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一都市の事例を通じて西洋史通史を講義する試みについて-パリ史の事例から-(後編)

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第 136 号 2017 年 9 月  要 旨  前編において,パリ市の事例から西洋史通史を講義する際のポイントや邦語文献をまとめ,中 編ではその補足・訂正と共に,旧パリ右岸のサン・ドニ通りとサン・マルタン通りの事例をもと に,街路史教育の可能性を探った.今号の後編では,新パリ右岸のフォブール部分にあるヴォル テール大通りの事例を紹介した上で,街路史を講義する意義についてまとめ,近代批判の多義性 などの論点も踏まえながら,本稿全体の結論を導きたい.  キーワード:歴史教育,地域教育,西洋史学,都市史,イメージ 目 次 はじめに  第一節 大学教育における地域研究の意義づけ  第二節 パリを選択する意義 第一章 パリ史を通じて西洋史通史はどの程度講義することができるか  第一節 古代史  第二節 中世史  第三節 近世史  第四節 近代史  第五節 現代史 第二章 地域研究においてパリ史をどう意味づけるか  第一節 記憶の場   (以上,第 134 号に掲載)  第二節 街路史の事例   1)旧パリ右岸  サン・ドニ通りとサン・マルタン通りの事例(以上,前号に掲載)  2)新パリ右岸・フォブール部分  ヴォルテール大通りの事例(以下,本号に掲載)  第三節 街路史を講義する意義

一都市の事例を通じて西洋史通史を講義する試みについて

  パリ史の事例から   

(後編)

望 月 秀 人 

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結論  第一節 パリ史を講義する意義  第二節 今後の課題  第二章第二節 街路史の事例(続き)  2)新パリ右岸・フォブール部分  ヴォルテール大通りの事例  前編の通史を踏まえ,中編では旧パリ右岸の街路の事例として,サン・ドニ通りとサン・マル タン通りの事例1を素描した.その教育上の意義については次節で整理するとして,後編ではま ず別の街路の事例をも取り上げ,パリ市内の地域差を考える一助としたい.  パリには 5000 以上の街路があり,その内のどの街路を選ぶか迷った結果,再度右岸の事例と なってしまうが,フォブール部分に相当するヴォルテール大通りの事例を挙げたい.この街路は 比較的新しい街路であるが,存在感は比較的大きく,ここで比較の対象として取り上げる価値が ある.  まず,中世末期のパリを示す,トゥルシェとオヨーの地図2を見ると,現在のグラン・ブール ヴ ァ ー ル の 東 側 に は ほ ぼ 市 街 は な く, タ ン プ ル 門 の 先 の ベ ル ヴ ィ ル 村 や ポ パ ン ク ー ル (PROPINCOVRT)などに点々と建物が見え,サン・タントワーヌ門の付近にサン・タントワー ヌ修道院が存在する程度に過ぎない.この後,絶対王政の時代になり,パリが首都として確定し 人口が急増する中で,徐々にこの辺りも市街地化していったと見られる.フォーブール・サン・ タントワーヌには 17 世紀以来貧民や家具職人が集住し3 ,やがてフランス革命において主導性を 発揮する地域の一つとなる.  パリの旧城壁は 1670 年代から撤去され始めてグラン・ブールヴァールとなり,やがて 1828 年 にはパリ最初の公共交通路線としてのマドレーヌ・バスティーユ間乗合馬車路線も開通した.た だし,パリの東西格差は徐々に拡大しつつあった.フランス革命でも二月革命でも六月蜂起で も,この地域は積極的に参加したようだ.1848 年 6 月 24 日,シャトー・ドー給水泉に多数の部 隊が一門の大砲を設置し,東北のサムソン街を砲撃し,サムソン街の家屋からも反徒が銃撃して きた.ここからバスティーユ広場まではバリケードが築かれており,部隊は運河と反徒に阻まれ て退却し,議会を欠席して見物に来たトクヴィルは,危うく押しつぶされそうになった4 .  第二帝政下のセーヌ県知事オスマンは,こうしたフォーブール・サン・タントワーヌの不穏さ を軽減するために,いくつかの手を打った.第一に 11 区と 12 区への二分化,第二に広い街路の 設置と兵営の設置である.1857~1862 年にパリ第二次改造工事として,タンプル大通り(メロ ドラマ劇場が集中し,犯罪大通りと呼ばれた)の劇場と,毎週火曜と木曜に花市の開かれた噴水 付き広場が破壊され,シャトー・ドー(現共和国)広場とプランス・ウージェーヌ(ユジェー ヌ)兵営が整備された.シャトー・ドー(給水塔)は M. ジラールが設計して 1811 年に建てた もので,ヴィレット流域の水を使い,3 つの円形台座の上に 2 つのブロンズの泉水盤をもち,そ の周囲の 4 つの獅子像の口から水が出るものだったが,巨大な共和国広場との釣り合いが 1860

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年代に問題となり,ヴィレットに移され,1867 年にダヴィウーがより大きな噴水を設置した. 1883 年,この噴水もドメニル広場に移され,現在のモニュメントが共和国広場に設置されたと いう5 .こうしてシャトー・ドー広場は西のエトワール広場と対になる放射状広場となって,大 通り=市の動脈に新鮮な血液を送る心臓の役割を果たすことになる.そこからトローヌ(現ナシ オン)広場へは,軍の移動を容易にするために,1857~62 年にプランス・ウージェーヌ大通り が通されたが,これこそ現在のヴォルテール大通りである.そのほかにも,「暴徒」の「アクセ ス路」サン・マルタン運河の暗渠化(リシャール・ルノワール大通り)などが行われ,11 区は 広い街路で分断・包囲された6.ただし,このフォーブールの通りに街路番号を付ける市当局の 作業は,住民の非協力的態度(「冷たい感じのする公的な番号ではなく,いつも自分の家につい ている名前を答える」)によって捗らなかった7  その後,第二帝政は普仏戦争での敗戦8 により倒されるが,その際シャトー・ドー広場はドー デの小説『月曜物語』にも登場する.「少年スパイ」では,ステンヌ少年はパリ包囲中,城塞に もパン屋にもいないときには,ここで大ゴマ遊びを眺めるのが常であったが,あるとき「青い作 業ズボンの大きな子」と会い,プロイセン兵との接触を勧誘されるのである9  結局のところ,オスマンの大改造によりパリの東西格差が拡大したこともあり,この地域が労 働者街であることはむしろ強化されたようだ.1880 年,トローヌ(王座)広場で 7 月 14 日が初 めて正式に革命記念日として祝われ,そこはナシオン(国民)広場と改称された.共和派の勝利 を誇示して,1883 年 7 月 14 日には,共和国(レピュブリック)広場(コンコルド広場に代わり, シャトー・ドー広場がこの名称を持った)に共和国の女神マリアンヌの像が置かれた.こうした 名付けは,この大通りの政治的象徴性を決定的にした.ナシオン広場には反ドレフュス派作家 ポール・デルレードが 1899 年 2 月 23 日のクーデター未遂の際に部下を配置したが,何も起こら なかった.同年 11 月 19 日,社会主義運動の日刊紙『プティット・レピュブリック』が音頭をと り,ナシオン広場に置かれることになっていたダルーのブロンズ像「共和国の勝利」を記念する 集会を開き,ペギーが肯定的に描写している10.その際には労働者がその前を何時間も行進した が,アザンによればこれは「パリの歴史のなかで,群衆が赤旗を先頭に押し立てて行進しても銃 撃されなかった初めての出来事だった」11  こうした状況に対応して,この時期この近辺には低廉住宅(HBM)がいくつか建てられ,労 働者を監視しながら私生活に囲い込む試みが繰り広げられた.この大通りと交差するシャロンヌ 街にも,ジュール・ルボディ夫人社会事業団が単身男性向け宿舎を建設している12 .なお,ヴォ ルテール大通りには 1902~03 年 1 月,マックス・ジャコブの部屋があり,ピカソと共同で貧し い生活を送っていた13 .  第二次世界大戦末期,ナチス占領下のパリにおいて,対独レジスタンスは決死の抵抗を繰り広 げた.1944 年 8 月 21 日(月曜),共和国広場からヴォルテール大通りへ,プランス・ユジェー ヌ兵営から来た二輛の戦車が,断続的に機銃掃射を加えた.ドイツへ移送された共産党代議士の 妻クララ・ボンテとその娘マルグリットは,洗濯物籠に火炎瓶を詰め込んで,レジスタンスのも

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とへ運んだ.それは 2~3 軒先の第 11 区区役所婦人クラブの施設で,区の女性たちと共に作った 火炎瓶だった.広場に潜んでいた男たちは,戦車に火炎瓶を投げつけた.24 日(木曜),兵営に 立てこもった 1200 人のドイツ兵は,攻囲していたフランス国内軍(レジスタンス)に容赦なく 機銃掃射を加え,25 歳の医学生ルネ・ダルクールと 30 歳の指物師ルネ・シュボシェに率いられ た共産党ロル大佐の部下は,兵営下の地下鉄トンネル内でも戦った.25 日(金曜),兵営内で群 衆を恐れたドイツ戦車兵が頭を銃で撃ったが,その後ヤイ大佐がコルティッツ司令官の降伏文書 を持ってきて,兵営のドイツ兵に降伏を勧告した14 .  こうして苦悩の末終わった第二次世界大戦のあとも,フランスは植民地アルジェリアの独立を めぐる左派と右派の対立に悩まされる.1958 年 5 月 28 日,左派の退潮の中で,共和国活動防衛 委員会がナシオン広場から共和国広場へのデモ行進を呼びかけたが,ピエール・エマニュエルは 「盲信的な嘆き」しか感じなかった.パリにいた『エスプリ』記者の多くも行列に参加したが, 「途方もない空虚さ」を感じた.同年 9 月 4 日の第三共和制宣言記念日に,アンドレ・マルロー は共和国広場でドゴール派の大規模記念集会を開き,その中でシャルル・ドゴール首相は 1792 年と 1848 年の栄光の時を引き合いに出しながら行政権を強化する改憲案を発表し,マルローも 「パリの民衆がここにいる」と叫んだ.しかし,広場の奥では警察のロープに行く手を阻まれた 共産党デモ隊が怒号を挙げ,乱闘となった.1962 年 2 月 8 日,シャロンヌ駅の鉄柵で反 OAS (アルジェリア独立反対派の秘密軍事組織)のデモ参加者が押しつぶされ,パリ警察長官モーリ ス・パポンが注目された15  ドゴールによる第五共和制でフランスは安定するかに見えたが,彼の強権的手法には反発も強 く,五月革命が発生した.五月革命といえば,カルチェ・ラタンやナンテールが有名であるが, 共和国広場にもその影響は見られる.1968 年 5 月 1 日水曜,共和国広場では晴れた空のもと, CGT(労働総同盟)と PCF(フランス共産党)の呼びかけにより,1954 年以来禁止されていた メーデーのデモが 14 年ぶりにバスティーユ広場に向けて整然と行進した.ヴェトナム解放民族 戦線の旗も見られ,参加者は 10 万人とも 25000 人とも言われる.西川長夫もしばらく参加して 歩くが,やがてバスティーユに先回りし,その光景を撮影した.13 日月曜にも共和国広場から ダンフェール・ロシュロー広場まで,戦後最大規模のデモ行進が行われ,ジェスマール,ソヴァ ジョ,コーン・ベンディット,ミッテランら 20 万とも 80 万とも 100 万とも言われる人数が参加 し,7 キロにわたり整然と行進した16  こうしたデモの伝統は左翼連合によるミッテラン政権の成立後も続く.1994 年 1 月 16 日,氷 雨の中,保守のバラデュール政権下で,「公教育の世俗性擁護」を叫んでポルト・ド・シャンプ レからナシオン広場まで推定 60~80 万人が延々と連なり,いくら流れ解散をしてもナシオン広 場を人で埋め続けた革新系の大デモによって,私学(宗教系が多い)助成制限撤廃を持ち込んだ バイルー法が,廃案に追い込まれた17 .  こうした反教権主義の動きは,マイノリティであるイスラーム教徒にも向けられた.その結 果,この通りで悲劇が生じる.2015 年 1 月 7 日,バスティーユ広場付近のシャルリー・エブド・

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パリ本社が,ムハンマドを悔辱する諷刺画の掲載騒動がきっかけでイスラーム原理主義者に襲撃 された.その夜,約 3 万 5000 人が共和国広場に集まっている.11 日日曜,共和国広場から大統 領の呼びかけた反テロの行進が行われ,パリのみで 150 万人が参加したほか,オランド仏大統 領,メルケル独首相,ネタニヤフ・イスラエル首相,レンツィ伊首相,ラホイ・スペイン首相, アッバス・パレスティナ議長らも参加した.広場から 500 メートル以上離れた地点まで行列が並 び,15 時過ぎ,「フランス万歳」「自由」「連帯を」と叫んで行進が始まり,ナシオン広場まで向 かったが,参加した平野千果子によれば,大半はヨーロッパ系で,貧民や極右国民戦線は不参加 であった.  2015 年 11 月 13 日(金曜)21 時半ころ,シャロネ(シャロンヌか)通りの喫茶店ラ・ベル・ エキップ付近では,武装グループが歩行者に乱射し,19 人が殺害された.向かいのトルコ料理 店経営者の証言によれば,銃撃は 1 分以上続いた.銃を持った男 2 人と黒い車の中で待つ 1 人が 見えた.カフェのオーナーはユダヤ人で,妻はイスラム教徒であり,客の人種・宗教も多様だっ たが,テラスで誕生会を開いていた妻は死亡した.21 時 40 分頃,ヴォルテール大通りのカフェ・ ル・コントワール・ヴォルテールでもブラヒム・アブデスラムと見られる犯人による自爆テロで 1 人が重傷を負った.その頃,同じ大通りのル・バタクラン劇場では,米国のロック・グループ 「イーグルス・オブ・デス・メタル」のコンサートが開かれていた.その最中,素顔の武装集団 が押し入って,21 時半過ぎに自動小銃 AK47 を 15 分近くにわたって無差別に発砲し,22 時過 ぎには一時 100 人以上の人質をとって立てこもった.目撃者によれば,実行犯は「アラー・アク バル」,「シリアのためだ」と叫んでいたという.治安部隊が突入し,実行犯 1 人を射殺したが, サミ・アミムール,オマル・イスマイル・モステファイら 3 人は自爆したという.屋上から隣接 するアパートに逃げた人や,3 階の窓からぶら下がった人もいたが,80 人以上が死亡した.徒歩 3 分の場所にある日本人シェフのフレンチ・レストランにも周辺にいた数十人が逃げ込み,閉店 したのは 3 時ころであったという18 .このパリ第二のイスラーム原理主義テロは,この地域の多 民族性を浮き彫りにしている.  第三節 街路史を講義する意義  以上,僅かな事例ながら,パリの特定の街路の歴史をいくつか素描してみたが,これらの事例 を西洋史講義において論じる意義はどこにあるのであろうか.  私自身がパリの街路に関心を持ったのは,前編でも述べた通り,パリの街路地図の入手という 偶然の要因によるところが大きかった.私は地名を地図に落とす際に街路単位で地図に落として いったため,地図には街路名が数多く並ぶことになったのである.しかし他方で,私自身がこの 間にやはり偶然にまちおこしに関わり,しかもその対象がたまたま特定の街路を主とするもので あったという要因もまた,街路史への私の関心を拓くことになったと感じる.そうした経験から 私が体得したのは,以下のような教訓であった.  第一に,まちおこしはよその成功例の真似ではなく,その地域で暮らす者が主体となり,その

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地域固有の特性を踏まえた上で行われるべきであるということである19 .なぜなら,まちおこし はその街に長く関わる人間にとっての幸福を目的として考えられるべきものであり,それはその 土地への愛着や土地柄に大きく依存するものであるからである.  一例を挙げると,私がまちおこしにかかわる中で感じたのは,具体的な景観に沈潜した住民の 記憶の重要性だった.現在の「普通の街並み」の背後には当然ながら歴史があり,過去を知る者 には現在の景観を見るだけでも歴史の流れが実感できるものである.私自身,名古屋に来てから の 20 年間の地域の変貌にはある種の感慨を覚えるが,同様に,私にとっては何気ない普通の光 景として見過ごしてきた景観も,長くその地域で暮らしている住民にとっては大切な記憶の沈潜 した場であることがよくあった.こうした具体的な場所への愛着が無ければ,まちおこしもうま くはいかないだろう.  第二に,そのためにも地域資源の確認は,まちおこしにとっての大前提となるべきである.そ の土地にない新奇なものを外から持ってきても,負担ばかりが多くなって長続きしないし,また 住民の理解を得るための象徴ともなり得ないためである.  第三に,地域資源の中でも,とりわけ人的資源の確認が重要になる.なぜなら住民といえども 中身は多様であり,それぞれ得手不得手があり,またまちおこしに当たっては,実際に行動に移 ることのできる人材が求められるためである.  以上のような教訓は,パリにおける街路史とどのように関連するであろうか.  まず第一点については,まさしく街路史という単位でこそ,景観に刻み込まれた住民生活の変 貌が具体的に見えやすいという利点がある.また,パリのように大小の街路のそれぞれに固有の 名がある場合には,ますます街路という単位が住民のアイデンティティと密接に結びつきやすく なるだろう.  第二点については,中編・後編でも述べた通り,幅広くその地域の資源を発掘すべきことが望 ましい.何が地域資源となりうるかは土地柄によっても時代によっても異なるわけで,その点を 考えれば歴史研究において特定の資源だけに注目するよりは,むしろ歴史を幅広く見る中で,思 わぬ地域資源を発掘できるような眼を養うことの方が望ましい.私が中編・後編であえて広く薄 く事実を羅列したのは,まさしくそうした資源の発掘を念頭に置いていたからだが,むろん講義 で用いる場合にはそれらを整理して用いなければならない.たとえば,サン・ドニ通りとサン・ マルタン通りの事例においてとりあえず通史講義で使えそうな地域資源としては,宗教施設によ る地域開発史20 ,同業組合の伝統,キリスト教・錬金術・科学のせめぎ合い21 ,教会の領主権と 国家統合とのせめぎ合い,革命運動の伝統22,衛生観念の変遷23,レ・アール(中央市場)の移 転問題やポンピドゥー・センターの設置問題など24 に見られるような地域開発をめぐる問題など が挙げられるであろう.この 2 街路はまさしくパリの古来からの中心として「一番古く一番放置 されてきた」地区25 であるがゆえに,奉行所と共に商工業や宗教施設の存在感が大きい地区だが, それゆえにこそそれに介入する動きも大きかったと見られ,パリ史の変動がよく分かる街路と言 えよう.

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 他方で,ヴォルテール大通りの事例からは,それほど通史で挙げられるような多様な地域資源 は見られないようだ.労働者の革命的伝統とそれへの当局の対抗策とのせめぎ合い,そして共和 制をめぐるデモや記念碑という形でのその表象のせめぎ合いといった事例が,地域のイメージに 強く刻印されているように思う.とはいえ,この街路では,労働者の生活とその民族構成の変 化,環境管理権力の在り方や,政治運動における象徴の用いられ方などの,現代的な具体的テー マを深く掘り下げることも可能であろう.  こうした多様な地域資源間のせめぎ合いや,街路における民衆生活を,シンボルの用いられ方 まで含めて具体的に街路史の事例で扱うことができれば,単なる個別施設の歴史を超えた街路史 が描けることになろう.  第三点については,私が改めて注目したい理論は,歴史学におけるn地域論=下からの重層的 な地域形成に関する理論である26.これは板垣雄三の 1973 年歴史学研究会大会報告に影響を受 けて  板垣のように運動論と関連させるかどうかはともかくとして  展開された理論であ り,一枚岩的なものとしてではなく,人間活動の各分野ごとに異なるさまざまな拡がり  面的 な概念でもネットワークでもありうる  の重層的な重なり合いとして地域をとらえ,そうした n地域をどう設定するかということ自体が政治的・社会的に争われうるような主体的な概念とし て提示された.フランス近世史でも二宮宏之が,モーリス・アギュロンらの研究を踏まえなが ら,階級と民族という大前提から出発したのでは歴史的現実をもはやとらえきれないという自覚 から発して,ソシアビリテ(社会的結合関係・社会的紐帯)という概念を強く打ち出し,類似の 研究分野を拓いたことはよく知られている.彼はその例として,共属感覚・共属意識,他者認 識,周縁・無縁,絆の結び目に注目し,親族構造・地縁結合,年齢階梯集団・性別集団,職能団 体,信仰団体を重視し,それらが身分・階級・民族・国民の基礎にあると整理している27  そのような地域なりソシアビリテなりを考える際に注意すべきは,それが上からの制度的な区 分ではなく,下からの区分であるがゆえに,「地域」や関係の範囲が可変的であるという点であ る.本稿においてその点に関わる問題点としては,そもそも現在の制度的な街路名による区分

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を,超歴史的に対象として限定してよいのかという問題や,隣接する街路の歴史を当該街路の歴 史から切り離してよいのかという問題が残るが,本稿ではとりあえず現在の街路区分を前提とし つつ,隣接街路についても注記してみた.その上で,当該街路を多様な地域の交錯する場として 考えることができるかを検討した.  サン・ドニ通り,サン・マルタン通りの事例では,教会・修道会ネットワーク28 ,巡礼や交通 のネットワーク29,同業組合30や市場のネットワーク,科学者とオカルトのネットワーク,演劇 のネットワーク31 ,シャトレ裁判権ネットワーク,居酒屋32 ・カフェの顧客ネットワーク,売春 にかかわるネットワーク33など,多様なn地域が交錯していた.ヴォルテール大通りも,こうし た観点から見た場合,労働者の多様な出自が再度注目されるであろう.かつてはこの隣接街路に オーヴェルニュ人やプロテスタントが多くいたし,現在でもこの地域の多民族性は強まっている ようだ.このように,街路史も重層的に積み重なった社会的諸関係の総体の一断面として把握さ れねばならない.そうしたn地域が交錯する中でどのような新たな動きが生じ,それが特定の階 層なりシンボルなりによってどのように通史の流れにかかわっていったかを,具体例に即して実 証できれば面白い.

 結 論

 第一節 パリ史を講義する意義  以上を踏まえ,本稿全体のテーマである,パリという一都市の事例を通じて西洋史通史を講義 することの意義と限界について,整理してみたい.  現在,私が通史を講義しながら気づかされるのは,学生の歴史的知識の断片化という問題であ る.むろんこれには複数の社会的要因があり―  たとえば受験の圧力の低下によりそもそも歴 史の基礎的知識の理解が不十分なまま,学生が個別のネット情報に左右されがちであることや, また歴史学研究自体が個別細分化して全体の流れが見えにくくなっていること(地域差の強調, 目的論的歴史学の崩壊,共通の「通説」の見えにくさ等)等  ,仕方のない面もあるが,それ でも「今や教養としての知識などは存在しない」等と開き直るのが良いとも思えない34.個別研 究により補足を加えながらも,世界システム論なり一定の地域史や主題への限定なりを通じて, 何とか流れとして通史をとらえることは,教育上重要な課題であると言えよう.本稿はそのため の一つの試みにほかならない.  ところで本稿は歴史学の論考というより,教育に関する論考として書かれている.それは私自 身がフランス史専攻ではないということや,そもそもエッセイのようなものを依頼されたという 事情にもよるが,同時に教育論考として書いた方が,研究,教育,政治という 3 分野にまたがる 論考となりうるのではないかという意図にもよった.この 3 分野はそれぞれ固有性を持っている ものの,同時に相互に密接な関連にもあり,教育論考としてこそそれを自由に論じることができ るように,私には思われた.

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 歴史研究はよく「現在の道徳から自由に」行われなければならないとよく言われる.たしかに 歴史学は一種の異文化理解であり,史実を現在の「常識」で判断してはいけない場面が多くあ る.ただし,それはあくまでも史実の理解のためであり,いったん史実を確定した上で現在に とっての意義や教訓を論じるのであれば,やはり「現在の価値観」からの評価はやむを得ない. そもそもそうした歴史研究者自身の価値観も,否応なく史実の理解を左右することは既に繰り返 し指摘されており,そうした点に無自覚になると,「当時の価値観」に寄り添っているように見 えながら,実際にはただの本人の露悪趣味から過去の特定の価値観のみを自明視し正当化するよ うな結果になりかねない35.教育への注目はそうした「偏向」を検証する意味を持ちうる.  他方,そのような露悪趣味とも関わるが,「中立性」の中身が問われないまま,それを安易に 重視する傾向からは,政治を「学問や教育から排除すべき単なる党派性」としてしか見ない傾向 が生じやすい36 .しかし実際には,政治的スタンスはしばしば研究における視点とも関わる場合 が多いという事からもわかる通り,政治は本来的には望ましい社会の模索に関わるものであり, 上手に扱えば学問の発展に十分に資するものである.また,そもそも教育が公民形成に寄与すべ き営みであるとすれば,やはり政治的スタンスとは無縁ではいられないであろう37  パリ史は世界史の教科書に幾度も登場し,私たちの歴史の教養に関して重要な位置を占めてい る38.パリ史を通じて通史を講義することは,こうした歴史学,政治,教育の関係を考える上で も重要な意義を持つと言える.  むろん,そのことは裏を返せば,パリ史は「通俗的」歴史観に引きずられやすいという危険も 多いことを意味する.その意味では,パリ史は「歴史学」という学問の営みそのものを考えるた めの好適の素材ともいえよう.  一例として「近代」に向き合うスタンスという論点を考えたい.現在の歴史学では進歩史観の ような目的論的歴史観は批判されているし39,近代を安易に肯定することも否定的評価しか受け ない.そのこと自体は私も正当だと考えるが,問題はしばしば近代批判という言葉が抽象的に定 義されている点にある.そもそも近代批判と一口に言っても,その具体的な内容は多義的であ る.第一に,宗教右翼のような反近代の立場がある40 .近代の合理主義を敵視して宗教のような 非合理主義の復権を図る立場であるが,合理主義の問い直しの必要自体は正しいとしても,そも そも宗教や非合理主義そのものは解決策ではないという点の理解は必要である.なぜならば,宗 教が解決策であるとするならば,それを信じる気のない人間にも宗教を強制する政策につながり かねないためであり41 ,また宗教の正誤は実証不可能であるがゆえに神々の闘争に陥りかねない ためであり,かつ仮に宗教自体の意義を語りうるとしても,あくまでも社会科学的な分析により その意義を実証する必要があるためである.宗教そのものを危険視して排除する必要はないが, こうした宗教のもつ危険の一面は,パリ史においてはたとえば宗教裁判や宗教戦争のような事例 から論じることも可能なのではあるまいか.  第二に,マルクス主義のような超近代の立場がある.これは近代の意義を肯定しつつ,その問 題点の超克を図る立場であるが,少なくともソ連型のマルクス主義の場合42 ,市場経済への批判

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が結果的に経済的権力と政治的権力の癒着を生み,近代的人権まで抑圧される結果をもたらして いる.むろん,柄谷行人のような「自由主義的」解釈もある43以上,マルクス主義あるいは社会 主義の多様性は踏まえなければならないし,とりわけ新自由主義が安易に横行し,かつ戦前の 「アカ」のような安易な「社会主義」への蔑視傾向も復活しつつある現状では,そうしたスタン スは重要となろう.宗教にせよ社会主義にせよ,同じくイデオロギーあるいは世界観として44 , 解釈次第によっては解放の思想にも抑圧の手段にもなりうるものであるのだから,解釈による無 害化45 を図ることこそが重要なのである.こうした点は,多様な社会主義者が活動したパリ史で あればこそ,論じやすいのかもしれない.  第三に,近代の問い直しとしてのポストモダンを挙げることができる.これは多様な思想を含 んでいるが,左右の全体主義が近代に根を持っているという見通しの下に,近代の本質を問い直 し(吟味・再検討),それぞれが別の次元で問いを立て直したという意義を持っている.注意す べきは,ポストモダンは非政治なのではなく,従来の二分法の相対化により「政治的に有効な」 新たな二分法を設定しなおそうとする試みであると見られる点であり,解釈によっては反近代に もなりかねない危うさ(前近代とポストモダンの癒着)も持っていると言えよう.これも,フラ ンス現代思想の豊富な実例が挙げられる.  最後に,そうしたポストモダンとややずれた立場として,再帰的近代化論が挙げられる.これ は近代的原理の徹底が近代前期の基盤を掘り崩し,新たな段階の近代に移行しつつあると考える 立場であり,これも個人主義の再評価(ギデンズ),リスク分散社会への移行(ベック),感性の 再評価(ラッシュ)46 など,論者により重点は異なるが,近代の批判的継承を図るという基本的 スタンスには,私は好感を持っている.  以上,一口に近代批判と言っても上記のようにいくつかの異なる類型がある.私自身は,近代 の人権思想47のような重要な遺産を継承しつつ,近代の長短の側面を見分けて,長所の極大化と 短所の極小化を図るという学問的・政治的スタンスで,近代の批判的継承を進めていきたいと 思っており,ポストモダンの一部や再帰的近代化論に親近性を感じているが,そうした試行錯誤 について本稿では論じてきたつもりである.  また,その点を本稿において,理論的にではなく具体的な史実において最もよく示すテーマ は,フランス革命をどうみるかという論点であろう.私自身は近代における基本的人権の法的保 障を重視する立場から,やはり市民革命という意味づけは,時代的制約や革命の進め方の問題性 はあっても教育上は不可欠であろうという考えを持っている.フランス革命が米国独立と並ん で,基本的人権の法制化や国民主権の先駆的な事例であるということも,そう考える理由であ る.フランス革命がなぜ恐怖政治に至ってしまったのかを批判的に検証することも重要だが,そ れを強調するあまり,革命は必要なかったと主張する修正主義48が,私には「コロンブスの卵」 のように思えるのはそのためである.  他方,社会階層間の力関係によって,自由・平等な市民という理想がなかなか実現しない点を 表現したのが,ブルジョワ革命という概念だと私は考えているが,前編の注で示した通り,ブル

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ジョワという概念は当時の社会の特定の(内部は多様だが)階層を示すと考える説が現在では主 流であり,その意味では市民革命概念のような普遍的な概念ではないと私は考えている49.その ためには別の概念が必要となるだろうが,同時にそれは世界システム論による再解釈を踏まえ た,世界資本主義への反発を含んだ適応過程として定式化される必要がある.したがって,それ は必ずしも暴力革命のみを示すものではない50 が,安易に軍事51 や国防ばかりを強調する「リア リズム」では,かえって暴力革命自体の正当性を強化する結果にしかならないことは繰り返して おく.  このように,パリを中心とするフランス革命は,近代の批判的継承の在り方を具体的に考える 上でも,依然として多くの示唆を与えうるテーマであるように思われる.  他方,街路史の事例においても,パリ史は重要な事例を提供する.パリでは大小の街路に固有 名がついており,それらの名は著名な文学や絵画にも豊富に登場するため,特定街路には日本人 にも特定のイメージがわきやすい.街路では具体的な景観の変化が目に見えやすいことも重要で ある.その街路にどのような地域資源があり,それにまつわるどのようなn地域が設定できるの か,そしてそれらn地域のせめぎ合いがどのように地域性や通史と関わっているのか,そうした 問いへの具体的な回答が,街路史では出しやすいのである.それをうまく日本の身近な地域と比 較できれば,地域教育の素材として十分に役に立つであろう.  第二節 今後の課題  以上のように,パリ史は西洋史の通史教育の素材として,また地域研究の比較の素材として, 有効に活用が可能である.しかし,そのためには以下の課題も念頭に置いておく必要がある.  第一に,パリは世界でもトップクラスの観光名所であり,メディアを通じてもよく報道される ため,パリ史講義は観光案内としても役立つはずであるが,それでも行ったことのない学生には 縁遠いところであり,どこまで詳しく教えるべきかには,検討の余地がある52 .むろんこれは, 座学一般に共通する問題ではあるが.  第二に,街路史であれパリ史であれ,それ自体で完結しない以上は,外部の地域との関連や地 域差をどの程度まで含みこめるかを検討する必要がある.これはn地域論に関わる問題だが,n 地域が無限に設定できるものであることを考え,資料状況も踏まえて通史と教育の観点からテー マを厳選していく必要がある.  第三に,近年「面白い」講義に関する模索がなされており,私もそうした試みから学ばせても らうことも多い53.実際のところ,常勤でゼミを持つのであればともかく,大学の非常勤の講義 で教えられることは限られており,結局は学生自身が関心をもって独学で学ぶことを手助けでき る程度ではないか.その意味では歴史学入門として面白い講義を行いたいという思いは私も感じ ているが,私にとって気になるのは「その先」である54 .というのも,講義で面白いことだけ学 び,後は漫画やゲームで楽しんで終わり,必要であればウィキペディアを見ればよい,という学 生も多いように感じるのである.むろん,そうした学生の講義外の時間を教師がコントロールで

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きるわけもなく,むしろ学校で教わる歴史の無味乾燥さからそうした漫画やゲームに走る学生も いるだろう.しかし,戦争責任問題や立憲主義の蹂躙の現状を見る限り,私にはやはり大学の講 義という場で,独学では読まないような,ある程度「難しい」知識はつけさせたいという思いが ある.一度習った単語であれば,敏感に反応する学生も多いのである.後は,それなりに難しい 問題を,いかに具体的な事例によって面白く習得させるかが,教師の腕の振るいどころなのであ ろう.  第四に,政治との向き合い方の問題がある.中立性・非政治化の圧力により,論ずべきときに 論ずべきことを論じさせないのは,それ自体党派性の現れであるし,全方位性と態度の曖昧化は 異なる.また政治的スタンスは,アリバイ的に主張するものではなく,生き方の問題でなければ ならない.こうした政治的スタンス―学問的スタンスは教育のスタンスにもつながってくるべき ものであり,「客観的」通史が難しい時代であればこそ,こうした教師のスタンスは自覚される べきものであると思うのである. 註 1 中世のグラン・ポンについては,ヴァージニア・ウィリー・エグバート(藤川徹編訳)『中世パリの 橋のうえで  14 世紀初期の市民生活の記録』(啓文社,1995 年,原著 1974 年)』に,『聖ドニ伝』 から多くの絵画が掲載されている.シャンポーにあったレ・アールの見取り図も 227 頁で紹介されて いる.編者による補論も有益である.阿河雄二郎・嶋中博章編『フランス王妃列伝  アンヌ・ド・ ブルターニュからマリー=アントワネットまで』(昭和堂,2017 年).023~024 頁等でも若干言及さ れているが,サン・ドニ通りにおける国王行列についてはいくつも資料があるため,その分析から君 主の演出のされ方が分かるが,同時にそれを通じて服飾史や色のイメージ,食などを扱うことも可能 であろう.聖イノサン墓地の死の舞踏の図については,森田安一『木版画を読む  占星術・「死の 舞踏」そして宗教改革』(山川出版社,2013 年)と共に,藤代幸一『「死の舞踏」への旅』(八坂書房, 2002 年)も参照.サン・ドニ門については,三宅理一『パリのグランド・デザイン  ルイ十四世が 創った世界都市』(中公新書,2010 年)で,建築アカデミー総裁フランソワ・ブロンデルの初仕事と して,幾何学的比例体系を駆使して作られ,新旧論争とも関わるものとして紹介されている.サン・ マルタン門については,ピーター・バーク(石井三記訳)『ルイ 14 世  作られた太陽王』(名古屋 大学出版会,2004 年,原著 1992 年),113~114 頁にも若干の言及がある.パリ大改造第一期工事と してのセバストポール大通りの開通(1858 年 4 月.ただし,ストラスブール大通りは既にベルジェ知 事のもとで完成している)と,それによる民衆的街区の消滅については,鹿島茂『怪帝ナポレオン三 世  第二帝政全史』(講談社学術文庫,2010 年),353~357 頁で述べられている.第 4 回印象派展 に出品された,クロード・モネ「サン・ドニ街,1878 年 6 月 30 日の祝日」(1878 年)(池上忠治責任 編集『世界美術大全集 西洋篇第 22 巻 印象派時代』1993 年,207~208 頁)のような絵画も,ナ ショナリズム(現フランス国旗・国家の法制化は 1879~80 年)や絵画史を考えるための資料となる. ルーゴン・マッカール叢書第 14 作に当たるエミール・ゾラの小説(清水正和訳)『制作』上巻(岩波 文庫,1999 年,原著 1886 年)では,レ・アール  クロード・ランティエの叔母が豚肉屋で働いて いるが彼とは絶縁状態である  を「鉄骨構造の優美で堅固な」建物がデモクラシーの具現だとして, 主人公クロードが称賛している(1863 年 5 月 15 日)ものの,彼は自分の描いたその絵は没にしてい る.「パリ,ところどころ」(1965 年)や「パリのランデブー」(1994 年)のような映画にも,サン・ ドニ街やポンピドゥー・センター付近は登場するようだが,私は未見である.その他,文献の補足は 以下の注でも行う.なお,中編 97 頁のモンフォーコン死刑台は精確には現ビュット・ショーモンの

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付近に当たる.110 頁の記録簿を「補完する」は当然「保管する」である. 2 堀越孝一訳・校注『パリの住人の日記 I 1405-1418』(八坂書房,2013 年),359~369 頁.ただし, この辺りはヴァンセンヌの森への通路に当たり,「特別な装置で豪華に行われた最後の国王入城」で ある 1660 年 8 月 26 日のルイ 14 世と王妃マリー・テレーズの入城の際には,「ヴァンセンヌへの道に は,四本の柱の上に乗せられて丸屋根で覆われた大規模な王座が据えられ」,「国王はその王座に座り, 商人頭 [ パリ市長 ] からパリ市の鍵を渡され,諸団体からの誓いを受け」,4 時間かけてルーヴル宮へ 向かったという.これがトローヌ(王座)広場の語源とされる(アルフレッド・フィエロ(鹿島茂監 訳)『パリ歴史事典(普及版)』白水社,2011 年,原著 1996 年,241 頁).また,「ヴァンセンヌの森 のルイイ芝生に立つトローヌ大市として今日に残った唯一の大市は,すでに十三世紀からサン・タン トワーヌ大修道院の領地に立って食料品を扱っていた目立たない大市がそもそもの始まりである.売 られていたのはおもにパン・デピス [ 香料入りパンケーキ ] で,そこからパン・デピス市の名を与え られた.一八四六年の段階ではまだ市門に立つささやかな大市にすぎず,プティ=ランディと呼ばれ, トローヌ市門で十五日間催されていた」(同上書 65 頁).シャルル=ニコラ・ルドゥーによりトロー ヌ市門が建てられ,この辺りがパリ市に編入されたのは,18 世紀末である(同上書 30 頁). 3 エリック・アザン(杉村昌昭訳)『パリ大全  パリを創った人々・パリが創った人々』(以文社, 2013 年,原著 2002 年),130 頁以降.ヴォルテール通りと交差する街路を挙げれば,バスティーユの 数か月前に襲撃されたレヴェイヨンの壁紙工場はモントルイユ通りにあったし,1808 年に 750 人の労 働者を雇い,後にリシャール・ルノワール大通りの語源となったフランソワ・リシャールとルノワー ル=デュフレンヌの紡績工場は,シャロンヌ通りの旧修道院にあった.さらに,18 世紀フォブール・ サン・タントワーヌには多くのフォリー(遊楽別荘)があり,ヴォルテール大通りとロケット通りの 角辺りでは,ニコラ・デュノワイエやクレルモン伯爵が活躍していた(フィエロ前掲書 632 頁).ま た,ロケット通りにはオーヴェルニュ人が,ポパンクール地区にはプロテスタントが集住していたと いう.恐怖政治期にはギロチンは市民の嫌悪感や公衆衛生のために市の中心から遠ざけられ,一時的 にトローヌ=ランヴェルセ広場(剥奪された王権広場=現ナシオン広場)に設置され(1794 年 6 月 13 日),6 月 11 日~7 月 27 日の間に 1376 個の首が飛んだ(一日換算約 30 個,フィエロ前掲書 179 頁). 4 喜安朗・川北稔『大都会の誕生』(有斐閣選書,1986 年).前日にはポパンクール街でも,3000~6000 人ほどの国立作業労働者のデモに呼応して,住民がバリケードを築いたが,国民軍につくか反徒につ くかで意見が二分されたという. 5 アザン前掲書,94,XVII 頁.前掲鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』369~373 頁.なお,ナシオン広場 の角地には,角地に関する法規制を考慮して,円形建物(ロトンド)が建てられた(1865 年頃). 6 松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』(日本経済評論社,1997 年).なお,この現在の 11 ~12 区とマレ地区に相当する当時の第 8 大区は,1830 年時点の対人課税免除者(年家賃 200 フラン 以下の貧困層)が 32%でパリ第 2 位,年平均死亡率(死亡者 1 人当たりの住民数)が 43 人(1817~ 21 年)ないし 46 人(1822~26 年)でパリ 1 位ないし 2 位であった.パリ大改造に関連して,ヴォル テール大通りと交差するロケット通りにあったロケット監獄については,梅澤礼「空気と光を求めて   監獄改革と首都改造」(澤田肇・北山研二・南明日香共編『パリという首都風景の誕生――フラ ンス大革命期から両大戦間まで  』(上智大学出版,2014 年),190~209 頁)を参照.こうした悲 惨な状況と対照的な遊楽の場として,19 世紀には歌謡喫茶の流行の中,コンセール・デ・ザールやカ フェ・デュ・ジェアンの経営者は,それらに続いてプランス・ウジェーヌ大通りに中国風のバ=タ= クランを創設し(フィエロ前掲書 119 頁),アメリカ式鉄道とも呼ばれた馬車鉄道は 1869 年,28 座席 を備えた車両二両を牽引する機関車を用いて,ここのダンスホールの踊り手たちを,パリ南東郊外 シャンピニ=シュル=マルヌまで 1 時間で運んだという(同上書 283 頁).その他,トローヌ広場や シャロンヌ大通りは,19 世紀前半の「遊女屋」地域の一つであった(同上書 548~550 頁). 7 アザン前掲書 132 頁.

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8 普仏戦争の開戦時にも第一次世界大戦の開戦時にも,グラン・ブールヴァールでは打倒ドイツのデモ が行われており,前者はゾラの小説『ナナ』の末尾で,後者はロジェ・マルタン・デュ・ガールの小 説『チボー家の人々』の中で表現されている. 9 ドーデの小説(大久保和郎訳)『月曜物語』(旺文社文庫,1968 年,原著 1873 年).なお,パリ・コ ミューン派最後の司令部は,ヴォルテール広場の第 11 区区役所だった(P. クールティヨン(金柿宏 典訳注)「パリ  誕生から現代まで  [XXVII]」『福岡大学人文論叢』第 41 巻第 2 号,2009 年, 863~883 頁,とくに 865 頁). 10 ミシェル・ヴィノック(塚原史・立花英裕・築山和也・久保昭博訳)『知識人の時代  バレス / ジッ ド / サルトル』(紀伊國屋書店,2007 年,原著 1997 年,増補改訂版 1999 年).55~59,64 頁.「ルイ =フィリップはまた,トローヌの柱の上にフィリップ・オーギュストとルイ九世の像を置かせた.王 政のこのふたつの象徴は今日,〈〈共和政の勝利〉〉の青銅製記念碑群が飾るナシオン広場を見下ろし ている.歴史の皮肉である!」(フィエロ前掲書,468~469 頁).1879 年の市のコンペでは,レオポー ル&フランソワ・シャルル・モリス兄弟が共和国広場の共和国記念碑をデザインすることが決まり, 1882 年に石膏像が披露され,翌年に除幕式が行われた.「共和党派は,イデオロギー伝達と王政復古 期の痕跡を首都から消すために記念像を建て始めた」のである(南明日香「彫像狂のパリの景観形成 と日本人作家たち」前掲『パリという首都風景の誕生』82 ~ 110 頁,引用は 87 頁).鎌田栄吉は『欧 米漫遊雑記』(1899 年)において,「共和政升形と称する広場の中央に共和政女神の銅像の卓立せる周 囲に三基の坐銅像を安置せり,一は自由神像,一は平等神像,一は親愛神像となす」と記している (和田博文「プロローグ 日本人のパリ/パリの日本人」,和田博文・真銅正宏・竹松良明・宮内淳子・ 和田桂子『言語都市・パリ 1862-1945』藤原書店,2002 年,8~16 頁,引用は 10 頁).ロルは「7 月 14 日」(1882)において,共和国広場における観閲式と学童部隊を描いている.ただし,この頃から 既に 7 月 14 日を祝うことには,左右からの批判があった(クリスチャン・アマルヴィ(長井伸仁訳) 「七月一四日  〈怒りの日〉から〈祝祭の日〉へ」,ピエール・ノラ編(谷川稔監訳)『記憶の場   フランス国民意識の文化=社会史 第 2 巻 統合』岩波書店,2003 年,原著 1984 年,141~193 頁, とくに 164~165,192 頁).共和国を象徴する女神マリアンヌについては,モーリス・アギュロン(阿 河雄二郎・加藤克夫・上垣豊・長倉敏訳)『フランス共和国の肖像  闘うマリアンヌ 1789~1880   』(ミネルヴァ書房,1989 年,原著 1979 年)を参照されたいが,1883 年 7 月 14 日の除幕式に,パ リ市との関係や,デモのため投獄されたルイーズ・ミシェルの特赦要求を恐れた大統領ジュール・グ レヴィは臨席を拒んだ(215,271 頁).なお,1978 年時点のフランス 95 県で,街路名として共和国 は 1 位(81),ヴォルテールは 13 位(60)であった(ダニエル・ミロ(天野知恵子訳)「街路の命名」 (原著 1986 年),『記憶の場 第三巻 模索』179~221 頁,引用は 214 頁). 11 アザン前掲書 132 頁.1935 年 7 月 14 日,シャン・ゼリゼでのラ・ロック大佐率いる「火の十字団」 のデモに対抗して,50 万とも見られる群衆が,左翼の再統一を喜び,バスティーユ広場からナシオン 広場まで練り歩いている(前掲アマルヴィ「七月一四日」180~181 頁).左翼が 7 月 14 日を賛美し始 めたのはこの頃からであった. 12 中野隆生『プラーグ街の住民たち  フランス近代の住宅・民衆・国家』(山川出版社,1999 年).同 書によれば,この大通りに近いマルシェ・ポパンクール街にも,ロチルド社会事業団により,1907 年 に低廉住宅が建てられた.山本理顕『権力の空間 / 空間の権力  個人と国家の<あいだ>を設計せ よ』(講談社選書メチエ,2015 年)は,こうした中野の研究を引用しつつ,アレント理論に依拠しな がら,プライバシーを最重要視する標準化された官僚制的管理空間としての近代住宅を批判し,公的 な地域社会圏に開かれた閾を持つ住宅を住民参加により構想しようとする.やや図式的であるとはい え,その提言は示唆的ではあるが,彼のマルクス主義批判や共産党をやけに敵視する叙述はやや割り 引いて考えた方が良い.栗田啓子「地上の世界,地下の世界  十九世紀パリにおける「新鮮な空気」 と「安全な水」」(前掲『パリという首都風景の誕生』113~137 頁)も参照. 13 岡村多佳夫『ピカソ  巨匠の作品と生涯』(角川文庫,2009 年).78~79 頁.長田秋濤『世界の魔

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公園巴里』(1904 年)によれば,「バスチーユの辻より.レピユブリツクの辻に至る内外」は街娼の立 つ区域であった.(前掲『言語都市・パリ 1862-1945』 82 頁).なお,シムノンの小説の主人公メグ レ警部はリシャール・ルノワール大通りに住んでおり,ヴォルテール大通りの名もしばしば登場する. 14 ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール(志摩隆訳)『パリは燃えているか? [ 新版 ]』上下巻(早 川書房ハヤカワ文庫,2016 年,原著 1965 年).近年,共産党の急進性や暴力性を強調する傾向もある が,彼らがナチスに一般人以上に迫害されながらも国内でのレジスタンスを主導していたことや,彼 ら以外のレジスタンスも切迫した状況の中で暴力性を示していることにも,注意が必要である.    なお,イヴェット・ボヴラ,夫,娘エレーヌは自転車で走り回り,ようやく戦車第 50 連隊とシャ トレ広場で巡り合うが,息子の消息は分からなかった(1944 年 8 月 25 日金曜).同日その後同じ場所 で,狭い路地から,上半身を裸にされ,乳房に鉤十字を描かれ,頭をそられた 20 人ほどの女たちが 「私はドイツ兵相手の娼婦でした」と書かれたプラカードを首からぶら下げ,泣きながら現れたのを, 伝令パウル・ザイデルが目撃しているし,ピエール・レイグルの婚約者も彼の戦死の 2 時間後に,彼 の戦友にピエールの安否を尋ねまわった.同日,旧娼婦街ラヴァンディエール・サント・オポルチュ ヌ通りの角では,ラフォー号の砲手ジャック・デスティエンヌの腕の中にパリ娘が飛び込んできて, 共に戦車内に転げ落ちた.前部装甲板上に別の金髪娘も乗っていたが,操縦士ジャック・ナドはかま わず,ドイツ軍パリ司令官コルティッツのいるリヴォリ通り 228 番地のオテル・ムーリスへ向けて進 発した.    ヴォルテール大通りに隣接するゴッドフロワ・カヴェニャック通りの 50 番地には,タルタコウス キー家があり,1942 年 6 月にロベールがドランシーから手紙を送っている(パトリック・モディアノ (白井成雄訳)『1941 年,パリの尋ね人』作品社,1998 年,原著 1997 年).なお,この時期(1898 ~ 1969 年)のヴァンドーム広場のホテル・リッツについては,ティラー・J・マッツェオ(羽田詩津子 訳)『歴史の証人 ホテル・リッツ  生と死,そして裏切り』(東京創元社,2017 年,原著 2014 年) も参照. 15 ヴィノック前掲書,585~589,603 頁.もっとも翌年 6 月 22 ~ 23 日には,ラジオ局ヨーロッパ 1 と 番組「やあ,みんな(サリュ・コパン)」主催の無料パーティーもナシオン広場で開かれ,パリ内外 の 20 万人以上の若者を集めており(イヴァン・コンボー(小林茂訳)『パリの歴史 [ 新版 ]』白水社 文庫クセジュ,2002 年,原著 2001 年,143 頁),政治一色の場でもなかったようだ.    ロジェ・グルニエ(宮下志朗訳)『パリはわが町』(みすず書房,2016 年,原著 2015 年)は,自身 の一族がパリの各街路とどのようにかかわったかを,自伝的な「愛情地理学」として提示してみせて おり,たとえばサン・マルタン通り 218 番地は彼の父母の新婚時代の住居の場所として(20 頁),ナ シオン広場はアルジェリア問題のために命を狙われていたジャン=ジャック・ルーセ宅(著者はそこ に預けられた殺人犯シルヴィー・ポールに,週に数度聞き取り調査をしていた)の付近として(180 ~ 182 頁),ロケット通り 173 番地は著者が招かれたラジオ=リベルテールの場所として(199 頁)登 場する. 16 西川長夫『パリ五月革命私論  転換点としての 68 年』(平凡社新書,2011 年),長谷川正安『パリ からの報告』(新日本新書,1968 年).直後の 9 日木曜には,アムロ通りでドイツにおけるナチズム再 生反対,ヨーロッパの安全と平和の保障,ドイツ共産党合法化を掲げるフランス共産党大集会が開か れ,党幹部が参加している. 17 谷川稔『十字架と三色旗  もうひとつの近代フランス』(山川出版社,1997 年),4~14 頁.著者自 身このデモを見物している. 18 朝日新聞記事や,平野千果子「シャルリ・エブド襲撃事件とフランス  報道から考える現代社会   」(『歴史学研究』第 936 号,2015 年 10 月,36~44,64 頁)を参照.1982 年 11 月 26 日には,多様 な「ジプシー」(ロム,マヌーシュ,シンティ,カレ)が,マイノリティとしての権利を訴えて,ヴァ ンセンヌで集会を開いた後,ナシオン広場からバスティーユ広場を通って共和国広場まで行進した (林瑞枝『フランスの異邦人―  移民・難民・少数者の苦悩』中公新書,1984 年,83 頁).2014 年

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7 月にはヴォルテール大通りで,パリ在住外国人がパリ・トロピカル・カーニバルを開いたことも, この地域の多民族性を示す.私が 2016 年 3 月 16 日にこの大通りを歩いた際,日本のサブカルチャー を扱った店が複数あったことを思い出す.なお,フランスの移民研究では,ジェラール・ノワリエル (大中一彌・川﨑亜紀子・太田悠介訳)『フランスという坩堝 一九世紀から二〇世紀の移民史』(法 政大学出版局,2015 年,原著 1988・2006 年)が有名だが,既に 30 年前の本とはいえ,前掲林瑞枝 『フランスの異邦人』は,黒人,マグレブ移民,イラン人・アルメニア人亡命者,ユダヤ人,アルキ, 「ジプシー」,海外県・海外領土出身者,移民二世といった広義の「移民」について調査し,帰国の難 しさや差別(パリ・郊外関係も含めて)の原因,労働市場の二重構造,移民のアイデンティティ不安, 移民受け入れによる国際政治やテロへのフランスの巻き添えについて,移民自身の視点から具体的に 論じており,一読に値する. 19 私がかかわった名古屋市のまちおこしとしては,田代学区地域委員会と覚王山のまちおこしの事例が ある.前者は従来よりも小さな規模での民主主義の模索という重要な意義を持ちながら,制度的な制 約,河村市政の問題性,地域の既存団体との棲み分けの不明瞭さなどから,その持ち味が生かせない ままに終わり,その検証も中途半端なままであり,私は改めてその意義と問題点をきちんと検証すべ きだと考えている.他方,後者については比較的評価は高いが,現在さまざまな試行錯誤をしている 最中であり,私自身,最も実感をもって語りうる事例である.このような事例を踏まえながら,日本 における補完性原理に基づく地方分権の在り方を,具体的に模索できないか,というのが私なりの テーマである.    ところで覚王山の事例から考えると,「その街で暮らす者」の定義が問題となりうる.現在,多く の時間を覚王山で過ごす商店主といえども,実際には別の街から通勤している事例も多くなっている 一方,新住民がイベントにおける騒音を嫌う等の問題も生じており,そのような場合に商店主より新 住民の意向を重視すべきなのかどうかという問題も生じ得るためである.その意味では住民・商店主 を核として,多様な利害関係者を視野に入れるべきであろう. 20 蛇足ながら,13 世紀サント・ジュヌヴィエーヴ修道院領(現在のパリ 5 区内)の都市化の様子は,シ モーヌ・ルー(杉崎泰一郎監修,吉田春美訳)『中世パリの生活史』(原書房,2004 年,原著 2003 年), 19~26 頁でうかがわれる. 21 せめぎ合いという用語を,私は二項対立的な側面のみならず,双方が相乗効果で発展する場合も含め て使っている. 22 中編でこの点は既に明らかであると思うが,蛇足ながら,バルザックの小説(吉田典子・宮下志朗訳) 『金融小説名篇集(鹿島茂・山田登世子・大矢タカヤス責任編集『バルザック「人間喜劇」セレクショ ン第 7 巻』,藤原書店,1999 年)では,1832 年 6 月 5~6 日の民衆蜂起がサン・メリー修道院での大 量虐殺で終結した後,赤い毛糸の帽子が売れなくなったとの記述がある.なお,サン・マルタン通り に接するグラヴィリエ通りには,1862 年ロンドン万博以来の英仏労働者の交流を踏まえ,国際労働者 協会(インターナショナル)のパリ支部事務局が置かれ(1865 年 1 月),プルードン主義とフーリエ 主義が主体の,ブルジョワ共和主義者と知的エリート労働者の研究サークルとして 500~1000 人ほど を組織化していたが,1867 年末に家宅捜索が行われ,翌年解散命令を受けたという(木下賢一『第二 帝政とパリ民衆の世界  「進歩」と「伝統」のはざまで  』山川出版社,2000 年,46~51 頁). 23 既に聖イノサン墓地と衛生観念については触れたが,ほかにもアルフレッド・フィエロ(鹿島茂監訳) 『パリ歴史事典(普及版)』(白水社,2011 年,原著 1996 年),161~163 頁で述べられたパリの給水泉 の歴史が参考になるかもしれない.それによると,12~13 世紀パリには 4 つの給水泉があり,一つは サン・マルタン通りのモビュエの泉であった.既に 1265 年にはイノサンの給水泉も登場している (1549,1786,1865,1970 年代に再建されている).また,タンプル通りのサン・タヴォワの給水泉は サン・マルタン・デ・シャン修道士が設置したものという.その後,中世末には市内に 12 基,近郊 に 7 基が確認されるが,サン・マルタン通りにはサン・ジュリアン・デ・メネトリエ給水泉(1343 年 か),サン・ドニ通りにはポンソーとトリニテの給水泉が置かれた.その後も市内の給水泉は増え,

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さらにナポレオンは 15 基を増やした(1806 年 5 月 2 日)が,それはサン・ドニ通りやサン・マルタ ン市場に置かれたという. 24 都市史と鉄道史を結合して鉄道路線の敷設にかかわる論争の事例を扱い,2010 年度のサントリー学芸 賞を受賞した北河大次郎『近代都市パリの誕生  鉄道・メトロ時代の熱狂』(河出書房新社,2010 年),221~226 頁でも,中央市場移転問題への言及がある.パリのメトロは郊外との接続が悪く,労 働者の通勤に支障をきたしていたが,国とパリ市の主導権争いにより改善が遅れた.1960 年代にパリ 大都市圏の成長を目指して地域高速鉄道網 RER が整備されることになった際,中央市場跡地に新大 蔵省を設置しようという案(1968 年コンペも実施)が挫折して,そこに南北線と東西線を交差させる RER 中央駅を設置することになり,かつての市場の賑わいを継承する商業施設を一体的に建設する 方針に変更され,パリ都市計画アトリエ APUR の主導により民間資本を活かしたシャトレ=レ・アー ルが計画されたという.またその際に,フランス国鉄 SNCF とメトロ運営会社 RATP の協調が実現 し,鉄道の相互乗り入れ・同一ホーム乗り換えがこの駅で 1977 年に実現したが,その際には日系フ ランス人ルイ・サトウによる中目黒駅調査(1971 年)がモデルを提供したのだという.    ポンピドゥー・センターの再開発については,1977 年 1 月 26 日付け朝日新聞夕刊「ギョッ 花の 都に製油所 ?!」が大きく扱っている.同センターはピアノとロジャーズが設計した,館内に柱のない つり方式の建物で,近代美術,図書,音響・音楽開発,産業創造といった芸術・文化各分野を結合さ せ,芸術家と大衆の交流を図ることを目的として創設され,周囲には新たな画廊,飲食店も増えたが, 旧住民はこれになじめず,商店の売り上げも減って去ったという.またむき出しの原色の配管は「グ ロテスク」「まるで製油所」と酷評され,文化の中央集権化との批判も出ており,財政難や出品拒否 も危惧されるという.また,レ・アール地区も近郊高速地下鉄駅,ショッピング・センター,いこい の広場,駐車場などとして生まれ変わることが報道されている.こうした再開発は,次の註 25 末尾 で紹介するシチュアシオニストたちにとっては,彼らの提言が国家と資本によって換骨奪胎されたも のと見なされている.    内海麻利は「フランスの再開発における参加制度の実態に関する研究  パリ・レアル地区のコン セルタシオンに着目して」『日本都市計画学会都市計画論文集』Vol. 48 No.3(2013 年 10 月,693~ 698 頁)において,1960 年代以降レ・アール地区も含めて開発に伴う異議申し立てが頻発し,持続可 能な発展への注目,政治的代表制の危機と相まって,公開意見聴取,コンセルタシオン(フランス特 有の事前協議),諮問型住民投票,公開討論,住区評議会,決定型住民投票などの都市計画に関わる 参加制度が整備されたと指摘する.その後,住民や施設利用者を中心に治安の悪化等の地区環境の問 題が指摘されたため,2002 年にパリ市長が再々開発計画を発表し,2010 年から工事が着工した(2016 年 4 月に竣工).その際,公開意見聴取,コンセルタシオン,住区評議会が重複して運用され,多様 な利害関係者(ホームレスも含む)の意見が計画に反映され,制度自体も発展したという.ちなみに この時期,1 区住民約 17000 人,就労人口約 16000 人,交通機関利用人口 1 日 75 万人,商店街(約 170 店舗)来客者 1 日 15 万人がこの約 10ha の地区にいたという(パリの都市開発に関しては,原田 純孝・大村謙二郎編『現代都市法の新展開  持続可能な都市発展と市民参加  ドイツ・フランス』 東京大学社会科学研究所,2004 年,103 頁以下も参照.共和国広場やヴォルテール大通りの一部も 1990 年代の特別土地占有プランに含まれているようだが,共にプラン区域の境界に位置しているにす ぎないようだ(152 頁)).    以上のように,この地区はレ・アールの移転に伴う中央駅の設置と共に,古くからの性格を変えつ つあり,その過程で都市計画への住民参加を促す契機となったようである.    その他,元岡展久『建築巡礼 40 パリ広場散策  美しき首都の成り立ち』(丸善,1998 年)も, レ・アール,イノサン市場,シャトレ広場,サン=ジャック塔スクエアに関して言及している.カル ナヴァレ美術館には,P.L. ドゥブュクール「市場の祭り」(中央市場を扱っている絵画)や,サント・ イノサン墓地の絵画もある(ハワード・サールマン(小沢明訳)『パリ大改造  オースマンの業績』 井上書院,1983 年,原著 1971 年,58,60 頁).SCREEN 特別編集『シネマで散歩 パリの旅』(近

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