F.ガタリの記号論的ダイヤグラムとM.フーコーの言説分析
Le diagramme sémiotique de F.Guttari et l’analyse du discours de M.Foucault
亘
Akeshi Watari
明 志
長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所紀要
11巻1号
Bulletin of the Research Institute of Regional Area Study
Nagasaki Wesleyan University
F.ガタリの記号論的ダイヤグラムとM.フーコーの言説分析
*1)亘 明 志**
Le diagramme sémiotique de F.Guttari et l’
analyse du discours de M.Foucault
Akeshi Watari **
* Received February 28,2013
** 長崎ウエスレヤン大学 現代社会学部 社会福祉学科、Faculty of Contemporary Social Studies,Nagasaki Wesleyan University,1212 1 Nishieida,Isahaya,Nagasaki 854 0082,Japan
キーワード 記号論、言説分析、素材、ガタリ、フーコー 要旨 記号論は「意味」の問題をその「かたち」を通 して解明しようとする。ソシュールが約100年前 に「やがて、意味を科学する、記号論のようなも のが登場するだろう」と予言したように、それは ことばやコミュニケーションの分析に大きな貢献 をもたらしたのみならず、文化や社会の見方をも 大きく変えてしまった。ただ、そこにはある種の 限界もあった。すなわち、意味やコミュニケー ションを超えた制度や権力などの非言語的対象を どのようにとらえるのかという問題である。この 点について、F.ガタリはソシュールの系譜を受 け継ぐデンマークの言語学者イェルムスレウの記 号の地層学的分類を手がかりとして、非シニフィ アン的記号論による制度分析の可能性を構想し た。また、M.フーコーは言説の持つ意味作用を 超えた物質的特性を通して、権力の分析を行おう とした。本稿では、以上のような記号体系の内部 を突破しようとするガタリの記号論とフーコーの 言説分析について考察する。 0.はじめに 意味という現象は、多かれ少なかれ人間につき まとっている。しかもそれは、目に見える現象で はないし、それ自体としては観察可能ではない。 とはいっても、それはまったく捏造された事実と いうわけではないし、ありもしない観念的対象と いうわけでもない。つまり、人間的社会的現実 に、意味は避けがたく関与しているし、意味を欠 いてはほとんど現実なるものを考察しがたいほど である。 記号論2)は、このような人間的社会的現象とし ての意味へのアプローチの一つである。もちろ ん、意味自体は観察可能ではないのだから、何ら かの手がかりが必要になる。記号論は、とくに意 味を担う記号の形式に着目してそれを解明しよう とする。 たとえば、意味を担う記号形式としてのことば を取り上げてみよう。ことばは、主として音声に よって表現される。ところで、ことばを表現する音 声に対しては、二つの視点、二つのアプローチが 考えられる。音声を物理現象として見ればそれは 連続的である(もちろん、断続もあるわけだが、 物理的な断続は、言語音として認知される断続と は一致しない)。このような連続的な音声を、物 理的に、あるいは生理的構音メカニズムとして研 究するアプローチを、音声学(phonétique)とい う。 これに対して、音声が言語音として認知される 形式を扱うアプローチは、音韻論(phonologie) と呼ばれる。たとえば、/きん/と/ぎん/は、 大きな声で発音されたか小さな声で発音されたか などには関わりなく、/k /と/ g /の無声性と 有声性においてのみ異なっているが、この対立の 形式は意味にとって関与的である。音韻論が研究 対象とする言語音として認知される音声の形式 (音素)は、意味にとって関与的でありうるような 対立の形式によって構成される。 同じくことばを表現する音声を対象とする場合 でも、物理音ととらえるか、形式化された言語音 ととらえるかという違いがある。前者は自然的秩 序の側からアプローチしているのに対し、後者 は、文化的秩序の側からアプローチしている。 意味は、言うまでもなく文化的秩序の側に属し ている。ただ、意味それ自体は観察可能ではな い。そこで記号論は、音韻論が意味に関与的な対 立の形式を対象とするように、意味に関与的な記 号形式を手がかりとして意味にアプローチするわ けである。ところで、どのように記号形式を問題 とするかは、さまざまな可能性があるわけで、記 号論と呼ばれるもののうちにも、いくつかのタイ
F.ガタリの記号論的ダイヤグラムとM.フーコーの言説分析 プがある。 まず、比較的よく知られているものとして、プ リエート(Prieto[1966])によって提起された 「コミュニケーションの記号論」と「意味作用の 記号論」という分類がある。「コミュニケーショ ンの記号論」は、コミュニケーションの意図が明 示的に認知されるような記号(プリエートは広い 意味で「信号signal」という用語を使っている)を 扱う。これに対して「意味作用の記号論」は、コ ミュニケーションの意図が明示的には含まれてい ないにもかかわらず、解読者の側がそこに意味を 見出すような記号を対象とする。たとえば、R. バルトが対象としたようなモードとしての、衣服 の意味作用の場合がそれにあたる。 この分類は、「コミュニケーションの意図」が 基準になっている。「コミュニケーションの記号 論」にとって、この基準は一つの「ふるい」とし て機能しており、客観的かつ厳密ではあるが、扱 われる対象は狭くなり領域的には貧しくなる。一 方、「意味作用の記号論」の方は、ほとんどあら ゆる現象から人間は意味を読み取りうるわけだか ら、扱われる対象は非常に広範囲にわたることに なり、その試みは冒険的なものとなる。 とはいえ、「コミュニケーションの意図」とい う基準自体、明確かつ明示的でありうるだろう か。たとえば、意識的レベルを超えた「無意識的 意図」まで含むならば、この基準はあいまいにな るし、したがって「コミュニケーションの記号 論」と「意味作用の記号論」の境界もあいまいに なる。 次に、意味を同定するものとしての「構造」と 「主体」を基準とする分類をみてみよう。これ は、クリステヴァ(Kristeva[1969a=1981])に よっても提起されているが、ここでは単純化した 形で述べてみる。 第一に、意味の同定を「主体不関与の構造」に 求める理論がある。これは、いわば「提示された ままの意味」を対象とし、構造内の文節、記号間 の差異などを論ずる。クリステヴァは、この種の 理論を「言表(énocé)理論」と呼び、ソシュー ルの「言語は一つの体系である」という命題に基 づいているとする。語る主体の問題はそこでは排 除されているか、構造をささえる意識的主体が (暗黙のうちに)仮設されている。構造主義的記号 論は、このタイプの理論に含まれる。 第二のタイプの理論は、「言表」ではなく「言 表行為(énociation)」を問題とすることで、意 味の同定を「言表行為の主体」に求める理論であ る。そこでは「状況におかれた語る主体」が配慮 されている。主体(厳密には「超越論的主体」) は、つねにすでに意味の保証としての審級を占 め、主体の内部において、しかもその内部におい てのみ、意味が問題となる。 第一のタイプ、第二のタイプの理論は、意味の 同定を「構造」に求めるか「主体」に求めるかの 相違はあっても、問題を「意味への還元」の相に おいてとらえる点では共通している。しかし、第 三のタイプの理論は、むしろ意味そのものを還元 しようとする。意味以前の状態からどのようにし て意味が生み出されるのか、つまり「意味形成 (signifiance)」が問題となるわけであり、意味を つなぎとめる「構造」や「主体」の枠を越えて、 いわば「構造以前」「主体以前」に遡ろうとする。 これは「意味生成の記号論」と呼ぶことができる が、クリステヴァによれば、こうした方向は、ソ シュールの「アナグラム研究」の中に予告されて いたという。 クリステヴァの「意味生成の記号論」は意味以 前へ遡行する試みと言えるが、本稿ではイェルム スレウの記号の地層的分類に基づいて、特定のシ ニフィアン(記号表現)による権力的な記号論か ら脱出しようとするガタリの記号論の試みについ てまず取り上げてみたい。 1.ガタリの記号論 F.ガタリは、「制度のなかにおけるシニフィア ンの位置」(Guattari[1977])のなかで、記号論 がその体系を自ら閉じるために用いている分析概 念を、いわば逆手にとって、記号論のダイヤグラ ムとでもいうべきものを作成している。いささか 形式的な手さばきではあるものの、記号論の持札 を利用しつつ、記号論的体系の外部へ出るために 見取図をつくる試みだといえよう。 ガタリは、一つの迂回路として、イェルムスレ ウの記号の地層学的分類に立ち戻ってみる。イェ ルムスレウによれば、記号は「表現(expréssion)」 と「内容(contenu)」に分割される。これにガ タリは、イェルムスレウのもう一つの分割、「素 材(matiére)/実質(substance)/形式(forme)」 の三分割を重ね合わせてみる。そうすると形式論 理的には、六つのレベルの記号的地層に分類でき る。だが、問題なのは、単に六つのレベルがある ということではない。それらがどのように関連し ているのか、ということである3)。
イェルムスレウの三分割(素材/実質/形式) の導入には、音韻論の成果が重要な契機になって いた。音韻体系は、音素間の差異的な対立関係 (形式)によって構成されるが、そのような差異的 な対立関係がどのようにして音=現実を切り取る ことによって形成されるのかを問題にすることに なると、その切り取り自体(イェルムスレウの言 う「実質」のレベルでの事実)をも分析の視野に 含めなければならない。イェルムスレウは、形式 の 側 か ら、 そ の 拡 張 と し て、 実 質 の 形 式 = 化 (formalisation)をとらえようとした。 これに対してガタリは、むしろ素材(matiére) の側からこの問題をとらえようとする。すなわ ち、素材のレベル(外部)と、実質の形式=化 (内部化)との対立としてこの問題をとらえ、これ までの記号論的分析がどのようなレベルを対象と してきたかを検討するわけである。とりわけ、記 号論の外部への脱出、ガタリの用語で言えば、脱 属領化(détterritorisation)との関連で、諸記号 論の位置が問題とされる。 まず、自然的秩序のレベルにおける情報を「非 記号論的コード化(les encodages a-sémiotique)」 ととらえ、文化的秩序のレベルにおける記号論的 に編制=内部化された実質に基づく記号体系につ いての「意味作用の記号学(les sémiologies de la signification)」とは区別される。 「非記号論的コード化」とは、たとえばDNA などの遺伝情報がその例である。遺伝情報は、情 報としてコード化されてはいるが、いかなる文化 的、したがって記号論的な形式=化も蒙ってはい ない。 一方、「意味作用の記号学」は、記号体系に、 つまり記号論的に形式=化された実質に基づいて いる。それは、表現面においても内容面において も、形式=化の諸関係を維持している。これに は、記号体系の中心化をメルクマールに、二つの タイプの記号論が区別できる。 (1)前シニフィアン的記号学(les sémiologies pré-signifiantes)。これは周縁的諸記号を対 象とするもので、いわば脱中心化された記号 論である。たとえば、未開社会における儀 礼、身体装飾、あるいは中心的言語に対して 周縁に位置づけられるような身ぶりなどを対 象とする。また、文化の中心的価値に対し て、子どもの世界や狂気の世界にみられる周 縁的価値を対立させ、その機能を評定する。 ( 2)シ ニ フ ィ ア ン の 記 号 学(les sémiologies signifiantes)。音声的、視覚的、あるいはそ の他の表現の実質は、唯一のシニフィアンの 実質によって中心化されることで、意味作用 を可能とする記号体系を形づくるが、それは また「シニフィアンの専制体制(la dictature du signifiant)」でもある。シニフィアンの 記号学にとって問題となるのは、このような 意味の中心化、属領化(térritorisation)で ある。多中心的な記号論的諸実質がいかにし てシニフィアンの特定の層に依存してしまう のか、そういった問題を、たとえばデリダの 原アルシエクリチュールのように、起源なき起源と して諸記号論を組織している層を想定するこ とによってではなく、むしろ歴史的な日付け をもった、権力の機械として分析しなければ ならない。 これに対して、シニフィアンの記号学とは 逆の分析の方向をもった記号論が考えられ る。つまり、意味の中心化を問題とするので はなく、むしろ意味作用による記号論的編制 の解除、脱属領化を問題とするような記号論 である。 (3)非シニフィアン的記号論(les sémiotiques a-signifiantes)。対象となるのは、記号体系 として形式=化されない二つの次元、表現の 素材としての物質的なものの流れ(flux)と内 容の素材としての意味=感覚の流れ(sens) である。だがそれは、自然的秩序における非 =記号論的コード化の次元とは異なる。それ はなお、文化的、社会的次元における物質性 (matérialité)を問題にしている点で、「記号 論的」と呼ばれうるのである。 シニフィアンの記号学においては、依然と して「内部と外部」の対立に意味があった。 それはいわば「内部化」を標的にしていると いえよう。だが、非シニフィアン的記号論に おいては、「内部と外部」の対立が意味をな さない地平へ出ること、つまり脱属領化が問 題となる。たとえば、ドゥルーズとガタリ (Deleuze et Guattari[1972]) は、 人 間 を 「欲望する機械(les machines desirantes)」
と規定し、無意識をその機械状の作動として 分析したが、それと同じように、あるいはそ の分析をさらにおし進めて、社会体を、中心 化する主体なき社会=機械と規定し、社会的 諸制度を非=意味形成的な機械状作動として 分析すること。そこでは、「内部と外部」の
F.ガタリの記号論的ダイヤグラムとM.フーコーの言説分析 対立それ自体は問題ではなく、むしろ機械状 作動の一効果とみられるにすぎない。 2.フーコーの言説分析 言説(discours)の概念は、『言葉と物』や『知 の考古学』以来、フーコーにおいて重要な位置を 占めている。言説の概念の理論的検討は必要であ るとはいえ、それを方法論的な意味での公理的前 提とみなしてしまうことは、必ずしも妥当ではな い。フーコーにおいて「権力」概念が主要に登場 するのは『監獄の誕生』(1975)以後であるが、こ こではフーコーの著作における時系列的展開を逆 転させて、権力の分析という視点から言説の分析 をとらえなおしてみたい。すなわち、記号概念と のズレを測定することによって言説が権力の関係 において把握されなければならないこと、それゆ え言説は権力の仕掛け=装置にほかならないこ と、真理の言説としての知もまた権力の装置の作 動として分析されること、を指摘したい。 言説は、まず言説的な出来事(événement)の 総体として扱われるべきである、とフーコーは述 べている(Foucault[1971])。出来事とは、実体 でも偶然でもなく、性質でも過程でもない。それ は媒介された物体(corps)の秩序に属してはいな いが、決して非物質的なものというわけではな い。出来事はつねに、無媒介の(idéal/sensible、 forme/substance、signifié/signifiantなどに分割 されない)素材としての性質(matérialité)のレ ベルで結果を生み、結果となる。それゆえ、出来 事としての言説は、記号的意味作用には還元しえ ない。それは、記号によって構成されるものとは 幾分かずれている。 言説とは、編制の同一システムに属する諸言表 (énoncés)の総体である(Foucault[1969]p.153)。 言表は、言説編制の特殊な諸形態において標定さ れうるような点であり、言説の単位・要素であ る。 言 語 学 的 に は、 言 説 あ る い は 談 話 (discours;discourse)は、文や命題よりも上位に ある単位と考える場合が多いが、ではそうした言 語学的単位と、フーコーの言う〈言説〉、あるいは その要素である〈言表〉とはどのような関係にあ るのか? フーコーは、論理学的単位である「命題」、言 語学的に分離される文法的単位としての「文」、 そして発話が同時に行為であるとする「言語行為 (speech act)」などと、言説の要素である言表の 概念とを比較する。 まず、命題においては、その真偽が問題になる が、言表は、真偽ではなく、その独自の編制規則 において把握される点が異なる。たとえば、「誰 も理解しなかった」と「誰も理解しなかったとい うのは真実である」というのとでは、論理学的観 点からは区別しえないが、言表としては等価では ない。それゆえ、言表を記述=分析するのに、論 理学的基準は十分なものではない。 次に文は、一定の文法的形式に従う言語学的単 位ではあるけれども、言表はそうした形式性にし たがわないものも含まれるし、さらには言語記号 以外のものもやはり言表とみなされる場合があ る。たとえば、植物種の分類図表、数学の方程 式、グラフなども言表である。それゆえ、文と言 表は等価ではなく、また文法的諸特徴によって言 表を規定することはできない。 最後の可能性として「言語行為」の概念が残っ ている。これはもっとも言表に近いようにみえ る。J.L.オースティンは、「言葉を発する(issue an utterance)」という行為を三種類に分析した (Austin[1960])。第一に、発語行為(locutionary act)は、何ごとかを言うという行為(an act of saying something)そのもの、すなわち、ある種 の音声を発し、一定の文法的秩序に従って、一定 の意味を持った語連鎖を形成するという行為を指 す。次に発語内行為(illocutionary act)は、何ご とかを言うことにおいて遂行される行為(an act in saying something)である。話し手は発語しつ つ同時に、報告、約束、命令、警告などのさまざ ま な 行 為 を 遂 行 す る。 そ し て 発 語 媒 介 行 為 (perlocutionary act)は、何ごとかを言うことに よ っ て 遂 行 さ れ る 行 為(an act by saying something)である。話し手は発語によって、結 果的に聞き手の思考、感情、行為などに影響を与 える。 オースティンは、内閉的な記号的意味作用の コードという観点からではなしに、行為の内在的 条件および行為が生じるコンテクストという観点 から言語を分析している。言語行為は言表と同じ く、話すとか書くとかいう行為の種別それ自体に 従属するわけではないし、個人の主観性にその根 拠を持っているわけでもない。それはまさに、言 表があったという事実そのものから生じている。 けれども、言語行為において問題となるのは、あ る発話が約束や警告となりうる一般的諸条件とは 何かということである。こうした諸条件の定式化 において言語行為は、言表が要請するものと一義
的には対応しない。言表の分析において問題にな るのは、可能的な統一化の諸条件ではなしに、一 つの言表が言説編制によって標定される位置の測 定(ある言表がなぜ、いかにして、そのしかるべ き位置を占めているのか)であり、内閉化や排除 の、あるいは分散や増殖のメカニズムである。 フーコーが言説の分析において、命題・文など の論理学的・言語学的モデル、あるいは言語行為 分析のモデルを退ける理由は何か? 退けるとい うよりも、問いそのものを転換する理由は何か? 言語学的な問いは次のようなものである。いか なる規則によって、ある文は産出され、したがっ てまた、同様の可能な文法的文が産出されるの か? そのときそれは、いかなる意味作用を帯び るのか? これに対して言説の分析は次のような 問題を提起する。ある言説がその独自性のもとに 一定の場所を占め、他の言説が排除されるのはな ぜか? その編制の諸規則はいかなるものであ り、多様かつ希薄な言説空間においてどのように してトポロジカルな変換が生じるのか? このような問いの転換において、言説は、透明 な意味作用のもとにではなく、素材性のレベルに おける出来事として把握される。言説編制とは権 力の関係であり、言説=出来事の無媒介な(つま り記号の意味作用に還元されない)素材性におい て微分的に作用する。記号としての言語が権力の 関係によって微分されるとき、意味の束縛を超 え、素材としての言説の相貌が現れる。言説とは 権力という名の仕掛け=装置にほかならない。言 説の分析において問題となるのは権力の関係であ り、他方論理学的あるいは言語学的分析において ほとんど捨象されるのはこの権力の関係である。 権力の分析としての言説分析は、知(savoir) と権力の関係についての伝統的命題を逆転させ る。権力分析の観点から言えば、特定の言説的実 践としての知には、ことごとく権力の関係が貫通 している。というのも言説的実践が、特定の権力 的主体に還元されるから権力的だというわけでは ない。主体は言説の外側にあるのではなく、言説 編制に従って、言説の内部の特定の空間を占め る。それは、言説の装置によって生み出される効 果であり、またその部分品である。言説に対して 権力は外在的に作用するのではなく、言説の形式 それ自体に内在している。特定の支配的主体への 還元は、知(真理の言説)と権力との関係を曖昧 にする。 知が真理の要請に従うとき、権力から自由にな りうるのではない。逆である。知が権力の装置と して作動することによって真理を産出するとき、 その言説編制の内部で、それは「普遍的価値」を 持つものとしての位置を占める。言説の意味作用 からみれば、つねにすでに「普遍的に真理」であ るかのような言説として立ち現われてくる。した がって、言説における権力関係の分析は、真理の この追補(supplément)、権力の関係から見れば 装置の効果であるのに、つねにすでに真理である ことが自明であるかのように見えさせるもの、こ のような言説におけるこのズレの作用と内閉化を 記述=分析しなければならない。 3.非シニフィアン的記号論と権力分析 ガタリの非シニフィアン的記号論は、フロイト の精神分析がシニフィアンの記号学(シニフィア ンの専制体制)の枠内の意味作用に還元されるこ とによって解釈されることに対する批判から生ま れたものであった。ガタリは精神分析が閉じ込め られているシニフィアンの記号学を脱属領化する ために、イェルムスレウを援用して素材(matiére) のレベルに非シニフィアン的記号論を構築しよう とした。そこでは、精神分析において語られる言 葉がつねにすでに権力構成体にからめとられてい るとして、制度分析の必要性が主張される。 他方、フーコーの言説分析においては、言説が 論理学や言語学の対象とは異なるレベルにあると される。ではそれはどのようなレベルなのか? 突き詰めていくとそれは、イェルムスレウの言う 素材(matiére)のレベルにおける権力作用とそ の効果ではないだろうか? ガタリが精神分析におけるシニフィアンの専制 体制から脱出しようとして素材のレベルにおける 制度や権力の問題にぶつかった。フーコーは言葉 の持つ意味作用の檻から出て、言説としてとらえ ようとしたとき、権力の問題に遭遇したと言えよ う。両者は、表面上の諸概念や当面する具体的問 題の相違にもかかわらず、深いレベルでは共通の 地平に立っていたととらえることができよう。二 人の探究の軌跡は、記号的意味作用を超えて、制 度や権力などの社会的なものがどのようにして問 題になってくるのかを示唆している。 注 1)本稿は2012年~2014年度日本学術振興会科学研 究費補助金(基盤研究(C)課題番号24530610) に基づく研究成果の一つである。
F.ガタリの記号論的ダイヤグラムとM.フーコーの言説分析 2)「記号論」という名称とともに「記号学」とい う言い方も流通している。一般に、ソシュール 起源のsémiologieに対して「記号学」を、英米 系の(とくにパース起源の)semioticsに対して 「記号論」の語をあてることが多いようである。 ここではガタリの用法に基づいて両方の用語を 当てているが、必ずしも厳密なものではない。 3)「言語は形式(forme)であって、実質(substance) ではない」というソシュールの原理は、つまり 言語が物理的・生理的・心理的事実の集成体で はなく、各要素間の関係(rapport)から成る、 ということを意味する。イェルムスレウは、こ の原理を受け入れ、再解釈し、さらに押し進め た。ソシュールの言う実質とは、言語のあらゆ る使用から独立した音的、意味的現実の連続体 の こ と で、 こ れ を イ ェ ル ム ス レ ウ は「 素 材 (matiére←mening)と呼ぶ。そして、諸要素を 定義する関係の網を「形式(forme)」と呼び、 関係の網の、素材への投影、すなわち切り取り、 布 置 と 解 さ れ る 概 念 を「 実 質(substance)」 とみなした。形式/実質/素材の、この三つの レベルは、「表出(manifestation)」によって 関係づけられる。すなわち、実質とは、形式が 素材に表出されたものにほかならない。した がって、ソシュールの記号の定義(ソシュール は 記 号signeをシニフィアンsignifiantとシニ フィエsignifiéの両面から構成されるとする) を、ここで言う「表現/内容」と対応づけるな らば、「表現の形式」がシニフィアンに、「内容 の形式」がシニフィエにあたることになる。 文 献
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