欲望のエネルギー論
Molecular Socio‐ energeticS of Desire一 一一一or ATP.(その 1) 石 里 小 並 日 0 . 序 生物学をはじめ自然科学の諸分野では,研 究対象を物質・エネルギー ・情報 という3分 法でとらえることが多く,研 究視角や方法 もこれに応 じて物質論・ エネルギー論 ・情報論 と3分 される。このうち情報論の発想を理論社会学へ適 用する く社会情報論 SociO‐informatics〉の試みは,吉 田民人によって提唱さ れ,精 力的に展開されてきた。が,他 方 く社会エネルギー論 Socio‐energetics〉 と呼ぶべ き分野,す なわち社会 を動か している原動力は何なのか,そ れはどう いう仕組みをなして社会 を動かすのか, という点を問題にする分野には,こ れ までさしたる業績がないといつてよい (誤解なきように断ってお くと,こ こで いう 〈社会的エネルギー〉 とは,入 力 とか石炭・石油,電 力とかいった物理的 ・技術史的なものではなく,社 会そのものを社会体 として動かし発展させ る動 因としてのそれのことである)。とすれば,情 報論の前提 としても,一 度社会的 エネルギー論 を考え直 してお く必要がある。本稿は,そ の く社会エネルギー論〉 の試みである。 1.欲 望 一一人間 を動かすエネルギーーー 社会分析のベースとしての欲望 本論考においては,社 会分析のベースに く欲望 desire/dOSir〉という概念を 1)吉 田民人 r自己組織性 の情報科学』新 曜社,1990。 同 『情報 と自己組織性 の理論J東 京 大学 出版会,1990。
118 彦 根論議 第 306号 お く。 この分 析 方針 は, も と も と ドゥルー ズ =ガ タ リの く分 子 的〉社 会 理 論 に 2 ) 由来す るものである。 く欲望〉 とは,ま ず さしあたって,文 字通 り 「何か を欲 し望むこと」であ り, 「その何かのために何 らかの行動 を惹起 させ る,抽 象的な衝動」である。そし て とりあえず,そ の意識/無 意識は間わないことに しておこう。 ここに 「抽象 的」 と断ったのは,「何か を」「何 らかの」 とい う箇所が不特定になっているこ とと呼応 している。何か特定の 目的のために惹起 され る,特 定の具体的行 為 と い うよ りも,そ れが特定 される以前か ら準備 され存在 している,未 分化な心的 エネルギーの充電状態 ・エネルギーの高 まり。 これが本論考でいう 〈欲望〉な のである。 そ して欲望が解放 されたときに得 られる心的な高揚感 を,伝 統に従 って本論考 で も 〈快楽 pleasure/plaisir〉と呼んでお く。 もちろん欲望 は,行 動 としてはその 「何 か」が特定化 された時に しか顕現 し ない。 したが って欲望 は一見,そ の 「特定の もの」 を満たそ うとす る欲求充足 の作用に見 えよう。だが実際には,そ の 「何か」が特定 された際に欲望が発出 す るのは,そ れが手るた嵩 まらそ存途 とそふたお、らでぁって,こ の ときもはや 欲望 はその消長のライフサイクルの大半 を過 ぎているのだ。だか ら欲望は,特 定化 (具体的快楽)に よって初めて出来す るとい うよ り,そ れ以前に,す でに 有機体 に備 えられている根源的 ・抽象的な潜勢力であ り,そ れゆえに未分化な 力 と考 えるべ きなのである。 さきに,主 体 による欲望の意識/無 意識は間わな いことに してお こうと断っておいたが,未 分化 なもの という意味では,欲 望は 本来,無 意識な もの とい うべ きだろう (ドゥルー ズ=ガ タ リに とってもそうで あった。 ちなみに,分 化 し ・意識 され るに至 って も欲望 であることに変わ りは ない)。欲望 の流れは,特 定 の低地へ 向かお うとす る川の よ うな安定 な もの (stability)とい うょ り,丘 の上に湧 き出る泉のようにどこへ流れるかいまだ決 まらぬ不特定 ・不安定の もの (instability)である。
2)Gllles Deleuze&Fё lix Guattari, A O と 略 記 )。市 倉 宏祐 訳 Fァ ンチ ・ P↓c姥″筋 ,MIinuit,1980。
乙■%″_働 ゎ夕,Les Editions de Minuit,1972(以下 オイディプス』河出書房新社,1986。 dito, %ル
欲望のエネルギー論 119 したが って欲望 は,何 か具体 的 な く欠乏〉 に対す る充 足動機 とい った よ うな, く欠乏〉 に付 随す る副次的 な情動 ではない。欠乏 に よって欲望 を定義 す るこれ までの欲望 論 (た とえばサ ル トルの それ)は この点 を見誤 ってい る。欲望 は, 欠乏動機 に よってプ ル され派生す る二次 的 な力 ではな く,欠 乏以前か ら生命 に 備 わ る根 源 的 なプ ッシュカ なの で あ る。それ ゆ え欲望 は,〈欠乏せ る ものの充足 satisfaction〉とい うよ り,〈未然 な る ものの付力田addition〉 であ る。 欲望 と欲求 ここで次に,一 見類義語 と思われる く欲望〉 と く欲求〉 との区分把握 を試み ておこう。これによって,欲 望の特質をいっそう際立てることができるだろう。 (a)ま ず,上 記の行論の中で否定 した く欠乏 lack,want/besOin〉に対する充 足動機,こ れを く欲望〉ではなく く欲求 need,want/besOin〉に対 して当ては める方法が考えられる。つまり,次 の図式のように捉えることができる。 「 ――――――――' 一――― ―――`一――――――――――――――― ―――――――――――――――――――――――――――――――――一 ―――――│ 1 欲 求 一 一― 充 足 (欠乏動機) │ 1 欲 望 一 一一 快 楽 (付加動機) │ │_________――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――‐――――――」 この ように欠乏動機 によって定義 され る く欲求〉は,充 足に よって満 たされ れば,そ の存立根拠である欠乏状態 を解消す るので,消 滅す るはずの ものであ る。 ところが付加動機 による欲望 は,快 楽が得 られて も存立根拠 を失わない。 だか ら欲望 には限 りが ないのである。欲望 は,限 りな く欲望 を欲望す る。`欲求 不満″とはいって も`欲望不満″とい うことはないことを考 えれば,こ の語法 は 日本語のニュアンスに も符合 している。欲望 に満足はないのである。欲望 は, それゆえ,生 理的に必要 な もの を欲す るもの とい うよ り,む しろ不必要 な く過 剰 な もの excёS〉であ り,余 計 なものの付加 である。 欲望 が この ような ものであるな ら,当 然,次 の点に注意が必要 である。欠乏 動機 に よる欲求 は,そ の当該の欠乏 を く目的〉 として (プルカ として)目 的論 的に立論す るこ とがで きる。 しか し付加動機 (プッシユカ)に よる欲望 には, 具体的 目的 を立て るこ とがで きない。つ ま り欲望 を目的論 で論ず るのは,根 本
的に誤っている, ということである。 (b)ま た,く欲望〉の概念を,〈欲求〉概念 と対照区別 して,前 者を入!間のみに 固有の情動 と位置づける見解がある。敵 ・丸山圭二部の論考はその代表である。 彼は,動 物が対象を弁別 し世界を構成する根拠が動物固有の本能的。身体的「身 分け構造」であるのに対 し,人 間が対象を弁別 し世界を構成する根拠は言語に よる恣意的な 「言分け構造」にある, というややこなれない区分 を提唱 し,こ れに対応 して く欲求〉を 「身分け構造」に,〈欲望〉を 「言分け構造」に,そ れ ぞれ属するもの とした。か くしてここに欲望は,言 語を持つ人間のみに固有の 情動 と位置づけられるわけである。 具体例で説明 しよう。諺にいう 「猫に鰹節」 というのは猫に備わった生理的 ・本能的な 「身分け構造」からくる反応であるから く欲求〉レベルの現象であ る。 これに対 し 「猫に小判」 というのは猫に言語的 「言分け構造」が備わって いないことによる無関心 ・無反応である。つまり猫には欲求はあっても欲望が な く,小 判への欲望は人間固有の言語的情動だということである。このように 定義すれば,欲 望は人間に固有の情動であ り, また逆に人間には必ず欲望があ る,と 考えることができる。この観点では,人 間はまさにく欲望するヒトhomo desiderans〉なのである。 欲望輪への 2つ の歴史的視点 少々結論 を急ぎす ぎたか もしれない。ここで く欲望〉に関する浩務な思索史 をごく簡単に顧みておこう。 欲望は,い ま述べたように,人 間に備わった基本属性である 一 ―その倫理 的是非は別 として一一 か ら,当 然に古来多 くの考察の対象になってきたが, シュンポジオン 船 木 享 に よる と,こ れ までの 〈欲望 〉論 には,晴 矢 であ るプ ラ トンの 『饗宴』 (岩波文庫 pp.99f.,新潮文庫 pp.72f.)以来,大 別 して次の 2つ の視 ″点が あ った と 3)丸 山圭二郎 「文化 のフェティシズム』勁草書房,1984,113ペ ー ジ以下。同 『欲望 の ウロ ポロス』勁草書房,1985,第 1部 。
欲望 のエネルギー論 121 4 ) い つ 。
〔
欲望論への 2つの歴史的視点〕
│
①自分に欠如しているものを獲得しようとするもの,と いう観点 │
②無限にみずからを産みだしていくもの,と いう観点 │
す なわち `欠乏せ るもの を追求す る営み ・お よびそのエネルギー″とい う視点 ①,つ ま り 〈欠乏動機〉による 〈欲望〉論が この分野の主流のひ とつだったこ とも事実 なのである。 欲求 と相対的欠乏 だが,こ の立場 (欠乏動機)の 最大の難点は,「知 らないモノを欲 す ることは ない」とい う単純 な事実 である。 そ して 「知 らない」とい う状態は,叡 知の ヒ F に とっての絶対的な く欠乏〉である。つ ま り,絶 対的 レベル (ヒ トの場合,知 の レベ ル)ま で掘 り下げて間 うならば,欠 乏せ るもの を獲得 しようとす ること はで きない。絶対的無知,絶 対的欠乏の状態では,欠 乏動機 は作用 しえないの である。逆にいえば,欠 乏 を自覚 しそれ を求め るのは,す でにそれ を知 ってい るか らこそである。かか る情動 は,そ れ を欠乏動機 と呼ぶに して も,せ いぜ い 相対的な欠乏である。本稿 では,こ の相対的な欠乏による欠乏動機 とそれを得 よ うとす る行為 ・エネルギーを,く欲求〉 と呼しSヽ。 ところで面 白いことに,知 のない動物において も同様に,相 対的な欠乏状態 を想定す ることができる。それは本能の存在 を前提 とす る欠乏状態である。雌 を求め る本能の もとにある雄 は,雌 が得 られなければ,こ れ を求め る。本稿 で はこれ もまた く欲求〉と呼ぶ (例 :性欲求)。逆に,人 為的に本能 を破壊 された 。絶対的欠乏状態にある哀れな実験動物の雄は,雌 を見ても何の性欲求 をも示 さないだろう。欲求が相対的な欠乏動機 による, とい う規定は,こ こで も成 り 立 っている。 これ らの く相対的欠乏〉は,さ らに踏み込んでいえば,そ れ 自体がすでに知 4)船 木享 『ドゥルー ズ』清水書院,1994,74ペ ー ジ。や本能によって `プログラム化された″欠乏である, ということが理解されう るだろう。だからこそ,欲 求は目的論で論 じうるのである。これに対 し,〈絶対 的欠乏〉 とは,プ ログラムそれ自体が欠けている欠乏なのである。 欲望 と絶対的欠乏 さて,わ れわれ人間には知 らないモノ (絶対的欠乏)が 無数に存在する。そ して知 らぬゆえに,ほ とんどの場合,わ れわれはそれを欲 しない。欲求するこ とができないのだ(知らぬが仏)。もし,こ のような原初の無知の状態でいられ たなら, ヒ トは,欲 望に苛まれることのない楽園に安住できたことだろう。人 間の初期条件がこのような絶対的欠乏だとしたら,そ こに欠乏動機が作動する 余地はない。よしんば欠乏動機によって絶対的欠乏から出発 しようとしても, すべてが欠乏 している以上,す べてを欲 しなければならない, という無茶な結 論 しか得 られまい。だから,こ こから出発するには付加動機 しかあ りえない。 ところで欲望 ・欲求一般の中で,唯 一の伊J外,そ れこそ人間固有の知識欲で あった。知識欲は,絶 対的欠乏,絶 対的無知の状態 (例 :出生直後の嬰児)か らでも,付 加動機によって出発できるからだ。それは,ひ とたび偶然に知った ものをますます知 り深めようとする (あるいは嫌が応でも知 らされてしまう) 付加の営みだからである。それによってこそ, ヒ トは原初の絶対的無知から訣 別 しうる。逆にいえば,そ れが可能になるのは欲望が快楽 となって昇華してい く際に く記憶〉を残 してい くからである。これは, もともと何 ものでもないと ころへ く余計なもの de tr品〉が付加 され何 ものかになってい く, という意味で はサル トルのいう く実存〉に近い存在 といえるか もしれない。 しか しそれは主 体的になされるというより,む しろ圧倒的に受動的かつ無意識に行われる。そ してこのことが欲望 ・欲求一般のベースを与えているのだ。付加動機による限 りない欲望が,欠 乏動機による欲求よりも深層にあって,前 者が後者への根拠 (プログラム)を 与えるわけである。 また面白いことに,付 加動機による欲望は,欠 乏動機を超えたところにも出 5)Jean‐Paul Sartre,二″%α夕岱を,Galliinard 1938,p.183。
欲望のエネルギー論 123 現す る。 た とえば食欲 はそれ 自体 としては欲求であ り, したがって 「空腹 を満 たす」だけならば欲求の レベ ルで完結す る。だが これが 「空腹 を満たすだけで な くもっと美味な もの を」 となれば,欲 望特有の付加の作用である。つ ま り付 加動機 は,欠 乏動機の根拠 をなす とともに,欠 乏動機 を超 えた高度 なエネルギ ー をも供給する,よ り広い包括的なメカニズムである。 誤解 を恐れず模式的に言えば,欲 望 は, も ともと何 もない土台に粘土 を貼 り つけてい くような ものである。それは,安 定 な均衡の状態 (土台)に も,な お 付加 されて不安定 な状態 (instability)をみずか らつ くりだすのだ。人間は,み ずか ら好 んで不安定の中へ歩み入 った存在であ り,失 楽 園 とはこのことを言っ ているのである。 ところで欲望 は もともと, どんな形に付加 されてい くか定 まっていない,無 定型 ・未分化 の ものであるが,あ る条件の もとで く分化〉 を生 じる。 この作用 に よって粘上の器が作 られた とき,初 めて内容物の不在 なこと,つ まりく欠乏〉 が 自覚 され るが,こ の欠乏に内容物 を満 たそ うとす る充足の作用が く欲求〉 な のである。 こう考 えれば,欲 求 よ りも欲望の方が深層にある, とい う主張 も納 得 され るだろう。 そ して欠乏に内容物 を満 たすだけでな く,よ り高 く 。濃 く 。 美 しく 。etc.… 満 たそ うとす る付加の作用があれば,そ れは欲求 (食欲)を超 えた欲望 (美食)の 現れなのである。 そ してさらに踏み込んで,動 物の本能におけ る付加の作用 をも く欲望〉 と呼 ぶ とすれば,そ れは無意識の超個体的な進化の過程 にある。 これが新形質の付 加,す なわち く変異〉 と呼ばれ るものである。 だが これに対 し,人 間の知 にお ける付加の作用は主 として個体 の人生の中にある。吉国民人のい う遺伝情報 と 言語情報 との特性の違 い といえる力ヽ と もあれ,こ うすれば,個 体 レベルにお いて動物の行動が圧倒的に欲求的であ り,人 間のそれが欲望的なの も統一 して 理解 できる。 欲望の快楽,快 楽の欲望 まとめ ると, こ うなるだろ う。欲望 とは,知 の レベ ルで一般 にい うな ら,す
124 彦 根論叢 第 306号 でに知 ったモノ ・コ トを 一 ―すでに知 っているに もかかわらず, い や, す で に知 っているか らこそ一十 層 知 ろうとす る営み ( 付加 動機によるもの) で あ る。 この ように, 付 加 が付加 を呼ぶ 自己増殖過程 をシステム論では 〈正 フィ ー ドバ ック〉 と総称 しているが,欲 望 とはまさしく,す でに知 られ ・自分の も のになっている快楽が, さらなる快楽 を求め る, 付 加 の営みなのである。それ ゆ え人間の世界は, 無 知 を前提 とした平穏 なパ ラダイスではな く, 知 って しま ったために欲望 に苛 まれ続け る, 禁 断の世界である。欲望が人間的なものであ るゆえんである。
本論考でとる欲望論の立場は,す でに前出図式の① (自分に欠如しているも
のを獲得しようとする作用)を 否定したことから示唆されていたが, もはや明
権に② (無限にみずからを生みだしていく作用)で ある。欲望の思索史に戻る
ならば,こ の陣営の代表的論者はフロイトであった。フロイトは くリビドー〉
という概念によって `
無限に快楽を生み出す衝動のエネルギー″を論じ,② の
立場 を表 明 したのであった。 この精神分析 の視 点 は ドゥルー ズ=ガ タ リの社会 分析 に継承 され,本 論考 の立場へ と繋 が ってい る。そしてすでに明らかなように,本 論考では,① の観点を く
欲求〉の概念に,
②の観点を く
欲望〉の概念に,そ れぞれ割り振ろうというわけである。そして
本論考において欲求とは,欲 望を前提として起こる,欲 望の一種である。
行為理臨 と欲求 ・欲望 現代 の理論社会学における行為理論 は,一 般 に く行為〉 を特定の `欲求充足 活動″として定義 し, 目的論に沿 った定式化 を目指 して きた (富永社会学はそ の代表)。これは先進的な隣接科学であった実証主義心理学の影響 を受けて きた ミクロ社会学の伝統 (あるいは宿命)と いえよう。 また安定均衡へ至 る予定調 和 を問題 に していた古典 的な均衡理論 の精神 に も合致 していたか ら,学 界の側 も受 け入れやすか った。 だが今 日の筆者の限には,か か る行為理論 は (ナンセンス とは言わないまで 6)富 永健一 r社会学原理』岩波書店,1986,86ペ ー ジ以下。欲望のエネルギー論 125 も)偏 狭なものに見える。動物個体の実験で検証 しうるのは欲求のレベルであ り,実 験系の心理学がそれを重視 してきたのはうなづけるとしても,社 会学の レベルで,人 間の行為において,注 目すべ きは動物的欲求でな くむしろ人間的 欲望 ― 一人間らしさ一― で あるはずである。そして何か具体的 ・定型的 ・ 特定な目的 ―欲求のもとでその充足を求めて行為するというより,抽 象的 ・無 定型 ・未分化な欲望のもとで,そ の欲望が指向する 「何か」が社会的に具体化 ・定型化 ・分化 されてい く過程 (目的を持たぬ抽象的欲望が具体的目的を持つ 欲求に転化 してい く過程,欠 乏を嫌が応でも知 らされてい く過程)を こそ,社 会学は問題にすべ きであると考える。それこそが本来の 「社会化」であるはず だからである。特定の目的充足行為 を研究対象 とするだけでは,よ ほど安定 し た,よ ほど成熟 し完成 しきった社会だけしか分析することはできないだろう。 とすれば,こ の 「欲望の分化」 という問題は,社 会学の, とりわけ社会変動 論の中心問題 とな りうる。 したがって,こ れについては次節で少々詳 しく論ず ることにしたい。これは,方 法論的には広 く 〈目的論〉から く付加 ・選択論〉 への転位 という問題であり,ラ マルキズムとダーウィエズムとの間の問題 と基 本的に同型である。 また,社 会科学の用語でいえば,古 典的な均衡理論から現 代的な自已組織理論への転位, ということになる。 欲ヨ をベースとする社会分析の意義 さて,こ のように人間固有な く欲望〉をキー概念 として社会分析のベースに 置 く利点は,こ れにもとづいて分析装置をつ くることができれば,そ れは人類 史をその黎明から現代に至るまで違綿 と貫 く一般的通用性をもつはずだ, とい う点である。つまり,社 会の一般分析枠 となる。 の 対照例 を挙げてみよう。たとえばコールマンの く権利〉概念は,社 会のある 面 ― 一社会的交換一― を 鋭 く挟 り出す優れた概念装置 として高 く評価 され ている。これに着 目することによって行為の合理的理解が促 され,数 学的体系
7)James S.Coleman,乃 ク″滋″θ″sてメSθび筋〃助 夕οり,Harvard Univ.Press 1990,chapt 3.
化 に も可能性が開かれた。だがいかに優れていようとも,〈権利〉概念では近代 的す ぎる とい う難点は否めない。つ ま りこれ を用いて人類社会 を貫 き通す視座 を得 ることは難 しいだろう, とい うことである。 その点,欲 望概念 を分析のベースに据 えた ドゥルーズ=ガ タ リは,実 際に「原 始土地機械 (野生人)→ 専制君主機械 (野蛮人)→ 資本主義機械 (文明人)」と い う形で人類史 を通観す ることに一応成功 している。 もっとも,同 じくく欲望〉 をベー ス としなが らも,本 論考 での筆者の考察は,〈貨幣〉 とい う社会 く分子〉 の動 向に注 目す ることによって彼 らとはまた違 った人類史 を描 き出す ことにな る。 一方,マ ルクスとエンゲルスは 〈欲望〉ではな く く労働〉を社会分析の基底 に据 えた。マル クスの論考 は,社 会 をいわば`労働本位制″として解釈 し編 制 す るものになっている。 これは,当 時搾取 されつつあった労働者 を人間的に も っ とも尊い実存 と見依す,彼 らの人間愛の顕れであったろう。労働 こそが社会 の中に生 きる人間の証 であ り,ゆ えに労働 こそ人類の歴史 を通底 し 。一貫 した 視座 を与えるキー概念だ, と構想 したのである。人間を 「労働す るヒ ト(homo laborans)」と捉 えたわけである。そ して個人的労働が社会 において第一義的に 果 たす営みは 〈生産〉である。だか らこそ,マ ル クスの社会分析 では生産様式 が最重要 な地位 を与 えられたのだ。 そ してそれゆえにこそ,彼 らは原始社会か ら近代社会 までを見通す ことができた (と信 じられた)の であった。筆者の本 稿 での立場 は,む ろんマル クスやエンゲルスのそれ とは異なるが,人 類史 を通 底す る視座 を希求す る意図は彼 らと共通の ものである。 2.欲 望 の分化 欲望 は,前 節で論 じたように,本 来は未分化 で流動的な もの として出来す る。 だがそれはまた,マ クロ社会の文脈の中に置かれ ると,未 分化 なまま発露 し続 けるのではな く,多 くの場合,特 定化 され ・定 常 的な (くりかえされ る)パ タ ンヘ収飲 してゆ く。つ ま り,何 もので もなかった ものが,何 ものかになってい く。 これが社会学で く社会化〉 と呼ぶ分化過程 である。本節はこの過程につい
欲望のエネルギー論 127 て考 察 す る もの で,欲 望 の ミクロ分 析 に 当 た る。 欲 望 の マ クロ分 析 は次 節 以 降 に行 わ れ る。 行 為 と欲望 これ までの社会 学的行為理論 は,巨 匠に よる問題提起 にお いて も,継 承 者 に よ るその定式化 にお いて も,行 為 の 「分 類」 のみ に関心 を集 中 して きた点 で五 十 歩百歩 であ った。 た とえば,「行為 が いか な る意味 で理解 (verstehen)できるか」を分類 したケ ー ス として M.ウ ェーバー の く目的合理 的 ・価値合理的行為〉,〈感情的行為〉, く伝 統 的行為 〉 の 区分 を挙 げ るこ とが で きる。 これ らは それ ぞれ よ く知 られ た 支 配 の 3類 型,す なわ ち 〈合理 的支 配〉 〈カ リスマ的支 配〉 〈伝 統 的支 配〉 に対 応す るものである。 そ してウェーバーは 「社会 は合理化へ向か う」 とい う有名 な命題 を提示 したのだが,こ の命題 は魅力的なが ら理論的手続 きとしては歴史 的経験則ない し直観的洞察の域 を出ていない。 もともとの類型が,分 類学に と どまっているためである。 あるいは,そ もそ も 「行為が論理的か非論理的か」で分類 したケース として パ レー トの く論理的行為〉 と く非論理的行為〉の区分 を挙げることができよう。 論理的行為 とは,「その行為 をなす主体 に対 してだけでな く,ヨ リ広範 な知識 を もっている人々に対 して も,そ の行為がその 目的に対 して論理的に結合 してい る行為,つ ま り主観的に も客観的に も上で説明 されたような意味 をもつ行為」 ゆ (松鳴 p.241)であ り,非 論理的行為 とはそれ以外の残余 カテゴ リー として分類 され る。 そ してパ レー トに とって,前 者は主 として経済学の,後 者は社会学の, それぞれ主 たる研究対象 と観念 された。 またパー ソンズは 自身の行為理論でい う 「合理的行為」 を次のように定義分 類 している。 状況の諸条件の下 で可能 な 目的 をば追求 し,か つその 目的 を,行 為者が用 8)松 鳴教茂 『経済か ら社会ヘーパ レー トの生涯 と思想一』みすず書房,1985。
い うる諸手段 の中で 一 ―実証的経験科学によって了解可能で検証可能な 理 由か ら一― そ の 目的に最 も適合 しているような諸手段によって追求 し ている限 りにおいて,行 為 は合理的である。 (『社会的行為 の構造』p.58,訳 I;p.97) この定義が ウェーバーやパ レー トの概 念 を継承 してい るこ とは明 白である (松鳴 ・前掲書 p.302)し,ま た,パ ー ソンズ行為理論の直接の影響下にあるわが 国の富永理論 において も,社 会的行為 を 「目的論的に」定義分類 している点で は変わ らない。 行為理論はか く 「分類」に専心 して きた。 その理由は簡単であるとく行為〉を 社会学の最 も基本的な準拠″点として疑わなか ったか らである。パー ソンズのご ときは,「単位行為」なる概念 を捻出 し,こ れ を力学の く質″点〉に相 当す る絶対 的地位 に据 えようとした。つ ま り行為 を分析の絶対的な出発″点としたわけです これでは行為以前に湖 る分析は不可能 となる。換言すれば,行 為 を理論上の独 立変数 として扱い(方法論的個人主義の仮定),そ の他のすべての社会的変数 を ここか ら従属変数 として導出 しようと考 えたのである (今日隆盛 を極めている く合理的選択理論〉も,こ の延長線上 に位置づ け られ よう)。だか ら当該の独立 変数がいかなる値 (カテゴ リー値)の 範囲内にあるかで分析の 「場合分 け」 を 行 う。 これが,従 来の行為理論がや って きたことのすべ てだった。 この場合分 けに沿 って,「実証科学」の名の もとに,「検証可能 な」 (パー ソンズ),合 理的 行為 のみに限って恣意的な取捨 を行 ったのが,今 日の 目的論的行為理論 なので ある。 この過程 で,未 分化 な欲望の発露はごっそ りと欠落 して しまった。 だが,次 の ように 自省 してみ よう。社会学は,「科学」 を目指す場合 でさえ も, 目的論 ない し欠乏動機 によって理解可能 な合理的 「行為」のみ を対象に し ていて よいのか, と。行為 はむ しろ集団 レベルでは本来未分化かつ不合理 (正 しくは超論理的)な もの として ともか く存在 し (be),そ れがある特別 な条件の 9)訳 文 は松鳴,前 掲書,302ペ ー ジに よる。 10)パ ー ソンズ 『社会 的行為 の構造』,木 鐸社,1976,78ペ ー ジ。
欲望のエネルギー論 1 2 9 もとで衆 目の納得す る合理的な ものに分化す る (become)の ではないのか。 こ の問いは,た とえば次の ような切実 な問題 となる。既存の価値体系 (社会的プ ログラム)に 飽 き足 らぬ若者たちの欲望 の発出は,時 に彼 らをして不可解 で未 熟な行動へ と駆 り立てる。暴走,ツ ッパ リ,い じめ,… 等々。 この ような事態 が大 きな社会問題 (解かれ るべ き社会学上の問題)で あることは明白である。 ところが当の若者 たち自身 しば しば,当 該行動の 目的 を問われて も答 えられな い。けだ しそれは,未 分化 で潜在意識下にある欲望の集団的発 出だか らだ。行 為理論 は,こ の ような問題 をあ くまで個 人合理的に説明 しようとす るだけだっ たのである(合理的選択理論はその究極)。それ以外の枠組みが用意 されていな いか らだ。 行為の再定義 かか る 〈行為〉の概念 を,欲 望 をベー スに置 く, とい う本論考の方針に沿っ て 「佃別の人間 とい う単位 で見た場合の,欲 望の発 出作用」十一欲求の充足作 用,で はない一一 と 定義 しなお してみ よう。 ここに 「個別の人間 とい う単位 で見た場合の」 と断ったのは,む ろん,欲 望 は集合の単位で も発出 しうるか ら である(このことにつ いては次節以降で検討す る)。行為 とは,集 団的に発出 し 挙動す る欲望 の,ご く一部 を見たものにす ぎないのか もしれないのだ。 となる と く行為〉は もはや最 ・基本的 な準拠点 (独立変数)で な く,欲 望 の大域的様 態に よって変化す る従属変数 となる。欲望 の発 出様態に応 じて,行 為 をダイナ ミックに とらえ直す ことがで きるのである。 この発想の転換が意味す るところは大 きい。欲望のた とえば 「集合的な分化 様態」に応 じて,行 為がた とえば 「非論理的行為か ら論理的行為へ」変化す る, とい う途 をあ とづ け うる, とい うことである。 欲望の分化 と行為の社会化 具体 的 目的 を持 たぬ抽象的 ・未分化 なエネルギーたる欲望が,具 体的 目的を 持つ特定の欲望 (欲求)へ と変化 (分化)を 遂げ る。 そ して これに伴 って欲望
の個 人的発 出作用 =行 為が変化す る。本論考の立場 で言えば,こ の過程 こそが 社会学でい う く社会化 socialization〉なのだ。 そ してこの過程 こそが,マ クロ な社会 を ミクロに見た場合の,社 会変動の現れ方なのである。 ところで く欲望 の分化〉とい う現象は, もっぱ ら集団的なもの (collective) である。集団の中で しか,分 化は起 こらない。分化は,個 人的欲望が集団か ら 何 らかの情報 を得 ること (知ること)に よって起 こるか らであ り, したがって 集国内で,他 の成員 との相互作用の結果 として出現す る現象だか らである。か くて,次 のようにいえる。社会化 とは,集 合 レベルに固有な現象,す なわち欲 望の集合体 に出現す る く創発性〉が,個 別の行為へ と浸透 してい く過程である。 ちなみに創発性 とは,要 素の合理的論理 では説明 されえない,要 素に とってい わ↓ゴ 〈超論理的〉な現象である, とい うことを確認 しておこう。 こ う考 えるなら,同 時に次のこともいえる。社会的 〈行為〉は, もはや社会 学の確 固 とした準拠″点た りえない。社会的行為 は集合 レベルの欲望か ら社会化 の作用 (分化)を へて 「形成 され る」 ものであって,社 会的行為が集合 レベル の欲望 をつ くるのではないか らだ。 もし仮に行為が集合のレベルを形成す るこ とがあった として も,そ れは仮の ものにす ぎず,集 合 レベルに創発性が出現 し た段階で再度根本的変更 を受けねばならない (これこそが社会化である)か ら, 社会的行為が派生的現象であるとい う上記の結論は変わらない。 そ して変更 さ れぬ ものがあった としたら,そ れはその事実によって 一 ― ipso factO―一 「社会的」行為 でないこと (隔絶 した純粋 な個人的行為 であること)を 示 して いるのであって,こ れこそ,社 会学の対象ではないのである。 比喩的にいえば,行 為が集合 レベルヘ持 ち上が るためにいったん理論的梯子 を掛けねばな らないに して も,行 為が社会的集合の レベルで回転 し始めたなら ばその梯子 を外 さねばならないこと ― ―社会的行為 は もはや個人の主体的信 念 よ りも集団のダイナ ミズムに立脚す ること一― を 意味 している。梯子 を外 す, とは,つ ま り方法論的個人主義か ら訣別す る勇気 を指す。行為 は,社 会 レ ベ ルではいつ までも個人的梯子の上で起 こるのではないか らだ。む しろ個人個 人は社会 の流れに乗 って梯子か ら浮 き上が り,集 団の欲望 に支 えられて流れて
欲望のエネルギー論 131 い く。 社 会 学 は, 個 人 の信 念 よ りもこの集 団 的 ダ イナ ミズム を明 らか に しなけ れ ば な らない。 ド ゥルー ズ =ガ タ リは この よ うな事 態 を,直 観 的表現 に訴 えて 「スベ スベ の表面 を滑 り移 ってい く」 と言 ってい る。言いえて妙 であ る。 付言 :分子生物学 と分化 く分化〉 とい う現象は,社 会学において古 くか ら着 目されたテーマであるが (例 : ジンメル 『社会分化論』),生 物学において も最 も重要 な研究対象のひ とつであって, とりわけ発生生物学ではその中心 をなしている。 分子生物学の現況では,分 化現象へのメイン ・アプローチは く形態形成場の理論〉 とい う形 をとっている。生物の発生においては,形 態形成 を促す分子 くモルフォゲン morphogen〉の存在が古 くか ら仮想されていたが,こ のモルフォゲンの濃度分布や濃 度勾配が形態形成の場 を用意 し,細 胞はこれ を関知す ることによってシステム内にお け るみずか らの位置の情報 を得,ま た分化 を指令する遺伝子ヘスィッチングが行われ ると↓ヽうのが形態形成場理論のアイディアの骨子である。分化は周囲か ら何 らかの情 報 を得 なければ起 こ り得 ないか らである。そ してこのモルフォゲン分子の構造の特定 と,そ の機能の解明が細胞分化の研究の中心 をなしてきたと言って過言ではない。 3.欲 望 と社会 欲望は本来,か ならず誰か特定の人間に宿っている,利 己的なものである。 誰のものでもない欲望は存在 しない。欲望は, もっぱらみずからを快楽させ よ うとするのであって,他 人の欲望 とは一線を画するものである。そしてこのこ とによって,逆 に欲望は 〈自己〉の領域 を形成 し,他 者の領域 との区分 をみず からつ くりあげる。欲望はさらに,無 限に自らを拡大 しようとする固有の働 き によって, 自己の領域 を拡大 しようとする。 ところが,欲 望が集合 して ・密集 して存在するとき,単 独で存在する場合 と 比べ著 しく異なる現れ方をすることもまた,広 く知 られている。以下の諸節で は,こ のようなケースを考 えることにしよう。 11)AO, p.18.訳 書21ペー ジ,29ペ ー ジな ど。 ちなみに 「スベスベの表面」の原語は “La surface glissante"ウG力)る。
132 彦 根論叢 第 306号 欲望 は本来,個 人 的かつ利 己的 な もので あ る 欲望 は本来個 人的かつ利 己的 な もの であ る。 この こ とにつ いては多言 を要す まい。 が,こ れが集合 して大 きなマ ス を形成す るよ うになる と,事 情が異 なっ て くる。大 きな集 団の 中では,本 来 な ら利 已的 なはずの欲望 が,個 として独立 に で な く,集 合 的 に振 舞 うの で あ る。 この現象 は,し ば しば 〈集合心理 col― lective psych010gy〉 として社会心理学 の興味の対象 になって きた。 本 来 な ら利 己的 なはずの欲望 が,な ぜ,個 として独立 にでな く,集 合 的に振 舞 うのか。 その理 由は,本 稿 の立場 でいえば,欲 望 が本来未分化 で 目的 を持 た ない ものだか らであ る。つ ま り,未 分化 な欲望 は多 くの快楽 ―行為 の可能性 を 持 って いて, ま た未分化 であ る以上,個 々人 に とって どの快楽 ―行為 が選 ばれ て もよい ― ― 当該 の快楽 一行為 を選ぶべ き主体 的理 由が ない―一 か らだ。 そ してこの ような とき,欲 望の発出によって最終的にある特定の快楽一行為が 選 ばれ るとして も,そ れは個人の主体的意思によって というょり,集 団の側の ダイナ ミズムによって決定 され るか らである。それは,個 人の主体的意思でな い以上, しば しば無意識の うちになされ る。 前節において,未 分化 な欲望が分化す るのは必ず集団の中でであると述べ た。 まさに この メカニズムが,欲 望の社会化 と社会的行為の形成 を司っている。そ してこの ような く欲望〉観が,最 初か ら具体的な主体的 目的 を持つ と措定 され る く欲求〉の理論 と異なる点である。 欲望の原始的集合体 =無 器官体 ドゥルー ズ=ガ タ リは,欲 望のこのようなメカニズムに着 目し,欲 望が未分 化 な状態で大規模 に集合 した巨大対象 を く無器官体 les cOrps sans Organs〉と 呼んだ。 ここに く無器官体〉 とは,全 体 としておびただ しい欲望のエネルギー が存在 しなが ら,い まだ器官 (社会構造 を構成す る部品,社 会的行為)を 形成 せず ― ― したが って社会機械 をも形成せず一―,未 分化 な状態にある欲望の 集合体, とい うほ どの意味である。 そ して ドゥルーズ=ガ タ リの理論では,こ の く無器官体〉が,社 会機械 を自己形成す るベース とされている。 この論″点は
欲望のエネルギー論 133 重 要 な テー マ な の で,節 を改 め て 第 4節 以 下 で考 察 す る こ と と し,本 節 で は ミ タもあ狭 豊 と与 夕もあ在 拳 との 関係 につ い て考 察 を続 け よ う。 社会の原動力 としての欲望 佐伯啓思 は ドゥルー ズ=ガ タ リか らの影響 の もとに,く欲望〉 を社会 の作動 す る原動力 とみな してい る。 いわばひ とりひ とりの欲望 を通 じ,社 会へ,そ の 作動す るエネルギーが注入 されているわけだ。 したがって逆にいえば,欲 望 の エネルギーが備給 されな くなれば,当 然,社 会はその作動す る活力 を失い,疲 弊 して作動不全 に陥 るこ とになる。 た とえば佐伯 は,20世紀型社会主義が失敗 したのは,それが欲望の解放 を「悪」 と決めつけて抑圧 した結果,社 会 自身が維持 。発展 してゆ く力 をも失 って しま ったか らだ と指摘す る。 これに対 し今 日の資本主義が一応成功 している 十 一 その倫理的是非は ともあれ一一 の は,欲 望の爆発が社会 を持続・展開させ る エネルギー として供給 されたか らである。動物は火の破壊的側面 を恐れ逃げ る が,人 間は火の創造的側面 を制御 し利用す る。20世紀型社会主義は欲望の破壊 力 を恐れ遠 ざけ,資 本主義 は欲望 の創造力 を利用 したのだった。 そ して佐伯は,欲 望 の爆発 を,マ クルーハ ンの用語 を借 りて,植 民地獲得競 争の ように欲望が外へ 向か う帝国主義的 「外爆発」 と,現 代の大衆消費社会の ように欲望が消費者 自らの内的自己快楽に向か うナルシシズム的 「内爆発」の 2つ に分類 している。 社会の破壊力としての欲望 欲望の爆発は,社 会の原動力にもなるが,ま たいうまでもな く,社 会主義が 恐れたように社会秩序の破壊力にもなる両刃の剣である。 しか もそれは,さ き にも述べたように,人 間を人間たらしめている基本性質の顕れであるから,抑 圧 しても簡単には消滅 しない。それどころか,欲 望はその発出を求めて社会装 置の弱い部分に大挙 して向か うのである。欲望の流れが規制されているところ 12)佐 伯啓思 『欲望 と資本主義』講談社,1991。
では財 も十分 には流れず,モ ノ不足 となる。他方で欲望は地下へ伏流 してヤ ミ 市場 を形成す る。 このように,欲 望はあちこちか ら逃走=漏 出 (fuite)し,噴 出 (outburst)し,こ れは社会装置が破損す るまで続 く。 旧社会主義国は,人 々 の欲望 を抑圧 し禁欲的労働 を強制 した。労働が人間の所以 (hom0 1abOrans) であるなら,理 論的にはそれで良かったはずだ。だが事実は違 った。強権で欲 望 の流れ を堰 き止め ようとしたベル リンの壁 も, ソ連官僚制の巨大なダム も, 欲望 の漏出を防げず,つ いに決壊 した。 繰 り返す と,欲 望の爆発 は,社 会の原動力でもあ り,社 会秩序の破壊力でも ある。 しか し考 えてみれば,そ もそも 「力をもたらす もの」二般が,そ のよう な性質 を持 っているのであ り,そ れは核分裂 でもガソリンの爆発でも,あ るい は生体 内の燃焼 (代謝)反 応で も,同 じことである。 システムを作動する原動 力 となるか,あ るいは秩序 を破壊す る邪悪な力 となるか,そ れはエネルギー自 体の性質 によるのではな く,そ れを制御 ・調整するシステムの側の編 葡あ問 題 なのだ, とい うことである。 したがって しば らく,こ の, システムの側の編 制 について考察 してみ よう。 欲望 と欲望の結合 一 一 欲 望 する諸機械 ドゥルーズ=ガ タ リが,社 会や人間の心理,… 等々,様 々な複雑系 を く欲望 す る諸機械 des machines desirantes〉として捉 えたことはよ く知 られている。
ところで,彼 らのい うこの く欲望す る諸機械〉 という難解 な概念の真意は,こ れ までに十分 に明 らかにされた とはいいがたい。筆者の考 えでは,そ れは,欲 望 のエネルギー を用 いて編制 され 。作動す る 「欲望機械」 とい うことであって, これは化学エネルギー を用いて作動す る生物体が しば しば 「化学機械」 と呼ば れ るの とまった くパ ラレルなのである。その意味で く欲望する諸機械〉 という 一見不思議なタームも,突 飛な造語などでは全然なく,む しろ周到に考察され 用意 された概念用具 なのだ と理解 しうる。繰 り返 していうと,生 物体 を構成 し ているのが,化学エネルギー を用 いて化学結合/化 学反応 を繰 り返す巨大なく化 学機械〉 であるの と呼応 して,人 間の編制す る社会体は,欲 望のエネルギーに
欲望のエネルギー論 135 よ っ て欲 望 と欲 望 とが 結 合 し作 動 す る 巨大 な く欲 望 機 械 〉で あ る。 以 下 ,く 欲 望 す る諸 機 械 〉 を単 に く欲 望 機 械 〉 と記 述 す る。 分子機械 とキュー リーの法則 ドゥルー ズ=ガ タ リはまた,自 分 たちの分析姿勢 をく分子的 mOleculaire〉と 自称 したが,こ れは分子生物学におけ る く分子機械〉の分析姿勢 を社会分析に 拡張 ・投影 した もの と解釈 しうる。 分子生物学では,生 物がエネルギー変換 を行 って生存に必要 なエネルギー形 態 (たとえば筋収縮運動,能 動輸送,タ ンパ ク質合成,形 態形成,な ど)を 得 る生体高分子の集合体お よびその調節機構のことを く分子機械〉 と呼び,こ の よ うな対象 を研究す る分野 を く生体 エネル ギー論 bioenergetics〉と呼んでい る。 ところで なぜ ,生 物学 では `諸分 子″で な く `分 子機械″と呼ばれ るのだ ろ うか。これに関連 して香川靖雄は次のように記 している。 エネルギー変換を行なうさまざまな生体高分子の集合体は, しばしば分子 機械 と呼ばれる。…しかし,化学的エネルギーの源であるATPな どは均一 の溶液になってお り,こ れから特に方向性 を持った 〔=異 方的な〕仕事 を 発生するときには,生 体膜を通 してのイオンの浸透圧的仕事 と電気的仕事, 筋原繊維の力学的な仕事,な どにみられるように,特 定の方向性を持った
構造赤木苛災をととぶ蒜違島た註抗き九セふる(キ
上上ぅ上ぁ法血)。無方
向性の 〔=等 方的な〕ガソリンの化学的エネルギー を無方向性の熱エネル ギーや水素の化学エネルギー に変 えるには機械 は必須 ではない。 しか し, ガ ソ リンで運動エネルギー を得 るには,エ ンジンで も,燃 料電池に結合 し たモー ターで も,必 ず機械が要 る。 したが って生物に も分子 レベルの機械 力屯要る。 (『エ ネル ギー の生産 と運動』:分 子生物科学 第 7巻 ,p.9) つ ま り,分 子が ランダムな等方的状 態 (モル)で はな く,あ る特定 の異方的構造 に沿 って超分子的に配列 されていること,こ れが分子 く機械〉 という意味 である。 この超分子機構 によって,は じめて方向性 をもつ力が発揮 される。 こ の 「特定の方向を持 った構造」のことを `機械″と呼んでいるわけである。分 子理論の立場 でいえば,浅 田彰のい う 「構造 と力」の関係 も,そ ういうもの と して理解 しうる。 生物体の分子機械 ここでやや 回 り道 となるが,生 物の分子機械の実際について少々の理解 を得 ておこう。 さきに,系 に力 を与 える過程 (爆発 あるいは燃焼)で は秩序 と破壊 とが紙一 重 であることを指摘 しておいた。 このような,爆 発 (あるいは燃焼)反 応は, 反応 自体 を結果 として記述す るだけでは,秩 序 と破壊の差異す ら表現できない。 反応が破壊的 (燃焼)か 創造的 (代謝)か , という問題は, もっぱら反応 を包 含す る外側の構造,つ ま り 〈機械〉の有無 とその過程 に帰着す るか らである。 このことを具体例 で見てみ よう。生体 内に起 こる呼吸反応は,最 終生成物 を 見 る限 り,
桝端
十
晨)一
→6秤 十
に慾 利
な る反応 として記述 され る。 ただ し,こ の式 は 一 ― それは まった く正 しいの だが一 ― そ れ 自体 として,生 命秩序 の形成,つ ま り く代謝〉 を全然表現 して い ない。最終生成物 として く燃焼〉 と同 じ反応 を記述 してい るにす ぎないか ら であ る。 これ は過程 を消去 し,結 果 に着 目す るだけの視 点 で,い わば`古典 的″ 均衡 論 のめ ざす 言説 であ る。 エネル ギー保 存則 を知 ってい る我々に とって,代謝の過程で結果的に抜換島燃康 まちたて向量あ花掌上ネルや上が解放される
のも明らかであろう。もっともこれに関していえば,マ イヤーとヘルムホルツ
に よ るエ ネ ル ギー保 存 則 の発 見 (1842年)よ りもず っ と以 前 の1784年,す でに 13)岩 波書店,1990。欲望のエネルギー論 137 ラ ヴ ォ ワ ジ ェは代 謝 と燃焼 とで発 生 す るエ ネ ル ギー 量 の等 しい こ とを知 って い た。 結 果 を認 識 す るの は,か くもたや す いの で あ る。 これに対 し,生 命の過程 を認識す るのはす こぶ る困難である。今 日では,ラ ヴォワジェの見出 したこの同量の化学エネルギー を取 り出す過程 で,生 物は, 糖分が直接燃焼 しエネルギーが爆発飛散す る (無方向)の を防 ぐべ く,多 数の 酵素 を巧み に介在 させ (特定方向),ATP(ア デ ノシン三 リン酸,核 酸の一種) とい う中間的 なエネル ギー貯蔵分子 をつ くるこ とが分 か ってい る。そ して ATPが 生体 内の各所ヘエネルギー を運搬 し交換す る一般 メデ ィア として用い られ るのである。ATPは ,運 搬 された先でそれぞれ巧みにエネルギー を取 り出 され るが,こ こで も再 び様々な特定方向の超分子機構 (分子機械)が 動員 され る。ATPは ,生 命の論理 に とって消去すべ き中間パ ラメー タではな く,そ れ ど ころか, これこそが,物 理/化 学論理 を超 えた,生 命論理 その ものなのである。 この ように,ATPに 着 目す ることは,過 程 を直視す るとい うことである。そ してここに,多 数の酵素 (タンパ ク分子)が 巧みに 。方向性 をもって組み合 わ されていること 一 一 これ を ドゥルー ズ=ガ タ リは 〈気違 いベ ク トル〉 と呼ん だ一―,こ れこそ生命のエネルギーが無方向の燃焼 として散逸せず創造的パワ ー となる根拠 (キュー リーの法則)な のである。この超分子的構造 ・超分子的 過程 が く分 子機械〉 と呼ばれ るものの正体 である。 アデ ノシン三 リン酸 0 0 0
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C 社会体 の分子機械 我 々 は い まや,生 命論理 か ら社会論理 に戻 って,同 様 に次の よ うに主張 しよう。人間の集合体 に包蔵 され る欲望の 「無定型 ・未分化のエネルギー」 を 「方 向性 を持 つたマクロの力」に変 えるにも,必 ず機械 (社会機械)が 要 る, と (キ ュー リーの法則)。これ を社会の く分子機械〉と呼ぶのである。そして生物の分 子機械が化学エネルギー を用 いる化学機械 であるのに対 して,社 会 の分子機械 は欲望のエネルギー を用いる 〈欲望機械〉である, とい うことなのだ。 無定型の欲望 を群集の ミ烏合″の行動 (無方向)に 変えるのには社会機械は 必須でない。が,無 定型の欲望 の集合体が社会の形成 ・維持 ・発展 ・進化 (特 定方向)を 帰結す るには必ず機械が要 るのである。 ド ゥルー ズ=ガ タ リの く分 子的〉 な社会分析 (欲望機械)と は,こ の ような分析姿勢 を表 していたのだ。 そ して この ような社会機械の作動機構や形成過程 を研究す るのが,本 稿 でい う `Socio‐energetics″(社会 エネルギー論)な のである。 社会的欲望分子の存在 生命の化学機械 においては,ATPと い う分子 (化学分子)が 重要 な役割 を果 た していた。ATPは ,い ま取 り出 した化学エネルギー を散逸させず,と りあえ ず貯蔵 して,将 来必要 となる箇所へ漠然 と先送 りす るエネルギー媒体 として, エネルギー代謝 に寄与 している。 では,社 会の分子機械 において,欲 望 の爆発 を,秩 序の破壊 でな くむ しろ社 会秩序へ導 く役割 を担 っている中心的な分子 (社会分子)一 一つ まり生命の分 子機械 におけ る ATPの ような働 きを持 った社会分子一一 と は何 だろうか。 実 は,そ れ こそが本論考 でこれか ら着 目す る社会分子 =貨 幣 なのである。 いわゆる調 整ン学派のア グ リエ ッタ とオル レアンは,欲 望 と貨幣の関係につ いて次の ように言っている。 14)未 分化の欲望は,分 子機械 を形成するその分化過程において,社 会機械 (社会 システム, 分子機械)と その部品 (社会的行為,分 子)と を一挙に形成する。行為がまず先にあって, 爾後これが組み合わされることで社会 システムが形成 されるのではないのだ。ルーマンは かつて,「行為理論か社会 システム理論か」という問題の立て方をした。だが実際には,そ のような問題は存在 しない。行為 もシステムも,両 者 ともに,欲 望の分化 メカニズムの副 次的効果にす ぎないか らである。
欲望のエネルギー論 139 貨幣秩序はまった く信 じられないような論理 に従 っている。… これ らの関 係 の役割 は,富 への欲望 を静め,そ れ を漠然 とした将来に先送 りす ること である。富への欲望 は経済主体 につ きまとってお り,こ の欲望が即座 に爆 発すれば破壊的になるほかない。貨幣の保証は,こ の欲望 を迂回させ,ね じ曲げ,こ の欲望 に世俗の商品 とい う二次的な獲物 を提供す る。貨幣の超 越性 は衝動的 な暴力行為 を一時的に立 ち切 るがゆえに,富 への欲望 とい う 横暴 で,気 ま ぐれな移 り気か ら人間の創造力 を解 き放 って くれ る。富への 脅迫観念があ らゆ る社会関係 を損 なわずにすむのは,ほ かな らぬ この条件 (『貨幣の暴力』pp。128f.傍″点は引用者) にお いて なの で あ る。 この引用文 は, ま さに筆者が今 いわん としていることを的確 に述べていて, 現時″点で付け加 えることは何 もない。貨幣は,人 々の欲望 を吸収 し ・それによ って欲望の爆発 を緩衝す る減速剤 であ り,か つ,欲 望の力 を社会体 の隅々 まで 備給す るエネルギー媒体 なのだ, とい うこ とである。ゆえに我々はこれか ら, 分析の先 を欲望か ら貨幣へ と進め ることとす る。 ただ しそのためには若子の準備が必要 なので,次 節ではその準備 を行 う。そ の後貨幣 と欲望エネルギー との関係について考察 し,社 会的エネルギー媒体 と しての貨幣の振舞いについては,第 7節 で再 び論 じよう。上記の有益 な引用文 につ いては,そ こで新 たなコメン トを加 えることにす る。 (続) 15)法 政大学 出版局,1991(井 上泰夫 ・斉藤 日出治訳)