智慧︵冒旦目・般若︶が智慧にとNまらずに、慈悲 ① ︵冨局ロロロ︶として世間にはたらきでることによって、は じめて智慧は完成される。世間︵人間︶に対するはたら きかけのない智慧は意味を持たない・智慧が慈悲として 世間にはたらきでることによって、智慧と人間とのかk わり合いが可能となる。釈尊も諸経典もす今へてが智慧の 慈悲としての顕現にほかならない・智慧が釈尊として世 間にはたらきでたことによって、智慧と人間とのか&わ り合いが可能となり、それを契機として、智慧のはたら き.智慧の世間化・慈悲としての諸経典が、次女と生ま れ、われわれに与えられてきているのである。こkにい う百日目︵慈悲・悲︶とは、目色胃①冒︵慈︶﹁与楽﹂と区
智慧から慈悲への動向
l如来蔵︵佛性︶思想の本意I
はじめに
② 別して、普通、﹁衆生を憐み傷んで苦を抜くこと︵抜苦︶﹂ という意味に用いられているが、とにかく、冨昌目の 語源を求めてみると、く司引とく剛割とが与えられてい 麺亘割とは﹁注ぐ、撒布する﹂という意味であり、 く司割とは﹁作る、為す、示す、成就する、実施する﹂ という意味である。従って、冨昌目とは、より根源的 ℃、 には〃智慧を衆生に注ぐ〃ということになり、また〃智 、、、、b℃、bも、 慧が衆生の為に示され実施される〃ということになる。 こ&に明らかな如く、智慧が智慧にと図まらずに、世間 にはたらきでる︵注がれる.実施される︶ということ、 それが冨目目ということである。すなわち、智慧が世 間にでてはたらいている態を冨日目︵慈悲︶というの である。それが智慧のはたらき.智慧の世間的実用であ ↓︵ぜ○小
川
一乗
へ 〆 乙、聖法︵閏冒︲号目白い︶でありゞ目働目︵界︶は因含①目︶ という意味であるから、﹁聖法の因たるもの︵閏冒号肖︲ ⑤ 冒昌①言茸臼︶﹂、すなわち、〃果なる聖教にとっての因〃 という意味である。法身が、法界から聖教へというこの 因果関係において説かれているわけであるが、その場合、 聖教の因としての法界と果としての聖教とが$等流︵ロ耐︲ 茜目四︶という言葉で結ばれていることに注意すべきで ある。鳥冨目四︵等流︶とは、巳く馴隣目︵8号弓§弓ロ︺ 8号葛旨さ︶を語源とし号昌侭:急冒︶冒昌凋冒8 という意味であるが$そこにはロの。の閉騨q8目の①骨①国。の︾ ⑥ 画①O①閉口qHの、自序という用例も見いだされる。従ってそ れは、法界が聖教という世間的な思想言語︵はたらき︶ として〃流れ込むこと″であり、またそのように〃流れ 込むこと″は法界にとっての〃無くてはならない必然的 な成り行︵結果︶〃なのである。こ&に$出世間的勝義空 性としての法界から、世間に思想言語としてはたらきで た聖教へという動向→すなわち智慧から慈悲への動向が、 等流︵必然的な成り行︶として説かれているわけである。 かくして、法界と聖教という二態の因果関係において 示された法身が﹁遍満している﹂ということは、聖教と して世間にはたらきでている法身によって、われわれが 常に説法されているということにほかならない。もとよ り、法身という何らかの観念的形而上的な実体が遍在し ているということであろうはずがない。この点について、 宝性論の釈疏は次の如く説明している。 ⑦ ﹁法身を流布︵a出国︶する義が遍満の義であり、そ Ⅵ、 ℃、 れはまた︹法身の︺作業︵9頁目︲旨いⅡ冨貝画騨ロ︶が遍 、、℃、、 満していることである。すなわち、如来の聖教によっ て種点なる所化︵有情︶に教法︵号目目色︶が説示され ることにより、一切有情に対する︹法身の︺作業がは たらくのである。作業がはたらくことの可能性におい ⑧ て、一切時に法身が遍満している、といわれる﹂ と。この明快な説明によって明らかな如く、﹁法身が遍 ℃、、℃ 満していること﹂とは、法身のはたらき︵作業︶が遍満 していることであり、それは、〃法界の等流としての如 来の聖教によって、一切有情に対する説法がなされ、わ れわれは何時でもその説法を間きえる可能性の中にい る〃ということである。すなわち、智慧のはたらきとし ての慈悲によって、われわれが常に照らされはたらきか けられているという事実が〃法身のはたらきとしての説 法が遍満︵流布︶している″ということにおいて示され ようとしている。 31
この点について、宝性論の所論を、釈疏によって示す と次の如くである。 ﹁真如︵冨昏四菌︶は、如来と有情との両者の本性にお いて差別せらる録へきでないが故に、〃一切有情は如来 ⑨ 蔵を有する″と説かれる﹂ と︺真如︵菌昏勤菌︶とは、旨昏国さ丘目○ず菌ぐ儲菌昏画 ⑩ ︵物があるが如くにあるすがた︶という意味であるから、 その〃あるが如くに〃という本来性︵本性︶からいえば、 如来と有情とに差別はない。そこで、〃あるが如くに〃 、、、℃ ある智慧的なものからはたらきでた如来︵真如より来た れるもの・慈悲的なもの︶に対存して〃あるが如くに〃 おかれていない有情の現存在が、〃あるが如くに〃おか れねばならないと指向せられていく。そこに対象とな り求められている有情の〃あるが如くにあるすがた︵真 如︶〃がすなわち如来の真如である。その意味において 〃如来蔵が有る〃と語られる。 こkには、智慧から慈悲への動向が具体的に示されて いない。けれども、〃真如が無差別である〃という点より (B) 如来の真如が無差別であること 〃如来蔵が有る〃と説かれていることの意味において換 言すれば、それは、真如より来たれる如来今鼻冨︲侭鱒菌︶ によって、〃あるが如くに〃おかれていない有情の真如 が顕現︵官篁旨習﹃P目︶せしめられ、〃あるが如くに〃お かれていくこと、すなわち$有情が如去︵国昏甲彊国︶せ しめられていくことである。そういう実践的な態におい て、〃あるが如くに〃おかれねばならないと指向せられ 願われている自己が顕らかになってくる。それは〃智慧 の願い〃lそれを本願とい典得るだろうがlでぁ急 従って、〃智慧の願い〃によって願われている事実、智 慧のはたらきとしての慈悲︵如来︶によってはたらきか けられている事実において、いまの場合での〃如来蔵が 有る〃という意味がありえるわけである。 まず、種姓命○茸四︶についての宝性論の説明を、釈疏 に従って示すと次の如くである。 ﹁かの︵如来の︶種姓は二種であると知る蕊へきである。 無始以来より心の本性に住する本性住の種姓︵冒四肩︲ はめ昏色︲唱可秒︶と、間と思とを縁として新たに修得せら (C) 如来の種姓が有ること 32
⑪ れたる種姓︵圏日ロ3昌菌︲噌可妙︶とである﹂ と。こ典に、種姓は二種の態で示されているが、それは 〃本性住の種姓″から〃修得せられたる種姓″へという 動向、すなわち智慧から慈悲への動向を示している。こ のように、﹁如来の種姓﹂が〃本性住の種姓″から〃修 得せられたる種姓″への二態に分けられていることにつ いて、さらに理解を助けるために$宝性論の所論を釈疏 によって要略して示すと、次の如く佛身との関係におい て解釈されている。 ﹁本性住の種姓と修得せられたる種姓とのこれら二種 の中で、第一の︹本性住の︺種姓によって法身︵&︺閂日勤︲ 冨冒︶が得られ、第二の︹修得せられたる︺種姓によ って後の二色身︵昌冒︲圃冨・受用身と変化身︶が得ら ⑫ れる﹂ と。こ典に、法身と色身として示された佛身については、 後に少しく述、へるが、ともかく法身という智慧的なもの が、色身という慈悲的なものとして世間にはたらきでる ことにおいて、佛身の展開があり、佛身の完成があると いうのであるから、そこには、智慧から慈悲への動向が はっきりと示されている。特に第二の種姓が〃修得せら れたる︵留日且倒昌冨Ⅱ冒冒函凹o8日嘗普のe種姓″とい 以上の略説により、〃如来蔵が有る︵悉有佛性︶〃と語 られていることの意味が三義として示されていることに ついて、それら三義が智慧から慈悲への動向の上で常に 実践的勤行において、智慧の本義が宗成される守田侭 悲となって一切有情にはたらきかけるという必然的な 乗佛教における智慧から慈悲への動向は、常に智慧が慈 われていることは注意す識へきであろう。何となれば、大 ⑬ mo8目巨勝彦①e、へきであるからである。 そもそも、唱茸沙︵種姓︶とは、喝︵8葛︶+才四︵く申昌 Ⅱ8百○蔚昇︶と語源分解され、8罰§鼻︺、冒匡の旨 鴨己閏巴︶官○吋oは○国など多くの意味に用いられているが、 その中には量8﹀註尽日毎︸弾ご房︸名のg①⑳などの用例も ⑭ 見いだされる。従って、﹁属性・本来的に附属している 性質﹂という意味に理解すれば、﹁如来の種姓﹂とは、 ﹁如来に本来的に附属している性質﹂という意味となる。 この意味において、〃智慧から慈悲への動向は﹁如来に 本来的に附属している性質﹂︵如来の種姓︶である″と いうことになる。かくして、﹁如来の種姓が有る﹂とは 〃智慧から慈悲への動向を如来が自からの属性命○茸四︶ として有している〃という意味である。 33
問題とされ理解友釈されていることを知った。換言すれ ば、〃如来蔵が有る″と語ることは、すなわち智慧から 慈悲へという動向の事実を語ることであり︲それが三義 として、⑧法身︵聖教︶という果位的ない虫方で語られ、 ⑧真如という本質論的ない出方で語られ、⑥種姓という ⑮ 因位的ない虫方で語られたわけである。特に⑧二種の法 身における法界から聖教への動向、⑥二種の種姓におけ る本性住の種姓から修得せられたる種姓への動向など、 きわめて具体的であり、如来蔵思想の本意を顕著に示し ている。 ともかく、これらの内容によって如実に示されている ことは、すでに明らかな如く、〃如来蔵が有る″と語ら れる本意が、智慧のはたらきとしての慈悲によって、わ れわれ︵世間︶が常に照らされ願われているという事実 を自覚︵内証︶することにおいてはじめて明らかになる ということである。 さらに、〃如来蔵が有る〃と語られるとき、ともする とプトガラ説に類似した因中有果論的な観念で理解され がちであるが、そういう因中有果論的な観念が明らかに ⑯ 否定されていることも観取される。この点は殊に注意さ れるべきであろう。 ①]・目騏戸隠烏身鈩煕屋号○国苔①閃鼻邑侭目国菖g樹P の冒曾o目oは○口胃ぐによると、この一文は如来蔵経にお いて最初に述べられたものであろうとしている。 ②この所論については、拙文﹁佛︵如来︶と佛性︵如来蔵︶﹂ ︵印度学佛教学研究第十三巻第一号︶を参見されたい。 ③宝性諭の胃.月①弊や農︾]]lご・、弔忠︾﹄.ミーや高︾ ﹂.届.影印版西蔵大蔵経ごo]﹄畠︾z○.設忠.g豆1.・窪田 91匡冒動大正大蔵経第三十一巻八二八頁alb、八三 八頁b’八三九頁a・ ④東洋文庫所蔵本蔵外七十四目お里l隼. ⑤﹁聖法の因たるものであるが故に法界なり﹂︵胃穆合陰︲ H日昌①目可且号胃日且冨目乞という解釈は、中辺分別 論︵山口益校定本の陣.目①胤弓9.].巴︶などに見られ る法界に対する解釈。 ⑥モ’三ル梵英辞典などを参見・ ⑦9頁○︲g←○.旨.z四盟○當且①凶言昏の旨昏母習四︲ 呂酎巴昌︺圃国に依る。モ’三ル梵英辞典によると、この く吊胃Pに対して切冒①四昌侭﹄①鷲のロ凰○ロ︾昌昏巴○口などの 用例が与えられている。﹁流布﹂という訳語は、宇井伯寿 ﹁菩薩地索引﹂に依った。 ③東洋文庫所蔵本蔵外七十四]に四函︲今 ⑨東洋文庫所蔵本蔵外七十四認惠1畳騨胃 ⑩﹁真如﹂については、山口益﹁空の世界﹂︵三五頁︶を参 見されたい。新刊された合本﹁空の世界﹂︵理想社・昭和 四十二年五月︶では二五’三○頁。 ⑪東洋文庫所蔵本蔵外七十四]急豆︲。 34
智慧から慈悲への動向を説示するものとしては、勝義 から世俗へ、出世間から世間へ、無分別智から後得智へ、 自利から利他へ、などが用いられ、その他種友の表現の ⑲東洋文庫所蔵本蔵外七十四匡酊ごl岸急P画 ⑬山口益﹁動佛と静佛﹂︵七五頁以下︶、﹁空の世界﹂︵四八 頁以下︶などを参見されたい。合本﹁空の世界﹂では三九 頁、一二三頁など。 ⑭モ’三ル梵英辞典、アプテイ梵英辞典などを参見。 ⑮この点について釈疏には次の如く、 ﹁本性住の種姓と、有情の相続の中に有る有垢の真如とに、 何らかの差別があるか、と云はN、意味に何らの差別もな いが、たN設定に相違がある。法身︵㈲・果位︶に転依す今へ き因位︵⑥種姓︶と、如来の本性と︹有情の︺本性とが無差 別であること︵⑥真如︶を示す点によって、別之に釈せられ ている﹂︵東洋文庫所蔵本蔵外七十四塁四四︲際︶ と解釈されている。この釈疏によって明らかな如く、三義 として開示された内容が、一つの事実を三方面より示した ものであり、別灸に区別されるべきでないことが知られる。 ⑯ロ肖冒PIH目︲目の弓によって、この点は特にきびしく注意 されている。例えば、拙文﹁インド大乗佛教における如来 蔵・佛性思想について﹂︵東方学第三十輯︶一○九頁上段、 及び二○頁下段の脚註︵6︶を参見されたい。 三 仕方がある。それらの中にあって、最も具体的な表現と して佛身説がある。佛身の上で智慧から慈悲への動向が 語られるとき、それは、単に具体的であるばかりでなく、 実践的となり信解的となる。 宝性論においても、佛身に関する説述は多く、また一 つの特色となっている。先に述、へた如来蔵に関する三義 の中の○種姓に対する説明において$佛身説が用いられ ていることは、すでに指摘した通りである。この○種姓 に対する説明において示された佛身説が宝性論における 最初のものであるが、その他種女の佛身的表現がある。 ちなみに、それらを列挙すると、次の如くである。 ①勝義身︵意3日目昏煙︲圃冒︶←世俗身︵3日く日︲ ① ]内国望四︶ ② ②解脱身︵目三目︲冒園︶←法身︵目胃冒甲圃冒︶ ③ ③法身︵目胃日秒︲厨冒︶←色身︵昌冒︲闘制︶ 側自性身︵ゆく号冨己冨︲冒冒︶←受用身︵閨目go唱冒︲ ③ 圃冨︶・変化身︵口座胃日目時四︲冨冒︶ これらの中で、最も中心的に詳しく説明されているの は$④の三身説︵自性身・受用身・変化身︶であるが、 これら三身は、三身についての説明を目的として述べら れているというよりも、むしろ、③の法身︵自性身︶と 35
色身︵受用身・変化身︶との二身に大別され、自利から 利他へ、出世間から世間へ、智慧から慈悲へ;という動 向を説明する一つの具体的な表現方法として用いられて いると見ることができる。いうまでもなく、他のいと② との二身説も、智慧から慈悲への動向を表現しようとし て説かれているものであることはいうまでもない。 このように、宝性論において佛身に関する説述が重視 されている点について、その理由として、それが智慧か ら慈悲への動向を表現する具体的な一方法であることを 指摘したが、それは、智慧から慈悲への動向において、 智慧のはたらきとしての慈悲に照らされている事実を自 己の上に内証していくことに、如来蔵思想の本意がある ことを如実に指示しているといえる。従って、如来蔵が 、 〃佛を得るための因″という意味であることにおいて∼ 究寛的な唯一の帰依処としての佛宝が重視され、そこに 多くの佛身が説かれることになったと理解することも不 可能ではないが、それだけでは、如来蔵思想の本意を明 らかにすることはできないである。 ①宝性論の犀.崗斡も.臼︾第一偶alb影印版西蔵大蔵 経・ぐ。]・ぢ輿z○.訊思.]閉四]大正大蔵経第三十一巻八四 四頁a・自利を他を示すために用いられている。 如来蔵思想の歴史的思想的意義は、智慧から慈悲への ① 動向の事実l如来蔵思想の本意1$この事実におい て〃如来蔵が有る︵悉有佛性︶〃と語られていることにあ 、、、、、 る。この動向の事実が、常に不断にわれわれの存在する 限りはたらき続けられていく動的な態において、佛道と 、、 しての無住処浬藥があり、法身常住といわれる所以があ 、、、、 、、℃、、、℃、℃、、 る。法身常住とは、このような法身のはたらきが常住で 、、 ② あるということであらねばならない。それは、先述した 〃法身の遍満″が、法身のはたらきが遍満しているとい う意味であること良考えあわせて、きわめて明瞭である ﹄﹃ノ○ かくして、この動向の事実と対面して、そこに自己の ②宝性論の犀.目の灘や路︶第二十一’二十二偶勺霞︾ 第三十偶影印版西蔵大蔵経ぐ。]]房.z○.引蹟自侭四]︲画. 届画題︺大正大蔵経第三十一巻八四二頁alb。自利々他 を示すために用いられている。 ③③と④とは宝性論における佛身説の中心的なものであり 七金剛句︵佛・法・僧・如来蔵・菩提・功徳・佛業︶の中の 第四菩提以下は、すべてがこれらの佛身の脱明といえる。 結 び 36
〃佛を得ること︵成佛︶〃の可能性と不可能性とを探求し ていくところに、佛道における各自の問題がある。換言 すれば、〃智慧の慈悲″によってはたらきかけられ、〃智 慧の願い〃によって願われているという自己における事 実に対して、現存在の自己が対応し応答しているか否か という問題である。 ともあれ、可能性の確認であっても、不可能性の確認 であっても、ともにこの動向の事実の確認を大前提とし ている。すなわち、〃如来蔵が有る︵悉有佛性︶″と語 るのは、この動かしがたい動向の事実を表明しているも のであって、この事実はわれわれにおける成佛の可能性 ③ 不可能性の確認によって左右される蕊へきものではない。 もとより、可能、不可能ということは、われわれの分別 でしかない。 ①].H曾丙騨笛医︾鈩聾巨旦g]昔①屍④自侭○茸煙ぐぎロ口悪 の冒口c合旦旨冒冒胃では、この智慧から慈悲への動向の 関係を唱回巨目︲P名①目と罠①砂昌庁︲煙ぞCe庁というい・艮方で表 現し、この二面において、種姓︵ぬC貫色︶、真如︵冒昏色薗︶ 佛身、などを区分している。 ②この点について、拙文﹁四波羅蜜多について﹂︵印度学 佛教学研究第十五巻節一号︶を参見して戴きたい。 ③従って、自己における成佛の不可能性の確認によって、 〃如来蔵は無い〃と独断することは許されない。それは測 来蔵の私有化にほかならない。逆説すれば、〃如来蔵が有 る″と語られることにおいて、その事実に照らされて、は じめて、自己における成佛の不可能性の確認もありえると いうことである。法と機とでいえば、あくまでも、悉有佛 性とは法の事実であり、可能不可能とはこの事実と対面し た各自における機の問題である。 つ 向 ・ノ