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大乗における相即の論理の内景 -- 煩悩即菩薩の思想について --

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佛陀の悟りの内容が、いまだかって人類の経験したこ とのない大いなる世界を吾女に開示したものであったこ とは、その教法を遵守する者にとって疑いのない事実で あったが、人間の迷妄を破って光り輝く生命の息吹きを 真の意味で生き生きと伝承するためには、大きな困難が 横たわっていた。佛陀によって覚られた真如法性の世界 は、三界を越えたものといわれるように、無明に覆われ た人間にとっては、とうてい夢にも考え及ばない世界の できごとであった。それはいわば迷いとは次元の異なる ものであって、悟りの世界は、迷いの衆生に説き示され 得るものではないからである。菩提樹下に悟りを成ぜら れた釈尊が、自から自受用法楽にひたりながら、あまり

大乗における相即の論理の内景

l煩悩即菩提の思想についてI

一 ① の喜びに驚嘆せられたと伝えられながら、佛伝は更にそ れに続いて、そのようにすばらしい法界の内景を衆生に 説き示すことを断念せられたとも記述するのは、それが 何らかの方法を構ずれば可能になるという性質のもので はなく、いかなる方法も手段も何ら役に立たないできご とに属する問題であることを示すものであろう。従って 悟りの世界は釈尊によって自覚されはしたが、それは吾 友衆生に開かれる性質のものではないのであって、迷え る衆生としての吾だの現実とは本来別世界のできごとで あったといっても過言ではない・悟りは本来吾左のもの ではないのであるから、梵天の勧請によりつつも、釈尊 がたやすくその勧めに応じられなかったのが、当然の状 態であって、再三の勧めによって説法をうゞヘなわれたと いうのは、吾友の常識的な観点からいえば奇妙な話なの

鍵主良敬

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である。次元の異なるものを結び合わせるということは 大体無理な話だからである。無理を無理と知りつつ、ど のような手段にうったえても結局は失敗に終ることを承 知の上で説法を承知されたとすれば、それは吾女の想像 を絶した世界のできごととならざるを得ないのてある・ 従ってゴータマ・シッダールタが悟りを開いて佛陀と なったということは、人類の精神史上、驚天動地のでき ごとであったことはいうまでもないが、佛陀が佛陀とし て真に完成したのは、菩提樹下の悟りそのものよりは、 不可能を不可能と知りつつ敢えて衆生済度のための第一 歩を踏み出された説法の時点にあるとみるのは、もっと もな説であるといわなければならない。ここでは悟りが 上求的智で表わされるよりも、下化的悲で示され、一切 の迷えるものを哀れんで止まない佛陀の大慈悲が明らか になったのであるから、その教えによって自己のあるべ き方向を示された者にとっては、佛陀の大悲こそ、佛陀 の佛陀たる総てであって、大悲がなかったならば、大智 がいかに大智であっても、それは吾女とは無関係になる とされるのである。しかしここでいわれる大悲が$ただ 大悲だけであるものではなく当然大智が大悲となるので あり、大悲とならない大智は大智ですらあり得ないとす れば、大智は即ち大悲であり、大悲もまた大智であるこ とにならざるを得ないであろう。 大智が大悲を通して吾点への語りかけとなり教説・説 法となった場合、それは色もなく形もない法性真如が、 色となり形となり言葉となるのてあるから、そこには決 定的な自己矛盾があることにならざるを得ない。示すこ とのできないものが示されたのであり、語ることのでき ない世界が語られたのであるから、それはある意味を示 す言葉ではあっても、何かいろいろなものを示す言葉で はなく、ものそれ自身、吾友そのものを真実の相に目覚 めさせる言葉として、言葉ではあるがただの言葉ではな いという意味をもち、人間をして人間の実相に呼び覚ま す言葉が、釈尊の説法となり、その後の経典となったと いわねばならない。かくて言葉をこえた言葉である佛説 は常に具体的に生きてはたらいている永遠の生命の世界 から、その生命を失わずして吾友の世界に来生したもの であるから如来であり、如来である佛説は従って吾女の 普通に用いる日常語ではあり得ない・それは真実を失っ ている者を真実の世界に呼びかえす呼びかけであり$時 間・空間を超えて躍動して止まない法性のはたらきその ものであるということができよう。従って佛陀が目覚め 41

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た悟りの世界を指し示しているか否かが佛説であるか否 かを決定するのであるから、真如法性を表わしている言 葉はす、へて佛説となる。しかし具体的に生きたはたらき である法性を示すものが佛説であり、常に真如を語って いるものが経典であるとはいっても、経典として表われ た言葉に対して、吾左の感覚が麻蝉する時、経典は経典 としての生きた生命をもちながら、それを受け取る吾次 の側が、経典を読み取る力を失う故に、経典は経典とし ての生命を断つのである。 吾女は言葉によってすべてを考え、語り、記憶し、感 受するのであるが、はじめは生き生きとした生命の息吹 きを感ずることのできた言葉にも、それに馴れることに よって感覚を失って行く。そこに言葉の固定化・概念化 があり、誤解・固執が生じてくる。吾女は生きたはたら きを現わしていた言葉を$自己に都合のよい解釈を加え ることによって、真にその持てる意味を理解することな しに、理解したと錯覚して抹殺するのである。経典は常 に生きている。しかしそれを受け取る側の吾だが経典を 殺して行く。そこに大乗佛教の成立した理由を観、大乗 経典の生れた根拠をさぐることはできないであろうか。 吾女の失った感覚を呼びさまし、曇った心を浄めようと 以上のような観点から大乗経典をみた場合、最もよく 佛陀の悟りの内容を表わした経典の一つが華厳経である ことは疑いない。華厳経は釈尊が自己の悟った悟道の世 界を誰かに説いたものではなく、悟りの世界が悟りその ものとして説かれたもの、佛を佛として説いたものであ ② るといわれるように、佛陀が佛陀であるための内景が開 示されているといってよい。言葉をこえてある世界が言 葉となった場合、それが如何なる様相を呈するものであ るか。対告衆に対する何らの顧慮もはらわれずに述舗へら れる佛陀の悟りの世界は、それ故に生命そのものとして、 迷いに沈浦する吾女にはほど遠いものとしての感はまぬ がれない。しかし吾女がこの経典に接してその融通無碍 な描写に唖然としながらも、そこに説かれる佛の世界の 広大無辺さに何らかの形で心を引かれるのは、吾女の常 識を絶した世界が開かれていることに薄女にもせよ気付 ということができるであろう。 ないといわれる点からも、大乗佛教こそ根本佛教である とみることができるとすれば、真如は固定したものでは して、生きて躍動した法性のはたらきが大乗経典である 二 42

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くと共に、そこに述べられている世界が、単に吾女とは 別個な世界であるというのではなく、迷妄の中にある吾 友にもある意味で手懸りは全く失われているのではない ことが知られているからではないであろうか。かくて佛 の悟りが悟りとして説かれ、佛が佛のままで示されてい るこの経は→まさしく雑華厳飾としてあらゆる華友によ って荘厳された佛の世界を表わしているのであるが、そ の佛を端的に一即一切・一切即一の論理において示して ③ いるところにこの経の大乗佛教的一性格をみることがで きるように思われる。 佛陀の悟りの内容が生きたはたらきとして活動して止 まないものとすれば、それを概念化したり、固定化して とらえることのできるものでないことは当然である。生 きたものを生きたままで示そうとするために、かかる表 現がとられたのであると考えれば、吾女の陥りやすい固 定化を打破するためには、概念の世界での全く矛盾する あり方を以って示す以外にはない・吾女の常識の世界で は一はどこまでも一であって多ではなく、多は多以外の 一であることはあり得ない。多が多でありながら㈲しか もそのままで一であり、一が一を止めずして多であると は全く矛盾した概念である。一即多・多即一の論理は現 実の吾友の立場からはうべなうすくもないが、華厳経は このような世界こそが、佛の開いた悟りの境地であると して→その生きてはたらきつつある姿を示そうとして いるのである。生きたものを形骸化して示すことは簡単 である。しかし生きたままで示すことは大変な難事であ る。難事というより不可能である。死んだ屍のみにしか 接したことのない吾左は、生きたものを生きたままで示 されても、それを死んだものとしてしか見ることができ ないからである。しかるに経はそのような人間の無始以 来の迷妄を根底から打ち破って、真にあるものをあるが ままに見よと叫んでいるのである。それが一即一切。一 切即一によって示されている佛の悟りの内容であるとい えるのであろう。そしてその証悟の内容が本来相即の語 で表わされるごときものなのである。それは一は一、多 は多である吾女の日常的意識をこえたものであるから、 一にして多、多にして一の世界となる・華厳経が人間の 常識に反するような象徴的表現を以って、佛陀正覚の内 景を示そうとするのも、かかる象徴的表現で以って相反 するものの相即といわざるをえない生きた悟りの内容を 直感的に示そうとしているからに外ならない・佛の世界 は一刻も停滞することなく、念女に動いて止まない境地 4 3

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である。その無限に進展して尽きない世界が生きたまま で吾女に開示された時に、大乗佛教の根本精神ともいう べき煩悩即菩提・生死即浬梁となるのではなかろうか・ 華厳経巻第二十五、十地品には﹁菩薩の罪に汚されざ ④ るは、蓮華の水に在るが如し﹂といい、その少し前に、 是の如く菩薩此七地に住すれば、諸女の波羅蜜の船 に乗り、能く実際を行じて、而も実際を証せず。菩 薩は是の如く大願力を以ての故に、智慧の力を得る 、 が故に、禅定智慧より大方便力を生ずるが故に、深 、も、、、、、、、、b、、、b、、、 く浬梁を愛すと雌も而も身を生死に現ず。春属に囲 逹せらると雌も、而も心は常に遠離す。願力を以て の故に、三界に受生するも、世法の為に汚染せられ ず。心は常に善寂なるも、方便の力を以ての故に、 、、℃、、、、b︲やも、、 而も還って熾然たり。佛智に随行し、声聞鮮支佛地 ℃、、、、、℃、、、、、、、、、、もも を転じて佛の法蔵に至るも、而も魔界を現ず。四魔 を過ぐと雌も、而も魔行を現ず。外道の行を現ずと 誰も而も佛法を捨てず。身を一切の世間に現ずと雄 ⑤ も、而も心は常に出世間の法に在り。 といわれるのも、相即の論理の最も端的な表れとみるこ とができよう。佛道を歩むことの目的は、当然なことな がら解脱を得ることである。三界六道の迷いを超えて真 相即としての一の世界$それは本来人間にそなわった 法性の世界である。自己にあるそのような世界を失うと では、得られた安楽が既に停滞になる。菩薩の願いが生 たいとはいってもゞそれをのがれて安堵しようとするの いかに吾友が煩悩に悩まされ苦しまされることが耐えが には現に深いエゴイズムが見出されはしないであろうか。 らない。しかし煩悩を断じて安楽を得ようとするところ ある。煩悩は断ぜられねばならず、蕊縛は解かれねばな がれて永遠の平安を得るかは、常に望まれてきた事実で 淌する吾友にとって、いかにしてその悩み苦しみからの められていることは言を待たない。苦悩の現実の中に沈 して迷妄に鑿縛する無明を破り、煩悩を断ずることが求 に自由無碍なる境地としての悟りを得るために、吾女を ⑥ 死に住せず浬藥に住せざる不住道であるといわれるのは、 無限に動いて止まない生命のはたらきに生きるものてあ るからに違いない・そこに生死を厭うことがただ単に生 死を逃げ避けるのではなく、生死の中にあって生死に染 汚されず、かえって生死を浬藥のかてとしていく大乗佛 教の根本精神があるといえるのである。 三 44

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佛陀の到り得た悟りの境地は、元来二を離れた一の世 界、一と二の対立を離れた不二の世界であった。従って 大乗経典があらゆる表現方法を用いて示そうとしている のも、そのような不二の世界、相反するものが相即して 体相章に﹁汲泥花﹂を釈して、 るというのである。それはまさしく諭註巻下、三、観察 死としての意味を失って、吾女を碍えるものではなくな ありつつ生死が即ち浬梁であると頷かれれば、生死が生 一無碍道という特別な道があるのではなく、生死の中に られない境地が現出することになるのである。そこには 経に﹁高原の陸地には蓮花を生ぜず、卑湿の派握に 乃ち蓮花を生ず﹂と言えり。此は凡夫煩悩の醒中に 在りて、菩薩の為に開導せられて、能く佛の正覚の 花を生ずるに職う。諒に夫れ三宝を紹隆して常に絶 ⑳ えざら使むと。 といわれる意味である。このような煩悩即菩提の論理の 受け取り方は、しかし論註独自のものではなく、既に広 く大乗佛教そのものの上に成立した思想であることが注 意されねばならない。 閲 いる境地の内景なのである・浄土論註において曇鴬の述 令へた相即の論理がかかる世界を指し示していることは明 白であるが、それが維摩経を背景としていることは、一 見してあきらかなる事実である。即ち﹁不断煩悩得浬藥 分﹂の語は弟子品第三で、舎利弗が宴座について維摩詰 にやりこめられるところで、 道法を捨ずして凡夫の事を現ず、是れを宴座となす。 心内に住せず$亦外に在らず、これを宴座となす。 諸見に於いて動ぜずして三十七品を修行す。是れを ℃、も、℃、、、、、、、、 宴座と為す。煩悩を断ぜず而て浬渠に入る。是れを 宴座と為す。若し能く是の如くにして座すれば、佛 @ の印可したまう所なり。 の語によるのである。人里離れた静閖処でなければ成り 立たない宴座ではなく、道法を離れないままで凡夫の事 が現ぜられる宴座が説かれるのであるから、吾左の日常 的生活がそのまま宴座となっているのである。日常生活 の外に別な道法があるのでなく、三界の輪廻をこえた意 味をもつ道法が、日常生活として現われているのが宴座 であるとされている。従ってそのような境地において成 り立つ心は、内にあるのでもなく外にあるのでもなく、 内外として現われながら、内外を否定し超越したものと 49

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してあることになる。あらゆるものの見方に左右される ことなく佛道修行が行なわれるのが宴座でありゞ煩悩を 断ずることなく浬藥に入るものこそが宴座であるとされ ている。﹁本当の端座の境地といふものは、既に非内非 外であるから、もはやそこには限定されたものといふも のは何も残らないのであって、いはば、それは一切の 〃何もの〃でもなく、一切の〃何か〃ではないのである。 つまり端座の自己というものは全く一切の限定を絶した ものであって、そういう点では、究極の意味で自在なる ものということができるのである。それは何ものでもな いが故に一切のものから脱却したもの、生死からも→煩 悩からも、諸縁からも、諸佛からさえも離脱したもの、 即ち佛教でいう〃解脱体″であって、端座といふもので、 甫めてわれわれは一切の繋縛から解放された人間になる ⑳ ことができるのである﹂といわれる所以である。 このようにして煩悩と菩提とは、体の上では無二であ る点が明らかになり、生死と浬梁が一体になるのが不二 ⑳ 法門に入ることになるのであるが、それが最も具体的に 示されるのは蓮華の譽職によるといえよう古来佛典が いろいろな形で蓮華を佛教の象徴として用いているよう に、蓮華はまさしく佛の目覚めた法の象徴なのである。 浄土論註に引用される維摩経中の名所も、そのような意 味で著名な譽職として知られているといえよう。即ち維 摩詰に﹁何が如来になる為の種であるか﹂を問われた文 殊師利が、有身・無明・負志擬等、六十二見及び一切の 煩悩は、皆是れ佛の種であると答え、それに付け加えて、 若し無為を見て正位に入る者は、復た阿褥多羅三読 、、、、、、、、 三菩提心を発す能はず。轡えば、高原の陸地には蓮 、園℃、、、、、、℃、bも、、、、、、℃も 華を生ぜず、卑湿の派泥に、乃ち此の華を生ずるが b℃ 如し。是の如く、無為法を見て正位に入る者は、終 に復た能く佛法を生ぜず。煩悩の泥中に乃ち衆生有 りて、よく佛法を起すのみ・又種を空に殖うるも、 終に生ずる能はず。糞壌の地ならば、乃ち能く滋茂 するが如し。是の如く、無為の正位に入る者は、佛 法を生ぜず。我見を起すこと須弥山の如くなるも、 猶ほ能く阿褥多羅三読三菩提心を発して、佛法を生 ず。是の故に当に知る今へし、一切の煩悩を如来の種 と為す。譽へぱ、巨海に下らざれば無価の宝珠を得 ること能はざるが如し。是の如く、煩悩の大海に入 酋 らざれば、即ち一切智の宝を得ること能はざるなり。 というのであるが、このような言葉が佛説として述べら れたとき、それは教条主義に対する真向うからの挑戦で 50

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あったといえるのではなかろうか佛陀の正覚の内容は、 本質的に三界をこえたものであり、無始以来の無明を破 ったものであったから、その点からみれば流転する吾女 凡夫の世間とはおよそほど遠いものてあるといえよう。 全き断絶の彼方に光り輝く浬梁の境地として、いかなる 方法によっても手のとどかないものとして恐れかしこま っていた保守的教条主義者にとって、悟りの世界は手の とどかない彼方にあるのではなく、かえって流転輪廻す る吾女の煩悩の生活そのものの中にあるという宣言は、 驚天動地の響きを与えたであろうことは想像に難くない・ 大乗佛教とは、伝承された言説に繋縛されることなく、 佛陀の真精神を、その心を心として表現したものである とはよくいわれる言葉であるが、何らかの典拠なしには 何ごとも語ることのできない現代の吾女も、大乗佛教を 学びつつ、既に大乗佛教によって徹底的に批判・攻撃さ れた教条主義に陥っているのではなかろうか。全く新し い生命をもって、煩悩こそが佛の種であるといいきった この恐る↑へき直感力・生命力は︲時間・空間をこえて今 もなお脈をとして吾女を鞭打って止まぬものがあるとい えるのである。 一切の悪、一切の不善こそが佛となる道への手懸りで あるということは、浬藥といわれる人間の帰る籍へき究極 の世界が、決して現実を離れた何処か遠方にあるのでは ないことを示している。かえってすゃへてを清浄なるもの と雑染なるものに分別し、雑染をすてて清浄をとるとい うところに、悪を恐れ、不善を忌避して清浄に寄りかか ろうとする執著の心を見抜いたといえるのである。有為 を厭い、無為でなければ、正しい浬藥の位ではないとす る立場には、既に無為という名の有為が含まれているこ とになるからである。そこでは無為にとらわれるのであ るから、真実の無上正等菩提心とはほど遠いものになる。 悟りの智慧を表わす蓮華は、清浄なる高原の陸地には 生じない・煩悩そのものである卑湿の涙泥こそこの華を 生ずるといわれるとき、煩悩の中にあって煩悩を恐れず、 しかも煩悩にけがされることのない智慧の姿をまことに 巧みに象徴しているといえよう。流転の凡夫である吾次 にとって煩悩はこの上もなく恐ろしい存在である。恐ろ しいが故に避けようとする心がますます煩悩に苦しむの である。煩悩を恐れない心とは、煩悩を恐れずにおれな い心の自性に気付いた心である。それは煩悩を恐れるこ とに安んじて耐えることのできる心である故に、その一 点においてかえって煩悩を恐れないことが可能になるの 51

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である。雑染の有為法をはなれてただ単にある無為法と は職人間の理想として考えられたものにすぎない。それ はおよそまことの佛の目覚めた法とは無関係となるので あろう。﹁煩悩の泥中にある衆生こそが、能く佛法を起 す﹂のであって、そこでは佛法が即ち煩悩の派泥を離れ てはあり得ないことを示している。しかも、衆生が煩悩 の泥中にありながら、能く法性の華を生ずるといわれる とき、煩悩を離れてはあり得ない衆生が、煩悩の汲泥を ふまえながら、なお且つそれをこえる意味をもっている ことを表わすのではなかろうか。煩悩の中に埋没してい るものが、単にその中に隠れ沈んでいるのでなく、その 泥をこえ出るところに正覚の華といわれる意味が明確に 示されるといえるであろう。しかしその華はこえ出たと いっても泥を離れたわけではなく、泥の中にありつつ、 しかも泥にけがされない。泥の中にありながら泥にけが されないということは本来あり得ないことであるから、 蓮華も泥を根拠とするかぎり、泥の限定を受けることは 明らかである。しかし泥中にあり泥の繋縛をうけつつ、 しかも泥にけがされないというのは、一見泥にけがされ てあるごとく見える蓮華のあり方は、泥をこえたという ところで煩悩の泥が泥としての意味を失っていることを 示すのである。泥の中にありつつ泥をこえているという のは、泥が泥としてはたらいていないということであっ て、そこではかえって佛法の華をささえる清浄の大地に 転換していることを意味するのである。本来恐る、へき煩 悩などはどこにもない・煩悩という不変の実体が対象的 にどこかにあるのではなく、かえって煩悩を忌み厭う心 l深い自己への愛著心があるにすぎない。そういう人 間の実相に目覚め触れることにおいて、吾友は全く意味 の転換した法性の華を自己の現実の上に咲き出だすこと ⑳ ができるのである。人間の目からは恐ろしく見えるもの の中にこそ、かえって恐れをこえるものがある。それが ﹁煩悩の大海に入らざれば、則ち一切の宝を得ること能 はざるなり﹂ということであり、無上佛道の完成である 一切智が、煩悩の大海を歩む一歩一歩の中に具現してい ることなのである。 維摩経に示される以上の如き煩悩即菩提の論理は、蓮 華の譽嶮としてはあまりにも有名であり、その後世に与 えた影響もはかりしれないものがある・従って﹁高原陸 地不生蓮華、卑湿派泥乃生此華﹂といえば、維摩経の全 一ハ 52

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く独自の教説のようにみなされがちである・維摩経の中 ⑳ には多くの有名な言葉があるが、この語もその特徴を示 す最も有名な表現の一つであることは疑いない。しかも 維摩経そのものが、出家佛教に対する在家佛教の痛烈な 批判として、よく民衆の心をとらえ、その痛快な叙述は あまりにも徹底的であったために、読む人の心底をゆり ⑱ 動かす力をもっていることは明らかである。佛教大辞典 も﹁蓮華﹂の項において前出の維摩経佛道品の語をあげ ているほどであるから、その著名度は押して知る︾へきも のがある。 古来蓮華は水中にあって水にそまないという点から佛 法の清浄性を示すものとして非常に度女譽嶮として用い ⑳ られているのは周知のことである。例えば中阿含経や文 ⑳ 殊師利浄律経はその一例であるが、水中にあって水に著 せざるものとしての蓮華が一歩前進して、清浄なる場所 に咲くのではなく、その逆の卑湿の汲泥の中にこそ華開 くものであるとして、煩悩こそ佛の種であることが強調 されだしたのは、やはり維摩経をはじめとする大乗経典 の特色であるといっていいであろう。この場合先述の如 く、あまりにも維摩経が著名であるため、その譽職が全 く維摩経独特のものとみなされやすいのであるが、以上 のごとき高原陸地不生蓮華といわれる思想は、維摩経の みが説述しているのではなく、当時、佛説への固定観念 打破をめざして、きびすを接して輩出したと考えられる 大乗経典一般の特色を現わす表現であったのではないか と思われる節がある。即ち、後漢の月支国三蔵支婁迦誰 の訳になる佛説遺日摩尼宝経には、 冥は久しく中に在りと雌も、火の明を見て敢て当ら ず。即ち去る。佛言く、是の如く迦葉、菩薩は数千 巨億万劫も愛欲の中に在りて欲の為に覆わるるも、 佛経を聞くこと−反すれば、善を念じて、罪即ち消 尽す。燈性の明とは、佛法中に於て智黙の明なるこ と是れなり。冥と愛欲と即ち為に消尽す。譽えば虚 空中に穀実の生ぜざるが如し。地に種れぱ乃ち穀実 を生ずる耳。是の如く泥疽中に菩薩を生ぜず。糞そ の地を治するに、穀種潤沢に生ず。愛欲の中に於て 、B、、、 菩薩を生ず。佛、迦葉に語りたまわく、唇えば曠野 、℃、、、、、、、、、、T、、、、、、、℃℃ の中、若は山上には蓮華及び優鉢華を生ぜず。菩薩 、、、、℃、、、、、℃℃、、、、、、℃b、、砂 は衆の阿羅漢僻支佛の法中より出でざるなり。臂え 、℃、、b、、℃、、、、、、℃、、、、、、、、 ば大破水の汚泥の中に蓮華優鉢華を生ずるが如し。 、、、、、D、、、b、、、⑪ 愛欲の中より菩薩の法を生ず。⋮⋮ q とある。 53

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又同経の異訳と思われる佛説摩訶術宝厳経︵一名大迦 葉品︶は晋代の訳であって翻訳者の名は不明であるが、 西晋のものとすれば翻訳はかなり古いものであることに なる。それには、 此の闇は必ず減す。是の如く迦葉、若し衆生ありて 百千劫中に結行を造作するも、一正観を以て無漏智 燈すれば即ち除尽することを得ること亦復是の如し。 替えば空中に五穀を生ぜざるが如く、菩薩も是の如 く、無為に従りて佛法を生ぜず。譽えば、大地の衆 微雑燥して五穀を生ずるが如し。菩薩も是の如く世 、、 の雑糠なる結縛の中に於いて乃ち佛法を生ず。臂え 、、、いb、℃、、、、、℃、℃、、、、、、、 ば陸地には蓮華を生ぜず、菩薩は是の如く無為より 、、、、、、b、n、、、、、、b、、泡、℃、 佛法を出生せず。臂えば派泥の水の雑蓮華を生ずる ℃、、℃℃、℃E、、、℃、、、、、、、、Ⅵ、 が如し。菩薩は是の如く邪の衆生の結縛の中より乃 、、、、、、⑫ ち佛法を生ず。:⋮. とある。 又この経の異訳として大宝積経の中にみられる普明菩 薩会︵古大宝積経︶は失訳であるが、秦録に附されてい ⑬ たものとして編入されたものといわれている。その経に は、 ⑭ 若し然燈する時は、是の闇は無力なり。去んと欲せ ずして必ず当に磨滅す、へし。是の如く迦葉、百千万 、 劫久習の結業も、一実観を以って即ち皆消滅す。其 れ燈明とは聖なる智慧是れなり。其れ愚闇とは諸の 結業是れなり。迦葉、臂えば種の空中に在りて能く 生長すること、本より已来是の処り有ること無きが 如く、菩薩の証を取るも亦復是の如く、佛法を増長 するも終に是の処り無し。迦葉、臂えば種の良田に 在れば則ち能く生長するが如く、是の如く迦葉、菩 薩も亦爾り。諸の結使有りて、世間の法を離れ、能 、、、℃℃、、、、、、E、 く佛法を長ず。迦葉、臂えば高原の陸地には蓮華を 、、、v℃、、、℃、℃、、、、、、、、、、 生ぜず。菩薩も亦復是の如し、無為の中に於て佛法 、、℃℃、、、、、E℃℃、、、、、、、、、 を生ぜず。迦葉、醤えば卑湿の派泥中に乃ち蓮華を 、、、、、、、℃、、℃、、、、、、℃、、、 生ずるが如し。菩薩も亦爾り。生死の瀕泥の邪定の 、、、、、、、、、b⑮ 衆生が、能く佛法を生ず。.⋮: といわれている。以上述べてきた一連の経典はいずれも 同一経の異訳であることが一見してわかるが、この宝積 部に属する経は、菩薩道とは如何なるものであるかを主 題として解明したそれほど長くはない経典である。翻訳 の仕方は時代が下るにつれて生硬さがなくなり、表現力 も豊かになってきている様子がうかがわれる。大乗経典 には違いないが∼長い佛教の歴史の上でも、それほど注 54

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目されなかった経典が、以上みたごとく佛典翻訳史の最 初期から、しかもその早い時期に数度に渡って紹介され、 その中に維摩経とまさしく帰を一にするような蓮華の臂 がみられるということは驚くべき事実ではなかろうか。 三訳の中では最も時代が新しいと思われる普明菩薩会の ごときは、鳩摩羅什の活躍した時代とほとんど時を同じ くするのではないかと思われるが、﹁高原陸地不生蓮華 ⋮。:﹂の表現→又それに関連して空中に種を植えても生 ずることはなく、焚壌の地にまくことにこそその種子の 生長する所以があるという譽嶮に関するかぎり、どちら かが真似をしたのではないかと疑われても弁明の仕様の ⑯ ないような酷似した表現形式をとっているということは∼ まことに興味ある事実としていろいろな問題をなげかけ ているように思われる。又内容についてみても、この経 は維摩経ほど劇的な構成をもつものではなく、逆説の妙 味もそれほど洗練されてはいないが、菩薩のあるべき理 想像を画く点においては既に大乗経典としての資格に欠 けるところはなく、すぐれた思想内容を胚胎していると いうことができる。維摩経ほど洗練されてはいないが故 に、かえってこの経の方が維摩経の前駆となったのでは ないかと思われるほどである。いずれにしてもほとんど かくて大乗佛教が説き示そうとした佛陀正覚の内容は、 ある一面からいえば煩悩即菩提・生死即浬樂の語で表わ されるような相即の世界であったといえようが→それを 端的な曹嶮を以って示したものが蓮華であるということ ができよう。清白なる純潔そのものとして、いみじくも 高貴な清浄性そのものでありつつ、根は混濁濁たる派泥 を離れることがないというところで、もともと佛教を象 徴する華であった蓮華が、改めて大乗を標傍する華とし れるのである。 景の上に成り立っていることが明確になったように思わ ただ維摩経としてあるのではなく、豊かな大乗精神の背 言ではない。これによって当然のことながら$維摩経は 神を裏付けした全く溌刺とした叙述であるといっても過 以上のような初期大乗経典にみられる豊かな菩薩道の精 かろうか。従って維摩経が述尋へようとする相即の論理も せた生命の息吹きを感ずる有力な一証左となるのではな 躍動して止まない法性真如が、その活動力をほとばしら つ経典があり得たということは、経典となって現われる 時を同じくして、一部分にもせよ全く近似した内容をも 七 55

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て再認識されてきたのである。清浄とは雑染を捨てたこ とではなく、かえってそれを内に包んでそれに汚されな いことであるという意味で、蓮華ほど巧みにこの真の意 味の清浄を具現化するものはなかったのである。従って その蓮華の象徴する世界は、まさしく吾女の帰すべき根 元の世界であり、到達すゞへき無上の境界であるから、佛 教徒がそもそもの始めから理想としていた浬渠の世界の ことであるといってもよいが、その浬藥が蓮華で表わさ れるとき、それは煩悩の吹き消された寂静の境地という ばかりでなく、動乱の真只中にありつつしかも静寂その ものである世界として見直されてきているのである。そ こでは捨てさるべき何ものもなく、一切が佛徳を讃嘆す る華点となるのである。まさしく雑華厳飾として、道端 の一本の雑草さえもが佛徳をたたえて止まない意味が見 出されたとき、それはただの雑草ではなくして、名もな くしてしかも無限の意味を内含する蓮華そのものとなる のである。一切が泥中にあって汲泥をこえた蓮華そのも のである世界こそ、佛陀の悟りの内容である蓮華蔵世界 海であるということができるのではなかろうか。維摩経 にせよ法華経にせよ、大乗佛教に述尋へられる蓮華は、そ れが正覚の華として智慧を象徴するものであるかぎり、 華厳経に説くような広大にして辺際なく、光明みちあふ れる意味をもっているであろう。ここに吾友は、改めて 華厳経が述、へようとしている浄土の意味を考え直してみ なくてはならない・華厳経の説く浄土がどれほど超現実 的表現をとろうとも、それが蓮華蔵世界海といわれる限 り、根は煩悩の大地・流転の三界を離れたものではない ことがわかるからである・ 佛陀の証悟は三界をこえたものであるという意味で声 ⑰ 間・縁覚にとっては如聲如唖であるといわれるが、三界 の中にありながら三界をこえた意味をもつが故に、水に あって水に著しない蓮華でたとえられるのであるとすれ ば、三界の外に悟りの世界が別にあるのではないことに なる。しかも三界といっても唯の三界ではなく、欲望に 悩みつつある苦悩の三界である。即ち華厳経が、先ず最 初に釈尊菩提樹下の悟りを寂滅道場会としてえがき、そ の後の叙述を菩提樹下を立たずして普光法堂会。天宮の 四会へと展開しながら、天といっても色界・無色界では なく、欲界のうちなる六欲天を離れてはいないというと ころに、愛欲を根とする蓮華の蓮華たる所以がのゞへられ ているとみることができよう。その点では愛欲こそが悟 りの世界なのであるともいうことができる。しかし三界 56

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がただ三界として流転の意味でのみあるとするなら、そ れは三界でもなくなる。流転でありつつ流転をこえた立 場があってこそ、安んじて流転の現実を流転して行くこ とのできる世界が開かれるのであろう。流転を厭うので なく、自からすすんで流転して行くことのできる立場で あってはじめて、流転の中にありつつ流転をこえたとい う意味が確立するのである。その流転を超えたという意 味が、論理よりも深いところにある人間の直観にうった えられて表現されたとき、あの華厳経の蓮華蔵世界海と しての浄土観が成り立つのではなかろうか。しかもその 蓮華蔵世界海が、静止的なものではなく、どこまでも躍 動して止まない展開を意味するものであるとすれば、真 実の道を求めて限りなく師を訪ねる善財童子によって象 徴される菩薩道のすがたこそ、まさしく蓮華の心である ということができるかもしれない。華厳経が、 一切衆の浄宝は、悉く光明の雲を放ち、十方諸の世 界に、一切皆充満す。一切の苦を滅除し、無上道を 安立す。妙色悉く普く、一切の世界海を照らす。此 の蓮華蔵世界海の内に於いて、この微塵の中に、 一切の法界を見る。一切の諸佛の雲、宝光明を放ち て照らす。是の盧舎那の刹には、無量の自在有り。 一切の衆生に等しき、蓮華の中の諸佛は、種種無量 ⑬ なる、自在変化の雲を興したまへり。 と述尋へるとき、そこには全く暗さというものの消滅した 光明赫女たる光そのものの世界が現出していることが感 取される。透明なまでに明るい、のびのびした何ものに も陣えられることのない世界、無邪気な遊戯そのものの 世界、一切が一であり、一が一切であり、すべてが佛で あり、す蕊へてが蓮華である。目のくらむような全くの自 由であり、全くの解放である。そのような世界こそ、吾 女の真に帰一す今へき浄土であり、目覚めるべき法界であ るのではなかろうかc 訂 ①例えば普咄経巻第七︵大正3.五二七・c︶﹁深奥桔州、 曜明無垢、吾已逮是、甘露無為、我今説之、衆人不解、如 吾今日、不如黙然:::﹂とあり。 ②金子大栄先生﹁華厳経概説﹂P三等参照。 ③賢首大師法蔵は探玄記巻第一︵大正弱・二九・b︶に おいて、事事無磯によりて教体を明す中に.即是一切、 謂如一教事既全是真理、真理即為一切事故、是故此一即是 一切、一切即一反上応知、此経云、若一即多、多即一、義 味寂滅悉平等、﹂という。 ④華厳経巻第二十五、十地品︵大正9.五六三・b︶ ⑤華厳経巻第二十五、十地品︵大正9.五六二・b︶ 戸 持 ・/

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⑥十地経論巻第八︵大正郡.一六八・alb︶﹁不住道行 勝者、不捨衆生、過去現在未来大悲摂勝故、一切所知法中 智浄故、一切種微細因縁集観故、不住世間浬渠故、如経復 以大悲為首、乃至観世間生滅故、﹂ ⑦華厳経にのゞへられる相即の思想を明らかにするために は、当然法蔵を噴矢とする華厳学派の見解を尋ねねばなら ない。又それに関連して生死即浬巣・煩悩即菩提の問題を 明らかにする場合にも、諸経論諸註釈家の見解をみなけれ ばならないが、今は充分にのべるいとまがないので、問題 解明の手懸りになる二・三の例を挙げるにとどめる。 華厳経明法品内立三宝章巻下︵大正妬・六二六・b︶﹁見 空則浬梁住、此即常在生死恒住浬楽也・:⋮﹂ 摂大乗論巻下︵大正釧・一二九・b︶﹁於生死浬藥、若 智起等等、生死即浬築、二無此彼故、是故於生死、非捨非 非捨、於浬梁亦爾、無得無不得、﹂ 佛性論巻第二︵大正釦.七九七・C︶﹁是故此人具行生死 浬梁平等之道、住無住処、雌行生死而不染、難行浬藥亦非 浄、但為大悲故、不捨生死、為般若故、不捨浬喋、⋮⋮﹂ 摩訶止観巻第一︵大正妬.六・a︶﹁煩悩即是菩提、菩 提即是煩悩、。⋮・・生死即浬梁、一色一香皆是中道、﹂ 法華玄義巻第九上︵大正調.七九○・a︶﹁知生死浬樂 不二、即一実諦、非枯非栄住大浬梁也、⋮:観生死即浬梁、 治報障也、観煩悩即菩提、治業障煩悩障也・﹂ 大宝積経巻第百一︵大正u・五六六・c︶﹁云何名為煩悩 本性、日煩悩本性是佛界本性、世尊、若煩悩性異佛境界、 則不説佛住一切法平等性中、以煩悩性即佛界性故、説如来 住平等性。﹂等。 ⑧真宗聖教全書二、宗祖部p四四 尚、親鴬と共に鎌倉佛教の双壁をなす道元は、その主著﹁正 法眼蔵・生死の巻﹂︵岩波文庫本、下、p二三九︶に﹁生 死のなかに佛あれば、生死なし。またいはく、生死のなか に佛なければ、生死にまどはず。:.:。もし人、生死のほか にほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、 おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよい よ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなえり。 ただ生死すなはち浬葉とこころえて、生死としていとふく きもなく、浬藥としてねがふゞへきもなし。このときはじめ て、生死をはなるる分あり。生より死にうつるとこころう るは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、す でにさきありのちあり、かるがゆゑに佛法のなかには、生 すなはち不生といふ。⋮:この生死はすなはち佛の御いの ちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御い のちをうしなばんとするなり。これにとどまりて、生死に 著すれば、これも佛の御いのちをうしなふなり。佛のあり さまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、 このときはじめて、佛のこころにいる。ただし心をもては かることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが 身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへになげいれて、 佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、 ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をは なれ佛となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。: :.﹂との。へて、相即の論理をみごとに展開させている。 58

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⑨真宗聖教全書二、宗祖部p四八三 ⑩真宗聖教全書二、宗祖部p五七五 親鴬はこのほかにも相即の思想を述。へている。次に和讃に おけるそれを二・三例示する。 高僧和讃︵真聖全二、宗祖部P五○五︶ ﹁本願円順一乗は、逆悪摂すと信知して 煩悩菩提蝋先二と、すみやかにとくさとらしむ。﹂ ﹁往相の廻向ととくことは、弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば、生死すなわち浬渠なり。﹂ 正像末和讃︵真聖全二、宗祖部P五一九︶ ﹁弥陀の智願海水に、他力の信心いりぬれば 真実報土のならひにて、煩悩菩提一味なり。﹂ ⑪真宗聖教全書三、列祖部p八七 ⑫真宗聖教全書三、列祖部P一二三 ⑬真宗聖教全書三、列祖部P三九○ ⑭真宗聖教全書三、列祖部p五○二 ⑮柏原祐義師﹁真宗通解全書I﹂p三四九参照。 ⑯一念喜愛心については大宝積経巻十八如来会︵大正n. 一○○・c︶に、 ﹁阿逸多、汝観彼諸菩薩摩訶薩、善獲利益、若有聞彼佛名、 能発一念喜愛之心、当狸如上所説功徳、心無下劣亦不貢高、 成就善根悉皆増上・﹂とある。 ⑰無量寿経優婆提舎願生偶註巻下︵大正蛆。八三六・c︶ ⑬無量寿経優婆提舎願生偶註巻下︵大正如・八四三・C︶ ⑲六十華厳、巻第五、明難品︵大正9.四二九・b︶、尚、同 一箇処の異訳、八十華厳、巻第十三、問明品︵大正皿・六 八・c︶には、﹁諸佛世尊、唯以一道、而得出離﹂とある。 ⑳道元、正法眼蔵・生死の巻︵岩波文庫本下p二三九︶ 、無量寿経優婆提舎願生偶註巻下︵大正如・八四一。a︶ ⑳巻上、弟子品第三︵大正哩・五三九・c︶ ⑳久松真一博士﹁維摩七則﹂p幻l翠取意。 ⑳論註にの‘へられる不二法門︵註⑮︶の説が維摩経巻中、 入不二法門品第九︵大正型・五五一・a︶﹁善意菩薩日、 生死浬渠為二、若見生死性、則無生死、無縛無解、不生不 滅、如是解者、是為入不二法門、﹂によることは一見して 明らかである。 @巻中、佛道品第八、︵大正皿.五四九・b︶ ⑳維摩経において維摩の自覚の上にみいだされるあのおお らかさは、煩悩を煩悩とは認めない、煩悩に動ぜざる全き 主体性の確立した、煩悩を楽しむ境地の落着きではないか と思われる。それに対し親鴬の場合には、人間の実相とし て、避けることのできない現実に直面しながら、なおかつ 避けようとして足掻きもがく凡夫の自性の深さに嘆く一面 がみられるのではなかろうか。両者ともに同じ境地を開き ながら、人間に立つと、法に立つとの違いによってその表現 から受ける感じには幾分の相違がみられるかもしれない。 ⑳例えば、佛国品、﹁若菩薩欲得浄土、当浄其心、随其心 浄、則佛土浄、﹂等。 ⑳織田得能編、佛教大辞典p一八一二。 ⑳中阿含経巻第二十三、青白蓮華経︵大正1.五七五・a︶ ﹁猶如青蓮華紅赤白蓮花、水生水長、出水上不著水、如是 如来世間生世間長、出世間行不著世間法、﹂ 面9

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同、巻第二十九、龍象経︵大正1.六○八・C︶﹁猶如白蓮 花、水生水長養、泥水不能著、妙香愛楽色、如是最上覚、 世生行世間、不為欲所染、如華水不著、﹂ ⑳道門品第四、︵大正且・四五二・b︶﹁文殊告日、人心本 浄、縦処微濁則無暇疵、猶如日明不与冥合、亦如蓮花不為 泥塵之所沽汚、﹂ ④佛説遺日摩尼宝経︵大正蚫・一九一。b︶ 支謙訳維摩詰経巻下、如来種品︵大正皿.五二九・c︶﹁夫 虚無無数不能出現住発無上正真道意、在塵労事未見諦者、 乃能発斯大道意耳、警如族姓子、高原陸士不生青蓮芙蓉新 華、卑湿汚田乃生此華、如是不従虚無無数出生佛法、塵労 之中乃得衆生而起道意、以有道意則生佛法、従自見身積若 須弥乃能兼見而起道意故生佛法、依如是要、可知一切塵労 之暗為如来種、又臂如人不下巨海、能挙夜光宝耶、如是不 入座労事者、豈其能発一切智意、﹂ ②佛説摩訶術宝厳経︵大正哩・一九六。c︶ ⑳失訳、附秦録、勤同編入︵麗本︶ 是旧宝積経一巻、失訳、今勘梵本編入︵聖本︶とあり。 ⑭闇と然燈の警嚥については、此警の前文は左の如くであ る。﹁警如然燈一切黒閻皆自無有、⋮⋮而此燈明無有是念、 我能滅闇、但因燈明法自無闇、明間倶空無作無取、如是迦 葉、実智慧生無智便減、智与無智二相倶空無作無取、迦葉、 臂如千歳冥室未曾見明、若然燈明時、於意云何、闇寧有念 我久住此不欲去耶、不也世尊、若然燈.::.︲一 浄土論註巻上︵大正如・八三四・bIC、真聖全目三一 ○︶には、有名な千歳の闇室の唇噛があって、﹁醤如千歳 闇室光若暫至便明朗、闇豈得言在室千歳而不去耶﹂といわ れる。論註の注釈では、この譽喘は大集経巻一︵大正昭・四・ C︶﹁響如一処百年開室一燈能破、汝等亦爾、無量世中無明 黒闇、今日能破如日月宝光﹂等︵如来秘密蔵経巻下、大正 Ⅳ.八四五・a︶によるものとされるが、宝積経にもよった と見るべきである。従って曇鴬が﹁高原陸地:⋮・﹂の文を 引用して﹁経日﹂という場合︵註⑳一︶にも、維摩経ばかり でなく宝積経をも意味していたと考える方が妥当であろう。 ⑮大宝積経巻第百十二︵大正n.六三四・b︶ ⑳維摩経、﹁臂如高原陸地不生蓮華卑湿鯲泥乃生此華、如 是見無為法入正位者、終不復能生於佛法、煩悩泥中乃有衆 生起佛法耳。﹂︵大正皿・五四九・b︶ 宝積経、﹁瞥如高原陸地不生蓮花、菩薩亦復如是、於無為 中不生俳法、迦葉、臂如卑湿塀泥中乃生蓮華、菩薩亦爾、 生死鯲泥邪定衆生能生佛法。﹂︵大正Ⅱ・六三四・b︶ 維摩経と古宝積経との関係については紙数の都合で充分 に論ずることができないので、別に稿を改めて考証するつ もりである。ちなみに空中に種を植える臂職については、 宝積経の三本と羅什訳維摩経にはみえるが、支謙訳維摩経 ︵註④︶にはない。 ⑰巻第四十四、入法界品︵大正9.六七九・blc︶﹁舎利邦、 目健連:.⋮如是等諸大声間、在祇疸林、而悉不見如来自在、 如来荘厳⋮.:清浄佛刹、如是等事皆悉不見、亦復不見不可 思議菩薩大会、.:⋮是諸功徳、不与声聞辞支佛共、以是因 縁、諸大弟子、不見不聞、不入不知、不覚不念、不能遍観、 亦不生意、何以故、此是菩薩智言境界、非諸声聞智慧境界、﹂ ⑬巻第三、慮舎那佛品︵大正9.四一二・C︶ 60

参照

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