土左日記に見る淀川水運
徳
原
茂
実
はじめに
『 土 左 日 記 』 に つ い て、 私 は こ れ ま で に い く つ か の 論 考 を 発 表 し て い る (注 1 ) 。 そ れ ら に お け る 私 の 基 本 的 な 考 え 方 は 次 の 通 り で ある。 ①『 土 左 日 記 』 は、 女 性 主 人 公 の 日 記 と い う ス タ イ ル で 書 か れ た 創 作 で あ る。 し た が っ て、 作 者 紀 貫 之 が 女 性 の ふ り を し て 書 いた日記であるとする、いわゆる「女性仮託説」は採らない。 ②『 土 左 日 記 』 は フ ィ ク シ ョ ン で あ る が、 某 年 十 二 月 二 十 一 日 の 門 出 か ら 翌 年 二 月 十 六 日 の 帰 京 に 至 る 作 中 の 旅 程 は、 作 者 貫 之の実体験に基づいて書かれていると考えられる。すなわちこの作品によって、 実際の貫之一行の旅程が、 承平四年(九三四) 十二月二十一日の門出に始まり、承平五年(九三五)二月十六日の帰京に終わる五十五日間の旅であったことが判明する。 ③作中の地名等も、おおむね実際の通りである。地名等に関する、作者貫之による誤記や意図的な改変はない。 本 稿 に お い て は、 『 土 左 日 記 』 二 月 五 日 条 の 住 吉 沖 通 過 か ら 十 一 日 条 の 山 崎 到 着、 さ ら に 十 五 日 条 の 下 船 に 至 る、 難 波 津 入 港 と 淀 川 遡 航 を め ぐ る 記 述 を 取 り 上 げ、 そ こ か ら 貫 之 一 行 が 経 験 し た 当 時 の 淀 川 水 運 の 実 態 を 読 み 取 っ て み た い。 な お、 こ れま で の 拙 稿 と 同 様、 こ の 日 記 を 書 い た と さ れ て い る 女 性 に つ い て は、 括 弧 つ き で「 作 者 」 と 表 記 し、 真 の 作 者 紀 貫 之 と 区 別 す る。 『 土 左 日 記 』 の 本 文 は、 萩 谷 朴 編『 影 印 本 土 左 日 記( 新 訂 版 )』 ( 新 典 社 ) に 影 印 さ れ た 青 谿 書 屋 本 に よ っ て 掲 げ、 続 く 論考の中で引用する場合は、適宜、仮名表記を漢字表記に改めて読みやすくした。
一
二 月 五 日 条 は、 一 行 の 船 が 住 吉 の 沖 合 を 通 過 し た 際 の 出 来 事 が 語 ら れ た 後、 「 作 者 」 の 住 吉 明 神 に 対 す る 失 望 感 が 表 明 さ れ て終わっている。その夜、 停泊した場所については、 翌六日条の冒頭、 「六日、 みをつくしのもとよりいでて、 なにはにつきて、 かはじりにいる」から推定が可能である。 「みをつくし」は、 「航路標識の杭」 (新潮集成頭注、 新編全集頭注)などと説明されるのが常であり、 それに間違いはないが、 こ の 一 文 に お け る「 み を つ く し 」 に つ い て は、 普 通 名 詞 で は な く 固 有 名 詞 で あ る こ と を 読 み 取 ら な け れ ば な ら な い。 航 路 標 識 で あ る 澪 標 は、 浅 瀬 の 多 い 難 波 津 を 船 が 安 全 に 航 行 で き る よ う に、 港 内 の 随 所 に 設 置 さ れ て い た で あ ろ う が、 「 澪 標 の も と よ り 出 で て 」 と い う 記 述 は、 そ れ が 特 定 の 澪 標 で あ る こ と を 意 味 し て い よ う。 お そ ら く 難 波 津 の 入 り 口 付 近 に、 こ の 先 は 浅 瀬 が 多 く て 危 険 で あ る こ と を 表 示 す る 巨 大 な 澪 標 が 設 置 さ れ (注 2 ) 、 そ の 澪 標 の 近 く に は、 こ れ か ら 難 波 津 に 入 港 し よ う と す る 船 の た め の船溜まりも設けられていたのであろう。 二月五日条の冒頭部に 「いづみのなだよりをづのとまりをおふ」 とある 「小津の泊」 は、 こ の 船 溜 ま り を さ す 名 称 で あ る の か も し れ な い。 そ の 船 溜 ま り で 一 泊 し た 貫 之 た ち 一 行 の 船 は、 巨 大 な 澪 標 を 仰 ぎ つ つ、 難 波 津 へ と 進 入 し た の で あ る。 ち な み に、 『 土 左 日 記 』 に お い て 名 詞「 も と 」 は、 こ の「 澪 標 の も と 」 以 外 に 三 例 が 見 出 さ れ る が、 「( 松 の ) も と ご と に 波 う ち よ せ 」( 一 月 九 日 条 )、 「 そ の 岩 の も と に、 波 白 く う ち よ す 」( 一 月 二 十 一 日 条 )、 「 黒 鳥 の も と に、 白 き波をよす」 (同日条)と、いずれも目に立つ物の下部を意味している。 「澪標のもと」についても同様に理解できよう。二 月 五 日 夜 の 停 泊 場 所 に つ い て 村 瀬 敏 夫 は「 『 土 佐 日 記 』 旅 程 考 (注 3 ) 」 に お い て、 住 吉 津 と 推 定 し て い る。 し か し、 住 吉 津 は 現 在 の 住 吉 大 社 の 南 方 を 西 流 す る 細 江 川( 細 井 川 ) の 河 口 と さ れ て お り( 『 大 阪 府 史 』 第 二 巻 )、 二 月 五 日 に 住 吉 大 社 の 沖 合 を 北 へ と 通 過 し た 船 が、 そ の 夜、 住 吉 大 社 の 南 方 に 位 置 す る 港 に 停 泊 し た と は 考 え ら れ な い。 こ の 日 は 難 波 津 の 入 口 付 近 に ま で 到 達 し た の で あ る が、 す で に 夕 刻 で あ っ た た め、 慎 重 な 操 船 が 必 要 な 難 波 津 へ の 進 入 は 翌 日 の こ と と し て、 難 波 津 の 入 り 口 に 屹 立する大澪標の近くの船溜まりに一泊したのであろう。 さ て、 二 月 六 日 に 大 澪 標 を 仰 ぎ 見 な が ら 出 航 し た 船 は、 「 難 波 に 着 き て、 河 尻 に 入 る 」 と あ る よ う に、 「 難 波 」 に 到 着 し、 さ ら に「 河 尻 」 に 進 入 し て い る。 難 波 津 は 淀 川 河 口 の 周 辺 に 広 が り、 多 く の 島 々 や 幾 筋 も の 水 路、 芦 に 覆 わ れ た 湿 地 帯 な ど か ら な る 広 大 な 水 域 で あ っ た よ う だ。 一 行 の 船 は い く つ も の 澪 標( 航 路 標 識 ) に 従 っ て 慎 重 に 航 行 し、 「 難 波 」 と 称 さ れ る 難 波 津 の 奥 ま っ た 地 点 に 到 着 し、 さ ら に「 河 尻 」( 淀 川 河 口 ) へ と 向 か っ た の で あ る。 本 文 に い う「 難 波 」 は、 「 難 波 に 着 き て 」 と い う 表 現 か ら し て、 あ る 特 定 の 地 域 を 指 す 地 名 で あ り、 難 波 津 全 体 を 意 味 す る の で は な か ろ う。 萩 谷『 全 注 釈 』 に も「 今 の 大 阪 市 あ た り を 総 称 す る 古 名 で あ る が、 こ こ で は も っ と 局 限 さ れ た 地 名 」 云 々 と あ る。 お そ ら く「 難 波 」 に は、 難 波 津 を 管 轄 す る 役人たちや、船員船客を相手にする商人たちなどが、集落を形成していたのであろう。 こ の 日、 難 波 津 に 進 入 し て か ら 淀 川 河 口 ま で 一 日 を 要 し て い る。 そ れ だ け 慎 重 な 操 船 が 必 要 と さ れ た に 違 い な い。 「 い つ し か と い ぶ せ か り つ る 難 波 潟 芦 こ ぎ そ け て み 船 き に け り 」 と い う「 淡 路 の 島 の お ほ い ご 」 の 歌 に は、 随 所 に 芦 の 茂 る 水 路 を 航 行 す る さ ま が リ ア ル に 歌 い 上 げ ら れ て い る と い え よ う。 な お、 『 古 今 集 』 雑 歌 上 に、 貫 之 が 難 波 に 下 向 し た 折 の 歌 が 見 ら れ る か ら(九一六、 九一八) 、貫之には難波津あたりの土地勘があったものと推測される。
二
次 に、 二 月 七 日 条 の「 け ふ、 か は じ り に ふ ね い り た ち て、 こ ぎ の ぼ る に、 か は の み づ ひ て、 な や み わ づ ら ふ 」 に つ い て 検 討 を 加 え て み た い。 六 日 条 に「 河 尻 に 入 る 」 と あ り、 七 日 条 に「 河 尻 に 船 入 り た ち て 」 と あ る の は、 六 日 に は 淀 川 河 口 付 近 の 船 溜 ま り に 停 泊 し て 一 夜 を 明 か し、 七 日 に 本 格 的 な 淀 川 遡 航 を 開 始 し た こ と を 意 味 し て い る の で あ ろ う。 「 川 の 水 干 て、 悩 み わ づ ら ふ 」 と、 一 行 が こ の 日 か ら 川 の 水 深 の 浅 さ に 苦 し む こ と に な る の は そ の た め で、 前 日 航 行 し た 難 波 津 は、 海 面 の 高 さ は 大 阪湾と同じであるから、 干潮時を避けて航行すれば、 「水干て」という憂いはなかったのである。なお、 当時の淀川河口(河尻) の 位 置 は、 諸 氏 が 推 測 す る よ う に、 お お む ね 現 在 の 天 満、 あ る い は 堂 島 あ た り で で も あ っ た ろ う が、 洪 水 に 見 舞 わ れ れ ば 一 夜 にして地形が変化することもあろうから、承平五年二月の時点でそれがどこであったか、具体的な推定は不可能である。 ところで、村瀬敏夫は前掲論文において、 「河尻」について次のように論じている。 「 こ こ で 注 目 す べ き は、 平 成 二 年 三 月 に 刊 行 さ れ た『 大 阪 府 史 』 第 二 巻( 第 三 章 の 第 一 節、 松 原 弘 宣 氏 執 筆 ) の 記 述 で あ る。 こ こ で は「 な に は に つ き て、 か は じ り に い る 」 に つ い て、 「 淀 川 の 河 口 を 河 尻 と い っ た 例 が な く、 こ こ の 記 事 は 難 波 か ら 転 じ て 三 国 川 の 河 尻 に 至 り、 三 国 川 を さ か の ぼ っ た と 解 し た い 」 と あ る。 こ の「 淀 川 の 河 口 を 河 尻 と い っ た 例 が な く 」 と い う 指 摘 は 重 要 で あ る。 ( 中 略 ) 淀 川 か ら 三 国 川 に 通 じ る 水 路 が 開 か れ た の は、 瀬 戸 内 海 の 海 上 交 通 路 の 開 発 の 意 味 が あ っ た の だ が、 そ れ だ け に 水 路 と し て 恵 ま れ た 条 件 に あ っ た ろ う。 そ れ に 対 し て、 淀 川 は 大 河 で あ る た め に 氾 濫 し た り、 ま た 河 原 が 広 す ぎ て 水が浅くなるなどの弊害があった。貫之一行は二月七日以降、 川の水が干て遡航に苦労するのであるが、 これが淀川だったら、 も っ と 苦 労 し て い た か も し れ な い。 お そ ら く 楫 取 は 難 波 到 着 後、 淀 川 の 水 路 の 状 況 を 尋 ね て、 人 工 が 加 わ っ て 遡 航 の し や す い 三国川を選んだのだろう。 」村瀬はこのように述べている。村瀬はその著 『現代語訳対照 土佐日記』 (昭和五十六年十月 旺文社) 、『紀貫之伝の研究』 (昭 和 五 十 六 年 十 一 月 桜 楓 社 )、 『 宮 廷 歌 人 紀 貫 之 』( 昭 和 六 十 二 年 三 月 新 典 社 ) な ど に お い て は、 通 説 通 り 淀 川 河 口 か ら の 遡航と述べているが、 平成六年発表のこの論考においては、 右引用文中に引かれている平成二年刊の『大阪府史』の記述によっ て、三国川の河尻からの遡航と考えを改めているのである。 し か し、 「 淀 川 の 河 口 を 河 尻 と い っ た 例 が な く 」 と い う 松 原 説 に は 容 易 に 従 い 難 い。 「 河 尻 」 な る 語 の 用 例 の 蒐 集 が 完 璧 で あ り、 そ の 用 例 全 て に つ い て 淀 川 の 河 口 で は な い こ と が 確 か め ら れ て 初 め て、 「 現 存 史 料 に よ る 限 り、 淀 川 の 河 口 を 河 尻 と い っ た 例 は な い 」 と 言 う こ と が 可 能 に な ろ う が、 そ れ だ け の 手 続 き が 踏 ま れ て い る の で あ ろ う か。 そ も そ も「 河 尻 」 な る 語 は 本 来 普 通 名 詞 で あ り、 全 国 の 多 く の 河 川 の 河 口 が「 河 尻 」 と 呼 ば れ て い た で あ ろ う が、 交 通 の 要 衝 と し て 特 に 著 名 な「 河 尻 」 が 固 有 名 詞 化 し た の で あ ろ う。 三 国 川( 神 崎 川 ) の「 河 尻 」 が 固 有 名 詞 化 し た の は、 そ れ が 瀬 戸 内 水 運 の 要 衝 だ っ た か ら に ち が い な い (注 4 ) 。 淀 川 の 河 口 が、 固 有 名 詞 と し て も、 ま し て や 普 通 名 詞 と し て す ら「 河 尻 」 と 呼 称 さ れ な か っ た と は 考 え が た い の で は な かろうか。 貫 之 一 行 の 船 が 住 吉 神 社 の 沖 を 通 過 し、 大 澪 標 の 脇 を 通 過 し て 難 波 津 に 進 入 し、 慎 重 に 操 船 し て「 難 波 」 に 達 し、 淀 川 の 河 口 に 近 付 い て い る こ と は、 本 文 に よ っ て 明 ら か で あ る。 と こ ろ が、 「 難 波 」 か ら 反 転 し て 再 び 難 波 津 を 通 過 し て 大 阪 湾 に 出、 北 西 方 向 へ 航 路 を 取 り、 三 国 川( 神 崎 川 ) の 河 口( 現 在 の 尼 崎 市 今 福 あ た り ) か ら 遡 航 し た と い う の が 松 原 や 村 瀬 の 説 で あ る が、 非 現 実 的 な 推 定 と 言 わ ざ る を え な い の で は な か ろ う か。 「 お そ ら く 楫 取 は 難 波 到 着 後、 淀 川 の 水 路 の 状 況 を 尋 ね 」 た と の こ と で あ る が、 そ の よ う な 重 要 な 情 報 は、 難 波 津 に 進 入 す る 前 に キ ャ ッ チ し て お く の が 楫 取 の 役 目 で あ ろ う。 ま た 仮 に、 座 礁 の危険をもかえりみず、 難波津の海域を往復するという無駄足を踏んだのであれば、 楫取に対して常に批判的な女性 「作者」 が、 それに関して何も書かずにすませるはずはなかろうと思う。
三
淀 川 の 遡 航 を 始 め た 二 月 七 日 の 夜 の 停 泊 場 所 に つ い て は 記 述 が な い が、 翌 八 日 に「 な ほ か は の ぼ り に な づ み て、 と り か ひ の み ま き と い ふ ほ と り に と ま る 」 と あ る か ら、 七 日 夜 は 淀 川 の 河 尻 か ら 鳥 養 ま で の 間 の 某 所 に 停 泊 し た と 知 ら れ る。 萩 谷『 全 注 釈 』 は 江 口( 現 大 阪 市 東 淀 川 区 ) の あ た り か と 推 測 し て い る。 も し そ う で あ る な ら ば、 船 中 の 男 た ち は 江 口 の 遊 女 に 無 関 心 で あ っ た は ず は な く、 そ の よ う な 男 た ち に 対 し て 批 判 的 な「 作 者 」 は、 江 口 な る 地 名 や 遊 女 の 存 在 を あ え て 筆 に し な か っ た( こ と に な っ て い る ) と も 考 え ら れ る。 そ れ は 貫 之 に よ る「 作 者 」 の 人 物 造 形 の 一 端 と も 見 な せ よ う が、 後 世、 若 き 日 の『 更 級 日 記』作者が、足柄山の遊女にいたく心を奪われていることからすると、貫之の配慮はやや過剰であったかもしれない。 な お、 『 続 日 本 紀 』 延 暦 四 年( 七 八 五 ) 正 月 十 四 日 条 に よ っ て、 摂 津 国 の 神 下、 梓 江、 鯵 生 野 で 淀 川 と 三 国 川( 現 在 の 安 威 川 ) と を つ な ぐ 運 河 の 掘 削 工 事 が 行 わ れ た こ と が 知 ら れ る。 こ れ に よ っ て 淀 川 水 系 と 三 国 川( 安 威 川・ 神 崎 川 ) 水 系 と が 結 ば れ、 瀬 戸 内 海 方 面 に 往 来 す る 船 舶 の 多 く は 三 国 川 を 利 用 す る こ と と な っ た (注 5 ) 。 三 国 川 の 川 尻 が 固 有 名 詞 化 し た ゆ え ん で あ る。 こ の 運 河 は 現 在 の 大 阪 府 摂 津 市 一 津 屋 あ た り で 淀 川 か ら 分 岐 し て い た と 考 え ら れ て お り、 そ れ は 江 口 か ら 至 近 の 位 置 に あ る (注 6 ) 。 江 口が歓楽の地として栄えたのは、水上交通の要衝という地の利によるものであろう。 八日に停泊した「鳥養の御牧」は、 『延喜式』巻第四十八左馬寮に「摂津国鳥養牧」とある公牧で、 現在も摂津市には鳥飼上、 鳥 飼 中、 鳥 飼 下 な ど「 鳥 飼 」 を 冠 す る 町 名 が 多 く 存 在 す る。 江 口 か ら は 四 キ ロ メ ー ト ル 前 後 の 距 離 で あ る。 七 日 に「 け ふ、 河 尻 に 船 い り た ち て、 こ ぎ 上 る に、 河 の 水 ひ て、 な や み わ ず ら ふ。 船 の 上 る こ と い と か た し 」 と あ っ て 以 来、 八 日、 九 日 も 水 深 不 足 の た め に 難 渋 し て い る の で あ る が、 九 日 条 に「 船 を 曳 き つ つ の ぼ れ ど も 」 と あ る よ う に、 船 は 綱 手 に よ っ て 牽 引 さ れ て い た。 『類聚三代格』 巻十九、 禁制事に収める太政官符 「応禁制河内摂津両国諸牧々子等妨往還船事」 (昌泰元年十一月十一日) は、 淀川の河畔で綱手を引いて船を牽引していた事実にかかわる内容であ る (注 7 ) 。四
二月九日条は「こころもとなきに、 あけぬから、 ふねをひきつつのぼれども、 かはのみづなければ、 ゐざりにのみぞゐざる。 こ の あ ひ だ に、 わ だ の と ま り の あ か れ の と こ ろ と い ふ と こ ろ あ り。 よ ね、 い を な ど こ へ ば、 お こ な ひ つ。 か く て ふ ね ひ き の ぼ る に、 な ぎ さ の ゐ ん と い ふ と こ ろ を み つ つ ゆ く 」 と 始 ま る。 こ の「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 と い ふ 所 」 の 所 在 に つ い て は、 本 文 に よ る 限 り、 八 日 夜 に 停 泊 し た「 鳥 養 の 御 牧 」 と、 こ の あ と 通 過 す る「 渚 の 院 と い ふ 所 」 と の 間 と い う こ と に な る か ら、 そ れ は 今 日 の 高 槻 市 と 枚 方 市 に 挟 ま れ た 淀 川 流 域 の ど こ か で あ ろ う。 と こ ろ が、 そ の あ た り に 有 力 な 候 補 地 を 見 出 す こ と が 困 難 で あると考えられたところから、従来さまざまな議論がある。 現 在、 主 流 と な っ て い る 考 え 方 は、 淀 川 と 三 国 川( 現 在 の 安 威 川。 神 崎 川 の 上 流 ) を つ な ぐ 運 河 の 分 岐 点 を、 「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 に 比 定 す る 説 で あ る。 そ れ は 現 在 の 摂 津 市 一 津 屋 あ た り で、 鳥 養 よ り 下 流( 二 月 七 日、 八 日 ご ろ 通 過 ) で あ る。 これは天坊幸彦が著書 『上代浪華の歴史地理的研究』 (昭和二十二年 大八洲出版) において提唱した説で、 萩谷朴がこれを 『土 佐 日 記 全 注 釈 』 に 紹 介 し て 賛 意 を 表 し て 以 来、 有 力 な 所 説 と し て、 近 年 の 主 要 な 校 注 本( 新 潮 古 典 集 成、 岩 波 新 大 系、 小 学 館 新編全集、 おうふう『新編土左日記』等)にも継承されている。萩谷が「天坊教授の所説を大約」したという文章を『全注釈』 から引用しよう。 イ、 淀 川 が 神 崎 川 に 分 か れ る 所、 こ れ が『 土 佐 日 記 』 の「 あ か れ の 所 」 で あ る。 特 に「 と こ ろ 」 と 呼 称 し た の は、 こ の 分 流 が 人為的努力になる疎水であるからである。附近には「別府」という地名も現存している。 ロ、 『 土 佐 日 記 』 に「 鳥 飼 の 御 牧 」 の 記 述 の あ と に、 「 和 田 の 泊 」 の 地 名 が 出 て く る か ら、 こ れ ま で の 論 者 は、 和 田 の 泊 を 鳥 飼 と 渚 の 院 と の 間 に 求 め た が、 『 土 佐 日 記 』 に 五 箇 所 出 て 来 る「 こ の 間 に 」 と い う 記 述 は、 い ず れ も 時 間 的 用 法 で 空 間 的 用 法 ではないから、鳥飼より上流に限定する必要はない。 ハ、 現在、 神崎川の落口をはさんで、 江口の対岸に和道(わんど)という字名が残っているが、 それこそ和田の転訛であろう。 以 上 で あ る。 イ に「 淀 川 が 神 崎 川 に 分 か れ る 所 」 と あ る の は、 先 に 取 り 上 げ た『 続 日 本 紀 』 延 暦 四 年 ( 七 八 五 ) 正 月 十 四 日 条 に 見 え る、 淀 川 と 三 国 川( 現 安 威 川 ) を 結 ぶ 運 河( 疎 水 ) へ の 分 岐 点 を 意 味 し て い る の で あ ろ う。 こ こ で 運 河 を「 神 崎 川 」 と 呼 称 し て い る の は 誤 り で あ り、 明 治 期 に 掘 削 さ れ た 神 崎 川( 注 5 参 照 ) と の 混 同 を す ら 招 き か ね な い。 な お、 ハ に 見 え る「 わ ん ど 」 は、 近 年 の 淀 川 流 域 に お い て は、 本 流 と は つ な が っ て い な が ら も 池 の よ う な 地 形 を な す 部 分 を さ す 普 通 名 詞 で あ る。 江 口の対岸にあったという和道(わんど)という字名も、さほど古いものではないのではなかろうか。 天 坊 説 の 最 大 の 難 点 は 右 の ロ で あ る。 確 か に『 土 左 日 記 』 に は「 こ の 間 に 」 と い う 記 述 が 五 か 所 あ る の だ が、 二 月 九 日 条 以 外 の 四 例 に つ い て 見 る と、 い ず れ も 明 ら か に、 そ の 日 の う ち に 起 こ っ た 出 来 事 に つ い て 述 べ る た め の 前 置 き と な っ て い る。 一 月 七 日 条 で は、 池 と い う 所 に 住 む 女 性 か ら 沢 山 の ご 馳 走 が 贈 ら れ て き た こ と が 記 さ れ た あ と に、 「 か く て、 こ の 間 に こ と 多 か り。 今 日、 破 籠 持 た せ て 来 た る 人、 そ の 名 な ど ぞ や、 今 思 ひ い で む 」 と あ っ て、 こ の あ と、 そ の 人 物 の 登 場 と な る。 そ の 日 の う ち の 出 来 事 で あ る こ と は 明 ら か で あ る。 一 月 十 七 日 条 で は 冒 頭 に「 曇 れ る 雲 な く な り て、 暁 月 夜 い と お も し ろ け れ ば、 船 を い だ し て こ ぎ ゆ く。 こ の 間 に、 雲 の 上 も 海 の 底 も、 同 じ ご と く に な む あ り け る 」 と あ っ て、 「 こ の 間 に 」 が、 こ の 時 に 見 た 光 景 を 述 べ る に あ た っ て の 前 置 き と な っ て い る の は 明 ら か で あ る。 一 月 二 十 六 日 条 で は、 「 手 向 け す る 所 」 に 幣 を 奉 っ た あ と に、 「 こ の 間 に、 風 の よ け れ ば 」 と あ っ て、 「 こ の 間 に 」 の 前 後 の 記 述 は、 同 日 の 出 来 事 で あ る の み な ら ず、 時 間 的 に 連 続 し て い る の で あ る。 二 月 一 日 条 で は、 「 黒 崎 の 松 原 」 に つ い て の 記 述 の あ と に「 こ の 間 に、 今 日 は 箱 の 浦 と い ふ 所 よ り、 綱 手 引 き て ゆ く 」 と あ っ て、 「 黒 崎 の 松 原 」 の 沖 を 船 が 通 過 し て「 箱 の 浦 」 へ と 至 る 航 程 が、 「 こ の 間 に 」 を は さ ん で 記 述 さ れ て い る の で あ る。 こ の よ う に、 以 上 の 四 例 は 全 て、 「 こ の 間 に 」 の 前 後 の 記 述 が 同 日 の 出 来 事 や 状 況 を 述 べ て い る み な ら ず、 一 月 十 七 日 条
や同二十六日条においては、 「この間に」をはさんで時間が経過していることが明白であると言えよう。 二 月 九 日 条 に は「 心 も と な き に、 明 け ぬ か ら、 船 を 曳 き つ つ の ぼ れ ど も、 川 の 水 な け れ ば、 ゐ ざ り に の み ぞ ゐ ざ る。 こ の 間 に、 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 と い ふ 所 あ り。 米、 魚 な ど 乞 へ ば、 お こ な ひ つ。 か く て 船 曳 き の ぼ る に、 渚 の 院 と い ふ 所 を 見 つ つ 行 く 」 と あ る。 「 こ の 間 に 」 に 続 く 記 述 が 同 日 の 所 見 や 出 来 事 で あ る の は も と よ り、 前 夜 の 停 泊 地( 鳥 養 の 御 牧 ) を 出 発 し て 「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 と い ふ 所 」 を 通 過 し、 「 渚 の 院 と い ふ 所 」 に 至 る と い う 航 程 が、 地 理 的、 時 間 的 な 順 序 通 り に 記 述 さ れ て い る こ と は、 先 に 見 た 四 例 に 徴 し て も 明 ら か で あ ろ う。 仮 に「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 が 鳥 養 よ り 下 流、 江 口 の 対 岸 で あ る な ら ば、 実 際 に そ の 地 点 を 通 過 し た の は 二 月 七 日、 あ る い は 八 日 で あ る か ら、 そ の 記 述 が 二 月 九 日 条 に 挿 入 さ れ る い わ れ は な い の で あ る。 そ も そ も『 土 左 日 記 』 は、 日 付 の あ と に そ の 日 の 出 来 事 や 所 見 が 記 述 さ れ て い る こ と に 疑 い は な く、 「 わ だ の 泊 のあかれの所」に限って例外とする理由はない。 『 全 注 釈 』 を 始 め 諸 注 の 多 く は、 「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 の 所 在 地 に つ い て は 天 坊 説 を 継 承 し つ つ、 そ れ が 二 月 九 日 条 に 記 述 さ れ て い る の は 虚 構 で あ る と み な し て い る。 し か し、 「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 と 称 さ れ る 地 点 の 存 在 を、 『 土 左 日 記 』 を 唯 一 の 根 拠 と し て 認 定 し て お き な が ら、 そ の 所 在 地 に つ い て の『 土 左 日 記 』 の 記 述 を 虚 構 と み な す の は 筋 が 通 ら な い。 本 稿 の 冒 頭 に も 述 べ た 通 り、 私 は『 土 左 日 記 』 作 中 の 地 名 に つ い て は、 お お む ね 実 際 の 通 り で あ っ た と 考 え る も の で あ る (注 8 ) 。「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 は 純 粋 の 地 名 と は 言 い 難 い が、 地 名 に 準 ず る そ の よ う な 呼 称 が、 確 か に 存 在 し た と 考 え て い る。 そ れ は お そ ら く、 「 和 田 の 泊 」( 現 神 戸 市 ) へ の 分 岐 点 を 意 味 し て い る の だ ろ う (注 9 ) 。「 あ か れ 」 は「 わ か れ 」 の 意 で あ り、 「 わ だ の 泊 へ の あ か れ の 所 」 と い う 文 言 が 地 名 化 し て「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 と 縮 約 さ れ た と 考 え ら れ る。 そ し て、 二 月 九 日 条 に 記 述 さ れ て い る 通 り、 そ れ は 淀 川 を 鳥 養 か ら 上 流 に さ か の ぼ り、 渚 の 院 に さ し か か る ま で の 間 の 右 岸 に 存 在 し た は ず で あ る。 現 在 の 高 槻 市 三 島江あたりであろう か )(注 (注 。 「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 か ら 三 国 川( 現 安 威 川 ) 方 面 に 向 か う 運 河、 あ る い は 街 道 が 分 岐 し て お り、 そ こ を 通 過 し て 三 国
川 に 至 り、 難 波 津 を 経 る こ と な く 神 崎 川 河 口( 現 尼 崎 市 ) へ 達 す る な ら ば、 そ れ は 和 田 の 泊( 大 和 田 の 泊 と も。 現 神 戸 市 ) へ の 近 道 で あ る。 同 様 の 目 的 の も と、 早 く に 鳥 養 の 下 流 か ら 三 国 川 へ の 運 河 が 通 じ て い た が( 前 掲『 続 日 本 紀 』 延 暦 四 年 正 月 十 四 日 条 )、 瀬 戸 内 海 方 面 の 水 運 の 発 展 に と も な っ て 船 舶 の 往 来 や 物 資 の 流 通 が 増 加 し た た め に、 鳥 養 の 上 流 に も 淀 川 と 三 国 川 を 結 ぶ 運 河、 あ る い は 街 道 が 設 け ら れ た と 推 測 し て お き た い。 現 在 そ の 痕 跡 は 残 さ れ て い な い よ う だ が、 鳥 養 下 流 の 江 口 対 岸から分岐していた運河の痕跡もほぼ消滅している。将来、考古学的な裏付けがなされることに期待したい。 以上のように考えるならば、 「わだの泊のあかれの所」 における 「米、 魚など乞へば、 おこなひつ」 といういきさつについても、 新 た な 解 釈 が 可 能 と な ろ う。 こ れ に つ い て『 全 注 釈 』 は、 「 こ の「 こ ふ 」 者 は、 曲 の 泊 ま り に 群 が っ て、 立 ち 寄 る 船 の 船 客 に 物乞いをする修行者 ・ 乞食の類であり、貫之たちが、その乞食に対して、布施の行を「おこなった」ものであるという考えが、 す べ て の 条 件 を 満 足 さ せ る 唯 一 の 解 釈 と し て 成 立 す る の で あ る 」 と 述 べ て い る。 こ れ は「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 を「 繁 華 な 歓 楽 街 江 口 の 対 岸 で あ る と こ ろ の 和 道 や 一 津 屋 」 に 比 定 し、 そ こ は「 修 行 者・ 乞 食 の 類 が 蝟 集 し て、 通 行 の 旅 客 に 物 乞 い を す るのに格好の土地である」 とする推定に基づく解釈である。なお、 新大系が 「修行僧や乞食が欲しがるので施しをする」 と注し、 新 編 全 集 が「 米 や 魚 を 乞 う の で、 施 し を し た 」 と 現 代 語 訳 し、 『 新 編 土 左 日 記 』 が「 ( 乞 食・ 修 行 僧 が 集 ま る 場 所 な の で ) 施 し を し た 」 と 注 し て い る の は、 い ず れ も『 全 注 釈 』 説 の 継 承 で あ る。 し か し「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 を、 近 く に 江 口 の よ う な 繁華の地をもたない鳥養上流からの分岐点とする本稿の立場に立つならば、誰が米や魚を乞うたと考えればいいのだろうか。 淀 川 か ら 三 国 川 へ 向 か う 分 岐 点 に お い て は、 淀 川 方 面 や 三 国 川 方 面 へ の 下 り 船、 淀 川 方 面 や 三 国 川 方 面 か ら の 上 り 船 が 錯 綜 す る で あ ろ う か ら、 そ れ ら の 安 全 運 航 の た め の 業 務 等 に 従 事 す る 人 た ち が「 和 田 の 泊 の あ か れ の 所 」 に 駐 在 し、 往 来 す る 船 舶 に 心 付 け を 要 求 し て い た の で は な い か。 た と え そ の よ う な 要 求 に 応 じ る い わ れ は な く て も、 便 宜 を 図 っ て も ら う た め に、 人 々 はなにがしかの金品を彼らに与えていたのではないか。 「乞へば」 「おこないつ」 という、 施しを求められてそれを与えたといっ た 意 味 合 い の 記 述 は、 法 規 的 に は 応 じ る い わ れ の な い 要 求 に 従 っ た こ と を 意 味 し て い る の で あ ろ う。 こ れ は も ち ろ ん 想 像 に す
ぎないが、修行者や乞食への施しとする想像よりは蓋然性が高いと思うのである。
五
「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 の 所 在 に つ い て は、 近 年、 二 つ の 新 説 が 提 唱 さ れ て い る の で、 検 討 を 加 え て お き た い、 久 保 田 孝 夫は「 『土佐日記』に見る「淀 川 )(( (注 」」において、それを高槻市津之江に比定し、次のように述べている。 「芥川の河口は 「唐崎」 の地名も残っており、 そこから隣接して芥川沿いの上流が筑紫津神社のある 「津之江」 である。また、 こ の 地 に は 都 か ら の 西 国 街 道 が 芥 川 を 横 切 っ て い る。 そ し て そ れ が 交 差 す る す ぐ 西 に 島 上 郡 の 郡 衙 跡 が 発 掘 さ れ て も い る。 ま さ に こ の 地 は 交 通 の 要 衝 と い う に ふ さ わ し い。 こ れ ら の こ と か ら、 「 三 島 」「 唐 崎 」「 津 之 江 」 に あ っ た「 筑 紫 津 」 を こ の 土 佐 日 記 の「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 と 順 路 的 に も 想 定 す る こ と が で き る。 「 わ か れ の 所 」 は 芥 川 を 少 し さ か の ぼ っ た 西 国 街 道 へ の「わかれ」であり、鳥飼と渚の院の間に位置しているのである。 」 久保田が 『土左日記』 の記述に従い、 「わだの泊のあかれの所」 を鳥養と渚の院の間に比定しようとしているのは評価できる。 し か し な が ら、 貫 之 一 行 が、 た だ で さ え 水 深 の 浅 い 淀 川 本 流 か ら 支 流 の 芥 川 へ と 進 入 し、 遡 っ て「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 」 に 達 し、 再 び 淀 川 本 流 に 戻 る と い う 航 行 を あ え て な し た 理 由 に つ い て の 説 明 が つ か な い 限 り、 高 槻 市 津 之 江 説 は 認 め 難 い と 思 う のである。 内田美由紀は 「『土佐日記』 「わだのとまりのあかれのとこ ろ )(注 (注 」」 において、 大阪近辺に残る地名 「わだ」 について一々検討を加え、 結 論 と し て「 わ だ の 泊 」 を 門 真 市 大 和 田( 京 阪 電 鉄 大 和 田 駅 付 近 ) に 比 定 し、 そ の 地 が 交 通 の 要 衝 で あ っ て 各 地 へ の 分 岐 点 で あ っ た と こ ろ か ら「 あ か れ の 所 」 と 称 さ れ た の で は な い か と 推 定 し て い る。 し か し、 こ の 地 は 鳥 養 と 渚 の 院 と の 間 と い う『 土 左 日 記 』 の 記 述 に 適 合 し て い な い し、 そ の 点 に 関 し て の 説 明 も な さ れ て お ら ず、 納 得 し 難 い。 そ も そ も、 当 時 の 淀 川 が 門 真 市大 和 田 付 近 を 流 れ て い た と い う 大 胆 な 説 が、 古 代 史 学 や 考 古 学、 歴 史 地 理 学 な ど の 専 門 家 に よ っ て も 唱 え ら れ て い る の で あ れ ば紹介がなされるべきだが、 論考を読む限り、 これは内田独自の推測であるらしく、 説得力を欠いていると言わざるをえない。 「 わ だ の 泊 」 を 淀 川 流 域 に 残 る 地 名 か ら 解 明 し よ う と す る 研 究 は 早 く か ら 見 ら れ )(注 (注 、 久 保 田 や 内 田 も そ の 流 れ を 汲 む も の と 言 え よ う が、 『 土 左 日 記 』 本 文 に は A「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 あ り 」 で は な く、 B「 わ だ の 泊 の あ か れ の 所 と い ふ 所 あ り 」 と あ る こ と に 注 意 し な け れ ば な ら な い の で は な い か。 A で あ れ ば、 「 わ だ の 泊 」 な る 船 着 き 場 が 淀 川 流 域 に 存 在 し、 そ こ か ら い ず れかへ通じる運河か街道の分岐点を意味すると考えていいであろうが、 Bであれば、 「わだの泊のあかれの所」という地名(に 準 ず る 地 点 ) が 存 在 す る こ と と な り、 「 わ だ の 泊 」 は そ の 構 成 分 子 と な っ て 背 景 化 す る か ら、 必 ず し も「 わ だ の 泊 」 を 淀 川 流 域 に 求 め る 必 要 は な い。 こ の よ う に、 「 所 」 の 名 称 の 点 か ら も、 遠 方 の「 和 田 の 泊 」( 現 神 戸 市 ) へ の 分 岐 点 と 考 え て も さ し つ かえはないと考えるものである。
六
二月九日、 「わだの泊のあかれの所といふ所」を通過した一行は、 渚の院(現枚方市渚)を見つつ遡航し、 その夜は鵜殿(現 高 槻 市 鵜 殿 ) に 停 泊 し た。 翌 十 日 は 同 所 に 滞 在、 十 一 日 に は 出 航 し、 東 に 男 山 を 望 ん で 石 清 水 八 幡 宮 を 遥 拝 し、 山 崎 の 橋 に 達 した。ついで相応寺(山崎橋の西詰に所在)のほとりに船をとどめて、 「とかくさだむることあり」とされている。 こ の 際、 ま っ 先 に「 定 む る 」 必 要 が あ る の は、 入 京 の 日 時 で あ ろ う。 私 は「 土 左 日 記 略 注( 一 )(注 (注 )」 に お い て、 一 行 が 十 二 月 二 十 一 日 の 戌 の 時 に 門 出 し、 二 十 七 日 に 大 津 を 出 航 し た の は、 い ず れ も 陰 陽 師 の 勘 申 に 従 っ た も の と 推 測 し た が、 当 時 の 風 習 か ら 推 し て、 そ れ に 間 違 い は な か ろ う と 思 う。 入 京 に 際 し て も、 そ の 日 時 に つ い て 陰 陽 師 に 諮 問 す る の は 当 然 で あ っ た に 違 い な い。 二 月 十 六 日 夜 の 入 京 が 至 当 と の 陰 陽 師 の 勘 申 を 受 け て、 そ の 日 ま で に 船 荷 を 荷 車 や 小 舟 に 積 み 替 え て、 京 の 前 国 司 邸 に送付する段取りなどが話し合われたのであろ う )(注 (注 。こうして、淀川を遡航する船旅は終りを迎えたのであった。 注 (1) 『土左日記』にかかわる拙稿のうち、論文は次の三編である。 ①「土左日記「船のをさしける翁」について―前国守(船君)像の確定へ―」 (『武庫川国文』第七十八号 平成二十六年十一月) ②「土左日記を読みなおす」 (『日本語日本文学論叢』第十号 平成二十七年三月) ③「土左日記の冒頭文について―小松英雄説批判―」 (『日本語日本文学論叢』第十一号 平成二十八年二月) こ れ ら の ほ か に「 土 左 日 記 略 注( 一 )」 (『 武 庫 川 国 文 』 第 七 十 九 号 平 成 二 十 七 年 十 一 月 )、 「 土 左 日 記 略 注( 二 )」 (『 武 庫 川 国 文 』 第 八十号 平成二十八年三月) 、「土左日記略注(三) 」( 『武庫川国文』第八十一号 平成二十八年十一月)がある。 (2) 『延喜式』 巻五十、 雑式に 「凡そ難波津頭の海中には澪標を立てよ」 (原漢文) とある。 「その頭というのは入り口をさす」 (虎尾俊哉 『延喜式』 二一二ページ)とのことであれば、 この『延喜式』の記述は、 『土左日記』二月六日条の「澪標」についての私の推測を裏付ける。なお、 「澪標」 とは 「水深の度盛りをした満干測定標」 を意味し、 航路標識たる 「みをつくし」 にこの字をあてるのは誤りとの見解があるが (滝 川政次郎「みをつくし考」 『上方文化』第5号、昭和三十七年六月) 、本稿では便宜的に通用の「澪標」を用いておいた。 (3) 村瀬敏夫「 『土佐日記』旅程考」 (『平林文雄教授退官記念論集 平安日記文学の研究』所収 平成六年十月 和泉書院) (4) 『源氏物語』 玉鬘巻の、 玉鬘一行の船が瀬戸内海を東上するくだりに、 「川尻といふ所、 近づきぬ」 「韓泊より、 川尻おすほどは」 とある 「川 尻」は、諸注が指摘するように、神崎川(三国川)の河口をさす固有名詞であろう。 (5) 現在、 摂津市一津屋で淀川から分流し、 大阪市東淀川区相川で安威川に合流する神崎川は、 明治十一年に新たに掘削された水路であり、 古代の運河とは流路が異なる。 (6) 鈴木靖民他編『日本古代の運河と水上交通』 (八木書店 平成二十七年五月)など参照。 (7) この太政官符については、注(6)書 19ページ以下参照。
( 8) 「 お お む ね 実 際 の 通 り 」 と こ と わ っ た の は、 一 月 三 十 日、 二 月 一 日、 同 五 日 条 に 見 え る「 和 泉 の な だ 」 に つ い て、 作 者 貫 之 に よ る 誤 記 とする見解が存在するからであるが、私はこれを女性「作者」の造形にかかわる問題ととらえ、別稿を予定している。 ( 9) こ れ と 同 様 の 考 え 方 と し て は、 早 く 田 中 大 秀 の『 土 佐 日 記 解 』 に、 一 案 と し て「 和 田 泊 の 別 の 所 と つ づ き て、 和 田 の 泊 の 方 へ 分 か れ ゆ く 枝 道 の 有 る 所 か。 さ ら ば、 あ か れ の 所 は、 和 田 と 云 ふ 地 内 に 有 る に は あ ら ぬ 意 な り 」 と あ る。 村 瀬 敏 夫 も 前 掲 論 文( 注 4 参 照 ) に お いて、 「和田の泊への分岐点」とする解釈を採っている。ただし村瀬はその分岐点を鳥養の下流、江口の対岸としている。 ( 10) 吉 田 東 伍『 増 補 大 日 本 地 名 辞 書 』 第 二 巻「 摂 津( 大 阪 ) 三 島 郡 」 の「 和 田 泊 」 の 項 に「 土 佐 日 記 に「 和 田 の 泊 の あ か れ の 所 」 と 録 せ る 地は、水路鳥飼と渚院の間なれば三島江若しくは枚方駅に当る如し、今其名を失ふ」とあるのは正しい判断であったと言えよう。 ( 11) 大阪成蹊女子短期大学国文学科研究室編『淀川の文化と文学』 (平成十三年十二月 和泉書院)所収。 ( 12) 内田美由紀『伊勢物語考―成立と歴史的背景』 (平成二十六年一月 新典社)所収。 ( 13) た と え ば 山 田 孝 雄 は『 土 左 日 記 』( 昭 和 十 八 年 宝 文 館 ) に お い て、 河 内 国 交 野 郡 禁 野 村 和 田 寺( 現 枚 方 市 禁 野 ) に 比 定 し て い る。 前 記天坊幸彦の「わんど」説も、淀川流域に残る地名から「和田の泊」の所在を解明しようとする一説にほかならない。 ( 14) 『武庫川国文』第七十九号(平成二十七年十一月)所収。 ( 15) 久 保 田 孝 夫 は「 『 土 佐 日 記 』 の「 山 崎 」」 (『 中 古 文 学 』 第 八 十 七 号 平 成 二 十 三 年 五 月 ) に お い て、 二 月 十 一 日 か ら 十 六 日 ま で の 山 崎 滞 在 は、 貫 之 が 当 時 山 城 守 で あ っ た 源 公 忠 と 共 に、 山 崎 の 国 司 館 で、 醍 醐 天 皇、 宇 多 法 皇、 藤 原 定 方、 藤 原 兼 輔 の 死 を 嘆 き 悲 し む 時 間 で あ っ た と 論 じ て い る が、 一 族 郎 党 と 貴 重 な 積 荷 を 船 に 放 置 し た ま ま で、 貫 之 一 人 が 国 司 館 へ 出 向 い て そ の よ う な 数 日 間 を 過 ご し て い た との推測は現実的ではない。 (とくはら・しげみ 本学教授)