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渡辺雅子『満洲分村移民の昭和史 : 残留者なしの引揚げ 大分県大鶴開拓団』 利用統計を見る

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渡辺雅子『満洲分村移民の昭和史 : 残留者なしの

引揚げ 大分県大鶴開拓団』

著者名(日)

塚田 穂高

雑誌名

白山人類学

15

ページ

133-137

発行年

2012-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002427/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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白山人類学15号2012年3月

書  評 渡辺雅子『満洲分村移民の昭和史一残留者 なしの引揚げ大分県大鶴開拓団』  東京:彩流社,2011年1月 254ページ,2,100円(税込み)   塚田穂高de TsuKADA Hotaka★  …一,神を信じ,自己を捨てて斯業にまい 進する事,一一,小事にとらわれず苦にせず 黙々として努力する事。大事を思へば実に成 す事が多い。そして皇と神との大恩を思へば 涙が湧き出て仕様がない。小言を言う暇がな い,愚痴を言う暇がない。…(大鶴開拓団初 代団長・石松従忠から親族への1943年の手 紙,本書108ページ) 1 はじめに  本書は,渡辺雅子氏(明治学院大学社会学 部教授)による,大分県成徳大鶴開拓団(以 下,「団」と略記)のモノグラフ研究である。 同団は,大分県日田郡大鶴村(現・日田市) から1940年満洲に行き,戦後一人の残留孤 児・婦人も出さずに引揚げをなした稀有なケ ースである。本書の内容は,2010年に『明 治学院大学社会学・社会福祉学研究』132 号に発表された,全220ページに及ぶ大部の 論文「「満州」分村移民の体験一大分県・成 徳大鶴開拓団の事例一」に終章部分などの加 ★國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所;  Institute for Japanese Culture and Classics,  Organization for the Advancement of  Research and Development, Kokugakuin  University, Higashi 4−10−28, Shibuya, Tokyo,  150−8440/e−mail:hotaka−t@kokugakuin.ac.jp 筆修正を行ったものである。  著者の研究領域は,宗教社会学(主に新宗 教運動),移民社会学(主にブラジル日系移 民),ライフヒストリー研究である。これま でにも徹底したフィールドワークと資料渉 猟に基き,『共同研究出稼ぎ日系ブラジル人 (上・下)』(編著,明石書店,1995年),『ブ ラジル日系新宗教の展開』(東信堂,2001年), 『現代日本新宗教論』(御茶の水書房,2007 年)などの書をはじめ多くの成果を提出し, 研究史上に分厚い蓄積をなしてきた。著者は, 「突き動かされるような気持ちで本書を書 いた」(217ページ,以下,本書の引用はペー ジ数のみ括弧内に示す)という。はたしてそ れは何だったのか。評者の専門は宗教社会学 であり,本書のような移民研究・歴史研究と 著者の意思とを的確に読み解けるかは甚だ 心許ないものの,レビューを試みたい。 II本書の構成と概要 本書の主要部の構成は,以下の通りである。  序章  (5・12)  第一章 満洲移民の歴史  (13’23)  第二章 大分県と満洲移民  (25−32)  第三章 森山藤太の自分史にみる大鶴      開拓団の軌跡  (33−110)  第四章 開拓団での生活  (111−132)  第五章 日本の敗戦と逃避行        (133−144) 第六章 第七章 第八章 撫順での越冬  (145−174) 引揚げ後の生活  (175−191) 満拓同志会と開拓団跡地訪問 終章  (205−215) あとがき (217−223) (193−203)  また巻末には,著者調査による55家族225 名+αの基礎情報・社会属性が記された「大

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白山人類学 15号 2012年3月 鶴開拓団団員家族名簿」や年表などが付され ている。  以下,用いられた資料・データの性質に注 意を払いながら,各章で明らかにされた知見 などを評者なりにまとめていきたい。  序章では,著者が団の存在を知った経緯や その研究対象としての意義・重要性が説かれ る。また,本書で用いられた多岐にわたる資 料・データ類(主に13種類)が紹介されて いる。  第一章では,『満洲開拓史』などの文献資 料に拠りながら,満洲移民の歴史的概要が踏 まえられる。試験移民期(1932・36年)・本 格移民期(37−41年)・移民事業崩壊期(42・45 年)の時期区分が提示され,満洲移民が国策 として割り当てられた半ば「動員」の性格が 濃いこと,分村移民が理想的形態とされてい たことなどが確認される。  第二章では,満洲移民全体の中での大分県 の位置づけが示される。同県は,開拓団員735 名・義勇隊員1,836名で47都道府県中42位 の送出人数(移民率35位)と移民に積極的 ではなかった。それでも複数の開拓団が出た が,他は数町村合同の「分郷型」であるのに 対し,大鶴村のみが単一村の開拓団という特 殊性を有していた。        ふじ た  第三章では,団の事務長だった森山藤太 (1912−2006年)の自分史から同団の軌跡が 辿られる。80ページにも及ぶ本書の核となる 章なので少し詳しくみていこう。大鶴村に生 まれた藤太は,39年から村役場に勤めた。村 はちょうど分村を計画中で,成り行きで藤太 の渡満が決まった。団長には,村出身で茨城 県の満蒙青少年義勇軍幹部訓練所に勤務の   つくただ 石松従忠(1911−43年)がなった。40年4 月,21名が出発した。村民総出で見送られ, 「金儲けができたら帰る,都合が悪くなった ら帰るというような勝手なふるまいの許さ れる渡満と違って」「母村の経済更生が目的」 であり, 「国策の一端」だった(43・44)。 入植先は吉林省盤石県で,当初の予定よりは 南方だった。入植後の様子は,まさに新しい ムラと人々の生活が醸成されていく過程で ある。そこにおいて特に目を引くのが,団長 の姿勢と現地住民との交流の様子である。た とえば,団長は土地を接収された現地住民の ことを考え, 「明日から,朝の国旗の掲揚を 中止しようと思う」(56)と提案した。藤太 は現地の屯長の娘の皮膚病を処置したとこ ろ,評判が広がった。これらの蓄積により, 徐々に「信頼関係」が立ち上がっていく様子 が伝わってくる。それは団長の姿勢に裏打ち されたものだった。段々と作物もでき,また 団長の工夫によりブドウ酒などの加工技術 も発展していった。42年には55名となり, 4部落に分散した。医師も来ることとなり, 小学校も建った。大鶴開拓団歌・大鶴音頭な ども作られた。経済的に苦しいときには,屯 長が翌日に5千円(現在の500万円以上)を 集めて持ってきてくれた。「民族を越えた人 と人との触れ合いが,どれだけ嬉しいことで あるか,身にしみた」 (90)と藤太は言う。 だが43年,石松団長が病死した。44年頃か らは,青年男性が次々と召集され,老人と婦 女子ばかりになった。45年5月,藤太にも召 集令状が届き,入隊となった。藤太の見た団 の様子はここまでだった。終戦後,藤太は47 年9月までシベリアに抑留された。以上の経 過が,藤太の丁寧な筆致で淡々と綴られてい る。  第四章では,前章とは別資料を用いて団で の生活の様子が掘り下げられている。一つは, 『朝日新聞』42年9月24日付の団を報じた 記事「目をみはる煙突ハム土の中から萌出 る豊かな文化」である。これは全5回連載「伸 びる分村・微笑む母村満洲開拓十年の跡」 中の第4回である。石松団長の加工食品の出 来栄えなど,活気溢れる様子が報じられてい 134

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塚田;書評 渡辺雅子『満洲分村移民の昭和史』 る。著者は,こうした記事があるのは「奇跡 に近いことのように思われる」 (117)と驚 嘆を顕わにしている。また,7名の手記や, 森山ハツエ(開拓団本部職員)の自分史,聞 き取り・質問紙調査(2009年実施・15名) から,主に子どもや女子の眼から見た団での 生活(農業・気候・部落の様子など)に迫っ ている。慰問団・演芸会・部落対抗運動会・ 馬そり・青年学校・ワラビ取り・ブドウちぎ りなどの「開拓団生活での楽しみ」の記述は, 微笑ましい。やはり目を引くのは現地住民と の関係についてであり,「−J度もトラブルは なかった」 「正月とか盆には,中国人,朝鮮 人の家に呼ばれていって,ご馳走になった。 結婚式にも呼ばれた」「現地の子どもたちと 遊んでいた」 「現地の人が怪我をしたり,腹 痛,頭痛の時には薬を与えた」 (127−129) などの証言が伝えられている。  第五章では,戦争末期のソ連参戦∼終戦に より逃避行が始まる様子が描かれる。10種以 上の手紙・証言・質問紙回答などを重ね合わ せて記述が構成されている。脱出準備を進め るも,青壮年層はみな応召しており苦労した。 縁あって近隣で鉄道駅も近い他の開拓団に 避難した。その間に応召者や脱走兵が合流し, 男手が増えた。また,団部落のクーリーが食 料を持ってきてくれたり,撫順への脱出を勧 めに来たりしたことを伝えている。  第六章では,団が避難した撫順での生活が 描かれる。撫順は満洲第一の炭都で,日本人 約4万人と中国人約30万人がおり,そこに さらに約4万人が避難してきた。団は他より も早く撫順に着いていた。団全員の200人近 くが小学校の一教室で起居した。青壮年男子 は,炭鉱に働きに出た。収入は団で共有し, 食料を買った。到着順が早かったために,11 月には満鉄の社宅に移ることができ,冬を越 せた。しかし,それでも老人と子どもをはじ め,死者が出た。各種の証言の摺り合わせか ら悲惨な状況が浮かび上がっている。その小 学校全体では2千人以上,6−7割が亡くなっ た。 「向こうで死体は見慣れた」 (155)と いう,死が日常と隣り合わせの様子が記され ている。撫順からは46年,5次にわたり 72,555人が引き揚げた。団は第2次引揚げで 6月,舞鶴港に到着した。敗戦時の在満法人 は155万人で,うち開拓民関係は27万人, 全満での邦人死亡者は17万6千人だが開拓 民死亡者は約8万人だった。他方,大鶴開拓 団は220名中,死亡者44名・帰還者176名, 未帰還・残留者ゼロであった。全976開拓団 のうち未帰還者ゼロの開拓団は35のみで, かつ同団のような200名超の規模のケースは きわめて稀有だったとしている。  第七章では,引揚げ後の団員の生活が焦点 化される。団の人々にとって,「母村の風は あまりも冷たかった」 (178)ようだ。村長 は送出時と同じ人物だったが,村は公民館を 提供するくらいだった。全財産を処分して渡 満した者も多かったが,それが一つ大きな分 かれ目となった。著者は聞き取り調査などか ら, 「親が存命で実家があった場合」 「家を 残していた場合」「財産を処分して行った場 合」 「別の兄弟が実家を継いでいた場合」の 計12事例を記述している。 「引揚者が野菜 をちぎったと濡れ衣を着せられ」 (185), 「兄嫁から「米が減る」と言われ」(187), 「引揚げ者は一旗揚げ,一儲けしようと満洲 に行ったのだ」(212)との目を向けられた。 一番辛かったのは満洲での逃避行や越冬で はなく,引揚げ後のことだったとしている。 なお,自治体による団死者の慰霊祭は一度も 行われていないという。  第八章は,藤太の音頭で70年に始まった 「大鶴開拓団満拓同志会」の活動についてで ある。2010年までに16回行われ,各回十数 名∼数十名が参加した。96年,8名が団跡地 を訪問した。森山ハツエとその家で働いてい

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白ll」人類学 15号 2012年3月 た元クーリーとの再会の場面は思わず目頭 が熱くなるところである。同時期以降,大鶴 開拓団の体験は少しずつ語られ始めていっ た。  終章では,まとめとして以下の3つの問い に応答がなされる。 「なぜ大鶴開拓団は生存 者全員の引揚げができたのか」に対しては, 地理的条件,現地住民との良好な関係,分村 移民による強い連帯感,近隣開拓団への一時 的避難早期の撫順への移動などが挙げられ ている。 「なぜ母村は分村引揚者に対して冷 たかったのか」は,満洲での苦労を経て民族 的ないし地域社会アイデンティティが高ま っていた団側と自らの生活維持に精一杯な 母村側の心理のズレとして考察されている。 「満洲分村移民とは何だったのか」という最 後の大きな問いには,藤太がどう考えたかに ついての結論は留保しつつ,国策としての移 民であったこと,人々の体験を風化させては ならないことを述べて筆を置いている。 III 本書の意義,若干のコメント  本書を読了し,数々の場面が印象に残った。 本書の内容は, 「戦争の悲惨さ」や「五族協 和のユートピア」といった括りには単純に回 収しきれない。そんな複雑な感慨を抱かせる。  研究の意義としては,まず満洲移民史研究 への貢献を指摘できる。大鶴開拓団の研究と して他に例がないのは当然だが,対象の特殊 性に充分に目配りしつつ常に全体的な文脈 の中に位置づけており,同時代の他事例との 比較検討が可能となっている。同研究領域に 確実な厚みを加えたと言えよう。  次に,方法論上の貢献である。端的に言え ば本書は,個別の自分史・生活史を核とし, 諸調査・資料でその脇を徹底的に固めること で,説得性をそなえた社会史ないし中範囲の 歴史を描けることを示した格好の範である。 本書の核となった藤太の自分史は,それだけ だったら「よく書かれた興味深い自分史」に 過ぎなかったかもしれない。だが著者は,他 の自分史,聞き取り・質問紙調査,新聞記事, 関連文献資料を用い,同じ出来事に対しても 多面的に情報を重ね合わせ,時間軸も自分史 の終着地点からその後/戦後/現在にまで 延伸してテーマに迫った。断片的な会話分析 や単なる歴史証言の蒐集ではない,「全体を 見通す視点」で「研究者がきちんと跡付けて 書くことの意味」 (218)を正面から問うた ものといえる。  さて,読者に強い印象を与えるのは,やは り石松団長の姿勢とそれに立脚した現地住 民との融和・交流だろう。むろんそれにより 帝国の暴力性や支配一被支配の非対称性が 無化されはしないが,そうした異文化接触に おける共存共栄・他者尊重の姿勢からは,学 ぶべきものがあるように思う。実際のところ, 地理的要因など種々の要因が介在してはい るが,団の被害が少なかったのは,やはりこ の側面が大きい。社会集団の存否を分けたの が,単に社会的属性や経済構造などではなく, 集団のエートスとそれに立脚した社会関係 の構築であったという事実は,社会学や人類 学でも閑却できないテーマではないか。  それを踏まえてやはり最後に触れたいの は, 「宗教」の問題だ。団には石松団長家族 をはじめ数名の金光教(幕末に立教した新宗 教で,戦前は教派神道の一つ)の信者がいた (103−104)。著者は, 「(団長の)ものの 考え方の根底に宗教の影響もあるかもしれ ない」(215)とする。本書評冒頭の手紙(元 の論文にはなく本書で加筆された)の引用は あえて行ったものだが,そこからどのような 道徳性や宗教性を読み取ることができるだ ろうか。だが,これらはいずれも註での言及 であり,主たる流れからは後景化している。 また評者には,団長の「満人の持ち込む不平 136

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塚田:書評 渡辺雅子『満洲分村移民の昭和史』 不満を聞いている。…(満人は)来る時は, 勢い込んで来るけれど,帰る時はケロッとし て…喜び勇んで帰って行く」 (67)といった 様子は,信徒の悩みに応える教祖や布教師ら の姿にも重なって見えたが,これはさすがに 読み込みが過ぎるだろうか。全てを信仰の次 元に還元するつもりは,もちろんない。だが 翻っていえば,本書では「宗教」的側面はほ とんど扱われなかった。家の宗旨や神社参拝, 天皇崇敬などの面もほぼうかがえなかった。 彼らの生活において,これらは大した問題で はなかったのだろうか。また,戦前の満洲に は25の金光教の教会があり(『金光教満洲 布教史』),団から比較的近い吉林にもあっ た。わずか5年ほどでは,それらと交渉する 余裕もなかっただろうか。こうした文化的側 面について,著者が調査の途上でどのような データを得て,それをどう扱ったのか。聞い てみることができればと思っている。  以上,いくっか評者の思うところを述べて きた。本書が人類学・歴史学・移民研究など 広い領域で,そしてまた多くの人々に読まれ ることを切に願う。密度の濃い「歴史」を提 示してくれた著者に感謝し,この稿を閉じた い。

参照

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