論文以外のコンテンツ
雑誌名
東洋大学史紀要
号
4
発行年
1986
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002568/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja%
日 次
講演寺崎昌男 日本における大学史研究の動向と課題1
一大学沿革史編纂を中心として一 論文 針生清人 井上円了の思想(一)35山内四郎 井上円了の支那古伝説の研究63
報告 資料収集の現状と課題 73円了の生地を訪ねて 資料採訪 107
彙報 収集資料一・覧(購入図書 寄贈交換図書 寄贈資料)133編纂室日誌143
昭和59・60年度業務報告150
東洋大学創立100年史編纂室
1986
箱根合宿報告
資
料
収集の現状と課題
東洋大学創立一〇〇年史編纂室
一、?ェ合宿の日程
日時 昭和六〇年七月一六日︵火︶∼一八日︵木︶
場 所 東洋大学箱根保養所 参加者 一六名 ︵目次部会長︶菊浦重雄、︵図録一〇〇年小史部会長︶坂詰力治、︵記念映画部会長代理︶ 清沢文彌太、︵編纂室︶齋藤繁雄、河村孝照、北村嘉行、谷口房男、比嘉祐典、松園宣郎、 中島宏、山内瑛一、新堀徳子、︵事務局︶落合洋、山田一宇、佐川武義、鈴木俊光。内容 第一部︵七月一六日午後八時∼一〇時︶
合宿日程の打合わせ 一、合宿の趣旨と目的 編集長一73一
二、合宿日程の確認 三、配布資料の説明 四、一〇〇年史編纂の今後の進め方について 第二部︵七月一七日午前九時∼一二時︶ 年史編纂と資料 一、資料収集の重要性 二、公的機関資料の収集 三、学内資料の収集 四、大学関係者所蔵資料について 五、一般雑誌・新聞等の関係記事 六、学内事務局資料の現状 七、本学および他大学における文書管理規定について 第三部︵七月一七日午後一時∼三時三〇分︶ 資料の収集・整理・利用・管理・保存の現状と課題 一、資料の収集・整理状況 二、資料の利用︵資料目録・資料集・資料編︶ 北村 各担当者 北村・谷口 司会ー北村 谷口 新堀 中島 松園 山内 落合 山田 司会ー比嘉 新堀 谷口
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三、資料の管理・保存 第四部︵七月一七日午後六時∼八時︶ 年史編纂の現状と今後 一 二、 三、 四、 五、 全般的状況
通史1・u
通史㎜︵部局史︶ 図録一〇〇年小史 記念映画 第五部︵七月一八日午前九時三〇分∼=一時︶ 年史編纂の今後の課題と展望二、合宿の目的と年史編纂の問題点︵第一部から抜粋︶
山内 司会ー谷口 編集長 菊浦・北村 松園 坂詰・比嘉 清沢・河村 司会ー河村 ∧今回のテーマ∨ 今回お集り頂いたのは、一つは、われわれの創立一〇〇年史編纂のための資料収集の必要性とその方法 についての検討ということです。資料収集では、ご承知のとおり公文書と私文書の収集がありますが、公的機関 所蔵の公文書につきましてはお陰さまでかなりの収集と整理がなされ、今年中にはそれらを資料集として印刷し一75一
たいと考えている次第です。しかしながら、公的機関所蔵の公文書でも全部の収集が終ったというわけではござ いませんので、残りのものはさらに今後、収集を続けていくことになっています。 ところで本日、合宿でどうしても皆様がたのいろいろなご意見を伺って詰めていかなくてはならないのは、学 内文書収集の問題です。これは、各事務局・研究所・研究室等々の学内資料、それから校友会・父兄会・京北学 園.付属高校等の資料収集で、これらはほとんど手がつけられないで今日まで来ております。 宝月先生のお話ですと、学内文書の収集、部局史の編纂がひじょうに大事なのですが、これはどこの大学でも 困難であるとのこと。その困難なところをわれわれは、今年、どうしてもやらざるを得ない。ところがやるにつ いては、すぐ各部局へ行って﹁見せて下さい﹂とか、何とか言うわけにはいかない。どうやったらいいのか、と いうことをここで十分討議して、詰めて頂きたい。これが、第一番目の目的でございます。 第二番目は、集めた資料をふまえた上での年史編纂についての今後の展望という問題があろうかと思います。 そして第三番目は、今回の合宿の成果を﹁東洋大学史紀要﹂第四号に掲載したいと考えていることであります。
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∧当面の諸問題V l 本当は順序が逆でして、明日の晩お話をしたいことなのですが、明日はお帰りになる方がいてメンバー が揃わないので、今日、懇談というか雑談という形で相談させて頂いたらと思います。 それは、昨日も編纂室のなかで話をしたのですが、今後、具体的に進めていくうえでの、要するに組織と予算の問題なのです。⋮⋮⋮組織上の問題では、いま事務局があってそのもとに事務課があり、横に編纂室がおかれ ているような恰好になっている。この恰好がぼつぼつ問題ではないか。少くとも来年以降とか来年度予算の作成 という段階では、何らかの措置をしてもらわなければどうにもならないのではないか、という気がするのです。 そうしないと、人の問題とか金の使い方の問題でどこの誰に相談したらいいのか、現状ではちょっとあいまいな 点がある。もう少し簡単にいえぱ、やりやすいかたちに整理してもらえないか、というのが組織上の問題です。 予算の問題としては、一〇〇年史編纂のためには、いったい総額いくらになるのか。そのうち既に、映画に二 九〇〇万円ということが決まりましたけれども、では残りは通史でいくら使えるのか。図録はいくらぐらいを目 標に使っていったらいいのか。その割りふりはどうしたらいいのか。仮りに割りふりが決まったとして、その割 りふったもののコントロールを誰がどこでやるのか。それから⋮⋮⋮予算に関係しているもう一点は、とりわけ 通史なのですけれども、図録も部局史も同じように問題は出てくるのですが、::⋮:たとえば通史を書くときの 執筆者はどういう位置づけにして、執筆の原稿料は払うのか払わないのか。払い方はどうするのか。それから、 執筆者のほかに編者というのがいると思うのですが、編者というのはどういう責任と権限を持って、それに対し てどう対処をするのかということが出てきます。 − いま一番あいまいなのは、事務局と編纂室の関係です。これをどういうふうに組織的に繋げれば一番ス ムーズにいくのか。これは、現段階の創立一〇〇周年記念事業委員会の組織の下におけるそれぞれの組織関係の 問題で、これは基本姿勢を修正しなければ、現状ではどうしょうもないということです。⋮・::・創立一〇〇年史
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編纂委員会の直系としての編纂室ができれば、問題はないのです。 ところが、編纂室そのものが大学事務局の⋮機構のなかに位置づけられる云々、ということになってこないと、 外郭団体的な組織では思うような予算執行ならびにそれぞれの機関との同格的な執行のあれ︵権限?︶が持てな いんです。それを部局に位置づけるためには、どうしても編纂室には専任の編纂室長が必要だということです。 ここにおられる編纂室兼任の先生方ならびに各部会長さん方で、思いきって編纂室長になって頂ける方がいれば、 一番解決しやすいのです。 1 編纂室自身に予算があるのかないのか、これをまず。 ー 予算は編纂室にも配分されています。予算の執行は事務課です。 だからその事務課がどこの事務課かというと、編纂室の事務課ではないのです。そこに、問題があるわ けです。事務局の事務課なのです。 第二点目の予算の件ですが、年史編纂に一億五〇〇〇万円。その場合の柱は五本、大きくいうと三本で す。いわゆる通史編1・Uと通史編田と資料編、それから図録一〇〇年小史、それと記念映画の三つです。そ れの配分について、現時点での大きな枠組は算定しておくべきではないか。 ー 映画についてやっと三〇〇〇万円というフレームができました。図録についてどこまでのキャパシティ でやるか、というフレームができないのに、なんで予算の配分ができるのか。⋮⋮⋮ある程度のフレームができ てきて初めて、じゃ図録に行こう。そうすると、映画に三〇〇〇万円、図録にたとえば五〇〇〇万円、あと残り
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を年史にというように、大体おおまかなフレームを作っていかないと。今は、分け方が決まっていないのです。 それとも、大体員数を倒して、映画に三〇〇〇万円、図録に三〇〇〇万円、残りは通史に配分して、予算の枠の 中で業務をきちっとやっていくかたちをとるのか。 やはり合理的な方法でやっていくとすれば、まずフレームを作ってもらって、フレームに対して予算を入れて いくというかたちにしなくてはならない。ところが、まだフレームそのものが⋮:・⋮。
三、年史編纂と資料︵第二部から抜粋︶
∧資料収集の重要性∀ 79 1 まず、資料の収集・保存の重要性について六点にわたって指摘してみたい。 第一点目は、本学において既に二つの年史、すなわち五〇年史と八〇年史が編纂されており、それらと今回編 纂されようとする一〇〇年史と最も相違するものとしては、客観的で科学的な年史であるか否かということにな ると思う。いうまでもなくそれは、資料に裏打ちされた史実に基づく記述になっているかどうかによって決定す るだろうと思う。 第二点目は、わが大学の従来の年史編纂の際に、少なからず資料の収集がなされたと思われる。しかし、それ が今回の年史編纂に利用できるような状態に必ずしもなっていない。 第三点目は、年史編纂といった観点からだけではなく、本学においては、学内の業務上からも文書の管理.保管.保存体制が整っているとは言いがたい。今回の年史編纂にあたっては、意識的・集中的に文書類を中心とし た資料の収集整理が、重要な作業となるであろうと思われるわけです。 第四点目は、本学のみならず他大学でも同様に指摘できることであるが、創立一〇〇周年を迎え、いわゆる一 世紀を刻む大学にあって、自己の歩みを顧るための資料の収集整理・保存管理の必要性が叫ばれ、取組まれてい る。とりわけ創立一〇〇周年記念事業の一環として位置づけて、収集資料を保存するための資料センターの設立 なども十分考えてみる必要があるのではないか。 第五点目は、それと関連しますが、特に指摘しなければならないこととして、他大学の場合、一〇年計画で資 料の収集に取組み、収集資料の整理が完了した段階で年史の執筆に取組む。それがまさに一〇〇周年の事業であ る。:⋮・:・それが本学の場合は、同時に並行して作業に取組まれている、というのが今の状況です。ここのとこ ろは、明確に確認しておかなければならないのではないか。 最後に第六点目としては、年史編纂にあたって、資料の収集整理は文献資料ばかりではない。これはいうまで もないことですが、口承資料も重要な一端です。⋮⋮⋮なお、単に聞取調査のみならず、戦前の学友の方々から の当時の講義録をはじめ、種々の文献や写真を収集することは、今日をおいてほかにはないだろうと思われます。 ︹配布資料ー﹁﹃資料編﹄編纂過程﹂︺ 1、﹃資料編﹂の作成要綱を編纂室で検討 2、編纂委員会の承認
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3、資料の原稿化 4、印刷・校正 5、﹃資料編﹄完成 編纂室を中心として学内・学外の諸資料の収集・整理・保存・閲覧につとめる。 なお、各部会の協力を得て諸資料の収集につとめる。 資料散在ー←資料収集ーー←資料整理 ←資料保存・閲覧 学内− 学外− −教口早 職員 学生 −役員 −校友 機関 −個人−
写真
遺品
−・遺物 ー − 3 2 資料目録 資料集 資料編一81一
︽公的機関資料の収集∨ ︹配布資料ー﹁年史編纂と資料ー公的機関資料について﹂ 抄︺−、資料の性格 ︵ア︶ 公的機関資料とは、公文書館などいわゆる公的な機関に所蔵されている東洋大学関係の公文書類のこと である。具体的には、⇔ 官庁から本学に下付された下達文書、例えば東洋大学の設立、教員資格・徴兵猶予等 の特典、学則変更などに対する認可・認定や命令などの文書類であり、口 本学が監督官庁へ提出した上申文書、 例えば東洋大学の設立、各種の資格認定、特典獲得などのための申請・陳情・願、また官庁の指令によって作成・ 提出した届・報告などの文書類である。 ︵イ︶東洋大学に関するこれら公文書︵戦前のもの︶は、おもに東京都公文書館と国立公文書館に所蔵されて いる。 2、収集・整理状況 編纂室がこれまでにこれら両公文書館から収集した公文書は、明治二〇年の哲学館創立から昭和二五年前後ま でのものである。⋮⋮⋮公文書のコピー収集はすでに終っており、それを整理︵カード化︶し資料封筒にいれる 作業については、東京都公文書館が完了し、現在、国立公文書館の方を継続中である。この作業の間に、両公文 書館に出向き収集もれがないかどうかの確認調査をおこない、国立公文書館の場合、]、二の再確認事項がある ものの、東洋大学に関する文書は両公文書館とも、そのほとんどが収集済みであることを確認した。なおこの場 合には、東洋大学に限らず、参考として京北幼稚園・京北中学・京北実業などの関係校の文書も収集している。 3、Aフ後の課題
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これらの公文書類は、東洋大学の教育・学校制度の変遷や組織を実際にあとづけるものであり、また日本の教 育制度の中における東洋大学の対応などを直接に知りうる資料といえる。こうした資料の重要性から、特に東京 都公文書館所蔵文書については、他大学︵早稲田・明治・専修・中央・法政など︶においてもすでにその収集と 活字化を行なったり、あるいはこれらをまとめて﹃資料集﹄として刊行したりしている。⋮⋮⋮今後、両公文書 館所蔵の東洋大学関係文書をまとめた﹃資料集﹄のようなものの刊行が本学でも是非必要と思われる。とりあえ ずこの夏休みには、すでに収集・整理した東京都公文書館所蔵文書について、その原稿化をすすめたいと考えて いる。 これは今後の作業になると思うのですが、文部省なり東京都に申請したものが、実際にはいちゃもんを つけられたり、認可されなかったりした事情があるはずたと思うのです。いまだにそうだけれども、文部省はむ かしはもっと官僚的なにおいが強かったと思うし、教育制度を確立しょうとした時期だから、申請した側の資料 と認可された側の資料の食いちがいがあるはずだと思う。それは、日本の教育制度の根本的な問題だろうと思う ので、それこそ客観的・科学的にそういうものを集めて、分析して欲しいですね。
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∧学内資料の収集∀ ︹配布資料 ﹁学内︵事務部局︶ −、基本的観点 資料収集についてL抄︺2、学内資料の種類 内容的には、①事務部局関係資料、②研究室関係資料、③学生関係資料の三つに大別できる。 3、創立一〇〇年史編纂室における事務部局資料の収集状況 4、収集の基本方針・方法 ︵1︶事務部局の資料保管・保存状況 全体として昭和三〇年代以前の資料は極めて少ない。特に戦前のものは、学籍簿・成績原簿等最重要書類 を除いては皆無に近い。一方、昭和四〇年代以降のものは、かなりまとまって残っている。 ︵2︶基本方針 1、各課︵室︶単位に収集する。 2、資料のコピーを収集し、原資料は収集しないことを原則とする。 3、管掌業務上重要であるとともに、保管・保存状況も比較的よい秘書課・庶務課・学事課・経理課から 重点的に収集する。 ︵3︶ 具体的方法 1、戦前の資料 全ての資料についてリストと、学籍簿・成績原簿を除いたもののコピーを収集する。原資料は各事務部 局で保存し、将来、資料センターのようなものが設置されれば、そこに移管し、保存していきたい。
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2、昭和二〇∼三〇年代の資料 全ての資料についてリストと、学籍簿・成績原簿を除いたもののコピーを収集する。原資料は各事務部 局で保存する。 3、昭和四〇年代以降の資料 リストのみ収集し、資料については必要と思われるものをリストから検索して、そのコピーを収集する。 原資料は、各事務部局で保管する。 ︵4︶資料リストについて 各事務部局の事務室・倉庫に保管・保存されている資料について、その内容を知りうるリスト︵一覧表︶ を作成している事務部局は極めて少ない。今後なるべく早く、各事務部局でリストが作成されるよう要望 する。 ︵5︶問題点 5、今後の課題 ︵1︶ 文書管理規定について ︵2︶ 研究室関係資料・学生関係資料の収集について ︵3︶資料センター設置について 収集された資料については、独自の管理体制のもとで保存していかなければならない。このような機関と
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しての資料センターの設置が望まれる。 ︹配布資料ー﹁創立一〇〇年史編纂室収集学内 ︵事務部局︶資料一覧L略︺ ∧学内事務局資料の現状V ︹配布資料ー﹁総務部庶務課保存資料、昭和六〇年七月一三日﹂︺ 現在、総務部庶務課で保存している資料の中で、一〇〇年史編纂等に参考となる資料は概ね次のものと考えら れる。 1、申請書・届出書 学部・学科・大学院・付属高校の設置・改廃、課程認可、定員増、学則変更等の申請書および届出書の控えは、 別紙のとおりである。︵学則変更届を除く︶ 現在、概ねの仕訳が終った段階で、体系的にはまだ整理されていない。今年度内には整理を完了する予定。 なお、併存している申請書および届出書は新制大学以後のもので、旧制大学時代のものは庶務課において保存 していない。
u、認可書
文部省からの認可書は次の二分冊の綴で保存しているが、①の方は体系的に製本されていないので、今年度内 には整理し、製本をやり直すことにしている。一86一
なお、保存している認可書は申請書等と同様に新制大学以後のものである。 ︵1︶認可書綴① 明治四〇年四月∼昭和五〇年三月 ︵2︶認可書綴② 昭和五〇年四月∼現在 田、学則変更届 学校教育法施行規則に基づく学則変更届の控えは、次のとおりである。 なお、 ︵1︶ ︵2︶ ͡3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ W、 現在、 昭和四六年度以前のものは見当たらない。 大学学則変更届① 大学学則変更届② 大学院学則変更届① 大学院学則変更届② 短期大学学則変更届① 短期大学学則変更届② 通信教育部規定変更届① 通信教育部規定変更届② 昭和四七年度∼昭和五八年度 昭和五八年度∼現在 昭和四七年度∼昭和五八年度 昭和五八年度∼現在 昭和四七年度∼昭和五八年度 昭和五八年度∼現在 昭和四九年度ー昭和五八年度 昭和五九年度∼現在 寄付行為・学則等の諸規定 庶務課で保存している学内諸規定のファイルは次のとおりである。 昨年度、今までのファイルを体系的
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に整理したものである。しかし、まだ完全に整理が終った状態ではない。︵○印のあるファイルは未完成︶ なお、昭和二〇年、三〇年代の規定に欠落が多い。庶務課でも、欠落部分の補完については機会あるごとに努 力しているが、遅々として進まない状況にある。 ︵= 寄付行為① 昭和二六年度∼昭和五五年度 ○︵二︶寄付行為② 昭和五六年度∼現在 ︵三︶大学学則① 昭和二四年度∼昭和五七年度 ︵中 略︶ ︵四二︶廃止された規定 昭和五六年一二月以後
V、広報
東洋大学広報 第一号∼第一九六号︵最新号︶W、調査
文部省等へ提出した各種の調査の中で利用できるのは、﹁学校基本調査︵指定統計第一三号︶﹂だけではないか と考えられる。 なお、学校基本調査は昭和三七年度以降、昭和六〇年度まで揃っている。 ︹配布資料ー﹁申請者リスト﹂四枚二五七件、略︺ ︹配布資料ー﹁大学院設置認可書︵写︶﹂略︺一88一
それから最後に、ここには書いてありませんが、公文書関係です。これはひじょうに重要な問題の一つ ですが、現在の段階では公文書扱いにつきましては、発信・受信ともに、昭和四七年後半からは、一応、庶務課 のほうで保存されております。ただ、体系的に取扱っておりません事情から、これもまた欠落部分があるんです が、一応、公文書なるものは各部課に分散されて、重要文書の一つとして保管されているのではないかと思いま す。これも体系的に、これから庶務課を中心に各部課の協力を得ながら、なんとかさかのぼりながら収集してみ たいと考えております。 五七年以降は、すべて庶務課で統一したかたちで取扱いを致しましたので、完全に庶務課のほうで保管してお ります。なお、白山・川越・朝霞という三キャンパスにまたがる事情がございますけれども、もちろん朝霞直接、 川越直接に発信・受信を行った公文書も、年度末にまとめて、その控は白山のほうに報告して頂くというような かたちを励行しておりまずので、大体五七年以降は年度別にきちんと整理されたものが公文書として残っており ます。
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︽文書管理規定についてV ︹配布資料1﹁第七節文書管理の規定ー私大連盟﹃職員入門﹄﹂略︺ ︹配布資料ー﹁学校法人武蔵野美術大学文書取扱規則について﹂略︺ ︹配布資料ー﹁東洋大学文書取扱基準︵案︶五七・一二・一五﹂略︺︹配布資料ー﹁中央大学文書取扱規則︵案︶﹂略︺ ︹配布資料ー﹁早稲田大学文書保存規定︵昭和四八年三月一五日︶﹂略︺ ー 東洋大学のものは、庶務課と人事課、それから企画室のもので、特に部課長の職務権限について検討し ていくうえで、副産物といっては何ですけれども、こういうものをどうしてもやはりきちっとして行かなくては いけない、ということでタタキ台として作った案なのです。これは、もちろん制定されていませんけれども、い まの話で、昭和五七年あたりから⋮⋮⋮庶務課としては、なるべくこういうような規定の線にそって運用してい こう。成文化されていないけれども、そういう趣旨でもって作った規定です。 特にこの中で、一〇〇周年に関して、↓応、資料編纂でおそらく皆様方が出かけられて、どうなっているのか というので質問されたのが、中央大学のもので、配布資料の一番最後のページの第]八条に校史の資料というの がありますが、これではなかったかと思うのです。中央大学では、ここにも書いてありますが、﹁各課室の長は、 廃棄時において資料的価値があると思われる保存文書については、広報部大学史編纂課と協議し移管する。この 場合、保存文書目録にその事由を明記しなければならない。﹂というかたちで、最終的に廃棄の段階で、校史の 資料として残すかどうかというのは必ずその課の長が、ここでいうと広報部大学史編纂課ということになります が、そこと協議して現物を移管して行くというかたちをとっています。この方式は、たしか早稲田大学でもとっ ていますね。 :⋮・:・本学においては、文書取扱基準のなかに実はそれが入っていないのです。つまり、そこまでは行ってい
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ないのではないか。これを作った段階では、少なくとも庶務課が全ての文書管理をする。要するに、校史の編纂 に必要なものについては一応、庶務課が集中管理するという発想で五七年の段階ではやりましたので、このなか には入っておりませんけれども、少なくとも庶務課が窓口になって校史として必要なものについては一〇〇周年 編纂室のほうへ移管して行くという発想もあったわけです。明文化されていませんけれども⋮⋮⋮。 ⋮⋮⋮申請書なんかに対するそこまでの審議過程の議事録があるはずだが、こういうものがどうなって いるのか。⋮⋮⋮だから、今後の制度もふまえて、議事録と許認可文書の関わりをどういうふうに考えて整理し ていくのか。この二点が、まずどうしてもしなくてはならない点だと思うのです。 これは特に、理事会・評議員会・大学協議員会の事項については、現在、秘書課が担当しており、一連 の議事録は秘書課に残っているはずです。ただ、まだ秘書課長とは話をしておりませんけれども、特に財団、学 校法人以前の当時の議事録等が保管されているのかどうか。まだ確認していないんですが、先生がおっしゃるよ うに一つの大学としては、やはり重要なものだと思います。 でも、かなり保管されているようですね。 一応、永久保存ということになっていますからね。 ー そのリストもできているのですよ。ところが、そのリストの具体的な中身はオープンにされていないん ですが、少なくとも私はリスト段階までは、一般公開にしてとは言いませんけれども⋮:⋮・。それのリストぐら いは、早い時期に公開というか、編纂室のほうにもまわるようにして欲しいですね。
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ー 私が秘書課におりました時、四三年ごろですか。その時点では、戦前の議事録を私は見たことがない。 ただ戦前の場合ですが、例えば小林章治さんのところでは、ちゃんと議事録が保存されている。あれは 専門家に、速記の担当者に渡して起こさせたものです。それは東洋大学自身が保管しておかなければならないの に、本学の関係者が持帰っているということの証しでもあるのです。このように、かなり分散しているというこ とが言えると思うのです。 1 京北の事務長さんにも、京北の図書館あたりにある資料を一度閲覧させていただきたいと言って、個人 的に話はしてあるのですが⋮⋮⋮。 1 ⋮:⋮・橘高先生が理事になったり、評議員になったりして、その時の、先生は日記と当時の文書をかな り持っているのだそうです。それを関谷さんという方は先生の教え子で、大変な信奉者で、それを彼のほうで原 稿にして橘高全集を出そうとしているのですが、⋮⋮⋮ぼくらにその資料をくれると言うので、コピーしてくれ ないかと紹介したら、⋮⋮⋮自分たちの全集のなかでそれを出していきたいのであげられないのだ、ということ を言っているのです。 基本的な問題として、つまり、事務職員も教員もともに、一〇〇年史の価値観というのがバラバラなの ですよ。 1 今回の合宿のこの論議も、これも資料ですね。これからの取扱いは、今日ここでどういうような方向で もって資料を集めるか、管理していくかということを決めるのではなくて、﹁今後、しなければならないことが
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なんであるのかLということを前提にして、それぞれ所管の担当者に理解をしてもらう、ということで今回の合 宿の成果があるのではないか。 学内資料収集の具体的な方法については、どうしても大学の管理・運営上の問題に関わってくるものだから、 したがってそれに対する要請文なりを、それはやはり理事会に向けて出していく。そうすると結局問題となって くるところは、あるいは組織の変遷過程からきちっと入っていかないと、十分にあり場所が分からなくなってく るでしょ。だから、そういうことを全学的にやるのだということを、いかに大勢に向けて、特に理事会に向けて 認識させるか、という方向にもっていくしかないと思うのです。 1 今回は具体案を検討するまでいかないから、とにかく前半で述べたように、全部局でこういうリストを 作るという必要性を皆さんが共通認識して、その具体案については、また編纂室と総務.企画などによって具体 的に詰める、ということですね。
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︽大学関係者資料について∀ ︹配布資料ー﹁大学関係者資料﹂抄︺1、対象
校友︵卒業生︶、教職員・OB︵G︶、役員など 2、資料の内容と現在の収集状況ア、聞き取り資料⋮⋮⋮大学関係の思い出など 水戸和一.野溝七生.愛沢恒雄・近藤鉄城・上原恒治・平野宣紀・和田吉人・坂戸公隆・西 義雄の 各氏 ︵﹃東洋大学史紀要﹄第一・三号聞き書き収録︶ イ、所蔵資料⋮⋮⋮⋮⋮教科書・教材、校章、卒業証書、写真など ︹配布資料−﹁大学関係者所蔵資料寄贈︵提供︶一覧﹂略︺ 3、収集方針 具体的な収集方法 ・聞き取り対象者のリストアップと実施 ・資料提供の積極的な呼びかけ⋮⋮⋮校友会報などでのPR ・その他 4、資料の性格 大学関係者資料の場合、聞き取り資料については、その対象者の存在が年々減少していくという傾向はまぬ がれない。所蔵資料も、所蔵者の年齢をだいたい八〇歳以下と考えると、明治・大正期のものはまず望まれず、 昭和期に限定されるという点があげられる。また昭和期のものも、戦災により残存状態があまりよくないと思 われる。明治.大正期のものについては、比較的保存状態のよいお寺などにあたる必要がある。 ⋮・⋮:広くなるべく年代にかかわらず、そういう方々の聞き取り調査を、できるだけこちらの意思・考
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え方を求める、というかたちでやったほうがいい。そして、特定の人に限定しない。やはり、二つあると思うん です。好意的な人と、少なくとも東洋大学に好意的でない人もいるはずだと思う。 ⋮⋮⋮そういう人たちに個人的にあたるというのではなくて、やはりできるだけこちらのほうの知識をそうい う方に送って、ご寄付を頂きたいとか、意見を求めに行くから一つぜひ協力して欲しい、というようなインフォー メーションを与えておく手段を考えて頂いたらどうだろう、というふうに思います。 私のほうへ既に聞き取り調査をやってくれないか、と申込んでこられた方があるのです。一人は千葉雄 次郎さん、それから剣木元理事長、磯村前学長⋮⋮⋮。 ︵そのほか、この時に参会者から、川西正鑑、川西文夫、岡本喜一、小林啓喜、斎藤 胴、野尻貞雄、大野文 吉、宮崎政次等の各氏の名前があげられ話題になった。︶ 95 ∧一般雑誌・新聞等の関係記事∨ ︹配布資料ー﹁雑誌・新聞等の東洋大学関係資料の収集について﹂抄︺ 1、資料の性格と収集の基本方針
1、資料の性格
イ、活字化された資料である。 ロ、その資料自体が原典である場合と、そうでない場合がある。ハ、資料として完結したものであっても、そこからさまざまな情報を得て、さらに資料収集を展開していか なければいけない。 情報資料としての活用 2、収集の基本方針 イ、資料に軽重の差をつけず、閲覧可能なあらゆる資料から東洋大学およびその関係者の資料を収集する。 ロ、そのため、各大学・研究所・公的機関等の所蔵目録︵雑誌・図書︶を最大限に利用して、資料の収集に 努める。 ハ、東洋大学関係の基礎的資料として、﹃天則﹂・﹃東洋哲学﹄・﹃思想と文学﹄等から東洋大学関係記事を、 広告・写真も含めて収集し、その資料の巻号数順に資料の一点一点を台紙に貼りファイルする。 二、上記ハの作業から多くの情報が得られると思うので、その情報を集計して、次の一般雑誌・新聞・図書 からの資料収集の基礎資料とする。 n、雑誌からの資料収集 1、前記、基礎資料から、雑誌名・巻号年数等の手掛りとなる記述のある資料を調査し、当該雑誌にあたり確 認して収集する。 2、各雑誌の総目次ないし総索引のあるものを調査し、そこから東洋大学関係記事を抽出し、当該雑誌にあた り、確認して収集する。 皿、新聞記事・広告の収集
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1、基礎作業︵第一期として、明治・大正期︶ イ、朝日新聞マイクロフィルムからの収集 明一=・七∼昭二三・一二まで︵全四五七巻︶ 朝日の前身として・自由燈 明一七・五∼明一九・一︵全五巻︶ ・燈新聞 明一九・一ー明二〇・二︵全三巻︶ ・めさまし新聞 明二〇・四∼明二一・七︵全四巻︶ 以上、白山図書館所蔵 ロ、毎日新聞マイクロフィルムからの収集 明五・二∼昭五二・一二まで︵全九九八巻︶ 以上、朝霞分館所蔵 2、重要記事の抜粋版 イ、新聞集成・明治編年史︵全一五巻︶ ロ、新聞集録大正史︵全一五巻︶ ハ、明治ニュース事典︵既刊1∼W、明治三五年まで︶ N、図書からの資料収集 V、全般的な資料収集の問題点
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1、資料から資料へとたどって行かなければならないので、機械的に収集作業を行なうことはできない。 2、資料といっても、学術論文を収集するのが主な目的ではなく、学内動向や大学の対外活動、生徒募集など、 雑誌や図書の雑報部分や広告を主とするので、論文を収集するようには目録の記述そのものには、多くを期 待できない。 3、それ故、可能な限り雑誌や図書そのものにあたって行かざるを得ない。そのために、多くの情報とカンの ようなものを働かせていく必要がある。 4、直接、東洋大学に関係しない周辺資料の収集をどの程度、どんな基準で収集すべきか。 ︹配布資料 ﹁学内出版物︵戦前︶・︵戦後︶﹂略︺
四、資料活用の構想と現状︵第三部から抜粋︶
︽資料の収集・整理状況V ︹配布資料ー﹁資料の収集・整理状況﹂抄︺ 1、資料の分類方法 2、資料封筒の形式と記入方法 3、写真資料貼付用紙の形式と記入方法 4、資料カードの形式と記入方法一98一
5、資料目録用紙の形式と記入方法 ∧資料の利用︾ いずれにしても、資料の収集・整理の必要性はすでに確認されたかと思います,問題は収集された資料 を具体的にどう利用していくかということであり、これは最も大切なことだろうと思う。その場合に、われわれ 編纂室としては利用に供するのだという立場を貫いていきたいと思います.、 編纂室自身がもちろん年史を編纂する。すなわち執筆するということもあるわけです。︸方、年史を編纂する うえで執筆したり、いろいろ年史に関することを調べていくうえでは、なまの資料を利用していかなければなら ない。そういう人たちのために利用に供するような状態をつくっていく必要があるわけです。 そういうことを考えると、まず編纂室では資料のカード化、すなわち資料内容をカードにしたものが最も基本 的なものなのです。これを利用していただくようにしたい。ただし、このカードをもとにした資料目録というも のがつくられなければならない。それはほかの大学でもすでにつくられているように、集められた資料はどんな ものがあるのだろうかという総合カタログはぜひある時期ごとに、それは数冊になるだろうと思われますが、ま とめていかなければならない。 その場合には、資料目録というかたちで単行本にするのか、または現在収集されている資料はこれだけだとい うかたちで、紀要の第何号かにある時点までのものを収録していくというかたちにするか、形式の問題は改めて
一99一
検討することにしたい。 それから、集められた資料が広く利用されるためには何といっても資料集がつくられていかなければならない だろう。具体的には、先ほどから出ているように、たとえば東京都公文書館や国立公文書館の東洋大学関係の資 料について集めたものを、単行本にして、だれもが見られるような状態にしておく。これが欠かせないことであ ります。それと同じように雑誌なり新聞から東洋大学に関連ある記事をピックアップして、それを数冊にまとめ ておく。これはぜひやらなくてはならないと思われるわけです。 収集された資料の中からとくに公共機関所蔵の東洋大学関係文書や明治期、大正期の主要新聞に見る東洋大学 関係記事集などをまとめて、数冊の資料集をつくることが必要だろうと思います。これはまさに基礎的な作業だ と思われます。 そして、時間的にはどちらが先でどちらが後かということになれば、本来はやはり資料集があって資料編だろ うと思うのですが、われわれの年史編纂の関係からいって、必ずしもそういうスケジュールになるかどうかは別 だろうと思うのです。資料編というものはぜひつくらなければならない。それは百年史の一部としての資料編が 現在、一冊配されているわけです。これは通史編の内容に対応した収集資料を配列して、通史編の記述の資料的 裏づけを示すものとして意図されたものなのです。現在のところ、一冊が予定されているわけです。 ところが、収集された資料の量によっては必ずしも一冊にこだわる必要はないのではないか。場合によっては 資料編が二冊、三冊となることもありえるだろう。そうした場合に、全体的な年史の冊数については、再検討さ 一100一
れていいのではないかと考えるわけです。 いずれにしても資料集・資料編というものの充実こそが、継続されるであろう年史の通史編1・U・田の内 容を豊かにするものである以上、ここに最重点を置くべきではないかと思われます。そういう意味からすると、 当面は資料集の刊行に最大限、取り組まなくてはならない。 その場合、一つ問題になるのは、一億五干万という枠の中に資料集とか資料目録というものの刊行費があまり 意図されていなかったわけですが、その枠の中に十分繰り込むべきだと私は考えておりますので、ぜひそのよう にしていただきたいと思います。 そういうものをつくることによって、立派な年史をつくり上げていくということと同時に、東洋大学のことに ついて知ろうとするときには、まず資料集・資料編を見ていく。それと通史編とが対応するようなものとして、 通史を見ていくというような関係であってほしいと思います。 ー いまの話は、全般的に基本姿勢みたいなもので、総体としては異論がないわけですけれども細かい点で いうと、資料集を印刷するどいうことと、資料編を作るということと、通史編を作るということ、それらの関係 をどういうふうにするのか。資料集と資料編は、部分的に重なるのか重ならないのか。それから、資料編をもと にして通史編ができるのだけれども、資料編は何のために、別な言いかたをすると、通史を理解するための、と いう言いかたになるわけですね。 そういう細かいことは、もう少しさきに行ってから詰めたら:⋮・⋮。 101
まず資料集を、出せる範囲から出していく。けれども、これはかなり長い期間が必要だ。一方で、資料集とほ とんど同じ文章が資料編に入ることは十分ありうる。けれども、資料集が即、資料編ではない。資料集のなかか ら部分がピックアップされる。それはどういうことかというと、これから検討されるであろうし、また、通史編 をどう書くかということと、通史編に構成されるだろうという資料を配列することとは、基本的には無関係では ない。というのは、それを使って、その人の史観に基づいて書いたものが通史編なんです。 ⋮⋮⋮そういうなかで資料編は、私は六二年を一つのメドとしているわけなのです。だから資料集は、一冊目 なり二冊目は六二年までにできる。けれども、資料集については今後ずうっと継続される。ところが資料編は、 =疋の期間にある程度の意図でもって作らなければ絶対に作れない。 ∧資料の管理・保存∨ ︹配布資料ー﹁資料の管理・保存について﹂抄︺ 1、管理・保存の現状 1、資料封筒におさめたものは、キャビネットに収納し、受入番号順に配列している 2、書籍は、書棚におおよその区分けをして配列している︵写真4︶。 3、学内出版物は、円了記念室の書棚に登録番号順に配列している︵写真6︶。 4、編纂室・部会会議資料類は、ファイルして戸棚に収納している︵写真2︶。 ︵写真1︶。 一102一
5、録音テープ類は、キャビネットの上のテープ用収納箱に入れている︵写真3︶。 6、未整理コピー資料は、担当者の机の引出しおよび担当者の後の棚等に置かれている︵写真5︶。 ものは、戸棚に収納している︹写真2︶。 7、写真類は、キャビネットに収納している︵写真1︶。 8、遺物類は、円了記念室のケースに収納している︵写真7︶。 9、特定の雑誌の通巻から収集されたコピー資料は、キャビネットに収納している︵写真1︶。 重要な 10、図面・地図等の大型資料は、円了記念室のケースに収納している︵写真7︶。 11、受入れ作業の終った資料については、カードを作成している。 カードはカードボックスにファイル ー2、﹃東洋哲学﹄等、重要な出版物・資料については、一定巻数がまとまり次第、本製本を行なっている。 13、破本・参考資料等については、簡易製本を行なっている。 14、以上の現状であるが、現状ではまだ管理・保存を考えるところまで行っていない。
n 今後の課題
1、今後ますますコピー資料が増加していくと思われるので、コピーされた資料の耐用年数ということを考え ていく必要がある。それ故、場合によっては、基本的な資料のマイクロ化を考えていく必要がある。 2、現在の編纂室は、防火・盗難等、資料の保護環境という点から考えても不十分な状態にあるので、検討を 要する。 一103一3、資料センターの設置。 ︹貼付写真省略︺ ︹配布資料ー﹁昭和六〇年製本一覧﹂略︺
五、年史編纂の現状と今後︵第四部から要約︶
︽全般的状況∨ 年史編纂は、東洋大学が二世紀へ折返すための大学の基本姿勢を確認することであると認識し、理事長以下、 全学的な理解と協力をうることが必要である、ことを編集長が強調した。︽通史編1・nの編纂∀
目次第一次案作成の経過のほか、今後の通史編纂作業の進め方について作成要綱案を中心に北村編纂室員が説 明し、体制づくりや予算についても全般的な意見交換が行なわれた。この作成要綱案は、編纂室の合意に達して いるが、まだ目次部会その他の十分な検討をうるに至っていないものである。 ︹配布資料ー﹁一〇〇年史﹁通史編1・n﹄目次第一次案﹂︺ 第一編 井上円了の思想形成と哲学館の創設 第二編 近代教育体制の整備と哲学館事件 第三編 東洋大学の草創とロマンチシズム 一104一第四編 大学の基礎整備とファシズム 第五編 新制大学の発足と高度成長 第六編 大学の変革と発展 第七編 近代社会の発展と東洋大学 ︹配布資料ー﹁﹁通史編1・n﹄作成要綱︵案︶﹂略︺
∧通史編m︵部局史︶の編纂V
部局史の目次第一次案のほぼ固まったことが松園編纂室員から報告され、若干の論議が交わされた後、引続き 検討されるとともに、部局史の作成要綱も年内に原案を作成して検討されることが確認された。 ︹配布資料ー﹁﹃通史編田︵部局史︶﹄目次第一次案﹂略︺ ︽図録一〇〇年小史の編纂︾ 図録部会のありかたをめぐって若干の迂余曲折があった経過と、一応、編纂委員会の承認をうるに至った作成 要綱について坂詰部会長から説明のあった後、比嘉編纂室員から当面の個別的な諸問題、とりわけ学内資料の収 集等について問題提起があった。図録一〇〇年小史は、六二年一〇月までには完成させなければならない当面の 課題である。 ︹配布資料ー﹁図録一〇〇年小史作成要綱﹂略︺ ∧記念映画の製作︾ 一105一製作要綱をもとに清沢部会長代理から、今までの経過と記念映画製作の概要および今後の手順・日程などが報 告された。当面、映画会社を選定し、一二月までには最終稿を作って編纂委員会の承認を得てクランクインし、 六二年六月には完成する予定である。 ︹配布資料1﹁東洋大学創立百周年記念映画製作要綱﹂略︺
六、年史編纂の今後の課題と展望︵第五部から要約︶
︽今回の合宿の集約∨ 第二日の第二・三・四部の報告と討議内容が、各司会者よりまとめて報告された。 ∧当面の課題と計画∀ 今年中くらいの諸課題と日程・担当者が確認され、細部については後日、新潟でまた検討会を開くことになっ た。その後、九月に予定されている新潟資料採訪の具体的な計画が提案され、部会長等からの積極的な参加申込 みもあった。 そして最後に、編集長が三日間の﹁総まとめ﹂を行なって、全合宿日程を予定通り終了した。 一106一資 料
円
採 訪
了
一、 一、 一、 一、の
日 時 場 所 目 的 参加者生地を訪ね て
昭和六〇年九月三日︵火︶∼五日︵木︶︹二泊三日︺ 新潟県長岡市周辺︵浦・片貝・越路・川口・柏崎・小千谷.来迎寺など︶ 学祖出身地調査︵資料採訪及び風土探訪︶ ︵図録一〇〇年小史部会︶坂詰力治、︵記念映画部会︶清沢文弥太、︵編纂室︶斉藤繁雄、谷 口房男、北村嘉行、比嘉佑典、松園宣郎、山内瑛一、中島 宏、︵毎日映画社︶高原貞夫。 一107一 九月三日︵火︶・第一日 長岡市役所教育委員会、 長岡市立互尊文庫、慈光寺、石黒塾跡、校友懇談会。 ◇長岡市役所ー教育委員長丸山博氏面談。資料採訪について助言を受ける。 ○互尊文庫︵現市立︶は野本互尊翁が設立した︵大正六年︶。互尊翁と井上円了は意気投合の仲であったかも しれない。円了の資料はあると思う。○越路町、長岡高校などにも、円了の資料はある。 ○長岡市史は旧版があるが、現在改めて編纂中である。 ○その他の関係資料の所在先等については、互尊文庫に照会してほしい。また、新潟日報社辺りで訊ねるのも よい。 ◇長岡市立互尊文庫−稲川明雄氏面談。資料拝観・撮影。 ○円了関係の資料は殆どないといってよい。戦災で焼失してしまった資料の中にはあったと思う。長岡大空襲 は、昭和二〇年八月一日午後一一時頃であった。互尊文庫のあった大手通りから、今のホテルサンルートに かけての一帯が被爆したのである。その時に、倉庫に保管中の資料が灰儘に帰した。これは、昭和六年、長 岡市史を一年で編纂せよとの市長命令で、市民から収集した全資料であったが、その市史には殆ど活用され ないまま眼っていたもので、未整理・目録もないままに失われたのである。これらの資料を疎開させようと していた矢先のことであった。その中に、円了関係の資料があったと考えられるのである。現在、長岡市史 を作り直そうという問題がおこり、昭和五七年に研究室を設け、改めて資料を収集中であるが、相当な困難 が予想され、その収集にも向後一〇年程度が見込まれている。 ○円了の書二幅。これは、東京神田の古本屋にて、最近購入したもので、一幅五万八千円であった。書は、山 本五十六や河井継之助関係のものが人気があり高値、それに比べれば安いといえる。収集家に、円了のもの を集めるものは少ないといえる。 108一
○他に円了の資料としては、県立長岡高校にある。﹃長岡高等学校百年史﹄、また、和同会設立を記した日誌な どがある。 ○資料収集家でもあるが、郷土資料館に勤務している佐々木女史が﹁哲学館﹂の調査研究にとりくんでいる。 まだ論考の発表などはしていないが、東洋大学にも調査に訪れている。なお、同女史は東洋大学出身ではな い。そういえば、この互尊文庫には、東洋大学出身者が多く勤めている。 ○時折、文学散歩の催しがあり、石碑などを訪ねて浦地区︵円了の碑︶の方にも赴く。また、必要に応じて、 妖怪博士円了について書かせられたりするが、実際のところ、はっきりとは判らないことが多い。 ○互尊文庫に﹃井上円了研究﹄第一号∼第三号が入っている。 ○円了・和同会設立の背景について。長岡は城下町で極めて排他的であり、士族と町民の和が求められた。ま た、円了の出身地浦地区は、おそく︵天保年間の頃︶長岡領となった所謂新参地というところから、人間的 交流が求められたともいえよう。明治九年に、和同会が設立された。当時、円了が学んだ﹁長岡洋学校﹂も、 仮学校といってよく、あってないようなものであった。 ○新潟県郷土人物誌は出版されていない。新潟日報社より、県の百科事典は刊行されている。その中に人物も とりあげ・られている。 ○互尊文庫と円了について。互尊文庫は、野本互尊翁にょって設立された市民の図書館である。互尊翁は本名 恭八郎、長岡商人である。旅籠の経営から、後に株の売買・石油仲買などをした。﹁互尊﹂とは仏教にかか 一109一
わる言葉で、﹁天上天下唯我独尊﹂に対する﹁互尊独尊﹂の思想︵人間は互いに人格を尊重し自分を磨こう という、一つの社会教育ともいえよう︶から出ている。曹洞宗長興寺︵山本五十六ゆかりの寺︶住職大道長 安の説くところで、この住職と親交を結んでいた野本恭八郎が、私財二三万円を、社会教育の施設を創設す るよう長岡市に寄付をした。郷土教育のためのものである。そういう関係で、円了とも交流があったかもし れない。さらに後年、育英組織団体として﹁互尊社﹂も設立された。少し右寄りであったが、地元出身者が 訪ねることも多かった。 ○如是蔵は、やはり仏教から出たことばであるが、﹁互尊社﹂の脇に造った博物館の名である。保管されてい る互尊翁の所蔵物の中に、円了関係の資料はないようである。従って、互尊翁と円了とは、交流はあったか もしれないが、記録に残すようなものはなかったのではないだろうか。 ○追悼記﹃互尊翁﹄︵昭和一二年一二月発行︶あり。 ○長岡は進取的な面もあり、あまり資料を残さない所ともいえる。円了もそうであるといえよう。 ○和同祭は九月七日に行われる。﹃和同会雑誌﹄は、当文庫には全部揃っていない。欠本が多い。 ○﹃互尊独報﹄が昭和一四年∼同一七年まで月刊。︵連載記事﹁越後ところどころ﹂・反町栄一執筆、出身軍 人の指摘が目につくが、円了に関しての参考資料もあるのではないだろうか︶。 ○地元の資料収集家・深井義春氏を紹介、推薦さる。 ※書幅・遺言書写・文書資料撮影。 llO
◇浦・慈光寺ー井上円秀師、深井義春氏面談。文書資料・写真等の撮影及び複写。 ○慈光寺門前、撮影。参道中程左側に碑、遁詳サ詳、抽井上圓了先生誕生之地L︵おもて︶、﹁昭和廿七年九月廿八 日・東洋大学校友会新潟支部﹂︵うら︶、脇石﹁昭和四十二年十一月改修.東洋大学﹂とある。 ○円了の額などの資料は、近くの親戚・縁者の家や檀家などに沢山ある。︵円了妹の嫁ぎ先にいいのが大分ある。 この寺の世話人宅には大きな書幅がある︶。昭和六〇年春休みに、神作光一先生が遺墨調査の為来訪され、 こうした家々を二十軒程案内した。神作先生は喜んで帰られ、その後﹃遺墨集﹄にして、送って下さった。 ついこの七月のことである。前に田中菊次郎先生も来られた。また、京北学園も創立九〇周年の時に来訪さ れた。 ○ここには、書簡・写真などの資料がある。 ○石黒塾について。慈光寺の先代︵昭和四九年に亡くなったが、その数年前だったと思う︶は、石黒塾の跡地 に碑が建てられた折、その除幕式に招待されて、行かれたようである。石黒家については詳しくは判らない。 系図はあると聞いている。先代は知っていた。碑は血筋上の人が建てた。分家になるかもしれぬが、直系は いるようだ。 ○先代は、六月の哲学堂墓前祭には出席し、毎年大学のおせわになった。 ○円了煩徳碑について。地元で故黒田章吾氏︵見附高校初代校長・東洋大学出身・大谷派僧籍︶が中心になっ て頒徳碑を建立した︵そこは信農川の鉄橋の許、国鉄用地を交渉、列車の速度が今日のように速くない時代 111
で、車窓からも見えるようにという意図︶。教育委員会で管理した。また、この碑の近くに︵建立時ー昭和 三二年.東洋大学創立七〇周年記念事業の一環︶、まだ浦小学校があり、六年生が清掃していた。大学から 年間五千円︵鉛筆等記念品代として︶支出があった。後、浦小学校が統合によって廃校になってからは、地 元の老人クラブが清掃を受持っている。深井義春氏によると、昭和四五年、分立小学校︵浦・神谷・中野島・ 来迎寺.石津の五校︶が統合されて、越路小学校となった。同氏が教育委員会にいた昭和四七年当時は、大 学より一万二千円支出されていたとのことである。黒田先生没後は、どうなっているか、よく判らない。︵故 黒田章吾、地区の校友会長をつとめた人、大谷派に僧籍、飯島宿の寺の住職、その入滅後、寺は現在無檀家、 僧籍もない。留守居としての住職はいるが、黒田姓ではない。︶碑﹁井上圓了先生煩徳碑﹂。 ○円了の学籍簿・成績簿などの所在は不明である。浦小学校の統合の時に不明となったか、或は明治五年頃、 浦小学校以前に、宮川外新田校があり、同小学校はそこから分れてできたのである。円了についての学籍等 の資料は、宮川外新田校のものとして存在しているか。 ○浦小学校は、さきの統合まで、校歌がなかった。校歌代わりとして、円了が、吹雪の日に唯一人、カンジキ を穿いて石黒塾へ勉学に通った煩徳の歌を創って、唱っていたという。 ○円了の分骨を葬った墓がこの境内にある。遺言によって分骨したのであるが、墓前祭に大学理事長・磯村学 長以下五〇名程が参列した。学長は、その時に長岡文化会館で講演をしている。 ○過去帳.円了について。過去帳の扱いは非常に厳格で、一族の者も、あまり目にすることができない。一年 112
に一回、本山の許可を得て、住職だけが見ることができるもので、他見はさせられないとのことである。 ○円了には僧籍があり、権大僧正円了である。円了の父円悟、円了の次弟円成、その弟円順である。
縣躍麟㍗竃・書
○円了の頃の庫裡は、藁葺屋根であった。本堂の創建は二〇〇年位前か。当時、寺は長男が跡を継ぐものとし て、そのために全財産をかけて、教育をした。貧乏寺がよく出したといわれた。寺は益々貧乏になった。 ○円了は、博士になって、慈光寺に寄付をしている︵大正八年一二月基本金千円、その金利より毎年五〇円を 永代読経料としているー本堂に木札があり、認められる︶。寺の継承については、弟︵円成︶への詫び状が あるという。 ○円了の母の実家は西栄寺である。苗字は未詳。 ※諸資料撮影及び複写。円了墓参拝。本堂・境内拝観。 ◇石黒塾跡見学。石碑・撮影。 ○住所は、片貝町池津二九三番地である。 ○碑﹁石黒翁思い出の碑﹂ ○碑文略。 113◇校友懇談会ー於福寿荘。 ○出席校友五名、他二名、計七名。斎藤氏︵昭和八年卒・前県支部長︶、高崎氏︵県支部代議員︶、立氏、広瀬 氏︵河村孝照先生と同窓︶、内藤氏、以上校友。他・佐藤氏、中山氏︵円了の書愛好家︶。 ◎斎藤氏ー円了の遺墨を勝承夫先生に託し、大学へ出すよう依頼した。が、大学へ提出されていないようで、 勝先生のお宅にある筈だ。 ◎中山氏ー西脇家から養子となった。本家西脇家より、現慈光寺前通りの一五〇坪を寺に寄付した。実家は今 の本堂のある所であった。寄付と同時に慈光寺檀家となった。慈光寺は、もと慈光院といって、川の右岸に あった︵寄付の背景は度々の水害か︶。明治の頃は天台宗の寺院が多かった。寄付後、慈光院︵天台宗の寺︶ ←慈光寺︵東本願寺.大谷派︶となった。寄付当時、本堂の藁葺屋根を瓦に葺きかえた。境内−庭内の大木 が大風で倒れ、.近所に迷惑をかけたので伐った。先代七七歳まで生存、羽織着用の身分であった。古庄、浦、 小千谷の各在の西脇姓との相関性はよく判らない。中山忠亮氏は長岡市内にて表具商を営む。円了の書幅を 何点か所持。 ○木村鈍婁、長岡藩士.幕末長岡戦争の時、慈光寺大門︵入口・門前︶に難を避け︵疎開し︶てきた。その時、 慈光寺前で寺子屋を開き、読み書きを教えた。円了、ここに学んだか。鈍聖の書は所持しているー鈍曼は書 家でもあったー屏風六面中、二面を所蔵。円了が学んでいたとすれば、書の影響も受けているかー鈍里の書 と円了の筆跡とは似ているかどうか。 114
○故石黒忠恵の東京邸について。その門前に湧き水をしつらい、通行人の便に供すると共に自宅へ引いたとの ことーその人柄を指摘する。 ○資料の一つとして﹃越後温古の栞﹄をあげる。 ○円了は寄付を受けた時など、お礼に必ず揮毫を振るった。鈍隻の筆跡に似ているかどうか疑問である。 ○中山氏の実家に円了の軸がある。 ○円了の書の落款には﹁文学博士﹂のものが少なく、﹁拙筆居±﹂も少ない。 ○天神町・浄林寺に円了の書がある。 ◎広瀬氏ー河村先生は同窓である。 ◎佐藤氏ー小千谷高校・長谷川潤氏︵中哲卒︶、円了の軸を所有している。先年、本学へ内地留学もした。 ○遍額も大分あるだろう。 ※長岡高校校友会で、旧制長岡中学校時代の副読本︵昭和初期版︶の覆刻版の提供を受く。その教材の中 に、井上円了についての一章が収められている。また、円了の伝記的紹介記事の配布を受く。円了の書 幅を拝観・撮影。その他、校友より、工学部創設にまつわる回顧談、混声合唱団サークルの埼玉県演奏 旅行についての回想談があった。 115
九月四日︵水︶・第二日 柏崎.光賢寺、川口町役場、古田島ヒナ氏、越路町文化センター、越路小学校、来迎寺・高橋友二郎氏 宅。 ◇柏崎加納・光賢寺︵大谷派︶1藤井信栄師面談。文書資料、写真資料等、撮影及び複写。 ○円了・大連客死のこと。過去帳に記録がある。︵井上円了、漫遊中突然脳溢血にて倒れ、大連東本願寺別院 にて六月六日滅、同十三日会葬。形見金五〇円、旅費三〇円ー要旨のみ、聞き取りメモ︶。当時の哲学館用 務員故松谷又一の記録も認められている。 ○光賢寺について。この寺は、蒲原大崎村︵現三条市内︶から移転してきた。今日まで一八世を経ている。初 代不明であるが、六世の時、大崎村光賢寺焼亡、無一物となる。その六世専入房、小国善根村・浄安寺︵天 台宗?︶に入る。同浄安寺住職入滅後、その跡を継ぎ、大谷派寺院となった。それがここの光賢寺である。 ○円順について。光賢寺一一世覚運ー一二世円順︵井上家より入婿︶ー=二世信之−一四世当主︵蒲原時代か ら通すと一九世に当たる︶。 ○円順弟良恵について。上野の美術学校教師、岡倉天心と共に画を描く。 ll6
○前出の過去帳について。ここへ来て四冊目のものであるが、この小文字は一三世信之︵当主信栄師父︶の手 によるものである。=二世は細字が巧みであった。手先が器用で、特に竹細工が上手、尺八なども自作、上 手に吹いた。表具装頓も立派なものを作った。 ○良恵の描く観音像一幅を所蔵している。 m O円了妹たちの嫁ぎ先について。
口⋮醤鱗㍉寺ー−ー⋮i⋮.
○円順について。﹁哲学館﹂事務長時代、円順は、この地の屋号シマチ屋の相沢弥八︵勲二等、丸の内にある 日本証券頭取、昭和四五年没︶の上京希望を容れて上京させた。円順は、相沢の本好きを活かし、古書籍店 に就職斡旋。相沢は翌年転職、後、相沢証券頭取となった。伊豆に住んで通勤していた。宅地内に湯を掘り 当て、信栄師は招待を受けたとのことである。○円了について。当時、この地へは三国峠を歩いてきたか、カゴで来たかであろう。冬、ソリで来たことがあ る。人力車のような幌のついたソリで、一人が曳き、一人が後押しするものであった。十日町からこの地へ は、中山峠を歩いてきた。少年時代の円了は、慈光寺から石黒塾へ、足駄を穿いて着物の裾を端折って、ど んなに寒くても、どんなに猛吹雪でも、休まずに通ったということである。 ○光賢寺の塾について。光賢寺でも塾を開いた︵土蔵を利用した︶。この地の学問の祖とされる石城と号した 人物︵境内に墓がある︶が開いた。その塾︵土蔵︶の窓から裏山の石城山が見える。山頂がノロシ場だった といわれている。 ○現光賢寺は、昭和二年に造りかえた。当寺は、ここへ来て三〇〇年、もとは藁葺きで大きかった。庫裡など も間口一四、五間あったと思う︵現住職信栄師、大正 ○年生、七、六歳の頃である︶。後、昭和三六年に 補修した。寺歴は、蒲原時代から通すと五四〇∼五五〇年ぐらいになる。ここでは、雪は平地三メートル程 積もる。本堂の軒下の高さになる。 ○慈光寺は、創建以来二〇〇年、その藁葺きは成章がなおした︵庫裡のことか︶。 ○柏崎原発について。現在、高崎・下仁田地区にある檀家の方にまで、高い鉄塔がのびて、送電しているよう である。今後も、何基か原子炉ができるであろう。 ※円了関係資料拝観、撮影.複写。円順、良恵関係遺品、資料等拝観、撮影・複写。関係過去帳撮影。光 賢寺境内裏山に、樹齢千二百年といわれる。ネズの木“見学。 118