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『奉教人の死』考

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Academic year: 2021

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化{I-三好行雄氏は「近代散文のリアリズムに耐えぬ脆弱な部分」を 持つ「小説的構造」に即した必然的文体特徴をはじめとし、 主人 公の半生と男装の秘密を伏せて主題を「あざやかに提示す」る典 拠とは汎なる独創性や、 「 刹那の感動」に凝縮する主姐と「芸術 派宜酋」の街迫、 そして、「戯作三昧」(大6)、「地獄変」(大7)、 「枯野抄」(大7 ) と述飢する作品史的位骰など、 重要な問俎指 U{9) 摘をなされている。 これは他淵友一氏の、 主人公の弁解を煎ねる 日常的生と最後の殉教的行為とのキャップに、 芥川のキリスト教 に対する「理解の浅さ」を捉え、 それが主迎を「宗教的惑動」か ら「芸術的惑動」へと変質させたとされる見解とともに、『奉教 化03) 人の死 j の作品解釈に当っては見浴せないものであ る。 主迎を 「一片の熊償の愛」とし、 これを描くに「エロスを以て包む」手 it(4-法を用いた とされる 佐藤奉正氏の論、 「作行の慈図」と「^主人 公〉の自fU意息による〈生き方〉」とのれ裂を指摘される川鎖郎

はじめに

「奉教人の死』

ileつ 氏の問切提起、 そして、 「開化の殺人 j (大7)、「採踏会」(大 9)の女主人公とも呼応する 「 この国のうら若い女」のイメージ を核としたこの作品に、 日本的 「 美の柑」としての統一的完結性 を捉えようとする平岡敏夫氏の紹釈など は、 右両柑の反措定の上 に成立したものと見ることができる。 この小論では、 最初に主人公の日本人的生活意哉の特徴に注目 し、 次いで主人公の命を賭した救助行為を支える形象要素を整理 し、 そして最後に、 救助行勾の設定に働く主要な形象モチーフを 恥ねてみたい。

ろおれんぞの生活意識の特徴

.,

r▼ Aしみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕には 4 だんだんとうすくなる。 稲の為の生存、 子孫をつくる為の生存、 『 それが其理かもしれないとさへ思はれる。外面の生活の欠陥を 補つてゆく歓楽は此苦しさをわすれさせるかもしれ ない、 けれ ども 空虚な感じはどうしたって失せなからう。(略)/窮極す

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る所は死乎、 けれども伎にはどうもまだどうにかなりさうな気 がする、(略)未純があるのだ、 便は死ねない理山もなく死ね

ない、裕竺り係累とい ふ錘はさらにこの卑怯をつよくする> (傍船引川也 これは明治四十四年項、 親友、 111木喜柑司に柑き送られた柑簡 の一節であるが、 傍線部日の しみじみ何のために生きてゐるの かわからない」気持になって いる芥川は、 自己固布の存在確証が めないままに代の紐欲を�技退させ、 どんな日常的党凶にも生命 の燃焼を惑知し得な い絶招状況に陥っていたと見ることができる。 間凶は、 傍船部口で「神」に対するflt仰心の希湖化を述ぺ、 傍線 部曰では 北存」のふ品味として「子係をつくる勾」ということし か老えられない虚無感に触れ、 そして傍線部回では 外而の小祈 の欠陥を補つてゆく歓楽」の不屯性と 死」への傾斜を暉叩りなが らも、 傍線部血で「死」へ の傾斜を抑制する「家族の係累といふ 托」の大きさを曲濶していることである。 叫治叫十叫年とけえば、 芥川の心 1 呼牛校在学中の頃であり、 川はIIE盛な矧識欲のもとに、 古今東西の祁物を渉猟し、 芥川自身 の「冷かな埋知に麻んだ一Hliに近い〈カンデイド〉の折叫姦"」 (「或阿り木の一生 j 十九)などから供給された 人工の汎をひろ げ」(M)て、 見すぽらしい町町の上へ反拍や微笑を洛しなが ら」(M)空""9く飛判しようとLていたはずである。 このように 秀抜鋭fllな狸矧力や批評精神を駆使する芥川の小泊紐波をも制す る「神」よりも重い「家族の係累といふ錘」は、 当然、 芥川の一 生行負いつづけなければならなかったものと見てよかろう。 このような 錘」の支配下で、 芥川の呆し得る生の認敬方向を 右杏節の中に見出すとするなら ば、 次の三点が考えられる。第一 は傍線部曰の「子孫をつくる為」という「生存」の意味しか考え られないような虚照感に陥れる現実恨界の「賠黒」構造を明確化 していくJj阿であり、 第二は傍船部四の「外面の生活の欠陥を補 つてゆく歓楽」の奥行きやその極致美を探索していく方向である。 そして第三は、 傍絲部田の「死」へと傾斜していく意識に、 tf0) 族の係界といふ鎖」を杵負いながら 集団我」.を支えとして生き る人々の共感と沿足を喚ぴ起こすような、 純化された人間的美意 磁を完粘させていく方向である。 「が教人の死」の芥川 は、 第一の現実社会の 暗黒」構造を明 碓化していくとともに、 その構造下で生の基盤を喪失していく人 間の「死 J への 傾斜寇滋に、 第一一一の純化された人間的美意識を完 粘させようとしていたと招釈することができる。 これを作品史的 に見るならば、「奉教人の死」は「倫盗」(大6)における沙金と 太郎と次郎、『外』(大5J)における弟子俯と拙人、『るしへる j (大7)におけるはぴあんなどの人物造形を通して認識化した人 間の エゴイズムの間題と、「手-2-J (-i^rJ) 、「神々の微笑』(大11)、 「おしの」(大12)などにおいて対決した文化的風土の問題とを 蹄まえ、 そして、「状作 ]i 一味 j の主人公・馬琴の「枕惚とした法

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� 悦」と『地獄変』の主人公・良秀の「悦惚たる悲壮の感激」との 共⑭を探ろうとした作品と言い換えることもできよう。 ところで、「奉教人の死 j の劇的展開部で原話とは異なる特徴 が明瞭に表われてくるのは、 傘張の翁が娘に恢妊させたろおれん ぞの罪を伴天述に訴える ため に寺院を訪れた時である。原話のマ リンの楊合、 院長から罪科の有無を股しく詰問さ れても、「のろ う者を祝福し、 はずかしめる者のた めに祈れ」(ルカによる福音 ・掛第六章)という福音の精神に則り、「少しも返答なく、 只心に 神に枯り猶一服の苦しみを我が身に与へ給へ」と願うのに対し、 『奉教人の死 j のろおれんぞの場合は事情が大きく異なっている。 注意しなければならないのは次の二点である。 第一は傘張の翁が娘の言葉を信じてろおれんぞの姦淫の罪を伴 天連に訴えに来た状況を前にして、「かうなる上は」「かつふつ言 ひ訳の致しゃうがござない」と党悟を決めるろおれんぞの対応姿 勢である。恩義ある伴天連や生活を共にした 寺院の人々の「面 目」を條つけることへの気造いが大きく作用しているこの対応姿 ' 勢 は、 傘張の娘との関係につい てとかくの唸が立ちはじめた時、 それ を確認する伴天述やしめ おん の訊問に対して見せたろおれん ぞの「弁解」や「咎めるよう」な「不満」に直結するものである。 同じ生活圏に器らす人々の生活感情ゃ価値判断に気を配りながら、 その生活圏の人々が形成する 「集団我」との密接な迎繋を図るろ おれんぞの 生活意織に注目する時、 芥川のキリスト教 に対す る ft-9) 「理解の浅さ」を指摘する笹淵友一氏の批判は、 それなりに粕得 できるものであるが、 反面、 日本的文化風土に根を下ろしながら、 自己固有の生の存在確証を検証していく道がこの意識を起点に開 かれているとも言えよう。 こうしたろ おれんぞの生活意識と、 ろおれんぞの姦淫の罪が傘 張の翁によって訴えられた時にろおれんぞからの事情聴取を行わ ず、 彼等のみの「談合」によって翁の訴えを一方的に容認する形 の「破門」という裁定を下す伴天連やいるまん衆の生活意識とは 無緑のものではない 。訴えの真偽を合理的に割査検討した上で問 題の処理に当ろうとしない彼等の処置方法 は、 同じ生活圏に布なら す人々の疑惑を招くという事態そのことに自己の不明ゃ過誤を惑 じ取り、 自らの意志による峻敲な自己断罪をもって「集団我」の 支えを確保し、 そして、 他者からのいかなる非難をも拒絶し得る 権威機能を保障しようとするものと首える。 ろおれんぞの命をかけた犠牲的な救助行為を目前にして傘張の 娘が前非を悔いる時` ろおれんぞを罪人として破門に処した自分 の過失処骰に対する罪苦の痛みを抜きにして、 伐悔する娘の教渫 者となるばかりか、 ろおれんぞの悲痛な生活行為を論評しようと する伴天連の態度はこの権威楼能の保隙のもとに成立するもので ある。ろおれんぞの背負う悲劇の主要な原因の一っとし て、 この 実質的な問題処理の費任を免除されながら 、 祭 司としての権威的 な役割をいかめしく儀礼的に演じつづける日本的権威者の腺大な

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有島武郎は「佃債の否定と固定と移動 J (大9)の 中で、 既存 の価伍基準や秩序体系を受動的 に容認することなく 「自己」 を拗

おれんぞの救助行為を支えている形象

要素

御都合主義を見落と すことはできない。 • 第 二は親友・ しめお んがろおれんぞに欺かれたという腹立たし さから、破門になっ て寺院を出ていくろおれんぞの顔を拳でした たか打った時、「街主も許させ給へ………」と 「わななく声」で 祈ったことである。 これは院長にどんなに責め問い詰められても、 すべて神の試煉として受けとめながら 「只心に神に誌り猶一屈の 苦しみを我が身に 与え給へ」と願う祈りとは大きく異なるもので · あ る。 自然に人の耳にも入る結果を招くろお れんぞの「わななく 声」をあげながらの祈りには、 キリシタンとして敬虔に 生きよう と努める意図的な生 活意織と、神の仲立を経な いまま に「集団 我 」 に拠りかかろうとする 自然的な生活意謙との交錯した状態を 見出すことができる。 この形象には、外在的な文化体系や佃侑甚 準を受動的に容認できない芥川自身の「内的自我 」の働きが作用 していると考えられるのであり、 劇要素には文化的風土に根を下 ろしながら新たな 生の方向を探る道が開かれていると言えよう。 ここで 、 ろおれんぞの救助行為を支えている形象要素に注目して みたい。 かせ 、 物神化した権威の力に服従す ることなく「自己 」 を「栢 準」に「価値決定 」 をし、 そして 、 新たな「内的自我」の形成を 間断なく重ねていくところに、虚無的地獄への転落を免れる逍を 探り当てようとし ているが、「奉教人の死』における芥川にも同 11-8) 様の認識志向が拗いているものと考えられる。鈴木秀子氏の「ろ おれんぞは、 ^わが身の行俄を、 御主『ぜす・きりしと j とひと しく 〉した生き方を通して、 ^未出ぬ月の光を、水沫の中に捕へ〉 たのである。 ^人 の批の尊さは、 何ものにも換へ難い、 刹那の感 `‘、、、、、、、、、、、 動に極る 〉のは確か であるが、その刹那の感動を支えるのは、 、、、、、 、、 、 、 、 、 、 、、 、、、、、、、、 、 、、 ^永遠に超えんとするもの〉に賭 けた一生の長い時間である。 ^刹那〉はそうした 人生 の具体的な表明でしかない 」 (傍点引用 者)という見解は、 こ の認織志向の問姐を検討するに当って見裕 せないものである。 芥川は 「西方の人」の中で、 マリアが「^永遠に女性なるもの〉 ではな」く 、 「唯〈永遠に守らんとするもの〉である 」 (第二意) のに 対し、 聖霊は「必ずしも〈聖な るもの〉で はな」<、「唯 ^永遠に超えんとするもの〉である.」(第一__章)と規 定し、 そし て、「あらゆるクリストたち」が「理霊の為に いつか捉はれる危 険を持つてゐる」ことと、「ニイチェの叛逆 」 が 「 クリストに対 するよりもマリアに対する」ものであることを述ぺてい る。 この 考えと、「OO中問答」(DB2)の「 お前の個性を収煎し、俗悪な民 祭を軽蔑しろ」「お前は超人だと確信しろ」と血nnり掛け てく る

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、、、、、、、、、 「或声」に対し、 「僕はお前に言はれずとも僕の個性を癌重して 、、 、、、、、、、、、、、 、、、、 、、、、、、 ゐる。 かし民衆を軽痰しない」「大いなる民衆は滅ぴない。 、、、、、、、、 、、 、、、、、、、、、、、 らゆる芸術は形を変へても 必ずその うちから生まれる」(「僕 等」以外の傍点引用者)と応待 する 「僕」の答弁内容とを合わせ 考える時、 ろおれんぞの「^永遠に超 えんとする もの に賭け 一生」の甚本的輪郭の特徴が見えてく るの である。. 第一は人間的な 自然情動の もとに結ばれるしめおんとの特別な ・交遊関係と、 その関係を深めながら情動の昇華に努める内的格闘 である。「願 かたちが 玉のやうに油ら で」 「声ざまも女の やうに優 し」 いろおれんぞと、「元さ る大名に仕へた、 梢一すぢの家がら なもの」で 「身の けも抜群な」上に「性得の同力であ」るし めおんとの睦じい交りは、 「とんと鳩になづむ荒鷲」や 「〈ればの ん〉山の桧に、 葡萄かづらが線ひついて、花咲」<様子によって 印象的に描き上げられて おり、 この二人が他の同僚との間には見 られ ない深い心の繋がりによって結ばれていることは確かである。 こうした交遊をつづ ける生活の中で ろおれんぞの 心に異性しめ んに引か れる愛が生まれたとしても何ら不思浪ではない。 とこ .ろ ろおれんぞは 「〈すぺりおれす〉(長老衆)が舌を捲くばか り」の「信心の堅 固」さ を発揮しており、 また、 傘張の娘との ・「兎角の頃」が 立ちはじめた頃 寺院の裏庭で「^ろおれんぞ〉 ヘ宛てた娘の競昏を拾う た」しめおん に詰問され た時には 「英 、、、、 しい顔を赤 らめ て」(傍点引用者)弁解をし 「私は お主にさへ、 嘘をつきさうな人間に見えるさうな」と 「咎める やうに」憤沼を 吐き残して部屋を飛ぴ出して いる。 しかもその直後、「い きなり 、、、、、、、 、、、、 舵けこんで来」たかと思うと 「飛ぴつくやうに 〈し めおん〉の 、、、、、 、、、 、、 、、 、、、、 、、、、、、、 頻を抱くと 咄ぐやうに〈私 が悪かった。許して下されい〉と 囁」(傍点引用者)き、 そして、 しめお んが 「一言も 答へぬ間に 、、、、、、、、、、、、、、、、 涙に沼れた顧を関さう為か、相手をつきのけるやうに身を開いて、 一散に又元来た方へ 走つて往んでしまう」(傍点引用者)よう 混乱や戸惑いを見せている。 弁解や咎め立てという他者否定のための自己表示から紺罪とい う他者容眩のための自己抑止へと急転する心理変化と、そうした 心情の表出過程で「美しい頻を赤 らめ」た り、「相手をつきのけ るゃうに身を湖い 」たり する 器恥心や戸惑いに注目する時、 ろお れんぞの しめおんに見せる弁解や咎め立ては 笹潤友 i 氏の よう tl-9) に、「身に振りか かる火の粉は払わねばならないという泄俗的意 紐によって占められ」たもの と断定すること はできない。 ろおれ んぞの混乱や戸惑いには、 人間の自然的な生命衝動と日本的な文 化風土に根ざす 自然的な生活感梢と そして、 寺院生活の中で体 得し たキリスト教精神に基づく宗教的感性と に作用されながら, 往ー10) 同時に 「人間思惟の純化 J を図る「内的自我 J との対話に努め る荊苦に沿ち た表情を読み取ることができる。 この術苦に沿ちた ろおれんぞの生活の中には 世俗的な人間とは異なるろおれんぞ 固有の新たな生の方向が開けてくると言えよう。

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r奉教人の死」の芥川は、 原話のように、 既に制度化されてい る信徒の規範的な 生の 特質を確認しようとしているのではなく、 . に ~11) ペルグソン的思考の影響のもとに、 規範的な枠組みの中に収まり きらない無気味で不可解な人間存在の内奥を「内的自我」との対 話のもとに照射しながら、 生の 本源的な正体を 検証し ようとして いると営ってよかろう。 出自の謎や人間的弱点の露呈という状況 設定は、 こうし た認識志向を果すための必要不可欠の条件に外な ない。 第二は様々な不合理を抱え持つ現実世界の中で、 その不合理を あるがまま のものとして容認し、 深い自己成敗的な処置によって 自己の再生を図る内向的な生活姿勢である。すでに見てきたよう に、 伴天連やいるまん衆の「談合」による「破門 」という裁定は、 ことの真偽を合理的に岡査検討して判断したものとは 言えない。 ろおれんぞからの事情聴取を 行わず、 伴天速といるまん衆のみの 「談合」によって、 爺の訴えを一方的に容認する形の「破門」と いう裁定は、 寺院が町という 地域の「集団我」から排除し去ら れることなく、 敬虔な祈りの対象となる絶対的な権威機能を発抑 しつづけるべくとった自己成敗的な処骰と見ることができよう。 「御主の〈ぐろりや〉(栄光)に も関る事」という 「破門」理由 は、 本来、 傘張の翁の訴えの 正当性が立証されてはじめて成立す るものである。 傘張の翁が娘の言菜を信じてろおれんぞの姦淫の罪を寺院に訴 えに来た時、 ろおれんぞが「かう る上は」「 かつふつ云ひ訳の 致しやうがござない」と蹄める自己処置の仕方 にも、 同様の生活 意謙が拗いていると見ること ができる。 それは、 苔て 「^えけれ しや 〉の戸口に、 餓ゑ疲れてうち伏して 居った」のを 「伴天迎の 憐み」によ り「寺中に養はれる事となった J その恩義ある人を、 事実に反することとは言え、 自分の関わる事件によって苦境に陥 れる破目になった ことに貸任を感じ、 しかも、 寺院という―つの 生活域の「集団我」から排除し去られることな く生活するために 自己成敗的な処慨をとる生活意識である。しかし、 この生活意微 がろおれんぞの内的格闘のもとに徐々に変容していくことは見落 せないことである。 「兄弟のやうにして居った」し めおん が、 破門になって出て行 く「いたいけな」ろおれんぞの「美しい頻」を「欺かれたと云ふ 服立たしさ」から「拳を ふるうて、 した 、か」 「打」つ行為は、 神の意志を仲立ちとしないろおれんぞの弁明と同質のものである が、「 打」たれたろおれんぞが見 せる「御主も許させ給へ:; .. …。」と「わな、く声で祈」る対応はこれとは異質のものである。 ろおれんぞは神の意志を仲立ちとして人間的な自然情動に生きる しめおんの日常的生活意識を 超えた次元に立 ち、 しかも同時に、 「只心に神に科」る原話のマリンとは異なり、 人々に間こえる 「わなヽく声で祈」りながら共同生活者の日常的生活意故の中に 降り立ち、 神に祈りを搾げるに足る人間としての自己表示を行っ

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ているのである。 めおんが人間的な自然情動に忠実に生きる実 直な人間であるのに対し、 ろおれんぞは人間的な自然情動に根を 下ろ しながら、 同時に、「人間思惟の純化」を図る「内的自我」 との対話に生きる人間と言うことができる。「破門」になって寺 院を出て行く時の落日を背景としたろおれんぞの「とんと一天の 火熔の中に、 立ちきはまったゃう」な姿は、 この ような内的格闘 を頂ねるろおれんぞの昏迷と覚悟の混融する 生の苦悩が感党的に 定消化されたものと言えよう。 第三は生活共同体の 外部に 放逐されて、 貧苦、 飢餓、 疎略、 奮、 狼藉、 嘲笑、 熱慶ど、 悲惨な不幸に忍従し、 その苦悩に 満ちた生活の中で純化を果す自由意志の極致美としての死の美学 である。 悲惨な不幸を背負わされたろ おれんぞの内面は、「^さん た・ るちゃ〉に在った昔を忘れ」ない節揉と、「夜毎に闇たけて 人音も静まる頃」「住み瞑れた^さんた・ るちゃ〉へ、 御主^ぜ す・きりしと〉の御加護を 祈りまゐらせに詣で」る信仰心 によっ て表わされているが、 この節操と信仰心は制度化され儀式化され . た宗教行事に習慣的に拘束されて祈る権威主義者のものとは異質 の心根に拗くものである。 世問的に容認されている外在的価値基 準への信類が崩壊し、 自己自身の存在基盤を喪失しようとする危 機状況のもとで、 自己の存在帷証の獲得になお 努めようとする時、 既存の合理性からの脱却は避けられ ないものであったと見なけれ ばならない。 合理性からの脱却のもとにろおれんぞの新たな生の 方向を探ろうとする芥川にと って、 当時の知識人に多大の影孵力 を持った、 ベルグソン的「思惟方法の転換 J による「内的自我」 との徹底的対話は、 韮要な手掛りになっていたものと考えられる。 伴天連の「憐み」により、 疲労と飢餓のための「死」の危機よ り救済された時のろおれんぞは伴天迎の人格を通して神の加殿に 与かり、 寺院の中で始まる新たな生活では、 共同生活者との人間 的な触れ合いを通して、 神を信奉する制度化された諸形式を学ぴ 取り、 そして、 傘張の娘との色沙汰が昭に上り、 周囲の様々な誤 解が生じる状況下では、 ろおれんぞ固有の神の模索が始まったと 見てよかろう。 崇敬する伴天迎に破門され、 敬硲するしめおんからは鉄拳を受 け、 悲惨な不幸を背負わなければならなくなってからのろおれん ぞは、 その苦悩に満ちた忍従の生活が生み出す自己没入への内省 的生活の中で、 様々な外在的な拘束力を超脱し、 また、 諸要素を 分析的に整理していく知的合理性を拒否 し、 そして、「内的自我」 11-12-との限りない対話の末に、 己れ自身の最も深い ところで「単なる 存在者の把握たる ^知党〉とはいかなるアナロジーもゆるさぬ生 命の^意欲〉の能 動性と合こし、「自然の 創造作用そのもの」 の中で「つくられた もの」から「つくるもの J へと飛翔すること によって、「死 」の美学を完結させることができた と酋えるので はなかろうか。

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ろおれんぞの救助行為の形象的意味

ろおれんぞの救助行為はこのように生命的飛翔と「死」の美学 を支えとしたものに外ならない。誰の救助をも辟易 させるような 激しい火勢を、 傘張の翁、 傘張の娘、 町方の人、 しめおんという 複数人物の様々な対処姿勢を積み重ねることによって、 漸陥法的 に強閤化し、 そして結局は、 誰も救助を呆し得ない漱しい火勢の もとで困難な救助をろおれんぞ一人に成し遂げさせているのであ る。 問題は、 この救助行為を 成し遂げたろおれ んぞの飛期を、 「清らな二つの乳房」と「限れようすべもあるまじ」き「面輪」 の「やさしさ」と いう艶麗なイメージと、「あだかも 〈でうす〉 の御声が、 星の光も見れぬ返い空から、 伝はつて来るやう」な 「刹那の苺い恐しさ」をもって定培化していることである。 ろおれんぞの苦悩に溝ちた忍従の生活も、「彼」を追放した伴 天連たちへの怨恨に固執している限 り、 新たな生 を開示すること はあり得ない。ろおれんぞの命を賭した救助行為 は、 悲惨で孤独 な忍従生活の中で、 可能な限り伴天述や奉教人衆たちの不合理で 醜悪な生活意践から雌れ、 また、 日常的合理性やその合理性を踏 まえた理知的判断力の滲透を排除し、 そして、 己れ自身の内部の 最も深いところに鼓動する命の根源に身 を任せること により、 「つくられたもの」から「つくるもの」へと再生した新たな命の 行為に外ならない。 この「つくる もの」という一人の創造者とし てのろおれんぞの行為は、 伴天連や奉教人衆たちの不合理で醜悪 な存在悪としての要素を断罪すると同時に、 新たな人間的命への 再生を促す創造的力を発揮することは言うまでもない。 この一人 の創 造者 としてのろおれんぞを具体化していく過程で に留意 すぺきことは次の三点である。 第ーはマリンを苦しめた自分の罪科は「万死に当る」と甘って、 マリンの傍の地に伏して謝罪する原話の院長とは異なり、 自己批 判を一切見せない伴天述の生活姿勢である。伴天述は傘張の娘が 自分の罪を告白して前非を悔いる時、「悔い改むるものは幸ぢゃ ...。」と自分自身の 罪苦の痛みを抜きにして人様の罪の政断 者になるばかりか、 自分の裁断処匹の過失によって苦境に陥れた ろおれんぞの崇高な救助行為を「わが身の行供を、 御主^ぜす・ きりしと 〉とひとしくし奉らうず志はこの国の奉教人衆の中にあ つても、 類稀なる徳行でござる」と論評し ようとしてい る。 この 実質的な問屈処理の資任を免除されなが ら、 どこまでも祭司とし ての権威的な役割をいかめしく儀礼的に演じつづける日本的権威 機能の邸大不遜な御都合主義は、 創造者・ ろおれんぞの朕粛な裁 きを受ける対象のーつになっている と見てよかろう。 第二は「見られい」という伴天連の戸に、 しめおんや傘張の翁 ゃ硲教人衆が自己批判の痛苦を持たない伴天述の御都合主義的な 教郡姿勢に反発することなく、 指示されたろおれんぞの「玉のよ うに霧れて居る」

"m

らな二つの乳房」に眼をやりながら、「刹那

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の泊ナい恐しさ」を感受している問俎である。「利那の」は「はっ」 と瞬間的に直観する状態を表わしており、「雌い恐し さ」を喚ぴ 起こす「梢らな二つの乳屈」は、 媒実を見通すことができず、 卑 小なエゴイズムの托囲内で不遜にも人様を裁く人間たちの罪深い 存在性を煎い罪苦をもって知らしめるとともに、 純深で忠が商な魂 . のありようを心底深くで受けとめさせるものと焙することができ , る 。 節三は「風に吹かれる枇麦のやうに 、 誰 からともなく頭を垂れ て l 「 〈 ろれんぞ〉のまはり に脆 」<奉教人衆の 伐悔 姿勢である。 この時点における彼等の心には、「〈まるちり〉ぢゃ」と叫んだ時 の感動や代付の思いよりも罪苦や悔恨の気持が強く働いていたと 見なければならない。 彼等はすでに見てきたように、 悲惨な不幸 と孤独の中で再生した創造者・ろおれんぞの魂によって総て厳由 に裁かれ、 そして同時に、 新たな人161への阿生を促されているの である。 注(ll) 谷川健一氏は対談「黄昏時の異人たち」の中で、「まれぴと」 の条件として「容貌、 酋語などがふつうでないこ と、 遠くからく ること、 そして一定 の期間をおいてこなければいけない」ことを 挙げられ、 また、「生費」とか「人柱」という形で「殺されなが ら祝福を与える〈まれぴと〉もあり得ることを想定されているが` 晋作「弘法大師御利生記」(大 3、 未完)で「まれぴと」的弘法 大師の祝幅をアイロニカルな形で取り上げた芥川の「まれぴと」 に対する関心は、 ILi自の益と消らな美しさを備え、 しかも命を賭 して卯深き人々に祝福を与えるろおれんぞの形象に際 し、 大きく 作川していたと見てよかろう。 また、 f 手巾」や「おしの」にお いて、 知的な処理採作のもとに取り上げられた武士滸粘神は、 山 木常朝の「 5菜 陀」で問われている「死」の美学に凝縮さ れ、 ろお れんぞの死の決断に深く関わっていると国えよう。 「昭夜の海にも牲へようず煩悩心の空」は、 どこまでも祭司と しての権威的な役割をいかめしく儀礼的に派じつづける腺大な伴 天辿の制度化された日木的権威主義をはじめと し、 傘張の娘の性 的梢動に根を持つ執拗なエゴイズムと、 しめおんの友梢に拗く無 意識のエゴイズムと、 奉教人衆の無柑任な傍観者的エゴイズムの 交錯する日祁的世界であり、「一波をあげ」る状態はその様々な エゴイズムの交錯する空の支配力を避け、 人間の自由滋志の極致 であ る自らの意志による死の選択によって人間の存在悪としての エゴイズムに繋がるあらゆる価伯判断や利古関係を柑対化し、 し かも偶像化されたりすることのない瞬時の感動の中に生を完結さ せようとする行為を表わすものであ る。 そして、「水沫の中へ捕 へ」る「*出ぬ月の光」は、 悲惨な不幸と孤独の中で既存の価俯 体系や日常的合理性を超脱し、 己れ自身の内部の紋も深いところ に汲動する命の根源と一体化することによって一直観」する自己 む す び

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固有の新たな生を象徴するものである。 有島武郎は「クララの出家」(大6)におい て、 サパテイエの 「抱フランシス伝」に登楊する型女クララを姐材としながらも、 彼女の附女性から視点をずらし、 ペルグソンの「時間と自由」を 手掛りに個性的生の存在様態を見定めようとしているが、「奉教 人の死 j における芥川は、「型人伝」の把女マリナを主人公に設 定しながらも、 原話とは異質の「まれぴと」的祝福と「菜隠」的 死の美学と「ペルグソン」的直観を主要な形象モチーフとしなが ら、 自由意志の極致英たる「死」の美学を支えとした佃性的生の 検証を米そうとしていたと首えるのではなかろうか。 〈注〉 (1) 「が教人の死」(「ln釈と災代」附36.11137.4、●土文常) (2~)「芥川伯之介の本悧狙人伝ー「本教人の死 j と「じゅりあの・土n助』」 (上”b各午「ソフィア」昭 43 .12) (3) 「「な教人の死 j と「おぎん j ー翌肴物に関する一考を(梅光女学 院大学「は文学研究」五、 昭M.II ) (4) 「井川雌之介嘉教人の死」のテーマと「而り手 j と「主人公」につ いて」(笹泊友一編「キリスト教と文学

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」笠圃抒院、 昭50) (5)「「ぷ教人の死 j 沿ー^この国のうら芳い女〉のイメージ」(東海大学 「湘ltI文学」五•六^"併n方、 昭竹.3) -6)lh拙氏は「H本人の幼合、 出団我11最も典堕的なかたちで、 家族犯団 (岡山大学教ヤば部教授) のなかで深い心理関係に結ばれる成員たちが共通に分けもつ、 家族 我をfIiみlllす 」 (「日本的自我」〈む波""店、 昭翌)と論じておられ る 。 (7)11(2 ) (8 )「本孜人の死」(5切地弘・久作

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芳太郎•閲口安義紺「芥川沌之介研 究」明治術院、 昭56) (9) 「砂没の蜃公楼(上)ー芥川皿之介『冶教人の死 J 浙訳」(「文学」昭 邸・2 ) (10)竹内芳郎氏はペルグソン甘学の核心的特徴を「一りの価偵の転換」に ではなく 、「一切の忍惟方法の転換」にあるとされている。(「火在的 自111の日険ーニーチェからマルクスまで」〈現代息潮社、 昭38)) (11) 芥川はペルグソンの「時間と自illjの咎末に「付学の本でこんな美し い本を汝んだ事がない・・・・一; .. 」というか心後地の古さ込みをしている。 llfき込み日付は大正万年一1-Jlo (12)11(10 ) (13)「歴史油*」(新人物往来社、 平元・12 )

参照

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