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『神仙伝』の中に見られる作者自身の位置

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Academic year: 2021

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(1)平成八年度.   兵庫教育大学大学院学位論文. ﹃神仙伝﹄の中に見られる作者自身の位置. 教科・領域教育専攻. 言語系︵国語︶コース. M九五四二八E 長井 美佳.

(2) ︽序論︾. 目次. 作者の葛洪について︼:・    ⋮⋮⋮・          ・2. . 玉. ︻第一節、. 葛洪の階級意識について︼⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・::⋮⋮⋮⋮::・:⋮⋮⋮:8. ﹃抱朴子﹄に見られる階級意識. ︻第二節、. 文学的背景について︼::       −          10. 第一章. ︻第三節、. 第二章. ﹃神仙伝﹄に登場する得仙者の帝・貴族・官職 者への対応. ︻第一節、帝王への対応︼⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮     ・16. ︻第二節、貴族、官職者への対応︼            ⋮⋮⋮⋮⋮⋮届.

(3) 第三章. 得仙者と官職の関係. ︻第一節、官職者︼⋮ ︻第二節、凡庶の者︼. ︽結論︾・. −58. 67. ..70.

(4) ︽序論︾.  ﹃神仙伝﹄は東国の葛洪︵二八三1三四三︶の撰である。彼については﹃晋書﹄巻七十二列伝第四十二に見ら. れる。それによると葛洪が著したのは﹃神仙伝﹄十巻だけではなく、 ﹃鴬野子﹄百十六篇、碑・諌・詩・賦・百. 巻、 ﹃良吏伝﹄ ﹃隠逸伝﹄ ﹃集異伝﹄各十巻、方里雑事三百十巻﹃金子薬方﹄一百巻﹃肘後容急方﹄四巻などの. 多くにわたる。中でも﹃抱朴子﹄内篇は神仙術について彼の様々な論が展開されており、道教的哲学書として、. 今日までに多くの研究が為されてきた。それらの研究の中で、 ﹃神仙伝﹄は﹃抱童子﹄内篇で論じた神仙術及び 仙人の付随的資料として見なされることが多い。.  ﹃神仙伝﹄は﹃抱朴子﹄外篇巻五十﹁自序﹂の内容から、大淵滞留氏は東晋の工芸の建武︵ゴニ七年目以前、 まご. すなわち西晋末に成立したのではないかと考察されており、 ﹃抱庶子﹄内篇と同時期であったと推測されてい. る。さらに、 ﹃神仙伝﹄各派の登場人物は、 ﹃抱朴子﹄で理経、仙術などを説く際に引用されていることが多く、. これによって﹃神仙伝﹄は﹃抱朴子﹄の付随的な資料として扱われる。.  ところで、 ﹃抱男子﹄研究の中には、 ﹃抱認諾﹄は葛洪が支配者階級を対象にし、自己の宣揚をはかって著し. た、宣伝的意味を持つ書であるという見方がある。これは過去に多くの方士達が権勢に取り入ろうと神異を説い.                       なニ . た為であるが、この方士と葛洪とを同一視して、 ﹃抱量子﹄を葛洪が自己の重用を願い、著したものとし、 ﹃神. 仙伝﹄も同様であるという見解が示されている。このように﹃抱朴子﹄と﹃神仙伝﹄が同一の理論で括られるの. は、現代において﹃神仙伝﹄の研究に、葛洪が﹃抱二子﹄で述べる神仙論理を当てはめることが多く、 ﹃神仙伝﹄. 一. 一. 1.

(5) は﹃抱朴子﹄の論理に基づいて著されたもの、との見方が定着しているためである。しかしながら支配者や官職. 者対象の書という点で視たとき、 ﹃白墨子﹄で述べられる論理と同様に﹃神仙伝﹄も神仙術理論宣伝の書である、. とは言い切れず、また葛洪が権勢に取り入るため階級者寄りの立場でもって表したとも思えない。なぜなら﹃神. 仙伝﹄が支配者階級に向けて書かれたものならば、本文中に階級者に対する好意的な配慮が見られると考えるか. らである。しかしながら序文及び本文に階級者寄りの葛洪の意識は見られない。それよりもむしろ反階級的、厭 世的な立場でもつて表されてい,るのではないかと考えられる。.  そこで、ここに﹃抱朴子﹄研究の一例を挙げ、そこから﹃神仙伝﹄および葛洪の立場について考察を加えてみ たい。. ︵注一︶ ﹃道教史の研究﹄第二篇 抱針子研究 第︸章葛洪傳 大淵忍爾︵︸九六三年︶. ﹃抱朴子﹄に見られる階級意識. ︵注二︶ ﹁葛洪の神仙術﹂ iその理論と実践−中嶋隆蔵 日本文化研究所研 究報告第九集. 牌弟一 立早. ︻第一節、作者の葛洪について︼.  ﹃神仙伝﹄ ﹃抱朴子﹄の著者葛洪については正史である﹃訳書﹄に詳しく述べられている。ここでは葛洪の成. 長の過程と環境とを見ていくことにより、葛洪が権勢に対してどのような意識を形成していったのか、そして支. 一. ∼. 2.

(6) 配者階級に対する宣伝書と言われるようになった原因は何かを、この﹃晋書﹄本伝と﹃抱黒子﹄の文章表現から 坐,察したい。.   葛鰹字稚川、丹選句容人也。祖系、呉大罪臆。父母、菅平後入晋、為郡陵太守。心用好学。家貧、皿眼伐薪.   以貿紙筆。夜半窩書諦習、翠煙儒學知名。性寡欲、無所愛玩、不知棊局幾寅、槽蒲億名。為人木訥、不好榮.   利、閉門却掃、未墾交游。於鯨杭山見何幼道、郭文旦、目撃而已、各無所言。時或心墨問義、不遠敷千里崎.   嘔極製、期於必得。遂究覧典籍、尤好神仙導養之法。従祖玄、呉時學道得仙、離日葛仙公。以其錬丹秘術授.   弟子鄭隠。洪耳隠學、悉得拳法焉。後師事南海太守上壁土玄。玄亦内壁、逆占将来、見洪深重之、以女難洪。.   洪傳玄業。兼題練革術、凡所著撰、皆精簸是非、而才量富贈。大安中、石泳作胤、呉興太守顧野糞義軍都督、.   與周地等起兵車之。耳蝉洪為将兵都尉、攻撃別率、破之、遷伏波将軍。聯邦、洪不論功賞、裡至洛陽、欲捜.   求異書御世其學。洪聖天下已臥、驚異地平土、乃笹野州刺史瓶含軍事。及含遇害、遂華南土多年、征鎮撒命.   一手所就。後還郷里、禮辟皆不赴。元帝為丞相、単為橡。以平担功、賜爵關内業。威和初、司徒導召料州主.   簿、縛司徒操、遷諮議参軍。干寳津幡親友。薦洪才巴里史、選為散無常侍、領掌著作、洪固辞不就。以年老、.   欲錬丹心祈遡壽。聞交早出丹、笹野明言令。帝以洪資高、不許。洪日、非欲為榮、以有丹耳。帝從之。洪遂.   二子姪直行。至畢生、刺史欝嶽留書聴去。洪挙止羅浮山煉丹。嶽表補東官太守、又辞不就。堕罪沖繋兄子望   為記室参軍。在山積年、優游閑養、著述不輻。.   ︵葛洪字は稚川、丹楊句容の人なり。祖は系、呉の大尊霊なり。父は悌、呉の平らげられて後世に入り、郡.   陵の太守と為る。洪少くして学を好む。家貧しく、属望ら薪を伐り以て紙筆に貿ふ。夜は軌ち書を窩し予習.   す、遂に五聖を以て名を知らる。性は寡欲にして、愛玩する所無く、棊局の詩道なるか、樗蒲の歯名を知ら.   ず。人と為り木訥にして、榮利を好まず、門を閉ざして却籍す、未だ嘗て交游せず。絵杭山に於いて何早道、.   郭爆撃を見る、目撃するのみ、各々言ふ所無し。時に或ひは書を尋ね義を問ふに、数千里を遠しとせず崎嘔. 一. 一. 3.

(7) として冒現し、必ず得たるを期す。遂に典籍を究覧す、尤も神仙導養の法を好む。従祖玄、呉の時道を學び. 仙を得、算して曰く軍馬公と。其の錬丹の秘術を以て弟子の鄭隠に響く。洪隠に就きて學び、悉く其の法を. 得。後南海の太守上党飽玄に師事す。玄亦た内需し、警め将来を占ひ、洪を見て深く之を重んじ、女を以て. 洪に妻す。洪玄の業を傳ふ。兼ねて瞥術を総尽し、凡そ著撰する所は、皆是非を精慨して、才は富購を章ら. かにす。大安中、石沐臥を尊し、呉興の太守無憂義軍都督と為り、周兄等と與に兵を起し之を討つ。秘洪に. 撒し将兵都尉と為し、泳を攻め別ちて率ゐ、之を破り、伏波将軍に遷る。泳平げらるも、洪功賞を論ぜず、. 裡ちに洛陽に至り、異書を忌忌し以て其の學を廣くせんと欲す。洪天下巳に下るるを見、南砂の地に避けん. と欲す、乃ち廣州の刺史犠含の軍事を参かる。含の害に遇ふに及び、遂に地を南土に停まること多年にして、. 征鎮の轍命は一に就く所無し。後ち郷里に還り、禮もつて辟せらるるも皆赴かず。恥辱丞相為り、親して橡. と為す。賊を平ぐるの功を以て、爵關内端を賜はる。威和の初、司徒の導召して州の主簿に補し、司徒の橡. に榑じ、諮議参軍に遷る。干寳深く相親友たり。洪の才の國史に堪ふるを薦め、選びて散騎吊篭と為し、大. 著作に領せしむるも、洪固く僻して就かず。年老ふるを以て、丹を錬りて以て濯壽を祈るを欲す。交線の丹. を出すを聞きて、句漏の令と為るを求む。帝洪の資の高きを以て、許さず。洪曰く、榮を為さんと欲するに. 非ず、丹を有るを以てするのみと。帝之に從ふ。帯出に子姪を将みて倶に行く。雲州に至り、刺史の灘嶽留. めて表るを聴かず。洪乃ち羅浮山に止まり丹を煉る。嶽表して東官の太守に補すも、又た辞して就かず。嶽. 乃ち洪の兄子望を以て記室参軍と為す。山に在ること積年、優游として閑養し、著述して留めず。︶ ︵﹃晋書﹄巻七十二列傳第四十二︶. この他﹃抱朴子﹄外篇巻五十﹁自叙﹂にも葛洪の事跡は詳しい。. はじめの﹁祖系、芸大鴻腫。父悌、呉平後入晋、為郡陵太守。﹂ から祖父は呉に仕えていたことがわかる。ま. 一. 一. 4.

(8) た父も同様であったが、呉が破れ晋に下って後は晋に仕えている。呉が晋に破れたことについて葛洪は﹃抱擁子﹄. 外篇巻五十﹁自叙﹂の﹁天之所懐、人不能支。故主欽若九有同量。﹂ ︵天の懐ふ所、人支ふる能はず。故に十三. みて若ひて九有實を同にす。︶にあるように天命論をとっている。ここには祖父、父共に呉に仕え、呉の地で育. まれた葛洪の呉人寄りの考えが見られ、後に触れるような官人意識を形成したと考えられる。.  ところで、晋朝において官に再任された父、悌は葛洪が十三の年に亡くなる。これについては前掲﹁自叙﹂の. 続きにも述べられており﹁年十有三而慈父見背。酒醤庭訓飢寒整正。﹂ ︵年会有三にして慈父背を見す。夙に庭. 訓を失ひ飢寒困通す。︶とあるように﹁見背﹂が父を亡くすことを意味するので、早くに父を喪い、父から教訓 を受けることがなかったと言っている。.  生活の様子は﹃晋書﹄葛飛型の﹁洪少好学。上野、﹂の表現と一致しており、葛洪は幼少よりかなり質素な生. 活を送っていたのではないかと想像される。ところがこの﹁洪少好学。家貧、﹂のような表現は﹃多書﹄では頻      にご. 繁に見られるもので、若いときの逆境にも挫けず、成長してこのように大きな功を残したのだ、という一種の賞. 賛を表すために幼少時の苦境を誇張した表現と言える。したがって葛洪の生活は貧しいといってもその日の生活. に困るようなものになってしまったわけではなく、比較的困窮したという程度だと考えられる。これは外篇﹁自.                                           はニ . 叙﹂の次のからも読みとることができる。.   於是大都督、加洪伏波将軍、例給布百匹。諸将算学閉之、或送還家、⋮⋮.   ︵是に於いて大都督、洪に伏波将軍を加へ、例しもて布百匹を給ふ。諸将多く之を封閉し、或は家に送還す   るも⋮⋮︶. つまり石壁の乱に際して、義軍を集められる位だったのであり、ここから、いくら貧しいといっても、地主階級. 以上の地位と財は持っていたであろうことが窺え、彼に全く地位が無かったとは言い難い。.  この石泳の乱で葛洪は功を揚げたのであるが、手柄を主張することなく鎧を脱ぎ、洛陽に行っている。この理. 一. 一. 5.

(9) 由は前掲外篇﹁自叙﹂の続きに述べられる。.   自度性二水而才至心。以篤獺而御短才、錐翁肩屈膝趨走風塵、猶必不辮大致名位而免患累。況不能乎。未若.   修松循之道、在我而巳不由半人焉。将登名山坐食養性。非有廃也、事不兼済。自不絶棄世務則単身修習玄静.   哉。且知之誠難、亦不草藁問而挙人議也。是以車馬半解不経貴世之城。片字之書不交在位之家、又士林昼中、.   錐不可出而見造畢賓、意不能拒世人。所作不得意一、乃嘆日、山林之墨画道也。而古塁修道者、必入山単坐、.   誠欲以違遠計誰、古徳不臥也。今将遂本志、委桑梓、適嵩置。以尋半平梁公之軌。開所作子書内外篇、剛堅   用功夫。聯復撰次以示将来云爾。.   ︵自ら度るに性は篤獺にして才は至短なり。墨筆を以て短才を御し、肩を翁はせ膝を屈めて風塵に趨走する.   と雌も、猶ほ必ず大いに名位を致して患累を迫るるを辮ぜず。況んや能はざるをや。未だ松喬の道を修むる.   に若かず、我に在るのみにして人に由らず。将に名山に登りて服食養性せんとす。廃すること有るに非ざれ.   ば、事は兼済せず。自ら世務を絶棄せざれば則ち易ぞ全書を習修するに縁らんや。且つ之を知ること誠に難.   きは、亦た問ふを惜しみて人と議するを得ざるなり。是を以て車馬の跡は貴世の城を経ず。聖駕の書も在位.   の家に交はらず、又た士林の中、出づべからずと錐も之に造る賓を見れば、意は思人を拒む能はず。平す所.   専一を得ず、乃ち嘆じて曰く、山林の中に道無きなり。而れど古の道を黒むるの者、必ず山林に入りしは、.   誠に以て遠く謹謹を揺れ、心をして齪さざらしめんと欲すればなり。今町に本志を遂げ、桑梓を委て、嵩岳.   に適かんとす。以て方平素公の軌を尋ぬ。先に作る所の子胤内外篇は、幸に巳に功夫を用ふ。聯か復た撰次   して以て将来に示さんと云ふのみ。︶.  神仙の道は世俗と並立して修得できるものではないので、自分の能力は官位を得るに向かないと見極めをつけ、. それよりは仙道を極めようと故郷を棄て、河南省にある磁界の内の一つ、嵩山に登りたいとあり、このことが理 由となっている。. 一. 一. 6.

(10)                                           なうご.  嵩山は仙道を修め、不老不死の薬、金丹を精製する上で重要とされていた名山の︸つである。その山に入りた いという思いを葛洪が、かねてから抱いていたことは次の文からも読み取る事ができる。.   余所以絶慶吊郷蕉、棄當世之税率者、必欲遠登名山成所田子書、次則合神薬規長生故也。.    ︵余の慶吊を添筆に絶ち、當世の榮華を棄つる所以は、必ず遠く名山に登りて著す所の移譲を成して、次い.   で則ち神薬を合はせて長生を規らんと欲するが故なり。︶ ︵﹃抱朴子﹄内篇巻四﹁金丹﹂︶.  つまり、これらの文をまとめると、早くに父を亡くし、幼少時には苦労もしたが、成長して石泳の乱に際して. は功を立て、官を得るまでになった。しかし、その官を棄てるのは、哲学書を完成させ、金丹を精製し、長生を. 得るためであり、俗世の高位や栄華などは、意味のないものと考えていたからである、となる。ここだけを読め. ば、葛洪には官職に対する執着もなく、ただ仙道への強い思いと得仙の願いが表れているように見える。ところ がその直前の文、.   然疇数之好進熱之業、而所知不能遠余者、多揮翻雲漢、耀景農事者夷。.    ︵然れども疇数の進塁の業を好み、而して知る所余を遠ざくる能はざる者の、訓を雲漢に揮ひ、景を野幌に   耀かす者多し。︶ ︵﹃抱朴子﹄内篇巻四﹁金丹﹂︶.  この文が﹃抱朴子﹄研究者に問題として取り上げられ、様々な議論を呼ぶところとなっている。.  自分より才能が無い者が、多く朝廷で用いられている、という意味で、ここには、葛洪より才能が乏しいにも. 関わらず、権威を振りかざしている者への皮肉と、葛洪自身が重用されなかった事に対する不満、そして当時の                                                  は   任官制への批判が込められている。これらは俗を捨て、至道を志す者には無用な思いである。そこで重沢俊郎氏. はこの文を﹁俗世を斥け、山に入ろうと考える一方で、俗世への関心を断ち切ることができないという壁高の心. の二面性が表れている。﹂と解釈される。このような葛煮の心を表す文は他にも内篇巻十九﹁遽覧﹂の﹁意思不. 專、俗情未壼、不能大有所得。﹂ ︵意思專らならず、俗情未だ憎きず、大いには得る所有ること能はず。︶にも. 一. 一. 7.

(11)                                           な   見られるづこれは鄭君に師事していた青年時代を回顧しての言葉であるが、 ﹁濯覧﹂篇の最初、ある人の質問と. それに対する葛洪の返答からは、壮年時代にあってもその心は変わらなかったであろうことが、読みとられる。. そしてこれらの葛洪の心の葛藤とも言える二面性が、仙道について厭世的に論じられたはずの﹃抱舞子﹄、そし て﹃神仙伝﹄が支配者階級に対する葛洪の宣伝的書といわれる要因の一つとなっている。. ︻第二節、葛洪の階級意識について︼.  ﹃抱草子﹄が宣伝的性格を持つ書、と言われるもう一つの要因として葛洪が階級意識を有し、階級者寄りの立 場に居たことも挙げられる。まずそれに関する論文とその論拠を見ていきたい。.  ﹃道教史の研究﹄ ︵一九六三年 ︶の著者、大淵忍亀鑑は第二編﹁抱浮子研究﹂の﹁葛半割﹂において、葛洪. の生い立ちから詳細に研究を進められ、葛洪が﹃抱朴子﹄を著するに至った経緯とその思想的背景とを細かに考. 察されている。その中で葛洪の貴族意識について述べられている。それらの根拠とされる部分を以下に抜粋した い。.   余添大臣之子孫。錐才不足以経国理物⋮⋮.   ︵予は恭けなくも大臣の子孫たり。才は以て経国二物に足らざるとも錐も⋮⋮︶  ︵内篇巻髪﹁金丹﹂︶.   村里凡人之謂良守善者用時或齎酒肴候洪錐非濤匹亦拒也。.   ︵村里の凡人の良く善を守ると謂ふ者、時を用って或は酒肴を齎して洪を候へば、儲匹に非ずと錐も、亦拒    まず。︶     ︵外篇巻五十﹁自叙﹂︶.  ﹁金丹﹂の文では三栖が自身を大臣の子孫、即ち帝の臣下だと言い、 ︸臣下として国を憂う様子がある。また. ﹁自叙﹂には村人が葛洪の機嫌伺いに来る様子が述べられており、階級者としての対応でもって答えている事か. 一. 一. 8.

(12) らも、葛洪の階級意識が伺える。さらに、.   自運遁世而無機、齊物於通塞者、安能棄近易而尋迂闊哉。将救早旦其術無他。徒擢民於巖舳、任梅里不計也。.   ︵遁世して間ゆること無く、物を通塞に粘しうする者に非ざるよりは、安んぞ能く近易を棄てて迂闊を尋ね.   んや。将に斯の弊を救はんとするには其の術他無し。徒らに民を巖紬より粘き、才に任じて計らざるなり。︶         ︵外篇巻四十一﹁循本﹂︶.  ここでは任賢貴国がとかれていると大淵氏はいう。以下大淵氏の論を抜粋すると、 ﹁任賢聖能は周の所謂封建. 制の崩壊と表裏をなして生じた諸子百家の等しく説いたところで、特に儒家において著しいものがあったが、晋. 代はこれを継承しつつ、貴族制の確立期という事情が加わって、真面目に政治を考える者や、第二・三流以下の. 黄四達が口を揃えて説いたといってもよいので、その例は枚挙に暇がない程に晋書に頻出する。一種の常套語と 称してもよい程のものである。﹂.  ここからすなわち、整骨も真面目に政治を考える者、もしくは第二・三流以下の貴族達に分類されるのであり、 一種の階級意識を持つ故にこのような説を主張していると考えられる。.  以上のような所の他、大淵氏は外篇の各所に葛洪の貴族意識が濃厚に現れていると述べる。そして葛洪がこの ような考えを持つに至った背景としては彼の呉人意識を挙げる。.  呉は三国時代、楊、荊、郭、交、廣の五州を領土とし、孫権によって建国された国であるが、幾度にもわたる. 戦により疲弊し、晋との戦いで滅亡する。晋はこれによって天下統一を為すのであるが、その晋朝統治下、任官. 等において呉人は正当な扱いを受けていなかった。これは歴史の趨勢から見れば当然の事である。しかし、ここ. で大淵氏は﹁漁人が十分にその志をのばせないことに対し、葛洪は深刻な感惰を持っていたようである。﹂と言. われ、外篇巻十五﹁審畢﹂を引用され、 ﹁表面上は試を復する事によって悪業を興し、引袴の俗を匡すべし、と.          な  . いうのであるが、実際は寧ろ差別待遇に対する不満の表明といってよかろう。そしてかかる不満は、逆に彼の呉. 一. ﹁. 9.

(13) 人意識を更に強めたであろう。礼の理れについて、世俗の人、即ち呉の人士が京城上國の貴族達のなすところと. して反省しないのを非難する適合、外篇巻二十六﹁磯上﹂の﹃上灘丁半所以勝江表者多。愚挙有可否者。﹄ ︵上. 圃の衆事江表に勝る所以の者多し。然も亦否とすべき者あり。︶という場合に見る如く、上國と江表とを対置し、. 江表の有する価値乃至特質を強く主張せんとする態度がそれを物語っている。更にその呉人意識は、上の言葉か. らも察せられるように、一面の意・味において当然の事ながら國聖霊義的傾向を帯びるものでもあったし、國粋孟. 義に伴いがちである保守主義的傾向を有するものであった。﹂という。そして彼の保守主義を支える柱の一つと して貴族としての自意識があったと言われている。.    セ .  以上葛洪の貴族意識に関する大淵氏の論の大まかなところを取吻上げてみた。また大淵氏の論に拠って、中嶋. 隆蔵氏は﹃抱単子﹄内篇巻二﹁論仙﹂の文﹁上士畢形謙虚、謂之天仙。上士遊於名山、謂之地離。下士先死後蜆、. 謂之戸解仙。﹂ ︵上士は、形を畢げて虚に昇る、之を天仙と調ふ。中身は名山に遊ぶ、之を地仙と謂ふ。下士は. 先づ死して後に画す、之を 解仙と謂ふ。︶より、青鷺が神仙を志す人を上士・中野・下士に分げ、そ胸によっ ま                                                       へ. て神仙の上下を区別していることについて神仙術の貴族的、階級的性格をあげ、 ﹁これらの階級意識と儒家的. 思想とをもって自己の重用を願い、 ﹃抱浅葱﹄そして﹃神仙伝﹄は書かれた。﹂ど言う。しかしながら﹃抱朴子﹄. は内篇と外篇の二篇に跳いて各所に葛洪の意識の矛盾が見られることは重沢俊郎氏によっても指摘されていると. ﹃神仙伝﹄が支配者階級に向けた宣伝書、と言われ. ころで、 ﹃抱黒子﹄を論拠とした葛洪の意識を﹃神仙伝﹄にそのまま当てはめることができるかという点には疑 問が残る。. ︻第三節、文学的背景について︼ ここまでは主に葛洪の思想的なものについて見てきたが、. ﹁. 10. 一.

(14) るもう一つの要因として、当時の文学的な風潮が挙げられるのではないかと考えられる。.  晋代の歴史、特に文芸に対する風潮は魏の文帝の﹃典論﹄の一節﹁文章は経国の大業、不朽の盛事﹂の文が示. すように、魏晋貴族文化では文芸に大きな価値を認めるようになったことがわかる。また、政治的、社会的な変. 動期でもあった。これは漢朝の専制国家体制の崩壊とともに伝統的な経学の権威が崩れ、自由清新の気の瀕つた. ことが一因として挙げられる。これにより学問は一種の教養化され、こつこつ知識を積み重ねていくようなやり. 方は随儒として軽蔑され、むしろ一片の奇智、警句が貴ばれた。この時代背景から、葛洪自身文によって名を挙.                             ぴ  . げんとし、これによって、一般的に﹃抱朴子﹄が高位者向けの宣伝といわれるに至ったと考えられる。さらに仙. 伝を集録した﹃神仙伝﹄も﹃抱朴子﹄同様の宣伝書とされる要因の一つとして漢代の方士達の様子がある。方士. 達は自分の道術を宣揚するために、神聖を説いた書物を作り、それをもって帝や貴族達の要求に応えていた。こ. の事について志村良治氏は﹁この頃、巫の地位は低く、それに代わった方士の地位も低かったので、彼らが権勢. 一.                 ロ に    . 11. ︸. にとり入る手段として種々行動したであろうことが想像できる。﹂と言われる。これが後の志怪小説につながっ. ていくというのだが、これに葛洪を当てはめ考えると、 ﹃神仙伝﹄は方士葛洪が権勢に取り入る為に著した神異 を説く書物と言うこともできる。.  しかし﹃神仙伝﹄は本当に葛洪が権勢に取り入るための宣伝書として表したものだろうか。 ﹃神仙伝﹄につい. ては、当時の伝承説話を集めた説話集としても考えられるだろう。そしてその目的は仙人の実在を証明し主張す.                ぴ   . ることである。これは作者である怪士自身が﹃神仙伝﹄の序文で述べている。ここにその序文を挙げる。.   予著内篇論神上拝呈凡二十巻。弟子縢升平日、先生云、倦化野得不死可學、古之得亡者豊有其人乎。予答日、.   秦大夫高倉所記有数百人。蓋明所撰又七十麗人。然神傳幽隠線世異流。世之所聞週内千不得一愚筆。⋮−.   ︵中略︶⋮⋮予今復雲集古之倦者見於倦維・服食方及百家之書先師所説、肩書所論以為十巻、以生知眞識遠.   之士。其卑俗之徒野不経微者、亦不彊以示之。則知劉向所述剛強簡略美事不平。此傅錐深妙奇異不可蓋載。.

(15)   猶存大艦。籍謂有愈於劉向多所遺棄也。.   ︵予内篇を著し神倦の事を論ずること凡そ二十巻。弟子縢升問ひて曰く、先生云ふ、倦化得べく不死學ぶべ.   し、古の偲を得し者豊に其の人有るかと。予答へて曰く、秦の大夫玩倉の記す所思百人有り。廻向の撰せし.   所又七十絵人。然れども神偲は幽思にして世と流れを異にす。世の聞く所の者は猶ほ千に︸を得ざる者のご.   とし。⋮⋮︵中略︶⋮⋮予今冬た古の野里の罪悪・服食方及び百家の書に見ゆる先師の所説、誉儒の所論を.   旧弊し以て十巻と為し、以て眞を知り遠を解るの士に傅ふ。其の俗に繋がるるの徒にして思ひ微を繧ざる者.   には、亦た彊ひては以てこれを示さず。則ち劉向の述ぶる所は殊に甚だ簡略にして美事も昼げざるを知る。.   此の傅は深妙奇異なりと錐も柔くは載すべからず。猶ほ大漁を存す。霜かに謂ふ劉向の多く遺棄する所より   愈る有るなりと。︶           ︵﹃神仙伝﹄序︶.  この序文では葛洪は弟子本甲の仙人が本当に居たかどうかの質問に対し、答える形式の文になっているが、中. 略部において心慰は﹃列仙伝﹄に登場する仙人三十人の名前と事跡とを挙げて弟子の質問に答えている。葛洪自. 身﹃抱朴子﹄で、 一心に学ぶことにより得仙できると言っているのだが、その仙人を実際に見かけないことにつ. いては彼自身も認識しており、 ﹁然神傳幽隠與世異流。世泣所点者猶千不得一者也。﹂の文からわかるように、. このような理由付けによって答えている。それでも後の文章︵中略部︶で三十人にも及ぶ仙人の名前と事跡とを                                               な ニ  挙げているのは、その実在を主張せんとするためであろう。さらに、前漢の劉向︵前七七1前六︶の著した﹃列. 仙伝﹄は七十二人の仙人を集めた書について、その内容が簡略であることを述べ、 ﹃神仙伝﹄にすべてを書き留. めることはできなかったが、劉向が省略してしまった﹃列仙伝﹄よりは勝っているであろうと述べる。すなわち、 ﹃神仙伝﹄は神仙、特に仙人の実在を広く人々に説こうとして著したものだと言う。.  この序文からだけでは﹃神仙伝﹄が権勢に取り入るため、支配者階級の者を読者の対象とした宣伝書的様子は. 窺えない。また支配者階級寄りであるとも言えない。そこで次章では﹃神仙伝﹄十巻に収められている牽牛につ. 一. 12. ﹁.

(16) いて見ていき考察を加えたい。.  なお﹃神仙伝﹄についても﹃列聖伝﹄同様現存の版本が母物の書いたそのまま伝わったかという点には疑問が. 掩たれて崎戸が・本論ではテキ入トどして﹃増訂漢魏叢書﹄ ︵一七九一年 王誤輯 大化着局︶ ﹃神仙伝﹄を、. ﹃抱朴子﹄は﹃四部叢刊﹄ ︵子部 第五百四十−五百四十五冊 台湾商務印書館印行︶を使用し、原文はこれら のテキストに拠った。. ︵注一︶ ﹃馬手﹄巻七十五本伝の萢注は葛洪とほぼ同時代の人物であるがその幼少の頃の生活は葛洪とよく似て いる。.   ⋮⋮少孤貧、六歳過江、依母家神野融資。⋮⋮年十三、三十。”:⋮及長好學、外氏家貧、無以半身。注乃盧.   於園中、布衣疏食、然薪窩書、罵畢諦讃、亦遍。理博學名通、善談話理。⋮⋮.   ︵⋮⋮少くして孤貧、六歳にして江を過ぎ、外壁の神野の︷炭氏に依る。⋮⋮年十三にして、母を喪ふ。⋮⋮.   長ずるに及び學を好めど、外氏家貧しく、以て資給すること無し。江乃ち軽挙に解して、布衣疏食なれど、.   薪を然し書を窩す、饗し畢はれば諦讃し、亦た乱す。遂に博く學び名通じ、善く料理を談ず。⋮⋮︶.  また巻三十六張華傳の﹁父平、魏漁陽郡守、華少孤貧、自牧羊。﹂ ︵父平、魏の漁陽の郡守なり、華少くして. 孤貧、自ら牧羊す。︶の記述や巻四十一劉建言﹁父廣斤丘令、些少貧苦、費馴衣以自給、然許學。﹂ ︵父廣斤丘. の令なり。塞少くして貧苦、牛蝿を彫りて以て自給し、然れども學を好む。︶などの他に巻四十三山濤傳、巻四. 十七傅玄傳、巻六十二祖継傳、巻六十六陶侃傳、巻六十七瀞盟中巻七十四健脚などにもよく似た表現が見られる。. ︵注二︶ ﹁後漢官僚の生活についての試論﹂矢野主悦 昭和三十三年東洋史部会を参考にした。 ︵注三︶内篇巻四﹁金丹﹂.   按仙経、可以精思合作仙藥者。有華山、泰山、雷山、憧山、嵩山、少室山、・⋮:. ︻. 13. ㎝.

(17)   ︵仙経を按ずるに、以て精思して仙藥を合作すべし。華山、泰山、愚挙、皿山、園山、少室山、⋮⋮有り。︶. ︵注四︶ ﹁抱朴予に於ける統一の理念﹂璽沢俊郎﹁東洋の文化と社会﹂第㎝輯 一九五〇無による。 ︵注五︶ ﹁遽覧﹂の次の文に拠る。.  或臼、鄙人面旛拘繋儒教、濁知有五経二二史・百氏之言及浮華之詩賦無益之短文、盗思守此既有年突。学生.  値多難之運、中耳有定、半文戚揚、藝文不断。徒消工夫、苦意力思、攻微索隠、寛不能半在其中、免此塑畝。.  又有損於静思無益於年命。二毛告暮、素志衰頽、情欲反響以尋生道、倉卒岡極、無所趨向。若渉大川不知仮.  濟、先生、既窮観閲典、又馬身奇士。不審道書凡有心巻。早耳篇目。寒心子日、余亦一子同母疾者也。.   ︵或るひと日ふ、里人旛に面して儒教に車寄せられ、濁り五経・三史・百氏の言及び浮華の詩賦の無益の短.  文有るを知るのみにして、思を濫して此を守ること既に年有り。既に生れながらにして多難の運に値ひ、蹴.  に定め有る廉く、干親戚揚のみにして、藝文は貴ばれず。徒らに工夫を消し、意を苦しめて思ひを極め、微.  を攻めて隠を囲め、寛に禄の其の中に在れど、此の墾畝を免るるこど能ばず。又た静思に損ふこど有りて年.  命に益すること無し。二毛暮るるを告げ、素志衰頽し、正に迷を反して以て生道を尋ねんと欲するも、倉卒.  として極まること岡く趨向する所無し。犬川を廻るに根濟を知らざるがごとし。先生、既に領邑を窮観し、.  又た奇秘を兼総す。道書凡そ万巻有るかを審かにせず。願はくは篇目を告げんと。抱朴子曰く、余も趨勢と  斯の疾を同じくする者なりと。︶ ︵注六︶外篇巻十五﹁審撃﹂の次の文に拠る。.  高野子日、今晋、天下統一、九番同風。王制政令誠宜齊⋮。共衡量小器、猶不可使往往占有異。況人士之格.  而可参差悉無検乎。⋮⋮︵中略︶⋮⋮昔呉土初蝶、其貢士辞職以志野。今太平已近四十年莫、猶復翠蓋。所  以使東南儒業衰於在昔也。.   ︵胞黒子田く、下汐、天下統一し、九咳風を同じくす。王制政令誠に宜しく齊一なるべし。夫れ衡量の小器. ︻. M. ﹁.

(18)   すら、猶ほ往往にして異有らしむべからず。況んや人士の格にて参差して検無かるぺけんや。⋮⋮︵中略︶.   ⋮⋮昔呉土初めて附し、其の貢士僅めて以て試せられず。今太平已に四十年に近きに、猶ほ復た試せず。所   以に東南の儒業をして在昔より衰へしむるなり。︶. ︵注七︶ ﹁葛洪の神仙術1その理論と実践1﹂中嶋隆蔵 日本文化研究所研究報告による。. ︵注八︶重沢俊郎氏前掲論文によると﹃抱甘子﹄外篇は儒家的立場で著された書として考えられている。 ︵注九︶ ﹃中国文学史﹄前野直彬編 東京大学出版会 参照。. ︵注十︶中国文化叢書﹃文学史﹄ ︵鈴木修次 前野直彬篇 大修館書店  一九六七年︶による。. ︵注一一︶説話の定義については様々で、東方選書﹃中国説話文学の誕生﹄高橋稔  ︵東方書店 一九八八年︶. ︸. では﹁口頭で伝承された話の記録、及びその形式を踏襲しながら書き起こされた読み物﹂とする。また、中国文. 化叢書﹃文学概論﹄鈴木修次 前野直彬篇  ︵大修館書店 一九六七年︶では﹃神仙伝﹄を﹁道家的色彩の濃い. 15. 一. 志怪書であゆ、志回書ぱ説話の宝庫である,﹂とする。これらよゆ、 ﹃神仙伝﹄は﹁伝﹂であるが﹁説話﹂と同 義であると考えられる。. ︵注一二︶ ﹃列仙伝﹄は現存の諸本には男向の撰に成るものと記されているが、 ﹁光輝伝校正本﹂の注者、清の. 王照円は商邸子署の伝記中の﹁高邑﹂という地名に注して、 ﹁この土地が元来町代において﹃毎﹄と書かれなけ. ればならず、後漢の光武帝の時に﹃高邑﹄と改称されたものであるから、前漢の男向が使用できるはずがないと. ずる。襲た元来﹃麓と記した地名を、後世の学のない者が誤って二字に分けたものか﹂と言う。. ︵注=二︶沢田瑞穂氏は﹃神仙伝注﹄平凡社 一九六八年︵中国古典文学大系︶において.   現行本は全十巻という堅ータルだけは旧のままであるが、その内容たる仙人の顔ぶれ・員数・排列・文章な.   どに関賎ては、真贋あい半ば賎、精粗あい雑り、新旧あい混¢て、到底葛洪原作の旧本のまま一・﹂は考えられ.   ない。仙人数の制限もなかったから、早くから脱落と増補との変改が繰り返され、本来の面目を失ってゆく.

(19)   うちにある時代には完備した十巻本としては亡侠に帰したのを、かなり後の時代になって不完全な輯秩本と   して再編したのが現行本なのである。.   ﹃神仙伝﹄に登場ずる墨書者の. とされる、また、福井康順氏も﹃神仙伝考﹄ ︵東洋思想の研究︶において同様の見解を示されている。. 笛力一一立早. 帝・貴族・官職者への対応.  ﹃神仙伝﹄に集録されている仙話九十二話の中で、仙人が帝や王などに関わっている場面の描かれたものが十. 七話見られる。もし、 ﹃神仙伝﹄が支配者階級に向けた宣伝書であるならば、帝や貴族、官職者︵以後本論では. これらを支配者階級の者とする。︶の登場する話には、何らかの好意的な配慮が為されていると考えられる。そ. こで仙人が彼らにどう接しているか、また帝王の登場の意味と得仙の有無について、十七の得仙者と支配者階級. また帝王への対応はどうかとい. の者との関わりを著している例を検証し、その中に見られる作者の支配者階級に対する考えを明らかにしていき たい。. ︻第一節、帝王への対応︼  ここでは前述した仮定をもとに仙入が帝王の前にどのように登場しているか、 うことに視点を置き、帝王と仙人との関わりから、考察を加えてみたい。. ﹁. 怖. 一.

(20) 廣成子. 、. 廣成子者、古之仙人也。居班.埆之山石室身中。黄帝、聞而造焉。日、愚問至道之要。廣成子日、爾治天下、. 禽不待候而飛、草木不男結而落。置足以語至道。黄帝退而問居三月、後往見之。膝行而前、再拝請問治身之. 道。廣成子答日、至道之精、杳杏冥冥、無視無記。幹理以静、形将自記。必静、必清、視準爾形、無揺爾精、. 乃可長生。慎内閉外。多知為書。我守其一、以塵其和。故千二百歳、而形未嘗衰。得我道者、上為皇、失吾. 道者、下為事。将去汝入無窮之門、游無極之野。與日月参光、與天地為常。人共盤死、而我濁存 。 ︵廣成. 子は、古の仙人なり。無事の山の石室の中に居る。黄帝、聞きて造る。驚く、敢て至道の要を問ふと。廣成. 子曰く、爾の天下を治むるは、禽は候を待たずして飛び、草木は黄を待たずして撃つ。何ぞ以て至道を語る. に足らんやと。黄帝退きて問居すること三月、後往きて之に見ゆ。膝行して黄み、再拝して請ひて句配の道. を問ふ。廣成子答へて曰く、至道の精は、杳杳冥冥、視ゆる無く聴こゆる無し。神を抱きて以て静かにせば、. 形は将に自ずから正からんとす。必ず静、必ず清、爾の形を労すること無く、爾の精を沖すこと無くんば、. 乃ち長生すべし。内を慎しみ外を閉づ。多知は敗と為る。我は其の一を守り、以て其の和に盧る。故に千二. 百歳なるも、歴れど形は未だ嘗て衰へず。我が道を得る者は、上は皇と為り、吾が道を失ふ者は、下は土と. 為る。将に汝を去り無窮の門に入り、無極の野に入る。日月と光を参へ、天地と常を為さん。人其れ潔く死 すも、我は濁り存せんと。︶.  この話は﹃神仙伝﹄の最初に集録されており、廣成子は黄帝の師となっている。黄帝についての話は﹃列仙. 錘、﹃史記﹄封禅書冨海経﹄などにも収められているが・今伝の全文は﹃荘子﹄外篇一山趣冊しにより作 らたと考えちれる。.  黄帝は中国古代神話の神であり、道家に取り入れられて、道教の神仙として信仰されるにいたり、老子と並べ. 一. 17. 一.

(21) て仙道のことを﹁黄老の道﹂と言うほど広く知られるようになった。黄帝はまた、 ﹃史記﹄では中国太古の伝説. 上の帝王、額填、帝學、尭、大腸と並ぶ五天帝の一人と言われているが、差手では廣成子の会話に見られる﹁上’. 為皇﹂の﹁皇﹂の脂性を神もしくは天帝の意で解した方が文脈に適すると思われることから、後世に言う皇帝や 天子ではなく、神の意味で解釈を行った。.  ところで、この話は主に、黄帝に対して答えた、廣成子の言葉から成っている。その内容は、至道の要を授か. るためには閑居し、内を慎み外を絶たなければならないということであり、それは黄帝といえども同様であると. いう。つまり得仙への道はどのような人物であれ、︸定の規律にしたがい、過程を経なければ開かれないという. ことが強調されている。すでに伝説となっている黄帝でさえ、道を得るためには潔斎、閑居したと記すことによ. り、得仙に至るまでの過程の重要性が強調されるとともに、仙道はその過程を正しく踏めば誰にでも成仙の道が. 開かれるということを暗示している。さらに、黄帝が師事したことを著すことにより、廣成子の偉大さをも強調. 彰祖. している。これは葛洪が説こうとしていた神仙の実在と可学論とをよく表す文となっている。.                            なニ . 二、. 般末巳七百六十七歳、而不衰老。少好憎静、不惟世務、不営名誉、不飾車服、養母養生治身為事。⋮⋮︵中. 略︶⋮⋮王、自愚問訊不告。致遺品玩、前後敷萬金、而皆受之、蝋管鋪装、無所留。又采女者、亦少得道、. 知養生之方。年二百七十歳、視之如五、六十歳。詔令采女、乗輻韓、往間道於彰祖。既而再拝、汐干延年益. 壽之法。⋮⋮︵中略︶⋮⋮ 采女、具受認要、以教王。王試之有験。股王、傳彰祖之術、屡欲秘之、乃下読. 國中、有傳祖之道者謙之。又欲藩祖以評註。祖、知之乃去、不知所之。其後七十今年、聞人、於流沙之國西. 見之。王、不常行彰祖之術、古謡三百才。弾力丁壮、如五十時。得鄭古本淫。王失謬言租。俗間言素干祖士. 道、殺人者、由於王禁監製也。後者福山君者。修彰祖素数、数15歳、猶有倭琴。世祖既去。乃追論艶言、以. 一. 田. 一.

(22) 為彰祖経。. ︵般末生に七百六十七歳にして、而も衰へ老いず。少くして悟静を好み、世務を憶へず、名誉に営はず、車. 服を飾らず、唯だ養生剥身を以て事と為すのみ。⋮⋮︵中略︶⋮⋮王、自ら往きて問訊するも告げず。珍事. を遺ること、前後敷活金を致すに、而も芝之を受け、以て貧賎に憧み、留むる所無し。又た采女なる者、亦. た少くして道を得、養生の方を知る。年二百七十歳なるも、之を視れば五、六十歳の如し。乃ち采女をして、. 輔,轍に乗り、往きて道を彰祖に問はしむ。既にして再拝し、延年益壽の法を請ひ問ふ。⋮⋮︵中略︶⋮⋮采. 女、具さに挙挙を受け、以て王に教ふ。芝之を試みるに験有り。土平、彰祖の術を傳へ、屡々之を秘せんと. 欲し、乃ち令を國中に下し、祖の道を傳ふる者有らば之を馴せんと。又た祖を害して以て之を絶たんと欲す。. 祖、之を知りて乃ち去り、之く所を知らず。其の後七十鯨年、人、流沙の國の西に於いて之を見ると開く。. 王、常には彰祖の術を行はざるも、壽三百才半得、士力丁壮、五十の時の如し。鄭の女の妖淫を得。王道を. 失ひて租す。俗間に彰祖の道を傳ふるは、人を殺すと言ふは、王之を禁ずるに由るの故なり。後に黄山斗な. る者有り。彰祖の術を修め、敷百歳なるも、玄麦容有るがごとし。彰祖既に去る。乃ち其の言を追適し、以 て彰祖脛と為す。︶.  ﹃荘子﹄逡遥遊第一﹁彰祖乃今以久特聞、衆人匹之。﹂ ︵彰祖は乃ち今久しきを以て特に聞こえ、衆人之に適. せんとす。︶この他にも﹃史記﹄楚世家や﹃筍子﹄修身に見られるように古来より彰祖は不老長寿の代表とされ. ている。 ﹃列仙伝﹄にも彰祖の伝があり、 ﹃神仙伝﹄同様、導引、行気の術を使い長命であったことが記されて.         にの . いるが、 ﹃神仙伝﹄のほうではその上に他の挿話が加えられ、はるかに詳しく、長くなっている。.  ここでは四王が登場し、彰祖に質問している。しかし猛襲は王に対して何も答えない。王はそれでも彰祖に金. 品を下賜するが、それらはすべて貧しい者に分け与え、自分では取らない。ここには彰祖の慈愛の心と高潔さが. 一. 19. 一.

(23) 表れている。このような支配者層への拒絶的態度と対称を為す、庶民への施しといった内容の話は﹃神仙伝﹄の 中に多く見られる。.  最終的に、王は仙女である采女を通じて彰祖の術を聞き、長寿を得る。彰祖が采女に授けたのは主に養生の術. で、斎戒の重要性を説いている。これは歴代の皇帝が、手中にした栄華を謳歌しようとして、不老不死を求める、. という立場からは対極に位置するものであるが、般王は忠実に彰祖の養生法を実践し、三百歳の寿を得る。とこ. ろが、道を失ったという理由により、不死を得たかに見えた般王も、願い虚しく死んでしまうのである。ただ一. 度の過ちが失道につながる、ここには彰祖が当初、意解に対し答えなかったことと併せて、帝という立場で、道 を求めることの難しさと豪著の棄却が強調されている、といえるだろう。.  ところでこの彰祖伝の王については股王とあるのみで、湯から紺王に至る二十八世六百四十四年の内、どの王. であるか明記されてはいない。 ﹃神仙伝﹄に登場している帝王は、憲章武帝、呉大帝など王を明記、もしくは特. 定する手掛かりとなる言葉が必ず添えられている。これは仙人の実在を説くためにはその存在していた時代や環. 境、関係人物を明確かつ詳細にすることが不可欠あり、それによって事実性を高めようとしたためであると考え. られる。そこで今伝の仁王についての表現は疑問に思う部分であるが、三百年生きた王は実在していないので、. 伝説の帝として、黄帝同様に考えられてのではないだろうか。また彰祖は既存の各書物にみられる長寿の神とし. てその名が人口に膳表しており、文頭の﹁鷺足巳七百六十七歳﹂のように股朝を通して存在していたので、あえ て王を特定する必要がなかったのではないかと考えられる。. 三、王遠. 九州吉凶、如観之掌握。後、諸官入山、修道道成。漢孝桓帝聞之、連署不出。使興奮逼載、.   王遠、字方平、 東海人也。墨孝廉、除郎中、梢加中等大夫。學、通五経、尤明天文・圖識・河洛外要。逆知   天下盛衰之期、. 一. 一. 20.

(24) 以詣京師。遠、低頭閉口不箸詔。⋮⋮︵中略︶⋮⋮遠、無子孫。郷里人、累世相傳、供養之。同郡太腹東鶉、. 為遠営道室、旦夕朝拝之、但乞福、未書學道也。⋮⋮. ︵王遠、字は方平、東海の人なり。孝廉に畢げられ、邸中に除せられ、響くして中散大夫に加へらる。學、. 五経に通じ、尤も天文・圃識・河曲の要に明るし。逆め天下の盛衰の期を知り、九州の吉凶、之を観ること. 掌に握るが如し。後、官を棄てて山に入り、道を修めて道成る。漢の孝桓帝之を聞き、連りに徴するも出で. ず。郡國をして高才し、以て京師に詣らしむ。遠、・頭を低くして口を閉ぢて詔に筈へず。⋮⋮︵中略︶・. 遠、子孫無し。郷里の人、累世相当へ、之を供養す。同郡の太壁塗耽、遠の為に道学を営み、旦夕之を朝拝 し、但だ福を乞ふのみにして、未だ道を學ぶを言はざるなり。⋮⋮︶.                                               だ    この話は後部が巻七、 ﹁麻姑﹂と同じになっている。このことについては福井康順氏の考察に詳しい。.  この話に登場する支配者階級の者は孝桓帝と母野陳耽である。山に籠もり修行を積んでいた王遠を、漢の胸繋. 帝がしばしば召す、ところが王遠は出てこない。そこで無理に都に連れてこさせる。ところが帝の前にうつむい. たままで、詔に答えない。終始この態度を崩さないまま口を開かずに都を出るのであるが、彼は決して口が利け. ない訳ではない、このことは前掲の後ろに続く文、 ﹁遠、忽語陳耽日、吾期運置去。不得久万。明日、日中胚嚢。. 至時遠耳。耽、知其仙去、不峠下着地。﹂ ︵遠、忽ち陳耽に語りて曰く、吾が期磨りて當に去るべし。久しく停. まるを得ず。明日、日中當に興すべしと。時至りて早死す。耽、其の仙零するを知り、敢て下して地に着かず。︶ からもわかる。.  王遠は孝聖帝、太尉陳耽のいずれにも道を告げてはいない。 ﹃抱昏昏﹄内篇巻十四の﹁不好不求、求之不溶者、. 安可街其沽以告之哉。﹂ ︵好まず求めず、之を求むるも篤からざる者、安くんぞ其の沽らんことを街ひて以て之. に告ぐぺけんや。︶で述べている葛洪の考えに一致しているからだと考えられる。すなわち三遠が孝桓帝に対し. 一. 一. 21.

(25) て答えなかったのは、彼が帝を道を告げるにふさわしくない人物として見なしていたということになる。また、. 太尉陳耽の家にも留まってはいるが、仙去︵ 解︶によって彼の前から去っており、陳耽も得道したわけではな. い。この仙去という行動は以下に挙げていく仙話にも見られる。それらの話の多くは、死に託して夕張し次の瞬. 間には別の場所に現れているという形式を取っている。このような丹塗は得仙の一過程である 解仙として捉え                                         ほ   ることができるが、束縛からの解放という意味でも捉えることができるのではないだろうか。なお、王遠はこの. 河上公. 後再び人間に姿を現し仙道を伝授している。. 四、. 一. 河上公者、莫知其丁字。漢文帝時、公、結草為庵油蝉之濱。帝、讃老子経、頗好之。⋮⋮︵中略︶⋮⋮呼時. 旧称河上公電老子経義旨、乃使齎所不平凶事以問。公日、道尊徳貴。非可遥堅陣。帝、即幸其庵躬問之。帝. 22. ㎝. 日、普天之下、莫非王土、率土之濱、莫非王臣。城中四大、王居其一。子、錐有道、猶朕民也。不能自屈、. 何乃高乎。公、即軍楽甲西、再再七山空中。去地煙丈、挽置型千日、余、上畳至天。中不累卵。下直居地。. 何民事之有。帝、乃下車。⋮⋮︵中略︶⋮⋮公、乃授謹書二巻、與帝日、熟研之、比経糸疑皆了、黒馬多言. 也。余、注比経以来、一千七百余年。昇華三人、連子四 。勿以示非其人。言書失其所在。須奥雲霧海瞑、. 天地混合。帝、甚貴之。論者以為、文帝、好老子之言、世不能蓋通。故神人、特薦教之。愛鷹漢文心末至信。 故示神変。所謂聖人無常心、以百姓心為心耶。. ︵河上公は其の姓字を知る莫し。漢の文帝の時、公、草を結びて河の濱に庵を為す。帝、老子経を讃み、頗. る之を好む。⋮⋮︵中略︶⋮⋮時に皆河上総の老子経の義盗を解すと称するを聞き、乃ち決せざる所の事を. 齎し以て問はしむ。公曰く、道は尊く徳は貴し。遥かに問ふべきに非ざるなりと。帝、即ちその庵に幸して. 躬ら之に問ふ。帝日く、普天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し。城中の四大、王.

(26) は其の一に居る。子、道を有すと錐も、猶ほ朕の民のごときなり。自ら屈する能はず、何ぞ乃ち高きやと。. 公、即ち掌を撫し坐して躍れば、再再として虚空の中に在り。地を去ること身丈、晩仰して答へて曰く、余、. 上は天に至らず。中は人に累はされず。下は地に居らず。何の民か之を臣とすること有らんやと。帝、乃ち. 車を下る。⋮⋮︵中略︶⋮⋮公、乃ち誓書二巻を授け、帝に與へて曰く、熟つら之を研すれば、此の経の疑. はしき所は皆了せん。多言を事とせざるなり。余、此の経を注して以来、一千七百余年。凡そ三人に傳へ、. 子を連ねて四なり。以て其の人に非ざるには示すことなかれと。言駆りて其の所在を失ふ。須輿にして雲霧. 晦瞑し、天地混合す。帝、甚だ之を貴とす。論者以為へらく、野心、老子の言を好むも、世盛くは通ずる能. はず。故に神人、特に下りて之を教ふるなり。而も漢文の心、未だ信に至らざるを恐る。故に神変を示すな り。所謂聖人は常の心無し、百姓の心を以て心と為さんか。︶.  文帝が河上公に謁見し尋ねたのは﹃老子経﹄の解釈についてである。文帝は元々﹃老子経﹄を愛読していたの. であるが、どうしても解けない箇所があり、河上公がよく解すると聞いて使者を遣る。ところが河上公は、道徳. は高貴なものであるので遠くから尋ねるものではないと使者を追い返す。そこで想望自身が赴くのであるが、文. 帝の言葉に河上公は神異を見せて答える。それは暗に方響の尊大さを批判し、帝の民であることを否定している。. ようやく礼を執った文帝に河上公は﹃素書﹄を授ける。 ﹃善書﹄とは通常、秦の隠士であり、漢の野良に兵書を                          なセ  与えたといわれる黄石子の撰と伝えられる﹃黄書士誓書﹄一巻を指す。 ﹁原始﹂ ﹁正道求人之志﹂ ﹁本別宗道﹂. ﹁遵義﹂ ﹁安禮﹂の六篇からなり、書中は、柔を以て剛を制し、退を以て進となす理を説いたものであるが、現. 存しない。この場合は本文より﹃老子経﹄を読み解くアイテムとして登場しているので﹃河上公口書﹄即ち﹃河 上公注﹄ではないかと考えられる。.                は  .  河上公はこの書を渡すに際して、注解に要した時間と、授ける人の厳選を説いている。これによって、 ﹃血書﹄. 一. 一. 23.

(27) は唯の注釈書ではなく、千年を生きた仙人による稀有な書となる。よって﹁帝甚貴之﹂以下の文章へつながるの. である。しかし、ここで主となっているのは﹃老子経﹄の解釈についてであり、仙道については触れられていな. い。文理は河上公に会ったが仙を得ることができたとは書かれていないのである。帝王が仙人に会うことを求め. る場合得仙を目的としている話が多い中でこの話は他と内容を異にしていると言えるだろう。. 五、王興.  ⋮漢武、上嵩山登大愚早昼、起道宮、使蝉茸鉦、東方朔等、量器思神。至夜忽見有仙人長二丈。耳出頭蹟、. 垂下昇華。武帝禮而問之。仙人日、吾九疑之神也。聞中岳石上菖蒲、一寸九節、可以飛騨長生。故由採耳。. 忽然失神人所在。帝顧侍臣日、至聖復學道服食者。必中岳之神以喩朕耳。為之採菖蒲服之。経二年、帝単蹄 不快、遂止。時從官多服。然莫能持久。⋮⋮. ︵漢武、野山に上りて大愚雫石に登り、興宮を起て、董仲箭、東方朔等をして、斎潔して神を思はしむ。夜. に至りて忽ちにして仙人の長さ二丈なるもの有るを見る。耳頭嶺より出で、垂れ下りて肩に至る。武帝禮し. て之に問ふ。仙人曰く、吾は先議の神なり。中書の石上の菖蒲は、一寸九節にして、以て之を服すれば長生. すべしと聞く。故に求めて採るのみと。忽然として神人の在る所を失ふ。帝侍臣を顧みて曰く、彼は復た學. 道服食の者に生ず。必ず中岳の神の以て朕を罰すのみと。之が為に菖蒲を採りて之を服す。二年を経て、帝. 悶へて快からざるを覚え、遂に止む。時に從官服すること多し。然れども能く持久する暑し。︶.  中国では古来より、歴代の王が、手に入れた栄華を謁歌せんと不老不死の身体を求めたことは有名であるが、                              に  . 中でも秦の始皇帝と並んで、漢の武帝はその代表であるといえる。これは﹃神仙伝﹄九十二話で帝王の登場する. 話は十八見られるが、その内の六話、三分の一に相当する話に武帝が登場することからも明白である。武帝はそ. 一. 一. 24.

(28) の在位の中で李下君、少翁、簗大、公孫爆心の方士と関わりを持っている。儒学を国学とした武帝ほどの人物が                     は   . なぜこのように神仙に心酔したのか。その原因の つに当時の儒学がある。これは当時の儒学が神秘と習合しや すい傾向を持っていたからであると考えられる。.  この話の中の武帝は仙術を修める上で重要とされている半国の一つ、五山に石室を建て東方朔、董耳蝉に潔斎.                                   はへ   して神に祈念させている。東方朔は弁舌・文章に長じた人物であり、 ﹃列今上﹄にも名を連ねている。董仲箭は. 儒教を国学とするのに大きな役割を果たした当時の大儒者である。彼が祭祀に関わっていることからも当時の儒 学の神秘と習合しやすい性質が窺える。.  何のための祈念かについては本文で触れられていない、しかし、武帝が熱心に仙人から不老不死を授けられる. 一. ことを願っていたことから、嵩山の神を祀るためであったことが推測される。はたして、夜一人の仙人が現れ、. 長生するための処方を伝える。武帝は神が教えに降りたのだと考え、菖蒲を二年にわたって服用する。しかし不. 25. 漢碧南王劉安者、壁高帝之孫也。⋮⋮︵中略︶. 野天下俊士。作内書二十二篇。又中篇八章、言神仙黄白下煮。. ⋮:諸諸王子貴修、莫不以聲色・游士・犬馬為事。唯濃墨笹. 一. 快を覚え止めてしまう。不快を覚えたのは、それらしき効用が現れなかったからだと考えられる。この話の題は. ﹁王興﹂と冠されているが、武帝のエピソードが四分置三を占めている。王興についてふれられているのは、今. 回省略した最初と最後の数行だけであり、武士の様子を表現するための文であるとも言える。これほどまでに上. 帝のエピソ;ドが長くなっているのは何のためか。このことは第三章で詳しく見ていくことにする。ここでの帝. 節下士、好篤儒學、兼占候方術、養士三千人。. 武豊、外需辮博有才、属為宿世、甚重尊之。玉璽及報書、常. 劉安. は途中で服薬を止めてしまっているので結局得仙はかなっていない。. 六、. 名為鴻寳。萬畢三章、論攣化之道、凡十萬言。.

(29) 使司馬相遭難共定量。乃遣使召安入朝。嘗詔使為離騒経傳、受詔食時便成芝之。安、毎恒見、談説得失、及. 獣心群群。農入夜出。⋮⋮︵中略︶⋮⋮武帝、聞左呉等、随王仙去勢還、乃詔之、高高回申。呉、具興野。. 帝、大隠恨、乃週日、使濫獲為准南王者、視天下如是屍耳。青煮招募賢士、亦書道八公不能得。・身為公孫卿. ・樂大降所欺、意猶不巳、庶獲其眞者。愚母墨字分明、方知天下實有神仙也。時人傳、八公安、臨去時、絵 藥塁置在中庭。鶏犬、舐啄之蓋得昇天。故鶏鳴天上、犬吠雲中也。. ︵漢の潅南王劉安は、漢の高帝の孫なり。⋮⋮︵中略︶⋮⋮時に諸王子は修を貴び、翠色・帝劇・犬馬を以. て事と為さざるはなし。唯だ安のみは照り節を折りて士に下り、篤く儒學を好み、占候方術を兼ね、士敷千. 人を養ふ。皆天下の俊士なり。内書二十二篇を作る。填た中篇八章は、神仙黄白の事を言ふ。名づけて鴻寳. と為す。萬畢三章は、層化の道を論じ、凡そ十萬言なり。武帝、安の辮博にして才有り、属は諸父たるを以. 一. 召して朝に入らしむ。嘗て粘して離写経の傳を為らしむるに、詔を置くるや食時に便ち成して之を奏す。安、. ㎜. 26. て、甚だ之を重んじ尊む。特詔及び卜書は、常に使司馬相如等をして共に草を定めしむ。乃ち使を遣し安を. 宴見せらるる毎に、得失を談御し、及び諸の賦類を獄ず。農に入り夜に出づ。⋮⋮︵中略︶⋮⋮武帝、左呉. 等の、王に随ひて仙産し更に還るを聞き、乃ち之に詔し、親しく其の由を問ふ。呉、具さに以て劃ふ。帝、. 大いに懊早し、乃ち嘆じて日ぐ、朕をして潅南王たるを得しむれば、天下を視ること脱晟の如きのみ、と。. 遂に便ち賢士を招聾し、亦た八公に遇はんことを翼ふも得る能はず。而して公孫卿・簗上等の欺く所となる. も、意猶ほ巳まずして、其の眞なる者を獲んことを庶ふ。安の悟去の分明なるを以て、方めて天下に實に神. 仙有るを知ればなり。時人傳ふ、八公と安、去る時に臨み、藥を器に鳴して中庭に置在す。鶏犬、之を舐渇 して蓋くに天に昇るを得。故に鶏は天上に鳴き、犬は雲中に吠ゆると。. 劉安の名は﹃潅南子﹄の著者として知られている。この話では武帝の良き助言者となっているが。謀反の冤罪.

(30) を受け仙去︵昇仙︶する。劉安は高祖劉邦の血を引く貴族であったが、当時他の王子達が音楽、女人、狩猟、犬. 馬などの遊びをし、身分にまかせて翌翌に耽っていたのに対し、劉安は礼儀をただし、士人にも腰低く、礼厚く                        ハほ ニ . 接したので、後には潅南八仙といわれる人物が到来する。そして彼らが劉安の昇仙を助けることとなる。劉安は. 昇天に際して近臣である左呉、王春、傅生ら五人を共に仙界へ連れていき、まもなく人間界へ帰している。そし. て帰ってきた左呉らを詔美した聖帝は、仙人の実在を確信する。ここでの武帝の言葉の﹁視天下塾側屍耳。﹂に. は、彼がどれほど得仙を切願しているかがよく現れている。ところでこの言葉の直後、 ﹁而為公孫卿・樂大画所                                             はニニ . 欺、意猶不巳、庶国々奏者。﹂の部分には聖帝が公孫卿・樂大らの方士に欺かれた史実を述べている。彼らは神. 仙黄白の説を説き、武帝の寵を受けていたが、その目的は高位官職を得るためであった。序論でも述べたように、. 武帝の頃には道を修めると自称する方士が数多く集まった。彼らは武帝が長生を得ようとしていることを利用し、. 商い官職に就くため、様々な虚言をもって近づいている。彼らの言葉に武帝は猜疑心を抱かなかった訳ではない。. しかし劉安の昇仙によって真の仙人に会いたいと願う武帝の気持ちはかえって強くなっている。ここに見られる. 主題は仙人の実在についてである。それは武帝の様子によっても表されているが、話の中間部、劉安が仙を得た ことについて、.   漢史西之、不言安曇神仙之道、恐後世人主、當廠萬機而競求於県道。乃言、安得罪、後自殺、非半身也。.   ︵漢史之を秘して、安の神仙の道を得たるを言はざるは、後世の人主の、當に萬機を固し而して競ひて安の.   道を求むべきことを孕るればなり。乃ち言ふ、安は罪を得て、後自殺す、仙を得るに非ざるなりと。︶. このような葛洪の意見が述べられている。正史に仙人の記述が無いことは仙人が実在しなかったということの確.                  だ   . 証となり得るが、前記のような理由によってそれを否定している。ここには仙人の実在を信じ、それを主張しよ うとする葛洪の意思が読みとられる。. 一. ︻. 27.

(31) 七、. 泰山老父. 泰山老父者、了知姓字。漢武帝、東早上、見老翁鋤於道傍。頭上白光、高卑尺。惟而心事。老人状、如五十. 許人、堅甲童子愁色。肌膚光華、早年俗耳。良将有繋道術。明日、臣、年八十五時、衰老垂死、頭白歯落。. 遇有道者、教臣押型。但、身中飲水。井作神州。枕中有三十二物。其三十二物中、有二十四物、以當二十四. 氣。八毒以慮八風。臣行之早老為少。黒髪更生、歯落退出。日量三百里。臣今=臼八十歳突。帝、受其方、 賜玉畠老父。後、入岱山中、毎十年五年、時還郷里。三百鯨年乃不学還。. ︵泰山老父は、姓宇を知る発し。漢の武帝、東のかた巡狩し、老翁の道傍に鋤くを見る。頭上の白光、高さ. 歎尺なり。嚇しみて之に欄ふ。老人の状、五十至りの人のごとくして、面に童子の色有り。肌膚の光華は、. 俗と同じからず。帝の何の道術有やと問へば、封へて曰く、臣、年八十五の時、衰製して死に垂んとし、頭. ﹁. 三十二物有り。其の三十二物の中、二十四物有りて、以て二十四氣に當る。八毒は以て八風に慮ず。臣之を. ﹁. 28. 白く中落つ。有道の者に遇ひ、臣に絶壁を教ふ。但だ、乖を服して水を飲めと。井せて神枕を作る。枕中に. 行ひ老を縛じて少と為す。黒髪は更に生え、歯落ちて復たは出づ。日に行くこと三百里。臣は今一百八十歳. なりと。帝、其の方を受け、雪平を老父に賜ふ。後、岱山の中に入り、十年目五年毎に、時に郷里に還る。 三百餓年にして乃ち復た還らず。︶.                           に   .  老人については姓も名も知られておらず、ただ泰山老父と呼ばれている。泰山老父の泰山は太山、岱山とも表. され、五岳の代表として、特殊な崇拝を受けている山である。その泰山の名が冠されているのは話中の後半、. ﹁入湯山中﹂に因るのだろう。ところで、ここでも武帝が登場する。武帝は巡幸の途中老父と出会い、その術を. 伝授される。文中に﹁絶穀﹂の語が見られることと、老人の容姿の描写から辟穀による養生、長生の術ではない. かと考えられるが、老人の会話の後半部が抽象的で、具体的性に欠ける。特に﹁井作出枕﹂以降の文が難解であ.

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