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他者、死、愛をめぐる哲学断片

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Academic year: 2021

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全文

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他者、死、愛をめぐる哲学断片

著者

北岡 崇

雑誌名

椙山女学園大学研究論集 人文科学篇

44

ページ

37-48

発行年

2013

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002972/

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三七 0.はじめに   「 旧 約 聖 書 」 所 収 の 『 雅 歌 』 に は 「 愛 は 死 の よ う に 強 ︶1 ︵ く 」 と い う 言 葉 が あ る。 ま た、 「 新 約 聖 書 」 を も 含 む 「 聖 書 」 全 体 に は、 愛 は 死よりも強いという思想が鳴り響いてい ︶2 ︵ る。この思想に真実がある なら、愛を知らない者でも、死の強さを知ることができるなら、死 のように強く、また死よりも強い愛がどのようなものか、幾らか理 解できるのかもしれない。本稿は、他者や死への言及に始まり、生 き甲斐や死に甲斐の考察に進み、次いで生き残ることの意味を確認 した後、エロスとタナトスの考察に進み、さらに運命への愛の考察 に至る。そして最後に、運命を愛する人間が備えている深みが反省 的思考の活動とどのような関係にあるかを考察する。   そ の 際、 本 稿 は、 「 聖 書 」 の 言 う 愛、 ニ ー チ ェ の 言 う 運 命 へ の 愛、 ソクラテスの生涯を導いたエロス、 すなわち知への愛︵哲学︶ 、 これらの間を 横断する。実はこれらは、たしかに、それぞれがそれ ぞ れであって、同一ではないが、まったくの別ものというわけでは な い。 ニ ー チ ェ が そ の 思 想 形 成 の 前 提 と し て、 「 聖 書 」 や ソ ク ラ テ ス そ の 人 を 深 く 読 み 込 ん で い る こ と は 明 ら か で あ る し、 「 聖 書 」 の 章句とソクラテスの言葉の間、またこれら各々とニーチェの間にも 思想上の深い親近性を認めることができる。つまり、これらの思想 の魅力は、それぞれが、それぞれに固有の思想を展開しているとい う こ と の み に 基 づ く の で は な い。 む し ろ、 そ れ 以 上 に、 そ れ ぞ れ が、哲学にとって永遠の同じ問題を抱えその同じ問題に取り組んで いる︵三者三様の取り組み方だが︶ということに基づいている。哲 学にとって永遠のその同じ問題をめぐり、これら互いに異なる思想 の間を横断することにより、死の強さを理解し、また愛の強さを理 解すること、これが本稿の狙いである。 1.私(私の生)の限界としての他者、死   他者は私、あるいは私の生を限界付ける。私を、あるいは私の生 を 限界付けるという一点においてなら、他者は死と同じ類である。 私、あるいは私の生を限界付けるというこの一点の同一性が、さま ざまな側面において他者と死が似通い、近接し、ある局面では同一 でさえあることの根源である。たとえば、私は実際には私の死のこ

他者、死、愛をめぐる哲学断片

  

    

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三八 とを理解してはいないのに、死についてあれこれ語るが、同じよう に、私は実は、他者について、何しろそれは他者なのであるからそ の絶対的他者性、つまりそのそれらしさにおいてはそれを本当は何 一つ理解していないのに、あれこれ語る。私は私の死を捉えようと して、また私にとっての他者を捉えようとして、それぞれを私の思 想のうちに捉えるたびごとに、それぞれのそれらしさを捉えそこな い、それぞれのそれらしさを、私、あるいは私の生の限界の向こう 側へと疎外する。たしかに奇妙な事態ではあるが、死が死であり、 他者が他者である以上、そうならざるをえない。死が何であるかを 知っている者は一人もいないとソクラテスは語ってい ︶3 ︵ るが、同様に 他者を知っている者はわれわれの中に誰一人いないと語ることもで きる。さらに、私にとってまったくの他者でありその存在さえ知ら ないものこそ他者の名に値するのであるなら、そのような他者は私 にとっては存在 しないも同然で、もはや存在しない死者と大差ない と 語ることもできる。また、私に対峙し私に敵対する他者が、その 他者を意識する私に私の死を意識させることもある。それは私に、 必ず私の生の限界を意識させるが、その限界にはその向こう側から 死が触れている可能性があるからだ。そしてこの可能性が、私を、 私 の 死 を 思 考 す る と い う 不 思 議 な 思 考、 不 可 能 な 思 ︶4 ︵ 考 へ と 誘 い 込 む。私の、あるいは私の生の限界とは、私が他者に、あるいは私の 生が死に直接する場であり、その直接する断面は、私であると同時 に他者であり、私の生であると同時に私の死でもあり、かといって 単なる私でもなく単なる他者でもなく、単なる私の生でもなく単な る私の死でもなく、私と他者の両方の限界としてそれら両方の固有 性を備えており、私の生死両方の限界として私の生死両方の固有性 を備えている。後述するように、ひとえに、この両方が直接する現 場に、生き甲斐も死に甲斐もかか っている。 2.私という存在(自己意識)   通常は、私という存在、意識存在は、対象意識と自己意識の総合 において見出される。またその対象は、通常は、意識にとっての他 者 で あ る。 た と え ば 私 は、 私 の 眼 前 に、 私 に 対 し て 立 つ︵ gegen-stehen ︶ 一 茎 の 薔 薇 を 眺 め な が ら、 そ の 薔 薇 と は 異 な る、 薔 薇 を 眺める思考、つまり私という存在に気づいている。何であれ私に対 し て 立 つ も の は 私 と は 異 な る 対 象︵ Gegenstand ︶ で あ り、 そ れ が 対して立つ私にとっての他者である。しかし、こうした説明に対し ては、異論のなされることが予測できる。異論とはすなわち、その 一茎の薔薇はそれを意識する対象意識に自己意識がともなっている 以上は、もはやその自己意識において自己証明する自己存在にとっ ての他者とは言えないのではないか、むしろその対象は私という存 在、自己存在が紡ぎ出し抱く思想の一つ、心象の一つであるといっ た方が適切ではないだろうか 、そして対象が私の思想の一つ、心象 の 一つであるのなら、その対象は私の思想、心象として、もはや私 にとっての他者とは言えないのではなかろうかという異論である。 この異論には一理ある。しかしそれでも、その思想であり心象であ る対象は自己意識において自己存在を証する思考する私とは異なる も の で あ る か ら こ そ の 対 象 で あ る の だ か ら、 そ の か ぎ り に お い て は、思考する私は対象意識の捉える対象とは異なり、後者は前者に とっての他者であるにはちがいない。また、思考する私の眼差し、 思考する私のその思考が特定の、つまりほかでもない特にこの対象 に焦点を当てているという事態を説明するために、物自体による感

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三九 性の触発という事態を想定︵カント的な想 ︶5 ︵ 定︶し、通常の意識にお いて証される自己存在に対して立つ対象を、物自体のような絶対的 他者の痕跡をとどめるものと解することも可能ではある。いずれに せ よ、 要 す る に、 意 識 は 通 常、 何 ら か の 対 象 な く し て は 成 立 し え ず、他者なくしては成立しえない。これはすなわち、対象意識と自 己意識の総合の中で始めてその存在を証されるという特性を持つ思 考する私という存在が、つまり通常の意識において証される自己存 在、私という存在がその成立時にすでに他者性を帯びているという ことを意味する。この事態を言い換えるなら、意識はその有限性を 知っているということである。そして、純粋意識が純粋意識として 存在している場合以外は、意識は人間の意識がそうであるように身 体をともなう意識、生ける意識として成立するほかないのであるか ら、この自覚する生、自覚する人間、生ける意識が、おのれの有限 性への自覚を有す るということである。また、この事態は、この生 け る意識がおのれの限界を、つまりその限界の彼方を、つまり自覚 するおのれの生の彼方、すなわちおのれの死をすでに知っていると いうことでもある。あるいは、生ける意識はすでに死に触れており 死を内包しているという風に言い換えることもできるだろう。生け る意識、自覚する生、自覚する人間とは、おのれの有限性を知ると 同時に、おのれの彼方、おのれにとっての他者、おのれの死を知っ ているということである。 3.生き甲斐は死に甲斐である   この事実に即して、しばしば語られる生き甲斐という言葉の意味 を再考してみれば直ちに明らかになることだが、この言葉とほぼ同 意義の言葉として、死に甲斐という言葉を用いることが許される。 生き甲斐と死に甲斐が究極的には同一であるという事態は、さほど 不 思 議 な 事 態 で は な い。 こ こ に 言 う 生 き 甲 斐 な り、 死 に 甲 斐 な り は、それを成し遂げずにただただ生きている、生き 続けているだけ と いうことには堪えられず、それを成し遂げずには死を受け入れる こともできない、死に切れないという思いを抱かせる当のそのもの のことであり、それを成し遂げることができるなら、いやそれを成 し遂げようと試みることができさえするならそれで死んでも構わな いと私に思わせる生全体の目的のことである。この生き甲斐こそが 私の生全体に意味を与えるのであるし、生の全体はその限界におい て死に直接するのであるから、生き甲斐と死に甲斐は究極的には同 じであるほかない。これらは、断じて正反対のものではないし、そ れぞれ別個のものでもない。実は、生と死も別々のものとしては存 在しえず、たしかに直ちに同一というものではないが各々、他なく してありえないものであり、その意味において常に一体をなすもの なのだから、生き甲斐と死に甲斐が究極的には、つまり真正なもの で あ る な ら 同 一 で あ る と い う 事 態 も、 さ ほ ど 不 思 議 な 事 態 で は な い。それ どころか、生成と消滅が同じ事態の表裏であり、一粒の麦 が 地 に 落 ち て 死 ぬ と い う こ と が 多 く の 麦 の 実 を 結 ぶ と い う こ と で あ ︶6 ︵ り、 花 咲 く こ と は 花 が 死 ぬ と い う こ と で あ ︶7 ︵ る の な ら、 生 と 死 も 刻々の瞬間における生成消滅という事態の表裏をなすのであり、生 き甲斐と死に甲斐の差異も、その同じ事態の表裏全体を掴んではい ない眼差しの向かう方向の差異、同じ事態を見る眼差しを導く関心 の差異にすぎない。   おのれの生と死を要求する上記のような切実な思いを私に抱かせ るそれは、言葉として、たとえば声として、思考する私に自覚され

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四〇 てくる。私の意識に、その私の生ける意識の彼方から到来する声、 あるいは私の生といういわば底のない井戸から湧き上がる言葉、こ うしてそれを自覚した者に課題として強く迫り来る言葉、その者の 意識からすればたとえば使命として自覚されてくる声、等々。生け る意識の底なき底もまた、通常の意識をもって自覚的な生を営む人 間にとっては、超越神と同様、他者であるから、その声、その言葉 は、他者に仮託され、大地の呼び声、神や天使からの召命、あるい は自然の声、風の音信、ざわめく小川のせせらぎの語りかけなどと 表現されることもあるだろ ︶8 ︵ う。私が誰かの言葉を聴いて心からその とおりだと納得できる場合なども、その言葉は誰かの言葉と言うよ り、むしろ生ける意識である私の深みから湧き上がってきた言葉で あると言ったほうがふさわしいのかもしれない。通常の意識をもっ て自覚的に生を営む者にとって、その生ける意識とは波のように絶 え間なく寄せて は返す他者の言葉に洗われる渚であり、自覚的に生 き るとはその渚に佇みその波に足を洗わせることである。 4.生き残ることの意味   といっても、生き甲斐でもあり死に甲斐でもあるものは実際には 容易には見出されない。であるなら、生き甲斐や死に甲斐を見出す まではとりあえず、生き残ることが大切である。とりあえずのこと で あ る に す ぎ な い に し て も、 大 切 で あ る。 し か し、 大 切 だ か ら と いって何も、生き残ることの価値に最高位の地位を与えようという のではない。プラトンの著書 『 ソクラテスの弁明 』 には、ソクラテ スが、自身が死刑の判決を下されることを予期しながら決して無罪 放免を嘆願しない自分自身と対比して、法廷での死刑判決を免れさ えすれば自分は不死身ででもあるかのように、しきりに法官たちに 助命を嘆願する被告人や、法官たちの同情を引くためにその子供や 親族を法廷に連れ出したりする被告人のことを語っていたが、その ような被告人にとっての ように、生き残るためなら不名誉や恥知ら ず のみならず不正、不敬虔なことでも平気で行うほど、生き残るこ と自体に価値があるというわけではな ︶9 ︵ い。   とはいえ、生き甲斐でもあり死に甲斐でもあるものを見出せない ままに、とりあえず生きるという生き方の惰性に身をゆだねている うちにこの生き方以外の生き方ができなくなってしまう人間、生の 全体の意味への問いかけ、探究などはきれいさっぱり忘れ果て、そ の代わりその場かぎりの安易で貧弱で不潔な欲望の奴隷と化して、 その欲望を充足するために目先の必要に迫られ生きるという生き方 にしか人生の意味を見出せなくなってしまう人間、生ける意識の全 体 性 へ の 配 慮 を 欠 き、 生 き 甲 斐 も な く 死 に 甲 斐 も な く、 あ れ、 こ れ、それと、不安定に転変する微弱な好奇心に身をゆだね生き続け ることだけが人生の唯一の意味となってしまう人間、こうしてただ 生 き て い る だ け の 人 間、 生 き 残 る こ と の 意 味 を 忘 れ 果 て た だ 生 き 残 っ て い る だ け の 人 間 も 存 在 す る で あ ろ う 。 生 を と り あ え ず 継 続 し、いわば過去というゴム紐を未来に向けて伸ばせるだけ伸ばそう とすること以外に、生きることの意味を知らない人間も少なくはな いのだろ ︶10 ︵ う。   しかし、誰もが、いつかは必ずその生を否応なく断ち切られるの ではないか。生き甲斐と死に甲斐をもって生きる人も、それを捜し 求める人も、単純にただ生きるだけの人も皆等しく、その生の終焉 は、当人からすれば、断ち切られるという仕方で、受動的にもたら されるのではないか。そうであるのなら、生き甲斐、死に甲斐など

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四一 を探し当てる努力よりも、探し当てたと思ってもひょっとしたら勘 違いで贋物を掴むだけかもしれないのに、そうしたものを探し当て ようと努力するよりも、またそうして探し当てたものにおのれの生 と死を差し出しておのれの使命なるものの成就をめざすよりも、結 局はそうした人間にも必ず平等に訪れる死がすべてを呑み込んでし まうのであるなら、そして生者はそのとき、まったく受動的にその 生を断ち切られ、その者にゆかりのあるすべてのものも早晩消えて ゆ く 運 命 に あ る の だ か ら、 い つ 来 る か も し れ な い 死 の と き ま で、 「 食 べ た り 飲 ん だ り し よ う で は な い か。 ど う せ 明 日 は 死 ぬ 身 で は な い ︶11 ︵ か 」 と思い定める者も少なくないのはうなずける。   しかし彼は、死を、自分自身に関わるすべての事柄の最終的な終 局 と し て 確 信 し て い る の で あ る か ら、 「 食 べ た り 飲 ん だ り し よ う で はないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか 」 と思い定めても心楽し むことは困難であろう。まし てや、死に甲斐でもあるような生き甲 斐 の観念が一度でも念頭に浮かんだ記憶をもつ者なら、決して心楽 しむことができない。そうした生には喜ばしい生の手ごたえ、記憶 の中に消えずに残るあの生と死を賭しているとの喜ばしい手ごた ︶12 ︵ え が欠けているからである。 5.ツァラトゥストラの夢   ここで、ニーチェの主著 『 ツァラトゥストラはこう言った 』 を見 てみよう。この著作に所収の 「 預言者 」 の章に、生きることに倦み 疲 れ、 か と い っ て も は や わ ざ わ ざ 死 ぬ の も 面 倒 だ と い う 思 い の 中 で、生き甲斐も死に甲斐も否定する一人の預言者の言葉が記されて いる。     ⋮⋮私は、大きな悲哀が人類のうえに来るのを見た。最も優 れた人たちさえ、彼らの仕事に倦み疲れた。     一 つ の 教 え が あ ら わ れ た。 一 つ の 信 仰 が そ れ と 並 ん で ひ ろ ま っ た。 「 一 切 は 空 し い。 一 切 は 同 じ こ と だ。 一 切 は す で に あったことだ! 」 と。     す べ て の 丘 は、 こ れ に こ だ ま し て 言 っ た。 「 一 切 は 空 し い 。 一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ! 」     ⋮⋮     泉はみな涸れた。海はあせた。地はどこへいっても裂けよう としている。しかしその亀裂は人を呑み込むほど深くない!     「 あ あ、 わ れ わ れ が 溺 れ 死 ぬ こ と の で き る よ う な 海 は、 ど こ に 残 っ て い る の か 」、 こ れ が わ れ わ れ の 嘆 き の 声、 ││ 浅 い 沼 を前にしての嘆きの声だ。     まことに、われわれはもう死ぬのにも倦み疲れた。今は目を あけて、生きていよう││墓穴のなか ︶13 ︵ に!   ︵ 預言者 」︶   この預言者の言葉に、ツァラトゥストラは胸を強く打たれる。と こ ろ で、 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ の 心 を 捉 え た 右 の 言 葉 は、 「 聖 書 」 所 収 の 『 コヘレトの言葉 』 の有名なくだりを想起させる。    コヘレトは言う。    何という空しさ    何という空しさ、すべては空しい。    太陽の下、人は労苦するが    すべての労苦も何になろう。    ⋮⋮    何もかも、物憂い。    ⋮⋮

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四二    かつてあったことは、これからもあり    かつて起こったことは、これからも起こる。    太陽の下、新しいものは何一つない。    見よ、これこそ新しい、と言ってみても    それもまた、永遠の昔からあり    この時代の前にもあった。    ⋮⋮    私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、    見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであっ ︶14 ︵ た。   ツァラトゥストラは、歴史におけるあらゆる事柄が同じことの退 屈な繰り返しであるというニヒリスムスに強く心を掴まれ、この思 想に抵抗するすべなく共鳴し、この思想を容認せざるをえない自分 自身、おのれの生と死を差し出すに値するそのものが理解できない 自分自身に気づいている。生全体を 「 物憂い 」 と感じさせるこの思 想の圧迫感とともに、その思想がもたらす悲哀を、ツァラトゥスト ラは、受容せざるをえない。その思想の重さとその思想がもたらす 憂鬱と悲哀を克服する力の泉をまだ探り当て ることができていない か らである。最終的には大地の意義をどこまでも肯定することにな る著書 『 ツァラトゥストラはこう言った 』 においても、大地に属す る生の意義を見出すまでには、多くの経験、多くの時間、多くの思 考が必要であるということなのだ。   ま さ に こ う し た 連 関 に お い て 注 目 す べ き 言 葉 を、 同 書 に 所 収 の 「 幻 影 と 謎 」 章 に 見 る こ と が で き る。 こ の 章 は、 「 預 言 者 」 の 章 の 後、なお多くの旅と体験、すなわち思考を重ねたツァラトゥストラ の見た夢の話を中心に構成されており、ツァラトゥストラは、章末 で夢の中で自覚したおのれの使命を次のように語っている。     おお、私の兄弟たちよ、私は、いかなる人間の哄笑でもない 哄笑を聞いた、││今や、一つの渇望が、決して鎮まることの ない一つのあこがれが、私の心を蝕む。     この哄笑へのあこがれが、私の心を蝕む。おお、どうして私 は、おめおめと生きていくことに堪えられよう!   また今にし て、死ぬ ことにも堪えられるだろ ︶15 ︵ う!│︵ 「 幻影と謎 」︶。   ツァラトゥストラはここで、そのあこがれを充足せずしては 「 お めおめと生きていくこと 」 にも、かといって 「 死ぬこと 」 にも堪え られないと認めざるをえないもの、おのれの生と死を賭してあこが れ求めるもの、引き受けるべきおのれの使命、担うべき運命、遂行 すべき仕事、つまり生き甲斐でも死に甲斐でもあるものを夢の中で 自 覚 す る。 そ れ は、 こ こ で は、 「 哄 笑 」、 「 い か な る 人 間 の 哄 笑 で も ない哄笑 」 であると記されている。   『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ は こ う 言 っ た 』 に お い て は、 夢 の 記 述 は す べ て、生ける意識︵ツァラトゥストラ︶がその限界においてその限界 の彼方と交信する内容の記述であり、この意味において、夢とはそ れ自体が、たとえば心の深層部とか言われることのある、自覚的意 識の彼方、無意識からの声の受信、その声の解読にほかならない。 ツァラトゥストラの限界とは、ツァラトゥストラが他者に 、あるい は ツァラトゥストラが死に直接する接触面であり、その直接の断面 は、ツァラトゥストラであると同時にツァラトゥストラにとっての 他者でもあり、ツァラトゥストラの生であると同時にツァラトゥス ト ラ の 死 で も あ り、 か と い っ て 単 な る 生 で も な く 単 な る 死 で も な く、ツァラトゥストラとツァラトゥストラにとっての他者の両方の 限界としてそれら両方の固有性を備えており、生死両方の限界とし て生死両方の固有性を備えている。ひとえにこの両者が直接する断

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四三 面において、ツァラトゥストラの生き甲斐と死に甲斐が明らかにな る。その断面にこそ生き甲斐も死に甲斐もかかっている。 6.タナトス/エロス   「 エ ロ テ ィ シ ズ ム と は 死 に ま で 至 る 生 の 称 揚 ︶16 ︵ だ 」 と バ タ イ ユ は 言 う。エロスとは、生をその限界に至るまで称揚するものであり、自 覚ある生が自覚ある生をひたすらに肯定することであると言い換え ることもできるだろう。エロスがそのようなものであるのなら、そ れはまた同時に人をひたすらに死へと駆り立てるタナトス、死への 欲動であると言ってもよいものである。生ける意識がその限界にま で意識を張り詰めれば、その限界において、その意識は意識にとっ ての他者、意識にとっての超越者、意識にとっての死をも同時に知 ることになり、その限界において、その生ける意識は、おのれを究 極的には他者のもとへと、死のもとへと差し出す。したがって、お のれがタナトスであることに気づかないエロスはまだ十分におのれ 自 身 が エ ロ ス で あ る こ と を 証 し て い な い エ ロ ス で あ り 、 未 熟 で あ る。真正なるエロスはすなわち同時にそれがタナトスであることを 自覚するエロスであり、すなわちタナトスである。ニーチェの言う 「 哄 笑 」 へ の あ こ が れ と は、 そ れ 自 体 が 大 地 の 意 義 を 愛 し 獲 得 し よ うとするエロスであり、大地の意義を信頼し、おのれを大地の意義 へと差し出しそのうちに溺れ死のうとするタナトスであ ︶17 ︵ る。また、 エロスの人を自称するソクラテスは、アテネの人々が彼を処罰する という誤りに陥らないようにと法廷弁論を行うが、その強烈なエロ スの発露である弁論は、このエロスが、神から託された難行を遂行 するソクラテスを、確実に死へと導いてゆく様子を存分に描き出し てい ︶18 ︵ る。つまり、ソクラテスの場合も、エロスはタナトスである。 つ ま り、 人 を 死 に 導 い て ゆ く の が、 「 死 に ま で 至 る 生 の 称 揚 」 で あ ろうとするエロスであるとき、その人はおのれの死をも運命として 愛し迎 え入れるものなのだ。 7.運命への愛   運 命 へ の 愛︵ amor fati ︶ と は ニ ー チ ェ 哲 学 の 核 心 部 を 指 し 示 す 言葉である。だが、この言葉は彼の著作においてさほど頻繁に用い られる言葉ではない。この言葉が最初に登場するのはニーチェの著 作 『 華やぐ智慧 』 第四書の冒頭の節、第二七六節においてである。     事物における必然的なものを美として見ることを、私はもっ ともっと学びたいと思う、││このようにして私は、事物を美 しくする者の一人となるであろう。運命愛 0 0 0 ︵ amor fati ︶、これ を、これからの私の愛としよう!   私は醜いものに対して、戦 いをいどむまい。私は責めまい。私は責める者をも責めない。 眼をそむける 0 0 0 0 0 0 ということをわが唯一の否定としよう!   これを 要するに、私はいつかは、ひたすらの肯定者になりたいと思う の ︶19 ︵ だ!   ︵ 華やぐ智慧 』 第二七六節︶   運命への愛とは事物における必然的なものを美として肯定する愛 であ り、運命を美しいものとして愛する愛である。ニーチェは、お の れの運命をやむを得ず甘受するのではなく、自らすすんで肯定し ようとする。このように運命を愛するためには、事物における必然 的なもの、すなわち運命を美として感受する心性や、それを美とし て 愛 す る 自 由 意 志 を 整 え な け れ ば な ら な い。 運 命 へ の 愛 に お い て も、 い や む し ろ 運 命 へ の 愛 に お い て こ そ、 人 は、 決 然 た る 意 志 を

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四四 持って 「 愛することを学ばなければなら ︶20 ︵ ぬ 」。   運命とは、真の自由を知らない者にとっては、その者が知らない 他者である。しかし、知らないとはいえ運命である以上は、その者 が気づかないだけで実はその者の生を限界付ける、否それどころか その者の生を全面的に決定する他者である。したがって、その者が おのれの生を全面的に決定する運命に気づくとき、その者は必ず、 はたして本当に自分は生きていると言えるのだろうか、むしろ死ん でいると言う方がふさわしいのではないかという問いに直面する。 おのれの生の自由、自発性が信じ難くなるのだ。実は、おのれの生 を決定する運命に気づくというその気づきの自己意識において、そ の者は同時に自分が知らない他者との接触を意識し、その他者との 交渉に入り、その他者への態度決定をなしうるおのれの自由を確保 しているのであり、その自由があるからこそ、自由、自発性の有無 をめぐる問いに直面させられるの である。パラドキシカルな表現で あ るが、自分の存在を不自由と判断できるのは、その存在が自由で あるからなのだ。不自由と判断する場合も、その判断自体が自由の 発現なのである。他者への態度決定の一つの在り様として、その他 者を愛するという態度決定がある。この愛、運命への愛は、愛であ る以上は愛する者の自由の発現、能動性の発揮であるが、その愛に おいて愛されるものは運命であるのだから、運命を愛する者はすで に、運命を愛するその愛にも、愛することの不可避性、愛さないこ とができないという意味における受動性が深く刻印されていること を知っている。この知をともなう愛とは、私を、私を死に至らしめ る可能性を秘めた私の限界の向こう側へと差し出す活動である。す なわち、死が避けがたい運命として差し迫る際にもその死を愛し肯 定する自由である。   運命を愛するというこの活動は、おのれの生の限界を意識する私 を拡張すると同時に否定し、こうし て私を神へと、あるいは超人へ と 高めるのであろうか、あるいは私を端的に死に至らしめるもので あり、この死を介し私の愛が死のような強さをもつことを証するの であろうか、あるいは私はその活動のさなかにあって有限者であり ながら同時に有限者にとって可能な唯一の完全性に至りつくのであ ろうか。 8.底のない井戸─人間はどれくらい深いか─   感覚を反省する思考がイメージを生じさせる。これらのものを素 材にして反省的思考がさらに進むときに、一方に感情が、他方に知 識が生じる。哲学は、思考の究極に至ろうとする営みであるから、 ま ず は 感 覚 を、 つ い で イ メ ー ジ を、 さ ら に 感 情 と 知 識 と を 思 考 し て、美と真を獲得しようと努める。こうした志向性こそが、私の考 える善である。イメージや感情や知識の豊かさとは、思考活動の豊 かさに比例するし、実は思考活動の豊かさそのものであると言って もよい。   人間のさまざまな言動に接してみて、誰かある人が、たとえ ば尽 き ることのない豊かなイメージを操ったり、並外れて力強い感情を 抱いたり、優れた共感能力を示したり、通常は究めがたい知識にま で通じていたりするのを認める際に、われわれはその人のことを深 みがあると言うことがある。ところで、ここに言う人間の深みとは 一体何なのか。もちろん人間は、水を張った水槽でも水瓶でも花瓶 でもなく、井戸でもないが、しかし、深みがあると言われることの ありうる存在なのである。人間に深みが生じるのは、人間が反省す

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四五 るときである。人間の場合、すべての深みは、つまり距離の無い奥 行き、距離の無い拡がり、距離の無い厚み、これらはすべて、思考 活動の産物である。人間とはおそらくは地上にあって自己自身のこ とを主題化できる唯一の存在であり、その存在の核心において、自 己自身との距離を有している、あるいは自己自身のうちに原理上は 無限の拡がりを備えることができる。というよりむしろ、ほかなら ぬこの距離、拡がりこそが、人間という存在、私という存在、自己 存在の核心そのものであり、それこそがまた人間に深みを与えるも のである。つまり、反省という思考活動が、私という井戸をどこま でもかぎりなく掘り進めていくのである。   イメージの豊かな人間はそれだけ深み、つまり奥行きと拡がりと 厚みを備えている。しかしこの深みは、刻々のその都度において有 限のものであるし、そうであるかぎり他者との接触を予想する。イ メージを思考して獲得される感情と知識も、そ れがどれほど広範囲 に 及び、その範囲がさらに拡張されてゆくにしてもその都度の現在 においては常に有限であり、そのかぎりでは他者との接触を予想す る。思考が感覚の生じる一点への注視に始まる際、すでにその時、 思考は、感覚としての思考それ自身が他者と出会うとともに背反し あ う 接 触 の 現 場 を 見 詰 め て い る。 こ う し た 性 格 を 持 つ 思 考 が さ ら に、イメージに、また感情や知識に及ぶそのたびごとにその思考活 動の中で、イメージ、感情、知識のそれぞれとしての思考自身が他 者と出会うとともに背反しあう接触の現場、すなわち両者の存立な いし両者の統一、あるいは相互承認の意味における真、調和の意味 における美を見出している。ただし、感覚を見詰め反省する思考に おいて見出される真や美は、思考の進展とともに、まずはイメージ を注視する思考の段階において、別種の美や真に取って代わられ、 次いで感情や知識を注視する思考の段階にあっては、さらに別種の 真と 美に取って代わられることになる。この意味において、思考活 動 の各々の水準において見出される真と美は、不安定なかりそめの ものである。それは、偽や醜との対比の上に成り立つという不安定 さを帯びている。その都度、思考は醜いものから目をそむけ美しい ものに向かい、美を愛する。愛らしく美しいものとはそのつど常に 愛らしく美しいものであるが、この美は、同じ水準の真と同様、不 安定である。真理もまた誤謬の一つであると言われるような事態が あるのなら、その美は、美もまた醜の一つであると言われるような 事態における美であるほかない。 注   「 聖 書 」 か ら の 引 用 な ら び に 「 聖 書 」 へ の 参 照 は、 共 同 訳 聖 書 実 行 委 員 会 「 聖 書   新 共 同 訳 │ 旧 約 聖 書 続 編 つ き 」、 日 本 聖 書 協 会、 一 九 八 九 年、 に よ る。 な お、 「 聖 書 」 に 限 ら ず、 他 の 著 作 の 場 合 も、 引 用 に 際 し いくつかの表記 ︵漢字と仮名︶ をあらため、 地の文との統一をはかった。 ︵ 1 ︶ 『 雅歌 』 第八章第六節∼第七節に次の章句がある。    愛は死のように強く    熱情は陰府のように酷い    火花を散らして燃える炎。    大水も愛を消すことはできない    洪水もそれを押し流すことはできない。    愛を支配しようと    財宝などを差し出す人があれば    その人は必ずさげすまれる。 ︵ 2 ︶ 「 聖 書 」 に は、 神 が、 人 間 へ の 愛 に 基 づ き、 人 間 に 死 を も た ら す サ タ ン を 打 ち 砕 き、 人 間 が 永 遠 の 命 を 享 受 で き る よ う に と 歴 史 を 導

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四六 く 経 緯 が 記 さ れ て い る。 神 に よ る こ の 救 済 の 歴 史 に お い て そ の 頂 点 に 位 置 す る の が イ エ ス の 生 と 死 で あ る。 「 聖 書 」 か ら の 次 の 二 つ の 引用を参照せよ。   「 と こ ろ で、 子 ら は 血 と 肉 を 備 え て い る の で、 イ エ ス も ま た 同 様 に、 こ れ ら の も の を 備 え ら れ ま し た。 そ れ は、 死 を つ か さ ど る 者、 つ ま り 悪 魔 を 御 自 分 の 死 に よ っ て 滅 ぼ し、 死 の 恐 怖 の た め に 一 生 涯、 奴 隷 の 状 態 に あ っ た 者 た ち を 解 放 な さ る た め で し た 」︵ 『 ヘ ブ ラ イ人への手紙 』 第二章第一四節∼第一五節︶ 。   「 神 は、 独 り 子 を 世 に お 遣 わ し に な り ま し た。 そ の 方 に よ っ て、 私 た ち が 生 き る よ う に な る た め で す。 こ こ に、 神 の 愛 が 私 た ち の 内 に 示 さ れ ま し た。 私 た ち が 神 を 愛 し た の で は な く、 神 が 私 た ち を 愛 し て、 私 た ち の 罪 を 償 う い け に え と し て、 御 子 を お 遣 わ し に な り ま し た。 こ こ に 愛 が あ り ま す 」︵ 『 ヨ ハ ネ の 手 紙   一 』 第 四 章 第 九 節 ∼ 第一〇節︶ 。 ︵ 3 ︶ プ ラ ト ン 著 『 ソ ク ラ テ ス の 弁 明 』︵ 久 保 勉 訳 ︶、 岩 波 書 店︵ 岩 波 文 庫 ︶、二〇〇七年、四二頁、に次の記述がある。参照せよ。   「 ⋮⋮ 死 を 恐 れ る の は、 自 ら 賢 な ら ず し て 賢 人 を 気 取 る こ と に 外 な ら な い か ら で あ る。 し か も そ れ は 自 ら 知 ら ざ る こ と を 知 れ り と 信 ず る こ と な の で あ る。 思 う に、 死 と は 人 間 に と っ て 福 の 最 上 な る も の で は な い か ど う か、 何 人 も 知 っ て い る も の は な い、 し か る に 人 は そ れ が 悪 の 最 大 な る も の で あ る こ と を 確 知 し て い る か の よ う に こ れ を 怖 れ る の で あ る。 し か も こ れ こ そ ま こ と に か の 悪 評 高 き 無 知、 す な わ ち 自 ら 知 ら ざ る こ と を 知 れ り と 信 ず る こ と で は な い の か。 ⋮⋮ 私 が も し い ず れ か の 点 に お い て 自 ら 他 人 よ り も 賢 明 で あ る こ と を 許 さ れ る な ら ば、 そ れ は ま さ に 次 の 点、 す な わ ち 私 は 冥 ハ デ ス 府 の こ と に つ い て は 何 事 も 碌 に 知 ら な い 代 わ り に、 ま た 知 っ て い る と 妄 信 し て も いないということである 」。 ︵ 4 ︶ 私 が 私 の 死 を 思 考 す る こ と の 不 思 議 と 不 可 能 に つ い て は、 拙 著 『“ 光 ” の 探 究 │ イ エ ス・ プ ラ ト ン・ ニ ー チ ェ 論 稿 │ 』、 理 想 社 、 一 九九四年、八三∼八五頁、及び九九頁の注 ︵ 17︶︵ 18︶を参照せよ。 ︵ 5 ︶ 触 発︵ afficiren ︶ の 語 は、 カ ン ト の 主 著 『 純 粋 理 性 批 判 』 に お い て し ば し ば 用 い ら れ て い る。 し か し、 こ の 術 語 に は、 ヤ コ ー ビ が 指 摘 し た 重 大 な 問 題 性 が は ら ま れ て い る。 vgl. Friedrich Heinrich Jacobi s W

erke, Zweiter Band, Leipzig

1815 , S. 304 . ︵ 6 ︶ 『 ヨ ハ ネ に よ る 福 音 書 』 第 一 二 章 第 二 四 節 ∼ 第 二 五 節 を 参 照 せ よ。 こ こ に、 「 一 粒 の 麦 は、 地 に 落 ち て 死 な な け れ ば、 一 粒 の ま ま で あ る。 だ が、 死 ね ば、 多 く の 実 を 結 ぶ。 自 分 の 命 を 愛 す る 者 は、 そ れ を 失 う が、 こ の 世 で 自 分 の 命 を 憎 む 人 は、 そ れ を 保 っ て 永 遠 の 命に至る 」 と記されている。 ︵ 7 ︶ 工 藤 直 子 『 て つ が く の ラ イ オ ン 』、 理 論 社、 一 九 九 七 年、 に 所 収 の 「 花 」︵一二六頁︶ 、を参照せよ。 ︵ 8 ︶ 森 や 風 や 小 川 や 小 鳥 た ち か ら の 音 信 に 溢 れ て い る 作 品 の 一 つ と し て 、 フ ォ レ ス ト・ カ ー タ ー 『 リ ト ル・ ト リ ー 』︵ 和 田 穹 男 訳 ︶、 め る く ま ー る 社、 二 〇 〇 一 年、 が あ る。 孤 児 と な っ た 五 歳 の 少 年、 リ ト ル・ ト リ ー を イ ン デ ィ ア ン の 祖 父 母 が 自 分 た ち の 丸 木 小 屋 に 引 き 取 っ た 際、 祖 母 は 「 低 く や さ し い 声 で 歌 い は じ め た 」︵ 同 書、 一 六 頁︶ 。その歌を、同書、一七∼一八頁から引用する。    みんな、おまえが来たのを知っている    森も、森を吹き抜ける風も    父なる山が、子供たちに歓迎の歌を歌わせているのさ    みんな、リトル・トリーをこわがらない    リトル・トリーの心のやさしさを知っているからね    み ん な 歌 っ て る よ、 「 リ ト ル・ ト リ ー は ひ と り ぼ っ ち じ ゃ な い 」 って    お調子者のレイナーは    泡を吹いて、水音立てて    陽気に踊りながら山をくだっていくよ

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四七    「 ねえみんな、あたしの歌を聞いて    きょうだいがやって来たのよ    そう、リトル・トリーはあたしたちのきょうだい    リトル・トリーが今やって来たのよ 」    仔鹿のアウィ・ウスディも    ウズラのミネ・リーも    カラスのカグーもうたいはじめたよ    「 リトル・トリーは    やさしく、強く、勇気がいっぱい    だから決してひとりぼっちじゃないよ 」   祖 母 の こ の 歌 を 聞 い て い る と、 「 ぼ く に も 風 が 話 し か け る の が 聞 こ え て き た。 小 川 の レ イ ナ ー が 枕 も と で 歌 を 歌 い、 ぼ く の 新 し い き ょ う だ い た ち に つ い て お し ゃ べ り す る の が 聞 こ え た。 リ ト ル・ ト リ ー、 小 さ な 木 と は 自 分 の こ と だ と ぼ く は 知 っ て い た。 山 の き ょ う だ い た ち は ぼ く が 好 き な ん だ。 み ん な 喜 ん で 迎 え て く れ た。 ぼ く は 幸 福 な 気 持 ち で 眠 り に つ い た。 も う 泣 か な か っ た 」︵ 同 書、 一 八 頁︶ 、と記されている。 ︵ 9 ︶ 前 掲 『 ソ ク ラ テ ス の 弁 明 』、 五 四 ∼ 五 六 頁、 に 記 載 の 次 の 箇 所 を 参 照 。「 ⋮⋮ し き り に 涙 を 流 し て 法 官 に 嘆 願 哀 求 し、 ま た 出 来 得 る か ぎ り 同 情 を 惹 く た め に 子 供 や ⋮⋮ 友 人 等 を 多 く 法 廷 に 連 れ 出 し た の に、 ⋮⋮。 私 は 無 罪 放 免 の 投 票 を 諸 君 に 哀 願 す る た め に、 彼 ら の 誰 一 人 を も、 こ こ に 連 れ 出 そ う と は 思 わ な い。 ⋮⋮ と に か く 私 は、 私 に と っ て も 諸 君 に と っ て も、 ま た 国 家 全 体 に と っ て も、 私 が そ ん な こ と を す る の は 不 名 誉 な こ と と 思 う の で あ る ││ 」︵ 同 書、 五 四 ∼ 五 五 頁 ︶、 「 私 は、 相 当 の 名 声 あ る 人 た ち が、 法 廷 に 立 つ と 奇 怪 な 真 似 を す る の を 幾 度 か 見 た ││ 死 ぬ こ と に な る と 恐 ろ し い 苦 悩 に で も 逢 う も の と 想 像 し て い る か の よ う に、 諸 君 に よ っ て 死 刑 に 処 せ ら れ な け れ ば あ た か も 不 死 で で も あ る か の よ う に。 思 う に、 こ れ ら の 輩 は 国 家 に 不 名 誉 を も た ら す 者 で あ る 」︵ 同 書、 五 五 頁 ︶、 「 名 誉 の こ と は し ば ら く 置 い て も、 教 示 と 説 得 と に よ ら ず し て、 裁 判 官 に 哀 願 し、 そ う し て、 哀 願 に よ っ て 謝 罪 を 得 る が 如 き は、 私 に は 正 し く な い と 思 わ れ る。 け だ し 裁 判 官 が そ の 席 に あ る は 、 情 実 に 従 っ て 公 正 を 一 種 の 恩 恵 と し て 与 え る た め で は な く て、 事 件 を 審 理 す る た め だ か ら で あ る 」︵ 五 六 頁 ︶、 ま た、 同 書、 五 五 頁 に は、 正 義 を も っ て 裁 く べ き 裁 判 官 は、 同 情 に 訴 え て 罪 の 軽 減 を 図 る 者 な ど、 「 そ ん な 憐 れ っ ぽ い 芝 居 を 演 じ て 国 家 を 物 笑 い の 種 と す る 者 を ば、 自 若 た る 態 度 を 持 す る 者 よ り も は る か 以 上 に 処 罰 す る こ と を 証 示 す べ き で あ る 」 と さ え 記 さ れ て い る。 さ ら に、 同 書、 六 一 頁 に は、 「 魂 の 探 究 なき生活は人間にとり生き甲斐なきものである 」 と記されている。 ︵ 10 ニ ー チ ェ 『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ は こ う 言 っ た 』︵ 氷 上 英 廣 訳 ︶、 岩 波 書 店︵ 岩 波 文 庫、 上 下 二 巻 ︶、 上 巻︵ 一 九 八 七 年 ︶、 一 二 一 頁、 一 二 二 頁、 を 参 照 せ よ。 そ こ に、 「 ま こ と に、 私 は あ の 縄 を な う 者 た ち の よ う に は し た く な い。 彼 ら は そ の 縄 を 長 く し よ う と し て、 自 ら は ま す ま す 後 ろ 向 き に 下 が っ て 行 く 」︵ 同 書、 一 二 一 頁 ︶、 「 ま た 多 く の 者 は、 い つ ま で も 甘 く な ら な い 。 夏 の う ち に も う 腐 っ て い る の だ。 彼 ら を そ の 枝 に し が み つ か せ て い る の は、 臆 病 な 心 で あ る 」 ︵同書、一二二頁︶と記されている。ともに 「 自由な死 」 章より。 ︵ 11 『 コリント人への手紙   一 』、第一五章第三二節。 ︵ 12 人 間 に と っ て、 死 は 必 ず や っ て 来 る も の で あ る が い つ 来 る の か は 誰 も 知 ら な い。 人 間 の 生 存 は 刻 々 人 間 自 身 の 力 を 超 え た と こ ろ か ら の 贈 り も の で あ る か ら だ ろ う。 そ の 意 味 に お い て は、 人 間 は 絶 え ず 命 が け の 生 を 生 き て い る。 危 険 と 呼 ば れ る こ と の あ る 戦 士 や 冒 険 家 だ け で は な く、 人 間 は い つ 死 ぬ か も し れ な い 生 を 生 き る し か な い と い う 意 味 に お い て は、 生 き る こ と そ れ 自 体 が 命 が け だ と い う こ と に な る。 こ の 理 解 を も っ て 生 き る 者 は、 日 々 刻 々 の 生 を 享 受 し や す い 境遇にある。 ︵ 13 前 掲 『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ は こ う 言 っ た 』、 上 巻︵ 一 九 八 七 年 ︶、 二

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四八 三一∼二三二頁。 ︵ 14 『 コ ヘ レ ト の 言 葉 』 第 一 章 第 二 節 ∼ 第 三 節、 第 八 節、 第 九 節 ∼ 第 一一節、第一四節。 ︵ 15 前 掲 『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ は こ う 言 っ た 』、 下 巻︵ 一 九 八 七 年 ︶、 二 四頁。 ︵ 16 ジ ョ ル ジ ュ・ バ タ イ ユ 『 エ ロ テ ィ シ ズ ム 』︵ 澁 澤 龍 彦 訳 ︶、 二 見 書 房、一九七八年、一六頁。 ︵ 17 前 掲 『 ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ は こ う 言 っ た 』、 上 巻︵ 一 九 八 七 年 ︶、 一 九頁、を参照せよ。 ︵ 18 特 に、 前 掲 『 ソ ク ラ テ ス の 弁 明 』、 四 〇 頁 以 下。 な お、 「 人 間 業 と は 思 わ れ な い 」 ソ ク ラ テ ス の 難 行 に つ い て は、 同 書、 四 七 頁 を 参 照 せよ。 ︵ 19 ニ ー チ ェ 『 華 や ぐ 智 慧 』︵ 氷 上 英 廣 訳 ︶、 白 水 社、 ニ ー チ ェ 全 集 第 一〇巻︵第Ⅰ期︶ 、一九八八年、二五五頁︵第四書、第二七六節︶ 。 ︵ 20 前 掲 『 華 や ぐ 智 慧 』、 三 〇 一 ∼ 三 〇 二 頁︵ 第 四 書、 第 三 三 四 節 ︶、 を参照せよ。 *   国際コミュニケーション学部   表現文化学科

参照

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