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ジャーナリズムとしての映像メディア : 「いま」を伝えるということ

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Academic year: 2021

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映像メディア学科・教授

Department of Visual Media • Professor

加藤 和郎

Kazuro KATO

ジャーナリズムとしての映像メディア

∼「いま」を伝えるということ∼

Images as Journalism

Depicting the Present

1 はじめに

視覚メディアによって伝えられる「いま」が、私たち の 現 実 感 覚 や 世 界 像 を 支 配 す る ほ ど の 力 を 持 つ よ う に な っ た の は い つ か ら だ ろ う か。 ベ ル リ ン の 壁 崩 壊、 湾 岸 戦 争、 世 界 貿 易 セ ン タ ー へ の 自 爆 テ ロ 攻 撃、 そ し て イ ラ ク 戦 争 に お け る 米 軍 の バ グ ダ ッ ド 侵 攻 は、 従 来 の 「いち早く」伝えるという報道の常識を超え、衛星経由 で 同 時 中 継 さ れ た。 こ れ に よ り、 世 界 中 の TV 視 聴 者 は リ ア ル タ イ ム で 現 場 を 視 覚 体 験 す る こ と と な っ た。 し か し 与 え ら れ た 視 覚 は、 片 側 か ら の 視 点 に よ る も の であり、全方向的(世界的)なものとは言い難い。刺激 的な映像に敏感に反応しやすい「視覚」は、事柄の背景 を理解しようとする「思覚」を抑え込み、感覚的に一瞬 に し て 善 玉 と 悪 玉 を 選 別 し て し ま う。 そ の 集 団 的 な 第 一 印 象 が 世 論 と な り、 時 代 の 空 気 を 染 め 上 げ て し ま う という結果はすでに立証済みである。 「 見 た ま ま 」を 伝 え る こ と は、 一 見、 事 実 を 公 正 中 立 に 扱 っ て い る か に 思 え る が、 そ う で は あ る ま い。 リ ア ル タ イ ム 報 道 に お け る ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 責 務 が 問 わ れ る時代である。 本 稿 で は、 視 覚 メ デ ィ ア を 担 う 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム の歴史と現状の課題を俯瞰したい。 「 ジ ャ ー ナ リ ズ ム 」は、 語 源 的 に は ラ テ ン 語 の 日 誌 を 意 味 す る ジ ュ ル ナ ー ル に 始 ま る と い わ れ る が、 新 聞 と 同 義 語 に 使 わ れ た 時 代 も あ る し、「 報 道 精 神 」と 翻 訳 さ れることもあった。現用の代表的な辞書には、「ジャー ナリズムは新聞・雑誌・ラジオ・テレビなど時事問題の報 道・解 説・批 評 な ど を 行 う 活 動。 ま た、 そ の 事 業 」( 広 辞 苑)とあるが、曖昧で捉えどころがない。しかし 2 項目 前にあるジャーナリスティックには「時流を追うさま」 とあるではないか。 この“時流”を見つめる眼こそがジャーナリズムの根 底 で は な い か と、 思 わ ず 膝 を 打 っ た。 時 流 に 乗 っ て 快 速 で 飛 ば す 個 人 あ る い は 集 団、 逆 に 時 流 に 棹 差 す 個 人 や 集 団。 両 者 の 摩 擦 や 葛 藤 か ら 生 じ る 様 々 な 事 件 や 社 会現象が人間の歴史を作ってきたのではないだろうか。 時 流 に は、 清 流 も あ れ ば 濁 流 も あ り、 時 に は よ ど み、 あ る い は 滝 と な っ て 一 瞬 に 大 き な 落 差 を 生 む こ と も あ る。 時の流れを凝視して、「いま伝えるべきことを、いち

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早く伝えること」がジャーナリズムの本義ではなかろう か と、 私 は 考 え る。 そ れ は 40年 間 テ レ ビ 報 道 に 関 わ り 続けてきた放送人としての信念でもある。 ち な み に、 イ ン タ ー ネ ッ ト 上 の 最 新 辞 書 で あ る ウ イ キ ペ デ ィ ア(Wikipedia)で は、「 ジ ャ ー ナ リ ズ ム と は、 散 在 し て い る 事 物 や 人 に つ い て 現 在 起 こ っ て い る 出 来 事 や ト レ ン ド の 情 報 を 集 め、 検 証 し、 レ ポ ー ト し、 分 析 す る こ と で あ る。 そ れ ら の 技 能 を 有 し て い る 者 を ジ ャ ー ナ リ ス ト と 呼 ぶ。 ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 中 心 的 な 活 動 は、出来事を誰が・何を・いつ・どこで・なぜ・どのように 行 っ た か を レ ポ ー ト す る こ と、 そ の 出 来 事 や 流 れ が 持 つ イ ン パ ク ト や 意 味 を 説 明 す る こ と で あ る。 ジ ャ ー ナ リ ズ ム は、 幾 種 類 も の メ デ ィ ア に 存 在 す る。 新 聞、 テ レ ビ、 ラ ジ オ、 雑 誌、 そ し て 新 し く は、 イ ン タ ー ネ ッ ト に で あ る 」と 記 し て い る。 報 道 の 基 本 で あ る 5W1H (Why、What、Who、Where、When、How)を軸に据えた 実に適切な解説である。 と こ ろ で 上 田 敏 の 翻 訳 詩 集『 海 潮 音 』[1] に は、 イ ギ リ ス の 詩 人 ロ バ ー ト・ブ ラ ウ ニ ン グ(Robert Browning: 1812∼89)の「春の朝(あした)」が収められている。 その冒頭の 3行は「時は春、日は朝(あした)、朝は七 時」で、漠然とした季節から特定の時間へと絞り込んで ゆく。映像手法にたとえれば、あたかも“時”をズーム インしているように見える。そして、「片岡に露みちて、 揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這ひ、」と、眼前の点景を ワンショットずつとらえてゆき、最後に「神、そらに知 ろしめす。すべて世は事も無し。」と心象をうたいあげ ている。 時 と 場 所 を ロ ン グ シ ョ ッ ト で 提 示 し て か ら、 し だ い に フ レ ー ム を 絞 り 込 み、 ア ッ プ シ ョ ッ ト で 個 々 を 観 察 したのちに、全体像に考察を加える。今から 100年以上 も 前 の 詩 だ が、 私 は こ れ を 映 像 メ デ ィ ア の 基 本 的 な パ ターンではないかと考えている。 た だ し 本 稿 で は、 詩 の 構 文 と 映 像 構 成 の 類 似 点 に つ いて論じるつもりはない。 春も今であり、朝も今であり、7時も今であることに 注目して欲しい。 “今”というタイムゾーンをぐいぐいとタイトに絞り 込んでゆくリズムが、あたかも、「フィルムで取材して いたころのルーズな今感覚、そして ENG(ビデオ取材) に な っ て か ら の シ ャ ー プ な 今 感 覚、 さ ら に SNG( 衛 星 中 継 )に な っ て か ら の 同 時 感 覚( リ ア ル タ イ ム )」 へ と、 伝 達 上 の ロ ス タ イ ム を 縮 め る こ と を 至 上 命 題 と し て き た 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 軌 跡 に 重 な る よ う に 思 え て な らない。 も と も と 写 真 の 発 明 を 源 泉 と す る 映 像 メ デ ィ ア は、 テ ク ノ ロ ジ ー と 不 即 不 離 の 関 係 に あ る。 化 学 処 理 に よ る フ ィ ル ム か ら 電 子 処 理 に よ る ビ デ オ へ の 変 革 は デ ジ タ ル 化 と 進 み、 さ ら に 通 信 衛 星 に よ る グ ロ ー バ ル な 伝 送 シ ス テ ム に よ っ て、 今 で は 世 界 中 の ど こ か ら で も タ イムラグのない“現在時制”で伝えることが可能になっ た。 テ レ ビ が 存 在 し な か っ た 時 代 は、 映 画 館 で 上 映 さ れ る 1ヶ 月 遅 れ の ニ ュ ー ス 映 像 に 社 会 情 勢 の「 今 」を 教 え ら れ た。 テ レ ビ 放 送 の 揺 籃 期 は 1週 間 遅 れ の 海 外 ニ ュ ースに世界の「今」を知ることが出来た。「今」というタ イ ム ゾ ー ン は 時 代 と と も に 狭 ま っ て、 つ い に 戦 場 を 驀 進する戦車からの光景をも、瞬時のずれもない「リアル な今」として世界中が共有することになったのである。 し か し、 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム が 速 報 の 究 極 で あ る リ ア ル タ イ ム 報 道 に 傾 斜 す る あ ま り、 ジ ャ ー ナ リ ズ ム の も う一方の役割である「批評精神」や「検証」という要素が 希 薄 に な っ て は い な い だ ろ う か。「 今 の 今( リ ア ル タ イ ム)」は、現在という時間帯の中のいわばアップショッ トであり、そればかりでは「時流の波頭」しか見ていな い こ と に な る。 タ イ ム レ ン ジ を 広 げ て 波 全 体 の ロ ン グ ショットから「時流のうねり」を伝えることも忘れては ならない。 現代のジャーナリズムは、ペンだけでは成立しない。 カ メ ラ の 眼 が 主 役 に な る こ と が 多 く な っ た。 し か し 残 念 な こ と に、 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム と し て 独 立 し た 見 地 か ら の 研 究 や 著 作 は ま だ ま だ 少 な い。 ニ ュ ー ス 映 画 が 誕 生 し て か ら す で に 100年、 テ レ ビ 放 送 が 開 始 さ れ て から 50年以上を過ぎた今、映像主体のジャーナリズム 研究が輩出することが望まれる。 ジ ャ ー ナ リ ズ ム に お け る 視 覚 ツ ー ル と し て の 映 像 メ ディアは、1960 年代に入るとともにその進化のスピー ド を 一 気 に 加 速 し て 現 在 に 至 っ た。 筆 者 は 偶 然 に も 同 時期を日本放送協会(NHK)報道局に在籍して、ニュー ス取材および報道番組制作さらに衛星放送の開発など、 映像メディアの変革に第一線で対応してきた。本稿は、 映 像 メ デ ィ ア や ジ ャ ー ナ リ ズ ム に 関 す る 文 献、 お よ び 新聞・雑誌のスクラップを出来うる限り対照しつつ、体

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験 を 交 え て 記 述 す る こ と に 努 め た。 若 き 研 究 者 の た め の 小 さ な 道 標 あ る い は ヒ ン ト の 一 つ と な っ て く れ れ ば 幸いである。

2 映像ジャーナリズムの誕生

2.1 新聞に登場した写真 マ ス メ デ ィ ア に お け る 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム は、1880 年 3月 4日付けの『New York Daily Graphic』において誕 生 し た。 掲 載 さ れ た の は ニ ュ ー ヨ ー ク の 貧 民 窟 の 現 場 写真で、そこには「Reproduction Direct From Nature(自 然 の ま ま を 直 接 再 現 し た も の)」と 但 し 書 き が 付 さ れ て いる。更に「Picture will eventually be printed direct from photographs without the invention of drawing ( 手 描 き さ れ る と い う 創 作 活 動 な し に、 写 真 か ら 直 接 印 刷 さ れ た ものである)」と、従来の「写真を元に描いた挿絵」とは 全く異なった新しい方式であることを強調している。[2] しかし、すでにダゲレオタイプのカメラが発明(1826 年)されてから半世紀を経ていることから、「フォト・ド キ ュ メ ン タ リ ー」と 呼 べ る 写 真 群 は す で に 登 場 し て い た。 例 え ば、 イ ギ リ ス の ロ ジ ャ ー ・ フ ェ ン ト ン は ク リ ミ ヤ 戦 争 に 従 軍(1855 年 )し て、300枚 も の 陰 画 を 得 て ロ ン ド ン や パ リ で 展 覧 会 を 開 催 し て い る。 と は い っ て も、 当 時 の メ カ ニ ズ ム で は、 戦 闘 の 現 実 場 面 を と ら え る こ と は で き ず、 前 線 の キ ャ ン プ 風 景 を 撮 影 す る に と ど ま っ た。 一 方 ア メ リ カ で は、 マ シ ュ・B・ブ レ イ デ ィ が南北戦争(1861−65 年)を写真で記録している。彼は 35 ケ所に樶影基地を設けて、 「技術の及ぶかぎり、 戦場 、 廃 墟、 士 官、 兵 卒、 大 砲、 死 体、 船 舶、 鉄 道 な ど 戦 争のあらゆる面を写した」 という。 その枚数は 7,000枚 に上り、なかには味方が敗走する写真もあったために、 新聞記者が 「北軍兵士が敵から逃れることができたとし て も、 ブ レ イ デ ィ の 目 か ら 体 を 隠 す こ と は で き な か っ た」[3] と書いたほどだった。 と こ ろ が、 新 聞 に 写 真 を 載 せ る た め に は、 網 版 印 刷 の発明を待たねばならならず、それまでは「写真にもと づいて」のクレジット付きで版画が掲載されていたので ある。 で は、 新 聞 紙 面 に お け る 写 真 の 登 場 は 読 者 に ど れ ほ どの影響を与えたのであろうか。

ジゼル・フロイントは『写真と社会』[4] で次のように記 している。 「それは人々の、世界に対する展望を一変させるよう な 出 来 事 だ っ た の で あ る。 新 聞 に 写 真 が 載 り 始 め る 前 は、 一 般 の 人 々 に は、 自 分 が 住 ん で い る 街 や 村 と い う よ う な 身 近 に 起 こ っ た こ と し か、 視 覚 的 な も の と し て 意 識 で き な か っ た。 言 っ て み れ ば、 写 真 が 窓 を 押 し 開 いたのである。」 写 真 が ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 重 要 な ツ ー ル と し て マ ス メ デ ィ ア に 登 場 で き た の は、 印 刷 技 術 の 進 歩 に 負 う わ け だが、写真自体も非収差レンズの登場(1884年)、ロー ルフィルムの発明(1884年)によって、進歩を加速する。 1920年 代 に は ド イ ツ で 誕 生 し た 写 真 雑 誌 に よ っ て 急 成 長 を 遂 げ、1930年 代 に は ア メ リ カ の『 ラ イ フ 』[5] に よ っ て黄金期を迎える。 それは“瞬間”を捉えることで、読者に事実の一片を 伝 え よ う と い う も の で あ っ た。 一 方、 時 間 軸 に 沿 っ て 動 き を 再 現 す る 映 画 の 誕 生 に よ り、 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム は 静 止 画 系 と 動 画 系 と に 分 か れ て 多 様 化 し、 人 々 の 社 会 へ の 窓 は よ り 押 し 広 げ ら れ て い く こ と に な る が、 本 稿 で は 動 画 系 の 映 像 メ デ ィ ア に 絞 っ て 論 考 を 進 め る ことにする。 2.2 動画による記録と再現 動画系映像ジャーナリズムは、1895年 12月 28日にパ リのグラン・カフェで、リュミエール兄弟によるシネマ ト グ ラ フ が 上 映 さ れ た こ と に 始 ま る。 こ の と き 映 し 出 された 10本の短篇映画は、兄弟が経営するリヨン市の 写真機材製造工場から出てくる従業員たちを撮った『工 場の出口』や、兄オーギュスト一家の食卓を撮った『赤 ん坊の食事』、広場を往来する馬車や市民の姿を撮った 『コルドリエ広場』など日常の光景だった。それはドキ ュ メ ン タ リ ー 映 画 の 原 型 と い え る が、 観 客 は 映 し 出 さ れた人物像が本物のように動くことに驚嘆し、1週間に 延べ 2,500人が詰めかけたという。このなかに奇術師で あり興行師でもあったジョルジュ・メリエスがいた。彼 は感想を次のように記している。 「 ベ ル ク ー ル 広 場 を 撮 っ た ス チ ー ル 写 真 が 映 写 さ れ た。私は少し驚いて、隣の客に間髪を入れず話しかけた。 ―― こ ん な 映 写 の た め に 私 た ち は 足 を 運 ば な き ゃ な ら ん の か ? こ ん な も の は 私 だ っ て 十 年 も 前 か ら や っ て い る こ と だ ! 私 が ほ と ん ど こ う 言 い 終 ら な い う ち に、 一

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頭 立 て の 荷 馬 車 が 私 た ち に 向 か っ て 動 き 始 め、 ほ か の 馬 車、 ま た 通 行 人 た ち、 要 す る に 街 の 賑 わ い 全 体 が 続 いて来たのである。私たちはこうした光景を目にして、 茫 然 自 失 し、 言 葉 に な ら な い ほ ど 驚 き、 呆 気 に 取 ら れ た ま ま で あ っ た 」( ジ ョ ル ジ ュ・ サ ド ゥ ー ル『 世 界 映 画 全史』国書刊行会から) メ リ エ ス は こ の 驚 き を 奇 術 に 応 用 す る こ と を 考 え、 翌年に最初のトリック映画『ロベール・ウーダン劇場に お け る 女 性 の 消 滅 』を 作 っ て い る。 さ ら に、1902年 に は 世 界 最 初 の SF 映 画 と も 言 え る『 月 世 界 旅 行 』を 発 表 した。これによって、メリエスは「トリック撮影と劇映 画の始祖」と呼ばれるようになるのだが、映像ジャーナ リ ズ ム の 面 で も 見 落 と せ な い 仕 事 を 残 し て い る。 そ れ は「再現映像」という手法であった。 1897年 2月 に ギ リ シ ャ と ト ル コ の 間 で 戦 争 が 勃 発 し た と き、 彼 は 現 地 か ら 伝 え ら れ る ニ ュ ー ス を す か さ ず 再現映像にして上映したのである。それは『クレタ島の 虐 殺 』や『 ス パ イ の 処 刑 』な ど、 遠 く で 起 き た こ と を 目 の当たりに見るような擬似体験を観客に与えた。 さ ら に メ リ エ ス は、1901年 の イ ギ リ ス 国 王 エ ド ワ ー ド七世の戴冠式を映画で再現し、これを見た国王が「私 の時はこんなに豪華ではなかった」と語ったというエピ ソードを残している。彼は「事実を、事実らしい映像で 描くというマジック」をも考案したのである。 視覚による事実確認への欲求が高まるにつれて、“映 像 に よ る 新 聞 ”が 企 画 さ れ る が、 そ の た め に は 速 報 性 と 定 期 発 行 の 条 件 を 備 え な け れ ば な ら な い。 や が て、 それらを満たしたものが『ニュース映画』と呼ばれるよ うになる。 2.3 戦争と活動大写真 1900年(明治 33)10月、東京神田の「錦輝館」で『北清 事変活動大写真』が上映された。それは、この年の 5月 に 勃 発 し た 義 和 団 事 件 鎮 圧 の た め 出 兵 し た 広 島 第 5師 団の従軍撮影技師・柴田常吉が持ち帰ったフィルムだっ た。 柴 田 を 派 遣 し た の は 写 真 機 や 幻 灯 な ど を 商 っ て い た吉沢商会だったが、錦輝館での 7日間興行は大成功を 収 め、 翌 1901年 に か け て 横 浜、 静 岡、 名 古 屋、 京 都、 大 阪 と 巡 業 し た。 奇 し く も、20世 紀 幕 開 け を ま た ぐ 興 行 で あ り、 日 本 に お け る 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 幕 開 け でもあった。 4年 後 に は、 朝 鮮 と 満 州( 中 国 東 北 )の 支 配 を め ぐ っ て 日 露 戦 争 が 起 き る が、“ 映 像 の 力 ”を 認 め た 軍 部 は こ こにも撮影技師を従軍させ、その結果、『日露戦争活動 大写真』興行は大当たりして国民の戦勝気分を高揚させ た。 上 記 の 2本 を ニ ュ ー ス 映 画 と 呼 べ な い こ と も な い が、 “定期的な上映”という条件を満たさないからやはり記 録 映 画 の 範 疇 に 留 め て お く べ き で あ ろ う。 と す れ ば、 日 本 で の ニ ュ ー ス 映 画 誕 生 は、1914年( 大 正 3)に 東 京 シネマ協会が毎月 2回フィルムを発売することになった 『東京シネマ画報』ということになる。 内 容 は 大 正 博 覧 会 や 両 国 の 川 開 き な ど の 催 し を 実 写 し た も の だ っ た が、 映 画 の 配 給 ル ー ト が 無 か っ た た め に 事 業 と し て 成 り 立 た ず、 永 続 き し な か っ た。1917年 ( 大 正 6)に は、 明 治 末 期 か ら 活 動 写 真 の 巡 回 上 映 を 新 聞販売に活用していた大阪毎日新聞社が、『フィルム通 信』のタイトルでニュース映画を毎週、大阪中之島公園 で 公 開 し た。 さ ら に 翌 年、 シ ベ リ ア 出 兵 の 記 録 映 画 を きっかけに日活が『日活画報』をスタートさせた。当時 の ニ ュ ー メ デ ィ ア 先 取 り と い え る が、 い ず れ も 短 命 に 終わっている。 1921年( 大 正 10)、 の ち に 昭 和 天 皇 と な ら れ る 皇 太 子 裕 仁 親 王 が 渡 欧 さ れ る こ と に な り、 東 京 日 日 新 聞 と 大 阪 毎 日 新 聞( い ず れ も 毎 日 新 聞 の 前 身 )は 記 録 撮 影 を ゴ ー モ ン 社 の カ メ ラ マ ン に 委 託 し た。 こ の 映 画 が 東 京 日 比 谷 公 園 で 公 開 さ れ る と、 一 夜 で 13万 人 の 観 衆 が 押 し 寄 せ た と い う。 こ の 時 の 35ミ リ 可 燃 フ ィ ル ム は 50年 後 に 宮 内 庁 の 書 庫 で 発 見 さ れ、 復 元 さ れ た。 映 画 の 一 部、 皇 太 子 を 乗 せ た 御 召 艦「 香 取 」と ロ ン ド ン で 閲 兵 す る 皇 太 子 の 映 像 は、 情 報 処 理 推 進 機 構 の サ イ ト「 教 育 用 画 像 素 材 集 」で 公 開 さ れ て い る。 (http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-tai2/p-t06/IPA-rek730.htm) 2.4 新聞社製作のニュース映画 ご 訪 欧 記 録 上 映 の 盛 況 に 触 発 さ れ て、1923年( 大 正 12)の関東大震災、翌年の皇太子ご成婚では、新聞各社 が“映画による速報”を競うことになる。なかでも、大 阪毎日新聞社が『大毎キネマニュース』の製作を開始し、 松竹など映画 5社が配給を受け持つことで、新聞社によ る定期的なニュース映画時代がスタートする。

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さ ら に 1934年( 昭 和 9)に は、 朝 日、 毎 日( 東 京 日 日 と大阪毎日が合併)、読売の新聞 3社が参入することで 本 格 的 な 発 展 を 開 始。 そ れ ぞ れ 全 世 界 に 張 っ た 取 材 網 を生かして、『朝日国際ニュース』『大毎・東日国際ニュ ース』『読売ニュース』を配給したのである。 アメリカでは『パラマウントニュース』など巨大映画 資 本 が 製 作 し て い た が、 日 本 で は ジ ャ ー ナ リ ス ト を 多 数 抱 え る 新 聞 社 に よ っ て 作 ら れ て い た こ と が 注 目 さ れ る。その理由は、昭和 6年の満州事変から始まった中国 大 陸 に お け る 戦 争 の 情 報 を、 映 像 を 媒 体 と し て 国 民 に 伝える必要性を新聞 3社が痛感したからだという。それ は、 戦 争 が 大 衆 の 強 い 関 心 を 引 く こ と を、 ペ ー パ ー 媒 体 の 上 で 熟 知 し て い た か ら で あ り、 ラ ジ オ に よ る 速 報 に 対 抗 す る 有 効 な 手 段 だ っ た か ら で も あ る。 文 字 と 写 真 だ け で は 速 報 に 勝 て な い た め に、 動 く 映 像 で 勝 負 し ようと採算を無視してニュース映画に乗り出したのだ。 1937年( 昭 和 12)に 藤 山 一 郎 で ヒ ッ ト し た 流 行 歌『 青 い 背 広 で 』( 佐 藤 惣 之 助 作 詞 )に は、「 お 茶 を 飲 ん で も ニ ュースを見ても純なあの娘はフランス人形」の一節があ る。 ここで歌われる“ニュース”とはニュース映画のこと で あ り、 当 時 の モ ボ( モ ダ ン ボ ー イ )や モ ガ( モ ダ ン ガ ール)にとっては、それを見に行くことはカフェーやダ ンスホールに行くような感覚だったらしい。2年前に東 京 丸 ノ 内 の 日 本 劇 場 地 下 に 初 の ニ ュ ー ス 映 画 専 門 館 が 開 設 さ れ た た め、 劇 映 画 の 前 座 と し て で は な く、 ニ ュ ー ス と 短 篇 映 画 だ け を 上 映 す る 興 行 ス タ イ ル が 全 国 の 大 都 市 で 流 行 し て い た か ら で あ っ た。 そ こ で は、 国 産 の ニ ュ ー ス 映 画 だ け で な く、『 パ ラ マ ウ ン ト ニ ュ ー ス 』 な ど の 外 国 ニ ュ ー ス に 加 え て、 ポ パ イ や ミ ッ キ ー マ ウ ス な ど の 外 国 ア ニ メ ー シ ョ ン、 さ ら に 科 学 も の や 観 光 案 内 な ど の 文 化 映 画 が、70分 か ら 80分 程 度 に 構 成 さ れ ていた。 『 青 い 背 広 で 』が ヒ ッ ト し た 年 の 7月 に は「 日 中 戦 争 」 が 勃 発 す る。 こ の 年、 国 策 通 信 社 で あ る 同 盟 通 信 社 が 『同盟ニュース』としてあらたに参入し、ニュース映画 は 4社競作の時代を迎えるが、内容はいずれも“大陸戦 場ニュース”といえるもので、カメラは戦場の最前線に 位 置 す る こ と が 多 く な っ た。 ち な み に、 戦 場 取 材 の ニ ュ ー ス カ メ ラ マ ン 殉 職 第 一 号 は 朝 日 新 聞 か ら 特 派 さ れ た 前 田 恒( 昭 和 12年 11月 25日 )で あ る。 そ れ は、 朝 日 ニュース第 203号に「無錫占領(朝日・前田恒カメラマン 戦死)」として勇ましく伝えられた。それ以来、昭和 20 年 8月の終戦までに殉死した日本人カメラマンと編集者 は 50人を数えることになる。 2.5 国策ニュース映画の時代 1938年(昭和 13)の日本の映画界は、東宝と松竹を中 心 と す る 6社 が 国 内 700 に 上 る 常 設 館 を 奪 い 合 う 状 況 で、 年 間 製 作 本 数 は 580本 を 数 え た。 ア メ リ カ は こ の 年 548本だったから、数だけでいえば日本は世界一の映 画生産国だったのである。 と こ ろ が、 日 中 戦 争 の 長 期 化 に 伴 う 物 資 欠 乏 と 外 貨 節 約 の 輸 入 制 限 に よ り、 翌 年 に は 生 フ ィ ル ム が 不 足 し 始 め た。 そ ん な な か で 生 ま れ た の が『 映 画 法 』だ っ た。 これは、ナチスドイツの『映画検閲法』を手本にしたと 言われている。 「本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ 促 シ 映 画 事 業 ノ 健 全 ナ ル 発 達 ヲ 図 ル コ ト ヲ 目 的 ト ス。 映画製作業及映画配給業ノ範囲ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム」 で始まることから、当時の新聞は“日本初の文化立法” としてこぞって歓迎の論調を張ったが、実体は「製作の 許 可 制 」「 脚 本 の 事 前 検 閲 」「 外 国 映 画 の 上 映 制 限 」な ど を柱とする“文化規制”だった。 なかでも、「主務大臣ハ命令ヲ以テ映画興行者ニ対シ 国 民 教 育 上 有 益 ナ ル 特 定 種 類 ノ 映 画 ノ 上 映 ヲ 為 サ シ ム ル コ ト ヲ 得、 行 政 官 庁 ハ 命 令 ノ 定 ム ル 所 ニ 依 リ 特 定 ノ 映 画 興 行 者 ニ 対 シ 啓 発 宣 伝 上 必 要 ナ ル 映 画 ヲ 交 付 シ 期 間 ヲ 指 定 シ テ 其 ノ 上 映 ヲ 為 サ シ ム ル コ ト ヲ 得 」( 第 十 五 条 )と し て 義 務 付 け ら れ た の が、「 時 事 映 画 お よ び 文 化 映 画 の 強 制 上 映 」だ っ た。 時 事 映 画 と は、「 国 民 を し て 内 外 の 情 勢 に 関 し 須 要 な る 知 識 を 得 し め る よ う な 時 事 を撮影した映画」つまりニュース映画であり、文化映画 とは「国民精神の涵養又は国民智能の啓培に資する映画 で劇映画でないもの」と規定されている。 こ の た め、 映 画 法 は ニ ュ ー ス 映 画 と 文 化 映 画 に 確 実 に 上 映 の 場 を 与 え る こ と に な っ た が、 最 も 強 力 な 思 想 統 制 で も あ っ た。 こ れ を 受 け て、 朝 日、 毎 日、 読 売、 同盟の 4社は映画部を分離する。そしてそれらを吸収す る 形 で 1940年( 昭 和 15)4月 に 新 た な 国 策 会 社 で あ る 『社団法人日本ニュース映画社』(略称:日映)[6] が設立さ れた。国策の 1社にまとまれば、重複取材によるフィル ム の 無 駄 遣 い が 防 げ る 上 に、 統 制 も や り や す い か ら で あった。

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『日本ニュース』は発足直後の 5月から 6月にかけて臨 時 ニ ュ ー ス を 4本 制 作 し た 後 に、6月 11日 に 第 1号 を 配 給した。 その内容は項目順に、「天皇陛下関西御巡幸」「豪華若 人 の 祭 典・東 亜 競 技 大 会 」「 漢 水 渡 河・ 急 追 進 撃 戦 」「 独 急襲成功・英艦隊を猛爆」であった。このうち、「漢水渡 河・急追進撃戦」は 6月 5日に敢行された敵前上陸の様子 を 伝 え て い る が、 中 国 大 陸 の 武 漢 で 撮 影 し た フ ィ ル ム を ど の よ う な 経 路 で 日 本 に 運 ん だ の で あ ろ う か。 さ ら に そ れ を 現 像 し、100本 を コ ピ ー す る こ と を 考 え る と、 撮影から上映までが 1週間という速さは驚異的であり、 当 時 の 観 客 は ス ク リ ー ン に 展 開 す る 映 像 に“ リ ア ル な 今”を感じたに違いない。 し か し、1942年( 昭 和 17)の ミ ッ ド ウ ェ ー 海 戦(6月 5 日∼ 7日)で日本が敗北して以降は、制海権、制空権と も に 連 合 軍 に 握 ら れ た た め、 フ ィ ル ム の 輸 送 は 大 幅 に 遅 れ が ち と な り、7月 29日 の「 ソ ロ モ ン 群 島 に お け る 日 本の航空部隊の奇襲攻撃」は、翌年 2月 3日配給の第 139 号 で よ う や く 編 集 さ れ る ほ ど の タ イ ム ラ グ を 生 ん で い る。戦時下にこれを見る観客は、それでも「今、南太平 洋では」という思いでこれを見たことだろう。“今”とい う時間感覚のレンジは広い。 皮 肉 な こ と に、1950年 代 に は ニ ュ ー ス 映 画 の 役 割 を 一 手 に 引 き 受 け る こ と に な る テ レ ビ が、 日 本 で 初 め て 「実験放送」を行ったのは、映画法が公布された 1939年 ( 昭 和 14)だ っ た。1936年( 昭 和 11 年 )の ベ ル リ ン オ リ ン ピ ッ ク で、 ド イ ツ が 有 線 に よ る ご く 限 ら れ た 地 域 と は い え テ レ ビ 生 中 継 を 初 成 功 さ せ て い る こ と か ら、 翌 年 に 開 催 予 定 の『 オ リ ン ピ ッ ク 東 京 大 会( 非 開 催 )』で の 本 放 送 に 向 け、 日 本 放 送 協 会 が 浜 松 高 等 工 業 学 校 の 高 柳 健 次 郎 教 授 を 招 い て 実 験 し た の で あ る。 有 線 に よ る実験では『ちらつきも少ない』と評価され、電波実験 で も 予 定 通 り の 受 像 に 成 功 し た。 東 京 都 内 各 所 で 行 わ れ た 一 般 公 開 で は 行 列 が で き る ほ ど の 人 気 の 高 ま り を 見 せ た が、 研 究 者 た ち が レ ー ダ ー や 超 短 波 な ど の 兵 器 研 究 に 動 員 さ れ る よ う に な っ た た め 中 断 せ ざ る を え な かった。日本でテレビが本放送を始めるのは実験から 14年後の 1953年(昭和 28)2月 1日である。後述するが、 テレビはやがてタイムラグなしの“限りなく瞬間に近い 今”の戦場を伝えることになる。 1944年(昭和 19)に入ってから B29 の本土空襲が激し く な っ て く る と、 軍 部 は、 非 公 開 を 前 提 と し た 空 襲 の 記 録 を 撮 影 す る『 国 防 写 真 隊 』を 組 織 す る。「 日 本 映 画 新 社 」の 資 料 に よ れ ば、 日 本 映 画 社( 日 映 )の カ メ ラ マ ン も 隊 員 と し て 登 録 さ れ、 銀 座 に あ っ た 日 映 社 屋 の 屋 上には数台のカメラが常時セットされていた。しかし、 彼 ら の 撮 影 し た フ ィ ル ム は 全 て マ ル 秘 扱 い で あ り、 日 映 ス タ ッ フ と い え ど も ラ ッ シ ュ を 見 る 機 会 は ほ と ん ど なかったという。 屋 上 で カ メ ラ を 構 え る 国 防 写 真 隊 の 姿 を、 当 時 日 映 の嘱託社員であった小説家の坂口安吾は、『爆弾のふり しきる頃』に次のように記述している。 「銀座が爆撃された直後、2月 15 日頃だったと思うが、 当 時 嘱 託 を し て い た 日 本 映 画 社 を 訪 ね る と ―( 略 )― 空 襲 警 報 が で た。B29 の 編 隊 だ と い う の で 屋 上 へ 上 が っ て み る と、 屋 上 の 上 に ま た 塔 が あ り、 こ の 塔 の 屋 根 の 上 に 3台 の カ メ ラ が す え つ け て あ っ て、 カ メ ラ マ ン が 部 署 に つ い て い る。 敵 機 は 帝 都 に 向 か っ て い る と ラ ジ オ の 情 報 が 下 の 街 で ガ ン ガ ン が な り た て て お り、 路 上 に も ビ ル の 窓 に も 屋 上 に も 人 の 姿 一 つ な く、 高 射 砲 陣 地 も 防 塁 に 隠 さ れ て 人 の 姿 は 見 え ず、 た だ 日 映 の 屋 上 の 10名ばかりのカメラマンが天地に露出している人間 の 全 部 で あ っ た。 み ん な 煙 草 を 吸 っ て い る。 一 蓮 托 生 さ、1人 が 呟 い た。 愈 々 編 隊 が 頭 上 に 来 た。 カ メ ラ が カ ラ カ ラ 廻 っ て い る。 真 上 を 通 る 数 編 隊、 気 持 ち の 良 い も の で は な い。 バ ク ダ ン は 石 川 島 の あ た り に 集 中 し て ピ カ ピ カ 光 っ た が、 私 が 爆 撃 を み た 最 初 の 日 で あ っ た。 カ メ ラ マ ン の 度 胸 の 良 い の に 感 心 し た が、 部 署 を 持 っ て い る か ら で す よ、 と 伊 藤 理 事 が 言 っ た。 僕 の よ う な 部 署 の な い 見 物 人 は 腹 の 力 が 抜 け 去 る よ う な 気 持 に な り、 な る ほ ど 臍 下 丹 田 に 力 を 入 れ る と い う こ と が 必要なものだと悟ったのである」(筑摩書房・坂口安吾全 集第 15巻)。 部 署 を 持 つ、 つ ま り 報 道 の 現 場 に 立 つ と 度 胸 が 座 る と い う 体 験 は、 筆 者 も 事 件 や 災 害 の ニ ュ ー ス 取 材 で 何 度 も 経 験 し て い る。 伝 達 者 と し て の 使 命 感 に 加 え て、 フ ァ イ ン ダ ー の 中 の 四 角 く 切 り 取 ら れ た 視 野 が、 獲 物 を求めて踏み出さずにはいられない衝動を誘うのだ。 2.6 ニュース映画の自由競争 自らの国を当事者とする戦争取材は 1945年(昭和 20) 8月の敗戦をもって終わる。国策会社『社団法人日本映 画社』による映画ニュースは、9月 6日配給の第 255号で

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「 聖 断 拝 す・大 東 亜 戦 争 終 結 」を 伝 え、 第 264号 の「 戦 争 犯 罪 人 裁 判 ひ ら く・衆 議 院 解 散 」を 最 後 に、 占 領 軍 に よ り解散を命じられる。 『日本映画社』は株式会社に改組して『日本映画新社』 と な り、 翌 年 1月 に『 日 本 ニ ュ ー ス 』を 再 ス タ ー ト さ せ た が、 映 画 法 が 廃 止 さ れ て 自 由 競 争 と な っ た た め、 朝 日映画社の『新世界ニュース』を筆頭に、新聞社、映画 会 社 が 次 々 と 製 作 と 配 給 に 乗 り 出 し て き て、 ニ ュ ー ス 映画の大競争時代を迎えることになった。 新 聞 に は ニ ュ ー ス 映 画 批 評 の 常 設 欄 が 設 け ら れ、 ニ ュ ー ス カ メ ラ マ ン の 哀 歓 を 描 い た フ ラ ン キ ー 堺 主 演 の 劇 映 画『 ぶ っ つ け 本 番 』[7] も 評 判 を 呼 ん だ。 ま た、 過 去 の 反 省 か ら 取 り 扱 う 内 容 も 批 判 精 神 を 備 え た 視 点 が 増 え て、 映 像 ジ ャ ー ナ リ ズ ム と し て の 地 位 を 占 め る よ う に な っ た。 し か し、 全 盛 期 は 決 し て 長 く は な か っ た。 映 画 そ の も の が、1960年( 昭 和 35)の 年 間 製 作 本 数 548 本・全 国 映 画 館 数 7,457館 を ピ ー ク に 下 降 し 始 め た の で ある。 一方、そのわずか 2年後には、テレビの普及が全国全 世帯の 48.5%に達し、NHKテレビの受信契約者は 1千万 人 を 突 破 す る。 こ れ を き っ か け に、 そ れ ま で 娯 楽 の 王 座を占めていた映画の斜陽化が始まり、同時に“映像に よる報道”のトップランナーであったニュース映画は、 テレビニュースに完全に席を譲ることになった。

3 テレビニュースの特性

ニ ュ ー ス 映 画 は 暗 い 劇 場 の 大 き な ス ク リ ー ン で 視 野 い っ ぱ い に 見 る 映 像 だ っ た が、 テ レ ビ ニ ュ ー ス は 明 る い 茶 の 間 に 置 か れ た 小 さ な 受 像 機 で 見 る 映 像 で あ る。 受 像 機 の 大 型 化 が 進 ん だ 今 で も、 映 画 と テ レ ビ で は 視 覚 か ら 与 え ら れ る 心 理 的 な 違 い は 大 き い。 テ レ ビ は、 閉 ざ さ れ る こ と の な い 現 実 の 空 間 で 見 る だ け に ニ ュ ー ス 映 像 が 馴 染 み や す い メ デ ィ ア だ と 言 え る の で は な か ろうか。 3.1 映画ニュースからの脱皮 NHK がテレビジョン放送を開始したのは 1953年(昭 和 28)2月 1日 だ が、 プ ロ グ ラ ム に は 初 日 か ら ニ ュ ー ス が組み込まれていた。しかし定時枠は 1日 2回で、午後

0時 50分 か ら 4分 間 と 午 後 7時 20分 か ら 5分 間 の 合 計 わ ずか 9分間だった。このほか、週 1回 15分間の『NHK テ レビジョンニュース』が編成されていたが、これは日本 映 画 新 社 に 制 作 を 委 託 し て い た。 半 年 後 に は 自 社 取 材 体 制 を 整 え た が、 カ メ ラ マ ン の ほ と ん ど が 映 画 か ら の 転 身 と い う こ と も あ り、 放 送 さ れ る ニ ュ ー ス の ス タ イ ル は 映 画 館 で 見 る も の と ほ と ん ど 変 わ ら な か っ た。 と はいえ、映画館では週に 1回しか更新されないのに対し て、テレビでは一日 2回更新されるのだから、映像ニュ ースの画期的なスピードアップといえた。 放 送 が 始 ま っ て か ら 約 1年 半 後 の 1954年( 昭 和 29)6 月 に な っ て、 ア ナ ウ ン サ ー の 姿 が 初 め て テ レ ビ 画 面 に 登 場 す る。 そ れ は、「 伝 え る 姿 も ま た 映 像 で あ る 」こ と に 気 が つ い た こ と に ほ か な ら な い。 こ れ に よ り、 フ ィ ル ム 映 像 を 伴 わ な い ニ ュ ー ス 項 目 も 容 易 に 伝 え る こ と が 可 能 と な り、 映 画 ニ ュ ー ス か ら よ う や く 脱 皮 す る こ とができた。 ニ ュ ー ス の 第 一 報 を ひ と ま ず ア ナ ウ ン サ ー に 読 ま せ ることで、ラジオと変わらない「速報メディア」として の 立 場 を 確 立 し た こ と は 大 き い。 さ ら に、 ス タ ジ オ カ メ ラ は ア ナ ウ ン サ ー を 映 し 出 す だ け で な く、 パ タ ー ン (図板)に差し棒というテレビ独特の解説手法を生み出 した。 テ レ ビ 編 成 に ニ ュ ー ス 枠 が あ る こ と は 今 で は 当 然 と さ れ て い る が、 日 本 よ り 12年 早 く テ レ ビ 放 送 を 開 始 (1941年)したアメリカでは、当初ニュースが存在しな か っ た。 商 業 放 送 し か な い ア メ リ カ で は、 ニ ュ ー ス に スポンサーがつくという発想がなかったからだという。 それを一気にニュースメディアとして注目させたのは、 開 局 か ら 160日 目 に 起 き た 日 本 軍 に よ る 真 珠 湾 攻 撃 だ っ た。 こ の と き、CBS の 解 説 者 だ っ た ヒ ュ ッ ベ ル は 太 平 洋 の 地 図 を 作 ら せ て、 日 本 と 真 珠 湾 を 指 し 示 し な が ら、開戦を伝えたという。 これがテレビニュースの事始めだとすると、「戦争と テレビジャーナリズム」の現在を暗示するようで興味深 い。 3.2 テレビニュースの特技 ス タ ジ オ カ メ ラ の 導 入 に よ っ て 映 画 ス タ イ ル か ら 脱 皮できたものの、実は 1970年近くまで映画ニュースの 尾 を 引 き ず っ て い た 部 分 が あ っ た。 そ れ は、 す べ て の

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ニュース項目に音楽(BGM)が付けられていたことであ る。そのために NHK では、外山雄三・岩城宏之・湯山昭 ら に 作 曲 を 依 頼 し、NHK 交 響 楽 団 に よ っ て 演 奏 さ れ た 膨 大 な 数 の オ リ ジ ナ ル 曲 を、 レ コ ー ド に 収 め て ラ イ ブ ラリー化していた。それらは「さわやか」「のどか」「不 安」「恐怖」、あるいは「草原」「アルプス」「校庭」「ピク ニ ッ ク 」、 さ ら に「 ス ト ラ イ キ 」「 大 掛 か り な デ モ 」「 国 会空転」などといったタイトルが付けられ、情緒的なも の か ら 社 会 的 な さ ま ざ ま な 局 面 ま で を イ メ ー ジ し た 曲 が細かく分類されていた。 そ れ は、 テ レ ビ ニ ュ ー ス が 映 画 の ス タ イ ル か ら 完 全 に は 脱 け 出 せ ず に い た 表 れ と い え る だ ろ う。 し か し、 音 楽 は ニ ュ ー ス の 本 質 を 歪 め る こ と に 気 づ い て 使 用 禁 止となった。 こ の よ う に 映 画 ス タ イ ル の 呪 縛 か ら 解 放 さ れ る の に 時 間 が か か っ た が、 一 方 で 映 画 に は 絶 対 真 似 の で き な い特技があった。それは、「同時進行でニュースを伝え る」ということであり、ラジオではすでに馴染みとなっ ていた『実況中継』である。 テレビは、映像であることにおいて映画と同類だが、 放送であるという点ではラジオと同類なのだ。 映画と同類のフィルム映像は、撮影してから現像し、 さらに編集しなければならない。たった 1分間のニュー ス で も 最 低 20分 近 く の 作 業 時 間 が か か る。 し か し、 実 況 中 継 な ら ば、 現 場 と 放 送 局 の 間 の 映 像 回 線 を 確 保 し さ え す れ ば、 現 場 で 進 行 す る 時 間 と 視 聴 者 が 見 る 時 間 に 寸 分 の ズ レ も な い。 同 一 時 間 を 共 有 で き る わ け で あ る。 た だ し そ の た め に は、 大 型 バ ス の よ う な 中 継 車 と 電 源 車 を 現 場 に 運 ば な け れ ば な ら な か っ た し、 見 通 せ る 範 囲 内 に パ ラ ボ ラ ア ン テ ナ を 向 き 合 わ せ に い く つ か 設 置して電波をリレーしなければならず[8] 、フィルム取材 に比べると機材も人員も途方もなく大掛かりだった。 日 本 で の テ レ ビ 中 継 第 1号 は、 放 送 開 始 2か 月 後 の 1953年( 昭 和 28)3月 30日、 英 国 女 王 エ リ ザ ベ ス 2世 の 戴 冠 式 に 参 列 す る た め、 昭 和 天 皇 の 名 代 と し て 皇 太 子 ( 現 在 の 平 成 天 皇 )が 横 浜 港 を 出 航 さ れ る 時 で あ っ た。 NHK の技術陣は東京タワーとの中間点に当たる鶴見山 に臨時の中継所を設置し、初めて 2段中継を試みた。さ らに 600ミリの望遠レンズを使用して、プレジデント・ ウ ィ ル ソ ン 号 の 甲 板 に 立 つ 皇 太 子 の 表 情 を ア ッ プ で 映 し 出 し た。 現 場 に 行 っ て も そ の よ う な ク ロ ー ズ ア ッ プ で、 皇 太 子 の お 顔 を 見 る こ と は で き な い。 こ の 1時 間 25分 の 中 継 は、 テ レ ビ 中 継 の 威 力 を 視 聴 者 に 見 せ つ け た。 さ ら に、1959年( 昭 和 34)の 皇 太 子 ご 成 婚 パ レ ー ド は、 民 間 出 身 で あ る 正 田 美 智 子 さ ん へ の ミ ッ チ ー ブ ー ム と と も に、「 ご 結 婚 を テ レ ビ で 見 よ う 」と い う 空 前 の テ レ ビ 人 気 か ら、NHK・民 放 あ わ せ て 100台 の カ メ ラ、 1,000人の放送スタッフを動員した史上最大の中継とな っ た。 こ の ご 成 婚 パ レ ー ド 中 継 は、1,500万 人 が 視 聴 し た と 言 わ れ、 テ レ ビ が 与 え た 初 め て の 国 民 的 な 共 有 体 験となった。 野 外 で の 中 継 に は 様 々 な 困 難 が つ き ま と う が、 ス タ ジ オ 中 継 な ら ば 毎 日 定 時 で 放 送 す る こ と が で き る。 そ こ で 1964年( 昭 和 39)に 生 ま れ た の が、NET( 現・テ レ ビ 朝 日 )系 の『 木 島 則 夫 モ ー ニ ン グ シ ョ ー』だ っ た。 各 局 と も 同 様 の 番 組 を 編 成 し た 結 果、 モ ー ニ ン グ シ ョ ー 戦争が起こり、NHK も翌年、全国ネットワークを生か した『スタジオ 102』(司会:野村泰治アナ)で参戦した。 こ こ で は、 自 然 な 会 話 体 で ニ ュ ー ス が 語 ら れ る と と も に、 当 事 者 や 関 係 者 を ス タ ジ オ に 招 い て イ ン タ ビ ュ ー 形 式 で 話 題 を 掘 り 下 げ る と い う 全 く 新 し い テ レ ビ ジ ャ ー ナ リ ズ ム が 生 ま れ た。 さ ら に 1974年( 昭 和 49)に ス タ ー ト し た『 ニ ュ ー ス セ ン タ ー 9時 』( 通 称 NC9)で は、 司会進行役のキャスターに“取材のプロ”である記者出 身でしかも“編責”(編集責任者)を兼ねる磯村尚徳が起 用 さ れ た た め、 個 々 の ニ ュ ー ス 項 目 に 対 し て 自 ら の 感 想 や 意 見 を 直 接 コ メ ン ト す る こ と が 可 能 に な っ た。 当 時、「 ち ょ っ と、 キ ザ で す が 」が 磯 村 自 身 の 言 葉 と し て 流行語になったが、キャスターの仕草や表情さえもが、 ニュースに価値判断を与える“意味を持つ映像”となっ たのである。筆者も NC9 で企画ニュースを何本か制作 し た が、 彼 が 見 終 わ っ た 後 に ど ん な 表 情 を す る か 大 い に 気 に な っ た。 そ れ は、 彼 の 反 応 こ そ が 制 作 内 容 に 対 す る 厳 し い 判 定 で あ り、 良 か れ 悪 し か れ、 そ れ は そ の ま ま 視 聴 者 の 反 応 を も 左 右 す る 力 を 持 っ て い た か ら だ った。 3.3 史上空前のテレビショー フ ィ ル ム 取 材 で 始 ま り、 最 後 は 現 場 中 継 で 国 民 の 目 を釘づけにした事件があった。

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1972(昭和 47)年 2月 19日に発生し、解決まで 10日間 を要した『軽井沢あさま山荘事件』である。深夜は氷点 下 15度 に な る 厳 冬 の 軽 井 沢 で、 連 合 赤 軍 の 5人 が 山 荘 管 理 人 の 妻 を 人 質 に と っ て 立 て こ も っ た 事 件 だ っ た。 筆者は当時 NHK 長野局でテレビニュースの取材制作を 担 当 し て お り、 現 地 に 近 い 小 諸 通 信 部 の 記 者 か ら 事 件 発生の第一報を受けた。ひとまず、長野から記者・カメ ラマン 4人と東京からの応援 6人が現地に駆けつけて前 線本部を設置。翌日からは取材陣が大幅に増強された。 山荘を取り巻く複数地点で撮影されるフィルムは 1時間 毎 に 回 収 さ れ、 長 野 局 ま で ジ ェ ッ ト ヘ リ で 15分、 天 候 が 悪 い 日 や 赤 外 線 カ メ ラ で 撮 影 さ れ る 夜 の シ ョ ッ ト は タクシーで 2時間かけて輸送され、現像が上がりしだい 編集されて毎時のニュースで動静が放送された。 事 件 発 生 か ら 10日 目 の 2月 28日、 警 察 は 人 質 救 出 の 強 行 作 戦 に 踏 み 切 る。 す で に 中 継 ル ー ト が 構 築 さ れ て いたため、この日は生中継(LIVE)となった。フィルム の輸送も現像も必要としない“究極の速報”である。午 前 10時に開始された救出作戦は、クレ−ンに吊された 鉄 球 に よ る 建 物 の 破 壊 と、 放 水 銃 に よ る 水 攻 め だ っ た が、 犯 人 側 の 抵 抗 が 激 し く 警 察 側 に 死 傷 者 が 続 い た た め、 人 質 救 出 は 日 没 ま で 長 引 い た。 こ の た め、 現 場 中 継 は 午 後 8時 20分 ま で 10時 間 を 超 す 長 時 間 放 送 と な っ た。この間に中断したのは「訪中していたニクソン米大 統領の帰国」などを伝えるたった 5分間のニュースだけ だった。 リ ア ル タ イ ム で 伝 え ら れ る 息 詰 ま る 状 況 は、 見 る 側 を興奮させ、平日の月曜日だったにも関わらず NHK の 平均視聴率は 50.8%を記録した。そして、犯人逮捕・人 質 救 出 の 午 後 6時 か ら 7時 に か け て は 66.5 %、NHK・民 放 を 合 わ せ た 最 高 視 聴 率 は、 午 後 6時 26分 に 89.7 % に ま で 達 し た。 国 民 の ほ と ん ど が テ レ ビ を 見 て い る と い う空前の出来事だった。 翌 日 の 朝 日 新 聞 は こ の 特 異 な 一 日 を 次 の よ う に 伝 え ている。 「夕方の商店街はガラガラだった。美容院では客がド ラ イ ヤ ー に 入 る の を い や が っ た し、 牛 込 柳 町 交 差 点 の 交 通 量 は 元 日 な み に 減 っ た。 大 阪 府 議 会 の 議 運 理 事 会 は 出 席 者 ゼ ロ だ っ た。 四 次 防、 中 国 問 題 を か か え た 衆 議 院 予 算 委 は テ レ ビ 中 継 か ら は ず さ れ た。 妙 に 短 く 感 じた一日だった。日本中の視線が、軽井沢に集まって、 その他の動きが止まったような一日でもあった。」(朝刊 13版:縮刷版から引用) 事 件 が リ ア ル タ イ ム で、 そ れ も 一 部 始 終 を 映 像 で 放 送されることは警察活動に影響を与えずにはおかない。 この事件はこの点でもその後の「警察とメディア」の関 係 に 一 石 を 投 じ る こ と と な っ た。 概 略 を た ど っ て お き たい。 現 場 で 指 揮 に 当 た っ た 佐 々 淳 行 氏( 当 時・警 察 庁 警 備 局 付 監 察 官 )は、NHK-BS ス ペ シ ャ ル『 テ レ ビ の 一 番 長 い 日 』(92・10・31 放 送 )で、 あ さ ま 山 荘 事 件 の「 最 高 警 備方針」を次のように語っている。この方針は、当時の 後藤田正晴警察庁長官から指示されたものだとして、6 項目からなっている。 1、人質の救出 2、犯人を生け捕りにせよ(殺せば英雄になる) 3、警察官を人質の身代わりにしてはならぬ 4、マスコミとよい関係を保て 5、長期戦を覚悟せよ 6、警察官に犠牲者を出すな。 これに沿って、警察と新聞・放送との間で報道協定が 結 ば れ、 警 察 は 犯 人 に 対 す る 説 得 の 模 様・人 質 の 安 否・ 偵察の状況・突入の準備状況を逐一発表することになっ た。そして、最終段階を迎えた 2日前の 2月 26日、警察 当局は改めて『連合赤軍ろう城事件・人質救出作戦に関 する取材・報道協定』の締結を申し入れた。 1、作戦に関する事前発表とオフレコ ・ 作 戦 開 始 日 の 前 日 午 後 10時 開 始 時 間、 戦 術 に ついて正式発表する。 ・発表の取り扱い:新聞は当日の朝刊から解禁。 放送は作戦開始時間から解禁。 ・ 各 社 の 現 場 で の 連 絡 無 線 通 信 に も 作 戦 内 容 を 含ませないように配慮する。 2、航空取材について(略) 3、取材拠点について 銃弾の飛交による危険を避けるため、規制線をも うける。 4、経過発表(略) 5、 終 了 時 の 措 置: 被 害 者 の 会 見、 イ ン タ ビ ュ ー は 医 師 が 許 可 す る ま で 行 な わ な い。 ま た、 検 証 が 終わるまで現場に立ち入らない。 このほか、取材手順の細目(略) 6、その他:犯人を射殺する事態がおこった場合は、 事 件 の 性 格 を 考 慮 し て、 射 殺 し た 警 察 官 に 関 す る人定項目は公表しない。 こ の 協 定 締 結 に つ い て、「 新 聞 協 会 報 」(72・2・29付 )

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は「( 協 定 は )26日 午 前 11時 か ら 新 聞 9、 通 信 2、 放 送 12、 雑 誌 4 の 報 道 27社 の 前 線 キ ャ ッ プ が 警 備 取 り 締 ま り本部の意見を聞いて協議のうえ合意に達したもので、 警察庁を通じて連絡を受けた新聞協会はこれを確認・了 承し、(加盟)各社に連絡を取った」と記している。 人 質 保 護 の た め に 山 荘 へ の 送 電 を 切 断 し て い な か っ た か ら、 犯 人 た ち も テ レ ビ を 見 て い る 可 能 性 が あ る。 だ と す れ ば、 警 察 情 報 を そ の ま ま 伝 え れ ば、 犯 人 た ち も 情 報 を 共 有 す る こ と に な る の だ。 事 件 報 道 の 渦 中 に い る 我 々 は、 少 し で も 早 く 事 件 を 解 決 さ せ る べ き だ と の 観 点 か ら 事 実 上 の 報 道 規 制 を 当 然 の こ と と し て 受 け 止めたのだった。 こ の 日、 テ レ ビ は NHK・民 放 と も 現 在 進 行 形 の 事 件 に カ メ ラ を 向 け た ま ま、 ほ と ん ど の 時 間 を こ の 事 件 の 中 継 に 当 て た。 視 聴 者 も そ れ を 望 ん で い た。 テ レ ビ も また事件にジャックされたのである。 人々が関心を寄せる「知りたいニュース」を報道する の は テ レ ビ の 原 則 だ が、 し か し、 メ デ ィ ア が 重 要 と 考 える「知らせたいニュース」を報道するのも、ジャーナ リ ズ ム の 責 務 で あ る。 世 界 に 例 の な い 画 期 的 な 長 時 間 生中継は賞賛される反面で、「ハプニングを期待する興 味本位の報道と紙一重」という怖さを内蔵していること の危惧も指摘された。 実 は こ の 日、 日 本 を 頭 越 し に し て 訪 中 し て い た ニ ク ソン大統領が帰国したのだ。しかし、夜 7時のニュース (一日で最もメインとされるニュース帯)は、あさま山 荘事件に乗っ取られ、ニクソン帰国については 5分間だ け 設 け ら れ た 一 般 ニ ュ ー ス の 中 の 一 項 目 に 過 ぎ な か っ た。実行犯の一人である坂口弘は前日のテレビで「ニク ソ ン 訪 中 」を 目 撃 し た と い う。 彼 が 20年 後 に 獄 中 で 著 し た『 あ さ ま 山 荘 1972』( 彩 流 社 )に よ れ ば、「 こ の 日 夜 七 時 の テ レ ビ ニ ュ ー ス で ニ ク ソ ン 米 大 統 領 一 行 の 中 国 訪 問 の 様 子 を 見 た。( 中 略 )だ が、 わ れ わ れ の 未 熟 な 頭 は こ う し た 背 景 を 何 一 つ 理 解 す る こ と が 出 来 ず、 た だ 画 面 に 映 る ニ ク ソ ン 訪 中 風 景 を ジ ッ と 見 詰 め る だ け で あ っ た 」と い う。 反 米 の 理 論 的 支 柱 と し て い た の が 中 共と毛沢東主義であったのに、「それは、われわれの武 闘路線を根底から覆すショッキングな出来事であった」 の だ。 事 実、 ニ ク ソ ン 訪 中 は 彼 ら だ け で な く、 日 本 に とって大ニュースだったのである。 朝日新聞の社説は「米中頂上会談に思う」と題し、「ま こ と に 遠 く 長 い 道 で あ っ た。 ワ シ ン ト ン と 北 京 と の 空 間 的 な 隔 た り だ け で は な い。 革 命 後 の 中 国 と ア メ リ カ の 関 係 は、 朝 鮮 戦 争 以 来、23年 に わ た っ て、 冷 た く、 き び し く、 ま た 血 な ま ぐ さ い も の で あ っ た。 イ ギ リ ス 人 が 中 国 人 を 脅 か し た ア ヘ ン 戦 争 は、1840年 に お こ っ た。あれから 122年、いま西洋のもっとも強大な国の大 統領が、ついに、はるばる北京を訪れたのである」と記 し て い る。 そ し て 米 中 両 国 は、 あ さ ま 山 荘 事 件 決 着 の 日の前日、共同声明で「平和共存の五原則」の合意を発 表したのだった。それは、その年 7月の佐藤内閣総辞職 の 引 き 金 と な り、 こ れ を 引 き 継 い だ 田 中 首 相 が 日 中 国 交正常化へと舵取りするきっかけとなったのだから、5 分 間 と い う 短 い ニ ュ ー ス の な か で 伝 え る よ う な 軽 い も のではなかったのである。 共同通信出身の原寿雄は『ジャーナリズムの思想』(岩 波 新 書 )に お い て「 テ レ ビ は 面 白 い こ と に 傾 斜 し た“ 映 像信仰、現在信仰、感性信仰のメディア”だ」と指摘し ている。好奇心や面白さは人間の本性に基づくもので、 極 め て 正 直 な も の と い え る。 そ れ ゆ え に、 進 行 形 の 事 件 や 災 害 現 場 の リ ア ル タ イ ム 中 継 は、 よ り ジ ャ ー ナ リ スティックな報道判断が要求される。

4 映像ジャーナリズムの技術革新

前章の「あさま山荘事件」の取材は、大量に投入され た 報 道 カ メ ラ マ ン に よ る 機 能 的 で 多 視 点 の フ ィ ル ム 映 像と、技術局に属する中継カメラマンによる 3台の固定 視 点 に よ る 現 場 中 継 の 二 重 体 制 で あ っ た。 現 場 中 継 の 映 像 は 放 送 局 内 に マ イ ク ロ ウ ェ ー ブ で 伝 送 し て 生 放 送 されるほか据え置きの大型 VTR に収録された。取材現 場に持ち出すことのできる可搬型の VTR 機材がまだ登 場 し て い な か っ た か ら で あ る。 こ こ で、 放 送 現 場 の 技 術革新の経過を振り返っておきたい。 4.1 VTRの登場 フ ィ ル ム が 唯 一 の 映 像 記 録 手 段 で あ っ た 1956年( 昭 和 31)に、アメリカの AMPEX 社から革命的な製品が発 売 さ れ た。 そ れ は 世 界 初 の モ ノ ク ロ VTR(VR‐1000) で、日本がテレビ放送を始めてからわずか 3年後のこと である。

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記録媒体は幅が 2インチ(約 5センチ)もある磁気テー プで、4つのヘッドをテープ走行方向とほぼ垂直に回転 させて記録・再生を行うというものだった。幅広のテー プがよじれることのないように円筒状(凹型)のテープ ガイド部分に真空ポンプで密着させるという大装置で、 現在使われているカセット式 VTR と比べると途方もな く 大 き な も の( 幅 150 ㎝・高 さ 160 ㎝)[9] だ っ た。 テ ー プ 本 体 も 金 属 製 の 頑 丈 な リ ー ル に 巻 き 取 ら れ て い る た め に重量が 5.5㎏もあり、掛けかえるときは胸の高さまで 持 ち 上 げ て、 足 元 の ペ ダ ル で バ キ ュ ー ム の ロ ッ ク を 外 し つ つ セ ッ ト す る と い う、 全 身 を 使 っ て の 作 業 で あ っ た。 さ ら に、 当 時 の 編 集 は フ ィ ル ム と 同 様 に、 切 り 貼 り し て い た。 フ ィ ル ム な ら ば 画 が 見 え る が、 ビ デ オ テ ー プ は 電 気 回 路 を 通 さ な い と 画 を 見 る こ と が 出 来 な い。 そ こ で、 実 際 に モ ニ タ ー を 見 な が ら 編 集 点 を チ ェ ッ ク し て マ ー キ ン グ し た 上 で、 特 殊 な 磁 性 分 入 り の 溶 液 を テ ー プ 面 に 塗 っ て ト ラ ッ ク 境 目 を 浮 き 出 さ せ、 そ れ を 頼 り に 剃 刀 の 刃 で テ ー プ を 切 断 し 次 の カ ッ ト と な る べ き テ ー プ を 銀 紙 で 貼 り 合 わ せ る。 一 度 切 っ て し ま っ た ら 当 然 元 の 状 態 へ は 戻 れ ず、 ま た 編 集 ポ イ ン ト は 繋 ぎ が 悪 い と か な り 画 が 乱 れ て し ま う た め、 こ の 作 業 は 専 門 的 な 技 が 必 要 と さ れ た。 そ の 後、 電 子 的 に ダ ヴ ィ ン グ 編 集 す る SLE( ス プ ラ イ ス レ ス・エ デ ィ テ ィ ン グ )が 開 発 さ れ、 切 り 貼 り か ら 解 放 さ れ る が、 テ ー プ は 60分 巻きで 10万円という貴重品だった。当時の公務員の初 任給が 9,000円で、映画館の入場料が 120円だったこと か ら し て、 い か に 高 価 な 媒 体 だ っ た か お 分 か り い た だ けるだろう。 東 京 オ リ ン ピ ッ ク が 開 催 さ れ た 1964年( 昭 和 39)に は国産 2インチ用ビデオテープが富士フィルムから売り 出されたが、これも発売当初から発売終了(1980年頃) まで、1本 10万円の価格は変わらなかった。このために NHK ですら、放送済みのテープは消去して再使用して お り、60年 代 の 放 送 の 多 く が 保 存 さ れ て い な い 理 由 と な っ て い る。 わ ず か に 残 っ て い る も の も、 オ リ ジ ナ ル ではなくキネコでフィルムに変換したものである。 キ ネ コ は 正 式 に は キ ネ ス コ ー プ・レ コ ー デ ィ ン グ (Kinescope Recording)といい、ブラウン管に映った画 像 を 16mm 映 画 フ ィ ル ム で 再 撮 影 す る と い う も の で あ る。しかし、テレビ映像は毎秒 30コマであるのに対し、 映画フィルムは毎秒 24コマなので、そのままだとフリ ッ カ ー と 呼 ば れ る 画 面 の チ ラ ツ キ が 出 て し ま う。 テ レ ビ 映 像 の コ マ を フ ィ ル ム に 合 わ せ て 6コ マ 分 切 り 捨 て る の だ か ら、 記 録 さ れ た 画 像 は オ リ ジ ナ ル の テ レ ビ 映 像 に 比 べ て 画 質 が 著 し く 低 下 す る の は 当 然 な の だ。 当 時 の 放 送 番 組 を 見 て、 映 像 の 粗 さ を 技 術 的 に 未 熟 だ っ た と 評 価 す る 向 き が 多 い が、 オ リ ジ ナ ル の 画 質 は 現 在 と比べても決して遜色のあるものではなかった。また、 カラー放送は NHK 総合テレビで 1960年(昭和 35)から 開始され、1971年(昭和 46)には完全カラ−化となった が、 放 送 が カ ラ ー 番 組 で あ っ て も、 コ ス ト 削 減 の た め に や む な く 白 黒 フ ィ ル ム で し か キ ネ コ を 残 せ な か っ た ケ ー ス も 多 い。 例 え ば 人 形 劇『 ひ ょ っ こ り ひ ょ う た ん 島 』は 1964年 か ら 69年 に か け て 1,224回 カ ラ ー 放 送 さ れ、このうち 8回分がキネコで保存された。しかし、そ のうちカラーフィルムで残っているのは 2回分だけでし かない。 2イ ン チ テ ー プ は や が て 1イ ン チ テ ー プ へ と 移 行 す る が、 こ れ ら は あ く ま で も ス タ ジ オ 周 辺 に 設 置 さ れ る 一 般 番 組 の 収 録 再 生 用 で あ っ た。 本 稿 の 主 題 で あ る 映 像 ジ ャ ー ナ リ ス ト 用 の ビ デ オ は、 さ ら に 小 型 化 す る の を 待たねばならず、NHK の場合は昭和 50年代始めまでは 16ミ リ フ ィ ル ム 主 体 の 取 材 が 続 い た。 ビ デ オ 取 材 に 完 全に移行し、フィルム現像室が閉鎖されたのは 1980年 (昭和 55)であった。 4.2 ENG時代の到来 1971年( 昭 和 46)に 3/4イ ン チ 幅 の 磁 気 テ ー プ を 使 っ た 初 の カ セ ッ ト 型 VTR「U‐matic」が SONY か ら 発 売 さ れ た。 し か し、 一 般 家 庭 用 を タ ー ゲ ッ ト と し て い た た め に、 お 膝 元 の 日 本 の 放 送 局 さ え こ れ を 無 視 し て い た。 と こ ろ が、1974年( 昭 和 49)の「 ニ ク ソ ン 大 統 領 の モ ス ク ワ 訪 問 」に、 ア メ リ カ 三 大 ネ ッ ト ワ ー ク の CBS が こ れ を 使 い、 映 像 を い ち 早 く 電 波 に の せ る こ と で 世 界の放送界を驚かせたのである。

SONY はさらに、ENG(Electric News Gathering)を提 唱 し た 米 CBS 副 社 長 ジ ョ ー・フ ラ ハ テ ィ の 要 請 を 受 け る 形 で、1976年( 昭 和 51)に 小 型・高 性 能 を 実 現 し た プ ロ 用 の ポ ー タ ブ ル U マ チ ッ ク BV シ リ ー ズ を 開 発 し た。 こ の 登 場 に よ り、 そ れ ま で 取 材 や ロ ケ の 現 場 で は フ ッ トワークの良さでフィルムに勝てなかった VTR が、小 型・軽量化によってその立場をやがて逆転していくこと

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になる。 現 像 し な け れ ば 映 像 が 浮 か び 上 が っ て こ な い フ ィ ル ム の 時 代 か ら、 撮 っ た 直 後 に 映 像 を 再 現 で き る 電 子 処 理のビデオ取材へと大変革を遂げるのである。 しかし前項で、NHK では完全移行するのに 1980年ま で 待 た ね ば な ら な か っ た と 書 い た。 こ れ は、 カ メ ラ マ ン の フ ィ ル ム へ の 郷 愁 と 職 業 的 こ だ わ り が ブ レ ー キ を 掛けたからである。 失 敗 す る こ と な く 確 実 に 映 っ て し ま う ビ デ オ に 対 し て、 プ ロ の 意 地 が 邪 魔 を し た の だ。 た し か に、 ビ デ オ カメラではすべてが平均的にくっきりと映ってしまい、 フ ィ ル ム の よ う な 微 妙 な 濃 淡 や“ ぼ け 味 ”が 出 に く く、 カ メ ラ マ ン の 個 性 が 発 揮 で き な く な っ た こ と は 事 実 だ った。さらに、もう一つの要因があった。 ス タ ジ オ や 中 継 で 使 う カ メ ラ は も と も と 電 気 的 な 機 械 で あ り、 操 作 は デ ィ レ ク タ ー の 意 向 や 指 示 に よ っ て 動 く 技 術 ス タ ッ フ だ っ た。 そ れ に 対 し て、 報 道 取 材 の カ メ ラ マ ン は 自 ら の 意 志 と 判 断 で 映 像 を 獲 得 し て く る イ メ ー ジ ハ ン タ ー で あ り ジ ャ ー ナ リ ス ト だ っ た。 ビ デ オ カ メ ラ を 使 う こ と で、 技 術 カ メ ラ マ ン と 同 列 に 置 か れてはかなわないという想いがあったことは否めない。 技 術 的 変 革 の 狭 間 に お い て は、 い か な る 社 会 に お い て も起きうる一例と言えるだろう。

繰り返しになるが、ENG とは Electric News Gathering (電子的ニュース取材)のシステムをいう。実際にはニ ュ ー ス に 限 ら ず テ レ ビ 番 組 全 般 の ロ ケ 取 材 の シ ス テ ム と し て 小 型 テ レ ビ カ メ ラ と 携 帯 型 VTR の 組 み 合 わ せ、 さ ら に 1/2イ ン チ 幅 の BETACAM の 登 場 に よ る VTR 一 体 型 テ レ ビ カ メ ラ を 用 い る こ と を 意 味 す る。 そ し て、 や が て 衛 星 を 利 用 し た 伝 送 シ ス テ ム SNG が 定 着 す る と、 取 材 用 の カ メ ラ は そ の ま ま 中 継 カ メ ラ と し て も 機 能することになる。 なお、NHK が ENG を初めて採用したのは 1975年(昭 和 50年 )の 昭 和 天 皇 ご 訪 米 報 道 か ら で あ る。 現 像 所 を 確 保 す る 必 要 が な く、 撮 影 し た 映 像 を そ の ま ま 日 本 に 速報できたことから報道現場での ENG への認識が一気 に高まる契機となった。

5 衛星経由の映像メディア

ENG に よ り テ レ ビ 映 像 取 材 の 主 体 が フ ィ ル ム カ メ ラ か ら ビ デ オ 一 体 型 テ レ ビ カ メ ラ に 切 り 替 わ る と、 現 場 か ら 放 送 局 へ の マ イ ク ロ 波 に よ る 中 継 や 映 像 伝 送 が 容 易 に な っ て き た。 こ れ に よ り、 テ レ ビ の 機 動 性、 速 報 性 は 格 段 と 進 歩 し た。 こ の 動 き を 加 速 し た の が 通 信 衛 星 を 国 内 中 継 に も 使 う「SNG(Satellite News Gathering)」である。 5.1 実現したクラークの構想 通信衛星は、『2001 年宇宙の旅』で知られるイギリス の SF 作家アーサー・C・クラーク(Arthur C. Clarke)が、 1945年 に ワ イ ヤ レ ス ワ ー ル ド 誌("Wireless World")10 月 号 に 載 せ た 論 文 に 端 を 発 す る と 言 わ れ て い る。 そ れ は、「静止通信衛星を 3基、120度間隔に並べて世界通信 網を構築する」というものだった。しかし、クラークの 構 想 に 必 要 な 技 術 は 当 時 で は 高 度 す ぎ た た め に、 し ば らくは忘れられた存在だった。ところが 12年後の 1957 年 に、 旧 ソ 連 が 世 界 最 初 の 人 工 衛 星 ス プ ー ト ニ ッ ク 1 号 の 打 ち 上 げ に 成 功 し た こ と か ら 米 ソ の 宇 宙 開 発 競 争 が 始 ま る と、 に わ か に 注 目 さ れ 実 用 化 が 検 討 さ れ る こ とになった。 アメリカでは翌年の 1958年 12月、アイゼンハワー大 統 領 の ク リ ス マ ス メ ッ セ ー ジ が 入 っ た 録 音 テ ー プ を 載 せ て ス コ ア 衛 星 が 打 ち 上 げ ら れ、 本 国 に 向 け て 送 信 す る こ と に 成 功。 さ ら に 1960年 8月 に は、 直 径 30m の 風 船型の受動中継衛星エコー 1号が打ち上げられ、風船表 面の電波の反射を利用した電話、伝送実験に成功する。 つづいて 10月には、電波の増幅器(中継器)を載せた クーリエ 1号が打ち上げられた。それは、地上からの信 号 を 録 音 機 に 蓄 え、 目 的 の 地 点 の 上 空 に 来 た と き に そ の信号を地上に送り返すというものだった。 1961年 に は、 ケ ネ デ ィ 大 統 領 が「1960年 代 中 に 人 類 を月に送り、安全に帰還させる」との演説を行い、合わ せて「通信衛星を開発し、世界の情報通信の主導権を取 る」と強調したために、有人宇宙開発と同様に通信衛星 の 開 発 に も 莫 大 な 費 用 と 人 員 が 投 入 さ れ て、 衛 星 通 信 技術の発達に拍車をかけることになった。 中 継 器 を 載 せ た 最 初 の 能 動 衛 星 は、 ア メ リ カ の ベ ル 研 究 所 に よ っ て 開 発 さ れ 1962年 7月 に 打 ち 上 げ ら れ た

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