社会保障制度でカバーできない,制度からの排除を問 題にできる点が,「社会的排除」を問う意義であると 述べています(岩田 2008, p. 48).こうした排除を解 決した社会は,「包摂」された社会,すなわち「社会 的包摂」として構想されます.この「社会的包摂」の 実現の手がかりとして,「選択の自由を発展させるこ とを意図したケイパビリティ向上」のための政策が指 摘されています(Bhala & Lapeyre, 2005).
ケイパビリティとは,アマルティア・センにより提 唱された概念であり,人々の自由には,生活上の選択 肢が公平になるように,さまざまな権利や福祉などの 「財」を活用できるためのケイパビリティ (基本的潜 在能力) が必要であると論じています (Sen, A., 1992). そして,ケイパビリティとは,例えば栄養状態がよい こと,雨風をしのげる住居に住んでいること,予防可 能な病気にかからないこと,コミュニティの一員とし ての社会生活の参加,恥をかかずに人前に出られるこ となどとしています.こうしたケイパビリティの保障 は,公衆衛生看護の目指している点とも合致します. 以上を踏まえると,公衆衛生看護の「責任」であ る,全ての人々の健康な生活を支える約束は,「社会 的排除」を射程にいれ,排除の状況にある人々の「包 摂」と排除を防ぐ地域づくりであるといえます.
2.公衆衛生看護活動が直面する社会的排除
公衆衛生看護活動において直面する「社会的排除」 について考えてみましょう.私が保健師として出会っ た事例を振り返ると,例えば,近隣住民が精神疾患を もつ住民の長期入院を求めるということや HIV 陽性 者へのヘルパー派遣の拒否など,疾病や障がいに対す る偏見による差別をうけるといった事例があります. また,高齢者虐待や児童虐待が引き起こされていた家 族との出会いもありました.このような家族は,支援 に対し消極的または積極的な拒否がみられました.両1.公衆衛生看護の
「責任」と「社会的包摂」について
まず,本学術集会のテーマである「責任」 と 「社会 的包摂」 について考えたいと思います.「責任」 (re-sponsibility) の意味を語源に戻って調べると, response は re(返す) と spondeo(約束する)に分けられます. すなわち response には「応答」「反応」が含意されて います.そして ability は 「能力」 であり,responsibility は,「約束をもって返すことのできる (能力を持つ) も のが負う義務」 と解することができます.ジャック・ デリダ(Derrida J.)(2004)は,責任について,「応答 すること,すなわち他者と法の前で他者に応答するこ と」と述べています.このように「責任」は,約束を する者と受け手の 2 者関係を前提とした言葉です. では,公衆衛生看護の責任とは,誰に対する応答な のでしょうか.公衆衛生看護はすべての人々の健康な 生活の保障を目的としています.この点を踏まえる と,全ての人に応答し,彼らの健康な生活を支える約 束を負っているということになります. 次に「社会的包摂」ですが,これは「社会的排除」 との対語であり,社会政策で用いられる用語です.欧 州委員会(1993)は,貧困は社会的排除の最も明白な 要素であるとしつつ,社会的排除とは貧困に留まら ず,「住宅,教育,健康そしてサービスへのアクセス の権利の不適切性をも意味する.それは個人や集団, 特に都市や地方で場合によっては差別され,隔離され やすい人々へ不利な影響を及ぼす.」と定義していま す.また岩田(2008, p. 23)は,「社会的排除」の特徴 に①参加の欠如,②複合的な不利,③プロセスとして の排除,④空間的な排除の 4 点を指摘しています.ま た,従来の「貧困」が経済問題に着目しているのに対 し,「社会的排除」は社会的関係性に着目する概念で あり,地域社会での人々の関係性からの排除や従来の第 9 回日本公衆衛生看護学会学術集会
会長講演
公衆衛生看護の責任と実践
∼誰も取り残されない「社会的包摂」の実現をめざして∼
杏林大学保健学部看護学科
大木 幸子
は,人々は「利己的レベル」から「あらゆる個人を等 しく尊重」へと道徳判断基準が発展するとしていま す.キャロル・ギリガン (Gilligan C.) (1982) は, これ を,男性中心の「正義の倫理」 としました.一方で, 女性の経験に基づく,他者との関係性の中で,他人へ の思いやりを責任と捉える 「ケアの倫理」 を提唱しま した.安井 (2011) は,ネル・ノディングスは「ケア の倫理」 を倫理理論として体系化し,「ケアの倫理」 の 特徴として次の 4 点を示したと指摘しています.①正 義の倫理あるいは権利の言語において取りこぼされて いたニーズを扱いうる,②生き物すなわち有機体とし ての人間をニーズの起源とする,③日常のケアするひ ととケアされるひととの関係の中に「聖なるもの」 を 見いだし,それを重視する,④特定のケアする人とケ アされる人との固有の関係や文脈を重視する一方,ダ イナミックな関係的自己(人間関係で変化する自己) の変容を重視する,の 4 点です.また, ミルトン・メ イヤロフは,ケアの主な要素として 8 つ挙げています が,その中に,「忍耐」,「正直」,「信頼」 が含まれて います(Mayeroff, M., 1971).「忍耐」 とは,「何かが 起こるのを座視することではない」 とし,「取り乱し た人のはなしをじっときいたり,その人と一緒にいる ことにより,その人が考えをまとめたり,何かを感じ たりする余裕を与えている」と述べています.また, 「正直」については,「あるがままの相手を見つめなけ ればならない」 として,「不愉快であっても,事実に 対して私は敬意を払う.なぜなら,それらを真面目に 捉えることによってのみ,私はその人に触れることが できるからである.」 と説明します.さらに 「信頼」 で は,「その相手が自らに適した方法で成長していくの を信頼することが含まれる」 と語られています. このようなあるがままの「生活」を時間軸の中で捉 え,生活者である「当事者」の文脈を尊重する支援が 「ケアの倫理」です.こうした支援について,老年精 神医学者の竹中(2019) は,「不潔で非衛生的,食生 活がメチャクチャといった生活スタイルは,彼らが何 十年もそうして暮らしてきた現実なのだ.健康的な生 活,正しい食生活を押し付けることはない.母を一人 で介護している娘が,朝出勤するときにおむつを何枚 も重ねて,夕方帰宅するまで外せないようにしてい た.それを虐待という前に,「これまでよく頑張って きた」と評価することだ.」と述べています.こうし た「ケアの倫理」に基づく支援の態度が,困難の中に ある人に出会おうとする時に求められているものだと 親がOver Stayであり子どもは無国籍という事例は, 支 援にアクセスできず,把握もされない状況にあったと いえます.精神科医療機関への長期入院の事例も少な くありませんでした.こうした事例は,入院・入所等 により社会から切り離された状況あるいは,政策・制 度により隠された状況にあるといえます.
3.社会的包摂を目指した支援
∼①「ケアの倫理」に基づく支援∼
このような社会的排除の状況にある個人・家族の 「社会的包摂」 を目指した支援について,「ケアの倫 理」の視点から考えたいと思います. 家族内で子ども虐待が引き起こされているある事例 では,保健師として訪問を繰り返し,サービスの導入 をしても,母との関係に手ごたえがなく,支援が功を 奏していないという強い無力感を感じていました.経 済的困窮の中,夜の仕事と子育てに追われている母に とって,「あるべき正しさ」を伝える保健師の支援は, 母の本当の気持ちには届かないものだったのだと考え ます.鷲田(2015, p. 157)は,シモーヌ・ヴェイユの 「労働者は話はしないわ.」という言葉を引用し,「〈不 幸〉と〈困難〉のなかにいるひとは話はしない.話を しないだけでなく,そもそも〈不幸〉もしくは〈困 難)のなかにじぶんがいるということに無意識であろ うとする.なじんでいこうとすらする.思考は痛みを もたらすからである.」と述べています.私たちは, こうした思考することに痛みを伴うといった困難に思 いを馳せられる者でありたいと思います. では,そうした状況にある人に対して,どのような 支援があるのでしょうか.その手掛かりは「変わらず にある支援者のまなざし」です.鷲田(2015, p. 126) は前述の著書で,「だれかに触れられていること,だ れかに見つめられていること,だれかからことばを向 けられていること,これらのまぎれもなく現実的なも のの体験のなかで,その他者のはたらきかけの対象と して自己を感受するなかではじめて,いいかえると 「他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめ て,その存在をあたえられるような次元というもの が,〈わたし〉にはある.」と述べています.これは, 見つめる「他者」と見つめられる「わたし」の関係性 としての「ケアの倫理」を指していると考えます. ケアの倫理とは,キャロル・ギリガンが提唱した 「正義の倫理」に対する倫理概念です.ローレンス・ コールバーグが提唱した「道徳発達段階モデル」で4.社会的包摂をめざした支援
∼②「公共」 の観点による社会的構造への気づき∼
「社会的排除」の状況にある事例を見ると,「ケアの 倫理」のみでは,支援の届かない事例があるように思 えます.制度からの排除と政策によってもたらされた 排除です. 制度からの排除は,支援にアクセスできない状況を 引き起こします.その例の一つが,0 歳児の虐待死亡 事例です.2003 年 7 月から 2019 年 3 月末までの報告 数(厚生労働省, 2020) でみると 0 歳児の心中以外の 虐待死亡事例のうち 39.5% が 0日で, 1 か月未満までい れると 45.6% を占めます(図 1).また,0 日の遺棄は 9 割を占め,0 か月では 75.0 %を占めています(図 1). さらに,0 日児の 9 割,0 か月児の 55.8% が医療機関 以外の自宅や自宅外の場所で出産しています(図 2). これらの母は,妊娠が判明後も母子保健サービスにア クセスできなかったのではないかと思われます. もうひとつ路上生活者の死亡を例として挙げます. 1999 年∼2010 年までの東京都でホームレス状態に あった人の死亡数は 2,842 件であり,2004 年以降, ホームレス状況にある人の総数は著しく減少したもの の,死亡者数はほぼ同じです(Suzuki, 2013)(図 3). さらにその死因(図 4) をみると,循環器疾患や消化 器疾患, 呼吸器疾患という慢性疾患で61%を占めてい ます.同時に,栄養失調 3.6%,低体温 2.6% となって います.慢性で経過する疾病を患っていても,また急 激な生命力の消耗に対しても,支援が届いていない現 状を示しています. こうした制度にアクセスできない「当事者」に私た ちはどのように接近できるのでしょうか.そのために は,彼等がアクセスできる柔軟で細やかなチャンネル が必要です.そのようなチャンネルをつくるために は,「当事者」に近い民間の支援活動との協働が不可 考えます. 次に,精神障がい者への地域のスティグマについて 考えてみます.地域住民の差別や偏見が根強くあり, 精神障がい者が長期入院を余儀なくされていた小規模 自治体で,「入院医療」と「地域での生活」の連続性 をめざし,地域の中での居場所や,家族同士のつなが りを作る活動を始めました.その中で,精神障がい者 や家族という「当事者」の交流は,「当事者」のエン パワメントにつながり,彼らの「アドボカシー」へと 発展しました.それが,作業所やグループホームの開 設につながりました.これは「ケアのネットワーク」 の広がりであったと思います. このように社会的包摂を目指した支援では,①「信 頼」を基盤とした揺るがない「まなざし」,②ありの ままのありようをうけとめる,③痛みや苦悩など「当 事者」の文脈を共有する,④座視するのではなく中腰 に耐える,⑤当事者のケアのネットワークの広がり, という「ケアの倫理」による接近が重要なのだと考え ます. 図 3 図 1 図 2この担当者の葛藤を図にしてみました(図 5).担 当者として在宅にある患者に対し入所説得をする中 で,「当事者」の生活の物語や苦悩に触れます.それ は「ケアの倫理」にもつながっていきます.しかし, 上位下達の隔離政策と地域住民の差別偏見に挟まれる 中で,「当事者」の物語や苦悩はかき消され,法を根 拠とする「隔離政策」を遂行し,その結果,ハンセン 病者の社会からの排除につながっていったのだと考え られます. 「生活の困難(ニーズ)」に対し,「ケア」によって 接近していきます.しかし,その「ケア」が現状の社 会的枠組みを前提とした「ケア」である場合は,「生 活の困難(ニーズ)」の本質に接近することが困難な 場合があり,「社会的排除をうむ社会的構造への気づ き」が同時に必要です.歴史をみると,この気づきを 得ることは,たやすくはないことがわかります.その ためには,「公共性」 という観点や 「当事者性」 への視 座が求められるのだと思います(図 6). 「公共性」とは何をさすのでしょうか.矢野(2014) は,アンナ・ハーレントの示した公共性を「公的なも のとは,複数の人々によって共有され,見られ聞かれ るリアリティであった.現実が現実として把握される のは「私たちがみるものをやはり同じように見,私た ちが聞くものを,やはり同じように聞く他人が存在す るおかげ」である」とし,「世界や公的領域のリアリ ティは,さまざまなものの見方が同時に存在すること 欠です.こうした 「当事者」 「当事者とともにある人」 の経験を政策・施策に反映することは,まだ抗 HIV 薬が開発されていない 1994 年に開催されたパリ・エ イズサミット共同宣言で,「GIPA (Greater Involvement of People Living with HIV/AIDS)」 (HIV 陽性者の個人的 な経験はエイズ対策に生かすことができるし,生かす 必要もある)として掲げられています.こうした経験 から,私たちは学んでいきたいと思います. 政策によってもたらされた「社会的排除」 の例では, ハンセン病隔離政策,水俣病事件,薬害エイズ事件, 福島第一原子力発電所事故による被害などがありま す.このうちハンセン病隔離政策について取り上げ ます. ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書(ハ ンセン病問題に関する検証会議, 2005) に,三重県に おいて昭和 28 年から昭和 58 年の退職まで専任であっ た担当者の聞き取りが記載されています.この担当者 は,隔離政策に疑問を持たれており,昭和 40 年代に は,在宅患者に治療薬の配布をされた方ですが,記述 には,「入所勧奨はあくまで説得であり,「有無をいわ せぬ強制収容」は警察時代のものであって私は知らな い.」 とあります.そして,「ものすごく敵対して入所 を拒絶する患者であっても,私が帰るときは「今度は いつきてくれる」と頼る様子を見せることもあった. だれにも相談する相手がいないのだろうと思われた.」 という語りがあります.この語りから, 担当者の丁寧 なかかわりが感じ取られます.しかしそうであって も,「ただ,入所の勧奨や説明を何度も何度も繰り返 したことで,結果的に「強制」 と見なされたであろう ことは否定できない.平均すると 4, 5 回の訪問で患 者は入所に応じていたが,最長は 5 年越しで応じた人 もいた.20 回近く勧誘した人もいる.」 と振り返られ ています. 図 5 図 6 図 4
規則や教義に対して,離反や創意という破壊を行なわ ないような責任はないのだ.」 とも述べています.デ リダの示す責任について,柿木(2004)は「他者に対 する代替不可能な責任を引き受けつつ,今まで他者と 自分を隔ててきた境界を打ち破って,他者との間に新 たな関係を築きながら,そこにこれまで語られてきた 「正義」よりも普遍的な正義を実現することへ向けて, 新たな一歩を踏み出すことができるはずである.」と 説明しています.私たちの応答は,公共性を探り,時 に「法外」であることも辞さない「責任」を負ってい るのだと思います.
5.まとめ
ここまでの議論を整理します.公衆衛生看護は個の 支援,地域への支援,社会システムへの支援へと重層 的に活動します.そうした重層的な活動において,包 摂を目指した活動であるために,「ケアの倫理」と 「公共性」,そして両者をつらぬく「当事者性」が求め られます(図 8).「ケアの倫理」では,「信頼」 と 「ま なざし」を基盤に,ありのままと向き合う姿勢,文脈 の共有と敬意,「中腰」に耐える忍耐が重要です.そ して,立ち止まり,多様な人々による「複数性」に耐 え,粘り強い対話をもつこと,そして思考し続けるこ とが必要です.そして,これらを貫き基盤となるの が,「当事者性」です.ここでいう「当事者性」とは, 「当事者の経験の共有」, 「隠された物語の可視化」,「民 間の活動を含めた多様なネットワーク形成」,「『当事 者』 と 『当事者とともにある人々』の経験からの政策 化」などを含意しています. 多くのジレンマを抱えつつも,当事者の傍らで思考 し続ける者でありたいと願います. によってのみ確かなものとなる.「これが公的生活の 意味である」」と説明しています. ここまでの論点を踏まえて「公共性」を整理する と,分かりやすく決定的な単一の政策や異なる意見を 取り除き同一性を目指す解決策には注意が必要なのだ と思います(図 7).そこには,隠された(不可視化 された)人々の営みと物語があるかもしれないからで す.そのため,私たちは,立ち止まり,「複数性」の 煩わしさに耐えつつ,「多様性」を認め合う粘り強い 対話とともに,思考し続けることが求められるのだと 考えます.そして,この思考し続けるために,「当事 者性」が手掛かりになるのだと思います. ご両親も水俣病の被害者であり,現在は自ら水俣 病の語り部をされている「杉本肇」さんの言葉を紹介 します.東日本大震災後に語られた言葉です.「僕た ちがもう少し深く掘り下げて,水俣病の教訓や公害問 題,環境破壊問題に目を向けていれば,現在に至る間 違った電力構成,そして原発事故は未然に防げたので はないかと思います.安全だ,エコだ,と長きにわ たって宣伝されていた国内のエネルギー政策が,蓋を 開けてみると,相当駄目だったことが明らかにされ た.だから,今日の日本を作ったのは僕ら大人の責任 です.水俣をはじめ公害病のこと,ひいては長崎や広 島のことを真剣に学んできたのか.僕は長い間学ぼう としなかったし遠ざけていました.無関心だった責任 を今痛烈に感じているし,福島の人に対して心から申 し訳ない気持ちです.」(藤崎, 2013)これは,水俣病 の被害者という法外に置かれた体験をもつ当事者の視 点からの言葉であり,当事者同士の応答の語りである と思います.そして,当事者による隠された物語の可 視化なのだと考えます. では,私たち保健師の応答はどうあればよいのか, もう一度考えてみたいと思います.ジャック・デリダ (Derrida J.)(2004)は,「責任の行使は転向と背教の 危険をもつねにはらんでいる.伝統や権威や正統性や 図 7 図 8柿木伸之(2004):応答から来たるべき正義へ―デリダの責 任と正義をめぐる思考,広島国際研究,10, 133–150. 厚生労働省(2020):子ども虐待による死亡事例等の検証結 果等について(第 16 次報告),58–63. Mayeroff M. (1971) / 田村真,向野宣之(1987):ケアの本質 生きることの意味,43–45,ゆるみ出版,東京. Sen A. (1992) / 池本幸生,他訳(1999):不平等の再検討 潜 在能力と自由,67–68,岩波書店,東京.
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