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昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(1)──東京・朝鮮篇(1)── 利用統計を見る

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昭和期の日本文学における在日ムスリムの表象(1

)──東京・朝鮮篇(1)──

著者

福田 義昭

著者別名

FUKUDA Takuya

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

50

ページ

91(256)-69(278)

発行年

2016-02-29

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008035/

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1.はじめに 近年,近代日本とイスラム世界の関係を扱っ た研究が盛んになっている。そのなかに,タ タール人を中心とする初期(昭和前期まで)の 在日ムスリム・コミュニティを扱ったものがあ る。筆者もこれまで,限られた対象ではあるが, 昭和戦前・戦中期の在神戸ムスリム・コミュニ ティについて,その形成過程や活動,モスク建 立事業の実態等を調査してきた(2)。本稿は,こ うした在日外国人ムスリムの歴史に関する調査 研究の一環である。 ただし,本稿は,これまでの研究とは少し趣 を異にしている。主たる対象が文学作品や文学 者たちの書き残した物だからである。筆者は, 在日ムスリム・コミュニティが残した足跡をた どるうちに,彼ら自身の活動だけでなく,当時 の日本社会が,見慣れぬ宗教を奉じる隣人たち をどのように見ていたかに興味をそそられた。 外国人ムスリムに対するホスト社会の認識の問 題である。その中でも,政府や「回教政策」推 進者らの認識については,ある程度,公文書や 個人の書き物によって知ることができ,従来の 研究でも触れられている。しかし,一般の日本 人,民間人の目に彼らがどのように映っていた かを知る手がかりはあまり多くない。その稀少 な資料の一つが,活字として残された文学作品 や文学者による書き物の類と言うことができ る。 他方これらは,日本文学における外国人表象 の例としても興味深い。近代以降,日本文学に 描かれた西洋人,ロシア人などに関する研究は 多い。しかし,ムスリムの文学的表象に関する 研究は,ほとんどないだろう。たしかに20世紀 半ばまでの在日ムスリムは,数の上でも日本社 会への影響という点でも限定的だったから,彼 らが登場する作品自体が少なく,結果として注 目されないのは当然かもしれない。とはいえ, 彼らの姿をわずかであれ作中に書き込んだ作家 はそれなりにいる。これを微少と見るか,意外 に多いと見るかはとらえ方次第であるにして も,そうした例をできるかぎり広く集めて,そ のイメージを分析することには歴史的な意義が ある。 このような問題意識から,以下では日本語で 書かれた文学作品等を取り上げ,在日外国人ム スリムが作家その他の民間人によってどのよう に表象されてきたかを例示し考察する。ただ し,紙幅の関係上,今回は東京および朝鮮を舞 台とする作品のみを対象とし,神戸など他の土 地に関しては,続稿を用意することにしたい。 なお,フィクション・ノンフィクションにかか わらず,在日ムスリムが出てくる作品を扱う が,たとえば国枝史郎(1887−1943)の『生死 卍巴』(1928−29)のように──江戸時代,日 本に密かに「回教」が伝わり,その「回教」も どきの奇妙な宗教を奉ずる信者集団がいたとい うような──荒唐無稽なフィクションは扱わな い。実在した,あるいは実在したと思われるム スリムに関わる例を対象とする。

──東京・朝鮮篇

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──

福 田 義 昭

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2.アブデュルレシト・イブラヒム──夏目漱 石,古在由重,青山光二,井筒豊子 (1)夏目漱石 日本に在留・滞在するムスリムをはじめて作 中に登場させた作家が誰だったかはわからな い。しかし,早い時期に彼らに言及している人 に夏目漱石(1867−1916)がいる。彼の日記中, 明治42(1909)年6月16日の条に「本間久。ダ ツタン人の回〔フィフィ〕々教の管長と事を友〔共〕にする天下の 志士を連れてくると云つてくる」とある(3) 。こ の「ダツタン人の回々教の管長」は,当時(同 年2月から6月まで)来日中だったタタール人 の汎イスラム主義者アブデュルレシト・イブラ ヒム(Abdürre㶆id 佲brahim, 1857−1944)と考 えられる(4) 。その彼と「事を友にする天下の志 士」とは誰のことか。確証はないが,山岡光太 郎(1880−1959)だったのかもしれない。山岡 は同年10月に日本を出発し,先に出国していた イブラヒムとボンベイ(現ムンバイ)で落ち合 い,その後アラビア半島入りして日本人初の メッカ巡礼者となったムスリムである。『漱石 日記』の同条は「此人余が著述を好んで読むよ し。奇人だから材料にしたらどうだと書いてあ る。〔来信〕本間久。寺田寅彦。」と続く。どう やら本間は漱石に手紙を書いて,この「天下の 志士」を創作の題材にするよう勧めてきたらし い。もし漱石がこの話に乗っていたなら,彼の 作品にイブラヒムらムスリムが登場していた可 能性もあったことになる。 (2)古在由重 イブラヒムはその後,昭和8(1933)年に再 来日し,同13(1938)年に東京モスクが設立さ れた際には初代イマームを務めることになっ た。そして昭和19(1944)年に東京で亡くなる まで,日本におけるムスリム・コミュニティの シンボルの一つとして「回教政策」に利用され ることにもなるわけである。 日本のプロパガンダに利用されたこのイブラ ヒムを間近から皮肉に眺めていた人物がいる。 マルクス主義哲学者の古在由重(1901−90)で ある(5) 。昭和19年,回教政策を推進するための シンクタンクである大日本回教協会の調査部に 勤務した彼は,しばしば日記に同協会での仕事 内容を記している。イブラヒムに関する記述も 多い。しかし,そこで目を惹くのは,喧伝され る彼のイメージが虚像にすぎないことを強調す る部分である。 たとえば同年8月15日の条に「イブラヒムの 生涯をテーマとして放送原稿をかく。ふるい過 去の,影のうすい案山子」(378頁)とある(6) 。 戦時下の社会で,心にもない宣伝用作文を書か されている人物の姿が目に浮かんでくるが,イ ブラヒムには酷な言葉が綴られている。また9 月1日の条には「ゆうべ九 マ 四 マ 歳の老翁イブラヒ ムが死んだという。この老翁こそ大日本回教協 会の「うりもの」だったのに。協会は彼につい てのいろいろな潤色や仮構をおこない,そして これによって自己の回転をつづけてきた。私も またこのような「聖人」の「製造工程」に参加 した者の一人である」と,協会の宣伝とそれに 加担した自らの欺瞞を自嘲気味に記している。 そして「イブラヒムの死はひとつの短篇の材料 となることができよう」と続け,汎イスラム主 義者としての長い人生の果てに日本で回教政策 の広告塔として歿したイブラヒムの数奇な運命 に,一種の文学的モチーフを見出している(386 頁)。 さらに翌2日の条を見ると「きょうはイブラ ヒムの葬式だ。彼の家にゆき,トルコ・タター ルの群れにかこまれた彼の柩のそばの椅子に腰 をかけ,ペンをはしらせて当日の状況をかきと どめる。ついで代々木の礼拝堂にまわって,夕 方に協会へかえり,さっそく参謀本部からの注 文で「イブラヒムの逝去」についての短文をか く。自分ながら実に妙な仕事だ。しかし,これ もまたおもしろいことだといえる。ゴーゴリの ような描写能力がほしい!」(386頁)と,もし 作家だったならば,本当にイブラヒムを題材に

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小説を書いたのではないかと思わせるような記 述になっている。イスラム関連の国策機関で仕 事をしながら,その事業を冷めた目で批判的に 観察していた古在であるが,イブラヒムという 人物に,ある種の劇的要素は感じ取っていたの であろう。しかし,フィクションであれノン フィクションであれ,実際にイブラヒムを中心 にすえた作品を残したような形跡は古在にはな い。 (3)青山光二 作家の青山光二(1913−2008)も古在と同時 期にイブラヒムと関わった人物である。古在同 様,彼も最初から在日ムスリムに関心を抱いて いたわけではない。戦時中の仕事をきっかけ に,たまたま彼らとの関わりができた。そのと きの事情を彼は戦後発表した「回教映画顚末」 というエッセイで明かしている(7) 。 青山は昭和18(1943)年8月に社団法人映画 配給社(1942年設立)に入社した。「生活のた めもあったが,徴用のがれということもあっ た」らしい(8) 。同社で南方局という部署に勤め ることになり,占領地向けの宣撫映画を制作し ていたが,あるときふと「南方占領地域の住民 の大部分が回教徒であることに思いいたつた。 そして,日本にも各民族の回教徒が多数存在し ていて,日本政府の手厚い保護をうけながら, 平和な宗教生活を営んでいる,てな具合の映画 をつくれば,大いに宣撫の効果があがるだろう と考えた」という(9) 。そこで大日本回教協会の 専務理事だった大村謙太郎に面会,さらに参謀 本部の了承も得たのち,大村の仲介によって情 報局とも通じた上で,南方向短篇映画『東京ノ 回敎徒』を制作することになった。 当時,モスクは東京,神戸,名古屋,京城の 四箇所にあったが,後二者は「貧弱で絵になら」 ず,神戸モスクは「立派だが,同じ回教でも東 京と神戸とでは宗派がちがうので,この二つの モスクを一つの映画の中で扱えば,たいへん厄 介な事態をひきおこすおそれがあるらしい」(10) ということで,結局,東京モスクを中心とする コミュニティ,とくに「代々木近辺に集団的に 家をもつている百五,六十人のトルコ・タター ル族」,なかでも「中心人物」たるイブラヒム に焦点が当てられたのだった(11) 『東京ノ回敎徒』は,大日本回教協会監修のも と,「室町一郎」名義の青山光二が脚本を担当 し,森井輝雄が監督を務めた。この作品は,南 方局で青山が実務を担当したなかで最も手のか かった「五巻ものの記録映画」だったという(12) 。 脚本ができたのは昭和19年6月で,それから撮 影に入り,9月末に完成,10月はじめには特別 試写会が開かれている(13) 。しかし,そのころに は「お先真っ暗な戦争のなかで,宣撫映画なる ものに多少とも意味や効果があろうとは,もは や私には思えなくなっていた」と青山は後年 語っている(14) 。 『東京ノ回敎徒』特別試写会チラシ(筆者蔵) 映画の内容については今のところ不明な点が 多く,国策映画という性質上,本稿の趣旨から も外れるので,ここでは紹介しない(15) 。本稿で は引き続き青山の書き物のほうを取り上げる。 「回教映画顚末」は,中間小説・大衆小説で

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知られた作家が,艶笑を売り物とする戦後の大 衆雑誌に発表した回想エッセイである。戦中期 の国策機関の打明話をおもしろい読み物として 読者に提供するのが狙いだっただろう。古在の 日記に顕著だった,批判的・反省的意識の鋭さ は感じられない。エッセイ終盤では,老齢で体 調のすぐれないイブラヒムを映画撮影のために 酷使した──著者はこれとイブラヒムの死を結 びつけている──うえ,イブラヒムが亡くなる と,「〝東京の回教徒〟でなくて,〝私の殺した 男〟と題名を変えたらどうかね」と言う上役に 対して,「いや,台本に書いてないだけで,あ の爺さんが死ぬかもしれんということは,ちや んと勘定にはいつているんですよ。明日,葬式 の場面を撮ります」等々の「神を畏れざる会話」 を交していたとも語られる(16) 。そして最後は, 撮影終了後に森井監督をはじめとする四人の関 係者が次々に亡くなったことを明かし,これを 「アラーの神さまのタタリ」としつつ,「アラー の神は畏るべきかな!」という一文で文章を閉 じる(17) 。こうした文体や文章構造上からは,や はり,珍談奇談の性格が強いエッセイに分類さ れるであろう。 しかし,戦中期の日本の回教政策について, 他の資料からは見えづらいような,ある意味滑 稽とも言える現実を風刺画的に描き出している 点は,むしろこうしたエッセイが持つ価値と言 える。たとえば,イブラヒムが置かれた皮肉な 状況や大日本回教協会の実態について,奇しく も古在の名前を出して述べている部分がある。 これほどの数々の徳を備えた翁が,教団の 慈父として同族の回教徒の信望をあつめるの は当然だと思われたが,一方,南方攻略にあ たつて,回教圏民族への翁の指導力に着眼し た日本の軍部も,さすがに抜け目がないと私 は感じ入った。翁は月々千円とかの手当を陸 軍から支給されて,いわゆる飼い殺しの身で あるらしかつた。当局は時宜に応じてお手盛 りの宣伝文やメツセイジを,翁の名において 内外に発表していたが,それらのメツセイジ や国外放送原稿は,どうやら回教協会の調査 部が作成しているらしい。その調査部には左 翼学者の古在由重氏などが世をしのんでいる のだから,戦争というものもおもしろいと私 は思つたものだつた。──ともあれ,民族運 動家としてのイブラヒム翁の信念と,現在の 翁が,弾圧的に立たされている立場との間に は,既にして多大の齟齬があるはずだつた が,翁の力を以てしては如何ともなす術がな かつたろう(18) 。 また,映画撮影の様子が詳しく語られた部分 も,ユーモラスに描かれてはいるが,内容は撮 影にともなう日本人スタッフと在日タタール人 のすれ違いに関するものである。老齢のイブラ ヒムに無理をさせたことで双方が対立する場面 も描かれており,ムスリムとの友好をアピール する宣伝映画であるにも拘らず,かえって在日 ムスリムとの間に溝をつくっていたような現実 が描かれている。イブラヒムが息をひきとると きに「私は回教徒だ」と三度繰り返したことを 聞いて,「前後から凶器をつきつけられて生き てきた晩年の生活への,それが翁の最後のせい いつぱいな抗議であつたように,私には思われ た」というくだりは,まるで第三者であるかの ような言い方だが,イブラヒムに対する青山の 同情を表わしてもいる。そのような視線は,次 のような箇所にも感じられる。 その様子はさすがにカクシヤクとは評しかね たが,いかにも闘争に明け暮れる生涯を経て きた人らしく,骨太な感じの逞しい身体つき をいまだに一本の強靭な線がつらぬいている 風であり,いわば九 マ 十二 マ 歳という異常な年齢 が,弱さとしてではなくむしろ強さとして迫 つてくるのだ。渋紙色というか赤銅色という か,一種いいがたい色にやけた彫りの深い銀 灰色の髯に囲まれ,長寿の相である長い眉毛 の下に,老人らしく凹んだ両の眼は鋭い情熱

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の光をまだ消してはいない……〔中略〕…… かすれがちの声ながら,いやそれゆえ一層情 熱的な圭角の感じられる烈しい調子の翁の話 しぶりから,私は翁の衰えぬ闘志といつた風 なものよりも,むしろ,翁の孤独をひしひし と感じたのをおぼえている。いわば一道に達 した達人の孤独。キザないい方をするなれ ば,英雄の孤独。──イブラヒム翁には「人 生の名優」のおもむきがあつた(19) 。 この部分には,やはり青山の作家としての描写 力が示されている。無論,客観的描写と言って よい部分と青山の個人的印象が混淆しているの だが,古在の日記の簡素な文面だけからはうか がえないイブラヒムという人物の奥行きが表現 されているとも言える。 『東京ノ回教徒』をめぐる体験は青山にとっ ても相当印象深かったようで,「回教映画顚末」 のようなエッセイだけでなく,小説の執筆を考 えたこともあったらしい。彼の遺稿のなかに 「映畫顚末」と題された草稿が残されている(筆 者蔵)。400字詰原稿用紙にわずか1枚半ほどの 文章である。 1 W映画社の企劃部に所属する須賀が,回教 徒の生活を短篇映画にまとめようと思ひつい たのは,小田急沿線代々木大山町にある回教 寺 モ ス ク 院の異国風な景観が頭にあつたからであ る。寺院を中心に集団生活をしてゐるトル コ・タタール族男女の,恐らくは相当風変り な生活をいくらか芝居めいたシヤシンに作つ て,六千万にちかい回教徒のゐると云ふ南方 へ向けた宣伝を覗へばよい。これで当分,息 抜きが出来ると云ふものだ。──少年兵の連 ママ 成訓練や飛行機の宣伝映画ばかり作らされる 生活にいい加減やりきれなくなつてゐた須賀 は,こんな風に考へた。 で,一応の準備をととのへると須賀は,澁 谷の高台にある大東亜回教協会へ乗り込んで 行つた。この協会は參謀本部の外廓團体であ り,回教關係の謀略宣伝を擔当してゐる所で ある。東京に住む外國人の回教徒にも協会の 息はかかつてゐる筈で,どのみち此の協会の 力をかりなければ此の映画は出来上らないの であつた。 須賀は,社長から此の協会の会長である天 野川陸軍中将に宛てたタイプで打つた公文書 を携へてゐたが,やがて応接室に姿をあらは したのは専務理事の小森玄太郎であつた(20) 。 このあとは白紙になっている。どうやら,冒頭 部分を書いたあと放棄してしまったらしい。同 じく「映畫顚末」と題された400字詰原稿用紙 が1枚あり(筆者蔵),こちらには登場人物に 関するメモ書きがあるが,詳しい筋まではわか らない。ただ言えることは,これら2種の遺稿 に記されている内容は「回教映画顚末」と重な るところが多く,文言もところどころで同じも のが用いられていることである。はたして青山 が「回教映画顚末」とは別に小説を構想してい たのか,それとも,小説として構想されたもの が結局は作品化されず,「回教映画顚末」とい うエッセイとして発表されることになったのか は,遺稿の執筆時期が不明なこともあって今の ところ判断し難い。 (4)井筒豊子 結局,イブラヒムを実際に小説に登場させた のは,井筒豊子であった。イブラヒムは,政治 方面だけでなく,初期の日本のイスラム学に対 する貢献でも知られている。具体的に言えば, イスラム学者の井筒俊彦(1914−93)らにアラ ビア語を教授したことなどである(21) 。その井筒 俊彦の夫人,豊子が戦後発表した短篇小説「バ フルンヌール物語」(1959)に,「イブラヒム」 が実名で登場する(22) 。「昭和十×年の話である。 C大学,文学部助手,青木辰夫は,小田急のY にある,イブラヒム老人の家に呼ばれて行っ た。十二月の初旬,回教寺院では,ラマザン月

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最後の大祭が行われる筈の,カドルの夜のこと だった」(41頁)と,冒頭からイブラヒムの名 前が出てくる。 しかし,本作の主役はむしろ,この後イブラ ヒムが青木辰夫(井筒俊彦がモデル)に対して, 自分とは桁違いに偉大な学者として紹介する, 型破りな放浪のタタール人学者「ムーサー」で ある。彼も実在の人物,ロシアの改革派ムスリ ム知識人ムーサー・ジャールッラー・ビギエフ (Musa Carullah Bigiyev, 1873−1949)をモデ ルとする。イブラヒム同様,若き日の井筒俊彦 と交わりのあった人物である。イブラヒムと異 なるのは,短期間しか日本に滞在しなかったこ とだが,それでも井筒俊彦に与えた影響は絶大 だったらしい。のちに井筒は彼との出会いや, 彼から受けた感銘,その博識ぶりなどを印象的 に語っている(23) 。 おそらく,作者は夫からこうした話をよく聞 いたのだろう。井筒俊彦が語るムーサーの言動 はそのまま豊子の創作に見出される。たとえ ば,井筒俊彦と作家の司馬遼太郎の対談には 「おまえみたいなのは,本箱を背負って歩く, いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者 じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら, その学問の基礎テクストを全部頭に入れて,そ の上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようで ないと学者じゃない」とムーサーが言ったとあ る(24) 。「バフルンヌール物語」でもムーサーは (自分の頭を指先でつつきながら)「本は要らな い。此処にすっかり入っている」(48頁),「谷 一つ隔てた彼方で,学問が出来ぬようでは,真 のアッラーマ〔「大学者」……引用者〕ではない。 砂漠は広いよ。一生文献を背負って歩く学者 は,哀れなでんでん虫だ」(49頁)と言ってい る。 ただし,「バフルンヌール物語」はあくまで 幻想ミステリー風の雰囲気と筋をもった作品で あり,ムーサーにはかなりフィクショナルな要 素が付加されている。彼はかつて妻を殺され, その宝石「バフルンヌール」を盗まれた。その ときの犯人を偶然日本で見つけたムーサーが, 妻の復讐と形見であるバフルンヌールの奪還を 企てるという話である。 奇妙なのは,ムーサーやイブラヒムがタター ル人であるにもかかわらず,作品には「アラビ ア」的装飾が色濃くほどこされていることであ る。作品名の「バフルンヌール」(光の海)を 含めて,全体的にアラビア語が(ルビを含めて) それらしい雰囲気を出す小道具として多用され ている。「ラマザン月」「コーラン」など広く知 られている語はともかく,「カドルの夜」「アッ ラーマ」「タマーマン」などから,果ては「シー バワイヒ」(8世紀のペルシア系のアラビア語 文法学者)や「アルフィーヤ」(韻文による13 世 紀 の ア ラ ビ ア 語 文 法 書 ),「 タ ア ッ バ タ・ シャッラン」(前イスラム期のアラブ詩人)と いったアラブ文学史上の固有名まで登場する。 ムーサーが朗誦するのもアラビア語の詩であ る。 その反面,トルコ・タタール的側面について は(言語を含めて),ほとんど触れられていな い。いかに彼らがアラビア語に秀でており,実 際にアラブ圏にいたことがあると言っても,や や不自然な感はある。しかも,作者は「アラビ ア」の砂漠的風土を当然のごとく作中に取り入 れている。ムーサーの亡き妻「ライラー」の写 真を見た辰夫は「砂漠の黒テントに住むベド ウィン娘らしい」と思う(55頁)。実際に「バ ヌー・サクール族(砂漠のベドウィンの中でも 強大な一部族)の首長の娘」だったとムーサー は言う(56頁)。また,セム語学者の山形教授 がムーサーの手紙を辰夫に見せながら「随分人 を食った手紙じゃないか,ねえ君,アラビア的 なのかねえ,これが……」(68頁)などと言う のも,ムーサーがタタール人であることを考え ると,奇異に思われる。 こうした「アラビア」的要素は,やはり作者 とその夫である井筒俊彦のイスラム世界に対す る関心の持ち方,アプローチからきているのだ ろう。イブラヒムやムーサーはタタール人であ

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り,実際にそう説明されるが,作中では幻想に 満ちたアラビア世界への入り口ではあっても, 中央アジアやロシアといった世界への回路とは なっていない。また,この物語は回教工作にも 言及してはいるが,政治的な作品ではない(25) イスラム思想等に焦点が当たっているわけでも ない。放浪のムスリム知識人ムーサーに触発さ れて書かれてはいるが,あくまで「アラビア」 風のエキゾチックな雰囲気をもった奇譚・幻想 小説作品であろう。 3.林芙美子『放浪記』 林芙美子(1903−51)の『放浪記』(1928− 49)は日記体の半自伝的小説である。その名の とおり,ある貧しい少女が地方から上京し,女 中や下女,女給,女工など社会の底辺の仕事に つきつつ場所を転々としながら日々の暮らしや 詩想をつづってゆく。作者自身の経験が盛り込 まれているとはいえ,虚実ないまぜの作品であ る。物語内の時間は作者の伝記的事実に照らし 合わせて,だいたい1920年代と言ってよいが, 個々の出来事の日時と場所は事実に変更が加え られていることも多い。 この作品のなかに日本で暮らす「トルコ人」 が顔を出している。第一部の終わりのほうで, 「私」が一旦東京を離れて関西にやってくるく だりがある。「私」は神戸で汽車を降り,街を ぶらつきながら「何年昔になるだろう──十五 位の時だったかしら,私はトルコ人の楽器屋に 奉公をしていたのを思い出した。ニイーナとい う二ツになる女の子のお守りで黒いゴム輪の腰 高な乳母車に,よくその子供を乗っけてはメリ ケン波止場の方を歩いたものだった」と回想す る(155頁)(26) 。作者が15歳のときと言えば,ま だ尾道にいるころのことである。このころか ら,芙美子は学校に通うかたわら女工や女中な どとして働いていたようだが,神戸で「トルコ 人の楽器屋に奉公」したことが実際にあったか どうかはわからない。統計資料を見ると,その ころから神戸在留「トルコ」人が数名いるのは たしかだが(27) ,このあたりは創作ということも ありうる。 しかし,『放浪記』にトルコ人が登場するの は,ここだけではない。もう一箇所ある。第二 部,「私」が東京のカフェーで女給として働い ていたときの様子を描いた部分である。 私の番に五人連のトルコ人がはいって来 た。ビールを一ダース持って来させると, 順々に抜いてカンパイしてゆくあざやかな 呑みぶりである。白い風呂敷包みの中か ら,まるでトランクのように大きい風琴を 出すと,風琴の紐を肩にかけて鳴らし出 す。秋の山の風でも聞いているような,風 琴の音色,皆珍らしがってみていた。ボク ノヨブコエワスレタカ。何だと思ったらか ごの鳥の唄だった。帽子の下に,もう一つ トルコ帽をかぶって,仲々意気な姿だっ た。 「ニカイ アガリマショウ。」  若いトルコ人が私をひざに抱くと,二階 をさかんに指差している。 「ニカイノ アルトコロコノヨコチョウデ ス。」 「ヨコチョウ? ワカラナイ。」  私達を淫売婦とでもまちがえているらし い。 「ワタシタチ トケイヤ。」  若いのが遠い国で写したのか,珍らしい 樹の下で写した小さい写真を一枚ずつくれ るなり。 ……〔中略〕…… 「トルコの天子さん何て言うの?」  時ちゃんが,エロウ・パウダ〔「辛子」 を指している……引用者〕氏にもたれて聞 いている。 「テンシサンなんて判るもんですか。」 「そう,私はこの人好きだけど通じなきゃ 仕方がないわ。」  酒がまわったのか,風琴は遠い郷愁を鳴

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らしている。ニカイ アガリマショウの男 は,盛んに私にウインクしていた。日本人 とよく似た人種だと思う,トルコってどん なところだろう。私は笑いながら聞いた。 「アンタの名前,ケマルパシャ?」  五人のトルコ人は皆で私にエスエスと首 を振っていた(287−290頁)。 作者が女給として東京のカフェーを渡り歩いて いたのは大正後期,ちょうどタタール人が来日 し始めたころにあたるが,ここに登場する「ト ルコ人」がタタール人を指しているのかどうか は定かでない。しかし,作者がカフェーの客と してタタール人を迎えた経験を採り入れた可能 性は高いように思われる。第一に,当時の日本 においてタタール人は,これから見るように, しばしば単に「トルコ人」と呼ばれていた。第 二に,この「トルコ人」は風琴(アコーディオ ン)を持ち歩いている。タタール人がこの楽器 を愛用していたことは同時代のトルコ学者大久 保幸次も書いている(28) 。芙美子の短篇「風琴と 魚の街」(1931)は尾道時代を素材にした自伝 的作品であるが,作中,語り手の「父」(養父) が毎日風琴を鳴らしながら薬の行商に出かけて 行く様子も思い出される。「トルコ人」は「ワ タシタチ トケイヤ」と名乗っているので,(風 琴を鳴らしながら?)時計の行商をしていたの かもしれない。行商は資本に乏しい在日タター ル人や白系ロシア人の主要な仕事の一つであ り,よく知られた羅紗だけでなく,時計を売り 歩いた人々もいたようである(29) 。第三に,「か ごの鳥の唄」を演奏し歌っている。「籠の鳥」 (千野かほる作詞,鳥取春陽作曲)は,大正11 (1922)年にレコードが制作され,同13(1924) 年には帝国キネマによって同名の映画も製作さ れ た 大 正 末 期 の 大 流 行 歌 で あ る。 場 末 の カ フェーでの振る舞いやこのような曲の演奏は, これら「トルコ人」が日本社会の大衆層に近い ところにいたことを思わせる。こう考えると, この「トルコ人」たちが当時日本にいた無国籍 タタール人をモデルにしている可能性は低くな いように思われるのである。 ところで,『放浪記』のこの場面には「トル コの天子さん」と「ケマルパシャ」が会話に出 てくる。第一次世界大戦後の,オスマン帝国か らトルコ共和国への移行期という時代背景があ る。そして,これらの名前を口にする「私」や 女給仲間にとって,トルコと言えばオスマン帝 国やトルコ共和国であって,タタールのイメー ジはなかったであろう。 いずれにしても,ここに描かれている「トル コ人」に宗教的言動は見られない。作者のほう でも,宗教的観点から彼らを見ていた形跡はな い。片言の日本語を話す陽気で無邪気な外国人 に対する親しみを表現し,自分のことを「淫売 婦」と思っているらしい男にも「日本人とよく 似た人種だと思う」との感想をもらしている。 この表現が外見のことを言っているのか,気質 や醸し出す雰囲気のことを言っているのかは判 断しようがないが,少なくとも彼らの身体的特 徴を描写するような記述はない。したがって, 他の作家に見られるような西洋人的容姿を強調 する視点もない。芙美子はここで「トルコ人」 を「白人」という観点からも,ムスリムという 観点からも見ていないと言える。「アンタの名 前,ケマルパシャ?」とあっけらかんとした調 子で訊きはするものの,そこに政治的関心はな さそうだ。自分と同類の放浪者ゆえの悲哀とい うような観点すら,あまり強調されてはいな い。気のいい珍客に対する親しげな感情以外の 何もないところは,無関心と同義とも言える し,予断のない率直な態度とも言えるだろう。 4.小林勝「フォード・一九二七年」 同じように「トルコ人」行商人を登場させた 作品に,小林勝(1927−71)の短篇「フォード・ 一九二七年」がある。これは1956年に発表され た作品であるが,物語は昭和戦前から戦中期に かけて展開している。この作品の特徴は,物語 の舞台となるのが朝鮮だということである。作

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者は父親が朝鮮で学校教師をしていたため,朝 鮮慶尚南道晋州に生まれており,植民地朝鮮で の幼少時代の体験をもとに,植民者である日本 人の複雑に屈折した加害者意識,差別意識,劣 等感,「故郷」観などをテーマとした作品を数 多く発表した。「フォード・一九二七年」もそ うした作品の一つで,そこに「トルコ人」行商 人が重要な役割を担って出てくるのである。こ こでも,呼称は「トルコ人」であるが,当時の 朝鮮の状況や衣類行商という職業,そして「す らすらと日本語を喋った」(20頁)(30) ことを考え ると,やはりタタール人だったと思われる(京 城や,作者が中学校に通った大邱,そして釜山 などにはタタール人が在留していた)。内地の タタール人行商人が描かれた作品は,一般人の 回想録も含めれば,そこそこの数になるだろ う。だが,朝鮮での話は珍しい。その意味でも 貴重な作品である。 物語の舞台は朝鮮南部を流れる「洛東江のみ なもとの山深い町」に設定されている(8頁)。 軽便鉄道の終点であるこの町には日本人植民者 たちが暮らしている。語り手の「ぼく」は小学 五年生,町の警部補の息子である。町はずれに は「ドングリ山」と呼ばれる丘があり,その「丘 の麓には,土塀で囲まれた朝鮮の民家」があっ て,一番奥の古い家には「人喰い婆さん」が住 んでいると噂されていた(11頁)。その「ドン グリ山」の上に一軒の西洋館があり,そこに 「トルコ人」一家が住んでいた。 「トルコ人」は町で唯一,自家用車を持って いた。「もはやひと昔前の(つまり一九二六, 一九二七年の)古ぼけたフォードだった」(11 頁)。作品名はこの自動車から来ている。「トル コ人は,昭和のはじめに,鉄道によってではな く,この車にのって,町へあらわれた」(12頁)。 「新品のフォードにのっているのは,鋭いカギ 鼻と青い眼をもったトルコ人の夫婦だった。 いっそう驚いたことには,日本人とちがってこ のトルコ人は,愛想よく笑いながら手をふった ……〔中略〕……トルコ人のフォードは移動す る商店だった,彼は軽便鉄道で運ばれてくる呉 服を車にいっぱいつみこんで,いっそう深い山 の中へもぐりこんで行った」(13頁)。このトル コ人が「実はキリスト教の宣教師」ではないか という噂が立つ。「この噂を真実らしく見せた のは,日曜日になると,きまって,清潔な身な りをした朝鮮人たちが,多勢ドングリ山のトル コ人の家へ集ることだった。教会のないこの町 では,トルコ人の家を教会の代用品として使っ ているのだ,という噂だった」(13頁)。無論, 根も葉もない噂である。知識のある人は「トル コ人ってのは,宗教上はマホメット教,つまり 回教徒に属している」のだから違うという(14 頁)。だが,噂を信じきっている人々は聞く耳 をもたなかった。 トルコ人は日曜の午後になると,朝鮮人たち を車に乗せて町を一回りする。朝鮮人と仲良く つきあっているので,町の日本人たちはトルコ 人とのつきあいを避けている。「朝鮮人なんか0 0 0 と友達づきあいをしているトルコ人のところへ 行くのは,わざわざ朝鮮人と対等関係になろう とするものだ,とうい考えがごく普通にあった のである」(15頁,傍点原文)。とはいえ,そこ には日本人のコンプレックスがあり,朝鮮人を 乗せたフォードが町中を走ると,「日本人たち は,まるっきり無視するか,或いは誇りを傷つ けられたような顔」をして,トルコ人をにらむ のではなく,むしろ朝鮮人をにらむのだった (15頁)。 このように,トルコ人は異人として,日本人 と朝鮮人の関係を描くための道具として物語に 登場する。「ぼく」もこの優しいトルコ人に声 をかけられる。  ──あなたも乗りませんか? みんな 乗っています。  トルコ人は同じような微笑を車の内にむ けた。その時,ぼくのほぐれかけていた心 が,ぎゅっと堅くなった,顔がかすかにこ わばった,ぼくは首をふった。朝鮮人と

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いっしょにトルコ人の車に乗ったなんてい う事が知れたら,友達に何といわれるかし れなかった,おやじに叱られるかもしれな かった。トルコ人の善良そうな笑いが消え て,軽い失望が顔に浮んだ,思いなしか彼 の声も低くなったようだった(20頁)。 トルコ人はそれでも,家へ遊びに来いと「ぼ く」を誘う。「むすめがいます,こんなに小さ い。この言葉はそれから後,幾度となくぼくの 耳の中によみがえって来た。ぼくは外人の子供 というものを,姉の部屋にあるフランス人形で しか見たことがなかった」(21頁)。この箇所に も端的に表れているように,トルコ人は,「外 人」=「西洋人」というイメージでとらえられ ている。 やがて「ぼく」は姉と一緒に山の上の西洋館 を訪ね,そこで朝鮮人の子らと一緒に遊ぶトル コ人少女と会話することになるのだが,この場 面は,日本人と朝鮮人のあいだの権力関係に風 穴が明けられる瞬間を鮮やかに描いている。ま ず「ぼく」が少女に名前を聞くが,少女は「ぼ く」の日本語がわからない。そこで,朝鮮人の 子供が少女に代わって「ぼく」に「下手くそな 日本語で」伝える──「ジェン,といいます」。 しかし,「ぼく」は「お前になんか聞いてない よ!」と邪険に返し,「ぼく」の姉が英語で少 女に挨拶する。しかし,それも通じない。そこ で「ぼく」が「無茶くちゃな朝鮮語」で家に車 があるかどうかを少女に尋ねる。すると,少女 は笑いながら「いとも鮮やかに」,「チャドン チャ,イッソ!(自動車,あるわ)」と答える のである(22−23頁)。この会話に「耳をすま せていた子供たちは,彼等の暗いオンドルの中 に閉じこめられていた言葉が太陽の光の中にと び出して来たのをしって,にわかに生き生きと した笑いを顔に浮べながら側へよってきたので ある」(23頁)。 こうして「ぼく」は思う──「その時,ぼく は,山の下の小っぽけな町の中でこそ朝鮮人を 馬鹿にして暮しているが,しかし,この山の中 では,ぼくと姉とは,自動車と汽車という単語 二つよりほかに何の居場処もない,遠い外国へ 来てしまったような気がしたのである。そして その外国の主人公は三人の朝鮮の子供であり金 髪のトルコ娘だった」(23−24頁)。ここで「ぼ く」は初めて朝鮮で「外国」を経験したことに なる。 やがて,太平洋戦争が始まり,「朝鮮にすむ 外人に気をつけろ,奴等はスパイだ!」という ポスターが掲示される雰囲気のなか,トルコ人 は追い出されるようにして町を出ていく。しか し「ぼく」はその現場を見たわけではない。す でに内地(東京)に帰って,外国語学校の生徒 となり,その後二等兵として朝鮮を再び訪れた 「ぼく」がそのときの様子を空想しながら傍ら にいる衛生兵に語っている──という複雑な語 りの構造になっている。 この作品には植民地朝鮮における日本人と朝 鮮人の──子供同士にまで及ぶ──権力・支配 関係が描かれている。どちらのコミュニティに も属さない異人・境界人としての「トルコ人」 を両者のあいだに投げ込むことによって,両者 間の権力関係の脆さを暴露している。トルコ人 は,完全な第三者である。どこから来てどこへ 去ったのかもわからない。描き方を見ると,「ム スリム」としての側面が強調されることはな く,むしろ西洋的なイメージが周囲に配されて いる。実際,第三者というだけなら「西洋人」 でもよかっただろう。しかし,外見は「西洋人」 であっても,実はそうでないことに意味があ る。ムスリムである彼らは,近代における日本 と西洋のしがらみから自由だからである(現地 の日本人たちは「キリスト教には理由不明の反 感を持っていた」15頁)。「トルコ人」は無実の 罪の疑いをかけられた善良な人として描かれて いる。彼らは,日本語と朝鮮語を操る第三者で あり,だからこそ,植民地における日本人と朝 鮮人の関係を,言語を媒介としながら鮮やかに 暴き出す役割を担うことができた。

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5.三島由紀夫「土耳古人の学校」 作家の三島由紀夫(1925−70)の遺稿の中に 「土耳古人の学校」という短文がある(31) 。新潮 社版全集(決定版)に収められた井上隆史編の 「作品目録」によれば,昭和12(1937)年(度), 学習院中等科一年のときに学校の課題として書 かれたものだという(32) 。東京には大正時代から タタール人(およびバシキール人)のコミュニ ティがあり,その指導者クルバンガリー(1889 −1972)らによって,子弟のイスラム教育のた めの学校が昭和初期には作られていた。最初の 学校は昭和2(1927)年11月,東京市外柏木に 開設されたが,昭和6(1931)年1月には渋谷 区代々木冨ケ谷に新しい学校,東京回教学校 (東京回教徒小学校)が設立された(33) 。三島由 紀夫が「土耳古人の学校」と呼んでいるのは, この冨ケ谷の学校にほかならない。三島(平岡 公威)は中等科入学まで両親の家(四谷区,現 新宿区四谷)に近い祖母夏子の家に住んでいた が,昭和12(1937)年4月上旬に両親と共に渋 谷区大山町15番地(現渋谷区松濤)に転居した のである(34) 。 少年時代の三島が書いた「土耳古人の学校」 は次のような文章である。  土耳古人の学校  私の家の横にある坂を登つて細い道を真 直に行くと,剝げた水色の番瀝青に飾られ た貧しい垣と低い門が有る。其の門柱には 墨で描いたのか殆ど見えない様な字があ る。上方のは,土耳古回々教学校とどうに か読めるが,下の方の奇妙な外国語がちよ いちよいと顔を出して大抵消えてゐる。木 造の洋風家屋は殺風景な庭の一隅にあつ て,二階は寄宿舎で階下は教室らしい。  日曜など,八時頃に起きて散歩に来て見 ると,土耳古人の子等がどやどやと入つて 行く。日曜だから御説教でも聞くのであら う。昼過ぎになると出て来る。  寄宿舎に居るものは,かなり小人数らし い。女の児の方が多いが,男の子も少なか らず居る。併し,彼等は実に哀れな身装を して居るのである。バンドのない状袋の様 な洋服や,男の子達は短い皴くちやなズボ ンをはき,見悪く汚ない上着を着けて居 る。時々彼等の口から本国の民謡風のもの が唱はれるが,他は流暢な日本語である。  或る雨の日,彼等ゴム長靴連の行方を見 てゐたら,代々木八幡の方角であつた。何 処でどんな暮しを行つて居るのか,私は彼 等の生活の上に好奇心を持つ。又彼等の容 貌は云ひ知れぬ愁ひを含んでゐる。其の眼 は,五月の空のやうに蒼く美しいが,眉の 奥深く黒い縁にかこまれて冷え切つた荒野 の土のやうに沈んでゐる。その頭髪はブロ ンドもあれば,稍鳶色のもあるが,酷く手 入を怠つてゐると見え,雀の巣のやうであ る。疲れ切つてほのかな紅色を失つた頰。 凡て快活な少年少女らしさを失つて居ると はいふものゝ,彼等はよく遊ぶ。  固いボールを以つて。  校庭の山羊を相手に。  秋雨の日など,よぼよぼの牝牡の山羊 が,ぬれた雑草を食べてゐる。  此の老夫婦の所へ,もう直ぐ子山羊が来 るさうである。  山羊は,親しみを湛へた目で私に寄つて 来る(35) 。 早熟の才能を謳われた作家だけあって,12,3 歳の子供が書いた文章とは思えないところがあ る。それはさておき,回想ではなく,日本の子 供が同時代に書いた在日ムスリムの記録はほと んどないので,そうした意味で貴重なものと言 える。 全体として,平岡少年は,異国に暮らす貧し い外国人集団に対して同情と好奇心とエキゾチ シズムの交じったような視線を注いでいたと言

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える。文中に特別宗教的な関心は見られない。 当時の子供に確固たるイスラム認識がなかった としても当然であり,「日曜だから御説教」云々 は,おそらくキリスト教からの発想であろう。 もちろん「回々教学校」であることは知ってい るのだが,題名にあるように,ムスリムという よりはむしろ「土耳古人」として見ている。学 校の生徒らの外見に対する観察は詳しく,服装 や容貌の描写は「土耳古人」児童たちの貧しさ や悲哀を強調している。最後の二行から判断す ると,彼らに近づいて直接会話を交わしたのか もしれない。こうして至近距離からタタール人 児童らに並々ならぬ関心を寄せていた平岡少年 であったが,作家となってから彼らを創作に活 かしたことはなかったようである。 6.宮内寒彌の4作品 作品のなかで東京の「トルコ人」コミュニ ティを独特の仕方で大きく取り上げたのは宮内 寒彌(本名・池上子郎,1912−83)だった。寒 彌は明治末年,岡山県に生まれたが,大正12 (1923)年に父親の仕事にしたがって一家で樺 太に渡った。この樺太体験が,とりわけ初期の 作品に大きな影響を与えている。のち早稲田大 学の英文学専攻に進み,昭和10(1935)年,第 三次『早稲田文学』に発表した「中央高地」が 第二回芥川賞候補作となり注目を受けるように なった。戦前,戦中,戦後と小説やエッセイを 断続的に発表し続け,昭和53(1978)年,『七里ヶ 浜』で第六回平林たい子賞を受賞している(36) 。 しかし,現在ではほぼ忘れられた作家となって おり,その著作を系統だてて読むのも簡単では ない。 寒彌は在日「トルコ人」が登場する作品を, 以下のとおり,少なくとも四つ書いている(37) 。 1) 「土耳其人サギタ孃に失戀した頃」『作 品』昭和13年5月号《春季短篇大會》 (2−5頁) 2) 「贋回敎徒」『早稲田文學』(第三次) 昭和13年6月号(69−110頁)(38) 3) 「未來」『中央公論』昭和13年10月号(創 作「新人短篇特輯」17−30頁)(39) 4) 「ぶるう・ぶつく」『文藝』(改造社) 昭和15年8月号(108−139頁)(40) すべて昭和10年代に発表されており,時期とし て は か な り 集 中 し て い る。 な か で も 昭 和13 (1938)年に三作品が発表されていることは興 味深い。この年の5月,日本の政財界による援 助もあって東京にモスクが建立され,アブデュ ルレシト・イブラヒムがその初代イマームに就 任した。同年9月には大日本回教協会が正式発 東京回教学校の山羊,1937年。 Basic Studies

about the Turkish & Tatar Muslims in the Modern Japan Project, supported by TOYO

University ed., Tokyo Muslim School Album 1927-1937), Asian Cultures Research Institute,

TOYO University, 2011.(1937年発行の『東京回 敎學校十周年記念寫眞帳』のリプリント。本資料 は東洋大学の三沢伸生先生に御教示いただいた。)

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足している。つまり,日本の「回教政策」が活 発化していく時期にあたり,国外での対ムスリ ム工作だけでなく,国内においてもイスラムに 関する啓発がさまざまに図られるようになって いくのがこのころなのである。とくに「土耳其 人サギタ孃に失戀した頃」や「贋回敎徒」が雑 誌に掲載されたのは,まさに東京モスクが開堂 し,国内外からの賓客を招いて大がかりな落成 式典(5月12日)が行われた時期にあたる。 宮内寒彌の四作品は,しかし,そのような発 表時期を考えると興味深いことだが,国策的雰 囲気からはほど遠い,きわめて個人的で奇妙な 性的幻想に満ちたムスリム女性の表象を行っ た,驚くべき異色の作品群なのである。四つの 作品は若い美貌の「トルコ人」女性に対する憧 れと失恋という同じ主題に対する四つの変奏と も言え,それぞれが他の作品に対する注釈・補 完になっているところがある。 (1)「土耳其人サギタ孃に失戀した頃」 まずは最初に発表された「土耳其人サギタ孃 に失戀した頃」を見てみよう。掲載雑誌でわず か4頁弱の掌篇である。ある夜,若い男(作者 の分身)が集合住宅の自室に戻り,物思いにふ ける。 孤獨を守つて傷いた魂を醫さなければなら ない。これは,囘敎徒の女との交渉の破れ に依つて受けた打撃を囘復するために是非 とも必要なことであつた。破壞した生活は 不撓の意志に依つて再建し,索漠たる魂の 痛みは唯忍苦に依つて醫す外なかつた。す ると,かつて跪拜せんとした主マホメツト の命なる忍苦の精神が何時の間にか己を支 配してゐるのに氣附いた。古い記憶の中か ら,主を讃えて,不毛の沙漠に生きんとす る囘敎徒の不撓の意志の歌が響くのだ。 「神は偉大ナリ,神ノ他ニ神なし‥‥」忍 苦に依つて魂を醫さんとする祈り。だの に,その聲の中からは,滅却すべき當の女 囘敎徒の東洋的な肌が見えて來るのであつ た。此部屋に漂ふ春闇の中には,禮拜に赴 かんと沐浴する鳶色の肌があつた。肉慾の 眼に見た女を追つて,宗門に入らんとすれ ば,主は偶像崇拜禁制の札をかゝげ迫り, 孤獨の中に女の肌を忘却せんとすれば,囘 敎の忍苦の歌が響いて,この樣に再び女の 偶像に祈拜する己を發見しなければならな いのである。俺は狂気だ。彼はさう嘯く。 そして,ひたすらに忘却の時の流れてくれ ることを願つた。祈つた(2−3頁)。 これ以上の説明がないため,読者には詳しい事 情がほとんどわからない。ただ作品名とあわせ て考えると,男が「サギタ」と呼ばれる「土耳 其人」のムスリム女性に恋をして破れたという ことと,彼女のことが忘れられずに苦しんでい ることがわかる程度である。二人の関係がどの ようなものであったかについては何の手がかり もない。 興味深いのは,題名に「土耳其人」とあるに もかかわらず,むしろ「囘敎徒」として対象を 語っているところである(41) 。しかるに,そのイ スラム像は,「かつて跪拜せんとした主マホメ ツト」という表現が用いられるなど,あまり適 切なものとは言えない。また,日本に暮らす 「土耳其人」女性であるにもかかわらず,「不毛 の沙漠に生きんとする囘敎徒」というような画 一化されたイメージを用いており,表現がステ レオタイプから抜け出せていない感がある。何 より,引用部分にはっきり表れているように, 関心の中心はあくまで,肉欲の対象,憧れ崇拝 する「土耳其人サギタ孃」である。彼女はまさ に「偶像」であって,その精神面への言及すら ない。宗教的な関心からイスラムに接近したわ けではなく,たまたま惹きつけられた女性がム スリムだったために,無理やりイスラム的要素 を導入し,しかもそこに自らの勝手な幻想を投 影しているだけのように映る。 この後は,隣室を覗き見する話──アンリ・

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バルビュスの『地獄』(1908)を示唆する一節 がある──であり,結局,トルコ人女性は登場 しない。ただ,隣人の生活を覗き見する合間に 「烈日の日の會堂に強靱な肌を汗に濡らした土 耳其の女とアラビア語の意志的祈りをした日を 囘想した」(3頁)り,これも隣人である貧し い絵描きの妻が寝台に腰かけて歌う様子を窃視 しながら「これが若し土耳其の女であつたなら ば,惡どい光景を現出するに違ひないと無意識 に思つ」(4頁)たりする。これらの部分では 「囘敎徒」という表現が消え,かわりに「土耳 其の女」が用いられており,やはり肉感的なイ メージが繰り返されている。そうして「彼には 次第に白人の薔薇色の體を諦める氣構えが出來 て行つた」(5頁)という一文で唐突に物語が 終わる。要するに,トルコ人女性に失恋して苦 しみ,やがてあきらめがつくまでを描いた私小 説風の作品と言えるのだろう。 特徴的なのは,作品全体に,精神的な思慕よ り肉体への過度とも言える関心が表出している 点である。これは他の作品とも共通する要素で あり,使われている表現も互いに似通ってい る。「女囘敎徒の東洋的な肌」「禮拜に赴かんと 沐浴する鳶色の肌」「強靱な肌を汗に濡らした 土耳其の女」「白人の薔薇色の體」などはすべ てそうしたものである。 注目すべきは,「囘敎徒」「土耳其」そして最 後は「白人」というように,女性の属性が変 わっていく点だろう。「東洋的な肌」「鳶色の肌」 と「白人の薔薇色の體」という表現に矛盾はな いのか。それらすべての属性を有するエキゾ チックな「土耳其人」女性に惹かれたというこ となのか。この疑問に対する答えは次に発表さ れた「贋回敎徒」のなかに見出される。今のと ころは,同じ女性が「白人」たるときは「薔薇 色の體」であるのに対して,「囘敎徒」である ときは「東洋的」であり「鳶色の肌」になると いう,ある種のイメージの鞏固な連関を確認し ておくだけにしたい。 (2)「贋回敎徒」 「贋回敎徒」は雑誌の紙面で42頁にわたる中 篇(目次には「百枚」とある)で,四作品のな かでは最も長い。それだけに,前作のような断 片性はなく,寒彌の放埓なファンタジーがまと まった形で現れた作品となっている。 冒頭に「回敎區」と題された部分がある。「一 九二七年一月,ソヴェート聯邦トルキスタン在 住の回敎徒百名餘りが日本へ亡命した」(69頁) という一文で始まっている。タタール人が来日 し始めるのはもっと早いので,やや不可解だ が,作者なりに在京タタール人(寒彌は「トル コ人」と書く)の歴史を読者に説明している。 4頁にわたるこの説明を読むと,細かな誤謬は あるにしても,作者が東京の「トルコ人」コ ミュニティについてある程度詳しい情報をもっ ていたことがわかる。物語の時代設定は東京モ スク建立前後である。 また,この前書きには,当初日本人がロシア 人と「トルコ人」を区別できず,金融恐慌時, 「トルコ人」に向かって「蓄生! 流浪露助奴, 縁起でもない」などと悪態をつく者もいたこと が書かれている。本人たちは「トルコ人」であ り「アジア人」であると言い,やがて日本人も 彼らがムスリムであることを認識するようにな るが,「若人」は彼らの娘たちの「白人種らし い」「大きく美しい體軀に心奪はれ」ると同時 に,「毛髪と皮膚に多分に窺はれる東洋的要素」 に惹きつけられる(70−72頁)。前作同様のテー マがすでに冒頭から出てきている。 この奇妙な物語の主人公は有島という若い男 である。前作の主人公の分身と言える。語り手 はまず,有島とその姉の風変わりな同居生活を 紹介する。姉の病気の療養のために,二人は小 田急沿線に三年ほど一緒に住む。二人のあいだ には近親相姦的な危うい雰囲気もあるが,やが て姉は回復し,学校の先生として高知へ旅立 ち,物語から姿を消す。姉との同居期間中に, 家の窓外に現れて羊を放牧したりしていたのが 「トルコ人」の女たちだった。もっとも,有島

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は当時,彼女らがトルコ人とは知らず,「露西 亜?」人だと思いながら,「白人の女の壓倒的 體力」や「この女達の體の美しさ」を目にし, 「彼女等の生きた體をそのまゝ,偶像に祭り上 げて禮拜讃美」していた(76頁)。 その後,一人暮らしを始めた有島は,婦人雑 誌「女子大學」の記者になって活躍する。彼は 大柄で体格がよく「彼の前では,名家の幼い令 孃や頑迷な老女族が性欲の奴隷に變り果てる」 (85頁)ほどの色男だった。ある問題が起きて 雑誌社を辞めた後も,彼は洋装の専門家とし て,女性の肉体美や,その表現たる衣装の研究 に没頭する。やがて,彼は通子という女と結婚 する。器量は十人並みだが,体格は素晴らしく, その点において有島の要求を満たす女性だっ た。 ある日,有島は「トルコ人ハルナ・ザイノウ ラ孃」に出会う。通子が以前修業していた新宿 の 君コンスタンチノープル府 洋装店で同僚だった女性である。 この店は「亡命回敎徒」の経営する店で,樺太 から出てきたハルナもそこで働いていた。 ハルナの美しさのとりことなった有島は,通 子の写真帳のなかに少女時代のハルナの写真を 見つけ,それを自室にこっそり飾る。「何か楚々 たる露西亞少女然たる姿をしてゐる」が,「よ く見れば,後年のトルコ人ハルナ・ザイノウラ, 紛ふ方なく,その端麗巧緻なる肌身の中に,昨 夕烈日の沙漠を旅立つたかと思はれる蕃力を秘 めて,有島の前に君臨した回敎徒の女」だった (94頁)。 また,あるとき彼はハルナを一目見ようと 「回敎區」まで約束もなしに出かけてゆく。そ こで彼女に会えぬまま,モスクを見出すのだ が,アザーンを聞きながら「ふとハルナ孃がも しこの會衆に混つて,あの美しい薄鳶色の體を 一枚の粗布に包んで跪いてゐるのではなからう かと思ふと,祈りの聲は恍惚たる神秘な歡びに 滿ちて迫つた。由來,回敎の祈りは,アラフ (神)に通じて,忍苦不撓の意志を得んとする 意志の歌であり,神 アラフ の命に依る一夫多妻,即ち 苦熱不毛の沙漠に民族の繁栄を求めて,祈に於 ける透徹な精神を閨房に資せんとす〔る〕肉欲 の歌なのだ」(80頁,〔 〕内は引用者による補 記)と荒唐無稽な感懐を抱くのである。 ハルナは裁縫師として働きながら6人の家族 を支えている。しかし,あまり宗教的でない彼 女は,礼拝を守らないことから店主夫婦との関 係が悪くなり,ついには店を辞めさせられる。 ハルナが礼拝しなくなったのは,その動作を日 本人店員たちにからかわれたことがきっかけ だったのだが,礼拝やそのための浄めの動作に 対してさえもエロチックな視線が注がれる── 「主マホメツトが,ハルナをして君府の薄汚い 便所の中に裸となし給ひ,妖しげな姿態の中に 跪かせ給ふイスラムの神の下に有島が跪拜すべ き宿命を問ふならば,有島は憶すことなく答へ るものを持つてゐるのだ」(93頁)。前の引用部 分でもアザーンと祈祷が混同されるなどイスラ ム理解のあやふやさが表れているのだが,この 部分でも礼拝のための浄めが裸での水浴びと誤 解された上で,こうした妄想じみたエロチック なイメージを与えられているのである。 ハルナが仕事を失うと,有島は顧客を世話し てやるなど親切にするが,彼女を手に入れるこ とはできない。彼女にはフランス人の恋人がい るらしく,有島は利用されこそすれ,恋人とし て相手にされるようではない。それでも,有島 はハルナに執着する。ハルナへの賛美は,基本 的には「白人女性」の肉体賛美と言ってよい (「彼に取つては,肉體に關する限り,白人は絶 對のものであつたのだ」79頁)。だが,それだ けでなく,「アジア人」的な面をも備えたハル ナであるからこそ,狂おしいまでに惹かれるの である。 それにしても,トルコの女は何故このやう に美しいのだ。衣裳師有島にとつて,彼女 の體は,凡ゆる美の要素の巢窟に思はれる ……〔中略〕……ハルナは一見白人であつ た。然し,彼等がアジア人ですと叫ぶやう

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に,白人にしては明るさとバタ嗅さに缺け てゐた。白人から見れば,彼女はむしろ多 分にオリエンタリズムの體臭を發するもの であると思はれる。黑褐の毛髪,おとなし く黑に沈んだやうな眼,白い肌と云ひなが ら,それは鳶色がかつてゐた。この肌は 時々に依つて,褐色にくすむことがあるか と思ふと,又恐ろしい程の白を滲み出した りした。然し,外人めいた日本人と云ふや うな親しみを見せてゐるかと思ふと,がら りと,ど強い白人の女に變身したりするの だ。無論,ハルナの血統は判る筈もない。 だが,無理にも考へて見ようとするのであ つた。そしてモンペに長槍を持つたあのオ スマン・トルコ帝國や,唐宋の頃の匈奴, チムール,ヂンギスカン,などの歐洲侵略 史は,アジア人が復讐の如くヨーロッパの 美しい血を奪つた歴史だと云ふ風に見た。 これがハルナに窺はれる〔の〕だ。彼女に は何か奪ひとつた白人の美しさが滲み出て ゐて,陰影のやうにくつきりと浮んだり, 又消え去つたりする──この特異な美しさ が有島を索きつける大きな原因のやうであ つた」(99−100頁,〔 〕内は引用者によ る補記)。   「土耳其人サギタ孃に失戀した頃」にも使われ ていたイメージが,ここでは詳細に展開され, 説明されている。あるときは「外人めいた日本 人と云ふやうな親しみ」を見せるが,別なとき には「ど強い白人の女に變身」するハルナに, 有島は,アジアがヨーロッパから「奪ひとつた 白人の美しさ」を感じている。別な言い方をす れば,ハルナの美しさへの讃美は,日本人から トルコ人へという直接的なものではなく,すで に近代日本人のうちに内在化されていた西洋の 美的基準や「オリエンタリズムの體臭」などを 介して行われているのである。 有島はやがて──ハルナに近づくための手段 でしかないのだが──「回敎」を熱心に勉強す るようになる。しかし,独学による彼のイスラ ム理解は,たとえば「回敎の持つ現實的な忍苦 主義,及びこの故に,神の讃美の祈禱を單なる 來世的な安心立命のためとせず,積極的に精神 力の充實のためとして──不撓の意志の源とす ること。又更にこの精神力を民族繁榮のための 性生活に用ゐんとする,健康的な肉體主義と云 ふものは此上なく私を打つ」(102頁)というよ うに,あくまで性欲を絡めた独り合点と言うべ きものにすぎない。それでも彼は,心中ひそか に「回敎徒」となっただけでなく,「僧正」に 宛てて手紙を書き,集団礼拝への参加を希望す る。 しかし,僧正から返事はなく,ハルナを手に 入れることもできぬまま時は過ぎ,やがて彼は ハルナが神戸に移ったことを通子から聞く。 「悪るい噂のため,回敎區のお坊さんに叱られ て破門されたのださうです……〔中略〕……お 母さんや,妹や弟達も,後から神戸へ行くのだ さうです。でないと喰べられないのです」(109 頁)。とうとう,ハルナは手の届かない所へ行っ てしまった。そんなある日,(ここは伏字になっ ているが)有島はハルナを夢に見て夢精したら しい。 今ぞ,僞りの敎徒であつたことを告白致さ ねばなりません。何故ならば,絶えなる夢 に依つてこれまで回敎第一の禁制たる偶像 崇拜の徒であつたことを知つたからであり ます……〔中略〕……私が一途なる讃美を 捧げて參りましたのは,神に非らず破門の 女ハルナの美しさに他ならなかつたのです ……〔中略〕……かくて,私は不遜なる經 文を唱へた敎徒でありましたことをお許し ください。さようなら,神 アラフ よ,マホメツト よ(110頁)。 そして有島は開き直って,自分にこう言い聞か せる。「贋回敎徒で結構である。神の姿は變つ たのだ。然し,讃美の念とそこからの不撓の意

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思の沸き出ることには少しも變りない」(110 頁)。 (3)「未來」 短篇「未來」は「贋回敎徒」から四カ月後に 『中央公論』誌上に発表された。鈴木貞美はこ の作品を「贋回敎徒」の「姉妹篇ともいうべき」 ものだとしている(42) 。たしかにそういう面があ る。「トルコ人」女性の名はそのまま引き継が れている。彼女が樺太出身という点も同じであ る。 ただし,違う点ももちろんある。ハルナ・ザ イノウラは,はじめ「財浦はるな」という日本 化された名前で呼ばれる(創作17)。その性格 も著しく異なっている。前作では自由奔放で, やや異性関係にだらしないように描かれていた ハルナは,本作ではかなり清楚で貞淑な感じに 変わっている。そして何より,「私」(曾我敬三) と「はるな」が相思相愛で,未来を約束し合っ た仲のように描かれている。肉欲を示唆する部 分がまったくないわけではないものの,前二作 とは異なり,そうした調子は極力抑えられてい て,結果として清澄な雰囲気が醸し出されてい る。 独特なイスラム理解にも変化が見られる。確 かにイスラムへの関心は本作でも「はるな」に よって芽生えたものである。しかし,冒涜的と も言える身勝手なイスラム理解はかなり影をひ そめている。現実主義的なところと教義の簡素 さが強調されるのは同じだが,それをあからさ まに肉欲と絡めて語るような調子はない。 正直に云つて,はるななくしては囘敎に觸 れる機會なかつたと思はれる私である。し かし,今の私は,凡ゆる宗敎の中で,囘敎 が最も現實的精神に溢れ,又最も素朴な形 式を持つことを發見して人知れず欣ぶもの である。再びいうが,囘敎の敎義は「ひた すらに祈り,よく忍ぶべし」に盡きる。こ れは,大切なことに屬すると信ずるのだ (創作20頁)。 物語は,冬の上野公園を散策する二人の様子 が三人称で語られるところから始まる。しか し,すぐに一人称の語りに切り替わり,「私」 が「はるな」を「そなた」と呼びつつ,二人の 思い出を語ってゆく。 「私」は作者と同じように早稲田で英文学を 勉強した若者だが,「一寸背廣勤め」した後, 「貸室管理人」として働くようになる。そこへ やってきて部屋を借りたのが「はるな」だった。 「毛色が變つてゐると思つたが,警察へ届ける 紙で素姓はすぐと判つた。けれど,まさか囘敎 徒だとは知らなかつた。第一,さういふ宗敎の ことなどは中等歴史の中へ忘れて來てゐた私で ある。そんな私へ,そなたは囘敎の眞髄を識ら せてくれたのだ」(創作26頁)。そこからどのよ うに二人の仲が発展したのか不明だが,「そな たと比翼連理の契交す日を待つ私である。無上 の仕合せ者だと思ふ」(創作27頁)と「私」は 述べている。 しかし,そうした状況にもかかわらず,「は るな」は「私」を東京に残して樺太に帰ってゆ く。「神を喜ばしめんために,郷土敎化を思ひ 立」ったのである(創作24頁)。冒頭の上野公 園の散策は,まさに「はるな」が北国へと出発 する直前,二人の最後の逢瀬を描いた場面であ る。その後,「私」は「はるな」を上野駅まで 送っていき,そこで二人は別れる。 そなたの白いセーターが人波の中をホーム の中へ去つてしまつてから,私もそしらぬ 顏でホームへ出た。緑地に白く☪を染めぬ いた囘敎團の旗が立つてゐるので,そなた のゐる場所はすぐと判つた。私が近づいた 時には,もう,囘敎學校生徒の少女たちに 取圍まれて一寸固くなつて立つてゐるそな たである。生徒等は,「シュムビカの塔」 を歌つた……〔中略〕……この勝利の歡び の歌が,母音に富む力強い土耳古語,少女

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