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近代都市ケルンの領域拡張と人口増加 : 19世紀中葉から20世紀初めまで

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(1)近代都市ケルンの鶴城拡張と人口増加 -19世紀中葉から20世紀初めまで-. 棚橋. Das. raumliche. der. rheinischen. Wachstum. bis. und. Stadt. K6ln. 呈um. An fang. Nobuaki. von. 信明. die Bev61kerungsentwicklung der Mitte des. 20・. des. 19・. Jahrhundert?. Jahrhunderts. TANAHASHI. はじめに 中世都市ケルンは,. 1288年のヴオリンゲンの戦いにおけるケルン大司教の大敗を契機にその支配. 権からほぼ完全に脱し,事実上の自由帝国都市としての地位を確立した。それ以前の118()午,宣誓 共同体(コミューシ)をすでに結成していたケルン市民たちは,大司教の許諾を得ないまま大規模 な市壁建設を行っていた1)。この市壁の建設によってケルンの市壁内の面積は204haから405haへ と拡大したが,この405baの規模は中世ヨーロッパにおいては例外的な広さであった。中世都市の. 圧倒的大多数は10Oha以下の面積しかもたなかったからである2)。 ところが,この時に完成した半月形の市壁は以後約700年にわたり,都市ケルンの景観と住民の 居住空間を決定づけるものとなる。この市壁の撤去によりケルンの領域拡張が開始されるのは1881 年以降のことになる。そして,. 1883年以降,. 1914年までの合わせて4回のゲマインデ合併を通じ. て,ケルンの市域面積は770baから19,710haへと25.6倍に.も拡大するのである。 他方で,人口においても中世都市ケルンは例外的な規模を誇った。. 12世紀にすでに20,000人を. 超えていた人口は,その後ハンザ都市としての目覚ましい経済的繁栄により16世紀終わりまでに 37,000人に達した3)。これは当時ドイツ最大の都市ウィーンと並ぶ人口規模であった。また,約 3,000のドイツ中世都市のうち人口が10,000人を超えるのはわずか12-15都市にすぎなかったとい われる4)。たとえば,デュースブルクの人口は16世紀に3,000人,エッセンの人口も同じころ3,500. 人程度であった5)。ところが,中世に繁栄をきわめた他のハンザ都市や帝国都市と同様,ケルンも 17世紀以降,長期間の停滞を経験することになる。ケルンの人口は17、15年までに42,000人となる ちのの,その徽1800年ごろまでほとんど成長がみられなかった6)。 こうした停滞を抜け出し,ケルンの人口が急激な増加に転じるのは,ウィーン議定書に基づきプ ロイセン王国に編入されてからのことであった。プロイセンの地方行政において郡と対等な「郡独 立都市(Kreis丘eieStadt) 7)」に位置づけられたケルンの人口は,. 1816年に49,276人であったのが,. 1910年には516,527人と1世紀足らずの間に10.5倍にも膨張するのである。もちろん,都市人口の 急激な膨張,すなわち人口史的な意味における「都市化8)」の進展は,近代ヨ一口ツ■パにおいて一 般的な現象であった。.

(2) 棚橋. 16. 信明. それではこのような都市化を推進した要因とは,何であったのであろうか。. Ⅶ・ケルマンの人口. 史研究以降,歴史研究において最も重視されてきたのがいわゆる「工業化」であった9-きo ッェラ-トほドイツにおける都市化の過程に関して,. ①準備期(1815年-1840年ごろ),. H・マッ. ②始動期. 卜1870年代初頭),そして③本格期卜第1次世界大戦の勃発)の3つの時期区分を設定してい 1840年代. るが,この時期区分はドイツにおける工業化の開始と展開の過程におおよ郎寸応したo. 以降の都市イヒの「始動期」には産業革命により工準化も始動したのであり,また1870年代以降の 都市化の「本格期」は,金属・機械工乳電機工業,化学工業の発展を軸とする「高度工業化 (Hochindustrialisierung)」の時代と重ならたのである1O盲。 それでは,このような時期区分に従ってケルンの人口増加をみた場合,どのような特徴が確認で きるであろうか。前述のように1816年に49,276人であったケルンの入口は1840年に75,858入, 1871年に129,233人,そして1910年に516,527入となったo各期間について1年当たりの平均増加 ②の1840-1871年には2・27%,そして③の1871-1910 率を示すと①の1816-1840年には2.25%, 年には7.680/oとなるoすなわち, な遠いはみられず,. 1840年を境とする①と②の帝期間については入・口の増加率に大き. ③の帝制期に入り人口増初の勢いが大きく増大していることがわかるo健方で. ル-)レ地方のデュ-スプル、クやエッセンなどでは,. 1840年代以降の工業化の始動がほっき吟と人口. 増加率の変動に反映された。デュースプ)レクでは①の期間に2・35%であった1年当たりの平均増 加滞は, ②でほ8.52%,さらに③で時16.71%となった.エッセンでも同じく①に2・02%であった のが, ②では21.86%を記録し,. ③でも12.10%の高率を示した11二}。. そうすると,ケルンでほ工業化の始動は入[-Mj増加にまったく影響を与えなかったのであろうかo また1870年代以降の急激な人口増加はどのような要因によるものであったのか。ここで注目すべ きは,前述のように1881年以敵役階的に実施された領域拡京の開港であるo市域の面積を25・6 倍にも拡大したゲマインデ合併による郊外の編入はケみンの人口准移に大きな影響を与えたはずで あるo帝制期のドイツではゲマインデ合併は他の大老市でも額繁に実施されたが,合併による面積 の拡大においてケ]レンは主要都市のなかでも群を抜いて'いたo三番べ)レリンも1860年まで1,099ha であった市域を,∫ 1910年までの計4固のゲマインデ合併により6,352haに拡大したが,その倍率は. 5.8倍ほどであったoデュ-スブ身クほ1902年の合併により3,752haから7,073. haへ1・9倍に,エ. 878haから3,875ha-と4.4倍になったにす ッセンは1897-1910年に計6t頭の合併を実施したが, ぎなかった12'o近年の都市化の歴史研究の領域においても,このような凝市の領域拡蛮の過程が, 都市化の問凝としっかり関連づけられ論じられることはばとんどない13)o< 本義の目的は,近代老β市ケ]レンにおける領域鑑張と人口増加の関係を,都市化の主要掬とされる 工業化との関連にも員を配りながら明確することにあるoその際,幾計資料に基づき,できる限り 計量的な分析を読みるものであるoそ■こで,まず第1章では,. 1881年までの市壁による市街地の物. 理的制約と過密化の進行について確認しておくoそして第2章では, 過程と人口増力Hの問題について検討を加えるo撞く第3車では, 郊外の3つの区域に分け,. 1881年に始まるケルンの拡張 1914年の市域を旧市街,新市街,. 3,区域の連関のなかでケ)レンの入rj増加の特徴を明らかにしておくo以. 上の第2-3章の考察を通じて,-1914年までにケ)レンの人口増力Hに果たした菜区外の「投割」が明ら かとなるはずであり,最後に第4章ではこうした郊外における工業化と人口増加の問題について検 討を行うこととするo.

(3) 17. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. 1.. 1881年までの市壁内の過密化 都市化の人口史的展開において,これまでもっぱら重視されてきたのは人口増加の推進要因であ. り,他方で増加に対して抑止的に働いた要因についてはほとんど注意が払われること■はなかった。 こうした抑止的な要因として第一に指摘されるのが,. 19世紀半ば以降,多くの都市で顕在化する市. 街地の過密化である。ケルンのように市壁を含む軍事施設によって市街地の面積が物理的に制限さ れていたような都市では,問題はより深刻なものとなった。 (1881年6月)が開始されるまでに,市壁内で進行した過密化. ここでは,ケルンで市壁の撤去14). の様相をみていくことにする。その際,土地利用の変化や人口密度の上昇に関して,他都市との比 較もまじえて検討を進めることになる。 フランス軍の進駐により自由帝国都市としての地位を失った1794年以降,ケルンと隣接ゲマイン デとの境界線は,市壁から253-855. m外側にあった「司教の道(Biscbofsweg)」となった。, 年にプロイセン当局により行われた正確な測量により,ケルンの市域面積は769.52haとされた。 表1に示すように,そのうち市壁内の面積は405.45. 1841. baであった。市壁の外側にも壁塁部分を除き. 197.47Ilaの土地が広がっていたが,この土地は農地としてのみ利用されていた。. 表1からも壁塁などの軍事施設が市域のかなりの面積を占めていたことがわかるが,ケルンの特 殊な事情として1815年以降の「要塞化」があった。プロイセン王国への編入と同時に市壁のすぐ外 側では壁塁や濠の大規模な拡張工事が進められたのである。さらに,こうした墜塁施設の前方の前 の境界線付近には, 40年代までに大小合わせて17の独立した壁塞(Fort)が整備されることにな った。そして,市壁からおよそ1kmの範囲,すなわち市の境界線からさらに600-700m先までの 範囲が,大砲の「射程区域(Rayon)」として, 1828年9月の法令により建物を立てることが一切禁 止されることになった15)o. このような要塞都市としての軍事的制約が,やがてケルンの発展の大き. な足棚となるのである。 表1ケルン市域の内訳(1841年ごろ) 内訳. 割合(%). 面積(ba). 市壁内. 405.45. 52.7. 市壁外(壁塁部分を除く). 197.47. 25.7. 98.59. 12.8. 壁塁などの軍事施設 ライン河の流域 合計 出典:. Klara. der. 769.52. preuI3ischen. Jahrtausende. Kb'lner. Ke11enbenz/Klara. Jasper, Dey stadtKb'ln,. Zeit. van. bis. zur. 2,A hrsg.. 1975,. 1977, S.. von. Beginn in: Zwei Hermann. S. 170; Karlbernhard. UrbanisierungsPy10Zeji daygestellt K61n. vom. Reichsgr也ndung,. Wirtschaft,Bd. Eyll, K6ln. lob.o. K61ns. Eyll, Wirtschaftsgeschichte. van. 8.8. L68.01. 22より筆者が作成。. am. Beispiel 'der.

(4) 棚橋. 18. そうは言っても,. 信明. 19世紀中葉までは市壁内の土地にもかなりの余裕があったようであるo19世紀. 初頭には各住宅に付属する小規模な菜園や果樹園のみでなく,比較的大規模な農地が南西部を中心 に広がっていたoこうした農地の大半は野菜畑であったが,ブドウ囲もおよそ35haに及び・ケル ンでは白ワインの生産も盛んであった。こうしたまとまった農地は,住宅建設に利用されるなかで 40年代の半ばまでに次掛二姿を消していくことになる16)oそれでも,表2により1858年の土地利 用の内訳をみると,ケルンで建物が立っていたのは152・57haにす.ぎず,その大部分が市壁内にあっ たと考えられる道路94.57haを合わせても247haほどにしかならかった(,すなわち,この時点にお いても市壁内には少なくとも158haの土地柿壁内の約390/.)が,畑や果樹固などの「遊閑地」と して残っていたのである.. 60年代以降のことであったo表3に示されるよう. このような余裕が急激に失われていったのは, に,. 1876/77年に市壁内で建物の立つ土地の面積は331baとなった。すなわち,過去20年の間に建. 物面積は2倍以上となり,建設用地の不足が次第に深瀦な問題になっていったのであるoこうした 70年代初めに,郊外の農地が1m2当たり0・5-1・0マ)Vクで. 土地不足は地価の高騰にも反映されたo. 帝人できたのに対して,市壁のすぐ内周の土地の価格は1m2たり30-50マ)Vクに達したoこう 表2ケルン市の土地利用の内訳(1858年) 内訳. 撃合(%),. 面積(ha). 庭飽.果樹園など. 186.99.. 24,3. 農地. 156.68. 20.4. 建物の立つ土地. 152.57. 19.8 12.3. 道路. .94.57 8.8. ライン河の流域. ・68.01. 軍事防御施設と避難港-. 110.70. 14.4. 合計■. 769.52. 100.0. 出典: Verwaltungsbericht. 1858, in: Verhandlungen. vm'rdneten-I(ersammlu櫛Zu. Kb'ln, 1858, S.. des Stadt-. 291より筆者が作成。. 表3ケルン市の土地利用の変化(1867/77…1915年). 内訳. 1876i77.辛. 1981年. 1891年. 1915年. 1911年. '#S(ha) 朝倉(%)/面敬ha) 害拾く%)南街ha) 割合(%) 南街ha) 賓拾(笥)面積(ha)哀拾く葛). 農軌建設用飽,荒れ漁. 162. 21.0. 8,826. 79.5. 8,027. 72.2. 7,494. 63.8-. 道路,公約施設,嘩鼠 鉄道,軍事防御施設,塞. 201. 26.1. 913. 8.2. 1,487. 13.4. 2,098. 331. 43.0. 922. 8..3. 1,150. 10.4. 1,731. 76. 9.9. 455. 4.1. +447. 4.0. 100.0. ll,106. 100.0. ll,111. 100iO. 13,977. 70.9. 17.9. 2,696. 13.7. 14.7. 2,430. 12.3. 416. 3.5. 606. 3.1. ll,739. 1()0.0. 19,709. 10.0.0. 地など. 建物の立つ土地. ライン南などの水域 合計. 77(ー. 出典: Jasper,a.a.0., S・259・.

(5) 19. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. した地価の高騰には,私有地の多くが投機家の手に握られていたことも影響していた17)。また,そ 1877年に市壁内の約. もそも市壁内には私有地がそれほど多くなかったこともここで指摘される。 79baが公共の広場や街路,ライン河の港で占められ,残る325. baのうち宅地に利用できる私有地. は鉄道会社や市ゲマインデなどの公共団体に属する土地を除く240baであり,この時,私有地で建 物が立っていない土地は6haほどしか残っていなかった18)。 このような過密化の進展は他都市との比較によっていっそう明確となる。たとえば市城面積878 baのエッセンでは,1885年に至っても315ba(市城の35.9%)に及ぶ農地や牧草地が広がっており, このままでも工場の新設や人口増加の余地が十分に残されていた19)。さらに市域がケルンの4.9倍 (同26・2%) 1885年に市域内には983ba に当たる3,752haにも及んだデュースブルクにあっては, (同28.0%)の農地と牧草地があった20)。それに対して,表3から明らかなよう. の森林と1,049ba. に,ケルンではそれより前の1876/77年に,市壁の外を含めても162. ba. (同21・0%)しか農林地を. 含む「遊閑地」は残っていなかったのである。 したがって,単位面積当たりの人口,すなわち人口密度で比較しても70年代のケルンの過密化は きわめて顕著であった。. 1871年にドイツの全都市のなかでケルンは人口規模129,233人で第6位に. あったが,市域面積770baでは43位に位置した。この時,人口826,341で圧倒的な人口規模をもっ たベルリンは,. 1860年1月に市域をおよそ2.5倍に拡大するゲマインデ合併をすでに済ませてお. り, 1871年の市域面積5,923baは仝ドイツで6位の広さであった。このベルリンの人口密度は1ba. 当たり139.5人であった。それに対してケルンの人口密度は167.8人であり,上記のように市街地が 市壁内の405baに限定されていたことを考えると,実質的な人口密度は1ba当たり319・1人,ベル リンの2.3倍にも達したのである。また,. 1871年に人口51,513人のエッセンの人口密度は1ba当た. り58.7人,人口30,533人のデュースブルクのそれは同じく811人にすぎなかった21)o. このようなケルンにおける過密化は,市壁内の住宅事情の変化によっても確認できる。 ケルンの私的住宅の数はおよそ7,000戸であったが, に9,560戸になる。そして,. 1816年に. 2度の建築ブームを経験しながら1864年まで. 70年代の終わりに11,000戸に達するが,それ以降は,宅地として利用. できる私有地の決定的な不足により市壁内の住宅数はむしろ漸減傾向を示す22)。それでも住民数の 増加は続くが,それは住宅の「高層化」により可能であった。. 1878年に3階以上の階数をもつ住宅. はケルンでは全住宅の71.1%に達したが,エッセンでその割合は16.0%,デュッセルドルフでも. 46.7%であり,ライン州のなかでケルンは最も「高層化」の進んだ都市であった23)。 そして,ケルンの市壁内の過密化の問題は人口増加の鈍化にはっきりと現れることになったo都 市化の時期区分でみた場合,. 1840年を区切りとする①の準備期と②の始動期でケルンの人口増加率 ②の時 に大きな変化がみられなかったことは前述の通りであるが,さらに短い時期区分でみると,. 1858-1861年に1年当たり 期の60年代に入り人口増加の鈍化が顕著になって十-ることがわかるo の平均増加率は1.77%であったが, 年に0.82%,. 186ト1864年に0.44%に大きく落ち込み,その後も1864-1867. 1867-1871年に0.81%と低迷が続くのである24)0. こうした人口増加の鈍化からも,. 70年代初めにケルンがきわめて手狭で,窮屈な都市になってい. たことが十分に理解される。したがって,以下でみるような市壁の撤去とゲマインデ合併による郊 外への拡張は,市街地の過密化による発展の行き詰まりを打破することを第一の目的とするもので あったといえる。.

(6) 20. 棚橋. 信明. 2,ケルンの拡張過程 と人口増加 (1 )ケルンの拡弓長過程 (A) 1881/1883年の拡弓長. ケルンの市行政府がまずめざしたのは,中位以来の市壁の撤去と「射程区域」の建築規制の解除 であった。そのために好都合な条件が1870年代初めに出揃うことになった。急激な軍事技術の発展 により19世紀の半ば以降,ケルンの壁塁施設は次第に時代遅れのものとなっていった。決定的であ ったのは1870-71年の戦争の経験であり,とくに大砲の威力の増大はプロイセン軍部にケルンの僅 塁施設の見直しを余儀なくさせたoそこで軍は, 1872年以降,独立壁塞を3-7kmさらに郊外に移 動させると同時に,市の境界線付近に新たな墜塁施設の建設を進めたのである。すなわち,市壁と その外側に隣接した壁塁施設は軍事的にはもはや不用となったのである。 そして,. 1881年5月にプロイセン軍事省との交渉が成立し,ケルン市はこの壁塁施設を1,180万. マ)レクで買い取ることになった.これにより市壁の撤去が許可されるとともに,市域内の「射程区 域」が建設用地として開放され,ケルンの建設可能な土地の面積は単純計算で約200ba増加するこ とになったo実際の市壁の撤去は同年6月11日に開始され,翌年の3月には市壁外の土地の分譲販 売が,そして4月には住宅の建設工事も始まった25う。 図1ケルンの拡張過程(1881-1914年). 註:酔F,の主要な道路,壌,鉄道路線,ライン河の港については,およそ1975年ごろの様子を示すo 恥典: Arnold 371.. Stelzmanmobcrt. Frohn, lllustrieyieGeschichte. (筆者により一部改変。 ). der Stadt Kb.ln, 11リVerbesscrte. Auflage,. K6ln. 1990, S..

(7) 21. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. 表4. ケルンの市域の拡大にともなう人口と面積の増加 編入ゲマインデ※1. 編入の実施年月日. 編入地域の. 編入地域の. 面積(ha)刺. 人口. 総面積(ha)■ 770■. 1883年11月12日 a)Gem.Rondorf.(一部) b)Gem.Mtingerdorf(一部). 48. c)st.Ehrenfeld(⊥部) d)Gem.Longericb(一部) 付属するライン河の流域. 83. 34. 65 14. .(RondorfとM血gerdorf-の分離▲8) 合計 1888年4月1日. 236. 1,006. 1885年12月. A.ライン左岸. の人口. a)Gem.Ron_dorf(一部) b)Gem.Effern(一部) c)Gem.Krie1. d)Gem.M凸ngerdorf. 999. 5,476. 179. 130. 774. 6,649. 2,472. 7,886. e)St.Ehrenfeld. 382. ■f)Gem.Nippes. 772. ・18,243 14,621. 3,000. 5,549. g)Gem.Longericb 付属するライン河の流域. 212 8,790. ライン左岸の合計. 58,554. ち.ライン右岸 573_. a)st.Deutz※Z b)Gem.Poll. 587. 付属するライン河の流域. 1,310. 19,555. 10,100. 78,109. ll,106. 1905年12月. 1910年4月1日. の人口 a)St.Kalk. 19?. 25,478.. b)Gem.Vingst. 407. 4,819. 合計. 599. ll,705. 30,297. 1910年12月. 1b14年4月1日. の人口 882. a)、Krfr.St.Mulheim. b)Gem.Merheihlk.:i 令_計 境界線変更及び再測量による増加 Gem.-Gemeinde. 1,818. 150. ライン右岸の合計 ライン両岸の合計. 略語: 註:. 17,737. (農村ゲマインデ),. St.-Stadt. (法的都市),. 7,086. .53,425 23,604. 7,968. 77,029. 19,673. 37 K血St.-Kreis血・eie. 19,710■ Stadt. (郡独立都市). ※1略語によるゲマインデの分類は,それぞれ編入当時のものを示す. 1888年に編入されたSt.Deutzの面積には,鉄道や港の土地としてSt.KalkやSt.Mnlheimに属したわ ずかな土地も含まれる。 Dtinnwald, Flittard, H6henhaus, Holweid, Gem. Brdck, Buchheim, Dellbrdck, ※3 Merheimは連合ゲマインデで, ostheim, Rath, Staamheimの10ゲマインデにより構成されたo ※4 ▲は減少を意味する。 des 出典: Kb'lner Statistisches Handbuch (StatistischeMl'tteilungen der Shtdt Kb'ln, 13. Jg.),K61n 1958, S, 28; Gemeindestatistik Nordrhein1871-1961 hrsg. vom Beub・lkerungsentwicklung Statistischen Landes Land占samt′ Nwdrhein-Westfalen: der kyleisPeienSiddk, Landkreise Gemeinden des Landes 1964, S. 40-41; Die Entwicklung westfalen, Dtisseldorf und ※2. ,. Nordyhein-Wesqalen vow Jasper, a. a. 0., S. 256-257;. 1871-1950,. hrsg.. vom. Statistischen Landesamt. ZweiJahrtausende K6lner Wl'rtschaP,Bd・. 2, S・. Nordrhein-Westhlen,. 534より筆者が作成o. Diisseldorf. 1956,. S・ 18;.

(8) 棚橋. 22. こうした市壁の撤去直後に実施されたのが,. 信明. 1883年11月の第1回のゲマインデ合併であった。. 表4と図1からわかるように,これによってケルンに編入されたのはラインの左岸でケルンに隣接 する4ゲマインデのそれぞれ一部のみであった。これは,それまでの市の境界線の外側600-700m の範囲,すなわち1825年以降に「射程区域」として家屋の建築が禁止されていた地域に相当する。 要するに,. 1883年にケルンに編入されたのは,隣接ゲマインデにとっては以前からケルンの要塞線. によって分断され,. 「無用」となっていた無人地帯であった26)0. こうして1883年のゲマインデ合併によってケルンの市城は236ba増加し,総面積は1,006baと なったが,新たな壁塁施設の建設にともなう軍事的制約もあって建築可能な土地の増加は50. ba樺. 度にとどまった。 (B) 1888年のゲマインデ合併. 上記の1883年11月のゲマインデ合併はケルンの市城をおよそ1.3倍にする程度のものであった が,. 1888年4月に行われた次のものは,図1から一目瞭然のように,前回の規模をはるかに上回る. ものであった。表4に示されるように,この時ケルンには,ライン左岸では都市エーレンフェルト (Ehrenfeld)を始めとする5ゲマインデと他の2ゲマインデの一部が,そして右岸では都市ドイツ (Deutz)とポル(Poll)の2つのゲマインデが一度に編入されたのである。この合併は,ライン左 岸では1872年以降大きく郊外に移転していた独立壁塞を結ぶ連絡道路,すなわち現在の「軍事環状 級(Milit畠rring)」までをケルンの市城に取り込むことを意味した。また,この時編入されたライン 河対岸のドイツも,堅固な壁塁施設と独立壁塞をもった要塞都市であり,以前からケルンの防衛拠 点の役割を担っていた27)0. この合併によりケルンの市域には新たに10,100haの郊外が加えられ,総面積はそれ以前の11倍 の11,106baに膨張することになった。上の拡大をもってケルンは市域面積においてドイツで最 大の都市となった。この地位は,. 1910年4月に大規模なゲマインデ合併を実施したフランクフル. ト(マイン)に奪われるまで維持されることになる。また,帝制期のドイツにおいて一度に6,000ha 以上の市域拡大をもたらすゲマインデ合併は全部で3つの事例しかみられず,. 1888年のケルンの合. 併はそのなかでも大きく突出するものであった28)0 それでは,このような市城の拡大はケルンの土地利用の状況にどのような変化をもたらしたであ ba以下から8,289. ろうか。この合併によりケルンの市域内の農地は250. haへとおよそ33倍にな. り,そのほかに78baの林地が市域に含まれることになった。すなわち,合併後に農地と林地の面 積は市域全体の74.6%に及ぶことになった29)。そして,表3からわかるように,. 1891年において,. こうした農林地を主体とするケルンの「遊閑地」は8,826ha,市域の79.5%を占めたのである。 前述のように,デュースブルクはライン州の主要都市のなかでも人口密度がきわめて低く,市域 内に広大な農地と森林地をもっていたが, 54.2%にとどまった。このような比較からも,. 1885年に両者を合わせた面積は2,032baで,市域の 1888年のケルンにおける市域の拡大が土地利用のう. えできわめて大きな「余裕」をもたらしたことが明らかとなる。 (c)1910年のゲマインデ合併 1910年4月に実施された第3回のゲマインデ合併は,. 22年前のものに比べればかなり小規模な. ものであった.この時,ケルンに編入されたのはライン右岸の都市カルク(Kalk)とヴインクス ト(Vingst)の2ゲマインデのみで,編入面積は前回の約17分の1の599baにとどまった。この合 併の大きな意義は, 19世紀半ばより急激に台頭し,. 1901年5月にはケルンと対等な郡独立都市の地.

(9) 23. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. 位を得ていたミュールハイム(Mtilheima.Rhein)の発展に棋を打ち込んだことにあった。ミュール ハイムも以前より周辺-の市域拡大の機会を窺っていたのである30)0 また,表3において1901年と1911年の土地利用の内訳を比較しても明らかなように,この合併 はケルンの土地利用に何ら「余裕」をもたらすものではなかった。この間に建物の立つ土地は,面 積と割合においてかなりの増加をみせている。そもそも都市カルクには,第4章でもみるように, 50年代より機械製造工場や化学工場が次々と進出しており,編入時にはその市域のすでに4分の3 が工場や住宅で埋まっていたといわれる31)0. (D)1914年のゲマインデ合併 続いて行われた1914年4月のゲマインデ合併は,. 1888年の合併に匹敵する大規模なものとなっ. た。この合併はライン右岸の郡独立都市ミュールハイムと連合ゲマインデのメルハイム(Merheim) を編入するものであり,これによりケルンはさらに7,968. haの市城を獲得し,総面積は19,710'ha. となった。この合併は,面積においてケルン自身が1888年に実施したものに次ぐ規模のもので,ド イツでは史上2番目のものであった。これによりケルンは,. 1910年以降のゲマインデ合併でケルン. の面積を上回っていたフランクフルト,ミュンヘン,ハンブルクの3都市を逆転し,再びドイツで 最大の都市に'返り咲いた.. そして,この合併によりケルンは土地利用において再び大きな「余裕」を得ることになった。表 3からもわかるように,. 1891-1911年の間に農林地などの「遊閑地」は公共施藷や住宅などの建諺. に利用され次第に減少していった。それが1911-1915年に再びかなりの増加をみせているのであ る。. 1915年にはその約1.9倍の13,977baにも. 1911年に7,494haであったケルンの「遊閑地」は,. なった。こうした「遊閑地」の増加にもっぱら寄与したのは,表4フからもわかるように,郡独立都 市ミュールハイムではなく,広大な面積をもった連合ゲマインデのメルハイムの編入であった。. (2)ゲマインデ合併による市城の拡大と人口増加 ゲマインデ合併による市域の拡大は,当然のことながら編入される地域の住民をそのままケルン の人口に加えていくことに.なったo. 1883年の最初のゲマインデ合併は,前述のように無人地帯の編. 入であり,これによる人口の増加は皆無であった。その後, デ合併は,編入地域の住民それぞれ約85,600人,. 33,699人,. 1888年,. 1910年,. 1914年のゲマイン. ■81,699人32)をケルンの人口に加えるこ. とになった。. なかでも1888年の第2回のゲマインデ合併は,前述のように面積規模で帝制期ドイツ最大であっ たばかりでなく,人口規模でも3番目に位置した33)0. 1890年のエッセンの人口は78,706人,デュ. ースブルクの人口は59,285人であったから34),この時ケルンはこうした都市の人口を上回る人口を 一度に編入したことになる。この合併によりケルンの人口はおよそ170,000人から255,600人へ と約1.5倍に膨らんだのである。また, 1888年の合併規模 1914年の第4回のゲマインデ合併は, をやや下回り,ケルンの当時の人口を約554,000から635,700人-と1.15倍にする程度d)ものであ 60年代以降,急激に人口を増加させてき ったが,それでもかなり大規模な合併であったといえる。 た郡独立都市ミュールハイムを飲み込むものであっ.たことがそれを物語る。この合併の人口規模は. 帝制期ドイツで5番目であった。 ここで図2の,編入地域別人口め推移を表すグラフに注目してみよう。棒グラフを■っなぐ折れ線 ◆. は,各年の実際の市城の人口推移を示す。このグラフからも,ゲマインデ合併による市域の拡大が,.

(10) 24. 信明. 棚橋. 註:棒グラフ間をつなぐ折れ線は,各年の実際の市域の人口推移を示す。 (以 F StJBStC 1912のように略記). 出典: StatistischesJah71buchder Stadt Gb'lnfur1912 Landes. Westfalen:Beub'lkerungsentu)icklu曙181. Nordrhein-. Westfalen,Diisseldorf lndusthalisierung Gcorg. Ncuhaus,. 1966,. S.. 133-134;. Friedrich-Wilhelm. (1871 bis 1914), in: ZweiJahytausende Die Entwicklung. der Stadt Cb'ln. Stadt Cb'ln im ersten Jahrundeyt unter. yon. hrsg.. 6-1871,. Hennig, Rb-lner. vom. S. 4; Gemeindestatistik. ,. Statistischen Lnndesamt. Die Stadterweiterung. WirtschaP,Bd.. der Em'chtu曙des. z・71eujiischer HerrscahP.1815-1915,. Deutschen. 2, S. 281;. Retches. Jasper, bis. Bd. 1, Tei1 2, hrsg. von. Nordyhein-. dem. unter. Rum. des. EinfluI3 der. a. a.. 0., S. 40;. Weltkrieg (Die. Stadt C61n), C61n. 1916,S.ll.. 1885-1890年と1905-1914年の間の人口の急増に決定的な意味をもったことが確認される。また, 1888年,. 1910年,. 1914年の3回のゲマインデ合併による増加人口は合計でおよそ201,000人であ. り,他方で1885-1914年のケルンの増加人口は347,138人であったことから,この約30年間の増 加人口のおよそ58%が郊外の編入に直接的に起因するものであったことになる。先述のように,帝 制期に入ってケルンの人口増加の勢いは急に大きくなり,. 1871-1914年の1年当たりの平均増加率. は9.11%となるが,このような数値にあってはゲマインデ合併による市域の拡大が捨象されてしま うことに注意を要するのである。. ゲマインデ合併の人口増加-の貢献はこれだけにとどまらなかった。市城に新たに加わった 「遊閑地」は,住宅や工場の建設に利用されることにより人口増加に大きな意味をもったからであ る.そこで次章では,. 1914年4月以降の市域を市壁内にあった「旧市街(Altstadt)」,. 1881年の市. 壁の撤去とともに開発の始まる「新市街(Neustadt)」,そして1883年以降のゲマインデ合併で段階 的に市域に編入されていった「郊外(vororte)」の3つの区域に分け,,各区域の人口推移の特徴と.

(11) 25. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. ケルンの人口増加への貢献のあり方について,表5を参照しながら考察・を進めたい。 3.旧市街・新市街・郊外の人口推移 (1 )各区城の人口推移の特徴. 表5において,旧市街の人口の推移についてまず指摘できるのは,第1章でもすでに指摘したよ うに,市壁内の過密化が原因となり60年代に入って人口増加の勢いが大きく後退していることであ る。その後,人口増加率は70年代にややもち直すがすぐにまた落ち込み,. 1900-1910年にはつい. に減少に転じている。. このような人口の減少には1890年代に始まる「シティ」の形成と,それにともなうドーナッツ化 現象が関係していた。ケルンの市中心部では銀行や保険会社,大規模化した′ト売商店や専門店など の特定街区-の集中が次第に顕著となり,他方で都市行政の拡充やゲマインデ合併に従って行政施 な. 設の数も増加していった。Lこうしたなかで市中心部の夜間人口は次第に減少することになったo. かでも郊外への移転を余儀なくされたのは経営困難に陥っていった中小規模の手工業者と,家賃の 高騰に苦しむ労働者たちであった35)。そのうえ,広場や街路の拡京などによる建物の撤去も人口の 1910年には. 減少に大きな作用を及ぼした。それは1878年に、11,243戸を数えた旧市街の住宅が, 10,081戸に減少していることからも窺い知ることができる36)0. 次に1881年に開発の始まった新市街の人口推移についてみてみよう。ここでは1885年にわずか 7,583人であった人口は, 増加していることがわかる。. 5年彼の1890年には34,051人,. 10年後の1895年に55,350人へと劇的に. 1年当たりの平均増加率でみると1885-1890年に69.81%を記録し,. 1890-1895年にも12.51%であった。新市街の人口は1905年には10万人を突破し,瞬く間に「旧 市街を取り囲む第2の大都市が出現した」のである37)。しかしながら,新市街の人口増加の勢いは 次第に衰えることになり,. 1910-1914年の1年当たりの平均増加率は0.27%で,. 加はほぼ頭打ちになったといえる。. 1910年には人口増. ba当たり382.1人に達するが,. 1914年に旧市街の人口密度は1. この時,新市街の人口密度はそれを大きく上回る634.0人であった38)。 他方で,郊外の人口推移にはどのような特徴があったであろうか。まず,指摘できることは,郊 外の人口増加が40年代以降はっきりとその勢いを増し, 示したことである。. 60-70年代にはきわめて大きな増加率を. 1年当たりの平均増加率は1816-1846年には1.81%で,旧市街の2.87%をか. なり下回っていたのが,表5に示されるように,. 1846-1855年には3.78%,. 1855-1861年には. 5.490/., 1861-1871年には7.560/.,そして1871-1875年にも7.300/.の高率を記録している。この ような趨勢は,. 60年代以降はっきりと停滞傾向を示す旧市街とはまったく対照的であったといえる。. その後,こうした郊外の人口増加の勢いにもやや後退がみられるが,. 1900年以降も増加は比較的順. 調であり,停滞に陥るようなことは全くなかった。. (2). 3区域の相互連関と1914年の市域でみる人口増加. 人口の推移について以上のような特徴を示す3つの区域が,. 1914年までに行政的な統一体となる. のであるが,表5からは,この3区域の発展にそれ以前より強力な相互連関があったことを読みと ることができる。まず注目すべきは,新市街の開発が急激に進むとくに1885-1895年に旧市街のみ でなく,郊外の人口増加率にも比較的大きな後退がみられることである。. 1914年の市域全体に占め. る人口割合でみても,郊外の割合は1846年以降,拡大を続けてきたのが,この間はほとんど増えて.

(12) 26. 棚橋. =[T'・Bl=i1-)=りI・. 繋□. 信明. ⊂>(.ロLL?寸cy?▼-.1ロー(コーLn(J)Nしn▼ポロ)【ー ●●●●-●●n. 「-一00t廿NN寸Q)⊂⊃く.D(カ卜-CY?Lnl∫)卜ー. 閏. へI■ヽ■.A.■.●ヽh■ヽ一ヽヘ■、ヘ■、●ヽ●ヽ. ●■-●●●●●●●-. ●...a...●●. y-■「■.I..■▼-一NNNCY')m▼オLnL∩くエ). ・'・、-リ‥)I.7(51d,JT'E,(:,..I.hニりL・.;I;1.i::.・LU!LIL(}・'Tl.I.. 巴<H. -zI--r■●●-●ー●A. Ea ※.. ヾ=. N⊂>ロ、)r■mMOO⊂>寸cy?寸仁一O)cy')く.D NN▼.一NNCY?CY?一寸t廿.d一寸寸「寸LnLn. 蘇 Ea _,⊥_. I.-」. 蒜蟹 ♯. ●■●●ー●●●●. \、〉一. ≡. A). i:. 1.1. L∩しD卜■▼寸L()CY')寸cy?寸I.一ロヽLnO)I.■ r.■▼.1MLn卜→卜■cy').LnCY?CY?寸「廿MCY? {{{{{{{{{{′一人.-、{{、{. (⊃ ー.I (⊃. >. □. く. 整要覧朋霊芝き賢書き■翼朋豊 Nぐつ一一T,-1一NNCY?m. N⊂)寸tL-(コー)⊂>ロー. lllllllI一一一一Cqー. 胡江. uJ!・'LItW・?;・{]?舌ノこ草.. Eヨ. 田 恒. I..ー1. ※. 華壁. 忘司宗宍荒㌫. 【∃. 審ヨcx)¢m.○. 三≡. -I.」. '「⊂, く勺. {{{{{{. 十).r,・7,・・・い叶・[)rI・誉・r,・t・_・l・,...・.[!.・・:I.J. I.一 く′). El a). CY?I-一⊂>CO⊂⊃NぐY') .i.●●■●■● -●●. □. ※. ヾ= 蘇. I..■▼..1-「一. (≡)(.ロ⊂)⊂>NT.1Cy7▼.一門ー一mLnCY?⊂>t寸 ●■●●●●●●-●i>. ド-【ーCO仁一卜■しDくエ)LnLn寸寸cy?cy')NN. I;a ー..一. ll {{{{{{{{{{{{{{. く勺. ・▲.J. (′つ. ●●●■-●. 一..J. 卜-LntオLr)く.Dm亡-【-「廿(エIく.D▼.一Lnく.D⊂). 司. ●■●●●b●●. コ. く. ー■I.■r1▼.一▲▼-■r,,1▼.■▼.■▼.一▼,,,1T-.1∼. I..■▼.1▼,,1▼..■▼.-l一一一t..■T..■▼.1▼..■▼..■▼.-l▼-lT..■. N※ t・:・∵!:」. 。り匡り岩国‥轍記. 【ー▼.-一くエ)L√)I.一r一l∫つ,⊂⊃Ln⊂>Ln⊂>Ln⊂〉寸 【●●●●●●●-●●●●I1+f●●■●●●■●■●●●●■■●●●●. ・:13等tit,.][・,:J,i.. ,,:・:・. 田. ■ヽ●ヽ■ヽー.ーヽ●.、h●ヽh●ヽー、一ヽ■ヽへ●、. OT)Ln⊂)くエ)⊂>G)Ln寸n(工)⊂⊃N⊂⊃寸▼寸 tオ(.DO)⊂>NNCY?寸LnL()(.D(.D(.DLnLn. T:.I.エ「∴1ノー・..・?.]・:1iJ.!fJ :T蔓一=・. +一. bh'E5己●'_'R'..NNNN(=)I.一'.一ー一⊂⊃⊂>⊂)⊂⊃(≡)く=). 。;jJ琳缶L」時雄船型缶轄岬. ⊂=ユ. \J. I,:[・・:l,. ・超 淀 打順 駐 ⊂Ⅱ 博一 Eヨ 管 「コ. (./o)和扉wfjY岬{1LFfり)塗朝鮮但e掛ヨ6T. lヨ. FIllllFIト講tE3巴誓R3式. ・l1.Tt6T'=:I.・・,-T‥〓ノ.. <. ・.I.. a. 。+g/心. (せ寸L6L-卜L8L)tjYe舌環・姫忙垢・姫忙E]JQ)八](・4. ※. 聖. [(十;T,Li:]・・i・・flq'L="T. (.D⊂)N寸(X)卜.く.D. Ea.

(13) 27. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. 1895年以降,新市街の人口増加率が次第に落ち着いてくると,郊外の人口増加率は. いない。また,. 再び勢いを取り戻している。このような観察から,. 40年代以降の郊外の人口推移が,都市ケルン(旧. 市街)と密接な連関をもっていたことがわかる。 それではこの3区域を全体として,すなわち1914年の市域を一つの単位としてその人口増加をみ た場合,どのような特徴を指摘できるであろうか。まず,人口の1年当たりの平均増加率は18171846年に2.64%であったのが,. 1846-1871年には3.02%に,. 1871-1914年には5・24%となる。先. 述のように,ケルンの実際の市城である旧市街の人口増加は19世紀初めから中葉にかけて比較的緩 慢であり, 60年代からは増加率に大きな後退がみられた。ところが,. 1914年の市域全体についてみ. ると,その人口増加は1840年代より継続的に勢いを増していることがわかるのである。このことは 図2の棒グラフの伸びからも明らかである。 そして,このグラフからも一目瞭然であるように,こうした人口増加を強力に支えたのは40年代 に加速を開始し,. 60-70年代に最も高い増加率を示した郊外の人口増加であり,さらに1885-1905. 年に新市街でみられた激しい人口増加であった。こうした郊外と新市街の激しい人口増加は,表5 に示されるように,. 1914年の市城全体に占める各区城の人口割合を大きく変化させる。旧市街の. 人口割合は1846年の81.0%から漸減し, は1846年に19.0%であったのが, 降のわずか20年の間に,. 1914年には24.4%になるのに対して,郊外の人口割合. 1910年には50%を超える。他方で,新市街の人口も1885年以. 20%の割・合を占めるまでになる。. 1914年の市. また,各区城の人口増加における「貢献度」を1846-1914年についてみてみると,. 域全体における増加人口はこの間に524,322人であったが,そのうち旧市街における増加人口は 64,663人でわずか12.3%に相当した。それに対して新市街における増加人口は124,293人で23・7% に,郊外におけるそれは335,366人で64.0%に当たり,人口増加への「貢献度」で郊外が圧倒的な 比重を占めたことが明らかとなる。 そして,こうした郊外における強力な人口増加の原因として,第一に問われべきが工業化の問題. である。ケルンの郊外では工業化はどのような特徴をもって,また本来の都市ケルンとどのうよう な関係をもって進展していったのであろか。次章ではこの間題についての検討を,具体的な事例を あげながら進めていくことにする。. 4.郊外における工業化と人口増加 (1)郊外における工場の進出 確かに40年代に入って,ケルンの郊外では大規模な工場の建設が次第に目立つようになる。.なか でも郊外で大きな発展をみせたのは,鉄道車柄を含む機械製造の企業であった。注意すべきは,こ れらの企業の創設者がケルンの市民に限られなかったことである。、 まずベルギーの企業家ツイ-パン(Ferdinand. van. der. Zypan)とシャリエル(Frederic. Charlier). が1845年にケルン近郊のドイツに設立した車柄製造会社は,比較的早期の代表的事例である。この 会社は初め馬車の車輪等を含む様々な鉄製品を製造したが,. 1871年以降,鉄道車柄の製造で帝国最. 大規模の企業へと成長していく。全従業員数は1855年におよそ600人であったのが, 2,600人に,. 1914年には3,500人-と増加し,. 1910年には. 1914年にドイツの工場ではおよそ1,400人が働いて. いた39)0. また,ケルンの商人ハ-ゲン(PaulJoseph. Hagen)と技師ベ-レンス(Emil. Bahrens)がバイエ.

(14) 28. 棚橋. 信明. ンタール(Bayenthal)に鋳造工場を開設したのは1847年のことであった。この工場を1855年に買 い取ったのがデュルケン(Ddlken)出身の企業家メヴイッセン(GustavMevissen)であり,彼は翌 年この工場を基礎に「ケルン機械製造株式会社(K61nMaschinenbau-AG)」を興した。およそ18,000 m2の敷地をもった工場では蒸気機関,ボイラー,鉄道用車輪,鉄製の建築資材などが生産された。 この会社は1870年代の終わりから経営難に陥り,沈滞期をむかえることになるが,その後1909年. にTベルリン. ・アンハルト機械製造株式会社(Berlin-Anhaltische Maschinenbau-AG)」の傘下に入り, これを契機に再び大きな躍進をみせる。. 1914年にバイエンタールの工場の従業員数は1,700人ほど. であった40)0. 郊外においてさらに大規模な企業へと発展していったのが,. 1856年にボン在住の企業家ジーフ ア. ース(HemannD.Sievers)を中心に設立された鉱山用機械の製造会社であった。カルクにあった工 場の敷地面積は1871年におよそ10,000 m2であったが,将来の成長を見越して合計で55,000. m2. もの広大な土地が確保されていた。この会社も70年代の半ばに経営危機から一一時,生産規模の大 幅な縮小を余儀なくされるが, (Maschinenbau-Anstalt. 1884年に大幅な刷新とともに「フンボルト機械製造会社. Humboldt)」として再出発する。その後の発展には目覚ましいものがあり,. 鉱山用機械のほかに昇降機,破砕機,蒸気機関,機関車などを製造する工場では,. 1914年におよそ. 5,000人の従業員が働いていた41)0. 他方で60年代には市内にあった工場の郊外-の転出も目につくようになる。当初は中小規模の化 学工場や,ゴム工場の移転が目立ったが,その背景には,用地の不足から工場の拡張が困難であった ことのほかに,これらの工場が悪臭や汚水の問題などから周辺住民に以前から嫌悪されていたこと があったと考えられる。そして,こうした化学やゴム製品の工場に続き,もともと広大な敷地を必 要とする機械や金属関連の工場の大規模な移転もみられるようになる。以下では,こうした工場の. 郊外への転出の代表的事例をみていくことにする。 まず化学工場の事例としては,ホスペルト(WilbelmA.Hospelt)の染料工場の郊外-の移転があ った。もともと染料を扱う卸売商人であった彼は, たが,. 50年代半ばに市内で合成染料の製造を始めてい. 60年代初めにエーレンフェ_)レトに工場を新設したのであるoその後,彼の会社は印加用黒イ. ンク(Buchdruckerschw畠rze)の製造により大きな成功を収める42)。また,ゴム製品の工場としては, コールシュタット(FerdinandKohlstadt)がゴムバンド工場を1864年にライン河対岸のドイツに移 している。彼の会社は1872年に株式会社-と移行し,ゴム製品の用途の拡大も手伝ってその後も躍 進を続けることになる43)。. 機械製造の分野で注目すべき事例としては,オットー(Nicolaus Langen)によるガス発動機工場のドイツヘの移転があった。. A.. Otto)とランゲン(Eugen. 1864年に創立のこの会社は,. 1869年. に市内にあった小規模な「作業場」をライン河対岸の広い工場-移したのである。この工場では, 「オットー機関」として世界に名を知られることになる4サイクル発動機の開発が進められ,. 1877. 年にその技術で特許が取得された。この発動機は80年代の半ばからは液体燃料-の転換にも対 JLf:tし,海外にも市場を拡大していった。従業員数は1880年に250人程度であったのが, は1,700人に,. 1900年に. 1914年には3,300人へと生産規模の拡大とともに増大していった44)0. さらに,生産規模の拡大が工場の移転に結びついた顕著な事例としては「フェルテン・ギヨーム (Felten &. Guilleaume)社」の工場の郊外への移転があった。. 1820年に娘婿のギヨーム(Tbeod・or. Guilleaume)とこの会社を創設したフェルテン(JobannT.Felten)は,もともと手工業者の親方で.

(15) 29. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. あった。当初この会社は亜麻や麻のロープを製造していたが,. 1838年に鉄製のワイヤーロープの生. 産を開始し,さらに1853年にはグッタペルカで絶縁された電信用ケーブルの生産に乗り出した。そ して,こa)会社の電信用ケーブルはイギリス製品との厳しい競争に打ち勝って,やがてヨーロッパ 大陸で独占的な地位を占めることになる。. 1874年にミュールハイムに敷地面積5,870m2をもつ大工. 場が新設されたが,これは手狭になった市内の工場からワイヤロープとケーブルの生産部門を分離 するものであった。ミュールハイムの工場は急激に生産規模を拡大していき,. 1903年には47,775m2. に及ぶ敷地面積をもつに至り,そこで働く労働者は1914年におよそ6,500人を数えた45)0 以上みたなかでも機械製造を含む金属関連の大工場の郊外への進出とその後の発展は,ケルンの. 工業化の過痕を大きく特徴づけるものであっ.た。ケルンでは19世紀末まで,繊維工業が経営数や従 業員数において最大の工業部門であったが,ここでは手工業的な小規模経営が圧倒的に優勢であっ た。こめ部門の従業員数は帝制期にも継続的な増加をみたものの,第2次産業全体のなかでは次第 に比重を低下させていった。他方で,帝制期になって従業員数を急激に増加させ,比重をどんどん. 高めていったのが金属産業であった。そして,こうした金属産業の発展の中心は,上記の事例から もわかるように,圧倒的に郊外にあった46)。要するに,ケルンはゲマインデ合併の過程で,それ以 前にすでに郊外で発展を始めていた金属産業を丸ごと取り込んでいったのであり,こうした郊外の 金属産業が帝制期以降のケルンの工業化を強力に牽引することになったといえる。. (2)工業化と郊外の地区別人口 前節でみたような事例に代表される大規模な工場の新設や市内からの転出により郊外の工業化が 進展していったのであるが,図1の地図との対照で確認できるように,. 40年代に始まる金属や化学. 関係の工場の進出は,まずケルン市の境界線のすぐ外側の地域に集中することになった。すなわち, ェーレンフェルト,ニッペス(Nippes),バイエンタ■-ル,ライン河の対岸ではドイツ,カルクとい った地区でまず工業化が始まったのである。そして,こうした工業化は都市ケルンを中心に同心円 的に拡大していったのではなく,郊外へと延びる主要な街道や鉄道路線に沿っで放射線状に進んで. いった。以上のような事実は,郊外の工業化がケルンとの強力な結びつきのなかで,いわばケルン の経済的発展の一部として進展していったことを推察させるものである。 他方で,表6の郊外の地区別人口の推移は,やはり都市ケルンに近接した地区で,まず急激な 人口増加が始まったことを示している。バイエンタール,ジュルツ(S山z). ,リンデンタール. (Lindentbal),エーレンフェルト,ニッペス,そしてライン右岸ではドイツ,カルクといった地区で 40-60年代に急激な人口増加の開始が確認できる。それに対して,郊外でも ケルンの中心部から 大きく距離を置いたニール(Niebl),ミュンガードルフ(M血gerdorf),ロンゲリヒ(Longericb) などの地区では,. 1910年に至るまで人口増加はかなり緩慢であった。. このように,都市ケルンのすぐ外側の郊外で始まった工業化とこうした地区の顕著な人口増加の 同時的進行が一般的な傾向として確認できるが,両者の直接的関係を示す以下のような事実も指摘 できる。 たとえばバイエンタール地区には,. 30年代に至るまで小規模な煉瓦製造所や製材所があったにす. ぎなかったが,前述のように,ベ-レンスの鋳造工場が1847年に,それを吸収する「ケルン機械製 造株式会社」が1856年に設立されており,同社は間もなく工場の近くに従業員用住宅の建設を始め ている。このような工業化に対応して,表6にみられるように,この地区の人口は1846年に104.

(16) 30. 棚橋. 田. 信明. のくJ) Ml∫つ く.DCY') 卜、く.D. ●.e蔓.≡さ.......望き毒聖賢●●;;.';3 I.■、■、■、●、●、R■、■ヽ■、^■、■、一、. ⊂). rlCOCY?式宍r-1N'→窮等Lf?MCV?一 E=トN. ▼..1. EZl I..■. LZ]. ●.I.'-=ーE;.a.-._.;聖●-_a.mm-≡ LnLJ'コ.-l一宮Es-cq-cy'^cq^■rl^ヨcqN. 田. ⊂) ⊂〉 (コー. I..一▼..■. 慕. Ei). E5] t廿 Ln. ▼.-→一. ロ)⊂) ・Ln(コー LnL_n. ●●●. I..■. (X). lヨ ド⊂> I..■. CY?N. NT-1t.-l. ー..■. ■仁一「■. Ea ー■一. 葦琵琶室§琵ヨ.琵聾要旨、露草琵琶喜一 昆■ヨ (工)L∫). ⊂> CX). のp,I.l. 円 ⊂〉 卜一. CO ▼..■. 田 I...一 卜ー CO I.-l. ●''室.≡-勇--.-?.賢.5'一己●■書. N(∫) ゃoo l..■∝) L(). 仁一. ●-.萱'--n室h妻>..巴.a.._. ⊂⊃cy?. L(). (:0. CY7. 専. .TT.S.'〇.tm.S. 田. LnN 亡ーて.D. r<. I...■. (.工). I..■. EEL. (X)A. E】. 田. 宗栗 国 6i■ヨ 守. ●.'一室-3h'.A..正妻萱誓E-. Ln Ln CO I...一. l司 卜-. E5]. I..∼.1Ln'l. ▼-一. 田. (.Dt→ー の⊂) 寸.. 聖●.'h---'h'''室.∋ー'-;..萱≡E:. ll一mr. CD. 国 CO. l≡ョ 卜ー tD^ CT). E】 寸L一つ (.D▼寸. >''慧●-..a;.■●●--●.-s. 田. CY?. I..一. CX) 亡ヽLO 卜I. B]. 雇. (忙騒富棚L). (廿OL6L-卜L8L)巳Yrly凶君Q)舌疑心盲仙Y蝶〓J八](4〓-P伽せOL6L. 田. I..■. ロT). 一票諾 ⊂⊃M. ■■.. _'-買- 呂.a.;;≡■ー'.壁. E). (コー ey7. 旺】. I..■. 田. I(). l司 Cq_. ヒ∠. 斗(. 宝 +i. ▼..■. こ= ・L. 'て. a-''''''晃一..E3-. 掛 9僻. rー1CO ●. EZl. -■■■■■■■ll■l■■■■■■■■i■■巳■. I..■ (:0. e(. (.D. 閲 l歪】EB. くエ)Ln. ◆■. (′. 山. .LD-. 一-. (′. E】. .・i、∵.I.,,.;.:l・7. ,,. l]・. 2]D]SJ2uZQHfvs・zT6T3]Sa{]S‥轍FP. 宝. 蛍出E3'. 軸 '1.・. SJd8. qJ 'てコ. aputatu39 I.-ー. ーluuuuuulJuu. rlll. lヨ. 1嬉. Liiil ill. Ⅱこ 団■■■■■■l■■■■■■■■■llllllllll■l■■■■■■ヨ. 育..一石.≡-I--. ▼寸. qJ. +≡ Q). 缶. U. u E:I. せ. 誓書触重責、喜鮎表搬 t■⊂) I.......■. ○. 東. ド 'b. 繋実'S 室巨.-=.-=.堅s=.s=.s=.要望書….≡.…一….E. .i-.■一一一一.一......._一一一. 也. \-. bβ Fj. En 一ーーc). 岬. ,i. +」 【′). ⊂)○○. lS1. ,工∃,エ∃Jj一口. ...-JJ. ESZZl 橿† 睡1r, <恥 贋嘩 堤. ;'ト. tt]Lt]tt]. T'ト. a). O. ⊂⊃. ▼1}. のの. ヾ二. I-1,.当bの. Fd■言責. 舵 昏.

(17) 31. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. 人であったのが,. 1855年に535人,. 1861年に1,305人と19世紀中葉の急増がはっきりと認められ. る。この地区は1888年のケルン編入まで,メヴイッセンの設立した大企業の発展に決定的な影響を 受けたといわれる47)0 同様のことはニッペスについても指摘できる。この地区の人口は1855年にわずか496人で,農業 従事者とケルンに職場をもつ日雇労働者などがおもな住民であった。と′、ころが, となった人口は,. 1861年に1,424人. 1871年までに4,621人-と急増している。その決定的な契機となったのが,. 1862. 年のライン鉄道会社による大規模な中央車柄整備工場の設置であった。この工場の従業員は1877 年までに500人を上回り,ニッペス地区の住民のかなりの割合が,この工場の従業員とその家族で. 占められたのである48)0 以上のような事実連関は幾つかみられるものの,郊外における工場の進出と住民数の増加の直接 的な因果関係を計量的に正確に把握することは困難である。. 19世紀中葉までは,郊外の工場で働く. 労働者の多くが市壁内から通勤していたからである。先述のように,市壁内の過密化が進み,手ご ろな家賃の小規模住宅か不足するようになると,.彼らは次第に郊外の新興地区に移り住むようにな った。このような郊外における労働者の居住には,上記の「ケルン機械製造株式会社」のほかツイ -パンとシヤ1)エルの車柄製造会社カミ50年代に建設を始めた企業住宅も一役買ったが,労働者家族 に適した小規模住宅はケルンではつねに不足気味であったといわれる49)。. ぁわりに 要塞都市ケルンには,大規模な軍隊がつねに駐屯することになった。駐屯軍の兵力は,大′トの変 動をともないながらも19世紀を通じて増加する傾向にあった。 3,855人であったが,. 1822年にケルンの現役軍人数は. 1885年にその数は5,754人に達し'た50)。すなわち,大規模な軍隊の駐屯はケ. ルンの人口にプラスとなったのである。しかしながら,中世以来の市壁と新たに拡張された壁塁施 設による軍事的な制約は,市壁内の過密化を招き,人口増加には決定的にマイナスに働いた。現在. に至るまで都市化の歴史研究では,都市化を促進する人口増加の要因に議論を集中させる一方で, 軍事的規制などの抑止的要因についての考察は軽視されてきたといえる。個別の都市について都市 化過程の特徴を理解するうえで,また比較史的な考察を進めるうえで,このような抑止的要因につ いての検討も不可欠といえよう。 また, 1881年に始まった領域的な拡張過程にも,ケルンの軍事的な特殊事情が強く反映されるこ. とになった。ケルンの領域拡張は, れた。そして,. 1881年の市壁の開放と市壁外での建築規制の解除により開始さ. 1883年のゲマインデ合併は隣接ゲマインデに食い込んでいた「射程区域」までの,. 続く1888年の大規模なゲマインデ合併は,. 1872年以降,郊外に移動した独立壁塞のラインまでの. 市城の拡大をめざしたものであった。また,本論中では触れなかったが,. 1906年には1872年以降. に新たに建設された壁塁施設の市への売却が決定し,その外側の建築規制もこの時に全廃された。 同様の措置はドイツ側でもとられ,これにより市城内の全域で建物の建設が可能となった51)。いず れにせよ,こうした拡張過程は市壁に象徴された中世都市の面影を完全に消し去るとともに,都市 ケルンの景観と空間構造を激変させることになったのである。. そして,こうした領域拡張はケルンの人口増加にも多大な影響を及ぼすことになった。 18851914年の人口増加のおよそ58%が,. 3回のゲマインデ合併による新たな市域の獲得を直接的な要因. とするものであった。さらに1881年の市壁の撤去とともに開発の始まった新市街の人口増加には凄.

(18) 32. 棚橋. 信明. まじいものがあり,人口10万を上回る「大都市52)」がわずか20年の間に新たに出現した。また市. 域に段階的に編入されていった郊外の人口増加率も19世紀中葉以降,旧市街のそれを大きく上回り 続けた。確かにケルンでは,都市化の時期区分によノる③の時期に突然,r人口増加の勢いが増してい るが,これにはゲマインデ合併による人口の編入と新市街と郊外における急激な人口増加が圧倒的 な貢献をしたのである。このようなケルンの事例に示されるように,帝制期に各都市で実施された 領域拡張の過程は,都市の人口増加のあり方に大きな将徴を付与したはずである。ところが,都市 化の人口史的な進展の比較を問題にするような従来の研究においても㌔,領域拡張と人口増加の関係 に十分な注意が払われることはなかったのである。. 最後に注目すべきは,郊外における工業化がすでに40年代に都市ケルンの経済的発展の一部とし て始まっており,工業化と郊外の人口増加の同時的な進展がみられた事実である。そもそもケルン がライン河の水運と鉄道輸送の要衝であり,様々な工業製品やその原材料の巨大な集積地であった. ことが,郊外の工業化にも有利に働いていた。合成染料の製造を始めたホスペルトのように,郊外 で工場を設立する企業家がもともと工場で製造される製品や原材料を取り扱う帝人であったことも 珍しくなかった。また,金融市場としての,そして巨大な購買力をもった消費市場としてのケルン の強力な求心力が,遠方からも企業家を引き寄せ,郊外の工業化を促進したことも指摘されよう。 こうして都市ケルンと郊外は, 40年代以降,次第に一つの「経済圏」を形成し,人口の推移につ いても強力な相互連関をもつようになっていったと考えられる。したがって,. 1888年以降に進めら. れたゲマインデ合併による市域の拡大は,こうした既存の「経済圏」に行政上の市域を適合させる ための措置であったとみなすこともできる。そして,このような「経済圏」を単位としてみた場合, すなわち1914年の市域でみた場合,確かにルール地方のエッセンやデュースブルクでみられた ような飛躍的な人口増加はなかったものの,. 40年代の工業化の始動期から人口増加の勢いが継続的. に増大していることを見て取ることができるのである。. ただし,大都市の郊外-の経済的拡張といった観点のみから,近代都市の領域拡張を理解するこ とには大きな問題が残ると思われる。また本稿では,都市ケルンの領域拡張の過程を土地利用のう えでの「余裕」の獲得過程としておもに措くことになったが,も′ちろんゲマインデ合併の目的はこ れだけに限られなかった。編入されるゲマインデとの間に締結された合併協定においては,街路, 市街鉄道,上ーF水道などの公共施設の整備がケルン市に義務づけられることになった。すなわち, こうしたインフラ整備を単独で進めることが困難であった郊外のゲマインデにとっては,ケルンへ の編入は地域の発展のための重要な突破口として期待されたのである。それでも,実際のゲマイン. デ合併では関係ゲマインデのさまざまな思わくが複雑に絡みあい,合併交渉が難航することもしば しばであった㍊)。. これまで,こうしたゲマインデ合併の広い意味での都市化における意義について本格的に取り組 んだ研究はドイツ本国においても皆無といってよい。個別的な事例に基づく研究の広範な展開が待 たれるが,本稿で取り上げた都市ケルンの合併過程についても,多角的な観点からのさらに踏み込、 んだ考察が今後の研究課題といえよう54)0. 〔註〕 1)中世都市ケルンが自由帝国都市-と上昇する過程に関しては,林毅『ドイツ中世都市と都市法』 1980年) 102-167頁;同『ドイツ中世自治都市の諸問題』. (創文社,. (敬文堂, 1997年) 87-121頁を参照。後者では築.

(19) 33. 近代都市ケルンの領域拡張と人口増加. 城権を含む軍事高権の獲得に関する問題も扱われている。なお,ケルンの自由帝国都市としての正式な承認 は1475年に至り皇帝フリードリヒ3世により与えられた。 Edith. 2)中世における都市ケルンの拡張過程に関しては, mittelalter, in: Zu)ei Jahrtausende Rbllner. mrtschaP,. (Hrsg.),Chronik. Bd.. Ennen,. 1,㌔hrsg.. K61ner Hermann. von. Kb.ln, 3., iiberarbeitete. Wirtschaft. im. Fr由- und. Kellenbenzn(lara. Hoch-. Eyll, K61n. van. und aktualisierte Aunage,. Giitersloh/Milnchen. 1997,S.73を参照。なお,ケルンと並ぶ広さをもったパリの市壁内の面積は14世紀半ば以降,. 392haであっ. S. 123;. 1975,. Carl Dietmar. た。また,ドイツ南部の帝国都市ニュルンベルクの面積は1384年以降に161ha,同じくアウクスブルクの面 積も1339年以降に168haであり,ケルンの半分以下であった。勝田豊之・木村尚三郎「大陸の都市と農村」 『岩波講座世界歴史』第10巻(岩波書店, (晃洋書房, 1995年) 114-115頁。. 誌-』 Ennen,. 3). 1970年) 367頁;谷口健治『ハノーファー-----近世都市の文化. a.. 0., S. 123;. a.. Hermann. Jahrhundert, in: ZweiJahrtaぬende. Kellenbenz,. Rblner. Wirtschaftsgeschichte. Bd. Wiyischaft,. hrsg.. Erich Keyser,. Yon. (DeutschesStddtebuch:. Stddtebuch. Rheinisches. Stuttgart 1956,. S. 131,. und. 17.. beginnenden. 1, S. 327.. (講談社学術文庫, 1994年). 4)席田豊之『ヨーロッパ封建都市---中世自由都市の成立と発展-』 5),. 16.. Kらlns im. Geschichte, Bd.. Handbuch. siadtischer. 204頁。. 3-3) (以下RhStBと略記). ,. 157.帝国都市ア-ヘンの人口は1600年ごろ20,000-25,000人,. アウクスブルクも最盛期の15世紀半ばに人口18,000人,ニュルンベルクも同じころ人口20,000人纏度であ った。 Hans. 6). Pohl, Wirtschaftsgeschichte. Bd. Wl'YtSChaft,. 2, hrsg. Yon. ついては諸説あり,. Hermann. im 18. und. K61ns. Ke11enbenz侶1ara. beginnenden. 19.. Eyll, K61n. van. Jahrhundert, in: Zu)ei Jahytausbnde Kbllner. 1975,. S. 23. 1800年ごろのケルンの人口に. 40,000-44,000人の幅がある。なお,ア-ヘンの人口も1600年ごろからまったく増加が. みられなかったが,他方で中小都市のなかには近世にも比較的順調に人口を増加させるものがあった。,た とえば,デュッセルドルフの人口は1703年に8β78人であったのが1801年には19,532人に,デュースブ 106,. ルクの人口は1714年に2,983人であったのが1800年には4,000人を超えるまでになった。. _RhStB,S.33,. 109,131.. 7)現在のドイツ連邦共和国でも,地方自治行政の最小単位であるゲマインデ(Gemeinde)は郡所属のものと 「郡独立都制に分けられ,後者は「特別市」と訳されることが多い。. 郡と同列の_. 8)ドイツ本国においては,人口史的な意味での「都市化」. ,すなわち「量的過程」についてはVerst畠dterung を,他方で都市的生活様式(urbanitat)の拡大といった「質的な過程」についてはUrbanisierungを用いる傾 向にある。. 「都市化Jの概念に関しては,. 269-271;. ders., Geschichte. der U71banisierung. in Deutschland,. Die deutsche Stadt im 19, und 20. Jahyhunderi: Eine Historische. Aspekte. der Urbanisierung:. und 20. Jahrhundeyi: Hl'storische und. GeognPhische. Aubin/Wolfgang. Zorn. Bedingungen. Deutschlands,. (Hrsg.). ,. Handbuch. und Probleme,. 1989,. in:. Folgen. S. 68-69;. Wolfgang. Hans. der S.. 1977,. R. Erabbe,. Jurgen Teuteberg,. ders: (Hrsg.),Urbanisierung. im 19.. AsPekte, K¢lI岬ien1983, S. 31-32;馬場哲「ドイツにおける. K611mann,. G6ttingen. und. Jg. 4, I)enkmalj!Pege,. 1985, S. 10111;. 『経済学論集』第62巻第3号(1996年),. Wolfgang. 9)ケル′マンの研究としては,. Frankfurt/M.. Einflerung, G6ttingen. Forschungsstand. 近代都市史・都市化史研究について」. Bevb'lkerungsgeschichte. Sozio-6konomische. in: Zeitschnftf2ir Stad&eschichte, Stadtso2iologie und. in Deutschland,. verstadterung. Jurgen Reulecke,. 1974;. der deutschen. Bevb'lkerung. in der. 64頁を参照。. industriellen Revolution:. ders., Bev61kerungsgeschichte. 1800-1970,. Bd. Wirtschafts-und Sozia&eschichte,. Studien. zur. in: Hermann. 2, Stuttgart. 1976が. 代表的なものとしてあげられる。 都市化の決定的な要因として工業化を重視するテーゼは,おもにプロイセンとザクセンに関する研究に基. づいて得られたものであった。そこには統計資料の条件が大きく影響しfいた。とくに 農村の人口推移に関して包括的な観察を可能とするような統計資料は,両地域についてのみ刊行資料として.

(20) 34. 棚橋. 信明. の利用が可能であったからである。その結果,これらの地域の都市化に関する「特殊性」が過度に強調され,. Konfessionsgliederung tyladitionalen guy. in: Lothar. Haushaltsanteile,. und. Gall. GesellschaP (StadtundBii7gertum,. modernen. Roth,. Ralf. 一般化されるに至ったといえる。このような問題に関しては,. (Hrsg.),Stadt Bd.. 4). ,. im. Bungertum. und. Milnchen. Bev61kerungsentwicklung,. 1993, S.. th'erga曙VOn der. 21-22を参照。このよう. な事情を踏まえ,農村部の人口過剰,第3次産業に属する商業・金融・行政・文化・教育などの中心地的機. 能の都市-の集中,鉄道に代表される交通網や情報伝達手段の発達といった他の諸要因も,工業化と対等な 独立的要因として再検討する必要も指摘されている。たとえば, Bev61kerungsentwicklung. in Mitteleuropa. im 19. Jah71hundert,Linz 1983, Horst. 10). Matzerath,. (Hrsg. ) ,. Stddtewachstum. in. PreuPen. 1815-1914,. im VerstadterungsprozeL3: und. innerstadtische. Stuttgart. und20.Jahrhundert,. im 19. Jahrhundert, in: Wilhelm. Raush. Grundstrukturen. (Hrsg.) Die ,. st豆dtischer. Stddte Mitteleuropas. S. 38-41.. U71banisierung. Regionale Unterschiede. HorstMatzerath,. 1985, S. 9111.またders.,. StuttgarVBerli〟K61n/Mainz. Der Osten. und Westen. Struktuyve71dndbrungen:. PreuI3ens. im 19. Jahrhundert, in: ders.. Pr10bleme des UylbanisimLngSPro2eSSeS im. 19.. 1984もこのような時期区分に従って,プロイセンの人口史的な都市化の進展に. 関して東部と西部の地域的比較史研究を試みるものである。 ll). DieEntu)icklungderkreisfreienStadte,. 1816-1910年のライン川各都市の人口推移については, des Landes. Gemeinden. und. Nordrhein-Westfalenyon. Westfalen,Heft 57), hrsg.. vom des. Landes. Statistischen. statistischen. vom. Landesamt. Nordrhein-Westfalen,. Volkszahlu曙1961,. Nordrhein-Westfalen,. Landesamt. Heft. Statistik des Landes 1956;. Dusseldorf. (Beity7ageZur. 1816」871. Noydrhein-Westfalen:Bevb'lke7uYqSentu'icklung. Nwdrhein-Westfalen, Sonderreihe. (Beitrdge2ur. 1871 」950. Nwdrhein-. Gemeindestatistik. Statistik. des. 3d) (以下Gemeindestatistik 1816」871と略記). Dilsseldorf. des Verbandes. Landes ,. hrsg.. 1966を参照o Landsberg,. 12)ドイツの主要都市におけるゲマインデ合併の過程と面積の拡大に関しては,おもにOtto Eilyemeindu・ngsfrtqen(SchnPen. Landkreise. deutscher Stadtestatistiker, H.. 1912,. 2), Breslau. S. 94-. lO8を参照。. ケルンを上回る高倍率を示したの・は, 1875年と1903年の2回の合併により192haから6,594haへ34.3倍に も拡大したミュンスターであった。. Eingemeindungsprobleme 7・ 1980;. Jg・. (Hrsg.),Die. Horst. vor. Matzerath・. deutsche. Stadt im. dem. Ersten. Weltkrieg:. St畠dtewachstum. und. Motive,. Widerstande. Eingemeindun写en. Industriezeitalter: Beitrt*e. zur. und Verfahrensweise, im. modernen. 19・. R.. Wolfgang. なお,ドイツで実施されたゲマインデ合併の概要に関しては上記の文献のほか,. 1むabbe,. in: Die alte Stadt,. Jahrhundert, in: Jurgen Reulecke. Stadigeschichte,. 2. Auflage,. Wuppertal. 『経済学論集』. 1980を参照。我が国では,馬場哲「ドイツにおける自治体合併政策の展開(187ト1930年)」. 第70巻舞3号(2004年)が,ゲマインデ合併を促進した諸要因を整理しながら,主要都市の市域面積の拡 大過程を扱っている。. 13). 人口史的な都市化に関する包括的な比較史研究を展開するマッツエラートの研究(Matzeratb,. uylbanisieyu7q)には, 1875-1905年における主要都市のゲマインデ合併による人口増加率を自然増加率及び 社会増加率と対比する表が掲載される(Ebenda,S.308)が,本文中で踏み込んだ考察は行われていない。我 (ミネルヴァ書房, 2001年)に,人. が国では,桜井健吾『近代ドイツの人口と経済-1800-1914年--』. 口史的な都市化に関する考察が含まれるが,ゲマインデ合併の問題に関する言及はない。 14)市壁の撤去は,都市単位での防衛が意味を失っていった領邦都市では18世紀の後半からみられた。ゲッテ ィンゲンの1762年,ライブツイヒの1776年,ハノーファーの1780年が比較的早い事例である。谷口,前掲 書, 15). 185-186,. Klara. van. 188-189頁など参照。 Eyll, Wirtschaftsgeschichte. Jah71ausende Kbllner mrtschaP, Bd. t(on 1400. bis. zur. GegenuJart, K61n. K61ns. vom. 2, S. 170; Peter. 1991, S. 1 19, 125;. Beginn der preuL3ischen Fuchs. (Hrsg.),Chy10nik. Karlbernhard. Zeit bis zur. zur. Reichsgrundung,. Geschichte. der Stadt戯In,. in:Zwei Bd. 2:. Jasper, Der UrbanisierungsPy10Zejiddy:gestelltam.

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19 世紀前半に進んだウクライナの民族アイデン ティティの形成過程を、 1830 年代から 1840

世紀転換期フランスの史学論争(‑‑)

明治 20 年代後半頃から日本商人と諸外国との直貿易が増え始め、大正期に入ると、そ れが商館貿易を上回るようになった (注