日 本 の 庭 で
INA JAPANESE GAf¥DEI¥i
置
特別企画・今わたしたちは何をしなければならないか
会〉
〈座談
験
体
争
戦
の
私
元教師)
(
1
9
4
1
年生
日本朝鮮研究所所員)
(
1950
年 生 研 究 所 職 員 )
(
1938
年 生
子
子
子
利
﹀
愛由
会
山
司
海
沢
亀
行
内
富
(
1909
年生「半月の詩」の著者)
(
1924
年 生 フ リ ー 校 正 者 )
(
1
9
2
1
年 生 画 家 )
(
1935
年 生 主 婦 )
〈
出席
〉
今 村 秀 子
奇 民 子
富 山 妙 子
李 淑 姫
木は「軍国主義」で盆栽は
「文化J(中国・アジア誌より)
現
在
、
戦争責任を考える
ß~ '..,.tr:~内 (("1-1 1 膨 a輔、 ";'
最近、戦争の悪夢を思わせるような動き
が目立っている
O
﹁有事立法﹂制定や、元号
法制化が着々と進められて、教育の場では
か
君
が
代
μ
を国歌として歌うことを強制され
るようになった。侵略の精神的支柱であっ
た靖国神社に福田首相がくり返し参拝し、
天皇の公式参拝を実現させようとする運動
も、公然と行なわれている
。
﹁何かおかしい
L
と誰もが思いながら、手
をごまねいているうちに、侵略戦争に突入
していった一九三
0
年代
の状況と酷似して
いると、戦争を体験した世代の人々はいう
。
で
は
、
三
一
0
年代から敗戦までの聞を生きた
人たちは何をして、何をしなかったために
戦争を阻止できなかったのか
。二
度と再び
戦争をくり返してはならないと考える私た
ちは、私たちの親や兄弟姉妹が戦争に巻き
こまれ、戦争ヘ加担していった歴史を、
A
7
改めてふりかえりながら、﹁また、ふたたび
の道
L
を歩まないために、今私たちは何を
なすべきなのか見極めなければと思う
。
三
OO
万の日
本人が犠牲にな
っ
た
、あの
戦争の悲惨さは、いくら語られても語られ
つくすことはないだろう。だが、日本の侵略
戦争の犠牲者は日本人のみではなか
っ
た
。
その事実を、私たちはあまりにも知らなす
ぎたのではなかったか。自らの被害者とし
ての苦しみを強調するあまり、女たちが﹁銃
後﹂を守ったその銃口がどこに向けられて
いたのかを無視してきたのではないか
。
﹁国防婦人会
L
﹁愛国婦人会﹂などに組織さ
れた戦時中の女たちが、たすきがけで日の
丸をふって送り出した夫や息子たちが、ア
ジアの戦場で何をしてきたのか。私たちに
は知らされなくても、直接被害を受けたア
ジアの民衆は、日本軍の蛮行を骨の髄まで
女
性
遊
軍
歌
小
笠
原
喜
代
治
作
詞
通
堂
方
一
晴
れ
の
お
召
に
つ
は
も
の
の
勇
む
門
出
に
は
な
か
け
た
、
﹁
崩
聞
き
ま
す
﹂
の
一
言
葉
凍
々
し
く
生
き
て
作
業
服
、
妻
の
趨
の
滑
ら
か
さ
。
一
一
母も少女も必勝の
二
字
に
あ
や
ど
る
機
掛
け
、
兵
器
に
祈
る
勝
い
く
さ
、
生
産
障
の
前
線
に
、
大
和
撫
子
咲
く
は
今
。
一
一
一
馴
れ
て
愉
し
い
こ
の
戦
場
、
汗
を
拭
っ
て
け
ふ
も
ま
た
、
携
の
友
を
み
か
え
れ
ば
、
花の笑顔がに
っ
こ
り
と
、
者さに燃えるたのもしさ
。
四
心
す
ま
せ
ば
わ
が
耳
へ
、
A
7
だ
ぞ
、
弾
丸
を
飛
行
機
を
、
送れと叫ぶ援がする
。
あ
あ
園
事
げ
て
工
場
に
、
い
ざ
や
女
性
の
線
進
軍
。
恨み続け、決して忘れてはいない。﹁焼きつ
くし、奪いつくし、殺しつくす﹂
残虐きわま
りないコニ光作戦﹂を直接遂行したのは日本
の軍隊であった
。
しかも戦後、こうした日本
軍の犯罪を、日本の民衆の手で裁くことす
らしてこなかった。虐殺、食糧の強制供出、
労務者の狩り
出
し
・
・
・
・
・
・
戦
争
の
傷
あ
と
は
、
今
なおアジアの各地に生々しく残るが、被害
者にたいする償いすらしていないのだ。
敗
戦
か
ら
っ
一
O
年経った今日、日本は経済
大国としてアジアに﹁君臨﹂し、再び﹁大東亜
共栄圏
Ll
円ブロックの形成をはかろうと
懸命である
。
円高に誘われた日本人は、かつ
ての日本軍が侵入したアジアの国々に工場
を林立させて利益をむきぼり、観光客とし
て札束を手に閲歩し、買春観光に血眼にな
っ
て
い
る
。
相手の女性が、かつて自らの手
で殺害した者の遺児であるかもしれないこ
と
す
ら
気
付
か
ず
に
・
・
・
・
・
・
。
戦争責任を連合国の戦犯裁判にのみゆだ
ね、日本の民衆の手で戦争責任者を裁き、
あわせて、自分たちの戦争加担を反省する
ことのなかった私たちは、アジアの民衆か
らの告発にも耳を貸そうともせずに戦後を
すごしてきた
。
そして今、再び不気味な軍
靴の響きが聞こえてくる
。
だが、私たちは決して二度と被害者にな
りたくない
。
そして、戦争に加担してアジ
ア民衆への加害者にもなりたくない。それゆ
えにこそ、先輩たちが侵略戦争ヘ動員され
ていった苦い経験から学び、戦争責任を聞
い続けようとしているのである
。
戦争への
途を拒否するために、私たち日本の女は
A
7
向をなすべきかを考えたいと思う
。
アジアの女たちの会
戦後、被害者意識にとじこも
っ
て
戦争体験を語ってきた日本の女たち
にとって、アジアとの出会いは衝撃
だった。アジアをとらえる視点をも
っ
た
女
た
ち
が
、
あ
の
戦
争
の
時
代
を
ど
う生きたか、自分史を語り合い、再
び
侵
略
戦
争
に
加
担
し
な
い
た
め
に
、
今
、
何をしなければならないのかを考え
守
合
。
戦前の皇国教育
司会戦前に教
育を受けた方たちは
朝
鮮
・
台
湾
・
満
州
に
つ
い
て
、
具
体
的
に
ど
の
よ
う
に
教
わ
っ
た
の
で
し
ょ
う
か
。
一
九
四
一
年
に
は
、
日
本
軍
の
東
南
ア
ジ
アへの侵攻がはじまりますが、植民
地支配について、どのようなイメー
ジ
を
持
っ
て
お
ら
れ
ま
し
た
か
。
今
村
日本が神国だということを何
となく植えつけられていたし、朝鮮
や
台
湾
が
日
本
の
植
民
地
だ
と
い
う
イ
メ
ー
ジ
で
は
な
く
、
日
本
の
一
部
の
よ
う
に
思
わ
さ
れ
て
い
た
。
﹁
北
は
樺
太
千
島
よ
り
、
雨
、
台
湾
滋
湖
島
、
朝
鮮
八
道
お
し
な
べ
て
、
わが大君の納す固と、あさひの御旗
ひ
る
が
え
す
、
同
胞
す
べ
て
六
千
万
L
と
読
本にあって、唱歌の時間に歌いまし
た
。
式
典
の
と
き
は
﹁
君
が
代
﹂
の
ほ
か
、
天皇誕生日には﹁今日のよき日は大
君
の
:
:
:
﹂
、
建
国
記
念
日
に
は
﹁
雲
に
そ
び
ゆ
る
高
千
穂
の
:
:
:
﹂
を
歌
い
ま
し
た
。
2
3
司会
そういう歌で意識がつくられ
ていったのでしょ、
7
か 。
今
村
幼稚園のときから﹁兵隊さん
の強いこと、寒いお国で戦さして私
も強い子どもです。一、二、三、四
進みましょ﹂と習いました。侵略戦
争などという意識はなく、かわいそ
うなところを救ってやったんだとい
う気持でした。学校教育の中で素直
に信じていたんですね。
一九二五年
に女子大に入学し、同
じクラスの韓国の方からはじめて、
合併とは言葉の上だけで奴隷と同じ
だ、中国大陸侵略の第一歩として自
分たちの国が侵略されたのだと聞か
されました。
一九二九年に慶尚北道の大白を訪
れたときの体験は忘れられません。
下関で列車から降りると、チョゴリ
を着た人と日本人が手を結んでいる
絵に﹁内鮮融和﹂という文字の入っ
たポスターがはってありました。関
釜連絡船の乗船手続きは
、日本人
と
韓国人は別でした。チョゴリの白い
行列が続く韓国人の乗船口では、一
人一人を棒で船底に叩きこんでいま
した。叩かれたとたん、荷物と一緒
にごろんでしまったおばあさんもい
ました。その時は、日本人がこんな
に悪いことをして、私一人だけでも、
'おばあさんのところへ行っておわび
しなければと思いました。勇気がな
ほほえんでいるポスタ
ー
があふれ、
豊かな大地に各民族が共に栄えると
いうイメージです。
司会
富山さんは﹁満州﹂での生活
の・叩で、さまざまな予盾を感じていら
したと思いますが。
富
山
私は日本が中国を侵略してい
た
一五年
戦争の時代﹁満州﹂で育ち
ま
し
た
。
大連の小学校の遠足といえば旅順
に
行
き
、
日
露
戦
争
の
戦
跡
め
ぐ
り
│
│
そこでロシア帝国がいかに悪らつに
極東へ侵略したかを、先生が熱をこ
めて語ります。そのロシアの野望を
日本はくじいたのだと、西洋帝国主
義をやっつけるわけですね。
﹁日本軍は大国ロシアを向うにまわ
くて、できませんでしたが。
戦争が終わ
っても負けるのは当た
り前と思っていたし、もう日本の園、
政府は信用しない、私の力だけで、
私の信念で立ち上がるしかないと思
い
ま
し
た
。
谷
一
九
二九年生まれです。小学生
の作文(下欄)を今あらためで読み直
すと、すっかり軍国少女に出来上っ
てしまっているので、びっくりしま
した。私が育ったころは﹁支那﹂と
いえば敵、朝鮮や台湾については、血
の通った人間の社会だという教育を
受けたこともありません。﹁満州﹂と
いうと馬賊やパルチザンが登場し、
勇気ある日本人がそれを攻め滅ぼす
という﹃少年倶楽部﹄文化で育った。
与謝野鉄幹が爆弾三勇士を歌ったの
が流行したり、女学校の運動会では
﹁抜万隊﹂の歌のテ
l
マで分列行進
をしました。この曲は今でも自衛隊
や警察の分列行進に使っていますね。
一九三五年ごろ大学を
出た従兄た
ちが、不況で日本に職がなく、朝鮮
の城津の製鉄工場や台湾の日系ピク
ターで働くなど、植民地へ出て行き
ました。日本軍の三光作戦のことを
彼らがひそひそと話しているのを聞
いたことがありました。
学校では、﹁満州﹂は日本の生命線
で、地味の肥えた広い国土があると
教えられ、そこが﹁満州﹂の人々の
して戦った。多くの
血
を流して手に
入れた関東州は当然日本のものであ
る﹂と教えられます。そのころ中国と
は帝国主義列強がむしり取る時代に
あったわけですね。西洋帝国主義を
攻撃しながら、日本もそれと同じこ
とをするわけですけど、そこでもっ
てきたのが﹁正義の味方﹂││つま
り
、
﹁
討
匠
行
﹂
で
す
。
博覧会には﹁匪賊館﹂というのが
あって、匪賊が襲撃してくるパノラ
マや、犠牲者の血染めの服などが陳
列されていて、私たちの恐怖心をあ
おるわけです
。
盗賊の匪賊もいたわけですが、関
東軍のねらうのは抗日ゲリラ、それ
を﹁匪賊﹂に仕立てあげる
。
私たち
小学生は駅に﹁討
匪行﹂の兵隊さ
んを見送ります。
そこで関東軍は
ち
匪賊を討伐し、
た
そのおかげで﹁満
a
﹂
緯
州﹂は王道楽土
停
になったと、戦
鳩
争にはやはり民
一
十
衆を引っぱるス
か
ロ
l
ガンがいる
同
わけですね。
鋪
いったい日本
一 恥
が中国侵略で何
結
を
行
っ
た
か
│
│
今の日本
宇佐見たみ
二月二十四日まで、スイスのジュ
ネーブで、こくさいれんめいがひら
かれました。日本からは代へうとし
て、松岡さんや松平さんや、其の外
えらい方がたくさんいらっしゃいま
した。こんどどくりつしたまんしゅ
うは支那の物だと外園は皆言って居
ます。どんしてかといふと支那は先
に支那の方がいいとうまく言ってし
まったからです。
二十四日のごう外に、松
岡さんの
おしゃしんが出て居ました。
日本はもうだつたいしたそうです。
支那はしゃくな閣です。
A
7
支那とまんしゅうとせんそうを
して居ます。せんそうのもとは支那
が日本のてっ道をこはしたからです。
支那はまんしゅう人にいたづら弁じ
たりするので、日本はまんしゅうに
かせいして居ます。
日本の軍人さんやまんしゅうの軍
人さんは、何尺とつもった雪の中で、
其の上もうこからふいて来るさむい
風の中で、いさましくはたらいてい
らっしゃいます。けっしてへこたれ
ものだとは考えもしなかった。朝鮮
も、国土は荒れて禿げ山で、日本の
ような緑はない、日韓併合後は植林
﹁南京虐殺﹂や﹁三光﹂など、当時
の日本人にはまったく知らされては
いなかったのですから。
ハ 合
私たちは王道楽土を相当部分信
じていたわね。満鉄の宣伝映画をず
い分見せられたから、
A
7
でも目をつ
ぶると、大豆がザ
l
ッとこぼれるイ
メージがはっきり浮ぶ。ひどいこと
があったなどと想像もしなかった。
被植民者にとっての戦争
司会
李さん、植民地朝鮮では日本
人をどう思っていたのでしょうか
。
李
ちょうど私が小学校入学の年か
ら韓国語は禁止され、日本語だけ使
うことになりました。もちろん家庭
では、自分の国の言葉でしたが
。
戦争がはじまるとすぐに巡査が各
家庭に来て、鉄製の口問物は全部とり
あげられました。韓国では御飯茶椀
ス
l
プの容れ物など、すべて鉄製で
お父さんの器、お母さんのものと決
まっています。鉄製の洗面器に至る
まで、祖先から何十年、何百年と伝
わ
ってきた大
切なものを全部とられ
ました。一村に何キロという割当て
があって、日本人と韓国人の巡査が
一緒になってやるんです。
戦争がひどくなると、食物やお金
までとられました。自分の畑仕事は
後回しにして他所の畑で働いて得た
4
はしません。
昨日の新聞にネッカへ行く日本の
へいたいさん方のおしゃしんが出て
居ました。
(ネッカはせんそうをして居る所)
私がおほきかったら、日本の事で
何かおやくにたつことをしゃうと思
ひます。日本のへいたいさんにくら
うをさせないで私たちもいっしょに
なってはたらかうと思ひます。
今にどんなことがおこるとはかぎ
りませんから、日本人はかくごをし
なければなりません。
日本ていこくばんざい。
(
一
九
三
二
年
二
月
二
十
七
日
記
小
学
校
二
年
)
4
惨
.&'<",~
/
争
#
で山は緑になり、米はたくさんとれ
日本にうんとくると教えるんです。
蒙古族や朝鮮族が民族衣裳を着て、
金を日本の国に差し出すんです。小
学生は松の根やアカシアの実など、
油のとれるものを集めさせられた。
校庭の周囲にも、そういう植物を植
えさせられたりで、勉強する時間が
なかったです。
私の家庭は、李朝時代がそのまま
流れてきているような封建的両斑(ヤ
ンパン)の家でした。私が幼いころ
は七才以上の男女は同席が許されな
いほどでした。日本の植民地になり、お
じいさんたちは髪を短かく切られ、
創氏改名で日本の氏名に変えさせら
れた
。反
対/反対/と叫んでも、捕
えられて、ひどい目に会うからどう
しょうもない。
男の人たちが兵隊にとられたころ
のことで一番印象に残っていて胸が
痛むのは、若い先生たちが一人ずつ
戦争に行ったことです。授業中に鐙
がカ
i
ンと鳴ると、生徒は校庭に集
められるんです。すると先刻まで教
えていた先生が、胸に白い札を貼っ
て立っている。その先生が軍隊に行
くことは皆に分かるので、心の中で
泣きながら﹁勝ってくるぞと::﹂
と歌って拍手で送り出すんです。そ
して二ヶ月も経たぬうちに死んで、
遺骨だけが真白な箱に入って戻って
くる。ほんとに辛かった。
司会
おじいさんが三
・
一独立運動
で亡くなられたそうですが、ご両親
5
からお話を開かれましたか。
李
登臣秀吉の侵略のときに、山が
高くて日本兵が入れず涙を流して退
却したといわれる﹁涙流す
山
と
い
う
﹂
名の山があります。私たちの小さい
村にも
三
・
一運動が及んできて、人
々は韓国の旗を持って集まり、万歳
万歳と合唱して、その高く険しい山
を登って、少し大きい町へ向かった。
日本軍はその山まで入って、人々を
全部捕えて
、殺したり監獄に入れて
しまった。おじいさんも田舎で捕ま
っ
て
、
ソウルの一番大きい監獄に入
れられたそうです
。
監獄の中で漢詩
をつくり、田舎の怠子(私のお父さん)
に送り続けたということです。
司会
両
班
(
ヤ
ン
パ
ン
)
の
家
庭
の
中
で
、
日本のことはどのように教えられま
し
た
か
。
李
おばあさん、お母さんたちには、
豊臣秀吉の侵略時代のことが言い伝
えられている。そのお母さんから学
んだことは、日本人は昔から侵略者
だ
っ
たこと、わが国は今植民地化さ
れているが、いずれ独立しなくては
いけない
。
五千年以上の歴史をもっ
白衣の民族として、自分の固に誇り
をもって、自分の国の言葉をちゃん
と
習
っ
て勉強しなくてはいけないと
いうことでした
。
李朝時代の王や王
妃の話を、姉と二人で泣きながら﹁も
っとして、もっとして﹂とせがんで
援活動の中で、私は初めて日本政府
の外国人にたいする扱いを見、血肉
の通った中国人、朝鮮人とつきあう
ことで、自分の問題として何とかし
なければと思いました
。
法務省や入
管の役人のいや、がらせにたいして彼
女は﹁これは日本人であるあなたた
ちの問題よ﹂と執劫に言ったわけ
。
それまでは、警察から外人登録の切
りかえがくる韓国人の子にたいして
かわいそうにという反応だ
っ
た
。
同
じように自分の問題だと思ったのは
アメリカの北爆のときね
。
アメリカ
はベトナム人を人間とみていないか
ら、虫ケラのように殺す。日本も
中
国に固有の名をもっ人々が住んでい
るとも、自分に関係があるとも考え
なかったんですよ
。
富
山
のちに私がいたハルピンには
ロシア革命で亡命してきた白系ロシ
ア人がたくさんいて、女の子が花売
りなんかしていた
。
ハ
ルピンの女学
生の詩や短歌では﹁エミグラ
ン
トの
青き鐙よ﹂などとロシア人の貧しさ
には同情しても、も
っ
と
悲
惨
な
中
国
人にたいしては無関心だ
っ
た
。
彼ら
を
人
間
と
思
っ
ていなか
っ
たわけです
。
アメリカの白人が黒人を同じ人間と
思っていなか
っ
たように
。
内
海
二年前にインドネシアで暮ら
して、そこの日本人
学
校の作文集を
読んだときのショ
ッ
クが同じなんで
聞かせてもら
っ
た
。
学校では日本語だけでしたが
、お
母さんからハングルを教えてもらっ
た
。
男の子たちは五、六才までに漢文
をマスターしますが、女の子には教
えてくれなかったんです
。
封建的で
すけど。そういう伝統的、封建的な
ものが、日本の支配以後どんどんな
くな
っ
てしまって
・
・
:
:
。
そういうの
を喜ぶ人もいたんです
。
近代化を喜
ぶ親日家が
。
司会
どういう人が親日家ですか。
李
やはり新しい学問を習った人た
ちですね
。
両班とい
っても貧しい人
も裕福な人もあり、その中間ぐらい
の人です。人の家の奴隷にはならな
いというレベルで村を出て行って現
代の学問を習ってきて、真っ先に髪
切
っ
て
、ステ
ッ
キ振りながら歩く
。
こ
っ
ち
では昔の黒いもの被って、長
い韓国服着てね、両方あったんです
。
司会
そのころの教科書はつ
李
日本の教科書を使い、毎朝、皇国
臣民の誓詞とか宮城遥拝をしました
。
戦争が終わると、日本の本は読ん
ではいけない、持
つ
てはいけないと
いうことで、全部焼きました
。
司会
八
・
一
五の解放をどういう風
に迎えましたか
。
李
戦争が終わったときには、みん
なが嬉しい嬉しいですけど、第
一
線
でどうしょうもなく日本に従ってい
た人たちへの怒りがひどくて、日本人
の手先きになって同胞をいじめた人
たちを棒や石で叩いたり、半殺しに
したりした
。
日本人よりも手先きに
なった韓国人への憎しみが強かった
わけではないのです
。
日本人はみな
逃げてしま
っ
て
村にはいなかったか
ら、収まらぬ怒りが韓国人に向けら
れたと思うんですね
。
八
-一
五の放送のことは、兄が戦
争に行く送別会をしているときに、
そのニュースを聞いたらしいんです
。
走って家に帰り、戦争に出発する人
のために庭の木に吊つであった旗を
全部下ろして、お母さん
/もう
これ
要らないよ/戦争に行かなくてもい
いよ、戦争は終わ
っ
た、うちの国は
独立した、解放されたと言
っ
たんです
ね
。
お母さんは兄が軍隊に入るとい
うとき
、泣い
て泣いて千人針を一針
ずつもら
っ
て歩きながら、神様、神様
っ
て叫んでいたらしいんです
。
兄が
軍隊に入る
二
目前に戦争が終わ
っ
た
のでお母さんは、これは神機のおか
げだというので、代々伝わってきた
儒教で祭っていた飾りものや器を全
部下ろして割ってしまって、その日
のうちに教会に行ったんですね
。
都会には、日本人だけが通う学校
があった
。
朝鮮人はなかなか入れず、
入つでも差別される
。
そ
う
い
う
山
一
子
校
に入
っ
たお嬢さんたちは、恵まれた
亀
山
戦
時
中
に
ソ
ウ
ル
の
女
学
校
で
教
師をしていた方が、何人かの生徒が
心を打ち開けてくれて、﹁私たちは日
本語を使わなくてはいけないが、先
生はなぜ朝鮮語を学んでくれないの
か、朝鮮の文学の美しさを先生に知
ってほしい﹂と涙をハラハラ
こぼし
ながら告げられたときのショックを
言われてました
。
この言葉のもつ意
味は今も変わらないんですね
。
内
海
A
7
は植民
地ではなく、合弁企
業の社員として行くんですが
、
それ
す
。
インド、不シア人誰それ君という
固有名詞が全然出てこない。インド
ネシア人は裸で歩いて、手でご飯を
食べます
。
ぼくはこれを家の女中を
みて書きましたとか、家の犬は日本
人は誰がきても吠えないが、インド
ネシア人だとすごい勢いで吠えます
とか
。
あなたは誰と遊ぶかと聞くと、
オーストラリア人、ドイツ人、アメ
リカ人で、カンポン(地元の人たち
の部落)には行かない、汚ないから
と言うんです
。
谷
物
と
同
じというか、
本当にどう
J
したらいい
込
んだろう
。
内
海
子ど
もたちは、
外国で仲良
くするには、
その国の言
葉を覚える
のが大切だ
とアンケー
トには答え
るが、イン
ドネ
シア
語
を勉強する
人は
一
割も
いないです
ね
。
朝鮮の各所に神社をつくり参拝を強制した
家庭でお父さんが立派というわけで
すけど、えばってましたから、解放
後は逆に嫌われましたね。居にくい
人になりました。
6
加害者側に欠落するもの
亀
山
私は小学校一年生が敗戦だか
ら
一
番自由な世代で、民主主義とい
う言葉もフランス革命も知ったけれ
ど、アジアを忘れ、ヨーロッパ中
心
の感覚から抜けていない
。
例
え
ば
中
国の五・四運動の写真を見ても、私
たちと閉じ血の通った人間として彼
等を見る教育は受けなかった。
アジアの人々の存在を初めて実感
したのは、教師として担任したクラ
スの在日朝鮮人少女が朝鮮高校に転
校後に遊びに来て、﹁秀吉の出兵のこ
と祖国防衛戦争
っ
て習うのよ﹂と-話
してくれたときです。秀吉の朝鮮
出
兵は私たちにと
っ
て、桃太郎の鬼退
治みたいにカッコいい感じなのね
。
その子の言葉に初めて、日本人が攻
めていった土地の人たちに生活があ
り、涙や汗があることを生き生きと
感じるようになった
。
A
7
の教育では、
知識を与えないだけでなく、感性を
まひさせることが、自覚を妨げる有
効な手段にな
っ
ているんですね
。
谷
台
湾
か
ら
の
留
学生、劉彩品さん
の法務省入管局にたいする闘いの支
でも言葉はやらない
。
言葉がわから
ないから、日本人だけ集まって生活
し、インド、不シア人が怖ろしくみえ
る。インドネシア人は泥棒や人殺し
をするという会話だけが増幅される
。
それを子どもが聞いて、もともと﹁遅
れたアジア﹂のイメージ、があるから、
どうしようも'ない国だという思いだ
けが伝わっていく
。
相手の文化を知
るという姿勢は今も全くない
。
バンドンの大学で日本語文化悠少乞ゃ
っ
たときに通訳をした日本語学科の
先生は﹁私たちは日本語学科で日本
語を勉強している、インドネシアで
暮らしている日本人はインドネシア
語を習う義務がある﹂と皮肉
っ
た
。
彼は日本へ来ても、日本語が上手な
のに意識的に使わない。それが彼の
ナシ
ョ
ナリズムなんですね
。
戦後教育の現場にみる国家意識
司会
日本の普通の学校教育を受け
ただけではアジアの問題、植民地と
して支配した朝鮮・台湾のことすら、
意識にのぼらないわけです
。
中学や高校の教員だ
っ
た亀山さんの
ご経験はどうですか
。
亀
山
このテ
l
マを聞いたときに、
まず思い出したのは、対肇二
一
カ条
(
一
九
一
五
年
、
内
モ
ンゴルまで含めた権
益を日本が要求)についての授業で、
7
中国はそれを呑んだ日を国恥記念日
としていると教えると、必ず笑いが
出
たことです
。良い
ことではなく、
恨みを記念するのが、日本人の体質
に合わないらしい
。
し
つ
こ
いなあと言
うのね。アジアに生きている生身の
人問、生活を実感できないのです
。
李
朝鮮が日本に併合されていて、解
放されたという記述は、日本史の教
科書にないのですか
。
亀
山
私たちには敗戦の目だ
っ
た八
月一五日が、日本の支配下にあ
っ
た
アジアの民族にとっては解放の日で
あったことを指摘している教科書は
少ないですね
。
小学校六年の教科書
の目撃事変のさし絵の説明に﹁中国
の広い国土と中国人の抵抗のため、
戦争は果てしなく続きました﹂とい
うのがあります。﹁悪いは支那ばかり﹂
という発想は、戦後もそのままです
。
教科書検定は憲法違反と国を訴え
ている家永
三
郎さんは﹁日本軍は
北
京、南京、漢口、広東などを次々に占
領し、中国本土に戦線を広げたが・じ
という箇所を、﹁戦線が中国本土に拡
が
っ
た﹂に直せと言われました
。
家
永さんは、戦線が自動的に広がるこ
とはないとして訂正を拒否していま
すが、アジアへの加害の史実を隠そ
うとする大きな流れを感じます
。
一
九
五五年の小学校六年用教科書
は日露戦争について﹁:
・
北の方から
それに国家意識や国家主義がのって
いるんでしょう
。
ハ 合
私の小学生のころとダブッた感
じの危機意識を抱く
。
﹁靖国﹂問題は
戦前の﹁ひとのみち﹂﹁大本教﹂がつ
ぶされ、キリスト教が弾圧されて、
国家神道がのさばった過程に重なっ
てくる。﹁元号﹂のこともあるし、そ
っくり
という感じね
。
亀
山
戦争とか侵略だけが突出して
タブーというのでなく、学習
指
導
要
ロシアが同じように南満州をねらっ
ていたので、一九
O
四年には・:二つ
の国に戦争がはじまりました?:・・中
国の領土へ攻めこむのは、日本もロ
シアも同じことなのに、日本国民の
多くは、これを正しい戦争だと思っ
て戦いをつづけました﹂と書き、幸徳
秋水や内村鑑
三の
戦争反対、﹁ここは
お国を何百里﹂の歌が国内でも戦地
でも歌われた事実など、反戦や厭戦
の風潮の記述も少しは残っていた。
同じ教科書が
一
九六五年には﹁わ
が国は、これまで、いくどもロシアと
話し合いましたが、このままでは朝
鮮もわが国もせんりょうされてしま
うと考え、一九
O
四年やむをえず、ロ
シアと戦争をはじめました﹂という
記述に変わります
。
市民や植民
地
をね
らうロシアと日本という記述から朝鮮
とわが国をまもるためにロシアと戦争
を始めたという論旨に変わったのです。
これでは戦中の一九四三年の固定教
科書
六
:
:しのびにしのんだわが国も
事ここに至るや、帝国防衛と東洋保
全のため、決然と国交をたちました
﹂
と全く閉じ文脈ですね
。
文部省の要求例は﹁本土空襲や原
子爆弾、焼け野原の広島や傷ついた
兵士の写真は暗い、出陣する学徒、
工場で働らく女学生の写真など
、
戦
争に一生懸命協力している明るい面
を描くのが好ましい﹂といってます。
領が参考から国家基準になり、教科
書検定がきびしくなって教育
内
容を
選ぶ自由を奪われ、教員統
制
も強ま
るという形が貫かれていますね
。
アジアからの告発
李
韓国の教科書には三
・
一
運動も
柳
寛順(ユガンスン)の話も載
っ
て
い
ます。だから戦争を全然体験しない
子どもでも、日本という国について
も
ぎ
知
っ
て
ま
す
。
う
ち
の
い
子たちも、日本に行
くのはいややと言っ
て反対したんです、
日本大嫌いと
。
日本
に来ていろんな方と
付き合ううちに、変
わってきましたね
。
だからお互いに隣国
として行き来して、
実際に見て、聞いて、
話すことが大事だと
感じますね。
司会
そこが大事で
すね
。
ただ行くだけ
なら、年間六
O
万
以
上の日本人が韓国を
訪れるが、大部分は
キ
1
セン・パーティ
が目的です。韓国の
人々は彼等には心を
L
P
K
1
1
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、
、
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F
川 、
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句
協
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ト
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酷間関
で
、
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園
田
圃
圃
・
・
園
田
層
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疋
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h
閤
・
圃
・
白
'
'
圃
艶
圃
戦争の被害とアジアへの
加
害だけ
でなく、歴史の中で民衆が下から抵
抗した事実はすべて、徹底的に隠し
て
い
ま
す
。
司会
戦前の植民地支配や現在の経
済
進
出
を、生徒たちはどのように受
けとめていますか。
亀
山
経済大国意識や国家とはよい
ものという感覚が育っています。一
九六
0
年代は、憲法を大切にする雰
囲気があり、君が代を歌うのを拒否
することの意味も分か
っ
ていた
。
七
0
年代に入っておかしくなったと思
います。これは一九六五年の﹁﹁期待
される人間像﹂で天皇を愛すること
は国家を愛することという形で天皇
と国家が急上昇してきた時期で、教
師が自由にものを言えなくなったこ
とが影響していると思います。
8
℃
朝鮮人が「日本兵」として徴兵された
i
l
v
司会
戦前は国家
l
天皇の支配によ
りかかっていたが、現在は君が代を
歌うことで国を愛する気持を表すと
いう一見﹁自然﹂な形で、計画的に国
民に強要している
。
これにたいして
抵抗は非常にあるが、
一
般的にこれ
に替える歌、自分たちの国家観がな
いのではないか
。
亀
山
私から上の年令の人たちは、
国家や集団にたいするアレルギーが
あるが、若い人たちは逆にそういう
ものに飢えている
。
理論や行動で素
直に動けないときには、神秘的なも
のでなんとか満たそうとする
。
高
校
生の男子にレポートを書かせると、
ヒットラ
ー
への関心を持つものがす
こく多い
。
自分にはできぬスカッと
したことをやれた人という羨望が、
受験戦争が激しくなるほど出てくる。
い く 犠 す わ な し い で し 内 ト 抜 ジ 谷 起 つ G い 向 な 立 申 日 の 実 開
る の 牲 ミ つ い た が 日 た 海 カ か ア こ た N る こ 教 つ し 本 拷 は か
こ 人 だ 日 て 白 人 、 本 文 闘 し の い る 生
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の う 育 。訳 は 問 自 な
と た け 本 い 分 の 日 の 書 朝 争 て 国 わ の 活 の に は を そ な 大 を 分 い
を ち で の な た 遺 本 戦 に 鮮 だ 、 、 ゅ は を 高 、 日 受 う い 嫌 受 は
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忘 の な 今 い ち 骨 の 後 「 人 つ 自 旧 る 当 送 さ 日 本 け い が い け 日 主
( れ 犠 く 日 」 に す た は 日 戦 た 分 植 民 然 る に 本 の て う j で 、 帝
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記 な 牲 、 の と と ら め 終 中 犯 の た 民 主 で の 支 人 侵 ぃ 会 j す 腎 下 三
録 い の 日 繁 い つ 、 に わ 平 が よ ち 地 教 す で え は 略 る 話 と 、 臓 の 以
で 上 本 栄 う て 故 戦 つ 和 さ ね だ に 育 。は ら 知 の 日 が い あ を 抗 雲
繰 11に 国 は 箇 は 国 犯 た 友 き 。 け 関 の 、 れ ら 事 本 成 う な 破 日 ? で
朱 し 成 良 、 所 、 に に か 好 の の し 中 反 、 な 実 人 立 会 た 壊 運 乍
ま い り 以 日 が 戦 ま な も 条 国 民 て で 日 思 い を は す 話 た さ 動 士
こ 」 立 外 本 あ 後 だ り し 約 会 主 は も 運 い ま 知 少 る が ち れ で
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月
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詩
私
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理
器
定
価
・
300
円
発
売
・新教出版社頭侵新小山五
l
日本名から朝鮮名ヘ
戦争も終わりに近すいた一九四四年
四月、東北の
一
ノ
関近郊に住んでい
る叔母の家へ、妹と二人大阪から疎
開をしました。当時私は国民学校(現
在の小学校)六年生でした。大阪では、
在日朝鮮人が多かったので、創氏改
名の政令にのって、日本姓を作った
のですが、金姓で通していました。
しかし、排他的な農村に行くのだか
らと、親の配慮と先生のすすめで、
日
本
姓
を
名
の
り
ま
し
た
。
叔
母
の
家
で
は
、
大
阪
の
よ
う
な
食
糧
不
足
も
さ
ほどなく、釜石の艦砲射撃される大
砲の音も遠く、警戒答報のサイレン
の音で防空壕に入り、非常時用の食
物として携帯しているいり米(醤油
や塩の味つけがしてある﹂を壕の中で
食べられるのが大変楽しみでした。
八月一五日のその日、私は床屋で
少年雑誌を読みながら順番を待って
いました。大人たちはラジオを聞い
ていました。突然騒々しくなり、﹁日
本は負けた。朝鮮人は
三
等
国人にな
って日本人は四等国人になる、朝鮮
私がみた台湾の八
人なんかやっつけろ﹂などの声を耳
にした私は、夢中で外にとび出しま
した。﹁早く逃げないと殺されるノ・﹂
と叔母さんに叫んだのでした。そし
てしばらくして、なぜ負けたのだろ
う
つ
日
本
は
天
皇
陛
下
の
い
ら
れ
る
神
固なのに。どうして神風が吹かなか
っ
た
の
だ
ろ
う
?
そ
ん
な
く
や
し
い
思
いで一日中泣いていました
。
そのと
きは何の矛盾もなく、自分は日本人、
皇国の民だったのです。
戦争の恐ろしきよりも、差別への憤
りの方が強かったのです
。
疎開して間もなく、金姓の縫い取
りのある防空頭巾がクラスメートの
目に触れ、ひそかに恐れていたこと
が現実になったのです。次の臼から、
毎朝校内で二
O
人位が待ち構えて石
を投げつけるのです。教室では、歴史
を教える先生が、朝鮮人である私を
見据えながら関東大震災の話をしま
す
。
そのたびに、生徒たちは私をジロ
ジロとふり向いて見るのでした。い
つもいじめられることを恐れてピ
l
とって解放の目だったのです。父母
の生きざまを振り返って戦争とは何
か
。父
母の歩んだ道は決して自ら選
んだものでなく、強制されたもの、
自分の子でありながら、日本人にな
りたがった子供たち。父母の中の祖
国
と
子
の
中
の
祖
国
と
は
?
朝
鮮
と
は
?
日
本
と
は
っ
家
族
と
は
?
女
と
は
?
日本籍を持たず、日本で生活してい
る私の八月一五日は遠く消え去るも
のでなく、むしろ日毎に重く迫って
き
ま
す
。
(
金
順
烈
)
写真
・
朝
鮮の国防婦人会の女性たち
が朝鮮人の家庭を予告なしに訪れ、
食事中に食卓や食器を全部献納させ
て道庁の庭に運び、記念写真をとっ
た
。
川村栄子さん所持
•
五
ピ!と泣いてばかりいる妹と二人、
差別と誹誘、屈辱に立ち向っていく
ことは、強情で身構える現在の私の
性格を形づくっていったとも思いま
す。そんな中で私は日本人なのだ、
なぜ朝鮮人として生れたのだろう、
日本人になりたい。親を呪い、運命
を呪い、親、同胞と行動を共にする
ことをできるだけ避けていました
。
間もなく大阪に引き揚げ、クラス
メ
ートたちから謝罪の手紙をもらい
ました。ほっとすると同時に、なぜ、
あの人たちは私たち姉妹をいじめた
のだろうと考えました。あの人たち
が悪いんじゃない、もっと別な所に
悪い者がいると思ったことを覚えて
います
。
しばらくして、帰国すべく家財道
具を故郷(済州島)に送り、乗船する
直前、四八年の済州島武装蜂起、戦災、
南北分断、父の死、貧困、就職等の差
別から、二家は北へ帰国しましたが、
私は日本人と結婚したため留まりま
した
。
母、兄妹と逢うこともできず、
二
O
年近く経って、突然、一時の死の知
らせ
。
敗戦の年﹁へパン(解放)/﹂
と叫んだ父母
。八
月
一
五日は父母に
理望盟盟理回
も中止、私は祖母や弟妹逮と疎開先
へ住み移りました。疎開先は戦争を
忘れさせるほと辺ぴな寒村で、もち
ろん電気、水道もありません。小川
の小魚をすくって常食にしたり、薪
の足しに甘蕉の枯葉を集めたりして
過しました
。マラリヤにかかって高
熱と案、気にさいなまれた苦しい思い
出は、なかなか忘れられません
。
食
糧は配給制でしたが、農家の人達が
時々官憲の目をかすめて家畜の閤肉
を売りに来ました。お米も足りない
場合は農家の知人から籾を手に入れ、
これを竹筒に入れて鉄棒でつつつけ
ば脱殻して玄米がえられるので、十
分ではないが少くとも食糧にはあま
り不足しませんでした。やがていつ
の間にか戦争が終り、時代は大きく
変っていきました。町にもどると終
戦に安堵し、﹁台湾光復﹂(台湾の祖
国復帰)を喜ぶ空気が町中にみなぎ
っていました。人
々は新政権に対す
日本
の敗戦を
私は疎開先
の寒
村で
迎えました。新聞やラジオ等なんに
もなく、米軍の飛行機もあまり飛ん
で来ないへんぴな田舎では、じつの
ところ敗戦のニュースはかなりあと
になってからわかったのです。です
から八月
一
五
日のことについてはほ
とんど記憶にないが、その前後の思
い出でしたら、かすかながらいろいろ
と憶えています。その年の四月、私
は都会の中学に入学しましたが、し
かし連日の空襲と爆撃で勉強どころ
ではありませんでした。私達は各自
の田舎に帰り、その地方で編成され
た学徒隊の勤労奉仕に参加して毎日
を送っていました。鍬をかついで農
村に出かけ、畑仕事の手伝や、イ
ン
ドレンセイを植えさせられた記憶は
今もなお脳裏に強く残っています。
そして戦争も末期になると勤労奉仕
アジアの教科書で
見る日本軍国主義
10
韓
国
・
中
学
校
﹃
国
史
﹄
第二次世界大戦が織烈になると、
我が国の若ものたちに志願兵制度を
実施して強圧的に志願させ次には、
徴兵制度まで実施して強制的に戦線
にひっぱって行き、多くの人々を徴
用で、戦場や工場、鉱山などの地に
引きずって行った。
このように、我が民族は、あらゆる圧
迫と強要にも屈することなく、終りまで
日帝に抵抗し、民族精神弁寺
a
っ
て
き
た
。
日本のこのような我が民族抹殺政策は
かえって、我々の民族精神を高め、団結
を固くする結集をもたらした。
・・日帝が我が民族に実施した教
育は、基礎知識を教える普通数育と
初歩段階の技術を教える実業教育に
すぎなかった。このことは彼らの教
育目的が我が民族の指導的人物の養
成にあるのではなく、植民統治の下
働きをするものを育てることにあっ
たためである。その後、学校を増設
し、ソウルに大学まで建てたが、教
育を実施する基本原則には変りがな
かった
。
こうした教育政策の下にも
先覚者たちは日帝弾圧と戦いつつ、
伝統的な私立学校を建てて人材を育
てた。(第八章﹁日帝の侵略と独立闘争﹂
7
民族の文化闘争より一九七七年版)
(
山口明
子
訳
)
. ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 ・
台湾・中学校
一
、日本盗賊
(軍隊)の南京大虐殺
民国二十六年十一月上海陥落後、
日本盗賊は西へとおし進み、十
二
月
南京を陥落した
。わが国民政
府
は
事
前に西から重慶に移しており、死を
かけで戦い抜くことを宣言した。日
本軍関は南京に侵入占領後、狂った
野獣の如く血生臭い大虐殺を行い、
この首都の三十万の罪なき民衆を残
虐な毒手にかけ・::ある者は銃殺、
ある者は生き埋め、ある者は川に投
げこまれ、ある者は日本刀で頭を切
り取られた。婦女は強姦され、財産
はすべて奪い尽くされ、首都は空前
の大災難にあった。
人類史上最も非人道的な
一 ペ
ー
ジ
として、わが中国民族一の大いなる
恥辱のみならず、全世界を愛する民
族も日本盗賊の獣的蛮行に非難の声
を挙げている。
二
、日本の台湾占領時期の台湾同胞
に対する迫害
日本は日清戦争後台湾を占領、﹁六
三法﹂を公
布し、立法、司法、行政
の三権によるいわゆる﹁台湾総督﹂
の手により高圧的な植民地統治を行
っ
た
。
占拠当時は台湾同胞は度々奮
起し、武装して抗争したが、前後十
数回のうち最も有名なのは民国四年
の除杷年事件で
・
・
:
・
・
こ
の
事
件
と
関
連
- ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 ・
11
マレーシアでふれた戦争の傷あと
した。そのころ引揚げていく日本人 日本人の学生も学校に来なくなりま 語を教えていました。だがまもなく 達には漢文を、日本人学生には台湾 て、台湾人の先生が教壇に立ち、私 中学では日本人の先生と入れかわっ 迎の準備であけてくれていました。 てくる﹁国軍﹂(蒋介石の軍隊)の歓 る期待と不安の中で、やがて進駐し
この九月、マレーシアの美しいリ
ゾートの島ペナンで開かれた﹁環境
の危機シンポジウム﹂に参加した。
どこまでも青い空、緑のヤシに包ま
れたこの島は、旧イギリス植民地だ
ったが、第二次世界大戦中は、日本
軍が占領するという血なまぐさい歴
史を秘めていた。
シンポジウムの合い聞に、島で最
も高いペナンヒルという山へケーブ
ル
・
ヵ
i
で登った。途中の乗りかえ
駅で、眼下に広がる島と海の美しさ
に見とれていたら、ケーブル・カ
i
の運転手が親しげに話しかけてきた。
島の生まれのマレ
l
人で、戦争のこ
とを聞いてみたら﹁日本の小学校に
三年半いた。授業は日本語だったが、
もう忘れてしまった﹂といい、突然
﹁
見
よ
、
東
海
の
:
:
:
L
と歌い出した。
歌調はあやふやだったが、メロディ
動を貫いたこともあった。このため、
中国人虐殺は各地で行なわれ、私が
以前マレーシアを訪問したときも、
折にふれて、中国人殉難のことを知
らされた。たとえば、クアラルンプ
ール郊外のパタンカリというところ
を通ったとき﹁ここで二万人もの中
国人が殺された﹂と聞かされ、また
ポ
l
トクランへ向かう橋を渡ったと
き﹁この橋のらん干には、日本軍に
抵抗して殺された中国人の首がズラ
リとさらしものにされた﹂といわれ
て、言葉もなかった。
日本の教科書には、第二次大戦の
ことにふれでも
H
マ
レ
l
半島
H
と
い
う地名が出てくればよい方で、ここ
でどれだけの血が流されたか、など
の説明はない。一方、マレーシアの
教科書には﹁日本の戦争﹂という章
で、何ページにもわたって、日本軍
国主義によって受けた被害が記述さ
れているのだ。
侵略した固と、された国のこのギ
ャップ。マレーシアでは、空港や観
光地で、何組もの日本人団体客を見
かけたが、一体彼らの中で、殉難碑
に気づいた人は何人いただろうか。
戦争のことなど忘れてしまっている
かのようなはしゃぎ方でかっ歩して
い
た
O
H
恥ずかしい日本人
H
の
群
で
あ
る
。
恥ずかしいのは、過去の軍事侵略
だけではない。殉難碑がひっそりと
が大通りの両側に家財道具や書籍を
並べて売りさばいている痛々しい光
景は、日本の台湾植民地統治の一つ
の時代の終りを告げるかのように、
未だに生々しく私の心底に深く焼き
ついています。しかし思い返すに、
八・一五は日本人以上に私の人生と
私達の生活を変えたといえるかも知
れ
ま
せ
ん
。
(
張
芳
秋
)
シンポジウムで観光公害について
きびしい報告をしたエプリン・ホン
さんという二十七歳の中国系女性は
﹁これから一緒に買春観光反対の闘
争をしよう﹂と意気投合し、﹁アジア
の女たちの会﹂についても説明した。
﹁私たちは日本の女として、アジア
への侵略の歴史を繰返してはならな
いという気持でがんばっています﹂
というと、彼女は私の手をギユツと
にぎりしめた。﹁戦争のことを思うと
つらいんです﹂と急に涙声になり﹁両
親から日本人がどんなにひどいこと
をしたか、子どものときから聞かさ
れてきた。親せきの人が日本女性と
結婚するといい出したとき、両親は
猛反対した。中国人をあんなに苦し
めた日本人との結婚など許せないと
いうんです。あなたたちのように、
戦争のことを反省している日本人も
いることなど考えもしなかった
L
と
涙を流し続けるのだった。
マ
レ
l
人と中国人では、戦争につ
いての受けとり方はやや違う。イギ
リス人が植民地支配のために、人種
対立を深める政策をとったことを受
けついで、マレ
l
半島を占領した日
本軍も、マレ
l
人には懐柔策を、中
国人には弾圧策を、とい
J
7
分断政策
でのぞんだのである。中国人は祖国
を日本軍に踏みにじられていること
への憤りもあって、きびしい抗日運
はちゃんとおぼえていた。﹁日本人の
先生はやさしかった。でも、悪いこ
とをすると、日本人に両手を切られ
るのでこわかった﹂と両手首を切り
落とすしぐさをした。そして﹁もう
普のことだから。最近は日本人の観
光客がずいぶん来ますよ﹂と、商売
熱心な顔になった。
再びケーブル・カ
l
で下山し、車
を拾って町の方へ走り出すと、五分
もしないところに、高さ十
M
もある
かと思われる大きな石碑が見えた。
以前から聞いていた中国人殉難碑だ。
暗くて碑銘は読めなかったが、タ閣
の中にそそり立つ碑はこの地で、日
本軍に命を奪われた何千人という中
国人が今なお無言の告発を続けてい
るかのように見えた。碑のまわりで
夕涼みしている近所の中国人たちの
視線にけわしいものを感じた。
して虐殺された台湾同胞は数万人以
上にのぼる。全台湾人民は日本軍閥
の暴威の前にやむなく屈服した。
日本軍閥はわが台湾同胞に極端な
差別待遇を行い、教育においては彼
らの﹁天皇﹂を尊重する思想を植え
つけわが国の民族意識を消滅させた。
更に台湾青年には高等教育を受けさ
せ
な
か
っ
た
。
また、経済的には台湾同胞の生産
所得の大半を剥奪し、生活は非常に
困難に陥った。これによって台湾同
胞の祖国への思いは切なるものがあ
っ
た
。
(
一
九
七
五
年
版
)
(
三
宅
清
子
訳
)
開
日本野我閥的佼略和格取
果⋮第一次計い川介大戦爆渡後'状凶故知
関岡三年出兵仙陳,進攻隠閥的租借弛
旭設施,比掠政府泣省能力阻止,紙島
小得越界西犯,以破猿沖岡的中立。那
値一慣向西侵略'次第占領腰掛蹴齢的全
川市縛在仙陳制階構,把仙棟費成旧体的
職後得到間際間的承認,国此産坐了所
H
⋮自旧兵侵犯仙棟以後'我闘屡次向
氏而轟限岡四年初突向比同政府提出脊
同継承隠岡在凶陳的所有機盆'並享・府
和同閥、民俸雨鍛路的租借期限至九十
閉園合排漢冶斧公司'附近的碩山伸岡
組借或割譲給其他闘家。同伸岡政府抽
マレーシア・中学校
民衆の特別な憎しみを買った軍支
配の一面は、日本の軍事警察である
憲兵隊のカで、憲兵隊は逮捕、捜査、
拷問の権利をもち、それが忠誠を尽
くさなければならないのは、東条首
相ただ一人に対してだった。日本の
軍隊は、侵略当初の彼らの兇暴性に
よって、すでに現地住民の大部分を
離反させてしまった。日本軍政の残忍
性は、日本人を愛させるようにはし
な
か
っ
た
。
文化的には、日本はその新帝国の
なかで、﹁アジアの光﹂を気どった。
日本の支配は一般に厳しかった。
東南アジアの全種族の民衆は、ある
程度はそれの影響を受けたが、中国
人たちがみんなのなかで最悪の取扱
い
を
受
け
た
。
日本支配の初めは、中国人にとっ
ては恐怖の日々だった。彼らの処刑
に使った残忍な形式は:::日本軍の
残虐性について書いた本:::の中に
なまなましく叙述されている。日本
軍の占領期間中のいろいろなときに、
ほかの同様なみせしめが行われた。
この﹁取り除き﹂方法は、椀曲に﹁粛
清﹂と言われるようになった。多く
の中国人が虐殺されたのである。
(
一
九
六
三
年
腹
)
12
- ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 国
- ア ジ ア の 叡 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 義 .
13
タイに残した日本兵の爪跡
守4
ナ
コ
ン
シ
ィ
l
タマラ
l
卜
数
年
前
、
日
本
に
き
て
い
た
タ
イ
の
留
学生に
、あなたの故郷はどこですか
と聞いたことがある。
﹁ナコンシィ
l
タマラ│卜です。日
本
軍
が
タ
イ
に
最
初
に
上
陸
し
た
と
こ
ろ
ですよ
4
と言われた時、頭をガ
l
ン
とやられたような気がしたものだ。
私
は
そ
の
事
件
に
つ
い
て
全
く
何
も
知
ら
なかったからである。
一
九
四
一
年
一
二
月
八
日
未
明
、
日
本
軍
が
パ
ン
コ
ッ
ク
と
南
タ
イ
の
ナ
コ
ン
シ
│タマラ
l
ト
と
に
上
陸
し
よ
う
と
迫
っ
ているとき、当時政権を握っていた
親日派の軍人、ピブン首相が失綜し、
日
本
軍
は
上
陸
許
可
を
得
ら
れ
な
い
ま
ま
強
行
上
陸
し
、
タ
イ
軍
と
衝
突
し
て
多
く
の戦死者を出した
。
そ
も
そ
も
タ
イ
国
は
太
平
洋
戦
争
で
は
直接その戦場とはならない国であっ
た
が
、
日
本
に
と
っ
て
は
戦
略
上
き
わ
め
て大きな意味をもっていた
。
それは
日
本
が
列
強
に
よ
り
経
済
封
鎖
に
あ
っ
て
いたからであり、ために、タイ国は
日本の戦争重要資源である米、ゴム、
錫を獲得するル
1
トであると同時に、
マ
レ
l
や
ビ
ル
マ
戦
線
の
た
め
の
大
作
戦
基地であり、列強やマレ
l
、ピルマ
の
情
報
を
収
集
す
る
諜
報
戦
の
焦
点
で
あ
の
を
何
一
つ
と
し
て
持
っ
て
い
ま
せ
ん
で
し
た
。
あ
る
時
、
日
本
兵
は
、
美
し
い
女
の
人
を
連
れ
て
来
て
、
私
の
祖
父
に
﹃
買
わ
な
い
か
﹄
と
言
い
ま
し
た
。
ヵレン人
に
は
、
人
々
を
売
買
す
る
習
慣
は
あ
り
ま
せん
。
女の人はとても体が弱ってい
て死にそうだつたので、看病したい
と思ったのですが、恐ろしくて買うこ
と
が
で
き
ま
せ
ん
で
し
た
。
そ
う
し
た
ら
日
本
兵
は
、
そ
の
女
の
人
を
川
の
中
へ
突
き
落
と
し
、
溺
れ
死
な
せ
て
し
ま
い
ま
し
-。
争
人
﹂
戦
時
下
の
屈
辱
の
経
験
が
今
も
な
お
タイは、戦争中、日本の友好国で
あ
っ
た
と
言
わ
れ
る
。
しかし、それは
日
和
見
的
な
中
央
政
府
だ
け
の
こ
と
で
あ
り
、
タ
イ
の
人
々
は
、
日
本
軍
が
大
き
な
顔
を
し
て
タ
イ
の
国
土
を
踏
み
荒
ら
し
た
ことによって、心がひどく傷つけら
れた。面と向って日本軍と戦ってい
ないだけに心理的抑圧が屈折してい
る。﹁自由タイ﹂に参加した知識人や
抗
日
運
動
に
参
加
し
た
人
々
の
中
で
、
戦
後
の
日
本
の
経
済
的
進
出
を
よ
く
思
っ
て
った。したがって、開戦前から得体
の
知
れ
な
い
日
本
人
の
タ
イ
潜
入
は
頻
繁
であったという。
強
制
労
働
を
強
い
た
日
本
兵
﹁戦場に架ける精﹂で有名なタイ
東部のカンチャナブリ県にある橋は、
日
本
軍
が
ピ
ル
マ
戦
線
に
物
資
を
運
ぶ
た
めに建設したものだが、建設現場で
は強制労働につかせた連合軍捕虜、
インドネシア人、マレ
l
人、インド
人
、
中
国
人
の
労
務
者
逮
の
う
ち
、
過
酷
な
労
働
と
熱
帯
の
疾
病
の
た
め
、
四
万
人
以上がパタパタと倒れ、死んでいっ
た
。
中
に
は
相
当
数
の
タ
イ
人
の
下
層
労
働者も含まれていたのである。
ピサノロ
l
ク、ランパン、チェン
マイなどの北部タイの村々には、イ
いる人は、誰一人としてない。戦時
中
の
軍
事
侵
略
と
二
重
写
し
に
な
っ
て
見
え
る
か
ら
で
あ
る
。
チ
ェ
ン
マ
イ
で
玉
本
事
件
が
公
け
に
な
る
き
っ
か
け
は
、
北
タ
イ
の
新
聞
に
、
チ
エ
ン
マ
イ
婦
人
会
連
合
の声明書が掲載されたことにはじま
る。声明書は、タイの大切な娘が、
セ
Y
ク
ス
・
アニマルの相手としてし
か
見
え
な
い
の
か
/
日
本
人
は
一
体
我
々
の
娘
を
何
と
思
っ
て
い
る
の
か
/
タ
イのすべての女には誇るべき文化が
あ
る
と
い
う
怒
り
の
声
で
あ
っ
た
。
その
背
後
に
は
、
か
つ
て
日
本
兵
を
相
手
に
す
る娘を差し出さなければならなかっ
た
屈
辱
の
経
験
が
あ
る
。
戦
争
中
の
体
験
を
ぬ
き
に
し
て
、
日
本
の
経
済
侵
略
を
考
えることはできない
。
(この原稿
作
成
に
あ
た
っ
て
、
チ
エ
ンマイに長く在住していらした望月
賢
一
郎
氏
・
穂
積
夏
子
氏
の
御
協
力
を
得
ました
。 )
(
不
破
民
理
)
インドネシア人が歌
う
日本軍歌
﹁真白き富士の気高さを、心の強
み
いかでとして、御国につくすおみな
ら
ば
:
:
﹂
こ
ん
な
歌
詞
で
は
じ
ま
る
軍
歌
﹁
愛
国
の
花
﹂
を
、
は
じ
め
て
耳
に
し
た
の
は
イ
ン
ド
ネ
シ
ア
の
バ
ン
ド
ン
に
暮
すようになってからだ
。二
年
間
、
イ
ンドネシアに生活しているうちに、
わ
た
し
は
日
本
の
軍
歌
、
戦
時
歌
謡
曲
を
いくつか党えた
。 ﹁
インドネシアにお
ける日本軍政
L
についてほとんど知
ン
パ
l
ル
へ
入
る
た
め
、
日
本
軍
が
駐
屯
し、米、家畜、食糧などを調達した。
日
本
軍
は
ピ
ル
マ
へ
通
じ
る
山
中
に
道
を
作
ら
せ
る
た
め
、
突
貫
工
事
に
村
の
人
々
を
徴
用
し
た
。
村
に
日
本
軍
が
入
っ
て
く
る
と
村
人
達
は
恐
ろ
し
さ
で
家
を
捨
て
て
山
へ
逃
れ
、
妻
子
を
か
く
ま
ったとい
う
。
少女がかわいがっていた馬を奪い、
病
院
か
ら
医
師
を
追
い
出
し
て
野
戦
病
院
とし、誰かれかまわず労働に就かせ
て
日
本
語
を
強
い
た
。
チ
ェ
ン
マ
イ
の
街
に遊びに出ては女を買うのも日本兵
の常であった。
敗
戦
の
年
に
子
ど
も
が
生
ま
れ
、
父
親
である日本兵の名前までわかってい
る
の
に
父
を
探
し
に
日
本
へ
行
く
夢
も
果
せないままに、チェンマイの市場で
今
日
も
働
い
て
い
る
女
性
が
い
る
。
ピルマにおけるインパール作戦は
惨
憎
た
る
敗
北
に
終
り
、
チ
ェ
ン
マ
イ
の
県
道
沿
い
に
は
日
本
兵
の
屍
が
累
々
と
続
き
、
チ
ェ
ン
マ
イ
の
野
戦
病
院
で
も
四
O
O
名が死んだ。
敗
残
兵
は
、
タ
イ
、
ピ
ル
マ
国
境
に
住
む山岳民族の村へも落ちのびていっ
た
。
あ
る
カ
レ
ン
人
の
女
性
は
次
の
よ
う
な話をした
。
﹁カレン人は大変日本兵を恐れてい
ました
。
彼らは血まみれでしたし、
色
々
な
病
気
に
か
か
っ
て
お
り
、
も
の
す
ごい悪臭がしました。そして飢えて
死
に
そ
う
で
し
た
が
食
糧
と
交
換
す
る
も
識
を
も
ち
あ
わ
せ
て
い
な
か
っ
た
わ
た
し
を、インド、チンア人はいつも軍政下
の
日
本
人
と
重
ね
あ
わ
せ
て
見
て
い
た
よ
うだ
。
わたしが日本人だとわかると、
まるであいさつの言葉のように、﹁オ
ィ、コラッ﹂﹁パ
y
キャロ﹂が語られ、
﹁ジャワ奉公会﹂﹁兵補﹂﹁労務者﹂
﹁
隣
組
﹂
﹁
一
一
y
ポ
ン
ジ
ヨ
ウ
ト
ウ
﹂
と
いった単語が飛び出してくる。
市
場
で
野
菜
を
売
る
お
じ
さ
ん
は
﹁
キ
ユウジョウにむかつてけいれい/﹂
と
突
然
ど
な
っ
て
、
大
根
を
ふ
り
ま
わ
す
。
わが家の大家は、六
O
を
す
ぎ
た
一
人
暮しのおばあさんだったが、
三
O
年
た
っ
て
と
び
こ
ん
で
来
た
日
本
人
に
、
複
雑な感情をかくせないようだつた
。
時々、台所の勝手口からヌ
l
γ
と入
って来ては
、
﹁
一
、
二
、
三
﹂
﹁
ア
メ
L
﹁ハナ﹂など覚えている単語をなら
べて
、あとはス
ンダ語(西ジャワの
地
方
語
)で一人ぶつぶつつぶやいて
い
る
。
一
九
五
五
年
の
バ
ン
ド
ン
会
議
を
記
念
し
て
名
づ
け
ら
れ
た
﹁
ア
ジ
ア
・
ア
フリカ
通り
L
は、その品目﹁東大和通
り
﹂
と
言
わ
れ
て
い
た
こ
と
を
お
ば
あ
さ
ん
は
、
大
分
あ
と
に
な
っ
て
教
え
て
く
れ
た
。
わたしの仕事を手伝ってくれたア
ティのお父さんは、﹁兵補﹂だった。
毎
日
訓
練
が
あ
っ
た
こ
と
以
外
に
は
、
多
く
の
こ
と
を
語
ろ
う
と
し
な
い
父
親
の
実
直
そ
う
な
顔
か
ら
は
、
日
本
軍
政
へ
の
恨
タ
イ
・
中
学
校
日本は、日本人が移住して生活で
きるような土
地
を
熱
心
に
捜
す
必
要
が
あ
っ
た
。
だ
が
ア
メ
リ
カ
と
オ
ー
ス
ト
ラ
リアが日本の意図を妨害したので、
日
本
は
中
国
に
目
を
向
け
、
中
国
で
何
度
も﹁衝突﹂をくり返した
。
そ
し
て
、
ついに一九三二年、上海で中国軍と
衝
突
、
宣
戦
布
告
な
き
戦
争
を
し
た
。
こ
の
沖
縄
戦
で
、
日
本
は
人
聞
の
命
を
圏
直
引
き
換
え
に
す
る
、
普
通
で
は
考
え
ら
れ
主
な
い
大
胆
な
武
器
を
使
用
し
始
め
た
。
ァ
闘
ジア方面の大戦の最初に、日本は﹁神
の
風
部
隊
﹂
と
呼
ば
れ
る
、
あ
え
て
死
を
覚
同
情
し
た
飛
行
部
隊
を
使
い
始
め
た
。
そ
れ
る
は
爆
弾
を
積
ん
だ
飛
行
機
が
目
標
物
に
突
で
つ込んで
撃
突
し
、
飛
行
士
の
命
を
失
う
刊
のも辞さない戦法だった
。
教
日本は﹁爆弾飛行機﹂を使用した。
内
そ
れ
は
人
間
一
人
を
乗
せ
て
大
き
な
飛
行
ジ
機
か
ら
放
し
て
衝
突
さ
せ
る
の
で
あ
る
。
酌
(一九六五年版)
イン
ド
ネ
シ
ア
・
中
学
校
その間我々国民は、我々の敵はイ
ギ
リ
ス
と
ア
メ
リ
カ
で
あ
り
、
ま
た
日
本
民族の先祖は神々であって、﹁アマテ
ラスオ
l
ミカミ﹂の末商である﹁テ
ンノウヘ
イ
カ
﹂
は
神
々
の
長
と
し
て
崇
拝
し
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
こ
と
が
教
え
込
まれた
。
概して
三
年ばかりの日本の占領は、
国
民
に
限
り
な
い
困
窮
と
、
オ
ラ
ン
ダ
植
民
地
政
府
以
上
の
残
虐
で
専
制
的
な
弾
圧
と
、
か
つ
て
我
々
が
経
験
し
た
こ
と
の
な
かったような苦痛と悲惨を招いた。
﹁ケンペイ﹂日本の軍警察に対する
恐
怖
は
、
ほ
と
ん
ど
す
べ
て
の
抵
抗
を
麻
療
さ
せ
て
い
た
。
(
一
九
五
八
年
版
)
小
学
校
日本はイ
ン
ド
、
不
シアに
独立を与え
な
か
っ
た
。
そ
の
代
わ
り
、
日
本
は
欲
す
るがままにインドネシア人民を支配
し
た
。
我々は﹁ロ
ー
ムシャ﹂にされた。
あたかも奴隷のように::
:
ジャング
ル、沼地、海岸などで働かされた
。
餓死、病死、虐待死
。
日本は日増しに残虐にな
っ
た
。
日
本
は
各
地
で
敗
れ
だ
し
た
の
だ
。
日
本
は
我
々
を
﹁
利
用
﹂
し
て
、
戦
争
に
参
加
さ
せ始めた。我々は戦争をしなければ
な
ら
な
い
。
誰
の
た
め
に
か
。
日
本
の
た
め
に
だ
。
(
一
九
六
二
年
版
)
14
. ア ジ ア の 教 科 書 で 見 る 日 本 の 軍 国 主 滋 ・
15