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岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編) : 曲と歌詞の分析

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Academic year: 2021

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(1)岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. 【研究論文】. 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」 の源流を訪ねて(上編) 曲と歌詞の分析 荒幡 克己 1,下道 郁子 2,廣内 大輔 3,西尾 洋 4,杉山 道雄 5 1) 岐阜大学応用生物科学部,2)東京音楽大学音楽学部 3) 岐阜大学教育推進・学生支援機構,4)岐阜大学教育学部 5) 岐阜大学名誉教授 要旨 岐阜大学の愛唱歌,「我ら多望の春にして」が,岐阜高等農林学校校歌(以下,「岐阜高農 校歌」という。)として生まれた大正 15 年当時,歌い易い曲調は,テンポのゆっくりした短 調であった。当時の旧制高等学校寮歌は,こうした歌い易い曲調で,一方その歌詞は,庶民 から見れば高尚な内容で,高らかに理想を歌い上げた。 こうした中で,岐阜高農校歌は,生徒の作曲ではなく,西洋音楽の系譜として,作曲家, 岡野貞一が手掛けた。その曲は,長調であり,歌い難い系譜のものであった。歌詞も,三番 はプロテスタントの勤勉思想も入り,馴染みにくいものだった。 岡野貞一が作曲を引き受けた経緯については,岡野が鳥取の教会で洗礼を受けた際の宣 教師 George Rowland の息子である Paul Rowland が,作曲当時,北海道帝国大学の予科 の英語と音楽の教師をしていたことから,その縁と見るのが妥当である。鈴木栄太郎は,岐 阜高農の校長を務めていた,園芸学の草場栄喜から,鈴木の社会学研究に関して鞭撻激励を 受けていた。当時学内は,こうした教員間の協調関係が見られ,好ましい雰囲気であった。 キーワード:岡野貞一,西洋音楽,鈴木栄太郎. 1.はじめに 「我ら多望の春にして」が生まれたのは,大正 15 年,その前身校の一つである岐阜高農 の校歌としてである。今日,この歌を聞くと,それほど違和感なく,若い世代,即ち学生に も受け入れられるものである。それだからこそ,愛唱歌として選定されたのである。. 39.

(2) 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編). しかし,果たしてそれは,この歌ができた当時,違和感なく受け入れられたのであろうか。 音楽に対する受容性は,かなりの程度時代を経て変容していくと言われる。だとすれば,今 日的な感覚とは大きく異なった人々の受容性の中で,この歌は,どのように評価されていた のであろうか。本稿は,こうした視点から,その歴史的検証を試みたものである 1。. 2.分析の視点と分析方法 (1) 分析の視点 本稿では,既に分かっている事実を基に,以下のように分析視点を設定した。 下道(2012a)が指摘するように,北海道大学(明治・大正期は,東北帝国大学農科大学であ った)の恵迪寮歌「都ぞ弥生」(明治 45 年作)は, 「明治としてかなり洗練された洋楽構造の 曲」であり,作成当時, 「歌い難い」として不評であったという(下道(2012b))。しかし,そ の後時代を経るにつれて,世が変わり,かえって歌い易い曲となった,という。 「都ぞ弥生」 は,今日,旧制高等学校寮歌の中では,現在,現役学生にも最も親しまれている曲と言える。 もし,こうした経緯が普遍性のある現象であるならば,現代の岐阜大学愛唱歌に選定された 「岐阜高農校歌」は,作成当時,意外にもかなり歌い難かったのではないか,と推定される。 このことから,本稿では,この歌い難さについて,曲のみならず歌詞の面からも分析する。 (2) 分析方法 分析方法として,曲は,他の旧制高等学校の寮歌に関する先行研究,下道(2009a, 2009b, 2012a, 2012b, 2013, 2018)を参考としつつ,種々の旧制高等学校寮歌との比較の観点,また 作曲者及び作詞者の人物等の観点から分析した後に,現代の音楽の視点から,また明治以来 の西洋音楽導入の歴史の観点からも分析した。歌詞は,他の旧制高等学校寮歌の歌詞リスト として,旧制高等学校資料保存会(1996a, 1996b)により確認した後に,先行研究として,高 橋(1978),若井(2006)等を参考として,逐条的に分析した。. 3.分析結果 (1) 曲について 1) 作曲者,岡野貞一 「我ら多望の春にして」の作曲者,岡野貞一は,鳥取県出身である。岡野は,鳥取の教会 で洗礼を受けたクリスチャンである。岡野が洗礼を受けた宣教師は,George Miller Rowland である。下道(2018, pp116-117.)によれば,George Miller Rowland は,その後鳥 取の教会から札幌の教会に移った。その息子,Paul Rowland は,岡野が校歌の作曲を引き 受けた当時,北海道帝国大学予科の英語教師を勤めていた。 Paul Rowland は,実のところ岡野が洗礼を受けた際には,その儀式のオルガン伴奏を担. 40.

(3) 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. 当しており,父と岡野の関係からしても,極めて親しい仲であった。Paul Rowland が担当 していた英語の授業では,下道(2018)が指摘するように,英語教育の一環として英語の歌も 積極的に取り入れられていた。そして,英語と外国人教師による直接の指導を極めて重視し ていた当時の農科大学予科の雰囲気の中で,その分校とも言える岐阜高農の校歌制定に関 して,本校たる札幌の農科大学予科が,伝統的な旧制寮歌のような校歌ではなく,西洋音楽 の系譜を引いた曲を志向していたものと考えられる。こうした中で,Paul Rowland は,当 時の学部長(後の北海道帝国大学初代総長である)佐藤昌介とも密接な関係にあって,事実上 の分校,岐阜高農の校歌制定に強い影響力があったものと考えられる。 ここで,岐阜高農校歌制定において作曲を岡野貞一に依頼した経緯について,既存文献を 見よう。 『目で見る 70 年の歩み』 (岐阜大学農学部創立 70 周年記念誌編集委員会)(1994)(p.4)2 によれば,次のように記載されている。 「先生は,大正-昭和初期の著名な作曲家で,------唱歌の他,山形高等学校,甲南高等学校, 福島高商,盛岡高農の校歌も作曲しておられる。------先生は,-----大正 13~15 年には岐阜 県や三重県にも出張しておられ------これが縁で校歌の作曲を依頼したものと推察される。 」 しかし,この記述には,少し注釈や補足説明が必要である。 第一に,盛岡高等農林学校についは,校歌は作曲していない。『岩手大学農学部百年史』 によれば,明治 42 年制定の校歌「国のみ中に鎮まれる」の作曲は,三浦波治である。岡野 の校歌関係作曲の史料として,決定版とされている名取・間々田共著「岡野貞一氏作曲校歌 研究」(2006)によれば,岡野が作曲したのは,盛岡高等農林学校の「校歌」ではなく, 「十 周年記念歌」である。また,同論文の「岡野貞一氏作曲校歌・校名一覧」によれば,作曲依 頼リストの中に,山形高等学校(旧制山形中学校)の名はない。同論文によれば,岡野が関わ ったのは,校歌ではなく寮歌であるとされている。なお,他の甲南高等学校,福島高等商業 学校の二校は,確かにリストで確認できる。 第二に,出張に来たのが縁で校歌が依頼された,とあるが,ことはそれほど単純ではない。 名取・間々田(2006)に掲載されている,岡野貞一に作曲依頼があった校歌のリスト(このリ ストは,東京音楽学校(現在東京芸術大学音楽科」に依頼文書が提出され,帳簿により確認 できるものである。実際に作曲されたかどうかは保証されていない)によれば,岐阜高農へ の校歌作曲依頼以前にも,岐阜に関しては,旧制岐阜中学校,即ち現在の岐阜高等学校も, 大正元年に,岡野に作曲依頼があったことが確認できる。 しかし,岐阜高等学校の校歌は,作詞は,当時の岐阜中学校の国語教師,松平静,作曲は, 当時の岐阜高等女学校の音楽教師,伊藤栄治によるものである。当時,中学校には,カリキ ュラム上,正科には音楽はなかった。一方,各地の高等女学校には,当時,優秀な音楽教師 が派遣されつつあった。こうした経緯から,一旦は岡野に依頼したものの,何等かの形で, これに代わる形で,岐阜高等女学校の音楽教師,伊藤が引き受けたものと考えられる。因み. 41.

(4) 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編). に,東京音楽学校で,岡野の一年後輩が伊藤栄治である。 次なる論点として,岐阜が,たびたび出張で訪れ,馴染みのある地域であったかどうか, という点がある。前述の岡野の作曲依頼リストを見ると,上記のように岐阜中学校歌が岡野 ではないため,岐阜高農からの依頼が岐阜県で初めてということになる。旧制武儀中学校 (現在の武儀高等学校)校歌も岡野が作曲しているが,後に昭和 3 年のことである。 このようにして見ると,各地で 100 曲を超える校歌を作った岡野にしてみれば,岐阜は, 馴染みのあった地域とは言い難い。これと比較すると,例えば,新潟では加茂農林学校(明 治 41 年),熊本では,熊本中学校(現熊本高等学校)(明治 43 年),東北でも,仙台高等工業学 校(現東北大学工学部)(大正 9 年),鶴岡工業学校(大正 10 年)と早い年代から作曲を手がけて いる。この他にも馴染みの深い地域として,長野等もある 3。他地域と比較して相対的には, 岐阜は,岡野への作曲依頼の時点で,どちらかといえば馴染みの薄い地域であった。 出張の縁で岡野依頼した,という所説は,明示的に否定するものではないが,むしろ Paul Rowland が縁と見るべきであろう。分校ともいえる存在である岐阜高農に対して,本校と 位置付けられる北海道帝国大学にしてみれば,分校の校歌制定において,全く関与しない, という可能性は小さい。総長の佐藤昌介に Rowland が岡野を推薦した,というように強く 関わったか,或いは,東京音楽学校への依頼があり,岡野が多忙で断る可能性もあったもの を,北海道帝国大学関係者から頼まれて,Rowland が,優先して引き受けてくれ,と柔ら かく後押ししたのか,史料が乏しく正確には推測し難いが,いずれにしても,Rowland と 岡野の個人的な関係が大きく影響したと見てよい 4。 この推定の方が,蓋然性が高い,と言うべきであろう。岐阜中学校からの校歌作曲要請は 断り,岐阜高農を引き受けたことは,これにより説明できる。 2) 曲の音楽的評価 以下では, 「我ら多望の春にして」の曲を,音楽的に行毎に,逐一詳しく見ていこう。 当時の寮歌は,七五調が主流であった。若井勲夫「旧制高等学校寮歌の研究」(2007)によ れば,七五調で六行構成が,寮歌の 2 分の 1 を占めていたという。事実,後述する凛真寮歌 は,七五調である。しかし, 「我ら多望の春にして」は,初めの二行だけは確かに七五調だ が,三節,四節は,八六調になる。そして,第五行で,再び七五調となる。 第一行と第二行の「我ら多望の春にしてこの学園に師を得たり」の部分は,いわゆるヨナ 抜きの音階であり,和風である。力強さを感じさせる旋律となっている。この部分は,後述 するように歌詞としては,七五調であり,伝統的な旧制高等学校寮歌と類似する語句が続く。 この歌全体としては,岡野が西洋音楽としてこれを作曲したのであり,確かに全体は,西洋 音楽的ではある。しかし,意外にも,歌い出しのところは,西洋音楽的な響きが強過ぎるの を和らげた導入部という側面もある。 第三行と第四行の「我らが行く手の幸を知るや 我らが行く手の誉れ知るや」の部分は, 西洋音楽的な色彩が色濃く出てくる部分である。ただし,それは滑らかな運びである。この 部分は,後述するように,歌詞としては,八六調の構成であり,伝統的な寮歌とは異なる構. 42.

(5) 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. 成である。札幌農学校の「都ぞ弥生」は,八七調であり,旧制高等学校寮歌の中では,例外 的に西洋音楽的である。この部分は,これと類似する。 第五行の「静かに強く 備えせん」の部分は,再び和風に戻り,滑らかに,穏やかに終わ っている。 岡野の作曲した他の中学校,高等学校の校歌を聴くと,①全体が比較的早いテンポで力強 さが継続するもの(例: 長野県立上田高等学校),②ゆったりとした曲調が終始一貫している もの(例: 秋田県立金足農業高等学校)等もあるが,③勇ましいトーンでスタートしたものの, 後半でトーンが大きく変わり,滑らかなメロディとなり,最後に再び勇ましいトーンに戻っ て終わるもの(例: 熊本県立熊本高等学校)もある。これらは,作曲した当時の時代背景や, 作曲を依頼した高等学校の土地柄(例えば,男子らしい勇ましさ,強いトーンを尊ぶ,その 地方の気風)等もあり,岡野がそれを参酌したのか,それとも,依頼主の側から,強い要望 が明示されたのか,双方の可能性もある。 これらとの比較で言うと, 「我ら多望の春にして」は,熊本高等学校校歌ほどではないと しても,和風でやや強いトーンから始まり,その後滑らかな西洋音楽的な流れとなり,最後 に再び強さが出てくる,というパターンは,熊本高等学校校歌と類似性がある。 この第三行,第四行部分は,後述するように,一番に限れば, 「行く手」という旧制高等 学校寮歌らしいフレーズがある。しかし,二番,三番に至ると,この部分は,歌詞の面から 見ても西洋風となり,曲と詩が整合するようになる。その一つの要因として,第四行に「お お」という感嘆詞が入ってくるからである。これは,旧制高等学校寮歌を概観しても見当た らない。旧制高等学校寮歌の感嘆詞の常套句は, 「嗚呼」である。この「嗚呼」という感嘆 詞は,日本人の感性に合っているようで,今日でも,歌謡曲等でも,「嗚呼」は頻出する。 現代の校歌でも,無論相当多い。これに対して, 「おお」は少数派である 5。 因みに,アメリカでは, 「Oh!」は,極めて多い。 「おおスザンナ」 , 「愛しのクレメンタイ ン」(Oh! my darling Oh! my darling Oh! my darling Clementine)等,枚挙に暇がないほど である。鈴木栄太郎が,当時すでにアメリカ農村社会学の研究に没頭し,留学先がアメリカ であったことを勘案すると,鈴木は,この最も盛り上がる第四行で,アメリカムードを演出 したかったのかもしれない。そして,そこに,岡野が最も西洋的な楽譜を付けたのである。 逆の見方をすると,この歌詞,曲ともに最も西洋音楽的な面が強調されるこの二番,三番 の第三,第四行は,和風の旧制高等学校寮歌に馴染んでいた当時の生徒にとって,最も違和 感のある,歌い難い部分だったのではないかと思われる。 (2) 歌詞について 1) 作詞者,鈴木栄太郎 作詞者,鈴木栄太郎は,都市・農村社会学者であり,その業績は,日本の社会学の歴史で 「行政 は,今日まで強く刻印されるほどの顕著なものを残した 6。例えば,農村社会学では, 村/自然村」の概念を提起したことで知られている。. 43.

(6) 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編). 鈴木は,第一高等学校(一高)から東京帝国大学に進み,大学院を京都帝国大学で過ごした。 また,アメリカ,シカゴ大学にも留学した。そして,鈴木は,大正 14 年,岐阜高農に教師 として赴任した。教えた科目は,英語,ドイツ語と倫理学である。高等農林学校であるから 故に,教師の大半は理科系であったので,数少ない文科系の鈴木に,作詞の白羽の矢が立っ たのは,極自然のなりゆきであった。 鈴木の経歴からして,若き頃は,一高の寮歌を高歌放吟したであろうし,また京都大学の 大学院で過ごした日々には,第三高等学校(三高)寮歌も聞いたであろう。また,当時アメリ カ研究に熱を入れていたことからして,アメリカの歌も浮かんでいたかもしれない。さらに, "分校"の岐阜高農の"本校"とも言える北海道帝国大学予科の,全国に先駆けた西洋音楽風の 校歌,寮歌の雰囲気も,意識したかもしれない。こうした中で,鈴木の作詞は進行した。 なお,もう一つ付言しておくべきことは,当時の岐阜高等農林学校の教員間の雰囲気,就 中,第二代校長の草場栄喜との関係である。当時,鈴木は 31 歳,草場校長は 53 歳であっ た。当時の思い出について,鈴木(1970)は次のように記している。 「(鈴木は社会学一般の研究からスタートしているが,-筆者注)農村社会学に対する当時の 私の幾分でもの関心は,ただ漫然と自分が農村に関係のある学校に奉職しているという事 情に結びついて生じたに過ぎない。 しかし,私のこの関心に非常な激励鞭撻を絶えず与えてくれた人があった。それは,草場 栄喜先生である。-----おそらく草場先生の鞭撻が無かったら,私は,その後十五年間もこの 領域の研究に専念するほどの関心の深さには,決して至らなかったであろう。その意味で, 草場先生は,私の農村社会学の育ての親である 7。---------当時私が農村社会学に関する拙い 論文を公にする度に先生は私の為にどんなに喜んでくれた事であるか。」 若手の異分野の研究者である鈴木栄太郎を,園芸学を専門とする第二代校長の草場栄喜 は,激励し,鈴木も,これに応えて,従来取りたてて高い関心を抱いていなかった農村社会 学を深く探求していく姿 8 は,学問の分野間の垣根が高くなってしまった現在からすれば, 考え難いことである。当時の,こうした雰囲気の中,鈴木栄太郎は,校長の励ましの下,校 歌作詞を引き受けて,作成に励んだものと考えられる。誠に望ましい学内の協調関係の下で, 校歌は作られたのである。 2) 歌詞の評価 一番 ① 「行く手」 一番の歌詞では,このフレーズが二回出てくる。これは,当時の旧制高等 学校寮歌としては,極めてオーソドックスなフレーズである。 第四高等学校(四高)寮歌「北の都に」では,七番が次のようなフレーズである。 「名もなき道を 行く莫れ. 我らが行く手 星光る」. 第七高等学校造士館(七高)寮歌「北辰斜に」では,四番が次のようなフレーズである。. 44.

(7) 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. 「行く手は万里 雲湧きて 雄途萌ゆる 天(あま)つ日や」 一高寮歌「嗚呼玉杯に」では,五番が次のようなフレーズである。 「行く手を拒む 者あらば 斬りて捨つるに 何かある」 一高寮歌の使い方は,やや変則的であるが,それ以外は,いずれも当時の旧制高等学校の 理想主義を高らかに歌いこんだものであり,それを表すキーワードとして「行く手」を用い ている。この文脈でとらえれば, 「我ら多望の春にして」の一番は,寮歌に慣れ親しんでい た当時の生徒の感覚からすれば,歌詞自体としては,馴染みやすい導入の感がある。 ② 「知るや」 一番の第三行,第四行では,最も盛り上がるポイントで「知るや」が繰り 返し用いられている。若井(2007)によれば,寮歌では,明治 33 年,竹島羽衣作詞の歌「花」 の二番で「見ずや曙. 露浴びて. 我に物言う桜木を. 見ずや夕暮れ. 手を延べて. 我さし. 招く青柳を」が強く影響し, 「 「知らずや」, 「叫ばずや」 , 「聞かずや」など, 「や」で終わる 字句が多用された。鈴木が一番で「知るや」を二回繰り返しているのは,寮歌的なムードを 醸し出し,歌い易い方向に作用している。前出のようにこの部分は,楽譜として最も西洋的 であるため,その曲調の歌い難さを,逆方向に歌詞で緩和する効果があったであろう。 ③ 「静かに」 旧制高等学校が男子,健児等や理想,望み等を強調することから類推して, この「静かに」に,違和感を覚える人も多いかもしれない。しかし,旧制高等学校寮歌では 「静かに」等「静」は,多用され,好まれる。現に,鈴木が岐阜に赴任する前にその大学院 で学んだ京都大学の教養教育課程ともいえる三高では,紅萌ゆる」の最後,十一番の締めは, 「静かに照れり吉田山」である。よって, 「静かに強く備えせん」は,旧制高等学校寮歌ら しい結びなのである。 ④ 「学園」 この部分,戦後,学科によっては「学び舎」と歌っていた時期がある。荒幡 が各務同窓会幹事を務めていた際に,OB の方から「「学園」よりも「学び舎」が正しいので はないか」との質問を受けたことがある。そこで,岐阜大学応用生物科学部の土井守教授の 協力を得て,原譜を確認したところ,間違いなく「学園」であった。寮歌では,基本的に, 土井晩翠風の漢語から,島崎藤村風の和語,という流れがあるので,二つの可能性があった とすれば,理論的に考えても,漢語である「学園」が先(原譜),和語である「学び舎」が後, ということになろう。 二番 ⑤ 「牧牛千里」 この言葉の背景として,現在の飛騨牛を始めとする岐阜県における畜産 振興を連想するイメージを持つとすれば,それは明確に誤りである。飛騨牛は,戦後のこと であり,当時岐阜県は,養鶏,養豚に至るまで,ほとんど畜産がなかった。 「牧牛」が強調されている理由としては,ここでは,次の三つの可能性を指摘しておく。 第一に,岐阜高農に対して,分校に対する本校の関係にある北海道帝国大学では,札幌農 学校以来,牧畜を重視していたことによるものである。因みに, 「都ぞ弥生」も,同じく二 番で「羊群声なく牧舎に帰り」とある。 第二に,大正期,愛知県安城は, 「日本デンマーク」と言われるほど,ヨーロッパ畜産の. 45.

(8) 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編). 導入が盛んで,全国的なモデルであった。その近隣たる東海圏としての岐阜で,他地域以上 に畜産振興ムードが強かった可能性である。 見方によっては,当時,全国的に見ても,牧畜奨励ムードであったことを窺わせる史料も ある。例えば,明治 45 年の帝国議会衆議院議事録によれば, 「山陰高等農林学校設置に関す る建議案」の審議を見ると, 「(鳥取は,交通は不便だが)「山陰道の地形上山林に富み,かつ, また古来牧畜農業の早く開けし等の関係より,この地方の状況に最も適したる高等農林学 校の設立を得」とある。当時鳥取が,全国的に見て牧畜先進地であったとは言い難いが,文 部省の官立高農の設置・教育方針と時流に乗るために,牧畜を強調したものとみられる。 第三に,第二の理由とも関係するが,第二代校長の草場栄喜の前任地,新潟県立加茂農林 学校(現加茂農林高等学校)の校歌には,「牛羊むれ行くあしたの牧に. 平和を染むるか緑の. 小草」とある。新潟県加茂市は,水田,しかもかつては腰まで水に浸かって田植えをした, というような湿田地帯で,牧畜には不適である。それにもかかわらず牛と羊が校歌に描写さ れていることからして,農林教育で,牧畜振興が如何に重視されていたかがわかる。場合に よっては,草場校長が前任地,加茂農林学校の校歌を気に入っていたとすれば,鈴木に参考 としてこの歌詞を渡していた可能性もある。このような側面からの影響もあり得る。 以上のような背景があったので, 「我ら多望の春にして」の二番で,このように牧牛が協 調されていることは,不自然ではない 9。とはいえ,二番における「牧牛千里」の背景につ いては,なお一層の解明が必要であろう 10。 三番 ⑥ 「祈らんよりも培えと」 三番は,アメリカ民主主義思想の源流とも言える「トマス・ ジェファーソンの思想」と,札幌農学校に流れるキリスト教の「プロテスタンティズム」が, 最も色濃く出ている部分である。 アメリカ建国の父,トマス・ジェファーソンは,その著書,ヴァージニア覚書等によれば, 「アメリカ家族農業経営は,民主主義の学校」と述べたとされる。それは,今日でもしばし ば語られるフレーズである。その趣旨は, 「自主独立の精神」と「勤勉」を育むのが,他な らぬ家族農業経営であるから,とされている。また,プロテスタンティズムも,こうした勤 勉精神を讃える。これらが,一番から三番での歌詞全体の最後の締めの部分に出てくる。こ のことは,既にアメリカ社会学に傾倒し,ある程度の憧憬も抱いていた鈴木の想いが強く出 たとしても妥当である。また,岐阜高農の設立に強い影響力があった北海道帝国大学の関係 者の指導精神が表出したとしても妥当である。 なお,「培う」は,寮歌で好んで使われる表現である。例えば,四高寮歌「北の都に」で は, 「髪は緑の青年が情けの園に培いし(「耕いし」と表記することもあるが,読みは「つち かいし」)----友垣や」とある。更に, 「都ぞ弥生」も,五番で「尊き野心の教え培い」とある。 ⑦ 「人世」 この部分は, 「ひとよ」と読む。原譜でも,そのことが確認できる。今日の 感覚からすれば,何ら不自然はないが,大正 15 年当時,寮歌の世界では,異例である。旧 制高等学校寮歌では, 「人世」は, 「じんせい」と読むことが通例である。. 46.

(9) 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. 一高「嗚呼玉杯に花受けて」 「ひとたび立たば 何事か 人世の偉業 ならざらむ」 一高「仇波騒ぐ」 「友の憂いに我は泣き 我が喜びに友は舞う 人世意気に感じては---」 「ひとよ」と読ませるのに近い読み方としては,北海道大学恵迪寮歌,「都ぞ弥生」では, 「人の世の」:「ひとのよの」と読ませている。 全体として ⑧. 「雄健」に関係する語句がないこと 高橋佐門(1978 )によれば,旧制高等学校寮歌の歌詞としての特徴は,二つ,第一に, 「雅. 正であり格調高いこと」 ,第二に「雄健であること」 。このうち,鈴木の歌詞は,少なくとも 格調高く,学生の理想と進むべき道を高らかに歌い上げており,この意味では,旧制高等学 校の寮歌の伝統的な側面を持っている。 しかし, 「雄健」という側面では,こうした字句が全く見られない。このことが,歌詞全 体として,伝統的な寮歌ではない雰囲気のトーンとして響く方向に強く作用している。因み に,北海道大学恵迪寮歌「都ぞ弥生」にも,この「雄健」に相当する語句が見られない。 下道(2012)は, 「都ぞ弥生」の曲自体が,生徒の作曲であるにもかかわらず,当時として は先進的な西洋音楽としての洗練性があったことが,数ある寮歌の中で,現代の学生にも受 け入れられる素地となっていることを指摘した。 「我ら多望の春にして」は,生徒ではなく, 作曲家,岡野貞一の作曲であり,比較の対象にはならないが,結果的には西洋音楽の系譜と して作られていることは事実である。そこで,両者共通して,歌詞の面で,いずれも,いわ ゆる寮歌の精神のうち「雄健」に相当するフレーズがないことは,歌詞と曲の両面からして, 現代における男女共学の大学の校歌として,高い受容性に結び付いているものと見られる。 因みに,旧制高等学校の他校の校歌,寮歌で,雄健を歌った語句を見ると,次のようである。 一高 春爛漫「秀麗の地に健児あり 勤倹尚武の旗の色」 四高 北の都に「主義を愛して死するてふ 男子の意気地今もなお 岩に砕きて砕き得じ」 五高 武夫源頭に「健児が胸に青春の 意気や溢るる五高魂 その剛健の質なりて」 なお,三高「紅萌ゆる」は,全体としては,「健児」等の語句はほとんどないが 11,最後 の十一番で「見よ洛陽の花霞. 櫻の下の男の子等が. 今逍遙に月白く. 静かに照れり吉田. 山」と締めくくっている。やはり男子のみが歌うことを想定している。 なお,この「我ら多望の春にして」と「都ぞ弥生」がともに「雄健」に関する字句を入れ ていないことの背景については,別稿で詳しく論ずる。. 4.結論 大正 15 年当時,歌い易い曲調は,テンポのゆっくりした短調であった。しかし,岐阜高 農の校歌は,長調であり,歌い難いものであった。歌詞も,三番はプロテスタントの勤勉思 想も入り,馴染みにくいものだった。岡野貞一が作曲を引き受けた経緯については,岡野が 鳥取の教会で洗礼を受けた際の宣教師 George Rowland の息子である Paul Rowland が,. 47.

(10) 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編). 作曲当時,北海道帝国大学予科の英語と音楽の教師をしていたことが少なからず影響した ものと考えられる。作詞者,鈴木栄太郎は,当時の第二代校長,園芸学の草場栄喜から,鈴 木の社会学研究に関して鞭撻激励を受けていた。学内は,教員間の協調関係があり,好まし い雰囲気の中での作詞であった。. 【注】 1) 共著者 5 人の専門領域と作成過程について述べる。荒幡は,社会経済史が専門である。 下道は,音楽教育を専門とする中で,旧制高等学校寮歌について特に詳しい。廣内は,高 等教育の歴史的展開,西尾は,音楽教育,特に作曲について研究を深めている。杉山は, 岐阜高農の歴史に詳しい。作成過程として,主筆は荒幡が担当し,着想・構想段階では, 下道の助言を受けて,論文全体の分析フレームを設定した。アウトラインを書いた後に, これに対して,それぞれの専門の立場から,廣内,西尾,杉山が助言する,という形で進 めた。最後に,下道が,総合的に助言し,これらを踏まえて加筆修正する,という手順で 論文を仕上げた。 なお,この他,岐阜大学応用生物科学部,土井守教授からは,岐阜高農の開学当初の教 務関係資料, 「岐阜高等農林学校一覧」(大正 15 年度)の提供,岐阜大学,福井博一副学長 からは,校歌制定当時の第二代校長,草場栄喜関係資料の提供を受け,また,岐阜高農の 校歌が,大学全体の愛唱歌として採用された際に,その編曲を手掛けられた,作曲家,小 見山朋子氏からは,編曲時に感じた曲の性格等につき,感想をお聞きした。各位のご協力 につき,記して感謝の意を表したい。 2) 「創立 50 周年記念誌」(1974)には関係記述がなく, 『岐阜大学農学部六十年史』(1983, pp108-110.)では,校歌制定に関する記載があるものの,経緯に関する説明はない。 3) 長野県には,岡野作曲の校歌が多く,松本深志高等学校(大正 11 年)や上田高等学校(大正 11 年)等 7 校に及んでいる。中でも,下高井農林高等学校校歌(大正 15 年)は,岡野作曲の 歌の中でも最も著名な唱歌「ふるさと」と同じコンビ,高野辰之作詞である。なお,本文 中に掲げた東北,新潟の三校は,いずれも作詞は土井晩翠である。このコンビは,概して 東日本に多い。一方,佐々木信綱とのコンビは,中・西日本の校歌に多い。 4) なお,校歌制定時の第二代校長,草場栄喜は,岐阜に来る前に,新潟県加茂農林学校の 校長も務めている。加茂農林学校校歌は,明治 41 年の岡野の作である。しかし,現加茂 農林高等学校の website によれば,当時の加茂農林学校の赤星校長と東京音楽学校の湯 原校長とが懇意であったことから依頼した,とされているものの,作曲者が岡野であるこ とが判明したのは,かなり後になってからのことである,という。草場は,加茂農林学校 の校歌が東京音楽学校に依頼してできたことは知っていたが,岡野貞一の作であるとは 知らなかったものと見られる。草場が,もし前任の加茂農林学校の校歌を大変気に入って いたとすれば,東京音楽学校に頼むとよい,ということで原案で方向を示したかもしれな. 48.

(11) 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. いが,せいぜいその程度で,岡野貞一作曲となった背景は,やはり Paul Rowland の影響 が最も大きい,というべきであろう。 5) 大正 9 年に出来た明治大学校歌, 「白雲なびく駿河台」は, 「おお明治 その名ぞ我等が 母校 おお明治 その名ぞ我らが母校」と歌う。しかし,正式な歌詞自体には,この「お お」は,書かれていない。一方,昭和 5 年に出来た法政大学校歌, 「若き我らが命の限り」 では, 「法政おお我が母校 法政おお我が母校」と歌詞にも明記されている。ただし,第 二行では「ここに捧げて 嗚呼愛する母校」と歌う。即ち,大正 15 年の時点では, 「お お」と歌詞として明記する校歌は,他にもあったかもしれないが,極めて稀であった。 6) 富永(2004)によれば,鈴木栄太郎は,高田保馬,戸田貞三とともに,(日本の戦前社会学 の)「ビッグスリー」と言われた。 7) 三浦(1998)によれば,鈴木は,これを機に,農村社会学研究に本格的に取り込み,美濃 平野の現地調査を頻繁に行った,とされている。 8) 岐阜高農への赴任が鈴木栄太郎の社会学者としてのキャリア形成においても,一つの転 機であったことは,他の研究者も,そのことに論及している。例えば,松尾(2015, pp.233237.)参照。 9) ただし,学科配置からすれば,他校と比較して,岐阜が特別に牧畜重視ではないことは, 指摘しておく必要がある。 「岐阜大学農学部六十年史」(1983)に記載されているように, 旧制高等農林は,初期に創設された盛岡,次の鹿児島はさておき,大正 10 年以降,岐阜 とほぼ同時期に創設された五校については,それぞれ特色を出すように配慮された学科 配置となっていた。農学科は五校全てにあるが,これ以外の林学,獣医,農業土木,農芸 化学のうち,鳥取は,農芸化学,三重は農業土木,林学,宇都宮は林学の他に,農政経済 という独自の学科,宮崎は,林学の他に,畜産という独自の学科の構成であった。こうし た中で,岐阜は,林学,農芸化学(後に獣医)を配置した。他校との比較では,鳥取ととも に,全国で二校,農芸化学を配置したことが特徴である。この学科配置からすれば,岐阜 が特に牧畜を重点化した教育分野としていた訳ではないことがわかる。 10) 別の見方として,宇都宮(1996)は,寮歌には,理想主義,浪漫主義,叙情主義の三つの 要素があるという。この解釈に従い「我ら多望の春にして」を見ると,一番と三番では, 理想主義が強調され過ぎている感がある。このため,二番は,バランスを取る意味で,叙 情主義の系譜として,高嶺,自然児等の描写の一環として,「牧牛千里」という語句が用 いられている,との解釈もできる。なお,こうした解釈に立つならば,岐阜大学農学部六 十年史により確認すると,当時キャンパスの北側に線路を隔てて,放牧地があり,牛が飼 養されていたことが,写真とともに確認できる。こうしたことが,作詞者,鈴木の心境に も影響した可能性もある。 11) 若井(2007)によれば,三高は,意識的に「健児」という語句を避けてきたという。 【引用文献】. 49.

(12) 岐阜大学愛唱歌「我ら多望の春にして」の源流を訪ねて(上編). 宇都宮新,(1996), 「寮歌の歴史」 ,旧制高等学校資料保存会,(1996), 『日本寮歌大全』 ,旧 制高等学校資料保存会編纂,pp.77-95. 岐阜大学農学部,(1974), 「創立 50 周年記念誌」 ,岐阜大学農学部創立 50 周年記念実行委 員会。 岐阜大学農学部創立 70 周年記念誌編集委員会,(1994), 「目で見る 70 年の歩み」 ,岐阜大 学農学部創立 70 周年記念事業会。 旧制高等学校資料保存会,(1996), 『旧制高等学校寮歌集』,旧制高等学校資料保存会編著。 旧制高等学校資料保存会,(1996), 『日本寮歌大全』 ,旧制高等学校資料保存会編纂。 作道好男・作道克彦編,(1983), 『岐阜大学農学部六十年史』 ,教育文化出版。 下道郁子,(2009), 「大正時代の第一高等学校の寮歌の研究 : 旧制高等学校の教育と音楽的 側面からの検討」, 『研究紀要』東京音楽大学,33,pp. 23-41. 下道郁子,(2009),「明治 20 年代~40 年代の旧制高等学校の音楽教育-特に第一高等学校 の音楽活動を中心に-」 , 『音楽教育史研究』, 11,pp.39-51. 下道郁子,(2012), 「 「七大学をめぐる歌」“都ぞ弥生,後編”」, 『U7』 vol.42,February 社 団法人学士会刊,pp.58-65. 下道郁子,(2012), 「幸運な寮歌「都ぞ弥生」 」,大学教育学会第 34 回 大会発表要旨集,付 録 2,pp.130-131. 下道郁子,(2013), 「寮歌の形成過程と文化的背景-「花は櫻木」から「都そ弥生」まで」 , 『研 究紀要東京音楽大学,(37),pp. 25-47. 下道郁子,(2018), 「明治から大正期の恵迪寮『寮歌集』にみるアメリカとドイツの学生歌 の影響」 , 『研究紀要』東京音楽大学,(42) pp.107-129. 鈴木栄太郎,(1970), 「私の農村社会学の揺籃期」 , 『鈴木栄太郎著作集,第四巻, 「農村社会 の研究」 』 ,付録・月報,第四巻,(原文は, 「岐阜農林高等学校創立 15 周年記念誌」(1939 年),pp.6-7. 高橋佐門,(1978),『旧制高等学校研究: 校風・寮歌論編』,昭和出版。 帝国議会衆議院,(1912), 「山陰高等農林学校設置に関する建議案」,『衆議院議事速記録』, 第 17 号(官報号外),明治 45 年 3 月 8 日付,pp.275-277. 富永健一,(2004), 『戦後日本の社会学』 ,東京大学出版会,pp.27-33. 名取太郎・間々田和彦,(2006), 「岡野貞一氏作曲校歌研究Ⅰ: 岡野貞一氏作曲校歌・校名一 覧」 ,筑波大学付属盲学校, 『研究紀要』 ,39 巻,pp.51-63. 松尾浩一郎,(2015), 『日本において都市社会学はどう形成されてきたか』 ,ミネルヴァ書 房,pp.233-237. 三浦直子,(1998), 「鈴木栄太郎-農村・都市社会学の開拓者-」,川合隆雄・武村英樹編, 『近代日本社会学者小伝-書誌的考察-」 ,勁草書房,pp.369-376. 若井勲夫,(2007), 「旧制高等学校寮歌の言葉と表現」 , 『京都産業大学論集』 ,37 巻,pp.188158.. 50.

(13) 岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第5号 2019年. Study on the "Warera Tabou no Haru nishite (With our boundless and cherished ambitions in spring)": part 1; The composer and writer of lyrics. Katsumi Arahata1, Ikuko Shitamichi2, Daisuke Hirouchi3, Yo Nishio4, and Michio Sugiyama5 1) Faculty of Applied Biological Sciences, Gifu University 2)Faculty of Music Education, Tokyo College of Music 3)Organization for Promotion of Higher Education and Student Support, Gifu University 4)Faculty of Education, Gifu University 5)Professor emeritus, Gifu University Abstract The original song of the Gifu University's student-song, "Warera Tabou no Haru nishite (With our boundless and cherished ambitions in spring), is the alma mater song of the Gifu Koutou Nohrin Gakkou (the Gifu Technical College for Agriculture and Forestry). Although the name of the composer and the writer of lyrics and brief stories of their careers have been known to some extent, the backgrounds of their personalities have not been clarified. The purpose of this study is to investigate these backgrounds by checking historical documents. Major findings of this study are as follows: First, in those days, most of popular songs were those with slow tempo and in the minor key. Nevertheless, the alma mater song was in the major key, though it was surely with slow tempo. In addition, its lyrics included the spirits of the Protestantism, such as putting importance on hard working. This might have negatively affected its fondness for this Alma Mater. Secondly, it was verified that the composer, Mr. Teiichi Okano was baptized by George Rowland. His son, Paul Rowland was the composer's friend and his position at the day was a teacher of English and Music at the Hokkaido University. Since the Gifu Koutou Nohrin Gakkou was supervised by the University, the relationship between Rowland and Okano may surely affect the acceptance of the order of composing the alma mater song from the college.. Key words: Teiichi Okano, western-style music, Eitaro Suzuki 51.

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参照

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