井上円了と政教社
著者名(日)
中野目 徹
雑誌名
井上円了センター年報
号
8
ページ
3-24
発行年
1999-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002691/
井上円了と政教社
中野目徹
㌔△裕Cミミ㌻きミ はじめに ご紹介いただきました中野目でございます。もう十二、三年前になりますでしょうか、修士論文の史料調査と いうことで東洋大学を初めてお訪ねし、百年史編纂室や図書館の一角にあった井上円了資料室、それに高木宏夫 先生が主宰されていた研究会などで集めておられた井上円了の関係資料を拝見しました。それ以来、関係の皆様 にはたいへんお世話になっておりまして、更めて厚く御礼申し上げる次第です。 そこで今日は、私が研究に取り組んでまいりました政教社のなかで、井上円了はどのような位置を占め、役割 を担っていたのか、また逆に、政教社での経験は、仏教普及を軸とする円了の思想活動にとって、どのような意 味を有していたのか、ということを中心にお話しさせていただいて、少しでもこの研究会のお役に立つことがで きれば、と考えております。なお、井上円了は東洋大学にとっては“学祖”ということですが、もう歴史的人物 ですので、以下この報告で敬称は略させていただきます。 さて、まず井上円了に関する先行研究の成果を整理しておきたいと思います。最近の主要な成果は、﹃井上円 了研究﹄﹃東洋大学史紀要﹄﹃井上円了センター年報﹄など東洋大学関係の雑誌に掲載されております。ほかに 3 井上円了と政教社は、池田英俊﹃明治の新仏教運動﹄︵一九七六年、吉川弘文館︶、同﹃明治仏教教会・結社史の研究﹄二九九四年、 刀水書房︶、上場顕雄﹁排耶論にみる明治前半期の真宗﹂︵﹃仏教史学研究﹄第二〇巻第二号、一九七八年︶、堀口節子 ﹁三宅雪嶺と井上円了﹂︵﹃続国家と仏教﹄近世・近代編、一九八一年、永田文昌堂︶、赤松徹真﹁井上円了における国 家と仏教﹂︵﹃竜谷大学論集﹄第四二六号、一九八五年︶などを挙げることができましょう。 これらの研究に共通していることは、﹁護国愛理﹂という井上円了の中心思想が、ナショナリズムの思想とし ていかなる内容をもっていたのか、その評価をめぐってなされているということです。どなたの研究がどうとは 逐一申しませんが、ある人は円了をナショナリストとして高く評価すると言い、別な方は円了をナショナリスト として不徹底だと批判するといった具合で、円了の思想をナショナリズムのそれとする点では共通しているもの の、ちょうど正反対の評価が下されているわけです。どうしてこのようなことになるのかというと、ナショナリ ズムのどういう面を評価していくのか、そのあたりが不問に付されているからだろうという気がします。つま り、ナショナリズムというのは非常に曖昧な定義のままで流通していて、分析概念としては不適切なのではない かと、私は考えています。 もう少し具体的に言いますと、近代の西欧社会、あるいは国際秩序のなかで、ナショナリズムというものは、 その初発の意味において本来”健康”なものであって、武力侵略をともなう領土拡張を目指すようなものではな いのだという見方に立てば、ナショナリズムは近代国家の成立に不可欠な一つのメルクマールということにな る。従来の研究では、そのような、いわば理念型としてのナショナリズムをあらかじめ措定しておいて、それと の比較で井上円了の評価を行なってきたと思うのです。しかし、このような見方は、本末転倒と言うべきではな いでしょうか。そもそもナショナリズムというのは、各民族国家の個別性についていうわけですから、西欧型の
それがすべてではないわけですけれども、近代主義的と言ってしまえばそうなんですけれども、そういう見方が 根強いのではないか。そういう見方で井上円了の﹁護国愛理﹂を批判していくというのは、当たらないのではな いか、ということです。 それからもう一つ、先行研究のなかに見られる傾向として、井上円了の仏教思想は結局西洋哲学の論理で仏教 を解釈したもので、肝心の信仰論が欠落しているのではないか、という批判があると思います。確かに円了は、 初期の東大でカント哲学の観念論やスペンサーの社会進化論を受容して、それらから大きな影響を受けていまし た。しかし、このことについても、百年以上前の日本の状況、とくに廃仏殿釈以来仏教が衰退していたという状 況のなかで、円了が啓蒙的な仏教改良運動に入っていくというのは、やはり一つの必然性があったのではない か、と考えることができます。頭脳優秀な円了が、専心仏典研究に取り組んでいたら、必ずや仏教学研究に新境 地を拓いたであろうと言われるわけですが、そのような彼が、あえて仏教啓蒙活動と言いますか、後半生を地方 講演旅行に費やしたということを、その後の宗教学の到達点から見て批判していくというのは、円了にとってか なり酷なのではないかと、私は感じています。 したがって、以上申しましたような二つの問題、ナショナリズムと仏教思想の内質をめぐる問題は、新たな課 題設定のもとで、いま一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか。限られた時間のなかで私にできる こととなりますと、井上円了の政教社における活動を跡づけてみて、それが円了思想にとってどのような意味を もっていたのか、両者の関係に再検討を加えていくことだろうと思います。そこで今日の報告では、拙著﹃政教 社の研究﹄二九九三年、思文閣出版︶で明らかにしたことがらを、井上円了との関わりに焦点を合わせて整理し 直していくことで、責めを塞ぐことにしたい思います。 5 井上円了と政教社
一 政教社以前の井上円了 まず最初に、井上円了の思想形成に関わる部分から探ってみたいのですが、彼は長岡の在の真宗寺院の長男で ある、したがって当然お寺を嗣ぐべき立場にあったわけです。ところが、神童ぶりを発揮して、それが真宗教団 でも認められて、内地留学のようなかたちで東京大学に進むことになったんですね。いちばん根っこのところ に、真宗仏教があることは疑いない、ただそのような過程で彼が得た知見といいますか、もっと広くエートスの ようなものから見ていきたいと思います。 安政五年︵一八五八︶生まれの円了は、徳富蘇峰の言う﹁明治ノ青年﹂の世代に属するわけです。維新の記憶 は余りないと思うのですが、彼らが青年期を迎える頃というのは、ちょうど文明開化の時期に当たります。その 頃円了のつくった七言律詩が残っているのですが、﹁早成内外国家学 要立文明開化基﹂とありまして、﹁国家の 学﹂と﹁文明開化﹂への志向というものをはっきりと示しています。やはりこの二つの価値の追求ということ が、﹁明治ノ青年﹂に共通のものとしてあったのではないかと。これは﹁襲常詩稿﹂という史料のなかに残って いる、明治五年から十年までの間につくられたと推定される漢詩の一節です。 それともう一つは、長岡学校の卒業式の式辞ですが、政策科学としての﹁文学﹂への志向、それを﹁夫レ文学 ナル者ハ開智ノ法ニシテ而富国ノ基也。国家ノ盛衰モ亦関ス﹂と述べています。ここでいう﹁文学﹂は現在の文 学よりも意味が広くて、ほとんど文化とイコールのような気がします。つまり、この時期の円了にはすでに、国 家の政策科学のなかで文化的な側面を担っていこうという意識があったのではないか。その背景にあったのは、 ﹁文学﹂は文明開化への道筋でありますとともに、富国の基礎であり、さらに国家の盛衰にまで関係するという 認識です。このとき円了は十八歳くらいでしょうか、そういう意識で東大文学部に進んでいくわけです。
東大では、﹁文学﹂のなかでも哲学を専修することになります。詳しく述べる余裕はないのですが、ここでは カントの観念論、スペンサーの社会進化論などから大きな影響を受けるわけです。この頃の史料としては、円了 の書き取った受講ノートが東洋大学に残っておりまして、以前私も拝見しました。 一方、教師側の史料としては、静嘉堂文庫に所蔵されております中村正直の﹁敬宇日乗﹂というのがございま す。中村は当時文学部教授でして、支那哲学と呼ばれた儒教の経典の講義を担当していたのですが、その日記の なかに円了のことが頻繁に出てまいります。これなどは精査が必要かと思うのですけれども、中村の講義、まあ ゼミなのでしょうが、円了一人しか受講していないんですね。円了が中村から何を、どのような順序で学んだの かということは、興味があります︵この報告の後、小泉仰﹁﹃敬宇日乗﹄における中村敬宇と井上圓了﹂﹃井上円了セ ンター年報﹄第七号、一九九八年に接した。︶。 ただ、円了の志向は、西洋哲学にあったわけでして、古代ギリシアに起源をもつ西洋哲学に。彼が﹁哲学﹂と 言ったとき、それは西洋哲学のことでありますので、このときいったん仏教から離れるわけです。﹃仏教活論序 論﹄のなかで明快に述べられていますが、とにかく現状の仏教では駄目なんだと。僧侶も堕落していて駄目だ と。ところが、さらに哲学を学んだ上で、もう一度仏教を見てみると、キリスト教や儒教に較べたら、仏教の方 が遥かに優れている。その基準は西洋哲学の﹁原理﹂に合致するかどうかということです。こうして円了の場 合、仏教を再発見していくのですが、それは他の政教社の同志たちとある程度共通な思考経路を辿っていると見 て、いいのではないかと思います。ナショナリティ発見のプロセスとして、いったん西洋起源の価値に触れた 後、もう一度日本の伝統のなかに帰ってくる、西洋哲学をくぐった仏教理解というものが、彼のナショナリズム の基盤にあったわけです。 7 井上円了と政教社
次に、明治十七年の哲学会結成に関する動静についてですが、この段階では円了の志向はまだ西洋哲学に大き く傾いているのでして、東洋哲学や仏教には向いていません。この間の経緯は、現在郁文館高等学校に保存され ている棚橋一郎の﹁日記﹂というものがございまして、漢文日記なのですが、このなかに円了の名前がしばしば 出てまいります。それからシュヴェーグラーの哲学史を読んだとか、﹁三宅雄二郎氏来室、雑談﹂とか出てまい りまして、そういうなかから哲学会が出来てくるんですね。雪嶺はもう大学を卒業していますけれども、円了た ちのいる寄宿舎を気軽に訪ねている様子がうかがえます。つまり、大学を卒業したから学士様で、政府の官僚に なったとか、そういうことではなくて、書生社会の雰囲気をそのまま引きずってしまっている。この延長線上に 政教社もあるのだと、私は考えています。 この日記には、﹁原先生ヲ訪ネ哲学会ノ会員タランコトヲ請ウ﹂などとありまして、原担山ですが、大学総理 の加藤弘之を訪ねたり、西村茂樹とか西周でありますとか、哲学会の結成をめぐって重要な人脈の形成がなされ ていたことも読み取れます。東大のなかに身を置いていたからこそ様々な出会いがあったとも言えるわけでし て、明六社との連続性なども垣間見ることができます。私にとっては、これも非常に興味深いものです。 ついで明治十八年になりますと、いよいよ円了は大学卒業となります。卒業式、学位授与式ですが、卒業生を 代表して答辞を述べたのは、ご存じのとおり井上円了だったわけです。国会図書館の憲政資料室に阪谷芳郎関係 文書がありまして、その頃の東大の成績表が残っています。それを見ますと、円了はたいへん成績がよい。そこ で答辞を読むことになったのだろうと思いますが、その答辞のなかで﹁大二国家二為ス所アランコトヲ務ムルノ ミ﹂と述べております。このような決意は朝野いずれにあるを問わないとも言っております。ですから、円了の ナショナリズムが在野にあったから貴重だというような言い方は、私は余り意味がないのではないかと思いま
す。在野のナショナリストであったからといって彼を評価するのは、円了の主体的な意識からすると多少ずれて くるのかな、という気がしております。 実際のところ円了は、卒業当時の文部大臣森有礼から、文部省に入らないかと声をかけられるわけです。でも 病気を理由に断わってしまう。それで、哲学書院の経営と著述活動に専念し、二十年には東洋大学の前身である 哲学館を創立しました。これらに関しましては、高木先生はじめお集まりの皆様によって解明されておりますの で、ここで私から付け加えることはありません。そしていよいよ、政教社の設立ということがあるわけです。 二 政教社と雑誌﹃日本人﹄ 政教社は、明治二十一年二八八八︶、井上円了をはじめ三宅雪嶺、志賀重昂ら十名の青年学士たちと島地黙 雷の合計十一名によって結成された思想集団です︵表−参照︶。彼らがその主義とする﹁国粋保存﹂﹁国粋顕彰﹂ に関する論説を発表する場が、同年四月三日に創刊され、当初月二回発行された雑誌﹃日本人﹄でした。政教社 と雑誌﹃日本人﹄は、明治二十年代のナショナリズムの思潮をリードする一方の旗頭として知られています。政 教社という名称は、井上円了による命名とも、同志の一人加賀秀一の命名とも言われておりまして、はっきりい たしません。﹃日本人﹄の方は、三宅雪嶺の命名とされています。いずれにせよ、円了は政教社の設立と雑誌 ﹃日本人﹄の創刊に深く関わっていたと予測されます。 政教社という名称は、今日ですと政治と宗教ということになりますが、この当時のニュアンスですと政治と宗 教プラス教育といったところが近いのでありまして、宗教と教育を合わせた教化という意味がぴったりくると思 うのです。円了の場合、仏教運動と哲学館の設立ということから判断して、主として﹁教﹂の部分で政教社と繋 g 井上円了と政教社
表1 政教社設立の﹁同志﹂ 氏 名 号
生没年
出身地︵階層︶ 出身校︵専攻︶ 卒業年 政教社設立までの経歴等 設立時の年齢 加賀秀一 央堂 一八六五∼一九四五 岐阜︵士︶ 帝国大学文科大学選科︹哲学︶ 明治20年 私立東京外国語学校、学習院 23 今外三郎 夢ト 一八六五∼]八九二 青森︵士︶ 札幌農学校︵農学︶ 18 長野中学︵上田支校︶ 23 島地黙雷 雨田 一八三八∼一九一一 山口︵僧︶ 浄土真宗︵本願寺派︶僧侶、洋行 50 松下丈吉 鬼窟 一八五九∼↓九一三 福岡︹士︶ 慶応義塾︵英学︶ 11 東京大学予備門、第↓高等中学 29 辰巳小次郎 塵舎 一八五九∼↓九二九 東京︵士︶ 東京大学文学部︵哲学、政治学︶ 14 東京大学存備門、第一高等中学 29 三宅雄二郎 雪嶺 一八六〇∼一九四五 石川︵医︶ 東京大学文学部︵哲学︶ 16 東京大学編纂所、文部省編輯局 28 菊池熊太郎 東娩 一八六四∼一九〇四 岩手︵平︶ 札幌農学校︵農学︶ 17 千葉中学、福岡中学 24 杉江輔人 雲外 一八六二∼一九〇五 広島︵士︶ 東京大学文学部︵政治学、理財学︶ 17 会計検査院、宮城師範兼中学 26 井上円了 甫水 一八五八∼一九一九 新潟︵僧︶ 東京大学文学部︵哲学︶ 18 哲学書院、哲学館 30 棚橋 一郎 竹荘 一八六一二∼一九四二 東京︵平︶ 東京大学文学部︵和漢文学︶ 17 第一高等中学、東京府中学 25 志賀重昂 ーー対川 一八六一二∼一九二七 愛知︵士︶ 札幌農学校︵農学︶ 17 長野中学︵長野本校︶、南洋巡航 25 がっていたというふうに、私は考えております。 ところで、この﹁社﹂という部分に注目しますと、まず法令的な面から言いますと、新聞紙条例というのがご ざいますが、政教社はそこで規定されている政論雑誌の発行所名ということになります。﹃官報﹄に﹃日本人﹄ 発行許可の掲載があったのは明治二十一年三月二十一日のことで、この日をもって政教社の設立日とすべきで す。もしこれが政党だったら、集会条例で規制を受けるわけですね。しかし政教社は﹁党﹂ではないわけです。 ﹁社﹂というのは、明六社あたりから始まりまして、すでに幕末期にも会訳社というのもありますが、要するに゜・ 盾暑・o口の訳語として定着してくる日本では新しい人間集団だったのではないかと。玄洋社でありますとか、交 詞社でありますとか、政教社と同じ時期ですと民友社でありますとか、後には平民社などというのもあります が、明治期の思想集団としては、この﹁社﹂というものがやはり独特な役割を担っていたと思うのです。 その後政教社は、明治四十年︵一九〇七︶に雑誌の名称を﹃日本及日本人﹄と変え、大正十二年︵一九二三︶ に至って三宅雪嶺が退社しながらも、昭和二十年二九四五︶まで続きました。後で述べますように、円了が関 わったのは、長い政教社の歴史のなかで、ごく初期のほんの一時期ということになります。 円了が執筆していた頃、つまり創刊間もない時期の﹃日本人﹄がどのくらいの発行部数だったかと言えば、当 時の警視庁などの統計資料を見ると、平均して一号当たり約七千部というところです。徳富蘇峰の﹃国民之友﹄ は非常に売れておりまして、一万二千部に達しています。代表的な新聞、例えば﹃東京日日新聞﹄でも一日よう やく一万部強という時代のことでありますから、﹃日本人﹄の約七千部というのも決して少ない数字ではありま せん。読者層として想定されるのは、学生や官吏などといった知識青年たちですから、思想的な影響力というこ とになりますと、数字以上のものがあったと推定されます。円了が筆を執っていたのは、そのような雑誌でし た。 以上のような政教社と雑誌﹃日本人﹄を、どういう視点から見ていったらよいだろうかということなのです が、私はそれを、明治十年代に東京を中心として成立していた書生社会との関連で捉えることで、より実態に即 して彼らの思想活動を描けることになるのではないか、と考えています。つまり、書生社会論の一環として政教 社と雑誌﹃日本人﹄を捉える視点です。 このような視点に立って、まず政教社の設立経過を見ていきますと、第一に、明治二十一年になりますと一月 11 井上円rと政教社
三十一日、二月二十八日、三月十四日と、毎月一回、設立のための準備会を開いていることが分かります。これ は現在、世田谷の松原にあります日本学園高等学校の資料室に、杉浦重剛の日記がございまして、その日記のな かに会合の記述があることではっきりします。杉浦は政教社の設立メンバーではないものの、円了たちにとって いわば兄貴分に当たる人で、ほどなく正式な同志社員となります。 第二に、そのような準備会の伏線というのがそれ以前からあるのでして、東洋大学の八十年史や円了の簡単な 伝記にも書いてありますが、前年すなわち明治二十年の五月に、円了の設立した哲学書院の二階に同志が集まっ て、雑誌発行の計画が話題に上り始めたということが、どうもあるようです。この時期というのは、ちょうど井 上外相による条約改正交渉が進んでいて、それに反対する運動も夏あたりから起こってくる、それが大同団結運 動になっていく、という時期でありました。 そういう時期に、メンバーについては後ほど再度述べますが、円了や雪嶺たちが集まって雑誌を出そうという ことになったわけです。ここに集まっていた者たちは、ほとんどが東京大学の文学部の出身でありまして、すで に明治十七年に哲学会を結成したときのメンバーとも重なります。円了の友人たちと言っても差し支えないと思 います。つまり、東大文学部の書生社会の性格をかなり純粋なままで維持して、そういうなかから出来てきたの が政教社なのだろうと思います。さらに言えば、すでに顔見知りでいつも集まっていた連中が、何かやろうとい うことで出来たグループが政教社であって、最初にパトロンがいて資本があって採算を見越して⋮⋮というので はない、ということです。 一方、札幌農学校を卒業した人たちの方でも同じような計画がありまして、これは札幌農学校で教授をしてい ました宮崎道正という人と、その教え子の志賀重昂たちが加わっていて、結局この二つの書生による会合から政
教社が設立されたわけであります。前者すなわち東大のグループは円了の創立した哲学館︵後に東洋大学︶で教 鞭を執る人たち、後者の札幌農学校のグループは東京英語学校︵後に日本中学校、現在の日本学園高等学校︶で講 師を務める人たちです。彼らは教師で生活費を稼ぎ、政教社に拠って言論活動を展開していた、そういう像を描 けると思います。彼らは政教社での活動によって生活していたのではないのです。 三 同志と﹁国粋主義﹂ そのような設立の同志たちの経歴を見てみますと、ほとんどは明治十六年から十八年にかけて、それぞれ文学 士、農学士となって学校を卒業いたしております。現在ですと、文学部と農学部というのは、文系と理系のなか でも実社会との接点が少なく、したがって就職もあまりよくない学部というイメージかもしれませんが、当時は そうではなくて、東大でも政治学科や理財学科は文学部に入っていたくらいでして、政策科学として教えられて いた。その頃の東大の卒業生は毎年せいぜい数十人程度、札幌農学校に至っては十四、五人といったところです から、本当に希少価値でありまして、彼らを国家有為の人材として育てるということは、これはもう政府にとっ て至上命題でありました。前に申しましたように、学生の側でもそれを十分自覚していたことは、円了の卒業式 の答辞からうかがえるわけです。 国家的な期待を担っていた彼らが学士となって、そして政教社をつくったというところに、やはり大きなイン パクトがあった。書生社会のなかで学士になれるのは、ほんの一握りなわけでして、その書生社会の頂点部分が 寄り集まってつくったのが政教社であったということです。そして、そのような設立の経緯は、政教社の思想活 動の内容を規定する・王因を形成していたはずです。従来の研究ですと、鹿鳴館に象徴される欧化主義の風潮に対 13 井上円了と政教社
抗して、ナショナリズムを主張する結社が生まれたと説明されるわけですが、それよりも何よりも、書生社会の なかから政教社が誕生したのだという、基本的性格はそこのところにあると、私は考えています。 では、井上円了はどう関わっていたかといいますと、先ほど述べた設立までの伏線のなかで、東大文学部グル ープの流れの中心にいたことは間違いないと思います。社の命名にも関わっていたようですし、話し合いが彼の 哲学書院で行なわれている。ところが円了は、病気療養ということで、明治二十年の暮れから翌二十一年二月二 十七日まで、熱海に行っているらしいですね。ということは、杉浦の日記にあった一月三十一日の設立準備会に 加わっていないことは確かです。ただ、二月二十八日の会合は、円了の帰京を待って開かれたような感じもいた しますし、やはり彼は政教社の設立に深く関わっていたと推定してよいのではないかと思うのです。円了が病気 だったというのは事実のようですし、それから旅行好きであったということ、同志の一人であった棚橋一郎の回 想にも出てくるのですが、円了が熱海に行ってしまったため計画が進まないことになってしまい、棚橋が熱海ま で行って結社や雑誌発行のことを相談したということがあったらしい。政教社の設立に当たっては、円了の意見 は大きなウエイトをもっていたと推測しております。 次に、設立時のメンバーですが、これも表1を見ていただきたいと思います。島地を別格として扱えば、同志 の平均年齢は二十六歳ですから、いまの二十六歳とは無論違うとは思いますが、それにしても若い青年たちの集 まりだった。つまり、書生としての彼らの性格、行動パターン、考え方などをかなり純粋に引き継いでいるので はないか、そういうなかで出来たグループではないか、ということです。 ところが、明治二十四年頃になると、政教社の組織も徐々に変質してくるようです。円了と政教社との関係 も、だいたいこのあたりで断絶する。どう変わっていくかと言いますと、内藤湖南らの第二世代の社員たちが入
ってきて、雑誌編集の実務を担当するようになるわけです。後に京都帝国大学の支那学教授になる湖南の場合が 典型的ですが、彼は円了の﹃仏教活論序論﹄をすでに読んでいて、それに感動して東京に出てくるわけですか ら、主義主張に共感して近づいてくるということです。湖南たちが入社してくると、逆に設立メンバーの帰属意 識は薄れ、各自の分野に活躍の場を得て政教社からは遠ざかっていくという感じです。円了の場合ですと、哲学 館の運営と地方講演ということになるわけです。 組織の特色はといいますと、政教社は元来、学士という肩書きの専門家集団であって、私はそれを星雲状の集 団と表現してみました。ライバルの民友社が一騎当千の徳富蘇峰を中心とするのと較べると、その組織的特質は 顕著であると言えましょう。日本で初めての博士号が授与されたのは明治二十一年の五月のことで、それは政教 社設立後のことでした。設立時点でいえば、学士が最高の学位だったということになります。その学士が十人も 集まって結成したのが政教社だったわけですから、先ほども申しましたとおり、相当のインパクトがあったので はないかと思われます。 最後に、雑誌﹃日本人﹄の主張内容に触れておきたいのですが、これは円了が関わった時期に関して言います と、次の三つに区分して考えることができます。 ω ﹁国粋保存﹂ 第一号︵明治二十一年四月三日︶∼第二三号︵二十二年三月三日︶ ② ﹁国粋顕彰﹂ 第二四号︵同年五月七日︶∼第五八号︵二十三年十一月三日︶ ③ ﹁依然として国粋顕彰﹂ 第五九号︵同年十一月二十五日︶∼第七三号︵二十四年六月二日︶ この間、志賀重昂は﹁国粋口讐合日一︷蔓﹂の理論化を積極的に図ろうという意図で論説を発表するわけですが、 三宅雪嶺は一度も﹁国粋﹂という言葉は使っていない。つまり、同志たちによる﹁国粋﹂理論化の方向には、図 15 井上円了と政教社
図1 ﹁国粋コm±0コ旦詳く﹂理論化の方向
三 志
宅
棚橋
井 上 今 菊 地 賀 生物進化論 理学宗 殖産興業論 ← 風景論 仏教改良論 言語・文学論 社会有機体説 ← 宇宙論 として政教社と雑誌﹃日本人﹄はあったわけです。 給をもらっていたんですか、と言うのですけれども、 政教社に集まって、情報を交換したり議論したり、 よ﹂という具合に雑誌が出ていたのではないか、 す。 それからもう一つ、思想内容に関わる問題ですが、政教社の思想といった場合、これがイコール﹁国粋主義﹂ というのは、かなり留保をつけないとならないのではないかと。むしろそれは多面体であって、最初にも述べま したように、概念規定の暖昧なままナショナリズムというふうに一括してしまうのは、やはり控えた方がよいの ではないかと思います。拙著のなかでは、三宅と志賀を例に﹁国粋主義﹂理論化の方向を論じておきましたの で、御参照いただければ幸いです。そこで次に、そのような多面体のなかで円了はどのような一角を占め、役割 を担っていたのか、どういうナショナリティの論じ方をしていたのかということについて、彼の政教社における 1に示すように様々なヴァリエーションがあって、それら全体 を括って政教社の﹁国粋主義﹂と言うべきだろうと思います。 政教社の﹁国粋主義﹂というものには、このような“幅”が あったわけです。私が思いますに、この“幅”が重要なのでし て、今日はそのあたりのことは省略せざるをえませんが、同志 たちは他の新聞や雑誌でも活躍していますし、政治運動に入っ ていく者もいるなかで、そういった様々な活動のいわば結接点 よく学生なんかに聞かれるのは、志賀は政教社からいくら月 そういう組織ではないんですね。週に時間を決めておいて おそらくそういうなかで﹁それ君おもしろい。今度それ書け そういうふうに想像するのが実情に近いように思っておりま活動を検討していくなかで、明らかにしていきたいと思います。 四 井上円了の政教社における活動 政教社の設立過程に円了がどう関わったかということについては先に申しましたが、私がたいへん不思議なこ とと思っているのは、政教社では四月三日に﹃日本人﹄創刊の記念パーティを開くのですが、円了はその翌日に 旅行に出かけてしまうんですね。彼が設立までの準備に深く関わっていたことは間違いないとしても、その後の 運営に積極的に参画したかどうかは別問題だと言わざるをえない。とにかく四日から東海道方面、京都まで行っ てしまうわけです。これには、やはりちょっと驚きました。私は何となく、メンバー総出で雑誌の仕訳やら発送 やらをやったのだろうと思っていたのですが、少なくとも円了に関しては決してそうでない。 このことは三浦節夫先生たちのなさった﹁実地見聞集﹂によって知ることができたのですが、四月中には帰京 した形跡はないですね。五月は東京にいたとしても、六月には欧米に向けて旅立っていますから、﹃日本人﹄発 行直後のいわば勝負の時期に、井上円了は政教社の運営には携わっていない、だからこのあたりの書き方も従来 とは若干違うイメージでなされるべきだと思っています。翌二十三年の帰国後も東海地方、二十四年には近畿・ 四国.山陰という具合に、席の暖まる暇がないという感じでありまして、ちょうど政教社の活動時期と重なって くるわけですから、円了のこのような行動をどう解釈するかということは、今後注意しなくてはなりません。 そこで最後に、円了の雑誌﹃日本人﹄での活動について再検討していきたいと思います。幸い﹃日本人﹄の目 次総覧がつくられておりますし、東洋大学でお出しになった﹃井上円了関係文献年表﹄二九八七年︶という便利 な本によれば、円了の寄稿状況は一目瞭然です。 17 井上円了と政教社
二十一年に関しましては﹁日本宗教論﹂がございまして、六回連載ですが未完で終わっています。これは従来 から重要な論説ということになっていて、しばしば取り上げられてきたものですが、﹃仏教活論序論﹄の内容を 敷桁したものとみなすことができ、要は日本固有の宗教である仏教を改良することが進化論的に見ても日本の独 立維持に寄与するのだ、という言い方になっております。 この論説執筆の意図に関しまして、多分井上円了研究の中では今まで出てこなかったと私は思うのですが、当 時法制局のナンバー・ツーだった尾崎三良という人の日記に、円了との間の仏教談義が出てまいります。明治二 十一年六月六日です。この日尾崎が法制局長官の井上毅邸を訪ねると、そこで井上円了らと避遁したというので す。ハッとさせられるんですね、九日には円了の乗った船は横浜を出航しておりますので、洋行のわずか三日前 のことなのです。その﹃尾崎三良日記﹄中巻二九九一年、中央公論社︶の該当部分は、ちょっと長いのですが、 次のように書かれています。 早朝条公ヲ訪。来ル十一日例会ヲ十三日二延スコトヲ約ス。八時司法省二出仕、商法会議アリ。午后一時 過退散。 午后五時井上毅ヲ訪。花房義質、井上円了、平田東助︹法制局法制部長︺等二避遁。井上円了近日洋行ス ルト云。哲学談議並二宗旨談アリ。井上毅日、後来純粋哲学ハ追々衰微シ、応用哲学即政治哲学追々発達ス ベシ。円了日、思想哲学猶追々進歩スベシ云々。予日、日本人ハ宗旨心淡泊二過ギ、今日西洋各国競争ノ世 ノ中介立シテ独立ヲ保持セントスルニハ、宗旨心ヲ盛ンニセズンバアルベカラズ。毅日、余ハ反対ナリ、 益々哲学思想ヲ養成シテ以テ高尚ナル愛国心ヲ増加セザルベカラズ。予日、高尚ナル哲学ハ益々以テ此愛国
心ヲ淡泊ニスルモノナリ。蓋シ毅ノ意宗旨心ヲ盛ニセントハ耶蘇宗力仏宗カヲ盛ニセントノ意ト誤解シタル ニ依ル。故二予日ク、予所謂宗旨ナル者ハ耶蘇ニアラズ仏ニアラズ。毅日、然ラバ即我国ノ神道力。日ク、 然ラズ。予ノ所謂宗旨ハ即日本宗是ナリ。毅日、宗旨ナルモノ・語ハ先ヅ崇信スル所本尊ヲ立テ、之二信仰 葱依スルノ心ヲ云、知ラズ日本宗ナルモノハ何ヲ指スヤ。予日、英国人民ニハ英国宗アリ、仏国ニハ仏国 宗、独ニハ独各々皆之アリ、支那ニモ即支那宗アリ、我日本ニモ維新前ニハ日本宗アリシ、所謂大和魂ナル 者是ナリ、然ルニ近来泰西文物我邦二輸入セシヨリ随テ、此日本宗漸次二減縮シ今ハ殆ド絶無ト云フベキ景 情二陥レリ、是ノ如クニシテ巳マズンバ何ヲ以テ一国ノナショナリテーヲ保持センヤ、一国ノナショナリテ ーヲ保持セズンバ独立得テ期スベカラザルナリ、是レ予ノ尤杞憂トスル所ナリ云々。円了日、予ノ尤憂フル 所殆ド君ノ所説二似タリ、唯予ハ我国ノ宗旨ヲ定メ其中心力ヲ政府二維持シテ以テ国民ノ合同謀ルベシ云々 ト。其意蓋シ仏宗ヲ改良シ以テ我民心ヲ維持シ耶蘇教ヲ防制セントスルニ在リ。毅日ク、君ハ仏家ナリ、故 二仏家ヲ崇信スルノ深キ或ハ其実二過ギ、行フベカラザルノ空想ヲ懐キ後日大二失望落胆スル事ナキヤ如 何、此辺ハ能ク内外ノ事情ヲ貫察シテ方向ヲ定メズンバ終二徒労二属スベシ云々。円了日ク、此事若シ予ノ 経画ノ如クセバ敢テ為シガタキニアラズ、我美術奨励ノ如シ云々。夫ヨリ仏教ノ顕密二法ノ教、浄土、禅 門、天台、法華経等ノ論説縷々数十分時、博学多才称賛スルニ堪ヘタリ。然レドモ予モ毅ト同感ニテ或ハ其 事ノ空想二陥ラン事ヲ恐ル。 井上毅又余二向テ日ク、君ノ謂フ所日本宗ナルモノハ世人ノ謂フ如キ宗旨トハ大二違ヘリ。予日、然リ、 然レドモ別二好キ名ナキヲ以テ仮リニ名ヲ仮リテ用ユルノミ。毅日ク、今森︹有礼︺文部︹大臣︺ノ主意既 ニサイコロジーノ意ヲ教科書二用ヒ、以テ我童子ヨリ愛国心ヲ養成セントス、是レ頗ル君ノ論二適スルニア 1g 井上円了と政教辻
ラズヤ。予日、或ハ幾分歎効アラン、然レドモ仏人ノ愛国心即仏国宗及英国宗心ノ深キハ学校ニアラズシテ 政治ノ制度二在リ、若シ国民ヲシテ国ノ存亡強弱二依リ一身ノ福禍栄辱二関セザルモノト為サシメバ、仮令 へ何程教育スルモ終二徒労ナルノミ、予ノ所謂日本宗ヲ我国民二感仰セシメントスルノ手段即此二在リ 云々。其他猶数回ノ談論アリ。終二深更二至リ帰ル。 井上円了の発言部分に傍線を付しておきました。花房は肥後熊本の出身でしたか、漢学者であると同時に当時 は外交官でした。平田は米沢の出身で法制局のナンバー・スリーです。井上、尾崎を含めて彼らは文人肌の法制 官僚と言っていいと思います。そういうなかに井上円了も交ざっていて、﹁井上円了近日洋行スルト云。哲学談 義並二宗旨談アリ﹂というわけです。井上毅が﹁後来純粋哲学ハ追々衰微シ、応用哲学即政治哲学追々発達スベ シ﹂と言うと、円了は﹁思想哲学猶追々進歩スベシ﹂と応じています。この﹁思想哲学﹂が何かというと、後段 中の尾崎の推論ですが、円了の場合は仏教だろうとされています。 真ん中のあたり、﹁円了日、予ノ尤憂フル所云々﹂という部分の発言は、尾崎が﹁何ヲ以テ一国ノナショナリ テーヲ保持センヤ﹂との憂慮を示したことを受けた発言です。円了は﹁我国ノ宗旨ヲ定メ其中心力ヲ政府二維持 シテ以テ国民ノ合同謀ルベシ﹂と応答しています。この﹁中心力﹂は求心力のことかと思うのですけれども、尾 崎の推論によれば円了の言うところは、﹁仏宗ヲ改良シ以テ我民心ヲ維持シ耶蘇教ヲ防制セントスルニ在リ﹂と なります。円了は国民統合の中心に、そのエネルギーと言いますか手段として、仏教をもってくると主張してい たことになります。洋行直前の彼の構想、戦略というものは、こういうものだったわけです。 三番目の傍線部分の発言を見ますと、仏教改良は﹁美術奨励ノ如シ﹂とあります。美術の世界ではすでに、明
治十五年二八八二︶の龍池会におけるフェノロサの演説﹁美術真説﹂以来、狩野派などの伝統美術の再評価と いうことがございます。九鬼隆一の帝室博物館や岡倉天心の東京美術学校もある。おそらく円了は、そのような 事実を見据えて、仏教もまた見直されるべきだと考えていたと推測されます。これは政教社の﹁国粋主義﹂とも 繋がる発想です。 その後の文中では、﹁博学多才称賛スルニ堪ヘタリ﹂と円了を誉めているんですね。しかし、﹁然レドモ予モ毅 ト同感ニテ或ハ其事ノ空想二陥ラン事ヲ恐ル﹂と、二人は政府の中枢にある法制官僚ですから、その意味でリア リストだと思うのですが、井上と尾崎はそのような印象で洋行直前の円了を見ていたということですね。この日 記の原本は、やはり国会図書館の憲政資料室にありまして、その頃の円了の様子を伝えてくれる貴重な史料だと 考えておりますが、そのような点から判断しても、﹁日本宗教論﹂というのは、空想的な要素を含んでいたと言 えるのかなと思います。 洋行中に投稿された﹁座ながら国を富ますの秘法﹂も、ご存じのとおり、旅館をどんどん建てて西洋人を呼ん で泊まらせよ、というものでありまして、実現性という観点からするとどうかと思ってしまうのですが、気をつ けて考えてみますと、この﹁秘法﹂の前提には内地雑居論があるんですね。円了の考え方を拡張すれば内地雑居 に行き着いてしまいます。政教社は内地雑居反対で、いわゆる対外硬運動の一翼を担うわけですから、この点を 突き詰めていくと、円了は政教社とは相容れないことになってしまう。 それから、これも従来指摘のあるところですが、洋行から帰ってくると彼は﹁強兵論﹂を唱えるわけです。ど うもこのあたり単純なのですが、具体的な方策などが提案されているわけではありませんから、帰国後の正直 な、素直なリアクションだったのかな、と把握しておくしかない。 21 井上円rと政教tt
そして、二十三年になりますと、コンスタントに論説を発表するようになります。一つ一つについてはコメン トしませんが、ほとんどが仏教改良に関するものでありまして、円了はやはりこのあたりから、仏教改良を自分 自身のテーマとして絞り込んできているということが分かります。それらにあっては、神道との共存を認めてい るのが注目されます。キリスト教には相変わらず厳しい、それは内村鑑三のいわゆる不敬事件に端を発する論争 でも顕著ですけれども、神道とは共存を目指す。これはその後の円了をどう評価していくのかという問題とも深 く関わるのですが、皇室と仏教の関係を強調して、仏教が国体と不可分だとも言っています。 この仏教と皇室、国体との関係は、その後彼のなかでどう展開されていくのか、その先の論理はどうなってい るのか、幸か不幸か分からないのです。政教社の同志たちのなかにも、﹁国粋﹂と天皇、国体というものを直結 させてしまう人が現われます。私も結論を得ていないのですが、円了思想というものを評価していく場合、その ような発想の帰趨を見極めていくことは、今後の課題であると思います。 おわりに 以上の考察から、本日の報告の課題としました井上円了と政教社の関係について、最後に少しまとめのような ことを申し上げたいと思います。 まず、政教社の側から見ますと、井上円了はその設立に深く関わっているものの、どうもその後の運営にはあ まり関わっていないようだということです。雑誌﹃日本人﹄には二十篇余の論説が掲載されていますが、一、二 を除いて仏教改良を論じるものばかりでして、これらから見ますと、円了は政教社全体として﹁国粋﹂の理論化 を進めるなかで、宗教論からその一面を担当する論客だったということは確かです。政教社が反キリスト教的な
色彩が強い集団だと捉えられることになった理由には、そういう円了の存在も大きかったと思われます。 逆に円了の側から見ますと、政教社に加わることでどういう意味があったかというと、彼の仏教改良運動とい うのは、政教社設立の前から取り組んでいたわけですけれども、その背景に﹁国粋﹂すなわちナショナリティと いう基盤を据えることができたということが大きいと思います。﹁護国愛理﹂に関して言いますと、その思想内 容を豊富化していく上でも、政教社の同志たちが語っていたナショナリティを理論化する様々な方向、そういっ た大きな文脈のなかに、自分の仏教改良論を位置づけていく契機をつかむことが出来たと言えましょう。しか し、井上円了と政教社の関係は、明治二十三年いっぱいで終了したように思われます。二十四年にも﹃亜細亜﹄ と改題された雑誌に﹁埋葬論について一言﹂というのを書いてはいますが、やはり関係としては、そのあたりで 切れている。 はじめにも申しましたように、円了の仏教思想には信仰論がないとか、あるいは教義研究が欠如しているとか という言われ方がなされるわけです。当時すでにキリスト教の高等神学なども入ってきていますので、仏教思想 の解明を軸とする円了研究というのは、むしろ政教社との関係が消滅した後の時期こそ重要になってくると言う べきでしょう。勿論それは私の手に負える問題ではありませんが、その際に少し考えていますのは次の二つ側面 です。 一つには、仏教思想の系統に関する彼の博士論文の問題、それから、いわゆる新仏教運動と、それと関係しま すが、真宗の教団改革の問題などについては、研究が深められるべきだろうと思います。そこには、史料的な限 界、さらに円了の論説が非常に具体的な、言い方を変えますと、たいへん世俗的なことがらに多く触れています ので、それらが信仰論にどう繋がってくるのかに注目すべきではないでしょうか。 23 井ヒ円了と政教社
もう一つだけ、不思議研究会から始まる妖怪研究の問題ですが、これなども、妖怪というのは伝統的な民族の 心性に関わるわけですから、ナショナリティとも結びついていると思うのですね。しかし、円了は妖怪というも のの存在を否定しているわけでして、論理的に詰めていくと矛盾がないのかどうか、今のところ私にはちょっと 解決できない問題ですが、円了思想の研究としては避けて通れない問題でしょう。 準備してまいりましたのは、およそ以上でございます。いくつかの疑問点については、ご意見をいただいて深 めていけると思っております。 本稿は、一九九七年十二月十三日に開催された井上円了記念学術センター公開研究会での報告記録である。