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積極的安楽死に臨む態度

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Academic year: 2021

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(1)Title. 積極的安楽死に臨む態度. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. モラリア, 8: 41-57. Issue Date. 2001-10. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1786. Rights. 東北大学倫理学研究会. Hokkaido University of Education.

(2) 積極的安楽死に臨む態度. はじめに. 千. 葉. 胤. 久. 安楽死、特に積極的安楽死に関しては、その是非をめぐって現在においても議論が絶えない。積極的安楽死に賛. 言うのは当然のことと理解できる。だが、彼らだけではなく、安楽死に積極的に賛成していこうとする人々もまた. できるだけ慎重になるべきであるということを述べた言葉であり、安禁死に慎重であろうとする人々がこのように. すことができるのであれば、安楽死などしないにこしたことはない﹂という態度である。これは安楽死に対しては. 比べていくとき、両者に共通の﹁積極的安楽死に臨む態度﹂を見出すことができる。それは、﹁安楽死せずにすま. 積極的安楽死に賛成する意見、慎重になろうとする意見のどちらにも一理あることを認めつつ、双方の議論を読み. の問題に関しては、こうした冷静な議論をこれからも積み重ねていくことが必要であると言えるが、このように、. べき内容が含まれていることを踏まえたうえで議論を進めていこうとする人々もあらわれはじめているT︶。安楽死. も多く見られるが、しかし、最近はこうした議論の応酬の不毛さを脱して、双方の見解それぞれに、正当に評価す. 成する者たちの議論と反対する者たちの議論との間には、互いに相手の非倫理性を感情的にあげつらうだけのもの. 41.

(3) 同様のことを述べていることに、ここでは注意したい。例えば、慈悲殺を正当化しようとする1・ハッケタールば、. ある患者への自殺腎助の実行を前にして、次のような心境であったことを告白している。. ﹁私は心の準備ができた。しかし、患者の決心が、ここへきて揺らぐことも期待していた。もしそうなれば、そ れに越したことはなかった。﹂吾. また、過激な安楽死推進論者と目されるJ・キヴォーキアンのようなひとでさえ、﹁徹底的に話し合った上で、. 最終手段として手を貸すことしかしない﹂と述べているし、積極的安楽死や自殺酎助を実施する以前に、精神科医. の診察をうけるよう勧めることは﹁基本的な医師の責務﹂であるのに、このことが行われていないことが多いとい. う現状を﹁全く信じられないこと﹂だと批判さえしている︵3︶。わが国においても、あるテレビ番組T∴の討論におい. て、積極的安楽死に賛成の立場をとる星野一正は、積極的安楽死を実施するにあたっては﹁できるだけ厳しい条件. を設けるべきである﹂ということを強調し、その上で﹁最後の選択肢﹂として積極的安楽死を許容すべきであると. 主張していた。このように、﹁厳しい条件を設ける﹂、﹁最後の選択肢・最終手段﹂ということを強調することに、. ﹁安楽死せずにすますことができるのであれば、安楽死などしないにこしたことはない﹂という態度を垣間見るこ とができる。. もちろんこの態度は、直観的なものであって、それゆえに何らかの論証によって誤りであることが示されるとい. うことがありうるものである。しかし、この直観は積極的安楽死に対して賛成という態度をとる者にも、慎重にな. ろうとする者にも共通する直観である以上、この直観は安易に否定すべきでほない。また、無条件に積極的安楽死. 42.

(4) は許されるべきだと主張する、あるいは逆に、積極的安楽死は絶対的に禁止されるべきだと主張するといった極端. な議論を展開しようというのでもなければ、さしあたっては、それを﹁誤り﹂として取り立てて論証する必要はな. い、と言うこともできよう。そこで本稿では、この、両者に共通する﹁安楽死しないにこしたことはない﹂という. そ去 して、この態度に忠実になるならば、積極的 態度を議論の基本的な前提ないしは出発点とすることにしたい、. 安楽死の問題に関していかなることが言えるようになるか、考察することにしよう。. この﹁基本的な態度﹂を出発点にして、本論で考察されるのは以下のような問題である。もし積極的安楽死に臨. む態度がそのようなものだとすれば、積極的安楽死に賛成するにしても、それは消極的に認められるのみであって、. 積極的に認められるものではないのではないかTエ。つまり、それ自体に絶対的価値があると考えられるものでほな. いのではないか。そして、このように言うことができるとしたならば、自己決定権を理由に安楽死を肯定しようと. かなるものか。最後に、この観点からも考察を加えていくことにしたい。. 的安楽死を許容せぎるをえない場面があるという場合、﹁許容せざるをえない﹂という表現の意味するところはい. の特異な性格という観点から考察していきたい。また、たとえそのように言うことのできるものだとしても、積極. 人々の態度と積極的安楽死に臨む能崖との違いという観点から、次に、積極的安楽死が求める﹁自己の死・私の死﹂. こうした、積極的安楽死をいかに位置づけるのが妥当であるのかという問題を、まず、患者の自己決定権に対する. する議論は、安楽死に対して、それを積極的に肯定するという﹁過大評価﹂を与えていることになるのではないか。. 43.

(5) 一患者の自己決定権と積極的安楽死. 積極的安楽死の要求は患者の自己決定権の一例であり、それゆえに積極的安楽死は肯定されるペきである、と る意見がある。患者の自己決定権ということが言われる場合、通常、この自己決定は尊重されるべきであり、患. の自己決定に医師はできるかぎり従うことが義務として課されることになる。確かに、患者の自己決定を権利と. て認めることは、医師患者関係に暗黙の内に上下関係が築かれてしまいがちな状況においては、それを是正する ために必要な方策である。この場合、患者の自己決定はできるかぎり尊重されるべきものであり、それを尊重し. つ行為することは医師の義務である。このように、自己決定は、それが権利として主張されるならば、その主張. は従わなければならないという義務が相手側に発生する。だとすれば、積極的安楽死の要求は自己決定権という. 律的には、患者に死ぬ権利を認めると、相手方、つまり医師に死なせる義務が生じる。これを認めている国はど. ﹁死に方の選択権、病院でか在宅でかなど選ぶ権利は自己決定の範囲として認められますが、死ぬ権利は認め ていません。権利は生きて行くために付与されているもので、生きていることを抹殺する権利はありえません。. ば、弁護士の池永満は、生井久美子による取材に応えて次のように述べている。. たがって、積極的安楽死という死の自己決定を権利と見なすことはできない﹂と言うことができるであろう。例. このことを理由に、死の自己決定たる積極的安楽死の要求を権利と見なすことに対して否定的な態度をとるこ もできるであろう。つまり、﹁実際に積極的安楽死的措置を行うことまでを医師の義務とすることはできない、. 利に基づいたものであると主張することは、その要求に従うことを義務として要請することになるであろう。. 44.

(6) もありません。幸助けしても罰せられない、というのがせいぜいだということです﹂︵エ。. むつとも、義務化できないとする議論に対しては、積極的権利・義務と消極的権利・義務との区別を設けるなら. ば、一﹁実際に積極的安楽死的措置を行うことを医師の義務とすることはできない﹂という難点は解消される、とい. う反論が予想される。つまり、通常の患者の自己決定は積極的権利であって、それに他人が積極的に加担するとい. う仕方で従うことを義務として要求するものである、と言えるかもしれないが、死の自己決定の権利は消極的権利. であって、他人がそれに積極的に従うことを義務として要求するものではないという区別が立てられるのであり、 rの区別に従えば先の難点は解消される、と。. ▼しかし、消極的権利としての自己決定であっても、それは﹁できるだけそれに従うべきもの﹂であると考えられ. ことを全くせずに、つまり自己決定には干渉せずにそのまま従うべきだ、と言うことはできない。だとすれば、そ. を講じることであり、これは何をおいてもまず第一に行われるべきことでもある。したがってこの場合、こうした. 人が第一に行っていることは、その自己決定を何とかして思い直してもらえるよう説得し、そのために可能な方策. わないですむよう努めるべきこと﹂ではない。これに対して、死の自己決定に対する﹁基本的な態度﹂に別して他. ない﹂という消極的な仕方で従うべきである、という義務が発生する。少なくともそれは、﹁できるだけそれに従. いようにする義務を負っていることになる﹂亙のが消極的権利である以上、消極的権利に対しては、それを﹁妨げ. る。たとえ、ある権利が消極的なものであったとしても、他人はその権利要求を妨げることはできず、﹁干渉しな. は﹁できるだけそれに従わないですむよう努めるべきもの﹂と見なされうる、という相違は残ると言うことができ. るのに対して、死の自己決定の場合は、本稿の﹁はじめに﹂で取り上げた﹁基本的な態度﹂からするならば、それ. 45.

(7) れに対しては﹁従わないですむよう努めること﹂、言い換えれば﹁基本的には従わないこと﹂が採るべき態度であ. るということになる。この点に、死の自己決定を権利として認めることに躊躇せざるをえない理由をみることがで. きる。権利と呼べるものは、積極的に加担するという仕方であれ、干渉しないという仕方であれ、それに対しては. ﹁基本的に従うこと﹂が要求されるものであって、ある例外的な条件のもとでのみ、それを否定することが許され. るものであるだろう。これに対して、死の自己決定に対する人々の態度は﹁基本的には従わない﹂というものであ. り、権利というものの要求する﹁基本的に従うべき﹂という性格に合致しているとは言えない。むしろ、反対に. ﹁基本的には従うべきではない﹂という性格のものであると言うことができる。. ただ、この﹁基本的には従うべきではない﹂ということは、﹁絶対に従うべきではない﹂ということを意味する. わけではない。このことは認めておかなければならないだろう。ある条件が出揃ってしまっている状況︵例えば、. る、と言うことができるであろう。まず、患者の自己決定は権利として認められるべきものである。しかし、死の. このように見てくるならば、患者の自己決定権という問題と﹁死の自己決定﹂との関係は以下のようなものとな. せざ る を え な い の で あ る 。. びとが示す基本的了解が全く正反対の内容をもつがゆえに、﹁死の自己決定﹂を権利として認めることには、躊躇. に許容されるもの﹂であるのに対して、死の自己決定は﹁例外的に許容されるもの﹂であるという違いがある。人. 自己決定権と、死の自己決定との相違を見て取ることができる。ここには、いわゆる患者の自己決定権が﹁基本的. るもの、それが死の自己決定であると言うことができる。だとすればここにも、権利として認められるべき患者の. 状況︶においては、それを許容せざるをえないという場合があるだろう。このように例外的に許容される場合があ. 東海大学病院事件・横浜地裁判決における、いわゆる﹁安楽死の四要件﹂がすべて満たされてしまっているような. 46.

(8) 自己決定は、基本的には、患者の自己決定権が制限される例外的な状況・条件のひとつと見なしうるのであり、そ. れを否定することが許されるものである。だが、死の自己決定は基本的に制限され、否定されるべきものであるに. しても、この基本的に﹁否定されるべきもの﹂が、さらにまた、ある例外的な状況・条件の下では、それを﹁否定. することが許される﹂ものになる。つまり、否定の否定として、肯定されるものになるTヱ。死の自己決定とは、た. んに患者の自己決定権の一例と見なされうるものではなく、患者の自己決定権の議論においては、いわば﹁例外中. の例外﹂と位置づけることが妥当なものであると言うことができる。積極的安楽死は、例外的に認めざるをえない. 場合があるという性格のものなのであって、それ以上のものではない。これに対して、患者の自己決定権は、基本. 的には認められるものであるのだが、例外的にそれが認められない場合がありうるという性格のものである。﹁例. 外的に認められる場合があるもの﹂としての積極的安楽死と﹁例外的に認められない場合があるもの﹂としての患. 者の自己決定権との相違。これは、先に挙げた﹁基本的には従うべきではないもの﹂と﹁基本的に従うべきもの﹂. との相違の裏返しの表現であるが、こうした違いを無視して、﹁患者の自己決定権は尊重されるべきだから、死の. 自己決定も尊重されるべきである﹂と単純に強調するだけの議論は、患者の自己決定権との関係における死の自己. 決定の位置が ﹁例外中の例外﹂という特異なものであることを看過した議論であり、患者の自己決定権の論理のみ. を振りかざして、積極的安楽死を肯定しようとすることば性急にすぎる態度である、と言うべきであろう。. それにしても、そもそもこの場合、自己決定権の論理に訴えかけることはどうしても必要なことなのであろうか。. そうしなければ、積極的安楽死を許容する道は完全に閉ざされてしまい、﹁例外的に認める﹂ということも不可能. なことになってしまうのだろうか。また、そもそも﹁死の自己決定権﹂、﹁死ぬ権利﹂ということは権利として認め. られるものなのであろうか。われわれは、これらの問いに否定的に答える方向で議論を展開してきているわけであ. 47.

(9) るが、次節では、死の自己決定が求めている﹁私の死﹂の、ある特異な性格に注目しながら、さらにこれらの問題. ﹁私の死﹂と自己決定権. について考えていくことにしたい。. 二. 通常、権利の対象となるのは実現可能なものである。素朴窒一己い方になるが、例えば自由権は、その権利を主張. する当人が自由を現実に獲得することを保障するものであり、生存権は﹁健康で文化的な生活﹂の実現を保障する. ものである。それゆえ、それらが実現されていないとき、異議申し立てをすることが認められるのである。このこ. とから、権利とは、その実現を正当なこととして要求するものであると言うことができる。だとすれば、まったく. たとき、確かに現実のものとなる。しかし、﹁私の死﹂は他人にとってのみ現実のものになるのであって、当の. 自己の死を現実のものとすることを求めている。そして、その﹁自己の死・私の死﹂は、その願いが聞き入れられ. 自分の手で自己の死を現実のものとすることを求めているのであり、積極的安楽死においては、他人の手によって. て、﹁私﹂は﹁私の死﹂を現実化することを求めている。自殺討助の要求においては、他人の手助けをうけながら. りえないものを権利の対象としようとする、奇妙な主張が行われていることになるのである。死の自己決定におい. しかし、﹁死の自己決定権﹂という言葉を文字どおりの意味に解するならば、そのときには、権利の対象とはな. る。. 利として主張されることがあったとしても、それが権利として認められることはない、ということになるはずであ. 実現不可能なことに対しては、そもそも権利を主張することはできない、ということになるであろうし、かりに権. 48.

(10) にとっ. である﹁自己の死・. ﹁私﹂. ﹁私の死﹂. において念頭におかれている﹁死﹂. 私の死﹂とは、エピクロスの言うように、それを経験する﹁私﹂が消失することであり、その意味で. ここに. ﹁私﹂にとっては現実になることはない。﹁死の自己決定権﹂. ては全く経験不可能なものにして、実現不可能なもの・現実化不可能なものであるからである11る. の特異性があり、その特異性ゆえに、死の自己決定ほ本来それを権利として主張することはできないほずのものな. のである。この意味でも﹁死ぬ権利はありえない﹂と言うことができるであろう。. そしてこのとき、﹁死を意図すること﹂を文字どおりの意味で理解することもまた不可能である、と言うことが. できる。自己の死を意図するというとき、その自己の死の実現が自分にとっては全く意味をなさないものである以. ﹁苦痛からの解放﹂を意味しており、﹁自己の死を意図する﹂とは. ﹁自分が被っ. 上、﹁自己の死を意図する﹂ということ自体いったい何を意図することなのか自分にはわからないからである。も ちろん一般には、この場合、死は. ている、耐えがたい苦痛からの解放を意図する﹂ということを意味している、と言えるであろう。しかし、死を. ﹁苦. であるかどうかは、﹁苦痛でほない﹂. ﹁苦痛からの解放﹂と位置づける議論が一般的に行われ、常識的にそれは承認されてもいるが、はたして死は. 痛からの解放﹂ であると言うことができるのであろうか。﹁苦痛からの解放﹂. ﹁苦痛からの解放﹂と呼ぶことはできない。より正確に言えば、死はある意味では. ﹁苦痛﹂ の. ﹁苦痛で. という状態が現実化してはじめて言えることである。だとすれば、自己の死はいかなる意味でも現実化しえないも のである以上、それを. の双方を含んだ意味での. ﹁苦. ﹁苦痛である/苦痛ではない﹂. 外部としての ﹁苦痛ではない﹂ということであって、﹁苦痛である﹂ということの反対ないしは否定としての. ﹁安. はない﹂と呼ぶことができるにしても、それは. ﹁苦痛ではない﹂や﹁苦痛からの解放﹂は、決して. や﹁穏やかであること﹂を意味してはいないのである。それは、また、﹁安らかであること﹂、. 痛ではない﹂を意味してはいない。つまり、死の意味する らかであること﹂. 49.

(11) ﹁穏やかであること﹂. ﹁私のいのちある期間﹂、つまり﹁私の生﹂が安楽であ. に付された﹁安楽︵な︶﹂、﹁尊厳︵ある︶﹂という形容は本来. の外部でもあるからである。. したがって、安楽死にせよ、尊厳死にせよ、﹁死﹂. ﹁私の死﹂ に付与されうるものではなく、死を迎えるまでの. ﹁安楽生・尊厳生﹂以外のもので. ること、尊厳あることを求めるために付された言葉であると理解するほかはないものである、と言うことができる。 よく言われるように、﹁安楽死・尊厳死﹂という言葉は、それが求めているのは. ﹁安楽. はありえず、そうした﹁生﹂以外の意味をもちえない言葉なのである。﹁自己の死﹂は、﹁安楽である・安楽でない﹂、. ﹁尊厳のある・尊厳のない﹂ということ、そしてそれらを含んだ生の外部に位置する。自分自身のことして. 死﹂、﹁尊厳死﹂という言葉が要求として述べられている場合であっても、それを文字どおりの意味で理解すること. にしてほしいということ. は原理的に不可能である。したがって、﹁安楽死﹂や﹁尊厳死﹂が問題とされる場面においてそれらを望む人びと. が要求しているのは、亡くなるまでの生きている期間を﹁安楽なもの﹂、﹁尊厳あるもの﹂. であり、そのような要求を誠実に受けとめる者たちがなすべきことは、そうした状態を実現するにはどうしたらよ いか考えることである、ということになる。. それでもなお、安楽死、尊厳死が文字どおりの意味で実現していると思えるような場合があるかもしれない。安. 楽死的措置によって亡くなった人の様子を﹁苦痛から解放され、安らかな表情を浮かべていた﹂、﹁尊厳ある姿を示. していた﹂と記述することができるような場合がそれである。しかし、そのように記述し、語ることができるのは、. に対しては適用することができない表現であり、﹁他人の死﹂. に対してのみ適用可能な表現. その亡くなった当人ではなく、それを見守っていた他人だけである。やはり、この場合も、﹁安楽な死﹂、﹁尊厳あ る死﹂は ﹁自己の死﹂. なのである。自己決定ということが、そもそも自己に関する事柄の決定であって、決して他人に関する事柄の決定. 50.

(12) であってはならない、ということを思い起こすならば、﹁安楽死を求める自己決定﹂や﹁自己の尊厳死の選択. いう表現は、本来理解不可能な表現であるということになる。 それゆえに﹁死の自己決定権﹂は、﹁死ぬ権利﹂や﹁自己の死を要求する権利﹂なのではなく、﹁死の迎え方. し死に至る過程についての選択権﹂︵東海大学病院事件・横浜地裁判決︶であるという言い方で、言い換えられも. するのである。そしてこの言い換えは、権利として認めることができるかどうかを考えるとき、かなり決定的に. 用するように思われる。﹁死の迎え方を選択する権利﹂ということであれば、それを権利として認めることに対. る違和感は減るであろう。そして、違和感が滅ずる理由は、﹁死の迎え方﹂ないしは﹁死に至る過程﹂であれ. それは当人にとっても自らの生のうちで実現可能なものであり、その状態を当人が現実に受容した上で、それ. 分の望んでいることかどうか﹁証言﹂することができる、ということにあるように田心われる。この場合も、も. ある 、 と 言 う こ と が で き る 。 だが、どのようなことをなすべきか考えたとしても、﹁なすべきこと﹂が. めに﹁なすべきこと﹂がまったくないという状況が、事実としてありうる。そして、そのような生を続けてい. をもってしても緩和しえない、耐えがたい苦痛にさらされるだけのものであるほかはなく、その苦痛を和らげ. りうる、ということも認めねばならない。つまり、﹁死に至る過程﹂という生の期間が、現在可能ないかなる. ︵現在は︶存在しないという状況があ. ﹁死ぬ権利﹂といったものは権利として認められないのであり、﹁権利は生きて行くために付与されているも. る過程﹂という生の期間が、その人にとって安楽であり、尊厳が保たれていると言えるようなものになるため どのようなことをなすべきか考え、それを実行することである、ということに変わりはない。この意味で、や. ん、そうした権利に対応する義務を有することになる他人がなすべきことは、そのような選択を行う人の﹁死. 51.

(13) とは誰から見ても耐えがたいと言わざるをえないような状況にあって、その苦痛にさらされている当人が﹁このよ. うな苦痛に満ちた生には耐えられない、だから死なせてほしい、死によってこの苦痛から解放してほしい﹂とはっ. ではない。だが、それにもかかわらず、本来の意味での苦痛か. きりと要求し続けるとき、その要求を拒み続けることはできないだろう。死は、先に述べたように、本来の意味で の苦痛からの解放︵生の内部での苦痛からの解放︶. らの解放が全く不可能であり、誰から見ても死がそれに代わる唯一のもの・それに準ずる唯lのものであると考え. ざるをえないという状況においては、死を目的とした積極的安楽死であっても、それを許容せぎるをえないという ことになるであろう︵‖︶。. このように積極的安楽死を許容せざるをえない場合があるということば認めねばならない。またこの場合、積極. 的安楽死を要求する当人の明示的で継続的な意思表示があるということがその許容要件として不可欠である、とい. うことも同様に認めねばならない。しかしそれは、﹁死の自己決定権﹂があるから、自己決定による積極的安楽死. は許容されねばならないということ、これをも認めねばならない、ということではない。ここでわれわれは、死の. ﹁何か﹂. 自己決定という﹁権利﹂ゆえに積極的安楽死を施す﹁義務﹂が発生する、と考えているわけではない。このとき必. 要なのは、積極的安楽死を許容せざるをえなくしているのは何かということを見定めることである。その. ほ死の自己決定があるということではない。死の自己決定があるということだけでは﹁許容せざるをえない﹂とは. 到底言えないからである。ここでほ、﹁誰から見ても耐えがたい生であり、それをどうすることもできないという. 状況﹂こそが、積極的安楽死を許容するよう強いてくる当のものである、と言うべきであろう。もちろんこの場合、. 先にも認めたように、死の自己決定にあたる当人の意思、それも明示的で継続的な意思表示があるということは、. 積極的安楽死許容のための条件として欠くことはできない。ただそれは、自己決定権の論理ゆえに不可欠の条件と. 52.

(14) されているわけではなく、﹁誰から見ても耐えがたい状況﹂. ﹁耐えがたい状況﹂. であるということを証しするために第一に必要な条件. であると痛切に感じているということがまず必要な条件になるというのは言うまでもない. であるがゆえに、不可欠とされるのである。﹁誰から見ても耐えがたい状況である﹂と言えるためには、当人がこ れは ことだろう。. ﹁勇. にして、積極的安楽死を許容せざるをえないものとして認め. このように見てくるならば、前節末で掲げた第一の疑問に対しては、以下のように答えることができるようにな る。つまり、自己決定があることを条件︵のひとつ︶. ﹁慈悲をもって﹂あるいは. るという場合であっても、必ずしも自己決定権の論理に訴える必要はない、と言うことができるであろう。. 三 ﹁許容せざるをえない﹂ものとしての積極的安楽死. 積極的安楽死を許容せざるをえない状況があると認めるとき、こうした場合には. 気をもって﹂積極的安楽死を実行するべきである、といったことが言われることがある。だが、許容せざるをない. と認める場合であっても、こうした言い方をすることに対しては、慎重になる必要があるのではないだろうか。. 確かに、積極的安楽死や自殺腎助に関わることになった人々の心情を言い表わすならば、それは﹁慈悲の心から﹂. ﹁勇気をもって﹂何かことを行うということほ、﹁できるかぎりそうす. である。だとすればそれらは、﹁しないにこしたことはない﹂もの、つま. あるいは. なされたことであると言うのが適切であろうし、そう表現できるものでなければならない、と言うこともできるで あろう。しかし、﹁慈悲をもって﹂. べきこと﹂、﹁すすんでそうすべきこと﹂. り、できるだけ避ける必要のあるものである積極的安楽死という事柄自体に対しては相応しくない表現であるとい. 53.

(15) うことになる。清水哲郎の言い方を借りれば、積極的安楽死とは﹁しぶしぶ﹂︷12︶許容されるものであると言うべき. であろう。﹁慈悲﹂や﹁勇気﹂によって実行されるのが積極的安楽死であると述べることは、暗黙のうちに積極. 安楽死を﹁許容せざるをえないもの﹂から﹁すすんで許容すべきもの﹂へと過剰に変化させてしまうのである。 確かに、前節末で取り上げたような状況においては、積極的安楽死の要求を押しとどめ、拒否し続けることは しいだろう。そして、このような場合には、そのような状況に置かれているひとを放っておくことは倫理的に許. れることではなく、﹁慈悲の心﹂をもって臨み、﹁勇気をもって﹂積極的安楽死の要求に応えていくべきだと言. くなる。しかし、このような場合であっても、拒否することができないということと、すすんで認めるというこ. との問には違いがあるという﹁感覚﹂は保持し続けることが必要であろう。それらは結果的に同じことをするこ になるからという理由で、両者の間に存在する違いを無視することばできない。この場合であっても、﹁すすん ことをなしてはならないことに変わりはないはずである。むしろ、積極的安楽死を許容せざるをえない状況とは. 痛を放置すること﹂という他の﹁なしうること﹂との比較において行われるということに注意する必要がある。. であ る 。 この﹁それしかなしうることがない﹂という決定は、積極的安楽死的措置と、いわゆる﹁徒な延命治療﹂や﹁. それしかなしうることがないと考えられるとき、﹁積極的安楽死を︵許容・実行︶せざるをえない﹂と言われるの. う言い方がなされるのであり、﹁積極的安楽死を許容せざるをえない﹂、﹁積極的安楽死を実行せざるをない﹂ うことも、この意味で解するべきであろう。積極的安楽死は﹁すすんでなすべきこと﹂ではないにもかかわらず. もないにもかかわらず、或る特定の何かをなすよう否応なく強いられるとき、その何かを﹁せざるをえない﹂と. そもそも﹁すすんでなすべきこと﹂が何もない、という状況なのである。そして、﹁すすんでなすべきこと﹂が. 54.

(16) れらは、どれも﹁すすんでなすべきこと﹂ではない。いずれも﹁すすんでなすべきこと﹂ではないにも関わら いずれかを選択しなければならないとき、そして、これら﹁なしうること﹂同士の比較において、いわゆる﹁. 延命治療﹂の続行や苦痛の放置に比べて、耐えがたい苦痛にさらされる期間を短くできるという点が重んじら. とき、積極的安楽死が選択される。この選択の過程から見て取ることができるのは、﹁積極的安楽死のよさ﹂. ﹁絶対的なよさ﹂ではなく、﹁相対的なよさ﹂であるということである。そしてその﹁よさ﹂は、﹁すすんで きではない﹂もの同士の問の比較において、ただ苦痛にさらされている状態を放置するのみという仕方での延. 置という﹁最悪﹂のものに比べて、﹁それよりはまだましである﹂という意味での﹁よさ﹂であるにすぎず、 意味での﹁相対的なよさ﹂にすぎないのである。. 結びに代えて. それにしても、なぜ﹁まだましであるにすぎない﹂という不謹慎にも響く言い方をする必要があったのだろうか。. そうした言い方を敢えて行った理由を述べることで、結語の代わりとすることにしたい。. ﹁患者に死なれてしまうことを医療の敗北と捉えるべきではない﹂といったことが言われることがある。では、. この考え方を積極的安楽死に応用して、﹁積極的安楽死的な措置を行って患者を死なせたとしても、それは医療の. 敗北ではない﹂と言うことは可能であろうか。確かに、誰でもが﹁死すべきもの﹂である以上、死を敗北と捉える. のは無意味である。しかし、このことを積極的安楽死肯定の理由として利用することばできない。というのは、死. は医療の敗北ではないと言えるにしても、積極的安楽死はやはり医療の敗北であると言わぎるをえないからである。.

(17) 積極的安楽死を許容せざるをえなかったという状況、つまり﹁積極的安楽死的措置を行わずにすむのならば、それ. にこしたことはなかった。しかし、現在の医療レベルではそれ以外に選択肢がなかった﹂という状況に直面した際. に、急務となるのは、端的に言って、医療レベルを引き上げることであり、従来は積極的安楽死を選択するよりほ. かに道はないとされてきてしまったひとたちに、別の選択肢を提供できるよう、改善に努めることであろう。積極. 的安楽死を実施するはかはなかったというのが、医療レベルの低さに由来するものであるのならば、その意味でそ. れは医療の敗北と捉えるべきものであるということになる。確かに、現状ではこの敗北は避けられない敗北であり、. 責めることのできない敗北であると言えるかもしれない。また、少しでもより悲惨ではない仕方で終焉を迎えさせ. ようとする配慮をそこに見て取ることもできるであろう。しかし、この敗北を敗北として認めることもまた必要な. ことである。もし、これを敗北でほないとしてしまうならば、それは、医療レベルの現状をそのまま肯定し、積極. 的安楽死を実行せざるをえなかったという現状をもそのまま肯定するだけの態度を擁護することになりかねないか. らである。逆に言えば、﹁積極的安楽死されてしまったこと﹂を敗北とみなすこと、このことはかえって医療のレ. ベルアップ・改善への志向を強く動機づけることになる。そして、﹁まだましであるにすぎない﹂という不遜に聞. こえる言い方も、積極的安楽死をめぐる状況にはつねに改善の余地があるということを隠蔽してしまわないために 敢えて採られた表現であったのである︵l。︶。. 註. ︵1︶例えば、立岩真也﹃弱くある自由へ﹄、青土社、二〇〇〇年、特に第一章第三章を参照。なお、本稿で言う﹁安楽死﹂は、特に断. 5日.

(18) T﹂■・キヴオーキアン﹃死を処方する﹄松田和也訳、青⊥社、一九九九年、二六五頁、二九八白、一.6二日参照。. りのないかぎり、﹁積極的安楽死﹂を意味する。 J・ハッケタール ﹃最後まで人間らしく﹄関田淳子他訳、未来社、一九九六年、五二百。. NHK教育﹃ETV特集安楽死の倫理と論理﹄一九九六年七月十一目放送。. 、一 、−. したがって、自殺催を積極的に許容しようとする議論や絶対に安楽死は禁止されるべきだという議論は、本稿の検討の対象には含. 、−. 5 4 3 2. ては、河野勝彦﹁安楽死と自殺﹂、﹃環境と生命の倫理﹄、文理閣、二〇〇〇年、二〇二百も参昭州。. ︵7︶生井久美子﹃人間らしい死をもとめて﹄、岩波書店、一九九九年、二﹂ハ0頁。なお、悼文内の改行は省略した。また、この点に関L. ︵8︶T・L・ビーチャム、1・F・チルドレス﹃生命医学倫理﹄永安幸正・立木敦夫訳、成文萱、一九九八年、七一貢。. ければならない。両者は、言うならば、それらの意味︵Bedeutung︶は同じでも、意義︵Sinn︶. は異なると言えるような関係にあ. ︵9︶結果的に同じことをなすことになるにしても、この﹁否定の否定﹂︹という意味での﹁肯定﹂︶と単なる﹁肯定﹂とは、区別されな. るからである。ここでは、この区別を捉えることのできる﹁繊細な精神﹂が必要とされる、と言うこともできよう。. 可能性に関しては、拙稿﹁可能性としての死﹂︵岩手哲学会編﹃フィロソフィ7・イワテ﹄第三三号所収、近刊︶. において、ハイデ. ︵10︶エピクロス﹁メノイケウス宛の手紙﹂、﹃エピクロス﹄出陣∴石崎允胤訳、岩波文庫、六七頁以下参照。また、﹁私の死﹂の現実化不. ガーによる死の分析を手がかりにして、エピクロスの所論に対する批判的検討も交えながら、少々立ち入った考察を行っている。. ︵11︶なぜこのような場合には積極的安楽死を許容せざるをえないと言えるのかという問題に関しては、残念ながら、それを主題的に論. べ物を出せ﹂︵立岩、前掲書、三〇貢︶と言うことができるであろう。. ︵ちばたねひさ・東北大学大学院文学研究科助手︶. での延命措置という﹁最悪のもの﹂でもなく、積極的安楽死という﹁まだましであるにすぎないもの﹂でもなく、﹁もっとましな食. ︵13︶ こうした﹁隠蔽﹂を防ごうとする要求を、立岩貞也の喩えを借りて表現するならば、耐えがたい苦痛を長引かせるだけという仕方. ︵12︶清水哲郎﹃医療現場に臨む哲学Ⅱ﹄、勤葦書房、二〇〇〇年、八六頁。. ずることはできなかった。詳論は他の機会に譲りたい。この問題に関しては、とりあえず、清水哲郎﹃医療現場に臨む哲学﹄、勤草 書房、一九九七年、一七九一九七貢を参照。. 57. 利・義務と㌧ては認められない﹂ということではなく、﹁しぶしぶ認められるのみであって、すすんで認められるようなものではな い﹂ということを意味している。詳しくは、本稿の第⋮節および第二▲節を参照。. ︵6︶ ここの﹁消極的・積極的﹂という表現は、あらかじめ述べておけば、﹁消極的権利■義携として認められるのみであって、積極的権. まれていない。. 、_.

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参照

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