「ルクレティウス」における人間観 : 質料主義と形相主義の再統合へ(その1)
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(2) . 平成5年3月. 3巻 第2号 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第4 L43 Seぬon1A)vo fEduc i もばdoU電ve a do fHok a丘on( r s t ; yo .2 J o田口 ,No. MZ 迂曲ら1993. 「ルク レテ ィ ウス」 における人間観 -- 質料主義と形相主義の再統合へ --. 西. 岡. 序. 孝. (その1). 治. 論. 1) 質料主義と形相主義 )に お い て ソ ク ラ テ ス 以 前 の ギリ シ ヤ 哲 学 を ガス リ ー (W. K C‐Gu日bde) は彼 の 初 期 の 著 書1 , 大きく 二つ の タイ プに 分 けて い る. 一つ は, 例 え ばタ レス を 初 め と す る ミ レ トス 学 派 の よう に, 万. 物の始源 ( 中×汐 ) を問い考察するタイ プである. 彼らの基本的な問題意識は, 例えば次のよう l f?) d madeo な 問 い によ っ て 表 わ さ れ る. 「世 界 は何 か ら でき て い る の か ?」 (Wha ti s mewor ‐ こ れ に 対 して, もう 一つ は, ピ ュ タ ゴラ ス を始 め と し, ソ ク ラ テ スや プ ラ トン, ア リ ス トテ レス 等 の. 哲学である. 彼らは主として, 物の本質あるいは形相や機能, 目的等を問い考察する‐ 例えば, 「世 l d?) と 問 う‐ ガス リ ー の あ げて い る も 界 はつ ま る と こ ろ 何 で あ る の か ?」 (Wt曜t 誼erani swor う 一 つ の 例 で いう と, 「こ の机 は何 か ?」 (Wha ti s msdesk?) と問う 時, 前者 (ここではそれを. 質料主義者と呼ぶことにする) は, それは 「木」(wood) であると答えるだろう し, 後者 (形相 i ngt tbooksandpaper 主義者) は, 「本 や 書 類 を の せ る 或 る 物」 (somed〕 opu son). と 答 え る だろ う. というのである. 更にガスリーによれば, 以上の二つのタイ プは, 必ずしも矛盾関係にあるとは思 l l われないのであって, 異種なのである. 「質料主義」(ma t e e山道sm) と, 「目的論」(t e o ogy) の どちらに傾くかは, 気質の相違であって, 人間はどちらかを即座に本能的に送択するものである. l l i 日紐s 「哲学者達を, 質料主義者 (ma t t t s e s) と目的論者 (t e eo og s) , 換言すれば, 質料に着目す る 哲 学 者 (ma社er ‐ s) と 形 相 に 着 目 す る 哲 学 者 (f o ・m- s) と に 分 け る こ の 仕 phaosopher phnospher. 方は, (古代ギリシヤのみならず) 我々の時代も含めて, どの時代にもみられる最も基本的なもの であろう.」 古代ギリシヤ哲学者としての ガスリーは, こう注意を促しておいてから, 本論に於て 両タイ プそれぞれの哲学者達を紹介している‐ 周知のように,「質料」( ”入り ;皿批e r)と 「形 からだ. たましい. 相」( eおo,お6α; 肋n 1) との区別が矛盾関係にないのは勿論のこと, 例えば 「体」 と 「 魂 」 のように本来一体である生物の理論上の相補的な区別であったり, 青銅とそれから製作された像の ように同じ性格の区別であっ た‐ (ただし, 先にアリス トテレスが形相主義者の一人としてあげら れ て いる の は, 恐 らく, 形 相 の 方 を 重 視 して い る か ら と いう 理 由 によ る も の と思 わ れ る‐) と こ ろ. が両者の区別は哲学の歴史においては, 「唯物論」 と 「唯心論」 , あるいは近代以降においては 「唯 物論」 と 「観念論」 との対立として不具載天の敵対関係にあるが如く語られることがある‐ 特にマ ルクス等の 「弁証法的唯物論」 の出現と, 「科学的世界観」 は, 質料主義の一方的優位を宣言して 」障らない. 例えば エンゲルスは 形式論理学と科学 (この内に弁証法も含まれる) さえあれば , , , およそ哲学や宗教など無用となる時代の到来を確信していたようである‐ また, モーリス・コン.
(3) . 西 岡 孝 治. 0年代の著書の中で, 「弁証法的唯物論および史的唯物論の基礎的観念を適用 して, ど フォースは5 のようにして人間の意識がじっさいに生じ, かつ発展するかも明らかにしようとするもので」あり, 具体的には 「条件反射から人間的自由へ」 あとづ けようとするのであるが, その際, 「あらゆる観 念論と, 人間の心の神秘化とを, ふりすてることをたすける」 ことも含まれていると前置きしてい ) マ ルク ス エ ン ゲ ルス レー ニ ン ス タ ー リ ン 更 に毛 沢 東 ま で を ふ ん だ ん に 引 用 して 論 じ る2 ‐ , , , ,. ているこの著書において, 観念論批判の部分は確かに首肯できる点が多いのであるが, 残念ながら 一方の弱点を指摘することが直ちに他方の優位を証明することにはならない. たといある点に関し て は確 か に一 方 が優 れ て いる と して も, 他 の 点 に 関 して は, 逆 転 して い る か も わ か ら な いか ら であ. る‐ 動物が単に本能的に自然に順応して生きているのに対して, 科学を中心とする高度の認識力に 3 )ことが よって人間は, 自然の法則 (必然性) を発見し, 自然を人間に役立つように “支配する“ できるというのが, このマルクス主義的認識論の要旨と思われる‐ 「人間はもはや動物のようにた 4 )こ んに自然の諸対象を集めたり, 並べかえたり, 用いたりするのではなくて, 自然を支配する.」 うして科学の発展は, 人間の生活を完成するための本質的な手段であり, 自然にたいする人間の支 配, 人間の富, 人間の活動範囲と力, 人間の諸問題を管理し, 要求を満足させる能力を高めてゆく 5 )勿論 「認識の進歩は つ ねに 現存の認識と現存の実践との制限から生じる ことに奉仕する.」 , , , 障壁にぶつかる. だが, 通りぬけられない障壁は何ら存在しない‐ 認識の進歩はつねによりいっそ うの前進に対する障壁に直面するのであるが, 認識はまさしく, これらをどのようにして克服する かを見出すことによって進歩するのである. そこには, 認識に対するいかなる限界もなく, 宇宙の いかなる神秘あるいは秘密もなく, 原理的に認識され説明されることができないものは何もな 6 )などと総括されているが この種の思想に共通している特徴として次のようなことが考えら い.」 , れる. 第一に, 外向的人間観である‐ 質料主義の立場であるから当然のことであるが, 生物の一員 として飲食し, 具体的にかつ社会的に生活する人間が主題となる. 人間の内的側面は, たとえ無視 ) されることがない場合でも, 実際には単なる飾り文句になりかねない. アダム・シャフの幸福論7 にも, この一例が見られる‐ 彼によれば, 幸福の問題に対しては, 積極的 (肯定的) 接近法と消極 的 (否定的) 接近法がある‐ 前者は, そもそも幸服とは何かと真正面から接近していく伝統的な仕 方であり, これまでさまざまな幸福論が次々と競い合い登場してきた. あらゆる角度から論じられ 語り尽くされたにもかかわらず, 対立はなかなか解消されず, これといっ た結論も得られていない‐ それもその筈である‐ 人間一般などの抽象物 ではなくて, 生きた, ありのままの, 個別の人間はさ まざまであり, 一人一人が特殊な ・宇宙をなしている. 同じ状況に対しても, 「わたしの感じ方と きみの感じ方」 には, 「橋をわたすこともとびこえることもできないちがい」 がある. 問題の根底 をなす要素が主観的な感情に結びついているので, 一般的な定義によって確定できないのである. 無理に 「一般的に」 幸福であるべき条件を規定し, 国家や社会が 「一般的な布告によって」 規制な ど実際的な行動をとる場合には, 「中央集権化へむかって はたらく力の可能性が他の諸社会形態よ り大である」社会主義社会においては特別の危険,即ち,「個人を窒息させるもっとも恐るべき専制」 や, 「生活の極度の非人間化」 をもたらす危険をはらんでいる‐ そこで, 社会主義は, 「万人にとっ てひとつの幸福」 など存在しないし, 存在しえないのであるから, そのような 「幸福な生活の統一 モデル」 を 「無理に作ることをせずに, 社会主義を害さない限りで各人の個性に自由にゆだねるべ きである」 というのである. 他方, さてそこで, 後者は, いわば間接的な, 摘め手からの接近法で ある. 一般的な幸福の条件は確定できないが, 多くの人間に共通な不幸の原因は容易に考えられる. 例えば, 「飢え, 死, 病気, 自由剥奪, あらゆる形態の搾取と抑圧など」 である‐ このような 「最 小限度の諸要求を満足させる可能性ももたない」 状態では, 正常な人間はけっ して幸福ではありえ 2.
(4) . ルク レティ ウスにお ける人間観 (その1). ない筈である‐ 社会主義的あるいは 「マルクス主義的」 ヒューマニ ズムは, 正にこの幸福の基本的 障害物を除去すること,「人間的不幸の現に存在する社会的諸原因の廃絶」を呼びかける‐ これこそ, 「人間が抑圧され, 隷従させられ, うちすてられ, いやしめられた存在であるようなすべての諸関 係をく つ がえせ」 と いう マ ルク ス の 言 葉 の め ざす と こ ろ で あ る, と いう の で あ る‐. 質料主義の立場からすれ ば, 自由への言及がたとい存在していても, 物質的諸条件の実現が何よ りも優先されたとしても不思義はない.. ‘飢 え な い 自 由” こ こ に は確 か に “飢 え る 自 由“ は認 め ら れ な い か も し れ な い‐ しか し,”自 由” は‘. のほかにいろいろな自由がある. “飢えない自由”を確立しようとする “中央集権的な“ 社会主義の 努力の実践上の過程において, “個人を窒息させるもっ とも恐るべき専制” , とくに思想・信条の面 での自由が軽視される恐れがあろう. 更に, 外向的人間は内に向かわず, 外の世界, 即ち, 自然に. 向かう‐ しかも, その態度は決して共感的ではなくて, 対決的あるいは支配的, 利用的傾向が強い ように思われる‐ 勿論, マルクス解釈に関して は, E‐ フロムの実存主義的な独特の解釈がある. それによれば, 質料主義はいわ ば, 人間解放の過程におけるほんの第一歩として考えられているし, しかも, それがどれほど大切な一歩であるとしてもその実現のために手段を選ばないといった傾向. は全く な い‐ 従 っ て, フ ロ ム の 解 釈 す る マ ル ク ス 思想 に は “外 向 的 人 間 観“ は該当 しな い こと にな 1 )て い る と 決 め つ る. た だ し, フ ロ ム の 場 合, 「セ ン チメ ン タ ル な 『隣 人 愛』 で 目 を く も ら さ れ」1. けるのは酷であるとしても, 権力と暴力といった強硬手段によらないで, いかにしてその “一歩” を実現するかという実際的な問題が残るであろう. この問題はその上, フロム一人の問題ではない 筈である‐ 本論の最終目標を決して質料論を全面否定して形相論を支持するとか, またその逆を主 張するといった二者択一ではない. ここでは質料主義の陥り易い傾向を考えたい‐ 第二に,人間の認識能力に対するきわめて強い自信である‐コーンフォースの先の引用の他にシャ フの言うところでは, 社会主義的ヒューマニズムがオ プティ ミスティックなのは 「世界は人間の所 産であり, 人間自身は自己産出の所産であり, したがって人間は実践的には世界を変革しうる無限 の可能性を持ち-とり わけわれわれの眼前でおこっている技術革新が証明しているように一, そし て同時に実践的に, 自己自身を変革する無限の可能性をもつ, という確信にたっているからであ 9 )とされる このような過信とも思える人間に対する 「強い自信」 や 「オプティ ミズム」 -- る.」 . 技術革新に対するのみならず, 労働者と言われる民衆とその指導者達に対するあまりにも安易なオ プティ ミズム 一一 は, 一体どこから来るのであろうか. 根本にあるのは質料主義的 (外向的) 人 間観であろう. (勿論, このような質料主義的人間観に偏執する態度そのものは決して質料主義的 で はな いの で あ る が.) 我 々 が 生 き て い く 上 で 絶 望 しな が ら 生 き る と いう こ と は不 可 能 あ る い は, tude あ る = コ臨むcatti たとえ可能としても極めて消極的な生き方になる‐ その意味では, 何らかのo pb い は最小限度のo l 〕 m sm や根拠薄弱な自 pbmsm は必要であろう. しかし, 「高をくくる」 体のo pd. a馳sm の 生 み の親 で あ ろう‐ 信 は問 題 で あろう‐ こ れ ら こそ, pess. 以上の二点をもとに質料主義の問題点を要約すると, 質料主義は人間の基本的な関心事である具 体的な物的現実性あるいは物的組成に関しては, 科学を中心にして偉力を発揮してくれている‐ し かし, 科学的認識の進歩といってもエン ゲルスやコーンフォースの場合は, 進歩信仰といってもよ い よう に思 わ れる‐ 確 か に か っ て 謎 で あ っ た も の が次々 と 解 明さ れ て いる か も しれ な い. しか し,. 量だけが問題ではない. 宇宙や生命, 人間の精神などに関する基本的な謎が次第に解明されている と 言 える で あ ろう か‐ む しろ, そ れ らの 謎 は深 ま っ て いる の で はあ る ま い か‐ 例 え ば, 大 脳 の 生 理. l dは驚いたことには, 「 学的研究は昔と比べてはるかに多くのことを解明している が, W.Pe面e JD プ ピ と問う 結局 心は は脳の働きに過ぎないのか? ログラマーで 脳は操作されるコン ータ 」 ュ . , , -.
(5) . 西 岡 孝 治. o ) これほど極 であるとし, 脳の神経作用によって心を説明することの不可能性を示唆しているl . “ 端ではないが, R ‐Spemyは, 自然を人間の主として物質的要求を満たすため に開発すべきもの として考え, 技術革新によって生産力を高めることをめ ざす”20世紀の 「科学的唯物主義」 の思考 様式を改めて, 自然を尊敬し種々の現代の世界的問題を解決しうる価値観をも与えてくれる新しい 科学を提唱している‐ その際, 心対物質 (脳) といっ た一見妥協を許さない二分法が, 「 iD, 脳お 1 1 } よび本来の人間を一つに包括する統合的な視点で調和するようになる」 ことを期待している. 彼 は 「いかなる信念も, 経験による証拠とこの世の現実とで二重に照合しなければならない, という 1 2 )を持つ科学の立場に立つのである が 「科学の領域が内的体験を包含するよう に きびしい要請」 , 拡がる」 ことを求めているのである‐ 彼によれ ば, これまでの彼の研究経験からして, 内的体験の 中心となる心と生理学的器官である脳との新しい統合関係の解明が必要でもあり, しかもそれは既 に緒についているので, 今後に更なる発展が期待できる‐ これを背景にして, 現代の地球規模の諸 問題を解決するために必須な価値観が得られる筈である.即ち,「心と脳の関係についての考え方が, 3 1 )と言うの 価値の枠組みとして浮びあがり自然のなかにある人間の現世観を統一する考えとなる」 である‐ 元来, 科学は客観性を獲得し維持するためにそれぞれ専門領域を持ち, 一定の方法を定め てきた. 特に主観的要素を払拭し難い価値観については, 科学の専門外と考えられてきた‐ 従って, スペリーの考える科学は, 対象領域を拡大し, 人文科学に近づく結果として, 従来のように客観性 至上主義にとどまることばできないであろう. ともあれ, 彼の試みは, 価値観を無視して, という よりは, 物質的価値に偏して急激に発展して来た科学のもたらした現代文明の大問題を反省し, 科 学により広い視野を取り戻そうとしているように思われる. 科学の哲学への接近, 分化から統合へ の回復志向がみられる. 本論のテーマに即して言うなら, 質料主義と形相主義の再統合への志向が みられる. これは, 具体的な一例として注目に値する. 質料主義批判の最後に, 人間の自然認識能力を過大評価し, 更に, 人間自体をも質料に偏して解 釈し, 心や精神といっ た形相的側面を軽視する結果として, 「自然はこんなもんだ」 , 「人間はこん なもんだ」 と自然や人間を安く値踏みする危 険に対して, かってマルクスやエンゲルスが一度は共 感したが, 後には 「乗り越えた」 と称している一哲学者の言葉を紹介しておきたい. 1 4 ) 「自然は人間の根底である.」 「自然に関する我々の知識に欠陥や限界があるのは何故だろうか. それは我々 (人間) の知識が 5 1 ) 自然の根拠でもまた目的でもないからである.」 「人間は意識を持って, 無意識的な根底の上に立っている. 自然は人間に意欲もされず知られも 6 ) せ ず に人 間の 中 で働 い て い る.」1. 1 6 ) 「人間は自分自身の家の中にいてもよそ者である.」 「人間は目がく らむような高台の先端におかれており, 彼の下には不可解な深淵が存在してい. 6 ) る.」1. 1 6 ) 「人間は自分の端初をも知らなければ自分の終端をも知らない‐」 「人間が究極の諸根拠を見出すのは, ただ彼が自分の究極の諸願望が成就され自分の」 清が満足 させられているのを見出すところだけである‐ それ故に, 自分の究極の諸願望を自然科学的認識 のなかに認めている人は, ただ自然科学および自然科学の一般化的方法によってのみ, 自分の究 極の諸根拠を見出すのであり, または自分の究極の諸根拠を見出すことを信 じているのであ 7 ) る.」1. さて, それでは形相主義については何と言うべきであろうか‐ 太古以来, 質料主義の不完全さ(短.
(6) . ルクレティウスにおける人間観 (その1). 所) が即ち形相主義の根拠であろう‐ 太古においては勿論のこと, 現代においてすらも, 我々は質 料主義がその基礎的探求から出発して, 生命や人間の内的体験の中心となる心や精神についてかっ て満足のいく説明をするのをみたことがないし, また, それがたとえ可能だとしてもそのような十 分な段階に到達するまで待っていることもできない‐ 巨視的立場の問題としては, 最近は宇宙論が盛んである‐ 太陽系そして地球の誕生は約4 6億年前 1 8 ) 0万年前などとある研究者が書いている ‐ このような数を で, 初めて人類が姿を現わしたのが17 聞くと, 人間は (神を) 知覚できないし, 人間の生命が短いか ら, 人間は神の存在の是非や姿形に つ いて も知 り えな い, と い っ た プロ タ ゴ ラ ス の 言 葉 が思 い 出 さ れ る‐ 神 な ら ぬ地 球 につ いて, や が. て科学者達は誕生のみならず, その死 (消滅) の時をも予想することだろう‐ 我々はこのような科 学的研究を展開する人間の精神の推理力や計算力に驚くのであるが, 他方では, その確実性の程度 について半信半疑である‐ 進化論についても, 未だ確実とはいえず, そのために神の創造説を信じ る人も少なくないと聞く‐ このように人間の出目の真相は未だ不明 であっても, また, 脳の仕組み にどれほど謎があろうとも, 人間は昔から心や精神を自由に働かせてきた. 人間が他の動物と違う 点がいろいろ指摘されてきたが, 精神的自由度, 即ち, 推理力と想像力の大きさが顕著と思われる. カ ッ シー ラー (E.Cass宣e r) は 人 間 を 「象 徴 を 用 い る 動 物」 (an並副 symbo五mm) と 規 定 し た こ ’ と で よく 知 ら れ て い る が, 特 に 想 像 力 の 使 用 を 人 間 の 際立っ た 特 質 (ma i h曲g smg us t m sd 1 9 ) え h a ぱ d d ) と る と 考 てい 思 わ れ る ‐ 現 に (現在, あ る い は現 前 に) な い も の をイ メ ー ジと t c ac e sc. して心に描くこの想像力によって, 人間は可能性を現実化し, 潜在力を行動化することができるの である. かくて, 宗教は現世にとらわれない救いを提供し, 芸術は個性豊かな作品を創造して我々 に喜びを与え, 哲学は感覚を中心とした質料主義では説明し難い形而上学的な世界をもたらし, 科 学ですらも各時代の最先端において発明発見を継続することによって発展して来たのである‐ カッ シーラーは, 刺激と反応からなる人間以外の動物の世界と,想像力の働く人間の世界(imagewor l d; Ba dwe l t) とを区別して, 後者, 即ち人間の文化を高く評価しているのである‐ 形相主義と は質料主義と対照して考えると, 脳ではない心や精神, 並びにそれらによって把握さ れる世界を中心とする立場といえよう. しかしながら, この誇るべき人間の世界, 比類ないほど大 きな精神的自由度を持つ立場に対しても心配がないわけではない‐ 科学の場合は, 想像が創造的発 明や発見になるためには必ず理論化されあるいは事実の裏付 けを要する‐ (そうでなければ, 想像 は空想にとどまる‐ 勿論, かって空想だったものが創造に変わることがしばしばあるとしても 空 , 想と科学は同一ではない筈である‐) このような科学にしても, 技術化されて人間の生活に応用さ れる時には, .思いがけない欠陥を晒しているのは周知の事である‐ 人間の大きな精神的自由度は, 決して精神的高さや知恵を保証するものではない. 科学における想像が, 時に人類にとって有害物 や悪夢をもたらすこともありうるのである‐ 少なくとも, これまでの科学はそうであった‐ 芸術においてこそ想像力が最高の真価を発揮するであろう. もっとも, ここでは技術の助けを得 て初めて作品として客観化されるのである. 芸術は人間にとって現世に生きるための力であり慰め でもある‐ 慰めが時として逃避手段となることがあるかもしれないが, それが一時的なものである 限り, あるいは, 陶酔から醒めても再び活力をえて生きることができるなら大目にみてもよいので はあるまいか. 勿論, 芸術だけあれば十分であるか否かは問題である. ゲーテは 「芸術の神は君 , の 道 づ れ に はなる が, 君 を 導く こ と はで き な い」 と 書 き 残 して いる と いう‐. 芸術に劣らず想像力と関係が深いのは宗教である. 宗教ほど想像力を堂々と活用するものは他に はあるまい. 「信仰は, 目に見えないものへの愛, あり得ないもの, ありそうもないものへの信頼 2 0 )と言われている 科学も そして哲学さえも人類の活動ある いはその産物として限 である.」 界 . ,.
(7) . 西 岡 孝 治. を持っている. そもそも, 人間自体がその認識能力も含めて有限なのであるが, 更に, 科学や哲学 の実証的あるいは論理的性格が苦手とする対象領域があり, そこにこそ宗教が独自の領域を占めて いると思われる‐ 信仰を持たない者の立場からみると, 例えば, ある宗教は人間の有限性を認める‐ そこに, 人間や世界についての大きな謎が迫ってくる‐ その時この宗教は科学やそしてある意昧で 哲学とも違った独特の態度をとるのである. 即ち, 一切の謎を解きうる全知全能者をまず立てて, 人間はその力にすがることによって, いわば間接的にその謎を解いたと称しているようにみえる‐ 論理的にはこの推論は妥当である‐ しかし, 完全とはいえない‐ 大前提の真偽が問題である‐ 時に, この大前提の真を傍証するかのように 〈奇跡〉 なるものが披露されることがあるが, これがまた疑 問の余地が多いのである‐ いや, 信仰はもともと 「あり得ないもの, ありそうもないものへの信頼」 であった筈である. 疑問の余地がどれほどあろうと問題ではないのである. それでも, 科学が客観 性の獲得を最優先させて (少なくともこれまでのところ) , 「我々が生きるための支えとなるような 2 1 } 思想を生み出すこともできず」 , 「人生の意味についても何も語っ てくれず, 人間の疎外感や秘 2 1 )とすれば (とかく論理のこみいっ た哲学はさておき) 宗教にすがる かな絶望を癒す力もない」 , しかあるまい. 質料主義の立場から見た時, たとえ宗教が阿片とみえようと, 〈やむを得ざる幻想〉 であろうと, 他人を害したり自然を破壊するのでない限り, 大きな喜びとそれにもまして深い悲し み苦しみを知り得る人間という動物に,人生を生き抜く力を与えてくれるなら誰が非難できようか. それどころか, すべての宗教やすべての信仰者では決してない が, ある少数の宗教や信仰者の場合, 〈他人を害さない〉 のは勿論のこと人類に多大に貢献してくれていることを我々は知っている‐ 実 践的に偉大な価値を示してくれる宗教や信仰者と, そうでなく幻想の弊害が目立つ宗教や信仰者と を区別するものは一体何であろうか‐ 更に, 仏教 (少なくとも原始仏教) のように絶対者をも立てず, むしろ煩悩に基づく種々の妄想 」 や幻想を払拭して心の平静 ( 悟り) を求めようとする宗教もある. 生身の人間にとって (極少数の 例外者を除いて) このような悟りを求めることが実際上は幻想であると断言できるか否かは問題で ある. 少なくとも宗教といえども人間にとってそれだけあれば十分であるとはいえないように思わ れる.. 「哲学の課題は, 信仰を反駁することでも, しかしまた信仰を証明することでもなくて, もっ ぱ ら信仰を概念的に理解することであり信仰を認識することである. もちろんこの認識は, 人々が信 2 2 }とは先にも引用した19世 仰から作り出したお化けどもを取り除くことなしには不可能である‐」 紀の哲学者の言葉である. 理論を主とする哲学は信仰を生み出す力はない が, 消極的に信仰を概 念 的に理解するという形でもって宗教の純化に関わることができるかもしれない. 形相主義の最後に登場するが, しかしここで最も重要なのは哲学, それも形而上学である‐ 物の 2 3 ) 2 3 ) 「動物のもつ知覚や記憶や想起などの意識作用」 持っている 「作用し, 抵抗する能動的な力」 , , 3 2 ) (人間においては)「意識的反省的となり, 表象の表象, すなわち統覚 (a e r c epdon) となる」 pp 」 という実 と言われる表象作用, 働き (表出作用) に着目して, それらを無数の 「モナ ド(単子) 体として措定したライ プニッツの学説は, 伝統的な意味での形而上学としても, また, 形相主義思 想としても一つの典形である‐ 人間の持つ推理力と想像力の見事な成果とも言う べきこの学説も, 一般にはカントの批判哲学によって従来の形而上学と共に成立不可能性を宣言されたことになって いる‐ 今日からみると, カントの認識論そのものが揺ぎない妥当性を認められているとは限らない から, カントの結論がそのまま今日にも通用するとは限らない‐ しかし, 恐らく科学主義的唯物論 がその適用範囲を不当に拡大して質料主義の普偏化をはかっているように, ライ プニッツ哲学も, 形相主義の無理な普偏化をはかったとみることができよう.形相主義につきまとうこのイカロス.
(8) . ルクレティウスにおける人間観 (その1). シ 1にα ) 的想像力の過剰飛躍こそ, 学としての形而上学の空想性や妄想性の原因であり, これに ( Po( 反発する人々を質料主義に向かわせることになるのであろう‐ 問題は何をもって “過剰” とするか ということになる‐ 例えば, 近世のベーコンの形而上学 (思弁的思考) 批判はあまりに楽観的な質 料主義に基づいていて, 形而上学にあまりに窮屈な足棚を課すように思われる‐ 形而上学は科学時 代の哲学としては, もはや時代遅れになったかのような見解を聞くことが多いが, 今や宇宙時代の 哲学として, 新しい自然科学を基礎としながらも, 「宇宙を単に個別的あるいは部分的にではなく, 2 4 )というほどの意味の 「形而上学」 が求められているのでは ある全体として理解しようと努める」 ある ま いか‐. ともあれ, 性急に結論を出すことよりも, 質料主義, 形相主義の両方を検討する必要がある.「真 2 5 )と言われている 理は, 唯物論でも観念論でもない」 ‐ デモクリトスらに始まる古代原子論は, 質料主義の一つである. 今回はまず, 古代原子論のロー マ 時代 にお ける継 承 者 で あ る ル ク レティ ウ ス につ いて 検 討 して み た い‐. 2) ルクレティウスとその著書 「物の本性について」 ル ク レテ ィ ウ ス (TimsLuαedus Ca ぱusc ‐99‐55B‐C.) の 唯 一 の 著 書, そ れ が, 「物 の 本 性 につ 6 ) こ こ で は テ キ ス トと して L bI いて」(Deremm namla) で あ る と い わ れ て い る2 2 (改 8 oe 9 ‐ ,. 97 訂第二版) とRec彪叩ロ( 1 3 9 81を用い, 邦訳書 「物の本質について」(樋口勝彦, 岩波)( A ) )11 ,「事 物の本性について」(藤沢・岩田, 筑摩)( B )を参考にした.. 書名 Deremm na前ra の 由 来 は, ほ と ん ど の 学 者 が 一 致 し て い る‐ B ‐C ‐5世紀の哲学者エ ン ペ ドク レ ス の教訓詩 (d i dachcp に (ne〆◎0舵の )とい L h d i h ) 「 自然 ( 本性 ) について 」 t oe ec tけ, er g う の がある. ルク レテ ィ ウ ス はホメ ロ ス を初 め と して 広く ギリ シヤ の 文 献 に 通 じて い た‐ 当 然 エ ン ペ ドク レス の この 詩 を も 読 み あ る 点 につ いて は誤 っ て い る と 非 難 して いる が 別 の 点 で はか な り , ,. 2 7 )と称賛している 内容 影響を受けており, 「彼が人間の生れであると信ぜられないほどである‐」 ‐ 8 } 同 じ テ ー マ を 同 じく 韻 文 で 書 い て い る の で あ る 後 の 時 代 につ いて 類 似 点 が あ る ばか り か2 ‐ , , 9 ) しか し の ル ク レティ ウ ス が エ ン ペ ドク レス の 詩 を 手 本 と し た と 言 わ れ る の も も っ と も で あ る2 .. ながら, ルクレティ ウスがその全六巻のうち一, 三, 五, 六巻の各前口上で繰り返し称えているの 3 0 )「彼こそ始めて今学問と呼ばれるところの は周知のエ ピクロスである‐ 「その人は神であっ た-」 かの生命の理法を発見し, その巧みによってさほどに大きな混乱とさほどに大きな暗黒から, 生命 0 )と い た 具 合 で あ る を か ほどの 平 安 と か ほ ど 明 る い 光 の 中 に導 い た の で あ る.」3 っ .. この エ ピ ク ロ ス に も, 今 は失 わ れ て 現 存 し な い が, 同 じく 「自 然 につ いて」 (37巻) が あ っ た ら 3) しい‐ この ギリ シ ヤ 語名 を ラ テ ン 訳 した の が Deremm na t r u a だ と い わ れて い る 1 ‐. さて全六巻の中でうたわれているのは 「宇宙と宇宙内のすべてのものが, どのような原理にもと. 2 )と いう こと で ある と し て づ い て ど の よう に 形 づ く られ, どの よう な 構 造 と 本 性 を も っ て い る か」3 も, この 著 書 に関 して いく つ か の問 題 が 指 摘 さ れ 論 じられて いる. ま ず, ル ク レティ ウ ス はエ ピク. ロスのギリシヤ語の散文による著書をラテン語の韻文に書き換えたに過ぎないのではないか, 従っ て 「彼の功績は, ただエ ピクロス哲学をラテン語に翻訳し, せいぜいそれぞれの詩のかたちで雄弁 3 ) これに対し に表現したということだけ」 であっ て, 「創意」 も 「独創性」 もないのではないか3 ‐ ては, 確かにルク レティ ウス自身がエ ピクロスを神の如くに繰り返し称え, 「あなたと競うためで. 3 4 ) はなくて, あなたへの愛ゆえにあなたにならうことを願う (t eimi加iaveo)」 と 公 言 し て いる し, 「ここで主張されている論点のほとんどが, エ ピクロス教説の中にその対応を見出しうるものであ.
(9) . 西 岡 孝 治. 3 5 )に疑いはない 前掲書( B )はこのように前置きして, それでもあらためて 「独創性」 の意 ること」 . 味を問い直し, 「エ ピクロスの哲学とその教説は, 結局, ルクレティ ウスの 『事物の本性について』 5 ) この点に関 の素材なのであって」 単なる 「模倣」 のための手本ではなかっ たと結論している3 ‐ して は先 の Loeb の 序 論 のう ち の, 3. ル ク レティ ウ ス の 使 命 と 詩. の 中 か ら紹 介 して お こう. そ. れによれば, 彼をして 「難解なギリシヤ人達の発見」 をわざわざ貧しい母国語で, しかも韻文で表 現させたのは, エ ピクロスに対する倫理的, 精神的指導者としての深い傾倒があっ たこと, 次にそ の福音を当時の病んだローマ人達に伝えたいという使命感に燃えて, 彼の全心全知をあげて著作に 打ち込んだので, 今日でもその著作が生命と感動で鼓動し続け我々 の注目を奪い取るのである‐ そ の際に, 難解で無味乾燥な散文哲学説を具体的な観察や想像力を駆使して多くの実例をあげて類推 により説明しようとしており, 単に韻文に移しているのではない. 更に韻文の方が人々の心に訴え 易いという計算も働いていた‐ 表現形式の工夫ばかりではない. 彼は主題の配列にも独自の工夫を しの よう な も の で はな い. エ ピク ロ して おり, 書名 が同 じだ と して も エ ピ ク ロ ス の 同名 の 著 書 の 写’ スの そ の 書 は, ルク レティ ウ ス に と っ て 唯一 の 主 資 料 と いう よ り は, 数 ある 主 資 料 の 一つ で あ っ た. と思われる‐ 「彼は自分の師に対して忠実ではあっ たが, 奴隷ではなかったのである. 彼はすばら しく独創的で洞察的な精神を持った詩人であり, 師とは異なっ た時代と場所に住んでいたし, 師の 哲学は死物ではなく生きており当時の諸要求に答える筈であると思われたので, ルク レティ ウスは 師の教えを, 時には強調点を変えたりして, 新しく組み替え, ローマ市民に合うような形にして提 6 ) 供 する 必 要 があ っ た の で あ る‐」3. )によれ ば, ルクレティ ウスの書は 「二 A 第二の問題は, 自然学と倫理学との関連である. 前掲書( 3 7 } 千年も昔の素朴な自然科学を伝えている作品」 であり, 「この詩の内容は… 『自然学』 が主体で あり, エ ビクーロス派の主張や倫理観, また詩人の個人的主観は, 脱線的に挿入されているに過ぎ ない. ルクレーティ ウスの企図では, 『自然学』 をのべたのち, さらに 『倫 剛 の方面へも展開し 3 8 )とされる この解釈 ようとしていたらしい」 が, 「其処まで進捗せず, 未完成で途切れている‐」 ‐ がもし正しいとすれば, この長たらしい 「二千年も昔の素朴な自然科学」 を今日わざわざ読もうと する人があるだろうか?もしあるとしても何のために?当時の自然学は現代のように発達した観察 器機や実験装置は勿論なくて, 代わりに推則や議論に頼るしかなかったから, ルクレティ ウスの書 を単なる自然学の書としてみれ ば, 明らかな誤謬や珍説が目立つだろう‐ 勿論すべてが間違ってい るわけではなく, 今日でも有効な諸説も含まれている筈であるが. この点では, 前掲書( B )の解釈こそ, 本論の主旨にもかなっている‐ それによれば, 「万有の形成 を問い, 構造を解明し, 本質を究めるということが, けっ してそのことだけのためにあるのではな く, 窮極的には, 人間の生き方に確実な基盤を提供し, その指針を与えるという目的のためになさ 3 9 )のである 「われわれは学問を 精神の行う営みを 領域や分野によって区別する れている」 ‐ . , , 倫理学は自然学と別ものである. 宗教的悟りは科学的知識とは無関係である. しかし, このような 経験の分裂ほど, 古典世界における第一級の思想家たちから程遠いものはない‐」 彼らの場合にも 区別があるにせよ, 「しかし, それらの分野は互いに緊密な内的関係を保持し, 一つの分野は他の 分野での思考によって根拠づけられるというようにして, 窮極的には一体のものとして把握されて いる‐」 このような 「統一性」 こそ 「ヨーロッパの古典的精神におけるひとつの, おそらくはすぐ れた伝統」 であろう‐ 「主体的な智慧と客観的な知識」 という 「知」 の両側面は, 「互いが互いを要 求し合うのが本来の在り方なのである.」 「ひとは古い時代における学問の未発達を言い, 右のよう な一体性もしくは未分化は, そのことの当然の帰結にすぎぬと片づけるかもしれない‐ しかし学問 の-ひいては人間の経験そのものの-分裂は, あくまでもけっ して望ましい状態ではない‐」 「精神.
(10) . ルク レティ ウス における人間観 (その1). の安 定, 心 の 平 静 と い っ て も, そ れを た だ 主 観 的 な 心術 の テ ク ニ ッ ク に よ っ て 求 め る の で はな く ,. どこまでも自然万有の全体とその極微にわたる, 客観的な探求と知識の総体によってこそ基礎づけ られなければならぬという, この不思義な渇望と要請, それが哲学 (ピロソ ピアー) というもので )と いう 長 い引 用 に な た が 同 様 の 主 旨と 思 わ れる 9 あ る.」3 Rec 彪血 版の後書きの一部をも更に っ ‐ ,. 引用しておきたい. 「神を信じないが神の如きこの詩人 において, 鋭い科学や啓蒙や脱神話化が , 自然とその法則に対する敬度や親愛と提携している‐ このような敬度や親愛こそ 人間が自然を考 , 察することによって得られる最高の価値である‐ それ故, それらは本質的に時代を越えて 特に今 , 日において急を要する. 何故なら, 今日, 人は専門化する中で全体への眼差しを忘却する危険にあ るか,さもなければ他の極端に走って自然科学を人間の知の唯一の形であると思い込むからである‐ 0 ) ここにおいてこの詩人がわれわれを人間の魂の秘奥へと連れ戻してくれるのである.」4 B )の解釈によれば, 自然学が中心的に描かれてはいるが, 元来倫理と密接に関連してい つまり,( るのであり, しかも諸所において, 脱線的にではなく, 正に場所を得て倫理観が十分に吐露されて いる と いう こ と にな ろう.. 内容に関する最後の問題は, ルクレティ ウスの人柄と著書中に感取されるといわれる暗欝や憂愁 の気分である. 不十分な資料しか存在しないうちで, 教父ヒエロニュモスの残した書き込みがよく 知 られ て いる‐ 「詩人 ティ トゥ ス ・ ル ク レテ ィ ウ ス 生 る. 彼 はの ち に娼 薬 の た め に 発 狂 し 狂 気 の 間 に 幾 巻 か の ,. 4 1 ) 書物を書き,キケロが後日これに手を加えた.四十四歳の時,みずからの手によって命を絶った.」 これに対して, この伝えそのものがルクレティ ウス死後四百年以上たって書かれているし 肯定 , 否定どちらとも決め手となる証拠がないというのが( B }書の見解である‐ 否 定 的 な見 解 を 示 して い る の が Loeb 版 の M細面 Fer仰sons l国故 で ある‐ 当 然 の こ と な が らそ れ. は, 間接的な資料に対して, 同じく間接的な資料と推論を向けるということになる‐ 1)ルクレティ ウス の 後 輩 で, 10代 後 半 に ルク レティ ウ ス の 詩 が 公刊 さ れ た こ と にな る ウ ェ ル ギリ ウ ス (Ver柳ほ us 70‐19B.C.) は 「農 事 の1規 (Georgca) を 書 い て い る が ル ク レ テイ ウ ス の 影 響 が 諸々 に 認 め ,. られるという.「幸いかな, 万物の原因を知り, すべての恐怖と非情な運命と貧欲なアケロン(冥界) 2 )こ れ が一 般 に ル ク レ テ ウ ス ヘ の 賛 辞 あ る と み の 陰り 声 を 足 下 に ふ み し い た 人 は‐」4 で なされて ィ. いる の だ か ら, も しルク レティ ウ ス が発 狂 して 自 らの 命 を 絶 っ た こ と が 事 実 で あ り 従 っ て ウ ェ ル , ギリ ウス が知 っ て い た ら, 恐 らく 上 の よう な 賛 辞 は書 けな か っ たろ う と いう の で ある ‐. 第二 に, エ ピ ク ロ ス 学 派 の 理 想 は 心 の 平 静 (αanqmi坪 ofn q i nd) で あ り, 死 の 恐 怖 (庵m f 亡o 3 ) deam) はこの 理想 達 成 に と っ て 主 要 障 害物 の 一つ と み な さ れ て い た4 ‐ ルク レティ ウス 自 身 が, 詩 の 中 で 死 の 恐 怖 に とりつ か れ て 自 殺 す る 人々 が いる こ と を 戒 め て い る. 4 ) ローマ時代のエピクロス学派の中心人物とも言うべき彼が自殺をする筈がないと ほどだから4 , いう の で ある. か く て, Z i e躍er に 同 意 して, ヒ エ ロ ニ ュ モ ス の 書 き 残 し た あ の 話 は 四 世 紀 の キ リ 5 } ス ト教の 立 場 か ら す る 作 り 事 で あ ろう と 結 論 して いる4 ‐. 第三に詩の中のいくつかの節が誤解されている 節があるのではないかという‐ 例えば ある悲惨 , ・ せつ な状況を描いている節を任意に文脈や詩の全体構成から分離して考察した上で 深いペシミズムや , 精神的破綻や憂欝が感じられると主張する人がいる. 更に, ルクレティ ウスは当時のローマ社会が 腐敗し病んでいることを よく知っていたし, 実際に常に内乱や叛乱や陰謀といった社会的 政治的 , 抗争が起きていた. そこでルクレティ ウスは人々の野心や食欲を激 しい調子で糾弾しているが こ , れは彼の現実直視の態度を示しているのであっ て, 決してペシミズムとみるべきではない 「愚か ‐ 6 )と 歌 て い る が 同 時 に 彼 は 「 者 に と っ て は, こ の 世 が地 獄 と な る」4 っ , 私 たち が神々 にふ さ わ しい.
(11) . 西 岡 孝 治 7 生活を 送 る の を妨 げる も の は何 も な い」4)と 歌 っ て い る る の だ か ら と い っ て い る‐ こ こ に は, ヒエ ロ ニ ュ モ ス の 話 に対 して も, 詩 句 の 解 釈 につ いて も 徹 底 した ルク レティ ウ ス 擁 護. 論が展開されているといえよう‐ 前者に対して結論をひかえたり, あるいは積極的に肯定する人は, 後者の解釈もそれに引かれてか 「作品そのもの がまごうべくこともなくわれわれにさせる, この暗 欝な想像心像や, つよい熱情や, ときおりの鋭い皮肉や, あるいは吐露される悦びの言葉によって 8 ) 4 さえもけっ して蔽いえない, 全篇の深い底流をなしている‐」 との感概も出されている. 人間の 想像力はこれほどまでに真反対の印象を与えるものであろうか. 小生の通読した限りで は, 上述の感概は殆んど感じられなかった. 同じ古代原子論者デモクリ ト スは, 勿論時代も社会状況も違っていた が, 決してペシミストではなく却って 「笑う人」 と仇名き れていたと聞いている. 後世にキリスト教が勢力を得て, 自然に対しても親愛の情を持つことなく, むしろ人間の下に位置する第二級の被造物とみなし, 人格神にひたすら帰依することに慣れて来た 人々にとっては, そもそも 「原子論」 自体が不安の源であり, ペシミズムやニヒリズムを誘発する ) smm の 解 釈 に 近 い の が 嵐ほ 9 t erCo s xである‐ 「独立的思想家というよりも の で はあ るま いか4 , . 奴隷的弟子であり, 整然とした思想というよりも支離滅裂に満足し, 本物のエ ピクロス学派という よりも狂気寸前の精神破綻者, 真底からの唯物論者というよりも懐疑者, 楽観的で陽気というより は悲観的で陰気, 社交的で朗らかというよりも孤独で禁欲的とあまり好意的でない評価を幾世紀も 受けて来たの は, キリスト教本意のわずかな, ルクレティ ウスの生に関する外的証拠, 即ち, 娼薬, 5 0 ) 狂 気, 自殺 につ い て の 聖 ヒ エ ロ ニ ュ モ スのメ モ の 影 響 で あ る.」. 注 1. 1950 d ) 1967 r s sophe .1 21 1) W.K C‐Gudbde eekp圃o ,P ,Londoル ( , Me値uen & CoLt , 鴻eGr 1 7 理論社 ( 19 5 5 ) 19 1 P 認識論 三巻 2) モーリス・コンフォース (藤野・小松訳) .3一 , , 弁証法的唯物論入門・第 4 3) 前掲書, P .68 , 318 , 193 , 70 , 76 P 4) ク ‐76 5). ク. 6). ク. P .193 P .306. 9 4 8 6一2 1 9 7 6 ) 7) アダム・シャフ (花崎家平訳) ‐2 ,P , マルクス主義と個人, 岩波 ( 7 8 8) 前掲書, P .2 9). ク. P ‐285. 1 9 87 ) 10 ) W.ペンフィールド , 脳と心の正体, 法政大 ( 6 5 1 9 9 0 )P ジョン・C‐エックルス (伊藤正男訳) ‐2 , 脳の進化, 東京大学 ( 7 6-1 77 i 9 8 5 1 1)口ジャー・スペリー (須田・足立訳) ‐1 , 融合する心と脳, 誠信書房 ( ) P 1 2 ) 前掲書, P ‐30 13). ク. P .31. i t sぬe乱 np( 1975 rGmnddesMen )S od e eNa u r頭s kemsech sBanden3 ) LudmgFeuerbadI 1 4 r .239d ,SU無線l , We 船山信一訳 フォイルバッハ全集 第二巻. 1 9 7 4 ) P‐55 福村出版( h b m r?D l s s e n a e r svonderNa r es Wi l s sen 15) i b嵐 Band4S rkomnen 壷eLacken mdsdl増nken mse ,榔 断 ,225 Wohe (*de ( 泊derZwe t班i st rNa f 江 G川口dno wede rd 7 9 1 6 ) フォイエルバッハ全集 第三巻 P ‐2 17). 10. ケ. タ. P ‐283.
(12) . ルクレティウスにおける人間観 (その1) 1 199O P 170 19 8 7 ) ) 松井孝典 地球・宇宙そして人間 徳間書店 ( 1 8 ‐ fl dea L 頭 CI 遂匡 l i bnerssons kl973P fme 蹄鮒ow o 9 ) Di 1 svo e ssm r cdo戊鱈yo ‐210 ,NewYo i並【 i beれ ba ive tL 1976 imen 皿dReae遍oq 腹se en )1 1982S s e - - n Un s r 2 o ) Gコeme l媛g( .155 G媛ubei , Vemauen , Max he h面c he he 6gi 1 wa血s c a証sUmn c ‐ ,UI. ゲーテ全集 1 3 潮出版 ( 19 8 0 ) P.216 d( dea tp 2 1) E 1974 t )1986P reBooksL e 偶皿o r oduc ei sbyw輯chwe sbea a曲e r u樋凪 Sphe ‐71 Sdenc ‐F .Sd1mn ,Sm証i 2血‐ ogabo hem蜘 血go f虚eandq nsh imno極j tt tde tt ni 席a mr eesma ngememands eぱe s e u l nno「 c omd脳e y( p ‐(…)i 1 4 2 2 ) フォイエルバッハ全集 第三巻 P .3 2 3) 渡辺義雄編 立体哲学 朝日出版 (1973) P.148 imp i l ts fl dea t f 鉱s t 2 4) Di tt ve r rby 競 柳 m婚,bu seno ec e無脚 o Iyo sP c o ocomprehend me 面曇 yp ,208 mee恥1 .o l l ) ey somehowa sawho e 侶堪d. 4「人間の肢体に拡がれる感官には限りがあり,人間を襲っ ば‐山本光雄編 初期ギリシア哲学者断片集 岩波 P ‐5 てその思考を鈍らす悲惨事は多し‐その生涯において生の一部を見るや,はかなき人間は煙の如く引き上げられて, 飛び去る‐ 彼等は各自あちらこちらとさまざまに漂い行きつつ,巡り遭いしもののみを信ずれど, 全体を発見せり, と皆慢る‐ されど, そは人間どもにとりては, さほど容易に見得るものにも, 聞き得るものにも, 心もて補え得 るものに非ず-」 l のK.31B2 )Empedoc es lhe i de縦smus 2 5 ti twederde t ) Feuerbach s rMa e由岐smu sno chde rl .179Wah , ,Band4S 1970 ki i dacdcpo d dc腺s i園 Di 2 6 )1 1973P ) nhe o} c r eduざomywo r s 位eDeRem1 n Nah = 【三ad cdo濡 e皿 o r s a ! y( .623 Lu i lt heo“o i fEP C 4 1 ha匪ewt bo五 h面gs f 出s i l 鵜,i i te s s 位ePhys a q ゴ ー ・ usW oa upe r s霞むou s云 e そ ばso xboo nwh ch億epoe 1ゆo tmd f値egod l da do f億ep頭立 b 口 D Den f故es l皿a f t 故ei to t -砥e n l yen性ono s無 位ewo 【 l l s ou er e ‐. 2 1 9 6 5 7 ) 世界古典文学全集 2 1「事物の本性について」 筑摩 ( ) P‐305 1733 da 31 We ma k& 錠血 L i t t 2 8 )J ) e cbcPoe e rCoxp r tけ, 順s e焔mr ee o加 甑禦が#bo菌脚m(ed y .138d .1 - ,Di ,howeve , , Gr l fac I P d l don 遜 dDes i i d l i ( 窓t i a t故emeo tween Cr傍 t t os cb a l c ー l r onw亙出 G sa ve a l ebe uc 1 a u s c eba o Empedodes住 p y 伝a i fEP i lp l k i i b l i i Dpr ヒ ロロyr t t o ces so c u ぱe z 鴻 Phys csJodes r ea omsc ons物 e説印1 l ng epは a c e 血 Luαed細 腕m l ng uα 1 c弧菖a . 四h l l l i dc l t 蝕e 故eme l d dpoehcl t eve l l onc舞veda sane nd e s sba se st o和minewc ompoml ミ トa r ee ewa edt oap恒 osoph ca l l ve ,a i fhe dc 13鯵÷ 1 40 1 l be t tmcロvea tweend l l r e z直vef o r ce sP nsho r sVenus l es so rpoedcp r e s e i n能‐ es . ,b , 角r組 飯e噴dd l P証 i f出o i山 魚enaれq C紙 wo l dp離s 憧on ts t eemsc c segene l advepr o ces s 稲d lwb r a es er - sas ‐ ape r o a五ono s ymbo ,i ,(…)l i l fLove( l 牡o壷t b … i ロロ ヒ l a ) tLuqe住u リ cep恒onso r ewi ns smは es五c ds e組 con o rAp sd on 官om 憶e Empedoc e p出血on おr勘d dS t l並e a l l ,. 2 9 1 P 0 5( 8 ) ) 世界古典文学全集 2 .3 30). ク. P .38o v8一12. 3 1)「物の本質について」(樋口勝彦訳) 5 世界古典文学全集 2 1 P 4 ‐4 3 2 5 4 ) 前掲書, P ‐4 33). ク. 34). ク. 35). 岩波 ( 9 6 2 1 1 ) 19 6 3 P 3一3 2 4 ‐3. P ‐450 P .335 m5一6. ク P .450 Di d 43 1 lbec l桟 l a t tWa t故e De Ren淑n Nanロai f c住cPoe rCo× P rbynow 仕 nsqi a t l y s e 1 sno me r e ma p恒ono .1 , 嵐ほ Gr lo fd i t to eek頃ewsm aごcl血け ou rg ve r s e oLa血 buta 鯨井dyoh桝副 αeadon:Luqedushasnotonl y madeanove l i t t副sos証h e emen s os c 晒故poe sbu l ed故epr a t r y ‐. 36) Der i i メ 1 a Loebp emmnaロ xl v‐l .. 3 7 )( )P A ‐3 38 )P 2 4 )( A .3 39)( )P B .456一457 u ms P be t伍c hen 《Di鉱t 4 0 t: 顔 飯I ded Hem脚m s ) Reda wo r sen t t rg6 e r e s a g ‐ 573 Nad1 , dem ) gomo ,a , 瀬e Go囚E ,i im皿g i bomende W i Anぬc h i tmy i be2 t i 国s t 皿dL 1& Au欲l emnge鑓enB tmde ngegapgen 血tj ene r! s s e n sd= e 蹴 Natula ,En di i ( 由s h r Se惚,d t ( 中弧 d i b t鑓L Da te u em G… ed t u r t 1 1 em h6 enBadml f 江N a s l ・ =mi s si n a e l a鉱t m噌 撤 den Mens gswe中 d. ll.
(13) . 西 岡 孝 治 i i ( 水 a砥s i l t dheu t b sonde r s 鰍観e 乱 wo口M a 瓜i n de rspe流紙s emngden B= en wl s鞠D em Wes en a e chbe ezug f 江 denZe i a北d i i i dgeFo Ga tode tlmdi t - mzezuve r s eni n G幽 晦i s ri nda sande r eE立r em 鏡= nderNa u臨w s sensdl eeb lm mens ges i h s l i i h 鞭 和 郎 d D i 旗 G h 毎 l b d d i l i 戯i h W [ t れ = 頓凍 l s c e n e e e l s s e n ss e e r r f 江 c 載 湖 m n e e s e rm e ] ce n .. )P 5 1 4 1 ){ B ‐4 1490-2 Geo 5 5 2 )( B )P 4 4 r多c al ‐ 1 1967 P 68 9 ) 19 5 ) エピクロス 出隆.岩崎允胤訳 岩波 ( 4 3 ‐. 「多くの 人々 は, 死を, ある 時は, もろもろの悪 いもののう ちの最 大な ものと して 忌避 し, ある とき はま た, この 生 にお ける くもろ もろの悪 いもの〉 か らの休息. と して 〈むな しく 願っ ている‐ しか し, 知 者 は, 生を逃 れようとする こともなく,〉 生のなくなることを恐れも し ない.」 「はるかに悪いもの は, こう 言う 人 である, す なわち, 生ま れないの が良いのだ, 『だが, 生まれたか らに はできる だ け速やかにハ デスの門をく ぐること』 と言う 人である-」 P ‐149 「知者 は, 視力 を失っ ても, みずからその生を絶つ こと はしないであろう-」 44) m 79‐82. 4 5 ) Loebp.晒. ft hc I i l l まねbdc hef i nb ts t oWt en= 1dsd adono ! 〔 y saC smgめ鼠 oけ wa r eZ e拶e rma uppo erdo ybed帥tms .. 46) m l023. 7 )m 3 2 2 4 )( B )P 4 4 4 8 ‐ 9 l i 立P ( ぬmm挺ぬe l li 49) E r sb f 溺ub ‐69 .F .S ,Sma da 5 ) Di t 0 s e rCoxp cdcpoe tけ,嵐丘 .144 fC I = i U o des de 1鍵enC b l tsαe s虚無 1 1 h n eo rd l ec enb r 街ei sbeen mos s sedove s s 燈vowa e eha es econ亀 l e , ml , 頭t虻順応マ f l 1 五 d t 食 L 述 e ÷ S ど f h o 副 循 d b 膳 J t t d d f並 i t tL e - O o n m a n es s l o l o o v r e e r o m ss e x e e e n c ea o u u c eo P a e can o eonepec y poog , , i ds通c de a l l .. 12.
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