に渡海するのは慶長二年四月か ら 七月にかけてであ る。 ( 40) 前 述のごとく島津義弘は再渡海して加 徳倭城 へ 慶長二年四月三〇日に到着しており 、この行動は慶長二年説とは矛 盾 しない。しかし、鍋島直茂の行動は 慶長二年説とは相容れないよう で ある。 文禄の役後半から慶長の役にかけて の直茂の行動を追ってみよ う。 ( 41) 直 茂は文禄二年から金海竹島倭城に在 番していたが、慶長二年正月一 三 日に子息勝茂が同倭城に到着した。 直茂は交代するかたちで正月中 に は帰国の途につき、慶長二年七月に 再渡海したと考えられている。 こ うした直茂の行動をふまえると、朝 鮮在陣を前提とする直茂・勝茂 高 知 大 学人文 学部人 間文 化学科 ・人文 科学 研究 第 21号 七
宛 の史料A―5が慶長二年に発給され たとは考えにくい。ただし、秀 吉 が直茂再渡海の時期を義弘のそれと 同時期と想定して発給した可能 性 もあろう。そこで、かかる想定の実 否を検討してゆこう。 じつは、右のような直茂の行動を左 右していたのは、秀吉の命令で あ った。 史料D 就 御普請、鍬三百丁、持籠三百、縄五 千把并鶴弐進上候、寔遠路 念 を入到来、別而被思召悦候、 永々其 地在番候間、為替 信濃 守 (鍋島 勝茂 ) 被 遣 候、参着次第、早々令帰朝、用所等 申付、御目見をも可仕候、 久不被成御 覧候条、 無心元被 思食、帰朝之儀被 仰出候、 猶増田 右衛 門 ( 長 盛 ) 尉 可申候也、 十月廿八日 ○(秀吉朱印) 鍋島 加賀 守 ( 直 茂 ) との へ これは竹島倭城在番中の直茂に宛て られた秀吉朱印状であ り、 ( 42) 年代 は 文禄五(慶長元)年に比定しう る。 ( 43) こ のように秀吉は勝茂との在番 交 代を直茂に命じていたのであるが、 注目したいのは「御目見をも可 仕 候、久不被成御覧候条、無心元被思 食、帰朝之儀被仰出候」と述べ て いることである。秀吉は直茂にしば らく会っておらず、そのため帰 朝 を 命じ たの であ り、 「御 目見 」を する よう 命じ てい る。 つま り、 直茂 は 帰国後は秀吉に謁見する予定だった のである。帰国が実現したのは 慶 長二年正月のことであり、直茂が国 元で「用所等申付」けたのち上 方 に向かったとすれば、再渡海前に謁 見しえたであろう。 直茂の謁見にかかわる記述が「直茂 公譜考補」にあり、慶長二年四 月 から五月にかけて直茂は大坂あるい は伏見にいたと記されてい る。 ( 44) 同 書にはこの 記述に関連し て次のよう な 直茂書状写が 掲げられてい る。 ( 45) 史料E 昨 六日、御前江被召出、 上意辱仰出 ニ而、御腰物并御めし御座 候 御道服、御手次ニ拝領させられ、銀 子五十枚被下、 秀頼様被 渡 御目、是又御めしの御服二ツ拝領 候、初而見上申、一段見事 之 殿様驚目候、其後御手前ニ而御茶被 下、忝御諚共中々不得申述 候 、各御 堪忍之所 ニ而播眉 目申候、 可 為 御 祝と早々 申入候、 土出 雲 (土肥 出雲 守) 于 今存命候ハヽ、此由御聞せ悦せらる へく候、頓而可被下御暇之 由 候、雖然 於罷成者 、数寄御 成可申か と、各御 談合申計 候、猶追 々 可 申遣候、恐惶謹言、 卯月七日 直 加賀守 茂 御判 豊 州 (鍋島 信房 ) 様 人々御中 この史料Eは直茂が兄の鍋島豊前守 信房(房重)に送付した書状の 写 である。誤写などの誤りがあると考 えられ、文意をつかみかねる部 分 もあるが、直茂が「昨六日」すなわ ち四月六日に秀吉・秀頼に謁見 したこ とを 報じ てい るの は確 かで ある。 「 直 茂 公 譜 考 補 」 に は 信 憑 性 に 欠 ける記述も存在するが、所収文書は 正文・写が多数確認されるので 依 拠しても大過ないと考えられる。し かし、史料Eが無年号文書であ る 以上、謁見の年については吟味する 必要があろう。 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 八
福田千鶴氏の研究によれば、秀頼の 「拾」から「秀頼」への改名は 文 禄五(慶長元)年閏七月一五日から 同月一九日までの間と判断され る。 ( 46) ま た、秀吉の死去は慶長三年八月一八 日である。よって、四月六 日に秀 吉 ・「 秀 頼 」の両 人に 謁見 しう る年 は慶 長二 年も し く は慶 長三 年 に 限定される。直茂の一時帰国と再渡 海の時期、秀吉の直茂に対する 謁 見の命令、これらを勘案するならば 、謁見が実現したのは両年のう ち 慶 長二 年の こと と判 断す べき であ ろ う 。な お、 「直 茂公 譜考 補」 の記 述 は四月六日の謁見の場が伏見と大坂 のいずれであったのか判然とし な い。藤井讓治氏の研究によれば、秀 吉は慶長二年四月四日に伏見を 発 ち大坂に向かっており、同月一六日 には伏見に戻っていたようであ る。 ( 47) ま た、福田氏の研究によれば、秀頼は 文禄五(慶長元)年一一月 一 八日から慶長二年五月一四日までは 大坂にい た。 ( 48) こ のような両人の 居 所からすると謁見の場は大坂であっ たとみなされる。 大坂における秀吉・秀頼との謁見や 再渡海の時期からすると、直茂 は 「直茂公譜考補」が記すように慶長 二年四月から五月にかけて大坂 あ るいは伏見にいたと考えてよかろう 。この謁見前後の直茂の行動を ふ まえるならば、秀吉が直茂は慶長二 年五月三日には再渡海している と 想定したとは考えられない。よって 、直茂ら在陣諸将宛の史料A― 1 ~8の年代は慶長二年ではなく、慶 長三年に比定すべきであろう。 次に、史料A―1~8の年代を慶長 三年に比定した場合に宛所の諸 将 の行動と矛盾が生じないか検証して おきたい。慶長の役における戦 局 のターニングポイントは、慶長二年 一二月二二日から翌年正月四日 に わたる蔚山の戦いであっ た。 ( 49) 籠 城部隊が凄惨をきわめたこの戦いを 契 機として在陣諸将の間に消極性が生 じ、宇喜多秀家ら諸将は戦線縮 小 策をたてて正月二六日付連署状で秀 吉に上申し た。 ( 50) こ の上申は戦線 維 持を命じていた秀吉の逆鱗に触れた 。ところが、実際には、秀吉の 命 令とも戦線縮小策とも異なる状況が 生じ、在番体制に関する秀吉自 身 の命令もたびたび変更されるように な る。 ( 51) そ のため、慶長三年五月 三 日における史料A―1~8の受給者 すべての居所を特定するのはか な り難しい。そこで、朝鮮南部と上方 との間の通信に要する日数が春 夏 期でおよそ四〇~五〇日であった点 も考慮しつ つ、 ( 52) 直 茂を含む史料 A―1 ~8 の受 給者 たちの 朝鮮 在陣 を 確 認す ること によ って 検証 する 。 史料F 其 表為見廻、徳永 式 部卿法印 ( 寿 昌 ) ・宮 木 長次 (豊盛 ) 両 人被差遣候、長々在番 辛 労之至候、仍道服袷被遣之候、猶奉 行衆・年寄共方より可申候 也、 八月廿五日 ○(秀吉朱印) 羽 柴薩摩侍従 ( 島 津 義 弘 ) との へ この史料Fは八月二五日付島津義弘 宛秀吉朱印状であ る。 ( 53) そ の年代 は 徳永寿昌・宮木豊盛の両人が使者と なっていること、末尾に「奉行 衆 ・年寄共方より可申候也」とあるこ と、これらからも明らかなよう に 慶長三年であ る。 ( 54) こ の朱印状は同年八月一八日の秀吉の 死を秘匿し つつ、 「長 々在 番辛労之 至候 」と の文 言が 示す よう に在 陣 諸 将に 対し て 発 給され たので あり、 ほぼ同 文の宗 義 智 宛、 ( 55) 島津 忠豊 宛、 ( 56) 伊 東祐兵 宛、 ( 57) 高 知 大 学人文 学部人 間文 化学科 ・人文 科学 研究 第 21号 九
鍋 島直茂 宛、 ( 58) 立 花宗茂 宛、 ( 59) 松 浦鎮信 宛の ( 60) 朱 印状もある。よって、史料 A ―1~8の宛所のメンバー九名の う ち宗義智・島津義弘・島津忠豊・ 伊 東祐兵・鍋島直茂・立花宗茂・松浦 鎮信の七名が慶長三年五月三日 の 時点でも在番を継続していた―そう 日本でも認識されていた―と判 断 してよい。残りの鍋島勝茂・小早川 秀包の両名に関しては、一月ほ ど 前の状況をみて、朝鮮在陣を確認す ることにしよう。 史料G 其表之 儀 、普 請以 下丈夫 ニ出来 之由 、 被 聞 召届候 、置 兵粮等 之事、 最 前被仰出候、博多より取寄候哉、入 念蔵ニ可詰置候、将又此程 少 雖御煩敷候、被成御快気候間、不可 有気遣候也、 七月十七日 ○(秀吉朱印) 羽柴薩摩侍従とのへ この史料Gは七月一七日付島津義弘 宛朱印状であ る。 ( 61) そ の年代は博 多 からの「置兵粮」の輸送に関する指 示や「将又此程少雖御煩敷候、 被 成御快気候間」という秀吉の体調な どから、慶長三年のものと断定 しう る。 ( 62) こ の朱印状は「普請以下丈夫ニ出来之 由、被聞召届候」との 文 言が示すように在陣諸将に対して発 給されたのであり、ほぼ同文の 島 津忠豊 宛、 ( 63) 伊 東祐兵 宛、 ( 64) 鍋 島直茂 ・同勝茂 宛、 ( 65) 小 早川秀包・立花宗 茂 ・筑紫広門・高橋直次 宛の ( 66) 朱 印状もある。よって、史料A―1~ 8 の 宛所のメンバー九名のうち島津義弘 ・島津忠豊・伊東祐兵・鍋島直 茂 ・立花宗茂、そして鍋島勝茂・小早 川秀包が慶長三年五月三日の時 点 でも朝鮮在陣中であった―そう日本 でも認識されていた―と判断し て よい。 慶長三年の八月二五日付朱印状・七 月一七日付朱印状の所見からす る と、史料A―1~8の宛所のメンバ ーがいずれも慶長三年五月三日 の 時点で朝鮮に在陣していたことはま ちがいなく、史料A―1~8の 年 代を慶長三年に比定した場合には宛 所の諸将の行動と矛盾すること は ない。こうした検証の結果もふまえ ると、問題の五月三日付朱印状 の 年代は慶長三年に比定すべきであろ う。 おわりに 本稿では、朝鮮出兵時の奉公人逃亡 に関する五月三日付秀吉朱印状 の 年代比定を目的とした。当該朱印状 の年代に関しては天正二〇(文 禄 元)年・文禄二年・文禄三年・慶長 二年・慶長三年とする五説が存 在した もの の、 『佐賀県 史料 集成 古文 書編 第三 巻』 で提 示 さ れて いた 慶 長 三年説を妥当とする結論をえた。こ れにより所期の目的は達成した わ けだが、この比定を前提として若干 の私見を述べておきたい。 秀吉は、慶長三年五月二日に軍目付 の福原長堯・垣見一直・熊谷直 盛 ・太田一吉と伏見で対面 し、 ( 67) 翌 五月三日には長堯・一直・直盛の三 名 から報告をうけ る。 ( 68) 蔚 山の戦いの戦況とこの戦いを契機と して浮上 し た戦線縮小策に関する報告がなされ 、これにもとづいて秀吉は賞罰 を 決した。蔚山の戦いにおける消極性 から「臆病者」と判断された蜂 須 賀家政・黒田長政の両人は戦線縮小 策の「興行人」とみなされ、譴 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 一〇
責 の対象となった。また、戦線縮小 策 に同意した早川長政・竹中隆重・ 毛 利 友重 らは 軍目 付と いう 立場 が問 題 視 され 、「 第一 之曲 者」 とみ なさ れ た。 ( 69) 蔚 山の戦いをターニングポイントとし 、諸将の戦意低下が顕現 す るようになったのである。ところが 、秀吉は慶長三年五月下旬の段 階でも 、 翌 年 の 大規模 な派 兵計 画を堅持し て い たので あ り、 ( 70) それ ゆ え 、 軍 紀保持のために諸将に対する厳しい 姿勢を示したのである。 諸将配下の奉公人の戦意も低下し、 彼らの日本への逃亡が頻発して い たと考えられる。その現状は五月三 日の軍目付の報告でも秀吉の耳 に 入ったであろう。そこで、秀吉は「 在高麗奉公人」の逃亡を取り締 ま る命令を五月三日付朱印状で在陣諸 将に下したのであろう。この期 に およんでもなお戦場朝鮮を「高麗」 などと呼び、三度目の大規模派 兵 を 目論 む戦 意満 々の 秀吉 。一 方、 戦 場 に「 退屈 」( 史料 B) して 「日 本 」 への 決死 の逃 避行 を試 みる 戦意 喪 失 の「 在高 麗奉 公人 」。 本稿 で年 代 を比定した慶長三年の五月三日付秀 吉朱印状は、この両者の戦況に 対 する認識の懸隔を具現しているとい えよう。 本稿は瑣末な事実を明らかにしたに 過ぎないかもしれない。しかし な がら、秀吉発給文書の年代比定を喫 緊の課題としている朝鮮出兵研 究 ひいては織豊期研究にわずかなりと も裨益するところありと考え、 本 稿を執筆した次第である。
註
( 1) 豊 臣秀 吉の朝 鮮出兵 に関し ては様 々 な呼称 が用い られて いるが、 本 稿では一般的な呼称である朝鮮出兵 あるいは文禄の役・慶長の 役 を使用する。こうした呼称をめぐる 近年の議論については、拙 稿「朝 鮮 出 兵の原 因・ 目的・ 影響 に関する覚 書」 (高橋 典 幸 編『戦 争 と平和』竹林舎、二〇一四年)など 参照。 ( 2)名 古屋市 博物 館編『 豊臣 秀吉文 書 集 一』 ( 吉 川 弘文館、二 〇一五 年) 。 ( 3)三鬼清一郎『豊臣秀 吉文書目録』 (私家版 、一九八九 年) 、同『豊 臣秀吉 文 書 目 録 ( 補 遺 1 )』 (私家 版、一九 九六 年) 、藤 井 讓 治『秀 吉 文書集成』 (私家 版、二〇一二年三月版) 。 ( 4)藤 井讓 治「 『豊臣秀吉 文書 集』 の誕 生」 (『 史 学 雑 誌』第一 二四 編 第 三号、二〇一五年) 。 ( 5)中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』 (吉川弘文館、二〇 〇六年) 。 ( 6)本稿では、人名についてはおおむ ね辞書類の項目に採用されて い る一般的なものを使用する。 ( 7)国史編纂委員会のホームページで 写真が確認しうることについ て は、二〇〇六年二月の同委員会にお ける調査で当時同委員会研 究 委員であった李薫氏にご教示いただ いた。 ( 8)武田勝蔵「伯爵宗家所蔵豊公文書 と朝鮮陣」 (『史学』第四巻第 三 号、一九二五年) 。 高 知 大 学人文 学部人 間文 化学科 ・人文 科学 研究 第 21号 一一( 9)朝 鮮史編 修会 『朝鮮 史 料 叢刊第 十 九 宗家朝 鮮 陣 文書』 (朝 鮮総督 府 、一九三七年) 。 ( 10)『大日本古文書 島津家文書』四〇六号。 ( 11)『鹿児島県史料 旧記雑録後編二』 ( 鹿児島県、一九八二年)一一 一 三号。 ( 12)『 鹿児 島県史 料 旧 記雑 録拾遺 家 わ け 九』 (鹿 児島 県、二 〇〇 二年 ) 所 収「永吉島津家文書」六五号。 ( 13)『鹿児島県史料 旧記雑録後編二』一一一五号。 ( 14)『宮崎県史史料 編近世4』 (宮崎県 、一九九五年)所収「伊東祐 帰 氏旧蔵文書」二二号。 ( 15)『日向古文書集 成』 (宮崎県、一九 三八年)所収「伊東文書」三 三 一号。 ( 16)『佐賀県史料集 成古文書編第三巻』 (佐賀県立図書館、一九五八 年 )所収「鍋島家文書」一二八号。 ( 17)『福岡県史近世 史料編柳川藩初期(上) 』 (福岡県、一 九八六年) 所 収「立花家文書」四〇四号。 ( 18)京都大学文学部国史研究室編『平 戸松浦家資料』 (一 九五一年) 所 収「松浦文書」七八号。 ( 19)『早稲田大学所 蔵荻野研究室収集文書下巻』 (吉川弘文館、一九 八 〇年)一〇九一号。 ( 20)日下寛編『豊公遺文 』(博文館、一九一四 年)三五二 ~三五三頁。 ( 21)『史料綜覧巻十 三』 (東京大学出版 会、一九五四年)文禄三年五 月 三日条。 ( 22)『 佐賀 県近世 史 料 第一 編第一 巻』 ( 佐 賀 県 立 図 書 館、一 九九 三年 ) 所 収「直茂公譜考補」七六三頁。 ( 23)『大日本古文書 島津家文書』一七五一号。 ( 24)『鹿児島県史料 旧記雑録後編二』一一一四号。 ( 25)曽 根勇二 「五 奉行連 署状 につい て 」(山本 博文 編『法令・ 人事か ら 見た近世政策決定システムの研究』 東京大学史料編纂所、二〇 一 五年) 。 ( 26)『 国史 大辞典 第 一 巻』 (吉川 弘文 館 、 一 九 七 九 年 )の「 浅野 長政 」 の項、 谷 口 克広『 織田 信長家 臣人 名辞典第2 版』 (吉川 弘 文 館、二 〇 一〇年)の「浅野長吉」の項など。 ( 27)相 田文三 「浅 野長政 の居 所と行 動 」(藤井 讓治 編『織豊期 主要人 物 居所集成』思文閣出版、二〇一一年 ) 。 ( 28)『織田信長家臣 人名辞典第2版』の「稲葉重通」の項 、 『新訂寛 政 重修諸家譜第十』 (続群書類従完成会、一九六五年)一 八三頁。 ( 29)天 正一六 年六 月一五 日付 万里小 路 充 房奉口 宣案 (『大日本 古文書 島津家 文 書 』六四 三号 )。 こ の 任 侍 従 につい ては 、下村 效 「 天正 文禄 慶 長 年間の 公家 成・諸 大夫 成一覧」 ( 同 『 日本中 世 の 法と経 済 』続群書類従完成会、一九九八年) 参照。 ( 30)天 正一六 年八 月五日 付島 津義弘 宛 秀 吉判物 (『 大日本古文 書島津 家 文書』三八二号) 。 ( 31)北 島万次 『壬 辰倭乱 と秀 吉・島 津 ・ 李舜臣 』( 校倉書房、 二〇〇 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 一二
二 年)四〇頁。 ( 32)『 今 治 郷 土 史 資 料 編 古代 ・中 世( 第二 巻) 』( 今 治 郷 土 史 編 さ ん 委 員 会、一九八九年)所収「久留島家文 書」五四四頁。なお、引用 に あたり掲載写真を参考に釈文を若干 修正した。 ( 33)『宗国史上巻』 (上野市、一九七九 年)四一五頁。 ( 34)東京大学史料編纂所架蔵影写本「 近江水口加藤文書」 。 ( 35)『兵庫県史史料 編中世九古代補遺』 (兵庫県、一九九七年)所収 「 菅文書」七号。 ( 36)『 利 休 と 秀 吉の 周辺 』( 京 都 市 歴 史 資 料館 、一 九九 〇 年 ) 一 二 頁 。 ( 37)慶 長二年 二月 二一日 付 島 津義弘 宛 秀 吉朱印 状 (『 大日本古 文書島 津 家文書』四〇二号)など。 ( 38)拙稿「慶長の役における「四国衆 」 」(地方史研究協議会編『歴 史 に見る四国』雄山閣、二〇〇八年) 。 ( 39)軍目付の任命・変更については拙 稿「軍目付垣見一直と長宗我 部元親 」( 拙 著『 長 宗 我部氏 の研 究』 吉川弘 文 館 、 二〇 一 二 年)な ど 参照。 ( 40)中 野等 「講 和交 渉の推 移 」( 前 掲 『 秀 吉 の 軍令 と大 陸 侵 攻』 )、 同 「 慶長の再派兵」 ( 同前) 、拙稿「慶長 の役における長宗我部元親 の 動向」 (前掲『長 宗我部氏の研究』 ) など参照。 ( 41) 拙 稿 「 朝鮮 出兵 に お け る 鍋 島 直茂 の一 時 帰 国 に つ い て」 (高 知 大 学 人文学部人間文 化学科『人文科 学研 究』第一三号 、二〇〇六年) 、 同 「慶長の役における鍋島氏の動向」 (『織豊期研究』第八号、二 〇 〇六年)参照。 ( 42)「鍋島家文書」 一〇五号。 ( 43)前掲拙稿「朝鮮出兵における鍋島 直茂の一時帰国について」 。 ( 44)「直茂公譜考補 」七三三~七三六頁。 ( 45)「直茂公譜考補 」七三四頁。 ( 46)福田千鶴『豊臣秀頼 』(吉川弘文館、二〇 一四年)四 六~四九頁。 ( 47)藤井讓治「豊臣秀 吉の居所と行動 (天正 10年 6月以降) 」( 前 掲 『 織豊期主要人物居所集成』 ) 。 ( 48)前掲福田『豊臣秀頼』五五頁。 ( 49)蔚山の戦いとその後の状況につい ては、笠谷和比古「蔚山籠城 戦と関 ヶ 原 合戦」 ( 同 『関ヶ 原合 戦と 近世の 国制 』思文 閣 出 版、二 〇 〇〇年)など参照。 ( 50)『大日本古文書 島津家文書』一二〇六号。 ( 51)前 掲中野 「慶 長の再 派兵 」、 前 掲 拙 稿「慶 長の 役における 「四国 衆 」 」など参照。 ( 52)佐島顕子「文禄・慶長役期の秀吉 朱印状の送達について」 ( 『 福 岡 女学院大学紀要』第一号、一九九一 年) 。 ( 53)『大日本古文書 島津家文書』四二三号。 ( 54)前掲中野「慶長の再派兵」など参 照。 ( 55)前掲『朝鮮史料叢刊第十九宗家朝 鮮陣文書』二一号。国史編纂 委 員会所蔵の写真も確認される。 ( 56)「永吉島津家文 書」八一号。 高 知 大 学人文 学部人 間文 化学科 ・人文 科学 研究 第 21号 一三
( 57)「伊東祐帰氏旧 蔵文書」四一号。 ( 58)『秀吉と文禄・ 慶長の役』 (佐賀県 立名護屋城博物館、二〇〇八 年 、初版は二〇〇七年)図版一五一。 ( 59)「立花家文書」 四一三号。 ( 60)「松浦文書」八 九号。 ( 61)『大日本古文書 島津家文書』四二二号。 ( 62)前 掲拙稿 「慶 長の役 に お け る鍋 島 氏 の動向 」、 前 掲中野「 慶長の 再 派兵」 。 ( 63)「永吉島津家文 書」六一号。 ( 64)「伊東祐帰氏旧 蔵文書」二三号。 ( 65)「鍋島家文書」 一二九号。 ( 66)「立花家文書」 三五九号。 ( 67)『兵庫県史史料 編中世二』 (兵庫県 、一九八七年)所収「橘清八 氏 所蔵文書」三号、四号。 ( 68)『大日本古文書 島津家文書』九七八号。 ( 69)前掲拙稿「軍目付垣見一直と長宗 我部元親」 。 ( 70)前 掲中野 「慶 長の再 派 兵 」、拙 稿「 朝鮮出 兵 期 に おける造 船に関 す る一試論」 (前掲 『長宗我部氏の研究』 ) 。 [ 付記] 本 稿執 筆に あた り、 史料 検索 に三 鬼 清 一郎 『豊 臣秀 吉文 書目 録』 (私 家 版 、 一 九 八 九 年 )、 同 『 豊 臣 秀 吉文書 目録 (補 遺1 )』 ( 私 家 版 、一九 九六 年) 、藤 井讓 治 『 秀吉 文書 集成 』( 私 家 版 、 二 〇 一 二 年 三 月 版 )、 東 京 大学史料編纂所の所蔵史料目録デー タベース・日本古文書ユニオン カ タログなどを利用した。 本稿は平成二六年度高知大学人文社 会科学系基礎研究費補助金によ る 成果の一部である。 「 在高麗 奉公 人」に 関する 豊臣秀 吉朱 印状の 年代比 定 一四