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アジアと女性解放 : 5号 (1978.12)特集「いま 戦争責任を考える : 女の側から」

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(1)

Asian Women's Liberation

特集

し、ま

戦 争 責

考える

一 一

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討議選

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竹槍ふって銃剣術(1943年) 1

女 私 の 戦 争 体 験〈

座 談 会

女日本の侵略戦争とアジアの女たち

!

女 反 戦 を 貫 い た 女 - 長 谷 川 テ ル

1

女軍事費拒否/反基地闘争/自衛官

合組拒否訴訟/韓国被爆者救援

貴 女 大 学 一 戦 争 に 荷 担 し た 女 た ち

訓練中の女性自衛官(1978年)

l

女性差別・民族抑圧からの解放をめざしてノ

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(2)

日 本 の 庭 で

INA JAPANESE GAf¥DEI¥i

特別企画・今わたしたちは何をしなければならないか

会〉

〈座談

元教師)

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年生

日本朝鮮研究所所員)

(

1950

年 生 研 究 所 職 員 )

(

1938

年 生

愛由

(

1909

年生「半月の詩」の著者)

(

1924

年 生 フ リ ー 校 正 者 )

(

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1

年 生 画 家 )

(

1935

年 生 主 婦 )

出席

今 村 秀 子

奇 民 子

富 山 妙 子

李 淑 姫

木は「軍国主義」で盆栽は 「文化J(中国・アジア誌より)

戦争責任を考える

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最近、戦争の悪夢を思わせるような動き

が目立っている

O

﹁有事立法﹂制定や、元号

法制化が着々と進められて、教育の場では

μ

を国歌として歌うことを強制され

るようになった。侵略の精神的支柱であっ

た靖国神社に福田首相がくり返し参拝し、

天皇の公式参拝を実現させようとする運動

も、公然と行なわれている

﹁何かおかしい

L

と誰もが思いながら、手

をごまねいているうちに、侵略戦争に突入

していった一九三

0

年代

の状況と酷似して

いると、戦争を体験した世代の人々はいう

0

年代から敗戦までの聞を生きた

人たちは何をして、何をしなかったために

戦争を阻止できなかったのか

。二

度と再び

戦争をくり返してはならないと考える私た

ちは、私たちの親や兄弟姉妹が戦争に巻き

こまれ、戦争ヘ加担していった歴史を、

A 7

改めてふりかえりながら、﹁また、ふたたび

の道

L

を歩まないために、今私たちは何を

なすべきなのか見極めなければと思う

OO

万の日

本人が犠牲にな

、あの

戦争の悲惨さは、いくら語られても語られ

つくすことはないだろう。だが、日本の侵略

戦争の犠牲者は日本人のみではなか

その事実を、私たちはあまりにも知らなす

ぎたのではなかったか。自らの被害者とし

ての苦しみを強調するあまり、女たちが﹁銃

後﹂を守ったその銃口がどこに向けられて

いたのかを無視してきたのではないか

﹁国防婦人会

L

﹁愛国婦人会﹂などに組織さ

れた戦時中の女たちが、たすきがけで日の

丸をふって送り出した夫や息子たちが、ア

ジアの戦場で何をしてきたのか。私たちに

は知らされなくても、直接被害を受けたア

ジアの民衆は、日本軍の蛮行を骨の髄まで

通 堂 方 一

母も少女も必勝の

花の笑顔がに

者さに燃えるたのもしさ

A 7

送れと叫ぶ援がする

恨み続け、決して忘れてはいない。﹁焼きつ

くし、奪いつくし、殺しつくす﹂

残虐きわま

りないコニ光作戦﹂を直接遂行したのは日本

の軍隊であった

しかも戦後、こうした日本

軍の犯罪を、日本の民衆の手で裁くことす

らしてこなかった。虐殺、食糧の強制供出、

労務者の狩り

なおアジアの各地に生々しく残るが、被害

者にたいする償いすらしていないのだ。

O

年経った今日、日本は経済

大国としてアジアに﹁君臨﹂し、再び﹁大東亜

共栄圏

Ll

円ブロックの形成をはかろうと

懸命である

円高に誘われた日本人は、かつ

ての日本軍が侵入したアジアの国々に工場

を林立させて利益をむきぼり、観光客とし

て札束を手に閲歩し、買春観光に血眼にな

相手の女性が、かつて自らの手

で殺害した者の遺児であるかもしれないこ

戦争責任を連合国の戦犯裁判にのみゆだ

ね、日本の民衆の手で戦争責任者を裁き、

あわせて、自分たちの戦争加担を反省する

ことのなかった私たちは、アジアの民衆か

らの告発にも耳を貸そうともせずに戦後を

すごしてきた

そして今、再び不気味な軍

靴の響きが聞こえてくる

だが、私たちは決して二度と被害者にな

りたくない

そして、戦争に加担してアジ

ア民衆への加害者にもなりたくない。それゆ

えにこそ、先輩たちが侵略戦争ヘ動員され

ていった苦い経験から学び、戦争責任を聞

い続けようとしているのである

戦争への

途を拒否するために、私たち日本の女は

A 7

向をなすべきかを考えたいと思う

アジアの女たちの会

戦後、被害者意識にとじこも

戦争体験を語ってきた日本の女たち

にとって、アジアとの出会いは衝撃

だった。アジアをとらえる視点をも

う生きたか、自分史を語り合い、再

何をしなければならないのかを考え

守 合 。

戦前の皇国教育

司会戦前に教

育を受けた方たちは

アへの侵攻がはじまりますが、植民

地支配について、どのようなイメー

日本が神国だということを何

となく植えつけられていたし、朝鮮

わが大君の納す固と、あさひの御旗

L

本にあって、唱歌の時間に歌いまし

天皇誕生日には﹁今日のよき日は大

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2 3

(3)

司会 そういう歌で意識がつくられ ていったのでしょ、 7 か 。 今 村 幼稚園のときから﹁兵隊さん の強いこと、寒いお国で戦さして私 も強い子どもです。一、二、三、四 進みましょ﹂と習いました。侵略戦 争などという意識はなく、かわいそ うなところを救ってやったんだとい う気持でした。学校教育の中で素直 に信じていたんですね。 一九二五年 に女子大に入学し、同 じクラスの韓国の方からはじめて、 合併とは言葉の上だけで奴隷と同じ だ、中国大陸侵略の第一歩として自 分たちの国が侵略されたのだと聞か されました。 一九二九年に慶尚北道の大白を訪 れたときの体験は忘れられません。 下関で列車から降りると、チョゴリ を着た人と日本人が手を結んでいる 絵に﹁内鮮融和﹂という文字の入っ たポスターがはってありました。関 釜連絡船の乗船手続きは 、日本人 と 韓国人は別でした。チョゴリの白い 行列が続く韓国人の乗船口では、一 人一人を棒で船底に叩きこんでいま した。叩かれたとたん、荷物と一緒 にごろんでしまったおばあさんもい ました。その時は、日本人がこんな に悪いことをして、私一人だけでも、 'おばあさんのところへ行っておわび しなければと思いました。勇気がな ほほえんでいるポスタ ー があふれ、 豊かな大地に各民族が共に栄えると いうイメージです。 司会 富山さんは﹁満州﹂での生活 の・叩で、さまざまな予盾を感じていら したと思いますが。 富 山 私は日本が中国を侵略してい た 一五年 戦争の時代﹁満州﹂で育ち ま し た 。 大連の小学校の遠足といえば旅順 に 行 き 、 日 露 戦 争 の 戦 跡 め ぐ り │ │ そこでロシア帝国がいかに悪らつに 極東へ侵略したかを、先生が熱をこ めて語ります。そのロシアの野望を 日本はくじいたのだと、西洋帝国主 義をやっつけるわけですね。 ﹁日本軍は大国ロシアを向うにまわ くて、できませんでしたが。 戦争が終わ っても負けるのは当た り前と思っていたし、もう日本の園、 政府は信用しない、私の力だけで、 私の信念で立ち上がるしかないと思 い ま し た 。 谷 一 九 二九年生まれです。小学生 の作文(下欄)を今あらためで読み直 すと、すっかり軍国少女に出来上っ てしまっているので、びっくりしま した。私が育ったころは﹁支那﹂と いえば敵、朝鮮や台湾については、血 の通った人間の社会だという教育を 受けたこともありません。﹁満州﹂と いうと馬賊やパルチザンが登場し、 勇気ある日本人がそれを攻め滅ぼす という﹃少年倶楽部﹄文化で育った。 与謝野鉄幹が爆弾三勇士を歌ったの が流行したり、女学校の運動会では ﹁抜万隊﹂の歌のテ l マで分列行進 をしました。この曲は今でも自衛隊 や警察の分列行進に使っていますね。 一九三五年ごろ大学を 出た従兄た ちが、不況で日本に職がなく、朝鮮 の城津の製鉄工場や台湾の日系ピク ターで働くなど、植民地へ出て行き ました。日本軍の三光作戦のことを 彼らがひそひそと話しているのを聞 いたことがありました。 学校では、﹁満州﹂は日本の生命線 で、地味の肥えた広い国土があると 教えられ、そこが﹁満州﹂の人々の して戦った。多くの 血 を流して手に 入れた関東州は当然日本のものであ る﹂と教えられます。そのころ中国と は帝国主義列強がむしり取る時代に あったわけですね。西洋帝国主義を 攻撃しながら、日本もそれと同じこ とをするわけですけど、そこでもっ てきたのが﹁正義の味方﹂││つま り 、 ﹁ 討 匠 行 ﹂ で す 。 博覧会には﹁匪賊館﹂というのが あって、匪賊が襲撃してくるパノラ マや、犠牲者の血染めの服などが陳 列されていて、私たちの恐怖心をあ おるわけです 。 盗賊の匪賊もいたわけですが、関 東軍のねらうのは抗日ゲリラ、それ を﹁匪賊﹂に仕立てあげる 。 私たち 小学生は駅に﹁討 匪行﹂の兵隊さ んを見送ります。 そこで関東軍は ち 匪賊を討伐し、 た そのおかげで﹁満 a ﹂ 緯 州﹂は王道楽土 停 になったと、戦 鳩 争にはやはり民 一 十 衆を引っぱるス か ロ l ガンがいる 同 わけですね。 鋪 いったい日本 一 恥 が中国侵略で何 結 を 行 っ た か │ │

今の日本

宇佐見たみ

二月二十四日まで、スイスのジュ ネーブで、こくさいれんめいがひら かれました。日本からは代へうとし て、松岡さんや松平さんや、其の外 えらい方がたくさんいらっしゃいま した。こんどどくりつしたまんしゅ うは支那の物だと外園は皆言って居 ます。どんしてかといふと支那は先 に支那の方がいいとうまく言ってし まったからです。 二十四日のごう外に、松 岡さんの おしゃしんが出て居ました。 日本はもうだつたいしたそうです。 支那はしゃくな閣です。 A 7支那とまんしゅうとせんそうを して居ます。せんそうのもとは支那 が日本のてっ道をこはしたからです。 支那はまんしゅう人にいたづら弁じ たりするので、日本はまんしゅうに かせいして居ます。 日本の軍人さんやまんしゅうの軍 人さんは、何尺とつもった雪の中で、 其の上もうこからふいて来るさむい 風の中で、いさましくはたらいてい らっしゃいます。けっしてへこたれ ものだとは考えもしなかった。朝鮮 も、国土は荒れて禿げ山で、日本の ような緑はない、日韓併合後は植林 ﹁南京虐殺﹂や﹁三光﹂など、当時 の日本人にはまったく知らされては いなかったのですから。 ハ 合 私たちは王道楽土を相当部分信 じていたわね。満鉄の宣伝映画をず い分見せられたから、 A 7 でも目をつ ぶると、大豆がザ l ッとこぼれるイ メージがはっきり浮ぶ。ひどいこと があったなどと想像もしなかった。

被植民者にとっての戦争

司会 李さん、植民地朝鮮では日本 人をどう思っていたのでしょうか 。 李 ちょうど私が小学校入学の年か ら韓国語は禁止され、日本語だけ使 うことになりました。もちろん家庭 では、自分の国の言葉でしたが 。 戦争がはじまるとすぐに巡査が各 家庭に来て、鉄製の口問物は全部とり あげられました。韓国では御飯茶椀 ス l プの容れ物など、すべて鉄製で お父さんの器、お母さんのものと決 まっています。鉄製の洗面器に至る まで、祖先から何十年、何百年と伝 わ ってきた大 切なものを全部とられ ました。一村に何キロという割当て があって、日本人と韓国人の巡査が 一緒になってやるんです。 戦争がひどくなると、食物やお金 までとられました。自分の畑仕事は 後回しにして他所の畑で働いて得た 4 はしません。 昨日の新聞にネッカへ行く日本の へいたいさん方のおしゃしんが出て 居ました。 (ネッカはせんそうをして居る所) 私がおほきかったら、日本の事で 何かおやくにたつことをしゃうと思 ひます。日本のへいたいさんにくら うをさせないで私たちもいっしょに なってはたらかうと思ひます。 今にどんなことがおこるとはかぎ りませんから、日本人はかくごをし なければなりません。 日本ていこくばんざい。 ( 一 九 三 二 年 二 月 二 十 七 日 記 小 学 校 二 年 )

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# で山は緑になり、米はたくさんとれ 日本にうんとくると教えるんです。 蒙古族や朝鮮族が民族衣裳を着て、 金を日本の国に差し出すんです。小 学生は松の根やアカシアの実など、 油のとれるものを集めさせられた。 校庭の周囲にも、そういう植物を植 えさせられたりで、勉強する時間が なかったです。 私の家庭は、李朝時代がそのまま 流れてきているような封建的両斑(ヤ ンパン)の家でした。私が幼いころ は七才以上の男女は同席が許されな いほどでした。日本の植民地になり、お じいさんたちは髪を短かく切られ、 創氏改名で日本の氏名に変えさせら れた 。反 対/反対/と叫んでも、捕 えられて、ひどい目に会うからどう しょうもない。 男の人たちが兵隊にとられたころ のことで一番印象に残っていて胸が 痛むのは、若い先生たちが一人ずつ 戦争に行ったことです。授業中に鐙 がカ i ンと鳴ると、生徒は校庭に集 められるんです。すると先刻まで教 えていた先生が、胸に白い札を貼っ て立っている。その先生が軍隊に行 くことは皆に分かるので、心の中で 泣きながら﹁勝ってくるぞと::﹂ と歌って拍手で送り出すんです。そ して二ヶ月も経たぬうちに死んで、 遺骨だけが真白な箱に入って戻って くる。ほんとに辛かった。 司会 おじいさんが三 ・ 一独立運動 で亡くなられたそうですが、ご両親 5

(4)

からお話を開かれましたか。 李 登臣秀吉の侵略のときに、山が 高くて日本兵が入れず涙を流して退 却したといわれる﹁涙流す 山 と い う ﹂ 名の山があります。私たちの小さい 村にも 三 ・ 一運動が及んできて、人 々は韓国の旗を持って集まり、万歳 万歳と合唱して、その高く険しい山 を登って、少し大きい町へ向かった。 日本軍はその山まで入って、人々を 全部捕えて 、殺したり監獄に入れて しまった。おじいさんも田舎で捕ま っ て 、 ソウルの一番大きい監獄に入 れられたそうです 。 監獄の中で漢詩 をつくり、田舎の怠子(私のお父さん) に送り続けたということです。 司会 両 班 ( ヤ ン パ ン ) の 家 庭 の 中 で 、 日本のことはどのように教えられま し た か 。 李 おばあさん、お母さんたちには、 豊臣秀吉の侵略時代のことが言い伝 えられている。そのお母さんから学 んだことは、日本人は昔から侵略者 だ っ たこと、わが国は今植民地化さ れているが、いずれ独立しなくては いけない 。 五千年以上の歴史をもっ 白衣の民族として、自分の固に誇り をもって、自分の国の言葉をちゃん と 習 っ て勉強しなくてはいけないと いうことでした 。 李朝時代の王や王 妃の話を、姉と二人で泣きながら﹁も っとして、もっとして﹂とせがんで 援活動の中で、私は初めて日本政府 の外国人にたいする扱いを見、血肉 の通った中国人、朝鮮人とつきあう ことで、自分の問題として何とかし なければと思いました 。 法務省や入 管の役人のいや、がらせにたいして彼 女は﹁これは日本人であるあなたた ちの問題よ﹂と執劫に言ったわけ 。 それまでは、警察から外人登録の切 りかえがくる韓国人の子にたいして かわいそうにという反応だ っ た 。 同 じように自分の問題だと思ったのは アメリカの北爆のときね 。 アメリカ はベトナム人を人間とみていないか ら、虫ケラのように殺す。日本も 中 国に固有の名をもっ人々が住んでい るとも、自分に関係があるとも考え なかったんですよ 。 富 山 のちに私がいたハルピンには ロシア革命で亡命してきた白系ロシ ア人がたくさんいて、女の子が花売 りなんかしていた 。 ハ ルピンの女学 生の詩や短歌では﹁エミグラ ン トの 青き鐙よ﹂などとロシア人の貧しさ には同情しても、も っ と 悲 惨 な 中 国 人にたいしては無関心だ っ た 。 彼ら を 人 間 と 思 っ ていなか っ たわけです 。 アメリカの白人が黒人を同じ人間と 思っていなか っ たように 。 内 海 二年前にインドネシアで暮ら して、そこの日本人 学 校の作文集を 読んだときのショ ッ クが同じなんで 聞かせてもら っ た 。 学校では日本語だけでしたが 、お 母さんからハングルを教えてもらっ た 。 男の子たちは五、六才までに漢文 をマスターしますが、女の子には教 えてくれなかったんです 。 封建的で すけど。そういう伝統的、封建的な ものが、日本の支配以後どんどんな くな っ てしまって ・ ・ : : 。 そういうの を喜ぶ人もいたんです 。 近代化を喜 ぶ親日家が 。 司会 どういう人が親日家ですか。 李 やはり新しい学問を習った人た ちですね 。 両班とい っても貧しい人 も裕福な人もあり、その中間ぐらい の人です。人の家の奴隷にはならな いというレベルで村を出て行って現 代の学問を習ってきて、真っ先に髪 切 っ て 、ステ ッ キ振りながら歩く 。 こ っ ち では昔の黒いもの被って、長 い韓国服着てね、両方あったんです 。 司会 そのころの教科書はつ 李 日本の教科書を使い、毎朝、皇国 臣民の誓詞とか宮城遥拝をしました 。 戦争が終わると、日本の本は読ん ではいけない、持 つ てはいけないと いうことで、全部焼きました 。 司会 八 ・ 一 五の解放をどういう風 に迎えましたか 。 李 戦争が終わったときには、みん なが嬉しい嬉しいですけど、第 一 線 でどうしょうもなく日本に従ってい た人たちへの怒りがひどくて、日本人 の手先きになって同胞をいじめた人 たちを棒や石で叩いたり、半殺しに したりした 。 日本人よりも手先きに なった韓国人への憎しみが強かった わけではないのです 。 日本人はみな 逃げてしま っ て 村にはいなかったか ら、収まらぬ怒りが韓国人に向けら れたと思うんですね 。 八 -一 五の放送のことは、兄が戦 争に行く送別会をしているときに、 そのニュースを聞いたらしいんです 。 走って家に帰り、戦争に出発する人 のために庭の木に吊つであった旗を 全部下ろして、お母さん /もう これ 要らないよ/戦争に行かなくてもい いよ、戦争は終わ っ た、うちの国は 独立した、解放されたと言 っ たんです ね 。 お母さんは兄が軍隊に入るとい うとき 、泣い て泣いて千人針を一針 ずつもら っ て歩きながら、神様、神様 っ て叫んでいたらしいんです 。 兄が 軍隊に入る 二 目前に戦争が終わ っ た のでお母さんは、これは神機のおか げだというので、代々伝わってきた 儒教で祭っていた飾りものや器を全 部下ろして割ってしまって、その日 のうちに教会に行ったんですね 。 都会には、日本人だけが通う学校 があった 。 朝鮮人はなかなか入れず、 入つでも差別される 。 そ う い う 山 一 子 校 に入 っ たお嬢さんたちは、恵まれた 亀 山 戦 時 中 に ソ ウ ル の 女 学 校 で 教 師をしていた方が、何人かの生徒が 心を打ち開けてくれて、﹁私たちは日 本語を使わなくてはいけないが、先 生はなぜ朝鮮語を学んでくれないの か、朝鮮の文学の美しさを先生に知 ってほしい﹂と涙をハラハラ こぼし ながら告げられたときのショックを 言われてました 。 この言葉のもつ意 味は今も変わらないんですね 。 内 海 A 7 は植民 地ではなく、合弁企 業の社員として行くんですが 、 それ す 。 インド、不シア人誰それ君という 固有名詞が全然出てこない。インド ネシア人は裸で歩いて、手でご飯を 食べます 。 ぼくはこれを家の女中を みて書きましたとか、家の犬は日本 人は誰がきても吠えないが、インド ネシア人だとすごい勢いで吠えます とか 。 あなたは誰と遊ぶかと聞くと、 オーストラリア人、ドイツ人、アメ リカ人で、カンポン(地元の人たち の部落)には行かない、汚ないから と言うんです 。 谷 物 と 同 じというか、 本当にどう J したらいい 込 んだろう 。 内 海 子ど もたちは、 外国で仲良 くするには、 その国の言 葉を覚える のが大切だ とアンケー トには答え るが、イン ドネ シア 語 を勉強する 人は 一 割も いないです ね 。 朝鮮の各所に神社をつくり参拝を強制した 家庭でお父さんが立派というわけで すけど、えばってましたから、解放 後は逆に嫌われましたね。居にくい 人になりました。 6

加害者側に欠落するもの

亀 山 私は小学校一年生が敗戦だか ら 一 番自由な世代で、民主主義とい う言葉もフランス革命も知ったけれ ど、アジアを忘れ、ヨーロッパ中 心 の感覚から抜けていない 。 例 え ば 中 国の五・四運動の写真を見ても、私 たちと閉じ血の通った人間として彼 等を見る教育は受けなかった。 アジアの人々の存在を初めて実感 したのは、教師として担任したクラ スの在日朝鮮人少女が朝鮮高校に転 校後に遊びに来て、﹁秀吉の出兵のこ と祖国防衛戦争 っ て習うのよ﹂と-話 してくれたときです。秀吉の朝鮮 出 兵は私たちにと っ て、桃太郎の鬼退 治みたいにカッコいい感じなのね 。 その子の言葉に初めて、日本人が攻 めていった土地の人たちに生活があ り、涙や汗があることを生き生きと 感じるようになった 。 A 7 の教育では、 知識を与えないだけでなく、感性を まひさせることが、自覚を妨げる有 効な手段にな っ ているんですね 。 谷 台 湾 か ら の 留 学生、劉彩品さん の法務省入管局にたいする闘いの支 でも言葉はやらない 。 言葉がわから ないから、日本人だけ集まって生活 し、インド、不シア人が怖ろしくみえ る。インドネシア人は泥棒や人殺し をするという会話だけが増幅される 。 それを子どもが聞いて、もともと﹁遅 れたアジア﹂のイメージ、があるから、 どうしようも'ない国だという思いだ けが伝わっていく 。 相手の文化を知 るという姿勢は今も全くない 。 バンドンの大学で日本語文化悠少乞ゃ っ たときに通訳をした日本語学科の 先生は﹁私たちは日本語学科で日本 語を勉強している、インドネシアで 暮らしている日本人はインドネシア 語を習う義務がある﹂と皮肉 っ た 。 彼は日本へ来ても、日本語が上手な のに意識的に使わない。それが彼の ナシ ョ ナリズムなんですね 。

戦後教育の現場にみる国家意識

司会 日本の普通の学校教育を受け ただけではアジアの問題、植民地と して支配した朝鮮・台湾のことすら、 意識にのぼらないわけです 。 中学や高校の教員だ っ た亀山さんの ご経験はどうですか 。 亀 山 このテ l マを聞いたときに、 まず思い出したのは、対肇二 一 カ条 ( 一 九 一 五 年 、 内 モ ンゴルまで含めた権 益を日本が要求)についての授業で、 7

(5)

中国はそれを呑んだ日を国恥記念日 としていると教えると、必ず笑いが 出 たことです 。良い ことではなく、 恨みを記念するのが、日本人の体質 に合わないらしい 。 し つ こ いなあと言 うのね。アジアに生きている生身の 人問、生活を実感できないのです 。 李 朝鮮が日本に併合されていて、解 放されたという記述は、日本史の教 科書にないのですか 。 亀 山 私たちには敗戦の目だ っ た八 月一五日が、日本の支配下にあ っ た アジアの民族にとっては解放の日で あったことを指摘している教科書は 少ないですね 。 小学校六年の教科書 の目撃事変のさし絵の説明に﹁中国 の広い国土と中国人の抵抗のため、 戦争は果てしなく続きました﹂とい うのがあります。﹁悪いは支那ばかり﹂ という発想は、戦後もそのままです 。 教科書検定は憲法違反と国を訴え ている家永 三 郎さんは﹁日本軍は 北 京、南京、漢口、広東などを次々に占 領し、中国本土に戦線を広げたが・じ という箇所を、﹁戦線が中国本土に拡 が っ た﹂に直せと言われました 。 家 永さんは、戦線が自動的に広がるこ とはないとして訂正を拒否していま すが、アジアへの加害の史実を隠そ うとする大きな流れを感じます 。 一 九 五五年の小学校六年用教科書 は日露戦争について﹁: ・ 北の方から それに国家意識や国家主義がのって いるんでしょう 。 ハ 合 私の小学生のころとダブッた感 じの危機意識を抱く 。 ﹁靖国﹂問題は 戦前の﹁ひとのみち﹂﹁大本教﹂がつ ぶされ、キリスト教が弾圧されて、 国家神道がのさばった過程に重なっ てくる。﹁元号﹂のこともあるし、そ っくり という感じね 。 亀 山 戦争とか侵略だけが突出して タブーというのでなく、学習 指 導 要 ロシアが同じように南満州をねらっ ていたので、一九

O

四年には・:二つ の国に戦争がはじまりました?:・・中 国の領土へ攻めこむのは、日本もロ シアも同じことなのに、日本国民の 多くは、これを正しい戦争だと思っ て戦いをつづけました﹂と書き、幸徳 秋水や内村鑑 三の 戦争反対、﹁ここは お国を何百里﹂の歌が国内でも戦地 でも歌われた事実など、反戦や厭戦 の風潮の記述も少しは残っていた。 同じ教科書が 一 九六五年には﹁わ が国は、これまで、いくどもロシアと 話し合いましたが、このままでは朝 鮮もわが国もせんりょうされてしま うと考え、一九

O

四年やむをえず、ロ シアと戦争をはじめました﹂という 記述に変わります 。 市民や植民 地 をね らうロシアと日本という記述から朝鮮 とわが国をまもるためにロシアと戦争 を始めたという論旨に変わったのです。 これでは戦中の一九四三年の固定教 科書 六 : :しのびにしのんだわが国も 事ここに至るや、帝国防衛と東洋保 全のため、決然と国交をたちました ﹂ と全く閉じ文脈ですね 。 文部省の要求例は﹁本土空襲や原 子爆弾、焼け野原の広島や傷ついた 兵士の写真は暗い、出陣する学徒、 工場で働らく女学生の写真など 、 戦 争に一生懸命協力している明るい面 を描くのが好ましい﹂といってます。 領が参考から国家基準になり、教科 書検定がきびしくなって教育 内 容を 選ぶ自由を奪われ、教員統 制 も強ま るという形が貫かれていますね 。

アジアからの告発

李 韓国の教科書には三 ・ 一 運動も 柳 寛順(ユガンスン)の話も載 っ て い ます。だから戦争を全然体験しない 子どもでも、日本という国について も ぎ 知 っ て ま す 。 う ち の い 子たちも、日本に行 くのはいややと言っ て反対したんです、 日本大嫌いと 。 日本 に来ていろんな方と 付き合ううちに、変 わってきましたね 。 だからお互いに隣国 として行き来して、 実際に見て、聞いて、 話すことが大事だと 感じますね。 司会 そこが大事で すね 。 ただ行くだけ なら、年間六

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万 以 上の日本人が韓国を 訪れるが、大部分は キ 1 セン・パーティ が目的です。韓国の 人々は彼等には心を

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戦争の被害とアジアへの 加 害だけ でなく、歴史の中で民衆が下から抵 抗した事実はすべて、徹底的に隠し て い ま す 。 司会 戦前の植民地支配や現在の経 済 進 出 を、生徒たちはどのように受 けとめていますか。 亀 山 経済大国意識や国家とはよい ものという感覚が育っています。一 九六

0

年代は、憲法を大切にする雰 囲気があり、君が代を歌うのを拒否 することの意味も分か っ ていた 。 七

0

年代に入っておかしくなったと思 います。これは一九六五年の﹁﹁期待 される人間像﹂で天皇を愛すること は国家を愛することという形で天皇 と国家が急上昇してきた時期で、教 師が自由にものを言えなくなったこ とが影響していると思います。 8 ℃ 朝鮮人が「日本兵」として徴兵された

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司会 戦前は国家

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天皇の支配によ りかかっていたが、現在は君が代を 歌うことで国を愛する気持を表すと いう一見﹁自然﹂な形で、計画的に国 民に強要している 。 これにたいして 抵抗は非常にあるが、 一 般的にこれ に替える歌、自分たちの国家観がな いのではないか 。 亀 山 私から上の年令の人たちは、 国家や集団にたいするアレルギーが あるが、若い人たちは逆にそういう ものに飢えている 。 理論や行動で素 直に動けないときには、神秘的なも のでなんとか満たそうとする 。 高 校 生の男子にレポートを書かせると、 ヒットラ ー への関心を持つものがす こく多い 。 自分にはできぬスカッと したことをやれた人という羨望が、 受験戦争が激しくなるほど出てくる。 い く 犠 す わ な し い で し 内 ト 抜 ジ 谷 起 つ G い 向 な 立 申 日 の 実 開 る の 牲 ミ つ い た が 日 た 海 カ か ア こ た N る こ 教 つ し 本 拷 は か こ 人 だ 日 て 白 人 、 本 文 闘 し の い る 生

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円 発 売 ・新教出版社頭侵新小山五 l

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日本名から朝鮮名ヘ

戦争も終わりに近すいた一九四四年 四月、東北の 一 ノ 関近郊に住んでい る叔母の家へ、妹と二人大阪から疎 開をしました。当時私は国民学校(現 在の小学校)六年生でした。大阪では、 在日朝鮮人が多かったので、創氏改 名の政令にのって、日本姓を作った のですが、金姓で通していました。 しかし、排他的な農村に行くのだか らと、親の配慮と先生のすすめで、 日 本 姓 を 名 の り ま し た 。 叔 母 の 家 で は 、 大 阪 の よ う な 食 糧 不 足 も さ ほどなく、釜石の艦砲射撃される大 砲の音も遠く、警戒答報のサイレン の音で防空壕に入り、非常時用の食 物として携帯しているいり米(醤油 や塩の味つけがしてある﹂を壕の中で 食べられるのが大変楽しみでした。 八月一五日のその日、私は床屋で 少年雑誌を読みながら順番を待って いました。大人たちはラジオを聞い ていました。突然騒々しくなり、﹁日 本は負けた。朝鮮人は 三 等 国人にな って日本人は四等国人になる、朝鮮

私がみた台湾の八

人なんかやっつけろ﹂などの声を耳 にした私は、夢中で外にとび出しま した。﹁早く逃げないと殺されるノ・﹂ と叔母さんに叫んだのでした。そし てしばらくして、なぜ負けたのだろ う つ 日 本 は 天 皇 陛 下 の い ら れ る 神 固なのに。どうして神風が吹かなか っ た の だ ろ う ? そ ん な く や し い 思 いで一日中泣いていました 。 そのと きは何の矛盾もなく、自分は日本人、 皇国の民だったのです。 戦争の恐ろしきよりも、差別への憤 りの方が強かったのです 。 疎開して間もなく、金姓の縫い取 りのある防空頭巾がクラスメートの 目に触れ、ひそかに恐れていたこと が現実になったのです。次の臼から、 毎朝校内で二

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人位が待ち構えて石 を投げつけるのです。教室では、歴史 を教える先生が、朝鮮人である私を 見据えながら関東大震災の話をしま す 。 そのたびに、生徒たちは私をジロ ジロとふり向いて見るのでした。い つもいじめられることを恐れてピ l とって解放の目だったのです。父母 の生きざまを振り返って戦争とは何 か 。父 母の歩んだ道は決して自ら選 んだものでなく、強制されたもの、 自分の子でありながら、日本人にな りたがった子供たち。父母の中の祖 国 と 子 の 中 の 祖 国 と は ? 朝 鮮 と は ? 日 本 と は っ 家 族 と は ? 女 と は ? 日本籍を持たず、日本で生活してい る私の八月一五日は遠く消え去るも のでなく、むしろ日毎に重く迫って き ま す 。 ( 金 順 烈 ) 写真 ・ 朝 鮮の国防婦人会の女性たち が朝鮮人の家庭を予告なしに訪れ、 食事中に食卓や食器を全部献納させ て道庁の庭に運び、記念写真をとっ た 。 川村栄子さん所持

ピ!と泣いてばかりいる妹と二人、 差別と誹誘、屈辱に立ち向っていく ことは、強情で身構える現在の私の 性格を形づくっていったとも思いま す。そんな中で私は日本人なのだ、 なぜ朝鮮人として生れたのだろう、 日本人になりたい。親を呪い、運命 を呪い、親、同胞と行動を共にする ことをできるだけ避けていました 。 間もなく大阪に引き揚げ、クラス メ ートたちから謝罪の手紙をもらい ました。ほっとすると同時に、なぜ、 あの人たちは私たち姉妹をいじめた のだろうと考えました。あの人たち が悪いんじゃない、もっと別な所に 悪い者がいると思ったことを覚えて います 。 しばらくして、帰国すべく家財道 具を故郷(済州島)に送り、乗船する 直前、四八年の済州島武装蜂起、戦災、 南北分断、父の死、貧困、就職等の差 別から、二家は北へ帰国しましたが、 私は日本人と結婚したため留まりま した 。 母、兄妹と逢うこともできず、 二

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年近く経って、突然、一時の死の知 らせ 。 敗戦の年﹁へパン(解放)/﹂ と叫んだ父母 。八 月 一 五日は父母に

理望盟盟理回

も中止、私は祖母や弟妹逮と疎開先 へ住み移りました。疎開先は戦争を 忘れさせるほと辺ぴな寒村で、もち ろん電気、水道もありません。小川 の小魚をすくって常食にしたり、薪 の足しに甘蕉の枯葉を集めたりして 過しました 。マラリヤにかかって高 熱と案、気にさいなまれた苦しい思い 出は、なかなか忘れられません 。 食 糧は配給制でしたが、農家の人達が 時々官憲の目をかすめて家畜の閤肉 を売りに来ました。お米も足りない 場合は農家の知人から籾を手に入れ、 これを竹筒に入れて鉄棒でつつつけ ば脱殻して玄米がえられるので、十 分ではないが少くとも食糧にはあま り不足しませんでした。やがていつ の間にか戦争が終り、時代は大きく 変っていきました。町にもどると終 戦に安堵し、﹁台湾光復﹂(台湾の祖 国復帰)を喜ぶ空気が町中にみなぎ っていました。人 々は新政権に対す 日本 の敗戦を 私は疎開先 の寒 村で 迎えました。新聞やラジオ等なんに もなく、米軍の飛行機もあまり飛ん で来ないへんぴな田舎では、じつの ところ敗戦のニュースはかなりあと になってからわかったのです。です から八月 一 五 日のことについてはほ とんど記憶にないが、その前後の思 い出でしたら、かすかながらいろいろ と憶えています。その年の四月、私 は都会の中学に入学しましたが、し かし連日の空襲と爆撃で勉強どころ ではありませんでした。私達は各自 の田舎に帰り、その地方で編成され た学徒隊の勤労奉仕に参加して毎日 を送っていました。鍬をかついで農 村に出かけ、畑仕事の手伝や、イ ン ドレンセイを植えさせられた記憶は 今もなお脳裏に強く残っています。 そして戦争も末期になると勤労奉仕

アジアの教科書で

見る日本軍国主義

10 韓 国 ・ 中 学 校 ﹃ 国 史 ﹄ 第二次世界大戦が織烈になると、 我が国の若ものたちに志願兵制度を 実施して強圧的に志願させ次には、 徴兵制度まで実施して強制的に戦線 にひっぱって行き、多くの人々を徴 用で、戦場や工場、鉱山などの地に 引きずって行った。 このように、我が民族は、あらゆる圧 迫と強要にも屈することなく、終りまで 日帝に抵抗し、民族精神弁寺 a っ て き た 。 日本のこのような我が民族抹殺政策は かえって、我々の民族精神を高め、団結 を固くする結集をもたらした。 ・・日帝が我が民族に実施した教 育は、基礎知識を教える普通数育と 初歩段階の技術を教える実業教育に すぎなかった。このことは彼らの教 育目的が我が民族の指導的人物の養 成にあるのではなく、植民統治の下 働きをするものを育てることにあっ たためである。その後、学校を増設 し、ソウルに大学まで建てたが、教 育を実施する基本原則には変りがな かった 。 こうした教育政策の下にも 先覚者たちは日帝弾圧と戦いつつ、 伝統的な私立学校を建てて人材を育 てた。(第八章﹁日帝の侵略と独立闘争﹂ 7 民族の文化闘争より一九七七年版) (山口明 子 訳 ) . ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 ・ 台湾・中学校 一 、日本盗賊 (軍隊)の南京大虐殺 民国二十六年十一月上海陥落後、 日本盗賊は西へとおし進み、十 二 月 南京を陥落した 。わが国民政 府 は 事 前に西から重慶に移しており、死を かけで戦い抜くことを宣言した。日 本軍関は南京に侵入占領後、狂った 野獣の如く血生臭い大虐殺を行い、 この首都の三十万の罪なき民衆を残 虐な毒手にかけ・::ある者は銃殺、 ある者は生き埋め、ある者は川に投 げこまれ、ある者は日本刀で頭を切 り取られた。婦女は強姦され、財産 はすべて奪い尽くされ、首都は空前 の大災難にあった。 人類史上最も非人道的な 一 ペ ー ジ として、わが中国民族一の大いなる 恥辱のみならず、全世界を愛する民 族も日本盗賊の獣的蛮行に非難の声 を挙げている。 二 、日本の台湾占領時期の台湾同胞 に対する迫害 日本は日清戦争後台湾を占領、﹁六 三法﹂を公 布し、立法、司法、行政 の三権によるいわゆる﹁台湾総督﹂ の手により高圧的な植民地統治を行 っ た 。 占拠当時は台湾同胞は度々奮 起し、武装して抗争したが、前後十 数回のうち最も有名なのは民国四年 の除杷年事件で ・ ・ : ・ ・ こ の 事 件 と 関 連 - ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 ・ 11

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マレーシアでふれた戦争の傷あと

した。そのころ引揚げていく日本人 日本人の学生も学校に来なくなりま 語を教えていました。だがまもなく 達には漢文を、日本人学生には台湾 て、台湾人の先生が教壇に立ち、私 中学では日本人の先生と入れかわっ 迎の準備であけてくれていました。 てくる﹁国軍﹂(蒋介石の軍隊)の歓 る期待と不安の中で、やがて進駐し この九月、マレーシアの美しいリ ゾートの島ペナンで開かれた﹁環境 の危機シンポジウム﹂に参加した。 どこまでも青い空、緑のヤシに包ま れたこの島は、旧イギリス植民地だ ったが、第二次世界大戦中は、日本 軍が占領するという血なまぐさい歴 史を秘めていた。 シンポジウムの合い聞に、島で最 も高いペナンヒルという山へケーブ ル ・ ヵ

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で登った。途中の乗りかえ 駅で、眼下に広がる島と海の美しさ に見とれていたら、ケーブル・カ

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の運転手が親しげに話しかけてきた。 島の生まれのマレ l 人で、戦争のこ とを聞いてみたら﹁日本の小学校に 三年半いた。授業は日本語だったが、 もう忘れてしまった﹂といい、突然 ﹁ 見 よ 、 東 海 の : : : L と歌い出した。 歌調はあやふやだったが、メロディ 動を貫いたこともあった。このため、 中国人虐殺は各地で行なわれ、私が 以前マレーシアを訪問したときも、 折にふれて、中国人殉難のことを知 らされた。たとえば、クアラルンプ ール郊外のパタンカリというところ を通ったとき﹁ここで二万人もの中 国人が殺された﹂と聞かされ、また ポ l トクランへ向かう橋を渡ったと き﹁この橋のらん干には、日本軍に 抵抗して殺された中国人の首がズラ リとさらしものにされた﹂といわれ て、言葉もなかった。 日本の教科書には、第二次大戦の ことにふれでも H マ レ l 半島 H と い う地名が出てくればよい方で、ここ でどれだけの血が流されたか、など の説明はない。一方、マレーシアの 教科書には﹁日本の戦争﹂という章 で、何ページにもわたって、日本軍 国主義によって受けた被害が記述さ れているのだ。 侵略した固と、された国のこのギ ャップ。マレーシアでは、空港や観 光地で、何組もの日本人団体客を見 かけたが、一体彼らの中で、殉難碑 に気づいた人は何人いただろうか。 戦争のことなど忘れてしまっている かのようなはしゃぎ方でかっ歩して い た O H 恥ずかしい日本人 H の 群 で あ る 。 恥ずかしいのは、過去の軍事侵略 だけではない。殉難碑がひっそりと が大通りの両側に家財道具や書籍を 並べて売りさばいている痛々しい光 景は、日本の台湾植民地統治の一つ の時代の終りを告げるかのように、 未だに生々しく私の心底に深く焼き ついています。しかし思い返すに、 八・一五は日本人以上に私の人生と 私達の生活を変えたといえるかも知 れ ま せ ん 。 ( 張 芳 秋 ) シンポジウムで観光公害について きびしい報告をしたエプリン・ホン さんという二十七歳の中国系女性は ﹁これから一緒に買春観光反対の闘 争をしよう﹂と意気投合し、﹁アジア の女たちの会﹂についても説明した。 ﹁私たちは日本の女として、アジア への侵略の歴史を繰返してはならな いという気持でがんばっています﹂ というと、彼女は私の手をギユツと にぎりしめた。﹁戦争のことを思うと つらいんです﹂と急に涙声になり﹁両 親から日本人がどんなにひどいこと をしたか、子どものときから聞かさ れてきた。親せきの人が日本女性と 結婚するといい出したとき、両親は 猛反対した。中国人をあんなに苦し めた日本人との結婚など許せないと いうんです。あなたたちのように、 戦争のことを反省している日本人も いることなど考えもしなかった L と 涙を流し続けるのだった。 マ レ l 人と中国人では、戦争につ いての受けとり方はやや違う。イギ リス人が植民地支配のために、人種 対立を深める政策をとったことを受 けついで、マレ l 半島を占領した日 本軍も、マレ l 人には懐柔策を、中 国人には弾圧策を、とい J 7 分断政策 でのぞんだのである。中国人は祖国 を日本軍に踏みにじられていること への憤りもあって、きびしい抗日運 はちゃんとおぼえていた。﹁日本人の 先生はやさしかった。でも、悪いこ とをすると、日本人に両手を切られ るのでこわかった﹂と両手首を切り 落とすしぐさをした。そして﹁もう 普のことだから。最近は日本人の観 光客がずいぶん来ますよ﹂と、商売 熱心な顔になった。 再びケーブル・カ l で下山し、車 を拾って町の方へ走り出すと、五分 もしないところに、高さ十

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もある かと思われる大きな石碑が見えた。 以前から聞いていた中国人殉難碑だ。 暗くて碑銘は読めなかったが、タ閣 の中にそそり立つ碑はこの地で、日 本軍に命を奪われた何千人という中 国人が今なお無言の告発を続けてい るかのように見えた。碑のまわりで 夕涼みしている近所の中国人たちの 視線にけわしいものを感じた。 して虐殺された台湾同胞は数万人以 上にのぼる。全台湾人民は日本軍閥 の暴威の前にやむなく屈服した。 日本軍閥はわが台湾同胞に極端な 差別待遇を行い、教育においては彼 らの﹁天皇﹂を尊重する思想を植え つけわが国の民族意識を消滅させた。 更に台湾青年には高等教育を受けさ せ な か っ た 。 また、経済的には台湾同胞の生産 所得の大半を剥奪し、生活は非常に 困難に陥った。これによって台湾同 胞の祖国への思いは切なるものがあ っ た 。 ( 一 九 七 五 年 版 ) ( 三 宅 清 子 訳 )

日本野我閥的佼略和格取

果⋮第一次計い川介大戦爆渡後'状凶故知 関岡三年出兵仙陳,進攻隠閥的租借弛 旭設施,比掠政府泣省能力阻止,紙島 小得越界西犯,以破猿沖岡的中立。那 値一慣向西侵略'次第占領腰掛蹴齢的全 川市縛在仙陳制階構,把仙棟費成旧体的 職後得到間際間的承認,国此産坐了所 H ⋮自旧兵侵犯仙棟以後'我闘屡次向 氏而轟限岡四年初突向比同政府提出脊 同継承隠岡在凶陳的所有機盆'並享・府 和同閥、民俸雨鍛路的租借期限至九十 閉園合排漢冶斧公司'附近的碩山伸岡 組借或割譲給其他闘家。同伸岡政府抽 マレーシア・中学校 民衆の特別な憎しみを買った軍支 配の一面は、日本の軍事警察である 憲兵隊のカで、憲兵隊は逮捕、捜査、 拷問の権利をもち、それが忠誠を尽 くさなければならないのは、東条首 相ただ一人に対してだった。日本の 軍隊は、侵略当初の彼らの兇暴性に よって、すでに現地住民の大部分を 離反させてしまった。日本軍政の残忍 性は、日本人を愛させるようにはし な か っ た 。 文化的には、日本はその新帝国の なかで、﹁アジアの光﹂を気どった。 日本の支配は一般に厳しかった。 東南アジアの全種族の民衆は、ある 程度はそれの影響を受けたが、中国 人たちがみんなのなかで最悪の取扱 い を 受 け た 。 日本支配の初めは、中国人にとっ ては恐怖の日々だった。彼らの処刑 に使った残忍な形式は:::日本軍の 残虐性について書いた本:::の中に なまなましく叙述されている。日本 軍の占領期間中のいろいろなときに、 ほかの同様なみせしめが行われた。 この﹁取り除き﹂方法は、椀曲に﹁粛 清﹂と言われるようになった。多く の中国人が虐殺されたのである。 ( 一 九 六 三 年 腹 ) 12 - ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 国 - ア ジ ア の 叡 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 . 13

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タイに残した日本兵の爪跡

守4 ナ コ ン シ ィ l タマラ l 卜 数 年 前 、 日 本 に き て い た タ イ の 留 学生に 、あなたの故郷はどこですか と聞いたことがある。 ﹁ナコンシィ l タマラ│卜です。日 本 軍 が タ イ に 最 初 に 上 陸 し た と こ ろ ですよ 4 と言われた時、頭をガ l ン とやられたような気がしたものだ。 私 は そ の 事 件 に つ い て 全 く 何 も 知 ら なかったからである。 一 九 四 一 年 一 二 月 八 日 未 明 、 日 本 軍 が パ ン コ ッ ク と 南 タ イ の ナ コ ン シ │タマラ l ト と に 上 陸 し よ う と 迫 っ ているとき、当時政権を握っていた 親日派の軍人、ピブン首相が失綜し、 日 本 軍 は 上 陸 許 可 を 得 ら れ な い ま ま 強 行 上 陸 し 、 タ イ 軍 と 衝 突 し て 多 く の戦死者を出した 。 そ も そ も タ イ 国 は 太 平 洋 戦 争 で は 直接その戦場とはならない国であっ た が 、 日 本 に と っ て は 戦 略 上 き わ め て大きな意味をもっていた 。 それは 日 本 が 列 強 に よ り 経 済 封 鎖 に あ っ て いたからであり、ために、タイ国は 日本の戦争重要資源である米、ゴム、 錫を獲得するル 1 トであると同時に、 マ レ l や ビ ル マ 戦 線 の た め の 大 作 戦 基地であり、列強やマレ l 、ピルマ の 情 報 を 収 集 す る 諜 報 戦 の 焦 点 で あ の を 何 一 つ と し て 持 っ て い ま せ ん で し た 。 あ る 時 、 日 本 兵 は 、 美 し い 女 の 人 を 連 れ て 来 て 、 私 の 祖 父 に ﹃ 買 わ な い か ﹄ と 言 い ま し た 。 ヵレン人 に は 、 人 々 を 売 買 す る 習 慣 は あ り ま せん 。 女の人はとても体が弱ってい て死にそうだつたので、看病したい と思ったのですが、恐ろしくて買うこ と が で き ま せ ん で し た 。 そ う し た ら 日 本 兵 は 、 そ の 女 の 人 を 川 の 中 へ 突 き 落 と し 、 溺 れ 死 な せ て し ま い ま し

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争 人 ﹂ 戦 時 下 の 屈 辱 の 経 験 が 今 も な お タイは、戦争中、日本の友好国で あ っ た と 言 わ れ る 。 しかし、それは 日 和 見 的 な 中 央 政 府 だ け の こ と で あ り 、 タ イ の 人 々 は 、 日 本 軍 が 大 き な 顔 を し て タ イ の 国 土 を 踏 み 荒 ら し た ことによって、心がひどく傷つけら れた。面と向って日本軍と戦ってい ないだけに心理的抑圧が屈折してい る。﹁自由タイ﹂に参加した知識人や 抗 日 運 動 に 参 加 し た 人 々 の 中 で 、 戦 後 の 日 本 の 経 済 的 進 出 を よ く 思 っ て った。したがって、開戦前から得体 の 知 れ な い 日 本 人 の タ イ 潜 入 は 頻 繁 であったという。 強 制 労 働 を 強 い た 日 本 兵 ﹁戦場に架ける精﹂で有名なタイ 東部のカンチャナブリ県にある橋は、 日 本 軍 が ピ ル マ 戦 線 に 物 資 を 運 ぶ た めに建設したものだが、建設現場で は強制労働につかせた連合軍捕虜、 インドネシア人、マレ l 人、インド 人 、 中 国 人 の 労 務 者 逮 の う ち 、 過 酷 な 労 働 と 熱 帯 の 疾 病 の た め 、 四 万 人 以上がパタパタと倒れ、死んでいっ た 。 中 に は 相 当 数 の タ イ 人 の 下 層 労 働者も含まれていたのである。 ピサノロ l ク、ランパン、チェン マイなどの北部タイの村々には、イ いる人は、誰一人としてない。戦時 中 の 軍 事 侵 略 と 二 重 写 し に な っ て 見 え る か ら で あ る 。 チ ェ ン マ イ で 玉 本 事 件 が 公 け に な る き っ か け は 、 北 タ イ の 新 聞 に 、 チ エ ン マ イ 婦 人 会 連 合 の声明書が掲載されたことにはじま る。声明書は、タイの大切な娘が、 セ Y ク ス ・ アニマルの相手としてし か 見 え な い の か / 日 本 人 は 一 体 我 々 の 娘 を 何 と 思 っ て い る の か / タ イのすべての女には誇るべき文化が あ る と い う 怒 り の 声 で あ っ た 。 その 背 後 に は 、 か つ て 日 本 兵 を 相 手 に す る娘を差し出さなければならなかっ た 屈 辱 の 経 験 が あ る 。 戦 争 中 の 体 験 を ぬ き に し て 、 日 本 の 経 済 侵 略 を 考 えることはできない 。 (この原稿 作 成 に あ た っ て 、 チ エ ンマイに長く在住していらした望月 賢 一 郎 氏 ・ 穂 積 夏 子 氏 の 御 協 力 を 得 ました 。 ) ( 破 民 理 )

インドネシア人が歌

日本軍歌

﹁真白き富士の気高さを、心の強 み いかでとして、御国につくすおみな ら ば : : ﹂ こ ん な 歌 詞 で は じ ま る 軍 歌 ﹁ 愛 国 の 花 ﹂ を 、 は じ め て 耳 に し た の は イ ン ド ネ シ ア の バ ン ド ン に 暮 すようになってからだ 。二 年 間 、 イ ンドネシアに生活しているうちに、 わ た し は 日 本 の 軍 歌 、 戦 時 歌 謡 曲 を いくつか党えた 。 ﹁ インドネシアにお ける日本軍政 L についてほとんど知 ン パ l ル へ 入 る た め 、 日 本 軍 が 駐 屯 し、米、家畜、食糧などを調達した。 日 本 軍 は ピ ル マ へ 通 じ る 山 中 に 道 を 作 ら せ る た め 、 突 貫 工 事 に 村 の 人 々 を 徴 用 し た 。 村 に 日 本 軍 が 入 っ て く る と 村 人 達 は 恐 ろ し さ で 家 を 捨 て て 山 へ 逃 れ 、 妻 子 を か く ま ったとい う 。 少女がかわいがっていた馬を奪い、 病 院 か ら 医 師 を 追 い 出 し て 野 戦 病 院 とし、誰かれかまわず労働に就かせ て 日 本 語 を 強 い た 。 チ ェ ン マ イ の 街 に遊びに出ては女を買うのも日本兵 の常であった。 敗 戦 の 年 に 子 ど も が 生 ま れ 、 父 親 である日本兵の名前までわかってい る の に 父 を 探 し に 日 本 へ 行 く 夢 も 果 せないままに、チェンマイの市場で 今 日 も 働 い て い る 女 性 が い る 。 ピルマにおけるインパール作戦は 惨 憎 た る 敗 北 に 終 り 、 チ ェ ン マ イ の 県 道 沿 い に は 日 本 兵 の 屍 が 累 々 と 続 き 、 チ ェ ン マ イ の 野 戦 病 院 で も 四

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名が死んだ。 敗 残 兵 は 、 タ イ 、 ピ ル マ 国 境 に 住 む山岳民族の村へも落ちのびていっ た 。 あ る カ レ ン 人 の 女 性 は 次 の よ う な話をした 。 ﹁カレン人は大変日本兵を恐れてい ました 。 彼らは血まみれでしたし、 色 々 な 病 気 に か か っ て お り 、 も の す ごい悪臭がしました。そして飢えて 死 に そ う で し た が 食 糧 と 交 換 す る も 識 を も ち あ わ せ て い な か っ た わ た し を、インド、チンア人はいつも軍政下 の 日 本 人 と 重 ね あ わ せ て 見 て い た よ うだ 。 わたしが日本人だとわかると、 まるであいさつの言葉のように、﹁オ ィ、コラッ﹂﹁パ y キャロ﹂が語られ、 ﹁ジャワ奉公会﹂﹁兵補﹂﹁労務者﹂ ﹁ 隣 組 ﹂ ﹁ 一 一 y ポ ン ジ ヨ ウ ト ウ ﹂ と いった単語が飛び出してくる。 市 場 で 野 菜 を 売 る お じ さ ん は ﹁ キ ユウジョウにむかつてけいれい/﹂ と 突 然 ど な っ て 、 大 根 を ふ り ま わ す 。 わが家の大家は、六

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を す ぎ た 一 人 暮しのおばあさんだったが、 三

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年 た っ て と び こ ん で 来 た 日 本 人 に 、 複 雑な感情をかくせないようだつた 。 時々、台所の勝手口からヌ l γ と入 って来ては 、 ﹁ 一 、 二 、 三 ﹂ ﹁ ア メ L ﹁ハナ﹂など覚えている単語をなら べて 、あとはス ンダ語(西ジャワの 地 方 語 )で一人ぶつぶつつぶやいて い る 。 一 九 五 五 年 の バ ン ド ン 会 議 を 記 念 し て 名 づ け ら れ た ﹁ ア ジ ア ・ ア フリカ 通り L は、その品目﹁東大和通 り ﹂ と 言 わ れ て い た こ と を お ば あ さ ん は 、 大 分 あ と に な っ て 教 え て く れ た 。 わたしの仕事を手伝ってくれたア ティのお父さんは、﹁兵補﹂だった。 毎 日 訓 練 が あ っ た こ と 以 外 に は 、 多 く の こ と を 語 ろ う と し な い 父 親 の 実 直 そ う な 顔 か ら は 、 日 本 軍 政 へ の 恨 タ イ ・ 中 学 校 日本は、日本人が移住して生活で きるような土 地 を 熱 心 に 捜 す 必 要 が あ っ た 。 だ が ア メ リ カ と オ ー ス ト ラ リアが日本の意図を妨害したので、 日 本 は 中 国 に 目 を 向 け 、 中 国 で 何 度 も﹁衝突﹂をくり返した 。 そ し て 、 ついに一九三二年、上海で中国軍と 衝 突 、 宣 戦 布 告 な き 戦 争 を し た 。 こ の 沖 縄 戦 で 、 日 本 は 人 聞 の 命 を 圏 直 引 き 換 え に す る 、 普 通 で は 考 え ら れ 主 な い 大 胆 な 武 器 を 使 用 し 始 め た 。 ァ 闘 ジア方面の大戦の最初に、日本は﹁神 の 風 部 隊 ﹂ と 呼 ば れ る 、 あ え て 死 を 覚 同 情 し た 飛 行 部 隊 を 使 い 始 め た 。 そ れ る は 爆 弾 を 積 ん だ 飛 行 機 が 目 標 物 に 突 で つ込んで 撃 突 し 、 飛 行 士 の 命 を 失 う 刊 のも辞さない戦法だった 。 教 日本は﹁爆弾飛行機﹂を使用した。 内 そ れ は 人 間 一 人 を 乗 せ て 大 き な 飛 行 ジ 機 か ら 放 し て 衝 突 さ せ る の で あ る 。 酌 (一九六五年版) イン ド ネ シ ア ・ 中 学 校 その間我々国民は、我々の敵はイ ギ リ ス と ア メ リ カ で あ り 、 ま た 日 本 民族の先祖は神々であって、﹁アマテ ラスオ l ミカミ﹂の末商である﹁テ ンノウヘ イ カ ﹂ は 神 々 の 長 と し て 崇 拝 し な け れ ば な ら な い こ と が 教 え 込 まれた 。 概して 三 年ばかりの日本の占領は、 国 民 に 限 り な い 困 窮 と 、 オ ラ ン ダ 植 民 地 政 府 以 上 の 残 虐 で 専 制 的 な 弾 圧 と 、 か つ て 我 々 が 経 験 し た こ と の な かったような苦痛と悲惨を招いた。 ﹁ケンペイ﹂日本の軍警察に対する 恐 怖 は 、 ほ と ん ど す べ て の 抵 抗 を 麻 療 さ せ て い た 。 ( 一 九 五 八 年 版 ) 小 学 校 日本はイ ン ド 、 不 シアに 独立を与え な か っ た 。 そ の 代 わ り 、 日 本 は 欲 す るがままにインドネシア人民を支配 し た 。 我々は﹁ロ ー ムシャ﹂にされた。 あたかも奴隷のように:: : ジャング ル、沼地、海岸などで働かされた 。 餓死、病死、虐待死 。 日本は日増しに残虐にな っ た 。 日 本 は 各 地 で 敗 れ だ し た の だ 。 日 本 は 我 々 を ﹁ 利 用 ﹂ し て 、 戦 争 に 参 加 さ せ始めた。我々は戦争をしなければ な ら な い 。 誰 の た め に か 。 日 本 の た め に だ 。 ( 一 九 六 二 年 版 ) 14 . ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 滋 ・ 15

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