中間自治体間の公共投資をめぐる競合とその帰結
-大阪湾ベイエリア開発を事例に-
林 昌 宏
はじめに
2011 年 11 月 27 日に実施された大阪府知事選挙と大阪市長選挙が全国 的な注目を集めたことは記憶に新しい。これらの選挙では「大阪都構想」 が大きな争点になり「二重行政」1) すなわち大阪府と大阪市の提供する行 政サービスの重複(たとえば、水道事業や府立・市立大学)や、両者の非 協力的な関係が改めてクローズアップされた。 このような「二重行政」と呼ばれる問題について山崎幹根は、次の 3 つ の特徴を示している。ここに列記すると、①垂直的に並立する行政組織の 間で、主として都道府県と市町村、あるいは国と都道府県(または市町村) との間において生じる現象であり、また、同一組織内部の空間的、垂直的 な部門間においても生じる場合があること、②主として、垂直的に並立す る行政組織が、それぞれ重複する区域および区域内の住民に対して、同一 政策分野における類似政策を実行する状態のこと、③組織間の調整、政策 実行上の役割分担の整理が不足、または欠如していることによって、政策 の実行に非効率が生じたり、民主的統制の阻害要因などの弊害を生んだり 1)これらの選挙では、当時大阪府知事であった橋下徹が「府市合わせ(不幸せ)」 という例え方をしたことでも知られる。ダブル選挙の詳細については、砂原[2012] に詳しい。また、政令指定都市の近年の代表的な研究として北村[2013]がある。すること、以上の諸点である2) 。 しかし、こういった問題は、大阪に限定された問題ではない。大阪府に 隣接する兵庫県では、それと全国屈指の大都市である神戸市が行政サービ スの実施をめぐって、かつてライバル関係にあったという事実は、よく知 られている3) 。それから都道府県や政令指定都市といった「中間自治体」 である大阪府、兵庫県、大阪市、神戸市は、これまでに公共投資、特に都 市開発や大阪湾ベイエリア開発をめぐり、激しい競争を繰り広げてきた。 筆者は、これらについて分析を続ける過程で、背後に存在しているはずの 制度や利益はどのようなものか、それから中間自治体と他のそれらの関係 が協調的でないこと、換言すれば競争的であることによって、それは周辺 にどういった影響を及ぼすのか、などの点に関心を抱くようになった。 こうした実態や問題関心をもとに本研究は、公共投資をめぐる中間自治 2)詳細は、山崎[2012]51-52 頁を参照されたい。なお、本研究では、山崎の指摘 の②を中心に扱うことになる。 3)たとえば、1974 年 10 月 5 日付の『神戸新聞』は、当時の兵庫県と神戸市の関係 について次のように評している。 六甲山を背に、神戸の市街地を見おろす兵庫県庁舎。向き合って、神戸港 の入り口から見上げる格好の神戸市庁舎。 こちら「山手会社」あちら「浜手会社」と職員たちはくだけた呼び方をする。 “山手”が瀬戸内海の浄化作戦で公害行政を売り込めば“浜手”は汚染物質 の総量規制で巻き返し。消費者保護から相談ごとまで幅広くサービスを相勤 める市民局が誕生すると、時を移さず県民室。老人医療費の無料化、難病・奇 病の助成-いずれが口火を切るともなく、住民にその意を迎えようと張り合 って、“営業成績”を競うライバル会社のおもむき。 「本来、都道府県と市町村は役割が違う。ところが指定都市は府県と同格の 権限を持っている部分がありますからね。府県側にとってはやりにくい存在。 同じような仕事をするときは、つい対抗意識をムキ出しにしがち」(宮元義雄 全国知事会事務局調査第一部長) 県が発表する各種の統計。消費者物価指数、生活保護世帯数、公衆浴場数 -その多くにただし書きがある。「神戸市分を除く」と。四百九十万県民を対 象とした行政事務でありながら、実際のところは神戸市の百三十万人を除い た三分の二強の県政となっている部分がかなりあるのだ。 (『神戸新聞』1974 年 10 月 5 日)
体間の競合は、どのようにして引き起こされているのか。そして、それが 広域的な開発プランや基礎自治体の政策決定にいかなる影響を及ぼしてい るかを明らかにする。そのために本研究では 1950 年代から 1960 年代にか けての大阪湾ベイエリア開発を事例として取り上げ、分析を進めていく。 本研究において半世紀前の大阪湾ベイエリア開発を取り上げる第 1 の理 由は、この事例が中間自治体間の競合の実態を把握しやすいためである。 この背景には、1950 年に港湾法が制定され、港湾整備事業が港湾管理権 を移譲された地方自治体(主に都道府県・政令指定都市レベル)によって 実施されるようになったことがあげられる。地方分権的な制度を背景に、 兵庫県、神戸市、大阪市をはじめとする中間自治体は、それぞれが管理す る港湾の大規模化や荷役の増大を目指して、他のそれらと競争を繰り広げ たのである。また、戦後の工業地帯の造成に代表される地域開発に、中央 政府のみならず地方自治体が積極的に関与していたという事実も見逃すこ とはできない。本研究では主に、神戸港の管理権をめぐる兵庫県と神戸市 の対立、神戸港(神戸市が管理)や大阪港(大阪市が管理)の大規模化、 兵庫県による播磨工業地帯の開発を分析する。 第 2 の理由は、前述した中間自治体の競合の影響を顕著に受けた 2 つの 具体的な実例-(1)大阪湾の港湾の広域的な管理・整備を目指した阪神ポー ト・オーソリティ構想の登場と頓挫、(2)兵庫県西宮市における石油化学 コンビナートの誘致計画とその失敗4) -が存在しているためである。前者 は神戸市と大阪市の競合が原因で、後者は兵庫県、神戸市、大阪市の競合 に加え、西宮市内外の経済的・社会的環境が大きく変化したことによって 白紙撤回を余儀なくされた。本研究は、これらの分析を通じて公共投資を 4)この事例については、酒造組合を中心とする西宮市民の反対によってコンビナ ート誘致が失敗に終わったと評価されることが一般的であり、一部では日本初の コンビナート誘致阻止運動とも言われている(たとえば、西宮現代史編集委員会 [2006])。しかし、こうした分析や捉え方は、開発主体である兵庫県の動向や、そ の他の地域開発構想や同計画に目配りができていないといった問題点があり、決 して首肯できるものではない。
めぐる中間自治体間の競合がどういった影響を周囲に及ぼしているのか、 その実態について明らかにしていく。
1.分析視角とその方法
本章では、まず公共投資5) をめぐる競合に関する先行研究について考察 する。 近年、道路や空港の整備事業など、わが国では公共投資に対して批判や 見直しを求める意見が後を絶たない。公共投資に対する批判は、代表的な ものとして波及効果の問題、供給過剰による弊害、地域間の配分の格差、 予算など財源の不透明性などがあげられる。これに関連して、今から半世 紀以上も前の 1960 年に財政学者の島恭彦は、公共投資が企業間の競争に ひきずられて無統制で重複しやすいものとなりやすいことや、公共投資が 民間投資のみならず他の公共投資と競合することを指摘している6) 。 島の指摘は、公共投資が抱える構造的な問題点を捉えたものであり、今 日の状況にも通じる興味深い内容である。ただし、公共投資は、島が指摘 するような有機体ではない。それゆえ、それら同士が競合することは、あ り得ない。複数の公共投資の間で競合が展開されると位置づけるのではな く、それを実施する政府間の競合として捉えるのが妥当である。これを踏 5)公共投資には行政投資と産業投資があるが、前者のみを取り出して狭義の公共 投資とよぶこともある。行政投資は、国の一般会計、地方公共団体の普通会計、お よび非収益的事業特別会計を通して行われる投資である。国の一般会計の中から まかなわれる公共事業は、公共投資による事業の一部である。ただし、予算項目 にあがっている〈公共事業費〉は公共投資額に含まれない用地費や補償費を含ん でいる。行政投資の例としては、道路、港湾、河川、土地改良、造林、文教・福 祉施設、都市計画などがある。産業投資は、国または地方公共団体の収益的事業 における資本形成であり、政府関係機関、公団、営団、地方公営企業等の投資を 含んでいる。(大阪市立大学経済研究所[1992]386 頁) 本研究では、行政投資と産業投資をあわせて「公共投資」と捉えることにしたい。 6)島[1960]32 頁。まえて本研究では、公共投資をめぐる地方政府と他のそれらの競合、とり わけ権限などの関係から、それを実施することの多い中間自治体間のそれ に着目する。 さて、政治学の分野では、中間自治体を含め、地方-地方政府間関係に 焦点に当てた研究が数多く存在する。なかでも地方政府(自治体)が他の それらと競争的な関係になりやすいことを明らかにした先行研究は、その 要因として地方政府の開発志向7) や「横並び」志向(水平的政治競争モデ ル)8) のほか、地方政府が他のそれの政策を相互参照する動き(動的相互 依存モデル)9) を示している。近年では地方分権化の進展にあわせて、経 済学の視点から地方-地方政府間関係を分析する動きも現れている。経済 学者の田村宏樹は、地方分権が進展したもとで展開される地方政府間の政 策競争は、互いに競争し合うことで社会的厚生の改善に結びつけば「有益 な政策競争」となり、限られたパイを奪い合うことで他地域の犠牲の上に 自地域の利益拡大が図られるならば「有害な政策競争」になると指摘す る10) 。これらの研究は、地方政府間の関係が競争的になることを明らかに したものとして評価できる。 つづいて、中間自治体と他のそれらの関係に着目した研究を見てみよう。 本研究では、都道府県、政令指定都市を「中間自治体」として位置づけて いる。これらの関係が対立的あるいは競争的であると指摘した研究は、半 世紀以上も前から政治学・行政学の分野で存在している。 長濱政壽は、府県と都市の対立を「権力欲」に基づいたものであると指 摘する11) 。三宅一郎と村松岐夫は、わが国の市町村の政治行政が通常、都 道府県との緊密な協力関係のもとで行われるのに対して、政令指定都市は、 7)Peterson[1981]。なお、Peterson の研究については、曽我[1994]に詳しい。 8)詳しくは、村松[1988]による。 9)詳しくは、伊藤[2002]による。 10)田村[2013]176 頁。 11)長濱[1956]5 頁。長濱がこの論文を発表した 1956 年に地方自治法が改正され、 政令指定都市制度が導入されている。
多くの権限を委譲されていることなどから都道府県の後見的干渉を受けな い立場にあり、そのため両者の関係は緊密なものになりにくいと指摘す る12) 。さらに水口憲人のように、都道府県と政令指定都市は、水平的協力 関係について視野から欠落させる傾向にある13) と指摘する論者も存在して いる。これらのほかに占領期の神奈川県と横浜市の対抗関係について詳細 に分析した天川晃の研究がある14) 。こうした都道府県と政令指定都市(大 都市)のライバル関係は、長きにわたって解決されてこなかった問題であ ると言えよう。 それでは、地方自治体が他のそれらと競合することによって、どういっ た帰結が導かれるのか。この点については、それぞれの地方自治体が利益 の獲得を目指して自律性を高め、活動量を増大させようとする動きが見ら れる15) 。具体的には、新しいアイディアの提案・導入や多様な財源調達の 方法を開発するなどがある。それから、それぞれの地方自治体が自律性を 高め、政策の実現に向けて動き出すことによって、中央政府の意向に従順 ではなくなったり、中央政府の特定の(後ろ盾になりそうな)省庁と結び 付きを強めようとしたりする。そのほかにも、場合によっては民間企業と 提携するなどの事態が起こっている16) 。 さて、これらの先行研究を踏まえると、地方自治体と他のそれらとの関 係は、明らかに競争的な性格を備えている。ひとたび競争的な関係が生ま 12)三宅・村松[1981]10 頁。 地方自治法第 252 条の 19 には「政令で指定する人口五十万以上の市(以下「指 定都市」という。)は、次に掲げる事務のうち都道府県が法律又はこれに基づく政 令の定めるところにより処理することとされているものの全部又は一部で政令で 定めるものを、政令で定めるところにより、処理することができる」とある。 政令指定都市と都道府県の業務には、福祉関係や都市計画など重複するものが 多い。しかし、警察の設置など都道府県にしか認められていない業務も存在して いる。 13)水口[1982]8 頁。 14)天川[2001]を参照のこと。 15)この点についての詳細は、林[2010a]で明らかにしている。 16)これらは、林[2010b]で詳しく紹介している。
れると、それぞれの地方自治体が自律性を高め、活動量を増大させようと するといった特徴が見られる。しかしながら、先行研究や、これまでの筆 者の研究では、どのような背景(制度や利益)のもとで地方自治体が他の それらと競合するのか、あるいはそれによって周囲にどういった影響を及 ぼしているのかというところの分析が十分ではない。また、中間自治体が 他のそれらと競争的な関係に陥りやすいと指摘した先行研究では、関係す るアクターや重複する権限に関する分析が中心である。そのため、それら の競合が政策帰結にいかなる影響を及ぼしているかについて明らかではな いといった課題が残されているのである。 このようなことから本研究では、分析課題を次のとおり設定する。 第 1 に中間自治体が他のそれらと競合を繰り広げる背景に、どういった 制度や利益が存在しているのか。そして、それらが利益の獲得を実現する ために、どういった行動をとるのかについて明らかにする。 第 2 に中間自治体が他のそれらと競合することによって、関係する基礎 自治体と、その政策決定には、どういった影響が及ぶのか。特に中間自治 体と基礎自治体の政策をめぐる選好が異なる場合に、いかなる政策帰結が 導かれるのかについて明らかにする。 これらを大阪湾ベイエリアの開発、特に前述したとおり地方分権的な制 度のもとで実施される港湾整備事業を事例に分析する。この事業を取り上 げることによって、公共投資をめぐる行政体制の実態の立体的かつ多角的 な分析が可能になると考えられる。
2.港湾法の制定と中間自治体間による競合の展開
戦前におけるわが国の港湾は、中央政府(大蔵省や内務省)によって管 理・整備されていた。道府県や市町村は、港湾の整備費を一部負担するな どの限定的な役割を担っていた。1945 年 8 月にアジア・太平洋戦争が終 結すると、連合国軍最高司令官総司令部(以下「GHQ」と略す)によって様々な占領改革が進められていった。その一環としてGHQは、日本政 府に対して港湾管理権を地方自治体に移譲するよう指令し、それを定めた 港湾法が 1950 年に制定された17) 。港湾法の制定によって地方自治体は、 ①単独でまたは共同して、定款を定め、港務局を設立し港湾管理者とする、 ②単独で、自身港湾管理者となる、③共同して、地方自治法第 28 条 4 第 1 項の一部事務組合をつくり、港湾管理者とする、以上のいずれかから港 湾管理者を設立することができるようになった18) 。これらのうち圧倒的多 数の地方自治体は、②を選択し、①や③を選択したそれは、ごくわずかで あった。これを契機として、地方自治体による港湾管理権をめぐる対立や 積極的な港湾整備事業が展開されていった。 地方自治体は、港湾を管理・整備することにより、入港料や施設使用料 といった収益のほかに、総合的な地域開発の推進、地域経済への波及効果 といった様々な利益を見込むことができた19) 。そのために戦前から横浜港 17)米国の港湾整備・運営システムを日本に導入しようと企図したGHQは、1949 年 12 月 16 日に日本政府に対して「港湾の管理運営に関し最大限の地方自治権を 與え且つ、国家的及び地方的利益に最も適合する港湾管理主体の形態を設置また は創設する機能を地方公共団体に與える法律の制定によつて捕捉さるべきである」 (連合国最高司令官総司令部覚書(SCAPIN7009-A))と指令した。この指令について、 権限を剥奪される側である運輸省は、強い難色を示し、港湾法案を取りまとめる 段階で、地方自治体による港湾管理主体の設定と権能を曖昧にしようとしたほか、 運輸大臣の権限を強化する条項を盛り込もうとするなどの対抗措置を取ったので ある。この動きに対して、神戸市や横浜市などの五大都市が港湾管理権を地方に 移管するよう要求を強めたほか、GHQが運輸省に法案の修正を命じている。こ のようなプロセスを経て、港湾管理権を地方自治体に移譲し、運輸大臣の権限を 弱めるなど地方分権的な内容が盛り込まれた港湾法が制定されることになった。 18)社団法人横浜港振興協会横浜港史刊行委員会[1989]331-332 頁。 19)港湾を整備することによって地方自治体が獲得できる利益について田尾雅夫と 奥薗淳二は、管理している港湾の発展とそのための規制緩和、補助金の獲得である」 (田尾・奥薗[2009]28 頁)と指摘している。 なお田尾と奥薗は、中央政府と産業界の利益についても言及している。中央政 府については「国土交通省は、国土の総合的かつ体系的な利用、開発及び保全、そ のための社会資本の整合的な整備等をその任務としており(国土交通省設置法第 3 条)、港湾局にとっての利益は、日本の港湾の国際競争力の強化となる」(田尾・奥
と並んで、わが国最大の貿易港であった神戸港については、それの管理権 の移譲をめぐり、神戸市が市単独での管理、兵庫県が神戸市との共同管理 を主張した。両者は中央政府を巻き込んでの激しい対立を繰り広げたが、 協議の結果、1951 年に神戸市が神戸港の管理権を取得することになった。 神戸市は、神戸港の管理権を取得してから突堤や摩耶埠頭の造成、人工島 であるポートアイランドや六甲アイランドの開発、コンテナ埠頭、フェリー 埠頭の導入といった「山、海へ行く」と称される大規模開発を展開してい る。なお、これには当時の神戸市長である原口忠次郎のアイディアが反映 されており、戦後日本の港湾整備事業や都市開発のモデルにもなった20) 。 大阪港については、1952 年に大阪市が港湾管理者となっている。1950 年代に大阪市は、大阪北港の修築と大阪南港を中心とする臨海工業地帯の 開発を進めた。ただし、後者については工場の誘致に失敗したこともあり、 1960 年代半ばになって神戸港へのキャッチアップなどを企図して、コン テナ埠頭の整備を中心とした内容に変更された。それから 1962 年には、 大阪市が当時、堺泉北コンビナートの開発に取り組んでいた大阪府と共同 で、1962 年から 1965 年までの 4 年間に西ドイツマルク債を発行した。総 額は、4 億ドイツマルク(約 360 億円)であった。これは、戦後初の地方 自治体による外債発行であり、大阪市と大阪府からの要請を受けた吉田茂 元首相がコンラート・アデナウアー首相をはじめ西ドイツ政府にあっせん して実現したものである21) 。 さて、兵庫県であるが、神戸港の管理権を獲得できなかったため、瀬戸 内海に面した県南部の総合開発が困難になった。また当時、戦前から開発 薗[2009]27 頁)と位置づけている。産業界については「総輸送費の低減」を利 益としている(田尾・奥薗[2009]29 頁)。 20)原口がどのような都市開発、都市経営を考えていたのかについては、原口[1971] に詳しい。 21)この外債の発行交渉をめぐっては、大阪市や大阪府が中央政府(運輸省、大蔵省) から事前に承諾を得ずに進めたというエピソードも残されている。大阪市・大阪 府によるマルク債発行の経緯については、大阪市港湾局[1999]240-248 頁、大阪 府企業局[1982]176-177 頁を参照されたい。
が続けられた尼崎市を中心とする阪神工業地帯は、その余地が少なくなり つつあった。こうしたことから兵庫県は、戦前より企業の進出が続いてい た県南西部の播磨地域(姫路市、加古川市、高砂市など)を重化学工業地 帯として重点的に開発し、税収の確保や地域経済の発展を目指すように なったのである22) 。 兵庫県は、1950 年代に企業の誘致や既存施設の拡充を図るために播磨 地域の臨海部に広大な埋立地を造成していった。そのほかにも姫路港や東 播磨港の整備23) 、工業用水の確保を進めている。1957 年に播磨工業地帯は、 政府によって四大工業地帯に次ぐ五番目の工業地帯として認められるに 至った。 高度経済成長が軌道に乗った 1960 年代に播磨工業地帯の開発は、さら に大規模なものとなった24) 。そのための準備作業として、兵庫県は 1960 年から 1961 年にかけて阪神・播磨工業地帯学術調査委員会を設置して実 態調査などを実施し、1961 年 3 月に『阪神播磨工業地帯学術調査中間報 告書』を発表した。この報告書は、阪神工業地帯の工場立地の動向につい て「一般的には四大工業地帯の立地条件のゆきづまりが叫ばれているよう に尼崎市の地盤沈下をはじめ、神戸市の工業用水の不足、用地の行づまり、 阪神間の陸上輸送の逼迫、ばい煙、騒音、住宅不足等阪神地域はゆきずまっ ている」25) としている。他方で、播磨工業地帯の工場立地の動向に関して は「用地造成にまだまだ余裕があり、土地価格の低廉、工業用水の取水可 能性のあること、道路、鉄道、港湾等の交通施策も今後の整備の重点化に よつて充分工業の立地条件として優れたものになること等のため前途に明 22)この背景には、当時の兵庫県の深刻な財政難も影響していた。詳細は、兵庫県 史編集委員会編[1967]を参照されたい。 23)姫路港は 1951 年に重要港湾、1967 年には特定重要港湾(現:国際拠点港湾)に、 東播磨港は 1963 年に重要港湾にそれぞれ指定されている。 24)詳細は、林[2010c]で紹介している。 25)兵庫県[1961]工 -6 頁
るい希望が持てるといつてよい」26) と報告するのであった。 つづいて 1962 年 7 月に兵庫県は『阪神・播磨工業地帯学術調査報告書』 を発表した。こちらの報告書では、阪神工業地帯は「既に工業集積のあい 路化がみられる地区であるので、大規模な工業化は原則として抑制政策を とり、地区内の再開発を重点的に指向し、人口の増大よりも寧ろ「坪当り 税収入」の増大を図るような例えば大規模な業務地の建設等の質的向上の 措置を講ずる」27) ことにし、将来性が見込まれる播磨工業地帯を中心に開 発を進めるという内容であった。1963 年に兵庫県は、この報告書を踏ま えて『阪神・播磨工業地帯開発長期基本計画』を策定している。 インフラの整備や開発計画の策定に加えて兵庫県は、姫路市をはじめと する播磨地域の基礎自治体と共同で企業誘致を積極的に図った。これが奏 功し、1950 年代半ばから姫路、高砂、赤穂の各市の臨海部に関西電力の 新鋭火力発電所が相次いで建設されたほか、1960 年 10 月には出光興産兵 庫製油所の姫路市臨海部への進出が決定している28) 。こうした兵庫県の動 26)兵庫県[1961]工 -6 頁 27)兵庫県[1962]Ⅰ -7 頁。 28)1960 年 10 月 8 日付の『神戸新聞』は出光興産兵庫製油所の進出について、次の ように報じている。 姫路市が誘致に力を入れている出光興産=本社東京=の新 精ママ油所が市内飾 磨区妻鹿海岸に新設されることが本決まりとなった。播磨工業地帯の発展に は将来性のある石油化学を中心としたコンビナート形成が必要だということ が以前から叫ばれ、播磨工業地帯整備促進協議会でも石油化学工場の誘致に 真剣な努力を重ねていたのが実を結んだもの。 ◇…出光興産の関西進出は同社の既定方針で、政府や他社の出方を見守り ながら計画を練っていたが、問題はどこに新 精ママ油所を建設するかだった。こ の間、関西電力が妻鹿海岸に出力百万㌔㍗以上の第二姫路火力発電所を建設 する構想を明らかにし、燃料には石炭でなく重油を使うと公表したことから 出光興産と関西電力の間で原料供給の提携方策が打ち合わされ、ともかく火 力発電所向けの重油を供給するための精ママ油所を姫路市内に新設することが内 定した。 ◇…今夏、姫路市を訪れた出光興産の佐藤関西支社長は石見市長、竜田商 工会議所会頭らに姫路進出の計画があることを伝えて受け入れ側の態度を打 診、敷地あっせんや工業用水の確保などについて全面的な協力を要請した。も
向は、第 4 章で紹介する兵庫県西宮市の石油化学コンビナート誘致の構想 に直接的・間接的に影響を及ぼしたのである29) 。
3.広域的な港湾管理・整備構想の挫折
1960 年に貿易自由化、船舶の大型化、取扱貨物の増加などを受けて、 全国各地の主要港湾で滞船などの船混み問題が生じた。神戸港や大阪港に おいても取扱貨物量が 1956 年から 1960 年の 5 年間で急増したことに伴っ て、船混み問題が生じている30) 。たとえば、神戸港では 1961 年にはバー ス待ちの船が延べ 1,160 隻、待ち時間が延べ 4 万 8,600 時間に達した。こ れは、単純平均で 1 日あたり 3 隻、1 隻あたり 42 時間にわたって入港を 待たされていた計算になる31) 。港湾管理者である地方自治体は、船混み問 題を解消するために、港湾施設のより一層の整備拡充が求められるように なった。 このような港湾の過密化の状況は、港湾を管理・整備する地方自治体だ ちろん地元側は大歓迎の意向を伝え協力の約束をしていたもので、先月末、県 労使センターでふたたび出光興産側と県、姫路市など地元側との会談が開か れたさい、姫路進出計画が正式決定したことが出光側から明らかにされた。(後 略) (『神戸新聞』1960 年 10 月 8 日) なお、出光興産兵庫製油所の建設は、家島町の漁民が進出に強硬に反対したこ とから、一時白紙に戻されるなど紆余曲折を経た後、1970 年 11 月に操業を開始(日 産 11 万バレル)した。この製油所は、1992 年に日産 14 万バレルまで生産能力が 増強されたが、出光興産が過剰設備のリストラを図ったため、2003 年 4 月に閉鎖 された。跡地には、2008 年からパナソニックの液晶パネル工場が進出している。 29)播磨工業地帯では、そのほかに戦前から操業していた新日鐵住金(当時:富士 製鐵)広畑製鐵所や、1970 年に操業開始した神戸製鋼所加古川製鉄所など、わが 国でもトップクラスの製鉄所が進出あるいは拡張を続けていた。 30)神戸港の取扱貨物量は、1,314 万トン(1956 年)から 1,860 万トン(1960 年)に, 大阪港の取扱貨物量は 1,410 万トン(1956 年)から 2,641 万トン(1960 年)に、 それぞれ増加している。 31)新修神戸市史編集委員会[2005]394 頁。けが危惧していた問題ではなかった。大阪湾における既存港湾の取扱貨物 量の増大と当時頻発していた高潮の被害に対処するために、関西経済同友 会をはじめとする地元経済界が防潮堤の建設を組み込んだ開発プランのと りまとめを進めた。それが、以下で紹介する阪神ポート・オーソリティ構 想である。 1960 年 6 月に神戸経済同友会は、関西経済同友会大会において「Kobe-Osaka Port Authority の設立について」と題する研究報告を行った。神 戸経済同友会は、この報告で「神戸、大阪を一本とした港湾を整備し、そ こにポート・オーソリティを作りこれが中核体となって近畿経済一体化を 計」ることや「阪神都市圏経済活動のセンターとしての阪神港の整備つま り海上交通と直結した生産ないし商業活動の場としての新しい土地の造 成」などを提言している32) 。この報告の直後に関西経済同友会は、阪神ポー ト・オーソリティ合同委員会を組織し、同委員会の委員長には関西電力社 長(当時)の芦原義重が就いた。芦原は後年、この構想が関西経済界から 支持を得られたのは「何んといっても伊勢湾台風の惨事をここに繰り返さ ないことと、それから阪神間に国際大空港がどうしても必要であ」ったか らであると述べている33) 。 それから 1 年後に阪神ポート・オーソリティ構想は、より具体的な内容 が示される。1961 年 6 月に神戸市で開催された経済同友会昭和 36 年度全 国会員集会において、関西経済同友会は『阪神ポート・オーソリテイに関 する研究報告』と『阪神都市圏計画基本構想研究報告』と題する報告書を 発表した。 まず『阪神ポート・オーソリテイに関する研究報告』では、ポート・オー ソリティを実現するための要件として、①昭和 42 年から 45 年の間に 1 億 屯ないし 2 億 3 千万屯の港湾貨物を取扱い得る規模をもつ専門化、近代化 32)神戸経済同友会「Kobe-Osaka Port Authority の設立について」1960 年 6 月(資
料は、神戸市企画局調査部[1968]296-303 頁に所収)。 33)神戸経済同友会[1966]75 頁。
された港湾であること、②港と直結する新たな商業活動、工業活動のセン ターとなる新都市地域 6,600 万平方米坪ママを海面の埋立て造成すること、③ 阪神各都市の既存の商業、工業センターとを 20 分以内で連絡する幹線道 路をもつこと、④台風時に安全な泊地をもつとともに、阪神都市地域を異 常高潮から完全に防護するものであること、⑤近代的公共企業の管理機構 をもつこと、⑥阪神地区各都心から 20 分以内に達する国際空港の予定地 を持つことがあげられている。これらに加えて研究報告では「名神高速道 路及び阪神間輸送路を港湾に直結し得る場所」として、西宮市甲子園地先 に 5 ヵ年計画で 1,070 万㎡の土地を造成するとともに、物流センターの建 設と 1 万総トンクラスから 1 千総トンクラスの船舶に対応可能な岸壁を設 置するという具体的な開発プランが提示された34) 。 つづいて『阪神都市圏計画基本構想研究報告』である。こちらの報告書 では「こゝで最も重要な課題は、臨海地域のもつ性格である。現在急速に 展開しつゝある工業地の造成に対して適当なる限界を与え、生産規模の拡 大に対応する外貿、内貿を中心とする物資の海上輸送の機能の拡大整備と、 この港に直結する経済活動の機能の整備のためのスペースを確保すること が要請されており、阪神港は新らしい経済活動圏をもつ綜合港湾としての 性格を明確にすることが必要」35) であると、埋立地の土地利用の方向性が 明確に示されている。 さて、これらの研究報告を受け、関西経済同友会を中心とする関西経済 界は、池田勇人内閣に対して事業実現の働きかけを強め、最終的には池田 首相から了解を取り付けた。大蔵省からは、防潮堤建設を前提とした事業 予算の獲得に成功し、1961 年度公共事業費として総額 5 億 5 千万円が計 上されている。予算には、調査費として 2 千万円、その他に機械、船舶機 械費が含まれていた。このように、阪神ポート・オーソリティ構想は、順 調なスタートを切ったかのように見られた。 34)阪神ポート・オーソリテイ合同委員会組織部会[1961]1-19 頁、3-1 頁、3-4 頁。 35)阪神ポートオーソリテイ合同委員会計画部会[1961]8 頁。
ところが、この構想は、各地方自治体の港湾管理権を奪い、港湾区域全 体を公社などによって統一管理するものとして解釈され、それに神戸市や 大阪市が強く反発した。さらに、この構想が行政区域をまたぐ内容であっ たことから、実現不可能論も根強く存在していた36) 。このため関西経済同 友会は、構想の発表から、わずか 2 カ月で構想の断念を余議なくされてい る。これは、大阪湾の港湾を一体的に管理、整備することの難しさを示し た典型的なケースである。そして、神戸市、大阪市などの地方自治体が港 湾管理権や既に獲得していた利益を剥奪される事態を強く懸念し、それを 保持しようとしていた証左でもある。 このように阪神ポート・オーソリティ構想は、実現に至らずに終わった。 しかし、この構想において登場した西宮市を中心に阪神間の臨海部を港湾 として開発するプランは、後述するとおり兵庫県が 1963 年に発表した大 阪湾西部開発構想や、その後の尼崎西宮芦屋港港湾計画に受け継がれてい くことになった。つまり、兵庫県は、神戸港や大阪港が過密化した事態を 受けて、両港の間に新たに大規模港湾を整備することで、そこから利益を 獲得しようと企図していたのである。 以上のとおり、神戸市や大阪市は、自らが管理・整備する港湾の大規模 化を目指していた。他方で兵庫県は、播磨工業地帯の開発や尼崎西宮芦屋 港の整備によって、それらにキャッチアップを図しようとしていた。それ では、こうした中間自治体の動きは、基礎自治体の政策決定にどういった 影響を及ぼしたのであろうか。次章では、それを明らかにするために兵庫 県西宮市における石油化学コンビナート誘致構想とその挫折を取り上げ、 分析する。 36)神戸市企画局調査部[1968]286-287 頁。
4.西宮市による石油化学コンビナート誘致構想とその挫折
神戸港や大阪港で取扱貨物量が急増し、播磨地域において工業地帯の開 発が続けられていた 1960 年 8 月に、突如として兵庫県西宮市は、臨海部 に造成される埋立地に、日本石油株式会社(以下「日本石油」と略す)の 石油化学コンビナートを誘致する構想を示した37) 。これは当時、西宮市長 であった田島淳太郎38) が主導したものである。 1950 年代から 1960 年代にかけての西宮市の臨海部には、小規模な港湾 (西宮港)のほかに海水浴場で有名な香こう櫨ろ園浜や甲子園浜が存在していた 程度で、工業開発はなされていなかった。それでは、なぜ西宮市は石油化 学コンビナートを誘致しようとしたのか。その意図は、必ずしも明らかで はない。ただし、当時の西宮市の主要産業は、江戸時代から続く酒造業で あった。そのことから石油化学コンビナートを誘致することで市内におい て近代産業を育成するという目的があったと推察される。それから西宮市 は、工場誘致によって市内の人口や税収の増加を図り、兵庫県内の工業都 市であった尼崎市や姫路市をはじめとする同格の地方自治体への横並びを 志向したものと考えられる。 西宮市が石油化学コンビナートを誘致することを表明した直後の 1960 年 8 月に、日本石油は兵庫県知事に対して西宮地先海岸の埋立許可申請を 提出した。西宮市は、1960 年 10 月に西宮市海岸開発委員会に「本市地先 海面の埋立による石油精製及び石油化学工場をはじめとする臨海工業の建 設計画について、主として下記事項を調査研究の上、本市の発展上、本件 工場誘致を積極的に推進すべきかどうかを検討せられたい」39) ことを諮問 37)西宮市における石油化学コンビナート誘致構想に関する資料や事実関係につい ては、西宮現代史編集委員会[2002]、同[2004]、同[2006]、同[2007]に詳しく、 本研究ではこれらを引用・参照した。 38)田島は、弁護士、元西宮市議会議員で、1959 年 4 月から 1963 年 4 月まで 1 期 4 年、 西宮市長を務めた。 39)西宮現代史編集委員会[2002]171 頁。している。これに対して、同年 12 月に同委員会は「西宮市は、将来の発 展の基本策として、日本石油の埋立ならびに工場建設計画を推進すべきで ある」40) と答申するのであった41) 。その後、1960 年 12 月に西宮市議会は、 海岸開発調査特別委員会を設置して、石油化学コンビナート誘致の審議を 進めた。西宮市も市内の各種団体代表に神奈川県横浜市や川崎市、山口県 徳島市といった国内の石油化学工場を視察させ、賛成意見を取り付けてい る。1961 年から西宮市は、臨海部の開発の権限を有している兵庫県に対 して石油化学コンビナートの誘致を認めるよう、積極的な陳情活動を続け るのであった。 こうした動きの一方で、西宮市内では石油化学コンビナートの誘致に よって酒造りに不可欠な地下水である「宮水」が汚染される事態や、生活 環境の悪化を危惧した酒造組合(「白鹿」の銘柄で知られる辰馬本家酒造、 「白鷹」の銘柄で知られる辰馬悦蔵商店〔現・白鷹株式会社〕など)が 1960 年 10 月から、それの反対運動を展開していった。署名活動に始まっ たそれは、石油化学コンビナートの誘致を主導した田島市長の政治生命を 脅かすまでに激化した。 それ以上にクローズアップされるべき点は、西宮市の海岸部を開発する 権限を有していた兵庫県の動向である。前述したように兵庫県は、1950 年代から播磨工業地帯の開発を優先的に進める意向を示しており、阪神工 業地帯の開発については消極的な姿勢を示していた。また、その当時に播 磨工業地帯では、兵庫県や播磨地域の基礎自治体が 1950 年代に関西電力 の火力発電所を播磨地域の臨海部に相次いで誘致したほか、1960 年には 姫路市臨海部に出光興産兵庫製油所を誘致することも決定していた42) 。さ らに 1960 年に国内屈指の港湾である神戸港と大阪港において船混み問題 40)西宮現代史編集委員会[2002]172 頁。 41)この答申では関連化学工場の種類の選定や、海岸保全対策など「市民の影響の 絶無を期するよう慎重に配慮せられたい」という意見が付けられていた。 42)こうしたことから所管官庁である通産省も西宮市の構想に対しては、否定的で あった。
が顕在化し、1961 年 6 月に関西経済同友会によって阪神ポート・オーソ リティ構想が発表されると、状況は西宮市に一層不利となった。前述のと おり大阪市や神戸市は、阪神ポート・オーソリティ構想に反発して最終的 には、それを撤回にまで至らしめた。しかし、1950 年に神戸港の管理権 の取得に失敗した兵庫県は、両者と異なる行動、すなわち西宮市の臨海部 に大規模港湾を整備するプランを採用することにし、その実現に向けて動 き始めたのである。兵庫県にとってみれば、神戸港と大阪港の中間に大規 模港湾を整備することで、それらの管理者である神戸市や大阪市と対抗で き、新たな利益を獲得できる好機が巡ってきていたわけである。これに加 えて、地元の西宮市内では酒造組合による石油化学コンビナートの誘致反 対運動が激しさを増していたことも少なからず兵庫県の政策判断に影響し ていたと考えられる。このような状況のなかで、兵庫県が西宮市の推進す る構想を認めることは、火中の栗を拾うに等しい行為であった。 こうした中間自治体間の競合に起因する外部環境のドラスティックな変 化に伴い、西宮市による石油化学コンビナート誘致構想は、必然的に破綻 へと向かっていった。西宮市は、酒造組合をはじめとする地元の根強い反 対意見を押し切り、1962 年 3 月には西宮市議会海岸開発調査特別委員会、 ならびに西宮市議会本会議で石油化学コンビナート誘致を決議するところ まで持ち込んだ43) 。しかし、兵庫県は当然ながら、この構想を最後まで認 めようとすることはなく、1962 年 7 月から 8 月にかけて西宮市に構想の 43)これに先駆け、1961 年 12 月に西宮市は、西宮市都市開発調査委員会が作成した コンビナート誘致を推進する内容の学術調査報告書を発表している。また、西宮 市議会でのコンビナート誘致決議の際には、誘致反対派の市民が市役所に押しか ける騒ぎとなった。この騒ぎの様子について 1962 年 3 月 14 日付の『毎日新聞』は 「西宮市の日石誘致計画をめぐる三年越しの市民感情のもつれがついに爆発した。 反対派市民約二千人は十三日間開かれた市会が誘致賛成決議を強行するのを阻止 しようと議場を包囲した。このため議場内外は乱闘や小ぜり合いが続き、審議は 中断され深夜におよび、押しかけた市民も立ち去らず、警官隊と対立するという 険悪な空気が続き、市政に大きな汚点を残した」と報じている(西宮現代史編集 委員会[2002]245-246 頁)。
再検討を促している。さらに兵庫県によって設置された阪神・播磨工業地 帯学術調査委員会は、1962 年 7 月に発表した『阪神・播磨工業地帯学術 調査報告書Ⅰ』において、第 2 章で前述したとおり播磨工業地帯の開発の 方向性を示した上で、西宮市については次のとおり「提案」するのであっ た。 工業立地部会の今回の最も重要な点は前述した阪神間埋立地の一部 を広い意味のインダストリアルパーク(流通機能を含めた)としての 利用ということである。埋立自体は勢として止むを得ないものであり、 その利用如何が今後の再開発の成否をにぎつている。用水型の重化学 工業の立地は前回の報告でものべた如く播磨地区へ誘導する方向に進 めることは変らず、西宮地区に立地を希望している石油精製の播磨地 区への誘導には今後もつづけて努力すべきであると考える。 西宮地区が長い将来を考えた場合石油精製に対してのみ用水が確保 されるとしても、現在考えられている企業の操業開始希望タイミング、 関連施設の用水、港湾等から考えると播磨地区が総合的判断から推奨 される。 西宮市は別の美しい工業によつて充分生きる道があり、用水型重化 学工業を誘致すると同じだけの住民の福祉に効果がある方向に進むこ とができると判断される。44) 石油化学コンビナート誘致の構想が実現の見込みがないことを悟った西 宮市と田島市長は、1962 年 9 月にそれの白紙撤回を発表するに至ったの である。田島市長は、構想の撤回について説明した際に「本問題の起った 一昨年の春から 9 月の県会の終るまでの(※筆者注:阪本勝)知事の考え 方と、今日の知事の考え方とに非常に大きな変化ができたと、私はみてお るのであります。(中略)以上の経過と事実からみまして、埋立認可権をもっ ている、県の方針が変更し、西宮海面に日石の進出を許可しない方針であ 44)兵庫県[1962]Ⅰ -12 頁
る限り、日石誘致の本市既定の方針はこれを維持することが適当ではあり ませんので、本件は本問題発生前の白紙に戻したいと存じます」45) と兵庫 県に対する恨み節のような発言を残している。 その後、石油化学コンビナートの誘致を提案した田島市長は、1963 年 4 月の市長選挙で酒造組合側が擁立した候補者である辰馬龍雄46) に敗れ、1 期 4 年で市長の座から追われた47) 。そして西宮市は 1963 年 11 月 3 日に「30 万市民のひとしく望むところにしたがい、風光の維持、環境の保全・浄化、 文教の振興を図り、当市にふさわしい都市開発を行ない、もって市民の福 祉を増進するため」48) に、文教住宅都市宣言を採択し、この問題にひとま ずの決着をつけるのであった。 ただし、この構想が挫折し、文教住宅都市宣言が採択されたからといっ て、西宮市において自然環境が守られたことにもならなければ、臨海部開 発がストップしたわけでもない。1963 年に兵庫県は大阪湾西部総合開発 構想を提示した。これは、大阪湾西部開発の拠点を西宮市の臨海部に求め ており、その土地利用案については「①中西部に外貿、中東部に内貿なら びに流通経済センターという広域的機能と、②これら諸活動就業者とその 家族を中心とする諸サービス施設をもつ適正規模の地域社会の形成、③内 陸および臨海の土地利用不適正なあるいは公害問題をもち他地域への移転 困難な既存工場の再開発移転のための工場代替用地、④下水処理、し尿処 理等地域社会の問題機能の消化のための利用」49) など多岐にわたるものと なった。換言すると第 3 章で前述した阪神ポート・オーソリティ構想の内 容を踏まえ、西宮市の臨海部を中心に一大物流基地を建設するという内容 であった。この構想をもとにして、1966 年には尼崎西宮芦屋港港湾計画 45)西宮現代史編集員会編[2002]258-260 頁。 46)辰馬龍雄は、1963 年から 1975 年まで 3 期 12 年にわたって西宮市長を務めた。 47)この市長選挙の田島の得票数は 4 万 6547 票、辰馬の得票数は 7 万 6433 票であっ た。 48)西宮現代史編集委員会[2002]288 頁。 49)兵庫県[1964]。
が策定されている。 このような構想や港湾計画に基づいて、1971 年 7 月から西宮市の臨海 部で埋立工事が本格的に開始された。ところが、この当時、神戸港や大阪 港の過密化はコンテナ埠頭やフェリー埠頭の導入による荷役の効率化で解 消へと向かっていた。さらには、同年 9 月から西宮市甲子園地区で埋立地 の造成によって発生するであろう公害を危惧した地域住民が港湾計画の見 直しを求める住民運動(西宮甲子園浜埋立公害反対運動)を展開し始めた。 そして、2 年後の 1973 年 10 月に発生した第 1 次石油ショックによって、 不況が到来し全国各地の主要港湾の取扱貨物量が一時的にではあるが大き く落ち込む事態となった。これらにより西宮市の臨海部を港湾として整備 する計画は、抜本的な見直しを余儀なくされていくのである50) 。小括する と西宮市における臨海部の開発は、兵庫県、神戸市、大阪市をはじめとす る中間自治体間の競合のひずみが二度にわたり顕著に現れたケースとして 位置づけられるのである。
おわりに
以上のとおり、1950 年代から 1960 年代にかけての大阪湾ベイエリア開 発を事例に、公共投資をめぐる中間自治体間の競合を分析してきた。本研 究で得られた知見は、以下のとおりである。 まず、中間自治体間の競合の背景に存在している制度や利益に、いくつ かの特徴が見られることである。先行研究では、地方自治体が横並びを志 向し、政策の相互参照を行うという点が明らかにされている。本研究では 事例分析を通じて、GHQによる占領改革の一環で地方自治体が港湾管理 権という権限を中央政府から獲得し、これをもとに中間自治体が利益を追 求しようとしていた動きを明らかにした。なお、利益については、財政収 50)これについての詳細は、林[2008]、林[2010d]を参照されたい。入から地域経済への波及効果まで多面的な性格を備えていた。 これらを踏まえると、先行研究で明らかにされてきた地方自治体の「横 並び志向」や「政策の相互参照」といった性質に加えて、中間自治体だけ が持ち得る「権限」や、それだけが獲得し得る「利益」が存在している。 そして、中間自治体がそれら(特に利益)を確保しようとすることで、そ れらの間で競合が発生するのである。これについては、本研究で取り上げ た阪神ポート・オーソリティ構想の事例が分かりやすい。この構想が実現 すれば、それらを阻害することが予想されたことから、神戸市や大阪市は それに反発し、他方で兵庫県は港湾の広域管理以外の構想の趣旨を自らの 政策に取り込んだのである。中間自治体と他のそれらの競合は、こうした 複数の性質や要因が組み合わさるなかで、繰り広げられていくものである と位置づけられる51) 。換言すると、地方-地方政府間関係には、様々なヴァ リエーションが存在していると考えられ、それを明らかにしていくことが 今後の著者の研究課題である。 これらの競合について付言しておくと、本研究で取り上げた具体的な事 例、たとえば神戸市や大阪市(大阪府を含む)による港湾の大規模化に向 けた動きや、兵庫県による播磨工業地帯の開発などからも明らかなとおり、 いずれの中間自治体もそれの勝者(Winner)になり、利益の獲得を志向す る存在である。そして、この目標に向かって、それぞれの中間自治体は権 限に基づいて自律性を高め、活動量を増大させているのである。こうした 動きが展開され続ける限りにおいて、複数の中間自治体の間で協調的な関 係を構築することは、相当に困難であると考えられる。 つづいて、中間自治体が他のそれらと競合することによって、関係する 基礎自治体と、その政策決定に、どういった影響が及ぶのかについて説明 しておく。 中間自治体は、前述したとおり独自の権限を持ち、利益を追求しながら、 51)これらが、どのように組み合わさるかによって競合の内容も変化すると考えら れる。この点についての分析は、別稿を期したい。
他のそれらと競合を繰り広げている。これに対して、第 4 章の分析からも 明らかなとおり、基礎自治体も同格のそれとの横並びを志向し、利益を追 求するという特徴を備えている。ただし、基礎自治体の保持している権限 は、中間自治体のそれに比べて限定されることになる。 本研究で取り上げた事例-西宮市の石油化学コンビナート誘致構想-の 分析から考えると、権限を持たない基礎自治体が利益の獲得を目的に政策 の実現を目指す場合には、関連した権限を持つ中間自治体の選好や、それ が追求している利益が何であるかを常に注視しながら行動する必要に迫ら れていると言える。また、中間自治体の選好や、それが求める利益は、不 変であるとは限らない。中間自治体が他のそれらと競合を繰り広げる過程 で、それらも変化していくものである。それから権限を持たない基礎自治 体が、こうした関係する中間自治体の動態を捉え損ねた場合は、西宮市の 事例のように、その内部で混乱を招き、最終的には政策の白紙撤回や、首 長の更迭といった破局的な帰結が導かれる可能性もある。これらの諸点を 踏まえれば、一般的に基礎自治体が中間自治体と緊密な協力関係(垂直的 な関係とも捉えられる)を構築しているのは、両者の関係に齟齬が生じた 場合、自らの受けるダメージが過大なものになることを見越しているが故 なのであろう52) 。 最後に、これらの得られた知見をもとに現実の政策、とりわけ将来的な 導入が期待されている道州制について考えてみたい。道州制を導入し、中 央政府から道政府や州政府に権限を移譲することは、後者の自律性を高め、 活動量の増大が期待できる。その一方で、本研究で取り上げた中間自治体 間の競合をはるかに上回るスケールで、おそらく中央政府もコントロール が困難な道政府、州政府間の競合が生み出されるとみて間違いない。道州 制の導入を進めるのであれば、そのメリットばかりを強調するのではな 52)ちなみに、1960 年代後半から開始された西宮市臨海部の港湾整備事業について、 兵庫県と西宮市は足並みを揃えていた。この点に関する詳細な分析は、今後の課 題としたい。
く53) 、こうした問題点をどのように克服するかについて事前に検討してお くことが肝要であると考えられる。 〈付記〉 本研究は、平成 25 年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費・研究課 題「地方分権の進展による影響とその方向性についての研究-日蘭の港湾 整備事業を中心に」課題番号 2510464)による研究成果の一部である。 引用・参考文献
・Paul E. Peterson [1981]“City Limits”, University of Chicago Press. ・天川晃[2001]「特別市制をめぐる大都市と県の対抗-横浜市と神奈川 県を中心として」天川晃ほか編『地域から見直す占領改革-戦後地方政 治の連続と非連続』山川出版社 ・伊藤修一郎[2002]『自治体政策過程の動態-政策イノベーションと波 及-』慶應義塾大学出版会 ・大阪市港湾局[1999]『大阪築港 100 年史 下巻』大阪市港湾局 ・大阪市立大学経済研究所編[1992]『経済学辞典 第 3 版』岩波書店 ・大阪府企業局編[1982]『新都市の創造 ニュータウンと臨海工業地帯』 大阪府企業局 ・北村亘[2013]『政令指定都市- 100 万都市から都構想へ』中央公論新 社 ・神戸経済同友会編[1966]『神戸経済同友二十年』神戸経済同友会 ・神戸市企画局調査部編[1968]『広域港湾の開発と発展-ポート・オー ソリティの可能性を求めて』神戸市企画局調査部 ・佐々木信夫[2013]『新たな「日本のかたち」-脱中央依存と道州制-』 角川マガジンズ 53)道州制のメリットを分かりやすく解説した文献として、佐々木[2013]をあげ ておく。
・島恭彦[1960]「所得倍増計画と公共投資(一)」『経済論叢』第 86 巻第 5 号、京都大学経済学会 ・社団法人横浜港振興協会横浜港史刊行委員会編[1989 ]『横浜港史-総 論編』横浜市港湾局企画課 ・新修神戸市史編集委員会編[2005]『新修 神戸市史 行政編Ⅲ 都市の整 備』神戸市 ・砂原庸介[2012]『大阪-大都市は国家を超えるか』中央公論新社 ・曽我謙悟[1994]『アメリカの都市政治・政府間関係―P.E. ピーターソ ンの研論を中心に』東京大学都市行政研究会 ・田尾雅夫・奥薗淳二[2009]「地方政府間の連携促進要因と中央政府の 役割-スーパー中枢港湾政策における地方政府間連携を素材として」『愛 知学院大学論叢 経営学研究』第 18 巻第 1・2 合併号、愛知学院大学経 営学会 ・田村宏樹[2013]『政府間競争の経済分析-地方自治体の戦略的相互依 存の検証』勁草書房 ・長濱政壽[1956]「府県と都市との対立ということ-都市自治の確立の ために-」『市政』第 5 巻第 6 号、全国市長会 ・西宮現代史編集委員会編[2006]『西宮現代史 第 1 巻 1』西宮市 ・西宮現代史編集委員会編[2007]『西宮現代史 第 1 巻 2』西宮市 ・西宮現代史編集委員会編[2002]『西宮現代史 第 2 巻』西宮市 ・西宮現代史編集委員会編[2004]『西宮現代史 第 3 巻』西宮市 ・林昌宏[2008]「環境の変化に対する行政の適応過程-尼崎西宮芦屋港 の整備事業を事例に-」『創造都市研究』第 4 巻第 1 号(通巻 5 号)、大 阪市立大学創造都市研究科創造都市研究会 ・林昌宏[2010a]「港湾整備における行政の多元化とジレンマ-外貿埠頭 公団を事例に-」『年報行政研究』第 45 号、日本行政学会 ・林昌宏[2010b]「港湾整備をめぐる分権的政策決定-名古屋コンテナ埠 頭株式会社の設立過程の分析-」『日本公共政策学会 2010 年度研究大会
報告論文集』日本公共政策学会 ・林昌宏[2010c]「工業地帯開発に伴う港湾の大規模化とそのインパクト -播磨工業地帯の開発のプロセスを中心に-」『播磨学紀要』第 15 号、 播磨学研究会 ・林昌宏[2010d]「地域の課題をめぐる行政-市民関係とその変容-尼崎 西宮芦屋港の整備事業と西宮甲子園浜埋立公害反対運動の分析-」『資 本と地域』第 6・7 合併号、京都大学地域経済研究会 ・原口忠次郎[1971]『わが心の自叙伝<四>』のじぎく文庫 ・阪神ポートオーソリテイ合同委員会計画部会[1961]『阪神都市圏計画 基本構想研究報告』 ・阪神ポート・オーソリテイ合同委員会組織部会[1961]『阪神ポート・オー ソリテイに関する研究報告』 ・兵庫県[1961]『阪神播磨工業地帯学術調査中間報告書 昭和 35 年度現 況分析調査 ( Ⅰ )』 ・兵庫県[1962]『阪神・播磨工業地帯学術調査報告書Ⅰ』 ・兵庫県[1964]『大阪湾西部開発総合調査報告書』 ・兵庫県史編集委員会編[1967]『兵庫県百年史』兵庫県 ・水口憲人[1982]「政令指定都市と政府間関係」『都市問題研究』第 34 巻第 4 号、大阪市政策企画室企画部 ・三宅一郎・村松岐夫編[1981]『京都市政治の動態』有斐閣 ・村松岐夫[1988]『地方自治』東京大学出版会 ・山崎幹根[2012]「「二重行政」の解決は可能か-効率性と民主的統制の 視点から」『都市問題』第 103 巻第 4 号、(公財)後藤・安田記念東京都 史研究所