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司馬遼太郎『坂の上の雲』論 : 触媒としての雑誌『中央公論』をめぐって

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司馬遼太郎『坂の上の雲』論 : 触媒としての雑誌

『中央公論』をめぐって

著者

轟原 麻美

雑誌名

清心語文

19

ページ

14-26

発行年

2017-11

URL

http://id.nii.ac.jp/1560/00000171/

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一四 清心語文 第 19 号 2017 年 11 月 ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会 主に歴史学の観点から批判がなされてきた。 「司馬史観」とは、 明治は明るいが昭和は暗いという、司馬の近代史に対する歴史 観のことをいう。中塚明は司馬を 「「明治栄光論」 の代表主張者」 と 位 置 付 け た ( 注 1) 。 中 村 政 則 も 司 馬 の 歴 史 観 の 問 題 点 は「 「 明 る い 明 治 」 と「 暗 い 昭 和 」 と い う 単 純 な 二 項 対 立 史 観 に あ る 」 と指摘している (注2) 。   しかし 、 司 馬 は 『 坂 の 上 の 雲 』 の 連 載 当 初 か ら 、 明 治 と 昭 和 と を 対 立 さ せ て い た わ け で は な い と 考 え ら れ る 。『 坂 の 上 の 雲 』 の 連 載 前 に あ た る 一 九 六 四 年 二 月 に 、司 馬 は 「 百 年 の 単 位 」( 『 中 央 公 論 』 第 七 九 巻 第 二 号 ) と い う 随 筆 の な か で 、「 大 東 亜 百 年 戦 争 説 」 に つ い て 「 お も し ろ く 読 ま せ て も ら っ た 」 と 言 及 し た 。「 大 東 亜 百 年 戦 争 説 」 と は 、「 百 年 の 単 位 」 と 同 じ く 『 中 央 公 論 』 に 掲 載 さ れ た 、 林 房 雄 の 「 大 東 亜 戦 争 肯 定 論 」 の こ と で あ る ( 注 3 ) 。 「 大 東 亜 戦 争 肯 定 論 」 と は、 開 国 か ら「 大 東 亜 戦 争 」 ま で が 連 一   はじめに   司 馬 遼 太 郎『 坂 の 上 の 雲 』 は、 『 産 経 新 聞 』 夕 刊 に 一 九 六 八 年 四 月 二 二 日 か ら 一 九 七 二 年 八 月 四 日 ま で 全 一 二 九 六 回 に わ たって連載された、司馬の代表作として知られる長編小説であ る。 『 坂 の 上 の 雲 』 の 主 人 公 は 愛 媛・ 松 山 出 身 の 三 人 で あ る。 騎兵隊を作った陸軍軍人・秋山好古、その弟で参謀として活躍 した海軍軍人・秋山真之、そして秋山真之と同窓生で俳人の正 岡子規を、司馬は主人公に据えた。これら三人の主人公の生涯 を描きながら、彼らが生きた明治という時代そのものにも司馬 は多くの紙幅を割いた。とくに作品の大部分を占めるのは日清 戦争と日露戦争である。日清戦争と日露戦争は、 『坂の上の雲』 の核だと言うこともできるだろう。これまでの先行研究におい て は『 坂 の 上 の 雲 』 と い わ ゆ る「 司 馬 史 観 」 が 結 び 付 け ら れ、

司馬遼太郎『坂の上の雲』論

  

――

触媒としての雑誌『中央公論』をめぐって

――

 

 

 

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一五 二十年、敗残兵になりました。もともとは満州にいたので すが、非常に不思議なことに、敗戦の少し前に日本に帰っ ておりまして、栃木県の佐野市で敗戦を迎えました。その まま汽車に乗って、すっかり焼け野原となった大阪を見ま した。   しかし、ぶらぶらしていてもしょうがないと思って、京 都へ行きました。京都の河原町通を歩いていきますと、す べて古きものは無価値になっていました。   そのとき、 一軒の古本屋に、入りきれないぐらいうずた か く、 『 中 央 公 論 』 と『 改 造 』 が 積 ん で あ っ た の で す。 こ れはいいものを見つけたと思いましたね。しかもそのとき の持ち合わせで買えたぐらいですから、ほとんど二束三文 でした。運ぶのが大変でしたが、帰ってきて それらをとに かく読みました。私は大正十二年に生まれて、昭和二十年 には二十二歳になっていました。しかしまだ子供でした 。   自分が生まれて、経た時代がわからなかった 。 (傍線引用者、以下同)   司馬にとって『中央公論』とは、時代を象徴する雑誌であっ たと言えるだろう (注5) 。   『中央公論』は一八九九年の刊行当初、 「誌名の上部に「政治、 続した 「百年戦争」 であったと提唱した論であった。司馬は 「百 年の単位」において、明治維新から「大東亜戦争」までの連続 性 を 認 め て い る。 そ の 上 で、 「 大 東 亜 戦 争 」 が 終 結 す る ま で 日 本人が持っていた「良質の遺伝子」が何であるのかを追及した いと随筆内で宣言した。すなわち一九六四年の時点ではいわゆ る「司馬史観」の特徴は見られず、むしろ戦前と戦後の差異に 着目している司馬の姿が捉えられる。このことは、司馬という 作家ならびに作品を分析する上で重要だと考える。司馬が『中 央公論』に掲載された論評に触発され、日本人の何たるかを解 き明かすことを『中央公論』誌上に宣言したことは注目すべき であるし、これらの三つの重なりは、偶然とは考えにくい。本 稿ではこうした観点に基づき、作家 ・ 司馬遼太郎の動向と、 『中 央 公 論 』 に お け る 論 壇 の 動 向 と を 比 較 検 討 し、 『 坂 の 上 の 雲 』 の成立について考察を行っていく。 二   司馬遼太郎と雑誌『中央公論』   一九八五年、司馬は「雑誌言論一〇〇年」というテレビ番組 内で、 『中央公論』について次のように語った (注4) 。   い き な り 昭 和 二 十 年 以 後 の 話 か ら 入 り ま す。 私 は 昭 和

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一六 る ( 注 8) 。 一 九 六 一 年 以 降、 『 中 央 公 論 』 に 日 本 史 や 宗 教 に 関 す る司馬の論評や対談が掲載されていくようになる。これまで読 者であった司馬が、自身も書き手として加わるようになったと いう点において、一九六一年は『中央公論』との関係性の一つ の転換期であったと指摘できる。当然、司馬はこのとき既に他 の雑誌などの媒体においても活動していた。しかしながら敗残 兵となった司馬が時代の様子を知る手立てとして熟読し、社会 意識の高い読者層と論者を擁する『中央公論』に関わるように なり、 自身の考えを発信していくようになることは、 司馬にとっ ての分水嶺であったと推測される。 三   『坂の上の雲』執筆準備期間   書き手であるということは、読み手でもある。敗戦直後だけ ではなく、それ以降も司馬が『中央公論』を読んでいたという ことは、先に挙げた司馬の「百年の単位」と林房雄の「大東亜 戦争肯定論」の関係からも明らかである。しかし司馬は、批判 を 多 く 呼 ん だ 林 房 雄 の 論 旨 に は ほ と ん ど 言 及 し て い な い ( 注 9 ) 。 その代わり、司馬は「百年の単位」のなかで自身の戦争体験を 明文化し、それと同時に「良質の遺伝子とは何か、ということ 文学、教育、宗教、経済」と頭書し」 、「時の金権社会に対する 批判的態度などを濃くして」 いた雑誌であったという (注6 ) 。こ のような特色を持つ総合雑誌を用いて司馬は時代を紐解いたの だが、司馬が『中央公論』を重視していたのは、敗戦直後だけ ではなかった。   戦 後 の『 中 央 公 論 』 は、 「 論 争 の 場 の 提 供 や 文 芸 面 の 拡 充 等 が企画され(中略)誌上に展開される主題自身の拡散、多様化 が著しくなって」 いった (注7) 。そのような 『中央公論』 について、 一 九 六 一 年 五 月 に 司 馬 は 随 筆「 君 の た め に 作 る 」( 『 放 送 朝 日 』 八四号)のなかで、   「中央公論」を読むひとと、 「平凡」を読むひととは、い ずれも大衆だが、まるで「型」がちがう。 人間への興味の もちかた、活字への馴れ、知っている言葉の量、教養、職 業、社会意識、収入、すべての点でちがいがある 。 と『中央公論』を評した。司馬は大衆雑誌のなかでも『中央公 論』と、そして『中央公論』の読者を一段高く位置づけている 様子が窺える。これは読者の視点というよりは、むしろ書き手 の視点であろう。このようなことを書くに至った背景には、随 筆「 君 の た め に 作 る 」 を 書 く 二 ヶ 月 前 に、 『 中 央 公 論 』 に 司 馬 の随筆が初めて掲載されたという背景が関係していると思われ

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一七   林房雄は「大東亜戦争肯定論」の中で、 「「大東亜戦争」の本 質に関する研究と議論は、いろいろな場所ですでに始まってい るようだ。 『中央公論』だけをとってみても、ここ一年あまり、 この問題をめぐる諸家の発言が目立って多くなっている」と指 摘した。   た と え ば、 一 九 六 二 年 一 〇 月 の『 中 央 公 論 』( 第 七 七 巻 第 一 一 号 ) で は、 「 日 本 を 考 え る 」 と い う 特 集 が 組 ま れ て い る。 見 出 し は、 「 戦 後 十 七 年、 祖 国 喪 失 状 態 か ら の 脱 却 の 道 は?   あらためて問う日本の今日と明日」 である。当時の 『中央公論』 が持っていた問題意識が明確に現れた特集と見出しである。こ の特集の中で小田実は「三代目のナショナリズム」という論評 を書いている。そこでは戦後の歴史教育について日露戦争を取 り上げ、 「「日露戦争は侵略戦争だ」という決めつけは、 客観的 ・ 科 学 的 デ ー タ の 不 足 に よ る 一 方 的 論 断 で 」 あ り、 「 歴 史 教 育 が 今後なすべきことは、その客観性・科学性をさらに徹底するこ とによって、そうした一方的なきめつけでない日露戦争の正当 な評価を子供たちに教えること」 だと主張し、 それによって 「現 在の日本が求めている」 、「現実的で同時に理想にみちたナショ ナリズム」が形成されるとしている。現在の日本を考えるにあ たって、小田実の視点は明治時代(日露戦争)を捉えている。 は、日本の文明を愛する立場で、むろんそれもごく趣味的な立 場 で 考 え て ゆ き た い 」 と 述 べ た。 「 大 東 亜 戦 争 」 に 関 す る 特 集 の 中 に 組 み 入 れ ら れ た わ け で も な く、 『 中 央 公 論 』 の 随 筆 欄 に 寄せられた「百年の単位」は、司馬にとっていかなる位置づけ の作品(随筆)であったのか。   随 筆「 百 年 の 単 位 」 か ら 四 年 後 に、 『 坂 の 上 の 雲 』 は 連 載 が 始 ま る。 連 載 に 先 立 ち、 司 馬 は「 私 は、 こ の た め に 日 露 戦 争 に つ い て こ こ 五、 六 年 来、 で き る か ぎ り 調 べ て き た 」 と 連 載 予 告 で 書 い て い る ( 注 10) 。 こ の 司 馬 の 言 葉 に 則 る な ら ば、 司 馬 は 一九六二年頃から『坂の上の雲』の執筆準備に取り掛かったこ とになる。随筆 「百年の単位」 における 「良質の遺伝子」 とは、 「大東亜戦争」の終結によって「どこかへ消えてしまった」 、維 新史から引き継いできた日本人の性質を示している。この時期 の司馬は明治を中心に幅広い時代を舞台として小説を書いてい た。したがって、それらの作品はいずれも戦国期や明治維新に 活 躍 し た 人 物 を 主 人 公 と し て い る た め、 「 良 質 の 遺 伝 子 」 の 保 有者であることは考えられる。しかし、司馬があえて随筆「百 年の単位」で言及した論評が「大東亜戦争」を冠していること に注意を払えば、より密で重要な歴史的事項が浮かび上がって くる。それが、日清戦争と日露戦争である。

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一八 うとする動きについては、繰り返しになるが、司馬は『坂の上 の雲』の執筆準備期間に入っており、しかもこの時期の『中央 公論』に目を通しているわけであるから、日清戦争と日露戦争 の 解 明 を 行 う 型 に 当 て は ま っ て い る。 も う ひ と つ の、 「 大 東 亜 戦争」を介して現代を捉えるという型については、これは随筆 に表れていると指摘できる。 一九六〇年代から司馬の随筆には、 「 小 説 家 だ か ら 」 と 前 置 き し な が ら、 社 会 に 対 す る 言 及 を 行 う という特徴が見られるのである。 たとえば当時の京都大学総長 ・ 奥田東の卒業訓示「卒業しても、酒とマージャン、読むのは週 刊誌だけというような人間にはくれぐれもなってくれるな」に 触 れ、 「 私 な ど は、 本 来、 世 外 人 で あ る べ き 小 説 書 き で、 意 見 などいわないほうがいい」としながらも、 「〝だけの人間〟がお びただしい勢いでふえている」と苦言を呈している (注 11) 。   また 「新大阪駅での思案― 『期待される人間像』 をめぐって」 (『産経新聞』大阪版夕刊、一九六五年一月二七日)では、同年 一月一一日に発表された中央教育審議会の中間答申『期待され る 人 間 像 』 に 言 及 し て い る。 そ こ で は「 私 は 小 説 家 で あ っ て、 おなじく人間に興味をもつ教育者や政治家とはちがう。だから 「 お ま え は ど ん な 人 間 像 を 期 待 す る か 」 と 問 わ れ て も、 答 え よ うがないのである。そう在るような人間を書いているのであっ   ま た 一 九 六 三 年 三 月 の『 中 央 公 論 』( 第 七 八 巻 第 三 号 ) で は 特 集 こ そ 組 ま れ て い な い も の の、 石 川 達 三「 心 の 中 の 戦 争 」、 大 江 健 三 郎「 ぼ く 自 身 の な か の 戦 争 」、 村 上 兵 衛「 大 東 亜 戦 争 私 観 」 と い う 論 評 が 並 ん で い て、 「 大 東 亜 戦 争 」 に つ い て そ れ ぞ れ が 検 証 を 行 っ て い る。 こ の 組 み 合 わ せ も、 「 大 東 亜 戦 争 」 とは何であったか、現在の日本はどうすべきかという問題意識 に連なっている。三人の論者のうち村上兵衛は「大東亜戦争私 観 」 に お い て、 「 大 東 亜 戦 争 」 の「 徹 底 的 な 研 究 自 体 が、 私 た ち の 今 日 の 生 き 方 を 導 き、 今 日 の 問 題 に 示 唆 を 与 え る 」 と し、 「 歴 史 を じ ぶ ん の 歴 史 と し て 正 確 に 捉 え る こ と が、 今 日 の 平 和 問 題 に お い て も、 そ の 思 想 的 基 盤 と な る と 信 ず る 」 と 述 べ た。 一九六〇年代前半は、林房雄も指摘している通り、 『中央公論』 においては「大東亜戦争」を問い直す時期であったと言えるだ ろ う。 『 中 央 公 論 』 に お け る「 大 東 亜 戦 争 」 を 軸 と し た 論 考 に は、主に二つの型がある。ひとつは、明治期の戦争、すなわち 日清戦争と日露戦争を解明することで「大東亜戦争」を分析す る方法である。それから、 「大東亜戦争」 を顧み分析することで、 今現在の課題に反映し活かそうとするものである。   それでは、司馬はこの時期においてはどのような傾向にあっ ただろうか。まずひとつ目の、日清戦争と日露戦争を解明しよ

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一九 接的に「大東亜戦争」について語ることは少ない。しかしなが ら、 司馬のまなざしは『中央公論』における論者と同じく、 「大 東亜戦争」 、明治時代(日清・日露戦争) 、そして現代社会に向 けられている。したがって随筆 「百年の単位」 は、 「大東亜戦争」 についての議論の活発な時期の『中央公論』において発表する ことに意義があったのだと考えられる。 四   『 坂 の 上 の 雲 』 と 『 中 央 公 論 』 の テ ク ス ト を め ぐ っ て   『 坂 の 上 の 雲 』 の 執 筆 準 備 期 間 に あ っ た 司 馬 は、 明 治 時 代 を 解釈し描くことによって「大東亜戦争」と社会問題に挑むこと を 試 み、 「 百 年 の 単 位 」 は そ の 決 意 表 明 で あ っ た と 考 察 し た。 つまり、ここまで見てきたことは、作家・司馬遼太郎と『中央 公論』の影響関係といえる。そのことを踏まえて本章では、 『坂 の上の雲』と『中央公論』の内容について検討を行う。結論か ら 言 え ば、 『 坂 の 上 の 雲 』 と『 中 央 公 論 』 の 論 評、 そ れ ぞ れ の テ ク ス ト を 比 較 す る と、 『 坂 の 上 の 雲 』 に は『 中 央 公 論 』 か ら の影響と思われる箇所が散見する。とくに一九六〇年代におけ る『中央公論』に掲載された論評は、 『坂の上の雲』の前半部、 日清戦争のくだりに影響を与えていると考えられる。 て、 そうあるべき人間を書いているのではない」としながらも、 「 期 待 さ れ る 人 間 像 と い う 文 章 の な か で、 愛 国 心 の こ と に 触 れ ていた。たしかに大事なことだろう。しかし、一銭のトクにも な ら ぬ 行 き ず り の 人 間 に ち ょ っ と し た 人 間 な み の 態 度 を と る、 ということのほうが、愛国心を説く前に、さしあたって緊急な ことだ」と持論を述べている。成田龍一は『坂の上の雲』の執 筆 後 か ら 司 馬 は「 経 世 的 な 発 言 も 辞 さ な く な る 」 ( 注 12) と 指 摘 し て い る が、 随 筆 を 追 っ て い く と 一 九 六 〇 年 代 半 ば に は 既 に、 経世的な司馬が兆しているのである。   司馬が 『坂の上の雲』 を描いた背景について、 成田龍一は 「『坂 の上の雲』は、一九六〇年代後半から七〇年代にかけての司馬 の 問 題 意 識 に よ っ て 書 か れ た 作 品 」 だ と し た ( 注 13) 。 問 題 意 識 というのは 「執筆時にかかわる司馬の認識」 であり、 作中では 「安 保闘争後の高度成長期に、その社会を生きるサラリーマンの心 性が登場人物の行動や主張と重ね合わせて記され」ると指摘し た。 社 会 背 景 に つ い て は 中 塚 明 も 指 摘 し て お り、 「 日 本 の 高 度 経済成長の気分」に加え「明治百年記念式典」といった社会の 熱 の 影 響 も 大 き か っ た と す る ( 注 14) 。 そ れ ら に 加 え て、 『 中 央 公 論』における論壇の動きと、司馬の動向には多くの共通点が見 られることを重視すべきだと考える。一九六〇年代は司馬が直

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二〇 中国、朝鮮への進出に対抗して、日本はほかにどんな方途をと り得たか」知れず、当時の日本人を非難できないと述べた。ま た司馬の決意表明の契機となった林房雄の 「大東亜戦争肯定論」 ( 注 17) で は 当 然 な が ら「 勝 敗 を 度 外 に お い た、 や む に や ま れ ぬ 戦争」であったと近代の戦争を評価している。司馬の日清戦争 観は『中央公論』の論評の流れに沿ったもので、司馬の中で揺 るぎないひとつの見解となり、そのために司馬は日清戦争を語 り始めるその冒頭から「日本帝国の存亡が賭けられ」た戦争だ ということを明確に示したのであろう。   このように『中央公論』で展開された論旨と一致する記述が ある一方で、司馬が独自の見解を展開している箇所もある。司 馬が日清戦争のくだりで提唱したことは、二項対立的史観に対 す る 批 判 で あ っ た。 司 馬 は ま ず、 「 進 歩 的 学 者 た ち の あ い だ で 相当の市民権をもって通用した」日清戦争史観を示す。つまり 「 日 清 戦 争 は、 天 皇 制 日 本 の 帝 国 主 義 に よ る 最 初 の 植 民 地 獲 得 戦争である」 、「朝鮮と中国に対し、長期に準備された天皇制国 家の侵略政策の結末である」という見方である。ついで、当時 の進歩学者らが主張する内容の対極にあたる「清国は朝鮮を多 年、属国視していた。さらに北方のロシアは、朝鮮に対し、野 心を示しつつあった。日本はこれに対し、自国の安全という立   日 清 戦 争 に つ い て は、 「 戦 争 が は じ ま ろ う と し て い る 」 ( 注 15) と い う 文 章 で 書 き 起 こ さ れ る。 「 日 本 の 近 代 史 が は じ め て 経 験 した」対外戦争であると触れ、すかさず「日清戦争とは、なに か」と問う。日清戦争の記述で特徴的なことは、作者の日清戦 争を解釈するところから始まることである。日清戦争について は、 司 馬 は「 防 衛 」 の た め で あ っ て、 「 清 国 や 朝 鮮 を 領 有 し よ うとしておこしたものではなく、多分に受身」な戦争であった と 主 張 す る。 『 中 央 公 論 』 に 掲 載 さ れ た 論 評 に お い て も、 ほ ぼ こ の 趣 旨 で 似 通 っ て い る よ う に 思 わ れ る ( 注 16) 。 た と え ば『 中 央公論』における「大東亜戦争」検証の先駆けとなった上山春 平の 「大東亜戦争の思想史的意義」 (『中央公論』 第七六巻第九号、 一 九 六 一 年 九 月 ) で は、 「 幕 末 か ら 大 東 亜 戦 争 に い た る ま で の 段階では、軍備なき国家は国家の否定を意味し、植民地化を意 味した 。しかるに、軍備をたくわえ、主権国家を確立し、産業 革 命 を や っ て 先 進 資 本 主 義 諸 国 と 利 害 が 衝 突 す る に い た れ ば、 有効な国際機構のない状況下では、 戦争にうったえる他に道は なかった 」と論じられた。 大井魁は 「日本ナショナリズムの形成」 (『中央公論』第七八巻第七号、一九六三年七月)で「日露戦争 には帝国主義的侵略戦争という性格があったのは事実」だと認 めつつ、 「当時の国際社会を前提として、強大な帝政ロシヤの、

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二一 という信念のもとに展開されていくのである。   司 馬 が 見 せ た 歴 史 科 学 に 対 す る 批 判 に 類 似 す る 論 評 は、 『 中 央公論』には見当たらない。しかし、まったく繋がりがないか というと、そうではない。先に挙げた上山春平の「大東亜戦争 の思想史的意義」には、次のようにある。   私たちは、 はじめあの戦争を 「大東亜戦争」 とよんでいた。 しかし、 いつのころからか、 占領軍のよび方をまねて、 「太 平洋戦争」とよぶならわしになってしまった。それにとも なって、戦争にたいする評価にも変化が生じた。   つまり、 「皇国日本」が「ファシズム」になり、 「鬼畜米 英 」 が「 民 主 主 義 」 に な り、 「 東 亜 新 秩 序 建 設 」 が「 植 民 地侵略」におきかえられる過程で、しばしば、価値評価が 逆 転 し た。 こ う し た 変 化 に よ っ て、 「 皇 国 日 本 」 や「 東 亜 新秩序建設」の楯の反面が明らかになったことは認識の前 進であったが、先進資本主義国と後進資本主義国のナワバ リ争いが、 「平和愛好国」 と 「好戦国」 もしくはデモクラシー とファシズムのたたかいとして、善玉と悪玉のたたかいに すりかえられた 点にごまかしがあった。   鍵語となるのは、 「善玉」 と 「悪玉」 である。この鍵語は、 数度、 上山の論考の内部で用いられている。 この引用文は以下に続く。 場から朝鮮の中立を保ち、中立をたもつために朝鮮における日 清の勢力均衡をはかろうとした。が、清国は暴慢であくまでも 朝鮮に対するおのれの宗主権を固執しようとしたため、日本は 武力に訴えてそれをみごとに排除した」という日清戦争観を挙 げ る。 「 前 者 に あ っ て は 日 本 は あ く ま で も 奸 悪 な、 悪 の み に 専 念する犯罪者のすがたであり、後者にあってはこれとはうって かわり、英姿さっそうと白馬にまたがる正義の騎士のよう」だ と司馬は指摘した。   司馬の主張するところはすなわち現代の歴史科学の「ぬきさ しならぬ不自由さ」であり、歴史家学は「国家像や人間を 悪玉 か善玉 かという、その両極端でしかとらえられない」という指 摘 で あ っ た。 「 善 玉 」 と「 悪 玉 」 に 判 別 す る と こ ろ か ら ス タ ー トする科学は他にないと述べ、その点が歴史科学の「不幸」だ とした。つまり司馬は「善玉」と「悪玉」という歴史の識別を しないと、作者の歴史観を打ち出しているのである。そのため に日清戦争の「定義づけを、この物語においてはせねばならぬ 必要が、わずかしかない」とし、その「わずか」な定義が、二 項対立的史観を排除するということであった。司馬の日清戦争 観は「善でも悪でもなく、人類の歴史のなかにおける日本とい う 国 家 の 成 長 の 度 あ い の 問 題 と し て 考 え て ゆ か ね ば な ら な い 」

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二二 在するかぎり、同じ状況のもとで、ある国家にとって善で あるものが、他の国家には悪である。   この点は、例えば、 第二次世界大戦中のアメリカにとっ て善玉を意味した「平和愛好国」の一部が、今日のアメリ カにとって悪玉を意味する「全体主義国」とされ、逆にか つての悪玉としての 「好戦国」 が、 今日の善玉としての 「自 由諸国」のカテゴリーに入れられていること (中略)等の 事例によって明白であろう。 このように、 「善玉」 と「悪玉」 という言葉を用いて 「大東亜戦争」 (「太平洋戦争」 )について論じているのである。 「善玉」と「悪 玉 」 と い う 言 葉 は 一 般 的 な 用 語 で は あ る ( 注 18) 。 し か し 司 馬 が 重視し読んできた『中央公論』において幾度も「善玉」と「悪 玉」 という言葉が用いられていること、 そして 「善玉」 と 「悪玉」 で表現する対象こそ異なるが、論述の方法として酷似している ことは看過できない。また上山自身が用いずとも、一九六五年 八月の『中央公論』の論評に上山春平の論文が引用されている こ と も 考 え れ ば ( 注 19) 、 司 馬 は『 中 央 公 論 』 誌 上 で 幾 度 も「 善 玉」 と 「悪玉」 という用語を見出しているはずである。また 「善 玉」と「悪玉」という言葉は用いられていないが、先に挙げた 大井魁は二項対立的歴史観を否定する姿勢を見せている。大井   このようなごまかしは、やがて、朝鮮戦争、アルジェリ ア戦争、スエズ戦争などの事実によって誰の目にも明らか となるが、それに先だって、ごまかしを理論的に解きあか す手がかりをあたえてくれたのは、 マルクス主義であった。 それは、日本と米・英とのたたかいを、帝国主義相互の闘 争としてとらえなおす観点を提供した。 この観点によれば、 日 本 を 善 玉、 米・ 英 を 悪 玉 と す る「 大 東 亜 戦 争 」 史 観 も、 逆に日本を悪玉、米・英を善玉とする「太平洋戦争」史観 も 手 前 ミ ソ で あ り、 ほ ん と う は ど ち ら も 悪 玉 に す ぎ な い 。 こうしたマルクス主義の「帝国主義戦争」史観は、はじめ はアメリカ占領軍を解放軍として歓迎した日本共産党の考 えなどを反映して、なんとなく「太平洋戦争」史観とむす びついていたが、朝鮮戦争のころをさかいとして、はっき りこれと手をきった。   さ ら に「 大 東 亜 戦 争 の 思 想 史 的 意 義 」 か ら 三 年 後 に は「 再 び 大 東 亜 戦 争 の 意 義 に つ い て 」( 『 中 央 公 論 』 第 七 九 巻 第 三 号、 一九六四年三月)という論評が掲載され、そこでもまた、 要するに、国家利益にとってプラスのものは善、マイナス のものは悪であって、国家利益が状況に応じて変化するか ぎり、善悪の基準は可変的であり、しかも複数の国家が存

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二三 司 馬 は 歴 史 小 説 を 書 く に あ た り 資 料 を 渉 猟 し、 『 坂 の 上 の 雲 』 のように数年の準備期間を経て作品を書いた。   ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でも ま る で ち が っ た 地 理 風 景 に み え、 そ の な か を 小 さ な 車 が、 小さな人が通ってゆく。   そんな視点の物理的高さを、 私はこのんでいる。つまり、 一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ 出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。お なじ水平面でその人を見るより、別なおもしろさがある。   高みから眺めるという距離感が、司馬にとっては面白く、作 品を書くために必要だったのである。   しかし、これまで見てきた一九六〇年代の司馬は、はたして 明治や昭和と距離を取り、俯瞰できていただろうか。本稿で検 討した日清戦争については、一九六〇年代の段階で司馬なりの 見解には到達しており、俯瞰は成功していると言えるかもしれ な い。 し か し、 「 大 東 亜 戦 争 」 と 昭 和 の 社 会 に 対 す る 認 識 に つ いては、必ずしも間合いを取れていないのではないか。昭和と いう時代に関しては、高所からでなく(高所にいようとしてい たのかもしれないが) 、水平面に近いのではないかと思われる。 一九六〇年代における司馬の動向を見れば、司馬の視点は高み は「日本ナショナリズムの形成」の中で、 「過去を客観視して、 普遍原理の一つで裁いてしまうことでもなく、過去を道徳的に 正 当 化 し て、 そ れ に よ っ て 今 の 日 本 国 を 裁 く こ と で も な 」 く、 「 現 在 の 日 本 の 自 我 に 立 脚 し つ つ、 過 去 の み ず か ら の 姿 を、 誇 りと恐れと恥をもって、ふりかえる」ことが歴史の問い直しに は必要だと論じた。大井魁のこの論は、司馬の二項対立的史観 の否定にも通じるものがある。つまり上山春平の戦争観につい ての論述の方法と、二項対立ではない歴史観の重要性を説いた 大井魁の論を融合し、歴史科学の批判へと転化させたのが司馬 で あ っ た と 言 え る の で あ る。 こ こ に、 『 中 央 公 論 』 の 読 者 で あ りながら、書き手(作家)として知識を取り入れ自身の中で考 察を深化させている司馬の姿が現れている。 五   おわりに   一九六四年、司馬は「私の小説作法」という随筆を書いてい る (注 20) 。そこで司馬は次のように述べた。   あ る 人 間 が 死 ぬ。 時 間 が た つ。 時 間 が た て ば た つ ほ ど、 高い視点からその人物と人生を鳥瞰することができる。   こ の「 俯 瞰 法 」 は、 司 馬 の 歴 史 の 見 方 と し て 知 ら れ て い る。

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二四 い。善と悪で歴史を語ろうとせず、最新の有識者らの論評に触 れ、自身の記憶や葛藤を露見することなく、考えを取りまとめ 結晶化させようとしていた。司馬にとって『中央公論』は、歴 史小説を書く上での重要な触媒であったと言えるだろう。司馬 は昭和を書かなかった (あるいは書けなかった) と言われるが、 そうではないと考える。たしかに「昭和」を冠した作品は遺さ なかった。しかしながら『坂の上の雲』と『中央公論』とを比 較検討することで、 明治時代を描き出しながらも「大東亜戦争」 に肉薄する司馬の姿が浮き彫りとなるのである。 注 1   中塚明『司馬遼太郎の歴史観   その「朝鮮観」と「明治 栄光論」を問う』 (高文研、二〇〇九年)   2   中 村 政 則『 『 坂 の 上 の 雲 』 と 司 馬 史 観 』( 岩 波 書 店、 二〇〇九年)   3   一 九 六 三 年 九 月 か ら 一 九 六 五 年 六 月 ま で 全 一 六 回 に わ た っ て 連 載 さ れ た。 「 大 東 亜 戦 争 肯 定 論 」 は 連 載 の 途 中、 二 度 の 休 止 が あ る。 一 度 目 の 休 止 は 第 四 回 と 第 五 回 の 間、 二度目の休止は第一三回と第一四回の間である。 司馬が 「百 年の単位」で「大東亜戦争肯定論」に言及したのは一度目 の休止中、一九六四年二月のことであった。 か ら の も の で は な く、 読 者 や 論 者 た ち と 同 じ 昭 和 と い う 平 面、 同じ高さに立って、小説や随筆などの作品を書いている。そう いう、平面の位置にいるとき、司馬にとって『中央公論』とい う 総 合 雑 誌 は、 羅 針 盤 の 役 割 り を 果 た し て い た 可 能 性 が あ る。 論評の是非はさておき、司馬自身がどう考え、刺激を受けたの か と い う 点 に お い て、 『 中 央 公 論 』 は 重 要 な 雑 誌 で あ っ た と 捉 えられよう。一九六〇年代、羅針盤の針は「大東亜戦争」を指 し 示 し て い た。 し か し、 司 馬 は 目 に 見 え る 形 で「 大 東 亜 戦 争 」 論 争 に は 加 わ ら な か っ た。 そ の 代 わ り に、 「 大 東 亜 戦 争 」 に 連 なる過去の戦争、すなわち日清・日露戦争を考察することにま ず着手したと言えよう。これまで見てきた『坂の上の雲』成立 までにおける司馬の動向を見れば、一九六〇年代における司馬 の作家としての射程は、明治時代に留まるものではなく、また 暗い昭和像と固定してしまうのでもなく、明治から昭和までの 連続性を意識していたもであった。   後年、司馬は『坂の上の雲』において否定していた二項対立 的史観を引き起こし、昭和と明治を対立させるに至る。そして 司馬に対するイメージは 「司馬史観」 に捕らわれるようになる。 し か し 一 九 六 〇 年 代 の、 『 坂 の 上 の 雲 』 を 書 こ う と し て い た、 また書き始めたばかりの司馬には、そのような史観は見られな

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二五   13   成田龍一『近現代日本史と歴史学   書き替えられてきた 過去』 (中央公論新社、二〇一二年)   14   中塚明   前掲書   15   本論文の『坂の上の雲』の引用はすべて司馬遼太郎全集 第二四~二六巻(文藝春秋、一九七三年)による。   16   防衛戦争か侵略戦争かという論で割れるのは、日露戦争 以降(大東亜戦争を含む)である。中村政則(前掲書)は 「 主 観 的 外 圧 と 客 観 的 外 圧 を 区 別 す る こ と な く、 い わ ば 日 本側の恐怖心(主観的外圧)を強調する」林房雄の「大東 亜戦争肯定論」と『坂の上の雲』は同じだ(ただし林房雄 と司馬では 「大東亜戦争」 の解釈については異なっている) と指摘している。しかし司馬は日清戦争を描く段階で「そ の強烈な被害者意識は当然ながら帝国主義の裏がえしであ る」ことに気がついており、手放しに日露戦争を防衛戦争 と し て 書 い た と は 考 え に く い。 『 坂 の 上 の 雲 』 の 後 半 を 占 める日露戦争の問題については稿を改めて考察を行う。   17   林房雄「大東亜戦争肯定論   第六回   日清戦争と三国干 渉―『日本の悲壮な運命』 」( 『中央公論』第七九巻第五号、 一九六四年五月)   18   「 陸 軍 悪 玉 論 」 と い っ た 表 現 も あ る こ と は 考 慮 し な け れ   4   司 馬 遼 太 郎『 司 馬 遼 太 郎 が 語 る 雑 誌 言 論 一 〇 〇 年 』( 中 央公論新社、一九九八年)本書は、一九八五年一一月二五 日~二八日に放送された NHK 教育テレビ ・ ETV8 スペシャ ル「雑誌言論一〇〇年」を採録したものである。   5   雑誌『改造』については後考を期す。   6   日本近代文学館、小田切進編『日本近代文学大辞典   第 五巻』 (講談社、一九七七年)   7   日本近代文学館、小田切進編   前掲書   8   司馬遼太郎「生きている出雲王朝」 (『中央公論』第七六 巻第三号、一九六一年三月)   9   林房雄の論旨は「大東亜戦争」を開国時から継続する防 衛戦争であったと主張しているために批判も相次いだ。 『中 央公論』 第八〇巻第九号 (一九六五年九月) では 「特集 「大 東亜戦争肯定論」批判」という特集が組まれている。   10   司馬遼太郎 「明治の若者の気分 (「坂の上の雲」 連載予告) 」 (『産経新聞』大阪版朝刊、一九六八年四月一〇日)   11   司 馬 遼 太 郎「 だ け の 人 間 」( 『 産 経 新 聞 』 大 阪 版 夕 刊、 一九六四年三月二六日)   12   成田龍一『戦後思想家としての司馬遼太郎』 (筑摩書房、 二〇〇九年)

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二六 ばならない。   19   大島康正「大東亜戦争と京都学派―知識人の政治参加に ついて―」 (『中央公論』第八〇巻第八号、 一九六五年八月) では「もともと先進資本主義国と後進資本主義国のナワバ リ 争 い に す ぎ ぬ も の を、 「 平 和 愛 好 国 」 と「 好 戦 国 」 と い う善玉か悪玉のたたかいにすりかえた」という上山春平の 歴史観が引用されている。   20   司 馬 遼 太 郎「 私 の 小 説 作 法 」( 『 毎 日 新 聞 』 朝 刊、 七 月 二六日) (とどろばる   あさみ/本学大学院博士後期課程) キーワード=司馬遼太郎、坂の上の雲、中央公論

参照

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