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ロリニャルから世界へ : カナダ東部におけるベーツ院長関係地訪問

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ロリニャルから世界へ : カナダ東部におけるベー

ツ院長関係地訪問

著者

池田 裕子

雑誌名

関西学院史紀要

19

ページ

105-153

発行年

2013-03-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/10558

(2)

Ⅰ  はじめに Ⅱ  幼少 ・ 少年時代のベーツ資料 Ⅲ  カナ ダ への旅立ち Ⅳ  モントリオールにて   1  故郷ロリニャルとヒル    ︵ 1 ︶ロリニャル    ︵ 2 ︶ヴァンクリーク・ヒル   2  ベーツ家の故郷    ︵ 1 ︶イーストン・コーナー    ︵ 2 ︶ウォルフォード墓地   3  母校マギル大学    ︵ 1 ︶マギル大学アーカイブズ

ニャルから世界へ

カナ

東部におけるベーツ院長関係地訪問

池田

裕子

(3)

  

︶マクドナルド

・ カレッジと

Mastery for Service”

  4  アルマンさんとチャールズさん   5  彫刻家齋藤智さん Ⅴ  トロントにて Ⅵ  おわりに 【地 図(1)

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Ⅰ  はじめに   広報誌﹃ K.G. TODAY ﹄に﹁ベーツ先生の原点﹂というタイトルで C ・ J ・ L ・ベーツ第四代 院長︵一八七七∼一九六三、院長在任一九二〇∼四〇︶の少年時代のエピソードを紹介したこと が あ る 。 そ の 時、 ベ ー ツ の 故 郷 L Orignal を ど う カ ナ 表 記 す べ き か 迷 っ た。 学 院 史 編 纂 室 所 蔵 の 日本語履歴書に次のように記載されていたからであ る 。    原籍   加奈陀オンタリオ州プレスコツト郡リオーリナル村    現住所   兵庫縣武庫郡西灘村原田関西學院構内     外 国 の 固 有 名 詞 を カ ナ 表 記 す る 場 合、 戦 前 の 宣 教 師 名 に つ い て は、 現 在 の 感 覚 か ら は 多 少 違 和感を覚えても、既に定着している表記を用いた方が混乱は少ない。では、地名はどうだろうか。 地 名 は 現 在 の 一 般 的 表 記 に 合 わ せ る の が 親 切 で あ ろ う。 し か し、 L Orignal と い う 地 名 は、 現 在 に限らず、ベーツ在職中の関西学院においても一般的だったとは思えない。   フ ラ ン ス 語 な ら、 L Orignal は﹁ ロ リ ニ ャ ル ﹂ と す る の が 適 切 だ と 思 わ れ た。 し か し、 カ ナ ダ の地名なので特殊な発音がされている可能性がある。そこで、東京のカナ ダ 大使館広報部に問い 合 わ せ て み た。 ﹁ 残 念 な が ら 大 使 館 で ご 案 内 で き ま す 定 訳 は ご ざ い ま せ ん。 ご 使 用 者 の 判 断 に て 適当な訳語をご 使用ください ﹂ 。六日後に 受け取った回答を見て、それなら﹁ロリニャル﹂と表 記 し よ う と 思 っ た。 さ ら に 念 の た め、 モ ン ト リ オ ー ル 在 住 の ア ル マ ン・ デ メ ス ト ラ ル︵ Armand

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de Mestral ︶さ ん に確認した。 ﹁お祖父様の故郷 L Orignal を日本語表記したいので、正しい発音 を 教 え て く だ さ い。 Lo-ri-nyal で 間 違 い あ り ま せ ん か ﹂。 ﹁ 全 く そ の 通 り。 こ の 地 名 は フ ラ ン ス 語でムースの意味です﹂ 。ようやく私は過去の表記にとらわれることなく、 自信を持って ﹁ロリニャ ル﹂と書くことができるようになっ た 。   で は、 そ れ は ど の よ う な 村 だ っ た の か。 ﹁ ベ ー ツ 先 生 の 原 点 ﹂ と 題 し て こ の 村 の こ と を 紹 介 し て お き な が ら、 ﹁ ロ リ ニ ャ ル ﹂ は 私 に と っ て 想 像 の 世 界 だ っ た。 関 西 学 院 関 係 者 で ベ ー ツ の 故 郷 を訪問したという話は聞いたことがなかったし、そのような記録も見当たらない。私は自分の足 で二一世紀のロリニャルを訪ねてみようと思った。少年時代のベーツが歩いた道を歩き、オタワ 川を眺め、同じ空気を吸う。それがベーツ理解の一歩につながるように思われた。目の前を流れ るオタワ川は、ベーツ少年にとって未だ見ぬ世界への入口だったはずだ。私はモントリオールと ト ロ ン ト を 基 点 に 関 係 地 を 巡 る 計 画︵ 二 〇 一 二 年 八 月 二 三 日 か ら 九 月 四 日 ま で の 一 一 泊 一 三 日 ︶ を練った。   旅立ちの前に、故郷でのベーツの様子を示す資料を振り返っておこう。 Ⅱ  幼少・少年時代のベーツ資料   ベ ー ツ の 幼 少・ 少 年 時 代 の 資 料 は 数 少 な い。 限 ら れ た 資 料 を 使 っ て 広 報 誌﹃ K. G. TODAY ﹄ に書いたのが﹁ベーツ先生の原点﹂である。

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   ◆ベーツ先生の原点 関 西 学 院 は、 一 八 八 九 年 に ア メ リ カ の 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 に よ っ て 創 立 さ れ た 小 さ な 学 校 で し た。 発 展 の き っ か け は、 一 九 一 〇 年 の カ ナ ダ ・ メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 経 営 参 加 で す。 し か し、 こ れ は 同 時 に 、 南 メ ソ ヂ ス ト 派、 カ ナ ダ ・ メ ソ ヂ ス ト 派 と い う 対 立 関 係 を 常 に 抱 え 込 む こ と で も あ り ま し た。 こ の 勢 力 争 い や 確 執 を バ ラ ン ス よ く 治 め る こ と に 能 力 を 発 揮 し た の が、 第 四 代 院 長 を 務 め た カ ナ ダ 人 宣 教 師 C ・ J ・ L ・ ベ ー ツ で す。 ベ ー ツ の 見 事 な 調 整 能 力 は、 少年時代を過ごした故郷ロリニャルで培われたようです。 ロリニャルは、 カナ ダ の首都オタワとモントリオールのちょうど真ん中に 位置する人口千 人 程 の 小 さ な 村 で、 住 民 の 四 分 の 三 は フ ラ ン ス 語 を 話 し ま し た。 当 時、 こ の 地 域 は フ ラ ン ス 語 人 口 が 増 加 し つ つ あ っ た の で す。 村 に は、 大 き な カ ト リ ッ ク 教 会 と 三 つ の 小 さ な プ ロ テ ス タ ン ト 教 会 が あ り ま し た。 少 年 時 代 の ベ ー ツ は、 日 曜 の 朝 は 長 老 派、 午 後 は 英 国 国 教 会、 夕 方 は メ ソ ヂ ス ト 教 会 に 通 っ て い ま し た。 こ の 三 つ の 異 な る 教 会 で の 祈 り、 礼 拝、 賛 美 の 経 験 が、自分のライフワークの原点だったと晩年のベーツは振り返っています。 村人たちは、 自分の文化と言葉と教会こそが一番だと信じていました。と同時に 、 寛容な 精 神 と 善 意 と 互 い を 敬 う 気 持 ち に よ り、 様 々 な 問 題 を 友 好 的 に 解 決 す る 術 を 身 に つ け て い ま し た。 で す か ら、 ベ ー ツ た ち が 小 さ な メ ソ ヂ ス ト 教 会 を 建 て た 時、 カ ト リ ッ ク の 神 父 か ら さ え も 援 助 を 受 け る こ と が で き た の で す。 教 会 の 女 性 が 献 金 を 求 め に 行 く と、 ベ ル ベ 神 父 は 優 し く 笑 い な が ら こ う 言 っ て 四 ド ル を 差 し 出 し ま し た。 ﹁ プ ロ テ ス タ ン ト の 教 会 を 建 て る の に 差 し 上 げ ら れ る も の は 何 も な い け れ ど、 敷 地 内 の 古 い 建 物 を 取 り 壊 せ ば 何 か お 渡 し で き る で

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しょう﹂ 。   この短文が生まれた背景には、私がそれまでに目を通してきた様々なベーツ関係の文献や書簡 や写真の積み重ねがある。しかし、直接的に用いた資料は次の二点である。   ・西川玉之助﹁古い時代の関西学院﹂ ﹃関西学院六十年史﹄ 、一九四九年。   ・ C. J. L. Bates,

The Sixty Years in the Ministry

﹃関西学院七十年史﹄ 、一九五九年。   また、 ベーツの少年時代については、 ﹁故郷ロリニャルの C ・ J ・ L ・ ベーツ﹂ と題する一文を ﹃学 院史編纂室便り﹄ 第三一号 ︵二〇一〇年五月一五日︶ に書いた。その中に、 広報誌で紹介できなかっ たベーツの原点をさらにいくつか紹介した。すなわち、家族関係、生涯の伴侶との出会い、自宅 から高校に向かう途中で受けた啓示についてである。その時参考にしたのは、前記以外に次の資 料であった︵地図、百科事典等を除く︶ 。   ・ Bates Diaries , 1935-1942 .   ・ Robert Bates, Ne wcomer s in a Ne w Land , private edition, 1988.   ・

Letter of April 6, 1920, from C. J. L. Bates to Dr. Endicott, U

CC Archives.

Letter of Nov. 13, 1956, from C. J. L. Bates to Armand de Mestr

al

.

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  最後のものは、 一五歳の誕生日を迎える孫息子︵娘ルル︿ Lulu ﹀の長男アルマン︶に自分の高 校時代の想い出を語った大変興味深い書簡である。ロリニャルには高校がなかったので、ベーツ は 一 五 キ ロ ほ ど 離 れ た ヴ ァ ン ク リ ー ク・ ヒ ル︵ Vankleek Hill ︶ に 下 宿 し た。 し た が っ て、 故 郷 調査はロリニャルだけでなく、高校時代を過ごしたヴァンクリーク・ヒルも対象にすべきだろう。 こ の 書 簡 に つ い て は、 ﹃ 学 院 史 編 纂 室 便 り ﹄ 第 一 二 号︵ 二 〇 〇 〇 年 一 二 月 一 日 ︶ で 日 本 語 訳 を 紹 介しているが、ベーツの原点を伝える数少ない貴重な資料なので、一部修正の上ここに再掲する。      ◆ベーツから孫息子への手紙     アルマンへ     誕生日が巡り、おまえは一五歳、ちょうど十代の真ん中になったね。お祖父ち ゃ んの一五 歳の誕生日は、 はるか昔のことのようだ。 あれからいろんなことがあった。 その頃お祖父ち ゃ ん は オ ン タ リ オ 州 の ヴ ァ ン ク リ ー ク・ ヒ ル 高 校 に 通 っ て い た。 お 祖 母 ち ゃ ん も そ う だ っ た。 お 祖 父 ち ゃ ん た ち の 家 は オ タ ワ 川 の ロ リ ニ ャ ル に あ っ て、 毎 週 月 曜 日 の 朝、 ﹁ ヒ ル ﹂ と 呼 ん でいたヴァンクリーク ・ ヒルまで馬車で行き、 金曜日に なると家に 戻った。月曜から金曜まで、 お 祖 父 ち ゃ ん は ツ ィ ー ド 夫 人 の 所 に 下 宿 し て い た ん だ。 普 段 は お 祖 父 ち ゃ ん の お 父 さ ん が 馬 車 で 連 れ て 行 っ て く れ た け れ ど、 時 に は メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 牧 師 さ ん が 連 れ て 行 っ て く だ さ る こ と も あ っ た。 牧 師 さ ん は ヴ ァ ン ク リ ー ク・ ヒ ル に 住 ん で お ら れ た が、 日 曜 の 夕 拝 に 来 ら れ て、 お 祖 父 ち ゃ ん の 家 に 泊 ま り、 月 曜 の 朝、 お 祖 父 ち ゃ ん を 学 校 ま で 送 っ て く だ さ っ た ん だ。 イ ギ リ ス 人 だ が ア イ ル ラ ン ド 系 の 名 前 の リ チ ャ ー ド ソ ン・ ケ リ ー 先 生 が 送 っ て く だ さ っ た こ

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と が あ っ た。 途 中、 先 生 は お 祖 父 ち ゃ ん の 方 を 向 い て こ う 言 わ れ た。 ﹁ ジ ョ ン、 君 は キ リ ス ト 教 徒 で す か?﹂ 。 お 祖 父 ち ゃ ん は 答 え た。 ﹁ は い、 そ う あ ろ う と 努 め て い ま す ﹂。 そ れ を 聞 い た 先 生 は お っ し ゃ っ た。 ﹁ そ れ は 努 力 す べ き こ と じ ゃ な い。 信 じ る こ と だ よ ﹂。 お 祖 父 ち ゃ ん は そ の 瞬 間 を 忘 れ た こ と が な い。 そ れ は 啓 示 を 受 け た 瞬 間 だ っ た。 新 た な 悟 り の 瞬 間 で あ り、 新 た な 生 の 瞬 間 だ っ た。 キ リ ス ト 教 徒 と し て 生 き る こ と は 泳 ぎ を 覚 え る こ と に 似 て い る。 水の中に浮ぶことを覚えれ ば いい。信じて従え ば 簡単なことだ。     お祖父ち ゃ んのお父さんは九マイルを一時間で走るいい馬を持っていた。それは六五年前 と し て は 素 晴 ら し か っ た。 し か し、 今 と な っ て は そ ん な こ と は 何 で も な い。 ロ ン ド ン ― エ ジ ンバラ間の急行は一時間に六〇マイルも走るのだから。今や飛行機は音速より速い。     ところで、スエズ問題やハンガリーをどう思いますか?   お祖父ち ゃ んたちは毎日、テレ ビで話し合われるのを見たり、国連の演説を聴いたりしています。     それでは今回はこの辺で。お祖父ち ゃ んたちは元気です。      一九五六年一一月一三日           ベーツお祖父ち ゃ んとお祖母ち ゃ んより、愛を込めて         トロント         ロイヤル・ヨーク・ロード四二番地

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Ⅲ  カナダへの旅立ち   二〇一二年八月二三日、私はエアカナ ダ の成田発トロント行き直行便の機中にいた。飛行機は 日本列島を北上し、ベーリング海を越え、一二時間後にトロントに到着する。トロントで国内線 に乗り継ぐと、約七〇分でモントリオールだ。そこからロリニャルまでは車で二時間弱と聞いて いた。機内で私は、カナ ダ ・メソ ヂ スト教会宣教師としてベーツが一一〇年前に来日した時のこ とを考えてい た 。     当時二五歳のベーツは、バンクーバーからエンプレス・オブ・インディア号に乗船し、太平洋 を横断した。船では、毎朝航行の無事を祈って次の讃美歌 が歌われたそうである。    涯しも知られぬ   青海原をも    奇しき御手もて   造りし御神よ、    波路ゆく友を   安く守りませ。   ベ ー ツ は 新 妻 ハ テ ィ を 伴 っ て い た。 一 九 〇 二 年 二 月、 ト ロ ン ト の マ ッ セ イ・ ホ ー ル︵ Massey Hall ︶ で 行 わ れ た 学 生 ボ ラ ン テ ィ ア 大 会 に 参 加 し た ベ ー ツ は、 ジ ョ ン・ モ ッ ト︵ John R. Mott ︶ が読み上げた中国からの電文﹁北中国は呼んでいる。隙間を埋めよ﹂に立ち上がったのだ。中国 では義和団事件により、二五〇人の宣教師と数千人の中国人信徒が殺されていた。その時、ベー ツは自分の心に次の歌 詞 が流れるのを初めて聞いたと言う。

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   正義の君なる   神の御子の    血にそむ御旗に   つづくは誰ぞ。    悩みのさかずき   おおしく受け、    十字架を負う者   その人なり。   中 国 伝 道 を 志 願 し た ベ ー ツ は 日 本 に 派 遣 さ れ る こ と に な り、 婚 約 中 の ハ テ ィ︵ Hattie, Harriet Edna Philp ︶ に 手 紙 で 自 ら の 決 意 を 告 げ た。 ﹁ 私 は あ な た と 一 緒 に 参 り ま す。 そ れ だ け が 私 の 望 み で す ﹂。 最 愛 の 女 性 か ら も ら っ た こ の 返 事 に、 ド ー チ ェ ス タ ー 通 り メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 牧 師 を し な が ら ウ ェ ス レ ア ン 神 学 校 で 学 ん で い た ベ ー ツ は 勇 気 百 倍 の 思 い で あ っ た ろ う。 し か し、 娘 の 決 心 を 聞 か さ れ た 牧 師 で あ る 父 親 は、 寝 室 に 引 き こ も っ た ま ま 三 日 間 起 き 上 が れ な か っ た そ う だ 。   一 九 〇 二 年 八 月 六 日、 オ ン タ リ オ 州 モ ー リ ス バ ー グ ︵ Morrisburg ︶ の メ ソ ヂ ス ト 教 会 で、 ハ テ ィ の 父 ウ ィ リ ア ム ︵ William Philp ︶ の司式により二人は結 ば れた。それか ら、 新婚夫婦はバンクーバーに向け出発したのである。途 中ウィニペグで開催中の総会に出席し、 日本メソ ヂ スト教 会初の日本人年会長平岩愃保に会ってい る 。 平岩はベーツ 結婚式−1902年8月6日−(『ベーツアルバム』より)

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にとって初の日本人知己となった。ベーツが日本語を最初に学んだのも平岩からであった。   今回、 モントリオールでは、 前項で紹介した孫息子アルマン ・ デメストラルさんとその弟チャー ル ズ・ デ メ ス ト ラ ル︵ Charles de Mestral ︶ さ ん が 私 を 迎 え、 故 郷 で の 調 査 に 協 力 く だ さ る こ と になっていた。 Ⅳ  モントリオールにて   1  故郷ロリニャルとヒル   ︵ 1 ︶ロリニャル   チャールズさん運転の車で、モントリオールを出発したのは八月二七日午前一〇時だった。約 九〇分後、オタワ川の北岸を走る一四八号線を西進している時、チャールズさんは私にこうおっ し ゃ っ た。 ﹁ こ の 辺 り の 対 岸 が ロ リ ニ ャ ル だ ﹂。 オ タ ワ 川 は ケ ベ ッ ク 州 と オ ン タ リ オ 州 の 州 境 を 流れている。私に船でオタワ川を渡る体験をさせるため、 チャールズさんは 遠回りしてくださっ た の だ。 ベ ー ツ の 幼 少 時 代、 ロ リ ニ ャ ル か ら 船 で 川 を 渡 っ て ケ ベ ッ ク 州 カ ル メ︵ Calumet ︶ に 出 て、そこから鉄道を利用するのが最も便利な方法であっ た 。今はもう、その渡し舟はない。そこ で、 春から秋まで運行されているケベック州ファセット ︵ Fassett ︶と対岸のオンタリオ州ルフェー ブ ル︵ Lefaivre ︶ を 結 ぶ 渡 し 舟︵ フ ェ リ ー︶ を 利 用 す る プ ラ ン を 立 て て く だ さ っ た。 冬 は 川 が 凍 るから船は必要ないそうだ。わずか四分の乗船で対岸に渡った私たちがロリニャル村の入口に辿 り着いたのはちょうど正午であった。

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  村 の 中 心 部 で 車 を 止 め 、 辺 り を 歩 い た 。 本 当 に 小 さ な 村 だ っ た 。﹁ 一 三 〇 年 前 、 こ の 道 を ベ ー ツ 少 年 が 歩 い て い た ﹂ と 思 う と 、 感 無 量 で あ っ た 。 古 い 家 を 見 る と ﹁ 一 九 世 紀 の 建 物 か し ら ﹂ と 考 え 、 大 き な 木 の 前 で は ﹁ ベ ー ツ 先 生 の 時 代 には 小 さ な 苗 木 だ っ た だ ろ う ﹂ と 思 っ た 。 L O rig na l のカナ表記に疑問を抱いてから一〇年以上が経っていた。ベーツの故郷で﹁ロリニャル﹂と発音 されるのを私はやっと自分の耳で確かめることがきるのだ。中心部で目に留まったのは二つの古 い教会︵長老派と英国国教会。どちらも現在は使われていない︶と刑務所だった。この刑務所は オンタリオ州最古のもので、一九九八年まで実際に使われていた。   現在は旧刑務所 ︵

LOrignal Old Jail

︶として公開されている場所で、 歴史協会のルイーズ ︵ Louise Bédard ︶ さ ん に お 目 に か か っ た。 ル イ ー ズ さ ん は ロ リ ニ ャ ル の 歴 史 を ま と め た 労 作 L’ Orignal-Longueuil を 二 〇 一 一 年 に 出 版 さ れ て い る。 中 に は ロ リ ニ ャ ル で 暮 ら し て い た 人 々 の こ と が 書 か れ て い る。 ﹁ バ イ リ ン ガ ル の 本です﹂ とおっ し ゃ っ た の で、 英 語 で 読 む こ と が で き る と 安 心 し た が 、 手 に と っ て み る と ﹁ バ イ リ ン ガ ル ﹂ の 意 味 は 、 フ ラ ロリニャルの旧刑務所 ルイーズさんとその労作

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ン ス 系 住 民 の こ と は フ ラ ン ス 語 で 、 英 国 系 住 民 の こ と は 英 語 で 執 筆 し た と い う 意 味 で あ っ た。 こ の方針自体、実にロリニャルらしい。      本に はベーツ家の情報も掲載されてい た 。ルイーズさんがベーツ家のことを調べておられた時、 長 男 が 二 〇 世 紀 初 頭 に 日 本 に 行 っ た こ と に 気 付 き、 ﹁ そ ん な 昔 に こ ん な 小 さ な 村 か ら は る ば る 日 本に ? !﹂と驚嘆されたそうだ。   ルイーズさんは 、ベーツが通っていたと思われる学校が描かれた絵や昔の波止場や渡し舟の写 真を見せてくださった 。またベーツ家の自宅と会社があったと推測される場所を教えてくださっ た 。 そ れ は 、 マ ー ス ト ン 通 り と 波 止 場 通 り の 角 だ っ た 。 現 在 は 空 き 地 に な っ て い る 。 ベ ー ツ の 父 レ ヴ ァ ー ︵ Jo se ph L ev er B ate s ︶ は 、 弟 ナ サ ニ エ ル ︵ N ath an iel B ate s, Jr. ︶ と 協 力 し て 八 ∼ 一 五 人 の 従 業 員 を 抱 え 、 大 理 石 と 御 影 石 を 扱 う 商 売 を し て い た 。 所 謂 デ ィ ー ラ ー で あ り 、 モ ニ ュ メ ン ト ・ メ ー カ ー で あ る 。 前 述 の 労 作 に は 、﹁︹ J ・ L ・ ベ ー ツ は ︺ 最 近 、 バ ー モ ン ト 州 の 名 の 通 っ た 丁 場 ︹ 採 石 場 ︺ か ら 大 量 の 大 理 石 を 大 幅 な 値 引 き 価 格 で 購 入 し た ﹂ と い う Th e P re sc ott a nd R us se ll A dv oc ate , V ol. 1, N o. 1, M ay 2 6, 18 88 記 事 も 紹 介 さ れ て い る 。 原 石 の 大 量 一 括 購 入 と 自 社 加 工に よ り 、 中 間 マ ー ジ ン を 省 い て い た と 推 測 さ れ る 。 波 止 場 の す ぐ そ ば は 、 商 売 上 、 最 高 の 立 地 で あ っ た こ と だ ろ う 。   ル イ ー ズ さ ん は ﹁ ロ リ ニ ャ ル ﹂ と い う 地 名 に つ い て こ う お っ し ゃ っ た 。 ﹁ あ ん ま り 小 さ な 村 な の で 、 オ ン タ リ オ 州 は 英 語 の 名 前 を 付 け 忘 れ た の で し ょ う ね ﹂。 ロ ー レ ン シ ャ ン 高 原 (L au ren tia n) の す ぐ 南 に 位 置 す る ロ リ ニ ャ ル で は 、 四 季 折 々 に 素 晴 ら し い 景 色 を 堪 能 す る こ と が で き る そ う だ。  ベーツの生家があったと   思われる角       

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  ︵ 2 ︶ ヴ ァ ン ク リ ー ク・ ヒル   ロリニャルからヴァンク リ ー ク ・ ヒ ル へ の ド ラ イ ブ は、ルイーズさんが先導し てくださったこともあって スムーズだった。 道中、 ベー ツが啓示を受けたことを振 り返る間もないほどであっ た。 大 き な 墓 地 が 見 え た。 ルイーズさんによると、古

The Bates Home(『ベーツアルバム』より)

現在の家の外観 い 墓 石 の 多 く は 、 ベ ー ツ の 父 親 の 会 社 に よ る も の だ そ う で あ る 。 私 た ち は わ ず か 一 五 分 で ﹁ ヒ ル ﹂ に到着した。今ならベーツは下宿する必要もない。   ロ リ ニ ャ ル に 比 べ、 ヒ ル は は る か に 街 だ っ た 。 メ イ ン ス ト リ ー ト の 両 側 に 一 九 世 紀 の 古 い レ ン ガ造りの建物が残っていた。いずれもソフトな色合いが特徴の赤レンガで、それがこの街の特徴 だった。かつては、街にレンガ工場が四つもあったらしい。   ヒ ル に 関 し て 私 が 最 も 気 に な っ て い た の は、 一 九 九 九 年 に モ ン ト リ オ ー ル を 訪 問 し た 時、 ア ルマンさん宅で見つけた写真である。 ﹃ベーツアルバム﹄に貼られていた一枚で、 THE BATES HOME VANKLEEK HILL の 文 字 が あ っ た。 前 列 右 端 は ベ ー ツ の 父 親、 中 央 の 女 性 は 母 親、 少

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年はベーツの下の弟チャールズである。ベーツの家はロリ ニャルだったはずだ。ヒルの家とはどういう意味だろうか。   今 回 の 訪 問 を 前 に こ の 疑 問 を ア ル マ ン さ ん に ぶ つ け た と こ ろ、 ヴ ァ ン ク リ ー ク・ ヒ ル 博 物 館︵ Musée Vankleek Hill Museum ︶ に 問 い 合 わ せ て く だ さ っ た。 す る と、 夏 の 間 博 物 館 を 手 伝 っ て お ら れ た ア ン ジ ー︵ Angie Renwick ︶ さんが、写真を手に街を歩き、家を見つけ出してくださっ たのだ。そして、ベーツ家がヒルにショウルームを持って いたこ とを教えてくだ さっ た 。おか げで、私は実際に この 家を確認することができたのである。家は現在マーテル社 ︵ Martel & Sons Inc. ︶の所有となっていた。この会社こそ、 ベーツの父親が営んでいた商売の現在の姿なのである。そ のことは、 ミッシェル ︵ Michelle Landriault ︶ さんが現オー ナーのお一人アンドレ ・ マーテル︵ André Martel ︶さんに事前に問い合わせ、確認してくださっ てい た 。マーテル家はアメリカ合衆国バーモント州からやって来て、ヒルに ベーツ家が持ってい た家と会社を購入したそうだ。あいにく、アンドレさんは石の買い付けのため中国に行っておら れて不在だったが、会社の中に入らせていただくことができた。従業員の方々は会社とベーツ家 の関係についてご存知なかったが、ベーツの父親の事業が発展し、今も続いていることを知った 私は大変嬉しく思っ た 。 ヴァンクリーク・ヒルのマーテル社

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  ﹁ 一 体、 何 が あ っ た の ?!   ど う し て 今 日 は 皆、 英 語 を 話 し て い る の ?!﹂。 席 を 外 し て い た 女 性 スタッフが戻って来て、私たちの会話の様子に驚かれた。やはり、ここもフランス語圏だったよ うだ。 ﹁ごめんなさい。私のせいです。私はフランス語ができないのです﹂ 。やっとの思いでそう 答えると、 ﹁あら、 できるじ ゃ ない。でも、 いいのよ。英語で全然構わないのよ。ただ驚いただけ﹂ と笑顔を返してくださった。   最後に、博物館に寄って、ミッシェルさんにお会いした。アルマンさんもモントリオールから 駆 け つ け、 合 流 さ れ た。 ﹁ お 祖 父 様 は バ ス ケ ッ ト ・ チ ル ド レ ン と 呼 ば れ て い た の よ ﹂。 ミ ッ シ ェ ル さんはそうおっし ゃ った。ヒルの街の高校には、近隣の村から下宿して通う生徒がベーツ以外に も い た。 そ ん な 子 ど も た ち の 親 は、 金 曜 の 午 後、 ヒ ル で 買 い 物 を 済 ま せ る と 子 ど も を 迎 え に 行 き、 た く さ ん の 荷 物 と 子 ど も を 馬 車 に 乗 せ、 家 に 帰 っ た。 子 ど も た ちは週末を家族と過ごし、 月曜日の朝、 バスケットいっ ぱ い の 食 べ 物 と 共 に 馬 車 で ヒ ル ま で 送 ら れ て 来 た の だ。 ま さ に 、 ベ ー ツ が 書 い た 通 り で あ る。 先 の 写 真 の The Bates Home の 向 か い は 食 料 品 店 で、 そ こ の 二 階 に 何 人 か の 子 ど も が 下 宿 し て い た と ミ ッ シ ェ ル さ ん は 教 え て く だ さ っ た。 ベ ー ツ 書 簡 に あ る ツ ィ ー ド 夫 人︵ Mrs. Tweed ︶の家とはそこであったのかも知れない。   こ の 他 に も、 日 曜 日 の 午 後、 ベ ー ツ の 父 親 が 様 々 な ヴァンクリーク・ヒル博物館にて 左より:チャールズさん、ミッシェルさん、     アルマンさん        

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種類のモニュメントの見本を展示し、教会帰りの人々を相手 に商売することもあったと教えてくださった。会社は石の輸 入と加工を行っていた。御影石はケベック州ビービ ︵ Beebe ︶ から、大理石はアメリカ合衆国バーモント州から仕入れてい たそうだ。採石人から直接石を仕入れ、その加工技術は州で 一番との評判を得てい た 。   ベーツが通っていた高校はもはや残っていなかったが、博 物館で写真を見せていただいた。教会はヒルに五つあったそ うだ。帰途、 ハドソン︵ Hudson ︶の街を通った。夏にコテー ジを借りて、娘の家族と過ごしていた場所だそうだ。ベーツ

Summer Cottage at Hudson, watercolor by C. J. L. Bates はコテージのスケッチを残してい る 。   後 日、 ベ ー ツ 家 の 故 郷 を 訪 ね た 帰 り、 高 速 道 路 を 降 り て 再 び ヒ ル に 立 ち 寄 り 小 休 憩 を と っ た。 その時、妻ハティの父親が牧師を務めていた旧メソ ヂ スト教会にも立ち寄っ た 。 2  ベーツ家の故郷   ︵ 1 ︶イーストン・コーナー   ベ ー ツ の 祖 父 ナ サ ニ エ ル︵ Nathaniel Bates ︶ が ア イ ル ラ ン ド か ら カ ナ ダ に 移 住 し た の は 一 八 二 七 年 の こ と で あ る。 オ ン タ リ オ 州 イ ー ス ト ン・ コ ー ナ ー︵ Easton s Corners ︶ に 落 ち 着 い てからは、一八九五年に亡くなるまで、ほとんどそこから動くことなく暮らしたとベーツは語っ

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てい る 。ベーツの父は一八五一年に イースト ン・コーナーで 生まれた。   モントリオールからイーストン・コーナーまでは約三百キ ロの距離があ る 。そこを日帰りで訪れるのだ。かなりの強行 軍である。八月三〇日午前七時半過ぎ、チャールズさんがア ルマンさんの家に来られた。一時間後、アルマンさんの運転 で私たち三人は出発した。   一〇時半、モーリスバーグ通過。ベーツが挙式した街であ る。そのことは、アルマンさんもチャールズさんも初耳のよ う だ っ た。 一 一 時 に ノ ー ス・ オ ー ガ ス タ︵ North Augusta ︶ で三〇分ほど休憩を取った。リドー運河に程近い、イースト ン・コーナーに到着したのは正午近くになっていた。   イ ー ス ト ン・ コ ー ナ ー は ロ リ ニ ャ ル よ り さ ら に 小 さ な 村 だ っ た。 周 囲 は 農 場 に 囲 ま れ て お り、 数 軒 の 家 が あ っ た。 中 心 部 に 広 場 が あ っ て 古 い メ ソ ヂ ス ト 教 会 と 学 校 が 建 っ て い た。 ど ち ら も 一八七〇年代の建築だった。六〇年以上にわたり地元のメソ ヂ スト教会で奉仕を続け、熱心な説 教者として知られた祖父ナサニエルにとって、大切な場所である。ベーツ自身、何度か祖父母の 家を訪ね、近くに 住む親戚と交流していたはず だ 。 ナサニエルの家や農場がどの辺りに あったか などは、メリックヴィル︵ Merrickville ︶の歴史協会で情報を得ることができるだろう。 イーストン・コーナー中心部

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  ︵ 2 ︶ウォルフォード墓地   ベ ー ツ が 眠 る ウ ォ ル フ ォ ー ド 墓 地︵ Wolford Cemetery ︶ はイーストン・コーナーから車で一〇分程の所にあった。今 回、私が墓地を訪ねたいと連絡していたため、アルマンさん と チ ャ ー ル ズ さ ん の 弟 ロ バ ー ト︵ Robert de Mestral ︶ さ ん が事前に墓地を訪れ、掃除してくださった。ロバートさんは オタワにお住まいなので、モントリオールよりはるかに近い のだ。墓参りの習慣のないカナ ダ 人にそこまでしていただい て恐縮した。しかも、私の訪問が白内障の手術と重なったた め、お目にかかってお礼を申し上げることもできなかった。   日本を去ってカナ ダに戻った六四歳のベーツは、一九四一 年 夏 に こ の 墓 地 を 訪 れ て い る。 そ し て、 ﹁ ナ サ ニ エ ル・ ベ ー ツ一八一一∼一八九五﹂と刻まれた墓石の前で感慨にふけっ た。 ﹁ い つ の 日 か 私 は こ こ に 眠 り た い。 母 の 隣 で、 ハ テ ィ も 一緒に。墓石には、名前の他に﹃日本への宣教師一九〇二∼ 一 九 四 〇 ﹄ と 刻 ん で も ら お う ﹂。 八 月 一 日 付 け 日 記 に 記 さ れ たその言葉を私は自分の目で確かめたいと考えていた。   祖 父 ナ サ ニ エ ル の 墓 は、 墓 地 を 入 っ て す ぐ の 所 に あ っ た。 ベーツ自身の墓は一番奥まった場所であった。墓碑が五つ並 ベーツ家の墓、影はチャールズさん ベーツの墓碑

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んで地面に埋められていたが、石が沈みすぎたため、数年前に持ち上げ周囲をセメントで固めた

そう

。石には、左︵下︶から次のように記されていた。

  

ROBERT NATHANIEL BATES 1881-1920

  

JOSEF LEVER BATES 1850-1919

  

JULIET LIGHTHALL BATES 1857-1937

  

CORNELIUS JOHN LIGHTHALL BATES 1877-1963

    

MISSIONARY IN JAPAN 1902-1940

本人

  

HARRIET EDNA PHILP 1876-1962

⋮ 妻 ベーツ一家 −1902年−  後列:弟ロバート、妻ハティ、本人、   前列:母ジュリエット、弟チャールズ、  父レヴァー         (『ベーツアルバム』より)   ベーツは、生前の望み通り、母 と妻の間に眠っていた。墓石の文 言に関しても本人の希望が叶えら れていた。これら個人の名を刻ん だ簡素な墓石とは別に、 BATES と浮き彫りにされた白い大きな石 が建っていた。それは石を扱う商 売をしていたベーツの父親が造ら せたものだそうだ。この碑のそ ば

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に は、 娘 ル ル と そ の 夫 ク ロ ー ド︵ Claude de Mestral 、 ア ル マ ン、 チ ャ ー ル ズ ご 兄 弟 の 両 親 ︶ の 墓もあった。   ベーツの墓には関西学院関係者が訪れている。手元資料で確認できるのは次の二件である。   ま ず、 一 九 六 四 年 一 〇 月 三 日、 カ ナ ダ 親 善 演 奏 旅 行 の た め エ ア カ ナ ダ 特 別 機 で 羽 田 を 発 っ た 応援団吹奏楽部がモントリオールに到着した。ベーツの母校マギル大学を皮切りにバンクーバー まで、グレイハウンドバス三台を連ねての演奏旅行が二三日まで続けられ た 。その合間を縫って、 メンバー八名が引率の玉林憲義文学部教授と共に墓参りに訪れたのだ。この演奏旅行を楽しみに していたベーツは、前年一二月二三日にトロントで亡くなっていた。ベーツの娘ルルと一番下の 息子ロバートと共に墓前に傅く学生の様子が現地の新聞に写真入りで大きく報じられ た 。   二〇〇一年夏には、 教え子の林金輔さん︵旧中昭 4 ・ 文専昭 8 ︶が卒寿の記念に墓参されている。   帰途、メリックヴィルで休憩し、リドー運河の光溢れる景色を堪能した。セントローレンス川 に 沿 っ て 車 を 走 ら せ て い た 時、 ア ル マ ン さ ん が 私 に こ う お っ し ゃ っ た。 ﹁ ア メ リ カ は こ の 辺 り か ら突然攻め込んできたのだ﹂ 。この息を飲むほど美しい運河が、実は米英戦争︵一八一二∼一五︶ 後、防衛のために造られたものであることを実感させられた瞬間だった。 3  母校マギル大学   ︵ 1 ︶マギル大学アーカイブズ   マ ギ ル 大 学︵ McGill University ︶ は ベ ー ツ の 母 校 で あ る。 し か し、 履 歴 書 の 学 歴 欄 が ク ィ ー ン ズ 大 学︵ Queen s University ︶ で の M.A. 取 得 か ら 書 か れ て い る こ と が 多 い た め、 失 念 さ れ が

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ち で あ る。 し か も、 卒 業 に 到 っ て い な い こ と が 前 回 の 訪 問 調 査 に よ り 明 ら か に な っ て い る。 今 回、 ア ー カ イ ブ ズ の テ レ サ︵ Theresa Rowat ︶さんにお願いして、 ベーツ在学中の記録︵学籍簿、 写真等︶ を探していただいた。   幸 い、 ベ ー ツ の 学 生 カ ー ド が 残 っ て い た。 そ れ に よ る と、 所 属 は 人 文 学 部 で、 在 籍 期 間 は 一 八 九 四 年 か ら 九 七 年 ま で と 一 九 〇 一 年 か ら 〇 二 年 ま で で あ っ た こ と が わ か る。 西 暦 の 前 に 付 け ら れ た 数 字 は 学 年 を 表 し て い る。 そ の 前 の P は Partial Student を 意 味 す る と 思 わ れ る。 ベ ー ツ は Partial Student と し て 大 学 生 活 を 始 め た よ う だ。 試 験 に 合 格 し て の 入 学 で な い こ と は McGill Univer sity Scr apboo ks の 一 八 九 四 年 九 月 二 八 日 付 け の 記 事 か ら も 明 ら か で あ る。そこには一年生二七名、二年生三名、三年生一名の入学試験合 格者氏名と出身校が掲載されているが、ベーツの名はない。ところ が、一八九六年のクリスマス試験の記事には二年生の欄にベーツの 名が見られるのである。   出 生 地 が L Original, Q.” 入 学 時 の 住 所 が L Original, Ont. と な っ て い る の は、 ベ ー ツ の 故 郷 の 地 名 L Orignal を 正 し く 認 識 す る人がモントリオールに少なかったことを意味する。まして、遠く 離れた日本に残る資料に正しい表記を求めるのは酷だったかもしれ ベーツの学生カード(マギル大学アーカイブズ所蔵)

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ない。   この他、ベーツが学んでいた当時の人文学部校舎の写真を見せていただいた。それは関西学院 西宮上ケ原キャンパスに当てはめると、時計台に当たるシンボリックな建物であった。建築時の 校舎が増築された様子とそれを示す資料を拝見しながら、 テレサさんの説明を受けた。また、 ベー ツが学んだもう一つの学校、ウェスレアン神学校校舎についてお尋ねすると、建物は一九四五年 にマギル大学の所有となったが、既に取り壊されているとのことだった。   ﹁関西学院の学生の中には、ベーツ院長の推薦を受けマギル大学で学んだ人もいたでしょうね﹂ 。 テレサさんからの問いかけに、私はハッとした。誰一人思い浮か ば なかったからである。ベーツ に推薦状を書いてもらってアメリカの○○大学に留学したという卒業生の言葉は確かに記憶にあ る。しかし、マギル大学はどうだろう。ベーツは教え子を母校に送ったことがあったのだろうか。 マギル大学は英語で授業を提供している。それでも、モントリオールでの暮らしに溶け込むには フランス語が必要不可欠である。   マギル大学アーカイブズは、私が希望する資料のコピーに無料で応じてくださった。また、デ ジタルカメラによる撮影も自由に させてくださった。こうした対応が大学側の特別なご好意によ るものであることは明らかである。   後 日、 旧 市 街 に あ る モ ン ト リ オ ー ル 歴 史 セ ン タ ー︵ Centre d Histoire de Montréal ︶ を 訪 ね、 一九世紀後半のモントリオール鳥瞰図を見た。港には数え切れないほどの船が浮び、通りは馬車 や馬が引くトラムが行き来している。田舎育ちのベーツにとって、モントリオールは驚くべき大 都会であったことだろう。

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︶マクドナルド・カレッジと

Mastery for Service”

  マ ギ ル 大 学 訪 問 の 目 的 の 一 つ は、 マ ク ド ナ ル ド・ カ レ ッ ジ︵ Macdonald College ︶ の モ ッ ト ー

Mastery for Service

が提案された状況をより明らかにすることであった。 関西学院のスクール ・ モ ッ ト ー と マ ク ド ナ ル ド・ カ レ ッ ジ の モ ッ ト ー が 同 じ で あ る こ と を 知 っ た の は 一 九 九 九 年 に マ ギル大学アーカイブズを訪問した時である。そのことは﹃関西学院史紀要﹄で紹介し た 。さらに 、 その後入手した情報をもとに広報誌﹃ K. G. TODAY ﹄に次の文を書い た 。    ◆

Mastery for Service

のルーツ

   

関西学院のスクール

モットー

Mastery for Service

がカナ ダ のマギル大学マクドナルド ・ カ レ ッ ジ と 同 じ で あ る こ と を 知 っ た の は、 一 九 九 九 年 秋 に 同 大 学 ア ー カ イ ブ ズ を 訪 問 し た 時 でした。カレッジ︵農学部、家政学部、教育 学部︶のモットーは、一九〇六年の開設時に 出 資 者 ウ ィ リ ア ム ・ マ ク ド ナ ル ド 卿 が 提 案 し たと言われています。一方、マギル大学出身 の C ・ J ・ L ・ベーツが関西学院で新たに創 設 さ れ た 高 等 学 部︵ 商 科 ・ 文 科 ︶ の た め に こ のモットーを提案したのは一九一二年のこと とされています。両校のモットーの一致は偶 然でしょうか?   それとも、この言葉はベー

Macdonald College Annual,   

1934-1935 (マクドナルド・カレッ ジ図書館所蔵)

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ツがカナ ダ から持ち込んだものなのでしょうか?     カ ナ ダ 側 の 状 況 を 明 ら か に す る 書 簡 が Macdonald Colle ge Annua l ︵ 一 九 三 四 年 ︶ に 掲 載 さ れ て い ま す。 そ れ に よ る と、 Mastery for Service の 生 み の 親 は ト ー マ ス・ D ・ ジ ョ ー ン ズ で、 こ の 言 葉 を マ ク ド ナ ル ド に 伝 え た の は J ・ W ・ ロ バ ー ト ソ ン︵ カ レ ッ ジ 長 ︶ で し た。 ジ ョ ー ン ズ が カ レ ッ ジ 近 く の メ ソ ヂ ス ト 教 会 で 行 っ た 一 連 の 説 教 Service” Equipment for Service” Efficiency for Service に 関 心 を 持 っ た ロ バ ー ト ソ ン が、 マ ク ド ナ ル ド と 検 討 中 だ っ た カ レ ッ ジ の モ ッ ト ー の こ と で ジ ョ ー ン ズ に 相 談 し た の で す。 こ の 他 に 考 え ら れ る テ ー マはないかとの質問に ジョーンズが答えたのが

Mastery for Service

でした。     ﹁ベーツ先生はマクドナルド・カレッジのモットーをマネされたのです﹂ 。ベーツの片腕と も言える H ・ F ・ ウッズウォースの次男ディヴィッドさんからお聞きしたこの言葉が事実な ら、 こ れ ら の 人 物 と ベ ー ツ の 関 係、 あ る い は カ ナ ダ に 休 暇 帰 国 中 の ベ ー ツ の 足 取 り を 追 う こ とにより、両校のモットーの関係を示唆する新たな発見があるかも知れません。   ま ず、 Macdonald Colle ge Annual の 現 物、 で き れ ば 創 刊 号 か ら カ レ ッ ジ・ モ ッ ト ー が 提 案 さ れ た頃までの号を確認したいと思った。私が入手していたのは一九三四∼三五年版に掲載された書 簡部分のコピーだけだったからであ る 。そこで、アーカイブズの紹介を受け、マクドナルド・カ レッジ図書館を訪問した。   図 書 館 で わ か っ た の は、 Macdonald Colle ge Annual は、 一 九 三 二 年 か ら の 四 冊 し か 保 存 さ れ て いないということである。 他の三冊には

Mastery for Service

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そ こ で、 書 簡 掲 載 号 の み に 集 中 し た と こ ろ、 前 頁 に Our College Motto と 題 す る 短 文 が 掲 載 さ れていることに気付いた。    ◆我がカレッジ・モットー     我がカレッジ・モットーに関する公式記録は何もありません。実際、その言葉が選 ば れた こ と に 関 し、 何 ら か の 記 憶 を 持 つ 人 間 は ほ と ん ど い な い の で す。 一 九 三 二 年 夏 に 起 こ っ た 幸 運 な 出 来 事 の お か げ で、 こ の モ ッ ト ー に 関 す る 調 査 を 続 け る 必 要 が な く な っ た よ う で す。 入 手 で き た 事 実 を 全 て 記 録 す べ き な の は 言 う ま で も な い こ と で す。 誤 っ た 考 え が 広 く 知 れ 渡 る こ と が し ば しば あ り ま す。 そ う し て、 創 立 者 が 本 来 抱 い て い た 思 い が 失 わ れ て し ま う の で す。 永 遠 に 記 録 す べ き 事 実 を 示 す こ と に よ り、 そ う し た こ と を 防 ぎ ま し ょ う。 本 誌 は そ の た め に 誌 面 を 提 供 し ま す。 さ ら に 、 情 報 を 広 く 知 ら し め、 よ り 深 い 調 査 研 究 を 促 し た い と 考 え て い ます。     執筆者を探し出し、連絡を取ってくださった C ・ H ・ アデール師に深く感謝します。 T ・ D ・ ジョーンズからアデール師宛て書簡の全容を公開し、事実を明らかに します。   こうして公開された書簡を使って広報誌に書いたのが、前掲の﹁ Mastery for Service のルー ツ﹂である。この機会に、併せて書簡全文を紹介しておく。登場人物については調査を進めてい るので、いずれ別稿にまとめるつもりである。

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   ◆ T ・ D ・ジョーンズ書簡     アデール様     カ レ ッ ジ の ス ク ー ル・ モ ッ ト ー に Mastery for Service が 選 ば れ た こ と に つ い て 話 を し て欲しいとのご依頼にお答えし、私が存じ上げる事実をお伝えしましょう。     ﹁ エ ホ バ の 僕 ﹂ に 関 す る 講 義 に 霊 感 を 受 け た 私 は、 サ ン タ ン ド ベ ル ヴ ュ︵ Ste. Anne de Bellevue ︶ の メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 仕 事 を お 受 け し、 一 連 の 講 演、 あ る い は 説 教 の 準 備 を し ま し た。その中で私は、 キャリアを築くには Service が最も純粋な動機になると理論付け、 テー マを Service”

Equipment for Service”

Efficiency for Service

として発表しました。 一連 の話を終えた翌週の日曜の夕刻、ロバートソン学長︵ Principal Robertson ︶との会食へのお 招 き を 喜 ん で お 受 け し ま し た。 ロ バ ー ト ソ ン 博 士 は 礼 拝 に は 出 席 し て お ら れ ま せ ん で し た が、 お 噂 は 何 度 も 耳 に し て い ま し た し、 博 士 の 描 か れ る ビ ジ ョ ン に 深 い 関 心 を 抱 い て い た からです。     食事の後、博士と私は表の居間で一休みして少し ば かり話をしました。その時、ロバート ソン博士はこうおっし ゃ いました。 ﹁教会に は出席していませんが、 お目に かかりたいと思っ て い ま し た。 他 の 方 々 を 通 し て、 あ な た の お 話、 と り わ け ご く 最 近 行 わ れ た service に 関 す る 説 教 に 深 い 関 心 を 抱 い て い た か ら で す。 ウ ィ リ ア ム ・ マ ク ド ナ ル ド 卿 と 私 は、 カ レ ッ ジ・ モ ッ ト ー を ど う し よ う か と 考 え て い ま す。 古 典 の 中 に 私 た ち の 目 的 を 具 現 化 し た も の は 見 つかりませんでした。私たちはあなたのテーマに感銘を受けました。卿は、 それらの中から 選 ば せ て い た だ く 以 上 に 良 い 方 法 は な い と 提 案 さ れ ま し た。 そ う さ せ て い た だ い て も よ ろ

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しいでしょうか﹂ 。 思いがけないお申し出にドギマギしながらお答えしました。 ﹁ロバートソ ン 博 士、 ど う ぞ 何 な り と お 使 い く だ さ い ﹂。 博 士 が ど の 言 葉 を お 選 び に な る か、 私 は 興 味 を 覚 え ま し た。 し か し、 他 に ど ん な テ ー マ が 考 え ら れ る か と 博 士 は さ ら に 質 問 を 続 け ら れ た の で す。 ﹁ た だ ひ と つ、 Mastery for Service で す ね ﹂。 そ う お 答 え し ま し た。 ﹁ そ の 言 葉 で 何 を お っ し ゃ り た い の で し ょ う ﹂。 博 士 は お 尋 ね に な り ま し た。 ﹁ 私 は こ う 考 え ま す。 第 一 に、 サ ー ビ ス の た め に は 自 分 自 身 を 完 全 に 律 し て い な け れ ば な り ま せ ん。 精 神 の 各 プ ロ セ スを制御するように。すなわち、 肉体の力を支配し、 情熱を支配し、 感情を支配するのです。 次 に、 サ ー ビ ス の た め に は 世 界 を 支 配 し な け れ ば な り ま せ ん。 精 神 の 各 プ ロ セ ス を 制 御 す るように。 すなわち、 肉体の力を支配し、 [欠落] 人が人生を見出すあらゆる領域におけるサー ビスのために﹂ 。 私たちは、 し ば らく話し合いました。 やがて辞去した時、 学長は三番目のテー マ Efficiency for Service を推されるだろうとの考えが浮かびました。学長の正確なお考え がどうあろうと、 最終的には。 卿とロバートソン学長が全ての中から最後のテーマ [Mastery for Service ] を 選 ば れ た こ と は 明 ら か な わ け で す が、 最 終 的 な 話 し 合 い に 関 し て は 何 も 伺 っ ておりません。     私 は、 サ ン タ ン で 二 年 間 説 教 し ま し た。 フ レ ッ ド・ C ・ エ ル フ ォ ー ド︵ Fred C. Elford ︶ 教 授 を 毎 週 末 の み な ら ず、 夏 季 に 数 週 間 ゲ ス ト と し て お 迎 え し た こ と は 大 き な 喜 び で し た。 同 教 授 は、 ロ バ ー ト ソ ン 博 士 が 私 に 説 教 の 解 説 を 求 め た 理 由 を 立 証 で き る 立 場 に 今 も お ら れると思います。それから二四年後の一九三二年まで、 私がカレッジを訪問することはあり ま せ ん で し た。 私 の か つ て の テ ー マ が、 カ レ ッ ジ の 講 堂 入 り 口 近 く の ス テ ン ド グ ラ ス に 刻

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まれているのを目にした時、 この言葉は永遠のものに なったのだと実感し、 深い感動を覚えました。私は計 画 の ほ ん の 一 端 を 担 っ た に 過 ぎ ま せ ん。 ウ ィ リ ア ム・ マ ク ド ナ ル ド 卿 が 寛 大 な お 心 に よ り 成 長 さ せ て く だ さったことを感謝いたします。以上が私の話です。     ご成功をお祈り申し上げます。            当書簡で言及されている内容は、当時カレッジと関係が あ り、 現 在 オ タ ワ に い る F ・ C ・ エ ル フ ォ ー ド に よ っ て

レアード館入口の Mastery for Service”

(反射するため建物内から撮影) (旧マクドナルド・カレッジ)ジョン・アボット・カレッジ 確認されました。   書簡に登場する、講堂入口近くのステンド グ ラ ス に 刻 ま れ た Mastery for Service は 確認することができなかった。図書館の方に お尋ねすると、取り外して倉庫に仕舞われて いると聞いたことがあるとのことだった。実 は、当初マクドナルド・カレッジとして使わ れ て い た 校 舎 は 売 却 さ れ、 現 在 セ ジ ャ ッ プ の ジョン・アボット・カレッジが使用している

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の で あ る。 そ の 代 わ り と 言 っ て い い の か ど う か、 レ ア ー ド 館︵ Laird Hall ︶ 入 口 の ガ ラ ス に 大 き くエンブレムが刻まれていた。   関西学院高等学部創設は一九一二年四月であった。初代高等学部長に就任したベーツが高等学 部のモットーとして

Mastery for Service

を提唱したのは、 開設と同時ではなく、 その年度中 ︵∼ 一九一三年三月︶ のことであったと考えられ る 。百年前の原田の森に思いを馳せながら、 同じモッ トーを持つマクドナルド ・ カレッジを後にした。 4  アルマンさんとチャールズさん   モ ン ト リ オ ー ル で は チ ャ ー ル ズ さ ん 宅 に 四 泊、 ア ル マ ン さ ん 宅 に 三 泊 さ せ て い た だ い た。 一九九九年秋にアルマンさんのお宅を訪ねた時、ベーツが残した写真 アルバム︵段ボール二箱分︶を拝見し た 。このアルバムは、最終的に はカナ ダ 合同教会アーカイブズに寄贈す るとお聞きしていた。しかし、その大半 は日本で撮影されたものだ。関西学院に とって貴重な写真が数多くある。ベーツ の生涯を知る上でも欠かせない資料であ る。今回、アルバムへの強い関心を改め て説明し、関西学院の創立一二五周年が 近いこと、その記念事業の一つとして大 白薩摩の急須と湯飲み(ベーツ遺品) 紅茶をいただいたカップ (ベーツ遺品)

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学 博 物 館 の 設 置 が 計 画 さ れ て い る こ と を ア ル マ ン さ ん と 奥 様 の ロ ザ リ ン︵ Rosalind Peppal ︶ さ んにお話しした。その結果、アルバムをそっくり三年間関西学院にお貸しいただけることになっ た。 こ ち ら で 複 製 を 作 る お 許 し を 得 る こ と が で き た の だ︵ ア ル バ ム の 入 っ た ダ ン ボ ー ル 二 箱 は、 二月二八日に無事関西学院に到着した︶ 。   チャールズさんのお宅では、ベーツが日本から持ち帰った陶磁器、漆器、小家具等を拝見した。 美しい九谷焼や白薩摩を一つ一つ手にとって眺める内に、ベーツの好みが何となくわかってきた。 滞 在 中 の 朝 食 は、 チ ャ ー ル ズ さ ん が 用 意 し て く だ さ っ た︵ ア ル マ ン さ ん の お 宅 で も、 朝 食 は ア ルマンさんの担当だった︶ 。ベーツの遺品のティーカップで飲む紅茶は一層美味しく感じられた。 チャールズさんの奥様マリジョゼ ︵ Marie-Josée ︶ さんは典型的ケベコワズ ︵ケベック人女性︶ で、 フランス語しか話されなかった。チャールズさんがおられない時は、フランス語の単語を並べて 意思疎通を図るしかない。ケベコワ︵ケベック人︶はどこかにカナ ダ 先住民の血が入っているの が特徴だそうだ。だから、ケベコワの子どもは成長の過程で先祖がえりした顔つきになる時期が あるらしい。それは親にとって特別愛おしく思える時だとおっし ゃ った。また、茹でとうもろこ しを食べる時、フランス人はナイフとフォークを使うが、ケベコワは両手で持ってかぶりつくそ うである。ちょうどとうもろこしのシーズンだったので、何度か口にする機会があった。私があ まり幸せそうにかぶりつくので、 ﹁そんなに好きなのか﹂とアルマンさんは笑っておられた。   滞 在 中、 チ ャ ー ル ズ さ ん の 一 人 娘 エ リ ア︵ Hélia ︶ さ ん、 ア ル マ ン さ ん の ご 長 男 フ ィ リ ッ プ ︵ Philippe ︶ さ ん に も お 目 に か か っ た。 フ ィ リ ッ プ さ ん は 全 員 を 自 宅 に 招 待 し、 手 料 理 で も て な し て く だ さ っ た︵ も ち ろ ん、 茹 で と う も ろ こ し も 用 意 さ れ て い た ︶。 そ ん な 時、 会 話 は 自 然 に フ

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ランス語になる。エリアさんは、フランス語で話されている内容を私のために時折英語で説明し てくださった。思え ば 、エリアさんと初めて会ったのは前回の訪問時だった。恥ずかしがり屋の 小さな女の子で、カタコトのフランス語で言葉を交わすのが精一杯だった。一七歳の時、 NHK の番組出演のため同じ高校の仲間と来日され た 。関西学院訪問の希望をお聞きしていたので、京 都のホテルまで迎えに行き、引率の先生に別行動をお許しいただいた。その時﹁日本ではフラン ス語が通じないから、毎日英語を使っているの。こんなに英語を話すのは初めてだからドキドキ なの﹂と言っておられた。今や立派なバイリンガルである。   ア ル マ ン さ ん は、 ﹁ ど う し て Mastery for Service を 選 ん だ の か、 私 が 祖 父 に ち ゃ ん と 聞 い て おけ ば 良かったのに、 申し訳ない﹂とおっし ゃ った。チャールズさんは、 トロント大学の学生時代、 哲学を専攻されていたこともあって、ベーツの家を訪ねたり、本をもらったり、教会に一緒に行 く機会が何度もあったそうである。しかし、モントリオール時代のことはベーツに尋ねたことが なかったと言われた。 アルマンさんによれ ば 、 ドーチェスター通り教会は既にないそうである。   モントリオールでお会いしたご子孫の中で、私がベーツの面影を一番強く感じたのはエリアさ んである。若い女性に対して失礼だが、凝視したくなるほど似ている。フィリップさんには青年 期のベーツの面影が感じられた。それは、フィリップさんが趣味で絵を描かれることから受ける 印象のせいかもしれない。しかし、フィリップさんがベーツに似ていることに関しては、一族の 賛同は全く得られなかった。   モントリオール滞在中、送迎から食事の世話に至るまで、アルマンさん、チャールズさんご兄 弟とそれぞれのご家族には大変お世話になった。感謝してもしきれない。 Be Kind! ベーツは、

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新しく赴任する宣教師に くれぐれもそうあるように と念を押してい た 。また、自分の子どもたち にもそう求めてい た 。この言葉は、家訓として今もモントリオールに生きている。 5  彫刻家齋藤智さん   二〇一〇年秋、齋藤智さんというケベック州在住の彫刻 家 がベーツに 関する資料を求めて学院 史 編 纂 室 に 来 ら れ た。 あ い に く、 私 は 休 み を 取 っ て い た た め お 目 に か か る こ と が で き な か っ た が、 ﹃ 関 西 学 院 の エ ス プ リ ﹄、 ﹃ 関 西 学 院 史 紀 要 ﹄ 等 を お 持 ち 帰 り に な っ た そ う で あ る。 後 日、 私 が書いた文章を読んで感動したとお電話を頂戴した。齋藤さんご自身は慶應義塾大学のご出身だ が、アルマンさんの奥様ロザリンさん︵モントリオール美術館学芸員︶からベーツの名をお聞き になり、年に一度の帰国中、貴重な時間を割いて、関西学院にお立ち寄りくださったの だ 。   齋藤さんは、実際にキャンパスを歩かれ、また、私の書いた文章をお読みになって、関西学院 におけるベーツの働きの大きさを知り、感銘を受けたとおっし ゃ った。そして、ベーツを理解す るにはカナ ダ のフランス語圏の田舎に来て、身体で感じることが必要と力説され、カナ ダに調査 に来る時はぜひとも連絡して欲しいと言われた。カナ ダ 在住四〇年を超える方の言葉には説得力 があり、私はこの機会に齋藤さんをお訪ねしようと思った。   齋藤さんは、モントリオールからバスで二時間ほどの所に、フランス系カナ ダ 人の奥様ルイー ズ︵ Louise Doucet ︶さんと暮らしておられる。住所を Way's Mills と書いておられたが、 正確に は Municipalite de Barnston Ouest で、 そ の 中 に あ る 昔 の 村 の 名 前 が Way's Mills だ そ う だ。 英 語 で Eastern Townships 、 フ ラ ン ス 語 で Estrie と 呼 ば れ る 地 域 で、 ア メ リ カ 国 境 ま で 二 〇 分 と

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のことだった。カナ ダ への出発が近づくと、この他にも細々 と し た ア ド バ イ ス が 送 ら れ て き た。 モ ン ト リ オ ー ル の バ ス タ ー ミ ナ ル に は 二 〇 ∼ 三 〇 分 前 に 着 く こ と、 そ こ で Magog ま で の 往 復 切 符 を 買 う こ と、 ﹁ メ イ ゴ グ ﹂ は 英 語 式 発 音 で、 フランス語では ﹁マゴグ﹂ となること、 往復は ﹁アレ ・ ルトゥー ル﹂と言うこと等々。齋藤さんは、マゴグのバス停まで車で 迎えに来てくださった。そこからご自宅まで二五分で到着し た。   ﹁湖、 放牧地、 森、 川、 穏やかな丘陵が広がるモントリオー ル東方一六〇 kmにある小さな村ウエイズミルズを見下ろす農 場︵一三五エーカー、約一六万五千坪︶が我が家です。ここ でケベック生まれの家内と一緒に、初めの頃は焼き物を、そ の 後 は 彫 刻 の 制 作 を し て、 作 品 を 売 る だ け で 暮 ら し て き ま した。畑で野菜も作っていますし、鶏も飼っています。豚を 飼ったこともあります。ウエイズミルズの美しい空間に居を 構えることが出来たことは、制作にとって、とりわけ重要な こ と で し た ﹂ 。 私 が 訪 ね た 場 所 に つ い て、 齋 藤 さ ん ご 自 身 の この言葉以上に相応しい説明は思いつかない。実に伸びやか で、心地よい世界だった。大自然の中、石の彫刻があるべき 齋藤さんのお宅の庭からの眺望 齋藤さんのお宅の庭

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場所に置かれていることで、目の前の豊かな自然が悠久の自然となって心に沁み入る。美味しい 水と畑で採れた新鮮な野菜や果物がお手製の陶器に盛り付けられ、食卓に並んだ。   ﹁ ロ ザ リ ン と あ な た の お か げ で ド ク タ ー・ ベ ー ツ と い う 優 れ た 教 育 者、 優 れ た カ ナ ダ 人 の 存 在 を知ることができたのは幸運でした。こうした方の日本の文化や歴史への貢献をもっと多くの日 本人、カナ ダ 人に知って欲しいと思います。池田さんがきっと素晴らしい書き物にしてくださる と確信しています。僕の知る素晴らしいカナ ダ 人の存在から、彼の人柄を自分なりに想像するの も 楽 し い こ と で す ﹂。 齋 藤 さ ん は、 車 で 周 囲 の 街 を 案 内 し な が ら、 ま た ご 自 分 の 敷 地 内 を 散 策 し ながら、私にこのような話をされた。そうした中で最も印象的だったのはビービである。ベーツ の 父 親 が ロ リ ニ ャ ル で 石 を 扱 う 商 売 を し て い た こ と を 知 っ た 齋 藤 さ ん は、 ご 自 分 と の 共 通 点 に 驚 か れ た。 ﹁ そ れ な ら、 御 影 石 は ビ ー ビ か ら 運 ん で い た に 違 い な い ﹂。 そ う 言 っ て、 原 石 採 石 場 に 連 れ て 入 っ て く だ さ っ た の だ。日本語で﹁丁場﹂と言うそうだ。そこは地球という星の生 命を感じさせる場所だった。地球の命を目の当たりにする生活 は、 時 の 流 れ を ど う 映 し 出 す の だ ろ う。 ﹁ あ の 辺 り か ら は 柔 ら か な い い 石 が 採 れ ま す よ ﹂︵ 何 億 年 も の 間 眠 っ て い た 石 が 肌 を 現した時、その﹁柔らかさ﹂に心打たれることがあるそうだ︶ 。 はるか彼方を指し示される齋藤さんを見つめながら、こうして ベーツも父親に連れられ丁場に来たことがあったに違いないと 思った。地元の古い墓地をご案内くださった時は、これは○○ ビービの丁場

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で採れた石、この御影石とあの御影石は、一見同じに見えるかもしれないが値段は全然違う、と 墓石の説明をされた。恐らく、ベーツの父親もそうであったろう。石を身近に感じる環境が育ん だ ベ ー ツ の 感 性 と い う も の を 深 く 考 え さ せ ら れ た。 ﹁ 一 五 〇 年 近 く 昔 の カ ナ ダ で、 石 工 が ど の よ うな暮らしをしていたか、社会的にどういう位置にいたのか、ベーツ理解を深めるため、そうい うことも考えてみてください﹂ 。齋藤さんは私におっし ゃ った。   齋藤さんのお宅を訪問し泊めていただいたのは、モントリオール到着の翌々日で、ロリニャル や ヴ ァ ン ク リ ー ク ・ ヒ ル で ベ ー ツ の 父 親 の 仕 事 に つ い て 詳 し く 知 る 前 の こ と で あ っ た。 大 自 然 の 中で、 齋藤さんとルイーズさんの温かいもてなしに包まれ、 時差ボケはどこかに吹き飛んでしまっ た。お二人のご親切に心から感謝したい。 Ⅴ  トロントにて   モ ン ト リ オ ー ル か ら ト ロ ン ト へ は 列 車 で 移 動 し た。 ﹁ 祖 父 は 船 で モ ン ト リ オ ー ル に 来 た こ と が あ っ た。 一 九 四 八 ∼ 九 年 頃 だ っ た と 思 う。 船 着 場 ま で 迎 え に 行 っ た の を 覚 え て い る ﹂。 そ う ア ル マンさんからお聞きしたが、今はそのような便はないそうだ。列車がケベック州からオンタリオ 州に入ると、車内放送の順番が﹁フランス語・英語﹂から﹁英語・フランス語﹂になった。それ だけで気持ちが軽くなるのだから不思議である。   ト ロ ン ト で は、 友 人 の カ ミ ラ・ ブ レ イ ク リ ー︵ Camilla Blakeley ︶ の 家 に 泊 め て も ら っ た。 カ ナ ダ 合同教会アーカイブズがオープンしているのは月曜から木曜で、私のトロント滞在予定は金

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曜から月曜︵祝日︶だったため、アーカイブズでの資料調査は諦めていた。代わりに、ベーツ関 係地巡りに集中した。幸い、ベーツが住んでいたのは、友人宅から徒歩圏内だった。   ま ず、 ロ イ ヤ ル ・ ヨ ー ク ・ ロ ー ド 合 同 教 会 に 向 か っ た。 こ こ は 晩 年 の ベ ー ツ が 通 っ て い た 教 会 である。最晩年、入退院を繰り返していたベーツは、死の二週間前、卒業生の則末牧男︵旧中昭 12・ 予 科 昭 14・ 旧 神 昭 17︶ 牧 師 に こ う 言 っ た。 ﹁ 則 末 さ ん、 今 度 は 私 は も う こ の 家 に 帰 っ て こ れ ないと思う。お葬式の時、ヨハネ伝一七章を読んでください ﹂ 。一九六三年一二月二三日、ベー ツ は 天 に 召 さ れ た。 ﹁ わ た し は、 行 う よ う に と あ な た が 与 え て く だ さ っ た 業 を 成 し 遂 げ て、 地 上 で あ な た の 栄 光 を 現 し ま し た ﹂。 そ れ は 何 よ り も ベ ー ツ に 相 応 し い 言 葉 で あ っ た よ う に 思 う。 司 式はバーナード ・ エナルズ︵ Bernard Ennals ︶牧師が担当した。同牧師のご子息ピーターさんが トロント大学在学中チャールズさんと知り合われたこと、マウント・アリソン大学教授となって から、文学部客員教授︵一九九一︶として関 西学院大学で教えられたこと等、不思議な縁 を感じさせる出来事を思い出しつつ、私は教 会を訪ねた。   こ の 教 会 に は、 一 九 四 一 年 の 帰 国 時 にH ・ W ・アウターブリッ ヂに よって伝道局に運 ば れたベーツの胸像が一九八七年まで置かれて い た 。 ま た、 ベ ー ツ の 肖 像 画 も 飾 ら れ て い た と 聞 く 。 そ れ は、 ど ん な 肖 像 画 だ ろ う。 ま だ、   ロイヤル・ヨーク・ロード教会

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あるのだろうか。会堂には鍵がかかっていたが、車が停まっていたので、無人ではないと思われ た。呼び鈴を押すと、 たまたま用があって中におられた教会員が招き入れ、 中を案内してくださっ た。ロス︵ Ross W. Murray ︶さんとおっし ゃ る男性で、ベーツのことを覚えていると言われた。 肖 像 画 が 見 当 た ら な か っ た の で お 尋 ね す る と、 ﹁ 昔 は 飾 ら れ て い た よ う に 思 う が、 今 は 倉 庫 に 入 れられているのではないだろうか﹂とのことだった。壁には﹁名誉牧師﹂としてベーツの写真が 飾られていた。   教会を出て、ベーツが住んでいた家に向かった。 ﹁

42 Royal York Road

﹂。何度もベーツ書簡で 目にした住所である。それは、オンタリオ湖に程近い所で、広く静かな通りに面していた。家の 呼び鈴を押したが反応はなかった。住人が退去した直後のように思われた。人の気配があまり感 じられず、荷物を片付けている途中のように見えたからである。   ﹃ 母 校 通 信 ﹄ に は、 こ こ を 訪 ね た 卒 業 生 の 記 事 が 掲 載 さ れ て い る。 そ の 内 の い く つ か を 紹 介 し よ う。 ﹁ ⋮ ト ロ ン ト の 先 生 の 住 居 は タ ク シ ー で 三 十 分 も か か る 辺 鄙 な 所 で 而 も 運 転 手 が 探 す の に 随分骨を折つてくれたが先生の顔を見た瞬間私は兎に角来てよかつたとしみじみ思つたものだつ た。⋮家に足を踏み入れると 懸 字 も額の絵もペナントも花瓶も置物もすべて日本製で無いものは なく、重い卒業記念のアルバムを沢山抱えて来て一枚一枚ページを繰り乍ら当時を思い起こされ る先生のいきいきしたまなざし。先生の思い出のすべては日本の事だつたのだろう。私が戦後の 日本のことを話すと﹃ウエル、ウエル、ウエル﹄とつぶやきつつ自分の頭に浮ぶ昔の日本とピン トを合せられるのだろう。静かに日本のことを思うとなつかしく、何とかしてもう一度日本に行 き度い。事実この人︹妻︺の病気が無かつたら再度行けただろう。としみじみ云われた時には思

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