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河内と東北 ー坂上田村麻呂の影ー

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河内と東北

坂上田村麻呂の影

 

   

一、はじめに 畿内に大和朝廷が成立し、三 関 1 に象徴される﹁東・北への敵対﹂の姿勢を中央権力が露わにする前後から、日本列島の先住民たちは、さら に東へ北へと追いやられ、駆逐されていった。平城京から藤原京を経て平安京に権力の中心が移されるにつれて、そのような敵対姿勢は目に 見えて強化されてゆ く 2 。 朝鮮半島での唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いを経て、天智天皇六年︵六六七︶に築かれた 金 田 ︵対馬︶ ・屋島︵讃岐︶ ・ 高 安 ︵大和︶ 一、はじめに 二、平野のこと 三、 ﹁杜山﹂と﹁椙山﹂ 四、悪路王の末路 五、田村麻呂の影 六、おわりに 一

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の 三 城 と い う、 ﹁ 西 ﹂ に 対 す る 防 御 態 勢 に 加 え、 壬 申 の 乱 を 契 機 に 天 武 天 皇 元 年︵ 六 七 二 ︶ な い し 二 年︵ 六 七 三 ︶ に 設 置 さ れ た の が 三 関 で あ るとされている。 ただし、 高 安城 が大宝元年︵七〇一︶に廃された︵ ﹃続日本紀﹄ 。他の二城は記載されないが、同時期の廃城と思われる︶のに対して、桓武 天 皇 が 三 関 を 廃 し た の は 延 暦 八 年︵ 七 八 九 ︶ で あ り、 前 者 が 烽 火 台 と し て の 機 能 の み を 存 続 さ せ た の に 対 し て、 後 者 は し ば し ば 固 関 さ れ、 七 八 九 年 以 降 も 実 質 的 な 機 能 を 儀 式 化 さ せ つ つ も 長 く 天 保 年 間︵ 一 八 三 〇 年 代 ︶ ま で 存 続 さ せ た と い う 3 。 そ れ は、 ﹁ 東・ 北 ﹂ の 蝦 夷 討 伐 を 旨 とする﹁征夷大将軍︵将軍︶ ﹂職が、形骸化しつつも近世末期︵一八六〇年代︶まで存続したことと対応している。 ﹁ 東 ﹂ へ の 守 り に 強 い 平 城 京 や 藤 原 京、 あ る い は 難 波 宮 な ど の 地 を 捨 て て、 平 安 京 と い う 地 を 選 ん だ こ と に は さ ま ざ ま な 背 景 が あ っ て 一 概 に は 言 え な い が︵ そ の 地 を 選 ん だ こ と に よ る メ リ ッ ト が、 八 世 紀 末 の 朝 廷 に と っ て 大 き か っ た こ と は 理 解 で き る の で あ る が ︶、 三 関 に 象 徴 さ れる障壁を廃止して、なお防御を固め続ける大きなリスクをあえて選んで京都盆地に都を移した中央政権が、その後も時代を通じて﹁東﹂や ﹁北﹂に警戒と敵愾心を向け続けることによって、結果的に日本列島の歴史地図は大きく更新され た 4 。 そのような ﹁関﹂ の思想は、 彼らが ﹁敵﹂ と思 い 定 め た 者 た ち を 追 い つ め て ゆ く 先 々 に 顕 現 し、 九世紀初頭には、 白河 ・ 鼠 ・ 勿 来 の陸奥 ︵奥州︶ 三関という形をとって、 ﹁関﹂ による境界を北へと推し進めてゆく。 もちろんそこには、 共通の ﹁敵﹂ を定めることによる内政の引き締めという、 古今東西数千年にわたって共通する政治戦略が込められていたことも間違いあるまい。 本稿では、そのような新体制のなかで河内という地域がどのように位置づけられ、この地域独特の地域性の形成にどれほどの影響をもたら したのかを、東北との関わりを中心に考察して行きたい。 二、 のこと 平野︵大阪市平野区︶は、大阪市の中でも異質な地域として知られてき た 5 。狭山池横木川︵東除川︶と狭山池西横木川︵西除川︶とに挟ま れた河内と呼ぶべき地にあり、河川によって難波とも河内の全体ともつながる好立地を占め、一方で港湾を擁する住吉とも陸路によって結ば れていた。そのため、はやくからその周辺には渡来人たちが住み、さまざまな先進的文化を伝えた︵ 参照。中央やや左下が平野︶ 。 二二

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室町時代には、自由都市堺に匹敵、ときに凌駕するほどの環濠都市として町衆による自治が発達し、江戸時代にかけて貿易業に支えられる 商業によって殷賑を極めた。それも、一時は堺をしのぐ取引高を誇るほどの、貿易商人たちの拠点だったのであ る 6 。そして、その頃まで、こ こは住吉津と深く関わる﹁摂津 平 野 ﹂であった。そこに河内の一角を加えたのが現在の平野区である。昭和四十九年︵一九七四︶に至って東 住吉区から分かれた若い 区 7 で、大阪市の東南端にありながら人口規模は二十四区の中で最大であるのも、面積が三位という広さもさることな がら、時代を通じたこの地域の地域的ポテンシャルの高さを示している︵ 参照︶ 。 図 1   大阪平野古地図(摂河両国水 図 8 )大阪府提供 図 2   大阪市都市整備局   土地区画整理事業等の換地確定 図 9 三 三

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このように近代に至って河内︵中河内郡︶の一部を取り込んで拡大したが、現在もなお、区の中心部一帯をそのまま﹁博物館﹂にしてしま うという構想など、特色ある地域として知られ、大阪弁で﹁平野︵ひ の︶ ﹂と、 ﹁ら﹂にアクセントを置いて呼ばれる時には、独特の色合い を帯びて発音される。そのことに象徴されているかのように、ここはかねてより﹁少し変わった﹂地域だった。 そもそも﹁平野﹂という地名は、征夷大将軍・坂上田村麻呂の嫡男である広野麻呂が朝廷から土地を賜り、この地に住んだことに由来する という。 ﹁広野﹂が﹁平野﹂に 訛 ったという説明は、 ﹁なにわ﹂が﹁魚︵な︶ ﹂の﹁庭﹂であると説くのと同様、いかにも大阪らしい。 ﹃日本後 記 10 ﹄によれば、 坂上広野は天長五年 ︵八二八︶ に没しているが、 大念仏宗 ︵現在は融通念仏宗︶ の大本山である大念仏寺の ﹃大念仏記﹄ には、平安時代末期に当たる大治二年︵一一二七︶に開祖である聖応大師良忍が霊夢を得て広野︵坂上氏ということであろう︶の私邸内に建 て た 修 楽 寺 が そ の 元 に な っ て い る と も、 修 楽 寺 の 別 院 と も い う。 そ の 十 年 前 の 永 久 五 年︵ 一 一 一 七 ︶、 良 忍 は 阿 弥 陀 如 来 か ら 偈 文 を 授 か り、 開宗に至った。ここが日本最初の念仏道場であり、開発領主としての坂上一族が摂津国住吉郡に拓いた平野庄︵平野殿︶は、融通念仏の道場 が契機となって発展した地域であることに間違いはない。 天台僧の良忍が、どのようないきさつで鳥羽上皇の勅願を得て、この地に融通念仏の道場を開いたのかは不明の部分も残る が 11 、第六世の良 鎮︵寿永元=一一八二年没︶までの半世紀余りは、順調に宗勢を拡大したようである。しかし、その後ふるわなくなり、平安時代の終わりを 迎える。おそらくそれは、平安末の混乱期に当たって、荘園としての平野が経済的に﹁回らない﹂状態になったことに由来したであろう。 そして、鎌倉時代もあと十年余りで終わろうという元亨元年︵一三二一︶に至り、第七世を継いだ法明が大念仏宗を再興する。後発の浄土 宗や浄土真宗など念仏系の浄土教が、鎌倉新仏教の中でも特に急速に宗勢を拡大した時期であり、それらの動きに助けられたところもあった のだろう。 はたして﹁平野﹂が広野麻呂の﹁広野﹂から来ているのか否か、そのことは今は問わない。ここでは、現在は大阪市の一部に含まれている 広野麻呂の拝領地が、本来は河内の一角を含んだことを改めて確認しておきたい。その上で、なぜこの地域が﹁河内﹂であったのかと問いか けたい。すなわち拝領地が、都の置かれて間もない平安︵京都︶周辺の地ではなく、なぜ河内、それも都とは正反対の方角であったかという ことである。そこが現在の大阪市でいえば東南のはずれ、かつての中河内の西南のはずれであり、摂津・和泉・河内の三国が寄り合わさった ﹁国境﹂の地であることを付け加えておく。すなわち、そこは、どこから見ても辺境であった。 そして、そのような河内の一角が広野麻呂の父親である田村麻呂、その後、断続的に幕末まで続く将軍︵征夷大将軍︶職の名を日本で最初 四

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に与えられた人物と深く関わるということを、ここでは改めて確認しておきたい。 広 野 麻 呂 に 河 内 の 一 角 が 与 え ら れ る 要 因 と な っ た 父・ 田 村 麻 呂 の﹁ 功 績 ﹂ の 帰 趨 に 関 し て、 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ 延 暦 二 十 一 年︵ 八 〇 二 年 ︶ よ り 抜 粋すれば、以下の通りであ る 12 。 ﹁夷大墓公阿弖利為、盤具公母禮等、種類五百餘人を率いて 降 る﹂ ︵四月十五日条︶ ﹁造陸奥国胆沢城使・坂上田村麿来たる。夷大墓公二人並びて従う﹂ ︵七月十日条︶ ﹁ 夷 大 墓 公 阿 弖 利 為・ 盤 具 公 母 禮 等 を 斬 る。 此 の 二 虜 は 並 に 奥 地 の 賊 首 な り。 二 虜 を 斬 る 時、 将 軍 等 申 し て 云 ふ。 此 の 度 は 願 ひ に 任 せ て 返 し 入 れ、 其 の 賊 類 を 招 か ん と。 而 る に 公 卿 執 論 じ て 云 ふ。 野 生 獣 心、 反 覆 定 ま り な し。 ︵ 中 略 ︶ 奥 地 に 放 還 す る は、 い ふ と こ ろ の 虎 を養い患を遺すなり。即ち 両虜を捉へ河内国椙山に斬る。 ﹂︵八月十三日条︶ 四月十五日、アテルイやモレたちは、総員五百名以上を率いて降伏した。すでにこの年、造陸奥国胆沢城使に任命されて討伐に赴いた田村 麻呂は、七月十日、完成した胆沢城でアテルイやモレに面会したと読み取れる。降伏以来約三か月。アテルイたちは、その間、東北のどこか に 拘 留 さ れ て い た と い う の で あ ろ う か。 胆 沢 城 の 築 城 ま で 東 北 経 営 の 拠 点 は 多 賀 城 で あ っ た が︵ 多 賀 城 碑 に よ れ ば 七 二 四 年 に 築 城 ︶、 面 会 の ために多賀城︵宮城県多賀城市︶から胆沢城︵岩手県奥州市︶までを移送したとは思えず、新たな東北経営の拠点となる胆沢城が完成するま で、その近くに留め置かれたものと考えられる。 八月十三日条によれば、田村麻呂ら︵おそらく遠征軍の面々であろう︶は、連れ帰ったアテルイとモレの二人を故郷に帰して賊軍のおとり にしたいという提案をおこなった。 ところが、 公・卿・執らは否定したのだという。 すなわち、 桓武天皇をはじめとする平安京の官僚たちは、 処刑を主張した。野生の獣︵にも似た未開人︶の心は変転極まりない。いくら現在は忠誠を誓っていようとも、再び未開の地に放てば、いわ ゆる﹁虎を放逐して災いを 遺 す﹂ことになる。そして、アテルイとモレの両名は処刑された。 田村麻呂にとってみれば、本心では放逐は許されないと知っていたのだとしても、解放を期待させて遥々畿内まで連れ帰った捕虜である。 アテルイとモレも、そのまま再び帰還できるとは思っていなかったに違いない。しかし、それでもいったん放逐を主張したことは、逆に彼ら の命を弄んだことになる。仮に田村麻呂にその意識がなかったとしても、結果的にそうなった。したがって、田村麻呂の﹁ 言 の 咎 ﹂ 13 によって 五

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生命を弄ばれたアテルイやモレが怨霊となったとしても不思議はなく、時代背景から考えても、むしろそうであるほうが自然であった。にも かかわらず、彼らの処刑には、そのような噂や伝承が不思議なほどに付随してこない。それは、彼らが化外の者であり、怨霊化の資格から外 れていたということが最も大きな理由であろ う 14 。しかし、処刑には魂魄を鎮めるための地が選ばれたのに違いあるまい。 遷都したばかりの平安京、またはその近辺ではなく、河内が選ばれたのも、第一にそのような理由によってであろう。また、そのような力 学がはたらいていたのであれば、 できるだけ辺地が選ばれたことにも納得が行く。ちなみに、 ﹃日本紀略﹄ の記述からは、 ﹁両虜を捉へ﹂ て﹁斬﹂ っ たのが田村麻呂であったのかどうかは明確ではない。 七月十日の胆沢城での会見から数日以内に出立したとしても、平安京までは約八三〇キロメートル︵当時の単位で約一五五〇里︶の行程で ある。いくら四月十五日にすでに五百人もの人数が投降していたとしても、護送の道中、アテルイとモレの奪還を図る勢力への警戒は怠るこ と が で き な か っ た は ず で あ る。 よ っ て、 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ の 記 述 に も と づ く な ら ば、 八 月 十 三 日 の 斬 首 は 処 断 が 決 ま っ て か ら 極 め て 迅 速 に 執 行 さ れたと考えられる。そして、助命請願の記録だけが残った。 八月十三日条に見る関連記事末尾の ﹁河内国椙山﹂ は、 ﹁杜山﹂ とも ﹁植山﹂ とも記し、 一定しな い 15 。私見では、 次節のように ﹁杜山﹂ を採る。 その理由も含め以下に論じて行きたい。 三、 も り や ま 」と「 す ぎ や ま 延 暦 二 十 一 年︵ 八 〇 二 ︶ 旧 暦 八 月 十 三 日︵ 新 暦 九 月 十 三 日 ︶、 ア テ ル イ と モ レ の 両 名 は 処 刑 さ れ た。 こ の こ と に 関 し て、 坂 上 一 族 と 河 内 と のかかわりとして見過ごせない一事がある。赤坂憲雄氏は、 ﹃東北学/忘れられた東 北 16 ﹄の 5 章﹁大同二年に、 窟の奥で悪路王は死んだ﹂に、 次のように記している。 ﹁悪路王とは誰か。 ﹃日本紀略﹄によれば延暦二一︵八〇二︶年、征夷大将軍として胆沢城を築いた田村麻呂のもとに、 夷 大墓公阿弖 利 為 と 盤 具 公 母 礼 が五百人をひきいて降ったが、田村麻呂の嘆願にもかかわらず、河内国杜山に斬られた、という。このアテルイが悪路王 六

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に重ね合わされた可能性はある。 ﹂︵九五 頁 17 ︶ 東北の地に盤踞して、平安朝廷に反乱を起こしたという 悪 路 王 がアテルイであったというのは、その通りであろう。しかし私には、この逸 話に触れて、あるひっかかりが生ずる。赤坂氏は﹁アテルイとモレは捕囚として都に連れてゆかれ、処刑された﹂と端的に述べているが、そ うではない。 ﹁河内国﹂で処刑されたのだ。 のちに鎮守府が置かれることになる 胆 沢 城 ︵岩手県江刺郡︶ 、 もしくはアテルイたちの居窟と伝わる 達 谷 ︵岩手県西磐井郡平泉町︶ から都 ︵京 都︶までは、本州の半分もの距離を移動するという、まさに列島縦断の大移動であ る 18 。東北に拠点を置いて﹃東北学﹄を書いた赤坂氏の視座 からは、都︵山城︶も河内も、さほどの違いなく見えたのかもしれない。しかし、それは断じて違う。 ﹁椙山﹂ ﹁杜山﹂ ﹁植山﹂というのは、いずれも現存しない地名である。 ﹁杜山﹂に至っては﹁もりやま﹂なのか﹁とやま﹂なのかも明確では ない。ただ、その場所はおそらく北河内、それも、淀川からさほど遠くない 交 野 郡︵現在の枚方市・交野市︶のあたりかと考えられる。 交野ヶ原と呼ばれたこの一帯では、平安時代には鷹狩りが盛んに行なわれていた、平安朝廷にとっての﹁殺生の場﹂であり、そのため一般 人 の 出 入 り が 禁 止 さ れ、 千 年 に わ た っ て﹁ 禁 野 ﹂ と 呼 ば れ た。 ﹁ 世 中 に た え て 桜 の な か り せ ば 春 の 心 は の ど け か ら ま し ﹂ が 載 る﹃ 伊 勢 物 語 ﹄ 八十二段に描かれて、よく知られる悲劇の皇子・ 惟 喬 親王と在原業平との交友のエピソードでも知られてい る 19 。 言い換えれば軍事演習の行われる駐屯地であり、 近代に入ってからは陸軍の火薬庫が置かれた。二度の爆発事故、 とりわけ ﹁昭和の大爆発﹂ は多数の犠牲者を出して、地元では今でも語り継がれてい る 20 。いわば特殊な 徴 の付いた土地であり続け、一般の者たちは足を踏み入れること の で き な い 禁 忌 の 地 で あ り 禁 足 の 地 で あ っ た。 管 見 の 限 り 、 他 に こ の よ う に 呼 ば れ た 地 は な く 、 少 な く と も 現 在 ま で 地 名 と し て 残 っ て い る ﹁禁野﹂は、日本全国でここだけである。 現 在 の 地 名 表 示 と し て は 枚 方 市 西 部 に 禁 野 本 町 一、 二 丁 目、 西 禁 野 一、 二 丁 目 が あ り、 計 〇 ・ 五 平 方 ㎞ 余 り の 面 積 を 占 め て い る。 近 隣 に、 惟 喬親王ゆかりの 渚 院 に由来する﹁渚﹂のつく地名が渚本町・渚元町・渚栄町・渚東町・渚南町・渚西一∼三丁目、渚内野一∼四丁目と多数、 面積を合算して約一 ・ 四平方㎞あるが、それらは江戸時代の禁野村、そして近代に至って 字 禁野の一部であった。 平安京内裏からは、ほぼ六里︵約二四㎞︶の距離があるが、すべて賀茂川・淀川の水運でつながっており、移動にはさほどの時間がかから ない。このあたりは現在に至るまで河内の中でも色濃く京都文化が浸透した地域である。とはいえむろんここは都ではなく、あくまでも王城 七

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の地を離れた辺境であった。 ここに﹁椙山﹂や﹁植山﹂を退けて﹁杜山﹂を比定すべき文献的根拠はない。ただし、淀川をやや下ったところに﹁守口﹂があり、これは 周 知 の ご と く 豊 臣 秀 吉 以 来 の﹁ 城 を 守 る 口︵ 守 の 口 ︶﹂ で あ る と と も に、 む し ろ そ れ 以 前 は﹁ 森︵ 杜 ︶ の 口 ﹂ で あ っ た ゆ え の 地 名 と 考 え ら れ る 21 。そして、私はその﹁守︵杜︶口﹂の奥に控えるのが﹁杜山﹂であったと考えるのであ る 22 。 私 は こ こ で、 ﹁ 杜 山 ﹂ と い う 地 名 を 微 か に 伝 え る 現 存 地 名 と し て、 現 在 の 交 野 市 に あ る﹁ 森 ﹂ を 挙 げ て お き た い︵ 参 照 ︶。 生 駒 山 を 背 後 に 控 え た 里 山 であり、 私 市 に隣接する地域である。平安京からは直線距離にして二〇㎞余り のところにあり、京阪交野線には終点私市駅の一駅前︵北へ約一㎞︶に﹁河内 森﹂駅がある。多くの人が行き交う市場という性格を考えた場合、その地に隣 接した場所に処刑場が設けられるというのは、非常に説得力のある土地柄では な い か 24 。 古 墳 時 代 か ら の 遺 構 が 認 め ら れ、 と り わ け 森 遺 跡 に は 鍛 冶 工 房 の 遺 構 が 検 出 さ れ て 、 鉄 器 の 供 給 地 と 目 さ れ て い る 。 近 代 の 大 字 森︵ 現 在 の 交 野 市森地区︶と私市とは、雷塚古墳周辺の森古墳群が立地する山地を挟んで東北 と西南に分かれているが、かつては同じ地域であった可能性が高い。 ﹁ 北 河 内 の 地 域 で は 五 〇 ∼ 一 〇 〇 m 級 の 前 方 後 円 墳 が 穂 谷 川 や 天 野 川 流 域 と 山地部の森古墳群が築造される。北接する淀川の水通を管理する首長とも考え られる。森遺跡は、その中心に位置し、古墳時代中期から後期にかけて鍛冶工 房の遺構が広い範囲に検出され、鉄淳、輔羽口、砥石等と共に韓式系土器の出 土があり、当地域の鉄器を供給する測点の遺跡であ る 25 。﹂ ﹁椙山︵杉山︶ ﹂というのは、この地域の植生から考えると、やや違和感が残 る。平安時代、あるいは命名されてからの時間を見て古代まで遡るとしても、 河 内 に 針 葉 樹 の﹁ 椙 山 ﹂ が あ っ た と は 考 え に く い の で あ る。 さ ら に、 当 時 植 図 3   森の位 置 23 八

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林 さ れ た﹁ 植 山 ﹂ が あ っ た と は 考 え ら れ な い。 は や く 天 武 天 皇 五 年︵ 六 七 六 ︶ に は、 畿 内 山 野 伐 木 禁 止 の 勅 令 が 出 さ れ て い る が、 そ の 後 も 巨 大 な 寺 院 建 築 や 都 の 造 営 工 事 が 続 い て、 畿 内 の 森 林 は さ ら に 荒 廃 し た。 そ の 頃 伐 採 さ れ た 原 生 林︵ 広 葉 樹 林 ︶ は、 た と え ば 泉 北 丘 陵 で は 七 世 紀 後 半 頃 ま で に 次 々 に 松︵ ア カ マ ツ ︶ 林 に 変 わ っ て 行 っ た と い う。 た だ し、 組 織 的 な 植 林 が 始 ま る の は 室 町 時 代 に 入 っ て か ら で、 畿 内 で は 吉 野 川 の 杉 が そ の 濫觴であ る 26 。 む ろ ん、 九 世 紀 初 頭 ま で に﹁ 椙 山 ﹂ や﹁ 植 山 ﹂ と い っ た 地 名 が 存 在 し な か っ た こ と を 証 明 す る 根 拠 と は な ら な い が、 以 上 の こ と か ら は、 ﹁ 杜 山 ﹂﹁ 椙 山 ﹂﹁ 植 山 ﹂ の 中 で 最 も 可 能 性 の 高 い 地名は﹁杜山﹂であったと考えられる。 た だ し、 枚 方 市 に は 大 字 名 と し て﹁ 杉 ﹂ も 存 在 す る︵ 参 照 ︶。 J R 片 町 線︵ 学 研 都 市 線 ︶ 藤 阪 駅 の 周 辺 で あ る が、 現 在 は、 町 名 表 示﹁ 杉 ﹂の 北 側 一 帯 に、 織 田 信 長 侵 攻 の 記 憶 を と どめる ﹁ 杉 責 谷 ﹂ や ﹁杉山手﹂ ﹁杉北町﹂ などが広がっている。 交 野 市 の﹁ 森 ﹂ か ら は 直 線 距 離 で 約 五 ㎞ で、 西 を 流 れ る 淀 川 と 並 行 し て 上 流 の 杉︵ 東 北 ︶ と 下 流 の 森︵ 西 南 ︶ と い う 位 置 関 係 にある。守口は、さらに約一〇㎞下流に当たる。 すでに記したように、かつての植生から考えるならば、この時代、この地域に、地名として残るほどの︵イメージとしては一山を覆うほど の︶針葉樹林︵杉山︶が存在したということは、いささか考えにくい。縄文杉どころか、杉は約一六〇〇万年前から日本列島に存在する在来 植物であり、 ﹁椙山﹂という地名のついた時代も明確ではないのだが、河内に杉のつく地名はほとんどなく、この点については違和感が残る。 図 4   杉の位 置 27 九

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一方で、処刑場ということに着目するならば、江戸時代に大坂町奉行をつとめた久貝因幡守︵初代正俊︶の屋敷跡︵現・陣屋裏︶の﹁乾と 巽﹂方向にあったという﹁処刑 場 28 ﹂が気に掛かる。かつて交野ケ原と呼ばれていた交野郡の一角であり、長尾山の山裾︵枚方市長尾︶にあっ たという。長尾は、先述した杉︵枚方市︶のすぐ北側︵ 左上︶に当たる。 乾︵ 戌 亥 ︶ は 西 北、 巽︵ 辰 巳 ︶ は 東 南 で あ っ て 真 逆 に 当 た る た め、 ﹁ 乾 と 巽 ﹂ に あ っ た と い う 意 味 が よ く わ か ら な い の だ が、 処 刑 が 実 施 さ れ る 十 二 月 二 十 日 に は、 地 元 住 民 た ち は 外 出 を 控 え た と い う 証 言 す ら あ る︵ ﹃ 河 内・ 歴 史 の 古 里 ﹄︶ 。 お そ ら く、 そ れ は 具 体 的 に 戊 辰 戦 争︵ 伏 見の戦い︶の折のことを指すものと思われるのだが、とりわけ穢れを伴う場所︵土地の記憶︶が容易に人々の意識から去らないことは、数々 の事例があって動かない。 ﹁北河内大阪方面から多くの〝罪人〟が処刑されるために集められていた﹂ ︵同前書︶という久貝家屋敷から、わず か一〇〇メートルほどの所には﹁死骸谷﹂と呼ばれる場所すらあったという。 ただし、江戸時代であれば、交野郡尊延寺村の豪農・深尾氏の出である才次郎が、洗心洞に学んで大塩平八郎の乱に参加したゆえに、この 地 で 自 害 し な が ら 塩 漬 け に さ れ、 大 坂 で﹁ さ ら し 刑 ﹂ に さ れ た よ う に︵ 同 前 書 一 六 ∼ 一 七 頁 ︶、 処 刑 は 町 奉 行 所 の あ る 大 坂 三 郷︵ 市 中 ︶ で 行 なわれるのが通例であった。よって、上記の﹁大阪方面から︵中略︶集められていた﹂については、いささかの疑問が沸くのだが、かねてよ り、この地にそのような場所があったことは間違いないであろう。 尊 延 寺 村 は 旧 交 野 郡 の 旧 川 越 村 中 に あ り︵ 右 ︶、 同 じ く 村 野︵ 枚 方 市 村 野 ︶ に は 高 札 場 が あ っ て、 こ の 高 札 場 で は﹁ 外 者 ﹂︵ よ そ 者 ︶ がさらし首になることもあったという︵同前書、一八頁︶ 。いずれも、交野ケ原の一角である。 処 刑 場 が 全 く の 無 人 の 地 に 置 か れ る こ と は、 当 時 処 刑 が 見 せ し め の 目 的 を も っ て 行 な わ れ た こ と を 考 え れ ば、 お よ そ あ り え な い こ と で あ る。いくら九世紀の初頭であっても、そうであろう。ましてや、アテルイたちは現在の岩手県からはるばる連れ帰った、叛乱者にして死刑囚 たちである。誰の目にも止まらぬ無人の地で、ひっそりと処刑が行なわれたとは考えにくい。 とはいえ、 まだ平安時代が始まって間もなくの頃である。のちの中世︵鎌倉 ・室町時代︶ 、 すなわち武士が戦乱に明け暮れた時代のように、 人々はまだ人間の血を見ることに慣れていなかった。それどころか、この直後︵弘仁九=八一八年︶には、死刑 停 止 を盛り込んだ弘仁格が嵯 峨天皇によって発出され、以後、平安時代は表向き﹁死刑のない時代﹂として三五〇年続くことにな る 29 。具体的には、大同五年︵八一〇︶か ら保元元年︵一一五六年︶までの三四六年間である。薬子の変の藤原仲成らから保元の乱の源為義らまで、ということになるが、これは平安 時代が始まって十六年目から、あと二十九年︵三十三年とも︶で鎌倉時代が始まるまで、平安時代がほとんどすっぽり収まる期間であった。 一〇

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た だ し、 実 際 に は こ の 期 間 を 通 じ て 死 刑 は 行 な わ れ て い た ら し い︵ ﹃ 平 安 時 代 の 死 刑 ﹄︶ 。 天 皇 が 命 を 下 す よ う な、 い わ ば 国 家 行 事 と し て の 死 刑 が 執 行 さ れ な か っ た だ け と い う こ と の よ う で あ る。 よ っ て、 あ る い は こ の﹁ 杜 山 ﹂︵ 椙 山 ︶ な ど は、 そ の 後 も 死 刑 が 続 け ら れ た 場 所 に 当 たる可能性がある。 も ち ろ ん、 ア テ ル イ ら の 処 刑 は、 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ を 参 照 す る ま で も な く、 天 皇 が 命 を 下 す ほ ど の 国 家 行 事 と し て の そ れ で あ っ た。 も し 薬 子 の 変がなかったならば、延暦二十一年︵八〇二︶のこの処刑が、表向き一一五六年まで続く﹁平安時代の死刑空白期﹂の開始事例として記録さ れ て い た か も し れ な い。 こ の よ う に、 処 刑 と い う 歴 史 的 事 象 に 照 ら す な ら ば、 か つ て 処 刑 場 が あ っ た と 伝 え ら れ る 長 尾 に 隣 接 す る﹁ 杉 ﹂︵ 枚 方市︶のほうに一日の長があると言えるだろうか。 と こ ろ で、 ﹁ 杜 山 ﹂ に つ い て、 も う ひ と つ 想 起 さ れ る の は、 坂 上 田 村 麻 呂 以 前 の 日 本︵ 大 和 朝 廷 ︶ の 歴 史 の 中 で 最 大 の 武 人 で あ っ た 物 部 氏 であり、守屋とかかわる﹁森山﹂である。たとえば、長野県伊那市高遠町にある守屋山︵森山︶の山麓には物部守屋を祀る守屋社︵通称物 部守屋神社︶が鎮座する。 ﹃信濃奇勝録﹄ ︵天保五=一八三四年︶には、丁未の乱︵五八七年︶で蘇我氏に滅ぼされた守屋の一子が守屋山︵森 山︶に逃げ隠れていたが、神長︵諏訪大社上社の祀職︶の養子となって、守屋山に父・守屋の霊を祀ったという伝承が記されてい る 30 。 ﹁守屋山﹂が﹁森山﹂ ﹁杜山﹂へと変遷した事例が、信濃以外にも存在するのではないかという類推が成り立つのであれば、物部本宗家の拠 点であった中河内︵現在の八尾市から東大阪市にかけて︶の周辺にも、その可能性を想定することがあってもよいものと思われる。 こ の よ う に、 ﹁ 杜 山︵ 森 山 ︶﹂ や﹁ 椙 山︵ 杉 山 ︶﹂ が 北 河 内 で は な く、 か つ て 平 野 が 属 し て い た 中 河 内 地 域 で あ っ た 可 能 性 も 考 え ら れ な い わ けではない。中河内であれば、広野麻呂拝領の地が、のちの平野であったこととも整合性がとれる。しかし、そうであれば、やはり文献のど こかに記されてよいことであった。そうでなかったのは、おそらくその場所が機密上隠されたということではなかったか。そう考えれば、上 記の﹁禁野﹂ ︵交野ケ原︶ がそうであった可能性が、やはり高いと思われるのである。 ﹃河内・歴史の古里﹄の著者である森迫氏は、こんなふうに述べている。 ﹁ 交 野 と 京 都 は お 隣 り 同 士、 都 へ は 二 十 キ ロ 程 離 れ て い て も、 そ の 山 々 は 一 望 に 開 け て、 正 面 に 見 え る や わ ら か な 姿 の 比 叡 山、 そ の 右 の 谷 は 山 科 で、 そ の 右 は 醍 醐 の 山、 更 に 右 へ は 笠 置 に 至 る 連 山 で あ る。 ﹂ 京 都 と 交 野 と の 距 離 感 が 手 に 取 る よ う に よ く わ か る 一 文 な の で、 掲 げ て おきた い 31 。 以上、アテルイやモレが処刑されたという場所を探してきたのだが、能楽の﹃雲雀山﹄に﹁交野の御野禁野につゞく天の川﹂と謡われるよ 一一

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うに、 ﹁交野の禁野﹂ ﹁交野ケ原﹂とは、 天野川から北へと広がる淀川左岸︵東岸︶一帯、 現在の交野市と枚方市の大半を含んだ地域であった。 そこには﹁森﹂も﹁杉﹂も含まれている。おそらくここで、かつて東北から連れ帰った朝廷への反逆者たち︵とはいえ彼らにとってみれば、 侵略者から自分たちの土地を守っただけのことである︶が処刑されたのであろう。 四、悪路王の末路 悪路王とは、手近な﹃朝日日本歴史人物事 典 32 ﹄によれば、 平安前期、坂上田村麻呂や藤原利仁に滅ぼされたと伝えられる人物。蝦夷の族長阿弖流為︵阿弖利為とも︶の訛ったものとの見方もあ る。達谷窟︵岩手県平泉町︶を巣窟としたといい、これを討った田村麻呂は、そこに京の鞍馬寺を模して九間四面の精舎を建立し、多聞 天の像を安置したと伝える。文治五︵一一八九︶年九月、源頼朝は平泉を攻撃し藤原泰衡らを討滅したあとこの窟に立ち寄り、田村麻呂 の 武 勇 譚 を 聞 い て い る︵ ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄︶ 。 い ま 茨 城 県 桂 村 の 鹿 島 神 社 と 同 県 鹿 島 町 に あ る 鹿 島 神 宮 に は 田 村 麻 呂 が 納 め た と い う 悪 路 王 の 首 級 ︵木造︶が伝えられており、前者は元禄年間︵一六六八∼一七〇四年︶ 、徳川光圀が修理したもの。これらの事実は、蝦夷社会に広がった 鹿島神に悪路王の怨霊の慰撫が求められていたことを示すものであろう。 と い う。 短 文 で は あ る が、 平 安 期 に お け る 朝 廷 の 東 北 戦 略 が 端 的 に 記 述 さ れ て お り、 ﹁ 悪 路 王 ﹂ と い う 個 人 の 事 蹟 を 超 え て、 中 世 か ら 近 世 に まで至る通時的な田村麻呂現象の展開をも示している。ここからは、   ①   悪路王はアテルイが訛ったもの。   ②   岩手県平泉の達谷を本拠とした。   ③   ﹃吾妻鏡﹄によれば、頼朝が田村麻呂の武勇を聞いたという。 一二

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  ④   鹿島には田村麻呂が納めたという悪路王の木造の首級がある。 以上の四点に注意しておきたい。 ①は、すでに述べたように同意できる。ただ、 ﹁悪路王﹂を﹁アテルイ﹂の﹁訛︵なま︶ったもの﹂と一言で片づけるのは早計だろう。 ﹁悪 路﹂ とは、 平安京を旅立って東北に至るまでの田村麻呂をはじめとする平定軍 ︵征服者︶ たちの ﹁実感﹂ を込めての命名と思えるからである。 そして、上に見たように平定後にアテルイたちを遥々連れ帰った田村麻呂の遠路をも想起させ る 33 。 ②は、 当然のことに平安時代末期の源平合戦を即座に想起する。 ﹃源平盛衰記﹄ などが描く平泉の険峻な地形が目前に浮かび上がるだろう。 達 谷 窟 毘 沙 門 堂 で 知 ら れ る﹁ 達 谷 ﹂︵ 岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町 ︶ は、 北 上 川 の 支 流 で あ る 太 田 川 が 削 り 取 っ た 峡 谷 の 先 端 部 に あ り、 ま さ に 天 然 の要害である。アテルイの本拠というのは、その崖や窟を使って砦が築かれたのだろう。 そして、岩手県の最南部に位置する達谷は、おそらくアテルイたちの前線基地に相当しただろう。ここから胆沢城までは約三〇㎞、さらに 約六〇㎞北上すれば志波城に至る。現在の八幡平市から一関市まで、北上山地と奥州山脈のあいだを縫うように南流する北上川によって削成 された北上盆地を、ほとんど南北に結ぶ線上に位置し、現代と同じく、このラインが彼らにとって最重要であったことをうかがわせる。 ③は、②にも挙げた源平合戦の帰趨ともかかわって興味深い。文治五年︵一一八九︶というのは、頼朝が後白河院の崩御によって征夷大将 軍に任じられる︵自ら任じさせる︶に至る建久三年︵一一九二︶の三年前である。頼朝の征夷大将軍就任は、まさに田村麻呂以来四百年近い 時間を超えて、頼朝が征夷大将軍にこだわったきっかけのひとつともとれるからであ る 34 。 そして④は、鹿島神宮がなぜ田村麻呂、そして悪路王と関わってくるかという問題である。むろん武威・武勇の神として鹿島神は著名であ る。畿内においても、すでに神護景雲二年︵七六八︶には春日大社が造営されており、周知のごとく、四祭神の中心を成すのが鹿島から迎え た武甕槌︵タケミカヅチ︶命であった。これは、田村麻呂が生まれたとされる天平宝字二年︵七五八︶の十年後のことである。 日本国の ﹁正史﹂ ︵﹃東北学﹄ 九四頁︶ には一度も登場しないという悪路王、 そして赤頭の名は、 赤坂氏によれば、 ﹃吾妻鏡﹄ 以降 ﹁謡曲 ・浄瑠璃 ・ 語り物などのなかに、さまざまなヴァリエーションをもって語り継がれてゆく﹂ ︵同前書︶ 。鎌倉時代末期に成立したとされる﹃吾妻鑑﹄は、 平安末期の治承四年︵一一八〇︶から、文永三年︵一二六六︶までの一世紀弱を記録した歴史書ではあるが、かねてより誇張︵デフォルメ︶ や虚構︵フィクション︶が少なからず混じっているとの指摘を受けてき た 35 。 一三

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私 は む し ろ、 そ の﹁ 謡 曲・ 浄 瑠 璃・ 語 り 物 な ど の な か ﹂ で 付 け ら れ た 名 が﹁ 悪 路 王 ﹂﹁ 赤 頭 ﹂ で あ っ て、 そ こ か ら 敷 衍 し て 彼 ら の 事 蹟 が こ れ ら の 名 を も っ て 語 ら れ る よ う に な っ た の だ と 考 え る。 ﹁ 悪 路 王 ﹂ と は、 ま さ に 名 詮 自 照 36 、 蝦 夷 地︵ 東 北 ︶ へ 向 か う 道 の 困 難 さ を 含 め て の 名 称であろう。 一 方 の ﹁ 赤 頭 ﹂︵ ア カ ガ シ ラ ︶ は 、 遠 く 琉 球 王 国 へ の 反 逆 者 で あ っ た オ ヤ ケ ア カ ハ チ を 想 起 さ せ る 。 遠 弥 計 赤 蜂・ 於 屋 計 赤 蜂・ 本 河 原 赤 蜂・ 堀 川 原 赤 蜂 な ど さ ま ざ ま に 表 記 さ れ て き た が、 ﹁ ア カ ハ ツ︵ 赤 髪 ︶﹂ に 由 来 す る と い う﹁ ア カ ハ チ︵ 赤 蜂 ︶﹂ と い う 名 は 一 貫 し て い る 37 。 西 暦十八年に中国・新で勃発した赤眉の乱をはじめ、 ﹁赤﹂には反逆者・反乱軍のイメージが色濃く漂っている。 ﹃ 万 葉 集 ﹄ の﹁ 結 び 松 ﹂ の 歌 で 著 名 な 有 間 皇 子 に 反 乱 を そ そ の か し て お き な が ら、 そ れ を 密 告 し て 謀 殺 の 因 を な し た の ち、 壬 申 の 乱 で 大 友 皇子について破れ、流刑に処せられた蘇我 赤 兄 は、いわば古代屈指の謀略家として﹃日本書紀﹄に描かれている。このように﹁赤﹂のついた 名 前 が 与 え ら れ る こ と も、 ﹁ 赤 ﹂ が﹁ 火 ﹂ を 類 推 さ せ、 ま た﹁ 悪 ﹂ に 近 い 発 音 で あ る こ と と 関 係 し て い る の だ ろ う か。 し か し、 そ の 一 方 で、 赤は﹁赤心﹂ ︵裏のない忠誠心︶や﹁赤ん坊﹂ 、あるいは雄略天皇の言葉を信じて八十年待ち続けた 引 田部 赤 猪子 ︵﹃古事記﹄ ︶などのように、 純粋さや幼稚さを示すのにも使われている。 先 に 見 た﹁ 大 墓 君 ﹂ と﹁ 盤 具 公 ﹂、 特 に、 ア テ ル イ の 別 の 呼 び 名 と さ れ る﹁ 大 墓 君 ﹂ は、 ﹁﹁ た も ﹂﹁ お お は か ﹂﹁ だ い ぼ ﹂ な ど、 さ ま ざ ま な 訓み方がされていて定まっていない。 ﹂ とのこ と 38 。朝 倉 授 氏 は ﹁ オ オ ハ カ ﹂ 訓 を 提 唱 す る の で あ る が 、 同 稿 に ﹁ 高 橋 富 雄 氏 が 自 著 の ﹃ 蝦 夷 ﹄ ︵ 一 九 六 三 年 ︶ で 田 茂 山︵ た も や ま ︶︵ 現 奥 州 市 水 沢 羽 田 町 の 一 部、 旧 田 茂 山 村 ︶ の 地 名 に 焦 点 を あ て、 ﹁ 大 墓 ﹂ を﹁ タ モ ﹂ と 訓 む こ と を 提 唱 するや、その斬新な視点から新説への支持は一気に拡がった﹂と記す従来の通説を論破するには至っていない。 朝 里 樹 氏 は﹃ 歴 史 人 物 怪 異 談 辞 典 39 ﹄ の﹁ 日 本 武 尊 ﹂ の 項 に、 ﹁ 鹿 野 山 に は、 日 本 武 尊 が 阿 久 留 王 と い う 鬼 と 闘 い、 八 つ 裂 き に し て 殺 し た と い う 伝 説 が 残 さ れ て い る。 阿 久 留 王 は 蝦 夷 の 首 長 で あ っ た 悪 路 王 と 同 一 視 さ れ ﹂ と し て、 ﹁ こ の 阿 久 留 や 悪 路 と い う 名 は、 先 述 の 悪 樓 や 悪 楼 につながっている。 ﹂と記している。 ﹁鹿野山﹂は﹁かのうざん﹂ 、現在の千葉県君津市にある鹿野山︵標高三七九m︶ 。房総半島の中央西寄り にあり、浦賀水道を距てて、対岸には三浦半島が横たわる。鹿野山南麓︵本来は山頂︶には白鳥神社があって、伊勢の 野 褒野 に葬られたヤマ トタケルが白鳥となって飛び立ち、この地に舞い降りたと伝えられてい る 40 。 ﹁悪樓﹂や﹁悪楼﹂とは、 ヤマトタケルが九州の熊襲を倒した帰路、 吉備国の 穴 海 で退治した妖怪であるという。 ﹃古事記﹄には﹁穴戸神﹂ 、 ﹃日本書紀﹄には﹁惡神﹂ ﹁吉備穴濟神﹂と記され、異形のイメージで記紀に登場する、いわゆる﹁まつろわぬ﹂人々の一例と考えられる。た 一四

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だし、具体的な形象は後世に付会されたもので、たとえば近世後期の暁鐘成編﹃金毘羅参詣名所図会﹄には浦川公左によって大魚が描かれ、 ﹁悪楼﹂と呼ばれてい る 41 。 さらに、東北一円には、 ﹁坂上田村麻呂の創建になるという縁起をもつ神社﹂ ︵﹃東北学﹄九七頁︶が少なくとも﹁五十以上﹂ ︵同︶あるとい う 事 実 に 加 え、 ﹁ 田 村 麻 呂 や 坂 上 氏 と は 接 点 の 乏 し い 秋 田 県 内 ﹂︵ 同 ︶ で さ え﹁ 百 二 十 を こ え る 田 村 麻 呂 伝 説 が 収 集 さ れ て い る こ と ﹂ に 注 意 を 払 う 必 要 が あ る。 田 村 麻 呂 伝 説 の 伝 播 力 が、 な ぜ そ れ ほ ど ま で に 強 か っ た の か。 誰 が、 ど の よ う な 目 的 で、 そ れ を 東 北 一 円 に 伝 播 さ せ た の か という文学的課題が、ここで一気に生ずるからである。 五、田村麻呂の影 ここまで、中央︵畿内︶の政権が東へ北へと追い払った人たちのことを述べてきた。もちろん彼らは、当初は河内にも住んでいた人々の末 裔である。少なくとも、末裔をも含んだ人たちであった。 ﹃東北学﹄には、 ﹁田村麻呂伝説をめぐって﹂ ︵九六頁以降︶のほかにも、繰り返し田村麻呂の影が描かれる。その開基伝承や、 ﹁眠り流し﹂ 起源伝承︵一五四頁︶などのポジティヴな光と、血なまぐさい征服者としてのネガティヴな影とが綯い交ぜになって、不思議な文様を織りな してい る 42 。 ﹁正史﹂ と呼ばれる光源からの光が必ずしも明るく明瞭に対象を映し出すものではなく、 逆に ﹁ 稗 史 ﹂︵通俗史︶ と呼ばれて軽んじられてきた、 ともすれば毒々しく彩られた光や、 ﹁地域伝承﹂ という局地的な光 ︵スポットライト︶ が決して暗くおぼろげな光ばかりではないことを示して、 光と影が複雑に絡み合った印象をもたらしている。赤坂氏ならではの手際と呼ぶべきであろう。 延暦十三年 ︵七九四︶ に平安京が定められてまだ間もない同二十年 ︵八〇一︶ 、 胆沢一帯は田村麻呂たちによって ﹁攻略﹂ ︵九七頁︶ される。 紀 古 佐 美 による第一波の征伐軍がアテルイとモレの軍によって返り討ちに遭った延暦八年︵七八九︶から数えて、十二年後のことであった。 七八九年の時点で都はまだ長岡にあり、長岡京の十年という短い寿命のちょうど半ばに当たる。このように、アテルイやモレたち﹁賊類﹂の 平定︵討伐︶は、朝廷にとって平安京遷都以前からの懸案事項だったことになる。征伐までの十二年の間に遷都を重ねる一方で、東北征伐の 一五

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計画が練られていたのだと考えられる。 志波城は、 ﹁子波﹂や﹁斯波﹂とも書き﹁しは︵わ︶のき﹂と呼ばれていた。 表 記 で は な く 音 声 が 優 先 し た こ と は、 聴 覚 的 な 情 報 が 先 行 し た こ と を 示 唆 す る。述べてきたように、 九世紀の初め、 陸奥の一角 ︵岩手県南部の北上川流域︶ い わ ゆ る﹁ 胆 沢︵ い さ わ ︶﹂ が 朝 廷 に よ っ て 治 め ら れ た 際、 そ の 地 に 築 造 さ れ た の が 胆 沢 城︵ 水 沢 市 ︶ で あ り、 志 波 城 で あ っ た︵ 参 照 ︶。 坂 上 田 村 麻 呂 が造志波城使となって、前年の胆沢城に引き続き延暦二十二年︵八〇三︶に築 造された。その地は、盛岡市︵旧岩手郡内︶の太田方八丁遺跡とされている。 十二世紀と十三世紀の交に成立した﹃吾妻鏡﹄などによれば、四天王の多聞 天︵毘沙門天︶の加護を得て、悪路王︵アテルイ︶らを平定した田村麻呂の辛 苦は、清水寺の舞台造りに倣ったという平泉達谷の毘沙門堂に著しい。ここに は、鞍馬寺の毘沙門天から分霊した百八体の毘沙門天が祀られており、現在は 九間四方の堂宇に三十体足らずが残るという。無論、百八という数は、百八煩 悩の克服を意味しているだろう。 四天王に祈って強敵を討ち果たすというストーリーは、聖徳太子と四天王寺 の故事を即座に思い起こさせる。ただし、四天王といっても田村麻呂の場合は 多聞天︵毘沙門天︶のみというのは、多聞天が北方の守護神であったからと考 えられる。鎌倉期に至って、毘沙門天の武力が四天王の中でも特に優れていると考えられるに至るのも、幕府の北方守護の反映が大きかった のではないか。 そして、 後世に至って田村麻呂自身が毘沙門天の化身であるという伝承が生じるのは、 武家社会ゆえにわかりやすい構図であっ た。 また、清水寺と鞍馬寺という、平安︵京都︶との結びつきの強さが、ここでは注意される。鞍馬寺に関しては、そもそも平安京の北方守護 として建立された経緯がある。多聞天︵毘沙門天︶の加護を得て悪路王︵アテルイ︶らを平定した田村麻呂の苦労と歓喜は﹃吾妻鏡﹄に描か 図 5   古代城柵の分布と造営年 代 43   盛岡市教育委員会 画像提供 一六

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れており、清水寺の舞台造に倣ったという堂宇と百八体の多聞天を祀ったことに顕著だが、日本の多聞天=毘沙門天信仰は鞍馬寺で始まった とい う 44 。 ﹁正史﹂ ︵九四頁︶には一度も登場しないという悪路王、そして赤頭の名は、既述の通り、赤坂氏によれば﹃吾妻鏡﹄以降﹁謡曲・浄瑠璃・ 語り物などのなかに、さまざまなヴァリエーションをもって語り継がれてゆく﹂ ︵﹃東北学﹄ ︶。そしてそれは、東北一円に﹁坂上田村麻呂の創 建 に な る と い う 縁 起 を も つ 神 社 ﹂︵ 九 七 頁 ︶ が、 少 な く と も﹁ 五 十 以 上 ﹂︵ 同 前 書 ︶ あ る と い う 際 立 っ た 事 実 へ と つ な が っ て ゆ く。 ﹁ 田 村 麻 呂 や 坂 上 氏 と は 接 点 の 乏 し い 秋 田 県 内 ﹂︵ 同 前 書 ︶ で さ え、 ﹁ 百 二 十 を こ え る 田 村 麻 呂 伝 説 が 収 集 さ れ て い る こ と ﹂︵ 同 前 書 ︶ に 驚 か さ れ つ つ、 田村麻呂人気の広がりの背景にあるものに目を凝らす必要を感じる。 右に、清水寺と毘沙門堂との関わりについて触れたのだが、謡曲﹃田村﹄に見える﹁そもそも当寺 清 水寺 と申すは、大同二年の御草創、坂 上の田村麿の 御 願 なり﹂ ︵﹃東北学﹄九八頁︶という詞章や、藤原 明 衡 筆の﹁清水寺縁起﹂に田村麻呂の清水寺創建が語られることには、さら に注意を要するだろう。すでに紙幅も尽きかけているため、この点は後考に俟ちたい。 六、おわりに 以上から読み取るべきもうひとつは、河内の辺境性である。それも、平城京から一旦長岡京を経て、平安に都が定まって以来の、さらなる 辺境性である。 京の地に都︵平安京︶が定められる以前、とりわけ大和に都があった頃、確かに河内は地域として、もっと高い格を有していた。そもそも 摂津・和泉を含んだ大河内︵凡河内︶として在った河内の格は、畿内五国︵五畿内︶の中でも、摂津より高かった。まして山城や和泉よりも 明らかに高く、それは副都・陪都の位置づけに象徴された。大和と最も強く結びつき、大和にとっても交易・交通の面で重要な地域である。 逆に摂津にとってみても広大な後背地として切り離すことのできない位置づけを持ち︵山城との縁が深まるのは、むしろ平安京遷都以降のこ とになるが︶ 、水の道で結ばれた陸の拠点という重要性が大きかった。 百舌鳥・古市の古墳群が、大和王族たちの墳墓の地であることは確かだが、そこが墳墓のみの地であったのか、あるいは河内王朝と呼ぶべ 一七

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き政権の実体がそこに存在したかという問題は、長く議論の渦中にあって現在もなお解決を見な い 45 。つまり、この地から都の跡と呼べる遺構 が発掘されたわけではないものの、五世紀から七世紀いわゆる古墳時代の中・後期を通じて、言い換えれば八世紀初頭に平城京が定まる以前 から、南河内の北部︵羽曳野丘陵︶一帯が巨大権力と関わる地であったことは間違いのないことであった。 すでに何度か述べてきたように、河内のイメージは為政者や都︵中央︶に対する﹁反逆者﹂として描かれることが多かっ た 46 。本稿に述べた ア テ ル イ た ち は 、 平 安 朝 廷 に よ っ て ﹁ 反 逆 者 ﹂ と さ れ た 者 た ち で あ り 、 そ も そ も 河 内 と の 関 係 を 持 た ぬ 人 々 で あ っ た が 、 特 に ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ 以 来 、 ﹁ 河 内 で 処 刑 さ れ た 者 ﹂ と し て 歴 史 に 刻 印 さ れ た。 の ち の 時 代 の こ と で あ る が、 京 都 の 四 条 河 原 で 釜 茹 で の 刑 に 処 さ れ た と い う 石 川 五 右 衛 門 が、河内有数の暴れ川である石川の名を冠して呼ばれたよう に 47 、物語︵赤坂氏の言う﹁謡曲 ・浄瑠璃 ・語り物など﹂ ︶の中で、彼ら︵悪路王 ・ 赤頭︶ もまた変容を遂げてゆく。そして、 そのような ﹁登場人物﹂ たちのイメージは、 逆に彼らと結びついた河内という土地 ︵地域︶ にもイメー ジを分与してゆくのである。 二十一世紀を目前に控えた二〇〇〇年十一月の大きな蹉跌を乗り越えて近年目覚ましい進展を遂げている考古学と、文献学の融合から成り 立つ古代学は、田村麻呂たちによって征伐された人々がはやくから日本列島に住み着いた縄文人たちの末裔であり、追い払った人たちがのち に上陸してきた弥生人と呼ばれる人たちの末裔であったという単純な二分法では理解できない複雑な経緯が、この列島で展開されていたこと を示してきた。 その一方で、かつて一世を風靡しながら、もはや誰も顧みる者のいないとすら考えられていた騎馬民族征服論などが、新たな相貌を見せて 復権しつつある複雑な局面をも迎えてい る 48 。今後は、渡来系集落が河内という地域でどのように形成され、この地域独特の地域性の形成にど れほどの影響をもたらしたかが、考察されるべき大きな課題として残されている。 ︵ 1 ︶﹁ さ ん げ ん ﹂ ま た は﹁ さ ん か ん ﹂。 天 武 天 皇 元 年︵ 六 七 二 ︶ あ る い は 翌 年、 壬 申 の 乱 直 後 に 鈴 鹿・ 不 破・ 愛 発 ︵ の ち に 逢 坂 ︶ に 設 け ら れ た。 実 質 的 な 効 果 に は 疑 問 が 呈 さ れ る こ と も あ り、 近 年 は﹁ 敵 対 ﹂ よ り も 内 乱 へ の﹁ 防 備 ﹂ で あ る と の 説 が 優 勢 で あ る が、 本 稿 で は、 三 関 設 置 を は じ め と す る 朝廷の政策の総体を象徴するものとして考えておきたい。 一八

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︵ 2 ︶本稿のタイトル ﹁河内と東北﹂ は、 時代においても、 地域のレンジに関しても、 バランスの悪い対比である。ただし、 ﹁大阪と東北﹂ では近現代のイメー ジ が 強 く、 ﹁ 河 内 と 蝦 夷 ﹂ で は 北 海 道 が 浮 上 し て し ま う。 ﹁ 河 内 と 陸 奥 ﹂ や﹁ 河 内 と 奥 羽 ﹂ で も、 求 め る イ メ ー ジ と は 離 れ て い る。 以 下、 論 中 で﹁ 河 内と東北﹂のバランスに納得していただければと思う。 ︵ 3 ︶ 三 関 は、 藤 原 京 時 代 の 延 暦 八 年︵ 七 八 九 ︶、 桓 武 天 皇 に よ っ て 廃 さ れ る。 た だ し、 そ の 後 も 実 質 的 に は 機 能 し 続 け、 九 世 紀 以 降 に も 有 事 等 の 際 に 繰り返し 固 関 ︵武力によって関所の防御を固めること︶がなされている。 ︵ 4 ︶ 難 波 は、 引 き 続 き 淀 川 と い う 最 大 の 交 通 路 に よ っ て 平 安 京 の﹁ 外 へ の 玄 関 ﹂ の 役 割 を 与 え 続 け ら れ る わ け で あ り、 副 都 の 役 割 を 果 た し 続 け る こ と になる点で、旧都となった平城京などとは異なる。 ︵ 5 ︶ 平 野 区 誌 刊 行 委 員 会 編﹃ 平 野 区 誌 ﹄︵ 同 委 員 会 刊、 二 〇 〇 五 年 ︶、 大 阪 市 住 吉 区 平 野 郷 公 益 会 編﹃ 平 野 郷 町 史 ﹄︵ 同 会 刊、 一 九 三 一 年。 清 文 堂 書 店 刊復刻版、一九七〇年︶など参照。以下、本稿では引用文の算用数字は原則的に漢数字に改めて記す。 ︵ 6 ︶拙稿﹁末吉宮論│中世日本との関わりの中で│﹂ ︵﹃大阪商業大学論集﹄第一一巻第四号、二〇一六年二月︶参照。 ︵ 7 ︶﹃平野郷   大阪市編入五〇周年誌﹄ ︵平野振興会、一九八〇年︶ 。 ︵ 8 ︶図 1 は、大阪府提供︵西大阪治水事務局掲載許可︶ 。 ︵ 9 ︶図 2 は、大阪市都市整備局企画防災グループ作成。 ︵ 10︶﹃新訂増補国史大系︿普及版﹀日本後記﹄ ︵吉川弘文館、一九七五年︶による。 ︵ 11︶佛教大学民間念仏研究会編﹃民間念仏信仰の研究﹄ ︵隆文館、一九六六年︶など参照。 ︵ 12︶﹃日本紀略﹄の引用は、黒坂勝美編﹃国史大系︵新訂増補   新装版︶日本紀略   前篇・後篇﹄ ︵吉川弘文館、二〇〇〇年︶を参照した。 ︵ 13︶﹁ 言 の 咎 ﹂ は、 政 敵 を 討 っ て 首 級 を 持 ち 帰 れ ば 娘 を 嫁 に し て や る と 飼 い 犬 に 言 い、 実 際 そ の よ う に し た の に も か か わ ら ず 守 ら な か っ た こ と か ら 悲 劇 が 展 開 す る﹃ 南 総 里 見 八 犬 伝 ﹄ の プ ロ ッ ト を も と に、 高 田 衛 氏 が 命 名 し た テ ク ニ カ ル タ ー ム︵ 高 田 衛﹃ 八 犬 伝 の 世 界︵ 中 公 新 書 ︶﹄ 中 央 公 論 社、 一九八〇年︶を援用した。 ︵ 14︶ 逆に、 田村麻呂が敵将の裏切りで討ち死にをしていたと仮定すれば、 それはまさに怨霊化のパターンに収まる ︵諏訪春雄 ﹃日本の幽霊 ︵岩波新書︶ ﹄ 岩 波 書 店、 一 九 八 八 年。 同﹃ 霊 魂 の 文 化 誌   神・ 妖 怪・ 幽 霊・ 鬼 の 日 中 比 較 研 究 ﹄ 勉 誠 出 版、 二 〇 一 〇 年 な ど 参 照 ︶。 こ こ に、 芸 能 に よ っ て 怨 霊 の 供養がなされた経路を想定しておきたい。 一九

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︵ 15︶ 注︵ 12︶ に お い て 校 訂 は な さ れ て い る が、 管 見 の 限 り﹃ 日 本 紀 略 ﹄ の 諸 本 が 対 照 さ れ て 校 異 が 行 な わ れ た 先 例 は な く、 異 本 の 発 生 過 程 や 数 量 的 な 比較検討はなされていないため、この点から﹁椙山﹂ ﹁杜山﹂ ﹁植山﹂の正誤を判断することは困難である。 ︵ 16︶赤坂憲雄﹃東北学/忘れられた東北︵講談社学術文庫︶ ﹄︵講談社、二〇〇九年︶参照。 ︵ 17︶以下、 ﹃東北学﹄からの引用は、本文中に括弧で括って講談社学術文庫版の頁数を明記する。 ︵ 18︶日本海に出て海路をとるにしても、 西目まで一五〇㎞、 酒田までなら二〇〇㎞ある。河川の水路を用いたとしても、 北上川を下って石巻︵太平洋︶ ま で 出 た と は 考 え ら れ ず、 当 時 の 交 通 事 情 に 鑑 み れ ば 尾 花 沢・ 敦 賀 を 経 由 し て 北 陸 路︵ 約 八 三 〇 キ ロ ︶ を 行 っ た と 考 え る の が 妥 当 で あ ろ う か。 京 都 で の 処 断 ま で 約 一 か 月︵ ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ 延 暦 二 十 一 年 条 ︶ か か っ た の は、 そ の 間 の 大 半 を 移 動 に 要 し た か ら と 考 え る こ と が で き る。 ま た、 四 月 十 五 日 の 投 降 か ら 田 村 麻 呂 と の 対 面︵ 尋 問 ︶ ま で 三 か 月 弱 を 要 し た の も、 胆 沢 城 の 完 成 を 待 っ て と い う よ り、 都 へ の 答 申 が そ れ だ け の 時 間 を 要 し た こ と の 反 映 で あ っ た だ ろ う。 な お、 ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ は、 延 暦 八 年︵ 七 八 九 ︶ の﹁ 巣 伏 の 戦 い ﹂ で 朝 廷 軍 が 陸 道 の ほ か に 河 道︵ 北 上 川・ 衣 川 ︶ や 海 道 を と っ た ことを記している。特に河道は蝦夷軍の反撃に遭って多くの犠牲者を出したが、それらの進路が実際に選ばれていたことを知る。 ︵ 19︶ 片 山 長 三 編﹃ 交 野 町 史 ﹄︵ 大 阪 府 北 河 内 郡 交 野 町 役 場、 一 九 六 三 年 ︶ な ど 参 照。 ち な み に、 こ の 段 の 逸 話 を モ チ ー フ と し た﹁ 伊 勢 物 語 絵 巻 ﹂︵ 東 京 国 立 博 物 館 蔵 ︶ は 有 名 だ が、 ﹁ 伊 勢 物 語 図 屏 風 ﹂ 左 隻︵ 国 文 学 研 究 資 料 館 鉄 心 斎 文 庫 蔵 ︶ に も、 八 十 二 段 に 描 か れ た 花 見 を 描 い て い る︵ 荒 木 浩﹁ 文 遊回廊﹂第一八回﹁伊勢物語   八十二段﹂ ﹃京都新聞﹄二〇一九年三月一八日︶参照︶ 。 ︵ 20︶ 七 百 人 近 い 死 傷 者 を 出 し た 昭 和 十 四 年︵ 一 九 三 九 ︶ の 禁 野 陸 軍 弾 薬 庫 に お け る﹁ 昭 和 の 大 爆 発 ﹂ に つ い て は、 枚 方 市 教 育 委 員 会 文 化 財 課 編﹃ 禁 野 火薬庫爆発遭難手記︵枚方市史資料第九集︶ ﹄︵同課刊、二〇一九年︶に詳細に記録されている。 ︵ 21︶守口市史編さん委員会編﹃守口市史︵本文編第一巻︶ ﹄︵一九六三年︶によれば、 室町時代には﹁森口﹂ ﹁守口﹂両様の表記があり、 ﹁守口﹂より﹁森 口﹂ という表記が多いという。同市史は、 守口周辺から生駒山地、 特に飯盛山 ︵南東方向︶ に向けて広がっていた原生林の入り口という意味の ﹁森口﹂ が、 の ち の 石 山 本 願 寺︵ 大 坂 城 ︶ と の 関 わ り で﹁ 守 り ﹂ と い う 意 味 が 加 わ り﹁ 守 口 ﹂ に 変 遷 し た と す る。 ち な み に、 ﹁ モ レ ﹂ と﹁ モ リ︵ 森 ︶﹂ と の 近 似にも注意しておきたい。 ︵ 22︶ 管 見 の 限 り 、﹁ 杜 山 ﹂ と い う 地 名 も 現 存 し な い 。﹁ 杜 山 ﹂ を 含 む 複 合 語 地 名 と し て は 、 福 島 県 に ﹁ 尖 杜 山 ︵ と ん が り 森 山 ︶﹂ が あ る の み 。 狩 り 場 の 歴史は、古墳時代に開かれた牧︵馬の放牧場︶以来の土地の記憶であろう。枚方や枚岡の﹁枚﹂は、本来は﹁牧﹂であったとする説も根強い 。 ︵ 23︶都市地図・大阪府 27﹁交野市﹂ ︵昭文社、二〇二〇年十一月 4 版 3 刷︶より、一部をトリミングした。 二〇

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︵ 24︶市場については、 網野善彦氏の一連の論考に詳しい。中世が中心ではあるが、 ﹃日本中世に何が起きたか﹄ ︵日本エディタースクール、 一九九七年、 洋泉社MC文庫、 二〇〇六年︶ 所収の論考や補論 ︵廣末保氏との対談 ﹁市の思想﹂ ︵﹃グラフィケーション﹄ 一九八〇年一月号︶ などが示唆に満ちている。 ︵ 25︶﹃柏原市文化財概報 二〇〇二│Ⅲ 大県遺跡群分析調査報告書﹄ ︵柏原市教育委員会、二〇〇三年三月︶参照。 ︵ 26︶ 田 中 淳 夫﹃ 森 と 日 本 人 の 一 五 〇 〇 年︵ 平 凡 社 新 書 ︶﹄ ︵ 平 凡 社、 二 〇 一 四 年 ︶、 太 田 猛 彦﹃ 森 林 飽 和 国 土 の 変 貌 を 考 え る︵ N H K ブ ッ ク ス ︶﹄ ︵ 日 本 放送協会、二〇一二年︶ 、木下勇作﹃交野探訪﹄ ︵彩都社、二〇〇四年︶など参照。 ︵ 27︶都市地図・大阪府 11﹁枚方市﹂ ︵昭文社、二〇一九年 7 版 1 刷︶より、一部をトリミングした。 ︵ 28︶森迫博美﹃河内・歴史の古里﹄ ︵法政出版、一九九一年︶ 。 ︵ 29︶戸川点﹃平安時代の死刑﹄ ︵吉川弘文館、二〇一五年︶参照。 ︵ 30︶戸谷学﹃ニギハヤヒ│﹃先代旧事本紀﹄から探る物部氏の祖神︿増補新版﹀ ﹄︵河出書房新社、二〇一六年︶二一七頁参照。 ︵ 31︶ 注︵ 28︶ の﹃ 河 内・ 歴 史 の 古 里 ﹄ で は、 ﹁ 宇 山 の 地 は、 従 来 か ら 坂 上 田 村 麻 呂 の 蝦 夷 平 定 の 折、 降 伏 し た 蝦 夷 の 首 長・ 大 墓 君 阿 利 為︻ た も の き み あ て り︵ る ︶ い ︼ と 盤 具 公 母 礼︻ い わ ぐ の き み も れ ︼ の 二 人 を 延 暦 二 一︵ 八 〇 二 ︶ 年 に 斬 っ た︵ ﹃ 日 本 紀 略 ﹄︶ と さ れ て い る ﹂ と、 宇 山︵ 枚 方 市 ︶ が そ の 地 で あ る と す る。 そ の 根 拠 は、 ﹁ 宇 山 の 村 名 が 元 和 元 年︵ 一 六 一 五 ︶ よ り 以 前 は 上 山 村 と 称 し た こ と が 文 献 上 明 ら か な の で、 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄︵ 補 ︶ にある﹁河内国植山﹂が変化して﹁上山﹂になったとする考えによるものである。なお、 ﹃日本紀略﹄には写本の違いにより、 他に﹁河内国椙山﹂ ﹁河 内国杜山﹂という別の地名も知られている。 ﹂としている。やや迂遠な考え方であるが、念のために引用しておきたい︵一部傍訓を省略︶ 。 ︵ 32︶朝日新聞社編﹃朝日日本歴史人物事典﹄ ︵朝日新聞社、一九九四年︶ ﹁悪路王﹂の項︵瀧波貞子氏執筆︶ 。 ︵ 33︶ 樋 口 知 志﹃ 阿 弖 流 為 夷 俘 と 号 す る こ と 莫 か る べ し︵ ミ ネ ル ヴ ァ 日 本 評 伝 選 ︶﹄ ︵ ミ ネ ル ヴ ァ 書 房、 二 〇 一 三 年 ︶ 参 照。 ち な み に、 ﹁ 幼 少 期 の 田 村 麻 呂 に つ い て は 史 料 こ そ な い も の の、 宝 亀 元 年︵ 七 七 〇 年 ︶ に 称 徳 天 皇 が 崩 御 し て 光 仁 天 皇 が 即 位 す る と、 父・ 苅 田 麻 呂 が 道 鏡 の 姦 計 を 告 げ て 排 斥 し た功績により同年九月一六日 ︵七七〇年一〇月九日︶ に陸奥鎮守将軍に叙任されている ︵宇佐八幡宮神託事件︶ ﹂ という高橋崇氏 ﹃坂上田村麻呂﹄ ︵吉 川弘文館︿人物叢書﹀一九八六年新訂版︶の指摘が田村麻呂と河内の関わりを示唆して興味深い。 ︵ 34︶ 田 村 麻 呂 の 後 、 文 屋 綿 麻 呂 が 就 い た の は 征 夷 将 軍 で あ り 、 平 将 門 討 伐 の た め に 将 軍 と な っ た 藤 原 忠 文 も 征 東 大 将 軍 で あ っ て 征 夷 大 将 軍 で は な い ︵ 忠 文 は、 藤 原 純 友 の 乱 に 際 し て は、 一 転 征 西 大 将 軍 に 任 じ ら れ て い る ︶。 よ し ん ば 彼 ら の 中 に 征 夷 大 将 軍 が い た と し て も、 頼 朝 は 明 ら か に 四 百 年 前 の 田 村 麻 呂 を 意 識 し た の で あ る。 そ れ は、 こ の 職 位 を 手 に 入 れ る こ と で、 弟 の 義 経 も ろ と も 平 泉 の 藤 原 一 族 を 根 絶 や し に し た 行 為 が 正 当 化 さ れ る と 二一

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念じたからでもあっただろう。 ︵ 35︶注︵ 33︶の高橋崇﹃坂上田村麻呂︵人物叢書・新訂版︶ ﹄︵吉川弘文館、一九八六年︶参照。 ︵ 36︶ 近 世 後 期 の 読 本 作 者・ 曲 亭 馬 琴 が、 作 劇 法・ 小 説 構 成 法 の ひ と つ と し て く り 返 し 言 及 し た。 人 の 名 前 に は、 そ の 人 物 の 性 格 や 人 格 な ど が 表 わ れ て いるという考え方。それを用いて描かれた作品として﹃南総里見八犬伝﹄ ﹃近世美少年録﹄などがよく知られている。 ︵ 37︶ 大 濱 永 亘 著 、 先 島 文 化 研 究 所 編 ﹃ オ ヤ ケ ア カ ハ チ ・ ホ ン カ ワ ラ の 乱 と 山 陽 姓 一 門 の 人 々 ﹄︵ 南 山 舎 、 二 〇 〇 六 年 ︶。 な お 、﹁ 赤 頭 ﹂ は 能 ・ 狂 言 や 歌 舞 伎 で 鬼 ・ 閻 魔 などがつける鬘の名称であることを付記する。 ︵ 38︶朝倉授﹁ ﹁大墓家﹂銘墨書土器と﹁大墓公﹂ ﹂︵ ﹃会報アテルイ通信﹄第六〇号、二〇一一年八月︶ 。 ︵ 39︶朝里樹﹃歴史人物怪異談辞典﹄ ︵幻冬舎、二〇一九年︶ 。 ︵ 40︶ ヤ マ ト タ ケ ル 伝 承 は 日 本 全 国 に 遍 く 分 布 し、 白 鳥 に な っ て 舞 い 降 り た 先 と 伝 え ら れ る の は 河 内 旧 市 邑 ︵ 大 阪 府 羽 曳 野 市 ︶ を は じ め 複 数 あ る。 鹿 野 山も、その中のひとつである。 ︵ 41︶﹃ 曽 我 物 語 ﹄︵ 真 名 本 ︶ の 一 節 に、 ﹁ 当 時 の 世 に は、 東 は 阿 久 留、 津 軽、 外 の 浜、 西 は 壱 岐、 対 馬 ﹂ 云 々 と あ っ て、 阿 久 留︵ 悪 路 ︶ は 辺 境 を 象 徴 す る地名のひとつとされていたことがわかる︵妖怪仝友会﹃大佐用﹄第一一八号、二〇一三年三月参照︶ 。 ︵ 42︶新野直吉﹃田村麻呂と阿弖流為﹄ ︵吉川弘文館、 一九九四年︶ 、 阿部幹男﹃東北の田村語り︵三弥井民俗選書︶ ﹄︵三弥井書店、 二〇〇四年︶も参照。 ︵ 43︶盛岡市教育委員会事務局歴史文化課掲載許可。 ︵ 44︶ た だ し 清 水 寺 は 京 都 盆 地 の 東、 む し ろ 東 南 の 端 で あ る。 四 天 王 に 祈 っ て 強 敵 を 討 ち 果 た す と い う 流 れ は、 既 述 の 通 り、 聖 徳 太 子 と 四 天 王 の 故 事 を 即 座 に 思 い 起 こ さ せ る。 イ ン ド で は 四 大 陸 の う ち 北 倶 盧 洲 を 守 護 し、 中 国 で は 須 弥 山 の 北 方 に 住 ん だ と さ れ る。 中 国 に お い て、 蕃 夷 が 北 方 か ら 侵 入 するという﹁北夷﹂の思想は、その後日本へも引き継がれた。 ︵ 45︶ 近年の成果として、 菅谷文則編 ﹃王権と武器と信仰﹄ ︵同成社、 二〇〇八年︶ 、 畠山篤 ﹃河内王朝の山海の政 ︵叢書 L'ESPRIT NOUVEAU ︶﹄︵白地社、 二〇一四年︶などがある。 ︵ 46︶ 拙 稿 ﹁ 河 内 イ メ ー ジ の 形 成 と 展 開 │ 河 内 の 文 芸 史 │ ﹂︵ 水 野 正 好 ・ 河 内 の 郷 土 文 化 サ ー ク ル セ ン タ ー ﹃ 河 内 文 化 の お も ち ゃ 箱 ﹄ 批 評 社 、 二 〇 〇 九 年 ︶ 参 照 。 ︵ 47︶拙稿﹁河内人の系譜│悪党と善人をめぐって│﹂ ︵﹃大阪春秋﹄第一五六号特集﹁河内人の足おと﹂総論、二〇一四年一〇月︶参照。 二二

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︵ 48︶水野祐﹃日本古代の国家形成   征服王朝と天皇家︵講談社現代新書︶ ﹄︵講談社、一九六七年︶など参照。 ︻謝辞︼ 本 稿 を 成 稿 す る に 当 た り、 図 版 掲 載 の 許 可 を い た だ い た 大 阪 府 西 大 阪 治 水 事 務 局・ 大 阪 市 都 市 整 備 局・ 昭 文 社 メ デ ィ ア ソ リ ュ ー シ ョ ン 部・ 盛 岡 市 教 育 委 員 会 事 務 局 の 関 係 各 位 に、 ま た、 特 に 図 版 の 取 り 扱 い 等 に つ い て ご 助 力 い た だ い た 大 阪 商 業 大 学 学 術 研 究 事 務 室 の 岡 村 良 子 氏 に 御 礼 申 し 上 げ ま す。 そ し て、 盛 岡 を 拠 点 と し て レ ン タ カ ー で 縦 横 無 尽 に 走 り 回 り、 本 稿 に 関 す る 地 域 の 土 地 勘 と 景 観 を 筆 者 に も た ら し て く れ た 宅 一 之 介 氏︵ 本 学 大 学 院 地 域 政 策学研究科修了︶に謝意を表します。 二三

参照

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