茨木市常稱寺藏﹃總持寺縁起繪卷﹄詞書訳注
西国三十三力所第二十二番札所である、茨木市の松奪寺の創建に関して、二っの"建絵巻が描かれている。 一つは総埜蔵の﹃総持寺縁髪奪﹄で、詞九段、絵八雫構成され'には海北友雪の落祭あることから、延宝五年(一 ︹']) 六七七)以前、十七世紀の作とされる。県白は和文で、つと巨崎久弥氏が、坪坂寺、穴太寺緑起孤馨と併せて、全文の翻 刻紹介をされている 0 もう一つは、常稱土蔵の﹃総持土蒜県奪﹄で、詞、絵とも八段で構成されている。絵、詞ともに筆者は不明であるが、 向雲竹暴書があり、十七世紀一墜の作と思われる。鼎尽渓文体で、Π沖敦子氏が翻刻紹介をしている。ただ、解説の中で ﹁語<の文言や故事を多分に含んでいる﹂と竺、凡例でヌ肌の便宜を図り、包工鉤括弧を私付した一と言うものの、 その注を見ると、周辺呈柄については詳しく書かれているが、漢文詞ずぐのものの語釈は、漢和藷<程度であり、典故など については全く条なされていない。また﹁文一言や故亊を夕夕分に含んでいる﹂としながらも、それらを調ベていないため、翻 字そのものにも、句読にも夕夕くの誤りがあり、果たしてどのように読み、解釈したのか不明な点が多々ある。 日沖氏の翻刻紹介は、幸いにも梨凹の写真が添えられていたため、それらの誤りに気づくことができるが、翻刻紹介はなに よりもきちんと割字することが必要であり、そのためには内{谷理觧を欠くことはできないであろう。もしそれができないのではじめに
士あれば、写真を載せるだけで済むことである。 本篇は、県白の内容を紹介するため、書き下し文と注、及び日本語訳を付したものである。まだいくつか不明の点もあるが、 それは注に記しておいた。また、注では﹃今昔物語集﹄﹃長谷寺中叢記﹄﹃三国伝記﹄及嘉持寺蔵﹃総持寺慧塗上などと の異同については、それほど触れていない。条長くなるということもあるが、目的は常稱寺蔵﹃総持寺縁起仏馨﹄の県白の 内容を紹介することであり、禦凹との比誓塗己の成立、謬原山一倫話の展開の問奨からである。ただ一点、絵巻等に記さ れた日付については、最後に触れておきたい。 なお、本絵巻の当ル的な事柄については、日沖氏の紹介を参照願いたい。筆者は本絵巻を実見していないためである。ただ、 採寸については、全体の長さが記されているだけで、糊代も含めて、一竺との採寸はなされていない。 ︽注︾ 尾崎久弥釜つの孤警﹄観音略仰会、一九三五 ] 口沖敦子﹁淡木市補陀洛少森寺ネ特十様起絵き令人間文化何究四﹄、名古屋市立大学、二00六)。その後、﹁尿"寺絵起孤馨﹄ 2 の成立点裳1"松所蔵血奪を中心に1﹂(﹃中世文学﹄諺号、中唯文父<二00七)、﹁訣将吉縁起孤、警﹄の捌竹とその鳶色(・﹃古代中 世文叢脚考﹄第19集、新典社、二00七)があり、成立状況について陳ベているが、重なる炎刀も多く、引用された詞轡きは剛述ったまま である。
原文・書き下し・注・訳 <第一段> {よ1︺
倶舍頌日、
、、 ﹂エ, 旧疋 (注3 Jノ 、 遊 1 道四生、 チ 者臂如諸陀羅尼功徳之
1 チ者脛
今、也、顎 寺、觀 1 容者、 g 市',旺 、-P 下音大士千手
倶舍頌に日く、尋提薩睡は物を利するを壌ひと爲し、 ゞ爲に、 4Z、ず惡飽聖に八^くL一と。特1 に秘見"t゛t卦鑑は詣祉罷の功用を抽野して種種
形を以て、苧\の國士に遊び、衆生を度脱す。六 エ、゛.1三、 道・四生・一蚕 上大て測iく系ミく.或↓士 る一^以なり。 U孝ノ\ば二者陀県罷ナ己の功徳︹の 二 諸經の功徳を總持するが如く、獣需三叫喉此箇の菩 提薩垤全て膨口薩の妙用を具足するなり。 ま 如今や攝州嘘卞劉補也落山 總持寺倫音大士千手十一面の 北馨は、和州長谷寺開士の示現して 造れる所の妙相尊なり。聖者の化現は、 一河の衆水に印するがごときなり。水有らぱ即ち現はれ、 酋ほ ナ 水無くんば即ち隱る。只だ恐るらく水無きも、月元より懸れず、 大:一づ も 若し人水無くして月隱くると謂はば非なり。原ぬれぱ夫れ、 {注3) .、 上 住゛' 用也。 力落山
一面士、示現
之化現、 現、価元不逐若
人無
而 也。有 月趣。特觀世
化有階、必往亞
訂勿﹄き惨 重ξ八、町^由上大祥 おも y國士
mj 以度脱衆生
茎咲J 用 "塑] j4 ﹂1 f j1 印衆水造之妙相尊也
月隱者、非也
ー'Ⅱ^州長谷寺開
院垤全旦
j寸艮 ト也; 重ネE 升 切上' ︺ブで 、 オく 猶 一田 而Π 列〒 口 尊總如 ノ"、 、 工IL '1J、 、 "、 "、 、 「コ 立向 0 0 原 -11. ラ灸 三^ ' t二k、 、 「コ /.\ ヨ 以 滅 、 0 ID、 ニ] 1' 「コ -FI-rコ 、 、 藝艶 U尭 穂結 "尼 0 ナ 0 π、1二 、 「王王1 、之苗喬、越前守
五世
淡海
ノ (注4)藤原朝匝高房、領鎭西之司命。
遠山回
家人傳士、男女多子、
舟た形,ネ
、 、樂哉既過穗稙之
0 可叙幽情
0 イ (注9︺捕縮欲害之。高房看
橋、則漁子
、 0 兒 解亘日 、 圧ミ青 1 、 1 ノ子善賣。漁日、沽之哉、沽之哉。高
十U 魚放之江河。嵯
0房命家子日、早
、夫、畜之生、人之生、本無有異。皆
(庄蛯)悉所以天之命也。士得以舍之
洋勺全女
而逝
0 "、困圃
夕 (庄6) ( 1主7) 青 "、 △フ ーヨ恐、^ (江8) (注5) 、- j1 吾が次絵公五世の苗商越前守 藤原朝臣高房は、鎭西の司命を領す。 時に、山一陰中納言は、幼きと靴ども錘友人を 兼ぬ。故に家人傳士・男女多子を率ゐ、舩を おもも つ力 俄して淀河に汎ぶ。清風徐ろに來り、水波興らず、 なノ めぐ 0力︹ 遠山回り轉じ、吟吸語ぞ圖らんや。鵜飢前に粧し、 ちょ,0七よ 徽艇後に歌ひ、一鯛一詠、亦以て幽清を暢叙するに 言に繊^しむ而丁き力、な。 1班﹂にして1惠秤tの 橋を過ぐるに、則ち漁子龜を捕ヘて之を害せんと欲す。高房看 たちま ,0 説て、一伶乍ち生じ、漁を呼びて日く、﹁之を沽らんかな。子に 薫只を山<ヘん﹂と。漁日く、﹁之を沽らんかな、之を沽らんかな﹂と。 ああ 一器・家子に命じて日く、﹁早く買ひて之を"に放て。味、夫れ 畜の生も、人の生も、本異なる有る無し。皆 は' 悉く天の命ずる所以なり﹂と。士得て以て之を江に舍てぱ、 きょXLよ 則ち鬮圍洋洋、攸然として辺く。于時山隆中納
邑
1 ﹃具人高﹄第二十三に﹁曾、磐開種性、媛頂已生、容可轉成、無上a。被若得忍、釧成佛理、糊戻惡趣巳超越故。菩捉監勒 爲峡爲化有情、必往惡趣。彼忍種性、不1"、是故{碇'成俳きとあるにょる。ここで、顎日とするのはこの前に﹁頌日﹂が有 (庄W)匝徐來、水波不皿
府足"以暢
靴幼鍾愛
圖弟鳥負j 0易 t工 ψ耶 卸」 司義 _、1. 舩人 0 汎 1疋 d/' i可 削 沽盆 ノ^ 浅 竹y 0 「コ ,、 0 副く ヨ王 1コ "ノ"、 、'^胆返捻;晃系1大1 こより氾Ⅱくーリi π了凌)つ
て、六道(六趣)を指す。 てー1Bくところで、地舌ま・^田生・創戈鬼・,参繩t ・人 L火。四生は、六道における治生ノ、件首孚L'頁、 卵生(二など)・湿牛(郵架ど) (虫類など)の四荷の生まれ方。一蚕今垂は地獄趣の火途、ψ星趣の血途、餓鬼趣の刃途を と三 いうか、十桜的に上記の二趣を指すことが多い。次の八難とともに、'一趣八難あるいは八難マ途と用いる例が夕夕くある。八難は地訣・我鬼 畜生.北乱單越・、長寿天・盲聾培唖・世智辯隠・俳前佛後。惨ノ行に於いて告璽のあるところを旨す。・\孤侵とも舌、つ。なお、こーらよ径地、 にょり名称・順膨の述いがある。 矯奪寺の千手十一面観音像は長ハ今の観,晋が造像したとされることについては、第五斐、第六段に記さーている。 3 4 一器の下向につぃて、﹃今昔物語逃では星・¥の帥に成て鎮西に下りける﹂と記す。﹃長谷女咲祀﹄では、气西國に知る所有て﹂とし、﹃三 国仏ル﹄では﹁鎮内に所知ありて﹂としており、所領があったとも考えられる。他の文献で高房の衣1を確認できないため、ここでは﹃今 昔物語﹄にょって訳しておく。祠命は生殺の権を握るもの。 ﹃貯卑分脈﹄にょれば'冴子は七人、山陰はその六舌になる。﹁兼人﹂は軍器張篇の﹁由也兼人﹂にょるもので、架伴は﹁勝 5 尚人﹂七征し、朱子は﹁兼人調勝人也﹂と注している。 原文は﹁慱士﹂につくるが、﹁傅士﹂とみて、訳した。あるいは﹁傳士﹂のままで、家の添党引き迎れての意か。匝は﹁縦苫 6 7 前半の﹁沽風徐來、水波不興﹂は殊帆の﹁赤壁賦﹂にょる。Π、取後の一句はとりあえずこのように訳しておいたが、不明な点もある0 8 王幸﹁N丘にょる。口鯛一詠﹂は曲水の纂の状況などから口杯の酒を飲む毎に一首倫を吟ずる﹂としてもよいが、﹁かつは次 み、かつは歌い﹂と解釈することもー。その前の﹁織﹂の﹁以﹂は養う忠味だが、ここでは飼の義で使われている。 ることの関玉呉につぃては、目^田^ム一上R 一﹁山蔭中1内一^武哥ι言舌の力艾︺乞1 一勺長;ハ^ロ^寸観^日町矣盲己、一の"ー^Π1{一二﹃同二女き王国1女:学!L 976)に次のように指摘している。﹁また鵜飼上氾とのつながりは、鵜の餌として用いる点にある。その事は次の簗塵秘抄﹄の△様にょっても知ることができる。 355・鵜飼は可憐しや、萬劫年経る屯殺し又鵜の頸を結ひ、現世は斯くてもありぬべし、後生我か身を如何にせん 4]5 ・鵜飼は海しかる、何しにミで漁りけむ。万劫年経る飽殺しけむ。現世は斯くてもありぬべし、後世我か身を如何にせん、ず らん。﹂ 再史裟不明。あるいは何か@き誤りか。 の一﹁子貢日、有美1長於如i、幸乱匝而尻女i名、求善貿而沽諸。子U、汗イL之1戈。沽之"戈。 1戈待買老.^L一にょる与え剥拓ι巳の式畠只は良 い買い千(ゼンコ)とする説と、良い値(ゼンカ)とする説があるが、ここでは 7艮い値﹂忠一で使われている。 ﹃子皿子﹄導十篇の﹁昔者有韻生魚於鄭子産。子産使校人畜之池。校人嘉之、反命田、始舍之、閏剛馬。少則洋導一攸舛而逝﹂にょる 趙岐は﹁用團、魚在水瀛劣之貌、洋洋、舒緩揺尾之貌、攸墾迅走水趣深處也﹂と注し、朱子は﹁鬮胴苦而永舒之別、洋洋、則稍紺ず 攸撚而逝者、自得而遠去也﹂と注している。攸然は悠然と同じ。 目一父告頌に言う、﹁菩提薩睡は己以外の者を良くせんとするを本願とし、有情の者を良き力ヘ導かんがために、必ず惡趣ヘ行 くものである﹂と。中でも特に、観世土罪音薩は、諸並謡の働きを兼ね持っており、様々に形を変じて、諸国に出かけ、人々を 生死の苦を超度し解脱させる。それは、六道四生、三宍難の、すべてを次第次第に架ノさせていくためである。喩えて一1 ば、それぞれの陀一捲の功徳が、それぞれの経典の功徳を兼ね持っているようなもので、この菩提陸堆は、さまざまな一謹の すべての妙なる勧きを全て兼ね備えているのである。 今、摂津の国嶋下郡の補陀落山總持寺の觀音大士千手十一面のご尊容は、大和の国長谷寺の観音大士がお姿を変えてお作り になった妙相尊である。聖者(観音菩薩)がこの世に姿をお示しになるのは、ちょうど一個の月が多くの水面にその姿を写す ようなもので、水が有れぱ月の姿が現れ、水が無ければ隠れる。ただ気がかりなのは、水が無くても(姿が見えなくても)打 12 H 10
がもともと姿を隠すわけではない。もし、水がないので月が無くなったという人が有れば、それは間述いである0 さて、由来を尋ねれぱ、抑も五号絵公(一償不比等)の五世の子孫である、越前{藤覇臣高房は、太宰府の司命となっ た。その時、山陰中納言はまだ幼かったが、他の人よりも一層愛されていた。そこで、家人や守り役、男女夕夕くの子を引き連 れ、船出の準備をして、淀川に舟を浮かべた。涼やかな風がそよそよと吹いてきて、波も立たず、遠くの山容が廻り転じてい き、歌を作って{叔しさを紛らわすことなど考えなくても良いほどである。鵜飼船は前に、漁師の船は妾ろで歌い、一傷一詠し て、奥ゆかしい、帯を竺るのに相応しいものである。何と楽しいことではないか。やが而積の橋を過ぎる頃、漁師が亀を 捕まえて傷っけようとしていた。亮房はそれを見て、哀れむ、心がたちまち生じ、漁師に呼び掛けていった、﹁それを屯ってくれ、 高い値段でそれを買おう。﹂すると漁師は﹁売ろう、売ろう﹂と答えた。高房は家来に命じて﹁早く買って、川に放してやれ0 ああ、そもそも畜生の生も、人の生も、元来異なるものではなく、等しく天の命じたものである﹂と言った。家来がそれを圖 い得て川に放すと、屯は初めは縮こまってょろよろしていたが、やがてのびのびとし、最後はゆったりとした条子で去っていっ J <第二段> (注})
晩鍾殷騎、星打皎潔。
(庄2)津而泊爲。幽賞未已、
白山蔭兒、而傍于舷、教
月、失手陥兒于水底。
無不
母抱愛
(注3︺ 中男女.、 晩錘殷んに騎ひ、星月嬬保なり。舩河尻 の津に入りて泊す。幽条だ已まず、乳厩山一覧を ふむばたちか一 抱愛して、舷に傍き、兒をして水底の月を おと 視しむるに、手を失ひて兒を水底に陪す。舟中の男女、 伉偶せざるは無し。或ひと私かに以爲ヘらく、異母の逃肖の ざか 才ゞ L王 じ n つてき 異母之 1 ネ見 1寸く五ミゞー}1 j念
舩入河尻
舟・ 0 、 乳 J゛'、言
カ、波浪不能
發不森。黎明慌惚看小兒立波
忽 ﹂ 熟ネ見之 "、浪。舟師回挑、慈父立
、、 1 (注8)亡兒乘龜甲、莞爾而笑。慈父
貝 旺玉1王鳥チ喧 喜 0 包、ⅡⅡ見攘臂捧
、、 (注7)之矣。疇
所舍之
現之恩者
應、大慈
水中之龜、而
者也。夫寔可
之念大
田目、 一三Π 義 ε科ーネ 至す所と。直房母然として悲泣しつ?謂ヘらく、 ﹁誓言有りて日く、﹃或いは巨海編流し、龍魚・諸 鬼鐙あるも、彼の觀音力を念ずれば、波浪も没する能はず﹄と。 し 豈に誕ふ可けんや﹂と。專心大悲の琥を稱念し、明發 森ねられず。黎明に、慌惚として小兒の波浪に立つを看る。 舟師回挑し、慈父舷に立ちて之を熟視するに、 則ち亡兒龜の甲に乘り、莞爾として笑ふ。慈父 ああ はら 主冬1包し、ヲ,^一暑.到王到王たり。Ⅱ!1明Z ^全晒、 我之を知れり。雅日の暮、穗積の江に 在りて、舍っ所の犯の、而して今豈に努の 恩に報ずる者に非ずや。是れ希有難思誘 妙應、大慈大悲、即ち形を水中の龜に 化現して、父子の急難を哀救する名なり。 まこと ミれ寔に^司'可く、仰ぐ可し。 (注6︺ 明昔之
暮、 乍之、而今豈
︹注U)是希有難思
現升
Uヒ
、哀救父子之急
信、而可仰爲。
卯 ︽注︾所至矣也
] ﹁殷駿﹂殴傑は不明。皎潔の対とLて老えれば﹁殷騎﹂が一つの,して、鐘の音色を喩えるものとなるのであろうか殷が音と関係 する場合は殆ど雷であり'と関連して用いたもの巻知らない。とりあえず、盛んに鴫る様子として解秒した。日沖氏は﹁平板でなく深み のあること﹂と注を付けているが、何に拠るのか不明。あるいは﹁除畑﹂と問違ったのではと思える。房楞然悲
可誕乎。專心稱
よ虎
之妙
長頂
江、而 喜、手戈知 、允ト﹄ミーー リ"上 (注5)或漂流巨海、龍
難於 0 「コ 、 、 、、耶龜
"、 日 日 、 ''、、 'h イ又 J. 6ι 、 0 諸 一鬼2 凾賞未已﹂は、李白の﹁春夜宴桃李爾序﹂にょる。 3 ﹁抱愛﹂竪昧は不明。用例を見ない。﹁抱きいつくしむ﹂あるいは﹁抱きあやす﹂登味か。 4 ﹁伉偶﹂は﹃孟子﹄稔丑上の謬注では﹁驚咳之情﹂とし、朱子は↓驚動貌﹂とする。また、﹃文選﹄﹁東京斌﹂の﹁猶伉暢於一人﹂の 李善注は尚沓孔安国伝を引いて﹁伉偶、棟慳也﹂とする。 5 ﹃妙絵一森﹄器烹早駆臼門品にある。璽盆として知られる。 6 ﹁明發不森﹂は﹃露註小雅・小宛にょる。毛傳は︹明發、發夕至明﹂と注し、朱子は﹁明發、、"旦而光明開發也﹂と注する。﹁夜通し﹂ ﹁夜明けまで﹂の意味。 7 ﹁院惚﹂は恍惚に同じ。 8 ﹁莞爾而笑﹂は家器﹄陽貨篇に見える語であるが、出典として竒羅されていたかどうかは疑問が残る。当時一般的に使われていた表現 と見てょいであろう。 9 ﹁悲喜班班﹂の悲憙﹁悲しんだり轡んだりする﹂ことであり、ここ忍しむ様子を見るのは不白然なようであるが、居なくなって会え なかった人物鳶ってきた時、それを迎える側の気持ちを酉号﹂で表す例がある。例えぱ、一叢翻﹄方正の注に引く﹃孔子士起では、 あの世の崔少府のもとに行って暫く姿を消していた盧充が、家に帰ってきた時、﹁家人相呈喜﹂とあり、唐代伝奇の﹁隠娘﹂でも、姿 を消して五年後に尼に連れられて帰ってきた隠娘を﹁一家韮号、問其廼テ﹂と記している。班班は入り交じる様。 この﹁我﹂は高一房とも、この縁起の作者を指すものともぢぇられる。 ﹁順現の囚どの順現は﹁順現受業﹂で、この世に業を作り、この世に果蛾を受けることを百う。倶入古竿は﹁順現法受業﹂という。ここ では、助けられた恩を子供を助けることでかえしたのを指す。亀の縦渕輝である。山蔭に関する説話では、助けられたのが誰か、 mを放生 してからの帰還などに述いはあるが、よく知られ兪分である。ただ、漢,箭荏それを親音の化身としてとらえている。﹃長1中叢記﹄ も﹁是併観白在尊の御方便なり﹂とする。 H 10
﹁希有鷲叢﹂、﹁希有にして田叢し難き﹂の意味と解した。烈女時の侶に﹁捨俗趣泥沍、希有誓議﹂とある令法苑珠林﹄ほか)。 宵の鐘が盛んに鳴り、星や月が白々と耀いている。船はやがて河尻の港に停泊することとなった。物静かに景色を愛でる気 持ちはまだ続き、乳母は子供の山陰を抱きかかえて、船端に近づき、山陰に水に写った月を見せようとしたところ、手を滑ら せて山陰を水底に落としてしまった。船に乗り合わせたものは比鳥き催れた。ある人はひそかに異母罷県この需を招い たのだと思った。古同房は驚き悲しみながらも、思った、﹁法華経に﹃もし大海に一籍し、龍魚や諸鬼の難があっても、あの觀 音の力を心に念ずれぱ、波浪もそれを没するはできない﹄とある。よも偽りではあるまい﹂と。ひたすら観"際の号を唱え、 夜通し寝ることができなかった。夜明け時、子供が波問に立っているのがぽんやりと見えた。欝翫が船を廻らし、慈父高房は 船端に立ってつらつらこれを見るに、居なくなった子が亀の甲羅に乗って、にこにこと笑っていた。商房は袖をたくし上げて、 差し上げて胸に抱くと、非ぎ)もごもであった。ああ、ああ、そうなのだ。咋日の夕暮れ、穂積の川で放生した、あの飽だ。 それが今順現の恩に熊ようとしたものである。これこそ、滅多にない、田議しがたい応現で、大"矣悲の觀音が、姿を水中 の亀に変えて、この親子のb雛を哀れみ救ったものである。信ずべく、仰ぐべし。 <第三段> 容易報、 t 、1 、 因 利因心ぽ
爲寵子之現、當世世、而尋
木、刻鐘
大悲像。而
h又 、、 イ 訂,誠、終日寛夜、安想聖容ゞ堂持聖
(注1) 陶ル又 因りて佛号廣愽にして、容易には報ゆること難きを思ひ、惟ヘらく、 ﹁宜しく寵子の現るるが爲に、當に世世にして、生郡なる靈木を よはひ ー﹂と 尋ね見め、大悲像を刻鍵すべし。而し吾を没するまで誠を投じ、 終日寛夜、聖容を安想し、聖誓受持し、 おも L見清
田 '【ニ、 ・1 、区 '0、 12馳求、未獲像木、而奄爾甍。孝子
夙志、日淹矣。
^思父之
山 壁、 壬寸 示也有遣唐使、名大神御井。因而
山蔭子往語之日、
七1 "、彼求斯靈木、遂父子志
(庄3)精金百兩獻之、金諾了。
冥福也。四方
萬頃之范
云、此山溌東南有江、江中夜
ヒ イ放光、輝於月也。古聖要得之造
佛像
而不果而
逝矣
、、 訂 一1覚之、則可哉。是
目ノ 聖像を禮拜して、以て冥竿修せん﹂と。四方に 凡ノ﹂じ 馳せ求むるも、未だ像木を獲ずして、奄爾として甍ず。孝子 ι:ー 山蔭、慈父の夙志を憶ふも、日び淹まる。時に 造唐使有り、名は大神御井なり。因りて 山サ撃往きて之倫りて日く、﹁灰聞す、支那の 清凉山に、栴檀の香木有りと。則ち公、彼に到りて わが 斯墨木を求め、父子の志願を遂ぐるを庶ふ﹂、と。乃ち あは 精金百兩を造はして之に獻ずるに、金諾し了んぬ。茲に於てか、 めい1iつ 1 ほしL、まま 唐使涙肋に浮び、二券如く所を縱にし、萬頃の 一 一熊たるを凌ぎ、遂に支那に到る。尋いで清涼山の 佛母院に登り、僧に"て來たる由を話せば、則ち僧云ふ、 ﹁此の山の麓の東南に江有り。江中に夜夜 光を放ちて月より輝やけり。古聖之を乍侍て佛像を む人ぢ 造らんと要むるも、果さずして逝けり。如今、爾之を 筧め得ば、則ち可ならんか。是れ栴檀の香木なり﹂と。 しんたつ 御井聞得て、彼の百金を以て、佛母院に暇達す。 速かに扶桑に渡さんと欲するに、傳ヘて ああ叡聞に逹す岸虚器お草を
おも L 7 含むを奈んともし難し。私かに貫らく、﹁須らく此木を滄漠に投じ、 (注b) q止一葦之
(注ι 唐:使井聞得、而以彼百金、暇達于
皮 す扶桑爲、傳達
母院。速欲渡
、 聞。烏摩難 奈 0 睿叡慮含禁。私意、不若須投此木
來由。 凌 ︼jリ女以惨
迩僧話
(注7) 町曲田 ﹂デ L琥、禮拜聖像
遂到支那
靜登清
保山佛母院
五可日气J有栴檀香木。則庶乎
栴檀香木也。御
0 、 、 灰衾神 聞 那 0 0 乃 、 願 、 1旦 到 ノ气、 イ子 、 於 劼 吠 、 、 0 、 、4 P 、佛力以渡吾朝。
于 、 (注8)而香木四圍声工、
至 、忍 オ J箇栴檀香木、長三
井 、、尺八寸、其形方也。是
六寸、圍四
ノ原朝臣高房
日本國越
則守
打之胤子、要造千手觀音像、遂亡
予誓約之像木也。
Ⅱ ' 征京渡
1呈到 "、 ,、 申 日祈願、亦是御
山蔭滿
箇。沙獣
し父願、而就
斐諸佛威
東、令孝子
井所希望也。 ︽注︾ 溥は専こ同じ。 ] 2 総持寺本仮名縁起や﹃長谷寺゛叢記﹄では子供が無事に帰ってくることを願う場面で、帰ってきたならば千手観音の像を造1を約束す るが、漢文緑起にはその部分がないために、ここに記すような形式になったものと思われる。﹁修一希﹂の︹冥福﹂は﹁この世での徳行を 因とする、来世での幸福﹂で、それを受けるために身を修めること。 3 総持寺本仮名縁起では﹁{木朝より大杣の御井といふ相人来朝せり﹂と、宋からやってきた人相占いの名とする。更に高一房、山蔭の占いを するが、本縁起ではそれを記さず、御井を遣唐使とする。﹃長谷立ル験記﹄ヲ一国伝記﹄は﹁折節造唐使有り。大袖の御井と名く﹂とし、﹃攝 津名所図△亘に引く﹁伽藍開基記﹂は﹁﹂唐國の人僑﹂とする。これ以下呈木N、これらの璽口に見えるだけである。 佛力の以て吾が朝に渡すを信ずるに若かざるべし﹂と。決然として 至祝祈念し、香木の四圍無して云ふ、﹁御井 ふ こ 頬して白す、這箇の栴檀の香木、長け三尺六寸、 圍四尺八寸にして、其の形は方なり。是れ 日本國越前の{藤原朝臣高房が胤子、 千手觀音像を造りて、亡父の願ひを遂ぐるを 要めて、予に就きて逝局するの像木なり。仰ぎ わが 斐はくは諸佛威袖もて、鯨波難無く、遠く日東に 到りて、孝子山蔭をして祈願を滿たしむれぱ、亦是れ御井の 希望する所なり。珍重則ち箇くのごとし﹂と。 珎径 重〕 貝U ".4、 -1.、. 一士 ロ,し、 頬谷祝滄 白祈浜 、」丑二 _,t-尺御4 清凉山は悪亜山の別称。﹃法苑珠林﹄伽肱鷲に﹁代州束南五古缶、十輪杣仙之宅也。山方三百県、極嶋巌崇峻、有五第上不生草木、唯松 柏茂林'中明文翁五百仙人力待渠ヨ山、即斯地也。地極嚴寒多雪、曾汁際山。所以古來釜之士、多遊此山﹂と見える。 5 ﹁00了﹂は語類などにょく見る、完了を現す呈讃で、﹁00し了んぬ﹂と読んだ。﹁<需す﹂﹁八需せり﹂と読んでも、問題はない。﹁金 諾﹂は﹃史記﹄季布伝の﹁得黄金百金、不如得希一諾﹂に努く器。 6 ﹁縱二邑所如、凌萬頃之范然﹂は﹁赤壁斌﹂にょる。 7 ﹁暇﹂は﹁施す﹂。﹃一切墾邑第七十Ξに﹁檀剛、或長醐、叉捌反。此云財施報施之法、名捌達剛﹂と見えるように、達剛と使われ るのが通例で、畷達の用例は殆ど見られない 0 8 ヌ土祝﹂の﹁祝﹂は祝詞豊で、﹁懇ろに祝詞をあげ﹂の愆味か。本詞書の末尾に﹁至祝至扣﹂とあるが、その﹁至祝﹂では意味が通らな 0 9 ﹁頬白﹂の﹁頬﹂は﹃説文解字﹄では﹁倆﹂の本字とする。 7小しぬかづきてまをす﹂登であろうが、他に用例を見ない。 ﹁則箇﹂は﹃朱子臨﹄や﹁大朱宣醒亊﹄一水満傳﹄などの呈文献に見える愛詞で椀曲や推量、綴尋囲気を示す。平器城一標 0 注訓譯水満伝﹄では﹁義士提携則箇﹂の﹁則箇﹂に﹁くだされ﹂とルビを付けている。﹁則ちかくのごとし﹂と訓肌したが、読まなくとも よい。また﹁珍重﹂は手紙の最後や、僧侶の開での別れの挨拶として使われており、適切な日崟叩には訳しにくい。﹁かく願い申し上げる 次第です﹂くらいの意味。以上の願文が九十四文字ある。 このことで、高房は佛恩の広く、容易くそれに蝦いるのが難しいことに思いをめぐらし、﹁吾が愛し子をお助け下さった恩 に報いるために、代々に渡っ雨浄窪西木を探し求めて、観音の御像をお造り申し上げよう。そして、この身を没するまで誠 を捧げ、日夜そのお姿を心にとめ、その御名を心に唱え、そのお姿を礼拝して、来世に良きこと有らんと行いを修めることに しよう﹂と考えた。そして造像するのにふさわしい霊木を四方に求めたが、しかるべき像木が手に入らないうちに、にわかに し、
身罷られた。 孝子山蔭は、茲馨回房の望みを果たそうと思うものの、果たすことができぬまま日は過ぎていった。その折り、大神の御井 という遣唐使がいた。そこで山サ陰は彼のもとに行き、次のように告げた。﹁聞くところにょりますると、支那は清涼山に、栴 冴香木があるとのこと。あなたがそこヘ行きその香木をお求め下さり、私たち親子の宿願を遂させてはいただけませんでしょ うか﹂と。こう一言って墾百両を御井に託すと、彼はそれを固く約束した。かくして、造唐使の大神の御井は大海原に船を出 すと、一艘の一鳶の流れゆくに任せ、水波の窮まりなく一熊たるを凌ぎ行き、支那に至った。やがて御井県際山の佛母院に 登り、僧に会ってやってきた理由を話すと、僧は言った、﹁この山の麓の東南に川があり、その中に夜ごと光を放っものがあり、 月よりも明るいほどであした。昔の聖人がそれで仏像を作ろうと致しましたが、果たせぬままご逝去なされました。今、あな たがそれを求めて手に入れれば、よろしいのではございませぬか。それは栴檀の香木でご、ざいます﹂と。御井はそれを聞くと、 託された百金を佛母院に施入し(それを手に入れ)た。一刻も早く日本に送ろうと思ったが、その栗皇帝のもとに伝わ(り、 そのような香木を国外に出すことはあいならぬとのお達しがあ)つた。ああ、皇帝緊止の三忌志を示されては、もはやどう しようもない。御井はひそかに﹁こうなっては、この木を河原に投じ、御仏の力で我が国に渡して下さることを信ずるより他 、 1夏をくくつて^ぢにネ兄詞をあげ祈念tし、^国木の周囲に^のごとく記した。一﹁御jーニイ犬して申す。この1打: 1亶の^日 木は、長さ三尺六寸、周囲四尺三寸で、方形をしたもの。これは日本国の越前の{藤原朝臣高房が忘れ形見、 W条千手観音 像を造り奉り、亡き父の願いを遂げんが爲に求めたるものにて、私と約束をした像木にてございます。男くは諸佛の御力に より、大波もそれを止めることなく、遠く日本国に至り、孝子山蔭の願いをお叶え下されぱ、それまた私の願いとするところ でもございます。かく願い上げ奉る。﹂
<第四段> 才
又山蔭子
居于洛束吉田
、 ︹注1)私第、學業日
苗而秀、秀而寶、、 (注2)美譽芳聲、
朝廷。元慶五
旦田 鳥年七月十二日、
任播磨守。同六年三河二日、入
︹注3)悳艮
民、爲政學古。 1、 } 牙 心ア 1 j碁月、而聯吏來告近來明石浦、
(注ι有一橋。不知笑
自而來。漂止海
0濱、夜有光曜。見者無不怪、云爾。
刀口太守乃摘騨吏
(注7︺ 女御井之金諾祝
其所而視之
木、而蚤征于京師、擇粹刻
(;16)有三行九十四之文字。拂拭
抑ミ又山一竿は、洛東吉田の私第に υ1 居り、學業1新にして、苗ぱえて秀いで、秀でて{貫り、 美覺琴、朝廷に鳴鳴たり。元慶五年 七月1二日 詔ありて播磨守に任ぜらる。同六年三月二日、 播州に入領するに、徳を以て民を服し、政を爲すに古ヘに髪。 未だ碁月ならずして、堺吏來り告ぐ、﹁近來明石の浦に いづく さ 一橘有り。笑より來るやを知らず、海濱に漂止して 夜ミ光曜有り。見る者怪まざる無し﹂と、云爾。 ゐ 太守乃ち畔吏を將て、其の所に往きて之を視れぱ、 則ち三行九十四の文字有り。拂拭して つら 熟ミ視るに、乃ち是れ所謂御井の金諾祝祈して、 誌す所の詞なり。感戴言ふに堪ヘず。 未だ旬日を歴ずして、御井樓舩に乘りて此に泊る。 かんペ人 太守山蔭歡井して慰問するに、御井も析然として 二一︺ 晤語し、相與に謂ひて日く、﹁今や其の時なるかな。好し つと 靈木を挑ヘて、蚤に京師に征き、佛を刻む者を擇粹して、祈、而所誌之詞也。感戴不堪言
谷5)鳶。未歴旬日、御井乘樓
ハム、ー 于此。太守山蔭、歡井慰問、御井
與謂日、今其時哉。
矧と小吾熟見
玉6 ^ 新者 、 考五 口口 、、 相山 J』'、 則 、 乃 、 E1 ンE 所 一田 五目 "、 、佛者、莊嚴大悲尊容也。卿舟造
j 去。肅 0敬趣装、而擡像木、命士卒数子、
使之断董肉、而更互
肩、不肯動。諸子我力、
︹注川)衆余批手而立。
二J q跳、至心禮木、祈求
靈木、得得來于
ヒ 、、 士上次小ノー (注8)而回茲安置寶坊、
r、 甘戸叫t Ⅱ 大悲の尊容を莊嚴せん。卿は舟にて朝に造た L ﹂^ 我は駕して京に赴かん﹂と。相揖して別れ去る。 肅敬して趣装し、像木を擡ぐ。士卒數子に命じ、 之をして輩肉を断ちて、更互に擔荷せしむ。漸く攝の もち いこ 嶋下郡に入り、擔を卸して暫く息ひ、又肩を庸ひんと欲するも、 あは 動くを肯んぜず。諸子力を我するも、猶ほ更に搖がず。 みな 衆余手を批ひて立つ。中納言合掌胡跳し、 至心もて木倫し、祈求念言す、﹁堂堂乎たる く、乍佃.乍^として此に來たり、今、却て上ら,'。 おも 二二 想ふに夫れ縁茲に在りて、然るかな。然らば則ち 先に京師に奉じ、佛工に伏命し、妙相を莊嚴して、 かヘ 茲に回りて寶坊を安置し、宜しく供養を奉るべし﹂と。云ひ 了り、便ち將に難何せんとするに、則ち輕きこと始めの如し。 ,谷欠吊 不更搖。合掌
堂堂乎
上。 言 F 全西、而今
擔荷。漸入
0 (注9︺ミ
しゃうC二.人 琴畿子單篇の﹁子日、苗而不秀岩、有矣夫。秀而不實者、有矣夫。﹂を踏まえて表現したもの。 ] 2 ﹁嶋鳴﹂はあまり見ない表現。﹁以剥脳溢内﹂のように用いるのが通例で、﹁鳴四で、評判となる、名を知られるといった用例は見られ ない。日本漢文にあるかどうかは不明。ただ、ここではその意味で訳さないと通じない 0 3 ﹁以簾民﹂は﹃孟子﹄公孫丑上の﹁以簾人者、中心悦而體也﹂を、踏まえたものか。 野,客一^卸郎里如女 、 <注Ⅱ) 古 1イ .一、先奉京師、伏命佛工
養。云 リミ糸条泊1 方朝今、我駕赴京
、、 Lj宜奉供
而然乎哉
攝之嶋下君卸擔斯
"、 旦4 JLL、 、 "、 ,'ム "、 0 一^ 猶 "、 -14、. 彫ヨ ' L:.、 ".、、 "、 0 却4 ﹁柚﹂は﹁様﹂﹁査﹂に通じて﹁いかだ﹂のこと。ただ用例はあまりなく、あるいは﹃藝文類聚﹄水部上に引く﹁博物志﹂の﹁近世有居海 渚者、年年八河、有一磯來過、甚大。往反不失期。此人乃多ロロ、乘柚去、号一不覺晝夜、奄至一處。﹂などにょるものか。ただ、この話 では一木である。 5 日沖氏は樓船を﹁屋形船﹂としているが、あまりにイメージが逮う。船の中央、もしくは後部に高殿を持つ船。=口備大臣入唐絵巻﹄(ポ ストン美術館蔵)ほかに描かれる逃唐使船を去屈されたい。 6 原文は﹁折然﹂とも見えるが'忌柴通らない。﹁坂ごの誤りであろう。 7 ﹁好﹂は繋お﹁廷工志箭砥孫洲﹂の﹁好収我m幕江漫﹂、また白居易の﹁寒食Π寄楊東川﹂の﹁兜率需宜望月、嘉陵江近好遊春↑ にあるように、﹁好﹂は軽い肯定の意、もしくは 7宜﹂と通じて、﹁・:,:するのがよい﹂の意。ここでは先に﹁よし﹂と読んだが、最後に﹁莊 嚴するに好からん﹂あるいは﹁蕪峨すべし﹂と勢でもよい。 8 ﹁肅敬﹂は慎み深く、共小しいこと。﹁趣装﹂は急ぎ旅装を整えること。ここでは観音像を彫刻す1木に対して、万一の疎漏の無いように 旅装を整えることを言うのであろう。 9 ﹁庸肩﹂は、肩を入れて担ぐことを言うのであろうが、用例を見ない。 0 ﹁批手﹂には、礼式の一つ翌味もあるが、蕪洵の﹁上韓枢密書﹂の﹁及其崩譜出、放乎四百里之問、換手而莫能救也﹂の﹁批手﹂、ま た﹁批手傍観﹂の﹁獣手﹂と同じで、腕組みをしたまま何もしないことを言う。ここでは﹁なすすべもなく﹂の意。 ﹁胡跳﹂は﹃一切經,甚﹄に﹁船、注北旋。右膝茗地、竪左膝危坐。或云、互跿也。﹂とある。右膝を地に着け、左膝を立てる座りかた。 1 仏典では多くは﹁胡跳△玉の順になる。 さて一方、山蔭は都の東吉田にある私邸に居り、学業は日ごとに進歩し、芽生えては秀で、秀でては実るようであり、彼を 褒め称える声は、朝廷内に響いた。
やがて、元慶五年七月十二日に、詔があって播磨守に任ぜられた。同六年三月二日に、播州に入り治めるのに、徳にょって 民を従わせ、古に学んで政治を行った。着任して一月も奨ない時、宿駅の役人がやって来て告げた。﹁近頃、明石の浦に筏 がございまして、どこから来たものかも知れず、浜辺に渓つつ止まって、夜ごと光を放っております。見る者みな不田叢に 思っております﹂とのことである。そこで、太守山隆は、宿場の役人を引き迎れてそこに行き、それを見てみると三行九寸四 字があった。汚れをぬぐつてょくよく見ると、なんとそれはあの御井が固く約束し祈りを込め喜き記した豆ホであった。仏 恩に感謝すること、一盲葉にできぬほどであった。 それから十日も経たぬうちに、御井が唐からの帰り、楼船に乗ってここに停泊した。山蔭は大いに喜んで御井を慰問すると、 御井も喜ん妥倫らい、言った。﹁今こそ観音大士のお姿をお造り申し上げる時でございましょう。こ竪木を携えて、早 く都ヘ行ミ仏師を涛で、大悲の御尊{谷を荘厳することに致しましょう。あなたはこのまま船函廷にお行き下さい。私は 馬に乗って都に参りましょう。﹂かくして挨拶をして分かれた。 謹んで急ぎ旅装を整えると、像木を擡げた。士卒数人に命じて、生臭物と肉とを断たせ、﹂、釜凹しながらそれを担がせた。よ うやく摂津の嶋下郡に入り、かついでいた荷を降ろししばし休息の後、また肩を入れて担ごうとしたが、<モく動こうとしなかっ た。士卒たちが力を合わせても、一向に動こうとしない。人々は手をこまねいて立ちつくした。そこで中竺円山一男△忌早胡跳 し、一、心'木を礼拝し、ひたすら願って言った。﹁ああ、堂々たる霊木よ、わさわ、ざこの地までこられて、今やかえって揚 がろうともせられぬ。思いまするに、この地に縁があってそのようになされるのか。もし左様ならぱ、先に都に琴じたてまつ リ、仏師に命じて、よきお姿をおつくりし、ここに帰って土饒を建立し、ご供養申し上げましょう。﹂言い終わり、再び担ご うとすると、初めのように軽くなっていた。
<第五段>
直到洛陽東吉田私第、而上下
至 闇隹、悟 鉦 "、 踊 ? コ勾 ﹁翹秀
、 厶 オ 工。 、 (注1) H (住J二 白J 、 Π夕,寸之長谷寺觀音
講聖、具一切功
凡工t庶幾奉聖
之、無時而不思
了時。或來言、
j下大士、繞季無比
徳感應匁邊而
不見之。是日也、曹二月初午日。
言信受誘
、功ヌメく牙 耐心﹃ 、装樓樓馬。詣長谷寺、一心專
婁 ノイ求、伏請妙新。一
力中有音、
黎。聲音殊
天明、當
工土者、乃是佛工
,貴賤、而能爲
直ちに洛陽の東、吉田の私第に到るに、上下 おも 踊躍し、畦亜乍琴すること金聶智^出なり。中納一^言翁かに意思ノ\らく、 ナ,, L﹂ 左ん こひねが ﹁翹秀の靈木、寧ぞ凡工に命ぜんや。庶程くは聖工を奉ぜん﹂と。 ・秀て之を思ひ、宿めて之を念ひ、時として思倉、ざるは無し。 鵲喋器四了鼎一し。或ひと來りて言ふ、﹁和の 長谷寺の觀音大士は、溌季無比の 淨聖にして、一切の功徳を具ヘ、徳一無邊なり。而して 今吾子能く依恬と作せ、今岑一に疑ふ勿れ﹂と。即ち はろ 之を見ず。是日や、芭二月初午の日なり。 t士なL 則ち納言誘諭を魚又すること、亦太だ黙勲にして、 行装も樓樓たり。長谷寺に詣で、一、心專求し、 めふきん 伏して妙新を請ふ。一七日の夜鐙明、帳 み 中に音有り、仰ぎて之を膽れぱ、儀相麗偉にして、伽黎を整ふ。 τ y.C1 聲音殊に妙にして、臂を伸ぱし頂を摩で、曉して田く、﹁子 すみや 天明に到らぱ、當に促かに歸程すべし。門を出で始めて遇ふを得る者、 乃ち是れ佛工の妙手なり。相貌貴賤を問はずして、 能く包依枯と作せ。念念疑ひを生ずる勿れ﹂と。 摩頂、曉乍衣古
(庄ι 1妙手也
足ヨW 口王 E1 、 1j 遇 4)、ー, 、 どー1宅ネH 五壱イ皐,警仂 目ハι圷 己、'勿生
勿1 長七日夜遲明、帳
子能作^估
口 j
出門始得
゛tD、 '亡」、 JI'. 0 伏 , ilL、 、 1三{ 0 .ι1.、 0 、 尼皇 月 'ι二、 1\ ^ ,ν、, Ξ三 ιコ ^^ 占2' 区ニコ 3ら二 匠二1 、 ノ亡\ ,Z、、 口P 'じ'、 0 "、 鴉之 ・ラ宝 J1上'、 ,、 田 '【」'、 .、ヒ百
山蔭感夢覺
兢兢、去出山門、
ー、、十泊乎
,、當面遇童子。歳
(注6)其人也乎、猶豫未
童子領笑日、子
五口、 (注8)六月十八日、當
局 田矣 言 旦往麼所。相契
羽、 ︽注︾鶴識想是
決。而以夢事
須先去。我便
﹃熟妊關唯の﹁窈窕淑女、{叢求之。(以上索)求之不得'賢服﹂を踏まえたものであろう。 ] 全文は﹁大ル一身三十二、一身三十二 2 ﹁譜木鴉鳴無了時﹂は﹃江湖風月集﹄巻一に見える、四明大川普済和尚の﹁金剛大士相﹂の 上 重非。金剛正體是非外、鵲"跨鴫無了時﹂。﹃江胤月集略叢捨﹄では﹁三四句、若是觀音"、 W<身是亦不是'身計亦不是。識 鴉鴫叉是觀音正體也。此頌、頌親音正體、故且擧耳開二聲。一轟説、則一切諸法、頭頭物物、是觀音正體也﹂と記している。これ罷えぱ、 ﹁鵲のギャーギャー、鳥の力ーカーと叫く声も、全て觀音の現れ﹂ということになるが、ここでは、この詩句を踏まえて西罵か泣きや むことがないように、ずっとそのことを考えていた﹂ことを表現しているものとして訳出した。 3 ﹃法華経﹄普門品に﹁念念勿生疑。觀世音淨聖、於苦憎死厄、能爲作依恬﹂(念念に疑を住ずることなかれ。觀世音勤聖は、"高死厄にお いて、能く爲に依估と作れり)とある。﹁会巴は﹁一利那一利那ごとに﹂、﹁依怯﹂はあるものをたよりとすること、よりたのむこと。 4 長谷寺ヘ参籠するきっかけとなる説話としては、ほかに記されたものはない。﹁即不見之﹂というのも、先の憂を発した人が何かの化 . 1冶、女 山蔭夢覺一如なるを感じ、儒tて止まる無く、 百拜珍重す。戰戰兢兢として、去りて山門を出づれば、 はかりおよ 則ち當に童子に面遇す。歳二八計に泊び、 被髮弊衣、相見るに恰かも鶴識の如し。是れ其の 人なるかと想ふも、猶豫して未だ決せず。而して夢の事を以て語るに、 子 童子領き笑みて日く、﹁子須く先に去くべし。我便ち そ えら 六月十八日を涓びて'冨に厭の所に往くべし﹂と。相契りて 相雜れ、納言吉田に罰る。 き' 司支髮折慰無止
所プー 珍>重1。單戈單 0 Ⅱ 1t 、杓 、 0 "ゞ τコ 貝U ^J气゛ 0 矢疋 .^、 、 、 0身とするものと思われる。また、その日が二村初午の日であったとわざわざ記しているのには何らか豊味があろう。仮名縁起や﹃長欠呈寸 壁叢記﹄などでは、童子が山蔭の屋敷を訪れる日を、二月初午としている。一方、査称起ではその日を六月十八日とする。 5 ﹁儀相﹂は人の姿形、風采翌。寒山の﹁我見世問人﹂に璽舞儀相﹂とあるのはその一例。﹃五曾元一や璽刈僧傳﹄などにも見え る。また、﹁伽黎﹂は﹁伽梨﹂とも書き、袈裟のこと。 6 ﹁一登一如﹂は﹁夢も目覚めている時も同じで、共に変相である。﹂ n諜で、道元は﹁夢中と覚中と、おなじく真実なるべし﹂(﹃正法眼 蔵﹄﹁果ど)と言う。ここではそれを踏まえながら、夢で見たこと(後者)と、Π覚めている時に叢したこと璽色とが同一であるの 意味としているか。﹁珍重﹂は第三段器、会屈。 7 戰戰兢兢は﹃詩径、 小旻にょる。 ﹂1 8 ﹁涓﹂は左思の﹁魏於﹂に﹁量寸旬、涓吉日、陟中壇、即帝位。﹂とあり、太喜は二洞、擇也﹂と注する。 山一険京都の東にある吉田の私邸に直ちに帰り着くと、屋敷にいたものは皆躍り上がり、この上なく喜んだ。中納言はひそ かに思った、﹁この優れた、またとない坐匪木を、どうして凡庸な仏師に任せることができよう。なんとか優れた仏師を得犬 ものだ﹂{侵ても覚めてもそれを考え、頭から離れる時は無く、あたかも鵲や烏おき騒いで止む時がないようであった。ある 人がやってきて言った、﹁大和の長谷寺の観音大士は、この末世では比肩できるもののない観音墜、全ての功徳をそなえて、 感応は広大で際限がありません。それで、あなたはそれを頼りとなされませ。一瞬たりとも、疑ってはなりませぬ。﹂そう言 うと姿が見えなくなった。この日は、春二月初午の日であった。中納言は即座に心の底からそのお導きを信じ受け入れ、また 恭しく旅装を整えた。長谷寺に雫ると、ひたすら妙手の仏師を願い求めた。七日目の夜明け頃、帳の中で物音がし、仰ぎ見 ると、そこには姿形麗しく威厳があり、きちんと袈裟を纏う人物が居た。その声音はことにすぱらしく、臂を伸ばし山蔭の頭 頂に手を置き、諭して言った、﹁夜が明けたなら、速やかに帰り道を取りなさい。円を出て初めてあった人物こそが、伎倆優
れた仏師である。相貌や身分を問わず、ひたすら頼りとしなさい。一瞬たりとも、琴嵳生ずることがないように﹂と。山蔭 は夢でも覚めている時でも観音の架叺を堂けているのを感じ、喜び安心すること止まるところ無く、幾度も拝礼をして去るこ とにした。催れ冴っつ、長谷寺に別れを告げて山門を出ると、一人の童子に出合った。年の頃は十六歳ばかりで、ざんぱら 髪で破れ衣を着ていたが、顔を見るとまるで昔からの知り合いのような気分がした。この人であろうと思いながら、まだそう と決めることができず、夢のことを語ると、,重子はうなづき笑みを浮かべて﹁あなたは先に帰られるのがよろしいでしょう。 私は六月十八日を選んで、きっとそちらヘ参ります﹂と言った。そこで約束をして航れ、中竺口は吉田の私邸ヘと帰った。 <第六段>
尋丁期日、童子來也。
而擧家疑信沓半也。童子
而新
其疑團故、一日夜
小ノ旧山而"女像。其長五寸、
1 <注])凡工之所可企仰也。今世日
j之親音、是也。童子
工、 Π r 示 (庄3 (逹2)今子仰欲遂夙誓、別經一函丈
ル又小煽通天
室、以營宅之
東、但明。及日餉一餐、則足爲。期一千
奉童子、先爲破
一面 ド 1i ^ あ1弓1
看待鄭重。即取像木
0 尋いで期日に丁り、章子來たる。"口引接して、 看待すること鄭重なり。即ち像木を取りて,並子に奉るに、 あ 與忠謡信青い半ぱす。童子先に其の一箭を 破らんが爲の故に、一日夜にして十二血の小像を けず 新る。其の長け五寸、妙相ψ謬にして、敢て 凡工の企仰す可き所に非ざるなり。今世試みの 観音と日ふ、是なり。童子納言に告げて云ふ、 1 一 ま ﹁如今子夙誓を遂げんと仰欲せぱ、別に〒凶丈の 、、﹁ 室を經し、以て宅の東に營し、但だ小煽を設けて天明を 通すのみ。及び日餉一餐なれば則ち足れり。一千日を期して、 、 納 1ニニ「 '」ニ 「コ 、日、獨在此虫夫須造
ヒ果莫容他之看、云
0 工 内而如其言、經營丈室。既畢
董子
荏轉光
二后
明、太空 觀音也、 中答云、而入室
閉居
三只 0 貝 (注5)陰、已歴一千也。
﹂エ﹂ イ丙午五月望日。東方未
1 (注7︺聳聽乃云、長谷
坐來坐來。三
回道、則去
"、 (庄8︺言不祥行基哉。蹴破
仇糯向南
而去。仰目送之、牛本云
,.、注9)鎚、不看影迹。納三卵丈室膽之、
三尺閧士、五寸薩睡、歴歴堂堂、
,!ー 長 旦足妙相
且千日餐
0 選 、 ヨ かなら (柱1) ι1{ミ d"ず偏
矣也、千手大恋像
亦如所
獨り此の室に在り、須ず千手の大悲の像を造らん。 ゆる 果して他の看るを容す莫かれ、云云﹂と。納一憂く信じて、 其の言の如く、丈室を嫌響す。既に畢るや、 則ち童子も亦三墨所の如く、室に入りて閉居す。 U人ぜ人 荏蒋たる光陰、已に一千を歴たり。時に是れ仁 和二暦丙午五月望日なり。東方未だ明けざるに、 太空殷殷として音あり、{翁すれぱ乃ち云ふ、﹁長谷の 觀音や、坐すや、坐すや﹂と。三回道ヘば、則ち室中より いうれい 答ヘて云ふ、﹁言不祥なる行条な﹂と。柵儒を蹴り破り、 あいたい 南に向ひて去る。目を仰ぎて之を送れぱ、業義瓢として、 み {ナ 中張を看ず。納言丈六立加りて之を膽るに、 三尺の開士と、五寸の薩趣と、歴歴堂堂として、 妙相を見す。且つ千日の餐饌未だ嘗て欠閥せず。 方丈の室内に、二尊分座するも、陬艦なるを視ず。 蓋し是れ大士即ち董子の身を現じて、二尊像を造り、 有勢衆生を得度するを爲せり。夫れ威神の力、 な,ん 巍巍たること是くの如し、胡ぞ罪荒を爲さんや。坤之力
尊像、而
艦。蓋是
閥。方丈
室内、二尊分座、不視
(注Ⅱ)大士即現童子身、造
爲得度有縁衆生。夫
ノイ 巍巍如
0胡爲遲疑
、 一ヒ 日 B凡谷 Bル 阪欠 目 ンE 0 r-ーー 二立. 臼 0 0 下f 丑久 工ヨ匡
﹁企仰﹂はヲま先だって仰ぎ見る﹂ことから引申して、﹁仰ぎ慕う一の意味になる。﹃壁旦宣霜に﹁朕企仰前聖、思妥ヤ正道多違、 1 溌風靡父﹂とあるのはその例。 2 ﹁仰﹂には﹁おぼす、のぞむ﹂の古訓(季鏡色があるのを踏まえ、﹁禦﹂で﹁欲す﹂豊味の一語として袈した。あるいは﹁渇仰﹂ 伯]カ、。 3 、﹁函丈﹂は﹁方丈﹂に同じ。﹃系會元﹄や﹃零径燈録﹄などに﹁趨函丈﹂とあるのかその例。箱のように四角い剤尿、一辺一丈であ ることミ課し、多くは住職の居室を指す。 4 須は、ここでは﹁:::しなけれぱならない、・・・・・・か必要だ﹂の意味ではなく、も、つ小ノし幌く﹁必ず﹂くらいの意昧。あえて夏乢しなかっ た。一力﹁果﹂を副詞的に用いた災口、適切な昂例がない。近いものとしては﹃列子﹄説符篇の﹁馬至果火下之馬也﹂などの、﹁本当に﹂ と訳すのを挙げることができよう。文脈上からは﹁一馨﹂と"ついて、﹁決して許すな﹂とせざるを得ない。﹃長谷京叢記﹄の﹁努々佛 前を見る亊勿れ﹂の﹁努々﹂に相当する。 5 ﹁荏再﹂﹁光陰﹂は﹁光陰荏再﹂の使用例が多い。﹁時は過ぎゆき﹂の恵。 6 ﹁殷殷﹂は雷の音や車馬尋きの形{谷に使われる。ここでは﹁砥くように﹂とした。 7 ﹁聳聽﹂蛙鞭の﹁上知府王.闘雪﹂に﹁傾蔓叢﹂とあるように、﹁江恵して聞く﹂﹁恭しく朋く一の意味。また﹁坐來﹂の来は助字で、 動作の磐机している様子を示す。 よ 8 日沖氏は﹁よく話す行基だなあぁ﹂の惹とするが、﹁不祥﹂にはそのような意味はない。﹁不祥、一は﹁祥からず﹂で﹁縁起盆゛﹂﹁めで たくない﹂﹁悪い﹂の意。﹃蓉寺霊糖﹄などで﹁さがなき﹂とするのも祠意。﹃續京談﹄では﹁くちにくき文殊かな﹂とある。 9 ﹁膨延は、足跡、痕跡の意味であるが、ここでは姿と訳しておいた。 W ﹁開士﹂は門構えの中が并のようにも見えるが、﹁開士﹂でなければ意味が通らない。三尺の開士は千手観音であり、五寸の霊は、先に造った﹁試みの観音﹂を指す。同じご暴゛繰り返すのを避けて、このように表現したもの。 ﹁即現﹂は﹃法森﹄普鬻で、観京三十三冴化身に変化するところなどに、多出する。﹁即ち やがて約束した日になると、童子はやって来た。中竺国は彼に面会すると、鄭重にもてなした。すぐに像木を取り出して童 子に送ったが、彼の家ものたちは、信用するものと疑うものとがあい半ばした。そこで童子は先にその印籍を解くために、一 昼夜で十一面観音の小像を削り出した。その身長は五寸で、その為鋪正で厳めしく、凡庸な仏師の仰ぎ慕うことのできる 程度ではなかった。現在、﹁試みの観音﹂と呼ばれているのがそれである。・董子は中納言に告げて言った。﹁いま、あなたが早 くからの誓いを遂げたいとお思いならぱ、別に居宅の東に一丈四方の部屋を建てて下さい。そこには外の明かりを通すための 小さな空ミ醜けるだけにして下さい。それと毎日の食事は一度だけで十分です。一千日を期限として、一人この部屋におり、 千手観音像を造ることに致しましょう。その問必ずや他の人がその中を覗くことがないようにして下さい、云々﹂と。中納言 は彼を深く信用し、そ四呈通りに、一丈四方の部屋を建てた。造営が終わると、童子もまたその呈通り、部屋に入って閉 じ籠もった。ゆったり時間が過ぎゆき、一千日を経過した。時は仁和二年丙午五月十五日である。東の空がまだ明け切らぬ時、 大空に大音声が洪た。よくよく聞いてみると﹁長谷の観音よ、まだ居るのか、まだ居るのか﹂との声であった。一モ度そう言 れメ 1 うと、室内から答えて、﹁口の悪い行基めが﹂と言うと、窓の糯子を蹴り破って、南に向かって去っていった。上を仰いでそ れを見送ろうとしたが、紫嬰が盛んに棚引き、その姿が見えなかった。中納言が方丈の小屋に入って中を見回すと、新たに 造られた三尺の観音と先に造った五寸の観音とが、くつきりと厳めしく、尊きお姿の全てを備えていた。更に千日間の食事も、 どれも(箸を付け寝子もなく)欠けていなかった。一丈四方の椴には、二尊像がそれぞ設座していたが、狭い感じはし なかった。思うに、長谷の観喜栗童子の姿になられて、二尊像をお造りになり、縁ある衆生を得度させようとなされたも のである。それ、その気高きお力は、このように高大なものである。どうして何時までもそのお力を疑うことをしようぞ。 を現じて﹂と読んでおいた。 Ⅱ
<第七段>
更想、要好
目 Ⅱ生月而草
丈.識一、以 爲厭跡、尚足乎。乃命工、
、、 E ︹注])這二尊於攝津之
舍、蚤須安置。然
如今洛東
尊、是也。 一一.Ⅱ四年
蔭歳六十
七女、壹是
鳥 寛、 函皆孝悌中
三月四日、
( 1主4)五而率矣。
日成之。寺之本
不待人。 更に想ふ、﹁好き這の二尊を攝津の境に要ヘて、 うと 精舍を草創し、蚤に須らく安置すべし。然らば則ち ι﹂ 1 函丈の事冥以て空しき問と爲るも、妙相を模嘉して、厭の跡を賑 さば、尚ほ足れり﹂と。乃ち工に命ずるに、日ならずして之を成す。 如今の洛東吉田の新長谷寺の本尊、 し吻くこ 0 鳴叫Ξ、ウモ陰1美勿^にして、人をサ下﹂,た,'。 仁和四年二月四日、中納言山蔭、 歳六十五にして卒す。遺體は七男 七女、壹に是れ皆孝悌忠信にして、誠愼を盡くす。 終に以て其の一鴛を嶋下の境に葬り、落成の しし 寶坊続きて、朝たに発し夕ベに唄ひ、女靈として 冥福を修すること、猶ほ私かに須達長者 布金の營みに擬せんと念ふ。士讐晶めり。寛平二 稔二月四日、正に"変の三回忌に當たり、 前七日より諄日に至るまで、齊戒汰浴し、誠情 他日に倍せり。乃ち斯の時に方り、昭明 義局懐恰と爲り、明星焚焚として、此垂璽謁たり。布金之營也。志妥邑哉。寛平二
二月四日、正當慈父之三回
而 汰浴、成忌、前七日至諒日、齊戒
、 中 (注5) 叫工H坊、而朝発夕唄
こ 一岩Ⅲ之境、就
達長者
問、模{易妙相、賑 ,、 亥方{血鳥、情倍於他日
棲喰明
焚焚
修冥福、猶私<↓落成之寶
以三三二 "司 、注 ,、 イ主 凪廸 七 「コ 男山 0 乃 其li 畔 "、 、゛注 1刀 明 ,、 」しヒ 二1^ '{:」、 "、 ノ^ 、 ^^^ コ1Ⅱ. ^^^ 、、 0 、 0 納 師区 JIL、 徐 1頁荏 ワ、ニ ニ]ニ 、 ".、 孳于終呼'
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長 イ彦径 勿)欠(注8︺
栃碧落有音郷、這
行遊戲之天、菩薩應
地。祗園精舍之古、與
之今、異域同縁之
陛下。叡感、宜屈吉田脊孫正雅、而掌伽
藍營造之宏規。乃補別當職、而
Ξ考長村テ (注撃寶祈長久。兼監大法會、爲國家安
詮、永勿有缺違也。 (庄Ⅱ) 日^ i11 何徑 若也、云 奨翫として碧落に音の祥く有り、﹁這は是れ諸佛經 行遊戲の天、一寵應化利生の地、 祇園精舍の古ヘと、補陀落山 あら人にゃ の今と、異域同傍阿蘭若なり﹂と云爾。 β" 實を傳ヘ、以て ー﹄己回 陛下に達す。 一條帝院、恭しく まイ 綬キ動かされ、宜るに吉田高孫正雅を屈し、伽藍 營造の宏規を掌どらしむ。乃ち別當の職に補して、 寺こ 寳祚の長久を奉祈し、兼ねて大法會を監し、國家安詮の爲に、 ー:は 永に缺違有る勿からしむ。 ︽注︾ 要を﹃鷲涯胤風・桑中の﹁期我乎桑中、要我乎上宮、送我乎洪之上矣﹂を参老に﹁むかへて﹂と読んだ。ただ、この﹁迎える﹂は﹁待 1 ち受ける﹂の意味が強く、ここでの文脈にそぐわない気も残る。俟後考。 2 ﹁不日成之﹂は﹃詩経﹄大雅無お一句。鄭玄は﹁不設期H而成之﹂と注し、朱子は﹁不日、不終口、亟急也﹂と注している。ここでは 鄭玄縄の方がぴったりする。 3 ﹁修忽﹂は﹁俊﹂終りと思われる。修は脩と通じ、﹁ながい﹂の意味はあるが、﹁脩忽・修忽﹂の用例はない。班固﹁幽通賦﹂の﹁辰條帝院
爾。都都傳 以i これ 可 t.d補荏化
陀利 落生 山之 、 動〕 0 fι 妾乙候忽其不丙﹂や陶淵明﹁雜詩﹂の﹁歳月不待人﹂などを踏まえたか。 4 畢﹂は﹁卒﹂の誤りと思われる。率にもソツ四首があるた壁¥と通用する災口があるか、動詞の場△口、シユツの音が正しい。なお、 際は従三位であるから、日木では露﹂とするのが通例。 5 遺體は、司%﹄祭義に﹁身也者、父母之遺體也﹂とあるように、子供たちの体を指して父母の楳といった。さらには祭生んだ子を 指すようにもなる。ここでは山蔭の遺児たちを指す。 6 須述長者が祇園梨Uを建立したことは涼樂姪などにも見えるが、そこでは﹁布金﹂の語は使われていない。恐らくは一法苑珠林﹄な どにょったものであろう。 7 司糖﹄祭義の﹁杜谷街于上、爲昭界鎚俣愉、此百物之精也、神之茗也。﹂にょる。黒を同音の熱に弓たのか、そのような表記のも ﹁其の氣は上に發揚して昭明と爲る。 のが存在したのかは不明。鄭玄注は﹁上言釜、此一吾物。明其典人同也、不如人貴爾﹂とし、一 1ι 尋桜愉たるは、此れ百物の紡なり、御の著るるなり﹂と読まれている。一方、朱子は﹁如鬼御之欝光底正昭明、其築烝上處導刈、使人精 神棟答疋懐愉﹂と言う。そこではΞ者は並列関係にあり、縁起はそちらの觧釈にしたがったように思われる。なお、黒は愈に同じ。 8 珀磊は、例えぱ、﹁長恨歌﹂に﹁上窮珀需下黄呈兩處荘だ皆不同凸とあるように、青空を指す。唐の頃より多く見られる。 9 補陀落山は総持寺の山号。県袮は共に修行するものを指すか、ここでは阿蘭若との関係で修行することとした。また阿蘭若は修行する場 所の土傑で、一揚と訳出しておいた。 ﹁恭動叡整の恭は﹁うやうやしく﹂の愆味になるが、﹁叡感を動かす﹂とは合わない。あるいは﹁夫小﹂の闇述いか。脚肌は﹁恭﹂のまま 0 にしたが、器﹁夫小﹂で考えた。 ﹁宜﹂は﹃申ご奪苔上に﹁受命文考、類チ上帝、宜于家士﹂とあり、孔安国伝は﹁祭社日宜。家士、社也﹂と注している。また司寵﹄ ] 、而には﹁火子將出、類乎上帝、宜乎社、造乎禰﹂と見える。全て祭りの名である。 屈は、璽女一﹁天長皇帝於大極殿屈百祭々願文﹂とあるように、﹁召す、招く﹂又味。また、﹃木朝文粹﹄には、大江以言の﹁淨妙寺
塔供養祝願文﹂に︹作一、心禮、眠百口僧﹂とあり、大江匡衡の、﹁爲左大臣供養淨妙寺願文﹂に﹁嘱百餘口賢聖衆、以香花発唄、洪鐘浮瞥 鴛轟幡、名衣上服、七珍百味、供珍、演説之。﹂とある。この嘱もともに﹁召す、招く﹂四諌で使われている。 寶祈長久は寶祚長久の誤りと思われる。﹁泰祈寶祈﹂では愆味をなさない。また、國家安詮は國家安全の意か。 さらに山蔭は﹁このよき二尊像を摂津の地に迎え、梨悶を建立して、早く安置しなけれぱならない。しかし、そうなるとあ の方丈の讐口は、何もない空問となってしまうので、二尊像のお姿を模写して、その後に施せぱ、それでょかろう﹂と考えた。 そこで刻師に命ずると、ほどなく完成した。今の洛東の吉田昇長谷寺の謡茅これである。ああ、時間は忽ちのうちに過ぎ、 を待たない。仁和四年、ハハハ\ノニ月四日、中納言山蔭卿は、享年六十五で身罷った。残されたお子たちは七男七女、そろっ 比白、孝悌忠信一、親孝行で年長者を敬い、真心のある、ノな人柄で、山蔭卿に誠と慎みを尽くした。ついには父の亡骸を嶋下の 土地に埋一葬し、落成した宝坊で、日夜経文を唱え、倦むことなく来世の幸福を願おうと、ひそかに須達長者が金を敷き詰めて、 釈尊のために梨口を建てた塑みに倣い、亡き父山一倫の焚舌を建てょうとした一韻を果たした。何とその志操の堅固で豊かな ことかt覧平二年(八九0)二月四日は、ちょう怠父山倫の三回忌に当たり、その七日前から忌日の当日に至るまでの問、 斎戒汰浴し、他の日以上会心を尽くした。そこでその時になると、禦亜光明として、その気が立ち上り、人々を棟然とさせ るかのようであった。また明星は光り麺き、紫の雲が長くたなびいていた。ぼんやりと空から郷く声がして、﹁ここは仏たち が行き交い自在に振る獅う天であり'章祭衆生済度のために姿を変え人々を救う地であって、かの昔の祇園精舍と、今の補 陀落山(葬寺)とは、士地を異にするものの、共に修行にいそしむ道場である﹂と言う。都の者も田舎の者もその話を伝え、 ついには陛下のお耳に入った。一條帝院は、夫小なくも御心を動かされ、嶋将寺を御願寺とし法要を行うに当たり、その子孫で ある吉田正雅を召して、伽一捲営という大きなはかりごとミーらしめた。そこ需持寺別當の職に任じ、暫皇室の長久を 祈念させ、併せて大法會を監督して、興永{壽一の爲に、永久に欠けたり問述ったりしないようにさせた。 松
<第八段>
正雅欽奉
<叩、改作荏貸。造立七堂之発宮
刀口既富矣。觀音妙智力、既是教之
(注5)明君之明治、既又
Πーリヲミ旦事事、皆得之。凡有心者、是誰敢
(逹6︺不崇尊乎哉。至祝至扣拜乎。
莫日、貴賤
ヨ市衣"丁
ああ 於戲、今三代の瑞木、繼衣の中に在り。正雅敘んで
詔命を奉じて、菖貫を改作す。七堂の発宮を造立し、 り人か人 棟に晝き梁に彫る。輪失鴫三美を盡せり。 八講の修法を設爲し、晨に鍾し暮に鼓す。 ああ おも 禮樂、憾气善を盡せり。熟ら惟ふに、声房の これ 高徳諸を大樹'[ふれば、則ち夫の子葉を生じ、 おほ 夫の孫枝を榮えしめ、人のt様と爲るや、既に庶く、又 既に富めり。觀音結日の力、既に是れ之に 明沼の明治を教ヘ、既に又斯くの如く美具はり、并せ難き 事事も、皆之を得たり。凡そ有心者、是れ誰か敢ヘて 崇尊せざらんや。至祝至扣して拜するかな。 嘆じて日く貴賤の歸依六焚州に二無かるべく
男女の巡禮三十三所の隨一なり ハラ、晝棟彫梁。輪契、鳴乎 (注7) し{ 居諸 善也 ^ー^、 別當民部卿償朝臣 別當民部卿藤原朝臣 1i 長旦 ,・唯 '一二晨鍾暮鼓
元号計男女巡禮
气と此亙所之隨
房之 禮樂、暗堂曙在繼衣之中
諸大樹、則生夫子
爲八講之修法分
、 旧J 十拾 夫高 孑系イ走 、 枝"、 旦宅 」1、' 人 1巨、 、 1尿 也 、 既径 川 チ 0 、 、、 n 、 "、 オ' 上ロコ. "、 、 "、 ヨ壬 」1]」. ーー注 1 rコ ノ\ 「コ 、、 ノ\ 0 0 0 、 ノ七\ 一1 "、 又榮︽注︾ ﹁三代禮樂﹂の二代蛙於周を指す。﹃長︽呈茶験記﹄の﹁凡そ彼の寺は三代合力の佃巴の三代とは異なる。また、旧貫は旧峨、これま ] でのしきたり。ヌ器﹄先進に﹁紳人爲長府。関子審日、仍派貝、如之何。何必改作﹂とある。 2 輪奥は再ル﹄檀弓下の﹁.晉獻文子成室、晉大夫跳篶。張老日、美哉悔叉美哉奥爲。﹂から出た語玉造物の雄大で華やかなさまを言う。 ﹃本朝文梓﹄などにも見える。また、﹁批美矢﹂﹁繋械﹂は緊器﹄八价の﹁子如W 盡去大、又鞭極﹂に基づく。 3 ﹁枝ぎで子孫を指すが、それを分けて子栞孫枝といったものと思われる。﹁孫芭は中国の古典にも見られるが、﹁子墜はない。子 孫の多く栄えているさまを言う。﹃工口妻鏡﹄治承五年(一一八こ正打大廿.一日の條には﹁凡そ此の兩三年、彼の禪門及び子一牒枝敗北す 可き之由、郡都貴賤之問、比号想を装る。﹂と見える。蔭涼は﹁こかげ﹂。一般的には﹁陰涼﹂京凹くが、山蔭との関係で蔭を用いたか。 4 ﹁既庶矣又既告邑はヌ匙子路の﹁子適術禹有僕。子日、庶厶鴛。冉有日、嘔坐。又何加鳶。凹、富之。日、既富矣又何加鳶。 日、教之。﹂に努く。 5 ﹁明君之明治﹂は具体的に腎どのような行為を指すのか不明。ただ、﹁明君﹂はふつう天子を指すことから、一条帝の器懲宅指すも のと思われる。また庶・富・教は前引の﹃璽器にょる。 6 ﹁至祝﹂﹁至扣﹂ともに、僧侶が手紙などの最後に添えて熱思を表工叩。それぞれ繰り返して使われることが多い。 7 ﹁居諸﹂は、﹃鷲狂柏舟及び日月に見られる﹁日居1﹂から﹁打日﹂﹁光陰﹂を表す。本来なら浄書時に年月Hを入れるところに、﹁月 日﹂を表す﹁需﹂を記していたものが、そのま玉かれたものであろう。 ああ、かの夏殷周三代の礼楽は、いまや崇めの衣の中(寺院)にこそ存在している。正雅は謹んで一条帝の仰せをうけた 吉田通雅 一識て識す。 吉田通雅 菫俄
まわり、古き様式を改めた。七堂の伽藍を建立し、棟には模様を描き、梁には彫刻を施している。見事なる建物、ああ、美 を尽せり。法華八講の会式を設け、あしたには鐘を夕ベには太鼓を打つ。その礼楽、ああ、善を尽くせり。つらつら思うに、 高房の高徳は、これを大樹に讐えるならぱ、その子葉を生じ、その孫枝を栄えさせ(子孫は繁栄し)、人(を休息させる)の 日蔭となると、そこには夕夕くの人が集い、また豊かになった。観音のありがたきお力は、名君の優れた政治を教え、また既に このように美を備え、なかなか一緒にはし難い事々も、全てそれを得ている。全ての衆生、誰が尊崇しないでいられようか。 終わりに当たり深く拝す。 歎美して言う。 青ぎも賤しきも帰依することこの国に並ぶ無く、 男も女も巡礼すること西国三十Ξ箇所随一たり。 某月某日 総持寺別當民部卿藤岬朝臣