第
6 章 北京時代
1.ソーシャル・ワーカーへの道 1918 年アメリカへ戻ったアイダ・プルーイットがなぜソーシャル・ワー カーへの道を選んだのかを探るには,個人的状況と社会的状況の二面から見 る必要がある。前章で解説したように,「間接的なやり方ではなく, 民主 主義にとって安全な世界 を建設する直接的な手伝いがしたい」1)と考えて アメリカへ戻ったものの,「職を探そうとしたが,その頃は大変だった。戦 時期ということもあったが,職を見つけるのは本当に大変だった。師範学 校の卒業生なら簡単だった。しかし私は教員養成学部を卒業したが,教師 に必要な学位は取得しなかったので,教員制度に入っていくことができな かった」2)と晩年回想しているので,ソーシャル・ワークの専門家になるこ とが唯一の目標であったとは考えにくい。ただコロンビア大学在学中にTheNew York School of Social Work の社会学のクラスを受講した際,裁判所,エ リス島の移民管理局,劣悪な環境にある工場等を参観して,軽犯罪を犯した 女性や過酷な労働に耐える労働者や貧しい移民に同情を寄せ,スラムの子 どもたちを支援した体験,及びマンハッタン北方のDobbs Ferry の孤児院 St. Christopher s Home で二年間教鞭を執った経験,さらにニューヨークで婦人 参政権の運動に関わった経歴からして,社会的弱者との関わりに自分の生き がいを見出していくことは,至極自然な選択のように思える。 具体的にアイダ・プルーイットがどのような経緯でソーシャル・ワーカー の道に進んだのかを知る手がかりの一つに,北京協和医院在職中(1920 ∼
二つの国と二つの文化(
3)
山口 守
38 年)の雇用契約延長の際に書かれたと思われる履歴書3)がある。それに
よれば,1918 年 7 月に芝罘を離れた後のアイダ・プルーイットの経歴は次
のようなものであった。
1918年9月―1920年1月 Philadelphia Charity Organization(現Family Society) でケース・ワーカー
1920年2月 ロックフェラー財団経営の北京協和医院(Peking
Union Medical Hospital)と雇用契約
1920年2月―1921年2月 ボ ス ト ン の Massachusetts General Hospital, Social Service Departmentで研修 1921年5月―1926年2月 北京協和医院でソーシャル・サービスを立ち上 げ,運営にあたる 1926年2月―1927年2月 アメリカで一年間の休暇(バンクーバー,サンフ ランシスコ,デンバー,セントルイス,クリー ブランド,ボストン,ニューヨークの各ソーシャ ル・ワーク組織を訪問) 1926年9月―12月 ボランティアのケース・ワーカーとしてニュー ヨークのPresbyterian Hospital で勤務 1927年2月―現在 北京協和医院ソーシャル・サービス部門の責任者
この履歴書は,雇用契約延長を決定する委員会Committee on the Hospital
の議事録Minutes of the Peking Union Medical College と一緒に綴じられている
ので,作成も委員会開催前後と思われる。1929 年 1 月 15 日に開かれたこの 委員会は,医療ソーシャル・ワーカーとしてアイダ・プルーイットをさらに 二年間再雇用することを承認している。別の視点から見れば,アイダ・プルー イットは終身雇用制の職員ではなかったことが分かる。この履歴書を含む北 京協和医学院所蔵のアイダ・プルーイット個人情報英文資料は,1919 年か ら1929 年にかけてのものだけで,それ以降退職までの九年間分は未発見で ある。1941 年 12 月,日本軍が協和医学院を占領した際,書籍や文書の一部 を没収しているので,その中に入っていたか,或いは戦後の国共内戦期や人 民共和国建国以後の混乱の中で失われたか,真相は不明である。
これを見ると,ソーシャル・ワークの仕事の中でアイダ・プルーイットが 当時選択したのが,医療ソーシャル・ワーク分野で個別事例を扱うケース・ ワーカーであったことが分かる。そもそも社会福祉事業としてのソーシャル・ ワークは「人権と社会的正義」4)を基盤としている点で,キリスト教的社会 関与から社会問題への直接的関与に歩を進めようとしていたアイダ・プルー イットの志向に合致していたとも言える。だが,その過程には外在的,偶発
的要因も含まれている。まず当時を回想した文章The Years Between で描か
れるアメリカ帰国後の状況を検証してみることにする。 私たちは騒々しいアメリカへやって来た。「ヤンキーがやって来た。 ヤンキーがやって来た」と,いつでもすべての人に知らせ回っているの だ。彼らは歌い,口笛を吹き,ハミングする。アメリカは「民主主義に とって安全な世界」を建設しようと,有意義なことをする方向へ力強く 進もうと急いでいた。人々は顔を上げて,歩道を大股で歩いた。 エドナ5)も私も無一文だったし,家族以外に知り合いがいなかった。 母と二人の弟はフィラデルフィア西地区に住んでいたが,それはロバー
トが以前School for Blind in Overbrook6)で学び,今はペンシルベニア大
学に入学しているためであった。そこで私たちはフィラデルフィアへ行 くことになった。母と二人の弟はラム夫人の家に住んでいた。彼女はバ プティスト派牧師の未亡人で,住む所のない者を自宅の大きな家に受け 入れていたので,エドナと私はラム夫人の家へ行くことになった。7) 引用文の冒頭を見ると,六年ぶりにアメリカ社会に接して,第一次世界大 戦という国際的危機状況にあっても楽観的で積極的なアメリカ市民の姿を, アイダ・プルーイットがどこか醒めた目で見ている節が窺える。「民主主義 にとって安全な世界」構想に共鳴するアイダ・プルーイットが,当時のアメ リカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの主張をどこまで認めていたかは不明だ が,反戦活動を理由に逮捕されたアナキストで女性解放運動家のエマ・ゴー
ルドマンが,裁判で陪審員を相手に述べた「まずアメリカ国内で民主主義 が安全であるようにせよ」8)という言葉ほどには批判的でなかったとしても, 少なくとも宣教師外交(missionary diplomacy)と呼ばれる自己流理想主義の 対外拡張(中南米への軍事介入がその例)を進めるウッドロウ・ウィルソン を個人崇拝する気持ちがなかったことは,以下の引用文からも窺える。フィ ラデルフィアの街中で第一次世界大戦休戦協定締結祝賀パレードに遭遇した アイダ・プルーイットは,群衆にもみくちゃにされた体験を語った最後をこ う締め括っている。 群衆がどういうものか分かった。そして悪意を持った群衆に巻き込ま れないことを願った。一つの意志や思考しか持たない人々が集まった時 の力を感じた。それは善にも悪にもなり得る。思えば,義和団事件の時 に中国の群衆は人間を千切って引き裂いて,肥溜へ投げ込んだものだ。 それにわが南部の群衆は黒い覆面をして,黒人の兄弟たちを吊るしたの だ。 ウィルソンは去った。人々は散って行った。我々は再びそれぞれの道 を行く個人となった。個人でいる時には決してしないことを群衆になる としてしまう理由が私には分かった。そしてたとえそれが善なるもの だったとしても,二度と群衆に巻き込まれたくないものだと思った。9) 山東省黄県で「私」と異なるものの発見から自我を形成したアイダ・プルー イットにとって,アメリカ社会に身を置いても,他者との類似を発見して, 「私」が所属すると想定される共同体に自己同一化して喜びを感じることは ありそうにない。それが故郷中国であれ,故国アメリカであれ,他と異なる 「私」を貫いて,自分が自分であり続けることを模索する茨の道に自身の人 生の意義を見出しているように見える。但し,その道は決して平坦ではない。 当時のアメリカ社会でアイダ・プルーイットのような経歴と思想を持つ者が, 順調な市民生活を送ることは容易ではない。住む場所はラム夫人の好意に頼
るとしても,職探しは困難を極めた。当時を振り返った文章を少し長くなる が引用してみる。 私たち二人には売り物になる技能が何もなかった。エドナは芝罘時代 に母親の輸出入関係の通信などいくらか手伝ったことがあるかもしれな いが,働いた経験はないに等しい。私は教える以外の仕事をしたことが ない。ずっと教師をしてきたものの,その時点ではこの国で初中等学校 の教師になる資格がなく,高等教育機関で教えられる高い学位もなかっ た。二度と学校で教える仕事をしたくない自分も分かっていた。友人同 士であれこれ相談し,また多くの努力を尽くした。赤十字に行こうとま で考えたが,研修を受けたソーシャル・ワーカーかボランティアしか受 け入れていなかった。 新聞を読んで,戦時規則により女性が工場労働者として雇用されるこ とを知った。従業員を募集している工場へ二人で行ってみた。それは 1918 年秋のことである。路面電車に数時間乗り,人気のない荒れ地に たつ建物まで,少なくとも四分の一マイルはありそうな砂利道を歩いて いった。沢山のドアを見ては通り過ぎた果てに,人事課と書かれた所ま でやって来ると,一人の男の姿を認めた。彼はドア横の柱にもたれてい た。話しかけるべき男だったのか,或いはそうでなかったのかもしれな い。 「お嬢さんがたは何をお望みかね」 「仕事がほしいんです」二人のうちの一人が答えた。 「だめだな」と男は言った。「ここでは働けない。ご婦人ではね」 「でも,私たちは若くて丈夫な女性です。働いて国家に奉仕したい んです」 「あなたがたには無理だね」 その男にこう指摘してやりたかった。アメリカは民主国家である。ア メリカにはご婦人などという存在はない。中国の学校でも,伝道所の家
でも,「品格ある人間がすることが品格のあること」であった。しかし, エドナはすでに路面電車に乗るために砂利道を引き返し始めていた。 エドナは秘書の仕事の講座を受けることに決め,女子寮へ引っ越した。 母はまもなく中国へ帰る予定だったので,私はここに留まって大学で勉 強しているロバートと西フィラデルフィア高校に通っているマックの二 人の弟の面倒を見ることを期待されていた。ロバートは確かに助けが必 要だが,マックは落ち着いて要領のよいやり方で生きていた。母に連れ られてジョージア出身の古い友人とお茶を共にした。その人は現在フィ ラデルフィアに暮らしていて,家族協会(Family Society)の委員だった。 その頃,その組織は慈善協会(Charity Organization Society)と呼ばれて いた。母の友人がその組織に紹介してくれたので,私は中国における宣 教師としての経験に鑑み,見習いソーシャル・ワーカーとして雇用され た。だが実際には主たる理由として,多くのソーシャル・ワーカーが海 外へ送られてしまい,新規補充の者も郷里であくせく働くよりも海外へ 行くことを選択しているためであった。私はアメリカでもうまく職を得 るには知り合いが必要であることを学んだ。10) これを見る限り,ソーシャル・ワークの道に進んだのは,求職中に母親か ら紹介された人物の紹介によるものであったことになるが,中国における経 験を買われた以上に,そもそもアイダ・プルーイット自身がこうした職業に 興味を持たなければ,そうした選択もあり得なかっただろう。偶然の中に主 体的意志という必然が貫かれていることになる。こうして1918 年 9 月から 一年余り,アイダ・プルーイットはフィラデルフィアの家族協会でケース・ ワーカーとしての職に就くことになった。その間に,彼女の人生の後半を決 定する大きな転機が訪れた。晩年のインタビューの中でその機会をアイダ・ プルーイットは次のように説明している。 質問者 「大学教育やアメリカでの職業経験の後,どうして中国へ戻る
ことになったのですか。」 アイダ ・プルーイット「自分がある程度知っている国や残してきた 人々のもとへ戻ることに決めましたが, 伝道 の道へは戻り たくなかったので,どうやって中国へ行けばいいのか分かりま せんでした。ちょうどその頃,アトランティック・シティでソー シャル・ワーカーの年次大会が開かれたので,私も参加しまし た。橋の上に立って砂浜を眺めていると,ある友人が歩いてき てこう言いました。 ロックフェラー財団が北京の新しい病院 のためにソーシャル・ワーカーを探しているのを知っている? ソーシャル・ワーカーに中国語を学ばせるのがよいか,中国語 ができる人間にソーシャル・ワークを学ばせるのがよいか決め かねているそうだけど,あなたは両方ともできるから応募して みたら? そこで私は応募して採用されました。」 質問者「それがロックフェラー財団だったのですね。」 プルー イット「そうです。ロックフェラー財団です。中華医学基金
会11)病院(China Medical Board Hospital),特に北京協和医院に
資金提供していました。それは1918 年,いや 1920 年,確か 1920 年のことです。私は病院におけるソーシャル・ワークに ついて,アイダ・キャノンの指導を受けて学ぶためにマサチュー セッツ総合病院へ派遣され,一年間滞在しました。その後,ソー シャル・ワークの視察のために,アメリカ国内各地を見て回り ました。」12) このインタビューにおける回答で,当時の事情がほぼ分かる。確認してお くと,フィラデルフィアで慈善協会の見習いソーシャル・ワーカーとして働 いていた時に,アトランティック・シティで開かれたアメリカ国内のソー シャル・ワーカー年次大会に出席した時に,ロックフェラー財団(Rockefeller Foundation)が北京協和医学院(Peking Union Medical College 略称 PUMC)
附属病院開設に際してソーシャル・ワーカーを探している情報を得て,応募, 採用されたのである。その際,中国語が堪能であることと,ソーシャル・ワー カーとしての訓練を受けていることの二条件を同時に満たす人物であったこ とが,アイダ・プルーイットに有利に働いたことになる。それはある意味で, 人生の前半から続く必然の道であったように見える。しかも晩年の回想とは いえ,自らの意志で中国へ戻るつもりだったと表明している点が,アメリカ と中国という二つの国家,二つの文化を相互に行き来する主体性を全うした いアイダ・プルーイットの姿勢を明確に示している。ただその道は決して容 易ではない。何よりも主体としての私は何者かを認識することが可能である か,また常に揺らぎの中にある状態としての私は果たして確たる主体として 認識し得るものなのか,1920 − 30 年代の激動する中国でそれを模索する道 は平坦ではなかった。 まず北京へ赴任するまでにも時間がかかっている。ロックフェラー財団と 契約しても,その時点で彼女はまだ医療関係のソーシャル・ワーカーとして 十分な経験や能力があるわけではなかった。実はフィラデルフィアの家族協 会で働いていた一年半の最後に,アイダ・プルーイットは自ら辞職を願い出 ている。当初はフィラデルフィア北部の貧困白人相手の仕事だったが,次に フィラデルフィア南部のイタリア人移民街での仕事を割り当てられた時,移 民相手の仕事に向かない自分を発見する。「私が学んだのは,この国に来た ばかりの人々が,アメリカは豊かな国で,蛇口を捻りさえすればお金が れ 出てくると考えているということだった。私は蛇口にはなれない。自分がそ れなりに理解し,また愛している人々や国へ戻りたかった」13)とアイダ・プ ルーイットは回想しているが,経済難民としての移民が豊かな生活を求める ことは十分想像できることであり,ソーシャル・ワーカーならばそれに適切 に対応しなければならないはずである。ところがアイダ・プルーイットには イタリア人移民の言語・文化・価値観を学ぶ意志がなかった。それはソーシャ ル・ワーカーとして必要とされる一般的な能力から見れば未熟な状態である。 しかし彼女の中では,やはり中国と結びついた形でしかソーシャル・ワーク
の仕事が考えられなかったのだろう。北京協和医院赴任前に彼女が医療ソー シャル・ワーカーとしてさらなる研修を受けなければいけなかったのも,客 観的に見れば当然のことであった。 少なくとも会議の場では厳めしい雰囲気をたたえていた中年男性の集 団,ロックフェラー財団中華医学基金会は私をニューヨークへ招き,北 京協和医学院附属病院ソーシャル・ワーク部門の主任に任命した。私は 中国のことやソーシャル・ワークについてそれなりに知ってはいたが, 病院での経験がなかった。そこで1920年1月,彼らは私をマサチューセッ ツ総合病院に初めて創設された医療ソーシャル・サービス部門へ一年間 の研修に送り出した。アイダ・キャノンが監督者だった。 病院やソーシャル・ワークや人々について多くを学んだ収穫の多い一 年だった。しかし,それなりに文献を知っている年長者にとっては,研 修を受けたことがないか,もしくは学校で理論的な勉強をしただけの未 経験の若者向けに設計された研修をやり通すことは簡単ではない。私が 要求されたことの多くはうんざりするものだった。関連分野での予備研 修をすでに受けていたからだ。規定のコースを端折って必要な原理を学 ぶつもりだったが,監督者はそれを知る由もなく,私も言い出さなかっ た。中国では考えさせるのは教師の側の責任である。中国の学生運動は まだ始まっていなかったし,私もその当時の中国的思考に触れる術は なかった。私は変化を生み出してこなかった古い文化の中で育ったの だ。14) アイダ・プルーイットはボストンで暮らしながらソーシャル・ワークの研 修を積んでいったが,その日常は決して容易なものではなかった。晩年の回 想でアイダ・プルーイットは「最初の六ヵ月は今まで経験した中で一番辛い 月日だった。あれほど孤独だったことはない」15)と当時の精神状況を語り, また「ドレスが買えたらよかったのだけれど,買い物しようにもお金がなかっ
た」16)と経済的な苦労にも言及している。ただ次第に研修や新生活への適応 ができたのか,或いは弟ロバートがペンシルヴァニア大学卒業後ハーヴァー ド大学へ研修に来て,アイダ・プルーイットと暮らすようになったからか,「次 の六ヵ月は人並みに楽しいものだった」17)とも回想している。三ヵ月間子ど も病院で研修して新鮮な経験を積んだのもこの時期で,総じて最初の六ヵ月 より充実感を覚える生活だったようだ。 だが,彼女があら捜しに近いと個人的に感じていた監督者との軋轢に関し て見解を求められた時,「人は自分の教師に質問したり反論したりするもの ではないのです」18)とアイダ・プルーイットが回答すると,「あなたはまる で中国人みたいだ」19)と異文化の壁を指摘される。その時アイダ・プルーイッ トは中国とアメリカの間に挟まれた自分を再認識するのだが,一方でそれ は「長い子ども時代と青春時代の終わりを告げる」20)転機であり,一方で自 己主張を重視する欧米文化に対して,東アジアでは控えめな倫理道徳が求め られると考えるアイダ・プルーイットにとって,両者の間に橋を架けようと する時に直面する重要課題であり,「時にその橋は揺れ動くことがあっても, 強固にする努力を継続しなければならない」21)覚悟を固める機会でもあった。 やがてボストンにおける研修を終えたアイダ・プルーイットは,1921 年 4 月に中国北京へ向けて出発する22)。 2.北京協和医学院 アイダ・プルーイットが1921 年から 38 年まで勤務した北京協和医学院
(Peking Union Medical College) は,その初期の歴史を遡れば,1906 年に創立
された協和医学堂(Union Medical College) が前身である。イギリスのロンド
ン伝道協会は,19 世紀末すでに中国における医療サービスを開始していた
が,20 世紀に入った 1906 年に,西太后や清朝高官の援助の下,協和医学堂 を創立し,長老派やメソジスト派など英米の五つのキリスト教教派も経営に 加わった。その後,アメリカのロックフェラー財団がこれを買収して全面改
する。John D. Rockefeller の息子 David Rockefeller が自叙伝で「私の両親は, 1921 年夏に北京を訪れて――アジアを訪問したのはこの一回きりだ――北 京協和医科大学の開校式に参加した。七十五年以上たった今でも,両親が三ヵ 月家を留守にして日本,韓国,中国をまわっていたあいだ,ひどくさびしかっ たことを覚えている」23)と回想しているのも,その傍証となるだろう。興味 深いのは,息子の目から見て「さらに重要なのは,アメリカの慈善事業が中 国の近代化に重要な役割を担っている一方で,伝統的なアメリカの伝道活動 は時代遅れで中国のニーズに合わない,という見解に父が納得したことだ。 両親それぞれが得た教訓は,本人たちだけでなく,兄たちや私の人生にも永 続的な影響を与えた」24)と,大富豪の見解がおよそ正反対の位置にいるアイ ダ・プルーイットと一部で似通っている点である。 その後1927 年の中華民国政府南京遷都に伴って,1929 年に政府の命令に
より私立北平協和医学院(Peiping Union Medical College)と一度改称してい
る。抗日戦争及び国共内戦時期の1942 年―47 年は休校状態だったが,1947 年に復校。1949 年人民共和国建国に伴い北京協和医学院へと再改称。ただ 人民共和国体制下で1952 年に大学における社会学系統の学科が廃止された こともあり,アイダ・プルーイットが心血を注いで運営した社会服務部は廃 止された。1950 年代は中国協和医学院,中国医学科学院,中国医科大学と 何度か名称変更したが,文革の影響で1970―78 年は休校状態になり,1979 年に中国首都医科大学として復校。その後は中国協和医科大学を経て,現在 は元の名称の北京協和医学院へと戻り,本科の基礎教育を清華大学等に委託 する形で八年制の医科大学となり,高水準を誇る医学教育機関となっている。 こうした経緯を見れば,中断はあっても常に中国における西洋医学の殿堂で あったと言っても過言ではない。そのため中国近代史の様々な場においてそ の名前が登場する。例えば孫文25),梁啓超26),愛新覚羅溥儀のような著名 人もこの大学の付属病院協和医院で治療を受けている。また考古学や人類学 に興味があれば,発掘された北京原人の化石を保管,研究した新生代研究室 が置かれていた大学としてその名前を知っているかもしれない。
前身となる医学堂はあったが,実質的にこの大学を創設したのは,福 音伝道事業に熱意を持っていたアメリカの石油王ロックフェラー(John D. Rockefeller) と言ってよいだろう。彼は 1909,1914,1915 年と三度にわたっ て中国へ調査団を派遣し,その報告に基づいて中国の医学教育を援助するこ とに決定した。そもそも1913 年 5 月に設立されたロックフェラー財団は, 当初より医学研究や医学教育の援助に重点を置いていたが,特に中国の医学 教育を援助するため,1914 年 11 月に中華医学基金会 (China Medical Board)
を設立して援助態勢を整えた。1915 年 6 月,財団は 20 万ドルで協和医学堂 の全資産を買収して新しい医科大学の設立準備に入り,旧校舎の隣りにあっ た清朝時代の王族の邸宅豫王府も12 万 5 千ドルで購入して,大規模な校舎 建設にとりかかった。750 万ドルかけて建設されたアメリカ人の設計になる 新校舎は,外観が中国の宮殿風,内部が西洋式であった27)。これらの建物 の一部は,現在でも王府井と東単に挟まれたキャンパスに当時の姿のまま 残っている。 開校時の所有地総面積は,22.6 へクタールだったと言われる28)。大学は 八年制で,1925 年に予科課程を廃止,北京市内の燕京大学など他大学で 三年間の予科課程を終えたものが編入してくる制度へと変更された。ハー ヴァード大学やジョンズ・ホプキンズ大学のメディカルスクールに範をとっ たこの学校の西洋医学教育水準の高さはつとに有名であった。正式に開校す る1921 年 9 月までに招聘された医師や教員など 151 名のうち,イギリス, アメリカ,カナダを中心とする外国人が123 名を占めていた29)。アイダ・ プルーイットもその中の一人である。また客員教授制を設けて海外から著名 な学者を招いたのも,この学校の特色の一つとされる。授業は予科が1917 年から,本科が奇しくも五四運動と同年の1919 年から始まっているが,先 に述べたように新校舎が完成した1921 年が本格的なスタートと言ってよい だろう。学生の定員は一学年30 名を超えないよう制限されていたため,少 人数のエリート教育が可能だった。また授業はすべて英語で行われていた。
3.協和医院社会服務部 この医科大学には看護学校と実習教育のための附属病院である協和医院が 併設されていた。魯迅とも親交のあった日本人ジャーナリスト丸山昏迷が 「現在協和医学校は寧ろ医院の付属物のやうで」30)と形容するほど,附属病 院たる協和医院の存在が際立っていた。前に述べたように,19 世紀のキリ スト教伝道活動の中で,西洋医学の導入が宣教師の生命保護や健康維持以外 に,中国人にとって西洋科学の一部として受け止められ,また実際に西洋医 学による医療行為が効果を発揮した経緯があり,1920 年代中国でも,西洋 医学教育よりも病気の治療自体に重点を置いて医科大学や病院を見る傾向が あったことは否定できないだろう。この協和医院に設けられた「社会服務部」 (社会服務はSocial Service の中国語訳で,日本語で言えば社会福祉事業)が, この大学の特色の一つである。アイダ・プルーイットはその社会服務部の責 任者として招かれた。 彼女が適任とされたのは,中国で生まれ育ち,中国の言語や文化に精通し ていると認められたためである。この点は仕事に対する熱意と共に,のちの 契約延長の際の文書でも繰り返し述べられる彼女の長所である。第一回目の 契約延長の際の人物評価では「中国の人々の習慣や考え方を熟知しているば かりでなく,その言語に堪能なことが大きな長所である。さらに中国人から 好意を持たれ,一緒に働く者の間で病院に友好的な雰囲気を作り出している と確信できる」31)と,その中国語能力と中国通である点を高く評価されてい る。もっともアイダ・プルーイットの中国語は故郷山東の子ども時代に口と 耳を通して学んだものなので,「北京の人々に理解してもらうには十分だが, 私のアクセントはおかしなものと思われた。そこで他の新参者同様,イ・ハ ンチン先生の授業に時間を費やした」32)と標準中国語学習が必要だったこと を自ら証言している。逆に山東方言を操ることも含めて,中国人側から見れ ば「当時西洋から来た学者,商人,役人,学生にとって,アイダ・プルーイッ トは中国に 一番近い 西洋人だった」33)と評価されることにもなる。なお 1921 年 5 月から彼女は協和医院社会服務部の主任としての勤務を開始する
が,当初の給料はメキシコ銀貨で一年間3360 ドルであった34)。契約上の任 期は最初の4 年に再雇用の 3 年を加えて 7 年間だが,一年間の休暇付きなの で,1926 年 1 月までが最初の勤務期間ということになる35)。 社会服務部の仕事は多岐にわたるが,基本的に病人を様々な形で援助する ことが最大の任務である。公の立場からの解説では「協和医院は社会服務部 を設置し,患者へのサービスに努め,医師と病院行政部門が患者の社会的な 問題を解決するのを手助けした(全国解放後,一時期その任務と性質に甚だ しい誤解があった)。例えば字の書けない患者に代わって手紙を書いて家族 と連絡を取ったり,病状の報告をしたり,金や物を届けさせたり,退院して 家に帰る時の出迎えをしてもらうなどである。さらに患者が貧しくて入院費 を納められない場合,減免を要求することもあった。また患者の退院後に医 師が本人や家族に回復状況を尋ねたり,病院へ再診に来ることを求めたりす る場合にも働いた。これらは非常に効果ある仕事であった」36)とあり,病院 と患者の間に立って様々な援助を行う新部門であった。実際にその任務を遂 行するには,患者個人との面談や家庭訪問を行うなど,調査活動が仕事の大 きな部分を占めていた。当時アイダ・プルーイットの下で働いていた中国人 職員の回想によれば,英語で書かれた調査記録の内容は,氏名・性別・婚姻 歴・原籍・住所・職業・家族/ 親戚 / 友人(氏名・年齢・職業・住所)・住居・ 経済状況・経歴・現況など詳細かつ多岐にわたるものであった37)。 この患者の英文記録は,個人情報データが絶対的に不足していた当時の中 国にあって,研究者にとって極めて貴重なもので,「夏の第一学期の終り頃, ウィットフォーゲル夫妻は北部中国で最も近代的な病院であるアメリカ人設 立の北平ユニオン・メディカル・カレッジ〔北京協和医学院〕を訪ねた。そ こではミス・アイダ・プルーイットが運営する優秀な社会事業部が幾年にも わたって続いており,北部中国のほとんどすべての地域から治療を受けに やって来た多くの患者の個人記録が残されていた。それらの個人記録が経済 学的,社会学的に重要であることを認めたウィットフォーゲルは,それらを 利用する許可を求めた。許可が得られたので,彼は1936 年初め頃南京から
北平に戻ってすぐに,中国の家族の研究を企画した」38)と解説されているよ
うに,患者の個人記録はカール・ウィットフォーゲル(Karl A. Wittfogel)が
『オリエンタル・デスポティズム(Oriental Despotism)』等,また当時パートナー
だったオルガ・ラング(Olga Lang)が『中国の家族と社会(Chinese Family
and Society)』等を執筆する際に利用されて,中国社会研究の上で大きな意 味を持った。 こうした仕事の組織作りと運営がアイダ・プルーイットに任された。彼女 は1921 年 5 月に着任すると,数人の中国人スタッフとともに開設準備,さ らに運営に当たった。のちにスタッフは増員され,常時20 − 30 人のスタッ フがいたが,外国人はアイダ・プルーイット一人だったといわれる39)。中 国における社会福祉事業の黎明期にあって,ソーシャル・ワーカーの草分け 的存在であるプルーイットの指導者としての任務は重かった。アイダ・プルー イット自身もその困難を率直に語っている。 その頃の中国では研修を受けたソーシャル・ワーカーはYWCA の秘 書しかいなかった。数が極めて少なく,しかもYWCA 内部で重要な地 位にあった。その上,研修はケース・ワーカーに求められているように グループ行動面で行われた。そのため,私たちはスタッフを訓練するこ とから始める必要があった。適当な人材を確保するのは容易でなかった。 大学の社会学科はまだ新しく,規模も小さかった。その頃,社会学科に 進む男女の学生はたいてい都市か農村で調査を行うのが普通で,専門的 知識を持つ学生集団は名声や高給を伴う仕事を目指した。公共精神を持 つ者が宗教組織や教育機関から輩出されるものの,病院のソーシャル・ サービスのような新しく,まだ知られていない仕事に賭ける気はなさそ うだった。また滅多に言葉には出されないが,ソーシャル・ワークは施 しであって,大学教育に必要ないという雰囲気があった。40) 協和医院は本来協和医学院の教育のための附属病院で,内科(小児科,精
神科,皮膚科を含む),外科,眼科,産婦人科など,すべての分野が揃った 総合病院であり,ベッド数も当初は250 床,のちに 350 床に増床され41), 出入りする患者の数も多かった。こうした現実の中で,アイダ・プルーイッ トはソーシャル・ワークの概念すらよく知られていなかった当時の北京に あって,社会服務部を運営していくために,まず中国人スタッフの訓練から 始め,のちに社会服務部は燕京大学,輔仁大学,滬江大学,金陵大学,中山 大学など,北京のみならず中国各地の大学の社会学科の学生が,ソーシャル・ ワークについて学ぶ実習センターともなった。またアイダ・プルーイット自 身も燕京大学や協和医学院附属看護学校でケース・ワークについての授業を 担当した。 そうした資料作成を行うケース・ワークのために,家庭訪問など外部での 調査活動も並行して行われた。これらの仕事を統括するだけでも,すでにか なり大きな負担がアイダ・プルーイットにかかっていたことになる。具体的 に直面する問題は,二つの異なると同時に関連する方向性を含んでいた。西 洋起源のソーシャル・ワーク理解を育むことと,その対象となる中国人や中 国社会への理解を深めることである。 ソーシャル・ワーカーには別のもう一つの能力が求められていた。中 国社会の構造,すなわち清朝や満州族の規範によって拡大され,上塗り された農村生活や北京の規範の古い構造を知ることが必要である。平均 的な大学生は豊かな家庭に育ち,寄宿舎生活を送ってきたので,この古 い規範についてほとんど知らず,また蔑視して,現在の学生の義務とは 西洋社会の新しい規範を学ぶことだと考えていた。42) こうした点から見れば,アイダ・プルーイットは,西洋社会の新しい規範 と中国社会の古い規範を両方とも理解していた人物として,まさに社会服務 部の指導者として適任だったということになる。ただ協和医院に勤務してい た1921 年―1938 年は近代中国の激動の時代に相当する。中国にも新しい規
範が形成されていく時代である。大学や病院内で接触する中国人医師や職員 や学生は,言ってみれば都市化,西洋化した階級に属するので,当時の中国 の階層構造から言えば比較的豊かな階級である。もちろん同じ場所で働く西 洋人との待遇の格差は歴然としていて,差別的待遇があったのは事実であ る。例えば1932 年燕京大学社会学科を卒業して,病院で初めて社会学科卒 業生として社会服務部に勤務した中国人職員は,月給が75 元(それでも他 の専攻の卒業生より5 元高かったという)だったと証言している43)。アイダ・ プルーイット自身の回想にも次のような記述がある。 「中国人とアメリカ人の給与についてどう思いますか」このことにつ いて話し合ったことはなかったが,当時病院内で心痛める問題だった。 「同じ研修を受け,同じ仕事をしていても,外国人より給与が少ないと 言う者がいます」チン・フォンは高度な研修を受けた看護師だった。彼 女は燕京大学で五年間学び,看護師課程を卒業していた。公平さを求め るその真面目で若い顔つきは,全ての面を見ていた。44) この不満は当然病院外の社会とも通じている。アイダ・プルーイットが西 洋と中国の懸け橋となることを願っても,五四運動に象徴されるような反帝 民族運動後の1920 年代中国で,西洋と帝国主義を明確に区別する人々が多 数を占めていたとは思えない。 地方の人々が外国人を憎んでいたのは,古来のやり方を変えさせ,子 どもや女性に自由を主張させ,子どもたちに儒教を捨てさせ,家族を崩 壊させるからだという。農業手工業社会の規範の中で生きてきた人々が, 工業革命が強く求めるものを知るはずがないではないか。学生たちに広 がる反外国人感情は歴史的に形成されてきたのだ。45) こう語るアイダ・プルーイットは山東省の農村地域で子ども時代を過ごし
ているので,農民伝統や古い中国文化に共感を持ちつつ中国理解を育んでき た。バイカルチュラルといっても,アイダ・プーイットの場合,単に中国と アメリカの間だけでなく,伝統と近代の間でもバイカルチュラル状態だった ということになる。だが義和団事件の経験と同じく,バイカルチュラルと いうより,むしろ二項対立的でない複雑に絡み合った状態の 藤と言ってよ いかもしれない。例えば,中国の農村における子ども時代と近代的自我を育 んだアメリカ時代の記憶を併せ持つアイダ・プルーイットは,近代アメリカ 人として中国の古い文化に興味を持ちながら,その一方でアメリカ型のソー シャル・ワークを近代中国に根付かせようとする。 その頃は,私たちの誰もはっきりとは見えていなかった。ディレンマ は病院だけでなく,男女平等に研修や教育を受ける大学でもそうである ことを手探りで理解しようとしていた。各個人の出自によって異なる文 化規範が原因で給与に違いが生まれる。世界のほかの場所でも同様に発 展段階を迎える変化の時期だった。ただその問題は所属する人種ではど うしようもなかった。差別を受けていると感じる人々に,それは劣った 人種だと思われているからだと言えるはずもない。46) 待遇ばかりでなく,言語面でも軋轢が生じていた。1926―27 年当時の病 院内では「中国人医師は教室以外で外国語を使うことを拒否して中国語を話 そうとした。一夜のうちに授業を中国語にしてしまうほど中国語の専門用語 標準化は進んでいなかった。それにすべての記録は英語で書かれて保存する ことになっていた。また,その頃は教授のほとんどが,中国語を知らないア メリカやヨーロッパから来た男性だった」47)。ただ一方で,当時の中国で人々 の国民化が十分に進んでいたわけではないことをアイダ・プルーイットは, 「国家概念は中国人としての生活様式概念に付加される途上にあった」48)と, 過渡期中国の状況を冷静に分析している。いずれにしても,たとえ中国語を 流暢に操るアイダ・プルーイットでも,西洋と中国,近代と伝統の狭間で単
純な選択をしていたわけではないことが想像できる。北京での暮らしや協和 医院での仕事すべてが手探り状態だったと言ってもよいだろう。 病院内にいてもアイダ・プルーイットがアメリカ時代と同じく社会的関心 を保ち続けたことは,その模索を深化させる要因となった。ちょうど北伐前 後の時期だったのだろう。アイダ・プーイットは当時の外国人としては非常 に珍しく,北京の学生デモに参加する経験を持った。 中国も変化の時代であった。中国人にとって北京では古いものが新し いものに道を譲りつつあった。南部では革命活動による反抗の声が挙 がっていた。北京の学生たちは組織され,活発に活動していた。病院内 で学生の活動に関心を示す人は,驚くべきことに極めて少なかった。私 はある医師の妻を説得して,一緒に学生デモに参加した。事前に新聞報 道で知っていたのだと思う。国立北京大学の構内に群衆が立ったまま密 集していた。たいまつの明かりが,我々に向けられる視線よりも真剣な 顔に明滅していた。私は二度とデモには参加しなかった。私が西洋人で も学生は友好的ではあっただろう。私の顔立ちや出身地から判断するこ とはしないが,ただ学生たちは私が思考や感情を共有していることを理 解できなかっただろう。憎しみではない何かが眼差しにちらっときらめ いた。結果として関心を持つべきは個別の学生であると認識するように なった。そこで山東から連れてきた学生であるチン・フォンに頼ること にした。49) アイダ・プルーイットが回想するように「病院内で暮らしていれば,表面 的には中国人の暮らしは映画の画面以上の何物でもない」50)としても,アメ リカ型の病院でソーシャル・ワーカーとして勤務するアイダ・プルーイット が,仕事内容から見れば必然的だが,主体的に中国社会の変化に関心を持っ ても,外国人と見なされる疎外感が西洋人であるがゆえの特権と一体である 以上,やはりディレンマの中を手探りで生きるしかない。アイダ・プルーイッ
トがその疎外感と特権のディレンマを乗り越える方法を見つけるのは,もう 少し先であった。 いずれにせよ,こうして西洋と中国の懸け橋となろうとしていたアイダ・ プルーイットだが,協和医学院の経営者側とは必ずしも常時円満な関係では なかったようで,1924,27,29 年の雇用契約延長時の英文資料を見ると,「記 録資料の保管が多少雑で,病院の運営に無頓着な面がある」51),「組織力が不 十分で,物事を完璧にやり遂げようという意志に欠ける面がある」52)と,そ の日常業務に対する批判もある。また同じく雇用契約延長をめぐる英文資 料に,「ミス・プルーイットは長いこと北京で働く意思がないようだから, アメリカなどで職の斡旋があれば,それを受け入れた方がよくないだろう か」53),或いは「ヴァンダービルト(Vanderbilt)大学,及びルイビル(Louisville) 大学がソーシャル・サービス・ワーカーを探している。ミス・プルーイット は南部で考慮対象となるのはヴァンダービルトだけだと言っている」54)と, アメリカの病院への転出を希望していたことを窺わせる記述がある。だが病 院側との意見相違だけでアイダ・プルーイットが協和医院の職を辞すること を考えたとは思えない。そこに至るには,ソーシャル・ワークを通じて知っ た中国社会の現実問題とどう関わるかという大問題があったはずである。 まず中国社会の経済問題がある。アイダ・プルーイットは協和医院の患者 データに基づいて,1920 年代後半から 1930 年代前半,協和医院に来る貧し い患者の月収は,2.8 ドル,6.8 ドル,16 ドルの三階層あり,前二者が多数 だったとしている55)。従って「病院の料金支払い原則が厳しくなったので, どの患者を無料ベッドに入れるか,どの患者を一部負担にすべきか,ますま す多くの判断が求められ,ますます多くの社会データに基づいて病院と妥協 しなければならなくなった」56)と語るように,患者援助の現場にいるアイダ・ プルーイットとアメリカ人上司や病院経営者側の間で対立が生じるのも自然 だったろう。また,この問題に関して,貧しい人々にできるだけ経済援助を 与えようとするアイダ・プルーイットの姿勢と方法は,中国人医師や職員か らも十分な理解を得られていなかった節がある。
低所得者を援助する募金箱は,西洋人が中国人より多かった最初の数 年間は時間と労力を節約して,大学や病院のスタッフの助けとなった。 中国人が多数となるとやめざるを得なくなった。 「寄付をしたくないわけではありません」とある中国人医師が言った。 子どもの食事問題で一緒に働き,率直に話し合えるほど親しくなった医 師である。「できないのです。私たちはみな安い給与で暮らしていかな くてはなりません。私たちのほとんどは・・・・」彼が誰のことを考え ているか,私には分かった。宣教団奨学金で教育を受けた若い医師は, 裕福な家庭出身の妻と結婚していた。だが,財布に金がなくても,故郷 にいる母親に援助しなければならないのだ。57) これはソーシャル・ワークを超えて社会問題にどう対処するかの問題であ る。「死滅した満州王朝の残骸や,軍閥や役人の腐敗と北京で闘わなくては ならなかった」58)としても,病院のソーシャル・ワーカーとして調査活動を 行ったり,患者を援助するだけでなく,つまり援助や寄付という外部からの 関与ではなく,さらに一歩踏み込んで内部から改革しなければ解決しない社 会問題があった。従って,アメリカの病院への転出を彼女自身が希望してい たことを窺わせる記述があるのは,職場移動よりも,むしろ現実社会への関 わり方をアイダ・プルーイットが模索していた証拠として考えれば,のちの 生き方の理解に繋がるだろう。 何度かあった雇用契約延長時のアイダ・プルーイットの事務能力や組織運 営に対する一部の批判は,中国の人々や社会に対する理解の深さと中国語の 流暢さを理由としてその都度斥けられ,1938 年までアイダ・プルーイット は社会服務部にとどまるが,その間にアイダ・プルーイットの社会改革への 関与の模索は,社会服務部内で少しずつ具体的な形となって現れてきた。 4.社会福祉事業から社会的関与へ アイダ・プルーイットが社会服務部でソーシャル・ワークの通常業務以外
に,自ら発案して新設した組織は,1923 年設立の捨て子や私生児の世話と 里親の斡旋を目的とする「懐幼会」,協和医学院の職員の福利厚生組織であ る「職工社会服務部」,患者の退院後の療養宿泊施設「調養院」,傷病兵や難 民の救済に当たる「救済部」と多岐にわたる59)。特に自ら資金を調達した「懐 幼会」の活動は,養子縁組をきっかけに知り合った老婦人との交流を描いた 『北京の想い出』60)の執筆にも繋がっている。同書は同じく北京時代に知り 合った老婦人の聞き書きをもとにした『漢の娘』61)と共に,因習に隠れて見 えにくい中国の女性の現実の生き方を,女性の視点で可視化した著作である。 両書に共通するのは,運命と闘いながら自らの人生を切り拓いていく中国の 女性に対する,同性としての共感と連帯意識である。この感情と意識こそ, のちにアイダ・プルーイットが協和医院を辞めて中国工業合作社運動に関わ るようになる理由の一つともなる。 実はアイダ・プルーイットが主に寄付金で始めた「懐幼会」自体が,援助 構想から社会問題への積極的な関与へと進んでいった経緯がある。 ある日,二人の医師の妻が訪ねてきた。孤児院を始めたいという。物 乞いの女性に抱かれて 飢えて 泣く幼児がとても心配でならないのだ とか。私自身は親に望まれない幼児の世話をする女性を集めたかった。 母親が世話できない幼児が毎日のようにここに預けられようとしている 状況を二人に話した。「物乞いの女性から幼児を引き取れば,その母親 は新たに次の子どもを産もうとするでしょう。でも患者の子どもを引き 取れば,その幼児だけでなく,新たに子どもを作ろうとする家族も救う ことができます。それに私生児もいるのです」経済改革をして物乞い行 為自体をなくさない限り,物乞いの女性の子ども問題は解決しない。62) ここでアイダ・プルーイットが直面しているのは,外部の個人の善意と, 内部の改革の困難の双方を引き受けつつ,オルターナティヴな道があり得る かという大きな問題である。この回想文からも読み取れるように,アイダ・
プルーイットが関心を持っていたのは,一時的な援助ではなく,子どもや母 親が自ら人生の主体となることをどう援助できるかである。「北京協和医学 院の医療ソーシャル・サービスが初期段階に直面したのは未婚女性と子ども, 及び子どもを育てられない家族をどうするかという問題であった。未婚の母 親の問題は,そうした女性が子どもを育てることができないという現在の経 済発展度と国内の社会観念に影響される。経済的な独立が困難な中国の女性 や障害を持つ者にそれは不可能である」63)と分析するアイダ・プルーイット は,中国の婚姻制度や社会通念及び女性の地位や現況にまで踏み込んで子ど も問題を考え,一時的な経済援助以上の構想を持っているように見える。そ のため「家族の収入はしばしば重要ではなく,家族のメンバーの職探しによっ て,医師から指示された通りに患者に栄養を取らせることが可能になる」64) と,患者の家族まで含めた生活の具体的,社会的な改善まで踏み込む構想を 描くことになる。 従って『北京の想い出』でアイダ・プルーイットが観察,理解するのは, 北京の伝統中国文化だけでなく,上流階級の老婦人との交流を通じて女性の 生き方により重点が置かれることになる。同書はある日養子を取って孫にし たいという珍しい要望を持った老婦人が現れるところから始まる。 老太太が最初に私に会いに来たのは,孫息子が欲しかったからだ。そ してその後の交際を通じて私たちは友人になった。 老太太の次男,二少爺の第一夫人は男の子を必要としていた,若く美 しい第二夫人が妊娠していたが,一家の長男が第二夫人の子供であるの は具合が悪かった。それに第一夫人は自分の老後を見てくれて,先祖の 仲間入りをしたあとはその霊を守り,必要な世話をしてくれる自分自身 の息子をもつ必要があった。65) この始まりだけ見ても,運命の中で自らの主体を求めて生きようとする中 国の女性に対するアイダ・プルーイットの共感を持った眼差しが感じられる。
男性が複数の女性と結婚できる中国の因習や,男子が継承する家制度が女性 を軛に縛り付ける中国の伝統社会にありながら,その一方で老婦人が息子の 妻のために男の赤ん坊を養子にしようとする姿をしっかり見据えているので ある。二人の出会いはアイダ・プルーイットを北京の華麗な伝統文化の中に 引き込むと同時に,家庭訪問によって老婦人の心の中を垣間見ることになる。 四男がフランス人女性と結婚したり,末娘が抗日運動に参加する男子学生と 結婚しようとすることで,老婦人の悩みは増えるのだが,その笑みから「何 がやってこようと,人生はすばらしい。新しくやってくるのものはすべて, 出会い,つきあい,味わい,楽しむものだ」66)と読み取るのは,共感もある のだろうが,ある意味ではアイダ・プルーイット自身の鏡像でもあることを 示している。つまりそのように老婦人を理解しようとするアイダ・プルーイッ トの意識を反映した観察になっているのである。 さらに親交を深めて老婦人が下層階級出身で,子連れの再婚をしていたこ とまで知る。因習に支配され伝統の軛に縛られたというステレオタイプの中 国女性像と,およそかけ離れた人生を送ってきたことを知ることで,アイダ・ プルーイットの中国人及び中国社会の認識は,カール・ウィットフォーゲル やオルガ・ラングのような研究者の目とは異なる実践理解者の眼差しとなる のである。老婦人が亡くなった後,日本軍に占領された北京を離れる前に, 最後に老婦人の邸宅を訪れた時の気持ちをアイダ・プルーイットはこう締め くくる。 二少爺は価値観の変わる,不確実の時代に生きている。彼は疑うこと とともに,人間の願望がみな同じであることも知っている。彼の妹や, 娘や,息子が生きている争いの世界では,古い障壁が壊され,時代はき しみながらも,人類の友愛を目指して進んでいる。しかし,老太太は, 数千年にわたる中国文化の実践者として,広がっていく家族の輪を信じ, すべての友人に対する恩恵とそれへの責任を感じて生きた。それぞれの 世代は,みなそれぞれの時代の精神のなかで生きる。時代が与える状況
のなかで,その時代の一番よい生活方法を追い求めながら。67) 「時代が与える状況のなかで,その時代の一番よい生活方法を追い求めな がら」生きる中国女性の姿は,『北京の想い出』と対になる『漢の娘』の当 事者寧老太太の人生と重なる。『北京の想い出』はアイダ・プルーイットが 社会服務部の仕事を通じて知り合った裕福な家の老婦人の観察記録で,『漢 の娘』は二年間にわたって「週に三回その人生を語りに来てもらった」68)下 層階級出身の女性の聞き書き集という違いがあるが,女性への関心や眼差し は共通している。自分と同じ山東省蓬莱出身で,言葉が通じるという親近感 があっただろうが,寧老太太に中国の家族や風習や価値観について語っても らう中で,壮絶な人生の果てに北京で穏やかな日々を送る女性の姿が鮮やか に浮かび上がる。サバルタンたる下層階級出身であるがゆえに,物語は語っ てもらうしかないのだが,逆に聞き書きによって識字者には表現できない生 き生きとした女性の人生模様が記録できる。アヘン中毒の夫と結婚した寧老 太太は,極貧生活の中で物乞いも経験し,殺戮や暴力を目撃しながら,奉公 人として軍人,回教徒,官僚,宣教師の家を転々としながら家族を養い,や がて北京で経済的に落ち着いた生活ができるようになる。 アイダ・プルーイットが記録・編集したその人生物語によって,運命とい う限界の中を生き抜く女性の姿が浮かび上がる。もちろん『北京の想い出』 と同じく成功物語であり,挫折者の人生を描いていない限界性はあるが,そ れでも『北京の想い出』と同じように,どんな抑圧と暴力の中でも生き抜い た軌跡が未来への希望となっている点は同じである。アイダ・プルーイット が『漢の娘』「著者まえがき」で「民衆の運命の中に個々の運命がある。そ の運命は天により星の運行により定められる。一人の人の生命の型はその人 が生きることによってのみ外にあらわれる」69)と語る言葉は,人間の力を超 える運命に支配されても,生きる軌跡によって自分の人生が現れてくること を,中国の下層階級の女性の人生から学んだという宣言でもある。
5.迫りくる戦争 『北京の想い出』と『漢の娘』の両書とも,物語は日本軍北京占領後の 1938 年で終わっている。実はアイダ・プルーイットの北京滞在もこの年に 終わっている。それは単に協和医学院との雇用契約の問題ではない。社会服 務部の中国人職員が「大学と社会服務部主任のミス・アイダ・プルーイット の契約が1939 年 6 月末で終わることを知って残念です。以下に述べる理由 により大学が再考してくれることを私たちは望みます」70)と大学側に嘆願書 を送っているように,雇用契約は少なくとも1939 年夏まではあった。アイダ・ プルーイットが北京を離れるのは,戦争や占領によって社会服務部が従来通 りの業務を遂行できる社会状況にもうなかったこと,さらに抗日戦争の中で 中国社会の変化に直接関与する意志を定めたことによると思われる。 1937 年 7 月 7 日盧溝橋事件が勃発して,アイダ・プルーイットが暮らす 北京に日本軍が押し寄せて占領する。8 月に日本軍によって北京が全面占領 された後も,困難な状況の下で協和医学院は維持されていた。アメリカ国務 省は北京在住のアメリカ人に避難勧告を出したが,少なくとも協和医学院に おいては,一人のアメリカ人も帰国していない71)。協和医学院に日本軍が進 駐してきて全面閉鎖になるのは,1941 年 12 月 8 日に日本がアメリカと開戦 してからのことである。アイダ・プルーイットは,当初北京防衛にあたって いた中華民国第二十九路軍の負傷兵を収容する赤十字医療所に赴いて世話に あたり,また負傷兵や避難民を助けるために,社会服務部の「救済部」を活 用した。また当時の協和医院の関係者の証言によれば,戦争勃発後,彼女は 中国共産党の幹部を自宅に匿ったり,負傷した八路軍の将校を密かに赤十字 病院に入院させたり,さらに北京近郊で日本軍を相手に遊撃戦を展開してい た抗日ゲリラ部隊に医薬品を送り届けていたといわれる72)。 一次的な援助を中心とする福祉事業から抗日運動支援へと行動の軸を移し ていく彼女の姿には,もちろん現実の緊迫した情勢に対応しなければならな かったという側面はあるにせよ,何よりもまず中国の人々への強い連帯の気 持ちが見て取れる。そしてその連帯感の強さは,人道主義に基づく慈善活動
の限界を突き抜けて社会的関与へと進み,社会改革を目指す中国人の同志と して,新しい時代を切り拓くほうへ彼女を向かわせた。上海でのルウィ・ア レー(Rewi Alley)との出会い,そして中国工業合作社運動への参加が,プルー イットの新しい人生の始まりとなった。 (本研究はJSPS 科研費 19K00379 の助成を受けたものである。) 注
1) Ida Pruitt, Chapter 16, The Years Between, p.218, Papers of Ida Pruitt, Schlesinger Library, Radcliffe Institute, Harvard University.
2) John F. Russell, Chapter I Missionary Daughter Under China s Last Empire ,
Conversation with Ida Pruitt – on China , pp.22−23, Papers of Ida Pruitt.
3) この履歴書Experience OutlineはPapers of Ida Pruittに収録されているが,筆者 はアイダ・プルーイット研究者のDr Marjorie Kingからコピーの提供を受けた。 履歴書が添付されている議事録には2829−32と番号が振られている。 4) 例えばInternational Federation of Social Workersは2000年7月27日モントリオー
ルの会議で,ソーシャル・ワークの定義を新たに定めているが,Definition of Social Workの最後で Principles of human rights and social justice are fundamental to social work と規定されている。
5) エドナ(Edna)はアメリカ人の父親とイギリス人の母親を持つ芝罘時代の知り 合い。1918年アイダ・プルーイットは上海からエドナと一緒にバンクーバーま でEmpress of Japanで渡航し,フィラデルフィアでも当初生活を共にした。 6) 1832年創立の盲学校。現在の正式呼称はOverbrook School for the Blind。 7) Ida Pruitt, Chapter 16, The Years Between, p.539.
8) エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)は1917年7月9日陪審員向けの演説の中 で We say that if America has entered the war to make the world safe for democracy, she must first make democracy safe in America. と 述 べ た。 な お こ の 演 説 は
Trial and speeches of Alexander Berkman and Emma Goldman in the United States District Court, in the City of New York, July, 1917 : Anarchism on Trial, Mother Earth
Publishing Association, 1917, に収録されている。 9) Ida Pruitt, Chapter 16, The Years Between, p.545. 10) Ibid. pp.542−544.
11) アメリカの石油王ロックフェラー(John D. Rockefeller)はバプティスト派信者 で福音伝道事業に熱意を持ち,1913年5月に医学研究や医学教育に重点を置い たロックフェラー財団(Rockefeller Foundation)を設立,さらに中国の医学教 育を援助するために1914年11月中華医学基金会(China Medical Board)を創設 した。
12) John F. Russell, ChapterⅡ Beginning of social work in Peking̶Preachers, Manchus,
Generals, and Doctors , Conversation with Ida Pruitt – on China , p.24.
13) Ida Pruitt, China Again , Days in old Peking : May 1921 to October 1938 , Papers of Ida Pruitt, pp.4−5.
14) Ida Pruitt, Chapter 27, The Years Between, p.559. 15) Ibid. p.561. 16) Ibid. p.562. 17) Ibid. p.563. 18) Ibid. p.567. 19) Ibid. p.567. 20) Ibid. p.567. 21) Ibid. p.567. 22) Ibid. p.569. 23) デイヴィッド・ロックフェラー『ロックフェラー回顧録(上)』楡井浩一訳, 新潮文庫,503頁。 24) 同書,504頁。 25) 1925年3月に亡くなった孫文の棺は協和医学院の講堂に安置され,アイダ・プ ルーイットは弔問に訪れた人々を二階から見ていた時の情景をChapter 4, Days
in Old Peking : May 1921 to October 1938, p.49 (Papers of Ida Pruitt)で回想してい
る。 26) 梁啓超は亡くなる3年前の1926年3月に協和医院で右腎臓摘出手術を受けたが, 弟の梁仲策が『晨報副刊』(1926年5月29日)に看病記録「病院筆記」を発表し たことで,陳西瀅や徐志摩らが西洋医学への疑念を表明して論争が起こった。 梁啓超自身は『晨報副刊』(1926年6月2日)に「我的病與協和医院」を発表し て西洋医学を擁護し,魯迅も「馬上日記」(『華蓋集続編』)で「西洋医が梁啓超 の腎臓を一つ切除してから,非難の声が沸き起こり,腎臓についてあまり研 究もしていない文学者が 義によって意見を述べた 」と風刺している。
27) 中国協和医科大学編『中国協和医科大学校史(1917−1987)』,北京科学技術 出版社,1987年,5―7頁。 28) 『中国協和医科大学校史(1917−1987)』,7頁。 29) 政協北京市委員会文史資料研究委員会編『話説老協和』,中国文史出版社, 1987年,9−10頁 30) 丸山昏迷『北京』,大阪屋号書店,1921年,72頁。 31) Dr SloanからDr Houghton宛て1923年4月5日付英文書簡,北京協和医学院所蔵。 32) Ida Pruitt, Chapter 4 Warlords and Northern March , Days in Old Peking : May 1921
to October 1938. p.59 33) 謳歌編著『協和医事』,生活・読書・新知三聯書店,2007年,195頁。 34) 北京協和医学院に保存されているJ. S. Hoggから E. S. Houghtonに宛てられた 1924年1月11日付書簡でこの額が確認できる。同様に1927年の再雇用時の給 与が3900ドル(1927年3月23日付通知文書),1929年には4200ドル(1929年2 月1日付通知文書)へ昇給していたことも,アイダ・プルーイット宛て通知文 書(北京協和医学院所蔵)で確認できる。 35) 詳細はDr HoughtonからDr Sloan宛て1923年4月5日付書簡(北京協和医学院 所蔵)で確認できる。 36) 『中国協和医科大学校史(1917−1987)』,30頁。 37) 『話説老協和』,363頁。 38) G.L.ウルメン『評伝ウィットフォーゲル』亀井兎夢訳,新評論,1995年,297頁。 なおこの資料に関して岸田五郎氏からご教示を頂いた。 39) 協和医院に勤務経験のある鄧家棟(1989年3月18日北京にてインタビュー。『話 説老協和』16−25頁,31−34頁に経歴と回想文あり),呉楨(1991年9月18日 南京にてインタビュー。『話説老協和』360−373頁に経歴と回想文あり)両氏 の証言による。ただ実際には複数の外国人が在籍していたようである。 40) Ida Pruitt, The Social Service Department of the Peking Union Medical College
Hospital, Papers of Ida Pruitt. pp.1−2.
41) 『話説老協和』24頁,及び『中国協和医科大学校史(1917−1987)』,29頁。 42) Ida Pruitt, The Social Service Department of the Peking Union Medical College
Hospital, p.2
43) 『話説老協和』,360頁。
to October 1938, pp.46-47. 45) Ibid. p.45. 46) Ibid. p.48. 47) Ibid. p.50. 48) Ibid. p.50. 49) Ibid. p.41. 50) Ibid. p.38. 51) Dr SloanからDr Houghton宛て1923年4月5日付英文書簡。
52) Miss EgglestonからDr Houghton宛て1926年9月20日付英文書簡。北京協和医 学院所蔵。
53) Roger S. Greene, N.K. Eggleston からIda Pruitt宛て1926年7月19日付英文書簡。 北京協和医学院所蔵。
54) 差出人,受取人とも不明の1928年1月10日付英文メモ。北京協和医学院所蔵。 55) Ida Pruitt, Chapter 4 Warlords and Northern March , Days in Old Peking : May 1921
to October 1938, p.92.
56) Ida Pruitt, The Social Service Department of the Peking Union Medical College
Hospital, p.8.
57) Ida Pruitt, Chapter 4 Warlords and Northern March , Days in Old Peking : May 1921
to October 1938, p.75.
58) Ibid. p.93.
59) 『話説老協和』366−369頁に詳しい説明がある。
60) アイダ・プルーイット『北京の想い出 1926−1938 A Memoir of Peking Life』, 山 口 守 訳, 平 凡 社,1990 年。 原 書 は Ida Pruitt, Old Madam Yin ; A Memoir of
Peking Life 1926-1938, Stanford University Press, 1979.
61) アイダ・プルーイット『漢の娘〔寧老太太の生涯〕』,松平いを子訳,せりか書 房,1980年。原書はIda Pruitt, A Daughter of Han ; The Autobiography of a Chinese
Working Woman, Yale University Press, 1945, Stanford University Press, 1967.
62) Ida Pruitt, The Social Service Department of the Peking Union Medical College
Hospital, p.10.
63) Ida Pruitt, A Study of Sixty Adopted Children, Hospital Social Service, September, 1931, Boston, USA, p.157.
1936, p.623.
65) アイダ・プルーイット『北京の想い出』,14頁。 66) 同前,93頁。
67) 同前,213−215頁。
68) Ida Pruitt, Chapter 3 Peking , Days in Old Peking : May 1921 to October 1938, p.12. 69) アイダ・プルーイット『漢の娘』,8頁。 70) 1991年9月18日南京にてインタビューした際,呉楨(元社会服務部スタッフ) 氏から提供を受けた全6頁の英文嘆願書(日付無)による。現在北京協和医学 院に保存されているかどうかは不明。 71) 『中国協和医科大学校史(1917−1987)』,32頁。 72) 『話説老協和』369頁,379頁。