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思想とその基盤 : インド古代経済圏の拡大

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社会はその卯に生存して居る人間を通じて自己自身を表現するという。むしヵろン卜の第三批判流に言えば社会は 自己自身を自己表現せんとして、その中に究極目的として人間を生んだとも言い得よう。 この表現されたものが文化であり、その内容の一が思想である。故に文化、思想はその社会に生存する人間のその 社会に対応する自覚の仕方と言い符よう。 従って文化や思想はその社会、生存の基盤即ちその民族性及び風土性を反映して来るのは当然と言えよう。 然し私はこの珠境が思想を規定することのみを主張するのではない。このマルクスの下部櫛造が上部椛造を規定す る面の否定出来ぬ如く、又上部柵造自身の自己展開︵観念上の発展︶や叉この出来上った思想たる上部榊造は逆に下 部櫛造を規定する面のあることは十分認めなければならぬ。 ベックセルペッイーフング 私はこの点から、印度の古代社会を孵見してこの思想と社会との﹁交互性﹂を探究したい。 (1) 牧寄から定居農業へ

思想とその基盤

lインド古代経済圏の拡大I

高橋堯昭

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やがてガンジスとイングスの中間地幣に進出し、畑作へ移行し、又そるノ︲、水田の農業をはじめる。 こふに於てこの新来の民族にとって重大な問題が出来する。それは少数民族が数の上では多数の原住民の中に入っ て行く時、混血が生じて、や腿もすれば、民族の消滅の危険にさらされて来る。特に氏族が一定の所に定着化が進む 然もこれらはその侵入以前から﹁その社会の古老達が若者に、その社会を維持するための教訓、処世の法や、その 民族の伝説等を口伝えに教えた教訓たるリヴベーダ﹂を形成し、その統率のもと東進し、やがてインダスの上流五河 地方でベーダ文化の華を咲かせる。 もとノ、ドラヴィタ系の先住民は狩猟で母系制の社会を形成して居たが、この新来の民族は﹁父親を大家族の長﹂ とした家長制で、岐初は牧畜を行ってゐた。このことはベーダ文献やら仏典の中にも出てゐる。 即ち①ベーダ文献では。ハラモンの主神の一たるインドラに奉る頌歌のうた声を仔牛に呼びかける牝牛の炮商に比 し、祭祀をいとなむ司祭人の謝礼をダグシナ︵歌手の右手に樅かれたる牛︶といL或は戦争億四劃島gは牛狩騨ぐ 耐乞を希望する意で長者は唱冨で牛の守役者牛群の王といっている。 @仏典では﹁酪とか酢︵乳製姉バターチーズ︶﹂が岐上の災味の例として随所にあげられて居る。又現在印度では 牛が蝿なる動物とされて居ることと考え合せて見るのに、暑い印度では。ハターとかチーズが唯一の保存食であり、又 牛乳がその畿白源であって、その供給源の保護は当然であろう。こうした無意識の知慧、社会的要請からのノルム化 が興味ある問題を提示する。 である。 古代インドにはドラヴィタ系の住民が住んで居た。こ$へインドァーリャン民族が侵入して来たことは自明のこと (2)

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族の本能として。 につれてその危険は蛸大する﹄ 従ってべlダの中に﹁色の黒い、界の低い悪魔が云々﹂と散見するのは、この非アーリャンからの区別であり、こ れが﹁太初に於て神々が原人を雛牲猷として、祭式を行った時、かれ腺人の口は.ハラモンに、彼れの両肘は王族とな り、彼の両腿はヴァイシャに、両足からシュードラが生れた﹂という表現となる。然しこの区別も岐初は四姓の厳亜 な区別ではなく、非アーリャンとの区別が重要問題であった。 然しなから、ガンジスの上流へ進出し、水田農業が本格化するに及び、土地の所有者と労働者との分離、或は水利 椎にからんで権力者と一般氏衆の分化というように社会が複雑化し、社会組織が段々とかたまって四姓が階級として 固定して来る。これがBC千年頃と推定される。 やがてガンジス河の流れに沿って下り行き肥沃な土地に定着、その農耕社会を強固にして行く。為に牧畜的性格を もった、このべlダの神々も、この畑作から水耕へと生産形態が変るに従って、その性格に於てモンスーン的インド の性格をいよノ、顕著にし、その宗教的態度もいよノ、印度的風土を代弁するような形になって行く。 即ち股耕民族特に印度の如き水耕民族にとって水をはなれては生活出来ない。印度の大自然にとって一寸した雨期 の到来が、その穀物生産の上に重大な影響をもつ。ほんの数週間おくれただけで、一大飢餓を生ずる。然も一旦大雨 を一にする。 然も文化の商い氏族に於ては、その自負からどうしても、そこに何かしらの手段が考えられねばならない。所謂甑 これは恰も・ハビロニャや或はエジ・フトの高度の文化にふれたユダヤ民族がカナンの土地で作り出した選民思想と晩 ( 3 )

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が来れば、ガンジスの下流地帯や低地は海となり、田畑の実りを流して了う。そして何千万もの流民を生む。然も水 を否定することは出来ない。乾期になれば飲み水とてない。更に広漠たる大平原、堤防を作って防ぐような生易しい 大自然ではない。唯幸いなことに熱帯のこと故、何か植えて赴けば自然と出来る。こふに自然の恵みの逆影群がある。 暑さによる労働意欲の減退に加えて⋮⋮。このようなあなたまかせの農業、ひいて生活態度から唯自然にのみたよ る性格が生じ、大雨、雛風、洪水、旱紘、はてはイナゴの害等までも神格化し、この神格化されたものの組合せが、 我々の運命を可ると信ずる多神教に進んで行く。大腸のヴィシヌ・スーリャ︵時代によって神名が変る︶に植物の生 長を祈り、インドラに風雨の適噸を乞うというインドの宗教が生じた。 このような独立した自然神的多神教が段々統一されて来る。然してバラjI1なものが統一されるにはそこに一にす る自覚作用即ち哲学が要請される。これからウ。ハニシャッドの哲学でありその一者がブラフマンである。 そもノく∼ベーダ宗教の特徴は、神に恵みを得たいと思うものは、ベーダの讃歌や祭祀を完全にすることが必要とさ れた。即ちこの禰欣や祭祀の中に超越者であるブラフマンが宿っているとしている。従って祭祀、祝詞の主体の中に 必然的に宿ることになる。これを論理化したのかブラフマンⅡアートマンのウ・ハニシャッドの哲学である。このよう に内在化の傾向はモンスーン的インドの特質である。 即ちこれはこれと対立する概念たるアラビヤの宗教と比較すれば明らかであろう。 即ちオワシスを生活の場とするその宗教では、そのオワシスは多数の人々の住む所ではない。生きるか死ぬかの斗 争が行われ、これを確保するか、又契約して︵この思想はキリスト教と共に西洋に入って重要な市民社会の概念とな る︶水と草地を得るかしかない。そこに首長を中心とする強い統率と斗争の宗教が成立する。更に砂漠に於ては自然

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に恩恵を与えるものは何もない。自然のまわりは死である。こんな所に自然の外に神を求める即ちその宗教が超越神 的とならざるを得ぬことと考え合せれば理解されよう。 時代と社会は年と共に進展する、そのベーダ文化と・ハラモン支配の進展も、このようにその社会組織が固定化する につれて、閉鎖化することは前にのべた。然して唯それだけではない。後に述べる如き新しき社会と新しき理念の成 立︵仏教・ジャィナ教︶をアンティテーゼとして、これに対抗、ますノ、その固定化と閉鎖性を増して行くのである。 もとノ\はインドアーリャン自体は共和的国民であった。これは牧畜民族の常として︵アラビヤも︶首長の下すべ て平等な権利をもち、又村落を形造っても村落の東西南北の四門の交叉する所に必ず公会堂をもって居たことが仏典 やベーダにも見られることからして明らかである。 このような本来民主的共和的な思考方法と固定化し行く幾村経済の社会機造とのギャップ、矛盾、この矛盾対立が 新しい社会と思想を生むのである。

側新世界の撞頭

人々はやがてガンジスの上流より、段々下流の肥沃な土地を求めて下って来る。こ上に水田化は益々進んで行く。 そもノー、畑作と稲作ではその歩どまりが全然違う、稲作は非常に作物の効率がいLのだ。 特に稲作になると潅漉、水路等その椛造が複雑化し﹁更に共同化する面が多くなって次第に聚落を作るようになる。 これは.ハラモンのラーマーャナに潅概用水の水道の話が出ているし、仏教のダンマ・パーダーには、潅渦用水々路 ︵:昌冨︶は一般人の熟知のもと典して前提しているから、このような状勢にあったことが分る。 ( 5)

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この転換期が、大体前六百年から前五百年頃と推定される。更には聚落が集合する国家が形成されると、その中心 地たる都市が形成される。然しそれは、あくまでギリシャ的なポリス、都市国家とは異り、インドの都会は、村落農 村と別な存在でなく幾村の活力により立つ、通商交通に便利な河のほとり等に成り立つもので、これがインドの都会 の特色であり、インドに都会はないといわれる所以である。このような都会が各地に成立してきて、商業により経済 力が活発になると、どうしてもクシャトリャ階級や、実際に政治を司る階級が力を得、・ハラモン階級との間に力の交 代が出て来る。更にこの自由な都市めざして自由な思想家がこれと歩調を合せて集り、・ハラモン文化とは全く異質な 代が出て来る。更にこく 商業が当然成立つようになる。 するもの商人も生れ、且又、︸ これは先に述べたごとく、・ハラモンは祭祀によって神々を満足させる、これは神秘な力が祭式や冗文や祭式に誤り があると、災がたちどころに襲来して破滅の原因となるとされる。こ上に・ハラモンが悪意を持ったり、わざと間違え たり、意中ひそかに光ったりするのを恐れるが故に現実支配はますノK、.ハラモンの手の中に入ってゆく。更に教義的 文化を生むようになる。 例えば、ウ・ハニシャッドの哲人の中に、戦士階級の人が多くみられるようになり・ハラモンの中でも六師外道の如き 活溌な動きが出て来る。然し・ハラモンの主流は逆に政治の大学を作り、宮庭及び国家行政に深く参与せんことを願 い、且つ又日常の些細な事にまで煩瑛な規定を、宗教的行動、或は、瞭罪法を設けて国民の公私の生活を規定統一せ い、且つ蒄 んとする。 然うしてこれにより更に生産物もあがり、分業化して聚落に起れば、余剰の農産物も交換の場所及び、交換を業と るもの商人も生れ、且又、こうなると物資が一切、交換値に換算されるようになる。やがて貨幣による交換即ち、 (6)

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彼の釈尊が、ベーダのハ 意欲を示すものであろう。 この間の消息を資料にもとずいて今少しみてみたい。 然し注意すべきことは、もとj、印度人は、普遍を愛する国民性として個々の事象の記述、即ち、膝史、地理書は 全々ない。唯残ってゐるのは仏典や、ジャィナ教の教典の中である。丁度旧約聖書が比較的歴史の表現にもかLわら ず、新約は信仰の体験書、即ち、イエスへの信仰の体験の表現乃至、信仰をもった人の書いたものであると言われて いるように、仏教の教典は、釈尊の言行録ではなく、その釈尊の言行録乃至、思想を言い伝えて百年乃至、参百年以 降結集している為、これを資料とするにしても、釈尊の当時乃至その経典の書かれた頃との含みを考えねばならな に.ハラモン支配を支える為、業、輪回の思想が形造られてゆくのである。 このような二つの相反する時代の流れ、即ち、時代の自由化の傾向が激しくなればなる程、その既存の特権を守ら んとする反動もはげしい。一方は、商業の発展にもとずく都市の自由化、更に地方は、農業経済にもとずく階級性、 こ上にますノ、興隆拡大化する新世界の自己限定、その自覚として釈尊が出来するのである。 彼の釈尊が、ベーダの公用語サンスクリットから、方言俗語ブラックリットを使用したのはこの旧世界への対決の 即ち、当時の社会状態を示すものとして冒農§胃言号冒gi曾陣国に﹁商業都市ヴェーサリー市のリッチャヴィ 族は、或は青色、或は黄色、或は赤色、或は白色..⋮・﹂とあるのは、当時都市が、自由な超人種的な基雛をもってい たという社会変化が見出される。 1, 0 又、階級制度が乱れてきた、即ち﹁王族の出身でなくとも王位につき、・ハラモンの血統でありながら耕作⋮・⋮の他 ( 7)

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.更に仏典の中に見える職業の順位が、丁度ベーダの文献の古い韻文から新しい韻文への変化に似ている点でも、社

会変化がよみとられる.

質の社会の現成である。 の職業に従事する﹂と、これは一体何の故であるか。 これをはっきり示しているものに、雑阿含経二十の﹁シュードラであっても財宝、穀物、金銀に富んでいるなら ば、クシヤトリァも.ハラモンもヴァイシャも、彼に対して先に起き後に寝て彼の用事をつとめ、彼の気に入ることを 行い、彼に対して愛しき言葉をかけるであろう﹂と これは明らかに経済の問題、即ち商業によって一切のものが流通価値によって評価され、人間関係も規定されるこ 更に貨幣経済が行われていた資料としてはかの有名な物語、スダッタ長者がコーサラ国。ハセナデイのジエーダ太子 から祇園精舎の敷地を買った時、金貨を土地に敷いたという物語である。これは明らかに貨幣経済の進展がいちじる しく、且又、土地の所有者でない商業資本家の擦頭がくみとられるのである。 これはウパニシャッドにある﹁土地が言った。如何なる人間にも我を与えてはならぬ﹂という・ハラモン社会とは異 とを示している。 摩伽僧祇律 上の職業 中の職業 下の職業 宝石、銅器 売香人、坐店雛人、田作人、種薬人 屑児、売猪人、漁猟人、捕馬人、刑吏 (8)

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以上、一、二の資料からしてみるのに、その時代の商業もすでに定居的商業から﹁砂漠﹂﹁砿野﹂、を越えるような 遠隔的な経済圏が拡大して、一つの世界を形づくりつ典あったことを示すであろう。︹資料中村氏・増谷氏︶ 古い韻文:・財宝、穀物、田地、子妻、四足獣 新しい韻文.:資金風、金貨、穀物、田地、奴僕、奴卿 と貴金属、金貨が蝦上位へ行っているのはこの貨幣による商業経済を示し、四足獣は農業の為の人手労働力から、奴 僕、奴郷へ変って行くのは、借金の為に自己疎外されて奴隷化したことを示している。 然らばこの時代の商業はどのようにして行われていたのであろうか。 ﹁師命畏号巴世尊は隊商主︵留算目乱冒︶導師である。例えば隊商主が諸隊商をして難所︵宍釣具国︶砂漠を渡 らしめ⋮・・盗賊難所を渡らしめ、猛獣難所を渡らしめ安穏地に到達せしめる如く⋮..﹂ ︵凰段$の画[冨呂四目民$画く。届.弔含つざ“目呂巨9画尚隠殉画畠︶ 又、雑阿含巻第三五︵大正二・二五四下︶ コ時仏敗耆人の間にあり、毘舎離国に遊行す::..時に毘舎離国に衆多の質客あり、、畑刹戸羅国に向わんとす ⋮⋮汝等砿野の中に於て:。:﹂ 又、百縁経に ﹁舎衛国に・ て死せんとす⋮ ベーダの財産目録 L一 彼の城中に五百の蘭客あり、他邦に住詣せんとす..⋮・砿野中に経路を失い天の暑熱に遇い、渇えし (9 )

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更に剛際的にも、ベナレスの商人がパヒロニャヘ行ったという言い伝え、又、ペルシャのダリゥス王がギリシャの ↓、ラトンで戦った時、インド狙喋兵が加わっていたこと、又、ラジギールの旧城のナガーの祠から、ギリシャ、ロー マの春侈品がみつかった弊I海外とも何らかの方法で交渉をもっていたことは明らかである。 史にこの絲済闇の拡大に対応するかの如く、側内的に十六田の吋立が釈尊の時代、前後をその境として段々統一・の 気運に向いつ典あり、やがて、コーサラ、↓、ガダ、アヴァンティ、ヴァンサの四国に、史に、コーサラ、マガダに、 そして逆にマガダに統一されてゆく。その例として、ビンビサーラ王がコーサラ王の妹イダィヶを妻とし、その持参 金として、カシーのベナレスをもって来たことかそれである。 当時の結婚は政略結婚と共に又、国勢の弱い国王がその娘を、国勢の強い方に妻として出したことからみて、或は マガダ国がすでに統一する傾向にあったのではないか。 マガダはこれによって水陸の両用の要地を占め、その発展たるマウリャ刺のアショヵ韮をまっての金印度的な統一 の基礎がこ$に用意されていたといえ!︽う。 このように、自由な商業維済の発展により、又政治的インドが一つになろうとする郊巡に対応して出て来た思想 が、仏教の平等思想であり、普通思想の成立である。 海外通商にしても、異民族の多いインドの国内通商にしても、そこに要求されるのは皮脚の色、民族を越えた思 想、然も通商を安易ならしむるに要諦される慈悲と平等の思想、これが貨幣経済のすべてを貨幣価値に一元化する思 想と対応して出て来るのである。この経済の必要から出来すると共に、逆に又より一肘の経済圏の拡大と一つのイン ドの現成をうながすのである。 ( 10)

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これか釈蝉の自覚そのものである。そして、アショヵ王がこの仏教の万民平等の理念をもって、ギリシャ的なアシ ョカピラーを田内はおろか、辺境の岡々アフガニスタン、カシミール又岐近の発堀では、ペルシャ剛内にまでそれノー の刷俄を以て﹁慈悲による法﹂の支配をといているのである。そして彼が、四方八方に通ずる公路の設営や並木︵印 度は粋い為︶一定の井戸、休息所を作って、中央集権の成立に努力したのは、逆にこれによって商業の発展及び、海 外内陸の一体化を企図したのであり。為に仏教の教えが、慈悲が要求され、逆にこれによりますj、一っの世界とし ての印度が成立するのである。これによってアショカ王による全印度の統一、歴史上蚊も強大な中央集権の幽家が形 成されて来るJ注遮すべきことは然しこれもインド的村落共同体を、全剛氏的整然たる組織にしたにすぎないのであ って、この共和的向流組織を抑圧する拠礎的な剛家を作ったのではなかった“ あくまでその主体は催村であった所にインド文化の特質があるのである。 この時代は印度歴史に於て、特に良さ時代であったJこれ程自由な溌潮たる窄瓢はかってなかった︺これを征する 面川ドヘノ、 ”Ⅱ必ふヶ 例として 二八五名中 集団家族

集莱瞬

比丘尼

マウリャ扱柵︵釈尊後二百年︶に建立されたサンチーの塔の銘文﹁寄附者名薄﹂に特縦すべさことか見出される 五四人 三七人 一○家族 ( 11 )

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比丘尼八三名

在俗信男一五二名 ″信女一○三名︵中村元氏参証︶ これをみても分る如く、個人の名で以て寄附が行われている。又、女性が個人の立場で寄附している。これはグブ タ朝以後ヒンズー教等の寺院の寄進繩で見られる如く、人氏の個人の名は国王、貴族、富者、カーストの中に解消さ れて了う。このことからしても特離すべきことである。 印艇に於てこの時代のように、自由と個人の意識の発揮された溌潮たる時代はなかった。然しても在俗信男女の大 部分は、王、長者、商人で股民は一人もなかった。 これは明らかに仏教の地雛が商業経済に立っていて、鯉業社会は・ハラモンの地盤と明らかに地雛を異にしている” 在俗信男 〃信女 又他の銘文 集団 修業僧 信者男

″女

両者の計比丘 -1-一 人 四五’四七人 五人 二七人 六一人 五八人 八一人 八三名 0,11甲ljI0■IDrlIlrIl1lljlIlfllllll ( 12)

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即ち、﹁種﹂の徹底に於て釈尊の燗を生む、この極の凝結の頂点たる個に普遍が相即する。時間と空間を超えて、 即ち時代と洋の東西を超えて共感を即ち、普遍性を持つといえよう。 然もこの出来した自覚によって、社会は飛躍進展するのである。 故にこれを図式すれば︵社会的基盤︶

↑↓←︵新たな基盤︶

イデー思想↑↓←︵新たな基盤︶

イデー思想↑↓←︵.:⋮⋮:.︶

イデー思想 如く、国王大臣をも、その吟 商業の隆盛を伺い知れよう。 このような社会的変動と新世界の自己自覚、自己限定、これが・ハラモン教より仏教ジャィナ教の成立である。この 世界の自己自覚のピークが、釈尊でありマハヴィーラである。 そもノ、天才、偉人とは、その時代の意識、未だはっきりと自覚に至らざる意識を、先取して自覚に至らしめる。 これによって世界は、急速に自覚展側するという。否、断世界のイデーが、釈尊の姿をかりて、いわば、釈尊に凝結 そもノ、1天才、偉人とは、 これによって世界は、急速﹄ して釈尊を生むといえよう。 これの他の好例は、阿含経の説法の対象が、仏弟子か、国王、長者、及び実業階級であることことからも分ろう。 このように自由な瑛境、そしてその商業経済を通じて、印度はますノ、より広い世界へと統一を成しとげてゆく。 そこに強大な商人階級を生む。溢産者という四姓より独立した特別な階級を。 即ち法華経の有名な﹁長者窮児の轡﹂に﹁臨欲終時、而命其子、辣会親属国王大臣、刹利居士、皆悉已集﹂という 如く、国王大臣をも、その臨終の枕頭に集め得たことは、この時代の商業者、長者が、如何に強大であるか、はた又 ( 13)

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農業経済に根ざす.ハラモンから、商業経済に基ずく新しいイデーとして、釈尊の仏教が成立する。この秋螺の自覚 を通じてこれにより更により高度の基盤の進展たるより新しい社会が成立する。より普遍的な世界が。 この一つの世界の達成への傾向はインドだけのものではなかった。即ちギリシャ特にアレキサンダー大王による中 近東及びインドの征服である。これは好むと好まざるにか典わらず、すべてをギリシャ化、ヘレナィズしようとする 一つの世界の造成が、はからずも時を副じうして起る。この一つのインドと一つのギリシャ、ロー︽、︵ヘレニズム︶ とのろの世界の接触交流が、こ$北西インドを中心として行われ、こふに東西文化が交流し、両者を合せたより大 きな一つの世界が形成される情勢が、やがて到来するのである。 然し道はそう坦坦たる道のみではなく、その間に干余曲折を経て居るのである。 即ち釈尊も又時代の子、時代の自己反映である。例えばウ。ハニシャッドの哲学六師外道の思弁哲学から出発した。 したがってその教儀が釈尊の意図にも拘らず、民衆にとって余りにも高尚すぎるのは否めない事実であるgこれはそ の弟子が王、⑳ハラモン炎族の出身者か多くシュードラ出身者が全然なく、たとえ四姓に入門を解放してはあったにし ても、実際は下肘階級はついて行けぬのが現実であった。︵ウ”ハーリンを践民出身とするのは後代の所伝で古い文献ても、実際 この思弁性が小乗仏教の中にうけつがれて、特に人間の心の働きの分析の糒密さは驚くべきものであって、人間の 文化史の上に大きな貢献をなして居る。然し所謂小乗二十部或は大乗仏教の空の否定的モーメントとなった有部の論 にはない。︶ (3) より広い世界 ︵瑚谷氏︶ ( 14)

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理等アピダルマ仏教を形造り、その思想自体の自己展開、即ち思弁的遊戯とその閉鎖性に陥って行く。この欠点を修 正し進展し行く社会の指導理念として生きた教えが、この新らしい大きな世界の現成に対応して出てくるのである。 時代は一日も止らぬ。かの釈尊の時代にもその端著が見られる。 即ち有名なデー、ハダッタの進蒲がそれである。又この問題が決定的となるのは釈尊滅後の第二結集である。即ち ﹁金銭の布施をうけることの可否﹂の問題がそれである。即ちヴエーシャリーの教団にはこの金銭の布施をうけざ るを得ぬ事情。然も正統派が大挙してヴエーシャリーに行ってデモンストレーションをせざるを得ぬ程に情勢が変っ てゐた。これは明らかに貨幣経済の進展がそこによみとられる。そして上座部と大衆部とが快を分つ第三結集は、社 会の進展そのものが、この教団の内部に分裂せざるを得ぬ所までも至らしめて居たと首い得よう。 前にも述べた如くアショカ王の印度統一とその理念としての仏教、この仏教もアショヵ王の裂後、余りにもアショ カ王の仏教保謹による財政の逼迫を招き、そしてこの打解、解決への道を、この増大した商人階級の利益に目をつけ たことも当然であろう。従って小国に分裂した、各国王によって商業交易権は取りあげられ、段々と商業資本は圧迫 され、やがて商人階級は崩壊の一途をたどるのである。︵この完全な没落はイスラムの侵入とローマ帝国との通間のされ、やがて 然らばあのように強大を持てる商人が何故、かくも容易に没落するのであろうか。 そもノ、印度に於ては、元来商業資本の進展には国王等は圧力にこそなり、助けにはならなかった。即ち﹁昼は国 王の官吏が荒し夜は盗賊が人を苦しめる﹂と国王を敵視して居る。更にインドでは民衆が孤立的閉鎖的であって、国 家の支配をうけることが少なかったし、前述の如く、印度の衣食住は人為的努力を必要としない為に国家の保護もい 停止による。 ー ( 15)

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らず、従って国家に納める租税は個人収入の1−6という古代国家では珍らしい程の低率であったにも拘らず、雛力因 に収める献納位にしか意味をもたななった。為に﹁国王をおこらせるな、国王の支配に遠ざかれ﹂を﹁サンギャ﹂の理 想としたような消極的態度が、西洋のようなギルドを成立させなかった。然し﹁スダッタ長者が祇園粘舎に釈尊を迎 えた時五○○人の長者が従った﹂という記録は仏教流の誇張はあるにせよ、たしかに職業別組合ギルドに似た組織、 後の職業カースト制度が考えられなくもないが。然しそのギルドの力も金力のみで軍隊をもたず、為に王や官僚に容 易にその商業権をとりあげられ、その力に対抗すべくもなく、その崩壊の通をたどるのであった。 これはアショヵ王朝の後インド全体が四分五裂となり、インド農村の孤立的閉鎖性と相待って、限定的な小地域に 於ける閉鎖的人間形成へ進み、アショカ王のめざした階級打破は世襲的身分制度の確立へ代り行く為である。 更にこLで問題となるのはギルト自体が職業別にカースト化して全体の統一が出来ず、容易に資本の鬮有化を行わ せ商業の崩壊を必来せしめるである。 、、、、、 要するに私の考えるのは、インドの風土性から来る、その消極的性格、和辻氏の言はれる如き﹁モンスーン的性 格﹂の自己限定として形造られた仏教、ジヤィナ教の教格、即ち平和主義の教えが、逆に社会を限定し、それによっ て易々国王の手中ににぎられて行った所に興味を引くのである。 このように印度中原地方はこの社会変動から都市は段々崩壊し、又元の農村に帰りつ典あった。もっとも、インド の都市は西洋の都市と異りこれと独立したものでなく。あくまでも農村に依存するものであることは前に述べた。 従って、商業経済の変動は容易に農村に帰り得る性格のものであった。それに又孤立した小国の分立、世襲王朝の 成立、封建性の固定化によって、そこに要請される教は、やはり・ハラモンのカーストの教えの外なく、為にアショカ ( 16)

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王の死後・ハラモン教の復活が急速に行われて行くのである。尤も、インド的特質として、仏教への保護と信仰は依然 として続けられては居たが。︵かのアショヵ王が?ハラモンやジャィナ教を禁止せずに保捜を加えたと何じょうに。︶ 然し、そこにはもう昔日のおもかげはなかった。 このように印度中原では、岐早大きな社会変動と沈滞が起って居る間に、西北インドでは溌潮とした文化の舩動が 行われたのである。 西紀前一八○年伽奴に追われた月氏族が天山山脈を越えて入ってきて、クシャーナ王朝をきづき、三代目のカニシ カ王に至ると鮫感期をかざり、その範囲はアフガ’一スタンより中部デッカン高原へ、西はペルシャまで支配し、東は 干闘等を後漢と斗う程の大国を造った。 そもノ、この西北インドでは、アレキサンダーの侵入後アショカ王に統一されたものLその後小国に分立し、ギリ シャ人、サカ人及びペルシャ人等によって統一されていた。 これは、貨幣に、肖像をのせた王が三十七人もあったことからも知られよう。特に仏教の長老ナガセーナとの対談 で有名なミリンダ王は忘れられぬ存在である。然もカニシカ王の在世中に、鼓大範囲を誇るローー、の使いか月氏国を 通って、後漢に達し、又ローマへの蕃侈品の輸出で莫大な利益をあげてゐたことから、東西交通かこの、ンルクロード 沿いの州氏国を通じて交流してゐたことは十分考えられる。 特に岐近の研究で、ローマではシーザーが金本位制を造り、クシャーナ朝のヴィマヵドフィーセス王も金本位制を つくったが、その金貨はローマと同じ単位であり、クシャーナ朝の金貨がローマの国の冨訂己貨に相当する︵中村 元氏︶これは外国貿易を前提し、同一の経済圏を前提する、そこに東と西を併せた一つの世界が現成したと言っても ( 17)

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肌つ又、中村元氏は、ローー、の貨幣か現在耐方インドの海岸地方に於て、非常に多く発見されるのは注目すべきだ と言われている。これはローマからの金の移入か南方インドの港を介し、その後背地での流通を意味し、南方インド の、アマラーヴァティーとか、ナガールヂュニコンダーの荘大な仏教の建造物や、美術品が作られ、大乗仏教の初期 の経典の作られたのは、︸・︶のような社会現象と深い関係があったと考えても不自然ではない。 このようなインドとギリシャとを一つにしたより大きな世界、この世界を基盤にしてギリシャ的手法と容姿をもっ たガンダーラム仏が作られるのも当然であろう。然うしてこれに刺戟されて、マトーラに一、トーラ仏が同時代に生れ たのは、西洋の理智を呪わす冷たいが蝋い脚のガンダーラ仏に対して、赤色の砂粁に堀川された蝦澗な↓、トーラ仏は Iンドの仏としてその対比が興味深い︲Uのである§ この一つのインドとヘレニズムを班に一つにする柿神的社会的風土に於て、然もその外的影響や刺戟によって涌き でるインド自身の生命力、大乗仏教の現成とヒンズー教の成立とが、混然としてそこに新たな世界を生むのである。 それはしたがって、岐早印度そのものではない。西と東の文化の、印度による綜合なのである。 この地盤から般若経、大腿婆娑諭Q二九’一五三︶法華経︵後一○○年主要部完成︶大智度論a五○’二五○ 竜樹︶無肴世親︵三○○’三九○︶の認識論g三○’四○○︶⋮.の歴史的な人類岐高の文化が華を咲かせる。 特に私の興味をもつのは、無蒋世親の唯識諭は﹁すべてのものが空なることは疑いなき辨実であるが、それが我々 。. 言いすぎではない。 この様に民族を越えた同一の﹁より大きい世界﹂の現成ということが、大乗仏教にとって忘れられない世界であ ( 18)

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の意識によって認識されるJこの識こそ絶対﹂とする一元論的観念論は、大乗仏教が宗教的に一神諭的に展開する ︵阿弥陀仏、久遠仏︶のと対応して、更にこのより広い一つの世界の現成と無関係ではあり得ないといえよう。 占来より弥勒はイランのミメラーであり、阿弥陀仏は西方のものであるという。 私は、内在的から超越的に変りゆく神のあり方、自ら悟る道から救済慈悲にすがらんとする方向の転換に、何か異 質のものがあるとする考えに答える余裕はない。然し人間の論理の必然として人間の弱さ、実存の自覚と共に救いを 求める方向が仏教自身の中から出ても不自然ではないであろう。しかし一歩退いて、この考えの変化かキリスト教や アフイツ41ルトペルナン 回教の出て来る砂洩的宗教の地盤との接触に諺冨塁の再尋の己曾されたとしても、即ちこのより広い世界に於て他の思 想が刺戟となって、自らの自覚を深くし、自らの中から出て来たと言えないことはない︾ この一つの例かヒンズー教の成立である︺後一八○年、釈尊が意欲的に用いた.ハーリ語を、又サンスクリットにも どし。ハラモン教を民衆化した新たな宗教を成立させたことである空 これはグシャーナ朝が、外爽の侵入に疲れ、が出て来た頃、印度中原のマガダ国にチャンドラグブタ︵三二○’三 三五︶か現れてグブタ刺を作りへ中脈を支配したuそして復古的な磯村経済封建的な国家を作った。この社会の沈滞 固定化には、やはり仏教よりも〃ハラモン教の方が適してゐたことは論をまたないU然し時代は進展する。一日も止ら ないひそこの挫村はやはりこの広い世界の洗礼をうけた農村でもある。従ってそこに成立したヒンズー教はバラモン 教そのものではないu即ちヒンーズ教はリグベIダの神々の伝統をうけては居るが、・ハラモン教の貴族性より氏衆性 にその特微をもって勝る。然もその三主神は ブラフマー⋮︵宇宙の創造を司る神︶ ( 19)

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ヴィシィヌ:.︵宇宙の維持を司る神︶ シーハ!⋮・⋮.︵破壊を司る神然もヒンズー教では究極的な破壊はないからやはり鮫終的にはこれも創造の神︶ であり、大陽スーリャ、火アグニ、雷電インドラ等、多くの自然現象を神格化し、その組合せが、我々の運命を支配 する等、モンスーン的風土性と・ハラモン教的伝統を意味することは勿論であるが、然しこ典に持筆さるべきことは、 かのボンベイのエレファンタ島の窟院の彫刻に示される如く、三神か即一身という思想が出て来てゐることである。 ウパニシャッドでも多くの神々がブラフマン︵アートマン︶に統一される思想は出てゐる。然しそれは哲学的観念の 上だけに止るものであった。ヒンズー教の地盤は大乗仏教と異って閉鎖的磯村ではあっても、やはり、ヒンズー教も 時代の子であり、二世紀の大乗仏教の成立した﹁より広い世界﹂﹁より普遍的世界﹂の上に現成した宗教であるとい えよう。だからこそ一神教化の逆をたどったといえよう。︵勿も不完全ではあるが︶ このように印度中原に於ての経済社会が閉されたものになって行くに従って仏教の道は自ら渡退の通をたどるのは 自然の道理であり、あの七世紀・ハーラ朝時代の密教の成立も、いわゆるヒンドゥー化した仏教の成立も、いわば一口 に言って仏教の磯村化への努力であったと言えよう。然し、もとノく、普遍化を求める開かれた社会の原理たる仏教 が、閉された社会に生きようとするのはどだい無理なことであった。そこには、寧ろ仏教としての生命が失われ、か えって寿命を短くするのである。 然らば北西インドでは如何であろうか。さしも栄えた西北インドもエフタルの何ものをも残さぬ侵略の残酷さによ って仏教は遂に北西インドから中原に難をさける、この中原も前に述べた通りである。仏教は所詮安住の地はインド に求められなくなった。為に北西インドから支那に渡るのである。 (20)

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然し永く仏教史の上に記憶に残り、その教義の深化に逆に影響を与えた大事件があった。 即ちミヒラグラ王︵五○二’五四二︶の残酷さは蓮華面経を成立させその主人公として登場する程である。然もこ のフン族の優入迫害と関係ありといわれる桃秦︵三八四’四一七︶北郷︵三八六’五三四︶にわたった訳経僧は、全 部ガンダーラ、カシミール、ウドャーナ出身であることは、この地が仏教の中心であったことを示し且つ又如何に長 年月にわたって執勧に、侵略が重ねられたことを示している。又この訳経僧も北斉より随、唐まで続くが、その後全 々なくなって了ったことは仏教がこの地方になくなって了ったことを示している。然も六世紀後半に、ミヒラグラの 後三十年から五十年という短時間の六世紀後半に蓮華面緑が漢訳され、又末法の文字がみえたという事実は、如何に この法滅の事実が切実であったかを示し、又この経典と同一訳者の大集経に同じく﹁正像末﹂の末法意識が出来し、 法華経も約同時代の羅什訳によって﹁末法﹂が訳出されるのは、このインドに於ける法の滅亡する、まさに﹁末法﹂ の現成とその自覚と無関係ではなかろう。

鈍亦”川

古来般若経の中に出てゐるその流布のγ雷は歴史的にも社会史的にも、当時の社会状態と合致して勝ると雷われて 居る。即ち初期経典たる道行般若経︵AD一七九漢訳︶は南天竺←西天竺←北天竺にこの経がひろまるであろうと篇 い。末期の大般若経第二分︵AD六六○’六六三玄藥訳︶は東南←南←西南←西北方←北方←東北方とある。これは その政治的に栄えて居た剛をさし、又当時の自由な商業経済の中心地と符合して居る︵中村元氏︶といわれて居るこ ぺクセルベツツ41フ・タグ とからして如何に仏教がその商業経済と相関であり、又その商業経済圏の拡大と仏教の理念の普遍性とが相関関係で あるか堂この一事をもってしても理解されよう。

膚I。LI

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このように思想はその基盤の自己自覚として成立する。成立するやこの思想は逆に基盤を規定し指導する。やがて その基盤は前の韮雛ではなくなる。このギャップ。そしてこのギャップを通じて新たな基盤を志向し、又そこから新 たな基鍛が、そして又そこから思想がと、弁証法的に続いて行く。 J “ 0 r ︲ I I I 6 l l I l 4 b ■ 卜 l l ・ b I l l l l I O I I0 1 1 1 1 1 口 j ■ 1 08 1 0 , I 4 j j I ■ ■■ ■ ■ ■ ■ 0 0 0 l 9I 0 1 1 I I 0 r f I ■0 , ← 1 1 . 9 1 0 J (22)

参照

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