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算数・数学教科書

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Academic year: 2021

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はじめに―和算と洋算の対立― 幕末から昭和初期にかけてわが国の数学界には2つの対立する流れがあった。和算と洋算の 葛藤である。和算は江戸中期からわが国で独自の発展をとげたもので、いわゆる「関流算学」 がその主体である。名のとおり関 せき 孝 たか 和 かず (1642∼1708)の創始した天元術(記号代数)、円理術 (一種の微積分)などの研究体系を確立した。秀れた後継者を輩出して、ほぼ1930∼31(昭和 5∼6)年ごろまで命脈がつらなる。 幕末に蘭学を基調とする洋算(西洋数学の略称)の渡来と普及は、和算を固守しようとする 研究層(和算家)と、洋算移入の開化主義者相互の反目という事態をまねいたが、和算の衰弱 はあまりに歴然としていた。関孝和が活躍していたころとほぼ同時代に、西洋ではこんにちの 公教育の基盤がつくられ、いろいろな数学の分野が研究されていたからであった。 とりわけ、「円理術」の誕生より10年ほど遅れてニュートン(イギリス 1643∼1727)とライ プニッツ(ドイツ 1646∼1716)によって独立に微分積分学が開発されたことの意義は大きい。 ニュートンにとっては微積分は惑星の運動を解明するための強力な手段であったし、ライプニ ッツのめざしたのは、当時の代数、幾何などに無限小解析(微小数の変動の理論)の手法を導 入して、諸問題の統一をはかろうとしたことであり、それが微積分の創始となった。洋算には、 その研究にはっきりした目的と科学的精神の裏づけがあった。 和算はその点、いかに卓抜な面があったとはいえ、その発展の底流に思想も哲学もなかった のである。げんに和算関係の文献を少しでもひもとけば、精細巧妙な問題ごとの解決法や、異 常に混みいった問題のための問題といった遊技性が目につく。分析と総合という自然科学方法 論の数学的表現が微積分であるが、このような統一的思想が和算にはない。和算は洋算の前に 当初から無力であった。この様相を数学史の大きな教訓として受けとめることができる。 1 明治初期の教科書編纂 和算・洋算の思潮的対立にややくわしくふれたのは、明治初期の算術・代数・幾何といった 初等数学の教科書の編集発行が、単に西欧の文物の急速な摂取という気運だけに由来したもの 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷

算 数 ・ 数 学 教 科 書

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ある。もう1つ指摘したいことがある。 それは和算の伝承にみる根強い秘密性 と閉鎖性である。 和算の塾に入ると師匠が教えるので はなく、出された問題を解かせられる。 この入門程度のものを「見題」といい、 それから問題にはつぎつぎと階位がつ けられ、「隠題」という最高水準では師 と弟子が一体となってここに「秘技」 が授けられる。 そういう近代公教育の思潮に全く逆 行する研究体制では、とても発展は期 しえない。さらに述べたいのは、仮に 洋算主義になった人でも、こういう和 算家と似た精神傾向をもっていたこと である。幕末・明治の数学教育者、数 学研究者は、思想的にも心情的にも和 算家にみられるとほぼ向じ精神構造を もっていたといえる。 2 明治初期の算術教科書 明治の初期の小学校は、いわゆる国定教科書はなかった。そのころの子どもたちは、それぞ れの教科書で「算術」を学んでいたのである。その1つとして明治10年代の算術教料書につい て少し述べる。ここに算術というのは、今日の算数の旧称である。 古川 凹編『小学筆算書』10冊 1886(明治19)年 集英堂(図2)。これは和紙でできた 「縦書き」の算術書で、次のように内容が展開される。 巻3「分数 第一章分数性質 第一節定義」を紹介する。 例(一) 果物七個ヲ三人ニ分配セバ各々ノ所得幾何ナルヤ 七個ノ果物ヲ三人ニ分配スルハ即チ果物七個ヲ三等分スルナレバ七ヲ三ニテ除 スル商数トシテ二個除残トシテ一個ヲ得ルヲ以テ各々ニ二個宛ヲ与フルモ尚一 個ノ果物ノ残ルアリ而シテ一個ノ果物ヲ三等分セザルヲ得ズ而シテ一個ノ果物 ヲ三部二分チ一部ヅツヲ各々二与フレバ果物ハ全ク尽クルベシ由テ各々ノ所得 図1 『明治塵劫記』1886(明治19)年

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ハ二個ト一個ヲ三分二分チタルモノノ一即チ二個ト三分ノ一ナルベシ 答 二個ト三分ノ一 この引用でみられるように、文に一カ所の句読点もなく、漢字とかなが続き、さらには算用 数字が用いられていないので、今日ではたいへんに読みにくい。分数記号が用いられないので、 学習者には といった数学の実質よりも「三分ノ一」といった修辞的表現法に重点がおかれ ている。これは記号の貪困な和算書の系譜と文字どおり軌を一にしている。 この本からもう1つ引用しておこう。 例(二) 四人ノ工夫アリ賃銀トシテ金十九円ヲ受取リタリ各々ノ所得金幾何ナルヤ 1 3 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図2 『小学筆算書』1886(明治19)年 図3 『初等小学珠算教科書』1873(明治16)年

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演算は加減乗除の順に展開されるのだが、ここには体系性はなく、文章題の解法に終始してい る。 3 明治期の代数教科書 目を転じて中等学校の代数・幾何の教科書について述べよう。その1つとして、上野清『ち ゃーるすすみす氏 中等数学』巻上 1892(明治25)年をみよう。これは前掲の筆算書とは異 なり、数学書としての体系的著述がみられる。開巻第1頁に代数学の何たるかが、明確に述べ られている。 以下に紹介する括弧内の英単語は、引用が少なからず粗雑なのだがとにかく興味深い。 「代数学(Algebra)ハ算術(Arithmetic)ノゴトク数ヲ論スル所ノ学(Science)ナリ。 算術ニオイテハ数ヲ表スニ数字ヲ以テス而シテコノ数ノ各々ハタダ一ツノ意ヲ有スルモ ノナリ」 「ココニ論ズル所ノ数ハ全数アルヒハ分数ナリ」 このように代数をとにかく定義づけて、数とは何かを短かく述べて、以後文字式の解説に入 っている。この本は翻訳本であり、おそらく編者はその和訳に異常の苦心をしたにちがいない。 細かい批判は措 お いて、和算書とちがい、体系的な面と数学の普及性の息吹が今も伝わってくる。 原著者Charles Smithは英国の数学者・数学教育者として当時著名の人であり、この訳出の意 味はまことに大きいといわねばならない。この本の前半で取り上げられている順列組合せは、 今日の類書と比べて何らの遜 そん 色 しょく のないのに驚く。もっとも用語やその訳に不統一さのあるこ とはやむをえない。たとえばa2をaの方乗とよび、一般に累 るい 乗 じょう のことを「方 ほう 乗 じょう 」といったり している。「方」という字の多用は訳書といっても和算の根強い浸透を思わずにはおられない。 平方根は「方 ほう 根 こん 」といい、√3のようなのは「不尽数」といったりしている。 もう1つの代数の教科書をみよう。英国トドホンダー氏原著、境野昇次郎・町田則文合訳 『突氏小代数学』1884(明治17)年 時習堂である。ここに突氏という頭字は、当時の翻訳上 の習慣である。トドホンダーは初等数学の著者として高名な人であった。たとえば、文学作品 でアレキサンドル・デュマの「モンテクリスト伯」のヒロインはエドモン・ダンテスだが、こ の頃の有名な黒岩涙香の翻訳では「江戸門太郎」となっている。突氏というムリヤリ日本語に あてるのは、小説・劇曲にとどまらなかった。この本も、チャールス・スミスのものも縦書き になっている。式がめんどうになると、縦書き中に横書きをする。当時は、時に応じて本を 縦・横にして解読しなければならず、学習上の困難は多大であった。突氏のものは前掲チャー ルス・スミスのものより、やや程度が高く論理的にもしっかりしている。

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4 明治期の幾何教科書 アメリカの幾何の教科書を1 つ紹介する。米 ブラックボリ ー   宮 川 保 全 訳 、 榎 本 長 裕 校 『幾何新論(完)』1876(明治9) 年である。この本がとくに興味 をひくのは、幾何学の記述を徹 底的に体系化しようとする態度 がうかがわれることである。現 代風にいえば、定義・定理・証 明といういわば数学書の定型が、 つぎつぎと展開されている。も ちろん細かい点に相当の欠点があるけれども、体系化の高い息吹が感じられる。この本も縦書 きで序文は漢文で記されている。「界説」二十条のうち、一部を引用しよう。 界説 一条  算 学 マヤマテヰクス ―幾何を論するを算学と云ふ 二条  幾 何 クオンテヰテー ―凡そ度り得へき者を幾何と云ふ設へは相距、日時、重さ等の如し 三条  幾何学 ジオメトリー ―算学中広狭の性質を論するを幾何学と云ふ 五条  点 ポイント ―地位ありて大小なき者を点と云ふ 十四条 設論 スヰオレム ―証を要する論説を設論と云ふ 十五条 設問 プロブレム ―法を要する論説を設問と云ふ 十六条 題―設 プロポズヰション 論或は設問を通して題と云ふ 十七条 推論 コロラリー ―題の理を推して生する論説を推論と云ふ これらの用語にはすべて英語のふりがながついている。それによると、設論=定理、設問= 問題、題=命題、推論=系である。 おわりに この小文で、数学教科書の性格の細片を述べたのであるが、数学教育の場合は和算と洋算の 思潮的対立のあったことが、他教科に比べて著しい特色である。和算は近代教育の前に衰亡し た。それは一面において古いものに対する抗争の帰結であった。 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図4 『幾何新論』 1876(明治9)年

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(及川 多喜雄) 〈注〉 表1は故及川多喜雄先生の「明治時代の数学教科書について」執筆時点(1986年)で、渡辺正八の研究書 からの引用と修正である。戦後の学習指導要領は第6次改訂1989(平成元)年度版、第7次改訂の1998(平 成10)年度版と続いていく。詳細は、本書第Ⅱ部1の村上一三「算数・数学教育」論文を参照。 (渡辺正八『算数・数学の研究』から及川作成) 小 学 教 則 1872(明治5)∼ 明治政府の設立に伴う「学制」の制定 小 学 校 教 則 大 綱 1891(明治24)∼ 多様な課程編成の統一、「学制」の整備 黒 表 紙   第 1 次 1905(明治38)∼ 国定教科書の制定(尋常小学校第4学年以下には児童用書は ない) 黒 表 紙   第 2 次 1910(明治43)∼ 義務教育6年制に伴う改訂(尋常小学校第2学年以下には児 童用書はない) 黒 表 紙   第 3 次 1918(大正7)∼ 時世の要求に合わせるため(教育目標の社会化、教育方法の 心理化) 黒 表 紙   第 4 次 1925(大正14)∼ 度量衡法改正に基づく改訂(メートル法専用に伴う度量衡教 材の軽減とそれによる教材の学年変更) 緑       表       紙 1935(昭和10)∼ 数学教育改良運動の導入に伴う新教科書の編集 水   色   表   紙 1941(昭和16)∼ 国民学校発足に伴う改訂(算術から算数へ改称) 過       渡       期 1945(昭和20)∼ 終戦に伴う教育方針の変更 学習指導要領 第1次 1947(昭和22)∼ 戦後新教育の発足に伴う指針 学習指導要領(中間発表) 1948(昭和23)∼ 戦後教育の実情に合わせるための改訂(内容軽減) 学習指導要領 第2次 1951(昭和26)∼ 戦後生活教育の集大成(占領政策からの解放) 学習指導要領 第3次 1958(昭和33)∼ 戦後教育の反省と指導要領の法的性格の明確化 学習指導要領 第4次 1968(昭和43)∼ 数学教育の現代化、教育方法の現代化のための改訂 学習指導要領 第5次 1977(昭和52)∼ 教育一般、数学教育現代化の反省に伴う改訂

参照

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