歴史上のファウスト
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(2) . 歴史上の フ ァ ウス ト. 大. 木. 1. 序. 文. 雄. 論. ヨ ー ロ ッ パ 文 化 の伝 統 の 中 で, フ ァ ウ ス トほ ど 繰 り 返 し 色 々 な 分 野 に 登 場 し て き た そ し て 現 代 ,. も盛んに登場させられ続けている人物も珍しい. 民間本, ドラマ 人形劇 小説といっ た文学の , , に, 交響曲, オペラ, 舞踏, 絵画, 版画, さらには映画の中にまでフ ァウス トは登場し続 けてき . そ し て 繰 り 返 し再 生 さ せ ら れ る こ と に よ っ て, こ の 人 物 は 厚 み を 増 し, ヨ ー ロ ッ パ 精 神 を 草 む. 大な 姿に成長 して しまっ た, これほどま でに芸術家の想像力を刺 激 して止まな いファ ウス ト しかしその原点に立 つ, 歴史上実在したファ ウス トという人物については 彼 の記録文献の , なさ と も関 係 して, ほ と ん ど ヴ ェ ー ル に 包 ま れ た ま ま で あ る ,. 本論は, 歴史上に実在したフ ァウス トにできるだけ接近してみることを目的としている そうす , ことによっ て, ファ ウス トという人物を再生し続けている芸術家たちの想像力のありようを 逆 , いく ら か で も窺 い 知 れ る の で は な い か と 思 う か ら で あ る, 歴 史上 のフ ァ ウ ス トの 問 題 に つ い て は, ドイ ツ 本 国 で 19世 紀 に な っ て や っ と 文 献 学 的 に 活 発 , , 論 じ ら れ る よう に な っ て き た, そ し て 特 に1980年, フ ァ ウ ス ト生 誕 地 と 考 え ら れ る ク ニ ッ トリ ン ン Kn i l i t t ngen と い う 町 に, フ ァ ウ ス ト博 物 館 が 完 成 し. , 盛 大 に フ ァ ウ ス ト生 誕500年 祭 が 催 さ れ. に及ん で, 歴史上 の ファ ウス トへの関心 が頓 に高 まっ てき た. さ らに そ の博 物 館 兼 文庫 館 i seum wi l博 士 が, 意 欲 的 な 論 文 を 次々 に 出 す こ と に e Ar ch v の 初 代 館 長 マ ハ ー ル Gunther Maha っ て, フ ァ ウ ス ト像 の ヴ ェ ー ル は 少 しず つ 外さ れ て き て い る,. 我々は, 本論において歴史上のファウス トについての様々な問題 たとえば生誕地 生誕年 姓 , , , , 生家, 遍歴場所等に立ち入ること によって, 彼のイメージを具体的にしていき, そして最後に 代背景を考察しながら・ , これま で考えられてきた歴史上のファウストとは違った人物像を浮び上 らせ た いと 思 う.. 亘. 文献学的前提としてのフ ァウスト本. 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トへ 接 近 し て い く 時 に 問 題 に な る の は 彼 につ い て 語 ら れ た 様 々 な も の た と , ,. ば手紙, 公式記録, 口頭による伝承, 逸話, 民間本 (フ ァウス ト本) 等のどの範囲までを 文献 , , 料, と して 扱 う か と い う こ と で あ る. つ ま り 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トに つ いて 伝 え ら れ て い る 資 料 は の よう な もの を 前 提 に す る か と いう こ と で あ る.. ファ ウス トがこの世から姿を消 した後, 彼について書かれた様々な書物が現われた たとえば , s 70年 頃 に は, ロ ス ヒ ル ト Chr i i t t が 『魔 術 師 フ ァ ウ ス ト』 の 中 に 種 々 な 話 を ザ ッ ク ス ophRosh r , 9.
(3) . 大 木. 文. 雄. Hans sa chs (1494-1576) が 『あ る 魔 術 師 に つ い て』 の 中 で, 彼 の 逸 話 を 書 い た り し た, そ の 他,. 彼 につ い て の 逸 話 は 沢 山 あ る. し か し な が らそ れ ら は い ず れ も, 多 く の潤 色 が 加 え ら れ, 拡 大 さ れ, 誇 張 さ れ, 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トと は ほ と ん ど か け 離 れ た 姿 に な っ て しま っ て い る こ と が, 研 究 者 た ち に よ っ て 報 告 さ れ て い る, さ ら に グー テ ン ベ ル ク Johannes Gut enberg (1399-1468) に よ る 印 l 刷 術 の 発 明 の 波 に 乗 っ て, 数 多 く の フ ァ ウ ス ト本 が 出 た. た と え ば ヴ ォ ル フ ェ ン ピ ユ ッ テ ル Wo ‐ lで 発 見 さ れ た 手 書 き の フ ァ ウ ス ト本 の 草 稿 (1572年 頃), あ る い は1587年, 作 者 不 明 の 民 f t enbut e i l ksbuch が 『ヨ ー ハ ン ・ フ ァ ウ ス ト博 士 の 物 語』 Hi 間 本 Vo stor avon D.Johann Fausten のタイ トル. で,. ヒ ス トリ ア』 と i フ ラ ンク フ ル トの 印 刷 者 シ ュ ピ ー スJ . es に よ っ て 刊 行 さ れ た (以 下 『 ohannsp. fwi ko l i l dmann, プ フ ィ ツ ァ ー Ni t 略 記 す る) ausPf zer, キリ ス ト , 続 い て ヴイ トマ ン Georg Rudo i l i t 教を信奉する男 Chr s ch Meynender (匿 名) と い う 作 者 た ち に よ っ て, 同 じ よ う な 民 間 本 が 出 さ れ て いく. こ れ ら の フ ァ ウ ス ト本 は, 数 多 く の 版 を 重 ね, た ち ま ち ヨ ー ロ ッ パ 全 土 に 広 ま り, ベ ス トセ ラ ー に な っ た. しか しな が ら こ れ ら の フ ァ ウ ス ト本 も, 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トの 文 献 と の 係 り で 言 え ば, ほ と ん ど. 価値は見い出されない. というのもファウス ト本の構成が, 文献学者たちから厳密に研究されるこ と に よ っ て, フ ァ ウ ス ト本 の 作 者 た ち は, 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トに 関 す る, し か も 文 献 学 的 に 信 頼 の. おける重要な証言, 記録を採用せ ず, 様々な種類の物語, 伝説, 聖書, 古代ギリシア, ローマのモ ティ ーフ等を, 物語を面白くさせるために寄せ集め, 適当に作り替えたり, 膨大に水増しした, と い う こ と が 明 ら か に な っ て き た か ら で あ る. た と え ば フ ァ ウ ス ト研 究 者 の 一 人, ボイ トラ ー Ernst Beut l er (1885-1960) も そ の よ う な 意 味 の こ と を 次 の よう に 言 っ て い る, 「こ れ ら の フ ァ ウ ス ト本 の 中 に は, 凡 そ 半 世 紀 前 に 死 ん だ フ ァ ウ ス トにつ い て の こ と は, 全 く 何. も書かれていない. 彼が偉大な占星術師であったこと, 滞在した場所が列挙されている以外は何も. ) 書 か れ て いな い. そ れ は伝 承, 作 り 話 に す ぎな い の で あ っ て, も は や 決 して ヒ ス トリ ア で はな い,」1. それ故1570年頃から流布した様々の物語は, 歴史上のファウス トに関する文献としては, 意味を 失うことになる. とすれば研究の対象となる資料は, 目と限られてくるであろう. すな わちそれら は, 1570年 以 前 の 彼 に つ い て 書 か れ た 手 紙, 公 式 記 録 等 で あ る.・そ れ ら は フ ァ ウ ス トの 生 存 中 に 書 か れ た も の で あ っ た り, あ る い は死 後 ま も な く 書 か れ た も の で, 彼 に つ い て の 鮮 明 な イ メ ー ジ が 残 っ. ているものであるが故に, 文献としては, 極めて価 値があるわけである. 1570年以前の文献となる と, そ れ ほ ど 多 く は な い. そ し て そ れ らの 中 に は, 20世 紀 に な っ て 発 見 さ れ た も の も 含 ま れ て い る. フ ァ ウ ス ト自 身 に よ る 日 記, 手 紙, 著 書 は, 一 切 発 見 さ れ て い な い.. 我々 はそれ故, これらの数少ない文献を利用しながら, 以下歴史上のファウス トに関する様々な 問 題 に 接 近 して い こ う と 思 う.. m. 生誕地の問題. 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トの 生 誕 地 は, 現 在 で は ほ ぼク ニ ッ トリ ン ゲ ン に 定 着 して き て い る, こ の 町 は, バ ー デン ・ ヴ ュ ル テ ン ベ ル ク 州 の ほ ぼ中 央, シ ュ ヴ ァ ル ツ ヴ ァ ル トの 北 端 に 位 置 し,州 都 シ ュ ト ゥ ツ ト ガ ル ト St tgar t の 北 西 約50キ ロ に あ る, こ の 町 は ゆ る や か な 丘 陵 地 帯 に 囲ま れ, 昔 か ら ワイ ン ut の 産 地 で あ っ た, フ ァ ウ ス トの 生 き て い た 時 代, つ ま り15 , 16世 紀 項, こ の 町 の 人 口 は, 凡 そ2000 10.
(4) . 歴史上のファウス ト ~2500ほ ど で・ , 極め て 小 さ な 町 で あ り, 当 時 の ヴ ュ ル テ ン ベ ル ク 大 公 の 領 地 で, 大 公 か ら 統 治 す る こ と を 委 任 さ れ た マ ウ ル ブ ロ ン 修 道 院 K1 l bronn (ク ニ ッ トリ ン ゲ ン よ り 南 東 約 5 キ ロ の t os er Mau. ところにある)の管轄区域であった. そして外敵か ら町を守るために この 町は囲壁と門と濠によっ , て, 二 重 に 固 め ら れ て い た, こ の よう な 町, 特 別 に 産 業 と い っ て も ワイ ン の 外 は 何 も な い し か も , シ ュ ト ゥ ツ ト ガ ル トに あ る ヴュ ル テ ン ベ ル ク 大 公 の 居 城 を 守 る た め の 言 っ て み れ ば 外 濠 み た い な , 役 割 しか 演 じて い な い, こ の 片 田 舎 の 町 に, 後 に 有 名 に な る フ ァ ウ ス トが 生 ま れ た こ と に な っ て い る, さ て そ れ で はど の よ う な 経 緯 で÷ こ の 町 が フ ァ ウ ス トの 誕 生 地 と して 考 え ら れ る に 至 っ た の で あ. ろうか. 生誕地を 巡る問題 は, 70年ほど前か ら激しく論 じられてきた, ヴァイマル近郊のロー ダ Roda (『ヒ ス トリ ア』) l (キ リ ス ト教 信 奉 者 著 の フ ァ ウ ス ト本).ノ・ , ゴ ン ドヴ ェ ー デ ル Gondwede , イ デ ル ベ ルク 近 郊 の ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト He lms t adt, そ し て こ の ク ニ ッ トリ ン ゲ ン等 が そ れ で あ る, しか し前 者 二 つ の よう な 町 は, い わ ゆ るフ ァ・ウ ス ト本 の 中 に 出 て き て い る 町 で 文 献 上 こ れ ら の 本 , は信 悪 性 がな い と いう こ と で, 論 争 の 中 で は早 々 と 消 し去 ら れ て し ま っ た そ れ 故 残 る 二 つ の 町 . , ヘ ルム シ ュ タ ッ トとク ニ ッ トリ ン ゲ ン が主 な る 論 争 の 対 象 に な っ て き た. ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト 説 の 側 に 立 つ 人 た ち は, た と え ば シ ョ ッ テ ン ロ ー エ ル Ka ISchot l ten oher r (1878一1954), ボイ トラ ー Erns l ( 1 8 8 5一1 9 6 tBeut 0 ) T h ン M マ ( 1 8 o 7 5-1 9 5 5 ) er mas ann , , バ ロ ン Frank Ba ron で あ り, ク ニ ッ トリ ン ゲン 説 の 側 に 立 つ 人 た ち は, こ ち ら は 数 が多 い が, 特 に ヘ ニ ン グ Hans Henn i lで あ る, ng, マ ハ ー ル Gunther Maha. この問題のそもそもの発端は, 歴史上のファウストが生きていた時代に書き残された手 紙 日記 , , 公式記録の中に, そのような町の名前が出てくることに因る, 彼が生きている間に書かれ た手紙や 記録は, 現在九つ しか発見されていないのだ が, その重要な文献の中の三つのものに 彼の生誕地 , を表わす言葉が出ているわけである. そ の 第 一 の 文 献 は, 1513年10月 7 日 付 の 僧 会 議 員 ル ー フ ス Mut i f anusRu u s が~ 修道院管理人ウ i ル バ ヌ ス He i nr ch Urbanus に 宛 て た 手 紙 で あ る, ル ー フ ス は, エ ア フ ル ト近 郊 の ゴー タ と い う 町 に. 住み, 聖職禄 で生活し, 選り抜きの人文主 義者であっ た. 彼は何も出版しなかったが 聖職仲間の , 社交 を 可 能 に した 中 心 人 物 で あ っ た, そ の ル ー フ ス が 次 の よ う に書 い て い る , 「8 日 前 に エ ア フ ル トに 一 人 の 手 相 術 師 が 現 わ れ た, 名 前 は ゲオ ル ギ ウ ス ・ フ ァ ウ ス ト ゥ ス ・ ヘ ) ルミ テ ウ ス ・ ハ イ デン ベ ル ゲ ン シ ス と い い, 全く の ほ ら 吹き で 馬 鹿 者 だ」 … …」2 , 、 ハ イ デル ベ ル ク 近 郊 の ヘ ル ム シ タ トと い う 町 の 名 前 が 浮 び 上 こ の 手 紙 に よ っ て, ュ ッ っ てきたわ け で あ る, さ ら に もう つ の 文 献 が, そ の 町 の こ と を 記 録 して い る. つ ま り 第 二 の 文 献 は ア イ ヒ , シ ュ テ ッ ト近 郊 の レー プ ドル フ Rebdor f修 道 院 の 副 修 道 院 長 ラ イ ブ Ki l i i b の 天 気 日 記 Wet t anLe er ‐ t agebuch の 中 に 記 録さ れ て い る. 「ゲオ ル ギウ ス ・ フ ァ ウ ス ト ゥ ス ・ ヘ ル ム シ ュ テ テ ン シ ス He lms lms t i tet et ens s の 短 縮 形) , (He ) 3 は, 6月 5 日に次のように言っ た. ……」(括弧内は筆者). この二つの文献を頼りに, ドイツの書誌学者ショッ テンローエルと文学史家ボイ トラーは 当時 ,. のハ イ デ ル ベ ル ク 大 学 の 学 籍 簿 の 中 に, そ う い う 人 物 が い な い か ど う か を 調 査 す る そ し て1483年 , の 学 籍 簿 の 中 に, ゲオ ル ク ・ lms t ter と い う 人 物 が 入 学 し た 事 実 を ・ヘ ル ム シ ュ テ ッ テ ル Georg He et. 11.
(5) . 大. 木 文. 雄. 発 見 し た の で あ る. か く し て こ の 事 実 を 基 に し て, 彼 ら (マ ン と バ ロ ン も 加 わ っ て) は, 生 誕 地 ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト説 を 次 の よ う な 形 で 提 出 す る, す な わ ち こ の 人 物 は, ヘ ル ム シ ュ タ ッ トで 生 ま れ, lms t t よ っ て “Faus t et er が 自 分 で 選 び 出 した uず と は, GeorgHe lms t t et er だ 名 前 で あ・り, フ ァ ウ ス トと い う 名 前 の 魔 術 師 は, そ れ 故 に 決 して 存 在 し な か っ た. He t f uckha tと い う 意 味 を 持 つ 別 名 と し て “Faus u を自分に けが存在したのであり, 彼 は ”幸 福 な” gl 4 ) 充 て が っ た の で あ る, と, そ し て 現 在 で も ア メ リ カ 合 衆 国 の ロ ウ レ ン ス / カ ン サ ス 大 学 教 授 バ ロ 5 ) ン は, この ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト説 を 色々 な 論 文 の 中 に 登 場 さ せ 続 け て い る.. 姓名を Georg Helmstetter と い う.. それに対してクニ ッ トリン ゲン説は次のような根拠によって出来上っ た. すなわち第三の文献に i l n us 著 『対話集』 Locorum そ の 町 が 出 て く る わ け で あ る. そ れ は 牧 師 マ ン リ ウ ス Johannes Ma l l i t Commun ec anea (1563年 ラ テ ン 語 で, 1865年 ドイ ツ 語 で バ ー ゼ ル で 出 版 さ れ た) の 中 に あ um Co t tenberg 大 学 で 過 る. マ ン リ ウ ス は 学 生 時 代 を, 当 時 の ザ ク セ ン 公 国 に あ る ヴィ ッ テ ン ベ ル ク Wi i i l l thon (1497一1560) 教 授 の 講 義, ご し た の だ が, そ の 時 に 聴 講 し た メ ラ ン ヒ ト ン Ph anch pp Me そ の 他 を こ の 著 書 の 中 に 記 録 し て い る の で あ る, た だ し 講 義 と は い っ て も フ ァ ウ ス トに 係 る 第 三 の. 文献のそれは, メ ランヒトンの日曜福音集会の時に行なわれたものであり, 他の講義とは違って, 文法, 歴史, 信仰の問題 が自由に語られたものであり, メランヒトン自身によるそれに関する記録 は存 在 しな い. 彼 の 弟 子 マ ン リ ウ ス が自 由 に 筆 記 して お い た の で あ る. 「私 は あ る 人 と 知 り 合 い に な っ た, 名 前 は ク ン トリ ン グ の フ ァ ウ ス ト ゥ ス で あ る, (そ の 町 は 小 6 ) さ な 町 で 私 の 故 郷 か ら 遠 く な い と こ ろ に あ る,) … …」 i t n i l i l i t t 勿 論 Kund ngen で あ る, メ ラ ン ヒ ト ン は 人 文 主 義 の 思 想 家 で, ル タ ー Mar ng は現在の Kn ゲ か ら ク ニ トリ ン ン の 里 は あ が そ の 彼 郷 ッ Lu ther (1483-1546) の 協 力 者 と し て も 有 名 で る , , と あ る こ ろ に 離 の 極 め て 近 距 と う 町 で い t n 北西約5 キ ロ の プ レ ツ テ ン Bret e . この 第 三 の文 献を ,. 基にして, ヴァイマルの ドイツ古典文学研究所中 央図書館長ヘニン グ博士とマハール博士は, 歴史 上 の フ ァ ウ ス トの 生 誕 地 を ク ニ ッ トリ ン ゲ ン で あ る と 主 張 した の で あ る, 彼 ら はそ の 信 悪 性 を 主 と して 次 の よう な 点 に 置 い た. メ ラ ン ヒ トン は, 片 田 舎 の ク ニ ッ トリ ン ゲ ン に も か か わ ら ず, 彼 の 郷 里 に 極 め て 近 い こ と か ら, フ ァ ウ ス トに 関 す る こ と は 精 確 に知 っ て い た は ず で あ る こ と, さ ら に ザ ク セ ン 公 国 で 勉 強 し て い た フ ラ ン ケ ン 出 身 の マ ン リ ウ ス が, そ の 大 学 か ら 途 方 も な く 離 れ て い・る, ヴ ュ ル テ ン ベ ル ク 公 国 の 国 境 に あ る, 名 も な い 片 田 舎 の ク ニ ッ トリ ン ゲ ン を, ど う して 樫 造 す る こ と が で き た か, い や で き な か っ た は ず で あ る, と い う 二 点 で あ る.. 次に彼らは, ヘルムシュタッ ト説を否定する作業に取り掛かる. この作業は, ファウス トの生誕 地ばかりでなく, 彼の生年月日, あるいは生家なども加わってくるので, 問題は複雑な様相を呈し て く る.. ・. ,. y. 生誕地を導き出すための 生誕年の問題. ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト説 の 自 称 フ ァ ウ ス ト, 本 名 ヘ ル ム シ ュ テ ッ テ ル の 生 誕 年 は, 既 に 彼 が ハ イ デ ル. ベルク大学に入学した事実が明らかになっ ていることから, 簡単に算出される. すなわち1483年か ら18年 (大学入学時期 は, 一般的に18歳からであっ た) を引くことによっ て, 彼の生誕年 は凡そ 1465年 と な る わ け で あ る. 12.
(6) . 歴史上のファウス ト ヘ ニ ン グは ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト説 を 否 定 す る 根 拠 と し て 以 下 に 示 す 理 由 か ら フ ァ ウ ス トは 凡 , , , そ1480年 頃 に 生 ま れ, そ れ 故1465年 に 生 ま れ た ヘ ル ム シ ュ テ ッ テ ル と は 明 らか に 同 一 人 物 で は な ,. い, という主張を持ち出してくる, ヘニングの1480年生誕年説は 次のような文献から導き出され , た, そ れ は 聖 ヤ コ ブ 修 道 院 長 トリ テ ー ミ ウ スJohannes Tr i themi us (1462一1516) が, ハ ス フ ル ト Hashur t出身の数学者兼宮廷占星術師フィ ル ドゥ ン グJ i dungに宛てた 15 07年8月20日付 nnV oh a r. ,. の手 紙 で あ る, そ の 手 紙 に は1507年, フ ァ ウ ス トが ク ロ イ ツ ナ ハ Kreuznach に や っ て き て そ こ の ,. 学校の教師になっ たこと, しかしファウス トは, 子供たちに恥ずべき行為をやっ たために それが , )ヘ 明 る み に 出 て しま い, す ぐ に そ の 学 校 を 罷 め て し ま っ た, と い う 意 味 の こ と が 書 か れ て い る,7 ニ ン グ は, フ ァ ウ ス ト がク ロ イ ツ ナ ハ の 学 校 の 教 師 に な っ た と い う 内 容 に 着 目 す る, 教 師 に な る ,. ためには, ラテン語学校 (当時は16歳で卒業する) を卒業しなければならない. さらにどこかの大 学 に 通 っ た こ と を 考 え に 入 れ る な ら, フ ァ ウ ス ト が ク ロ イ ツ ナ ハ の 学 校 の 教 師 に な っ た 時 は す な , わち1507年 に は, フ ァ ウ ス ト は凡 そ25歳 ~28歳 ぐ ら い だ っ た と 推 測 さ れ る, ヘ ニ ン グ は そ こ か ら 逆. 算して, ファウス トの生誕年1480年前後説を導き出したわけである, そして14 80年に生まれたファ ウス トは, あ の1465年 に 生 ま れ た ヘ ル ム シ ュ テ ッ テ ル と は 同 一 人 物 で はな い こ と そ れ 故 フ ァ ウ ス , ) トの 生 誕 地 ヘ ルム シ ュ ッ タ ッ ト説 も 否 定 さ れ る, と ヘ ニ ン グ は主 張 す る の で あ る,8 さ て 我 々 は こ れ ま で, ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト説 を 否 定 す る ヘ ニ ン グの1480年 前 後 説 を 持 ち 出 して き た わ け だ が, 次 に ヘ ルム シ ッ タ ッ ト説 を さ ら に 確 実 に 否 定 し ク ニ ッ トリ ン ゲ ン 説 を 強 化 す る マ ハ ー , ル の 説 を 紹 介 しな け れ ば な ら な い. そ し て そ れ は同 時 に ヘ ニ ン グの1480年 前 後 説 を も 支 え る こ と に な る は ず であ る.. V マハール博士による仮説 )を1979年 に 出 版 す る こ と に よ て マ ハ ー ル はそ の 著 『フ ァ ウ ス トの 誕 生 日』 Faus t s Geburtstag9 っ , ヘニ ン グが 提 出 し て い た1480年 前 後 説 を よ り 信 頼 の お け る も の に し た の み な ら ず こ れ ま で の 歴 , ,. 史上のファウス トに関する様々な問題に, 新しい光を投げ掛け 歴史上のファウス トについての関 , 心をより一層高めることに成功 した, それはクニッ トリンゲンのファウス ト博物館兼文庫館の 館長 と し て, ま さ に 相 応 し い 業 績 で あ る よう に 思 え る. そ して こ の 著 は そ の タイ トル の ごと く フ ァ ウ , ス トの 生 誕 年 だ け でな く, 誕 生 日 ま で も 導 き 出 し て い て フ ァ ウ ス トにつ い て の 信 頼 で き る 資 料 が ,. 極めて少ない中 で, これほど彼の姿を細かく浮き彫りにさせたことは 彼が豊かな想像力と深い洞 , 察力を持っている証しに他ならな い, 彼の論文を読ん でいると あの トロヤを発見したシュリーマ , ンの姿が想い出されてくる. 彼の研究態度には, ある意味の厳密さが欠けて いると批判されるかも しれ ぬ が, 暗 闇 の 中 に 入 っ て い る 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トの ヴ ェ ー ル を 取 り 払 っ て いく た め に は そ の ,. ような豊かな想像力が不可欠の ように思われる, さ て マ ハ ー ル は, フ ァ ウ ス トの 誕 生 日 を 導 き 出 す た め に 拙 論 の 前 半 に も 引 用 した あ の レー プ , ,. ドルフ副修道院長キリア ン・ライ ブの天気日記に着目する. 引用は部分的に重複するが その記録 , は次の よ う な も の であ る, 「Georg Fausthe lms t , は 6月 5 日に次のように言っ た. 太陽と木星とが, 同じ角度で同一の (黄. o ) 道十二宮の) 座のとき, 予言者たちが生まれるだろう (つまり彼と同じような)」l .. 13.
(7) . 大. 木.文. 雄. マハ 」 ルはこの占星術の言葉, つまり天球上の太陽の位置をきめて地球の季節を測定する黄道十 二宮の言葉に 注目する」 太陽と木星と が, 黄道十二宮の中で出会う時期に, 予言者たちが生まれ, そ して そ の 中 に フ ァ ウ ス トも 含 ま れ て い た の だ, と 彼 は 解 釈 す る の で あ る. 占 星 術 か ら す れ ば, こ の 太 陽 と 木 星 と が 合 一 す る の は, 500年, 600年 に ・一 度 と い っ た よう な 滅 多 に な い 時 期 で はな く, つ ま り 人 を ワ ク ワ ク さ せ る よ う な セ ン セ ー シ ョ ナ ル な 事 柄 で はな く, む し ろ, 13ヶ 月 に 1 回 の リ ズ ム. で出会う といっ た, 別に珍しくもない, 天体的には日常的な事柄であり, フ ァウストとライ ブの間 で交わさ れたこれらの言葉は, 占星術師として有名であった二人にとって, 別に書き留めておくほ ど重大な事柄でもなかっ たにちがいない. それにもかかわらず, ライ ブがこの事柄を, 18年間も書 き 続 け て き た 天 気 日 記 の 中 に, 書 き 留 め て お く 価 値 の あ る も の と し て, 記 録 して お い た こ と - - そ れ は ライ ブ が そ の 中 に 何 か 暗 号 め い た も の を 感 じ取 っ て い た か ら に 他 な ら な い, .す な わ ち そ れ は. あちこちを絶えず放浪し, しばしば姿を暗ますことを強いられ, 自らの歩いた跡を注意深く消して e い る, フ ァ ウ ス ト博 士 の 誕 生 日 で あ る. そ し て 括 弧 付 で 書 か れ て い る 「彼 と 同 じ よ う な」 wi 次 に 彼 釈 し た 後 は 解 ー ル る の よ う に ハ 人 あ そ マ の で l i i e chen 予 言 者 と は, フ ァ ウ ス トそ se nesg , . 頃には誕生日よりも 当時つまり中世の終り に眼を向ける は フ ァ ウ ス トの 名 前 Johann Ge r o ,カ g .. トリ ックの洗礼日に価値 が置かれていた. 人々 は誕生日よりも, 誕生日に一番近い, 聖人と係る洗 礼 日 を 盛 大 に 祝 い, 名 前 もそ れ に 因 んで つ け た の で あ っ た が, こ の フ ァ ウ ス トも, 聖 ヨ ハ ネ 祭 (6. 月24日) か, 聖 ゲオルク祭 (4月23日) の何れかの祝日に洗礼 を受けたにちがいない, というので ある. マハールはコン ピューターを駆使し, 太陽と木星が黄道十二宮上で出会う時期, しかもそれ はク ニ ッ トリ ン ゲ ン 説 を も, さ ら に ヘ ニ ン グの 提 出 し た1480年 前 後 説 を も 考 慮 に 入 れ て, そ し て そ. れが聖ヨハネ祭, 聖 ゲオルク祭の何れかに近い時期であることを前提に して調査する, その結果, 太陽と木星が黄道十 二宮で出会う時期は, 1480年前後の聖ヨハネの祝日とは無関係であること, そ して ま さ に 聖 ゲオ ル ク の 祝 日 の 近 く に, 二 つ の 惑 星 が重 な り 合 う の は, 1480年 よ り 2 年 前 の1478年 に存 在 した こ と を 突 き 止 め た の で あ る, t が1478年 の 聖 ゲオ ル ク 祭 (4月 こう い う 探 求 の 過 程 を 踏 ま え て マ ハ ー ル は, Johann Georg Faus. 23日) の前後に生まれた, という仮説を提出する, しかし彼はその仮説を導き出す科学的, 占星術 的過程だけに満足せず, さらに今度はそれを支える心理学的解釈を押し進めていく. すなわちファ ウ ス トと ライ ブ が 出 会 っ た の は 1528年 7月 5 日であっ たのだが, 何故ファウス トは意識的に 占星 ,. 術師として有名なライ ブを選び, わざわざこの日に会い, あのような暗号めいた言葉を吐かねばな らな か っ た の か, と い う こ と が 掘 り 下 げ ら れ る, と こ ろ が フ ァ ウ ス トの 誕 生 日 が1478年 4月23日 前 後 で あ る と す れ ば, 彼 の そ の よう な 謎 め い たテ千動 も, も は や 謎 で な く な る. つ ま り フ ァ ウ ス トが ラ イ ブ に 会 っ た 時 に は, フ ァ ウ ス ト は 丁 度50歳 を 迎 え た ば か り で あ っ た. 精 確 に は, 50歳 と 凡 そ50日 と いう こと に な る. 当 時 と して は 人 生50年 と い う の は, 大 き な 節 目 で あ り, フ ァ ウ ス トに と っ て は,. 人生の回顧と反省をさせる極めて意義深い時期であっ たはずである. 彼はそのためにもライ ブに会 い, 自分の放浪の旅 を回顧しながら, しかも自分の偉大さ を示す言葉を吐露したにち がいないとい う の で あ る.. 以上がマハールの論文の概 略である, 彼は言葉少ない文献の中に, 心理的, 科学的に深く入り込 み, フ ァ ウ ス トの 誕 生 日 と い う 興 味 深 い 仮 説 を 提 出 し た の で あ る,. 14.
(8) . 歴史上のファウス ト. W. 生家に纏わる謎. 歴史上のファ ウス トの生誕地は, 上述のように諸説存在するわけだが 現在ではクニ トリンゲ ッ , ンと考える人たちの方 が圧倒的に多く なってきている. しかも1980年にこの町に博物館が出 来 生 , 誕500年祭が催されるに及んで, 生誕地の問題は一応の決着を見たように思 つれる しか し文献学 . 的に は, 依 然 と して ま だ 不 明 確 な 点 が残 さ れ て い る こ と は否 め な い そ れ 故 さ ら に こ こ で フ . ァウス. トの生家を問題 にすることは, ひどく学問的領域を逸脱することになりかねない にもかかわらず , あえてこの問題に係ろうとするのは 本来的に暗闇に閉ざされているフ ァウス トに 様々な角 度か , , ら, 様々な手段を用 いて光を当てようと する強い憧爆が存在するからである そしてそれは多少と . も空想的なものに頭を突っ 込む姿であるかもしれない しかしながら歴史上のファウス トの問題に , 関 し て は, そ の よう な あ り 方 も 許 さ れ て も よ い よ う に 思 え る , さ て フ ァ ウ ス トの 生 家 は現 在 ク ニ ッ トリ ン ゲ ン の 町 の ほ ぼ中 央 に 建 て い る そ して そ の 家 の , っ .. 横には中世後期からその姿を保ち続けている聖 レオンハルトLeonh d教会がある. さらに現在の r a ファウス ト博物館は, 元の役場を改造した建物で その教会を挟んで 生家の反対側にある こう , , , いう構成, もっともらしい構成は, 何か意図的なものを我々に感 じさせるのだが ともかく生家の , 由来は次のようなことに因る. 187 0年, ケーニヒリ ヒ統計地誌事務 所の編纂によっ て 『マウル ブロン行政区画記』. Beschre i bung. desobera l bronn が出 版 さ れ た が, そ の 中 に 次の よう な 記 事 が見 い 出 さ れ て い る 1 nt s Mau .. 「あの有名なヨハネス・ファウス ト博士が生まれたという噂の家は 教会の北側に位置し 2 , , 58 番地なのだが, .特に奇妙な形をした家ではな い. せいぜい石造りの土台が その時 代 の も の で あ っ , 1 ) た と いう だ け であ る,一1. 主 と して こ の 記 事 や, こ れ と 同 じ よ う な 人 々 の 噂 に よ っ て フ ァ ウ ス トの 生 家 は 現 在 の 場 所 に 決 ,. められた. しかしそれだけではほとんど この家は意味を持ち得ない 噂の産物にすぎないからであ . る. と こ ろ がや が て そ の 家 か ら は いく つ か の 奇 妙 な 物 が 発 見 さ れ て いく こ と に な る 1975年 リ マ , . ア ▲ フ ル ン ム Ma i r aPnumm に よ っ て 出 版 さ れ た 『山 の 手, ク ニ ッ トリ ン ゲ ン の 小 説』 Di eobere Gasse i i l i t t n Romanaus Kn ngen に は, そ の 奇 妙 な 物 に つ い て の 記 事 が書 か れ て い る. ,E. ▲まだ教会の 隣りに, あの偉大な ファ ウス ト博士の生まれた 簡素な家がある -- 過 「ここには ,.. 去 の 色 々な 証 言, ク ニ ッ トリ ン ゲン の 女 た ち が ベ ン チ に 腰 か け タ バ コ を 吸 い な が ら 馬 屋 の 薄 , , , 明る いカ ン テラ の 下 で, 唄 を 歌 っ た り い ろ ん な 話 を して く れ た , ,. そうだね, とおばあさんが控え目に眼鏡の奥からじっと見つめながら言っ た お願いだからあま . り 他 言 し な い で おく れ よ, あ の フ ァ ウ ス トの 家 に はま だ 不 気 味 な 雰 囲 気 が 漂 て い る お 前 さ ん も っ . ’ もう あ の フ ァ ウ ス ト博 士 の 大 き な 薬 局 箱 を 見 た か ね 木 で で き て い て 昔 か ら あ る あ の 黒 い 奴 を , , .. 1 2 ) それは五角形の星型をしてるよ. それは悪魔から身を守る らしい 五さ星形なのさ 」 , . その薬局箱はその家に連なる納屋の土の中から 1837年に発見されていた それは防水の獣脂に , . よって分厚く塗り込まれていたが, それが取り除かれると そこから木目がく っきりと見える黒褐 , 色の く る みの 木 の 箱 が現 わ れ た の で あ る. そ れ が土 の 中 に 埋 め ら れ た の は 30年 戦 争 (1618-1648) ,. の辺らしい. しかしそれは五匹星形ではなく 六さ星形の箱であり 真中から両開きのできる物入 , ,. 15.
(9) . 大. 木. 文. 雄. h i f t r a nk (この言葉は生家の階段の ところに懸けら れている実物 s c れ箱である, 勿論この毒薬棚 G あ る. の プ レー トにそ の よう に 書 か れ て い る) は, フ ァ ウ ス トの 所 有 物 で あ っ た か ど う か は 不 明 で れ た. さ 穴 か 発 の ら 見 の 中 梁 節 さ ら に も う 一 つ の 奇 妙 な 物 が, 1921年, こ の 家 の 二 階 に あ る ドア. lで あ り, そ こ に は t zet e そ れ は 皮 製 の 小 袋 の 中 に 入 れ ら れ た, 親 指 大 の 小 さ な 羊 皮 紙 片 Pergament 錬金術的解読不 能の暗号や 縦からも横 からも同じ言葉 として読むことの できる SATOR-AREPO. , 3 )この羊皮紙片 が発見された中梁の木 は 中世後期の頃のもの、 と の象徴的 文字群が記されている.1 ,. い わ れ て いる, しか し こ れ も 又, フ ァ ウ ス トの 所 有 物 で あ っ た と い う 確 証 はど こ に も な い, さ ら に1930年, ク ニ、ツ トリ ン ゲ ン の 役 場 の 地 下 室 か ら, 1542年 の 一 軒 の 家 の 売 買 契 約 書 が発 見 き 4}そ れ に は フ ァ ウ ス トが 生 ま れ た 家 の 売 買 の こ と が 書 か れ て い る. 1542年 と い え ば, フ ァ ウ れ た.1 ス トが こ の 世 を 去 っ た 頃 で あ る. し か し こ れ は,,フ ァ ウ ス トと いう 人 物 が, こ の 町 に 住 ん で い た 証 拠 に は な る か も し れ ぬ が, 果 し て そ れ が あ の 問 題 の フ ァ ウ ス トそ の 人 で あ っ た か ど う か と い う こ と は, 依 然 と して 不 明 の ま ま で あ る. と い う の も 当 時 の こ の 地 方 に は フ ァ ウ ス トと い う 名 字 が多 く あ っ た と いう こ と が わ か っ て い る か ら で あ る.. 孤. 無性格な人間としてのフ ァウスト?. 我々 はこれまでフ ァウス トの実在性を証明する様々な問題 を扱ってきた. しかしそれらは全て彼 の外側を規定する枠であって, 彼の中味で はなかっ た, そこでこれから, 彼の中昧である, 彼 の性 格, 能力, 本 質 に つ い て 言 及 し て い か な け れ ばな ら な い.. 歴史上のファ ウス トの人物像については, 学者の間で は, これまでほとんど無性格な人物として 捉えられてき た. 主体的, 行動的, 積極的 人物としてのファ ウス ト像は, 主として文豪 ゲーテが創 り 出 し た 想 像 上 の フ ァ ウ ス トで あ っ て, 決 して 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トで は な か っ た. そ し て そ の 文 学 ト本 (『ヒ ス トリ ア』) を 源 に して い た. 若 い 時 の ゲ ー テ はヂ フ ァ 上 の フ ァ ウ ス ト は, 伝 承 の フ ァ ウ ス・. ス ト創作の刺 激を得, 『ヒス トリア』 等 ウス ト本を基にして作られた 人形劇を観ることで, フ ァウ・ を 読 ん で あ の 偉 大 な 『フ ァ ウ ス ト』 を 創 作 し た の で あ っ た, 『ヒ ス トリ ア』 の 中 で は, フ ァ ウ ス ト は,. あらゆるものの根 源を問い, あ.らゆるものを自分の眼で確 かめる認識欲を持つ 人物として現われる と同時に, そういう姿 はキリス ト教の信仰 に反するものである故に, 悪魔的, 否定的様子をも帯び ている. 従って主として ゲーテ以前のファウス トは, 認識欲を持つ が故に, 悪魔と手を結ぶ者, 否 定的人物 として現われてい た, ところが ゲーテは, 『ヒストリア』 で悪魔と契約 し, 地獄に堕ちる 姿として 語られるフ ァウストの中に, 人間の根本衝動を見, それを積極的に肯定し, 彼の作品 『ファ ウス ト』 の中に, フ ァウス トは究極的に救済されるという姿を具体化したのであっ た. そオ に して . も, 『ヒ ス トリ ア』 の 地 獄 行 の フ ァ ウ ス トで あ れ, 文 学 上 の フ ァ ウ ス トの 中 に は, 認 識 欲 と い う 主. 体的人間性 が宿 っている. と こ ろ が 歴 史 上 の フ ァ ウ ス トの 人 物 像 は ど う か と い う と, こ れま で の 文 献 学 的 研 究 で は, そ う い. う主体 的な性格は見い出 さ れ得ない, 彼は単に大言壮語する だけの, 女D何様の ペテン師, 全く主体 的性格を持たない ゼロの人間という評価が下されてき た,それは無性格としてのファウス トである, 25年の たとえ ば歴史上のフ ァ ウス トは, 「歴史家が研究す るに足るほど重要な」 人物で はない (16 1 5 )とか 彼は偉大な魔術師ではなく 同時代の 人々を欺く術を心得て ガ ブリ エ ル. ノ デーの批評) , , 1 6 } が さ れ て き た, さ ら に トー い た に す ぎ な い 人 物 (1791年, J ,F, ケ ー ラ ÷) と い っ た よう な 評 価 下 t》 の中 thどs 《Faus マ ス ・ マ ン な ど もゞ 彼 の 論 文 「ゲ ー テ の 『フ ァ ウ ス ト』 に つ い て」 UberGoe. 16.
(10) . 歴史上のファウス ト. で, ファウス トは新約聖書の使徒行伝中に登場するサマリア出身のシモンの行為を, 神話的に再生 したにす ぎない, すなわち聖書中のシモンは, 聖霊を買い取ろうと, ペテロに金を出したり, 異端 の宗派, シモン派を創設し, あつかましくも, 自らを神と言っ た人物なのだが, ファウス トと自称 す る ヘ ル ム シ ュ テ ッ テ ル は, そ れ を 神 話 的 に 再 生 し た に す ぎな い と 主 張 し た の で あ る. (し か し マ ン が歴 史 上 の フ ァ ウ ス トの こ と を ヘ ル ム シ ュ テ ッ テ ルと 見 倣 し て い る 点 に 関 して は, 現 在 で は ほ と. んど意味を持ち得なくなってきている.) ここにはもはやファウス ト本以後の文学上のファ ウス ト像と歴史上実在したファウス トとの間の 連絡通路は存在しないかに見える. ゲーテ的 ファウス トと歴史上のファウス トとは全く違う人物 , 180度違 っ た 人 物 と 考 え ら れ て いる の で あ る. 果 し て そ う で あ ろ う か.. 無性格な人間という評価を下して いる, その根拠は, 歴史上のファウス トが生きていた時代の資 料の追求によって導き出された. そして特にその根拠に最も大きな影響を与えたのが, 聖ヤコブ修 道院長 トリテーミウスの手紙であっ た, というのもこの手紙は, 歴史上のファウス トの性格, 人間 性 につ い て, 他 の 文 献 に 較 べ ら れ な い ほ ど 詳 しく 書 い て い る か ら で あ る. マ ン もそ の 手 紙 を 読 ん で. 上述のような結論を導き出したのである, そこで我々も, 彼らと同じように, 無性格の根拠となっ たトリテーミウスの手紙を, 再度分析していく仕事に取りかからねばな らない. 彼はその手紙を次 のように書いている. 引用 は少し長くなるが, 後世に決定的な影響を与えた手紙である故に, ここ で全文を掲げておく, 「君が私に書いて寄越したあの男, 自分を降霊術師の第一人者と呼んでいる, あのゲオルク・ザ ベリクスは, 放浪者, 下らない鏡舌屋で, 如何様の放浪者であり 公然と憎むべき事 聖なる教会 , , に歯向かう事を教えようとしている故に, 鞭で打たれるに価する, というものも奴が自称 している 名前は, 馬鹿げた, 無意味な心の現われ以外の何もの でもなく, まさに愚か者であって, 哲学者な どとはとんでもないことだからだ, 奴は自分の都 合のいい名前を作り上げた, 博士ゲオルク・ザベ ).フ ウス ト二世 1 8 7 } リクス1 ァ , 降霊術師の源, 占星家, 魔術師の第二人者, 手相術師, 大気術師, 水理術の第二人者 -- この人間の馬鹿な大胆さを 見よ. 降霊術師の源と自称するなど, なんとい う気狂い沙汰. あらゆる正しい学 問を知らないこの男 は, 実際, 博士などより, 馬鹿者と自称する べ き だ っ た. 私 は奴 の 非 道 さ を よく 知 っ て い る, 私 は 昨 年 マ ル ク ニ ブ ラ ン デン ブ ル ク か ら も ど っ て き た と き, ゲル ンハ ウ ゼ ン と い う 町 の 近 く で, 奴 に 出 く わ し た. そ こ の 宿 屋 で私 は 奴 の 馬 鹿 げた 非 ・. 道の行ないを町の者から聞いた. 奴は私の泊っているのを知 って, すぐに宿屋を逃げ出してしま っ たので, 私は奴と面識を得ることはできなかった. 私たちは又, 奴が君に見せたあの馬鹿げた行為 を, 手紙で一人の市民を通じて私たちに送付したこと も覚えている. あの町で私は奴が次のような ことを言いふらしているのを, 聖職者たちから耳にした. つまり奴はあらゆる英知を知り尽した , とか, プラ トンやアリス トテレスの哲学全てを含んだあらゆる著作物が, 全く人間の記憶から失わ 9 )の よ う に 全 て を い や も れて・しま っ た と して も, 奴 は自 ら の 天 才 に よ っ て, ヘ ブ ライ の エ ス ラ1 っ , ,. と す ば ら しい形 で 再 生 さ せ る こ と が で き る と, 私 が後 に シ ュ パイ ヤ ー に い た と き, 奴 は ヴ ェ ルツ ブ ル ク に や っ て き て 公 衆 の 面 前 でう ぬ ぼ れ て , ,. 我々の救世主キリス トは驚くに価しない, とか, 自分はキリス トが行なっ たことほとんど全てを, そ の 気 に な れ ば いつ だ っ て で き る, と 自 慢 気 に 言 っ て い た, と い う こ と を 耳 に した. 今 年 の 四 旬 節. 期に, 奴はクロイツナハにやって来て, 例のごと〈大袈裟に, 自分は錬金術において, これまで存 在した全ての者たちの中で, 最も完壁な者であり, ともかく人々が望んでいることは全て知ってい る し, す る こ と が で き る, と 言 っ た ら し い, こ の 時 期, ク ロ イ ツ ナ ハ の 学 校 の 職 に 空 き が あ っ た, 17.
(11) . 大 木 文 雄 そ の 職 は フ ラ ン ツ ・ フ オ ン ・ ジ ッ キ ン ゲ ン, つ ま り 君 の 上 主, 神 秘 的 な こ と を 知 り た が っ て い る 男 の 取 り な し に よ っ て, 奴 に 委 託 さ れ た, し か しま も な く 奴 は そ こ で 子 供 た ち に 極 め て 恥 ず べ き わ い. 0 }そしてそれが明るみに出るや 奴は逃げ出して しま っ た 以上が君が首を せつな行為をやっ た.2 . , 2 1 長く して 待 っ て い る, あ の 男 につ い て の 私 の 知 っ て い る 限 り の 確 実 な 証 言 で あ る.」 }. この手紙はファ ウス トのことを世間を惑わす大罪人のように書いている, 「下らない鎌舌屋, 如 何様の浮浪人」 とか 「公然と憎むべき事, 聖なる教会に歯向う事を教えようとしている故に, 鞭で 打たれるに価する」 等, 全文を通してフ ァウス トの悪口が書かれている, それは極端とも思われる ほ ど の, 激 し い 攻 撃 ぶ り で あ る. こ れ は マ ハ ー ル 博 士 も 言 っ て い る よ う に, ま る で 「逮 捕 状」 2 )の よ う で あ る そ し て こ の 手 紙 が 主 と し て 後 世 の 研 究 者 た ち を し て フ ァ ウ ス ト は i f2 st eckbr e , , , ペ ぎな か 空 金 しさ の た 張 屋 h h l ほ ル ン ン に す 威 り S a l 山 師 Schar t c m s c e r au っ という 結 論 を 導 aan, g ,. き出す引き金にな っ たのである. 果たして彼はそのような否定的, 無性格な人間であっ たのであろ うか. 我々 はトリテーミウスの語り口 が, あまりにも激しく, 常軌を逸した攻撃である故に, そこ に何か胡散臭いものを感 じないではいられない. この手紙の裏には何かその表現とは違った別のも の が 隠 さ れ て い る と 思 わ な い で は い ら れ な い. トリ テ ー ミ ウ ス は 歴 史 上 か な り 有 名 な 人物 で あ る. 彼 は21歳 の 若 さ で, シ ュ ポ ン ハイ ム の ベ ネ ディ. ク ト会聖ヤコ ブ修道院の院長にな っ た. 彼が院長になっ た頃, この修道院の建物は, ほとんど殴れ かけていて, しかも借金が山ほどあり, 修道僧たちの生活も怠惰, 無知といっ た混乱の中にあった. 彼はそれを乗り越えるため, 様々な工夫を凝らし, 41歳頃にはこの修道院をヨーロ ッパに名を轟か せるほど立派なものにした. 特に彼は本の蒐集に熱心で, 当時としては珍しい二千巻もの本を蔵す る図書館をつくり出した. 諸侯や国王はこの修道院に使者を送っ たり, マク シミリアン皇帝は, 政 治問題等に関して忠告を求めたりしていた, しか し1505年 ハ イ デ ル ベ ル ク を 旅 行 し て い る 間, シ ュ ポ ンハ イ ム の 修 道 僧 た ち は 暴 動 を 起 こ し,. 彼に黒魔術 (当時は生活に有用な 《白魔術》 と有害な 《黒魔術》 とは区別されていた) の嫌疑をか け, 彼を院長の席から引きずり下ろしてしま っ た. 彼は自ら苦労してその蔵書を集めた図書館に未 練 はあ っ た が, シ ュ ポ ン ハイ ム ヘ は 二 度 と 帰 ら ず, 1506年 か ら は名 も な い ヴ ェ ル ツ ブ ルク の シ ョ ッ テ ン 修 道 院 の 院 長 と して, 細 々 と 死 ぬ ま で (1516年) そ こ で 過 ご し た の で あ る.. 彼はこのように聖職者として有名になり, 教会に関する多くの論文を書いたが, 一方当時正統的 キリス ト教からは異端と見倣されていた魔術にも関心を示すという二面性を持づていた. 彼は極め て臆病で, 内面を隠蔽する癖があり, 既存の伝統に反するようなことを口にすることは極力避けた, こ の よ う な トリ テ ー ミ ウ ス と い う 人 物 像 を 考 え に 入 れ な が ら, しか も1505年 突 如 シ ュ ポ ン ハ イ ム の. 修道院から, 修道僧たちによっ て悪魔と手を結んだ者と思われ, 院長の席を剥奪され, 放浪の旅を 続 け て い る 丁 度 そ の 時, つ ま り1506年 彼 が ゲ ル ン ハ ウ ゼ ンの フ ァ ウ ス トの こ と を 記 述 し て い る と い う こ と を 考 慮 に 入 れ な が ら, こ の 手 紙 を 再 読 し て み る な ら, トリ テ ー ミ ウ ス の フ ァ ウ ス トに 対 す る イ メ ー ジ は又 違 っ た も の と して 浮 び 上 が っ て く る よ う に 思 わ れ る. し か も ゲ ル ンハ ウ ゼ ン の 宿 屋 で,. 彼はフ ァウス トと面識を得なか っ たのである, 面識を得る寸前にフ ァウス トの方から身を退けたと トリ テ ー ミ ウ ス は 書 い て い る の で あ る. 会 わ な か っ た に も か か わ ら ず, あ た か も実 際 会 っ た か の よ う な÷ 精 確 さ, 新 鮮 さ を も っ て, 能 な し の, 弱 虫 の フ ァ ウ ス トに つ い て 書 い て い る 事 は一 体 何 事 を. 意味するのであろうか. . 既に有名にな っ ている トリテーミウ スは 自分が書いた手紙は後世にまで伝えられ, 読まれる運 , 命にあることを当然意識していた, たとえそれは数学者兼宮廷占星術師フィ ル ドゥングに宛てた個 18.
(12) . 歴史上のファウスト. 人的な手紙であったとしてもである. 果たせるかな, この手紙は彼の死後 『私信集』 の中に収めら れ て, 1536年 印刷 さ れ, 公 け にさ れ る こ と に な る, そ れ 故 こ の 時 の トリ テ ー ミ ウ ス の 心 の 中 に は ,. 公けにされるという意識と, 1505年修道院を追放された無念さとが, 重なり合っているのである. 一方では魔術に関心を示しながらも, 他方ではそのことによって修道院を追い出された無念さを彼 は感 じている, なんとかして世間に対して自分の黒魔術への嫌疑を晴らしたいという考えが 彼の , 心 に は 潜ん で い る.. そして自分は黒魔術の敵対者, 表面上は正統な聖職者であり 同時に内面 では白魔術の第一人者 , であるという自負が窺える, 彼は当時白魔術師, 隠秘論者として有名だったバラケルスス Pa l r a c … e i sus (1493-1541) や ア グリ ツ パ Agr ppa (1486一1535) に 影 響 を 与 え た 人 物 で も あ っ た. た と え. ば彼はア グリ ツパの著書 『隠秘哲学』 を読んだ後で ア グリ ッバに次のような忠告を与えた , . 「あ な た に 言 っ て お き た い こ と が もう 一 つ だ け あ り ま す. け っ して 忘 れな い で 下 さ い そ れ は 大 ,. 衆には俗っ ぽいことだけを話し, 高級なあらゆる秘密は, あなたの友人たちのためにとっておくこ 3 ) と. つ ま り ウ シ に は乾 草 を 与 え,.オ ウ ム に は砂 糖 を 与 え る こ と で す 」2 ,. トリテーミウスは, 第一級の白魔術師とは公衆の面前にはできるだけ姿を現わさず 密かに研究 , 室に閉じ込もり, 学者しか知らないラテン語の文章で, 大いなる神秘について書く人であると考え ていたのである. しかも大衆は無知である故に, 軽蔑すべき人種であるというヒュ プリスな考えを 持 っ て い た.. ところがファ ウストはどう であろうか. 彼は大学を出ていな いにもかかわらず 博士と称し 自 , , 分は占星術師, 降霊術師の源 であると大言壮語しているの である, 大言壮語していながら しかし , 民衆の中 ではかなりの実力者として評判が高いと いうわけである. 大衆の中 で ばかり人気 があるの で はな い. トリ テー ミ ウ ス と 同 じ聖 職 者 仲 間 か ら, キ リ ス トの 行 な っ た こ と な ど そ の 気 に な れ ば い つ だ っ て でき る, な ど と い う フ ァ ウ ス トの ス ケ ー ル の 大 き な 態 度 を 耳 に し た り 体 制 批 判 特 に カ , , トリ ック批判●を熱烈に押 し進めた帝国直属騎士 ジッ キンゲン Franzvon si i ck ngen (1481-1523). からも一廉の学 問を身につけた者と思われ, 学校の職を世話してもらったりしているのである ト , リ テ ー ミ ウ ス は感 じて い る, こ れ ま で 築 い て き た 自 負 が フ ァ ウ ス トの 大 衆 ヘ ア ビ ー ル して い る 言 , 動 に よ っ て, 一 挙 にく ず さ れ る の で はな い か と. こ れ ま で 偉 大 な も の と 思 わ れ て き た ア リ ス トテ , レス や プ ラ トン の 学 問 を, フ ァ ウ ス ト があ ざ笑 う こ と に よ っ て トリ テ ー ミ ウ ス は自 分 の 学 問 に 不 ,. 安を抱いている. 彼はファ ウス トの態度を軽蔑しながらも 反面ファウストの実力に一目置いてい , る の で あ る. そ れ はあ の セ ル ヴ ァ ン テ ス の ドン ・ キ ホ ー テ の 姿 に 幾 分 似 て い る ドン ・ キ ホ ー テ は .. 自ら騎士になり すまし, 各地で滑稽な行動をすることによって 騎士階級を笑い飛ばし 否定する , , の で あ る, トリ テ ー ミ ウ ス は, い わ ゆ る エ リ ー トで あ る. 独 学 に よ っ て 実 力 を 備 え た フ ァ ウ ス ト が , 彼 を 笑 い飛 ば す こと ほ ど, 彼 に と っ て は 不 安 な も の は な い. 大 衆 に と っ て フ ァ ウ ス ト は 人 気 が あ っ た, と い う の も エ リ 」 ト達 は 決 して 自 ら の 大 事 な も の を ,. 大衆に見せず, 秘密にし, 彼らを軽蔑していたの に対し ファウス トは占星術 錬金術の技を巧み , , に大衆の面前 で演じ, 彼らを魅了させていたからである. それ故自ら第一流の白魔術師 呪術師と , 思い込ん でいる, 、支配階級に属 するエリー トの トリテーミウスにとって, 独学の大言壮語する, 秘 密結社などには加わらず, 敵とまともに闘わない, アウトサイ ダーとしてのファウス トは まこと , にいやな足元をすくわれるような不安を与える人間であったにちがいない. まさ にトリテーミウス にとっ て, ファウス トをあの手紙の中 で激しく攻撃することは自らの立場を正統化するための絶好 .. 19.
(13) . 大 木 文 雄 の 機 会 で あ っ た の で あ る.,攻 撃 は 最 大 の 防 御 で あ る, 彼 は 極 端 な 表 現 を 用 い る こ と に よ っ て, フ ァ. ウス トを悪玉に仕立て上 げたのであっ た. しかし彼は決してフ ァウス トを告訴し, 宗教裁判にかけ し, この手紙の内容自 るようなことはしなかっ た. 彼自身が既に, 黒魔術の嫌疑をかけられていた・ 体 トリ テ ー ミ ウ ス は, か な り 水 増 し し, 誇 張 し て い た か ら で あ る.. 従って歴史上のファ ウス トの人物像は, この手紙の表面上の姿とは別の姿として考察されること が可能となっ てくる. それは否定的, へどが出そうな, 無性格な, 山師としての人間ではなく, 逆 に積極的, 行動的, 自律的, 主体的性格の人間である. フ ァウス トは卑小に生まれた者の復讐とし て, 封建社会の圧迫に歯を食いしばって耐える独学者であり, 支配階級に対し痛烈な批判を加える アウ トサイ ダー であっ た, そ して彼はたえず自らの姿を注意深く変えて, 各地を転々とする放浪者 l nhausen (1506) で は トリ テ ー ミ ウ ス に 会 い そ う に で あ っ た. 彼 は 実 に 多 く の 町 を 遍 歴 し た. Ge な り, Wurzburg (1506) で は キ リ ス ト は 驚 く に 価 し な い と 公 言 す る. そ し て Kreuznach (1507) f t {1513) の 飲 み 屋 に 現 わ れ る, さ ら に は に 来 て 学 校 の 教 師 に な り, ま も な く そ こ か ら 出 て, Er ur f {1528) で は副 修 道 Bamberg (1520) で 占 星 術 の 報 酬10グ ル デ ン を 宮 廷 か ら も ら っ た り,,Rebdor t 院長キリアン・ライ ブと親しく交わるときもあれば, 反対にlngol s adt (1528) の 町 か ら は 占 星 術 Nu b か ( 1 2 ) の ら れ h 5 3 町 に入ろうとするが rn erg t の失敗で追放さ , Far , 黒魔術師と思われ, 入. f t ることを拒絶されたりす る. そうかと思えばS a u en (1539) では錬金術師として雇われ化学実験 に熱中する. フ ァウス トは, 相当の実力を持ち, 自律的行動をとるが故に, 沢山の人々から暖かく 迎えられ, 友情さえ結ぶこともあっ たが, 反対に トリテーミウスのような支配的階級からねたみ深 く思われ, 激しい攻撃を受けもしたのである. よりにもよって彼は精神的にも, 社会的にも大きな転換期に生きていた. この時代には, 人間の 感性ないし肉体の解放を求めるルネッサンス と霊的精神の復興と再生を叫ぶ宗教改革, そして農民 戦 争 の 嵐 が 吹 き 荒 れ て い た. フ ァ ウ ス トは こ の よ う な 動 乱 の 時 代 に, い ず れ の 立 場 に も 与 す る こ と. なく, 自由に自分の意志 を貫いた人物であっ た. かく してこのような 人物としての歴史上のファウ ス トは, 1540年 頃 シ ュ タ ウ フ ェ ン と い う 町 で, 化 学 実 験 の 失 敗 に よ っ て, こ の 世 を 去 っ た の で あ る,. それは爆死であり, 無残な最期であったらしい. 支配階級をあ ざ笑うことによって痛烈な批判を加 えたアウ トサイ ダーとしてのフ ァウストがこの世を去るや,支配階級の者たちは巧みに対処し,ファ ウス トを悪魔と手 を結んだ者に仕立て上げた.そしてその物語は,『ヒス トリア』に結晶し,一躍ヨー ロ ッ パ 全 土 に 拡 が っ た の で あ る, し か し ゲー テ の 芸 術 家 と して の 想 像 力 は, 決 し て そ れ に 惑 わ さ れ ト は, ゲー テ の 『フ ァ ウ ス ト』 の 中 で, あ ら ゆ る も の の 根 源 を 窮 め つ な か, っ た, 歴 史 上 の フ ァ ウ ス・. くそうとする学者の力強 い姿に変身して蘇るのである.. Anmerkungen. l i f t i t t l ー n wi ssenscha chessymPO‐ s or sche Faus 1).ErnstBeut er: Goethe‐Ka ender1936 . Ei .1n: Der Hi ,S.198 i l i her MahaL Kn i i t t ngenl982 nt s um. Hrsg , .v . Gt ,S,81 im l980 i i l fDe l i i l i f t t her Maha l:FAUST‐der MannausKn t t 2) Gunt n Ro ng orzhe ngen z .37 . ,of ,s ,Pf 3) a,a,0.s.37. i i f i tim i ter i ch l: Faus these sche ntn t ese schr 4) Gunther Maha t ‐e ngen s ag ne Hypo s Gebur .(Di .1979 T”b ,S.2 l E i l i A n 1 7 5E ) Hande l r u x e m a e age p , . nma ge i i l i t t t t t 5) Vg 1 t t ngenl982 s or scheFaus usdes16 s ron: DerDoc orFaus ,ln:DerHi , Kn .Jahrhunder , .FrankBa S 4 5 5 3 ‐ . ,. 20.
(14) . 歴史上のファウスト 6) DerHi i t her Maha l l i t i s or t t t sdl sg e Faus ngen1982 ,Hr ,v , G”n .104 , , Kn ,s 7) a ,0.S .a .101 , 8) a i 742 i i i tn ng: Nach500Jahren t t ‐unsere Kenn ssevom h s or schenFaus ,a ,0.S ,3 .Hans Henn ,. 9) Gun her Maha t l:Faus i hese t i t t s Gebur ne Hypot s age ngen ,1979Tub , 10) a 0 S 3 , . ., .a 11) Gunther Maha l:FAUST‐ der Mannaus Kn i l i i t f i l fDet l i im l980 t t ngen z nRo ng or zhe . of ,57 , ,Pf ,S 12) a .a .○.S,59 , l: Vom h 13) Gunther Maha i i i i t t i l l l t ds i r s or schen zum l t t t era schen Faus e e Wur emberg Dr ch A, , Landesb , Br i We nr erl984 eut . ,19 ,S. 14) Gunthe・ Maha l:FAUST‐ der Mannaus Kn i l i f i i l fDet l i t t im l980 t ngen n Ro z ng or zhe . of , ,Pf ,S,11 15) ハンス・ヘニング:ファウス ト, その源流と発展, 訳編著道家忠道, (1974) 朝日出版社, 東京. 30頁. 16) 同上. 3 1頁, 17) ファウストの時代によく使われた偽造名 で, ある個人ではなく, ローマ北東のザビーネル山に住ん でい た魔法を使う民族として有名なサビーナあるいはザベラーをあてこすっ ている. 18) 大魔術師ジーモ ン・マー グスS imon Magus を一世と考え, 彼をあてこすっ ている, 古代の冒険小説 『検 i 閲』 Rocogni t ones に 従 え ば 彼 は フ ァ ウ ス ト ゥ ス と 名 の っ て い た こ と に な っ て い る. こ の 小 説 は フ ァ ウ ス ト の時代には広く読まれていた. 19) 旧約聖書の予言者. 彼は聖書外典から啓示を受け, ユダヤ教の力 バラの秘義から予言書を記述した. 20) ロー ブローをやっ たということで, 特にわいせつな行為というわけではない, i fdes Abt 21) 1507,20. August:Br i hemi t i de l be・g e esJohannes Tr usanJohann Vi t rdungi n He s - or ,ln: Der Hi ‐Maha i he l t i i l t t sche Faus sg 1 ngenl982 , Hr .v . Gunt , Kn ,101 , ,s l:FAUST- 22) Gunther Maha der Mannaus Kn i l i f i i t t l fDet l i t im l980 ngen n Ro z ng orzhe , of , ,Pf ,S,16 23) K 1 東京 3 2 8 頁 , セリグマン:魔法 -- その歴史と正体, 平田寛訳, 平凡社, 196 . . . (本 学 助 教 授 釧 路 分 校). 21.
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