ノエマと現実性
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(2) ノエマと現実性. に. 千. 葉. ︵三︶. のある箇所でフッサールは、﹁ノエマ的に思念されているⅩという同一的なものが、単に思念され. はじめ ﹃イデーンⅠ﹄. ︵リクール︶. と言われることがあるように、ノ. ただけのものではなく、現実的なものであるのはいかなるときか﹂という問いを発している。この間いに関して、こ の間いは超越論的観念論の中心的困難を際立たせているものである. エマと現実の対象との間の関係をどのようなものとみなすかは、難しい問題を含んでおり、研究者によって解釈の. 分かれるところでもある。われわれは、﹁ノエマと現実性﹂の問題の一端に、次のような仕方で光を投ずることにし. の関. たい。まず、二つの代表的なノエマ解釈を検討し、それらの対立点を明らかする︵第一節︶。次に、そうしたノエマ. 解釈の対立の解消を目指しているR・ベルネの見解を参照しながら、両解釈において﹁ノエマと現実の対象﹂. 係がどのように異なるのかを確認し、この確認を通して、どちらの解釈にも、﹁現実の対象﹂に関する議論に不備が. ︵第三節、第四節︶。この考察を踏まえて、最後に、﹁ノエマと現実の対象﹂. の関係に. 見られることを指摘する︵第二節︶。そして、この両解釈の残した問題点に関して、フッサール自身の主張を考慮に 入れつつ、考察を加えていく ノエマと現実性. 21.
(3) ︵結語︶。. フェレスダールのノエマ解釈とグールヴィッチのノエマ解釈. ついて、われわれなりの解釈を提示することにしたい. 1. の部分として、知覚されるノエマ・ゲシュタルト﹂であるという点に. D・フェレスダールとA・グールヴィツチの解釈の違いは、主に、前者においてはノエマは知覚されないのに対 し、後者においてはノエマは﹁全体︵対象︶. ある。フェレスグールでは、知覚されるのは対象であって、ノエマではない。それに対して、グールヴィッチでは ノエマは知覚可能な意味と見なされていると言える。. フエレスグールのノエマ解釈は、﹁フッサールのノエマ概念﹂という論文のうちに簡潔な十二のテーゼのかたちで ︵2︶. 示されている。そのテーゼの中からわれわれの議論にとって重要なものを取り出すことにしよう。. ︵abstractentities︶. である。. デルと考えようとするものである。テーゼ︵b︶、テーゼ︵C︶、テーゼ︵d︶からは、ノエマと対象がはっきりと区. テーゼ︵a︶がフェレスグールのノエマ解釈の基本テーゼであり、彼の解釈は言語表現における意味をノエマのモ. ︵f︶ 諸ノエマは特殊な反省、すなわち現象学的反省を通じて知られる。. ︵e︶ 諸ノエマはわれわれの感官を通しては知覚されない。. ︵d︶ 諸ノエマは抽象的存在者. ︵C︶ 作用のノエマは、その作用の対象ではない。︵すなわち、その作用が差し向けられる対象ではない。︶. ︵b︶ ノエマ的意味は、それを通じて意識が対象と関係するものである。. ︵a︶ ノエマは、内包的存在者︵intensiOna−entity︶、すなわち意味︵Sinn︸Bedeutuコg︶の概念の一般化であ. 22.
(4) 別されていることが見て取れる。ノエマが﹁内包的存在者﹂であり、﹁抽象的存在者﹂であるのに対し、対象はいわ. ば物理的存在者である。つまりフッサールの言葉で言えば﹁対象自体︵Gegenstandsch−echthiコ︶﹂であり、現実の. 対象である。この区別の論拠としてフェレスダールが挙げているのは、フッサールが﹃イデーンⅠ﹄で示した区別、. すなわち﹁樹木自体﹂と﹁樹木﹂として﹁知覚されたものそのもの︵Wahrg2nOmm2コea−ssO−ches︶﹂とのあの. く知られた区別である。フッサールは、知覚される対象=対象自体、例えば樹木自体は焼失し、化学的成案に分解. ︵3︶ ともない、と述べて、﹁対象自体﹂とノエマを区別している。さらにここから、︵e︶、︵f︶のテーゼをフエレスグー. されるのに対し、﹁知覚されたものそのもの﹂︵=ノエマ︶は、焼失することはないし、化学的成素に分解されるこ. ルは導き出している。ノエマは、抽象的存在者であるがゆえに、感官を通して知覚されるものではない。知覚され. るのは﹁現実の物・対象﹂であって、ノエマではない。では、ノエマについてなにごとかををわれわれが知るよう. になるのはいかにしてか。これに対する解答がテーゼ︵f︶である。ノエマは、反省によって知られるものであり、. それも、現象学的反省という特殊な反省によって、反省されるものである。. このようにノエマと対象を厳しく峻別し、対象を物理的存在者と見なす彼の解釈は、実在論的なものであると言. えよう。また、彼の言う﹁現象学的反省﹂は、対象を物理的存在者として前提したうえでの反省であるのだから、そ. れは、﹁存在するものとしてすでに与えられている世界の地盤のうえに立っている﹂ままに行われる反省、つまり自. 然的反省であることになる。したがって、彼の言う意味での﹁現象学的反省﹂においては、超越論的反省、すなわ. ち﹁直線的に︵geradehin︶世界の中にはいって生きている自我が現実に行った自然的な存在定立を、ともに行うこ 、1,. とはしない﹂超越論的反省が考慮の外に置かれている、と言うことができよう. 次に、このようなフェレスダールのノエマ解釈に対比させつつ、グールヴィツチのノエマ解釈を見ていくことに ノエマと現実性. 23.
(5) しょぅ。まず、フエレスグールとは異なり、ノエマと対象は同じ﹁身分﹂に属する、と彼が主張していることを指 摘す る こ と が で き る. ﹁現在のところわれわれは、知覚された物︵thiコgperCeiくed︶もまたノエマ的身分をもっていることがわかる、. ということを強調しておくにとどめねばならない。ノエマの体系としてそれはノエマ自身なのであるが、言っ ︵5︶. てみれば高次のノエマなのである﹂。. グールヴィツチの解釈では、﹁知覚される物﹂、つまりフッサールの言う﹁対象自体﹂が、﹁ノエマの体系﹂÷高次. のノエマ﹂であることになる。このことをもう少し詳しく述べている箇所を引用しよう。. ﹁したがって、知覚された物は射映的諸現出の集団、より正確に言えば体系的に組織化された全体であること. がわかる。知覚された物と特定の知覚ノエマとの相違と関係は、今やノエマ的体系の全体とその体系の一成貞 ︵6︶. とによって定義することができる﹂。. 以上から、二人のノエマ解釈においては、ノエマと対象との関係が異なっていることが見て取れたことと思う 者においては、ノエマは内包的存在者、意味の概念の一般化であって、知覚されない。知覚される対象は、﹁対. 彼においては、﹁射映的諸現出﹂という個々のそのつどの現出をメンバーとする体系の全体こそが、﹁知覚さ 物﹂であり、すなわち﹁現実の物﹂であることになる。. 24.
(6) 体﹂であり、物理的存在者である。それに対し、後者においては、知覚される対象は高次のノエマ、ノエマ的意味. の体系的統一体である。それゆえ、前者においては、ノエマと対象は、存在論的カテゴリーを異にするものである. ベルネの主張. 、I−、. 二つのノエマ解釈のこのような対立を解消することを試みているのが、R・ベルネである。彼は、ノエマを﹁イ. 2. のに対して、後者ではノエマと対象は、同じカテゴリーに属すると言うことができよう. ∵ト,. デアールで同一的な判断意味︵Urtei−sbede亡tung︶としてのノエマ﹂︵これを﹁意味論的ノエマ﹂と呼ぶことにする︶. と﹁現象学的に還元された﹃対象﹄としてのノエマ﹂︵これと、そのつどの﹁ノエマ的現出﹂とを合わせて﹁認識論. 的ノエマ﹂と呼ぶことにする︶に区分する。そして∴﹂の区分を先に取り上げた二つのノエマ解釈にあてはめて、フェ. レスダールらは意味論的ノエマを﹁ノエマ﹂解釈のモデルとしたのに対し、グールヴィッチらは認識論的ノエマ. 取り扱っている、と整理する。両者がともに依拠している﹃イデーンⅠ﹄には、区別されるべきこの二つのノエ 概念が混在しており、その混在ゆえに両者間の論争は生じた、というのがベルネの主張の骨子である。彼によれ ノエマはそもそも二重の意味を持った概念なのである。この見方に従えば、主に﹃イデーンⅠ﹄を引用するかた. で行われる二つのノエマ解釈に関して、そのどちらか一方が正しいと決定することがほとんど不可能であるのは. 然の こ と と な ろ う 。 意味論的ノエマの特徴は、イデアールな判断意味としてのノエマと現実に存在する対象との間には本質的な関 はない、という点にある。ノエマ的意味を通じて、言語的表現は表現される対象に向かうのであるが、その対象 ノエマと現実性. 25.
(7) 存在するか否かは、その表現にとっては、どちらでもよいことである。たとえば、﹁円い四角﹂という表現を考 みよう。これには、当然、対応する現実の対象は存在しない。そうであっても、その表現は無意味ではない二. これに対して、認識論的ノエマは現実の対象と本質的に関係を有している。つまり、認識論的ノエマは、現実 対象の自体所与性なのである。この点が、意味論的ノエマと相違する点である。そして、前者のノエマ論が﹁意 論﹂として展開されたのに対して、認識論的ノエマ論は、真理論・真理の論理学として展開されるものである。 ■〓■ の認識論的ノエマに、ベルネは次の二層を指摘し、両者を区別している。. がって、このような意味でのノエマを通じて意識が対象と関係するとしても、その対象は﹁述定的対象﹂であっ 必ずしも現実に存在する対象ではないということになる。. ルな判断意味に相当するのが、言語表現の意味をモデルとするフエレスダールの﹁ノエマ︵的意味︶﹂である。した. ︵10︶ の区別に関する困難をもたらした、とベルネは主張する。現実の対象と本質的な関係を有していないこのイデアー. なわち、現実の事態に関わる知覚が問題となる﹃イデーンⅠ﹄のノエマ論に導入したことが、﹁Ⅹ﹂と現実の事. もたないものであった意味的契機︵Sinnesm。ヨent︶として把握されるべき﹁Ⅹ﹂という概念を、認識論的考察、す. 定的対象﹂︵Gege邑andw。r各er︶にすぎないのである。それゆえ、そもそもは﹁現実の対象﹂とは何の関わりも. にすぎない。フッサールのノエマ論に導入された﹁Ⅹ﹂という概念は、この﹁何かあるもの﹂としての﹁対象. この﹁何かあるもの﹂は現実の対象ではありえない。それは、﹁諸述語の結合点・統一点﹂としての﹁対象﹂. 及しているのであり、それゆえ、その表現の対象が現実には存在しないとしても、理解可能なのである。このと. ︵9︶ かつ、この何かあるものが四角いものとして思念されているのである。このように、その表現は何かあるものに言. 四角﹂という思念は、何かあるもの︵etwas︶についての思念であり、この何かあるものが円いものとして思念され、. 26.
(8) ︵1︶ ノエマ的現出︵コOematischeErscheinung︶。瞬間的であり、時間的に個別化されるもの。構成するノエマ。. ︵2︶ 構成される統一的﹁対象﹂としてのノエマ。これは、︵1︶のノエマを通して﹁構成されるもの﹂として、︵1︶. のノエマ的現出からは区別される。この意味でのノエマは、有限のノエマ的諸現出を通じて構成される 一体であり、現実の対象の自体所与性である。さらに、このノエマは、現実の対象からも区別されねば らない。現実の対象は、無限のノエマ的現出を必要とする理念的なものだからである。. この︵l︶のノエマが、グールヴィッチの言う﹁射映的諸現出﹂としての﹁ノエマ﹂である、と言うことができよ. う。そして︵2︶のノエマは、彼の言う﹁対象﹂、すなわち﹁射映的諸現出の体系的に組織化された全体﹂と見なす. ことができる。︵1︶と︵2︶は互いに区別されねばならないものであるにしても、どちらも﹁ノエマ的身分﹂を有し. ているのであるから、この点でもグールヴィッチの主張と一致する。 このように見てくると、二つのノエマ解釈での﹁ノエマ﹂、﹁対象﹂という語の意味の違いがはっきりしてく. レスグールにおいては、対象は﹁物理的存在者﹂であり、現実の対象である。それに対して、グールヴィッチの. う﹁対象﹂は、現実の対象の自体所与としての﹁対象﹂であり、そのつどのノエマ的現出を通じて構成される統. 体としての﹁対象﹂÷知覚されたものそのもの﹂である。この﹁構成された統一体﹂とは区別される﹁イデアール. で同一的な判断意味﹂・﹁判断されたものそのもの﹂がフェレスダールの言う﹁ノエマ︵的意味︶﹂である。以上のベ. ルネの議論における諸概念とフェレスダール・グールヴィッチの言う﹁対象﹂、﹁ノエマ﹂の対応関係を表で示 以下 の よ う に な る 。. ノエマと現実性. 27.
(9) ル. ネ. 意 味. レ′. 1. ノ琶、. ダ ル. 埜. 28. 一体﹂と﹁現実の対象﹂の両方に対応させられているのは、﹁構成された統一体﹂と﹁現実の対象﹂をグールヴィッ. を意味する。また、グールヴィツチの﹁知覚された物﹂が﹁構成された統. ︹対象︺は、フェレスグールの言う意味でのノエマ的意味を通じて意識が関係する対象︵つまりフェレスダー. 対 対 1 れ 的. フェレスダールもグールヴィッチも、フッサールのノエマ論全体の一部分を見ているだけであり、そのために、﹁ノ. ベルネが明言しているわけではないが、彼の真意を汲んで二つのノエマ解釈を整理すれば、以下のようになろう。. チが同一視していることを表わしている。. *. た 物 出 イ ツ チ た 物. グ l ル ヴ さ れ. 出. な 判 断. 射 映 的 現 知 覚 さ れ 知 覚. ス. 聾 マ 象. フ ノ. 対 対. 田 ′」ナ 疋 7 ̄. ルのテーゼ︵b︶における﹁対象﹂︶. 現 述 イ 碍 ノ 田.
(10) エマ﹂ と ﹁対象﹂. という術語の意味に双方の間で食い違いが生じ、そして、このことが両者のノエマ解釈の対立と. いう見せかけを生んだ。このようにまとめることができると思われる。そうだとすれば、以下のことが問題となる。. まず、グールヴイツナのノエマ解釈では、﹁構成された統一体﹂としての﹁対象﹂と現実の対象とが同一視されて. いることが問題となる。つまり、﹁構成された統一体﹂としての﹁対象﹂とは区別される意味での﹁現実の対象﹂が. 見落とされているということが指摘されるべきであろう。もし﹁射映的諸現出の体系的に組織化された全体﹂が現. ︵12︶. 実の対象と同一であるとするならば、現実の対象は、残りなく規定されたもの・完結したものとなってしまう。つ. まり彼の解釈では、現実の対象の理念性が無視されることになってしまうのである。. 他方、フェレスグールは現実の対象を﹁知覚される対象﹂として確保してはいるが、その現実の対象が、超越論. 的還元を施されていない自然的態度における現実の対象であることが指摘されるべきであろう。彼の解釈には、超. 越的な現実の対象を、意識に志向的に内在するノエマとして捉えかえそうとするフッサールの超越論的現象学とは. そぐわない面があると言わざるをえない。また、フエレスグールの言う﹁ノエマ的意味を通じて意識が関係する対. 象﹂が必ずしも現実の対象であるわけではないということが問題である。フッサール意味論においては、イデアー. ルに同一な判断意味としてのノエマは現実の対象と本質的な関係を有していないのだから、判断意味の対象は、現. 実には存在してもしなくてもよい。つまり、この意味でのノエマ的意味を通じて意識が関係する対象は、常に現実. の対象であるとは限らないわけである。だとすれば、フェレスダールのノエマ解釈においても、彼の言うノエマを. 通じて意識が対象に関係するとしても、その対象が現実に存在する対象であるとは限らないことになろう。彼のノ. エマ解釈のうちでも、ノエマと現実の対象との関係は非本質的なものにとどまるはずである。このことは、知覚に. おけるノエマを、判断意味のような抽象的存在者と考えるだけでは、フッサール解釈としては不十分であることを ノエマと現実性. 29.
(11) 意味している。フェレスグールの﹁ノエマ﹂を、知覚という﹁現実の対象と必ず関わり合う場面﹂に適用するため. ︵13︶. には、単なる述定的対象が確かに現実の対象であることを確定する働きを問題にしなければならない。つまり、空. 虚な意味志向の充実、そして充実された意味を問題としなければならないのである。. ここまでの考案で明らかになったように、どちらのノエマ解釈にも現実の対象の取扱いに不備が見られる、と言. わざるをえない。したがって、われわれが問題にしなければならないのは、ノエマと対象、それも﹁現実の﹂対象. との関係である。この間題に関してベルネは、現実の対象をフッサールが理念的なものと特徴づけていることを指. 理念としての. ﹁現実の対象﹂. であることを指摘している。. 摘している。われわれは、理念としての現実の対象についてのフッサールの議論に立ち戻って、この間題を考察す ることにしたい。. 3. ベルネは、現実の対象が﹁カント的な意味での理念﹂. 〓■ 洞察される理念である﹂。. それは、フッサールが言うように、カント的な意味での理念なのである、すなわち十全な物所与性の形式的に. ねばならない。現実の物は、総合的に結合された諸現出の、無限で原理的に完結不可能な系列の統一体である。. ﹁現実の物︵wirklichesDing︶としての対象も、今しがた論じられた多様な現出の総合的統一体からは区別され. 30.
(12) これは、﹁理性と現実﹂という標題をもつ﹃イデーンⅠ﹄第四篇におけるフッサールの議論を踏まえたものである が、フッサール自身は次のように述べている。. 諸対象のみが、存在する、のであった。けれども、その際にわれわれが付け. ﹁われわれが以前に述べたところによれば、原理的にはただ不十全的にしか現出しない︵したがってまた、ただ 不十全的にしか知覚されえない︶. 加えておいた、限定的な但し書きを、看過してはならない。すなわち、こう但し書きを付け加えておいた。不. 十全的に知覚されるというのは、ひとまとまりの完結した現出においてのことである、と。つまり、ひとまと. ﹃実在﹄. というありさまにおいてならば、完全な所与. そして実は、自然もしくは世界という名称によって包括されるような一切. ﹃理念﹄. は、こうした諸対象に属するのである。. −. まりの完結した意識のうちでは決して完璧に規定されかつ同じく完壁に直観されて与えられることが不可能な の超越的対象、一切の. 諸対象が、存在するのである。. しかし、それにもかかわらず、︵カント的な意味での︶. 、卜,. 性は、その下図を描かれている︵くOrgeNeichnetsein︶のである﹂。. こと、特に﹁下. 31. とはどのようなことか、このことを簡単に確認していくことで、現実の物としての対象が. 実在的対象・超越的対象の完全な所与性が、﹁理念というありさまにおいて下図を描かれている﹂ 図を描かれていること﹂. 理念であるということの内容を明らかにしていこう。たとえば、ある物の見えていない側面を予測する場合、それ. がどのように規定されるかは確定してはいないけれども、少なくとも、それが物である限り、必ずなんらかの空間. 的な規定性をもつはずである。このことから、現出している物の見えていない側面の可能的な規定には、なんらか ノエマと現実性.
(13) の規則が与えられていると言うことができ、したがって、諸現出の経過も. ︵それが無限の経過であるとしても、少. なくとも︶ この規則に従っていると言うことができる。このように、何らかの規則に支配され、アプリオリに規定. にあたり、グールヴィッ. の組織化が開放的なものであったとしても. ばならない、と言うことができよう。グールヴィツチの解釈では、理念としての現実の対象が考慮されていないの. も有限的な﹁現出の総体﹂であり、﹁無限の完結不可能な現出連続体﹂という﹁理念としての対象﹂とは区別されね. 完結した総体であるにとどまることになる。したがって、彼の言う﹁ノエマの体系・全体﹂は、開放的ではあって. の過程︶ のそのつどの有限の諸現出から組織化されるものであるならば、その﹁体系・全体﹂もそのつどの有限で. ︵言い換えれば、われわれの経験の開放性を考慮したとしても︶、その﹁体系・全体﹂が組織化の過程︵経験の進行. 限られてしまっているのである。たとえ、この﹁ノエマの体系・全体﹂. 可能な諸対象﹂が見落とされ、対象が、そのつどの有限な射映的諸現出の総体としての﹁ノエマの体系・全体﹂に. ﹁ひとまとまりの完結した意識のうちでは決して完壁に規定されかつ同じく完壁に直観されて与えられることが不. と考えるわけである。ここに、グールヴイツチの議論の不十分さがあらわれていると言えるだろう。彼の議論では、. た意識・現出﹂のうちでは与えられえない対象が存在するとし、それが﹁実在﹂、つまり﹁現実︵の対象︶﹂である、. チの言う﹁高次のノエマ﹂としての対象にあたる。フッサールは、それとは別に、有限の﹁ひとまとまりの完結し. 完結した現出において知覚される対象﹂が、ベルネの言う﹁多様な現出の総合的統一体﹂. さて、先のフッサールの引用において述べられていた﹁不十全的にしか知覚されえない諸対象﹂、﹁ひとまとりの. とい う こ と の 内 容 な の で あ る 。. のである。そして、この下図を描かれた﹁無限の完結不可能な現出連続体﹂ということが、﹁現実の物は理念である﹂. されているという意味で、諸現出の連続体が、それも無限の完結不可能な現出連続体が、その下図を描かれている. 32.
(14) である。. 4. ﹁生身のありありしたありさま. ︵Leibhaftigkeit︶﹂. 現実の物が﹁総合的に結合された諸現出の、無限で原理的に完結不可能な系列の統一体﹂であり、﹁カント的な意. 味での理念﹂であること。そして、このことをベルネが、﹁多様な現出の総合的統一体﹂としての﹁対象﹂と﹁現実. という規定は、﹁現実の対象﹂. の規定の. の対象﹂ とを区別するために指摘していること。これらのことは、われわれの議論にとっても重要な主張として受 けとめるべきものである。. しかし、ここでわれわれが問題にしたいのは、﹁現実の物は理念である﹂. 一面であるにすぎない、ということである。もし、﹁十全的には与えられない﹂という面ばかりが強調されるならば、. それは﹁現実の対象﹂の不可知論を主張するものと誤解されることにもなりかねない。フッサールの議論において、. ﹁現実の物﹂は理念的なものとして議論されていただけではないことに、われわれは注意したい。フッサールは、現. ﹁生身のありありしたありさま﹂. という. において与. 実の対象を﹁理念﹂として規定したばかりではなく、現実を﹁充実﹂という観点からも取り扱っているのである。特 に、ここでわれわれが想起すべきは、現実性が、知覚的現在における. えられると見なされていることである。まず、﹁現実性﹂をフッサールが、﹁生身のありありしたありさま﹂ ﹁原的性格﹂ にも求めているということを、フッサールに即して確認しておこう。. 本稿の冒頭にも掲げた問い、すなわち﹁ノエマ的に思念されているⅩという同一的なものが、単に思念されただ. けのものではなく、現実的なものであるのはいかなるときか﹂という問いに答えるにあたって彼は、﹁現実に存在す ノエマと現実性. 33.
(15) ること﹂を﹁理性的に証示されうるものであること﹂と相関関係にあるものと見なし、この﹁理性的証示﹂ないし. は﹁理性的意識﹂の本性を探ることで、﹁現実﹂に関する先の問いに答えようとしている。そして、この﹁理性的意. ︵16︶. 識﹂の本性を探るという作業は、まず、知覚と想起との区別を示すというかたちで行われる。彼は、﹁想起の意識⋮⋮. は、原的に与える働きをするものではない﹂として、想起と知覚を区別しているが、この区別は、﹁純然たる意味な. だけでは不十分なのであって、意味の充実ということにも目を向けなければならないということになる。﹁思念され. 的に論じ、そこに﹁現実﹂との関わりを見出すためには、フェレスダールのようにノエマを抽象的存在者と見なす. したがって、﹁そこにおいて定立されたものが原的な所与性にいたりつくような設定立的な体験﹂である知覚を主題. ︵柑︶. つまり、知覚と想起の区別は、﹁純然たる意味ないし命題﹂にではなく、充実の有無に求められるものなのである。. の区別はかかわっているわけである﹂。. ︵17︶. 命題であるのか、或いは、いかにして、充実されていない意味ないし命題であるのか、というその仕方に、あ. の追加を要求するのであって、それでこうした単なる意味ないし命題が、いかにして、充実された意味ないし. うものは、単なる抽象的なもの︵Abstraktum︶であるために、意識ノエマの具体化においては、補足的諸契機. ﹁この区別[想起と知覚の区別]がかかわっているのは、次の点である。すなわち、単なる意味ないし命題とい. はどこにあるのか。. 知覚と想起のどちらにおいても同一であり、同一のものとして見て取られるからである。では、想起と知覚の区別. いし命題︵p亡rerSinnbNW.Satz︶﹂にかかわるのではない、と言う。なぜなら、﹁純然たる意味ないしは命題﹂は. 34.
(16) たもの﹂が﹁現実的なもの﹂であるのは、﹁思念されている対象そのもの﹂が直観的に意識される場合、しかも、そ. の直観の仕方が原的に与えるという仕方である場合なのである。この原的に与える仕方が、﹁生身のありありしたあ. ﹁生身のありありしたありさま﹂. という原的性格・. りさま﹂と呼ばれる。そしてフッサールによれば、知覚された対象が、﹁生身のありありしたありさま﹂において意 識される場合の、そのノエマに着目するならば、そこにはこの. の基礎として機能していることが見て取れる。つまり、﹁生身のありありしたあり. ︵19︶. 原的充実性と﹁純然たる意味﹂との融合︵くerschme−zen︶が認められ、このような原的性格を持った意味が、定立 性格・存在性格 ︵確実存在性格︶. さま﹂というこの原的な性格が、ノエマ的意味に融合することによって、﹁確実存在性格﹂がノエマ的意味に﹁定立﹂. されるのである。彼は、ある対象が現実的であることを﹁確実であること﹂という﹁確信の相関者﹂と見なし、﹁現. という原的性格に求めているのである。. 実であること﹂が︵確実︶存在性格として構成されることを、ここでは指摘しているのであり、その基礎を、﹁生身 のありありしたありさま﹂. だが、われわれは、さらにフッサールが次のように述べていることに注意すべきであろう。. ﹁⋮⋮ある物が生身のありありしたありさまで現出しているときにはいつでも、その現出には、定立というもの. いるのである。そのことは取りも直さず次のことを意味す. いるのであり、しかもそれでいてこれまたただ単に一般に動機づけられている. が、属している。⋮⋮その際、定立は、実は、現出と独特の仕方で一つになっているのであって、定立は、現 出によって﹃動機づけられて﹄. のではなくて、むしろ﹃理性的に動機づけられて﹄. ︵訓︶. る。すなわち、定立は、原的所与性のうちに、おのれの根源的な正当性の根拠を持っているということ、これ である﹂。 ノエマと現実性. 35.
(17) 先に現実性の基礎と見なされた﹁生身のありありしたありさま﹂という原的性格の根底に、さらに、物の﹁生身. は、それだけが強調されるならば、それは一面的にすぎるものだと言わざ. のうちに与えられているからである。. 語. に﹁現実の対象﹂として意味づけられるものなのである。だが、現実の対象は、その意味づけに含まれる規定によっ. 定立される。射映的現出の原的所与性において出会われ、それを通して﹁統一的に構成される対象﹂は、このよう. 性﹂において現出するとき、﹁現出の原的所与性﹂に動機づけられて、﹁そのあるものは現実的である﹂と理性的に. なしてはならない、ということである。何かあるものが、﹁生身のありありしたありさま﹂という﹁現出の原的所与. ﹁理念﹂というこれら全ての面を含みもつものの名称なのであって、これらのどれか一つの面に限定されるものと見. 以上の考察から言えることは、﹁現実の対象﹂とは、﹁現出の原的所与性﹂、﹁構成された統一体としての﹃対象﹄﹂、. 結. 出の 有 限 な 多 様 性 ﹂. るをえない。現実の対象は、不十全的にではあるにしても、﹁生身のありありしたありさま﹂において現出し、﹁現. サールの主張であると言えるにしても︶. 念であって、そのつどの現出を通じて構成される統一体とは区別されるというベルネの主張︵これは、確かにフッ. とする﹁理性的定立﹂の根拠・根源として確保される必要があるだろう。だとすれば、現実の物としての対象は理. 性において、われわれがすでに現実の対象と関わっていること、このことは、少なくとも、﹁その物は現実的である﹂. ︵21︶. 性格﹂の﹁定立﹂を﹁動機づけている﹂根源を成しているのである。知覚的充実の現場、すなわち現出の原的所与. のありありしたありさま﹂での﹁現出﹂が見出されるのであり、この﹁現出﹂が、原的性格、ひいては﹁確実存在. 36.
(18) ては完全に規定し尽くされることのありえない理念的なものでもあった。そして、この理念的なものは、規則づけ. られているという意味で下図を描かれ、大枠は規定されているものであった。この﹁大枠は規定されているもの﹂を. 意味する表現として﹁全体﹂という語を使用するならば、現実の対象は、﹁統一的に構成される対象﹂としてのノエ ︵22︶. マを部分とするが、それによっては決して﹁汲み尽くされない﹂全体である、と特徴づけることができよう。. われわれは、この意味で、現実の対象とノエマの関係は﹁全体と部分の関係﹂である、と考えたい。この﹁全体. と部分の関係﹂は、グールヴィッチの言う﹁全体と部分の関係﹂とは意味が異なる。その違いとして、まず、部分. とされるノエマは射映的現出ではなく、それを通じて﹁構成される統一体﹂としての﹁対象﹂であることが挙げら. れる。グールヴィッチが﹁知覚される物﹂・﹁全体﹂と名付けた﹁組織化される体系﹂が、われわれが﹁部分﹂と呼. ぶノエマにあたる。それゆえ、われわれが﹁全体﹂と見なす現実の対象は、そのつどの有限の諸現出を通じて﹁組. 織化される体系﹂のような総体ではない。われわれの言う意味での﹁全体﹂は、規則づけられているという意味で. 大枠は規定されているが、その枠内での現出は無限に多様であり、その意味で十全的には決して与えられないもの. としての全体であり、これが、われわれの言う意味での﹁理念としての現実の対象﹂、﹁汲み尽くされない全体とし. ての対象﹂なのである。このように解釈することによって、﹁現実の対象﹂は、﹁現出の原的所与性﹂を通して﹁構 のもつ多面的性格の記述が可能になると思われる。. 成された統一体としての﹃対象﹄﹂であると同時に﹁理念﹂でもあるということが、統一的に理解可能となり、﹁現 実の 対 象 ﹂. ノエマと現実性. 37.
(19) 註. Of. 七六頁。なお、訳文は若干変更している場合がある。 NOema﹀∵in. H.L.Dreyfus. and. H一Ha〓︵eds.︶−穿5篭ミ訂訂ミ叫Qヾ岩、ぎ恥C局3叫. −−Ⅰ\−﹀MartinusNijhO声−当の[以下Hu﹂−−\−と略記]﹀S.∽−︺.渡辺二郎訳﹃イデーンーー2﹄、みすず書房、一九八四年、二. ︵1︶ Husseユも.ゝ訂≡ぎ首等還ぎ已鼓㌻裏表定常重き逆夢毒箪き首隷ぎ夢穿与貫.撃落こぎデぎ莞註賀Bd.. 38. 行為﹂ ︵﹃無根拠からの出発﹄、勤草書房、一九九三年︶. と. ﹁超越論的反省﹂. Bd﹂−. フッサール﹄、中央公論社、. 竜乳訂、叫Q莞声. における同氏の訳を使わせていただいた。. の違いについては、くg−.Husseユ﹀E.−︹打ミ屯5計3針c訂. Hu﹂−Ⅰ\−﹀S.NO∽.邦訳2、一二頁。 ﹁自然的反省﹂. NijhO声−遥〇一SS.芝⊥芦. ﹃現実の対象﹄﹂参照。. Press﹂垂井p.N︺り訳文は、野家前掲論文による。. このとき、充実された意味を﹁抽象的存在者﹂と呼ぶことが適当であるかどうかが問題となろう。. 本稿第三節﹁理念としての. Berコet−a.a.〇.−SS.彗霊.. Bernet−a.a.〇.﹀S∴蒜.. くg−.−Husseユ﹀E.−一キさ簑庶よ資ヾ無料象≡嶺旨ぎこぎミ葛∋遠賀ざ﹂裏庭む琵彗隷挙. 記已︵喝叫c誌Bd﹂−∽−Martinus. Bd.舛舛くl﹀S﹂∽P. Bernet︸R∴−Husseユs出egri顎desNOema。∵nSJjsse−ing︵hrsg.︶∵媒誘治ま卑属苫訂登更こざ家箋ヨS已挙虐∵遥. 野家啓一前掲論文、一九二頁参照。. 、ひ叫q.. へ冨札叫訂ヨN各章鼠Sc叫買C♪NOrthwesterコUni完rSity. G亡rWitsch﹀A.∵云usseユ﹀s↓heOryOftheinteコtiOコ巴ityOfCOコSCiOuSneSSinHistOrica−Perspektiくe∴i. 一九八〇年、二一五頁参照。. MariコuSNijゴ○声−禁裏∽.記一船橋弘訳﹃デカルト的省察﹄世界の名著第六十二巻﹃プレンターノ. 穿竃ミ叫Q3誌. 斡叫芸CやTheMITPress﹂冨N︶勺p.詔⊥芦なお、以下に挙げるフエレスグールのテーゼの訳文は、野家啓一﹁志向性と指示. ︵2︶ F芭−esda−﹀Dこ。Husseユ㌦NOtiOn. ︵5︶. 8 7 6. 13121110 9.
(20) ︵22︶. Bernet﹀a.a一〇.﹀S.雷.. という批判が予想される。確かに、﹁実在﹂と﹁現実﹂は異なる概念である。﹁実在﹂=﹁レアールなもの﹂は、﹁イデアールな. HuJHl\−−S.∽芦邦訳2、三〇二頁以下。なお、ここで理念的なものとされているのは﹁実在﹂であって、﹁現実﹂ではない、. もの﹂と対を成す概念であり、個別的なものであると言える。これに対して、﹁現実﹂︵Wirk−ichk2it︶は、直観的に充実され. ば、この引用における﹁実在﹂は、﹁現実的なもの﹂であると言うことができる。そもそも﹁理念的なものとしての物︵Ding︶﹂. たもの、そしてその意味で﹁真に存在するもの﹂という意味を持つ。フッサールにおいては、レアールな対象もイデアールな 対象も直観的に充実されうるのであるから、﹁実在﹂と﹁現実﹂は一致しない。しかし、この引用の含まれる﹃イデーンⅠ﹄第 四篇第二章﹁理性の現象学﹂のテーマが、ある対象が﹁現実的である﹂のはいかなるときか、ということであることを考えれ. されるからであった︵くg−.Hu﹂Ⅰ−\−一〝〓岸−声−芦︶。物は不十全的にしか現出しないのであるから、その現出にもとづく. が議論されねばならなくなったのは、端的絶対的に﹁その物は現実的である﹂と言えるために必要なものとして、それが要請. 理性定立は、端的絶対的に﹁その物は現実的である﹂ということと等価であるとは言えない。それゆえ、端的絶対的に﹁その. −㍍.琶.邦訳2ヾ三〇四頁︶が求められたのである。したがって、ここで言われている﹁実在﹂が﹁理念的なありさまで、完. 物は現実的である﹂と言えるために、﹁諸現出の無限の連続体﹂によって予示される﹁完全な所与性﹂を洞察すること︵Hu﹂Ⅰ−\. ]は筆者による補足。. 全な所与性の下図を描かれている﹂のであれば、それは絶対的に﹁現実的なものである﹂と言いうるはずのものなのである。 Hu﹂〓\−﹀S.∽−サ邦訳2、二七八貢。. Hu.Ⅰ−1\−−S.︼−サ邦訳2、二七八頁。. Hu﹂−−\−㍍.ピ∽.邦訳2、二七九貢。なお、[. HuJl−\−∴い.︺−u.邦訳2、二七九頁以下。. Hu﹂コ\rS.︺声邦訳2、二八〇頁以下。 に参考になる。邦訳2、四四八頁以下参照。. このあたりの議論に関しては、﹃イデーンⅠ﹄の訳者である渡辺二郎氏による﹃イデーンⅠ﹄第四篇第二章の訳註︵七︶が非常. この﹁汲み尽くされない﹂という表現は、1・ヒンティッカの﹁汲み尽くせなさ︵Uコ2rSCh昔芳hk2it︶﹂という表現に示唆を. 受けたものである。1・ヒンティッカ﹁超越論的認識のパラドックス﹂、﹃超越論哲学と分析哲学﹄、産業図書、一九九二年、二. 八八頁以下参照。また、宮原勇﹁志向性と個体の同一性﹂、﹃理想﹄第六三四号、一九八七年、八四頁も参照。 ノエマと現実性. 39. 212019181716.
(21) ︵ちば. たねひさ・東北大学大学院文学研究科学生︶.
(22)
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