<論文>「蜘蛛の糸」管見--童話と小説の間
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(2) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. モノが違ふ。︵中略︶こんな傑作を書いた奴は一人もいない﹂ ︶ 滑川道夫は﹁子どもだましでない という感想をもらし ︵注7、. たとえば、︿童話﹀の読者である︿子供﹀の教養範囲を考. ︶ いうものが考えら 慮 し た ガ イ ド ラ イ ン に 即 し た 読 み ︵注 と. る。四百字詰原稿用紙わずか七枚程の短編の評価がなぜこう. このように﹁蜘蛛の糸﹂をめぐる評価は大きく異なってい. も、 き わ め て 漠 然 と し て お り、 そ れ ゆ え 当 面 の 対 象 と な る. メ ー ジ も 問 題 と な る だ ろ う。 ひ と く ち に︿ 子 供 ﹀ と い っ て. される︿子供﹀とはそもそもどのような存在なのか、そのイ. れる。一方、そうした読みとは別に、一般読者︵大人︶が何. も極端に分かれるのか。第一に考えられるのは、 ﹁蜘蛛の糸﹂. ︿子供﹀のイメージをもう少し具体的に絞ってみる必要があ. ﹃ 児 童 文 学 ﹄ を 社 会 的 に 認 め さ せ た 点 で、 こ の 作 品 の も つ 意. 自体に、一編を読むための視点もしくは評価軸に︿揺れ﹀を. る。たとえば、 ﹁蜘蛛の糸﹂が発表された﹁赤い鳥﹂が読者. の制約もなく自由に読む読みがあり、双方の間に小さからぬ. 生じさせる何らかの要因が内在しているのではないか、とい. 対象とする︿子供﹀とはどのような存在だったのか。創刊号. ︶ 述 べ、 吉 田 精 一 も﹁ 日 本 の 創 作 童 話 と し 義 は 大 き い ﹂︵注8と. う こ と で あ る。﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ を 論 じ る た め に は、 そ う し た. 以 来、 ﹁ 赤 い 鳥 ﹂ 巻 頭 に は し ば ら く 次 の よ う な﹁ 標 榜 語. 懸隔が生ずることも容易に想像できよう。また、ここで想定. ︿揺れ﹀の内実をまず解きほぐすことから始める必要がある. ︵モットー︶﹂が掲げられていた。. ︶ 評価する。 ては、最高の地位を要求できる作品﹂︵注9と. ように思われる。. ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ を 評 価 す る 難 し さ の ひ と つ は、 第 一 に こ の 作. 一 ︿童話﹀という機制. 真純を侵害しつゝあるといふことは、単に思考するだけで. て、いかにも下劣極まるものである。こんなものが子供の. 悪 な 表 紙 が 多 面 的 に 象 徴 し て ゐ る 如 く、 種 々 の 意 味 に 於. 〇現在世間に流行してゐる子供の読物の最も多くは、その俗. 品が︿童話﹀であるという事実そのものに由来しているよう. も怖ろしい。. 日 本 人 は、 哀 れ に も 殆 未 だ 嘗. に 思 わ れ る。 む ろ ん︿ 童 話 ﹀ で あ る 以 上、 こ の 作 品 が︿ 子. く. て、子供のために純麗な読物を授ける、真の芸術家の存在. 〇 西 洋 人 と 違 つ て、 わ れ. であるという暗黙の指示性はテクストの読みに一定の機制を. を誇り得た例がない。. 供﹀を読者対象とするのは自明のことだが、読者が︿子供﹀. 設けることになるのではなかろうか。. −2−. 10.
(3) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. を迎ふる、一大区画的運動の先駆である。. 摯なる努力を集め、兼て、若き子供のための創作家の出現. 子供の純性を保全開発するために、現代一流の芸術家の真. 〇﹁赤い鳥﹂は世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、. ジ、 特 に︿ 純 ﹀ 性 を 強 調 す る ピ ュ ア リ タ ニ ズ ム Puritanism 的発想に基く﹁子供﹂のイメージが想定されていたように思. ︿純粋無垢﹀な子供には、キリスト教的な︿幼子﹀のイメー. よい。そうした時代背景を考えると、 ﹁赤い鳥﹂が想定する. 西欧的イメージは急速に浸透・一般化しつつあったといって. われる。むろん、そうした巻頭言のモットーにすべての作家. 〇﹁赤い鳥﹂は、只単に、話材の純清を誇らんとするのみな らず、全誌面の表現そのものに於て、子供の文章の手本を. 寄 稿 し た 作 家 の 多 く は﹁﹃ 赤 い 鳥 ﹄ の 運 動 に 賛 同 せ る 作 家 ﹂. が忠実だったというつもりはない。しかし、芥川をはじめ、. この巻頭言が示唆する読者としての﹁子供﹂は、第一に﹁俗. ︶ そう と し て 巻 頭 言 末 尾 に そ の 名 前 が 掲 げ ら れ て お り ︵注 、. 授けんとする。︵以下略︶. 悪﹂でも﹁下劣﹂でもない﹁真純﹂な子供であり、また﹁純 麗な読物を授ける﹂べき子供であり、かつ﹁純性を保全開発. 育成を意識し、そのイメージにかなう︿童話﹀をひとまずめ. した作家たちが、同誌のモットーである︿純﹀な﹁子供﹂の. におく︿童話﹀として執筆されたに違いない。だとすれば、. す﹂べき子供である。しかもそれらの童話は﹁純清﹂な﹁話. ﹁純麗﹂ ﹁純性﹂ ﹁純清﹂な﹁子供﹂たちを読者対象とし、彼. ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ の 第 一 義 的 な メ ッ セ ー ジ は、 あ く ま で も 子 供 の. ざした可能性は高い。﹁蜘蛛の糸﹂も例外ではなく、基本的. らの︿純﹀性の涵養を目的とする、ということになる。こう. ︿純﹀性を﹁保全開発する﹂ための︿徳目﹀を伝えることに. 材﹂であって、 ﹁子供の文章の手本﹂となるべき作品でなけ. した︿純﹀性の強調は、明治期の家族主義的国家観を基盤と. あ っ た と 考 え て よ い。 し た が っ て、 ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ の 主 題 が、. にはそうしたピュアリタニカルな︿純粋無垢﹀な子供を念頭. する︿御伽噺﹀が期待した子供像、たとえば﹁義勇公ニ奉シ. 一 般 読 者︵ 大 人 ︶ か ら み て い か に﹁ 極 ま り 切 っ た 秩 序 ﹂ を. ればならない。要するに、 ﹁ 赤 い 鳥 ﹂ の 掲 載 作 品 は、 ﹁真純﹂. ︶ る ︵ じ ︶﹂ ﹁ 皇 運 ヲ 扶 翼 ス ヘ︵ べ ︶﹂ き﹁ 忠 良 ノ 臣 民 ﹂ ︵注 た. べき天皇の︿赤子﹀といったイメージとは明らかに異質であ. 分ばかりが地獄からぬけ出さうとする﹂ ﹁無慈悲な心﹂が. ﹁やすやすと受け入れ﹂る﹁温室的﹂な観念であっても、 ﹁自. ﹁その心相当な罰をうけ﹂る︵三︶物語、いいかえればエゴ. −3−. 13. ︶ 第 一 次 世 界 大 戦︵ 大 3︶ 以 後、 明 治 的 国 家 主 義 は る ︵注 。. 11. 弛緩し、西欧の思想や文化もさほど時差なく日本に流入し、. 12.
(4) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. く り か え せ ば、 ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ が 子 供 を 読 者 対 象 と す る︿ 童. ︵ ︶内の数字や記号は、便宜上、筆者が付したものである︺. 各 文 末 は 以 下 の よ う で あ る。︹ 以 下、 引 用 各 文 の 頭 に あ る. に、作中の文末の多くは丁寧語の﹁ございます﹂調で結ばれ. 話﹀とみなすかぎり、その主題は、子供の︿純﹀性を涵養す. ︵1︶或日の事でございます。/︵2︶いらつしやいまし. イスティックな我執を戒める物語だという基本的な構図は動. るための︿徳目﹀、すなわちエゴイスティックな我執を戒め. た。/︵3︶朝なのでございませう。/︵4︶御覧になり. ている︵ ﹁ございます﹂のほかに﹁ございませう﹂ ﹁ございま. る物語である。しかし、芥川自身も含め、すでに子供時代を. ました。/︵5︶見えるのでございます。/︵6︶御眼に. かしがたい。たとえテクスト中にそうした構図には収まらな. 経験し、子供の実態を知る一般読者︵大人︶のリアルな眼か. 止まりました。/︵7︶覚えがございます。/︵8︶見え. せん﹂ ﹁ございませんか﹂なども含む︶ 。たとえば﹁一﹂章の. らすれば、︿純粋無垢﹀な﹁子供﹂というピュアリタニカル. ま し た。 /︵ 9︶ 助 け て や つ た か ら で ご ざ い ま す。 /. ︶糸をかけて居ります。/︵. ︶御下しなさ. 13. ご ざ い ま す ﹂ の 一 行 で 始 ま る。 こ の 一 文 に も 見 ら れ る よ う. ﹁蜘蛛の糸﹂は三章で構成され、その冒頭は﹁或日の事で. 二 文体と文脈・時制. います。/垂れて参るではございませんか。/地獄から. くなつてゐるのでございませう。/所が或時の事でござ. ん。/嘆息ばかりでございます。/泣声を出す力さへな. 犍陀多でございます。/心細さと云つたらございませ. 33. −4−. い要素が内包されていたとしても、である。. な イ メ ー ジ は︿ 幻 想 ﹀ も し く は︿ 神 話 ﹀ で し か な い だ ろ う. した。/︵. ︶御考へになりま. ︵. 読むわけでもない。とすれば、 ﹁蜘蛛の糸﹂は、︿童話﹀とい. いました。. ︶御思ひ出しになりました。/︵. し、ましてやテーマとなる︿徳目﹀を受容するために文学を. う機制にしたがって基本的構図どおりに読むか、そうした機. 文中5文が﹁ございます﹂調の文. 末となっている。これに対して﹁二﹂章では実に. 上記の通り﹁一﹂では. の意味は大きく揺れることになる。その出自が︿童話﹀であ. 文が﹁ございます﹂調の文末となっている。以下は﹁二﹂章. 文中の. るという明確な執筆事情をどこまでテクストの読みに反映さ. 中に見られる﹁ございます﹂調の文末例である。. 制にとらわれずに一文学テクストとして読むかによって、そ. 14. 12. せるのか、問題はけっして容易ではない。. 14. 13. 11.
(5) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. す。/のぼつて来るではございませんか。/大変でござ. る 筈 は ご ざ い ま せ ん。 / 慣 れ 切 つ て ゐ る の で ご ざ い ま. ぬけ出せるのに相違ございません。/沈められる事もあ. 確かに、この敬語表現は語り手の釈迦に対する﹁信頼﹂や. ない語り手の存在が浮かび上がってくるのである。. もかく、ここには超越的・絶対的なものの力を信じてい. 語り手は釈迦を信頼していない。釈迦の行為の内実はと. 係 や 利 害 が あ る 人 物 で も な い。 し た が っ て、 こ の 語 り 手 を. ︿事﹀の顛末にも何ら関知しておらず、釈迦との直接的な関. こ の 語 り 手 は 物 語 世 界 に 実 際 に 登 場 す る 人 間 で は な い し、. 敬意を裏うちするものとは言えないかもしれない。しかし、. います。/その途端でございます。/短く垂れてゐるば かりでございます。 ちなみに﹁三﹂章では5文中2文が﹁ございます﹂調の文. 文 ︶ に 達 し て お り、. 末となっている。なお、作品全体でいえば﹁ございます﹂調 文中. ︿実体的存在﹀とみなし、 ﹁語り口の背後﹂にその主体的な感. %︵. そのほかにも、文の途中で﹁大泥棒でございますが﹂︵ ﹁一﹂︶. 情︵アイロニカルな視線︶をみるのは適当と思えない。この. の 文 末 は、 全 文 末 の ほ ぼ. ﹁針が光るのでございますから﹂や﹁大泥棒の事でございま. 語り手はあくまでもテクスト内における形式的な語り手であ. ことのないフラットな立場で語る存在だと見てよい。それゆ. すから﹂ ﹁何万里とございますから﹂ ﹁仕方がございませんか. この﹁ございます﹂という文末の丁寧語は、ひとまず﹁御. え、その﹁語り口﹂に表れた丁寧な文末も、字義通りの︿敬. 上記の文末表現をもう少し具体的に見てみよう。たとえば. 釈迦様﹂をはじめとする作品世界の宗教性に対する語り手の. を 表 す も の だ ろ う。 そ れ は 同 時 に、 現 実 の 読 者 対 象 で あ る. ﹁一﹂章の︵1︶︵3︶︵5︶は、日時や状況など客観的事実. 意﹀を示す表現と解してよいように思われる。. ﹁子供﹂たちに対する書き手︵作者︶の丁寧な配慮を反映す. の記述であり、敬意を表すべき明確な意識対象をもたない説. び作者の丁寧な気持ちを表す文末と考えられる。一方、︵7︶. 明 で あ る の で、 ﹁蜘蛛の糸﹂の世界全体に対する語り手およ. 恭しい釈迦への敬語表現による語り口の背後には、ア. や︵9︶は、 ﹁犍陀多﹂の行動を語る部分だが、大泥棒に対. うに述べている。. ︶ 以下のよ る も の で も あ る。 こ の 点 に 関 し て、 戸 松 泉 ︵注 は. 畏敬の念と聞き手︵テクスト内読者︶に対する語り手の敬意. り、物語中の︿事﹀や︿人物﹀に対する個人的評価など下す. 20. ら﹂︵ ﹁二﹂︶などといった用例が見られる。. 52. イロニカルな語り手の視線が強く感じられるのである。. 14. −5−. 40.
(6) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. して敬意を払ういわれはないので、ここでの丁寧語も﹁犍陀 多 ﹂ 個 人 と い う よ り 彼 の 活 動 す る 物 語 世 界 全 般、 す な わ ち ﹁御釈迦様﹂も併存する仏教説話的世界に対する語り手およ び作者の敬意を表すものと見てよい。したがって、この丁寧 な 文 末 は、 た と え る な ら 聴 衆 の 前 で 仏 教 説 話 を 物 語 る︿ 講 話﹀の口調であり、そこには年少の﹁子供﹂たちに向けて噛. つかりつかみながら︵二︶. ︵E ︶元より大泥棒の事でございますから︵中略︶慣れ切つ. てゐるのでございます。︵二︶. ︵F ︶何万里とございますから︵中略︶容易に上へは出られ ません。︵二︶. ︵G ︶仕方がございませんから、先一休み休むつもりで︵中. ︵H︶ですから犍陀多もたまりません。. 略︶目の下を見下ろしました。︵二︶. こ の よ う に 考 え る と、 ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ の 丁 寧 語 に よ る 文 末 は、. ︵I ︶御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたので. んで含めるようなやさしい配慮も加わっているとみてよい。. 原典の仏教説話的空気を尊重しつつ、同時に年少の読者対象. ございませう。︵三︶. ない。︵A︶は、鈴木が筆削したように単に﹁朝でございま. ︵C ︶ここ︹地獄︺へ落ちて来る程の人間は︵中略︶泣声を. 獄の罪人たちが﹁嘆息﹂ばかりしている理由をあとから付加. なぜかという理由を述べた一節である。︵C ︶は、前文で地. −6−. にも配慮した︿童話﹀らしさをめざす︿文体﹀だったという. 上 掲 の 引 用 文 は 芥 川 自 身 が 執 筆 し た 原 文 そ の ま ま で あ り、. ︵J ︶極楽ももう午に近くなつたのでございませう。︵三︶. しかし、そうした︿文体﹀とは反対に、 ﹁蜘蛛の糸﹂には. 入稿時に﹁まづい所は遠慮なく筆削して貰ふ﹂という芥川の. ことになる。. ︿ 童 話 ﹀ に は あ ま り 多 用 さ れ る こ と の な い︿ 文 脈 ﹀ 上 の 特 徴. ︶ う け、 鈴 木 が﹁ 筆 削 ﹂ を 加 え た 後 の 本 文 で は 申 し 出 ︵注 を. ︵A︶ ︹蓮の花の好い匂いがあふれているので︺極楽は丁度朝. し た ﹂ と あ れ ば よ い と こ ろ を、 わ ざ わ ざ 前 文 の 状 況 を 根 拠. がある。たとえば、以下のような例である。. なのでございませう。︵一︶︵下線筆者、以下同じ︶. ︵理由︶に﹁朝なのでございませう﹂と推量している。︵B ︶. 出す力さへなくなつてゐるのでございませう。︵二︶. した一節である。︵D ︶は、地獄から脱出できそうだと思っ. は、前文で犍陀多という男が釈迦の﹁御目に止ま﹂ったのは. ︵ D ︶ か う 思 ひ ま し た か ら 犍 陀 多 は、 早 速 そ の 蜘 蛛 の 糸 を し. さずに助けてやつたからでございます。︵一︶. ︵B ︶と申しますのは、或時この男が︵中略︶その蜘蛛を殺. 15.
(7) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. こうした︿文脈﹀の問題と関連して注目したいのは文末の. 的言説に基づく文脈であることを示すものだろう。. を述べた一節である。︵E ︶は、前文︵D ︶における蜘蛛の. ︶ 、鈴木の加えた ︿ 時 制 ﹀ で あ る。 た と え ば、 浅 野 洋 ︵注 は. たという理由が前文にあり、その結果としての犍陀多の行動. 糸を﹁たぐりのぼる﹂犍陀多の行為が当然である理由を述べ. ざわざ物語の時間的経過を推量して﹁午に近くなつたのでご. ように﹁お午に近くなりました﹂とあればよいところを、わ. て付け加えた一節である。︵J ︶は、これも鈴木の添削した. 由を説明したにもかかわらず、さらに﹁思召し﹂を理由とし. が﹁その心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ち﹂たという理. ﹁悲しさうな御顔﹂について、前文で犍陀多の﹁無慈悲な心﹂. れ﹂ないことの理由を述べた一節である。︵I ︶は、釈迦の. 作を説明している一節である。︵H︶は、 ﹁容易に上へは出ら. 文の犍陀多が﹁くたびれ﹂たという理由をうけてその後の動. なくもがなの理由を敢えて述べた一節である。︵G ︶は、前. た一節である。︵F ︶は﹁容易に上へは出られ﹂ない、その. い る。 ヴ ァ ィ ン リ ッ ヒ や 浅 野 氏 は 挙 げ て い な い が、 前 者 の. 許容する︶であるという事実をも浮き彫りにする﹂と述べて. 川の原文が﹃説明の時制﹄の優勢な文体︵それは﹁理屈﹂を. ﹃発話態度﹄と結びつく﹂点に注目し、 ﹁現在形を軸とする芥. ﹃ 時 制 ﹄ が テ ク ス ト の 本 質 を 規 定 す る 語 り 手︵ 書 き 手 ︶ の. 了・ 条 件 法 な ど の 時 制 群 を﹃ 語 り の 時 制 ﹄ と し、 そ う し た. 完 了・ 未 来 な ど の 時 制 群 を﹃ 説 明 の 時 制 ﹄、 過 去・ 過 去 完. て、H.ヴァィンリッヒ﹃時制論﹄を参照して﹁現在・現在. 削﹄﹂だが、 ﹁﹃時制の改変﹄はいささか事情が異なる﹂とし. 三項は﹁作者の目線を﹃子供﹄の水位に合わせるための﹃筆. スの短文化・時制の改変の四点に尽きる﹂とした上で、前者. ﹁﹃筆削﹄の要点﹂が﹁表記の平易化・改行の多用・センテン. ﹁説明の時制﹂には﹁現在﹂形︵ございます︶とともに﹁推. ざいませう﹂と述べている一節である。 要するに、上掲の用例はおおむね﹁∼だから∼でございま. 量 ﹂ 形︵ ご ざ い ま せ う ︶ な ど も 含 ま れ る と 考 え て よ い だ ろ. ﹁ 説 明 の 時 制 ﹂ で あ る﹁ 現 在 ﹂ 形 や﹁ 推 量 ﹂ 形 の 文 末 は、. す﹂もしくは﹁∼なので∼でございませう﹂という内容であ. とする文脈である。これらの例は、かくかくの﹁理由﹂︵原. 時として理不尽な飛躍をもいとわぬファンタジー的要素の濃. う。. 因︶があるからしかじかの﹁状況﹂︵結果︶が生じるという. 厚な︿童話﹀の﹁語りの時制﹂すなわち﹁過去﹂形の世界と. り、ある事象や行動に対する理由︵原因︶を︿説明﹀しよう. 因果論的な合理性ないし論理的整合性を重視する近代的な知. −7−. 16.
(8) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. は 明 ら か に 異 質 で あ る。 つ ま り、 ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ の 文 脈 に は、. は見逃すことのできない問題点がある。. 立しないわけで、その前提に注目した場合、このテクストに. たとえば、犍陀多は﹁人を殺したり家に火をつけたり、い. ︿童話﹀の世界とは背反する知的論理︵説明︶がしばしば浸 潤 し て お り、︿ 童 話 ﹀ 作 家 と し て の﹁ 語 り ﹂ に 徹 し き れ な. しさは、テクスト自体がその文体と文脈・時制との間におい. 重んずる近代的知性が浸潤している。﹁蜘蛛の糸﹂を読む難. 方、︿文脈﹀や︿時制﹀にはそれと背反する合理的な説明を. な︿ 文 体 ﹀ に は︿ 童 話 ﹀ 世 界 を 志 向 す る 力 学 が は た ら く 一. 見 て き た よ う に、 ﹁蜘蛛の糸﹂の丁寧な文末が示す特徴的. はない。そうしたアンバランスにもかかわらず、小さな善行. とは、善悪の軽重を考えるなら、両者は到底釣り合うもので. の罪科の重さと蜘蛛一匹をたまたま助けたという小さな善行. 物語は起動する。しかし、人殺しや放火を犯した﹁大泥坊﹂. 助けてやつた﹂ことを﹁御釈迦様﹂が﹁思ひ出﹂すことから. 一つ﹂のささいな﹁善い事﹂すなわち﹁蜘蛛﹂を﹁殺さずに. ろいろ悪事を働いた大泥坊﹂︵一︶である。それが﹁たつた. て異質な二つの力学に引き裂かれている点にもあるように思. でも大罪人を地獄から救う契機になると認めるためには、す. かった︿もう一人﹀の芥川が顔をのぞかせている。. われる。. なわち釈迦の行為を正当だと是認するためには、その合理性. こ と で 地 獄 か ら 救 わ れ る チ ャ ン ス︵ 蜘 蛛 の 糸 ︶ を 与 え ら れ. いとして再び地獄に堕ちるという物語は、彼が蜘蛛を助けた. 重構造になっている。犍陀多がエゴイスティックな我執の報. ただし、この因果応報譚はその前提となる挿話をふまえた二. 糸﹂の物語は、いうまでもなく典型的な因果応報譚である。. エゴイスティックな我執が﹁罰をうける﹂という﹁蜘蛛の. る。少なくともこの二つの条件のいずれかが満たされるので. や︿ 超 越 性 ﹀ を 認 定 す る 言 質 が テ ク ス ト 中 に あ る こ と で あ. は超越する論理、たとえば釈迦が示す﹁慈悲﹂の︿絶対性﹀. は、罪科の軽重を計量・比較する相対的な論理を否定もしく. 由 が テ ク ス ト 中 に 説 明 さ れ て い る こ と で あ る。 第 二 の 条 件. あえて犍陀を地獄から救う契機としたのか、その合理的な理. 第一の条件は、釈迦がなぜ大罪と釣り合わぬ小さな善行を. を裏づける相応の条件が不可欠となる。. た、という善行による因果応報を前提としている。つまり、. なければ、犍陀多を地獄から救おうとした釈迦の行為は、き. 三 物語の起動とその前提. 物語の発端となるこの前提がなければ本筋の因果応報譚も成. −8−.
(9) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. わめて非合理ないし理不尽なものということになる。それは. ︶ 方 が、 仏 教 蛛 の 糸 ﹂ の 原 典 と さ れ る﹃ 因 果 の 小 車 ﹄ ︵注 の. 件を満たすこともなく、罪科の軽重も無視して釈迦が犍陀多. へ︵中略︶われ誠に罪を犯したれども正道を踏まんとの心な. ﹃因果の小車﹄には、まず﹁御仏よ願くは憐をたれさせ給. 的論理とはいえ一定の合理性を示していたのではなかった. を救おうとしたのだとすれば、その行為は単なる気まぐれや. きにあらず︵中略︶願はくば吾を憐み救い給へ﹂という犍陀. ﹁蜘蛛の糸﹂の第一義的な読者である︿純﹀な﹁子供﹂たち. 恣意でしかない、ということになる。事実、釈迦の﹁恣意的. 多 の﹁ さ け び ﹂ が あ り、 そ う し た 犍 陀 多 か ら の 切 実 な︿ 願. か。. ︶ あ り、 ま た、 犍 な 行 動 ﹂ を 指 摘 す る 下 野 孝 文 の 指 摘 ︵注 も. にとってすら容認しがたい行為だろう。つまり、そうした条. 19. ︶ 次のよ え る 積 極 的 な 行 為 で な か っ た ﹂ と す る 石 割 透 ︵注 の. 陀多の行為が﹁自己の何かを犠牲にして善行を施した、と言. ﹁ 一 小 善 と 雖 も 其 裡 に は 新 し き 善 の 種 子 あ る が 故 に、 生 々 と. い ﹀ に 対 し て 釈 迦 が 応 じ る と い う 形 に な っ て い る。 釈 迦 は. 目し、救おうとしたのかという明確な根拠、必然性の提. この場合に何故︿御釈迦様﹀が、︿犍陀多﹀だけに注. 大罪人を救済する契機になり得る、という仏道に則った説諭. の﹁種子﹂はやがて大きく育ってゆくものであるから小善も. もその中には必ず﹁新しき善﹂への契機が含まれており、そ. して長じて已まず﹂と述べ、どのような﹁小善﹂であろうと. 示 に 欠 け る の で あ る。 他 人 の 救 済 を も 己 の 恣 意 に 委 ね. を開陳する。だからこそ、釈迦は﹁地獄の中に悩めるカン陀. うな言及もある。. る、勝手気儘な︿御釈迦様﹀、そうした︿御釈迦様﹀に. 多の熱望を聞き﹂入れ、 ﹁犍陀多よ汝は嘗て仁愛の行をなし. もなぜそのように書かれたのかを問うことが必要だと思われ. 単なる恣意ではないかという問題 を考えるには、そもそ. このような多くの読者が抱きそうな疑問 釈迦の救済は. らず大罪人を地獄から救おうとしたかの理由が、仏道的な合. は先に述べた第一の条件、釈迦がなぜ小さな善行にもかかわ. た蜘蛛の一件に及ぶことになる。つまり、 ﹃因果の小車﹄で. と、 ﹁如来は知り給はざる所なし﹂として犍陀多が忘れてい. たることなきか﹂と尋ねかけ、犍陀多が﹁黙然﹂としている. る。つまり、先に述べた二つの条件がなぜ﹁蜘蛛の糸﹂には. 理性とはいえ、明確に説明されている。しかし、 ﹁蜘蛛の糸﹂. れるのである。. 対する強い不信感を早くも﹁蜘蛛の糸﹂の読者は抱かさ. 18. 欠落しているのか、と。現に、釈迦の行為については、 ﹁蜘. −9−. 17.
(10) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 簡潔な筆致の裡にも脈動する深い力が感ぜられる。明ら. 熱 く か か わ ら ん と す る 姿 を 描 い て、. 芥川はなぜ原典の合理的な説明を削除したのだろうか。推. かに芥川が切り捨てたものは、この両者の淳熱相関の相. 仏陀の慈悲との . 測するに、第一には︿童話﹀であることを意識し、なるべく. で あ り、 こ の 熱 い 文 体 の 脈 動 を も 葬 り 去 る こ と に よ っ. では、原典に記されていたそうした説明が削除された。. シ ン プ ル な︿ お 話 ﹀ を 心 掛 け た こ と、 次 に は 西 欧 的 な︿ 子. て、ここに新しく生まれた﹁蜘蛛の糸﹂一篇は、︵中略︶. 一種異様なひややかさを感ぜざるをえない。. 供﹀の︿純﹀性を涵養する︿近代﹀的な童話をめざす以上、 ﹁信心﹂の﹁正道﹂を説く旧弊な仏教的論理による宗教色や. わち、救済を熱望する犍陀多の願いや釈迦の応答や問いかけ. 迦と犍陀多の︿発話﹀や︿対話﹀なども削除している。すな. さらにいえば、芥川は先に見た﹃因果の小車﹄における釈. 裡には新しき善の種子ある﹂という説諭も削除され、罪の軽. な行為を正当化する第一の条件、すなわち﹁一小善と雖も其. 意性が起動の要因となっている。しかも、釈迦の一見不合理. が地獄の様子をたまたま﹁御眼に止﹂めたという偶然性・恣. つ ま り、 ﹃因果の小車﹄では犍陀多の救済されたいという. な ど、 直 接 話 法 に よ る 具 体 的 な こ と ば が お お む ね 割 愛 さ れ. 重に対する疑問もそのまま放置されてしまう。さらに、 ﹃因. 説教臭をできるだけ払拭したかったこと、などの意向がはた. た。その結果、登場人物同士による他者への濃密な︿はたら. 果の小車﹄では釈迦が犍陀多に﹁仁愛の行﹂を尋ね、彼が沈. ︿熱望﹀から物語が起動したのに対し、 ﹁蜘蛛の糸﹂では釈迦. き か け ﹀ が 消 滅 し、 ﹁蜘蛛の糸﹂の釈迦と犍陀多は互いに. 黙していると、語り手が釈迦は﹁知り給はざる所なし﹂と述. 欠落している。. 要 す る に、 ﹁蜘蛛の糸﹂では読者が釈迦の行為を是認でき. る二つの条件がいずれも消滅している。そのため読者は、ほ. んらい全能者であるべき釈迦の行為に小さからぬ不審を抱い. −10−. らいたのではなかろうか。. ︿ふれあい﹀の乏しい消極的な人物に変貌してしまった。こ. べ、その︿超越性﹀もしくは︿絶対性﹀を明示しているが、. に述べている。 ここには犍陀多の苦悩、救いへの渇望とこれに応える. ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ に は そ う し た 明 確 な 言 質 は な く、 第 二 の 条 件 も. の点に関連しては、 ﹁コミュニケート︵対話︶﹂の欠如に注目 ︶ ﹁二人の関係の不成立﹂を指摘 し た 下 沢 勝 井 の 指 摘 ︵注 や ︶ ど も あ る が、 佐 藤 泰 正 ︵注 は ︶ す る 海 老 井 英 次 の 言 及 ︵注 な 22. 20. 先の引用を含む﹃因果の小車﹄の一節を引きつつ、次のよう. 21.
(11) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. ではなかろうか。. 糸﹂を読みとく難しさの一因は、そうしたところにもあるの. 不可解ともいうべき空所を内包しているのである。﹁蜘蛛の. ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ は そ も そ も 物 語 を 起 動 さ せ る 出 発 点 に お い て、. たまま物語を読みすすめなければならない。言い換えれば、. は生命なればなり、そも何をか称て地獄といふ、地獄と. の我執の窟宅に陥らん、そは我執の念は亡びにして真理. 思ふことあらんには、一縷の糸は忽ちに断滅して汝は旧. り、正道の福徳をして唯われのみの所有ならしめよ﹂と. ︵中略︶一たび我執の念に惹かれて﹁是は吾がものな. は我執の一名にして、涅槃は正道の生涯に外ならず. も っ て す れ ば、 ﹃因果の小車﹄における釈迦や犍陀多の発話. い さ さ か 不 思 議 に 思 え る の は、 芥 川 ほ ど の 作 家 的 力 量 を. ことばと﹁犍陀多の無慈悲な心﹂︵利己的な我執︶が﹁相当. 尋いて、のぼつて来た。下りろ。下りろ。﹂という犍陀多の. 人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に. 上掲の下線部をうけて、芥川は﹁三﹂章における﹁こら罪. や対話を巧みに活用し、二人の個性を際立たせることも可能. な 罰 を う け ﹂ た こ と を 描 い た に す ぎ な い。 つ ま り、 見 方 に. 四 因果応報譚の呪縛. だ っ た は ず で あ る。 に も か か わ ら ず、 芥 川 は 釈 迦 を 沈 黙 さ. よ っ て は、 ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ は、 原 典 の 単 な る 祖 述 で し か な い 作. なぜそのようなことになったのか。一つには先にも述べた. せ、犍陀多の積極的な意志を剥奪した。物語の基本的な枠組. 犍陀多がエゴイスティックな我執を露呈することばとその説. ように︿童話﹀ゆえの物語の単純化を心がけたこと、また、. とも見られかねぬ危うさをもっている。. 明的な︿徳目﹀だけである。たとえば、原典の後半には以下. 西欧的な︿純粋無垢﹀の﹁子供﹂のイメージにそぐわない仏. み を 別 と す れ ば 、 原 典 の 物 語 内 容 か ら わ ず か に 残 っ た の は、. のような一節があり、芥川は主としてその一部︵下線部︶を. 教的色彩の排除を意識しすぎたこと、などがその要因として. 逸話にとって、登場人物の個性︵キャラクター︶はさほど重. たとえば、因果応報譚といった物語構造のきわめて強固な. 上の問題も考えられないだろうか。. 考えられる。しかし、それらとは別に、次のような創作技法. 抽出し、物語のクライマックスに転用している。 此く細き糸もて無数の人々扶け上げ得べきかと、一念 疑の心動きたれば恐怖の思ひ禁ずる能はず﹁去れへ此糸 わがものなり﹂と覚えず絶叫したりしかば、糸は立刻に 断絶して其身はまた旧の奈落の底にぞ落ちたりける. −11−.
(12) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 語構造が読者に伝えようとするメッセージ︵徳目︶やその訴. そうした没個性化が行われても、因果応報譚という強固な物. らは主体性の乏しい受動的な存在に変貌している。しかし、. や犍陀多の発話や意志が原典から削除され、芥川作品では彼. 要な要素ではないのではないかという問題である。現に釈迦. はなかろうか。. ことも活用することもできないディレンマに陥っていたので. れゆえ、芥川は原典の物語に依拠しつつも、それを改変する. うとする︿童話﹀世界の論理からも逸脱することになる。そ. のが崩壊することになり、因果応報による︿徳目﹀を伝えよ. 求力にはあまり影響がないのではあるまいか。. 芥 川 は、 ﹃因果の小車﹄の逸話がもつ強固な物語構造に手. 五 ︿小説家﹀への傾斜. という単純明解な因果応報譚にとって、登場人物の個性や物. を焼いたばかりか、原典に見られる登場人物たちの主体性や. 実際のところ、エゴイスティックな我執が﹁罰をうけ﹂る. 語展開に多少の変化が加えられたとしても、その寓意性には. 家﹀は、ひとまず極楽や地獄といった物語空間を、具象的か. 躍動感および物語展開の合理性からも後退することになっ. も と も と 芥 川 は、 ﹁鼻﹂や﹁芋粥﹂などの王朝物に見られ. つ 鮮 や か な 視 覚 的 世 界 と し て 描 き 出 す こ と だ っ た。 た と え. さほどの差異は生じない。芥川が﹁蜘蛛の糸﹂執筆に際して. るように、今昔物語の簡素な説話的枠組みを利用しながら新. ば、以下の引用部分などは︿小説家﹀芥川が力をこめた情景. た。しかも、 ﹁語りの時制﹂︵過去形︶にも収まることができ. しい近代的解釈を加えることで自身の創作技法としてきた作. 描写の典型である。. 難渋したのは、︿童話﹀という年少の読者を対象とする初仕. 家であった。そのような作家にとって、因果応報譚の強固な. ︵ イ ︶ こ の 極 楽 の 蓮 池 の 下 は、 丁 度 地 獄 の 底 に 当 つ て 居 り ま. ないストレスは、結局のところ、近代的な︿小説家﹀として. 物語構造と明解なメッセージ性には、新たな解釈の入る余地. すから、水晶のやうな水を透き徹して、三途の河や針の. 事の不慣れさだけではなく、この強固な物語構造の揺るぎな. が乏しく、手慣れた創作技法が応用しにくい厄介な素材だっ. 山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るやうに、はつきりと見. の 本 領 へ と 彼 を 傾 斜 さ せ る こ と に な っ た。 彼 の 中 の︿ 小 説. たように思われる。たとえば、そこに従来のような近代的解. えるのでございます。︵一︶. さに対する困惑もあったのではなかろうか。. 釈を加えるとなれば、因果応報という非近代的な論理そのも. −12−.
(13) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. ら、月も星もない空の中途に、短く垂れてゐるばかりで. ︵ロ︶後には唯極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りなが. これはたとえば後年の﹁薮の中﹂︵大. クな我執の底知れぬ闇の深さを暗示する象徴的な表現だが、. 途に、短く垂れてゐる﹂蜘蛛の糸は、人間のエゴイスティッ. ・1﹁新潮﹂︶末尾で. ございます。︵二︶. まはりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金. しません。その玉のやうな白い花は、御釈迦様の御足の. ︵ ハ ︶ し か し 極 楽 の 蓮 池 の 蓮 は、 少 し も そ ん な 事 に は 頓 着 致. 望 や 浮 き 沈 み か ら 超 然 と し、 ﹁何とも云へない好い匂﹂を. には頓着﹂しない﹁極楽の蓮池の蓮﹂が、人間の浅ましい欲. る描写ではなかろうか。さらに、︵ハ︶の﹁少しもそんな事. 金沢武弘の死霊が永久に沈んでゆく﹁中有の闇﹂にも通底す. ﹁ 絶 間 な く あ た り へ ﹂ 放 っ て い る 様 子 に は、 表 向 き は 美 し い. 色の蕊からは、何とも云へない好い匂が、絶間なくあた りへ溢れて居ります。︵三︶. 修辞的表現にとどまらず、作家芥川の内的な心象風景をも無. いってよい。その真剣さゆえに、これらの情景描写は単なる. ︿小説家﹀としての本領を発揮しようとした結果だったと. こ ま ね く し か な か っ た 芥 川 が、 せ め て そ の 描 写 力 に お い て. 点 は む し ろ 天 国 や 地 獄 の 絵 画 的 な 描 写、 と り わ け 蜘 蛛 の. く、また釈迦の慈悲や犍陀多の人間性でもなかった。その力. なったのは、因果応報譚が発するメッセージ︵徳目︶ではな. 糸﹂の完成に苦闘しながら結果的にその力を傾注することに. このように見てくると、芥川が初めての︿童話﹀ ﹁蜘蛛の. 情景や甘い香りに包まれる極楽が、実はすべてが満たされす. 意識のうちに反映することとなった。たとえば︵イ︶の﹁地. ﹁糸﹂や極楽の蓮池の﹁蓮﹂などの点景に凝縮される心象風. 作品冒頭に描かれた極楽の様子をはじめ、上掲のような情. 獄 ﹂ を﹁ 水 晶 の や う な 水 を 透 き 徹 し て ﹂ ﹁覗き眼鏡を見る﹂. 景 に お か れ た よ う に 思 え る。 そ う し た 過 程 で、 ﹁蜘蛛の糸﹂. ぎて無聊をかこつだけの退屈きわまりない世界であるといっ. ように眺める構図は、むろん原典にない描写だが、芥川がし. 一編は、しだいに︿童話﹀という枠組みから乖離し、その主. 景描写は、原典の﹃因果の小車﹄にはまったく見られないも. ば し ば﹁ 地 獄 ﹂ と 称 し た︿ 世 間 ﹀ を 間 接 的 に︵ ﹁覗き眼鏡﹂. 役も我執に満ちた人間世界の無限の闇の中で細く光っている. たアイロニーを連想させる。. で︶眺めた芥川自身の傍観者的スタンスを思わせる。また、. ﹁糸﹂や、好い匂いを絶え間なくあたりへ溢れさせている極. のである。これらの情景描写は、強固な物語構造を前に手を. ︵ロ︶の﹁きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中. −13−. 11.
(14) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 楽の﹁蓮﹂そのものの方へと傾斜していったのではあるまい. ︶ い ︵注 。. ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ は、 明 暗 の 対 比 も 鮮 や か な 極 楽 と 地 獄 の 構 図. ︿童話﹀の領域をはるかに超えている。初めは︿童話﹀をめ. 子 供 た ち へ の メ ッ セ ー ジ と は 対 極 的 な 世 界 で あ り、 す で に. こうした作家の心象風景を内包する情景描写は、︿純﹀な. を描きつつも、物語は﹁丁度朝﹂を迎えた極楽の風景に始ま. ざ し、 子 供 た ち に 向 け て エ ゴ イ ス テ ィ ッ ク な 我 執 を 戒 め る. か。. り、同じく﹁午に近くなつた﹂極楽の風景で閉じられる。つ. メッセージを伝えようとした芥川だったが、テクスト自体の. 0. まり、犍陀多が蜘蛛の糸に必死に縋りつき、その糸が切れて. 文脈や時制に浸潤した近代作家︵小説家︶としての本性はし. 0. 再 び 地 獄 に 陥 落 し た と い う︿ 事 件 = ド ラ マ ﹀ な ど ま る で な. だいに抑え難く、やがて心象風景と重なる情景描写に力を注. 0. かったかのように、極楽は︿以前と変わらぬ﹀表情を浮かべ. ぐ結果となった。それと同時に、自作の第一の読者でもある. 0. ているのである。注目すべきは、きわめて短いテクストの中. 作者は、︿童話﹀としてのメッセージとは全く逆に、我執が. 0. 0. で、物語の始まり︵一︶と終わり︵三︶に全く同じセンテン. 決して超えられぬ人間の本質であることからも眼をそらすこ. 0. ス ﹁そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云へない好. とができなかった。﹁蜘蛛の糸﹂に対する評価が難しいのは、. 0. が記され. 0. い匂が、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。 ﹂. そのテクスト自体が︿童話﹀と︿小説﹀に引き裂かれ、作家. 0. ていることである。それは人間世界に何事が起ころうとも決. 自身も︿純﹀な童心への共感とリアルな人間の本性に対する. 0. して︿変わらぬ﹀極楽世界の本質を示しており、その︿変わ. 認識の間で揺れ続けていたからである。もっとも、こうした. 0. ら ぬ ﹀ 姿 は、 ﹁好い匂い﹂に包まれた極楽が実は人間の浅ま. ︿揺れ﹀は、 ﹁蜘蛛の糸﹂一編にかぎらず、芥川文学全体に通 0. ︶ 底するアポリアでもあるのだが⋮⋮ ︵注 。. し い 欲 望 や 悲 嘆 な ど に﹁ 少 し も ﹂ ﹁頓着﹂しない、人間の喜 0. 怒哀楽に全く心を動かされぬ非情な世界であることのしるし. で あ る。 一 見 駘 蕩 た る ユ ー ト ピ ア と 思 え る 極 楽 の 明 る い イ. ︵注1︶ 小島政二郎宛て書簡︵大7・5・. ︻注︼. えられぬ︿業﹀であることを逆照射する鏡であり、その仄暗. ︵注2︶ 小島政二郎宛て書簡︵大7・6・. メージは、人間の﹁我執﹂の抱え込む深い﹁闇﹂が決して超. い認識を非情に映し出す虚無的な明るさにほかならな. ︶参照。. 24. ︶参照。. 16. 18. −14−. 23.
(15) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. ・. ︵注 ︵注. ︵注. ・ 。. 示す材料かもしれない。 ︶﹁教育勅語﹂明. 10. ︶ 明 治 期 の 児 童 文 学︵ 御 伽 噺 ︶ を リ ー ド し た の は 巌 谷︵ 大. 23. ︵注3︶﹁蜘蛛の糸﹂をはじめ、 ﹁赤い鳥﹂誌上に発表された﹁犬と. ︶参照。 ・ 8︶ 参. ︵注. ︵注 ︵注. 11. ・7、博文館︶は、日清戦争. ・ 8︶ と い う 時 局 と リ ン ク し て い る。 し た が っ. ︶ 芥 川 の ほ か に も、 泉 鏡 花・ 小 山 内 薫・ 徳 田 秋 声・ 北 原 白. る。. て、桃太郎には﹁皇国の子﹂としてのイメージも重なってい. 開 戦︵ 明. て刊行された﹃桃太郎﹄︵明. 江︶小波だが、たとえば﹁日本昔噺﹂シリーズの第1編とし. 12. 笛 ﹂︵ 大 8・ 1︶ ﹁ 魔 術 ﹂︵ 大 9・ 1︶ ﹁ 杜 子 春 ﹂︵ 大 9・ 7︶. ︶参照。. ・8︶などが完成された. ・1、2︶のほか、 ﹁三つの宝﹂︵大. ・4︶ ﹁白﹂︵大. ﹁アグニの神﹂︵大 2︶ ﹁仙人﹂︵大 芥川の︿童話﹀である。. 、至文堂︶参照。. 号、. ・4、大月書店︶参照。. ︵注4︶﹁芥川氏の文学を評す﹂︵ ﹁中央公論﹂昭2・ ︵注5︶ 菅忠道﹃日本の児童文学﹄︵昭. ・4︶参照。 ・. ︵注6︶ 古 田 足 日﹁﹃ く も の 糸 ﹄ は 名 作 か ﹂︵ ﹁小さい仲間﹂. 照。 ・. はありますか﹄平4・9、みすず書房︶から連想した読みの 共 通 指 針 を﹁ ガ イ ド ラ イ ン ﹂ と 仮 称 し て み た が、 ﹁赤い鳥﹂ に発表された﹁蜘蛛の糸﹂には子供の︿純﹀性を涵養するた めという一定の﹁意図﹂が付与され、テクストの周辺にはそ うした共通認識が共有されていたように思われる。また、創. 27. 11 27. 刊時の﹁赤い鳥﹂が﹁会員﹂制の雑誌として出発したという ︵注. 秋・島崎藤村・森林太郎など、当時の文壇で名をなしている. 多くの作家名があげられている。なお、鈴木が他の作家たち. の名をかりて代作したケースもあったとされ、その場合はな. おいっそう﹁モットー﹂に忠実だったと考えられる。こうし. た﹁赤い鳥﹂創刊時の状況については続橋達雄﹃大正児童文. 学の世界﹄︵平8・2、おうふう︶などを参照した。. 、至文堂︶参照。. 御釈迦様の恣意性を中心に﹂︵ ﹁長崎県. ﹂︵ ﹁解釈と鑑賞﹂. ︶﹁﹃ 蜘 蛛 の 糸 ﹄ の 語 り 手 ﹂︵ ﹁芥川龍之介 3 ﹂ 平 6 ・ 2、 洋々社︶参照。 ︶ 前出︵注1︶に同じ。. ・. ︶﹁﹃ 蜘 蛛 の 糸 ﹄ ︿筆削﹀の意味 平. ︶﹁﹃蜘蛛の糸﹄論 . −15−. 昭 ︵注7︶ 小島政二郎﹁眼中の人﹂︵ ﹁新潮﹂昭. 11. ︵注8︶﹁ 芥 川 龍 之 介 の 児 童 文 学 ﹂︵ ﹁解釈と鑑賞﹂昭. 19. ︶ S.フィッシュの﹁解釈共同体﹂︵ ﹃このクラスにテクスト. ︵注9︶﹃鑑賞と批評﹄︵昭 ︵注. 11. 27. 11. 33. 32. 事情も一般の雑誌以上に︿共通認識﹀が濃厚であったことを. 11. 12 31. 10. 11. 10 37. 13. 14. 15. 16. 17. 10.
(16) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 立女子短期大学研究紀要. ﹂平4・. ︶参照。. ︶﹁﹃蜘蛛の糸﹄︿この蜘蛛の糸は己のものだぞ。下りろ。下. りろ。﹀﹂︵ ﹁芥川龍之介 3﹂平6・2︶参照。 ︶﹁蜘蛛の糸﹂の研究史は一面で原典の探索史でもあり、早. くは吉田精一の指摘によるドストエフスキー﹃カラマーゾフ. ・. の兄弟﹄第七篇第三﹁一本の葱﹂などが注目されたが、近年 は山口静一︵ ﹁﹃蜘蛛の糸﹄とその材源に関する覚書﹂昭. ︵注. ︶は﹁︿御釈迦様﹀の態度﹂に﹁虚無的で、デカダ. 胸中を吹き流れる虚無の﹂ ﹁ 一 片 の 象 徴 ﹂ を 見 、 石 割 氏︵ 前 掲、注. ンスの匂いさえも強く感じられなくもない﹂とする。だが、. ﹁ 虚 無 的 ﹂ な の は 何 事 に も﹁ 少 し も ﹂ ﹁ 頓 着 ﹂ し な い﹁ 蓮 ﹂. と、全く︿変わらぬ﹀非情な極楽世界の方だと考える。. ︶ た と え ば、 ﹁ 蜘 蛛 の 糸 ﹂ と 前 後 し て 執 筆 さ れ た﹁ 地 獄 変 ﹂. において、絵師良秀の画の完成に対する異常な執着︵芸術至. 上主義︶が、娘に対する父親としての情愛の前では必ずしも. ︵補注︶ 本論の趣旨からはやや外れるが、気になる点を一つ付け加. 堅固ではなかったように。. 、朝日出版社︶や片野達郎︵ ﹁芥川龍之. ﹂ ﹃比較文学研究芥. 8﹁ 成 城 文 芸 ﹂、 ﹁ 芥 川 龍 之 介 と ポ ー ル・ ケ ー ラ ス ﹃蜘蛛. ・. の糸﹄とその材源に関する覚書き再論 川龍之介﹄昭. えておきたい。それは極楽の蓮池の﹁蓮﹂が﹁少しもそんな. 、學燈社︶参照。. ・. ・2 ︶. 理の前には無力な一人だったといえる。もっとも、蓮の﹁少. 御歩きにな﹂るだけの御釈迦様もまた、 ﹁極楽﹂の非情な論. だけで慈悲の手を下すこともなく、蓮池の周囲を﹁ぶらぶら. うことになる。もしそうであれば、ただ﹁じつと見﹂つめる. ﹁蓮﹂は御釈迦様の存在や心情にも﹁頓着﹂しなかったとい. ﹁悲し﹂みや﹁思召﹂をさすともとれるわけで、だとすれば、. しも﹂ ﹁頓着﹂しない﹁そんな事﹂とは、直前の御釈迦様の. 後に続いていることである。形式文脈でいえば﹁蓮﹂が﹁少. しさうな御顔﹂や﹁浅間しく思召された﹂様子を描写した直. 事には頓着しません﹂︵三︶とある一行が、御釈迦様の﹁悲. ・1︶. 介﹃蜘蛛の糸﹄出典考﹂ ﹁東北大学教養部紀要7﹂昭. ・. ︶は虚空に切れた蜘蛛の糸に﹁作者の. ﹂︵ ﹁國文. ﹄︵昭. ・5、八木書店︶. 宗演校閲・鈴木貞太郎︵大拙︶訳述﹃因果の小車﹄︵明 9、長谷川書店︶で確定した。. 自己覚醒から解体へ . ︶﹁蜘蛛の糸﹂ ﹃芥川龍之介作品研究﹄︵昭. 参照。 ︶﹃芥川龍之介論攷 . 學﹂昭. ︶ 佐藤氏︵前出、注. 31. ︵注. 12. ︶﹁ 芥 川 龍 之 介 の 児 童 文 学 ﹃蜘蛛の糸﹄小論 . 参照。. 44. −16−. 32. 18. 40. らの調査によって、ポール・ケーラス著﹃カルマ﹄所収、釋. 43. 63. ︵注. ︵注. 53. 12. ︵注. ︵注. ︵注. 11 22. 46. 24. 18 19 20 21 22 23.
(17) 「蜘蛛の糸」管見 童話と小説の間 中田. しも﹂ ﹁ 頓 着 ﹂ し な い 様 子 が 御 釈 迦 様 の﹁ 悲 し さ う な 御 顔 ﹂ や﹁浅間しく思召された﹂反応との︿対比﹀を意味するので あれば、上記の解釈は成り立たないが⋮⋮。. −17−.
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