研究ノート:近代イギリスにおける社会生活史の一齣
A S h o r t H i s t o r y o f S o c i a l L i f e i n M o d e r n B r i t a i n
長
島 伸
一
Shinichi Nagashima
は じめ に 社会史研究 が活況を呈 している。従来の歴史研 究が,経済や政治の分野で体系的 な鳥取図を提出 す ることを意 図す るものが多かったのに対 して, 近年 のそれは,都市や地方 に住む民衆の生活 に視 座 をす えて,個別的 な虫撤図を積み重ねて歴史像 の再構築を試み よ うとす る傾向が強い といえる。 じっさい,社会史を特集に組 んだ雑誌が出された り,社会史の専門誌が発行 されていることが,そ れ をなによりも雄弁 に語 っている(l)。また,フラン スのアナール派の翻訳が続 々と刊行 されてい るこ ともその証左 となろ う(2)0 わが国におけるイギ リス史研究 は,経済史 を中 心 に長 い伝統 を形作 ってきた。 しか し十数年前 に その伝統的 シ ェ-マに 「再検討」 を要請 した グル -プの中か ら,経済史 プロパーの研究 に留 まらず 社会生活史へ と視野を拡げる研究者が輩 出 して き た ことが,今 日の歴史研究の活性化の一つの原因 といえる(3)。しか も社会史の範囲は,例 えは,庶民 生活史,民衆運動史,文化史,都市史,女性史, 地域史,教育史な どに拡が りを もって きているの が現状である。 本稿 は,近代 イギ リス史の一部分を,便宜上, 商 業革命期(1660年代∼1770年代),産業革命期(1770 年代∼1830年代), ヴィク トリア朝期(1837年∼_1901 午)の三期 に区分 し,それぞれの時期に従来の研究 が明 らかにした生活社会史上の史実を排列 し研究 の動向を探 る ことを課題 としている。 もとよ り対 象 とす る期間 は長 く,紙幅 は限 られているので, ご く大 ざっはな概観を与 えることしかできないが, 小論 の 目的は,個別的領域の深部に分け入 ること で はな く,いわば通史的なアウ トラインを描 くこ とにあ るとい う点をあ らか じめお ことわ りしてお きたい。Ⅰ
商業革命期の社会生活史
17世紀後半から18世紀最初の三分の二期 までをも オランダや フランスとの重商主義戦争 における戦 勝を通 じてイギ リスの覇権が確立 してゆ く時代で あ り, この時期 は,大航海時代 を ヨ- ロツパ商業 革命期 と呼ぶのに対 して, イギ リス商業革命期 と も呼 ばれてい る。 マルクスが,
「本源的蓄積」の主 要契機 として挙げた 「植民制度,国債制度,近代 的租税制度,保護貿易制度」 などの重商主義的諸 政策 が体系的 に整備 されたの も17世紀 の末期の こ とであ った(4)。そ してこれ らの政策の受益者 は,「植 民制度」 の具体的法体系たる航海条例 に守 られつ つ商業革命を推進 した外国貿易商人 と, イギ リス 革命期 の議会 を通 じて 「保護貿易制度」 の基軸た る輸出奨励金制度 (-穀物条例)を組織化 したジ ェン トルマン (地主貴族 とジェソ トリ)であった. この時代 に,大商人 と大地主 に代表 され る上層市 民が先鞭 をつ けた菅惨的生活は,やがてそれを模 倣 し社会的上昇を図ろ うとす る中層市民 を もまき 込み 「生活革命」へ と展開 してい くことになる。 それは衣食住 も含めたあ らゆる生活部面 にわた る ことになるので逐次見 てい くことに しよ う。 商業革命の直接的効果 は,言 うまで もな く食生 活の分野で顕著に現われた。それは 「植民制度」
が もた らした果実 ともい うべ きもので,非 ヨー ロ ッパ世界各地 か ら新奇 な商品群が流入 し,〈第1
次 食事革命)ともい うべ き事態を呈す ることになる。 17世紀 中葉か ら18世紀初頭 にかけて,酉 イン ド諸 島か ら砂糖, レモ ン,オ レソジが,中南米諸国からほ, と うもろ こし, じゃがい も, ピーナ ツ, ト マ ト, ココアな どが,東 イン ドや中国な どアジア 地域 か らは,紅茶,米, バナナ,す いか,桃 な ど が,ア ラ ビアか らは コー ヒーが続 々と輸入 され る. この うち とくに紅茶や コー ヒーは,単 に食生活の 変化 を もた らす に とどま らず,生活文化面での転 換 をひ き起 こす ことにな る。 とい うのは, コー ヒ ー ・紅茶 は,茶 の卸売 が普及す る
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年代 以前 に は, コー ヒー ・- ウスで飲 まれ, そ こに独 自の文 化 が花 を開いたか らであ る。 コー ヒー・- ウスは,1
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年 に大学町 オクス フ ォー ドで店開 きしたのが 最初 と言われてい るが, その後わず か30年間の う ちに ロン ドソで2,
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軒 とも3,
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軒 ともいわれ る 程 の盛況ぶ りを示 した。 その理 由は,単 に珍 しい 飲み物 に対す る噂好の高 ま りとい うよ りもむ しろ, そ こが情報交換 や経済取 引の場 であ り,新聞や雑 誌 の閲覧 を通 じた世論形成 の場 で もあ ったか らで あ る(5)。パ イプ・タバ コに代わ って世紀交替期 ごろ 普及 した喚 ぎタバ コの習慣 も,2
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年代 に普及 した 富 クジや競馬 な どギ ャンブル熱 の高騰 も, その き っかけ となった南海泡沫事件(6)ち,コー ヒー・ノ、ウ スぬ きに語 ることはで きない。 ところで,一般 に,流行 は上層市民 の慣行 を中 ・ 下層市民 が まね ることを通 じて伝播す る。上流気 取 りと訳 されるsnobberyが流行の波及す る原動力 であ った と見 なす ことがで きる。 これに よって, ジ ェン トルマンのステ イタス ・シンボルであった ステ ッキや アソプレラは, はや くも1
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年代 には その象徴的意味 を失 うことになる。 しか し, なん とい って も流行 の普及率が高 い ものの筆頭 に位置 す るの は衣料品であろ う。商業 革命期 を通 じて イ ソ ド産 キ ャラコが大量 に輸入 され,世紀末 には周 知 のキ ャラコ論争が繰 りひろげ られ る。1
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年 の キ ャラコ輸入禁止法 と1
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年 の キ ャラコ使用禁止 法 はその論争 の帰結 であ るが, それ らの法的規制 に もかかわ らず1
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世紀初頭 には コッ トン革命 とも いわれ る事態があ らわれ る。 ドレスや下着 に留 ま らず, シーツ, カーテ ン, - ソカチに至 るまで綿 製 品が席巻 し,海外 か ら輸入 された象牙や琉拍製 の装身具 と組み合わ され て ファ ッシ ョソの花 を咲 かせ ることにな る。 もっ とも,綿製 品が最下層 を 除 く中 ・下層階級 にまで均質化す るのには,1
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世 紀末期 に成立す るといわれ るマス ・マーケ ッ トの 時代 まで得たね ばならないが,綿工業 にお ける機 械化 として画期 をなす産業革命へ の胎動が,それ 以前 に コ ッ トソの国産化 -低廉化 を通 じて準備 さ れていた点 には注意 してお く必要 があろ う(7)0 衣食 の変革 と並 んで住宅 お よび燃料 に変化がひ き起 こされたの も商業革命期以降 の ことであ る。1
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年 にペス トが大流行 しく8),翌年 には ロン ドンの シテ ィの五分の四が消失す るとい う大火(9)にみまわ れたが, それを機 に再建 され る家屋 は,木造か ら レソガ造 りか石造 りに改め られた。 また,1
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世紀 初頭以来,主 として工業用燃料 として徐 々に石炭 が使用 され るよ うにな り, レンガ工業 とともにガ ラス工業 な ども興 っていたため, それ まで窓 に用 い られていた紙 に変わ って,窓 ガラスが使用 され るよ うになる。 さらに工業用 はか りで な く家庭用 燃料 として も木炭 か らやがて石炭 が用 い られ るよ うになると煙突が必要 にな り, それ まで部屋の中 央 に作 られていたいろ りが暖炉 に変わ り壁面へ と 移 され ることになる。 こ うして庶 民の生活空間 に 変革が もた らされ るの と並行 して, ロソ ドンの都 市計画が レソ (SirChristopherWren)の設計の も とで行われ, 大火後首都 の よそおいは一新 され る ことにな った。1
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世紀 の庶民生活 は, さまざまな娯楽 によ って彩 られてい る。例 えば, ロン ドン各地 で毎年 定期的 に開かれた市(fair)もその一つで, バー ソ ロ ミューの市 (St.BartholomewFair)は,1
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世紀 以来の伝統 を もち,毎年 旧暦 の8月2
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日をはさん で数 日間開催 された。 5
月 には/、イ ド ・パ ークの 東側で五月市 (Mayfair)が開かれた し, テ ムズ川 南岸沿 いではサザ ックの市(SouthwarkFair)が立 った。最後 にあげた市 の模様 は,「エ ッチ ソグ・ニ ー ドル 〔銅版画〕のシ ェクス ビア」と呼 ばれた詞刺 画家 ホガ-ス (William Hogar恥 1
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の筆 が生 き生 きと伝 えてい る(10)。 ロン ドン以外 では,1
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世紀 にその起源 を もつ ケンブ リッジ近傍 のスタ ー ブ リッジの市 (SturbridgeFair)が有名であ る. また,冬期 にテ ムズ川が氷結す る と氷上市(Frost Fair)が開 かれ, ロン ドン橋 の下 には屋台が出て, 馬車の競走や人形芝居 な ども行われた とい う(ll)0 市 とな らんで庶民に人気 を博 したのは,闘鶏(二 羽のシャモのどちらかの目が潰 されるまで闘わせるギ - 90-ヤンブル),闘犬,牛 い じめ (長い縄で首をつながれ た牛にグレイ-ウソド犬をしかけて噛みつかせる見世 初),熊い じめ,ネズ ミ殺 しな ど,動物愛護協会 の お歴 々が 目をむ きそ うな動物 虐待 ゲ ー ム (blood sports)であった。 ホ ガ-スの作品 「闘鶏場」に も, 職業や階層のいかんを問わず雑 多 な観衆が一堂 に 会 して熱狂 してい る場面が写 しとられ てい るが, 16世紀や17世 紀初頭 には,宮廷 で外国大使歓迎用 にそれ らが催 された ともいわれ ている(12)0 休 日に人の集 まる公園を散策 し,公園内の売店 で ワイソを飲 み軽食 を とる習慣 も, この時期 の庶 民 の楽 しみの一つ に数 え挙 げることがで きる。18 世 紀 の30年代 と40年代 には, ヴ ォクソール遊園が 改装 された り円形遊戯館で有名 な ラネ ラ遊園が開 園 され
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年代 には,東洋風のパ ゴダの建つ キ ュ ー ・ガーデンや商店 が軒 を並べ る フ リー ト街 が出 現す る。 巨大都市 ロソ ドンに点在す る公園や商店 街 な どの盛 り場 は, そ こに集 まる庶民 の一人一人 に とって,他 人を 「見 る」場 であ り, 同時 に他人 か ら 「見 られ る」場 で もあ り, 自分を 「見せ る」 場 で もあ った。 した が って,身分や階層秩序 が混 然一体 となった都市- そこには閉じた 「顔見知 り の社会」とは異質の 「匿名の社会」が出現 している一 一 で こそ,風俗や習慣 が瞬時 に伝播す ることにな る(13)0 しか し, なん と言 って も,庶民生活史 をひ もと くにあた って落 とす ことので きないのは飲酒 の習 慣 であろ う。 そ して飲酒 の歴史 とい うことになれ は,パブ (publichouse)を抜 きに して語 ることは で きない。「イギ リスの歴史 の多 くは下院 とともに パ ブで作 られ て きた」 とい うのは少 々オーバ ーな 表現 であ るとして も, コー ヒー ・- ウス文化 と並 んでパ ブも独 自の経済的 ・政治的 ・社会的 な機能 を有 していたか らであ る。 一 口にパ ブと言 って も, それ は通称 あるいは総 称 であって,実際 にはい くつかの タイプに分類す る ことがで きる.1830年代 に成立 した「ビール法」 によって ビ-ルの販売が 自由化 された後にはビア・ - ウス(beerhouse)が乱立す るが,商業革命期 に 存 在 したパ ブは次の4
つ に分 け ることがで きる。 (1)イ ソ(inn) 駅馬車の中継点に建 てられた宿屋兼 居 酒屋(14)0 (2)タバーソ (tavem) 13世紀 に もその 存在 が認 め られ るパ ブで,振 りの客に酒 と食事を 供 した.擬石 は F文学評論Jの中で これ を 「酒砕」 と訳 して紹介 している.
(
3
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エール- ウス(alehouse) タバ ー ンよ りも格が落 ちェ-ル 〔ビールより苦 くて こくがあ り6%
程度の7ルコール分を含む〕や ビ-ル とともに食事 を供 した酒場。 (4)ジンシ ョップ(gin shop) 食事 は出 さず ジンだけをカウンターごLに 販売 した下層市民向けの酒場。 ところで,パ ブの独 自の楼能 であるが, イソが 交通 の要衝 に建 て られていた ことか らも推量可能 なよ うに, そ こは毛織物や穀物 な どの商品取 引場 の役割 を担 っていた。 しか しそればか りで な く, 郊外 の イソは地方政治 の場で もあ り, また コソサ ー ト会場や品評会 ・展覧会 の催物会場 で もあ った。 またパ ブ経営者(publican)は,室 内で各種 のゲ-ムや歌 ・芝居 ・ダンスな どを主催す るはか, ク リ ケ ッ トやボクシ ソグな どのスポー ツ競技 を組織 し た り,既 にふれた闘鶏 をは じめ とす る伝統的 な動 物虐待 ゲームの プ pモーターで もあった(15).そ う であれ ばこそ下層庶民が 自分の家以外の ところで 時間を過 ごそ うとすれば,足 が 自然 にパ ブの方 に 向か うとい うことに もな ったのであ る。 飲酒 の習慣 は, しか し生活苦 に拍車をか け,中 毒や風紀素乱 な どの社会問題 を もた らす。ジンは, ジンシ ョップで飲 まれただけでな く,床屋 ・タバ コ屋 か ら食糧雑貨店 ・靴屋 に至 るまで,無数 の商 店 で売 られていた し,街頭 の手押車で も手 に入れ ることがで きた.再 びホ ガ-スに登場 して もらえ ば,18世紀 中葉 の作品 「ジ-/横丁」(GinLane)に は,泥酔 のため赤 ん坊 を階段か らと り落 とす母親 早, タ ンカがわ りの手押車 で運 ばれ る瀕死 のアル 中患者 にまじって,赤 ん坊 を眠 らせ るため ジンを 飲 ませ る母親 の姿 な どが描 き出 され てい るが, ア ル コールに対す る熱い要求を抑制す ることは,飢 えと貧 困に職 ぐpl/ ドンの貧民層 に とっては至難 のわ ざであ った よ うであ る。 それ と対照的 であ ったのは,地方 の貴族 や ジ ェ ン トリまた ロン ドン在住 の医師 ・牧 師 ・芸 術家 な どが バ - ス (Bath)や タ ン ブ リッジ ・ウ ェル ズ (TunbridgeWells)な どの鉱泉 (spa)で過 ごす 「社 交季節」(theSeason)の豪勢 な賑わいであ った。 特 に, ローマ時代 の集落 を再興 して社交都市 に変 貌 を とげたバ ースは,18世紀中頃に ロン ドンか らプレステージを味わお うとす る奪惨的生活者たち で ごった返 した。市 内には, コ- ヒ- ・′、ウスや 劇場 は言 うに及 ばず,集会堂 ・舞踏会場 ・賭博場 まで備わ ってお り,- ホガ-スが連作 「当世風結 婚」の第1図でシニカルに描いたように- 財 は築い たが家系に見劣 りのす る新興資産家の娘 と爵位 は あるが財産 が不足 ぎみ の没落貴族の息子 とが,互 .いの両親たちの虚栄 と貴欲の犠牲 となる結婚契約 場 とい う一面す ら備 えていた とい う(16)0 この ように,上層市民 との較差 は歴然 としてい たが,両者の中間に位置するさまざまな階層が存 在 していた ことも事実であって,階層間較差が固 定 していた と見 るのは正 しくない。事実,次の産 業革命期に企業家 として成功 し,中流階級(middle class,これはしばしは中産階級と訳されるが,かれら は押 しも押されぬ大資産家である)の仲間入 りを果た した人 々が,無学文盲 の徒弟職人出身者であった 例はかな り多か った し,産業企業家や シテ ィの大 銀行家が1,000--カ以上の土地を購入 してスクワ イア(squire)や ジェソ トリになることもめず らし くなか った。 もちろん, それをあま りに拡大解釈 す るの もまた危険であ ろ うが,商業革命期や産業 革命期が,予想以上 に社会的流動化 (社会移動) のはげ しい時期であ った ことも忘れてはな らない であろ う。
Ⅰ
Ⅰ
産業革命期 の社会生活史
18世紀の最後 の三分 の一期か ら1830年代 までの 数十年間は, イギ リス経済史上,産業革命 の時代 とよばれている。産業革命の評価 をめ ぐってほ, 周知 のごとく,対照的 な二つの説が並存 している。 一つは,この時代 に生産 力の急激な変化が起 こり, 国富が増大 したにもかかわ らず,労働者階級の生 活水準は逆 に低下 した とみる革命説,非連続説, 悲観説の立場. もう一つ は,社会 ・経済的変化は 前者が強調す るほど革命的なものではな く,む し ろ緩慢 な推移 を示 し, この間大部分の労働者 は雇 用機会の上昇等 によ りその生活水準を向上 させた とみ なす連続説,楽観説 の立場(17)。産業革命期の 生活水準論争 にここで立 ち入 る余裕 はないが,質 銀や物価 な どの物質的要 因のみならず社会生活上 の変化か らくる精神的要 因をも考慮にいれて,前 者の通説的立場 に軍配 をあげても差 し違 えの危険 は少ないのではないか と思 う。 ところで, よ く知 られているよ うに,18世紀60 年代後半から80年代にかけて,アークライト(Richard Arkwright)の水力紡績摸 (water-frame),--グI)-ヴズ (JamesHargreaves)のジ ェニ-紡績機 (spinning・jenny),クロンプ トン(SamuelCrompton) の ミュ-ル紡績機(mule), カー トライ ト(Edmund Cartwright)の力織機 (weavingengine)のいわゆ る 「四大発明」が行われ,綿工業 における紡績 ・ 織布過程の機械化の第一歩が踏み出された(18)。そ の後,紡績以前 の工程 (打綿 ・琉綿 ・粗紡) と織 布以降の工程 (漂 白 ・染色 ・捺染)の機械化が促 され, その先駆性 と自生的性格 とを特徴 にもつ イ ギ リス産業革命 は,機械制大工業 による労働の単 純化を通 じて,熟練労働を駆逐 し資本による労働 の包摂を事実上完成 させたのであ る。 綿工業を起動力 とす る工業社会 の出現 は,製鉄 業お よび炭鉱業 の発展 を促 し,やがて30年代以降 の鉄道時代を もた らす ことになる。鉄道以前の道 路交通 は,古 くか ら駅馬車お よび長距離定期馬車 が主流を占めていたが,一般に道路事情 は悪 く, 物 と人の輸送 には難渋を極めた よ うであ る。改善 の きざ しは,17世 紀後半 に始 ま る有料道路制 度 (tumpikesystem)によって与 えられ る。 これは, 道路維持費を教区民の負担か ら利用者に肩代わ り させ よ うとす るもので,それによって1770年頃 に は幹線道路網がほは完成 した といわれている. 普 たマカダム (JohnLoudonMcAdam)や テル フォ ー ド(ThomasTelford)らによって(Ig),道路舗装技 術が一段 と進歩 し1820年代 には馬車全盛時代 を迎 える。 都市化 と工業化の波 は,道路網 の整備 と並 んで, 運河建設を も促進 した。1761年 のマンチ ェスター ー ワース リィ運河を皮切 りに,石炭需要の増大に 応 じた運河建設 ブームが到来 し
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年代 は 「運河 狂」時代 とまで呼ばれた。河川 をつ なく-運河 によ って,輸送費は陸上のそれに比べ大幅に低下 し, A.ス ミスがい うように水運 は広大 な市場 を産業界 に開放 した し(20), また,運河技術 の経験 は,つづ いて始 まる鉄道建設への布石 となった。ただ し, 皮肉な ことには,水運 はその積載能力や所要時間 - 92-の短縮 に限度があることのために,鉄道時代の訪 れ とともに, その歴史的舞台か ら退かざるをえな くなったのであるが(21)0 時期的 にはヴィク トリア朝期にズレ込む ことに なるが, ここで
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世紀3
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年代か ら5
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年代 にかけて 現われた運輸 ・交通革命 にふれてお こう。い うま で もな く,世界で最初 の鉄道 は,1
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年 のス トッ ク トソー ダ- リア トン鉄道であったが, これは石 炭輸送を主 とす るもので旅客を運ぶための もので はなかった。 しか も,石炭 を輸送す る鉄道であ り なが ら,会社が悲鳴をあげ るほど石炭 を消費 した とい う。 ス ピー ドも,平均時速1
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マイルで,当時 の乗合馬車が時速1
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マイルで走 った といわれてい るか ら,水陸輸送 の補完物 にす ぎなかった。それ に終止符 を打 ち,旅客 と貨物の大量輸送 に新時代 の時 を告 げたのが,1
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3
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年 に開通 したマンチ ェス ター- リグァプール間5
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マイル (約8
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k
m)
の鉄道 であった。開通式当 日リグァプール選出の代議士W.
ノ、スキ ッソソ(William Huskisson)が途中駅 で対 向列車にひき殺 され るとい う不幸 な事故の発 生や, 自己の領分を侵蝕 され まい と必死 の運河会 社や有料道路会社が展開 した鉄道公害反対闘争 に もかかわ らず,3
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年代 と4
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年代 には鉄道株への熱 狂的 な投資 ブームが訪れ る。 こうした鉄道網の整 備 につれて,例 えは都市 と地方 との較差が急速 に 縮 ま り, 日帰 り旅行が可能にな り,職住一致 の生 活形態か ら通勤 にともな う職住分離が一般化す る ことにな り, また,駅構 内の書店 と独特 の貸本制 度を媒介 として,車中での読書の習慣が生 まれ る など,産業革命後の社会にはさまざまな変化が現 われ る(22)0 経済学説 の歴史の うえで古典派経済学の代表者 とみ なされている A.ス ミスとD.
リカー ドは,経 済社会 の原理(principles)を解明す るにあた って, 地主 (土地所有者)階級,産業資本家階級,労働 者階級 とい う 「三大階級」か らなる社会を想定 し てい る(23)。 しか し, これはあ くまで も理論的 な想 定であって,現実には, さらに複雑 な階級 ない し 階層区分が可能であることは当のス ミスや t)カー ドはか りでな く多 くの著述家の認め るところであ った。例 えは,1
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年 に出版 されたある著作 は, 次の よ うな階級分類のもとで,家族数 と人 口数 と を推計 している(24)0 社 会 的 地 位 ま た は 職 業 の 具 体 例 家 族 数 人 口数 皇族,上院議員,上級公務見 ,男爵以上の貴族 p5
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准男爵,ナイ ト,地方 ジェン トリー,その他の高収入家族4
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高位の国教会聖職者,公務員,一部の弁護士 .医師,一部の2
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α
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5
商人 .製造業者 .銀行家t
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以外の教会お よび公務関係者, 高位の非国教会系聖職 者,l
3
以外の弁護士 .医師、教師、l
3
1
以外の商人 .製造業 者,船舶 .倉庫 .店舗所有者,第2
級のフリーホル ダー, 芸術家,相当の収入のある建築業者 と技術者 下位のフリーホル ダー,第2
級の店舗所有者 ,イ ソ .メ ブの経営者,その他相応の収入のある者 の他労働に携わる者 救貧法適用者,鋲宿者,ジプシー,ごろつき,放浪者 ,そ3
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,
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001
,
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の他定職のない者 軍関係者のうち将校 .(休職お よび退職者を含む) 10
,
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,0
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※小数点以下第3位四捨五入この うち,
(
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x
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)
(
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)
はジ ェン トルマン (地主階級, landlordclass),(3)(4)(9)が専門職 を含めた ブルジ ョ アジー(mi ddleclass),(5)が プチ・ブルジ ョアジ-, (6)が労働者階級,(7)が受救貧民(paupers,thepoor) と見 なす こともできよ う。人 口の約6割 を占め る (6)の階層 に含 まれ る,ある七人家族の農業労働者 の1
7
8
7
年 の家計簿によると,支出の7
割強はパ ン .代 (小麦粉 ・イース ト), 1
割強が紅茶 ・砂糖 ・バ タ ー代,肉はベーコンだけで1
割にもみたない状態 であった とい う。一般 にエンゲル係数が高いほ ど 生活状態 はお もわ しくないか ら, この家族の場合 が(
6
)
の階級を平均的に代表 していると見 なす こと はできないか も知れない。事実,労働者階級の中 で も トップクラスと目され る都市の技術工の場合 になると,かな りの生活水準を維持 していたよ う である。時代はす こし下 るが,1
8
1
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年に4
人家族 の ロン ドンの植字工の家計を見 ると,肉や野菜を 充分摂 り,黒 ビールの消費量 も多 く,その家計簿 の項 目には衣料費や教育費, さらに共済組合費 ま で現われ るか らである(25)。しか し,それにして も, 同 じ19世紀初頭 に,(1)か ら(
4
)
までの約3
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万家族 は, (6)に含 まれ る家事使用人(
1
3
0
万人弱)を単純平均 して も4人以上雇 う資力 を持ち,(4)の階層で も平 均年収 は一般の農業労働者の2
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倍以上 と見積 られ ているか ら,上 ・中層階級 と下層階級の生活水準 の較差 は想像以上の ものであった といえよう。 したが って,政治的権利を持たず,それゆえ伝 統的 な暴動に訴 える以外 に不満 を取 り除 く手段 を 持 っていなかった都市や農村の労働者たちが,お びただ しい数の騒擾 を起 こした としても驚 くに当 た らない。じっさい,1
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年 か ら1
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年の問に2
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の民衆暴動が起 こ り,その うち三分の二 は飢餓へ の恐怖か ら発生 した ものであった といわれている。 ロン ドンでは,1
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6
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年 に ウィルクス暴動が, また1
7
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0
年 には,史上最 も激烈で最 も残酷 に鎮圧 され た ゴー ドン暴動が起 こっているし(26),19世紀に入 いると,ラソカシヤーは じめ各地で,
「織布工 の黄 金時代」(
1
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年)を短期間詣歌 し,やがて機 械の出現によって逆境 に陥 らざるをえなか った手 織工 による機械打ち こわ し運動(Laddites,
1
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午)が起 こった(27)。これ らの民衆運動 とパ ンの価格 との間には密接 な関係があった ことは明 らかであ る。他方, これ らの暴動 に不安を感 じ社会の安寧 を望む声 に促が されて, ビーター ・ルー事件の1
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年後に, シルク- ツトに警棒を持 った紺色制服隊 が ピール (SirRobertPeel)の手 によって創設 され たのである。 ところで, この時期の民衆の教育程度 はどのよ うな状況にあったのだろ うか。1
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世紀末葉 までの 英国の組織的教育制度 として次の ようなものを挙 げることができる。(1)グラマスクール(grammar -school,古典語文法学校) 教会,ギル ド,篤志家 に よって創立 された無償の教育機関。 6歳以上の男 子 に古典教育を通 してご く基本的 な知識を身につ けることを 目的に した。ただ し,児童労働が家計 を支 えていた下層階級には無縁の制度であった。 (2)慈善学校(charity-∝hool) 聖書 を教材 に読み書 きと服従の精神を訓育す る 目的で (キ リス ト教知 識振興協会)が設立 した学校。
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年代 までに1
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校以上設立 されたが,その後教区や篤志家によ り 授産学校に振 り替 えられた。(3)日曜学校(Sunda y-∝hool) 貧民児童を宗教的 ・道徳的無知か ら解放 す るため レイクス (RobertRaikes)によって1
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年 に設立 され,その後急速 に普及 した無料の慈恵 的教育機関(28)。 これ らのほかに,(4)ウェールズ農 村の巡回学校,(5)非国教派のアカデ ミー, (6)職業 的知識 と技術習得のために教育的機能を果た した 徒弟制 および教区徒弟制 な どを数 えることができ る(29)0
要す るに産業革命期のイギ リスの組織的教育制 度 は,下層階級には宗教的立場か ら服従 と忍耐を 教 え,中流階級には聖職者養成 の道を準備す るこ とにあったが,貴族やジ ェソ ト1)の子弟 は,家庭 教師を通 じて支配者 としての知識 と教養 とを注入 され るのが通例であ った。 ホ ップス, ロック, ス ミスが貴族の子息の家庭教師を勤めた ことは有名 だが, その仕上げに大陸旅行(grandtour)が試み られそれに随行 した こともよく知 られている(30
)
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教育面で も階級間の較差 は格段の開 きがあったわ けだが,19世紀中葉以降は, イー トン(Eton)校, ラグビー(Rugby)校,/、ロー(Harrow)校 などに 代表 される寄宿制 のパ ブ リック・スクール (public ∝hool)が,エ リー ト中等教育の組織的機関 として 機能す ることになる(31)0 -94-この時代の支配階級である貴族 ・ジェソ ト.)の 収入源 は,い うまで もな くかれ らの所有す る広大 な所領か らあが る地代であった。一般 に,地方の 貴族 が 自己の所領 内に構 えた邸宅 は豪壮その もの で,既 にふれた子弟 の家庭教師のほかに, さきの 蓑
で(
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の階級に含 まれていた数多 くの使用人 (執 事,女中,料理人,御者 な ど) を雇い, ロン ドン にも屋敷を構 えるのが普通であった。上院議員は かれ らの独占す る無給 の名誉職であったので,会 期中は ロン ドンで,閉会中は地方の大邸宅で暮 ら すのが常であった。かれ らの社会的威信を示す シ ンボルは,おびただ しい数の召使い(servant,maid) と,狐や野 うさぎな どの狩猟 と,各界の名士 を招 いて開 くデ ィナー ・パーテ ィや舞踏会であ った。 貴族 に比べればそれほ ど富裕で もな く,その所 有地 も小 さか ったジ ェソ トリ(gentry)に して も, 莫大 な資産 に恵 まれていた点では貴族 と変わ ると ころはなかった。かれ らの中には,下院に議席を もつ ものが多 く, また各地の治安判事を兼ねてい た。 といっても,議員や治安判事がかれ らの職業 であったのではない。かれ らは,すすんで働 く必 要 のない有閑階級であったか らこそ, こうした無 償 の義務を果た し,乗馬や狐狩 りや会食 などの 日 課 を こなす ことがで きたのであ る(32)0 商業革命期 に 「社交都市」 として賑わ ったバー スは,19世紀 に入 ると往年の勢 いにかげ りをみせ は じめた。朝6時 に始 ま り夜11時 に終わ る規則的 で単調 な生活 に飽 きた有閑階級が, スパ ー ・タウ ンに変わ る リゾー ト地 として選 んだのは, ブライ トソ (Brighton)やスカーバ ラ (Scarborough)をは じめ とす る海水浴場であ った。当然のこととして, 温泉地 がた どった変化 を,つ ま り保養地 (health resort)か ら行楽地(pleasureresort)への転換を海 水浴場 も繰 り返す ことになる。その代表格 プライ トンで は中国趣味の離宮や遊歩道や桟橋(pier)が つ くられ,集会堂では音楽会や舞踏会が開かれ る とい った具合で,上流階級のための新 しい 「ロン ドンの衛星都市」の機能 を果た していた といわれ る(33)。 もっとも,鉄道の普及 と料金の低廉化によ って,旅行の大衆化が もた らされ ることになると, 日帰 り客 (daytripper)が増加 し 「社交都市」の風 貌 も再 び変化す ることになるが,それはヴィク ト リア中期以降の ことである。 他方, これ と対照的 なのが労働者階級の生活で あった。「18世紀の大部分をつ うじて,大工業 の時 代 に至 るまでは, まだ イギ リスの資本は労働力の 週価値 を支払 うことによって労働者のまる一週間 をわが ものにすることに成功 していなかった」(34)
が,
横桟制大工業の出現 は,既 によ く知 られているよ うに労働者に過酷 な労働条件の もとでの長時間労 働 と低賃銀 とを強制 したO機械化の進展 に よる資 本主義的管理の強化-の彰積 した不満 は,職場か ら解放 された土曜の夜か ら日曜 日にかけて解消す る以外すべはなかった。一週間 の勤めを終 え週給 を手 にパ ブ- くり出 した労働者 の給料袋 は,一晩 の うちに溶けて酒に化 けかな り軽 くなった といわ れてい る。翌 日も同 じことを繰 り返せば,月曜 日 は無断で欠勤す るか遅刻す るとい う 「聖月曜 日」 (SaintMonday)の風習が一般化 したのも うなずけ よ う。20年代か ら30年代 にかけてスピ リッツとビ ールの消費量が ピークをな し,30年代 はまたパ ブ 全盛時代 と言われているの も,産業革命期 の労働 強化 を反映 した もの とい えるわ けである(35)0 ⅠⅠⅠヴィク トリア朝期 の社会生活史
1837年 に始 まるヴィク トリア女王の治世 の直前 か ら 「大不況」 の始 まる1873年 までの時期 は,政 治 ・経済史の上では, 自由主義的改革期 と呼 ばれ てい る。1832年 には第一次選挙法 の改正が行われ, 産業革命の推進主体であ った産業 ブルジ ョアジー を中核 とす る中流階級にまで選挙権が拡張 された し,翌33年 には,工場監督官制度 を ともなった工 場法 (FactoriesRegulationAct)が制定 され,34 年 には労働者の移住の自由の保障を含む救貧法の 改正 (ThePoorLaw AmendmentAct)が行われ た。政治 ・経済上の 自由主義的傾 向は40年代 以降 に も引 き継がれていることは,パ ーマス トソ時代 のベルギーの独立援助をは じめ とす る各 国の民族 主義運動への援護外交,穀物条例や航海条例 な ど 重商主義的政策 の廃止,原材料 を中心 とす る輸入 関税率 の軽減な どか らも明 らかである。 しか し, 資本主義下の 自由主義 は, ヨー ロッパでは 自由 と 独立のための運動を助けなが ら, アジアで は7-ソ戦争 (1840-42年)とイン ドの直轄地化 (1858年) とによって自由を抑圧す ることに抵触 しない程度の もので しかなかった点 にも注意 してお く必要が ある(36)0 ところで, イギ リスが,チ ャーテ イズムで荒れ 狂 った 「飢餓 の
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年代」(
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を脱 し, ヴィク トリア朝の繁栄(
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を本格的に詣歌す るの-
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年代 に入 ってか らである。他国を農業国 とす る国際分 業体制 の下で,文字通 り 「世界 の工場」 として君 臨 して きた イギ リスが, ユニオン ・ジャックの国 旗- それは白地に赤十字のイt/グラ・/ド旗 と青地に 自Ⅹ十字のスコ久下ランド旗を組み合わせてできた一 一 の威力を世界 に誇示す る晴れの舞台,それが1
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午 -イ ド・パ ークで開催 された ロソ ドン万国博覧 会(
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であった。当時の科学 技術 の粋を集めて会場 に建設 された鉄枠総 ガラス 張 りの水晶宮(
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がなによ りもイギ リスの威光 を代弁 していた。
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日間の会期中の延 べ入場者6
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万人,実質で も4
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万人を上 回 った と いわれてい るか ら,首都 ロン ドンの総人 口の二倍 を超 える見物客が会場 を訪れた ことになる。 これ は,一つには ウィーク ・デ ィの入場料を大衆料金 〔1シ リング〕に押 えた こと, も う一つは,旅行業 者 クック(
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が往復割引切符を発売 し,地方 の観光客用 に団体旅行を企画 したのが好 評 を博 したか らであ るといわれてい る。 その意味 で,世界で最初 の万博 は,折か らの鉄道網の拡張 によって旅行 の大衆化の さきがけともなったわけ で,現 に1
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年 のパ リ万博 〔これは,5
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年のニュー ヨークにつ ぐ第3回万博。なおエッフェル塔は89年の パ リ万博のさい作 られた〕を契機 に海外旅行 ツ7-も企画 され るよ うにな り,一部庶民 に往年 の貴族 の習慣 の ミニチ ュア版を体験す る道 が拓かれたの であ る(37)0 万国博覧会が5
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年代以降の繁栄の象徴であ り, その繁栄が実体 を ともなった ものであった ことは, 労働者階級の生活水準の変容か らも明 らかであっ た。1
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年 を1
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年 の貨幣賃銀が1
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,実 質賃銀でも1
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とい う数字がそれを端的に物語 って い る。 しか し,それに先立つ4
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年代 は,E.
チ ャ ド ウィックの衛生報告書やF.
エソゲルスの著作(38)が 語 っているよ うに,労働者の状態が劣悪 な職場環 環 と不衛生 な生活環量でおおわれていた時代であ った ことは否定すべ くもない事実であ るし, また5
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年代 にそれ らが一気に解消 された とみ ることも できないoそれ は,例 えは1
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年 に首都 tlソ ドン で発生 した 「大臭気」(
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メイ ヒ ュ-の手 になる貧民調査報告(39)をひ もとくまで も な く明 らかであ る。 イギ リスでは1
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01年 か ら1
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年毎 に国勢調査か実 施 され るよ うにな り,統計の分野で も先進国を 自 負 しうることになった。 これによ り都市化 の実態 は明 らかになったが,下水施設の不備や給水の欠 如な ど都市 の衛生問題 は,手つかずのまま放置 さ れた。1
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年 か ら翌年 にかけて コレラが大流行 し た理 由 もそ こにあった(40)。チ ャ ドウィックの報告 書は,上下水道 の整備 と汚物の除去 とを行政組織 を通 じて果たそ うとす るもので, この報告書 に基 づいて1
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年 には公衆衛生法(
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が成立す る。 しか し,衛生改革の実 は思 うように はあが らなか った よ うで,1
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年後 にテムズ川汚染 に端 を発す る異様 な 「大臭気」- それはセポイの 反乱の話題そっちのけの事態を引き起こしたという一 一 がおそまきなが ら行政改革の断を下 した といわ れてい る(41)0 他方, エンゲルスの手 になる 「労働者 の状態」 に対す る悲観的観察が,4
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年代 とい う特定の時期 に限定 された観察 どころか5
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年代 以降に も妥当す る観察であ ることは, メイヒュ-の貧困調査が実 証 している。彼 は ロン ドンの総人 口の4
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分の 1に あた る5
万 人 が街 路 で糊 口を しの ぐ大 道 商 人(
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であるとし,その うちの3
万人が呼 売商人であった と見積 っているO呼売商人 よ り下 層には,路地裏 のゴ ミやが らくたを集め る 「くず 拾い」,革の汚れを落 とすために犬 の糞 を集めては 探 し皮業者 にそれを売 り払 っていた「糞拾い」
,下 水溝で物 をあ きる「どぶ さらい」
, テムズ河岸の泥 の中をあきる 「泥 ひば り」 などがいた し, また ロ ン ドン ・ドックには,木材荷揚げ人夫, シャベル で船倉-底荷を入れ る底荷人夫,船か ら石炭 を背 中に負 って運ぶ石炭背負い人夫 な どがいた。彼 ら は安い簡易宿泊所 に寝起 きし,主 な食事 といえば, パ ン, じゃがい も, スープ,錬,漬物 と玉葱, ソ ーセージとプデ ィング程度であ った といわれてい る(42)。 また,貧困 と表裏 の関係 にある売春 の統計 によれ ば,1
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年代 の ロン ドンには,約3,
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の売 - 96-春宿があ り,推定8万 にのぼるプ ロの売春婦 のほ かに数千 の素人売春婦 がいた とい う(4
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しか し,つ いで に指摘 しておけば, メイ ヒュ-の調査 に よって も,貧困が社会問題 として意識 さ れ改革の手が さ しのべ られた とい う事実 はなか っ た。 チ ャ ドウィックの報告 が出てか ら都市衛生改 革事業 がその一応 の成果 を挙げ るまでに約一世代 を要 したの と同様,貧困問題 に対 して も,産業革 命 を推進 した支配階級 は レ ッセ ・フェール主義で 臨 んだのであ る。政府 に重 い腰 をあげ させ るきっ かけを与 えるまでには,19世紀末葉 か ら20世紀初 頭 にかけてあいついで出版 されたC.ブースとS.
ラ ウソ トリ-の二つの社会調査報告(44)を待 たわはな らなか ったのであ り,その時 にはすでに大英帝国 の威信 にはかげ りが見 えは じめていたのであ る。 極貧層 に比べ る と一般 の労働者階級 の暮 らしは まだ ましであ った。1840年頃の ロン ドソの半熟練 労働者 (5人家族) の家計 をみ ると,週支 出15シ リングの内訳 は60%が食費で,食費 の50%がパ ン とじゃがい も, 肉は22%を占めてい る。家賃 の全 支 出に占め る割合が17%,わずか なが ら教育費 に も支 出 されてい る. 同 じ頃の ランカシ ャー綿工業 で働 いていた熟練労働者 (6人家族)の場合 には, 週賃銀 も1ポ ン ド1シ リング 1ベ ンス半 と高い。 その うち70%が食費で,食費 の41%がパ ンとじゃ がい もとオー トミール, 肉 とベ ー コンは17%を占 め,総支 出に対す る家賃の比率 は14%であった(45)0 同 じ40年代 に, バ ー ミンガムの労働者が,平 日に は厚切 りや切 り身 の肉を食べ, 日曜 には特別上等 な骨付 き肉を食べていた とい う記録 もあ るが,70 年代 になって もマ ンチ ェスターの下層労働者 は, 安 いオー トミール とじゃがい もと紅茶が普通 で, ベー コンな どの安い肉で も週3度位がせ いぜ いだ った とす る推測 もあ る(46)。いずれ に して も,一般 労働者 の食生活 に変化が現われる のは,60年代 に 始 普る (第二次食事革命)が仕上 げを迎 える80年 代 以降の ことであ って,その頃 になって よ うや く, 人造バ ター (マーガ リン)や オース トラ .)アか ら冷 凍船で輸送 された牛 肉 ・羊 肉や新鮮 な魚が食卓 を に ぎわ し,食 品保存技術 の進歩 によって, 肉や果 物 のか ん詰めや ジ ャムの ピソ詰めが現われ る(47)0 ヴ ィク トリア朝 の時代 において も,労働者 の暮 らしの中で コー ヒー ・- ウスやパ ブが果たす役割 は大 きか った。 コー ヒー ・- ウスほ,19世 紀中葉 で も ロソ ドンに2
,000軒あ った と言われ てお り,節 聞や雑誌や ダイジ ェス ト版 の手軽 な書物 の読書施 設 として庶民 に利用 されていた(48)し, 6人 のチ ャ ーテ イス トが 「人民憲章」(
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を採択す るために選 んだ会合の場がBr
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であ った ことか らも明 らか な よ うに,社会 運動家 グループの例会場 としても機能 していた(49)。 一方,パ ブは20年代 の福音主義勢力 に よる節酒運 動 に もかかわ らず30年代 には全盛期 を迎 え,43年 の 「劇場法」 に よって歌 と踊 りを専門 とす る ミュ ージ ック ・ホール(
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ll)がパ ブか ら独立 し た後 も大 いに賑 わ った。 とい うの は, ヴ ィク トリ ア朝 のパ ブは, かつての リク リエ ーシ ョン ・セ ン ター としての役割 に加 えて労働組合や友愛協会 の 集会所 として も利用 され, また 「葬式互助会」 な ど一種 の共 同積立 て組織や職業紹介所 としての機 能 を も兼ね ていたか らであ る(50)0 時代 が下れ ばそれにつれ て レジ ャも多様化 して 大衆化す る。1867年 に土曜半 日制 が全工場 で採用 され,71年 の 「ラポ ック法」によって年4回 の 「銀 行休業 日」(
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が法制化 され る と,折 か らの鉄道 の普及や実質賃銀 の上昇 と相 まって, 労働者 に とって も日帰 り行楽旅行 は夢 で はな くな った。かつての残酷 な動物虐待 ゲームに代わ って, ダー ビーや オークスな どの競馬観戦や70年代 には プ ロ ・フ ッ トボールの観戦 が土曜 の午後 の娯楽 と して定着 した よ うだ し,パ ブが若 い女性 をつれて いけるよ うな上品 なものに変質 してい った(51)。世 紀末 には,上流階級 には豪華 なホテルの レス トラ ンやバ ーが人気 の的 であ ったが,労働者 た ちは, 古 いモ ラスの批判や政治謁刺 を盛 り込 んだバ ラエ テ ィ ・シ ョーのかか る ミュージ ック ・ホ ールで 日 頃の溜飲 を下 げていた よ うであ る(52
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労働 者階級 に対 して ミドル クラスの生活 は これ とはか な り異質 なものであ った。 中流階級 といえ ば誰で もまず,産業資本家や富裕 な大商人や マー チ ャン ト・バ ンカーに代表 され る金融業者 な どを 想い浮 かべ るだ ろ う。 しか し, そのはかに,法律 衣 (弁護士)や医師 (内科医)な ど旧 くか ら存在 し た専門職 や,19世紀中葉以降急増 した機械技 師や土木技 師 な どの技術関 係者,企業規模 の拡大 に と もなって発生 した会計士 ,ペ ソタム主義者 の提唱 に よ り1870年代 に広 く行 われ るよ うになった文官 登用試験制度- これは中国の科挙制度をモデルに したといわれている- の施行後急増 した政府関係 官吏 な どの新 しい専 門職(53)を もこれに含め るのが 普通であ る。 ヴ ィク トリア期の ミドル クラスの メ ル クマ ールは,主婦 が家事労働か ら解放 されてい るか ど うか,つ ま り家事奉公人を雇 う収入があっ たか ど うかにかか っていた とい ってよい (54)。かれ らは1859年 に出版 された ちまちペ ス ト・セ ラ-と な った
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スマイルズの F自助論』(
55)が問いた よ う に,刻苦 勉励を 旨とし怠 惰を悪徳 と見 なす階級で あ り, その点が労働 とは無縁で政治 を片手間 に し なが らレジ ャー三昧 の暮 らしを していた上流階級 との違 いであ った。 もっ とも,資産 を蓄 えた ミド ル クラスの 目標 は,鉄 道網の拡大 に ともな う地価 高騰 に もかかわ らず土地 を購入 しジ ェン トルマソ になる ことに置かれ て いた し,かれ らの特徴 の一 つ に数 え られ る厳格 な非 国教主義 もやがてはアン グ 1)カソ ・チ ャーチ に同化 され る傾 向 も見 られた よ うで はあるが(56)。 19世紀 中葉 の中流階 級 の年収 は, ざっ と見積 っ て200ポ ン ドか ら1,000ポ ソ ドほ どであった。時期 的 には少 し以前 になるが1823年 の-資料 によると, 年収1,000ポソ ドの5人 家族の家計支 出は,食費 と 光熱費 (石炭 ・ローソク代) と石鹸代 な どをあわせ た基礎的生計費33%, 召使 と馬車 の維持費22%, 被服費12%,家賃 ・税 金 な ど12%,接待費 ・医療 費 な ど3%,教育費4%,貯金10%,雑費4%と な っていた。また,1857年 の年収1,000ポン ドの家 族 の基礎 的生計費35%の内訳 を見 ると, 肉類 と魚 に30%があて られ,野 菜(5.7%),ピール(5.7%), イタ リア食品(2.3%)な どのほか にブ ドウ酒 な ど 'O酒類 に14.3%が割 り当て られてい る。石炭 ・灯 油 な どの光熱費 に10.5%,洗濯代 に11.4%が計上 されてい るの も注 目され る(57)。 こ うした数字 をた よ りに中流階級上層 の理 想的家庭像 を描 くとすれ i一 一清潔 な衣服に身 をつつ んだ家族 が明 る く暖 かい住居 内で数多 くの召使いにか しづかれなが ら 豪勢 な食事 を し,友 人 家族 を接待 してパ ーテ ィを 開 き,貯金 の一部を はたいて定例休暇 を .)ゾ- ト 地で過 ごし,休 日に は馬車を駆 りたてて郊外- の 散策 を楽 しむ といった- 1870年代に一世を風磨し たHomeSweetHomeのメロデ ィに象徴されるよう な- 家庭像 を浮か び上 が らせ る ことが可能であ ろ う。 ところで,中流階級の学校教育 に対す る態度 は どの よ うな ものであ った のだ ろ うか。厳格 な古典 教育 を通 じてジ ェン トルマ ソの統 治能力 の酒義 と 教養 を身 につけることを本義 としていた寄宿制 の パ ブ リック・スクールは,年 間200ポン ドの授業料 を要 した といわれ ているか ら, よほ どの余裕が な いか ぎ り,中流階級 に とって も高嶺 の花であった。 それで も1840年以降 に110校 の うちのほぼ半数 にあ た る47校 のパ ブ リック ・スクールが新設 されてい るか ら,上流階級の子弟 にな らって富裕 な中流階 級の子弟 にも- I)- トの地位 を手 に入れ させ る手 段 が講 じられていた ことはまちが いない。 しか し 当時就職 には縁故関係が幅 をきかせ ていたため, コネ と無縁 の中流階級の子弟 に とっては,資格 を 取 って専門職 に就 くことが出世 の道であ った。 こ の よ うな上級専門職 を志望す る中流階級の要望 に 答 えパ ブ リック ・スクールに対抗すべ く各地 に設 立 され た もの が, 出資 者 経 営 学 校 (proprietary ∝hool)と呼 ばれ るものであ った。 その生徒数 は, 1868年 には寄宿生約4,600人, 自宅通学 が約7,600 人 に達 した と言われてい る。中流階級上層 の娘 に は,貴族や ジ ェソ ト1)の娘 と同 じよ うに,住込み の女家庭教 師 (govemess)がつ け られ ることもめ ず らし くなか ったが,40年代後半 か らは, ご くわ ずかで はあったが女性 に も出資者経営学校 の門戸 が開かれた よ うであ る(58)0 ヴ ィク トリア期 において も,政 治上のゆ るぎな い支配権 はジ ェン トルマ ンの手 に握 られていた よ うに見 える。かれ らの収入源 であった所領 は,3,000 - -カか ら10,000エーカ,最低 の ランクで も1,000 --カ(120万坪)は持 っていた といわれ る01870 年代 の調査 によると,400人 の貴族 が全所有地 の17 % を,約1,300人の地主 (3,000--カ以上の所領) が25%を,そ して約2,500人 の小地主(1,000-3,000 --カの所領)が1
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をそれぞれ所 有 していた とい う。 したが って,貴族 とジ ェソ トリあわせ てわず か4,200人 (全人口の0.44%)が,全所有地 の55%を 占拠 していた とい うことになる(59)。 これ ら上流階 - 98-級 の生活 は, ヴ ィク トリア時代 において も,すで に産業革命期 の項 で見 た ところ とほ とん ど変わ り はない。要す るに,普通1- -カにつ き1ポン ド と見積 られ る莫大 な地代収入を裏 付け として,孤 狩 りや ク リケ ッ トや盛大 なパ ーテ ィを行 い, これ らの 日課 に支障 を きた さない範 囲で,中央 の議員 職 や地域 の治安判事職 とい った名誉 あ る義務 を果 た していたのであ る。 かれ らの子弟 は,パ ブ リッ ク ・スクールか らオ ックス ・ブ リッジの門を くぐ り,やがて長 男 は長子相続制 によって土地財産 を 継承 し,次三男 は国教会 の聖職者や陸軍将校 にな るケースが多か ったが, いづれ に して もかれ らは 中流階級の 自助 の精神や出世競争や拝金主義 を白 い 目で眺め, ミドル クラス とは一線 を画 していた のであ る(60)0 しか し念 のため に付 け加 えておけば, ヴ ィク ト リア朝の地主階級が政治上 の支配権 を掌握 してい たか らとい って, かれ らが経済社会 の支配階級で もあ った と考 えるのは早計 である。確かに, この 時期 に もあい変わ らず議員 の多数 は地主で 占め ら れ ていた ことは事実だ し,1846年 の穀物条例廃止 に よって政治上 の影響力が薄め られてか ら後30年 間 が じつ は 「地主政治」 の最盛期であ った, とま で言われ ることもあ る(61)が,そ うした表面的 な事 実 を もって中流階級 の中核 に位置 していた産業 ブ ル ジ ョアジーの政治 ・経済社会 に及 ぼす支配力を 過 小評価す ることはで きないか らである。 かれ ら ほ,産業革命期 い らい,各地 に商業会議所や工業 会 議所 な どの院外組織 を結成 し,やがてそれ らの 全 国組織 は地主議会 に対 して プレ ッシ ャー ・グル ープとしての枚能 を果た し うるまでに成長 したの で あ る。したがって,産業 ブルジ ョアジーは,1832 年 の第1次選挙法改正以降 も,直 ちに議会へ進 出 せず とも,労働者階級 を もまき込み なが ら
,
「国民 的利益」 の旗 をかかげて 自己の利害 (政策) を実 現 しえた点を軽視す ることはで きない。 以上 の よ うな脈蕗で,史家が時折 引用す る,1860 年代 に発せ られたあ る大工業家のつぶや き- こ れは,フランス人 H.A.チ-ヌの著書(62)に紹介された ものだが- に耳 を傾 けれ ば,ヴィク トリア朝社会 の支配権が表面上 はジェン トルマンに属 しなが ら, 実 質的 には産業 ブル ジ ョ7ジーの側 に移 っていた ことを充分読 み とることがで きるであろ う。 「私 たちの 目的 は,貴族 の支配 をひっ くり返す こ とで はないのです。私たちは, これか らも,政府 と国家の要職 をかれ らの手 に委ね るで し ょう。 と い うの も,私 たち中流階級 の人間 は,国家 の仕事 を遂行す るためには,特別 な人間,つ ま り何代 に もわ た ってその仕事のため に生 まれ, かつ育 った 人 々で, しか も大局的 な視野か ら自らの判 断で行 動で きる地位 にあ る人 々が どうして も必要 だ とい うこ とが, よ くわかってい るか らです。彼 らを し て統 治せ しめ よ。ただ し,統治す るにふ さわ しか らしめ よ (Letthem govern,butletthem be且t togovern.)」
限 られた紙幅の中で, いそ ぎ足 で近代 イギ リス の社会史的側面 のア ウ トラインを記 して きたが, 最後 に,注で もふれておいた夏 目軟石 の F文学評 論j か らの引用 で本稿 を閉 じることに したい。彼 は, 1905(明治38)年 9月か ら 1年半 に亘 り東京帝 国大学 で 「18世紀英文学」 を講ず るにあた り,文 学史 の講義が 「魚か ら骨だけ切 り取 った よ うな も の」 であ ってはな らない, との立場 を明確 に して いる。小説 は「社会その ものを写 して」
「社会 の光 景が眼前 に浮 ぶ」ものでなけれ ばな らず,
「社会を 感ず る」 もので もなければな らない, とい う擬石 に独 自の小説観 は,対象 こそ異 なるとはい え,80 年後 の現時点 で社会科学 を学ぶ前提 として歴史そ の ものを論ず るにあた って も傾聴すべ き響 きを失 って いない よ うに思われ る。 (1985年 1月30日) 注 (1) F思 想』663号,1979年 9月。F経済評論」第32巻 10号,1983年10月。また F社会経済史学j第44巻 4号 (1979年 1月)は第47回大会特集号 として「ア ナ-ル」学派の特集を組んでいる。1982年 に創刊 された F歴史 と社会』(リプロポ- ト)と F社会史 研 究』(日本エディタースクール出版部)は, とも に現在第5号まで刊行されている。 (2)E.LeRoyLadurieF新 しい歴史- 歴史人煩 学への道-
j(Leterritoiredel'historien,2 Tomes,1973/78.樺山紘一他訳,新評論,1980年), P.AriesF"子供"の誕生- アンシアン=レジーム 期の子供 と家族生活j(L'Enfantetlaviefamil -ialesousl'AncienRさgime,1960.杉山光信 ・杉山 恵美子訳,みすず害房,1980年)01974年)の近代 イギ リス史部分 (執筆陣は,越智 武臣,篠塚信義,今井宏,川北稔,松浦高嵐,角 山栄,村岡健次,竹 内幹敏の諸氏),およびそれを め ぐって開催 された1971年11月の史学会大会 ・西 洋史部会のシソポジウムの記録 r近代 イギ .)ス史 の再検討
j
(御茶の水書房,1972年)を参照。また, いわゆる 「再検討」派による著作 として,r
イギ リ ス史研究入門j(山川出版社,1973年)
,r
講座西洋 経済史j(全5巻,うち近代 は最初 の2巻,同文館, 1979年),
F概説 イギ t)ス史1(有斐閣選書,1982年) などがある。 イギ リス史研究刊行会の機関誌 Fイ ギ 1)ス史研究i
(第35号まで既刊)もその一貫 とみ なしうる。(4) K.Marx,DasKapl'hll,ErsterBand,inKarl Maば・Fn'edrichEnge由 WerkeBd.23,Absch.7,
Kap.24.(
r
7ルクス・エンゲルス全集』第23巻 〔F資 本論1第 1巻〕,第7篇24章6節).(5)コーヒー・-ウスについては,A.Ellis,TheRenny Univeysities.・A History Of theCoHee-Houses, 1956.B.Lillywhite,London CoHee Houses,
1963.角山栄r産業革命 と民衆j河 出書房,1975年。 同 T茶の世界史j中公新書,1980年O小林章夫 Fコ ーヒー ・′、ウスi寂 々堂,1984年。木村栄一 Fロ
イズ- 世界最大の保険市場i 日経新書,1981年
な どを参照.紅茶 については,D.Forrest,Teafor theBn'tish:TheSocialandEconomicHistow
ofaFamousTrade,1973.出 口保夫 F英国紅茶 の話』東京書籍,1982年 を参照。
(6)cf.Ⅴ.Cowies,TheGyleatSwindle:TheStory of lheSouthSeaBubble,1960.(大橋書之輔訳
「南海の泡沫
」
「世界 ノンフィクシ ョン全集』第43 巻,筑摩書房,1963年)。 (7) 詳 しくは,川北稔 「菅移禁止法の時代」
(F経済 評論j1983年10月);同 「曹移禁止法か らキャラコ 禁止法へ」
(F歴史 と社会j第4号,1984年6月), 同 rZ業化の歴史的前提』岩波書店,1983年,第 11章 を見 よ。(8) W.G.Bel一,TheGylealPlagueinLondonin
1665,1924.
(9) W.G.Bell,TheGreatFiyleOf London in
1666,1920.ベス トや ロン ドソ大火については,そ れ らを直接体験 した ビーブスや イ-プ リソの r日 記』が参考になる。R.LathamandW.Matthews (ed.),TheDiaryOf滋muelPeL・ysIANewand CompleteTranscnbtion,llvols.,1970-83.E.S. deBeer(ed.),TheDl'aTyOfJohnEvelyn,6vols.,
1955.また,日田昭Fビープス氏の秘められた 日記』 (岩波新書,1982年) も見 よ。 (10)森洋子編著 rホガースの銅版画一 英国の世相 と謁刺- j岩崎美術社,1981年 。 ホガ-スのわ が国への紹介者 として夏 日擬石の名を逸す ること はで きない。 F文学評論i(1909年 刊。 F数石全集1 第15巻,角川書店,1961年,所収。講談社学術文 庫版,全3冊,1977年)第2編参照。
(ll) C.Walford,Fairs,PastandP71eSent,A ChaZ) -terintheHisfo7yOf CommeyICe,1883.(中村勝 訳 F市の社会史』そ しえて,1984年)。C.Hibbert,
LondonIT7ieBiographyofaCity,1969,ch.8.
(横山徳爾訳 FP./ドソj朝 日イブニングニュース
社,1983年)0
(12)R.J.MitchellandM.D.R.Leys,AHistoryOf LondonL,lfe,1958,ch.6.(松村魁訳 Fロン ドン庶 民生活史1みすず書房,1971年)0
(13)川北稔 「見せ物 としての都市
」
(樺山紘一・奥田 道大霜
F都市の文化i有斐閣選書,1984年,所収) 参照。18世紀の都市生活について-もcf.,C.Hibbert,oz).cit.,chs_9-ll.R.J.MitchellandM.D.R. Ley,op.cit_,chs.9-12. G.Rudさ,Hanoverktn
London1714-1808,1971. M_D.George,Lo n-donLifeintheEighteenthCentlL7y,1925. (14)cf.A.Everitt,TheEnglishUrbanInn156
0-1760'S,in Everitted.,Pe′申ectiuesinEnglt'sh UylbanHistory,1973.
J
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A.Chartres,TheCapi -tal'sProvincialEyes:London'sInnintheEarly EighteenthCentury,LondonJoumal,vol.3,No. 1,1977.(15) H.C.SheHey,Innsand Tavernsof Old London,1909.海野弘 F酒場 の文 化史』サソ ト1) -博物館文庫,1983年。見市雅俊 「パ ブと飲酒」
(角山栄 ・川北稔編 F路地裏の大英帝国』平凡社,
1982年,所収)。
(16)D.Gadd,Gewgian Summer:Bath in the Eighteenth CentlLTy,1971.F.Anderson,The InhmdResortsandSpasofBritain,1973..川 島 昭夫 「リゾー ト都市 とレジャー
」
(角山・川北編前 掲書,所収)0 (17) 矢 口孝次郎 F産業革命研究序説j ミネルヴァ書 房,1967年。 (18)産 業 革 命 期 の 発 明 家 に つ い て は,W. H.Chaloner,PeopleandIndlLStries,1963(武居良明 訳 F産業革命期の人び とj未来社,1967年)。角山
栄 r産業革命の群像j清水書院,1971年O小松芳
喬 F産業革命期の企業者像』早稲 田大学出版部,
1979年 を見 よ。
(19)cf.R.Devereux,JohnLoudonMcAdam,1936.
L.T.C.Rolt,Tho〝〟び Telfo7ld,1958.W.H.
0-Chaloner,
o
p.
cit.,chs.6-7.㈹ A.Smi th,AnInquiryintotheNatureand CausesofEkeWealthofNations,1776,Bk.I,ch.
3(大内兵衛・松川七郎訳 F諸国民の富」岩波文庫,
第1編第3章)。
¢1) 道 路 ・運河 ・枚 枕 の技 術史 的考 察 として,C.
Singer,E.
J
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Holmyard,A.R.HallandT.Ⅰ. Williams,AHistoryOfTechnoloBγ,5vols.,1954 -58(高木純一他訳 F技術の歴史j全10巻,筑摩書 房,1962-64年).T.K.Derry,T.Ⅰ,Williams,AShortHistoryof 7TechnoloByf710m the血 yliest TimestoA.D.1900,1960,chs.ll,13,15,19
(田中実 ・平 田寛訳 F技術文化史」上 ・下,筑摩書
房,1971-72年)がある。
¢2) cf.H.Perkin,TheAgeoftheRailway,1970. R.H.G.Thomas,TheLiveゆool&Manchester RailuJay,1980.W.Schivelbusch,Geschichteder Eねenbahnreise: Zur JndusirhllisienLng VOn Raum undButim19.Jahrhunderi,1977(加藤
二郎訳 F鉄道旅行の歴史』法政大学出版局,1982
年)O小池滋 F英国鉄道物語j 晶文社,1979年.
¢3)A.Smith,oP.cit.,Bk.I,ch.ll,Conclusionof theChapter.D.Ricardo,OnthePyin
c
iplesof PoliticalEconomyand 7Tamiion,1817,inTheWo戊sandCoryespondenceof DavidRica7do, vol.1,Preface(堀経夫訳 F経済学および課税 の原 理』雄松堂書店,1972年)。
¢4)P.Colquhoun,A Treatise on the Wealth,
Power,andllesouyICeSOf theBritishEmz)iTle, 1815.Rep.,1965.以下の叙述 は,D_Davies,The CaseofLabouTle7lSinHusband7y Sbztedand consideyled,1795を典拠 とした加藤祐三 Fイギ リ スとアジ
7
j(岩波新書,1980年)に依 った0 05)J
.
Bumett,Plenか and Want:A SocialHistoryofDietinEngkmd181510thePyesent Day,1966.荒井政治「白いパ ンと一杯 の紅茶」(角 山 ・川北編前掲書,所収)
C26)G.Rude,TheCylOWdinHistory:A Studyof Poz)ularDiSiurbancesinFnnceandEnghZnd
1730-1848,1964.Rev.ed.,1981,chs.2-3(古賀
秀男他訳 F歴史における群衆」法律文化社,1982
*).C.Hibbert,oz).cit_,ch.ll.
0
7
)J
.
L.
andB.Hammond,TheSkilledLabour176011830,1919,chs.4-5.E.P_Thompson,
TheMakingoftheEnglishWorkingCkLSS,1963,
ch.9.M.ThomiS,TheLuddites,1970.G.Rudさ,
oZ).cit.,ch.5.
C28)A.Gregory,RobertRaikes.・Joumalistand
1%ihnth′てゆist,A 助 toTyOftheOn'gino fSun-daySchook,1877.永田正臣 「イギ 1)ス産業革命
期 における労働階級児童の教育
」
F駒沢大学経済学部研究紀要j41,1983年3月.
伽)cf.W.H.G.Armytage,FourHundyedYears ofEnglishEducation,1964. 2nded.,1970.G. W.Roderick andM.D.Stephens,Education andIndustryinEkeNineteenthCentury,1978.
尾形利雄 F産業革命期 におけるイギ リス民衆児童
教育の研究j校倉書房,1964年.成 田克矢 Fイギ
リス教育政策史研究』御茶の水書房,1966年。
80) 本城靖久 Fグラン ド・ツ7-』中公新書,1983
年。
Ol) H.C.Barnard,A 助 toryofEnglishEduc a-iionf710m1760,1961.T.W.Bamford,Riseof thePublicSchoob:A S
t
u
d
y of Boy'SEhblic BoardingSchoolsinEngbndand Walesfnm1837toikeP71eSentDay,1967.村岡健次 rヴィ ク ト1)ア時代の政治 と社会jミネル ヴァ書房,1980
年,第2部第1章。望 田研吾 「19世紀におけるパ
ブ リック・スクールの発展
」r
島根大学教育学部紀要j15,1981年12月。
82)cf.H.Cunningham,Le2'su71eintheJndustrkll
Revolulion c.17801C.1880, 1980.S. Margetson,LeisureandPleasureintheNine -teenthCentury,1969.G.M.Trevelyan,Englikh SocialHistoryIA Surz)ey of Sir Centuries. ChaucerioQueenVictorhl,1944,chs.13,16(松
浦高嶺・今井宏訳 Fイギ t)ス社会史12,みすず書
房,1983年)0
03) cf.G.M.Trevelyan,oP.cit.,ch.16.川島前掲 論文参照。
C34)K.Marx,op.ciE,Absch.3,Rap.8.
65) 角川栄 r時計の社会史j中公新書,1984年。 86)吉岡昭彦 Fイン ドとイギ リス』岩波新書,1975
年 および加藤前掲雲参照。
87)C.R.Fay,PulaceofIndustry,1851:AStudy oftheGreatahibitionanditsFniits,1951.R. J.MitchellandM.D.氏.Leys,oP.cit.,ch.15.C. Hibbert,op.ciE.,ch.12.春山行夫 F万 国博j筑 摩書房,1967年。鈴木博之 Fジ ェン トルマンの文 化」 日本経済新聞社,1982年。吉田光邦 F万国博 覧会j 日本放送出版協会,1985年.角山栄 F産業 革命 と民衆』 (前掲)0
88)E.Chadwick,R¢od ontheSbnita7yCondi -tion of theLJZbouring Poi)uhztion of Great Bn'tain,1842_(Rep.M.W.Flinned.,1965.)チ
EdwinChadwickandtheEhblt'cHealthMove -ment1832154,1952.S.E.Finer,TheLlfeand TimesofSirEdwinChadwick,1952を見 よoF.
Engels,DieLaceder arbeitenden Khzsse in England,1845,inMEW,Bd.2(岡茂男訳 「イギ
1
)スにおける労働者階級の状態
」
F全集』第2巻,所収)0
89) H.Mayhew,LondonLabourandtheLondon Poor,1sted.,3vols・,1851.Enlargeded.,4vols.,
1861-62.Rep.,1967. (40) R.
J
.Morris,Chole71a1832:The Social RegonsetoanEpidemic,1976. (41) 村岡健次「病気の社会史」(角山・川北編前掲書, 所収)。同「都市 と水の社会史」r
経済評論j32-10, 1983年10月。津 田庸三 「ビク トリア時代初期の都 市問題」
.
F都市問題研究』29-ll,1977年11月。 (42) H.Mayhew,oP.cit.andcf.C.Hibbert,o
p.
cit., ch.13,メ イ ヒ ュ - の 紹 介 と し て,A. Humpherys,Hen7yMayhew,1984.角山栄 r産業 革命 と民衆』(前掲)。小池滋 Fロン ドソ1中公新 書,1978年。川成洋 ・石原孝哉 Fロン ドン歴史の 横道j三修社,1984年 などがある。 (43) C.Hibbert,oP.cit.,ch.13.(44) C.Boothed.,LifeandLabourofthePeoz)le inLondon,1sted.,2vols.,1889191,2nded.,9 vols.,1892-97.3rded.,17vols.,1902-03 .S.Ro-wntree,Pouerty /AStudyofTownLljTe,¢801.
二人の調査の紹介 として
c
f
.
T.S.andM.ち. Simey,Cha7・lesBooth.SocialScienぬt,1960.A. Briggs, A Studyoffhe Wo71ksofSeebohm Rowntree187111954,1961.荒井政治 r近代イ ギ リス社会経済史」未来社,1968年。 (49 J.Bumett,o
P.
cit.荒井前掲論文参照。(46) W.J.Reader,Life in Victorian Enghmd,
1964,ch.5(小林司 ・山田博久訳 F英国生活物語
j
晶文社,1983年)。 ㈹ 角山栄「家庭 と消費生活」(角山・川北編前掲書, 所収)0 (4ゆ c
f.
R.K.Webb,TheBn'tish Wo戊t'ng class Reader1790-1848,1955.(49)G.D.H.Cole andA.W.Filson,British WoTking ClassMovement,SelectDocuments,
17:89-1875,1951,ch.14(浜林正夫 ・篠塚信義 ・ 鈴木亮編訳 F原典 イギ リス経済史』御茶の水書房, 1967年)。 (50) W.J.Reader,oP,cil.,ch.5.見市前掲論文.加 藤前掲書第8章。 (51
)c
f.
W.J.Reader,oP.cit.,ch.6_ (52)ヴィク トリア期の レジ ャーについては,c
f
.
B.
Harrison,Drinkand the Vt'ctorhms,1975.P. Bailey,Leisun andClassin Vl'CtorianEn g-kmdIRationalRecreationandikeContestfor ContT10l,1830-1885,1978.H.Cunningham,oq. cit..川島昭夫「19世紀 イギ 1)スの都市 と r合理的 娯楽3J(中村賢二郎編 r都市の社会史』 ミネル ヴ ァ書房,1983年,所収)。同「イギ リス人の 日曜 日」 F経済評論』32-10,1983年10月。 (53)c
f.
W.J.Reader,oP.cit.,ch7.do.,P710fesI sionalMenI The Rise of theProfessional ClassesinNineteenthCenturyEngland,1966.(54)
c
f.
P.Hom,TheluseandFalloftheVicto・ rianSeyvant,1976.河村貞枝 「ヴィク トリア時代 の家事使用人」(角山・川北編前掲書,所収)018 世紀 については,cf
.J
.J.Hecht,TheDomestic Se77)antClassinEl'ghteenth-CenturyEngland, 1956. (55) S.Smi les,Self-Help,with Illustrations of ChayacterandConduct,1859(中村正直訳 F西国 立志編』,初版1871年,講談社学術文庫,1981年)o (56) W.J.Reader,LlfeinVz'ctorkm England,ch. 8.(57
)c
f
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A.Banks,PrDSPeri& andPwenthood: A StudyofFamilyPlanningamongtheI/7cto-rianMiddleClasses,1954.村岡前掲書,第2部第 2章。
(58)
c
f.
W.J.Reader,oP.cit.,ch.7.望田前掲論文。原剛 「19世紀英国の教育 と労働階級の社会移動」
F思想』691,1982年1月。
(59)
c
f.
F.M.L Thompson,EnglishLandedSoci-ety intheNineteenthCentury,1963.村岡前掲 書,第2部第2章。
(60)
c
f_W.J.Reader,o
P.
cit.,ch.2.(61) ibid.
(62)H.A.Taine,Notesstirl'Angleter7le,1871.
NotesonEnghmd,transll.byW_F.Rae,1885,
transl.byE.Hvams,1958.