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教典史学への試論
1
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高
橋
発
昭
もう何回、この索末なν
ストハウスに宿ったことだろう。ガ γ ダ l ラの中心マルダ γ の 郊 外 、 アショカの碑文のあ る シ ャ パ l ズガリの遺跡の近く、政府関係出張役人の宿。勿論観光客など来ないから、ろくなフロントもなく、管理 人の老人とポ l イ が 廊 下 で 所 在 な く 、 し ゃ が ん で い る 。 ガ ン ダ 1 ラの平野をぐるりと、とりまく山々の遺跡を、今日はメハサ γ ダ、明日はジャマ l ルガリ、そしてタレリ ( 99 ) ー、或はシクリ等、地元の古老をつれて歩いている。せっかく、ここまで来たのだからと、 つい無理をして登り、傷 めた膝がうずいてねむられない。ましてや、 ガ γ ダ l ラは内陸だから、十一月から三月までは夜は冷える。十分なお 湯も出ず、風自にも入れないから、まんじりともしないで夜を明かすことも何晩か。たまたま、とろりとすると変な 夢 を 見 た 。 マ γ ガの一休さんのような短い袴をはいた私が鍋をかぶってメハサ γ ダの急援を駆け下りて来る。後から大勢の僧 や信者が追っかけて来て石を投げる。そのばらばらとんで来る石が、 カlyカlγとかぶった鉄の鍋にあたる。 ー「 は っ﹂として目がさめた。何のことはない。寝返りを打った頭が索末なベットの鉄の柵にぶつかったのだ。昨日見て来 たメハサンダの山寺の印象が余りにも強烈だったので、こんな夢を見たのであろう。 ﹁ 数 々 一 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀﹁ 数 々 一 揖 出 ﹂ ︵ 高 橋 ﹀
4
砂
私は常々、遺跡から当時の僧 院生活ひいてその主行事たる仏 塔崇拝を類推、経典の文字と照 し合せ、二方面から考えたらと 思 っ て 歩 い て い る 。 特にメハサyダ・ラルマそし て パ サ l ワルの遺跡に教団の分 派を思わせるものが見い出され る。然し、これらがいつ分派し て 行 っ た か は 、 は っ き り し な い 。 それらから出土するのはクシャ γ の パ ス デ l パ王のコイ γ や 、 サ サ l ノ・クシャンのコインだ から、般若経や法華経が成立す る時期より、大分後で、もうそ メ ハ サ ン ダ (100'1) イ.の頃には大乗教団は出現していたと考えられるから、大乗仏 教成立時の証拠とはならない。然し、これらを通じて﹁推測﹂ の一助にはなるだろうと思って、大胆な仮説を試みる。
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布施太子の故地といわれるメハサンダは特別な寺であ る。主塔から尾根伝いに連らなって作られた僧院からほんの 少し離れた三、四カ所の小僧院からは食器が出土し、本院の 方の僧院からは出土していない。それはここの住僧は食堂で 内1 v 食事していたことを示す。従ってこの山には食事を共にしな いグループが存在していたことになる。小乗か大乗かは分ら ない。小乗どうしの他の部派かも知れないが、小乗と大乗と ︽ 2 v では食べものが違うから、小乗のメハサγ
ダ の 本 院 と 異 っ た 、 大乗のはしりの小グループが存在していたと考える方が自然 であろう。このような食事を共にしない僧院はジャマ l ル ガ リ 等 に も 見 い 出 さ れ る 。 帥ラルマも、同様に、他の部派に分裂して行ったと思われ る所で、アフガニスタγ
のジェララパIド近くのハツダ遺跡 の は ず れ に 位 置 し て い る 。 ﹁ 数 々 償 出 ﹂ ︿ 高 橋 ﹀ ロ.Lalma
(1101)﹁ 数 々 按 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ ハ .
Banawa
地図糾の如く、四つの尾根の麓に窟が存在する。そして町から一番手近な岡の 上に主塔の跡があって、これに町の人々は参詣した。勿も一般の民衆だけではな く、この四つの岡の麓の窟院の住僧も、ここに詣でて、この主塔を中心に統一あ る寺を形成していたと思われる。 然し京大隊の調査で、グループの窟のある岡の上に二、三の塔の跡らしきもの が見られるから、時代がたつと、手近な塔に参詣するようになって行ったことが ︽s v
推 定 さ れ る 。 付バサワ I ル石窟も興味ある遺跡である。カイバ l 峠を越えてアフガニスタン −.
( 102) に入り、ジェララパIドの町に入る手前で、 カ プ l ル川の対岸にそそり立つ岩山 である。ドラムカ γ を四つ並べた筏で渡った私には思い出深い所である。 岩山に虫が食ったように、点々と濁られた窟は、 一見無造作に並んでいるよう z − a , 、 唱 、 ふれ占 μ 京大隊の発掘調査で、 六群になっていることがわかった。然もその六群 が、夫々独立な機能をそなえていることから、独立した派になっていても不思議 ではないという状況になっていたと恩われる。即ち川方柱窟といって、窟の中心 に方柱を彫り残し、それをストウ l パの代りに鏡道するよう作られていたもの。ω
尊像窟、これは仏像や彫刻を肥った窟で、仏伝やジャ l タカを通じて、仏の教 え を 学 ぶ 所 で あ る 。ω
僧衆窟、僧の住居である。これら三つがワンセットになって 寺 の 機 能 を 果 し て い た 。
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方柱窟一 一
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僧衆窟 これらは、大体後三五O
年頃から五OO
年頃までに、このような形態に なって行ったと推定される。問題はD
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に方柱窟がないのは、地上に作 られたか︿特にD
地区には地上の建物の跡が多い﹀、さもなくば仏像に重 点が置かれて、もともとからなかったのでは、とも考えられる。これはパ ー ミ ャ γ が五世紀頃に、仏塔から仏像にと信仰対象が変って行ったことと 考 え 合 せ て 、 かく推測される。更に、尊像窟が少くなるのは、当時はスト に石積みの尊像窟が作られるようになった。従って尊像窟の少なくなるのは、逆に、むしろ造像の、即ち仏教の隆盛 ︽ 4 V ッコの造像が盛んになる頃で、安易に仏像の奉献が出来たので、石窟のよ うに長い時間と労おかかる堀護、その需要に応じ切れなくなり、第 ( 103) を暗示していると京大の報告書は言っている。 かくて僧衆窟に住み、方柱窟で鏡道修業し、尊像窟で仏伝や教儀を味わうという、 ワンセットの機能をそなえたグ とを証していると思われる。 ループが六つもある。このことは取りも直さず、分裂とまで行かなくとも、自然にグループ分けが行われて行ったこ これにヒントを与えてくれるものとして、現代のインドの宗教事情がある。即ち、 ガンジス川がヒマラヤ山系から 大平原に移る所に、リシケシというヒンズー教有数の聖地がある。そこに散在するアシュラムでは、有名な指導者が ﹁ 数 々 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ 亡くなると、信者は立派な僧を求めて他のアシュラムに移り、かつて隆盛を誇っていたアシュラムが衰退して行くと﹁ 数 々 一 顕 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ いう。このことは、日本の、宗派の本山の宿坊が、縁故とか形だけの法縁でつながっているのと違って、指導者から 指導者によって栄えて行くさまを見る時、前述の遺跡には、それぞれ指導者の得意とする教学を求めて僧が集り、従 って段々グループ分けされて行き、最後に分派して行ったのであろう。 かく、私は、これらの遺跡を念頭に置いて、教典の文字。それも﹁文底﹂にかくされた事実を推量しようと思う。
4
砂
法華経は実に不思議な経典である。迫害とそれに耐えよという文字で埋っている。 そして叉﹁たとえ一句一備で も﹂という無数の言葉が続く。 これは、インドの宗教を長く見て来た私には考えられないことである。即ちエロ l ラの石窟を見ても、仏教ヒンズ ( 104) !教ジャイナ教が窟を連らねて、 一つ所に共在していた。アショカ大王然り、彼は仏教に寄依しながらも、他宗教を 併せ保護していた。過去の事実だけではない、現在の民衆も、 ヒンズー教徒でありながら、仏教の聖地に詣でる。釈 尊成道の菩提樹下にヒンズー教徒が一日中坐って冥想していても異和感もない。勿も、彼等にとっては、釈迦はずィ シュヌの十番目の化身には違いないが。 このような、すべてが調和する世界たるインドの考え方と、法華経乃至大乗仏教には、何かしら異質のものを感ず る 。 即 ち 、 一 仏 乗 の 一 神 論 と 、 ﹁数々擦出﹂等の非難迫害の文字である。大乗仏教は法華経の久遠本仏、浄土三部経 の阿弥陀一仏、般若波羅蜜多の仏母等、 コ仏﹂をとなえ、今までに共存したインドの汎神論、即ち、仏はすべての ものに内在するという立場から、 起越的な一神論へ変り。 そして又倍るという立場から、 仏にすがり救済を仰ぐ方向、即ち仏を内から外へ求めて行った。これこそ、 モン丸lyインドの汎神論から、砂漠的宗教に共通な、 一 神 論 へ の思想的な転回である。このことを私は、異端を徹底的に許さず、 ひたすら砂漠の砂に伏し又、金曜礼拝のモスクに 集 る 大 群 衆 を 見 る に つ け 、 エ ロ iラの共存の立場との差を考えさせられるのである。 そ の イ ン ド 的 共 在 の 立 場 を 、 はっきり否定したのがコニ乗の否定﹂である。 ﹁三乗は方便にすぎず、それを金科玉 条とするお前達は、悟りに遠くはなれている﹂との方便品の文字は、やはりガンダ l ラという乾燥的風土の中で生れ た論理である、と私は考える。 勿 も 現 在 、 タ レ リ ー や ジ ャ マ l ルガリの遺跡から眺められるガンダ l ラの平野は、緑り一色の畑でうまり、岩だら けの山々と美しいコ γ トラストをなしているが、これは戦後外国の援助により、 スワット川からの灘翫で、このよう になったのであって、私が三十年前、 はじめて来た時には、ベシャワルからカイパ!峠にかけて、現在もひろがって ( 105) いる砂漠の如く、底気楼の舞う広漠たる荒地であった。考古学的に見て、二千年前は現在程、乾燥していなかったと は い え 、 緑 り の あ っ た 所 は 、 や は り カ プ l ル 川 と 、 スワット川の流域のみであったと推定されるからである。かかる が故にこうした砂漠的風土が法華経の三乗批判と、それに附随する迫害のコつの基盤﹂であったと私は考える。
4
争 法華経の中に散見する非難迫害の大きな原因は、勿論他教への批判である。当時の既成の仏教の中には、次の法華 経の経文の文字の如く、私同様耳のいたい僧も多々いたであろう。 ﹁ 知 態 劣 る も の た ち は 、 森 林 で の 生 活 ハ 阿 練 若 ﹀ を 守 り 、 ぼ ろ を つ ず つ た 衣 ハ 納 衣 ﹀ を ま と っ た だ け で 、 ハ 高 橋 ﹀ ﹃ 我 々 は 耐 え の 生 活 を し ﹁ 数 々 按 出 ﹂て b
、
る &− >- −可言 数
う 全て置
よ う? とさ 」 ふ 品、
J ︽ 7 v ﹁ 或 有 阿 鯨 若 、 納 衣 在 空 閥 、 自 調 行 真 道 、 軽 賎 人 問 者 ﹂ ︽ 8 ︾ ﹁ 題 意 を い だ き 、 心 が ひ ね く れ 、 欺 附 的 で 、 愚 か で 、 し か も 思 い 上 っ て い て 、 未 だ 得 て い な い の に 得 て い る と 妄 想 す る で し ょ う ﹂ ︽g
︾ ﹁ 悪 世 中 比 丘 、 邪 知 心 緒 曲 、 未 得 翻 行 真 道 、 我 慢 心 充 満 ﹂ ﹁ 味 覚 の 楽 し み に 食 り と ら わ れ て い る も の が 、 在 家 の 人 に 教 え を と き 、 六 租 の 神 通 を そ な え た ハ 阿 癒 漢 ﹀ の よ う に 敬 ま わ れ る で あ ︽m v
ろ う ﹂ ︽n v
﹁ 貧 著 利 義 故 、 与 白 衣 説 法 、 為 世 所 恭 敬 加 六 通 羅 漢 ﹂ と、当時の出家仏教を批判して、在家仏教の正法性を標携する意欲がうかがわれる。 これが同じ大乗系の宝積経になると、もっと痛烈である。 1 ( 106) ﹁ 人 里 は な れ た 所 に 居 を 占 め て 、 在 家 と も 出 家 と も 交 ら ず 、 こ と ば 少 な く 、 談 合 す る こ と も 多 く は な い 。 し か し 、 こ の 沙 門 の このような行住坐臥はハ供養者﹀をあざむく口先だけの欽輔の産物にほかならない。心を清めるためでもなく、静けさや寂けさ ハn v
を 得 る た め の も の で も な く 、 修 練 の た め の も の で も な い ﹂ 2 、﹁この世間のある種の沙門は、自分が戒をまもっていることを、如何に他人に知ってもらおうかと考えて戒を守るOi
− − − そ れ ら は 他 人 に み せ び ら か す た め で あ っ て 、 世 を い と う た め で も な く 、 欲 情 を 離 れ る 為 で な く : : : 名 与 や 名 戸 や 賞 讃 を 追 求 す る 沙 門 ︽m v
で あ る ﹂ 3 、﹁彼等小乗の比丘たちは、烏のように尊大で横柄で感意が激しい。私の教説に対するねたみと、慢心と倣りの火にやかれてい ︽ M U る ﹂ 5 ︽ 路 ︾ ﹁ 酒 の 酔 い に 酔 っ て 、 村 の 家 々 の ま わ り を う ろ つ き ま わ る ﹂ ﹁ ほ と け の 教 え を 、 人 々 に 与 え る と こ ろ の 徳 の 集 積 で あ る 聖 典 を 捨 て 置 き 、 彼 等 は 常 に 人 々 の あ い だ に 便 り を と り つ ぐ 為 、 書 4︽
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信 を も ち 運 ぶ ﹂ ︽ 汀 ﹀ 6 、 ﹁ 牝 牛 や ロ パ や 馬 と い っ た 家 畜 が 施 与 さ れ る こ と に よ っ て : : : も つ ば ら 耕 作 や 商 取 引 に 心 が 注 が る ﹂ ︽m v
7 、 ﹁ 塔 や 僧 団 に 属 す る 物 品 か 、 彼 等 自 身 か 、 の 、 み さ か い も な い ﹂ 8 、 ﹁ 出 家 し て い な が ら 、 彼 等 が 愛 欲 を 欲 求 す る こ と は な は だ し く 、 ﹃ け っ し て 愛 欲 に ふ け っ て は な ら な い 、 そ れ は お ん 身 等 を 畜 ︽ M U V 生 や 餓 鬼 や 地 獄 の 境 涯 に お と す も の で あ る ﹄ と 常 に 在 家 者 に 説 く が 、 彼 等 自 身 の 心 は 少 し も 自 制 さ れ て い な い ﹂ 9 、 ﹁ 森 の 中 に 住 ん で も 、 彼 等 の 心 は 村 里 に 達 し て い る で あ ろ う 、 煩 悩 の 火 に 焼 か れ て い る 彼 等 の 心 は け っ し て 安 ら か に 落 ち つ い ︽ 初 ︾ て は い な い ﹂ 等々、僧への批判は延々と続く、然し立派な僧もいたことは、次の文字から知られる。 ﹁ そ う い う 末 の 時 代 に あ っ て な お 、 い ぜ ん と し て 戒 行 と 徳 を そ な え て い る 人 々 は 、 か え っ て 蔑 視 さ れ る 。 彼 等 は 村 や 都 会 を 去 っ て 門 別 ︾ 森 林 に 住 む こ と に な る で あ ろ う ﹂ ( 107) かく真面目な僧が寺にいられなくなるような堕落した教団として、既成の仏教に対する批判はますます鋭く、叉そ のことを通じて自らの正当性、そして使命観にも与えることになる。 こうなると、新興の大乗グループは、 前掲3
の ﹁私説に対するねたみと、 慢心と倣りの火に焼かれている﹂ の 如 く、既成教団からの攻撃をまともにうけることになる。 ﹁常に大衆の中にあって、我等を段らんと欲するが故に、国王大臣婆鰻門居士及び余の比丘衆に向って誹諒して、我が悪を説い て 、 是 れ 邪 見 の 人 、 外 道 の 論 議 を 説 く ﹂ ハ 法 華 経 勧 持 品 ﹀ ﹁ 是 の 愚 痴 人 は 我 が 法 中 に お い て 沙 門 と な り 、 返 り て 般 若 波 癌 蜜 多 を 誹 務 し て 道 に 非 ら ず と い う ﹂ ハ 道 行 般 若 経 ﹀ ﹁ 愚 人 が 般 若 仏 説 を 諦 言 し て 、 こ れ 仏 説 に 非 ら ず 、 若 し は 魔 、 若 し は 施 民 の 作 る と こ ろ な ら ん ﹂ と 。 ハ 大 智 度 論 巻 六 三 、 釈 信 誘 品 巻 六 八 ﹀ ﹁ 数 々 一 揖 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀﹁ 数 々 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ タフト・イー・パーヒー僧院複現図〈原図カラチ博〉 かく既成仏教からの非難迫害が強ければ強い程、新興の グループは法は荘麗な山頂の寺々に、ではなく、真面目に 法を受持読読解説書写する所にある。その所こそ道場であ るという意識がわいて来る。 そ も そ も 、 ガンダ l ラの遺跡をめぐり歩く時、当時如何 に仏塔信仰が盛んであったかが、実感出来る。即ち大きな 主塔のまわりには無数の奉献塔。クフト・イ l ・ パ l ヒ ー のように、主塔のまわりに奉献塔や巨大な仏禽の列、その 中には二メートルにも達する仏像やストウ l パが安置され ( 108) たであろう。このような本山級の大寺院ならずとも、例え は ; スワットのプトカラ遺跡から約一キロ、新たに発掘さ れた小さな寺の遺跡でも、主塔のまわりには、やはり大き な仏詣で主塔をぐるりととりまき、無数のチャイトヤ堂が 完全に残っているから、大きな寺でなくとも、如何に多く の仏塔でうまっていたかがわかろう。 こうなると小乗の寺への攻撃は勢い、そのシ γ ポルたる 仏塔崇拝の否定に向けられる。それに加えてもともと仏塔
崇拝は釈噂の泣命にそむくものとして伯はこれにかかわ らなかったことによる。即ち大般浬然経の有名な言葉に ﹁ 阿 難 ょ 、 放 等 は 舎 利 供 養 に 奉 仕 し て は な ら な い 。 最 高 普 の た め に 努 力 せ よ : : : 阿 難 ょ 、 如 来 は 伝 心 厚 き 刺 市 川 利 の 賢 者 獲 経 門 の 賢 阜 市 川 土 の 賢 者 が あ り て 如 来 の 舎 利 供 出 伐 を な す で あ ろ う L-とある如く 、 本来は山家のたずさわるものではなかっ た
。
然しアショカ王の八万凶 千 の仏w m
供長に象徴されるよ う に 、 仏搭供長が余りにも盛んになると 、 かたくなに 、 仏原供長を否定していた部派も 、 こ の趨勢をうけ入れざ るを得なくなった。そして 、 まず的院の外に迫雌がちに ︿m
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安立し記った。それが段々大きく明 巾 されて 、 荘大にな ︵間叫 ︸ り 、 旦又例院内にもとり入れられるようになった。かく て 、こ の仏原供花が小釆仏教の寺々で m 閉めて大きなウエ イトをもつようになり 、 叉大釆の徒にはそれが小乗仏教 のそのシンボルとも思われ であろ う。このような情勢下 ﹁ 数 々 一 桜 山 ﹂ ︵ 高 橋 ﹀c
109)﹁ 数 々 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ に﹁法を観ずる﹂在家教団は後述の事例の如く﹁仏塔否定﹂を旗じるしとして成長して行ったのは当然のことであっ た 。 ﹁ 如 来 滅 後 、 若 有 受 持 説 罰 、 為 他 人 説 、 若 白 書 、 若 教 人 雷 、 供 養 経 巻 、 不 須 復 起 塔 寺 及 造 僧 坊 、 供 養 衆 僧 ﹂ ハ 分 別 功 徳 品 ﹀ ﹁如来滅後、若有受持説諦為他人説、若白書若教人番供養経巻、不須能持是経、兼行布施持戒忍痔精進一心知時其徳最勝無量無 辺 ﹂ ハ 分 別 功 徳 品 ﹀ と、これと同じことが宝積経郁迦長者経ににある。 ﹁ 世 尊 た ち の た め に 、 そ れ ぞ れ 宝 石 の 搭 を 建 て : : : 僧 伽 に 対 し て も い の も の 限 り あ ら ゆ る 快 い 道 具 を 用 い て 給 仕 し て も : : : こ の 経 説 を 受 持 せ ず 、 身 に つ け ず 、 口 に 唱 え ず : : : 他 を し て そ れ に 入 ら し め な い な ら ば 、 こ の 菩 麓 は 過 去 に せ よ 、 未 来 に せ よ 、 現 在 に せ ︽ 鈍 ︾ ょ 、 如 来 を 供 養 し た こ と に な ら な い だ ろ う ﹂ ﹁ も し 菩 躍 が あ っ て 、 こ の 教 説 を 聞 き : : : 正 法 が 久 し く 世 に と ど ま る よ う に す る な ら ば 、 こ の 菩 躍 は 過 去 未 来 現 在 の も ろ も ろ の ほ 内 部 ︾ と け 、 世 尊 に 供 養 し た こ と に な る ﹂ ﹁ か の 愚 痴 の 人 は 我 が 法 の 中 に お い て 出 家 を 得 た り と い え ど も 、 我 が 法 を 解 せ ず 、 出 家 の 行 を 捨 て 、 た だ 搭 廟 舎 利 を 供 養 し 、 自 活 の た め の 故 に 、 衣 鉢 を 得 ん が 為 に 、 利 養 の た め の 故 に 、 名 聞 の 為 の 故 に 、 こ の 事 を な さ ん が 故 に 舎 利 を 供 養 す る な り : ・ ・ : 迦 薬 よ 、 ま さ に 来 る べ き 世 の 後 の 五 百 歳 に 於 て は 相 似 の 沙 門 あ っ て 、 衣 服 形 貌 は 沙 門 に 似 せ れ ど も 、 戒 は 相 似 ず 、 定 は 相 似 ず 、 態 は 相 似 ざ ︿
m v
る も の あ り ﹂ ( 110) とあり、叉般若経系では ﹁ 供 養 さ れ る べ き 完 全 に 倍 っ た 如 来 た ち の 全 知 者 性 は 知 慈 の 完 成 か ら 生 じ た も の : : : 如 来 の 遺 骨 の 供 養 は 全 知 者 に 根 拠 を も っ て い るOi
− − − 知 惑 の 完 成 を 書 物 の か た ち に だ け で も し て 保 存 し 、 安 置 す る と し よ う 。 更 に 、 こ の 知 慈 の 完 成 を 花 : : : 旗 を 供 え : ・ : ・ 灯 明 や 花 輪 を 供 え て 恭 敬Li
− − − カ ウ ジ カ よ 、 七 宝 で で き 、 如 来 の 遺 骨 を 納 め た ス ト A y − − ハ を 建 立 す る と と よ り 生 ず る 福 徳 の 集 積 は 、 そ ︽m v
の 百 分 の 一 千 分 の 一 、 コ l テ ィ l 分 の 一 : : : に も 及 ば な い ﹂等、同様の趣旨の所は未だ未だある。特に興味ある所は ﹁ ア l ナ γ ダ よ 、 こ の 知 懇 の 完 成 が 世 間 に 流 布 し て い る 限 り 、 如 来 は ハ そ こ に ︶ 存 在 す る と 知 り 、 如 来 が 教 え を 説 い て い る の だ と 知 り な さ い
Oi
− − − 次 の よ う な 有 情 は 如 来 の 近 く を 住 い と し て い る の だ と 知 り な さ い 。 ハ す な わ ち ﹀ 知 慈 の 完 成 を 聞 き 、 習 い 、 覚 え 、 唱 え 、 理 解 し 、 宜 布 し 、 説 き 、 述 べ 教 示 し 、 読 請 し 、 書 写 し 、 花 、 薫 香 香 料 花 環 塗 番 紛 呑 僧 衣 傘 瞳 鈴 旗 を 供 え 、 ま た 周 辺 に も ︽m v
灯 明 や 花 環 を 供 え 、 種 々 の 供 養 の 仕 方 を も っ て 恭 敬 し 、 尊 重 し 奉 仕 し 、 供 養 し 、 讃 嘆 し 、 祈 願 す る だ ろ う も の た ち は ﹂ ハ 引 線 筆 者 ︶ と仏塔供養を否定している。 更に阿弥陀経には、阿弥陀の二十四願中、第六願﹁仏塔の願﹂の ﹁ 若 し 善 男 子 普 女 人 が 我 が 固 に 来 生 せ ん と 欲 し て 我 を 用 い る が 故 に 、 益 々 替 を 作 し 、 若 し く は 分 椴 布 施 し 、 搭 を 諮 り 焼 呑 し 、 花 を ︽m v
散 じ 灯 を 燃 し : ・ ・ : 塔 を 起 こ し 寺 を 作 り ﹂ ( 111) の立場から段々一闘が進むにつれ、名号の受持が強くなると、遂に塔崇拝がなくなって行く。 かく当時の新興の在家教団が共通に旗じるしとしたのは、仏塔の否定と、経典即ち法の重視であった。法華経もこ の時代の流れに、さからうものではないことは勿論である。 ⑨ 前述の八千煩般若経の﹁知懇の完成が流布した所、そこに如来はある﹂ということは、当然どこでも道場であると いうことに連らなる。 小乗の立派な寺だけが道場だけではなく、山かげの庵や町の在家の家の中で、細々と然も真面目に﹁受持読読解説 書写する所が道場﹂であるということになる。 ﹁ 数 々 損 出 ﹂ ︵ 高 橋 ﹀﹁ 数 々 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ ﹁ 若 経 巻 所 住 之 処 、 若 於 国 中 、 若 於 林 中 、 若 於 樹 下 、 若 於 僧 坊 、 若 白 衣 舎 若 在 股 堂 、 若 山 谷 噴 野 、 是 中 皆 応 、 起 塔 供 養 、 何 、 当 知 是 処 即 是 道 場 、 諸 仏 於 此 、 得 阿 弱 多 羅 三 薮 三 菩 提 、 諸 仏 於 此 、 転 於 法 輪 諸 仏 於 此 、 而 般 湿 繋 ﹂ ハ 神 力 晶 ﹀ 所以者 これは叉、宝塔晶の、法華経の説かれる所、 いずくなりとも宝塔が涌現するということと同じである。 然しながら、こうした仏塔否定の流れにあって、法華経だけは少々ニュア
γ
スが違っている。前述の神力品にして も﹁そこに塔を建てよ﹂と依然、 ﹁仏イコール塔﹂という表現になっている。 勿も、塚本博士によると、 ﹁サン久リクット原典はの包q m
ハ支提・制多・洞堂・廟﹀とω
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ハ 塔 ・ 寧 堵 波 ﹀ を 区 別 し て い る が 、 ﹁妙法華﹂では両者を区別しないで、 ﹁塔﹂と訳しているとしハ法華経の成立と背景一五一頁﹀ 妙 法 華 で ﹁ 阿 逸 多 よ 、 こ の 善 男 子 等 女 人 の 若 し く は 坐 し 若 し く は 立 ち 、 若 し く は 経 行 せ ん 処 、 こ の 中 に 、 即 ち 応 に 塔 を 建 つ ベ し 、 一 切 の 天 人 は 皆 応 に 供 養 す る こ と 塔 の 如 く す べ し ﹂ ハ 岩 波 文 庫 法 華 経 六 四 頁 ﹀ (111) とあるのが、ヶルγ
本では ﹁ ア ジ タ よ 、 こ の 普 男 子 、 普 女 人 が 住 し 、 坐 し 、 経 行 す る 所 に は 、 ア ジ タ よ 、 如 来 の た め に 支 提 ︿ の 包 寄 る が 建 立 さ る べ き で あ る 。 こ れ は 如 来 の 塔 窃 吉 田 冨 ﹀ で あ る と 、 諸 天 を 共 な る 世 間 ハ の 人 び と ﹀ に よ っ て 言 わ る べ き で あ る ﹂ ︿ 塚 本 氏 同 番 一 五 四 頁 ︶ と 舎 利 塔 と 、 ﹁法﹂を納めたチャイトヤ堂と区別されている。 従って法華経も八千頭般若経の如く舎利塔を否定し、 ﹁法﹂を安置した支提の包件習を強調し、 ﹁法﹂の重視に向 っているのであって、けっして小乗のような舎利塔崇拝に逆もどりするものでないことは勿論である。 そもそも礼拝の対象は塔からチャイトヤ堂に、そしてその中に安置するものは仏像に変って行くのが歴史的傾向で ある。これは遺跡が雄弁に物語っている。即ちタキシラのシルカップに、サカ・パルタイ時代の馬蹄型のチャイトヤ 堂が出現し、塔自体がお堂の内に安置されるようになって来た。アジャ γ タやカルラl・パジャl・カンヘリ1等の窟院も同じ形式になっている。勿も窟院は塔自体が窟の中に安置されるのは当然であるが、地上の建物としては、 サ γ チ!大塔の近くにチャイトヤ堂が残り、又ナガールジュナコ γ ダの僧院には入口内部の両側に向き合う形で、二つ のチャイトヤ堂が作られている。そして内に仏像と塔が安置された跡が残っている。 かく、多くの事例からストウ l パからチャイトヤ堂に変って行く傾向が跡付けられる。従って搭自体もこうした傾 向から﹁舎利﹂の塔から﹁法﹂の塔に性格が変って行ったことであろう。妙法華とサンスクリット本の差というもの は、このような過渡的な時代を表わしているように私には思われてならない。 特にスワットの奥地のユモグラムハ写真参照﹀に実にユユ l クな仏塔が見られる。即ち、仏・法・僧三宝の三つの 塔が並んで作られている。その中で、 ﹁法﹂の塔は、内に経典を納めるような、 チャイトヤ堂になっているのが注目 ( 113) される。叉法華経のギルギット本で有名なギルギット文書の出土した塔も、その覆鉢体の内に木箱があって、中に経 典が多数安置されていたことから考えると、 八千頚般若経の﹁知慈の完成を香物のかたちにし、:::花旗を供え、灯 明 や 花 輪 を 供 し ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ︵前掲注幻﹀の文字が実証されていると思う。 そもそも法華経は布施博士をはじめとして多くの学者によって、成立の時期を異にするものの集合であるとされて いる。即ち塔の建立とその供養をすすめる方便品等の第一期のものは、舎利供養が流行となり、それまでは﹁舎利供 養 は 在 家 の も の ﹂ ハ大般浬繋経﹀として、かかわらなかった教団も遂に無視出来なくなって、これをとり入れた小乗 仏教時代の影響が残っている時期のものと私は考える。これが、 ﹁ 舎 利 を 供 養 す る も の は : : : 沙 を 褒 め て 仏 塔 を 作 れ る 、 か く の 如 き 、 諸 々 の 人 等 は 皆 己 に 仏 道 を 成 じ た り ﹂ 一 二
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− − 四 ﹀ ︵ 岩 波 文 庫 法 華 経 上 一 ﹁ 数 々 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀﹁ 数 々 摘 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ ﹁ ジ ナ の た め に 塔 を ︿ 建 立 せ ん ﹀ と す る 子 供 ら は す べ て 覚 り を 得 る も の と な っ た ﹂ ︿ ケ ル γ 本 法 華 経 ニ 章 偏 七 九 ﹀ の 表 現 と な っ た の で あ る 。 然し時代は変って行く、第二期の法師品以後の﹁舎利塔﹂から﹁法の塔﹂の重視は、勢い、前述の如きチャイトヤ 堂の造立をすすめる時代と並行して行った。且つ叉かく法華経自体、思想的に深化発展して行ったのであるが、この ニ つ の 立 場 が 、 一つの経典の中に並存し、猶前述の羅什訳の神力品の、 ﹁そこに塔を建てよ﹂の文章や、チャイトヤ 堂といっても内に安置する塔が舎利塔か法の塔かは一見区別出来ず、第三者からは理解されずに、矛盾・不徹底と、 指摘されるに至ったのは、止むを得ない商があったと言わざるを得ない。ここに法華経の﹁迫害・非難﹂の宿命性を 見 る の で あ る 。
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(JJ4) さて、ここで当時の小乗仏教を考えてみよう。その内部にはそろそろ大乗仏教に心をよせる僧も出ていることが次 の 経 文 か ら 理 解 さ れ る 。 ﹁ 彼 は 僧 院 に 入 っ た ら 、 誰 れ が 多 く を 学 ん だ 比 丘 か 、 だ れ が よ く 、 法 を 説 ︿ 比 丘 か 、 だ れ が よ く 戒 律 を 保 つ 比 丘 か 、 だ れ が 戒 t i ︸ titi−
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M 律 の 要 綱 を 保 持 す る 比 丘 か 、 だ れ が 菩 躍 を 保 持 す る 比 丘 か 、 だ れ が : : : 誰 が 三 味 に い そ し む 比 丘 か 、 だ れ が 菩 醸 乗 の 比 丘 か : : : ﹂ 2 、 ﹁ 一 切 の 二 乗 の 儀 式 を 行 ず る と 現 じ て 、 内 々 に は ぎ の 普 瞳 の 行 を 捨 て お ︿ 引 線 筆 者 ﹀ と、然しかく僧が心をよせるだけではなく、小乗仏教の僧伽自体の中に、所謂大乗的な考え方が出ていることは注意 さるべきである。時代はとうとうと、このような方向に進んで行ったことが、小乗仏教の僧伽への寄附銘文から知られ る 。 川 ピ マ l ラ γ 出 土 舎 利 容 器 世 尊 の 舎 利 に 対 し て : : : 一 切 諸 仏 へ の 供 養 の た め に : : : ︿ サ カ 族 の 王 ア ゼ ス の 銅 賞 が 伴 出 : : : 前 一 世 紀 に ま で さ か の ぼ る ﹀
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マ ト ウ l ラ 出 土 獅 子 柱 頭 銘 文 ハm g
説 一 一 切 有 部 の 所 領 と し て 、 一 切 諸 仏 の 供 養 と 法 へ の 供 養 憎 伽 へ の 供 養 と し て サ カ 国 へ の 供 養 と し て 戸 サ カ は 前 一 世 紀 か ら 一 後 世 紀 ︶ 川 カ ラ ワ ン 出 土 銘 文 ︵ 有 部 の 寺 ︶ ︽ 制 ︾ ア ゼ ス の 一 三 四 年 : : : 一 切 衆 生 の た め : ・ : ・ ︿ こ の 福 業 が ﹀ 浬 撲 の 証 得 を も た ら さ ん こ と を ︿ 後 七 七 年 ︶ 川 カ プ l ル西方三十マイル君”三島出土舎利道銘文 一 切 衆 生 に 対 し て 無 病 が 、 更 に 地 獄 よ り 最 高 の 存 在 に 至 る ま で の す べ て の も の : : : 更 に 邪 信 の 人 に 対 し て も 最 上 の 福 が ︿ 後 一 七 ︽ 部 ︾ 九 年 ﹀ こ の 寺 は 大 衆 部 の 所 領 で あ る 。 ﹂ 川 ナ ガ l ル ジ ュ ナ コ γ ダ 大 塔 石 柱 銘 文 ︵ 大 衆 部 、 西 山 部 、 セ イ ロ ン 上 座 部 の 寺 が あ っ た ﹀ 湖 到 瑚 樹 剰 剰 釧 刈 叫 吋 ー の 回 向 と し て : : ・ ・ 彼 等 が 両 方 の 世 界 ︵ 現 在 ・ 未 来 ︶ に 於 て 利 益 と 安 楽 を 得 ん が 為 に 、 叉 彼 女 自 身 が 程 繋 の ︽ 鎚 ︾ 至 福 を 獲 得 で き る よ う に 、 叉 一 切 世 界 の 利 益 と 安 楽 を 得 ん と 願 っ て ︵ 後 三 世 紀 ﹀ ハ 点 線 は 筆 者 ﹀ ( 115) 即ち、前一世紀から後一世紀までに﹁一切諸仏﹂が出、ω
の如く、後七十七年には﹁受記﹂思想とも思われる考え が出、川の如く、二世紀後半には悪人成仏の考え方が、叉三世紀には附の如く、 コニ世﹂という考え方が出ている。 特にこれらの銘文を貫いている考え方は、 ﹁自分の為した行為の功徳が第三者に向けられる﹂という、 ﹁ 利 他 ﹂ の 思 想である。かく、大乗の考え方が当時の小乗の僧の中にも、或は僧伽にも侵入して行ったことがわかる。 然して、これらの大乗的な考え方は一体どこから起ったのであろうか。 ﹁ 数 々 一 損 出 ﹂ ︵ 高 橋 ︶も 「、 出 出 家 か の け 普 「
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で あ っ て ︵ 高 橋 ﹀ の阿閥仏国経徳号法経の文字の如く、在家の家や小さな庵を中心にして起ったと思われる。 然して小乗の寺の中や、 メ ハ サyF
の如く、小乗の寺の近くで︿食事を共にしないグループを大乗のはしりと仮定 して﹀、大乗に心をよせる僧達がいても、それが n ひそかに u 内々に行われていたら、それ程問題でなかったろう。 即 ち ﹁ 一 彼 等 は 激 し く 欠 点 を い い つ の る こ と も な い 。 更 に 他 の 声 聞 の 道 に 属 す る 比 丘 た ち の 名 を あ げ て 非 難 す る こ と も な ︿ 、 似 合 め だ て す ︵ 却 ︾ る こ と も な く 、 彼 等 に 敵 対 心 を い だ く こ と も な い ﹂ 円 m 側 ︾ ﹁ こ の 経 典 を 愚 か な 人 の 前 で は 、 け っ し て 説 い て は な ら な い ﹂ ︽u v
﹁ 誰 か の 悪 口 を 言 っ て は な ら な い 。 異 っ た 見 解 を 述 べ て は な ら な い ﹂ ︽a v
﹁ こ の 経 典 を 秘 か に 匠 れ て で も 、 あ る い は 誰 か 一 人 の 人 の た め に 説 き 明 す な ら ﹂ ( 116) と。然し大乗が段々力がついて来て、 ﹁ 良 家 の 子 等 よ 、 あ な た 方 は 、 こ の 上 な い 正 し い 普 提 か ら 、 遠 く は な れ 、 あ な た が た は 、 そ れ ︿ 普 提 ﹀ に あ ら わ れ る こ と は な い 、 ハ 組 制 ︾ あ な た が た は 、 完 全 な 怠 惰 な 暮 し を 送 っ て い て 、 か の ︿ 如 来 の ﹀ 知 を き と る こ と は 出 来 な い ﹂ というような高飛車な態度をとるに至ると、 ﹁ 眉 を ひ そ め ら れ た り 、 く り 返 し く り 返 し 、 何 度 も ︿ 座 席 を ﹀ 割 り 当 て ら れ な か っ た り 、 精 舎 か ら い 追 出 さ れ た り 、 種 々 の 悪 口 一 雑 ︽u v
言 を あ び せ ら れ て ﹂ ﹁ 態 口 而 聾 壁 、 数 々 見 摘 出 、 逮 離 於 筆 マ ﹂ ︵ 勧 持 品 ﹀ と、意地悪されたり、追放の憂き目を見るに至る。このような攻撃は、小乗の寺や近くに住むだけでなく、先程の経文の町の中の自家の家に住み、大乗に心をよせる人達にも当然加えられる。教義的だけでなく、 との経済的な関係による小乗教団の危機感も加って。 ス ポ γ サ
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の信者逮 然し、何より、小乗の彼等が我慢ならなかったのは、自分達が、釈尊の金言として伝来した阿含等の所依の経典を 方便品の所説の如く﹁方便﹂即ち本当のものでないといい放つだけでなく、あまつさえ新興のグループが自分勝手に 経典を編纂したものを、 ﹁経﹂とまでいっていることであった。 即ち阿難四事経に ﹁ 世 に 高 節 清 潔 無 欲 な る 沙 門 党 志 あ り 、 こ の 曹 高 の 口 の 述 べ る 所 は 皆 こ れ 諸 仏 の 遺 典 な り ﹂ と大乗側が公然と言い放っているのに対して、 ︽ 必 ︾ ﹃ こ れ ら の 比 丘 は 異 教 徒 で あ っ て 、 利 得 と 名 与 に と ら わ れ て 、 自 分 遣 の 勝 手 気 ま ま の 言 い 分 を 教 え る ﹄ と : : : ︽ 必 ︾ ﹁ 利 得 と 名 与 を 求 め て 、 自 分 で 教 典 を 編 纂 し て 、 集 会 の 中 で 説 教 す る と 私 共 を 腐 る ﹂ 円 四 む ﹁ 私 共 の こ と を 非 難 し て 異 教 の 教 儀 を ひ ろ め る : : : ﹂ ︽ 却 ︾ ﹁ ヤ ク シ ヤ の 形 相 を し た 多 く の 比 丘 た ち が 私 ど も を 罵 倒 し よ う と も ﹂ (117) と小乗教徒の非難のさまが、教典の中にはっきりとよみとられる。更に常不軽菩薩に対する迫害に於て﹁増上慢の比 丘比丘尼優婆塞優婆夷﹂とはっきり﹁四部ありて﹂といっている。かくて迫害は僧によるだけではなく小乗を信ずる 在家の人々からもうけたことが理解される。 然して、更に私はこの迫害誹誘はこの小乗四部の衆だけではなく、大乗側からもあったと考える。 ﹁ さ ら に 叉 、 マ y ジ ュ V リ 1 よ 、 如 来 が 完 全 な 浬 繋 に は い っ た の ち 、 正 し い 教 b 宅 か 消 滅 に 瀕 す る 最 後 の 時 代 に お い て 、 こ の 経 典 を 受 持 し て い る 菩 醸 大 土 は ハ 他 人 を ︶ う ら や む こ と な く 、 偽 る こ と な く 、 敗 く こ と も な い 菩 薩 大 士 で あ っ て 、 菩 離 の 道 に 属 す る 他 の ﹁ 数 々 一 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ハ 高 橋 ﹀ 人 を 非 難 せ ず 、 詩 ら ず 、 軽 麗 し な い 。 ︵ こ の 経 典 の 受 持 者 は ﹀ 声 聞 の 道 に 属 す る も の で あ れ 、 独 覚 の 道 に 属 す る も の で あ れ 、 菩 麗 の 道 に 属 す る も の で あ れ 、 他 の 比 丘 比 丘 尼 信 男 信 女 た ち に 、 心 の 困 惑 疑 悔 を 起 さ せ る こ と は な い 。 ﹁ 良 家 の 子 ら よ 、 あ な た 方 は こ の 上 な い 正 し い 菩 提 か ら 遠 く は な れ 、 あ な た が た が ハ 菩 提 ﹀ に あ ら わ れ る こ と は な い : : : ﹂ と 言 っ て 菩 | 劃 制 組 制 周 引 制 倒 州 制 削 内 錦 ︾ も 、 心 の 困 惑 を ひ き お こ す こ と は な い ﹂ ハ 引 線 筆 者 ︶ ﹁ 数 々 按 出 ﹂ この経文は、法が消滅に類する最後の時代に於いて、 ﹁快い触れ合いの中で、危害をうけずに、この法門を説きひ ろめる﹂には﹁菩薩の道に属する他の人を非難せず、誘らず軽蔑しない﹂ことが必要であり、これが第三の安楽行だ と説いている一節である。このことを裏返してみると現実はそうではなく、他と争いがあったことを示している。 そもそも教団で律や戒が規定されるのは、或る一つの問題が起った時、今後そのようなことが起らないよう、その都 度その都度、新たな律や戒がきめられて行って大部な律蔵の体系が出来たように、菩薩の道に属する他の人といろい ろのトラブルがあったからこそ、この教えが示されたのだと私は考える。八千頭般若経にも、左の経典が残されてい (118) る
。
﹁ ア l ナ ン ダ よ 、 菩 盛 大 士 は 別 の 菩 醸 乗 に よ っ て 修 業 す る 人 々 に ど の よ う な 態 度 で 接 し た ら よ い か : : : 恰 も 教 師 に 対 す る よ う 接 す ︽ 印 ︾ ベ き : : : 突 に こ れ ら の 菩 醸 大 士 は 私 と 同 一 の 物 に 乗 り : : : 私 と 同 じ 乗 に 進 み 入 っ た も の た ち で あ る ﹂ ︿ 引 線 筆 者 ︶ やはりこの経典も大乗と大乗との聞に論争非難があったことを裏付けている。そしてそれなるが故に、特に大乗の 仲間どうしは他を非難し合ってはいけないと経典ではいっているのだと推測する。 特に宝積経の﹁菩薩の仏塔供養﹂に対して非常にきびしい文字が連らねられているのが注意されねばならない。 ﹁ 当 来 、 末 世 、 後 の 五 百 歳 に 諸 々 の 菩 薩 及 び 諸 々 の 比 丘 で あ り て 、 身 を 修 め ず 、 戒 を 修 め ず 活 命 の 為 の 故 に 仏 塔 及 び 仏 舎 利 を 供 養 し、還の為にせず、離欲の為にせずして、然も供養を修お﹁ 当 来 、 末 世 、 後 の 五 百 歳 に 諸 々 の 菩 薩 あ り て 悪 友 に 親 近 し 、 少 し く 経 を 読 粛 し 、 た だ 供 養 の 柴 を な す 。 香 花 壇 培 幡 蓋 灯 明 を も っ て 如 来 の 舎 利 塔 廟 を 供 養 す る の み 。 迦 葉 よ 、 我 れ 在 家 の 無 智 の 衆 生 に 善 根 を 植 え さ し め ん が 為 に 舎 利 を 供 養 せ ん こ と を 説 け る に 、 ︿ 邸 ︾ か の も ろ も ろ の 痴 人 、 我 が 意 を 解 せ ず し て 、 唯 こ の 業 を な す の み ﹂ 共に﹁菩薩ありて﹂とはっきり、大乗の仲間の中に、このような仏搭供議の徒があったことをしるしている。 法華経は他の大乗の仲間と共に仏塔否定から﹁法﹂の受持読読解説書写を強調しながらも、猶前述の如き誤解をう けるようなまぎらわしい表現があるので、他派は小乗と同じように考え我慢が出来なかったことであろう。だからこ そ、この宝積経の文字の如く、大乗側からも非難されて法華経は両面からの攻撃にさらされることになった。勧持品 の忍と安楽行口聞の四安楽行が要請されたのは、このようなきびしい状勢を反映するものであったと恩われる。
4
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( 119) かくなると、大小両面からうける非難迫害に、じっと耐えることが、仏の遺命であり、逆にそれを受けること自体 が正法のしるしだとの信念をいだく。 ﹁たとえ一偏たりとも受持読諦解説書﹂の言葉が満ち充ちていることは、この ことを表わしている。 勿も、この﹁一偏だけでも﹂という立場は非難迫害という点だけからは解釈されないことは十分承知している。こ れは法華経だけでなく、当時の大乗仏教に共通した言葉である。 ﹁ ﹃ 大 い な る 宝 の 集 り ﹄ と い う 経 典 の 主 の な か の 、 た だ 一 つ の 詩 煩 だ け で も 把 揮 し 、 記 憶 す る で あ ろ う な ら ば : : : 先 の 人 ︵ 七 宝 の 塔 を 建 て た 人 ﹀ の 上 に 集 積 さ れ る 功 徳 は 百 分 の 一 、 千 分 の て 百 千 万 分 の 一 に も 速 し な 凶 ﹁ ア l ナ γ ダ よ 、 菩 麓 が こ の 経 典 か ら 離 れ ず に い る な ら ば 、 彼 は 仏 か ら 離 れ ず 、 仏 に 近 侍 し て い お ﹁ 数 々 一 損 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀﹁ 数 々 損 出 ﹂ ︿ 高 橋 ﹀ 即ち、これは一一婦でも受持すれば、それがそのまま﹁仏と共にある﹂ことだという、大乗仏教の特徴たる﹁信﹂を 単的にあらわしていると言えよう。これは小乗仏教の理論的な、所調﹁知解﹂というものから、 ﹁ バ ク テ ィ ・ 唯 信 ﹂ に移り行くもの、即ち大いなるものに、 ひたすら随順帰依する道であった。 然し私がここでとりあげたいのは、大乗小乗両面の非難迫害の只中にあって、この法華経を受持することは実にむ ずかしい、即ち﹁此経難持﹂の危機感がひしひしとせまって来るのを感ずる。故に経典全体でなくてもその中の﹁た とえ一句一偏﹂でもという所に切実感が示めされているように思える。故にコ備でも受持すれば﹂: 門 出 ︾ ﹁ 正 し い さ と り を 得 る 尊 敬 さ る べ き 如 来 と な る 内 田 V ﹁ 如 来 と み な さ る べ く ﹂ ︽ 町 ︾ ﹁ 如 来 に 等 し き も の ﹂ ﹁如来患部
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﹁ 如 来 の な す べ き 仕 事 を は た す も の と し て 如 来 に よ っ て 使 わ さ れ た も の ﹂ ︽ 叩 ︾ ﹁ 如 来 の 装 身 具 に よ っ て 飾 ら れ た も の ﹂ ︽m v
﹁ 如 来 を 肩 に 担 う も の ﹂ 円m v
﹁ 如 来 の 法 衣 に つ つ ま れ て い る も の ﹂ ︽m v
﹁ 如 来 の 御 手 で 頭 を な で ら れ た も の ﹂ 1 2、
3 (120) 4、
5、
6 7 8、
9 11、、
10 ︽ 制 ︾ ﹁ 寿 命 の 長 さ の 説 示 と い う 法 門 が 説 か れ る の を 衆 生 が 一 度 で も き け ば 正 し い 菩 提 か ら 退 く と い う 道 理 は な い ﹂ ︽ 筋 ︾ ﹁ : : : そ の 福 徳 は 無 限 ﹂ と い う こ と に な る 。 このように、くり返し、くり返し、説いているのは、その一一胞の切実感からであって、他教の﹁仏と共にある﹂という自覚より一層深い自覚であったと考える。これは頭で考えた﹁仏と共にある﹂というのではなく、日蓮聖人のい う色読、この体で仏と共にあり、 ﹁仏の御手の中に救われている自分﹂を悟る立場である。従って、それは意識とは 言えず﹁意識を超えた意識﹂である。かく﹁此経難事﹂の世の中、大小両乗の非難迫害が多ければ多い程、このご 傷﹂の受持の自覚は大きくなる。私は、この言葉にその時代の﹁危機感のこの上もなく大きい﹂のを推測し、然もそ うした中で、この経を受持する、むずかしさと、小さな弱い自己と、それなるが故に、 ﹁ 一 偏 ﹂ に で も 、 し が み つ い て行く切実な声をきくのである。かくて、末世の困難さ、非難迫害こそ、 より深い﹁信﹂への大いなる原動力である ことを、この﹁たとえ一旬一偏﹂の中にそこに見るのである。
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( 121) こ の よ う に 考 え て 来 る と 、 法華経にあらわされた文字は、 単なる信仰という観念の世界だけではなく、 当時の宗 教 界 、 ひいてその置かれていた社会情況を示すものと思われる。即ち一例として、あの国王大臣を枕頭によびつける 信 解 ロ 聞 の 長 者 、 こ れ こ そ ク シ ャ ン 時 代 、 シルクロードを介する東西通商で巨利を得た資産者の出現を示し、帥宮喰品の ご門の家﹂の警は、教義的な﹁三車火宅﹂即ち﹁三乗から一仏乗﹂という教儀の問題だけではなく、当時の村や家 の構造を反映していると思う。即ち今カイパ l 峠附近のパターン族の村や家を尋ねる時、すべての家がこの構造であ 上一門が要請されたのである。これを見た時、 り、叉これらをとりまく城壁のような壁で部落がぐるりと固まれている。異民族の侵攻はなはだしいこの地で、防衛 ︽ 帥 V タキシラのギリシャ人の町シルカップがやはり一門の城であった等を 考 え 合 せ 、 経典は当時の姿を案外忠実に伝えているのではなかろうかと思った。更にこうした事実から、 類推する ﹁ 数 々 摘 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀時、メハサンダ、ラルマ・パサ l ワルの遺構も案外、経典に示された迫害や、 ﹁ 数 々 撹 出 ﹂ ハ 高 橋 ﹀ 示唆を与えてくれるものと恩われる。 旧訳聖替が、歴史的事実を反映しているものとして、古代史学者に見直され、 一句一偏の問題を考えるのに、大きな ているように、私は経典の中で、何気なく見過されている言葉のはしはしに、法華経成立時代、否、ひいて大乗仏教 ﹁聖書史学﹂という新分野が成立し の興隆時代の諸環境を示す資料が多く見い出されるのではないかと、 ﹁仮称教典史学﹂というものを考えながら遺跡 を歩いている。この﹁数々損出﹂はこのような見地から、敢て行った冒険的試論であるとも言えよう。 ︹ 註 ︺ ︿ 1 ﹀ ハ 2 ﹀ ︵ 3 ﹀ ︿ 4 ﹀ ハ 5 ﹀ ︿ 6 ﹀ ︿ 7 ﹀ ︿ 8 ﹀ ハ 9 ﹀ ハ 叩 ﹀ ハ U ﹀ ︵ 臼 ︶ ハ 臼 ︶ ︿ U ︶ 京 大 メ ハ サ γ ダ 六 二 頁
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六 三 頁 小 乗 は 殺 す の を 見 た り 、 自 分 の た め に 殺 し た り す る 肉 は 食 べ ら れ な い 。 勿 論 大 衆 は 不 殺 生 故 食 べ ら れ な い 。 京 大U
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弓巳五十頁 石 窟 で は 仏 像 も ス ト ウ i パ も 窟 と 一 体 的 に 彫 る 後 か ら 作 る の で は な い 。 大 乗 仏 典 法 華 経 2 、 た ゆ ま ぬ 努 力 ︵ 勧 持 品 ︶ 偏 向 岩披文庫法華経中二三六頁 大乗仏典法華経2 岩波中二三六頁 大 乗 ! 仏 典 法 華 経 2 岩l
中三三六頁 大 衆 仏 典 宝 積 経 迦 薬 品 h q h v h 7 偏 伺 備 や可 九十頁 九 十l
九 十 ご 良 一 七 四 頁 (122)ハ 日 ︶ 9 0 ︿ 時 ﹀ ι q h q ハ
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﹀ L q A V ︿ 店 ﹀ t q A q ︵m m ﹀ 。 一 七 五 頁 ︿ 却 ︶ 。 一 七 六 頁 ︿ 幻 ﹀ L V 一 七 八 頁 ハ辺﹀同心円状増巾、バイシキリl塔、プトカラ搭、他の絡を中に入れて増巾:::タレリl、タナlラ ︿お﹀タキシラ、ピッパラ塔︵マlシ十ル・タキジラ怠照﹀ ︿ M ﹀大乗仏典宝積経郁迦長者経三一二頁 ︿ お ﹀ L q = 二 三 頁 ︿部︶宝積経大正u
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五 一 二 頁 ︵幻﹀大乗仏典八千煩般若経I
第三章知惑の完成とスト I パ 一O
一 頁 ︵ 却 ﹀ L V A q E 第 三 十 二 章 委 託 三 七 三 | 四 頁 ハ 却 ﹀ 大 正3
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三O
一 中 ハ加︶大乗仏典安積経郁迦長者経二七八頁 ハ担﹀仏説首甥厳三昧経大正日|六=二の下 ︵詑﹀静谷目録一七三O
︵ お ﹀ L q 一 七 六 二 ︵ M V O 一 七 四 五 ︵ お ︶ h q 一 八O
一 ハ お ﹀ h q 六 六 八 ハ釘︶阿閑仏国経徳号法経大正日l
七六三下l
七 六 回 上 ハ羽﹀現存の寺は碑銘からほとんど小乗、わずかに部派を記さない寺少々 ﹁ 数 々 一 額 出 ﹂ ( 123) ハ 高 橋 ﹀﹁ 数 々 損 出 ﹂ ︿ 高 橋 ﹀ ︵ 羽 ﹀ ハ州制﹀ ハ 4 ﹀ ハ 位 ﹀ ︵ 必 ︶ ハ M 明﹀ ︵店別﹀ ︵組制﹀ ハ C ﹀ ︿組制﹀ ︵組制﹀ ︿ 印 ﹀ ハ 日 ﹀ ハ 抱 ﹀ ︿ 臼 ﹀ ︵削吟﹀ ハ 窃 ︶ ︿ 弱 ﹀ ︿ m む ︿ 弱 ﹀ ハ 印 ﹀ ︵ 印 ﹀ ハ 臼 ﹀ ハ 位 ﹀ 大乗仏典法華経下六九頁 岩波法華経上一二七頁 岩波文庫法華経中二六五頁 岩波文庫法華経中−四七頁 大 乗 仏 典 法 華 経 2 七 ニ 頁 大乗仏典法華経 2 六 十 頁 大 乗 仏 典 2 五九頁偏八 。 五 九 頁 偏 九 0 0 備 十 一 A V 六
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頁 偏 十 三 大 乗 仏 典 法 華 経E
七 一l
七 ニ 頁 大乗仏典八千頭般若第二十四章慢心 宝積経大正日l
五 ニ 下 。 大 正 日l
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七 中 大乗仏典宝積経=一O
頁 。 = 一 一 一 頁 大 仏 典 法 華 経E
九 頁 九 行 ハ 法 師 品 ﹀ 。 九 頁 十 三 行 。 十 頁 六 行 L q 十 頁 十 一 行 十 頁 十 三 行 十 一 頁 六 行 十 一 頁 七 行 十 四 頁 ~ //。
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二 三 六 頁 ( 124)ハ 邸 ︶ ハ 臼 ︶ ハ 筋 ︶ ハ 邸 ﹀ 十五頁 。 一 二 四 頁 ︿ 分 別 功 徳 品 ﹀ 。 一 二 六 頁 南門の跡はたしかに存在するが、それはあくまで補助的、通用門的なものであった。