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メジャー政権下のイギリス教育政策

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メジャー政権下のイギリス教育政策

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藤 田 弘 之

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FUJITA

1、はじめに 本稿は、 1990年11月に成立し、 1997年5月に 退陣した保守党メジャー政権下で進行した教育 政策を整理、検討することを目的としている。 イギリスにおいて、 1979年に保守党が政権を とって以後、首相サッチャーの強力なリーダー シップの下で、さまざまな改革が進められてき たことはいまさら改めて言うまでもない。教育 の領域においても、行政、財政、内容、制度な ど種々の問題について極めて大きな改革がなさ れた。もっとも、このような改革が進められた のは、イギリスだけではない。世界の主要国に おいても、同じような改革が進行した。ワルフ ォード (G.Walford)が言うように、「世界の工 業国家を通じて、 1980年代には政府が、その国 民に対するサービスの計画、組織、提供の責任 を投げ出した。固から国へと、市場のイデオロ ギーが合理的計画の思想を消し去った。そして、 国家が所有する生産組織やサービスの組織の大 規模な民営化計画が結果した。

J

(1)イギリス はある意味でこうした改革の先頭を走り、 一つ の方向性を示していた。このようにして進めら れてきた教育改革は、しかしサッチャーの退 陣に際して、未完に終わっていた。 さて、 1990年11月にサッチャーをひきついだ メジャー政権は、 1990年代の改革の遺産をどの ように引き継ぎ、どう発展させ、あるいは変え てきたのか。さらに、これが現在どのような影 響を及ぼしているのか。これらを検討し、整理 することが、本稿の目的である。 なお、論述はイングランドを中心とする。

2

、メジャー保守党政権の成立と教育政策の方向 ( 1 ) 1997年に始まる第3期サッチャ一政権のもっ とも重要な教育改革は、 1988年の教育改革法の 制定であった。この法律は、イギリス教育のそ の後の枠組みゃあり方を方向づける重要なもの であったが、その成立の責任を担ってきた教育 科学大臣ベーカーは、 1989年7月の内閣改造に よって教育科学省を去り、保守党幹事長に就任 した。ベーカーに代わって、教育科学大臣に任 ぜられたのは、マクレガー(J.MacGregor, 1937-)であった。 マクレガーは、それまで重織を経験したこと もなく、著名な政治家でもなかったが、 一般に は、穏健な政治家、多元主義者とみられ、いわ ゆる“一つの国民"の立場に立つ人物と見られ ていた。そして、彼には、これまでの教育改革 において生じた対立や亀裂の修復、合意の形成 や調整、教育行政の安定の確保が期待された。 しかし、実際には、彼の下でも、保守党右派 が主導してきた教育の市場化を基礎とする教育 政策が推進されることとなった。彼はその後、 1993年に運輸大臣になったが、ここでも市場原 理に基づく政策、民営化政策を進めた。このよ うに信条として、多元主義、 一つの国民主義の 立場を持ちつつも、実際上は民営化路線を進め るという矛盾は、当時の保守党政治家に典型的 なものであった。この点に関して、ロウトン (Lawton,D.)も、「マクレガーのような多元主義 者でさえも民営化論者の言葉を使い、思想を使 っていた。この点において、彼は1989年から 1990年の典型的な保守党の同類の政治家と捉え られる。

Jと指摘している

。(2 ) マクレガーは、 1988年法を実施に移す責任を 持ったが、この間に必ずしも積極的な働きをし たと評価されなかった。彼は、 1990年の保守党 大会の数週間後に更迭されるが、サッチャーに よれば、更迭の理由は、彼が保守党教育政策を

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102 実践センタ一紀要 第 8 巻 2000 満足のいくように提示しなかったと判断したこ とにあったという。

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マクレガーは、 1990年 11月に教育科学大臣を やめたが、その直後に行った演説で、彼の教育 政策についての信条や成果を述べている。それ によれば彼は、第 lに、パーネット (C.Barnett) やウイナ一 (M.Wiener)の著書に影響を受け、教 育の機能面を重視し、教育と産業の関係を改善 する必要性を認識していた。

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)

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に、イギ リスの教育水準を高め、改善する必要性を信じ、 このために全国カリキュラムの意義と効用を信 じ、児童中心主義に批判的立場をとった。そし て、 Aレベル試験の保持とこれとは別な、いわ ば実務的な試験の体系を確立する必要性を認め ていた。第

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に、親任視学官に批判的立場を持 っていた。この他、親の教育選択の推進、都市 技術カレッジの確立、ポリテクニックの地方教 育当局からの分離、高等教育の拡充などの保守 党教育政策を支持している。既述のように、信 条としては“一つの国民主義"の立場を持ちつ つも、教育政策に関わっては、市場原理や選択 についても容認し、サッチャ一政権下で進めら れた保守党教育政策を基本的に支持したのであ る。これはサッチャーの下で、また政務次官に 右派の人物を擁し、党内の右派の影響を受けつ つ、このような政策を進める以外になかったと も考えられるが、教育についてある意味で新し いコンセンサスがあったと見ることができる。 ( 2 ) 1990年11月にマクレガーから大臣を引きつい だのはクラーク(K.C1arke、 1940一)であった。 サッチャーの下で、クラークが教育科学大臣に 就任した直後に、保守党党首選挙が行われた。 すでに 1980年代末より、サッチャーの政治手法 や政策に対する批判が党内外で高まってきてい たが、特に、人頭税といわれる地方税改革の導 入とEC問題への姿勢は、サッチャー批判の動 きを一層高め、加速することになった。こうし た中で 11月に行われた党首選挙において、メジ ャーが党首に選ばれ、メジャー政権が成立した のである。 メジャーが保守党党首に選ばれたのは、必ず しもその政治的立場によるのではなかった。彼 は融和主義的、 一つの国民主義的な立場を持っ ていたといわれるが、それは必ずしも明確では なく、ある意味で灰色でもあった。こうした彼 が最終的に選ばれたのは、党内の亀裂を埋め、 党をまとめ、再生することができる人物とみら れたためであった。ただ、党首選挙にあたって、 彼を強く推したのは、主として右派の政治家達 であり、またサッチャーその人であった。彼 らはサッチャーが掲げ、未完に終わった種々の 改革を進め、自分達の政治理念を実現できる人 物として推したのであった。このため、彼の政 権では、 サッチャーはじめ、右派の大きな影 響が残ることとなった。このことは、彼の最近 の伝記でも明確に述べられていることである。 (5)メジャーは他方で、党内の亀裂をおさえ、 党をまとめる必要にも迫られ、左右両派のバラ ンスを取った、難しい舵取りを迫られた。 こうして成立したメジャー政権の教育科学大 臣は、クラークが引き続き務めることになり、 彼は 1992年 4月までこの職にあった。ところで、 サッチャ一政権下では、教育政策の策定は、グ リッフイス (B.Griffith)を中心とした首相政策顧 問部がイニシャチヴをとり、あるいは大きな影 響を持ってきた。メジャー政権下では、メジャ ー自身、教育について発言し、教育政策の形成 に関わったが、実質的には再び、教育科学大臣、 及び教育科学省が大きな役割を持つことになっ た。(6) クラークは、公立初等学校に学んだ後、奨学 金を得て独立学校で学び、その後、ケンブリッ ジ大学ゴンヴイル及びカイウスカレッジに進ん だ。1963年ここを卒業して、法曹界に入った後、 1970年に下院議員となった。彼はすでにケンブ リッジ在学時より、保守党関係の学生政治団体 に関わり、活動を行っていたが、議会に入って 後、政治家として才覚と手腕を発揮して、順調 な経歴を踏んできた。彼は、教育科学大臣に就 任する前は、厚生大臣の職にあった。彼によれ ば、教育科学大臣はいずれは就きたいポストで あったが、厚生省においてなお改革が未完であ り、その時点で彼が望んだ職ではなかった。 (7)しかしながら、就任後は、極めて精力的に 活動した。 彼は党内では左派と見られており、いわゆる

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“一つの国民"主義の立場にあった。また、堅 固なイデオロギーを持たず、むしろプラグマチ ストであった。彼は、民営化や市場原理の導入 を積極的に支持していたわけではなかった。さ らに、イギリスの E Cへの参加を支持していた。 このような立場にあったにもかかわらず、サッ チャーが彼を重用したのは、彼の政治家として の器量を買ったものであった。彼は、極めて精 力的で、かつ説得力があり、有能な“やりて" であると見られていた。(8) 彼は必ずしも民営 化や市場主義を積極的に支持したわけではなか ったが、サッチャーの下で進められた教育改革 を受け入れ、これを積極的に進めた。その意味 では、彼もまたマクレガーに共通する矛盾を持 っていた。 クラークは大臣であった時の仕事を自己評価 して、「断固たる

J

(d巴termined)と言う形容詞が ふさわしいとしている。(9)彼は、 1988年法制 定の基礎となった、 1987年保守党選挙公約策定 に際して、教育関係の草案作成グループのメン バーであった。したがって、彼には 1988年法の 履行、実質化が重要な政策課題であった。彼が 大臣に就任した時、省において、政策課題によ ってはなお慎重な姿勢が取られていたという。 このような雰囲気を変え、 1988年法に基づく教 育政策の枠組みを精力的に推進し、実施しよう としたものであった。 クラークは就任後、継続教育カレッジや第6 年級カレッジ等の地方教育当局からの分離、ポ リテクニックと大学の

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重構造の解消とポリテ クニックの大学への移行、公立学校の国庫維持 学校化の推進、全国カリキュラムや全国テスト の見直し、等をはじめ、多くの改革の具体化に 努めたが、中でも重要で、あったのは、学校の成 績ランクの公表と視学職の改革である。 学校の成績ランクの公表は、「親の憲章Jの 内容を具体化する一環として決定されたもので ある。これは、メジャー政権が決定した「市民 憲章

J

の一環として、 1991年 7月に作成された ものであり、ここには親の新しい権利や責任が 明示された。この中で、親が、個々の子どもの 学校での成績などの進展状況の報告、学校の評 価・査定をした視学官報告書、学校ごとの成績 を比較した成績ランク表などの情報を受け取 り、または知ることを可能にするような措置が 取られる必要性を述べた。クラークはこれに関 わり、その実質化に努めたのである。 次に、視学職の改革である。これまで教育科 学省には親任視学官がおかれ、独自に学校査察 業務を行ってきた。視学官職にはこれまで保守 党関係者から、専門家支配の弊害、査察結果の 非公開、偏向した教育観、査察の実効性の欠如 などを理由に、しばしば批判がなされてきた。 クラークは、これまでの視学職を大きく改変し、 教育科学省から独立した教育水準監視IT(Office for Standards in Education一、以下OFSTED)を創 設した。そして、従来の視学官を再編し、新し いメンバーを組み込んで、重点を指導助言活動 から査察業務に移し、学校の教育成果の評価の ため実効性のある査察業務が行われることにな った。 このような改革は、以後学校教育に極めて大 きな影響を持つことになったが、これらはいず れもニューライト政策集団、あるいは右派の一 定の影響の下に行われたものであった。 さて、 1992年にはメジャーが首相になってか ら初めての総選挙が行われた。この選挙にあた って、保守党の選挙公約がまとめられたが、教 育問題については、クラークが中心となり、メ ジャーと緊密な協力関係の下でまとめられたも のであった。 1992年の選挙公約は、「全ての人々に対する 機会jという見出しで、教育問題を述べている。 (1

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)

ここでは、「教育や訓練の高い水準が個人 の機会や国家の繁栄にとって鍵になるj ことを 示した後、親との協調、親への選択権の付与、 子どもの基礎的能力の保障、水準の維持と機会 の拡充などを総括的に述べ、さらに次のような 公約を掲げている。 1 )教育水準を維持すること -全ての主要教科をカバーする全国カリキュ ラムの導入を完成させること . 16歳で受ける GCSEコースを全国カリキュ ラムと連動させること -これらの試験は筆記試験を主とすること

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104 実践センター紀要 第 8 巻 2000

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歳児の全国テストは進んでいるが、それ より年長の11、14歳児童・生徒のテストを 進めること

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)親の選択権を保障すること -全ての親が教育の選択権を有することを確 認すること -親の教育選択権が有効に行使されるために 親への情報を保障すること、すなわち親の 憲 章 の 下 で 、 全 て の 学 校 が 毎 年 児 童 生 徒 個々人の進度に関する報告書を書面で提供 することを義務づけること、学校の業績に ついて完全な情報を毎年公表し、こうした 情報を親に提供すること、個々の学校の独 立査察の結果をそのまま親に提供すること

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)教育機会選択の実質化のために教育の多 様化を一層進めること ・グラマースクールや独立学校を保持し、擁 護すること ・国庫補助席を維持すること -教育に関して国家と教会の協力関係を維持 すること -個々の学校経営の自律化を進め、新しいタ イプの学校になることを奨励すること -入学希望者が多い学校により多くの教育資 源を与えること -親が希望する場合は、国庫維持学校化を進 めること -都市技術学校数を増やし、技術学校の拡大 を奨励すること -就学前教育を充実させること 4)教師の専門職性を強化し、教師問題を改 善すること -確立された教員給与の決定システムを維持 すること -教育水準や専門的技能の向上のため定期的 な教員評価を推進すること ・ベテラン教師の実践的な監督の下で、教室 での教授技能をより効果的に習得すること ができるよう教員養成制度の改革を行うこ と -退職した女子教員が復職できるような支援 を行うこと 5) 16歳以後の生徒の教育を充実すること ・この年齢の生徒につき、カレッジ、仕事の 現場での訓練、第6年級での学習のいずれ の選択も可能にすること -継続教育カレッジ、第6年級カレッジなど を地方教育当局から解放し、自律性を与え ること .第6年級に年長学生の入学を認めそれを支 援すること

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レヴェル試験を保持すること -高いレヴェルの全国職業資格を整備するこ と、また16歳以後の人々への新しい上級資 格を導入すること

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)高等教育を拡充すること -これまで続けられてきた高等教育機会や学 生数の拡大を続けること -大学とポリテクニックの

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重構造を廃止す ること -高等教育の水準を維持するための新しい機 構を整備すること -学生の支援のため学生ローンを拡大するこ と これらの選挙公約をみると、第

3

期サッチャ 一時代の教育政策の実質化、具体化に努めてい ることがわかる。また、「親の憲章j の実施の ため、親への教育情報の提供が特に強調されて いることがわかる。すでに指摘してきたように、 クラークは自らの政治的な立場にもかかわらず サッチャ一時代に進められてきた教育改革の完 成に尽力した。そしてみずからが語っているよ うに、彼もまたイギリス教育水準の向上は中心 課題であった。彼が言うように、「より高い水 準に向けた道へ教育を戻し始めた。jのであっ た。(11)彼は教育に関してグラマースクール精 神の持ち主であった。そして、メリトクラティ ッ ク な 社 会 を 支 持 し 、 こ う し た 教 育 を 支 持 し た。 3、メジャー政権下の教育政策の進展 1992年 4月に行われた総選挙において、メジ

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ャーの率いる保守党は選挙前の苦戦の予想をく つがえして勝利し、引き続き政権を担当するこ とになった。選挙後の内閣改造で、クラークは 内務大臣になり、彼の後任にはパッテン(J Patten、1945一)が選ばれた。パッテンは、以来、 1994年

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月19日までその職にあった。(12) パッテンは、伝統的で厳格なローマンカソリ ツク学校で初等教育を受けた後、ジ、エスイット 系のグラマースクールに学び、その後ケンブリ ッジ大学シドニーサセックスカレッジに進み、 地理学を学んだ。卒業後もなお研究を続け、博 士号を取得し、 1969年よりオックスフォード大 学において、教鞭を執った。地理学が専門の彼 は専門誌の編集にも携わり、また専門分野で著 書もある。クラークと違って、学生時代には政 治には全く無関心で、彼が政界入りするのは 1983年と遅かったが、その後、北アイルランド、 保健、建設、内務等の関係各省の行政に関わっ た後、教育科学大臣になったものであった。 彼はクラークと親しく、党内左派に属すると 見られていた。また、彼はかつて教育、研究職 にあり、教育関係者の聞では教育に理解があり、 より融和的な政策を進める人物として期待され た。だが、このような期待は甘く、ロウトンも 言うように、「彼はオプティミストを失望させ た。

J

(13) パッテンによれば、彼は1988年法の熱烈な支 持者であった。また、教育科学大臣になるまで に「彼の心はジョウゼフのような初期の改革者 達の活動によって形成されてきたもの

J

であり、 またベーカ一、マクレガ一、クラークと同じ路 線にたったという。彼は、子供たちの競い合い の効用を信じ、教育を生産者の利益でなく消費 者の利益から考え、また教育のアウトプットを 重視しなければならないと考えていた。(14) パッテンの下でもこれまで進められてきた政 策が引き継がれたが、これまで懸案であった課 題についてより明確な政策が打ち出された。例 えば、公立学校の国庫維持学校化や公立学校経 営の自律性を強化するため、 1993年教育法を制 定し、手続きを簡素化し、それらを促進しよう とした。また、これらの学校への財源配分につ い て 学 校 基 金 処 理 機 関(FundingAgency for Schools)が設立され、一括処理されることにな った。 全国カリキュラムや全国テストについては、 これまでも多様な論議があり、見直しもしばし ばなされてきた。しかし、教師集団からテスト 実施拒否の激しい抵抗があり、これを機にパッ テンはデアリング卿に見直しを要請した。そし て、 1993年に彼の最終報告書が出されると、そ の勧告に従って、カリキュラムのスリム化とテ ストの簡素化が進められることになった。また、 別々に所管してきた、全国カリキュラム審議会 と学校試験評価審議会の2つを、学校カリキュ ラム及び評価当局に統一し、より効果的な対応 を取れるようにした。 教員養成についても改革が進められた。保守 党関係者の間では、教員養成カレッジへの根強 い反感がある。彼らはそこで、理論に偏り、進 歩主義教育に偏した指導がなされ、そのような 考えを持った多数の教師が養成されているこ と、このことが結果的にイギリスの教育水準の 低下につながっていること、等と批判した。こ うした背景から、教員養成は理論でなく、教室 での実践的訓練に重点を置いてなされるべしと いう、いわば徒弟モデルの方向を示した。また 1994年の法律で、教員養成コースを認定し、こ れ に 財 源 を 与 え る 教 員 養 成 機 構(T巴acher Training Agency)を設置し、教員養成のコント ロールをすることになった。 学校の道徳教育も推進されようとした。すな わち、 1993年の保守党大会を機に“基本に帰る" 運動がメジャーによって提唱され、個人の責任、 他者への思いやり、健全な家族、性道徳などの 人間にとって基本的価値を取り戻すことが示さ れた。教育においては、パッテンの主導の下、 自己規制や自立、個人の責任、などの基本的価 値が学校で教えられるようも求められ、さらに 健全な性道徳を

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面養させるために、性教育に関 するガイドラインが省から出された。 さて、 1994年 3月29日には、来るべき総選挙 に備えて、保守党キャンペーン・ガイドがまと められ、発行された。(15)このガイドは、政府 のこれまでの教育改革の進捗状況とその成果を 34ページにわたって詳細に紹介している。この 中で、保守党の教育政策が、「最大限可能なレ

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106 実践センタ一紀要 第 8 巻 2000 ヴェルにまで水準を引き上げ、 全ての子供たち が自らの潜在可能性を達成する」という政府の 中心的な目標、および親の選択権の行使、また テストや試験、全国カリキュラムなどによるこ の水準の引き上げという政府の政策に基礎を置 くものであるとしている。そして、就学前教育 機会の拡大、教員養成、及び教員養成への財源 配分機構の改革による教育水準の引き上げ、親 へ提供される情報量の増加、全国カリキュラム やテストの実施による教育水準の向上、学校の 自律性の確保や国庫維持学校化の推進による教 育の多様化と教育の質の改善、高等教育の拡充 と学生支援の進展などをあげ、これまでの保守 党政府の成果を強調した。 4、1997年総選挙と保守党教育政策 1994年の内閣改造でパッテンを引き継いでお、 教 育 大 臣 に な っ た の は 、 シ ェ パ ー ド (G.Shephard、1940一)であった。彼女は、北ウ オルシャムの寒村の小規模な公立初等学校か ら、同じく小規模な女子グラマースクールで学 び、さらにオックスフォード大学のセイントヒ ルダ・カレッジに進んで、現代語学を修めた。彼 女はその後、地方教育当局の視学官、教育担当 官、教育委員長などを務めた。また、ケンブリ ッジ大学大学拡張講座のヨーロッパ学の講師を 務めた経験もあった。彼女が下院議員に当選し 政界入りしたのは、 1987年であった。以後短期 間に、要職を経験し、 1992年には雇用大臣にな っていた。彼女は、 1997年 5月の総選挙で労働 党に政権が移るまで大臣の職を務めた。 シェパードは政治的に極端な立場に立つ人物 ではなく、首相メジャーの忠実な支持者であっ た。彼女によれば、「首相と私は同じ社会的環 境の出身であることが強調すべきことjだとし、 したがって、子供たちに力を付与し、階梯を登 っていくものとして教育を重視する点で、メジ ャーと同様の立場に立っていたとしている。す なわち、「我々の教育政策は、階梯を必要とす る全ての人々や、全ての子供たちのためにおそ らく我々が提供できる最上のものであると言う ことを確信している。一一一我々はその点で全 く一致していた。」のである。このように彼女 は、メリトクラッティックな教育観を持ってい た。さらに、彼女が寒村の出身であったことか ら、こうした僻辺の地の教育振興にも腐心した。 ( 16) さて、彼女が自ら語っているように、大臣在 任中彼女もまた、これまでの大臣と同じく、 「改革が現実に花聞くように、地固めをし、安 定化させ、確実に定着させ、洗練させる

J

こと に相当の時間を費やし、努力したのであった。 (17) 大臣に就任後進めてきた教育政策の主要な課 題として、彼女は次の点をあげている。すなわ ち、全面的な保育教育の導入、高等教育の徹底 した根本的な見直し、職業教育の重視と改善、 教育水準の重視、学校長資格の創設、国庫維持 学校化のいっそうの推進とそれらの専門化、教 員養成の改革などである。 いずれもこれまでの政策課題を引き継ぎ発展 させようとしたものであるが、このうち就学前 教育については一言を要する。すなわち、彼女 の下では親の選択権拡大のために、保育学校ヴ アウチャー制度が導入されようとしたが、これ には 16歳 以 上 の 人 々 へ の 学 習 ク レ ジット (learning credit)の導入の動きと並んで、、ニュー ライト政策集団の影響が認められる。また、彼 女の在任中の 1995年に、教育省と雇用省が統合 されることになり、彼女は両部門を統括するこ とになった。(1

8

)

この統合の意図は、教育を雇 用や経済の発展に資するようにしていくという ものであった。すなわち、職業教育を重視し、 職業や雇用との関係で資格や教育体系を見直す ことにあった。彼女の下で、デアリング卿によ る高等教育の見直しも進んだ。 さて、 1997年 4月 2日には総選挙をまじかに ひかえ、保守党選挙公約が公表された。シェパ ードはこの選挙公約の教育分野の作成に関わ り、大きな役割を果たした。1997年の保守党選 挙公約は教育問題に関して、 1992年の公約とほ ぼ同じ、「教育と機会j という見出しで、扱って いる。(19) 公約は、子供たちの未来やイギリスの繁栄は 子供たちの教育の質にかかっていることを述べ た後に、「我々の教育の保障j、「選択と多様性j、

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「生涯学習

J

の3つの節にわけで、これからの 政策を提示している。 第lは、「我々の教育の保障

J

についてであ る。ここでは、どの子どもも読み、書き、計算 を中心とした基礎基本を教えられるべきである が、進歩主義教育は子供たちへのこのような教 育を否定し、弊害をもたらしたとしている。そ して、保守党はこの是正のために、(1)子ど もをテストし、その結果の公表を行い、教育水 準の測定と明確化を可能にしたこと、(II)カ リキュラムを改革し、査察を強化し、親に情報 と権限を与えたこと、(田)教師達に自覚を促 したこと、等を述べ、これらによってイギリス の学校教育の水準が高まりつつあるとしてい る。しかしそれはなお不十分で、教育水準の向 上のため、親に新たな約束をするとしている。 教育水準向上に向けての公約の第

1

は、イギ リスが教育の全ての部面で国際的水準のトップ クラスに位置することを確実にするように学校 業績の国家目標を設定することである。第2は、 各学校がその業績を改善する計画を立て、また、 同種の他の学校や国家水準に関連づけて目標を 設定することを求めることである。第3は、子 どもが通う学校の業績に関してあらゆる情報を 親に提供することである。第 4は、業績のあが らない学校を水準にまで引き上げる措置を取る ことである。 公約ではさらに、すでに保守党が行ってきた 教育水準の向上の手段をより確実に使用するこ とを述べる。すなわち、 ・初等学校全国カリキュラムを改訂し、簡素 化すること、 ・テストは自校及び他校の業績の見直し検討 のために重要であるが、このテストの結果 の全てを公表すること、 . 5歳児の評価の導入を提案するほか、全て の全国カリキュラムをカヴァーする 14歳の 生徒のテストを導入すること、 -テストや試験を厳格かっ正確なものにする こと、すなわち、英語ではスペリング、句 読法、文法を重視し、算数での計算機の使 用は禁じ、テストにあたって本を参照する ことは認めない、 .Aレヴ、エル試験は「金の標準j に相当する ものとして堅持すること、 -宗教のテストは子どもや学校の教育成果を 示し、適切な教育がなされていない学校を 明らかにすること。 以上である。このようにテストや試験は教育 水準向上のための挺子として、 一層重視されて いる。 公約は教育水準の改善のために取るべき一層 の措置を挙げている。すなわち、 ・成果をあげていない学校を接取し、必要な らばそれらを閉鎖すること、 -各学校が学科の成果を改善するための目標 や計画を設定し、それらを公表すること -学校の独立査察官は、査察の結果問題のあ る学校の結果や改善計画を定期的に監視す ること -学校の失敗の原因が地方教育当局にあると 考えられる場合、当局は水準向上の計画を 明らかにし、こうした計画を履行するため に独立査察官に指揮された教育チームと活 動しなければならないこと -生徒のテスト成績を反映する厳密、かつ効 果的な教員評価制度を確立すること -支援を要する教師を確認し、場合によって はそれらの教師の置き換えを可能にするこ と -将来の教育水準の確保のため、教員養成の カリキュラムは伝統的な教育方法を重視す べきであり、それには一斉授業や読みの学 習も含んでいること -より多くの教師が、学級での経験に焦点を 合わせた実践的な養成計画によって教育専 門職に入ることを奨励すること -秩序を乱す生徒を排除し、必要な場合に合 理的な物理的抑制を使用するより大きな権 限を教師達に付与すること -学校は宗教教育、集団での礼拝を提供する 役割を果たすべきこと 以上のように、改善の具体的方策をより詳細 に提示している。 公約の第2は、「選択と多様性

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である。

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108 実践センタ一紀要 第 8 巻 2000 保守党は政権獲得後、全ての子供たちの多様 な:才能のためになり、また親に選択を与えるた めに、十分多様な学校を創造してきたとし、こ うした多様性を一層進めることを述べる。すな わち、 ・親が子どものために望む就学前教育を選択 することができるように、全ての 4歳児を 持つ親に幼児教育のヴァウチャーを与える こと -全ての義務教育年齢をカヴァーすべく国庫 補助席を拡大すること -更なる教育機会をカヴアーするように奨学 金計画の拡充すること、 -私立学校の自由と地位を保障すること -国庫維持学校がこれまで親の支持を得てき たことを考えて、さらなる国庫維持学校化 を奨励し、これらの学校の新設、拡充と生 徒の選抜の自由を与えること -地方当局管理下の学校が、自らの学校の管 理につき完全な責任を持つべく、自律性を 一層促進すること。すなわち、予算の配分、 教職員の雇用、生徒の入学等につき自己統 治を強化すること、校長の責任を強化し、 明確な性格を持った学校を形成できるこ と、幾つかの教科において専門性を発展で きること、能力により子どもを選抜するこ と、などである0 ・技術、芸術、 言語、スポーツなどにおける 専門的な学校を奨励すること -全ての学校が生徒を選抜することをみとめ ること -親が望むなら全ての主要都市において学校 がグラマースクールになることを支援する こと 以上である。このようにして、保守党はそれ が導入し、またそれを進める、教育水準の向上、 教育の選択、教育の多様化は、全ての我々の子 供たちに最善の結果を生ずるものと確信してい る。 第

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は、「生涯学習」についてである。 1992年の公約、 1994年のキャンベーン・ガイ ドにおいて、保守党は生涯教育という言葉を使 ってこなかったが、 1997年の公約で、Iifetime learningという見出しで、これを述べている。 ただしそれは、主として 14歳、あるいは 16歳以 上の学生、または成人を指して使われている。 公約では、生涯学習はイギリスにおいて現実 のものとなっており、継続教育や高等教育の改 革の結果、こうした教育を享受している人が飛 躍的に拡大したとし、これらの機会をさらに拡 大すべきことを述べたうえで、次のような提言 をしている。 -教育や訓練の継続する機会を提供するとと もに、これらの教育や訓練が高い水準を確 保すべきこと、具体的にはデイアリング報 告の結果を待って高等教育の発展を検討す ること。 .Aレヴェル、またはそれに相当する公認の 資格に通じる適当な訓練や教育を選択でき る学習クレジット(learningcredit)を14歳か ら21歳までの学生に交付すること。 -職場に基礎を置いた近代的な徒弟制度を雇 用者に奨励すること。 以上である。公約は、最後に、「競争市場は 高い技能を要求している。イギリスが勝つこと ができるためには、学習を奨励し、人々に興味 や探求心を起こさせる機会を与える必要があ る。

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と結んでいる。 これにも見られるように、公約を通ずる基本 的な命題は、イギリスの経済的再生、発展、あ るいは世界市場での生き残りにあり、それに資 するように教育水準を向上させることにあっ た。 1992年版と比較すると、 1997年の公約におけ る教育の扱いはより具体的、詳細になっている。 その内容は、 1988年法の基本的枠組みのさらな る実質化にあるが、就学前教育へのヴァウチャ 一、また 14歳から 21歳の生徒、学生への学習ク レジットの導入計画、学校側の児童生徒選抜の 復活の許容、グラマースクールの復活容認とこ れへの支援、業績評価、査定などの適用の強化、 それに基づく是正措置の明確化、等の点で特徴 がある。 1997年 5月の総選挙の結果、保守党が惨敗し、

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プレーアー労働党政権が成立した。当然のこと ながら、保守党の選挙公約の実現は不可能にな った。 ところで、すでに選挙前から各種の世論調査 を通じて、労働党有利の予測がなされていた。 労働党はすでに、 1996年に公約草案を公表し、 世論の反応を見るとともに、 1997年総選挙にあ たって、正式の選挙公約を出している。これら の公約で示された教育政策、およびブレアー労 働党政権の下で現在までに推進されつつある教 育政策を管見する限り、多くの点で保守党の教 育政策を継受し、または接近しており、政党間 の政策上の差異はさほど顕著で、はない。このよ うに、サッチャ一時代に枠組みが築かれた教育 政策は、その後メジャー政権の下で実質化、具 体化が続けられ、その基本部分は労働党政権に も引き継がれた。そして、それは今日までイギ リスの教育に極めて大きな影響を及ぼしている のである。

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、メジャー政権下の教育政策の特徴と その影響一一一むすびにかえて ( 1 ) 以上本稿では、保守党メジャー政権の下で展 開されてきた教育政策について述べてきた。ド レイ(Dorey,P.)は、「メジャー政権によって追求 されてきた教育政策は、公的政策の継承の明ら かな事例である。それらはサッチャーが党首、 首相であった時に導入された改革の継続と地固 めであった。

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(20)と述べているが、その特徴 は、この時期に、 1988年教育改革法で作られた 基本的枠組みが支持され、その定着、具体化、 強化がはかられ、あるいはその不都合の修正、 是正が行われたことである。スコットは、 1994 年時点でメジャー政権の教育政策について、 ①サッチャ一政権下で作成、構想された政策の 推進、②これらの政策の部分的修正、③それら を基礎とし、それ以上に展開されたこと、の3 つにわけで検討しているが(21)、その後の政策 も含めて、メジャー政権下の教育政策はこうし た

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つの観点から分類できるであろう。例えば、 国庫維持学校化の促進は①に、全国カリキュラ ムのスリム化や全国テストの修正は②に、“基 本に返る運動"や教育基準監視庁の設置などは ③に類別できる。 メジャー政権下では、サッチャ一政権下と同 じく、教育専門職に対する強い批判や攻撃があ り、このことが種々の政策の基礎の一角にある と思われる。その大きな理由は、専門教職者が 進歩主義教育や児童中心主義を奉じ、これまで イギリスの教育水準を低下させ、また混乱させ たとする判断にあった。 メジャー政権下の教育政策は、新保守主義的 な政策と新自由主義的な政策の聞の矛盾が指摘 されているが、さらに次の問題は重要である。 第1は、国庫維持学校を促進することと、独立 学校を擁護することの矛盾である。すなわち、 国庫維持学校が増加しそれらが質のよい教育を 提供すればするほど、有名私立学校は中産階級 の子弟を吸収できなくなり、衰退するという矛 盾である。第

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は、グラマースクール再生の動 きと関連した、学校への選抜制の導入と、親の 教育選択権との矛盾である。この点に関してド レイは、「メジャー政権の教育政策は、親の選 択の主張から、一一一一 (当局よりの)離脱学校 がますますその生徒の選抜を認められる制度に 事実上一周しでもとに戻ったように思われた。 メジャーは、彼が青年時代に明らかに彼を見捨 てた総合制教育制度以前の型をなんとかして再 び作り上げ、またそれに復帰しようとしている と思われるのは非常に皮肉である。

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、と論評し ている。(22) メジャー政権については、明確な政治指針を 示さず、あるいは示せず、暖昧な政治しかでき なかった歴史上最悪の保守党内閣との酷評もあ る(23)。しかし、複雑な党内情勢から微妙な舵 取りを迫られたこと、また政治、経済、社会状 況の厳しい制約のなかで、政策的にあまり選択 の余地がなかったとの見方も有力である。

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このような見方にもかかわらず、政策課題によ ってはサッチャーよりもサッチャー的な政策が 進行した。こと教育政策については、多分にこ のような政策が進められてきたと言える。すな わち、「サッチャーによって始められたと言わ れる教育革命は、メジャーによっても未完のま ま残っている。一一ーしかし、教育はメジャー 政権にとって、サッチャーの長い行政に勝る記 録を有する領域の一つである。

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(25)との指摘

(10)

110 実践センター紀要 第 8 巻 2000 がなされている。 このような政策が進められたのは、メジャー および、教育大臣、および関係者が、自らの政 治的な立場に関わりなく、サッチャ一政権下の 教育政策の枠組みを支持し、それを推進、実質 化しようとしたことが大きい。クラーク、パッ テン、シェパードについて言えば、いずれもグ ラマースクール、または類似学校の出身者であ り、したがってメリトクラティックな教育を重 視する、いわゆるグラマースクール精神を持っ ていたと考えられる。この点で、他の政策課題 はともかく、少なくとも教育に関する限り、共 通の指向性を持っていた。 また、ある意味では、少なくとも教育政策に 関する限り、一部を除き、すでに左右の大きな 対立がなくなっていた。すなわち、サッチャー のもとで策定された政策が、すでに保守党関係 者の問で、共通の基盤になっていたと言えるの である。 これに加え、ニューライト関係者の影響がな お存在した。政務次官クラスにはニューライト を支持する人物が含まれたし、全国カリキュラ ムや試験関係の審議会などにニューライト関係 者が入った。経済問題研究所、アダムスミス研 究所、政策研究センターなどのニューライト系 シンクタンクの影響もなお続いていたと考えら れる。例えば、長らく主任視学官を勤めた、ボ ルトン(E.Bolton)は、メジャー政権が教育関係 者の見解や助言を無視し、アダムスミス研究所、 政策研究センターなどのニューライトの組織や ニューライトイデオローグの勧告に容易に耳を 貸したと非難した。(26)

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)

こうして展開された保守党教育政策が学校教 育や教育制度にどのような影響を及ぼしている のであろうか。その評価は多方面から厳密に行 われなければならないであろう。ただここでは すでに紙面の関係もあり、暫定的評価にとどめ ておく。 ボール(S.J.Ball)は、 11988年から 1998年の 10 年間に、我々はイギリス教育制度の根本的かっ 多面的な改革を見てきた。新しい論理や技術、 そして言説が、初等学校から大学まで、種々の 教育機関に導入され、確立されてきた。これら の改革は、市民社会、経済、政策の聞の本質の 根本的変化に寄与した。」と述べ、改革の影響 の大きさを強調している。(27)このように改革 の影響が、就学前教育から大学を含む高等教育、 成人教育と教育の全分野に極めて大きな影響を 及ぼしたことについて、論者は一致している。 ただその影響の評価に関しては、当然のことな がら、政策課題や観点によって異なり、ある面 で矛盾したものになる。 ここでは主として、初等中等学校を中心とし て指摘されている影響について暫定的にまとめ ておく。 第lは、学校経営への影響である。今日、全 ての学校や教育機関は、いわゆる市場メカニズ ムに組み込まれている。その場合、生徒や学生 の確保は、当該組織の存亡に関わることである。 また、公的以外の財源の確保もまた、これらの 機関にとって極めて重要な問題である。このこ とから、校長はじめ学校管理者の役割が大きく 変わった。彼らは、財務、学生の確保、マーケ ツテイング、施設設備の管理、雇用問題などの 業務に忙殺されている。また、管理者は、効率 的経営を迫られる。このことから、専門性を重 視した決定よりも財政効率を重視した決定を迫 られ、このことは学級規模や教師の雇用構造に 影響を与えている。校長や管理者と一般教員の 職務分担も明篠になり、これらの聞で緊張関係 が増大している。さらに、教育機関の聞の協力 や協同が弱まり、これらは疑惑や敵対する関係 に変わったと言われる。 第2は、学校での教育活動である。全国カリ キュラムや全国テスト、査察、さらには学校ご との成績順位表の公表などは、教師の専門的判 断の余地を狭め、教育活動を標準化、ルーチン 化した。とりわけテストは、誤解を与えるよう な結果を生じることもあり、複雑かつ官僚的な 方法で実施され、教師に過重の負担をかけると 批判された。このような問題は改善されている がなくなってはいない。さらに、テストの準備 が教室での最優先の教育になると指摘されてい る。試験やテスト結果による学校別順位表の公 表については、成績の悪い生徒にテストを受け ささない、

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レヴェル試験を受けさせない、ま

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た受けてもやさしい科目を受けさせる、等をし てこの順位表をよくする操作もなされていると

第3は、教育専門職の勤務条件や地位への影 響である。一連の改革は、教師のあり方そのも のを大きく変えたと言われる。まず、教師の地 位が不安定になっていることである。経営的な 観点からして、ベテランの教師は経費を必要と し、逆に未経験で無資格の教師、または退職教 師は安く雇用できる。このため、こうした経験 の浅い、または無資格の教師が短期間、期限付 きで雇用されることも多くなり、逆にベテラン 教師が早期退職に追い込まれる場合もある。ま た、賃金は、全国標準があるものの、校長や理 事が大きな裁量権を持ち、しかも、教師評価に 基づいて報奨金や職務能率給が支給される。教 員組合は非常に弱まり、組合員数は減少した。 水準の引き上げの要請、業務負担の大幅な増加、 実績が上がらない場合の非難などは、教師のモ ラールを低下させた。教職に入ろうとする希望 者 が 減 少 し 、 逆 に 退 職 希 望 が 増 え た。また、 1997年には教員養成機関在学者が11パーセント も減少した。教育水準評価庁による教師や学校 の評価は医師や法律家、実業家が想像できない 相当のストレスを与えていると言われる。 第4に、教育サービスを受ける人々への影響 である。学校の成績指標を重視したり、改革が 行われた学校財政システムは、学校の側に児童 生徒を選別するインセンテイヴを生じており、 こうした選抜、選別を導入し、拡大しようとす る動きが生じた。すなわち、財源をもたらし、 学校のイメージを高め、成績を引き上げる児童、 生徒を選抜し、逆に成績順位表を引き下げたり、 経費のかかる者を排除する動きがある。例えば、 学校は中産階級の出身者やアジア系の学生を多 く入学させようとし、特別な教育の必要がある 者を除外しようとする。また、秩序を乱し、成 績の振るわないものを退学させようとする。こ うして、学校聞で社会的選別が行われる可能性 があると指摘されている。教育消費者としての 親や子どものうちで、真に学校選択の恩恵、に浴 しているものはその手段や資源も持っている中 産 階 級 に な っ て い る と い う 指 摘 も な さ れ て い る。 保守党が掲げてきた教育水準の向上の達成に ついては、例えばGCSEやAレヴェル試験の合 格率の向上や成績改善の実績についての指摘が あり、成果を上げているという評価もなされて いるが、反面、問題がやさしくなり、採点基準 が甘くなったと言う指摘もあり、相反する評価 がなされている。すなわち、“業績評価の政治 化"という現象が生じていると言われる。ごく 最近の国際学力調査の比較においても、イギリ スのランクは逆に下がっていることが指摘され ている。(28) 見てきたように、現在のところ負の影響が指 摘されることが多いが、改革の成否の評価は、 なお厳密な検討と時聞を要するであろう。 なお、改革は、継続教育、高等教育にも同様 に大きな影響を及ぼしているが、ここでは割愛 した。(29) (注)

( 1) Walford, G.',SchoolChoice and the Quas卜market',

Oxford Studies inComparativeEducalion,VoI.6, No.1, 1996, P.7

(2) Lawton, 0., The Tory Mind on Education, 1979-1994,

The Falmer Pr巴ss,1994, P. 72.

( 3) Thatcher,M., The Downing Stre巴tYears , Harper

Collins, 1993, P.835.

(4 )書名は、以下の通りoCorrelli Barn巴tt,Audit of War, Martin Wiener, EnglishCulture and the Decline

ofthe Industrial Spirit 1850・1980,いずれもイギリス の経済的衰退の原因を探ったものである。 (5) M勾or,J., The Autobiography, Harper Collins, 1999

( 6) Kavanagh, D., and Seldon, A., ed., The M句orE仔巴ct, Macmillan, 1994, PP.337-338

( 7) Ribbins,P., and Sherratt,B., Radical Educational Polici巴sandConservative SecretariesofState, Cassell, 1997, P.149.

( 8) McSmith,A., Kenn巴thClarke, Verso, 1994, P.182.

( 9) Ribbins and Sherratt, op.cit,.P.165

(10) 1997年の保守党選挙公約については、 TheTimes Guide to The House ofCommons, Times Books ,

1992, PP.304-307 による。 (ll) Ribbins and Sher間t,op.cit., P. 166.

(12) 1992年に、教育科学省の科学部門は、サービス技

(12)

112 実践センタ一紀要 第 8 巻

省(D印 刷mentfor Educatin)となる。 (13) Lawton,D., op.cil., P.80.

(14) R帥 insand Sherralt, op.ci,.lP.170

(15) The Campaign Guide 1994 -A Comp帥 ensiveSurvey of Conservative Policy, Conservative Research Dep創1m巴nt,1994, PP.115-15J特に、 PP.117-119にお いて、その成果のキーポイントを主張している。 (16)悶bbinsand Sherrall, op.cil., P.22J (17) i刷 、P.204 (18) 1995年に教育省は、教育雇用省 (Departmentfor Education and Employment)に再編された。 (19) 1997年の保守党選挙公約は、 1997年4月3日付タイ ムズ (TheTimes)を参照した。以下、公約について はタイムズによる。

(20) Dorey,P., ed., The Major Premiership, Macmillan,

1999, P.146

(21) Kavanagh andSeldon, op.ci.,lPP.335-337.

(22)Dorey, op.cit, P.I64

(23)例えば、 Cockett,R.,' Major: Verdict of History',

lndependentonSunday, 11/5/1997, P.17.

(24)例 え ば、Seldon,A.,John Major, Weidenfeld & Nicolson, 1997.

(25) Kavanagh and S巴Idon,op.cil., P.350

(26) Chitty,C,目& Simon,B., Educat刷1Answers Back,

Lawrence & Wishart, 1993, P.15で紹介されている。 (27)Ellison,N., and P町 son,c',ed., Developments in British Social Policy, Macmillan, 1998, PPI58-159. (28) Do町,op.ci,.lP.I64 (29)本稿脱稿後、マクレガーが1986年当時大蔵省にお いてローソンの下で教育改革案の作成に携わって いたことを知った。詳締は別稿で論じる。 2000

参照

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