菩提達摩の「楞伽経疏」について(上)
著者名(日)
伊吹 敦
雑誌名
東洋学論叢
号
23
ページ
1-23
発行年
1998
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003183/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaという記述が見られるし、『欄伽經』の翻認者である求那鮫陀羅を菩提迩摩に換えて東土の初祖に戴く『橿伽師資記」 の存在は、何よりもよくそのことを物語るものといえる。その著者、淨蝿(六八三-七五○?)は、 ツト
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に は 、 初期の薊は『櫛伽經』と特別な關係を持っている。神秀(?-七○六)を記念する張説の『荊州玉泉寺大通諏師碑銘 「爾其開法大略。則専念以息想。極力以攝心。其入也品均凡聖。其到也行無前後。趣定之前。繭縁幾閉。發慧之後。 (1) 一切皆如。持奉栂伽遜爲心要。過此以往。未之或知。」菩提達摩の『榴伽經疏』について(上)
弘忍l玄戯-淨覺 はじめに伊吹敦
1として、達摩系以外の『傍伽經』の研究者をも掲げており、常時、宵践的な修行者たちの間で、「掃伽縄』が極めて贋 く受け入れられていたことを窺わしめる。弘忍門下の人々が『桶伽經』を重視したことは先述のごとくであるが、謝 時の文献は、いずれも甲に『楊伽趣』の大切さを鋭くのみで、その巾のどの教説が彼らの精神的な撞り所となったか についてはほとんど鰯れられるところがない。従って、彼らが『樹伽經』に求めたものは、資質的な意味よりも、む しろ叩なるトレード・マーク、あるいはブランドとしての役割に過ぎなかったのではないのかとの印象をすら抱かせ るのであるが、そうした彼らの態度が、當時、既に貿践的な佛教徒の間で『栂伽經』の聖典視が贋く行われており、 (六○一‐しハ七四)の門下においては、既に卯と『傍伽綴』の結びつきは自明のことであったのである。 と法を飼いだ人物で、『拐伽師資記』自髄、師、玄餓の『楊伽人法志』に基づくものというから、少なくとも五祖弘忍 しかし、その結びつきは、この頃になって始まった課では決してない。四祖過信(五八○上ハ五二の同世代人であ る逝宜(五九六‐しハ六七)は、『綱高佃仰』の慧可仰の中で、既に、菩提連摩が四巻本『栂伽經』を唯一の填質の純典と (2) (3) して弟子の慧可に授けたと記戦しているし、法沖傅には、達摩系の『傷伽經』の傅持者の系譜を側一えているのである。 しかも興味深いことに、適宜は近信や弘忍の存在を知っておりながら、慧可僻や法沖側では彼らには全く闘れていな いのであって、このことは、達摩Ⅱ慧可系統の人々と東山法門との側係を道宣が知らなかったことを示唆するととも に、『栂伽經」と卵との結びつきが東山法門以前に遡ることを暗示している。 更に、法沖傅には、 (4) 「不承(慧)可師。目依攝論者。遷諏師出疏四巻。尚徳律師山人楊伽經疏十叺涯」 2
という二黙からして、その史賀性を認めることは困難であると言わざるを得ない。恐らく、そうした説話目髄、逆に、 晋御者の間で『樹伽經』の聖典視が瞬く行なわれていたという現賞から創り出されたものと考えるべきであろう。
抑宗は、僻率統的に考えられてきたように、迩摩によってインドから仰えられた「直傅の佛法」である課では決して
(6)ない。先に『心王經』に関聯してエ麺及したように、賞は、南北朝の揺藍期に育まれ、中園濁自の展開を見た賞践的佛
教思想にこそ、その起源を求めるべきなのである。そして、それは恐らく、卵宗のみならず、犬台や華巌などの中国
濁自の佛教と兇賊されているもの全てが共有する思想的基盤だったのである。従って、そうした質践的佛教徒の思想
を理解することは、中国佛教の本質そのものを問い直すことに直結する重要な管みであるはずであるし、そうした多 くの人々の心の轍となったであろう『栂伽經』が彼らにいかに受容されたかを探ることは、その肛要な部分を占める は、恐らく間述いないであろう。 しかも、『縞高僧僻』によって達摩と『傍伽經」の特別な朋係が公認されていたという前提に基づくものであったこと しかし、ここで問題なのは、逮摩と『栂伽經』の関係が果たして史質であったかどうかということである。これに ついては、 2.慧可側の『樹伽經』に剛する記述は、適宜股晩年の増補である法沖側と密接な関係にあり、その執筆と同時 (5) に附加されたものであろうと推測される。 ど窺えない。 1.達摩Ⅱ慧可系の思想を傅える最も古い資料と見倣されている『二人四行論』には、『傍伽經』の影響がほとん 3研究課題であると言えよう。そして、そのような視鮎に立って諏宗を捉え直すとき、また、新たな知見が得られるの
ではないかとも期待されるのである。このように、南北朝から唐初にかけての『橿伽經』理解の問題は、中國佛敦史上、極めて重要な意義を持つものと
(7)一一一一口えるが、従来、必ずしも充分には論じられてこなかったように思われる。それは、側聯する資料が、上に掲げた『綴
高僧僻』の記載ぐらいしか知られていなかったからに他ならない。無論、石田茂作氏の『蔦經より見たる奈良朝佛教
の研究』に指摘されているよう庫)奈良時代に菩提達摩や菩提流支、尚徳といった人々の撰述とされる「桶伽經』關
係の著作が多く傅えられていたことは紛れもない事實であり、それらが、この問題を解明する上で極めて重要な資料
(9)であったであろう一」とは、多くの人々の注目するところであったが、遺憾ながら、それらは既に散逸し、その内容を
知る術のないものと考えられてきたのである。しかしながら、質際には、それらは完全に失われてしまったわけでは決してないのである。というのは、既に坂本
(川)幸男氏や納一団常天氏によって指摘されているように、それらの中には、平安時代や鎌倉時代に傘画かれた文献にしばし
ば引用されているものも存在するからである。そして、そうした引用の中でも、とりわけ注目されるのは、やはり何
(Ⅱ)といっても、鑿回提達摩撰とされる『拐伽經疏』からのものであろう。というのは、この文献の存在自臘が、鰯の成立
過程と密接に関わるものであったであろうことは、上述の諸鮎よりして、當然、豫想されるところだからである。無
論、見出し得た逸文は、全髄からすれば餘りに少ないが、それでも、初期の翻宗史や中國佛教の形成過程を考える上
で無視できない資料であることは、間違いないと思われる。そこで、本拙稿では、その逸文の紹介とそれに基づく内
容の考察を行おうと思うが、その前に、『梼伽經疏』の資料償値を確認するためにも、日本においてそれがいかに傅承
(胆) されてきたかについて見ておきたい。 4天平十二年(七四○)七月八日付の北大臣家(北家)の「窺纏所啓自常目録腐加綴論疏□」と題される文瞥に、「西 宅本」として掲げられた多くの典籍の中に、 達摩の『樹伽經疏』に胴する記述は、奈良軌から鎌倉末期にかけて著わされたいくつかの文献の中に見ることがで き、それらによって流僻の跡をおおよそ辿ることができる。以下においては、正倉院文轡という形で譜鱒に肌する比 較的多くの資料が残っている奈良時代と、しばしば學僧の著作に言及を見ることのできる平安以降とに分かって論述 することにしたい。 と見えるのが、逮摩の『樹伽經疏』の正倉院文譜における初出である。 この文瞥は、光明皇后發願のいわゆる「五月一日綴」(宮一切樫)に側するものであるが、この一切經の瞥寓状況にっ (蝿) 「籾伽鰯錘疏五巻」 1.奈良時代 a・宮一切經における密寓
、『拐伽經疏』の傳承について
5(M) いては、皆川完一氏によって詳細に研究されており、次のようなことが判明‐している。 従って、上の文書が轡かれた天平十二年七月は、宮一切經の薔寓が中断に追い込まれていた時期にちょうど賞たる 7.底本の入手に苦しみながら、天平勝賓名四九’五七)の末年まで瞥廟は鏑けられ、總巻数は約七千巻に達し た。 を再開した。 6.天平十五年(七四三)五月一日、『開元縣教録』にない章疏にまで範圃を擬げるという新しい方針のもと、瞥蔦 の完成は不可能に近い状態となった。 し終え、一二合の栂に収められたが、これ以上、底本を求めることが困難となり、『開元秤教録』所職の一切鰹 5.天平十四年十二月十三日までに、一部、『開元縣教録』にない經論をも加えて、四五六一巻(四七○枝)を薔寓 行された。 4.天平十三年(七四一)閏三月十一日、鰹の譜寓が再開され、願文の漕窺も天平十四年(七四二)の十一月まで綱 鰹に附加された。 3.天平十二年五月九日から七月二十七日にかけて光明皇后の願文の瞥爾が行われ、それまでに轡寓された一切 2.天平十二年(七四○)四月上番までに三五一一一一巻を醤寓したところで窺綴は中断された。 目標として開始された。 1.天平八年(七三六)九月二十九日に玄防將來の一切綴を底本に『閲元鞠教録』所戦の經論五○四八巻の謹寓を 6
等のことからすれば、この文将は、北大臣家が自らの廟鞭所が把握していた、『開元脚教録』に胆峨のない珍しい佛典 の所在を中央篇經所に報告したものと見倣すことができるのであり、宮一切鰹の習寓が天平十五年以降、新たな方針 のもとで績行されることになったのは、こうした報告に基づくものであったと考えられるのである。従って、恐らく、 (旧) 底本とされた玄防將來の一切綴が完全なものでなかったためと思われるが、この文祇日が書かれた天平十一一年の半ばに は、富初目標とされた『開元瀞教録』所戟の經論全ての書寓が不可能であることは既に判明していたはずであって、 (旧) 書嶌が中断され、願文が附された原因は、そ}」に}」そ求められるべきなのである。 つまり、達摩の『橿伽經疏』は、この「五月一日經」という空前絶後の一大蔵經を整備する過程で、常時までに日 本に商されていた綴論の捜索が國家的な規模で資施され、その結果として見いだされたものだったのである。問題は、 これを蔵していた「西宅」がどこであり、誰の將來に掛かるものであるのかということであるが、これについては、 明確にはなしえないものの、神秀l普寂l道瑞と法を詞ぎ、天平八年(七コェハ)に来朝した道璃が周したものであ わけであるが、その中断の原因、蚊びに、それと鯛わると考えられる光明皇后の「天平十二年五月一日」付の願文が (腸) 附加された意味は不明とされている。しかしなが・b、 (肥) 1.達摩の『楊伽經疏』をはじめ、この文書に初出で、後に「大乗鰹弁論疏名元宮ロ曰録井名在米篇」に記減され、 質際に書寓されたことが確認できる經論が多数見いだされる。 (W) 2.北大臣家は、向山ら篤純所を持ち、大蔵繩を沸寓Dして元興寺に収めたことが知られているから、珍しい佛典の 所在については、かなり祥しかったと推測される。 7
という附菱が附された部分に、この『梼伽經疏』が掲げられており、安圃された場所を窺わしめている。ただ、この 厨子の所在自髄が明らかでないのは甚だ遺憾であると言わねばならない。 (狸》 {中見所宙蕊汁妻辨脚疏等耶」)。 正倉院文欝には、こ― 録」では、
っ士可能性が強いことは、先に論及した通りであ諏鈩
いずれにせよ、上に述べたような綴緯によって菩提迩摩の『栂伽鰹疏』は「五月一日樫」の一部として瞥腐され ることになったのであり、その欝廓状況についても、正倉院文譜によって、かなり詳細に辿ることができる。それを 表に鰯めたものが次頁の《圃表1》である(「側係文棚」は、『大日本古文癖』の怨敵と頁倣で示す)。 これによって知られるごとく、その轡爾は天平十六年(七四四)の十一月に始まり、翌年の五月末頃には略ぽ終了し たのである。そして、この『樹伽經疏』は、天平十九年毛四七)六月四日には、他の蹴疏とともに、確認の上、一括して楓に収められ(同日付「經疏検定趣)、同じく七日には、その糟寓完了が報告されているのである(同日付「鯛疏所解
奈良刺においては、いくつもの大蔵綴が欝腐されたことが知られている輝}「五月一日鰹」ほどの規模を持つものは
目上東第二厨子第四欄睡
b,その他の香寓 この「五月一日綴」の目録と見られる断片がいくつも存在する嫁〉年月不明の「奉寓章疏集側目
8-9 i1$嵩 快正 駿満 題岱 巻鱒一 UMIir者 lllIfl MII係文沙 (昼師) 丈郁子山 天)ILI6Kl2I2JiI5p以前 2-372/8-525 (枝生) 団IHI凹公/梢、i万且 天平17年4月11日以1FⅡ 8-388 (蟹領) 聞陥掴公 天平17年4月11日 8-346 (胆姉】 天平19年6jl4H以ifl 9-383 極輔二 MV愉者 1M日 IlIl係文排 (症師) 鬼塾小典人 天平】611三l2jll5H以前 2-373/8-525 (技生) 下in主/柏Ⅱi方呂 天平1611:l2HlI臼以前 8-387 (賎満) 薗部贋公 天平16年12月11日 8-345 (題師) 忍淘岡次 天平17年5J121日 8-586 極鋪三 MWit者 lIH日 MII係文勘 (癌師) p1刀恩人/埋凪卒Nb万& 天平I6IIZlMl6B ~ 天平16年lZjl7B 2-367/8-403/ 8-418/8-525 (技生) 下in蓮/柚'111万& 天平16年12月IIロ以前 8-387 (装満) IUUIiH厨公 天平161F12月11日 8-345 (皿師) 恩ifl虞次 天平17年5月21日 8-586 巻輔四 MW6r者 IDI日 lUlI係文轡 (姪蝉) 弓nI俳廿'}. 天平I7IF4n30p以前 2-437/8-553 (技生) 柏I】i方呂/石村liR鷹 天平I7IU:SH3ロ以前 8-389 (賎積) 裂犬 天平17年5月3日 8-347 (四師) 忍海nW次 天平IF年5月21日 8-586 独踊五 胞慌者 期日 IIIl係文搬 (昼師) 角nK万& 天平16年11月6日 ~ 天平16年11月9日 8-406/8-514/8-525 (技生) 下遊主/柏ni万目 天平16年11月14日? 角切 天平16年11月20日? 8千387/8-512 (賎漬) 団HmlHr公 天平l6fPl2月11日 8-345 (四師) 忍榔画次 天平17年5月21日 8-586
としたうえで、この『榴伽經疏』が掲げられていることから、これが坤宮一切繩に含まれていた一」と、並びに、その
坤宮一切綴本が景雲一切純の底本として用いられたことは疑いえないのである。また、この『傍伽經疏』は、東大寺の華殿宗のためにも書寓されたらしく、冒頭に「華膿宗僧等謹解申行定布施
(湖)法耶」と記される天平勝費一一一年(七五一)五月一一十五日付の「蕪巌宗布宰施怯文案」にも、その名が見えている。
(釦)この外、天平費字七年(七六一二)七月一日付「太師家牒」によれば、藤原仲麻呂(恵美押勝)も自宅の寓經所で替潟せ
(弧)んとしたようであるが、翌年九月に仲麻呂は謀叛の罪で珠されたため、そのポロ蔦は賛現しなかった}」とくである。
により天平寳字六年(七六二)から神謹景雲三年(七六九)にかけて書寓され、神護紫雲二年五月十三日付の天皇の願文
充され、翌年六月七日、皇后の一周忌の法要に供された、いわゆる「坤宮一切經」(全五三一一一○巻)と、稲徳天皇の發願
る。即ち、天平寳字四年(七六○)に光明皇后の發願によって瞥寓が開始され、その崩御の後、雌原仲麻呂によって搬
様である。しかし、それでも少なくとも外に二度、これが一切純の一部として謝寓されたことを確認することができ
外になく、達摩の『枅伽經疏』のごとき、必ずしも一般的とは言えない章疏までも包含するものは多くはなかった模
(妬) を有する、いわゆる「銃望一切純」(巻敷未祥)である。 (幻)坤宮一切鰹については、正倉院文宵には、その曹寓に脇する文書は全く残っていないので、その詳細は明らかでは
ないが、景雲一切経の書寓に際して底本の借用を求めた際のものと見られている.切經奉請文替縄文」の神謹景雲
二年三月二十八日付文書に、 (閉)「造東大寺司移奉鳶一切經司合大乗經疏八十一一一巻鉄’十一枚元菱竝坤宮一切幌内之」
10と見え、天平感費元年(七四九)六月二十四日に、良弁が閲覧のため蔦輕所に貸借を申し出、それに答えるために、篤 (認)
經所は、先に借り出していた教翰(良弁の弟子)のもとへ使いを出したことが知られるのである。つまり、少なくとも、
良弁、教輪の二人は、これを閲寛していたはずなのである。 恐らく、教輪は、この時、求めに鰹じて旗ぐに返却したであろうが、その後、再び倍り出したらしく、天平勝賓二 (別) 年(七五○)十一一月一一十六日に篤經所に返却した際の「佃教輪純論疏返送状」が残されている。教槍は『栂伽郷』の叫 門家であったらしく、この外にも『四巻楊伽』や「十巻楊伽』はもとより、達摩の『樗伽經科文』や撰者未詳の「橿 (蝿) 伽經抄』など多くの文献を借り出して閲寛しているが、逆に寓經所の側か.b彼の蔵本である撰者未詳の『梼伽經疏』 書れあ にがろ、 。上に述べたように、奈良時代には、少なくとも四度に亙って菩提達摩の『榴伽經疏』が書寓されたことが知られる
のであって、それらの祖本となった「西宅本」と合わせて、計五本の『楊伽經琉』が存在したことが確認できるので ある。これらが學仙たちによって、しばしば利用されたであろうことは想像に難くない。質際、正倉院又将には、こ れが『枅伽純』研究のために借り出されたことを示す寳例を見ることができる。即ち、「本經疏奉諭幌」と趣される文 「第一柵人樗伽經疏二部一郎十三潅尚徳撰一郎五巻善腱述庫楓向羅梨姑右。依良弁大徳天感元年六月二十四日宣。奉一調教輪師鵲礫
c・奈良期における利用状況このように、天平十二年(七四○)に「西宅本」中に見いだされ、奈良期を通じて、しばしば齋篤された霊量産達摩の
『拐伽經疏』であったが、これが後々まで南都に仰えられていたことは、興福寺の永超(一○一四-九五)が著わした
『束域側燈目録』二○九四)に、 他の僧侶にも影響を輿えたであろうことが推測できるのである。教輪の借用が、賀際に『綴伽經』を研究、舗装するためのものであったことが知られるとともに、その識義を介して、
と、四巻のうちの一巻を後に別送せんことを請い、その理由として「講經」を蕊げているのである。これによって、・
その他、正倉院文譜は、逮摩の『翻伽綴疏』が天平費字八年(七六四〉三月二十一一一日にも、他の多くの『籾伽經』側
係の文献とともに「政所」によって借用されたことを仰えている”←政所の所在、借用の用途等は明らかではない。
も、その四巻本『楊伽經疏』を窺經所に送付した際の文繊(天平勝費五年八月二土ハ日付「伯賀偲溌疏奉送啓」)には、
酋巻本)を寓經の底本として借用している例があり、『樹伽經』關係の稀翻本をも所持していたことが知られる。しか
「同凹む經疏五巻趣臓邇鴎學
2.平安時代以降「栂伽疏一巻錯繭屈爲劉籾破鼎鎗本了。今日霧鶏學
12と掲げられ、また、「附録」に示すように、束大寺三論宗の人家で郡上教家、迩佃としても知られた珍海(?-二五二) の『八識義軍研習抄』(二二○)に引用されていることによって確認できる。 (鋼) 珍海は、束大寺東南院の覺樹の弟子で、初め東大寺の諏那院に住していたが、後には醍醐寺に移ったと一濁われる。 従って、彼が利用した『梼伽經疏』の租本は、恐らくは先に言及した東大寺の華殿宗のためのものであったと推測さ (抑) れる。しかし、現存する鏑蔵本『勝璽經義記』(慧遠撰)は珍海手澤本を祖本とするものであるということが知られて (机) おり、學僧として譽れ高かつた彼は、自房に多くの蔵書を所持したと考えられるから、あるいは、東大寺本などを底 本に書寓した一本を有していたかも知れない。 このように、迩摩の『楊伽經疏』は、少なくとも十二世紀半ばまで南都に仰わっていたはずであるが、その後、源 平の砺凱に伴う兵火によって、治承四年(二八○)、東大寺、興柧寺はほとんど完全に灰趨に蹄したから(東南院や仰 (岨) (網) 那院も、この時に焼失した)、その側承も、その時鮎で断たれた考えてよいのではなかろうか。 もっとも、「附録」に掲げるように、武蔵圏金澤の榊名寺の住持で、鎌倉時代を代表する學佃の一人である湛誓二 (卿) 二七一’一三四六?)が、正和二年(一一一二三)から文保二年(一三一八)にかけて南都に遊軍して東大寺の凝然(一二四 ○’一三二一)や脚爾(一二五一一一’一三二五)に學んだ後、孵名寺に一民って著わした『起信論義記教理抄』(一三一一二’四○) にも、他に見えない逸文が一文引用されてはいる。しかし、今のところ、彼の膨大な著作の中から見いだされた逸文 (網) はこれのみであるし、現に金澤文庫所蔵の禰名寺聖教の中にも『桶伽經疏』は僻えられていないのであるから、一」の 一例のみで彼が南都でこれを灘寓して馴東に潤したと考えるのは除りに早計に過ぎよう。むしろ、それより考えられ るのは、この引用が南都遊撃中のメモに錐づくものであり、そのメモ目髄、他の著作からの孫引きであったという可 能性である。それ故、この引用によって、常時、南都にその質物が存在したと判断することも危険であると言わねば 13
と傅承され、最澄によって比叡山の蔵に収められたとされる、「其祖端和上自大唐持來鳶傅達磨法門」の存在であ諏鈩
南都の傅本の祖本が「西宅本」であり、それが果たして道璃將來のものであったとすれば、それが全く異なる經路で 北嶺に傅えられていた可能性も考えねばなるまい。 いずれにせよ、八世紀の半ばころには、達摩の「拐伽經疏』が比叡山にも僻わっていたことは間述いないのである が、他の天台宗の學僧の著作には、全く言及を見いだすことができないごとくであるから、いつ頃まで僻承されてい たかは明らかでない。しかし、假に後々まで仰えられていたとしても、元麺二年(一五七一)の織田信長の焼き討ちは 免れ得なかったであろうことは想像に難くない。 なお、平安朝における側承で注目されるのは、これが南都のみならず北嶺にも仰えられていたという那賀である。 即ち、「附録」に示すように、五大院安然(八四一’八九八)の『悉曇蔵』(八八○)にも本替からのかなり長い引用が存 在し、比叡山においても側持されていたことが知られるのである。安然は、回仁(七九四’八六四)や遡照(八一六’八 九○)の弟子で特に密教に詳しく、台密の硫立者と兇倣されているが、その側妃の詳細は明らかではない。あるいは、 南都に遊撃して『樹伽継疏』を醤廓する機愈があったのかも知れないが、今一つ、ここで考えなくてはならないこと は、 なるまい。 道端1行表‐‐股澄 14次に、これまでに見いだされた迩摩の『掃伽經疏』の逸文を提示しておこう。各文献における賞際の引用は「附録」 に掲げておいたので、そちらを参照していただくことにし、ここでは、そこでの孜證に基づいてその本文を整理した うえで、原形を髪琉させるため、先ず『四巻榴伽』の本文を掲げ、次にそれに封鰹する『榴伽經疏』の文章を掲げる ことにする(なお、傍線部が註稗の對欺となったと考えられる部分であり、『栃伽經疏」末尾の符睨は出典を永し、「附録」のそれ に封座する)。 a.「爾時。大慧菩薩摩訶薩復白佛言。世尊。諸識有幾種生住滅。佛告大慧。諸識有二種生住滅。非思量所知。諸 識有二極生。調流注生及相生。有二顧住。綱流注住及相住。有二顧滅。刑流注滅及相滅。諸識有三顧相。訓 輔相業相眞相。大慧。略説有三種識。廠説有八相。何等爲三。調眞識現識及分別事識。大慧。瞥如明鏡持諸 色像。現識虚現亦復如是。大慧。現識及分別事識。此二製不壇。相展輔因。大慈。不可思議燕。及不思議愛。 是現識因。大慈。取種種醗。及無始妄想薦。是分別班識因。大意。若擾彼腫識。種顧不賀猪虚妄減。Ⅲ一切 根識滅。大慧。是名相滅。大慧。相績滅者。相綴所因滅。則相緬滅。所從滅及所縁減。則相績滅。大慧。所 以者何○足其所依故。依者捌無始妄想薦。縁者綱目心見等識境妄想。大懸。瞥如泥凹微畷。非異非不興。金 荘巌具亦復如是。大慧。若泥幽微塵異者。非彼所成而宵彼成。是故不異。若不異者。則泥閲微塵。腿無分別。 如是大慾。輔識蔵識興相若異者○蔵纈非因。若不異者○輔繊滅蔵識亦腫滅。而自眞相画不滅。是故大慾。非
二、『傍伽經疏』の逸文について
15b・「蘭時。世尊。欲画萱此義而税偶言。野如巨海浪。斯由猛風起。洪波鼓冥堅。無有断絶時。蔵識海常住。境界 風所動。種種諸識浪。腿踊而鄭生。青赤種種色。珂乳及石蜜。淡味衆華果。日月與光明。非異非不異。海水 起波浪。七識亦如是。心倶和合生。盤如海水愛。煎柧波浪輔。七識亦如是。心倶和合生。調彼蔵識鹿。煎煎 猪識輔。綱以彼意識。思惟諸相義。不域相有八。無相亦無相。讐如海波浪。是則無差別。諸識心如是。異亦 c・「鯛時。大慧菩薩白佛言。世尊。何故世蝋於大衆中唄如是高。我是過去一切佛及鞭郁受生。我爾時作漫陀軸飴 聖王。六牙大象及劉鵡鳥。輝提桓因。善眼仙人。如是等百千生經説。佛告大慧。以四等故。如来晒供等正覺。 於大衆中。唱如是言。我爾時作拘留孫。拘那含牟尼。迦葉佛。如何四等。訓字等語等法等身等。是名四等。 以四秘等故。如来願供等正覺。於人衆中唄如足高。云何字等。若字榊我爲佛。彼字亦稲一切錯佛。彼平目性 無有差別。是名字等。云何語等。謂我六十四種梵音言語相生。彼渚如来應供等正覺亦如是。六十四種梵音言 不可得。心名採集業。意名廠採築。諸識識所識。現等境説五。」(『四巻樹伽』巻一) 「故達磨法師。以蔵織爲心。七識爲愈。意識爲織。眼等爲五。」(B12) 日興相識減。但業相滅。若自興相滅者。蔵識則滅。大慈。蔵識滅者。不異外道断見鐙識。大慈。彼譜外述作 如是論。調攝受境界減。識流注亦滅。若識流注滅者。無始流注慰噺。大慈。外道説。流注生因。非眼識色明 (研) 築會而生。更有異因。大慈。彼因者説言。若勝妙。若士夫。若自在。着時。若微塵。」(『四巻楊伽』巻一) 「逮磨”師樹伽疏鍬一云。無始以来。識流注相繍不断。名流注生住滅。生死猪根城。名相生住滅已化。」 (CII) 讐如海波浪。是則無差別。諸識心如是。異亦 (組) 16
..「爾時。大慈菩薩復白佛言。惟願爲説一切猪法刹那壇相。世尊。云何一切法刹那。佛告大意。諦瞳諦聴。善思 念之。當爲汝説。佛告大慧。一切法者。謂善不善無記。有爲無爲。世間出世間。有罪無罪。有漏無漏。受不 受。大慈。略説心意意識及習氣。是五受陰囚。是心意恵識習氣長養。凡愚善不善妄想。大慈。修三昧樂三昧 正受。現法樂住。名爲賢聖善無漏。人慧。善不善者。調八識。何等爲八。洲如来蔵名識蔵。心意意識及五識 身。非外道所説。大慾。五識身者。心意意識倶。善不善相展輔愛域。相繍流注。不興身生。亦生亦滅。不挺
回心現・次第滅除識生・形相差別攝受・懲識五識倶相駆生・刹那時不住・名爲刹那・」(『四巻樹伽』趨唾
「達磨騨云。心者法智心也。心意者皆七識也巳止。」(813) 「達磨樗伽疏第五云。心意者七識也。心者法智心也己上。」(B‐4) 譜相生。無埆無減無有差別。迦陵頻伽梵音聲性。云何身等。訓我與諸佛法身及色身相好。無有差別。除爲調 伏彼彼諸趣差別衆生故。示現種顛差別色身。是名身等。云何法等。謂我及彼佛得三卜七菩提分法。略説佛法 (伯) 無障磯智。是名四等。是故如来臓供等正覺。於大衆中唱如是言。」(『四巻柵伽』巻一二) 「達磨樗伽經疏妙云。古徳縛云。八種梵音各有八種聾。八八六十四種音性。八梵音者。|最好聲。二易了 聾。三滴軟聾。四調和聾。五尊資聾。六不誤聾。七深妙聲。八不女聲。賢愚經云。有八種聾。|烏聾。 其人受性。不識恩養。志不廉潔。一一三尺鳥聾。其人受性凶暴。樂爲傷害。少於慈順。一一一破男作女聾。破 女作男聾。其人薄徳貧菊下賎。四噸聾。其人性仙了多於親友。將接囚遠。五鼓聾。英人渦齢辮拠。解騨 近理。必爲國師。六簡聾。其人智慧深遠。散析法性。圧化天下。七金鈴聲。英人巨揃峡。則必積千億期 金。八梵聾。其人棡徳彌高。若在家者。作刺蛤王。山家學道。必御成佛又。」(A‐し 17(5)これらについては、十分な議霞が必要と思われるが、他日を期すことにしたい。
(6)拙稿「再び『心王經』の成立を論ず」(「東洋大學文學部紀要」五○(印度哲學科禰二二)、一九九七年)。 (7)この黙で、八木信佳氏の「楊伽宗考」(「佛教架セミナー」一四、一九七一年)は唯一の例外であり、橡々な黙で啓澄される ところが多いが、本拙稿の主題である菩提述曝の『枅伽經疏』についての記述は、ほとんどが剛なる推測に過ぎず、特に、 1.將来者を玄防とする。 2.「迩犀卿多組」と呼ばれた法上の著作に擬する。 3.菩提流支の『入楊伽輕疏』と同一視する。 などの説は、正倉院文誓や珍海の著作などによって、明確に誤りであると断定できる。 (4)同上。 (3)同上、六六六中。 (2)大正蔵五○、五五二中。 (1)柳田聖山『初期廊宗史か 註 (つづく) 巳.「繭時。世騨。欲近宣此義。而娩個晉弓三乗亦非乗。如来不磨滅。|切佛所税。説離諸過懇。爲諸無間智。及 無除湿桑○誘進諸下劣○是故憾劉税。諸佛所起智。即分別説道。諸乘非爲乘。彼川非湿桑。欲色有及見。説 (則) 是四住地。意識之所起。識宅意所住。意及眼識等。断滅説無常。或作湿薬見。而爲説常住。」(『四籍拐伽』准四)「達磨騨云。八識爲七識等依之而住故。名如来蔵爲識宅已上。」(B11)
柳田聖山『初期廊宗史衡の研究』(法蔵館、 一九六七年)四九九頁。 18(閲)皆川氏前掲鎗文、五五○~一頁、また、井上薫氏前掲窃、三六一頁註9審照。
(焔)『大日本古文轡」毬二四、三九五~四○二頁。なお、この文香が天平十五年の五月一日以降、九月以前のものであること、並
びに、「五月一日鰯」の目録にありながら未鱒のもの、あるいは、目録に元々峡いているものの-寛であって、これから寓し加
えてゆくべき經論を報告したものであり、『大日本古文書」の輻者が附した「寓未鹿大乗鞭諭疏目録」という題名が不適常な6 九六二年)を参照。 (M)皆川完一「光明一 一九六六年)四三上 寓經所に醐する研究」(「史學雑誌」四一一一‐一一一、一九三二年)一○二頁、並びに、井上薫『奈良朝佛敦史の研究」(吉川弘文航、 (旧)『大日本古文秤」巻七、四八九頁。なお、この文轡が北大臣家からのものであることについては、袖山敏男「奈良朝に於ける め、ここでは證及することはできない。別の機曾を期したい。も、既にいくつかの逸文を兎災しているので、達摩のものとの比較研究がなされなくてはならないのであるが、極々の制約のた
い。また、中国における『初伽鰹』の受容ということでは、涛提流支楓とされる『人楊伽繩疏』なども同撮に耐婆であり、しか
況や利用状況を把握することができるが、今のところ、その逸文を見出してはいないので、ここでは誼及は避けることにした
(皿)なお、同じく菩提連摩撰とされる『栃伽經科文」(拐伽純開題文)についても、正倉院文寄によって、奈良期における碑卿状
は、引用などを除いて全て「迩摩」に統一した。文替においては、轍に「菩提達摩撰」として提示されているので、元来は「達廠」であったと考えられる。従って、この拙稿で
(Ⅲ)後に示すように、平安、鎚倉時代の文献は、いずれも、これを「連畷」の説として引川している。しかし、奈良初の正倉院
のみで、Aの安然の『悉曇蔵』所戟のものについては、いまだ指摘はないようである。 のBに掲げた珍海の『八鐡鍵埖研習抄』所峨のもの(坂本氏)とCに掲げた湛啓の『起信鏡轟妃教理抄』所蛾のもの(納商氏)二年)四九六頁を参照。ばお、當面の課題である連嘩の『拐伽經疏』について言えば、雨氏の指摘する逸文は、本拙稿「附録」
(皿)坂本幸男『華殿教學の研究」(平樂寺宵店、一九五六年)三八二~四頁、納寓常天『金澤文皿資料の研究』(法蔵館、一九八
参照。(9)八木氏の前掲論文、竝びに、柳田氏前掲香、二九頁、七八頁、關口眞大『達磨の研究」二四五頁、二五三頁、二七五頁等を
鍬「奈良側現在一切縄疏、録」一○○~一瓜を審照。 (8)石田茂作『寓經より見たる奈良朝佛教の研究』(「東洋文皿證叢」一一、東洋文皿、一九一一一○年)一七一~三頁、並びに、附 「光明皇后願經五月一日鰹の書寓について」(坂本太郎博士還暦記念曾鵠『日本古代史論典』上巻、 四三九頁を審照。 吉川弘文館、 19っておく。 (釦)『大日十 (羽)『大日本古文櫛』巻十一、五六五頁。なお、この文謝を薊峨宗のために側係典鰯を駐側した際のものとするのは、石田茂作、 井上光負両氏の説に従ったものであるが(石田氏前掲暫六九~七三頁、井上光貞「南都六宗の成立」〈「日本歴史」一五六、一九 六一年〉などを参照)、侍川完一氏は、これを典っ向から否定されている(皆川氏前掲論文、五六一~三頁、注Ⅳ審剛)。しかし、 皆川氏も「いまのところその文惑の愈味を明確に示すことはできない」と言われているので、稲定的に石田・井上氏らの説に徒 三六九頁を参照。 (班)『大日本古文傘 (〃)井上薫氏前掴 (溺)これらの一切 切經が掲げられている。 (距)薗田氏前掲鵠文所峨の図表、「奈良期末以前轡寓一切經一園」には、奈良刺以前に衙廊されたものとして、總計二十六もの一(距)薗田氏前掲鵠文所峨 (別)『犬日本古文禰』懸十一『五二二頁。(別)『犬日本古文禰』懸L (羽)侍川氏伽掲論文、五四一~二面を参照。(羽)侍川氏伽掲論文、五 (肥)『大日本古文香』巻九、三八八頁。(肥)『大日本古文香』潅十 かの梱のうち、節二番目のものの愈)に収められていたようである。 (別)『大日本古文僻』趨九、三八三頁。なお、この文謝によれば、『籾伽鰹疏』は、第二梱(恐らく、「菰疏」のみを収めたいくつ 一九九一年)二○四~六頁。 (別)拙稿「北宗即の新資料-(別)拙稿「北宗即の新資料-金剛蔵替蕨楓とされる『剛世音綴翻」と『金剛般若鰹註』について」(抑文化研究所紀要」一七、 (⑬)既に、薗田氏前掲蜑文、(⑬)既に、薗田氏前掲蜑文、一七頁にも同和の考え方が提示されている。 済とその識理』日本宗教史研究4、法蔵館、一九七四年)一六~七頁蕃照。 (肥)井上燕氏前掲癖、三六○~一頁、薗田香賎「南都佛教における救済の麓理(序説)-剛寓經の研究」(日本宗教史研究街『救 頁、一二四頁、一七八頁註4参照。 (Ⅳ)堀池鞭姉「平安時代の一切鰹翻醐と法隆寺一切綴」(『南都佛教史の研究下(諸寺刷)』所収、法蔵航、一九八二年)一二二 のであることについては、皆川氏前掲論文、五六○~一頁を審照されたい。 『大日本古文称』極十六、四○二頁。 『大日本古文譜』窪十七、九七頁。なお、この文恋がいわゆる「無雲一切經」のためのものであることは、井上薫氏前掲番、 井上薫氏前掲打、三六○頁註2を審照。 これらの一切紐については、井上薫氏前掲番、三四九~五五頁、三六四~七二頁を参照。 20
(羽)坂上雅爾「珍海僻について」(「仏教論盗」二五、浄土宗教學院、一九八一年)を審照。なお、この論文によれば、珍海は元 永二年(一二九)の法華識には、東大寺の僧として出席しているということであるから、「八識義軍研習抄』を撰述した頃は、 まだ東大寺の住僧であったと推測される。 (杣)堀池春峰氏の「光明皇后御願一切鰹と正倉院型語蔵」今南都佛教史の研究上(束大寺簡匡所収、法蔵館、一九八○年)に よれば、「五月一日経」は、完成後、平城京の内裏に移されたが、その後、神護景雲元年(七六七)に束大寺の下如法院に施人 され、延醤十二年(九一二)には「綱封」となり寺家で勝手に開閉することができなくなり、天暦四年(九五○)には、汚損の ために正倉院の南端綱封蔵に移されたらしい。その間、かなりの散逸もあったが、源平の孚凱の際にも兵火を免れ、聖語蔵とし て今日まで仰えられているのであるという。従って、珍海の頃には、「五月一日鰹」は東大寺にはあったものの、利用はできな (羽)坂上雅爾「珍海僻につい一 (躯)大正蔵五五、二五三上。 (初)「大日本古文宙』巻十六、(初)「大日本古文宙』巻十六、四二八頁。 (なお、この文書については、(なお、この文書については、皆川氏前掲論文、五四○頁も審照)。 によるのであり、そのことは、年月不明の「迩嵐章疏等目録」(『大日本古文香』雀十二、一三画)によって知ることができる (妬)「大日本古文訂」糧十三、三五頁。なお、この教蛤の蔵宙の存在を撫輕所が知ったのは、同じく良弁の弟子である秤慨の報告 (調)『大日本古文宙』巻十一、一一頁・四五四頁、『大日本古文趣』溢三、三六○~|Ⅸなどを参照。 (狐)『大日本古文符』巻十一、四五四画。 も智微同様、良弁の弟子であったであろう。 ており、また、教翰が術に智倣と行動を共にしていたことも、同祢、七六画に栃摘されているごとくであるから、恐らく、教輸 たことについては、井上光血「Ⅲ本浄化教成立史の研究』(井上光ロ務作災節七巻、岩波暫店、一九八江年)七司頁に鯰じられ (粥)注妬に兇るように、蝿經所が稀以本の捜索を行なうに獄って大いに力のあった伽に智倣がいるが、押倣が奥井の弟子であっ とするのと柧迎する(蛇加を蕃照)。あるいは、後に移されたのであろうか。 (蛇)『大日本古文香』巻十一、九頁。なお、この文替で『拐伽經疏』を「第一楓」とするのは、前掲の「經疏検定服」が「第二梱」 ずに終ったと考えられる。 れに歯たるのであろう(井上薫氏前掲評、四三八頁参照)。しかし、『拐伽經疏』については、この註妃がないので、借り出されれに歯たるのであろう# らは賞際に貸借された模様である。恐らく、仲麻呂の乱の後、その邸宅から探し出され、東大寺に戻されたという三五八巻がこ (Ⅲ)この「太師家牒」に掲げられた典籍には、『楊伽經科文』のように「調」という註記が異筆で附されているものがあり、それ 21
〆■、〆へ〆へ′ ̄、 51504948 、ログミーグ、-グ、-グ 同同同同 上上上上、、、、 かつたはずである。また、常初、十二梱あったこの一切鰹も、珍海が『八識義軍研習抄』を藷わした三年前に常たる永久五年 (一二七)には、散逸のため八梱以下に減じていた模橡であるから、假に利川する機合があったとしても、『拐伽經疏』が既に 失われていたことも考えられる。 (似)「附録」のBI4の益5を審照せよ。 (岨)この際に東南院が焼失したことについては、堀池春峰「東大寺要録編纂について」(前掲『南都佛教史の研究上(東大寺 圃)』所収)四六一頁を参照。また、煎那院については、坂上氏前掲議文の四一~二瓦を参照されたい。 (網)もっとも、今日に仰わる『勝嬰經義記』は、束大寺炎上後の正治二年(一二○○)に珍梅手挿木に基づいて禰腐された本を 祖本とするものであるから、その後も、一部、珍海蔵本が側承されていたことが知られ、連摩の『楊伽經琉』がその中に含まれ ていた可能性も否定できない。また、醍醐寺に僻わったということも考えられるが、醍醐寺も文明二年(一四七○)七月の大内 政弘の山科攻略の際に兵火に焼かれ、五重の塔を残して全て灰超に蹄したというから(中島俊司『醍醐寺略史』〈醍醐寺寺務所、 一九三○年〉一五八頁)、假に仰えていたとしても、その時黙では仰承を断ったと思われる。 (M)椛啓の仰記については、納商氏前掲密、六五~八頁、四八二~九頁を審照。 (㈹)金澤文廊所蔵の湛容関係の典籍資料の一更は、納溢氏前掲轡、四六二~七二頁に掲げられている。 (妬)『傅教大師全築』(天台宗宗典刊行含、一九一二年)雀一一、二一四頁。 (灯)大正蔵一六、四八三上~中。 四九八中~下。 五一二上~中。 五一三中。 四八四中。 22
下編目次(豫定) 三、『楊伽經疏」の 附註 2.思想 四、『栂伽纏疏」 むすび 録 1.分量と構成 『楊伽經疏」の内容について の成立について 23