女子校服の洋服化 : 大正時代(1912年-1926年)
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第2部C) 第3 5巻 第2号. 昭和60年3月. lo fHokka i Jou do Un i i i t Sec rna i t I ve r s IC on( )VO onl yofEducat .35 .2 ,No. Mar 9 85 ch ,1. 女子校服の洋服化 大正時代 ( 1912年−1926年). 斎. 藤. 祥. 子. 北海道教育大学函館分校家政学研究室. The ▽veSternizat ion of vvo ] α 1en’ s SChoo1 C1othes −−− Throughoutthe Period of Ta i 1912一1926 )一−− sho( Sachiko sAITO Laborato l l ido Un ive i i tyofEducat cs ege 1γ of Home 取;onomi rs on ,Hakodate Co ,Hokka , Hakodat e040. Abstract. AS1 demonstrated in my last paper the westernization of women‘s school clothes is , l i lothesfor gy ics where funct ion i timportantfactor, During the rea zedin c ÷mnast sthe mos h i l l Ta i h t l t b i h dt s o era, ere weres some pro ems w t regar o a view of women asinferiorto men i f i lothes fol lowing the westernization of clothes in and insuf ency of knowl c edge of underc ththe development ofcapitalism,however,the common people’s power began to general .駅i ’ i l i ethe scope of women g1 row, wh s activity was enlarged owing tothe r higher education and ions t wasthereforenolongersui occupat tabl iona IJakanesec t lothes(Kimono) eto weart radi .l. .. Consequent upon t he westernization ofthe common people’s clothes, female students wore. lo i lothes thesasthe iodofshowathebaseand westernc rschoolc stookrootandbytheper .Thi form oftoday’sschoolc lotheshadbeenes i h d h b tabl T i i i s e. scan esadto havelaidfoundat ons forthec lothes worni i fetoday. n our everydayl. 1. は じめ に. 欧米先進諸国と肩を並べようとした明治政府の国策を受けついだ大正時代は, ヨーロ ッ パの近代 的合理的影響を強く受けた時代である。 男女平等思想, 生活合理 化と衣服の洋服化は, その代表で ある. それらは, 長い鎖国時代の男性中心の政治, 文化, 生活と 対立し, 試行錯誤が繰り返された が, 男女平等, 生活 「改善」 の定着へむかう パイ プ役 を果した. 第一次世界大戦 (大正3年) 以来, 日本は連合国側として参戦, 経済的繁栄をむかえ, 労働者は (1).
(3) . 斎. 20. 藤. 祥. 子. 物価騰貴による生活が苦しくなる一方で, 女性の動きが活発になる. そこで, 歴史上はじめて, 大 正7年, 女性による 「漁民女房米騒動」 が起り, 米騒動を拡大していく. また, 労働組合組織とし て 「友愛会婦人部」 (大正5年) が生まれ, 8年の大会では 「日本労働総同盟友愛会」 と改名, 「労 働婦人大会」 を開いた. 女性の政治的自由を得ることを目的とした 「新婦人協会」 (大正9年) をつ くり, 11年, 治警法第五条修正案の貴衆両院通過に成功, 女性の政党加入を除く政治運動の自由を 持つことが出来るようになる. こうした動きには, 主としてヨーロ ッパの女性の参政権獲得の運動 の影響が考えられる. 大正2年, ロシア で第1回国際婦人デーが, 3年, 万国婦人参政権大会がローマで開催される等 があり, 日本からも, 第3回, 国際看護婦連合大会(大正元年, ケルン) , 世界キリスト教学生大会 会 (3年, 英) へ, ) 救世軍万国大 英・仏・独 ( (2年, 米) , , 農商務省女 子海外実業練習 2年, 各界からの代表による外国への視察, 留学があいつぎ, 国内でも, 生活のあらゆる面, 特に, 文化 面 で, その影響が大きく, 外国の出版物, 翻訳劇等も流行, 婦人向けの雑誌, 婦人公論(大正5年) , て 家庭内にひきこも 女性の自覚が促され ) 等も創刊され っ ( 主婦の友 (6年) 婦人倶楽部 9年 , , , いた女性を, 社会活動の場へ, 導き入れた時代と見ることが出来る. そこで, 今回は, それら社 会的条件を背景として, 依然遅れた女子の洋服化への道を, 女子教育 の拡大とともに, 今日, 洋服着用へ直接影響を与 えたと思われる当時の先駆的役割を果たしていた 女学校・女子師範学校の校服の変遷を, 当時の雑誌, 教科書, 学校史を通して, 洋服への定着化の 過程とかかわっ て検討した.. 1 工 . 大正初期の校服 大正初期は, 生活のあらゆる面 で明治時代の 延長であっ たにもかかわらず, 学校の校服は, 画期 8 2 )の 「今秋の女学生風俗」 的なものがある. 大正時代の状況を 『新聞集成, 大正編年史, 元年度版』 から抜粋したものが, 表1である. 着物, 袴, 髪, 履物すべてにわたって記述してい ない筒所もあるが, 「数年前までは, 真の女学生 と似非女学生との識別に一寸苦 しむような傾きがあっ たけれど……女 学界の風俗が概して統一され て来つつあるように 思う」 と記されていることから, 袴スタイ ルが, 日本中の女学生の制服になっ ていた. その中で, 特色を, 記述されている箇 所からまとめてみると (記述されていない部分は, 仕立て方, 特色がなかっ たと解釈してよい) , 各学校において, 校章, 着物の材質, 袖型, 袴の色彩, 当時の官公私立の全学校の 髪型, 履物にあらわれている. しかし, 総じて区別が明 瞭でないのは, 理想が 「質素を尚ぶ」 にあっ たからであろう.. 1 1 1 . 女子教育の普及 大正時代の著しく進展したものとして, 女子教育に対する関心の高まりがある. それらは, 当時 の入学者数の増加にみることが出来る. 1年, 同 ま た 女子の高等教育機関の開設の他, 大正2年, 東北帝国大学, 7年, 北海道大学, 1 ,. 志社大学, 14年, 九州帝国大学が入学を, 大正9年には, 東京帝国大学, 京都帝国大学, 10年, 早. 稲田大学, 14年, 明治大学が聴 講を許可し, 学部の制 限等があるなどしながらも, 女子の社会的進 (2).
(4) . 女子校服の洋服化. 21. 表1 大正元年の学校別女学生風俗の特徴* 学 校 名. 着. 袴. 物. 髪. 履 物, その他 多く紬の紋付羽織 蟹 ・髭 は詰 っ てい る 白粉気なし 襟紋は引詰め 飾りなし 東京女子高師 飛白の羽織, 縞の羽 織は禁止 綿服, 銘仙位は構ぬ 海老茶が多く紫, 藍 束髪 下町の流行に持込む と但書 鼠, 褐色, 黒, 鼠薄 なる べく リ ボンは用 府立第一高女 柄合花々 しい 樺色, 濃鼠, 薄茶, し、ナ 、 まし 濃茶利久と種類が多 用い ・るとすれば幅に 制限 紬類は許可 比較的質素 府立第二高女 常用服はなるべく筒 (府立女子と隣同士 袖 のため) 海老茶, 藤色 府立第三高女 前髪を上に立て両費 から髭は詰め髭は大 きく巻き比較的太い 護譲ピンを沢山挿す のが生徒間に流行 飾りなし. 靴 蘭に菊の金物のつい た紐の空色にオリー ブ色の筋模様のある 胴締. 黒. 黒の リ ボン. 靴, 風呂敷ともに黒 (諒闇中のため) 挙動みやびやか. 短くはく. 束髪のくるくる巻き. お茶の水高女. 黒 学習院女学部 襟紋付. が八, 九分. 女子英学塾. リ ボン. 花なし 高等女学部の生徒は お 揃 いに 黒の リ ボン. 銘仙が大多数 長仕立 (上の方に穿 英国風の精神を吹き 香 蘭 女 学 校 モスリン 友禅も居 くが裾は地上をひき 込まれ質素で着実 る づる位) 服装が一般に派手 大半が下げ髪 仏蘭西型の靴もみえ 東 京 女 学 館 大嶋紬, 総織などの 全部黒の幅のせまい る 絹物も大分みえる リ ボン 束髪のぐるぐる巻き 活発な気風を養成さ. 女 子 大 学. れて いる * 大正編年史元年度版 1 「今秋の女学生風俗」 所収2 9 ) 風俗の特徴別に 著者作成 0 6 0 時事 , ,. * 表2 小学校数及生徒数 (内地) 小 年. 次. 学. 校, 数. 常 尋常 尋 高等 高等. 計. 小 尋. 常. 学. 尋. 常. 校. 高. 等. 児 高. 等. 正教科 補習科 正教科 補 習 科. 童. 数. 合 男. 計. 女. 計. 大正2年度末 12,7 641 2, 4 47. 40 425, 6156 46 1 3 , ,25. 5,1 45. 23 6 6 ,97. 5, 3813 2,65 33 29 3 027 09 5 5 ,80 , ,1 , ,75. 大正7年度末 1 1, 32614,0 1 2. 28725 407 8 ,6257 , ,07. 4, 1 7 70 1 9, 1 56. 6,41 24 308 33, 8 2 8,45 48,1 37 347 , ,89 ,. 大正12年度末 ,8 081 6, 57 1 ,7. 1 8 325,4 628 9, 09 0 ,00. 3, 39 31 1 20 0 1 , ,7. 3, 97 64 20,5 8 404 31 6,6 209 60 , , ,137 ,1. * 明治大正国勢総覧所収抜粋) (. (3).
(5) . 斎 藤 祥・ 子. 22. * 表3 高等女学校校数生徒数及卒業者数 (内地) 年. 次. 大正2年度末. 学校. #女手斗 補習科 零 選 ネ斗. 本 科 実 科. 213 63,326. 卒. 徒. 生. 3,496. 者. 業. 本 科 実 科 実科生徒 実科生徒. 計. 269 68,367 10,163. 1,276. 学校 ”こ 教員 “こ 付 本 科 付本科. 763. 313.7. 20.2 22.6 24.5. 大正7年度末. 257 86,368. 5,964. 1,651. 542 94,525 18,457. 2,003. 259.3. 大正12年度末. 529 207,903. 4,196. 3,092. 1,433 216,624 37,096. 2,201. 400.9. * 明治大正国勢総覧所収抜粋 (. * 表4 師範学校校数生徒数及卒業者数 (内地). 年. 次. 学校. 本 男. 大正2年度末 大正7年度末 大正12年度末. 卒. 徒. 生. 科 女. 予備科. 講 習 科. 男 女. 女. 男. 計. 業. 者 講 習 科. 本. 科. 予備科. 男. 女. 男 女. 男. 女. 86 16,696 7,621468 192 1,859 1,092 27,928 5,158 2,225 447 187 2,676 747 472 25,285 4,679 2,117 272 161 1,891 898 93 15,194 7,331 295 165 1,108 979 731 729 33,829 5,992 3,597 879 174 98 20,759 10,135 908 174 1,124. 9 )) * 明治大正国勢総覧所収抜粋3 (. 出の基礎がつくられていった.. I V. 職業への進出 6 )に見ると 「職業は一 家の主人たる者の主として経営す 女子の職業への考え方を, 当時の修身書1 , べきものなれども, 妻は又夫を助けて, 其の家業に励み, 相共に之が進歩を期すべ きなり, 然れど も, 職業の種類によりては, 妻の直接に夫に助力すること能は ざるものあり, かかる場合には家々 の事情によりて, 裁縫, 手芸, 養蚕, 養鶏など, 女子に適当なる副業を営み得る者は, 之に従事す るきを宵しとする.」と, あくま で, 家庭にあって, 良妻賢母としての役目を全うすることにあっ た. 2 0 )によれば タイ ピ しかしながら, 女子の職業進出は 目 ざましかった. それら職種は, 『婦人之友』 , スト, 婦人速記者, 婦人歯科医, 女子薬剤師, 女子事務員及び薄記係, 電話交換手, 女子電信係,. 為替貯金局の判任官, 小学校教員及び音楽教師, 女医, 産婆, 鉄道院の事務, 女髪結, 女料理人, 仕立屋, 中等学校教員, 幼稚園保母, 自動車運転手, モデル, 製糸教婦, 印刷局女工, 専売局女工, 砲兵工廠女工, その他紡積関係に就いていた. 大正10年以降の東京市社会局の調 査によると, 「各種職業を通じて, 婦人の数は遂年激増し, 大 正十年より同十四年に至る四年間に医師薬剤師七百人, 産婆看護婦二千七百人, 逓信省雇用員五千 人等と部分的に見ても著しい増加 を示し, その率は男子を凌ぐと同時に, 諸都市の職業紹介所調査 に依っても, 一般に女子就職 率は男子のそれを凌い でいることは明白,」また「大正十三年発表の東 京市社会局の調査に依れば, 市内の女子有業者 (但し女工も含む) 十三万七千三百七十三人で, 女 3 3 )いる こうした傾向は 資本主義の発達とともに 時代の要求 子総数に対して13.71%を占めて」 , , . 0年, 函館高等女学校の会長, 神沢唯治の言葉に するものとなり, それは, 教育にも連動 し, 大正1 「女子の天賦は 主として, 家を治むるにありと錐も, 余力のある者は出でて, 社会の事業に従事す 2 7 )の内容 べく, 或は, 境遇上職を求め ざるべから ざる者あるべし」 と, 「今後に於ける女子の覚悟」 (4).
(6) . 、 の洋服化 女子校服 の、. 23. 4 1 }にも 「第十三課 改良で に職業をあげている. また, 大正1 3年, 山本良吉著の 「女子の教養」 , , , 従来, わが社会は, 婦人に対しては誤った考えを抱き, 万事ただ控へ目にし 退いて守るのみを淑 , 徳とさ へ考へた。 漸次, 女子の活動が認められてきたのは 社会進歩のため喜ぶべきこと である」 , と, 「進歩はーつづっの改良からくる」として, そのなか でも社会進出を容認している 教育責任者 . 等にも, 現状が容認され, 職業への進出が容易になり, 職種も増えて, その就業人口も拡大さ れ , 服装の活動, 機能面が, 要求されてくる. 大正 7年, 女配達夫の採用規則は出来たものの 実現化 , 3 0 )をとりあげている 女性だけに開かれた新しい職場では 企業管理 への困難な問題として「服装」 。 , の需要から洋服化への実現が早く行われている. 従来からの看護婦や, 大正8年 青 バス車掌 白 , , 衿洋服, 大正1 2年, 白木屋, 店員に洋服を奨励, 大正13年, 白木屋, 食堂店員に洋服を制 服とし , 〉がみられる 東京市乗合自動車の女車掌, 赤衿の制服の着用4 . こうした現状を背景に大正12年出された 『生活改善調査決定事項』 では 「二 職業婦人の事務 , , 服は洋服にしたい」 と, 着装方針を明瞭に 打ち出した また, 学生, 教師 車掌等に洋服を着てい 。 , 2 4 ) る人が増えている実状を,「この勢は, 極めて自然の発達 で決して 一時の流行では無かろう……」 , と肯定し, 洋服着用の実行の端緒を職業婦人の事務服に求めている .. V. 体 操 服 につ い て. 前節で述べた女子洋服化の拡大よりも, 学校教育の場 では, 一歩早く体操服が生まれる 大正期 . に入ると, 女子の体操に対して熱心な学校がでてくる。 大正元年, 府立第三高女では 「体格のよくない婦人は出したくないと. あって, 運動は一寸他に見 2 8 )が行われる しかし 依然 女子に対する服装の られぬ位盛んにやり, 毎年キビキビした運動会」 , . , 問題が解決してゆかないのは, 体育に関する考え方が男女による違いにあったことによる 男子に . 対しては,「体育の必要は只に個人自己の健康を増進する以外に, 国家の健全を計る上に於て欠く可 からざるものである. 国 家の健全は武力によって保証されねばならぬ. 武力の基礎は即ち 人にある ……。」 として, 女子に対しては, 「婦女子にあっても, その体質を強壮ならしめる事は 云ふ迄も , なく必要 である……健全なる国民を得る為には, 健全なる母を要す るものであるから 母 先づ其 , , 4 0 )と 体育の必要性に対する考えの差があ た しかし 体育そのものは活 の体育に注意して……」 っ 。 , , 発 に ひ ろ が っ て いく。. 大正2年, 「学校体操教授要目」が公布され, スェーデン式体操が導入され その動きに伴なって , 着用され始めた体操服の状況を以下によっ てみる. 徳島県では, 大正5年早くも新しいスェーデン式体操の講習会を開き 新指導要目の伝達講習会 , を郡, 市別に開催し, 服装にも影響し, 県下石井小学校 では,「体操指導に教師は上衣を脱いだだけ で, 長ズボンにワイ シャツ, ネクタイという悠長さであったが, その後は, 教師も児童も帽子 シャ , ツ, パンツ, 靴ま で運動専用となり, 特に, 女児は短かく スカートを服の上部で絞り上げ 頭髪の , 1 0 )とある 小学校においても 女子の体操服に対する対 乱れを鉢巻でしめ漠とした身搭えに変った」 。 , 策が考えられ始めた. 女学校・女子師範学校においても同様 で, 栃木県女子師範学校 では 体操服 , に対して洋服が早くも採り入れられ,「当時, 中学校の夏服に用いた霜 降りの木綿地で 上衣はセー , ラ型に, 下衣はモンペの短いのに似ていた……この体操服は, スエーデン式体操とともにとり入れ 3 5 )と かなり 日常服と区別したものもあるが 宇都宮高等女学校 のように改 られたものである.」 , , , 1 8 )になる等の型も めて体操服としなくとも, 日常服を工夫して, 「裾についた紐を引くとモンペ型」 (5).
(7) . . 24. 斎 藤 祥、子. あ る.. 体操服の改善は随所 で考えられるようになり, デザイ ンが発表され始める. 二階堂トクョは, 大. ◎. 正 6 年, そ の 著 『体 操 通 俗 講 話』 で, 男 子 服 制 は. 結構とし, 女子についての袴姿は, 「此まま では, 学校で授ける総べての課業を満足に学習すること. 0 0. ; ゐ ・ きり. 3 )と して 「和 服 式 体 操 服」を 考 案 し て い る 弱 い」2 . ,. f−. ,. 材質は, 小倉又は天竺, 白の ブラウス, 紺のニ 図1 大正時代の体操服と着用図 写真ょり作図. カ ー ス な どがよ く, 紺 サ ー ジ, 綾 モ ス, 紺 小 倉,. 「着るにらく で恰好のよい女子体操服」. セ ル, ネ ル でも 利 用 出 来る と し て い る.. } 婦人の友1 0年所収8 5巻3号大正1. 学校によっては, 家事科の先 生のデザインの体操服を着用するようになる. その例として, 鳥取 県の小学校では, 大正7年卒業生によると, 「六年生の頃から, 河原校は, 体操服が出来, 裁縫の藤 縄くに子先生考案になる服を喜んで着たものでした. お蔭で, 体操では, どこに行っ ても楽々出来 1 7 )千葉女子師範学校においては 大正8年 当時 体操の時間の服装は 「上級生は元禄袖 ました」 , , , , の和服に, くくり袴スタイ ルであり, 新入生から家事 (家庭科) の教師であっ た郡司せい子指導 で 体操服を着用するようになっ た.」その形は「白い綿の布を用いて六本位のタ ッ クをとっ た衿なし半. 9 袖 ブ ラ ウ ス と 紺 の 綿 サ ー ジ で 作 っ た 膝 丈 位 の プ リ ー ツ を と っ た キ ュ ロ ッ ト ス カ ー ト で あ っ た.」). と, 機能的, 実用的な服が現場の教師か ら出来上っていっ た事も注目すべきことである. しかし, こう した事は, 全ての学校で行なわれていたわけでなく, 多くは, 明治の続きの状態 で 1 9 ) あっ た為, 東京女子大学では, 大正7年に「生徒は, 蓋恥心をかなぐり捨てて, 体操服に着がえ」 など, 着用するにも強い決心を要した. そして, その普及も遅く, 尚綱女学院 では大正14年の卒業 生談の中で, 「体操服は, 私共が初めて着たのです. 皆, 着物を着ておりまして, 体操の時間になる と, 小部屋でブルーマーで運動着に着替えました. ……体操服は, まだ市内の どこの女学校でも着 3 1 )とあるように 地方性の他 ここにも従来からの女性観が根強く残っている ていませんでした」 . , , 大正15年3月 8 日に, 文部省は, 訓令第三号をもって「体育運動の振興に関する件」を公布, そ の中で, 「(5) 女子の体育運動に関しては, 特に, その精神的, 並に, 身体的特徴に適合せる運動 1 5 )と 体操服にふれてい の種目, 及び実施方法を選定し, 且運動時の態度, 服装等に注意すること」 , る. 前述のように女子の体操服が, 工夫され, 登場しはじめた現状を考え, 女子の運動時の服装の 改善を認識してきたと解釈出来る. それには, 社会的背景に, 大正時代に盛んにな ,っ た各界の日本 人による外国視察, その技術の導入, 体操に対して前向きのミッショ ンスクールがあ らわれるなど の影響が考えられる.. V I . 校服の洋服化 学生側から, 校服の改正を求める声も出てきた. 東洋女子学園の学生 (大正10年卒生)は, 職員 3 7 )と申し出ている 校服の象徴となっ ていた袴スタイ 室に行き「早く洋服の制服を決めてく ださい」 . (6).
(8) . 女子校服の洋服化 のマ. 25. ルは大正10年前後になると, 時代の歩調に 合わなくなってくる. 秋田女子師範学校で大正12年, 校服の肩揚げ(第1学年は必ず上げ 第2学年になると 必ず下 , , ろさなければならないという肩揚げの機械的上げ下げに対する定め) に対する生徒の不満が表面化 し, 一部の生徒の間で同盟休校しようと する動きがあっ た. その校服について 「和服の校服は 明 , 治19年当時では, モダンなもの であっ たかもしれないが, 大正末期には時代 遅れのものとなっ てい たらしく, その当時の生徒からは, 『姥捨山の姥』の如きスタイ ルなどと言われ, 評判の悪いもの で あった. 女性が学校の組織, 規則に対して, 意見さえ述べるという 事も 明治時代には見られなかっ , た事である」 校史は,この出来事について, 「制服が同校訓育の大きな柱になっ ていただけに重要な 1 )と とら 意見を持つとともに, 大正デモクラシーのいかにも女子師範学校らしい現わ れであっ た」 , え て い る.. 大正1 2年前後は, 東京・地方とも次々 と校服が洋服化してゆく, そのデザインは, 実践女子学園 では, 大正1 2年校服を洋服と制定し「ワンピース, 箱髪型, 冬は紺サージ, 衿と袖口に, 青い絹糸 で桜の花を唐草模様風に刺繍した. 夏は水色銀ガム長袖 で, 衿だけ白ピケ地 であっ た 衿あきが大 。 1 4 )聖心女子学院 では 「冬は白ネ ルのブラウス 紺サージのジ きいので, 夏冬とも胸当てをつけた」 ャ , , ンパースカート, 共生地のく るみボタンが付いた. 夏は小さな水玉 が織出しになっ た白地ボイ ルの ブ ラ ウ ス, ア ル パ カ の ジ ャ ン パ ー ス カ ー ト」 (大 正 9 年) が 大 正 12 年 に は 「白 富 士 絹 ブ ラ ウ ス , , ,. 紺サージジャン パースカート」 とし, 震災後に 「冬は従来通り, 夏服は白ピケのブラウス (長袖) 6 )」 と 序々に洋服のデザインを変えてい た 紺アルパカジャンパースカート (切替低く一直線)2 っ . , 栃木高等女学校 では,「地質は紺サージ, 上衣は襟なし, 前明き, スカートはジャ ンパースカートで 髪 は 十 六 であ っ た。 夏 は ジ ャ ン パ ー ス カ ー ト の 下 に 白き キ ャ ラ コ 襟 な し 前 明 に 長 袖 の ブ ラ ウ ス , ,. 3 6 )(大正1 を着用 した.」 3年) , フ ェリス女学院 では, 大正11年, 標準服が決められ, 着用されるの 「 は14年からで, 制服−冬服は, 紺サージのセーラ型, スカートは襲スカート, 上衣の襟には え , んじの線を三本入れ, ネクタイはえんじのこはく で二重, 夏服の上衣は, 白地に襟はギンガムに白 6 )とある これらのデザイ ンは 今日 学校の制服と 線三本, ネクタイ, スカートは冬型と同じ型」 . , , な っ て いる も の に 近 似 し, ブラ ウ ス, ジ ャ ン パ ー ス カ ー ト, セ ー ラ ー 型 が 出 現 して く る しか し , .. 大正末期 でも, 武生高等女学校の卒業生 の回想記にあるように,「初めて着て行っ た日の一時間目は 恥かしいやら, おかしいやらで, 授業になりません でした. 生ま, れて始めて着る洋服 でした. 知 っ ている人がくると逃げて, かくれたもの です. 冬スカートはいや でしたが, ポケッ トがあり意外に 3 4 }とあるように 一部を除いて 洋服着用は 当時 一般的 日常的ではなか 便利だと思いました」 っ , , , , , た.. V I I . 下 着 につ い て. 和服から洋服へ変化, 普及するにつれて, 構成上の違いから, 下半身の露出がある. これに関し 2 5 )と て, 『生活改善調査決定事項』 で「衣にのみ心を注いて裳を忘れるのが日本の服装の幣である.」 指適しているように, 従来の伝統的和服には, 取り上げられなかっ た下着を含めた股付きの下衣へ の認識のあり方が問われるようになっ てくる. 大正 9年,「元禄袖, 着物に女学生袴の長女の六年生は一日妙な紙型を持ち帰った 夫は秋の運動 . 会に初めて用いねばならない下ばき (パンツ) のだ相だ. そして白キャラコにて二着ばかり手縫し 2 1という記述さえある て居っ た様だったが, 実は, 其の母は, 其の型紙の左右さえわからなかっ た」 . (7).
(9) . 斎 派 藤 祥 子. 26. 当時としては, 作業衣のもんぺや, 女学校, 師範学校用の裁縫教科書の婦人股引, 子供洋服の下着, また, 体操服としてのブルマー等の知識が一部にあるだけで, 多くは, 股付きの下衣に対する知識 に 欠けていた. それらは, 学校教育を通して本人, 家族へと浸透 していったようだ. 学校外では, 大正5年, 『婦人之友』 の広告に貴婦人令嬢用下ばき (アンダーズロース) をのせ, 「此を着せば, 7 )と 動作敏活となり, 夏は汗除となり, 冬は保温の良具となる. 殊に学生の運動には必需品の…・“」 , その説明を加えている. ややもすれば, 無視されがちな下衣に対して, 校則によって着用を定めて いるところも出てくる. フェ リス女学院 では, 大正11年の服装 心得に, 「日本服 でも完全な 『サル 5 )としていることは注目に値する 前述の 『生活改善調査決定事項』 で 「洋式下 マタ』 が必要 です」 , . 2 5 )と 積極的姿勢 で提案している しかし 全 着を用ひろことは衛生上風儀上速やかに実行したい」 , , . 国的に浸透していくま でには至らないうちに, 関東大震災によっ て醜態をさらけ出すことになって しまう. 青木英夫は 「震災をとおして, 特徴的なのは, 焼死した女性のぶざまな姿を見せつけられ 2 )としている 大正末期になる たことによ って洋服, 洋風下着を用いる女性が増加 したことである.」 . と, 表着としての洋服は, 校服として拡がっ てゆくが, 下着の改良が伴なわず武生高等女学校の卒 業生の回想記に 「当時の武生には洋服用の下着は売っ ている店がなく, 全部, 自分らで作らねばな 3 4 ) りません. 不自由なものでした.」 洋服の普及を奨励 しても下着ま で至らず,このことも洋服普及を遅らす一因といわねばならない.. V I I I . 頭髪と履物 学生の頭髪には, 和服, 袴にあわせて流行があり, 洋服採用とともに, その形も変わっ てくる. 小学校については, 八雲小学校にその例をみてみる. しだいにオサゲが多くなってきている. これも, 服装の方は, ほとんど変わっ ていないが, 頭髪は. 洋服の普及より強く運動が影響していると思われる. 女学生については, 大正元年頃は表1のように束髪が多く, その他, 流行もあったよう でさま ざ まな型が見られる. しかし, いづれも運動には不向き で, 工夫されるようになる. 磐城高女では, 2 }をかぶり 県立第一高校では 「体操教師と裁縫教師の考案した帽子を 体操時に, 白い大黒ずきん1 , , 2 9 冠る等する」)制服に洋服が採用されるとともに, 頭髪も大きく変わっ てゆく. 大正10年, 磐城高 表5. 卒業年度 総 計. 和 服. 洋 服. 服装と髪型* 型. 髪. 束 髪. 桃割れ. オサゲ ヨ コワ ケ オカ ッノぐ. 明治36年. 9. 9. 大正9年. 23. 23. 7. 16. 1 0年. 20. 20. 14. 6. 1 1年. 15. 15. 3. 9. 3. 12年. 23. 23. I. 11. 11. 13年. 28. 28. 22. 6. 14年. 25. 23. 2. 23. I. 15年. 46. 44. 2. 44. 2. 3. 6. 日本の百年 震災にゆらぐ 「変わる服装と髪型」(東京郊外の八雲小学校 卒業写真による) B ) 所収より抜粋3. (8).
(10) . の、 女子校服の洋服化. 27. 1 3 )フェリス女学院の記録 では 「ひさし髪といわれる髪形も大 女では 「束ねて後頭部に丸めている」 , 6 正十年近くま で見られたが, 大正末期はお下げ髪になり 断髪となり今日に至っ ている」 )とある , . 当時の世間一般には, 東京銀座 (大正15年) 2年) の通行人の調査 で, 東京 , 大阪心 斎橋 (大正1 )と 大正末期に は洋髪42%, 束髪27%, 日本髪31%, 大阪は洋髪34%, 束髪22% 日本髪44%3 , , も, 依然, 束髪, 日本髪が多いとはいえ, 全体的に 髪型が 簡略化の方向へむかっていることが , , わかる. 同様に, 履物の変遷を見ると, 大正元年同じく表1からも 「靴」 と記録があり その種類 , 2 6 )地方 では 磐城高女のように 大正 7年 は, 大正9年, 聖心女学院 では 「黒の編上が一番多い」 , , , 2 )であった そして 大正9年 短靴になる 尚綱女学院は 「和 体操時に靴が用 いられるまで草履1 . , , 。 3 2 )(大正10年) 函館高女では「下駄を 服にはかま, 黒のストッキン グにあみあげ, または短 ぐつ」 , 1 5 )(大正11年)と 靴の普及は 下駄 草履と併用 した形 で 穿いて通学, 中には靴履のもあっ た」 , , , , 袴をはいて, 編上靴のスタイ ルで短靴とともに用いられ 体操時にズック靴の体験を通して 校服 , , に洋服採用と同時に靴になっ てゆく. 頭髪や靴が, 洋服着用以前に早い変化を見せているのは 生 , 活合理化にむけ られていたヨーロ ッ パ文化の影響が考えられる 。. IX. ま と め. 大正は, 資本主義の発展とともに, 台頭してきた庶 民の力が社会的に芽を出 してきた時代 である . その中でも, 家庭内にあっ た女性が立ち上がりつつ, 男女平等への道を切り開いていっ た時代とも いえる. 女子教育の高まりは, 女性の自覚を促 し 新しい女性解放運動に発展し 職業への進出を , , もたらし, 職種が拡げられ, 男女差別撤廃へ向かっていっ た こう して 女性が家庭外の生活へそ . , の行動力を拡げるにつれ, 服装の機能面が, 一層要求, され, 従来の和服 では適当でなくなっ てくる 。 こうした社会的条件を背景に, 女子の学校教育における校服の洋服への実現の過程をみた まず , . 学校教育の中では, 機能性の最も要求さ れる体操服に洋服を見ることが出来た スエーデン式体操 。 が, 全国に普及し, その動きにあわせて, 洋服化の実現が早くなる また 所属学校の特色 を校服 , , に表現する方策ともとられるようになる. 高等教育への門戸の開放は, 社会への批判力 と認識を持っ た女性を育てることになり 職種の拡 , がりにより,服装の機能面の要求される職場の企業管理の面から洋服がとり入れられるようになる . 当時, 女性の指導者層を育 てる先駆的役割をしていた女学校 女子師範学校の校服は 大正の初 , , め, 袴スタイルに代表されていたが, 大正10年から1 4年頃になると, 一部 を除いて教育指導者層 に現状容認され, 洋服へと変わっ てゆく. 普及のかたちは, 下級生に始まり, 上級生はそのままという形 で 全員が洋服になるには時間を , 要した。 洋服を制服, 又は標準服としない場合は 和服が多く 日本女子大学 で 「校内服装を見渡 , , 2 2 )とある (井上秀子は 前述の 「生 すと, 洋装者, 井上秀子女史一人のみ, 他は, みな和服にて」 . , 活改善調査決定事項」の服装改善調査 委員 である) また 聖心女子学院のように洋服の標準服が決 。 , 2 6 )という状態 であった 洋裁を早く採り上げた ま っていても 「上級生は相変らず和服の者が多く」 . 『婦人之友』 では 洋服者着用の体験談 洋服の作り方を誌上で公開しているが 外人教師 のいる , , , ミッショ ンスクールや一部の学校以外, 女学校, 師範学校の裁縫教科書には成人女 子の洋服は多く 登場していない。 それらの原因として, まだ強く残る男性優 位の女性観 洋服化に伴う 下着 特に , , 学校において校服として洋服が着用さ れることによっ て 一般の人の洋服化へとつながっ てゆき , , ヨーロ ッパ文化の影響が生活全体の合理化にむけられてきたことと相まって そのまま昭和へと定 , (9).
(11) . 斎 藤 祥 子. 28. 着してゆくことになる. その形態も, 前時代の袴に見られた 学校の特色を出していた白線, 色彩は その一部を洋服の上に残し, ジャンパースカート, ブラウス, セーラー服等, 今日の校服の 基本の 登場をみることになる. 大正時代における校服の洋服化は, 今日の我々の洋服生活への基礎となっ たことを見た. 本研究に際し, 終始ご懇篤なご指導とご校閲を賜りました北海道教育大学函館分校清野きみ教授 に深謝を表 します.. 引用文献 1) 秋田大学百年 (1973) 207 3 ) 衣と食の歴史 雄山閣 8 1 9 69 2) 青木英夫, 大塚力 ( 1 ) 日本結髪史, 創元社 21 1 95 3 3) 江馬務 ( 0一20 1 0 百 史, 文化服装学院出版局 2 2 ) 図説日本洋装百年 1 96 4) 遠藤武, 石山彰 ( ) 1 83 1 0 00年史 ( 97 5) フェリス女学院1 1 97 0 ) 4 85 0 0年史 ( 6) フェリス女学院1 ) はの1 2 ( 1 9 6 1 1 0 婦人之友 ) 7 8) 婦 人之友. 15 3. ( 1921 ). 124一125. 1 ) 11 62 981 9) 百年史 千葉大学教育学部 ( 4 1 9 51 ) 日本体育史 金子書房 31 ) 今村嘉雄 ( 10 ) 4 4 1 97 3 )▲石井小学校創立百周年 ( 1 1 ) 福島県立磐城女子高等学校 64 19 5 9 ) 磐女高55年史 ( 1 2 6 ) 福島県立磐城女子高等学校 6 1 95 9 ) 磐女高5 5年史 ( 1 3 1 981 )3 19 ) 実践女子学園八十年史 ( 14 3 5 ) 函館教育史 函館文化会4 9 71 15 ) 神山茂 )1 9一4 0 ) 文部省 3 16 1 9 ) 高等小学修身書1女性用 ( 1 6 1 3 ) 3 0 ) ( 9 7 1 7 河原小学校百年誌 ) 栃木県立宇都宮女子高等学校 87 96 6 1 )90年史 ( 1 8 ) 日本婦人問題資料集成 4 教育 ドメス出版 464 19 76 ) 三井為友 ( 19 2∼41 ) 大正期の職業婦人 ドメス出版 2 19 83 ) 村上信彦 ( 20 86 ) 日本衣服史 大雅堂 6 1 94 3 ) 永島信子 ( 21 8 7 ) 日本衣服史 大雅堂 6 194 3 22 ) 永島信子 ( 2 6 ) 体操通俗講話, 東京宝文館 721一7 1 9 17 23 ) 二階堂トクヨ ( 4 8 ) 生活改善同盟会 ( 1 9 2 3 ) 生活改善調査決定事項 24 ) 生活改善同盟会 49 1 92 3 ) 生活改善調査決定事項 ( 25 ) 41 1 195 8 ) 聖心女子学院創立五十年史 ( 26 9 8一1 ) 北海道函館西高等学校 1 196 2 ) 六十年史 ( 5 7 ) 明治大正昭和新聞研究会 460−‐464 1 97 8 ) 新聞集成 大正編年史 元年度版 ( 28 ) 明治大正昭和新聞研究会 152 19 77 ) 新聞集成, 大正編年史 七年度版中 ( 29 ) 明治大正昭和新聞研究会 153 ( 1 9 7 7 七年度版中 大正編年史 0 新聞集成 3) , 1 19 2 ) 1 7 6 ) 尚綱女学院七十年史 ( 31 )13 5 19 62 ) 尚綱女学院七十年史 ( 32 2 5一22 7 ) 朝日常識講座 婦人問題の話 朝日新聞 2 19 2 9 ) 鈴木文四郎 ( 3 3 3 ) 福井県立武生高等学校 4 19 8 7 ) 武高八十年のあゆみ ( 3 4 ) 栃木県連合教育会 67 195 8 ) 栃木県教育史 4 ( 35 0 ) 栃木県連合教育会 36 1 95 8 ) 栃木県教育史 4 ( 36 ) 65 1 96 4 ) 東洋女子学園六拾年史 ( 3 7 2 ) 日本の百年5 震災にゆらぐ 筑摩書房 15 1 9 68 ) 鶴見俊輔 ( 38. ) ( 10.
(12) . 女子校服の洋服化 ) 宇梶洋司 3 9 4 ) 宇野両軒 0 ) 山本良吉 4 1. ) ( 1975 ( 1 915 ) ( 19 2 4 ). 29. 明治大正国勢総覧, 東京経済新報社 677−‐678. 家庭宝鑑全. 忠誠堂 350. 女子の教養 4 東京弘道館 72一7 4. 参考文献 1) 共立女子職業学校桜友会裁縫研究部 ( ) 大日本図書 1 9 26 2) 丸岡秀子 山口美代子 ( 198 ) 日本婦人問題資料集成第十巻 近代日本婦人運動史年表 ドメス出版 0 3) 三井礼子 ( 19 8 1 ) 現代婦人運動史年表 三一書房 4) 斎藤祥子 ( 1 ) 学校の体操教育が女子日常服に与えた影響−明治時代 ( 984 1 86 8一1 91 2 ) 北海道教育大学 紀要35巻第1号第2部 5) 吉村千鶴 ( ) 新制 裁縫教科書 4 東京開成館 1925. ( 1 ) 1.
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