哲学に於ける「勇気」
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Der "Mut" in der Philosophie
― N i e t z s c h e g e g e n H e g e l ―
(
プ ロローグ)
ニーチ ェの根本思想の一 つ 「永劫回帰」 の思想 は二つ の アスペ ク トをもっている。一 つは、有 る が ままの現存在は、 「意味や 目標 がな く、 しか も 不可避 に回帰 しつつ、無 の うち- の フ ィナー レも (2) ない」 とい う、極めて奇異 で恐 るべ きアスペ ク ト であ る。 も し、いわれ るよ うに、現に存在す るも のが、我 々自身 を も含め てすべての ものが、繰 り 返 し繰 り返 し、同 じように回帰す るのであ るとし た ら、かか る 「永劫回帰」の運動 のなかでは、我 々が何 を如何に為そ うとも、結局 は同 じであ る、 つ ま り 「徒労」 であ る、 とい うことにな って しま うであろ う。そ して、我 々のあ らゆ る努力は、「同 じものの永劫回帰」 とい う運動のなかで空転す る こ とに なろ う。かか る 「永劫 回帰」 の光景をまの あた りにすれば、我 々は、旺費 を催すか もしれ な い。そ の意味で、 「永劫回帰」 の思想は 「最 も人 を麻痔 させ る思想」であ るとも言 え よ う。 その一方 で、ニーチ ェは 「永劫 回帰」 の思想を ・、 イ Q -「朗 らか」 なアスペ ク トに於 いて表現 している場 合 もあ る。例えば、 F力への意志』 1067番のアフ ォ リズ ムでは、 この世界 は、 「永遠 の 自己創造、 永遠 の 自己破壊の この私 のデ ィオ ニュソス的世界、 二 重の情欲 としての この秘密の世界 、 この私のF善 悪 の彼 岸』 、それは、 もし円環 の幸福の うちに一 つ の 目標が あるのでない とした ら、 目標のない世 界 、 も し一 つの環が 自分 自身に対 して薫 き意志 を もつのでない とした ら、意志 のない世界」 と、言 われ て いる。その世界 は、 「永遠 に回帰 しなけれ ば な らない もの として、いか な る倦怠 も、厭 恰 も、圓
増
治
之
Haruyuki Enzo
疲労 も知 らない生成 として、 自分 自身を祝福 しつ つ」 、永遠に回帰す る。かか るアスペクトでの 「永 劫回帰」 は、 「目標に 目標 を重ね て」永遠 に 「滑 (3) る」
「世界 -遊戯」 とも言 い表わ されて い る。 さて ところで、或 る生が、 「これが生 であ った のか。 されば よし、 も う一度」 と繰 り返 しこの生 を生 きよ うと意志す る時 、その生 は、後者 の よ う な アスペ ク トでの 「永劫 回帰」を まさに生 きよ う としてい るのであ る。 そ して、それが ニーチ ェの 最終 的立場 での生のアスペ ク トであ るといえるで あろ う。 しか し、 ニーチ ェ自身最初か らその立場 に立 っ ていたのではな く、 「永劫 回帰」 の前者 の よ うな アスペ ク トを通 り抜けた上 で、は じめて、 「永劫 回帰」の生 を朗 らかに生 きることができるよ うに な った といえ る。 つま り、永遠に珂帰す る陰影な 世界 を生 き抜 くことを通 して、その生が 、そ して それ と同時に世界が、晴れやかな生に、世 界に、 と変容 した ともいえ よ う。 ニーチ ェの哲学 に於い ては 、この ような 「永遠に回帰す る」生 の変容、 そ して世界 の変容 に際 して、 「勇気」が決定的な 契機 として重要な役割を演 じてい るのであ る。 (Ⅰ) 哲 学におけ る人間の 「勇気」 の役割につ いては、 す でに- -ゲルが1818年10月22日ベル リン大学で 哲学 の講義を始め るにあた って聴講者に語 った挨 拶 のなかで、格調高 く堂 々 と詣 いあげ られ てい る。 す なわ ち、 「真理 の勇気、精神 の力に対す る信頼 は哲学的研究の第- の条件 であ る。 人間は 自分 自身 を畏敬●■■●■■●●●●■■●●■●●●●■ し、 しか も自分 自身を最高の ものに値す る とみな すべ きであ るO精神の偉大 さと力 とV.=ついて人間 は如何に大 き く考 えた として も、充分に大 き く考 えた ことにな りえない。宇宙 の閉 ざされ た本質は、 認識の勇気に抵抗 で きる如何なる力 もそれ 自身の●●●■●●■■ 内に もっていない。その閉 ざされ た本質は人間の 前に開 き、その豊浜 とその深遠 とを人間の眼前に (4) 展げ、人間の享 受に供 さざるを得 ないのであ る」 と。 この言葉だけ を聞けば、あたか も人間 は 自分 白 身 (の力)だけ を悼んで - すなわ ち、絶 対者な しに - 宇宙 の本質を開示 しうると、絶 対者 を無 みす るかの よ うな、絶対者 に対 し借越 な る主張を ヘーゲルは してい るかの ように聞え るか もしれ な い。 しか し、- イデ ッガ-は--ゲルの この言葉 について、 「もし、我 々が この言葉 を この思想家 個人の絶対者 に対す る借越 として理解 しようとす るな ら、我 々は充分大 き くも、 また充分事柄 に即 して も思惟 していないことにな るだ ろ う」 と、言 (5) ってい る。 な るほ どそ うであろ う。- -ゲルの場合、人間 が真理 を要求 して思惟す る時、彼 は絶対者 に対 し て借越であ るどころか、む しろ逆に、そ の思惟は す でに絶対者 の一 つの意志に、す なわ ち、 「即 日 且つ対 日的 にす でに我 々の もとにあ り、且つ我 々 の もとにあ らん とす る芋意志に呼応 し、 したが っ てい うなれ ば 「敬慶的(andachtig)」に思惟 して いることにな るであろ う。- -ゲルか らすれば、 「哲学 の第一条件」 とな るべ き思惟は、 自分 自身 の うちに閉篭 るのではな く、逆に個人的 な思い着 きや考えを捨離 しなければならない。す なわ ち、 - -ゲルの言 うところに よれは、 「私が思惟す る ことに よってこ私は私の主観的な特殊性 を放棄 し、 私は事柄 の うちへ私を沈め、思惟 を して 自分 で成 (7) りゆ くままに任せ る」 のでなければ な らない。 自 分 で成 りゆ くままに任せ られたかか る思惟 は、規 定 し制限 しなが らも、有限な思惟 規定に立 ち停 ま ることな く、制限 された ものを再 び止場す るとい う歩みを歩む のであ る. この思惟は、 「自分 自身 - と自分 自身 を高め、 自分 自身 と、そ して同時に 自分の対象 とな る絶対者 とに対 してのみ信頼 し(J8) なが ら、その歩み を歩む。 この歩み を通 して理性 - 84 -は、す なわ ち、弁証法的思惟 は、 「自分 自身- と 自分 自身 を高め」て、 「思弁的思惟」へ と、い う なれ ば 「変容」す る。 そ して、その 「思弁的思惟」 は、すべ ての ものを絶対者に関係づけ ることに よ って域威 し、 しか も同時に、絶対者 に関係づけ る とい うことに よって、絶対者 の現われ として、そ れ らを保存す るのであ るoつ ま り・思弁 とは、「79) に して普遍的な る理性の 自分 自身に 向けての活動」 とい うことにな る。 してみれば、 「自分 で成 りゆ くままに任せ」 ら れた思惟 は、実 は 「一 に して普遍的 な る理性」の 活動 として、最初か らすでに暗黙樫 に 「一 に して 普遍的な る理性」に、す なわ ち 「絶 対者」の方に 向け られ てい る、 といえ るであろ う。思惟 は、 自 分 自身 を信頼 し、 「自分 で成 りゆ くままに任せ る」 ことに於 いて、 「自分 自身を思惟す る」絶 対者 の 思惟へ と、い うなれは、 「脱 自」 してい るのであ る。 人間が 「思惟 の思惟」た る絶対者 の思惟 の円 環的活動 の うちに 「脱 臼的」に立つ ことに於 いて、 絶対者 の側か ら言 うな らは、 もはや空 しく単に 「こ の諸精神 の王 国の杯か らその無限性 が泡だ ち溢れ l州 る」のではな く、そ こに於いては じめて、溢れ る 豊鏡 さが豊鏡 さとして人間に よって享 受 され るの であ るといえ よ う。 ところで、 「思惟 を して 自分 で成 りゆ くままに す る」 とい うことは、決 して 自然に成 りゆ くこと ではない、 「真理 の勇気」に よって ことさら為 さ れなけれ ば な らない。そ こに こそ、 「最高 の もの に値す る」 とい う 「品位」(Wnrdigkeit)が存す ると、 ゲルはみ とめている。す なわ ち、 -ゲルは言 う
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「ア リス トテ レスはそ の よ うな態度 (あ らゆ る特殊性か ら解放 された抽 象的 自我 とし ての意識 の態度)に値す る態度 を とるよ う求めた が、その場合 、意識が 自分に与 える この品位は、 特殊 な意見や考えを捨てて、事柄 を 自分 の うちで Ilい 思い通 りに させ ることに存す る」 と。 以上 でみ られ るよ うに、--ゲル の哲学に於 い てみ られ る 「勇気」は、 「真理」- 向 う勇気であ る。 - -ゲルの場合、 ニーチ ェとは異 な り、そ も そ も真理 の価値 を問題 とす るとい う勇気では決 し てなか った。- -ゲルは 「真理」 を 、 ニーチ ェの 術語で もってい うなら、 「価値 自体 」 とみな して いた といえ よ う`㌘ - -ゲルは、先に 引用 した1818年 の哲学開講の辞のなかで こう言 っている。す な わ ち、 「ビラ トはキ リス トが真理 とい う言葉 を 口 にす るのを聞いた時、彼は これに F真理 とは何 で あるのか』 とい う問いで もって応答 した - 彼は、 その よ うな言葉 と関わ りを もたない者 として、い かなる真理 の認識 も存在 しないことを知 っている 者 として、そ う応答 したのであった。真理 の認識 を断念す ることは、 この よ うに古来最 も恥ずべ き こと、最 も品位のないこととみな されて きたが、 我 々の時代には精神の最高の勝利の凱旋 ともちあ げ られたT と. (Ⅱ) それでは、--ゲルに よって 「最 も恥ずべ きこ と、最 も品位のないこと」 と言われた 「真理の認 識 の断念」 を主張す るに とどまらず 、それ どころ か、そ もそ も、真理その ものた る神は死んだ と言 い、 「異な るものはなに もない、すべては許 され ている」 とまで主張す るニーチ ェについては、--ゲル的な立場か らは、一体何 と言 うべ きだろ う か。そ う言 えは、ニーチ ェが1882年の F悦ば しき 知識』 の第三巻 F狂気の人間』 と題 された文章で 「神は死んだ」 とは じめて言 った時 、そ こではニ ーチ ェはこの言葉を 「狂気の人間」 とよばれ る人 物の 口を借 りて語 らせているのであるが、 ここで ニーチ ェの描 くこの人物 の言動には、 dL,αtdELα (無恥)を生活モ ットーの一つ として生 きた とい われ るあのキ ュニコス派の哲学者 「樽 のデ ィオゲ ネス」 のそれを想起 させ るところがある。デ ィオ ゲネスは、伝わ るところに よれは、白昼提燈をさ げて人間を探 した とい うが(:少これに対 し、同 じよ うに白昼提燈をさげて、ニーチ ェの 「狂気の人間」 の方は 「神」を探す。そ して、ニーチ ェの 「狂気 の人間」は集 まった 「神を信 じない老」た ちに向 って語 る、 「神は何処に行 ったのか?」 と。それ に 自ら答えて日 く、 「神は死んだ .′ 神は死んで しまった .′ しか も我 々が神を殺 して しまったの だ ノ」 と。 かの 「狂気の人間」は 「神は死んだ」 と客観的 事実 として語 るだけでな く、 「我 々が神を殺 した のだ」 と主体的な行為の告 白として言 ってのけて いるが、そ もそ もこの 「神を殺す」 とい う行為は、 従来 の見方か らすれば、その ような行為が万一可 能だ として も、それは恥ずべ きで品性のない点で 最高度にそ うであるどころか、度外れて恥ずべ き 行為 である。それを、かの 「狂気の人間」は無恥 に も 「我 々が神を殺 したのだ」 と公然 と言 っての けている。 もし、ギ リシア人の宗教的意謡的こ於い て表象 された ように、 「富、名誉、力、喜び、苦 しみ等、すべての人間的な ものはその一定 の限度
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Maβ
)をもってお り、その限度 を踏み越 えると 破滅 し、没落す る15'のであ るとした ら、 「神の殺 害」 とい う行為 こそなに よ りも、人間的な ものの 限度 を踏み越 えた度外れた(titxjrmaβig)行為で あ り、 したが ってその行為に よって人間は破滅 し、 没落せざるをえないであろ う。それ を承知 で、敢 えて 「神の殺害」 とい う行為を為すためには、す でに人間的限度を超えた 「超人的」な度外れた勇 気が必要であ る。あの 「狂気の人間」は、 「我 々 が神 を殺 したのだ - お前たちと私 とが ノ 我 々 すべてが神の殺害老なのだ ノ」 と言 ったす ぐあ と、 この行為の度外れた大 きさに 自ら驚 きあや しみ、 「しか し、我 々は如何に して この ことを為 したの か」 と詔 しげに問 うている. それ まで 「神」は、人間がそ こで生 きている此 の世界を超 えた彼岸か らこの世界のすべての もの を秩序づけ、人間に生 きるべ き方向を指示 して き たのであ ったが、それ故、その 「神」を殺す とい う行為は途方 もな く大 き く、その結果生 じた疑念 もまた大 きい。そ してその結果次の ように次 々と 問い重ね られてい く。す なわち、 「如何に して我 々は海を飲み干す ことがで きたのか ? 誰が我 々 に水平線全体を拭い去 る海綿 を与えたのか ? こ の大地をその太陽か ら解 き放 った時、我 々はなに を しでか して しまったのか ?」 と。 人間 も含めてあ らゆるものをその内に包括す る 「海」、 「水平線」、 「大地」を人間は消 し去 っ て しまった。か ってその上 に人間が確固 と して立 っていた 「大地」(ErLl付 de)は、今では 「余 りに も 丸 くな り」、それ 自身が 「地戎」(Erdball)とし て転が り回 るようになった。 しか も、 「地球」、 すなわち我 々の 「惑星」(Planまとet)は、Pl(17)anetと い う語の語源的語義通 りの 「惑え る星」 として、 無限の虚無の うち-転が り出て、果て しな くさ迷 い転 りつづけてい くかの ように思われて くる。そこで、 「大地 をその太陽 か ら解 き放つ」 とい う行 為は、その行為者、す なわち人間存在に もはね返 って来 ることにな り、 さらに次 の よ うに問われ る。 つ ま り、 「我 々は何処-動いてい くのか ? あ ら ゆ る太陽か ら離れてい くのか ? 我 々は絶 えず転 が ってい くのか ? しか もそれ は、後- 、横へ、 前-、あ らゆ る方向- 向 ってなのか ? まだなお 上 と下 とがあ るのか
?
」 とも問われ る。 それだけ に とどま らない。疑念が疑念 を生むかの如 く 「狂 気 の人」 は さらに、 「空虚 な空 間が我 々に息 を吹 きかけて くるのでは ないか ? い よい よ冷めた く な ってい くのではないか ? 夜 また夜が絶 えずや って くるのではないか ? =・・・・.・・云 々」 と、次 々 と問い募 ってい く。 しか し、 「神 は死 んだ」 とい う出来事 は、それ に よって結果す る疑念 が以上の問 いで もって して も語 り尽 せない程、それ 程大 きい。そ して神の死 後、その背後 に ポ ッカ リロを開 いた 「虚 無」 もそ れ程、深 く、暗 い。す べ ての生 の条件た る 「太陽」 に も誓 え られ うべ き 「神」が死 んで しまえば、た とえその後に何かが残 った として も、それ は全 く の死の世界であろ う。
「神の殺害」 とい う行為は まさに、生 きとし生け るものすべ ての命脈 をその 根元 で断 ち切 るに等 しい行為であ る。そ の意味で 「神 の殺害老」は 「す べ ての殺害者 の うちの殺害 老」 ともいわれ るので あ る。 かの 「狂気 の人間」 が 「我 々が神 を殺 したのだ」 と言 う時 、その 「狂人 の人間」は近世最大 の出来 事た る 「神の死」を 自分 自身の行為の結果 として 主体的 ・実存的に 自分 自身の上 に どこまで も担 っ て生 きてい こ うとして い るのであ る。そ こで、そ の 自分 自身 の行為に対 して、 「我 々は如何 なる磨 罪 の儀式、如何なる神聖 なる催事 を創案 しなけれ ばな らないのか」 とい う問いが浮 び上 が って くる。 「神の死」 とい う底 知れ ぬ不気味 な歴史的出来事 は、 もはや外的 な問題 としてではな く、 自分が為 した行為に 自分 自身が如 何にかかわ って生 きてい くのか とい う実存的問題 となる。 したが って、先 の問いは さらに次の よ うに問い重ね られ る。
「か か る行為 の大 きさは我 々に とって大 きす ぎるので はないか ? 単に この行 為に値す るよ うに見え る ためだけにす ら、我 々は 自分 自身神 々に成 らなけ ればな らないのではないか ?(Mqssen wirnicht -86-selberzuG6tternwerden,um nurihrerwiirdig zuerscheinen?)」 と。 「超 人的」勇気に よって敢 えて - すなわ ち 自 分 自身 の意志 に よって - 「神 の殺 害」 とい う行 為 を為 し、かつ 自己の行為 として担 うことに於 い て、人間は人間的な る限度 を超 えて、 自ら変容す る。かつ、逆に また人間は 自ら人間的な る限度 を 超 えて変容 しなければ、 自分 自身 の行為を 自分 自 身 で担 うことがで きない。 ニーチ ェに よって求め られ る 「品性」(Wnrdigkeit)とは、 まさに、 自分 自身 を超 え る行為 (この場合な ら、 「神 の殺害」 とい う行為 )に 自分 自身が値す る(wurdig)ように 自分 自身 を超 えて成 ることであ る。 か くしては じ めて人間は、 自分 自身 を超 えて、 もはや人間的な らざる形像へ と自分 自身 を変容す るのであ る。 こ の場合 の意志 的な 「変容」は、我 々の術語を用 い るな らは、 「メタモル フ ォローギ ッシュ」 な変容 であ る。す なわ ち、 自分 自身 を変容す ることに於 いて、同時 に、 自分 のみな らず世界全体 を も新た な る光 の うちで変容す るが如 き、そ うい う変容で あ る。 したが って、先に引用 した フ レーズ "um nur ihrerwiirdigzuerscheinen"のなかの"Erscheinen" とい う語は単に仮現的に現象す るこ とを意味す る のではない。 自分 自身か ら光 を放射 し、その新た な る光 で もって世界全体を照 らしなが ら、そ こに 自分 自身 を現わす ことを、す なわ ち、い うなれば ヨ‖弐 「輝 き現われ る(dasscheinendeErsclleinen)」 こ とを意味す るといえ るであろ う
。
(
班)
それ では一体如何な る形態(morphe)- と人間 は 自分 自身 を超 えて変容す る(si°hmetamorph o-sieren)のであろ うか。
「神の殺害」 とい う自ら の行為に 自らが匹敵す るよ うに成 るためには、か の 「狂気 の人間」が問 った ように、 「我 々は 自分 自身神 々に成 らなければな らない」 のだろ うか。 この よ うな問いに対 して我 々は一体如何に答え るべ きか。然 りに して否 、 といえ よ う。
「神の殺 害」 とい う行為 を、為 し うる とい うよ りむ しろ担 い うる人間は、 もはや従来 の人間 とい う形態を超 えていかなければな らない。従来の人間の形態 を超 え る老すべてを 「神」 と呼ぶ のであ るな ら、あ るいは、 「然 り」 と言 って もよいか もしれ ない。 しか し、 「神」 とい う名前が 、従来 の 「神」 の よ うに、我 々の生 の彼岸に存在す る超越者 を意味す るのであ るな らは、その限 り 「否」 といわ ざるを え ないだ ろ う。 我 々人 間が そ の よ うな意味 での 「神」にそ もそ も成 りうるはず もなけれ ば、また 「神の殺 害」 とい う行為に匹敵す るためには、「苛申」 に成 る必要 もない。人間の生 は、 「神 の死」 と共 にその根底 を喪失 して深淵 とな るが、あ くまでそ の深淵 な生 にあ って、その生 の深淵に どこまで も 耐 え抜 いて生 きて こそ、 「神 の殺害」 とい う行為 に よく値 しえた といえ るであろ う。生 きざるをえ ない自分 の運命 として深淵な生 を よ く担 い、 自分 自身 を超 えて変容、転身 しなが ら生 きる生の形態 を、 ニーチ ェは 「超人」(Ubermensch)として 自 分 自身 の前-企投 ・投影 し、その形態の生- と超 えて生 きよ うとす るのであ った。 され ば こそ Fツ ァラツス トラは斯 く語 りき』 の第一部 の終 りの と ころで、 ツ ァラツス トラは非常 に- ソフ ァサイズ された調子 で語 る、 「すべての神 々は死んだ。 い
まや
我々は
欲す る、遍最速きん
三
主を39㌧ と。 ところが 、かの 「狂気の人間」 は、 ツァラツス トラとは異 な り、 「我 々は 自分 自身神 々に成 らな ければな らないのではないか?
」 と、 「神の死」 後 の 自分 の運命をいかに もキ ュニ コス派的に シニ カルに問 うのみであ って、末だ 自分 の意志 として 「我 々は欲す る、超人が生 きん ことを」 とまで言 っていない。
「狂気 の人間」は、未だ 「超人」 の 「変容」 の道を実際的に踏み 出 してはいないので あ る。 それ故 、 「狂気 の人間」は、 「狂気の人間」 と して普通 の人間か ら狂い外れている とはいえ ど も、 「狂気 の人間」 として未だ 「人間」 とい う形 態 に とどまってい る。 とはいえ しか し、かの 「狂 気 の人間」 はすでに将来の メタモル フ ォローギ ッ シ ュな変容 の予感は表 明 してい る。す なわ ち、彼 は言 う、 「これ よ り大 きい行為はか って存在 しな か った - そ して、お よそ我 々の後に生 まれ て く る限 り、そ の者は この行為ゆえに これ までのいか な る歴 史 よ りも一層高い歴史に属す るのであ る」 と。 と、 ここまで語 って、 F悦は しき知識』 125番 の アフ ォ リズ ムでは、かの 「狂気 の人間」は沈黙 した 、 とい う。 ニーチ ェは別の或 るアフ ォ リズム で、 「大 いな る事物は、それにつ いてひ とは沈黙 す るか、あ るいは大 き く語 るこ とを要求す る。大 き くとは 、シニカルに 、かつ無邪気に とい うこと であ るSo'と言 っているが 、かのキ ュニ コス派風の 「狂気の人間」の語 り方 では、 シニカルであ った か も しれ ないが、 「無邪気 に」 とは とうてい言え ない。
「神の殺害」 とい う大いな る行為について、 「狂気の人間」はそれに見合 っただけ充分 に大 き く語 ることはで きなか ったのであ る。それ故 「狂 気の 人間」は もうそれ以上語 ることはで きず沈黙 せ ざ るをえな くな った のではなかろ うか。 そ して、 「神 の死」 とい う出来事 をその大 きさに見合 った 充分 な大 きさで もって語 ることは、 ツァラツス ト ラに しては じめてで きることではなか った であろ うか。 それ故に こそ、 ニーチ ェは F悦 は しき知識』 の C:い 第1版 の最後のアフ ォ リズ ムで、次 の 「神 の死」 の告知老 となるべ き 「ツ ァラツス トラ」 を登場 さ せて お くことが必要 とな ったのではないだ ろ うれ この アフ ォリズムは - そ して、 とりも直さず Fツ ァラ ツス トラは斯 く語 りき』 の 「序説」 は、世間 か ら、時代か ら 「外れ」 て隠遁的 に生 きていた ツ ァラ ツス トラの 「心臓 が変容 した」 ところか ら始 まる。その ツ ァラツス トラ、昇 りくる太陽 -「神 の死」 と共に浸 し、そ して今再 び昇 りくる太 陽 - に向い、日 く、「
‥
・
-見 よ./ 私は、余 りに も多 くの蜜 を集め す ぎた蜜蜂 の如 く、私の知恵に倦む。差 しのば さ れ る手 を私は必要 とす る。私は贈 り与え分か ち与 えた い。 人間 どもの うちの賢 き者た ちが再 び 自分 の愚か さを悦び、貧 しき老たちが 自分の富 を悦ぶ までに。 ・・・-・- (中略 )---・祝福せ よ、溢れ 出 ん とす る杯を。 この杯か ら水が黄金に輝 き流れ 出 し、汝 の歓喜 の返照をいた るところ- もた らす こ とをは、祝福せ よ./ 見 よ./ この杯 は再 び空に な らん とす る、そ して ツ ァラツス トラは再 び人間 に成 らん と意志す る」 と。斯 くして ツァラツス ト ラの没落が始 まった、 とい う。 世 間か ら外れ 、 自分 自身 の うち- 引 き寵 って、 「自分 自身の精神 と孤独 とを享受 し、10年 の問そ の こ とに倦む ことのなか った」 、その ツ ァラツス トラの心胸が変容 し、再 び人間の もと-没 落せんと意志 したのである。「最 も孤独な孤独(einsamste Einsamkeit11を通過 した ツァラツス トラのかか る 意志 は、その豊か さに於 いて、- -ゲルの絶対者 の 「我 々の もとにあ らん とす る」意志に匹敵、あ るいはひ ょっとす ると凌駕す るか もしれない程、 それ程豊かな意志である。芸 き止 め られた水が、 ついに堰 を きって溢れ出るが如 く、自己内閉塞的 に 自分 自身の精神 をひ と り享受 していた ツ ァラツ ス トラの力がつ いに意志 として自分か ら自分 自身 を超えて溢れ出たのであ る。かか る 「力の過剰
(OberschuO Yon Kraft)」が、 ツァラツス トラ の場合の 「勇気」の条件 となってい るのであ去 望功 (ⅠⅤ) さて ところで、 ツァラツス トラの 「力の過剰」 か らの 「勇気」は実は、 「如何な る犠牲を払 って も」真理を求め る 「勇気」が、生 のデ ィオニュソ ス的深淵- と下 り降 りて、そ こで転換変容 して、 そ こか ら現われた きた 「勇気」であ った。 認識に於け るニーチ ェの 「勇気」は、 「生命な き孤独3劫を恐れない、いやそれ どころか、 自分 自 身に対決す ることのその厳 しさ故に、む しろみず か ら進んで 「孤独」を背負って、生命な き沙漠-と出ていった。 ニーチ ェ自身次の ように述懐 して いる。 「私が これ まで理解 し生 きて きた哲学は自 由意志に よって氷 と高山の うちで生 きること -現存在に於け るすべての異様な もの、疑 しい もの を、 これ までモラルに よって追放 されていたすべ ての ものを探究す ることであったT、 と。 み られ るように ニーチ ェは、デ ューラーのエ ッ チ ング F騎士 、死 、悪魔』に描かれた騎士に も似 て、なに ものに もた じろがぬ勇気を もち、死 と悪 魔を道連れに伴 って、現存在の行手 も知れぬ深淵 の闇を下 ってい った。 ニーチ ェの認識の勇気は、 自分 自身の内な る深淵へ と向 う勇気であ る。認議 を深淵- と駆 りたててきたその 「勇気」 自身が、 その深淵 に於 いて転換 し生 まれ変 り、その深淵か ら騰 々と湧 き上 って くる。悦ば しい 「勇気」、「気 分」、す なわ ちf71bhlich な Mutとして。 したが って、 ツァラツス トラ懐胎期のニーチ ェ の"Mt)i"は二 重性をもっているo ニーチ ェ自身、 その自伝的作品 Fユ ッケ ・ホモ』 でこの二重性を、 - 88
-「
F悦ば しき知識』のほ とん どすべての文章で、 深淵- の探求心(Tiefsinn)と軽はずみな意志(Mut -willen)とが憩に手 を とりあ ってい る」 とも、あ るいは、 「詩 人 と騎士 と自由精神(Freigeist)の三 位一体CJ9とも、言い表わ してい る。重武装の騎士 の如 く、深みをめざしつ き進む憂影 怠 る重い 「勇 気」 と、プ リンツ ・フ ォーゲル フライの如 く、生 を即興詩的に詣 いあげ る軽 く明 るい 自由な気分 と、 この二 つの気分が同時に等根源的にニーチェのF悦 は しき知識』 には充溢 している。 しか し、ニーチ ェに於いては重い気分は現存在 の深淵-深 く下れば下 る程、かえって逆に軽い明 るい気分- と自己超克 してい く。 Fツァラツス ト ラ』 を跨いで F悦は しき知識』 は、気重な 「真理 への勇気」を克服 し、第二版ではす でに 「悦ば し さ」の頂上 の達 しているかの ようにみ うけ られ る。 第二版 「序文」に日 く、 「t---否、この悪趣味、 この真理-の意志 、 F如何なる犠牲を払 って も真理』- とい うこの意 志、真理-の愛に於け るこの若者の狂気 - これ に我 々は嫌気が さした。斯 く意志す るには我 々は 余 りに も経験 を積みす ぎているし、余 りに も真剣 す ぎるし、余 りに も快活す ぎるし、余 りに も恋焦 れす ぎるし、余 りに も深す ぎるt・-・・--・ 真理か ら覆いが取 り去 られて も、なお真理が真理 として あ りつづけ るとは、我 々は もはや信 じない。我 々 はこれ を信 じるには充分生 きて しまっている。---- (中略 )-・--- おお、 このギ リシア人 たち./ 彼 は生 きることに習熟 していた。そのた めには、表面に、雲に、外皮に、勇敢に立 ち停 る ことが、仮象を崇拝す ることが、形式や音調や言 葉を、仮象のオ リュソボス全体を信仰す ることが 必要であ った。 これ らギ リシア人た ちは表面的で ぁった一
兵去
最
し
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T (下線 に よる強調は 引用者が付 した)、 と。 まさにこの文か らは、 「真理」を求めて現存在 の深淵- と向 った ニーチ ェの勇気がすでに、現存 在の表面に立 ち停 る勇気へ と転化 していることが 窺われ るであろ う。なに ものに もた じろがぬニー チ ェの 「真理-の意志」の勇気は、 「真理-の意 志」 自身の根底を も穿ち突破 し、その奥にデ ィオ ニュソス的な 「力-の意志」 の深淵 を開 いた。そ してかか る生 の深淵 を勇気を もって生 き抜 くことに よって、その生 はその深淵か ら絶 えず新 たな シ ャイ ン、す なわ ち光 、仮象 を放射 しなが ら、その 仮象的 形態 の うち- 自己を変容 し、そ してそれ と 共に同時に世界 を変容 し、現われ 、かつ現われ し め る。 したが って この場合、単に終始表面 的ナイ ー ヴに或 る一つの外面的形態か ら別の外面的形態 - と変容 し、現われ るのではない。そ うい う生物 学的変容 ではな く、現存在 の深淵 な る深みか ら、 「勇気 を もって」 、変容 し、現われ るところの、 メタモル フ ォローギ ッシ ュな意味 での変容 であ る。 仮象に仮象 を重ね て生 きる生の深淵を生 き抜 いた 者 か らすれば、 「真理」は、 もはや兄い出 され る べ き ものではな く、今や 、生がその都度 自分 自身 を超 えてそれ- と変容 してい くべ き一種 の 「仮 象」、 「シャイ ン」なのであ る。 (Ⅴ) した が って、 ニーチ ェか らすれ ば、 「真理」に 関 して問題 となるのは、 「真理」に到達す るため の 「方法」 の問題 よ りも、なに よ りも、まず 「勇 気」の問題 なのであ る。重層的に仮象はた また仮 象 と、仮象が限 りな く重 な り、唯一絶対の 「真理」 といった 「真理」がない生 の深淵 にあ って、生 は その深淵 を どこまで も見据 えて耐え るだけの勇気 があ るのか。はた また さのみな らず 、さらに勇気 を鼓舞 して、 自分か らその上に仮 象に仮象 を重ね てい くことがで きるのか。その よ うな 「勇気」が 問題 とな るのであ る。 ニーチ ェの言に よれば、 「或 る一 個の精神が どれだけの真理に耐 え、 ど れだけ の真理 を敢 えて試行す るか、 これが私には 増 々本来的 な価値基準 とな った。誤謬 (- 理想 に対す る信仰 - )は盲 目なのではない、誤謬は 臆病で あ る‥---- 認識に於け るあ らゆ る獲得、 あ らゆ る前進の歩みは、勇気か ら、 自分 自身に対 す る厳 しさ、 自分 自身に対す る潔癖 さか ら、結果 す る- ---私は理想を反駁 しない、ただそれ に 対 して手袋 をはめ るだけであ るヨ軸と、い う。 そ して、 ニーチ ェはその著 F反 キ リス ト老』 の 或 る一節 に於 いて新約聖書全篇 がかか る意味 での 誤謬であ るとして声高に告発す る。す なわ ち、 「新 約聖書を読む ときには、手袋 をはめたほ う が よい とい うこと (が帰結す る)0 -・-- (中略 ) ---清潔 さの本能が欠けてい る。-t-・・ 新 約聖 書の うちには下劣な本能 しか存在 しな い、 こ の下 劣な本能- の勇気す ら存在 しない。その うち にあ るのはすべて、臆病 であ る、 目隠 し、 自己欺 柄 であ る。 ---t・・(中略 )-・・--・新 約聖書全 体の うちに畏敬すべ き唯一 の人物が一 人だけ いる と、私はなお言 うべ きか ? ローマの総督 ビラ ト。 ユダヤ人の争 いを真剣に と りあげ ること- を 自分 で納得 して彼 は行 なった のではない。大体一 一 ユ ダヤ人の こと- それ が何 の問題 であろ う? ・---・F真理』 とい う語 につ いての恥 しらず な誤 用が行われ るのを前に して、一 人の ローマ人の高 貴 な噸笑が、唯一 の価値 のあ る言葉 で もって新約 聖書 を豊かに した。 - この言葉 は新約聖書の 批判であ り、その事減 です らあ る.その言葉 とは、 F真理 とは何であ るのか』 とい う言葉 であ る・-雪。 ビラ トの同 じ言葉についての先に紹介 した--ゲル の見解 と比較 してほ しい。 それ とはなん と対 既的 な見方 であろ うか。- -ゲルの 「認識 の勇気」 は絶 対的真理の内にあ ってそれ に観想的 ・思弁的 に向 う勇気であ ったのに対 し、 ニーチ ェの勇気は 自己の存在 を賭 して諸 々の多様 な 「真理」 を冒険 す る勇気であ る
。
「したが って多様 な F真理』が L ILu 存在す る、 したが っていか な る真理 も存在 しなし」 とニーチ ェに言 う。 ニーチ ェに とって、存在す る のは諸 々の多様 な 「真理」 、つ ま り多様 な 「シャ イソ」 であ る。
「真理 とは何 であ るのか ./」、 こ れ に応 えてい う、 「何 もの も真ではない。すべて は許 され てい る」 と。す なわ ち、多様な真理 を冒 険す ることが許 されている、 とい うのであ る。そ して、聖書の ビラ トはイエスを指 して、 「ユ ッケ ・ホモ」 と言 ったのに対 して、 ニーチ ェ- ビラ ト は 自分 自身 を、す なわ ち、真理 を冒険 し、哲学を 身 を もって生 き抜 いて きた 自分 自身 を指 して言 う、 「ユ ッケ ・ホモ./」 と。 実際、 ニーチ ェの著 Fユ ッケ ・ホモ』 で 自己感 嘆的に描かれているのは、変容す るニーチ ェ自身 の生 であ る。その変容は、人間以外 に もお よそ生 きてい る限 りのすべての生 き物 にみ られ る よ うな メタモル フ ィシュな変容ではない。生の深淵 を潜 り抜 けた上 で敢 えて 「勇気」 を もって行 うメタモ ル フ ォローギ ッシュな変容 なのであ る。(Ⅵ ) そ もそ も人間 は、 ツ ァラツス トラの言 うところ に よると、 「最 も勇気のあ る動物(das mutigste Tier)」であるG
o
l)「最 も勇気のあ る動物」 として 人間は、 「あ ららる動物 を超克 した」。 のみな ら ず、 さらに人間は、 「最 も荒 々し く最 も勇気のあ る動物た ちか ら彼 らのすべての徳 を妬み掠 め取 っ た。か くしては じめて人間は成 ったのであ る-(.1:∼ 人間に」 とも、 ツァラツス トラは言 う。 つ ま り、 人間は 「最 も勇気のあ る動物」 として、その勇気 に よって、他のすべての動物を超克 した のみな ら ず、 「動物」 としての 自分 自身 を も超克 し、変容 し、 「人間」に成 ったのである。 人間はは じめか ら 「人間」 として有 った のではないのであ る。 し か し、 ツ ァラツス トラの勇気はそれだけに とどま らない。 さらに 「人間」 の超克- と向 う。 「人間は深淵 に臨 まないで何処に立 と うか./ 131'J 見 ること自体が - 深淵 を見 ることではないか」 と、 ツ ァラツス トラは言 うが、あに人間のみな ら んや、お よそ生 きとし生け るものすべて深淵 に臨 んで生 きてい るのではないか。生 きること自体が 深淵に臨んで生 きることではないのか。ただ、「最 も勇気のあ る動 物」た る人間はす ぐれて、その勇 気に よって、 「深淵 に臨んでの弦費を打 ち殺す」 ことがで きる。か くして 「勇気を持つ者」は、「深 淵 を見 る者、 しか し鷲 の眼で もって - 鷲の爪 を もって深淵 を掴 む老竿 とな るのであ るO深淵 の う ちに於 いて深淵 を掴み、 自分の うちに摂 り込む こ とに よって、かか る勇気 を もつ者は 自らの深淵 の うちか ら自分 自身 を メタモルフ ォローギ ッシ ュに 変容 し、輝 き現われて くるのであ る。 「畏敬の心胸」 を破却 し、最早 なに ものを も畏 れぬ 「心胸(Herz)」、す なわち 「勇気(Mut)」は、 ア クテ ィブに ニ ヒ リステ ィシュであ る。 す なわ ち、 従来 のあ らゆ る価値を攻撃 し、就 中、諸 々の価値 のなかの最高の価値た る神 を攻撃 し、そ して殺害 す る。そ して、神を殺害 した 「勇気」 を もつ生 は、 最早 なに ものに も依存す ることがない。す なわ ち、 ニヒ リステ ィシ ュに ア クテ ィブであ る。無畏に し て無依、 自分か ら自分だけで、 自己制約的に、す なわ ち無制約的に 自分 自身 を変容 しなが ら、生 々 と生 きるのであ る。従 って、ニーチ ェの 「攻撃す - 90-る勇気」は、す なわ ちア クテ ィブな ニ ヒ リズムは、 「否定」に立 ち停 りは しない、む しろ逆 の ことに まで徹底 しよ うと意志す るのであ る。 ツ ァラツス トラに よれば 、 「しか し勇気は最良の打殺者であ る、攻撃す る勇気は。 それは死をす ら打 ち殺す。 なぜ な らそれは Fこれが生であ った のか。 されば よし、 も う一別 と語 るか ら35'と、い う。 以上 の よ うに、 ニーチ ェに於 いて、 「死を打 ち 殺す」 のは、 「人間的」 (あるいは、 よ り正 しく は 「超 人的」 とい うべ きか)な 「勇気」 であ った。 これ に対 し、か って- -ゲルは 「死 を殺 すのは神 であ る」 と語 った。我 々は- -ゲルの この言葉 を その F宗教哲学講義 』の 「人間の規定」 と題され た節に於 いて兄 い出す ことがで きる(.3Qここでヘ ー ゲルは言 う。 「神 は死 んで しまった、神は死んでい る - こ れは、すべての永遠 な るもの、すべ ての異 なるも のは存在せず 、否定その ものが神の うちに存在す る、 とい う極めて恐 ろ しい思想であ る。 -=・(中 略 )---- しか しその経過は ここで立 ち停 りは しない、今や逆転が起 こる。す なわ ち神は このプ ロセスに於 いて 自己を保持す る、 この プ ロセスは ただ死 の死 であ る。神は再び起 るのであ る。 した が って事態 は逆転す るのであ る。-・-・-
(中略 ) この復活に続 くのがキ リス トの変容であ る」 と。 してみれば、--ゲルに於 いては 、キ リス トの 変容 は、神が 自らの死を殺す ことを契機 として起 こるとい うことにな るだろ う。 少 し言葉 を換え る な ら、 こ う言 え るだろ う。神 は 自らの死 を殺す こ とに よって、その死の深淵か ら再び立 ち上 り変容 しつつ現象す ると。 したが って、- -ゲルに於 いて、 ここでの 「否 定の否定」、つ ま り 「死の死」、あ るいは 「死 の 殺害」 とい う逆転は、神すなわ ち絶 対者 の プロセ ス として思惟 されてい るに とどまっている。 これ に対 して、 ニーチ ェの哲学は 「否定 の否定」、「死 の殺害」 とい う逆転 を意志に よって ひ き起 こそ う としてい る。す なわ ち、 「この哲学 は、否定に、 否に、否- の意志 に立 ち侍 るのではない。む しろ この哲学は反対 の ものに まで、 - 世界 に対す るデ ィオニ ュソス的 F然 り』 に まで貫徹す ること を意志す る」 のであ る. まさに前述 の如 く、ニーチ ェに於 いて 「死 を殺す」 のは、人間の最早 人間 的 な らざる 「超 人的
」
「勇気」 なのであ る。 しか し、 ニーチ ェの場合 の 「勇気」に よる生 の 変容は、キ リス トの変容 の よ うに歴史の プ ロセス の うちでの一回限 りの出来事 ではない。
「勇気」 を もって繰 り返 し繰 り返 し幾度 も自己に打ち克 ち、 死 を打 ち殺 して生 きて こそ、真 に 「生 々とした」 生 であ る。
「勇気」が 「死 を打 ち殺す」各瞬間毎 に、それ を契機 として、生 は躍動 し、変容す るの で ある。(エピローグ)
ノーベル賞作家E.
カネ ッテ ィは F群集 と力』 のなか で、転身(Verwandlung)\す なわ ち変容の 能 力を人間に固有 の能力 とみな してい る。そ して、 この人問の転身の能力 こそが人間に、他のすべて の被造物 を支配す る力を与 えて きた のであ るとし 87) ているが 、人間が この転身の能力を もつのは、あ るいは、人間が まさに ニーチ ェの言 うよ うに、「最 も勇気 のあ る動物」であ るか ら、ではないだ ろ う か。 人間は 「最 も勇気のあ る動物」 であれは こそ、 人間は他の被造物 のみな らず 、いや なに よ りもま ず 自分 自身 を支配す る力を もっておれば こそ、転 身 の能 力を 自分に対 し自己所与的 に与え、か くし て 自己創造的に転身す ることがで きるのではない だ ろ うか。 しか し、 「神の殺害」 まで して しまった大 いな る 「勇気」 が、それだけに とどまらず、最後 につ いに、人間的生の隠 された意志、す なわ ち 「無-の意志」 、あるいは 「死- 「無-の意志」 を打 ち殺 し、 「デ ィオ ニ ュソス的」生に立 ち帰 った時、 もはや、 自分 自身に よって 自己を超 えて変容す るのに、殊 更 「勇気」 を必要 としない。 デ ィオ ニュソス的生 は軽 ろやか な足で もって 自由に 自分 自身を踊 り超 えてい くのである。 す なわ ち、 「あ らゆ る瞬間に人間が超克 され て いる。
F超 人』 とい う概念が ここでは最高の現実 とな った のであ る - これ まで人間にあ って偉大 と呼ばれ ていた一切の ものは、無限のは るかかな たに、彼 の下に横たわ ってい る」 のであ る。 ここで言 うところの 「これ まで人間にあ って偉 大 とよばれていた一切の もの」 のなかには、当然 「勇気」 も含 まれ てい るだ ろ う。 その 「勇気」 も また 、 ツ ァラツス トラのは るかかなた下 の方に横 たわ っているのであ る。逆 に言 えば、超 人-の道 を歩む ツ ァラツス トラはす でに 人間的 な 「勇気」 をは るかに超越 しているのであ る。典型 と しての ツァラツス トラに典型的 な 「心胸」 の形態 は、最 早 「勇気(〟〟り」ではない。
「勇気」 をは るかに 超 えた 「超 -勇気」 としての 「奔放 さ(Ubermut)」 であ る。 そ こで、 ニーチ ェは言 う。 「アルキ ュオネ-の 日の如 き平穏 さと、軽 ろや かな足 ど りと、悪意 と奔放 さの遍在 と、その他 ツ ァラ ツス トラとい う典型 に とって典型的なすべて の ものは、 これ まで偉大 きに とって本質的 な もの OS) とは夢想だに された ことはなか った」。 註 (1)太稿はー tL哲学論叢J(京都大学哲学論叢刊行全編) 第9号 昭 和57年6月25日刊)掲載の論文 「哲学に於 け る 「勇気」- ニーチェの場合 - 」の続篇である。 先行するこの論文ではー必ず しも成功 したとは言い類 いがー 「勇気」という 「心胸」形態をー 「力-の意志」 の自己還帰の過程のなかでー考察 しようと試みたo f2,1Fr. Nietzsche,"Der Wille zur Macht", hrsg.V.Peter Gast,Nr.55.(3) Fr.Nietzsche,"DiefrbhlicheWissenschaft",
Anhang "Lieder des Prinzen Vogelfrei,An Goethe" (Kr6ners Taschenausgabe,Bd.74
,
S.307).
(4)G.W.F.Hegel,"Konzeptder Rede beim AntrittdesphilosophischenLehramtesander Universitat Berlin, 22・Okt. 1818" (Theorie Werkausgabe,Suhrkamp Verlag,Bd.10, An-hang),S.404.
(5) M.Heidegger,"I)erSatzvom Gru nd" (Verlag Gtintber Neske,Pfullingen,1971),
S.145.
(6)Vgl.G.W.F.Hegel,"DiePhanomenologie desGeistes"(PhilosophischeBibliothek)S.64.
(7).G.W.F.Hegel,"Enzyklopadiederphilos o-phischenWissenschaft"§24,Zusatz2.(Theorie
(8)G.W.F.Hegel,"I)ifferenzdesFichte'schen undSchelling'schenSystemsderPhilosophie" (Philosophische Bibliothek),S.ll.
(9)ibid.
uO)Vgl.G.W.F.Hegel,"I)iePhanomenologie desGeistes",S.564.
(川 G.W.F.Hegel,"Enzyklopadiederphilos o-phischen Wissenschaft" S 23,S.80.
u29Vgl.Fr.Nietzsche,"Zur Genealogie der Moral" (Kr6ners Taschenausgabe,Bd.76) S.397ff.
u3)G.W.F.Hegel,"KonzeptderRedebeim AntrittdesphilosophischenLehramtesander Universitat Berlin,22.Okt.1818", S.402.
ud)Vgl.DiogenesLaertios,"LivesofEmi nent Philosophers" (Loeb Class.Lib.) Ⅵ 20. u5)Vgl.G.W.F.Hegel,"Enzyklopadiederphi
-losophischen Wissenschaft" ilO7 Zusatz,
S.225.
8
6
)
Vgl・Fr・Nietzsche・"AIs?sprach Zarat hu-stra"(Kr6ners Taschenausgabe),S.302. 47)Planetの語源 はー 「さま よい歩 いて安 らわ な い」 状態 を意 味す るギ リシ7語 の形 容詞 Jdav71 に由来す るo q母 拙論 rニーチ ェ ・コン トゥラ ・パス カル (その5), (長野大学紀 要ー通 巻第28号ー1986年5月)ー21真一 参照。吐g)Fr.Nietzsche,"Also sprach Zarathustra" S.84.
eO)Fr. Nietzsche, "I)er Wille zur Macht" (Kr6ners Taschenausgabe Bd.78),Vorrede
,
Nr.1. Cl) r悦 は しき知識 J の 「悲劇 が始 まる」と題 された342 番 の ア フ ォ リズ ム。1882年 の第 1版 で は この アフ ォ リ ズ ムが r悦 ば しき知識 J 中最 後 の ア フ ォ 7)ズ ムで あ っ た。 しか し1886年 の第2版 で はー 「わ れ ら怖 れ を知 ら ぬ老 ど も」 とい う副題 を もつ窮 5書ー41眉 の ア フ ォ1) ズ ムが付 加 され て、 出版 され た。
C2諮 Fr.Nietzsche,"EcceHomo"(Kr6ner sTa-schenausgabe,Bd.77),S.349.
C23)"daslebloseEinsame",vgl.G.W.F.Hegel,
"DiePhanomenologiedesGeistes" (Philos o-phische Bibliothek),S.564.
C24) Fr.Nietzsche,"EcceHomo",`Vorwort'Nr. 3,S.294.この文 の ヴ ァ リア ソテは r力- の意志 . Nr.1041に もみ られ る。 CZS)Fr.Nietzsche,"EcceHomo" S.369f. e6)`der PrinzVogelfrei' r悦 は しき知識 J の第 2版 にはー第5書 「われ ら怖 れ を知 らぬ者 ど も」 とと もにー附 録 と して 「プ リンツ ・フ ォー ゲル フ ライの歌」 と して14眉 の詩 が つけ加え られ たO "vogelfrei" と は古代 ゲル マ ンお よび中世法 では 「法 律保護 停止」刑 に処せ られ た こ とを意 味す る。 か か る刑 罰 に処せ られ た者 の屍 体 は埋 葬 を拒 否 され 、鳥 がそ の屍 肉 を 自由に 啄む に任 せ られ たか らだ とい う(Vgl."Rluge,Et y-mologischesWbrterbuchderdeutschenSprach" S.823)。 ニーチ ェはー この よ うな意 味 に加 えてー さ らに文 字 通 り
ー
「大空 の鳥(Vogel)の ように 自由な(frei)」 t とい う意 味 も込 め る。 か くして ニーチ ェの 「プ リンツ ・フ ォーゲル フ ライ」 は ニ ュア ンスに豊 ん だ人物 像 とな って い る。
e7)Fr.Nietzsche,"Diefr6hlicheWissenschaft"
S.10f.
e8)Fr. Nietzsche,〝Ecce Homo〝, Lvorwort' S.295.
位9)Fr.Nietzsche,"DerAntichist" Nr.46. 60)Fr.Niet2:SChe,"I)erWillezurMacht"Nr.540. (31)Vgl.Fr.Nietzsche,"AlsosprachZarathustra"
S.172. (329ibid.S.336. (33)ib.id・S・172. (34)ibid.S.320. 個 ibid.S.172f.
06)G.W.F.Hegel"VorlesungentiberdiePhi -losophiederReligion"1(TheorieWerkausgabe Bd.17Suhrkamp Verlag),S.291r.
07)E. Canetti "Masse und Macht" (Fischer Tascbenbuch Verlag),S.373.
68)Fr.Nietzsche "EcceHomo" S.380.