『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について
著者
祝 ?
雑誌名
集刊東洋学
巻
114
ページ
67-86
発行年
2016-01-18
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129914
67 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝)
﹃祖堂集﹄における﹁亭前栢樹子﹂問答について
祝
釗
はじめに ﹁亭前栢樹子﹂問答とは﹁祖師西来意﹂ ︵達磨が西方から や っ て き た 意 図 ︶ を め ぐ り、 唐 末 の 禅 僧 で あ る 趙 州 従 諗 ︵ 七 七 八∼ 八 九 七 ︶ と そ の 弟 子 と の 間 で 行 わ れ た 問 答 の 一 つ で あ る。 そ の 内 容 は、 ﹃ 趙 州 録 ﹄ や﹃ 無 門 関 ﹄ に よ っ て 現代に知られるが、現存する最も古いかたちの問答は、五 代南唐保大十年︵九五二年︶に、泉州招慶寺の静・ 筠 とい う二人の禅師によって編纂された﹃祖堂集﹄に掲載された ものである。その問答は次のようである。 聞 く、 ﹁ 祖 師 が 西 方 か ら や っ て 来 た 意 図 と は 何 で し ょ う か。 ﹂ 師︵ 趙 州 従 諗 ︶ が 言 う、 ﹁ 庭 先 の 柏 樹 だ。 ﹂ 僧 が言う、 ﹁和尚、境によって示さないで頂きたい。 ﹂師 が言う、 ﹁わしは境によって示していない。 ﹂僧が言う、 ﹁ で は、 祖 師 が 西 方 か ら や っ て 来 た 意 図 と は 何 で し ょ う か。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ 庭 先 の 柏 樹 だ。 ﹂︵ 問、 ﹁ 如 何 是 祖 師西来意。 ﹂師云、 ﹁亭前栢樹子。 ﹂僧云、 ﹁和尚莫将境 示人。 ﹂師云、 ﹁我不将境示人。 ﹂僧云、 ﹁如何是祖師西 来 意。 ﹂ 師 云、 ﹁ 亭 前 栢 樹 子。 ﹂︶ ︵﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第 十 八・ 趙州和尚、七八九頁︶ この記載では、趙州の答えが﹁亭前栢樹子﹂と表記され ているが、後に成立した﹃趙州録﹄や﹃無門関﹄など宋代 以降の禅籍には ﹁庭前柏樹子﹂ と表記される。 本稿では、 ﹁亭﹂ を﹁ 庭 ﹂ の 通 仮 字 と し て 考 え、 ﹁ 亭 前 ﹂ は﹁ に わ さ き ﹂ と 訳出し、 ﹃祖堂集﹄の記載を指す時のみ、 ﹁亭前栢樹子﹂問 答と表記し、それ以外の記載や、あるいは一般的にこの問 答を指すときには﹁庭前柏樹子﹂問答と表記する。 宋代以降の禅籍において、当時の禅師がしばしばこの問 答を取り上げていた。そのことから、宋代以降、この問答 が禅師たちに重視されていたことは明白である。 たとえば、 集刊東洋学 第一一四号 平成二十八年一月 六七 −八六頁68﹃ 無 門 関 ﹄ で は、 無 門 慧 開︵ 一 一 八 三∼ 一 二 六 〇 ︶ は こ の 問答を次のように取り上げた。 趙州は、ある僧が﹁祖師が西方からやって来た意図と は 何 で し ょ う か ﹂ と 聞 い た 時、 ﹁ 庭 先 の 柏 樹 だ ﹂ と 答 え た。 無 門 慧 開 が 言 う、 ﹁ も し 趙 州 の 答 え た と こ ろ を ピタリと悟るならば、過去の釈迦や未来の弥勒仏はお 前たちにとっては存在しない。 ﹂頌して言う、 ﹁言葉は ものそのものを開示することができず、言語は禅師の 真意に当たらない。言葉をそのまま真実として受け取 る人は死に、句にとらわれる人は真意を見失う。 ﹂︵趙 州因僧問、 ﹁如何是祖師西来意。 ﹂州云、 ﹁庭前柏樹子。 ﹂ 無門曰、 ﹁若向趙州答処見得親切、 前無釈迦、 後無弥勒。 ﹂ 頌曰、 ﹁言無展事、語不投機。承言者喪、滞句者迷。 ﹂︶ ︵﹃ 無 門 関 ﹄ 第 三 十 七、 ﹃ 大 正 新 脩 大 蔵 経 ﹄ 第 48冊、 訳 の一部は平田高士﹃無門関﹄ ︵禅の語録 18、筑摩書房、 一九六九年︶を参照した。 ︶ 先に提示した﹃祖堂集﹄の﹁亭前栢樹子﹂問答と比べる と、 こ こ で 無 門 慧 開 は、 最 初 の 二 句 の み を 引 用 し て い る。 その後、彼は趙州の真意を悟れば釈迦や弥勒仏等の教示に とらわれなくなると言い、また言葉に執着すれば真意を見 失うと頌した。要するに、無門慧開は、言葉によらずに直 接に禅師の真意を悟るという立場に立ってこの問答を引用 し て い る と 考 え ら れ る。 こ の 立 場 に 立 っ て い る か ら こ そ、 無門はただ最初の二句しか引用しなかったのだろう。 こ の よ う に、 宋 代 の 禅 師 が 禅 問 答 を 取 り 上 げ る 際 に は、 修行の指導者として、弟子たちを解脱させるという目的を 有する。あくまでもその問答を借りて、 自分の見解を示し、 弟子を悟らせるわけであり、こうした立場では、唐・五代 の問答の文脈に従って解説するのは必ずしも必要ではない と考えられる。しかし、禅思想史を検討する際に、晩唐で 活躍していた趙州の考えを理解するためにも、あるいはこ の問答を利用していた宋代の禅師たちの思想を理解するた め に も、 ま ず、 ﹁ 庭 前 柏 樹 子 ﹂ 問 答 の 意 味 そ れ 自 体 を 解 読 する必要があると思われる。 と こ ろ で、 ﹁ 庭 前 柏 樹 子 ﹂ 問 答 に 関 す る 代 表 的 な 研 究 と しては小川隆氏の﹁庭前の栢樹子﹂が挙げられる。小川氏 は﹁唐代の禅問答を唐代の禅僧たちの問題意識と用語法に 沿って、有意味な活きた対話として読んでみ る ︶1 ︵ ﹂と主張し な が ら も、 主 に 宋 代 の﹃ 趙 州 録 ﹄ に お け る﹁ 庭 前 柏 樹 子 ﹂ 問答の記載を基点として、特に﹁本分事﹂という言葉を中 心として分析を行った。しかし、後述するとおり、五代の ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 記 載 と、 ﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 に は 相 違 点 が あ り、 こ の 問 答 に 関 し て は ま だ 検 討 す る 余 地 が あ る と 考 え ら れ る。 そ こ で 本 稿 で は、 小 川 氏 の 立 場 を 離 れ、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ に
69 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) おける﹁亭前栢樹子﹂問答の記載を考察の出発点とし、六 句の問答を三つの一問一答に分けて質問と回答の背景及び 二 人 の 意 図 を 考 え た 上 で、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 文 脈 に お い て﹁ 亭 前栢樹子﹂問答の意味を解読してみたい。 本稿で ﹃祖堂集﹄ を使用する際には、 ﹁大韓民国海印寺版﹂ ︵ 禅 文 化 研 究 所、 一 九 九 四 年 ︶ を 底 本 と す る が、 便 宜 的 に 孫 昌 武・ 衣 川 賢 次・ 西 口 芳 男 点 校﹃ 祖 堂 集 ﹄︵ 中 国 仏 教 典 籍選刊、中華書局、二〇〇七年︶の頁数を示す。なお、条 目の分類、異体字及び衍字への指摘等に関しては、中華書 局本を適宜参考する。 一 ﹃祖堂集﹄の記載と﹃趙州録﹄の記載 本 節 で は、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 記 載 と﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 と の 相 違点を確認する。 南 唐 保 大 十 年 に 成 立 し た﹃ 祖 堂 集 ﹄ は、 ﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ 問答の現存する最も古い記録である。だが、今までの研究 で 多 用 さ れ て き た﹃ 趙 州 録 ﹄ は、 ﹃ 古 尊 宿 語 録 ﹄ の 一 部 と して始めて出現したものに他ならない。その ﹃古尊宿語録﹄ の 成 立 に 関 し て は、 ﹃ 雲 臥 紀 譚 ﹄ 巻 上 の 記 載 ︶2 ︵ に よ る と、 紹 興年間 ︵一一三一∼一一六二︶ の初期に初めて刊行された。 また、福州鼓山寺の宋刊本を見た無著道忠の﹃古尊宿語要 目録﹄によると、初刻本所収二十二部の一つとして、趙州 の語録が巻一に収録されていたことが分か る ︶3 ︵ 。これによっ て、 ﹃ 趙 州 録 ﹄ は 南 宋 に 至 っ て﹃ 古 尊 宿 語 録 ﹄ の 一 部 と し てまとめられたものであると判断できる。 こ の よ う な 成 立 過 程 を 経 た﹃ 趙 州 録 ﹄ に お い て、 ﹁ 庭 前 柏樹子﹂問答は以下のように記される。 師︵ 趙 州 ︶ が 法 堂 に 出 て、 大 衆 に 説 法 す る、 ﹁ こ の こ とは明らかだ。数量分別を超えた大人もここから出る ことができない。わしが 溈 山に行ったおり、ある僧が 聞いた、 ﹃祖師が西方からやって来た意図とは何でしょ うか。 ﹄ 溈 山が言った、 ﹃わしにあの腰かけを持ってこ い。 ﹄ も し 本 当 の 禅 師 な ら ば、 本 分 事 に よ っ て 人 を 導 くべきだ。 ﹂その時、ある僧が 聞く、 ﹁祖師が西方から やって来た意図とは何でしょうか。 ﹂師が言う、 ﹁庭先 の柏樹だ。 ﹂学 人 が言う、 ﹁和尚、境によって示さない で頂きたい。 ﹂師が言う、 ﹁わしは境によって示してい ない。 ﹂言う、 ﹁祖師が西方からやって来た意図とは何 でしょうか。 ﹂師が言う、 ﹁庭先の柏樹だ。 ﹂ ︵ 師 上 堂 謂 衆曰、 ﹁此事的的、没量大人出這裏不得。老僧到 溈 山、 僧問、 ﹃如何是祖師西来意。 ﹄ 溈 山云、 ﹃与我将床子来。 ﹄ 若是宗師、須以本分事接人始得。 ﹂時有僧 問、 ﹁如何是 祖師西来意。 ﹂師云、 ﹁庭前柏樹子。 ﹂学云、 ﹁和尚莫将
70 境示人。 ﹂師云、 ﹁我不将境示人。 ﹂云、 ﹁如何是祖師西 来意。 ﹂師云、 ﹁庭前柏樹子。 ﹂︶ ︵﹃趙州和尚語録﹄巻上 、 三五八 頁 ︶4 ︵ ︶ 右の記載と本稿の冒頭に挙げた﹃祖堂集﹄における﹁亭 前栢樹子﹂問答の記載とを対比すると、右の記載の傍線部 が﹃ 祖 堂 集 ﹄ の﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ 問 答 に 相 当 す る。 そ し て、 現存する資料を見る限り、右の﹃趙州録﹄と同じ形の記載 を始めて示した書物は﹃宗門統要集﹄である。椎名宏雄 氏 ︶5 ︵ に よ れ ば、 ﹃ 宗 門 統 要 集 ﹄ は 北 宋 元 佑 八 年︵ 一 〇 九 三 年 ︶ までに宗永によって編集された。それ以前に成立した﹃汾 陽無徳禅師語 録 ︶6 ︵ ﹄や﹃宗門 摭 英 集 ︶7 ︵ ﹄には﹃祖堂集﹄の記載 と同じ形の﹁庭前柏樹子﹂問答が収録されている。 ところで、ここで注目したいのは傍線部以前の部分であ る。 ﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 で は、 前 半 部 分 と﹁ 庭 前 柏 樹 子 ﹂ に 関わる部分すなわち傍線部が趙州の一つの説法としてまと め ら れ て い る。 一 方、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ に お い て は、 こ の 前 半 部 分の原型と考えられる問答は以下の如く、巻第十八趙州和 尚章に記されるものであり、その記載は﹁亭前栢樹子﹂問 答とは離れたところにある。 師︵趙州︶ が 溈 山に聞く、 ﹁祖師の意とは何でしょうか。 ﹂ 溈 山は侍者を呼ぶ、 ﹁腰かけを持ってこい。 ﹂師は云う、 ﹁ こ こ の 住 持 に な っ て 以 来、 ま だ 本 物 の 禅 師 に 出 会 っ たことがない。 ﹂その時ある人が聞く、 ﹁もし出会った らどうしますか。 ﹂師が云う、 ﹁千鈞の石弓はハツカネ ズミを射るためのものじゃない。 ﹂︵師問 溈 山﹁如何是 祖師意。 ﹂ 溈 山喚侍者、 ﹁将床子来。 ﹂師云、 ﹁自住已来、 未 曾 遇 著 一 個 本 色 禅 師。 ﹂ 時 有 人 問、 ﹁ 忽 遇 時 如 何。 ﹂ 師 云、 ﹁ 千 鈞 之 弩、 不 為 奚 鼠 而 発 機。 ﹂︶ ︵﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第十八・趙州和尚、七九〇頁︶ 右の記載を見ると、質問者などの違いを除けば、この記 載 と﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 と は、 ど ち ら も﹁ 祖 師︵ 西 来 ︶ 意 ﹂ に関する質問に対して 溈 山が﹁腰掛けを持ってこい﹂と答 えたものである。 こ の 点 を 踏 ま え て、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 記 載 と﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 と の 異 同 を 整 理 す る と、 ﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 は﹃ 祖 堂 集 ﹄ における趙州と 溈 山との問答及び﹁亭前栢樹子﹂問答を組 み合わせ、更に別要素を補って全体を構成していると言っ ても良いであろう。 ﹃趙州録﹄がこの問答について、 なぜこうした構成をとっ た の か は、 本 稿 で は 触 れ な い。 た だ し、 ﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 の文脈を分析すると、最初に趙州が弟子たちに対して説法 を行う場面で、趙州はまず﹁この事は明らかだ。数量分別 を超えた大人もここから出ることができない﹂と話した上 で、 溈 山 と の 話 を 挙 げ、 ﹁ 本 当 の 禅 師 な ら ば 本 分 事 に よ っ
71 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) て人を導くべきだ﹂と主張した。すると、この一連の話を 聞 い た あ る 僧 は、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ に つ い て 趙 州 に 質 問 し、 趙 州 が﹁ 庭 前 柏 樹 子 ﹂ と 答 え て か ら、 ﹁ 庭 前 柏 樹 子 ﹂ に 関 わる部分がようやく始まっている。このような文脈に対し て、 小 川 氏 は﹁ こ こ に 言 う﹃ 此 の 事 ﹄ も﹃ 這 裏 ﹄ も、 ﹃ 本 分事﹄の言いかえである。だが、趙州はまるで、 溈 山の答 えでは﹃本分事﹄による接化になっていない、そう言わん ば か り の 口 ぶ り で あ る ﹂ と い う 解 説 を 示 し、 ﹁ 趙 州 の こ の 言 葉 を 聞 い て、 ひ と り の 僧 が 進 み 出 る、 ﹃ 祖 師 西 来 意 と は 如 何 な る も の で ご ざ い ま す か ﹄。 そ こ ま で お お せ な ら、 こ の自分をみごとその ﹃本分事﹄ によって接化して頂きたい﹂ と い う 理 解 を 示 し た。 更 に、 ﹁ こ こ に お い て 問 答 全 体 は、 決してナンセンスなコンニャク問答にはなっていない。そ れ は 右 の よ う に、 ﹃ 本 分 事 ﹄ と い う 主 題 を め ぐ る、 有 意 味 な 脈 絡 を も っ た 対 話 と し て こ そ 解 さ れ る べ き も の で あ っ た﹂と指摘し た ︶8 ︵ 。 ﹃ 趙 州 録 ﹄ の 記 載 の 文 脈 に 従 え ば、 確 か に 小 川 氏 の 指 摘 は 妥 当 だ と 思 わ れ る。 し か し な が ら、 ﹃ 趙 州 録 ﹄ の 型 は 宋 代に至ってから出現したものである。最も古い記載である ﹃祖堂集﹄における﹁亭前栢樹子﹂問答には、 ﹃趙州録﹄の よ う な、 弟 子 た ち に 対 す る 趙 州 の 説 法 と い う シ チ ュ エ ー ションを提示した記述もなく、趙州が弟子に対して﹁本分 事﹂を明確に提示した内容もない。 ﹃祖堂集﹄の記載では、 突然、僧が﹁祖師西来意﹂について聞き、趙州が﹁亭前栢 樹 子 ﹂ と 答 え た こ と を 発 端 と し て、 ﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ 問 答 が 展開しているのである。 では、果たして趙州と僧との二人はそれぞれにどのよう な背景でどのような意図で問答を進めていただろうか。本 稿では、こうした疑問を念頭に置いた上で、 ﹁亭前栢樹子﹂ 問 答 を 解 読 す る た め に、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ に 見 え る 他 の 問 答 を 参 照し、その意味を明らかにしていきたい。 二 ﹃祖堂集﹄における﹁祖師西来意﹂問答 本節では、次の﹁亭前栢樹子﹂問答の最初の一問一答を 解 読 す る た め に、 ま ず﹃ 祖 堂 集 ﹄ に お け る﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ をめぐる問答の背景を明らかにしたい。 聞 く、 ﹁ 祖 師 が 西 方 か ら や っ て 来 た 意 図 と は 何 で し ょ う か。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ 庭 先 の 柏 樹 だ。 ﹂︵ 問、 ﹁ 如 何 是 祖 師 西 来 意。 ﹂ 師 云、 ﹁ 亭 前 栢 樹 子。 ﹂︶ ︵﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第 十八・趙州和尚、七八九頁︶ 具体的には、馬祖道一の﹁祖師西来意﹂に対する解釈を 検討し、そこから馬祖の弟子や孫弟子の世代の禅師による ﹁祖師西来意﹂問答の展開を分析して、特に﹁祖師西来意﹂
72 問答における質問者の要求及び師が直面する課題の変化を 明らかにする。その上で﹁亭前栢樹子﹂問答における趙州 の最初の対応を検討していきたい。 ︵ 1︶ 馬祖道一の﹁祖師西来意﹂解釈 ま ず、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ と い う 言 葉 に つ い て 吟 味 す る と、 中唐期に活躍した馬祖道一︵七〇九∼七八八︶が、すでに ﹁祖師西来意﹂の意味を明確に示しており、 その内容は﹃祖 堂集﹄において次のように記録される。 ︵馬祖が︶常に大衆に説法する、 ﹁皆、今それぞれに自 分 の 心 が 仏 だ と 信 ぜ よ。 こ の 心 こ そ が 仏 心 だ。 故 に、 達 磨 大 師 は 南 天 竺 国 か ら 来 て、 上 乗 一 心 の 法 を 伝 え、 お前たちを悟らせようとした。また、度々楞伽経の経 文を引いて、衆生の心地をしるしづけた。お前たちが 顛倒してこの一心の法が一人一人に有ることを信じな い と 危 惧 し た か ら な の だ。 ゆ え に 楞 伽 経 に 言 う、 ﹃ 仏 語 に 心 も て 宗 と 為 し、 無 門 も て 法 門 と 為 す ︶9 ︵ 。﹄ ﹂︵ 毎 謂 衆 曰、 ﹁ 汝 今 各 信 自 心 是 仏、 此 心 即 是 仏 心。 是 故 達 摩 大師従南天竺国来、伝上乗一心之法、令汝開悟。又数 引楞伽経文以印衆生心地。 恐汝顛倒不自信此一心之法、 各各有之。故楞伽経云、 ﹃仏語心為宗、 無門為法門。 ﹄﹂ ︶ ︵﹃祖堂集﹄巻十四・江西馬祖、六一〇頁︶ ここで、馬祖は自分の心こそが仏だと示した上で、達摩 が天竺から来た意図とは、この上乗一心の法を伝え、これ を人々が信じないことを恐れて楞伽経の言葉を示して人々 を悟らせようとしたのだと説明した。この時の馬祖から見 た祖師西来意とは、 まさに ﹁即心即仏﹂ ︵心こそが仏である︶ をその内容とすることがわか る ︶10 ︵ 。 馬 祖 の﹁ 即 心 即 仏 ﹂ に 関 し て、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 次 の 一 段 は その真意を検討するための手がかりを示す。 伏牛和尚が馬祖道一のために手紙を持って師︵慧忠国 師 ︶ の と こ ろ に 行 っ た。 師 が 言 う、 ﹁ 馬 師 匠 は 何 の 法 を人々に示したのか。 ﹂答えて言う、 ﹁即心即仏です。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ 何 と い う 言 い 様 だ。 ﹂ ま た 聞 く、 ﹁ 他 に も 何かの話があるのか。 ﹂答えて言う、 ﹁非心非仏もあり ます。また、心ではなく、仏ではなく、物ではないと も言っています。 ﹂師が笑って言う、 ﹁まあまあだね。 ﹂ 伏牛が却って聞く、 ﹁こちらではどうなんでしょうか。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ 三 点 は 流 水 の よ う で、 曲 線 は ま る で 稲 を 刈る鎌だ。 ﹂︵伏牛和尚与馬大師送書到師処。師問、 ﹁馬 師説何法示人。 ﹂対曰、 ﹁即心即仏。 ﹂師曰、 ﹁是什摩語 話。 ﹂又問、 ﹁更有什摩言説。 ﹂対曰、 ﹁非心非仏。亦曰 不 是 心、 不 是 仏、 不 是 物。 ﹂ 師 笑 曰、 ﹁ 猶 較 些 子。 ﹂ 伏 牛 却 問、 ﹁ 未 審 此 間 如 何。 ﹂ 師 曰、 ﹁ 三 点 如 流 水、 曲 似
73 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) 刈禾鎌。 ﹂︶ ︵﹃祖堂集﹄巻第三・慧忠国師、一七二頁︶ この一段から、馬祖は﹁即心即仏﹂以外に、また﹁非心 非仏﹂や﹁不是心、不是仏、不是物﹂とも言っていたこと が分かる。 ﹁即心即仏﹂の他に﹁非心非仏﹂等を説くのは、 人々が﹁即心即仏﹂という言葉に執着することを恐れたか らと思われ る ︶11 ︵ 。慧忠国師︵六七五∼七七五︶もこの点を評 価している。しかし、右の一段で、質問者は馬祖のこの意 図を理解せず、ただ﹁即心即仏﹂や﹁非心非仏﹂及び﹁不 是心、不是仏、不是物﹂という言葉を覚えこんでいただけ である。馬祖の言葉の意味について聞かれた慧忠は、文字 当 て の な ぞ な ぞ を 使 っ て﹁ 心 ﹂ と 示 し た。 そ こ に は、 ﹁ 即 心即仏﹂のような標語ではなく、流水や稲を刈る鎌のよう に生きて機能している心を提示する意図が含まれていると 考えられる。 馬祖のこの一連の発言に対して、馬祖の弟子である南泉 普願︵七四八∼八三四︶は次のようにコメントした。 江西和尚︵馬祖︶が言った﹁即心即仏﹂は、ただ一時 的な語であり、外において求める病を止めるものであ り、空っぽの握りこぶしや、黄金に見せかけた黄色い 葉 で 赤 子 を 泣 き 止 ま せ る よ う な 言 葉 だ。 し た が っ て、 ﹁不是心、 不是仏、 不是物﹂ と言った。今たくさんの人々 が心を仏と喚び、智を道と認識して、見聞覚知の全て を仏としている。このようなことは演若達多が自分の 顔があるにも関わらず顔を探すような事だ。仮に見つ かっても、 またそれはあなたの本来の仏ではない。 ﹁即 心即仏﹂というならば、まるで兎や馬に角が生えてく る よ う で、 ﹁ 非 心 非 仏 ﹂ と い う な ら ば ま る で 牛 や 羊 に 角が生えていないようだ。 あなたの心がもし仏ならば、 ただそれだと強調しなくてもいい、あなたの心がもし 仏 で な け れ ば、 そ れ を 否 定 し な く て も い い。 ︵ 江 西 和 尚 説﹁ 即 心 即 仏 ﹂、 且 是 一 時 間 語、 是 止 向 外 馳 求 病、 空拳黄葉止啼之詞。所以言﹁不是心、 不是仏、 不是物。 ﹂ 如 今 多 有 人 喚 心 作 仏、 認 智 為 道、 見 聞 覚 知 皆 云 是 仏。 若如是者、演若達多将頭覓頭、設使認得、亦不是汝本 来仏。若言即心即仏、如兎馬有角。若言非心非仏、如 牛羊無角。 你 心若是仏、不用即他。 你 心若不是仏、亦 不用非他。 ︶︵ ﹃祖堂集﹄巻第十六 ・ 南泉和尚、 七〇五頁︶ 南泉の見解を整理すると、馬祖が言った﹁即心即仏﹂は あくまでも赤子を泣き止ませるような言葉であり、馬祖が このように言ったとしても、それは人々を自分の外に禅師 の 言 葉 を 求 め る の を 止 め さ せ る 一 時 的 な 措 置 で し か な い。 しかしながら、人々は馬祖の言葉を教条視していた。南泉 から見ると、人々それぞれに﹁祖師西来意﹂がすでにある にも関わらず、ひたすら自分の外に禅師の言葉を求めてい
74 るのは無駄なことであり、仮に禅師の言葉をもらってもそ れは本来の仏ではない。馬祖が言った﹁即心即仏﹂や﹁非 心非仏﹂等の言葉はただ余計なものに過ぎない。心を強調 するのと否定するのとは両方共に本来の仏を指すことでは ない。もし自分自身の心が仏であることを悟ったら、わざ わ ざ 心 を 強 調 し な く て も︵ 即 心 即 仏 と 言 わ な く て も ︶、 あ る い は 否 定 し な く て も︵ 非 心 非 仏 と 言 わ な く て も ︶ 良 い、 という見解である。 さて、ここで、馬祖の段階における﹁祖師西来意﹂につ いて整理すると、まず、馬祖は﹁祖師西来意﹂とは﹁即心 即 仏 ﹂︵ 心 こ そ が 仏 だ ︶ を そ の 内 容 と す る と 示 し た。 後 に 南泉が示したように、心が仏であるならば、当然、外にお いて﹁祖師西来意﹂を求める必要はないわけである。しか し な が ら、 人 々 は た だ﹁ 即 心 即 仏 ﹂ と い う 言 葉 に 注 目 し、 ひたすら禅師にその意味を尋ねていた。そのため、馬祖は また﹁非心非仏﹂と言って人々を言葉への執着から解脱さ せようとしたが、人々は﹁非心非仏﹂に執着した。この状 況 で は、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ に つ い て 尋 ね ら れ た 際 に、 禅 師 が 心を強調すれば相手をそれに執着させ、もしそれを防ぐた めに﹁非心非仏﹂と言えば、また相手を﹁非心非仏﹂その ものに注目して執着させる恐れがあったと思われる。馬祖 のこの段階では、 ﹁祖師西来意﹂について尋ねられた際に、 どのように対応すれば相手を執着させないのかというのが 禅師にとって課題になった。 ︵ 2︶ ﹁祖師西来意﹂問答の展開 この課題に対して、馬祖の孫弟子に当たる石霜性空︵生 卒不詳︶ は次のように教示を拒否するという対応を示した。 僧 が 聞 く、 ﹁ 祖 師 が 西 方 か ら や っ て 来 た 意 図 と は 何 で しょうか。 ﹂師︵石霜︶が言う、 ﹁例えば、ある人が百 丈ある井戸の中にいて、お前が一寸の縄も借りずにそ の 人 を 救 出 で き る な ら、 わ し は 西 来 意 に つ い て 教 え る。 ﹂︵ 僧 問、 ﹁ 如 何 是 祖 師 西 来 意。 ﹂ 師 曰、 ﹁ 如 人 在 百 丈井中、不假寸縄出得此人、我則為答西来意。 ﹂︶ ︵﹃祖 堂集﹄巻第十六・石霜性空和尚、七三九頁︶ 縄を借りずに井戸にいる人間を救出するのはとても無理 であることは言うまでもない。ここで、石霜は﹁祖師西来 意﹂への返答を拒否しようとしたと考えられる。しかしな がら、その拒否に対して、僧は次のように反論した。 僧 が 言 う、 ﹁ そ の よ う な こ と な ら、 湖 南 で は 近 頃、 暢 和 尚 も 人 々 に あ れ こ れ 言 っ て い る。 ﹂ 師 は 沙 弥 を 呼 ん で、 ﹁この死体を引きずり出してしまえ﹂という。 ︵僧 云、 ﹁与摩則湖南近日亦有暢和尚為師僧東話西話。 ﹂師 喚沙弥、 ﹁ 拽 出這個死屍著。 ﹂︶ ︵同上、この一段は前段
75 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) の続きである︶ この僧はおそらく各地を回って﹁祖師西来意﹂に対する 禅師たちの拒否を色々と聞いていたのであろう。僧にとっ て、石霜の対応は暢和尚等の他の禅師と違いはなく、あり きたりな拒否に過ぎなかった。この僧が﹁祖師西来意﹂を 尋ねて求めたのは、自分を悟らせる答えであり、ありきた りな拒否ではない。石霜は﹁祖師西来意﹂に対する教示に 相 手 を 執 着 さ せ な い た め に 教 示 を 拒 否 し た わ け で あ る が、 一 方、 僧 は 石 霜 か ら 拒 否 さ れ て も 自 分 の 過 ち を 認 識 せ ず、 師の答えに不満を述べた。そこで石霜は、こうした僧は他 人の言葉ばかり追い求めている死体にすぎないと批判した のである。 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ に つ い て 尋 ね ら れ た 際 に、 ど う す れ ば 相 手を執着させないのかという課題に対して、馬祖の次世代 の禅師は、無理なことを要求し、あるいは後述のように沈 黙によって教示を拒否するという対応を提示した。それら の禅師は拒否によって他人に﹁祖師西来意﹂を尋ねるのを やめさせ、それは自分自身に問うべきことだと意識させる ためであったと考えられる。しかし、 質問者にしてみれば、 師に拒否されても、自分が求めること、つまりどうすれば 悟ることができるのかということについて何の解決方法も 得ていない。そのため、質問者はこの疑問を解決できぬま ま、各地を回って﹁祖師西来意﹂について尋ねるしかなく なるのである。この状況に対して、禅師たちは教示を拒否 するだけでなく、何らかの対応で質問者を悟りに導かなけ ればならない。この世代の禅師にとって、こうした新たな 課題が出現した。 この課題を解決するために、禅師たちはどのような方法 を考えたのか。次の一段には考察の糸口が示されている。 またある日、翠微が法堂を練り歩いている時、師︵投 子 大 同 ︶ が 近 づ い て 礼 拝 し、 聞 い て 言 う、 ﹁ 達 摩 が 天 竺 か ら 来 た 意 図 に つ い て、 和 尚 は ど う 人 に 示 し ま す か。 ﹂ 翠 微 は し ば ら く 止 ま っ て い る。 師 は ま た 進 ん で 言う、 ﹁和尚の教えをお願いします。 ﹂翠微が答えて言 う、 ﹁ い か ん。 ま た 二 杯 目 の 柄 杓 の 汚 水 を か け ら れ る こ と を 欲 し て ど う す る の か。 ﹂ 師 は こ の 言 葉 で 翠 微 の 意図を理解して、礼をして下がろうとする。翠微は言 う、 ﹁ 逃 げ か く れ る な。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ 時 機 が 来 た ら 根 も苗も自ら生えてくる。 ﹂︵又因一日、翠微在法堂行道 次、 師 而 近 前 接 礼、 問 曰、 ﹁ 西 来 密 旨、 和 尚 如 何 指 示 於 人。 ﹂ 翠 微 駐 歩 須 臾。 師 又 進 曰、 ﹁ 請 和 尚 指 示。 ﹂ 翠 微答曰、 ﹁不可。事須要第二杓悪水漿 潑 作摩。 ﹂師於言 下 承 旨、 礼 謝 而 退。 翠 微 云、 ﹁ 莫 挅 却。 ﹂ 師 曰、 ﹁ 時 至 根苗自生﹂ 。︶ ︵﹃祖堂集﹄巻第六・投子和尚、二八〇頁
76 ∼二八一頁︶ 投子大同︵八一九∼九一四︶の質問に対して、翠微はま ず沈黙した。この沈黙は教示を拒否する意思を表すと考え られる。しかし、投子は再び翠微に教えを求めた。それに 対して、翠微がふたつ目の柄杓の汚水を求めることだと述 べたのは、もともと他者に﹁祖師西来意﹂について尋ねて はならないのだが、再び尋ねるのはより大きな過ちだ、と いう意図を込めていたのではないか。そこで、投子は翠微 の意図を察して一礼をして下がろうとしたが、翠微は投子 が 何 を 理 解 し て 下 が ろ う と し た の か を 説 明 す る よ う 求 め た。 そ こ で、 投 子 は す で に 翠 微 の 意 図 を 理 解 し て、 ﹁ 祖 師 西来意﹂ は分かる時には自ずと分かると答えたのであった。 右の一段において、翠微の沈黙は教示を拒否する意思を 表したものの、それでは投子を悟らせることができなかっ た。投子は、翠微の拒否した意図を理解しているかも知れ ないのだが、拒否が自分を悟らせるものではないため、引 き続き翠微に尋ねるしかなかった。だが、二度目の質問に 対しても、翠微はまた直接に教えようとはせず、喩え話を 用いて翠微の過ちを指摘した。かくして、投子はようやく 翠微の真意を理解したのである。 こ こ に 至 っ て、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ 問 答 で は、 質 問 者 は ま ず 禅師の対応に対して不満を述べ、ついで自分を悟らせて欲 しいという要求を重ねて表明している。一方、禅師は質問 者の重ねての要求に再び対応し、 相手を言葉に執着させず、 しかも悟りに導かなければならない。 ﹃祖堂集﹄において、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ 問 答 は、 こ の よ う に 展 開 し、 自 分 を 悟 ら せ る要求を有する僧と相手を執着させずに悟りに導く課題を 有する禅師との戦いの場へと成熟した。 ︵ 3︶ ﹁祖師西来意﹂の質問に対する趙州の対応 こうした戦いの場を背景にして、僧の﹁祖師西来意﹂の 質問に対して、趙州はどのように対応していたのか。この 疑問に関して、まず、次の一段からは﹁祖師西来意﹂の質 問に対する趙州の対応方法が伺える。 聞く、 ﹁︵祖師が︶西方からやって来た意図とは何です か。 ﹂師︵趙州︶が言う、 ﹁真冬の寒さ厳しき折⋮ ⋮ ︶12 ︵ ﹂。 あ る 人 が こ の 話 を 雲 居 に 示 し て、 聞 く、 ﹁ 趙 州 が あ の ように言ったのはどんなつもりですか。 ﹂雲居が言う、 ﹁冬ならあり、 夏なら無い。 ﹂僧がこの話を師に示した、 ﹁ 雲 居 が あ の よ う に 言 っ た の は ど ん な つ も り で す か。 ﹂ 師はこれにちなんで偈を作って、 ﹁石橋の南、 趙州の北、 その中に観音や弥勒がいる。祖師は片方の 靴 ︶13 ︵ を残した が、 ︵その祖師の姿は︶今でも見つけられない。 ﹂︵問、 ﹁ 如 何 是 西 来 意。 ﹂ 師 云、 ﹁ 仲 冬 厳 寒。 ﹂ 有 人 挙 似 雲 居、
77 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) 便問、 ﹁只如趙州与摩道、 意作摩生。 ﹂居云、 ﹁冬天則有、 夏月則無。 ﹂僧挙似師、 ﹁只如雲居与摩道、意作摩生。 ﹂ 師因此便造偈曰、 ﹁石橋南、趙州北、中有観音有弥勒。 祖師留下一隻履、直到如今覓不得。 ﹂︶ ︵﹃祖堂集﹄巻第 十八・趙州和尚、七九四頁︶ ここでは、趙州が﹁祖師西来意﹂について尋ねられた際 に、 ﹁ 仲 冬 厳 寒 ﹂ と い う 時 候 の 挨 拶 で 応 じ た こ と に つ い て 述 べ て い る。 ﹁ 仲 冬 厳 寒 ﹂ の 意 味 に つ い て 尋 ね ら れ た 雲 居 道 膺︵?∼ 九 〇 二 ︶ は、 ﹁ 冬 な ら あ り、 夏 な ら 無 い ﹂ と 説 明 し た。 ﹁ 仲 冬 厳 寒 ﹂ と い う 挨 拶 は、 冬 で は 使 え る が、 夏 な ら こ の 挨 拶 は 使 え な く な る。 こ の 挨 拶 を﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ の質問に対する答えとして考えると、雲居から見れば、趙 州は﹁祖師西来意﹂に対する答えは時候の挨拶のように一 時的に僧が求めている真意を表すことができるが、いつで もその真意を表しているわけではないと伝えたいのではな いか。しかし、その質問者は雲居の考えを理解できず、更 に趙州本人にも尋ねた。その際、 この一連の事にちなんで、 趙州は偈を作って、今この寺院には観音もいて、弥勒もい る。しかし、片方の靴を残した達摩の姿を探そうとしても 見 つ か ら な い と 述 べ た。 趙 州 と し て は、 こ の 偈 を 通 し て、 この寺院にいる我々はすでに観音であり、弥勒であり、つ まり、質問者は彼の求めている真意にすでに達した存在で あ る の に、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ と い う 言 葉 に つ い て 自 分 に 聞 い たり、雲居に聞いたりするのは、まるで姿が消えた達摩を 探すような無駄な行為だと、質問者を批判しようとしたの だと思われる。 趙州の対応を整理すると、 ﹁祖師西来意﹂ の質問に対して、 まず時候の挨拶で対応し、他人の見解はあくまでも一時的 な 語 で あ る か ら、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ に 対 す る 他 人 の 答 え を 求 めてそこに執着してはならないと僧に伝えようとした。そ の後、僧が自分の意図を理解せずにむやみに尋ね続けてい るのを見て、また偈を作って﹁祖師西来意﹂を他人に尋ね るのは無意味だと悟らせようとした。 ﹃祖堂集﹄において、 ﹁祖師西来意﹂問答にまつわる問題 意 識 は 以 上 の よ う に 発 展 し て き た。 ﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ 問 答 は こうした重層的な議論を背景に行われたと思われる。つま り、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ を 尋 ね て 悟 り を 求 め る 僧 に 対 し て、 趙 州にも相手を執着させずに悟りに導かなければならないと いう課題があったのである。そもそも趙州から見ると、 ﹁祖 師西来意﹂を他人に尋ねる事自体が無意味である。それら のことを踏まえて、趙州は﹁庭先の柏樹﹂と答えた。それ は、意味のないように見える柏樹を提示して、相手を自分 の答えに執着させないようにしながら、他人に求めること が無意味だと意識させるためだと思われる。そして、この
78 答えに対する僧の次の反応によって、僧自身の問題点が露 わになり、趙州は更なる対応をして悟りに導こうとしたの であろう。 三 ﹁莫将境示人﹂と二度目の﹁亭前栢樹子﹂ 続 い て、 本 節 で は、 ﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ 問 答 の 残 る 次 の 二 つ の一問一答を解読していきたい。 僧 が 言 う、 ﹁ 和 尚、 境 に よ っ て 示 さ な い で 頂 き た い。 ﹂ 師が言う、 ﹁わしは境によって示していない。 ﹂僧が言 う、 ﹁ で は、 祖 師 が 西 方 か ら や っ て 来 た 意 図 と は 何 で し ょ う か。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ 庭 先 の 柏 樹 だ。 ﹂︵ 僧 云、 ﹁ 和 尚莫将境示人。 ﹂師云、 ﹁我不将境示人。 ﹂僧云、 ﹁如何 是祖師西来意。 ﹂師云、 ﹁亭前栢樹子。 ﹂︶ ︵﹃祖堂集﹄巻 第十八・趙州和尚、七八九頁︶ 具 体 的 に は、 同 じ 非 難 に 対 す る 雪 峰 の 見 解 を 参 考 に し、 その対応に対する趙州の批判から趙州の態度を伺い、更に こうした態度を踏まえた上で﹁亭前栢樹子﹂問答における 趙州自身の対応を解釈する。 ︵ 1︶ ﹁莫将境示人﹂に対する雪峰義存の見解 ﹁亭前栢樹子﹂という答えに対して、僧は不満を抱いた。 僧 か ら 見 る と、 ﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ と は 庭 先 の 柏 樹 と い う 外 境 を指す答えに過ぎず、決して﹁祖師西来意﹂を表して自分 を悟らせる答えではない。前節で検討してきたように、 ﹁祖 師西来意﹂をめぐる問答において、質問者も多くの僧と同 様、禅師が﹁祖師西来意﹂について簡単に教えてくれない と 知 っ て い る た め、 そ こ で、 僧 は﹁ 莫 将 境 示 人 ﹂ と 言 い、 趙州が答えた﹁亭前栢樹子﹂は境だと指摘した上で、境に よって示さず本当の ﹁祖師西来意﹂ を教えて下さいとして、 趙州を非難したと思われる。 ﹁ 莫 将 境 示 人 ﹂ に 対 し て、 趙 州 は た だ﹁ 境 に よ っ て 示 し ていない﹂と否定したが、この非難に対して正面から弁明 し て い る わ け で は な い。 ﹁ 莫 将 境 示 人 ﹂ を め ぐ っ て 詳 し く 議 論 さ れ て い る 例 と し て、 同 時 代 の 雪 峰 義 存︵ 八 二 二∼ 九〇八︶とある僧との問答がある。更に、雪峰の対応に対 する趙州の批判もその後に続き、そこから趙州の態度も窺 え る。 ﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ 問 答 を 検 討 す る 前 に、 ま ず 手 が か り として﹁莫将境示人﹂と答えた僧の問題点及びそれに対す る雪峰の対応を検討していきたい。 僧 が 蘇 州 西 禅 に 聞 く、 ﹁ 経 典 に 書 か れ て い る こ と は 聞 きません。祖師が西方から来た本当の意について、一 言 お 願 い し ま す。 ﹂ 西 禅 は 払 子 を 立 て た。 そ の 僧 は 納 得できない。後に雪峰に行った。師︵雪峰義存︶が聞
79 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) く、 ﹁ ど こ か ら 来 た の か。 ﹂ 答 え て 言 う、 ﹁ 西 禅 か ら 来 ました。 ﹂師が言う、 ﹁どんな仏法に関わる話があるの か。 ﹂僧が前の話を示した。師がいう、 ﹁おまえは納得 す る の か。 ﹂ 答 え て 言 う、 ﹁ 納 得 で き る も の で す か。 ﹂ 師 が 言 う、 ﹁ で は、 納 得 で き な い 理 由 を 言 え る の か。 ﹂ 答 え て 言 う、 ﹁ 何 を お 聞 き に な る の で す か。 西 禅 和 尚 は境によって人に示しました。 ﹂師が言う、 ﹁おまえは 西 禅 か ら こ こ に 至 る ま で、 幾 つ か の 森 を 経 て き た が、 それらの全ては境だ。なんでおまえはそれらには納得 し て、 た だ 払 子 だ け に 納 得 で き な い の か。 ﹂ 僧 は 答 え ら れ な か っ た。 こ れ に よ っ て、 師 が い う、 ﹁ 乾 坤 の す べては一つの眼だ。お前たちはどこで用を足すのか。 ﹂ 雪 峰 の 弟 子 で あ る 長 慶 慧 稜 が 答 え て 言 う、 ﹁ 和 尚 は な ぜそんなに繰り返してこの人を馬鹿にするのですか。 ﹂ ︵僧問蘇州西禅、 ﹁三乗十二分教則不問、祖師西来的的 意、只請一言。 ﹂西禅竪起払子。其僧不肯。後到雪峰、 師 問、 ﹁ 什 摩 処 来。 ﹂ 対 云、 ﹁ 西 禅 来。 ﹂ 師 云、 ﹁ 有 什 摩 仏法因縁。 ﹂僧挙前話。師云、 ﹁ 你 還肯也無。 ﹂対云、 ﹁作 摩生肯。 ﹂師云、 ﹁作摩生説不肯底道理。 ﹂対云、 ﹁什摩 生問。師将境示人。 ﹂師云、 ﹁是 你 従西禅与摩来到這裏、 過却多少林木、惣是境。 你 因什摩不不肯、只得不肯払 子。 ﹂僧無対。因此師云、 ﹁尽乾坤是一个眼、是 你 諸人 向什摩処放不浄。 ﹂ 慶対云、 ﹁和尚何得重重相欺。 ﹂︶︵ ﹃祖 堂集﹄巻第七・雪峯和尚、三五二頁︶ 払子を立てるという行為は相手に真理を示す際に、禅師 がしばしば用いた方法であ る ︶14 ︵ が、僧は西禅のこの対応に納 得できなかったようである。そこで、僧は雪峰義存のとこ ろに行き、西禅とのやりとりを雪峰に告げて、自ら納得で きない理由、つまり西禅の教示は﹁境﹂によるものでしか ないことを述べた。僧にしてみれば、払子というものはあ くまでも﹁境﹂であり、決して﹁祖師西来意﹂ではない。 僧の不満を聞いた雪峰は僧の問題点を指摘した。雪峰の 指摘によれば、僧は払子を﹁境﹂として考え、それを﹁祖 師西来意﹂を表す正解として認めない。しかし、林や景色 等の普段の生活における﹁境﹂であるあらゆる物事を疑問 視 せ ず に 受 け 入 れ て い る の に、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ を 尋 ね る 際 に払子だけを﹁境﹂という理由で納得しないのは矛盾では ないかということである。つまり、僧は問答で西禅が示し てくれた払子に対して、普段の生活の体験から離れて、払 子のみを否定すべき﹁境﹂として特別視したわけである。 この指摘を受けた僧の沈黙を見て、雪峰は更に﹁世界の すべてが一つの眼だ﹂ ︵尽乾坤是一個眼︶と教示した。 ﹁尽 乾 坤 ⋮ ⋮ ﹂ と い う 句 は 雪 峰 の 口 癖 で あ る 。﹃ 祖 堂 集 ﹄ で は 、 雪 峰 は ま た ﹁ 尽 乾 坤 是 個 解 脱 門 ﹂ と も 言 っ た 。﹁ 尽 乾 坤
80 ⋮⋮﹂という句にある雪峰の見解を解明するために、 まず、 次の一段を手がかりとして検討していきたい。 あ る 時 上 堂 し、 皆 が 久 し く︵ 黙 っ て ︶ 立 っ て い る と、 師 が 言 う、 ﹁ こ の ま ま で 受 け 止 め れ ば、 そ れ は 最 も 簡 単 な 方 法 だ。 更 に わ し の 口 に 求 め る の を や め な さ い。 ︵ こ の 真 理 を ︶ 三 世 諸 仏 は 唱 す る こ と が で き ず、 十 二 分教にも載せられない。今更人のよだれや鼻水を味わ う男が分かるものか。わしが普段お前たちに﹃これは 何だ﹄と聞くと、お前たちはすぐに近寄って来て答え を求める。 ︵そうすれば︶いつになったらわかるのか。 やむを得ず、お前たちにこう言っていたのも、すでに お前たちを馬鹿にしているのだ。お前たちに言う、 ﹃そ の門の敷居を跨ぐ ︻跨ぐという意味である。 口化の反。 ︼ 前にすでに教えたのだ﹄ 、と。お前たちわかったのか。 これはわしの老婆心だ。最も簡単な方法を背負い込ま ず、ただ前に進んで言葉を求める。お前たちに ﹃ 乾 坤 の す べ て は 解 脱 の 門 だ ﹄ と 言 っ て も 、︵ そ の 門 に ︶ い つも入ろうとせず、もっぱらここで走り回り、人に会 うたびに﹃どれが本当の私なのか﹄と聞いて、恥ずか しくないか。それはただ自ら苦しんでいるのだ。だか ら、 ﹃ 川 の ほ と り で 喉 が 渇 い て 死 ん だ 人 は 無 数 で、 飯 櫃の中にいながら腹ペコの者も恒河の砂のように無数 だ ﹄ と 言 う。 ⋮⋮︵ 有 時 上 堂。 衆 立 久、 師 云、 ﹁ 便 与 摩承当、却最好省要。莫教更到這老師口裏来。三世諸 仏不能唱、十二分教載不起。如今嚼涕唾漢争得会。我 尋 常 向 師 僧 道﹃ 是 什 摩 ﹄、 便 近 前 来 見 答 話 処。 驢 年 識 得摩。事不得已、向汝与摩道、已是平欺汝了也。向汝 道、 ﹃ 未 𡕒 ︻ 跨 歩 也、 口 化 反 ︼ 門 以 前 早 共 汝 商 量 了。 ﹄ 還会摩。亦是老婆心也。省力処不肯当荷、但知踏歩向 前 覓 言 語。 向 汝 道、 ﹃ 尽 乾 坤 是 個 解 脱 門 ﹄、 総 不 肯 入、 但知在裏許乱走、 逢著人便問、 ﹃阿那個是我。 ﹄還 著 ︶15 ︵ 摩。 只 是 自 受 屈、 所 以 道、 ﹃ 臨 河 渴 水 死 人 無 数、 飯 籮 裏 受 餓人如恒河沙。 ﹄⋮⋮﹂ ︵﹃祖堂集﹄巻第七・雪峯和尚、 三四六頁︶ まず、この一段から雪峰の教示をまとめる。本当の真理 をそのまま悟るのは最も良い。しかし、弟子たちはそれが 分からずにひたすら師に正解を求めていた。雪峰から見る と、弟子たちの行動は全く無駄な苦労であるから、弟子た ちに﹁その真理はすでに教えた﹂と言い、また﹁世界のあ らゆる物事が解脱の門だ﹂と言った。それでも弟子たちは まだ分からない。それを見て、雪峰は身の回りに解脱への 入り口があるのにずっと気づいていないと指摘した。 禅師に参じてきた僧は悟りを求めてやってきたわけであ る。しかし、雪峰から見ると、悟りへの入り口は他人に求
81 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) めるものではなく、身の回りに存在するこの世界のあらゆ る物事である。そこから解脱するのは最も簡単な方法であ る。しかし、誰もこのことを意識せず、ひたすら他人に尋 ね続けるため、やむを得ず、雪峰は弟子たちに﹁世界のす べてが解脱の門だ﹂と明示したわけである。それは、この 世界で生きているうちに、いつでもどこでも、すでに解脱 の世界で生きていると等しいということに気づけば、直ち に解脱するのだという意味だと考えられる。 西禅に参じた僧との問答において、雪峰は、林等の景色 も境だがどうして疑問視せずに受け入れているのかと指摘 した。そこにも、払子や林等といった普段の生活における あらゆる物事が自分の心の現れであり、 このことこそが ﹁祖 師西来意﹂だという含意があると思われる。更に、雪峰は ﹁ 尽 乾 坤 是 一 個 眼 ﹂ と 言 っ た。 こ こ で 雪 峰 は﹁ 解 脱 の 門 ﹂ と異なる表現である﹁眼﹂を用いたが、右で検討してきた よ う に、 ﹁ 尽 乾 坤 是 個 解 脱 門 ﹂ と 言 っ た 雪 峰 に は、 今 の 世 界と解脱の世界とは常に一つであり、その両者が一つであ ることにさえ気づけば、直ちに解脱できるという見解があ る。 こ こ で、 ﹁ 尽 乾 坤 是 一 個 眼 ﹂ と 言 っ た の も、 客 観 の 世 界と自分の心は一体であるという見解を踏まえたと思われ る。言い換えると、世界のあらゆる物事が自分の心の現れ であり、先に検討したように自心こそが仏であるから、こ の両者の一体を悟ったのは﹁祖師西来意﹂を悟ったのであ る。 そ こ で、 ﹁ 眼 ﹂ と 表 現 し た の は、 こ の 世 界 は ま さ に こ うした﹁祖師西来意﹂を見る眼だということである。 ︵ 2︶ 雪峰の見解に対する批判 以 上、 ﹁ 莫 将 境 示 人 ﹂ に 対 す る 雪 峰 の 指 摘 及 び 見 解 を 見 て き た。 ﹁ 尽 乾 坤 是 一 個 眼 ﹂ を 踏 ま え て、 雪 峰 は ま た﹁ お 前たちはどこで用を足すのか﹂ と弟子に反問した。つまり、 世界のあらゆる物事は西来意としての自心の現れである以 上、すでにそこで用を足すわけにはいかないという意味だ と 思 わ れ る。 し か し な が ら、 雪 峰 の 弟 子 で あ る 長 慶 慧 稜 ︵ 八 五 四∼ 九 三 二 ︶ は 師 の 対 応 を 批 判 し た。 雪 峰 は 僧 に 対 して、世界のあらゆる物事は境であり、その境は認めるべ きものだというように一方的に自分の見解を押し付け、更 にその境で用を足すのはいけないというように強調した結 果、雪峰の教示を受けた弟子は雪峰が示した﹁境﹂に執着 する恐れがある。長慶からみれば、この教示は僧を戸惑わ せ る こ と の み で あ る。 ま た、 こ の 問 答 の 直 後、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻第七には次の二段が付記されている。 ある人がこの話 ︵西禅に参じた僧に対する雪峰の教示︶ を 趙 州 に 示 し た。 趙 州 が 言 う、 ﹁ お ま え さ ん が も し 閩 に行くなら、 シャベルをやる。 ﹂︵有人持此語挙似趙州。
82 趙州云、 ﹁上座若入 閩 、寄上座一個鍬子去。 ﹂︶ ︵﹃祖堂集﹄ 巻第七・雪峯和尚、三五三頁︶ 翠岩が師︵雪峰義存︶の話を踈山に示した。踈山が言 う、 ﹁雪峰を二十棒打って、 用を足す穴に突き落とせ。 ﹂ 翠 岩 が 言 う、 ﹁ 和 尚 さ ん が そ う 言 う の は、 雪 峰 の 過 ち を打つのではないでしょうか。 ﹂踈山が言う、 ﹁そうだ。 ﹂ 翠岩が言う、 ﹁では、 眼は一体どうなるのでしょうか。 ﹂ 踈山が言う、 ﹁﹃心経﹄に無眼耳鼻舌身意と言っている のではないか。 ﹂翠岩は納得できずに言う、 ﹁違います、 和尚﹂踈山は黙ってしまった。 ︵翠岩持師語挙似踈山。 踈山云、 ﹁雪峰打二十 捧 ︶16 ︵ 、 推向屎坑裏著。 ﹂翠岩云、 ﹁和 尚与摩道、 豈不是打他雪峰過。 ﹂踈山云、 ﹁是也。 ﹂岩云、 ﹁眼又作摩生。 ﹂踈山云、 ﹁不見心経云、 ﹃無眼耳鼻舌身 意﹄ 。﹂岩不肯、 云、 ﹁不是、 和尚。 ﹂踈山無言。 ︶︵同上、 この一段は前段の続きである︶ 趙州の対応を理解する手がかりとして、その直後の翠岩 と踈山との問答から検討していきたい。翠岩は雪峰の弟子 である。翠岩から雪峰の話を聞いた踈山は雪峰を打って用 を足す穴に突き落とせと斥けた。西来意としての自心と一 体であるこの世界で用を足すわけにはいかないと言った雪 峰を、用を足す穴に突き落として、自分で現実における用 を足す処を実感しろというふうに斥けたと考えられる。踈 山が雪峰の発言を批判していると知った翠岩は、では、そ の﹁眼﹂はどう理解すれば良いのかというように踈山に尋 ねた。翠岩は師説を堅持して自分なりの理解を有している かも知れないが、踈山からすれば、翠岩は﹁眼﹂という言 葉に執着している修行者である。そこで、翠岩を﹁眼﹂か ら解脱させるために﹃般若心経﹄の言葉を借りて﹁眼﹂な どはないと伝えた。しかし、翠岩は﹃心経﹄を借りた踈山 の否定を認めなかった。結局、踈山は翠岩に自分の考えは 通じないと見て無言になった。雪峰の教示及びその教示を 受けた雪峰の弟子に対する、踈山の批判の視点は以上のよ うなものである。 おそらく趙州もまた雪峰の教示にある過ちに気づいたと 思 わ れ る。 ﹁ お 前 た ち は ど こ で 用 を 足 す の か ﹂ と い う 雪 峰 の 一 句 を 受 け た 僧 に 対 し て、 ﹁ 福 建 に 行 く な ら シ ャ ベ ル を や る ﹂ と 対 応 し た。 雪 峰 山 は 福 建 に あ る。 こ こ で 趙 州 は、 もし雪峰のところに行くなら、彼の反問に対して、こうし て対応しなさいと僧に告げたのだと思われる。その対応の 意味とは、自分の心と一体であり、そこで用を足すことも できない世界を示した雪峰に対して、シャベルを用いて穴 を 掘 れ ば 用 を 足 す こ と が で き る 現 実 世 界 を 示 す わ け で あ る。 雪 峰 に 対 す る 批 判 を ま と め る と、 ﹁ 莫 将 境 示 人 ﹂ と 言 っ
83 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) た僧の過ちを指摘したのに、雪峰はまた﹁境﹂に対して西 来意たる自心の現れという新たな意義づけを行い、それを 現実世界から遊離させる恐れを生んだ。これは、この発言 を 聞 い た 僧 を 新 た に 現 実 世 界 か ら 遊 離 し た 特 殊 な 意 味 を 持った﹁境﹂に執着させるかも知れない、ということであ る。これに対して、踈山は雪峰を用を足す穴に突き落とせ と 斥 け、 趙 州 は 用 を 足 す 穴 を 掘 る た め の シ ャ ベ ル を や り、 二人はともに雪峰の教示に対して、現実世界に密着せよと 示し、雪峰の教示を批判したと考えられる。 雪峰の教示に対する批判から、現実世界から離れないと いう趙州の視点が窺えた。こうした趙州自身は﹁莫将境示 人 ﹂ と 非 難 さ れ た 際 に、 ﹁ 境 に よ っ て 示 し て い な い ﹂ と 否 定 し た。 右 で 検 討 し て き た よ う に、 ﹁ 莫 将 境 示 人 ﹂ と 言 っ た僧には、普段の生活の体験から離れて問答において師に 示されたもの︵ここで、そのものは庭先の柏樹である︶を ﹁ 境 ﹂ に 過 ぎ な い と し、 そ れ を﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ を 悟 る た め に否定すべきものと捉えたという過ちがある。趙州はこう した過ちに対して、対応したわけである。次に、この否定 の含意及び最後の一問一答を検討していきたい。 ︵ 3︶ 二度目の﹁亭前栢樹子﹂ ﹁亭前栢樹子﹂問答では、 ﹁莫将境示人﹂と非難した僧に 対して、趙州が﹁境によって示していない﹂と否定したの は、先に答えた﹁亭前栢樹子﹂とはお前さんが考えている ﹁ 境 ﹂ で は な い。 さ ぁ、 こ の﹁ 境 ﹂ で は な い 亭 前 栢 樹 子 と は何だ、と僧を考えさせようとしたのではなかろうか。 しかしながら、僧は趙州の答えから自分の過ちを意識で きなかったようである。僧は、趙州が﹁境によって示して いない﹂と言う以上、もう一度尋ねれば、境ではない、本 当 の﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ を 教 え て く れ る は ず だ と 思 い 込 ん で、 再び﹁祖師西来意﹂について趙州に尋ねた。 趙州から見ると、僧が再び﹁祖師西来意﹂を尋ねてきた のは自分の意図を理解せず、短絡的に﹁祖師西来意﹂に関 する教えを求めている。そこで、 趙州は再び﹁亭前栢樹子﹂ と答えた。趙州の最初の答えと異なり、この二度目の﹁亭 前栢樹子﹂は﹁境によって示していない﹂ということを踏 ま え た 答 え で あ る。 つ ま り、 ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ に 対 す る 答 え である﹁亭前栢樹子﹂は﹁境﹂ではなく、亭前栢樹子その ものだと趙州は伝えようとしたと考えられる。では、それ は一体どんな意味なのか。次の一段からそれを理解する手 がかりを見ていきたい。 南 泉 が 銅 瓶 を 指 し て 僧 に 聞 く、 ﹁ 内 が 清 浄 な の か、 外 が清浄なのか、 お前は言ってみなさい。 ﹂僧が言う、 ﹁内 も 外 も 全 部 清 浄 で す。 ﹂ そ こ で 師 に 聞 く。 師 は 瓶 を 蹴
84 り飛ばした。 ︵南泉指銅瓶問僧、 ﹁汝道内浄外浄。 ﹂僧云、 ﹁ 内 外 倶 浄。 ﹂ 却 問 師。 師 便 剔 却。 ︶︵ ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第 十八・趙州和尚、七九四頁︶ 南泉は趙州の師匠である。 ここで、 南泉は瓶を借りて ﹁内﹂ ﹁ 外 ﹂ と い う 概 念 に 対 す る あ る 弟 子 の 見 解 を 試 し て い た。 南 泉 の 質 問 を 聞 い た そ の 弟 子 は 内 外 と も に 清 浄 だ と 答 え た。その後、南泉は同じ質問を趙州に聞いてみたが、趙州 は瓶まるごとを蹴り飛ばした。趙州から見ると、 瓶に﹁内﹂ ﹁ 外 ﹂ と い う 概 念 を 付 し て 見 解 を 試 し た の は す で に 概 念 に とらわれている行為であるのに、南泉の弟子が﹁内外とも に清浄だ﹂と答えたのは更なる過ちになった。南泉に同じ 質問をされた趙州は、瓶を蹴り飛ばした。それは、瓶は瓶 そのものであり、 ﹁内﹂ ﹁外﹂等の概念が介在する余地はな く、ここに概念を付して詮索するのをやめてください、と いう意味だと考えられる。ここから、趙州が現実の物事に 概念を付してその概念を詮索する行為を厭悪する態度が伺 える。 ﹁亭前栢樹子﹂問答において、 ﹁亭前栢樹子﹂が﹁境﹂で は な く、 亭 前 栢 樹 子 そ の も の だ と い う こ と に は、 ﹁ 亭 前 栢 樹子﹂に﹁境﹂という概念を付して、それを用いて﹁亭前 栢樹子﹂について詮索するのをやめなさいという意図が含 ま れ て い る の で は な い か。 二 度 目 の﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ と は、 まさに﹁境﹂という概念にとらわれている僧をそこから解 放 し、 ﹁ 境 ﹂ 等 の 概 念 が 成 立 す る 以 前 の 現 実、 つ ま り﹁ 亭 前栢樹子﹂は庭先の柏樹そのものであるという現実に立ち 返らせるための教示だと思われる。この教示は、僧を師の 言葉への執着から解放することによって﹁祖師西来意﹂を 悟ることに導こうとする対応でもあると考えられる。 おわりに 以上の検討では、これまで﹁庭前柏樹子﹂問答を取り扱 うときに多用されてきた﹃趙州録﹄の記載と最も古い記載 で あ る﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 記 載 を 区 別 し た 上 で、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ の 文 脈に従ってそこの﹁亭前栢樹子﹂問答をあらためて解読し てきた。具体的には次のようにまとめられる。 まず、馬祖は、 ﹁祖師西来意﹂とは﹁即心即仏﹂ ︵心こそ が 仏 だ ︶ を そ の 内 容 と す る こ と と 示 し た。 し か し な が ら、 馬祖の言葉に執着している人が増えているため、馬祖の次 世代の禅師は ﹁祖師西来意﹂ に対して教示を拒否していた。 ところが、拒否だけによって質問者を悟りに導くことはで きないため、質問者の問題点に応じて更なる対応が必要と なった。こうした背景を重ねてきて、 ﹁祖師西来意﹂ 問答は、 自分を悟らせるという要求を有する僧と相手を執着させず
85 『祖堂集』における「亭前栢樹子」問答について(祝) に悟りに導くという課題を有する禅師との戦いの場に成熟 した。このような背景において、趙州は﹁祖師西来意﹂を 尋ねてきた僧に対して、 ﹁庭先の柏樹﹂ と答えたわけである。 次に、趙州に﹁莫将境示人﹂と非難した僧の問題点につ いて、ある僧と雪峰義存との問答から解読の手がかりを得 た。つまり、 禅師との問答においては、 禅師の答えを﹁境﹂ と捉えたが、普段の生活においては、世界のあらゆる物事 を疑問視せずに受け入れているという問題点である。この 問題点に対して、雪峰は﹁世界のすべては一つの眼だ﹂と 言い、 そこに客観の世界と自分の心はそもそも一体だから、 世界のあらゆる物事は﹁西来意﹂である自分の心の現れで あり、まさに﹁祖師西来意﹂を見る眼だという意味が含ま れている。しかしながら、雪峰のその発言には、物事を現 実から遊離させる恐れがあったため、それに対して趙州等 の禅師が批判した。趙州は用を足す穴を掘るためのシャベ ルをやり、現実世界に対する密着を示した。こういう視点 を手がかりとして、 ﹁亭前栢樹子﹂ 問答の後半を見てみると、 趙州が﹁境によって示していない﹂と否定したのは僧自身 に、 ﹁ 境 ﹂ で は な い﹁ 亭 前 栢 樹 子 ﹂ と は 何 だ と 考 え さ せ よ うとしたと思われる。しかし、僧は趙州の意図を理解しな かったため、趙州は二度目の﹁亭前栢樹子﹂という答えを 提示した。南泉との問答から、趙州が現実の物事に概念を 付 し て そ の 概 念 を 詮 索 す る 行 為 を 厭 悪 す る 態 度 が 伺 え た。 それを手がかりとすれば、 二度目の ﹁亭前栢樹子﹂ とは、 ﹁亭 前栢樹子﹂は亭前栢樹子そのものだと示し、僧を﹁境﹂と い う 概 念 が 成 立 す る 以 前 の 現 実 に 立 ち 返 ら せ、 ﹁ 祖 師 西 来 意﹂を悟ることに導こうとする教示であると考えられる。 注 ︵ 1︶ 小 川 隆﹃ 語 録 の 思 想 史 ﹄ 序 論、 岩 波 書 店、 二 〇 一 一 年、 二十七頁。 ︵ 2︶ 福 州 鼓 山 於 紹 興 之 初 刊 行 古 尊 宿 語 録 二 十 有 二、 洪 之 翠 岩 芝 禅 師 者、 其 一 焉。 ⋮⋮︵ ﹃ 雲 臥 紀 譚 ﹄ 巻 上、 ﹃ 卍 続 蔵 経 ﹄、 新文豊出版公司、第 148冊、一九七七年、九頁︶ ︵ 3︶ 巻 一 南 泉 願 蔵 古 巻 十 二 投 子 同 蔵 古 巻 三 十 六 睦 州 蹤 蔵古巻六 趙州 諗 蔵古巻十三及巻十四 ︵﹃卍続蔵経﹄ 、 第 119冊、一九〇頁︶ な お、 ﹃ 古 尊 宿 語 録 ﹄ の 成 立 に 関 し て は、 柳 田 聖 山﹁ 古 尊 宿 語 録 考 ﹂︵ ﹃ 無 著 校 写 古 尊 宿 語 要 ﹄ 所 収、 中 文 出 版 社、 一九七三年︶ 、蕭 萐 父 ・ 呂有祥点校 ﹃古尊宿語録﹄ ﹁前言﹂ ︵中 国 仏 教 典 籍 選 刊、 中 華 書 局、 一 九 九 四 年 ︶ 及 び 張 子 開 点 校 ﹃ 趙 州 録 ﹄﹁ 趙 州 従 諗 研 究 ﹂︵ 中 国 禅 宗 典 籍 叢 刊、 中 州 古 籍 出版社、二〇〇一年︶を参照。 ︵ 4︶ 本稿で、 ﹃趙州録﹄ を引用する際には、 ﹃趙州和尚語録﹄ ︵新 文 豊 出 版 公 司、 ﹃ 明 版 嘉 興 蔵 経 ﹄ 第 24冊 所 収、 一 九 八 七 年 ︶ を使用する。
86 ︵ 5︶ 椎 名 宏 雄﹁ ﹃ 宗 門 統 要 集 ﹄ の 書 誌 的 研 究 ﹂︵ ﹃ 駒 澤 大 学 仏 教学部論集﹄ 18号、一九八七年十月︶ ︵ 6︶ ﹃景徳伝燈録﹄ の序文を書いた楊億は ﹃汾陽無徳禅師語録﹄ の た め に も 序 文 を 書 い た。 こ の こ と に よ り、 ﹃ 汾 陽 無 徳 禅 師 語 録 ﹄ は 楊 億 の 卒 年 で あ る 天 禧 四 年︵ 一 〇 二 〇 年 ︶ ま で に成立したと判断できる。 ︵ 7︶ ﹃ 宗 門 摭 英 集 ﹄ 巻 上 冒 頭 に お け る 惟 簡 の 説 明 に は、 ﹁ 時 巨 宋 景 祐 五 年 歳 次 戊 寅 仲 冬 十 有 七 日 敘 ﹂ と い う 一 文 が あ る。 こ れ に よ っ て﹃ 宗 門 摭 英 集 ﹄ は 景 祐 五 年︵ 一 〇 三 八 年 ︶ に 成立した禅籍であることが分かる。 ︵ 8︶ 前掲﹃語録の思想史﹄序論、二十頁。 ︵ 9︶ 実 際 に は﹃ 楞 伽 経 ﹄ に こ の 一 句 は な い。 お そ ら く、 こ れ は馬祖の﹃楞伽経﹄に対する要約だと考えられる。 ︵ 10︶ ﹁ 祖 師 西 来 意 ﹂ が﹁ 即 心 即 仏 ﹂ だ と い う 馬 祖 の 考 え 方 に ついては、前掲の小川﹁庭前の柏樹子﹂を参照した。 ︵ 11︶ ﹁ 非 心 非 仏 ﹂ に つ い て、 入 矢 義 高﹁ 表 詮 と 遮 詮 ﹂︵ ﹃ 増 補 自己と超越﹄岩波書店、二〇一二年︶を参照。 ︵ 12︶ ﹁ 仲 冬 厳 寒 ﹂ と は 季 節 を 表 現 す る 言 葉 で も あ り、 唐 宋 期 に 流 行 し て い た 挨 拶 の 冒 頭 の 一 句 で も あ る。 例 え ば、 北 宋 の 王 安 石 の﹁ 与 呉 司 録 議 王 逢 原 姻 事 書 ﹂ の 冒 頭 に、 ﹁ 某 啓、 仲 冬 厳 寒、 伏 惟 尊 体 動 止 万 福。 ﹂︵ ﹃ 臨 川 先 生 文 集 ﹄ 巻 七十四︶という一文がある。 ︵ 13︶ 達摩の片方の靴について次の一段がある。 滅 度 後 三 年、 魏 使 時 有 宋 雲、 西 嶺 為 使 却 廻、 逢 見 達 摩 手 携 隻 履、 語 宋 雲 曰、 ﹁ 汝 国 天 子 已 崩。 ﹂ 宋 雲 到 魏、 果 王 已 崩、 遂 聞 奏。 後 魏 第 九 主 孝 荘 帝 乃 開 塔、 唯 見 一 隻 履、 却 取 帰 少 林 寺 供 養。 ︵﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第 二・ 菩 提 達 摩 和尚、一〇一頁︶ ︵ 14︶ 払 子 を 立 て る 方 法 は、 禅 師 が 接 化 の 際 に し ば し ば 用 い る 方 法 で あ る。 た と え ば、 ﹃ 祖 堂 集 ﹄ に は、 百 丈 懐 海 の 例 と して、次の記載がある。 問、 ﹁ 如 何 是 仏。 ﹂ 師 云、 ﹁ 汝 是 阿 誰。 ﹂ 対 云、 ﹁ 某 甲。 ﹂ 師云、 ﹁汝識某甲不。 ﹂対云、 ﹁分明个。 ﹂師竪起払子、 云、 ﹁ 汝 見 払 子 不。 ﹂ 対 云、 ﹁ 見。 ﹂ 師 便 不 語。 ︵﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第十四 ・ 百丈和尚、六三七頁 ) ︵ 15︶ ﹁ 著 ﹂ は﹁ 羞 ﹂ の 誤 字 と 考 え ら れ る。 禅 文 化 研 究 所 唐 代 語 録 研 究 班﹁ ﹃ 祖 堂 集 ﹄ 巻 第 七 雪 峯 和 尚 章 訳 注︵ 上 ︶﹂ ︵﹃ 禅 文 化 研 究 所 紀 要 ﹄ 31号、 禅 文 化 研 究 所、 二 〇 一 一 年、 二二〇頁︶の注釈を参照。 ︵ 16︶ ﹁捧﹂ 字は ﹁棒﹂ 字の誤りと考えられる。 ﹁打二十棒﹂ は、 接 化 の 方 法 と し て 禅 問 答 の 中 で し ば し ば 目 に す る 記 述 で あ る。