士左日記﹁船のをさしける翁﹂
について
1前国守(船君)像の確定へ
﹃士左目記﹄の一月十八日条に﹁ふねのをさしけるおきな﹂とし て禽する人物は何きあろうか。通雫は、作中で﹁さきの守﹂ あるいは﹁船淋﹂と称されている人物と同一人物と考えられている ようであるが、多く四裟はそれにとどまらず、作老と作中人物を 同一視して、﹁貫之をさす﹂といった説明を加えている。しかし、 日^^が^といぇども^に^^^U^^に関しては、・^^^^^ある 作者と作中人物との混同は許されないであろう。では、貫之税は 引っ込めて、﹁ふねのをさしけるおきな﹂イコール前県(船君) と考えておけばいいかといぇぱ、これも大いに剖題があるように慰 うのである。 十二打二十一日に門出した一行は、二十七日に大津から浦戸へ、 二十八日には士佐国の海の玄関口とも吾、つべき大湊に至、つた。大湊 で年を越した一行は一河九日、見送りの人々と最後の別れを遂げて 奈半の泊に向かい、十一日には虫京に述した。室戸娜越えを目前に、 この港で日和待ちをしていた一行は、ようやく十七日に出航する 、、、、 が、﹁煕き雲にはかにいできぬ。み船かへしてむ﹂という悩取たち 十八日。なほ同じところにあり。海あらければ船いださず。こ のとまり述くみれども近くみれどもいとおもしろし。かかれど も苦しけれぱ何ごともおもほへず。男どちは心やりにやあら む、からうたなどいふべし。船もいださでいたづらなれば、あ る人のよめる いそふりのよするいそにはとしつきもいつともわかぬ雪のみ ぞふる こ暴はつねにせぬ人のことなり。また人のよめる 風にょる波のいそにはうぐひすも赤もえしらぬ花のみぞ咲く この竺もをすこしよろしと剛きて、ふね(の)をさしけるお きな、つきひごろの苦しき、心やりにょめる茂
の判断にょって引き返すこととなった。﹁いとわびし﹂という言畢 でこの日の日記は閉じられている。こうして一乃十八Πを迎えるの であるが、まずは同日条の■里部を引用しておきたい。引用墜僻 書屋本に拠ったか、一緋の便を考慮して、群{、句、妾を寸し、お どり字を起こし、和歌は別行とした。また、仮名表記の一都を一撃 零ルに改めた。実
巳 /f原
-31-・たつ波を雪か花かとふく里よせっつ人をはかるべらなる このあと、ある人が三十七文字の歌を詠んだというエピソードが紕 くが、名略する。なお、*必書屋本では製の箇所は﹁ふねをさし けるおきな﹂であり、その親本である為家本にもそうあるようだが (注1)、その他の輩王院本系統の伝本には全て﹁舟のをさ﹂ある いは﹁ふねのをさ﹂とあるので、﹁の﹂字を杣った。伝為相本には﹁ふ ねのさほさしけるおきな﹂とあるが、﹁ふねのをさ﹂倫義か見失 われた結果、﹁舟の棹さしける翁﹂の意に介理化されて生じた本文 であろう。 さて、このΠの﹁張にょれば、挑所の手前でΠ俳み需三血ける 一行の中には、気暗らしに漢詩を朗詞したり和歌を訂んたりする 人々がいたのであるが、女性である﹁作者﹂は、漢詩については﹁い ふべし﹂と無関心を装う一方で、三人の和歌を記録にとどめた、と いう話になっている。なお本稿では、この日記を執笵したとされて いる女性を括弧付きで﹁作者﹂と呼称し、真の祚者である紀買之と 区別する。 ﹁いそふりの:,・,・﹂の一首は山波を季節とかかわりのない雪と詠 み(注2)、﹁風にょる・・・・・・﹂の一首は白波を赤とは力かわりのない 花と詠んでいる。﹁船のをさしける翁﹂はこの二首を﹁すこしよろし﹂ (ま忠くはない)と判断し、立つ波を人が﹁張﹂あるいは﹁花か﹂ と見るのは、吹く風が人を欺いているからであろうと推測する一首 をものした。なお、萩谷朴氏の﹃士佐日記全裟一(注3)などは、 これを問答歌合の判歌と説明しているが、先行する二首の優劣を判 定する内{谷ではないから、ここに問答歌合を和茶するのはいささか 無理があろう。 それにしても、﹁船のをさしける翁﹂は、二人の歌について﹁す こしよろし﹂と判断を下し、さらにその二首を止揚するかのような 内容の歌を詠んでいるのであって、和歌の道に通じた人物として造 形されているようだ。ところが作中﹁さきの守﹂﹁船君﹂と称され ている人物は、二河七日の条に﹁船君の﹂菊者、もとよりこちごちし き人にて、か、つやうのこと(和歌のこと1徳原注)、さらに知らざ りけり。かかれども(中略)からくして、あやしき歌ひねりいだせ り﹂とあって、和歌が不§署人物とされてぃる。二月一日の条に も、﹁船港﹂の和歌が﹁なぞ、ただごとなる﹂と酷評され、﹁船君の からくひねりいだして、よしと思へることを、ゑじもこそしたべ﹂ 隆口をたたかれている。このような﹁さきの{寸﹂﹁欝﹂と、 和 歌に堪能な﹁船のをさしける翁﹂が、諸注の言うように同一人物で あるとするならば、それは人物造形の破綻としか評しようかない。 このような従来の觧釈に問題はないのであろうか。 そもそも﹁船のをさしける趣という表現自休に注苔すべきでは なかったか。これは﹁船のをさ﹂という役目を﹁しける翁﹂の意と 統み取れる。もし﹁船のをさ﹂が﹁船沼﹂と同一人物をさしている のであれば、﹁船のをさなる翁﹂と表現されよう。現に﹁船君﹂こ ι 関しては、単に﹁船君﹂と称されるほかには、﹁船烈なる人﹂(一月 二十一 H条)、﹁船君四響﹂(二月七日条)などとあるが、﹁船君し ける00﹂といった表現はない。それも当然で、﹁船淋﹂というの は船の雇い、王であり、最も格上の船,客であるから、彼は﹁船君﹂を している人物なのではなくて、﹁船君﹂である人物なのだ。 では、﹁翁﹂の役目であるところの﹁船のをさ﹂とは何であろうか。
﹁をさ﹂がある染団の長をさすという語綻から推測するに、船の乘 客乘員集団の中にあって、船の安全器の目器貰任者であり、現代 に当てはめるならぱ、大型船の船長に相当する役割なのではないだ ろうか。その職掌としては、船中における杣亊を王宰することなど 至ごえられよう。航海術や日和見に関しては愉取の担当であり、 航 海にあたって暢取翌見は重要視されなけれぱならないが、当時の 寺議としては、祁仏の架叺こそが、街取の技術や経験にも匹敵する、 あるいはそれ以上に重要な要素ではなかったかと思うのである。実 く一、、 沌瓣使船や遣潮海使船には神職が乗り込んでいたらしいことが ψd ﹃延喜式﹂(大蔵省)にょって知られる(注4)。また、作品の成立
年代は降るが、﹃北野天忽起松望(承久木)の、謬からの袷
の画面において、船首に端座している浄衣の人物は、出航にあたっ て袖亊を執り行い、航淘の安全を祈願している﹁舟のをさ﹂(需) の姿を揣いたものではないだろうか(柱5)。 たてる﹂命石波文庫)と解する注はまれである。しかし本文が﹁た いらかにと願たつ﹂ならぱともかく、﹁たいらかに願たつ﹂なので あるから、﹁たいらかに﹂は﹁願たつ﹂を修飾すると解するのが自 然であることは言うまでもなかろう。この場面に袖耶を司る﹁船の をさ﹂の存在を相堂疋するならぱ、﹁船のをさ﹂の、圭のもと、一同 心靜かに袖に願を立てるという愽昂が浮かび上がってくる。{夫際、 乗客乗員がてんでに願を立てるよりも、航路平安のあかつきには前 国守(曾)から数々の神宝を泰納するむね﹁船のをさ﹂がおごそ かに神に告げ、それにあわせて一同が祈りをささげる力が、一層ご 県もあろうというものだろう。文面に﹁船のをさ﹂の姿轟かれ ていないのは、この場面ではその存在があまりにもあたりまえで あったからではなかろうか。なお、一河二十一日条に、﹁おぼろげ の願にょりてにやあらむ、よき日いできてこぎゆく﹂とあるのは、 十二月二十二日条の立願の記述に対応するもので、それが並々なら ぬ立願であったことを裏付けている。 十二打二十二日条に関連して、翌々日の二十四日条に﹁需むま のはなむけしにいでませり﹂とあるの荏目される。﹁講師﹂が国 分寺の住職であること些裂の示す通りだが、彼は前国{寸たちとの 別れの{共けを目的として出向いて来たのであろうか。国内の僧呂 を代表する診にある誰師が、前国守のためになすべきことは、航 海安全を祈る仏耶にほかなるまい。もちろん、そのあとの飲食をも 含めて﹁むまのはなむけ﹂と称しているのであろうが、送別の纂は 仏班覇進落しをも兼ねていたのではないか。仏亭こそがこの日の メインイベントであり、それは二十二日の袖亊(﹁願たつ﹂)と共に、 航海安全のために出航に先立ってなされねぱならぬ重要な宗数g 止郡において、航海安全の責任者として祁妥寸を司る﹁船のをさ﹂ の存在を推定したのであるが、以下、﹃士左日記一の中にその姿を 追尋してみたいと思う。 十二打二十二日条に﹁廿二日に、和泉国までと、たひらかに願た つ﹂とあるのに注目してみたい。ここはス何とぞせめて)和泉国 まではと、無亊平雫あるように、(袖仏へ)願をかける﹂(﹃全注 釈﹄)、﹁さしあたり和泉の国ま益李あるようにと願を立てた﹂ ^^〆^^^一剛^集^などと^するの^通例で、^、^^かに袖仏に頼を 二-33-であったろう。ちなみに、﹃士左H記﹄の中で人々の泥酔のさまが 揣かれるのは十二月二十二日条と同二十四日条のみなのであるが、 それらが送別の{晏を兼ねた粘進落しであると考えるならぱ、これら 染団的な泥酔には信仰とのかかわりを托摘することができるのでは ないだろ、つか。 ところで、この十二月二十四Π条において﹁いでませり﹂という 丁重な敬語が用いられているのは、向分たちにとって大切な仏事の ためにわざわざ出向いてくれた講卸に対する、﹁作者﹂の響おあ らわれとして読み取れぱいいだろう。一方、一月二日に誥師力ら酒 希が則られた際には、﹁剤師、物酒おこせたり﹂と、繁叩が使用さ れていない。吊けられた酒府を前に大↓一昂の男性たちとは災'り、 ^には^一関、^な^^^^^^の^めた^^七^詣、?、^き^あろう^^、^ 6)。なお、一傑原呆則云﹄(延レ邑七圷江暫袖h)にょオぱ保則 は備前同での任期を終えて海路保京する際、癖中に怪異力発小Lた ため、国^刀^寸の偕侶を招珊して^4^、^峡社を^醗訥^しめたとある^井 フ^。^路昂﹂、示する前国守か、^出に^立って仏耶を^してぃる^小 例として参老になろう。 さて、﹃士左品﹄作中における袖1してきわめて興眛深いの は、二月五日条の後半にあたる次の一節である。船は住吉の沖合を 航行中である。 てまつりたまへと言ふ。行ふにしたがひてぬさたいまつる。か くたいまつれれども、もはら風やまで、いやふきにいや立ちに、 かぜなみのあやふけれぱ、愉取またいはく、ぬさにはみこころ のいかねぱ、み船のゆかぬなり、なほうれしとおもひたぶべき 物たいまつりたべと言ふ。また言ふにしたがひて、いかかはせ むとて、まなこもこそ二つぁれ、ただひとつぁる鏡をたいまつ るとて、海に、つちはめつればくちをし。されぱうちつけに、 海 は鏡のおもてのごとなりぬれぱ、ある人のよめるうた ちはやぶる袖の心をあるる海に鏡をいれてかつみつるかな いたく、住の江、わすれ草、岸の姫松などいふ杣にはあらずか し。月も、つつらうつら、鏡に袖のこころをこそは見つれ。悩取 のこころは神のみこころなりけり。 かく言ひてながめつっ来るあひだに、ゆくりなくかぜふきて、 こげどもこげどもしりへしぞきにしぞきて、ほとほとしくうち はめつべし。楊取のいはく、この住吉の明神はれいの御ぞかし、 ほしき物ぞおはすらむ、とはいまめくものか。さて、ぬさをた この場面で活躍しているのは柑取であるが、柱意すべきは、樹取は 助:註ル又に散しているのであって、・灸際に幣を本ったり錚を海に牧 入してはいないということである。﹁ぬさたいまつる﹂﹁(鏡を) 油 にうちはめ﹂の釜艸は示されていないが、いずれも神亊であるから、 しかるべき作法に則ってなされなけれぱならないだろう。鏡は前国 守(船君)から捉供された品であるかもしれないか、﹁まなこもこ そ二っあれ、ただひとつぁる鏡をたいまつる﹂と、おごそかに祁に 告げて、うやうやしく鏡を海中に投じるのは、袖東を司る﹁船のを さしける翁﹂にふさわしい行為である。翁の存在が明記されていな いのは、十二円二十二日条の﹁たひらか倫たつ﹂の場合と同様、 それは自明のことがらであったからではなかろうか。 ところで、﹁(鏡を)海にうちはめつればくちをし﹂とは、﹁作者﹂
か女性であることを強調するL谷のように読み取れる。鏡は貴重品 であるから、それを惜Lむル尋は男性にもあってψ星だが、向分の 持ち物でもない鏡兵失を﹁くちをL﹂とまで言うのが女性﹁作者﹂ ならではの心俣と、貫之は考えたのではなかったか。なお、この場 面で﹁作者﹂は、住吉明袖に対して、ずいぶん剖当たりな文言を迎 ねている。住吉の神は河初であるから令繊使船には住吉の杣が祭 られていたことが﹃入唐求法巡礼行記﹄に見える)、その逆鱗に触 れるような文岩Πは、航海の安金に責任のある男たちにとつてはタ ブーであろうが、この女性﹁作名﹂は、そんなことにはお構いなし で、﹁住の江、わすれ卓、岸の姫松﹂といった仟吉の和歌的イメー ジか傷つけられたことに、ひたすら釜土している。そういう人物と して女性﹁作者﹂は造形されているということなのである。 なおこのエピソードは、いわゆる歌徳導卿のパロディーとしても 紗むことができよう。この場に紀貫之のような火歌人鳶合わせれ ぱ当然のことなガら^人は仔古明杣に和歌を^つて、神の怒りを 封めることができたにちかいない。しかし残<*がら作小には、大 歌人は存在しないことになっているのである。 次に一月二十六Πの条を見よ、つ。船は室戸岬沖を通過し、阿波国 ^Υ^山^を、^ψ^^抄^、^^,^^、2^^^^る。 廿六日、まことにやあらむ、海賊おふといへぱ夜なかばかりよ り船をいだしてこぎくるみちに、手向けするところあり。街取 してぬさたいまつらするに、ぬさのひむかしへ散れぱ、暢取の まうしてたてまつることは、このぬさの散るかたに御船すみや かにこがしめたまへ、とまうしてたてまつる。(中略)このあ ひだに風のよけれぱ愉取いたくほこりて、船に帆あげなどよろ こぶ。その草ききてわらはもおむなも、いつしかとしおもへ ばにやあらむ、いたくよろこぶ。(以下略) ここで"曾すべきは、樹取に幣を漆らせていること、また袖への口 上も愉取が小し述べていることである。﹁船のをさ﹂がなすべき袖 小を悩取に全て任せているのは、﹁手向けするところ﹂は山轟の上 のような足場の悪い場所甑座しており、﹁船のをさ﹂をしている ﹁翁﹂がそこまでたどりつくのは至勢業であるため、やむなく楊 取に任せたといった躯一が推湘されよう。楊取の口上の中の﹁すみ やかに﹂﹁しめ﹂が、いわゆる訓畷叩であることが指摘されているが、 それは彼がこれまでに﹁船のをさ﹂や杣官たちの唱え言から朋き知っ た荘雲叩、ということになっているのであろう。﹁風のよけれぱ楊 取いたくほこりて﹂とは、神事を司る役でもない樹取の祈願が、神 の怒りを買うこともなく、逆に神の嘉納するところとなったのに楊 取は等τ、誇っている立乢み取れるのではないか。号取が御゛に たずさわるのは作小この場而のみであり、その理由としては右のよ う六'殊六'恬を勘案すべきであって、神小にたずさわる﹁船のを さ﹂の存在が否定されるわけではない。 それにしても﹃士左Π記﹄において、船中の序列では樹取の上位 にあるはずの﹁船のを三の影が薄いことは否めない。その﹁船の をさ﹂の許動か描かれる唯一の場而が、最初にあげた一村十八日条 の一節なのであるが、ここには﹁船のをさしける翁﹂の一高を陛 取ることも可能であるように思、つ。改めてその一部を引用しよう。
-35-この歌どもをすこしよろしとききて、船のをさしける翁、つき ひごろの苦しきこころやりにょめる たつ波J釜か花かとふく風ぞよせつつ人をはかるべらなる 波を雪にたとえた歌と、波を花にたとえた歌とを耳にし、それらを 悪くはないと判凶した﹁翁﹂は、先打来の心の愛さぱらしに胸らも 和歌を野。﹁つきひごろの苦しきこころやり﹂とは、航海,至の 責任者として日々緊張を強いられている﹁船のをさ﹂にこそ、"に ふさわしい心情とは言えまいか。その歌は、吹き寄せる風が人を欺 くという内容であるか、気まぐれな風にはかられて誤った判断をU にしてしまい、惜取にたしなめられるといった屈嵯yτ﹁船のをさ﹂ が繰り返し味わっていたとするならぱ、﹁ふく風ぞよせつつ人をは
かるべらなる﹂という歌句には至忠い感怯がこめられている
ものとして理鰯できよう。航海安金の女任者の立場にありながら、 ややもすれぱ笑務に長けた街取の下風に立たされてしまう﹁船のを さしける翁﹂の苦悩を、﹁作名﹂である女註見て取っているとい う話になっているのではなかろうか。 ﹁船のをさしける翁﹂について、通説とは異なるコメントを加え 、 している先行研究を腎ルしておきたい。少益新編全染は需る前
の守﹂と同一人物﹂と従来倫に従いつつ、続けて﹁以後の﹁船君﹂ も同じと見られるものの、前著は{、俄倫れ、後名はそ、つでない述 いがある﹂と注している。﹁後著﹂とは、先にふれた二"一日条や二村七日条において、和際不得yされている﹁欝﹂をさして
おり、﹁船のをさしける翁﹂と﹁帰る前の守﹂﹁船君﹂を同一人物と する従来の説に対し工社意が向けられているが、結局は作小におけ ゑN守(船汎)像の変質というレベルで解染はかられているよ うである。 岸本山豆吾﹁土佐日記老延において、﹁こは、船中の王君と いふ心にて、紀氏みづからを、いふ歎。又、ただ、船長をいふ歎、 いづれならん。さだめがたし。されど、歌がらを見るに、紀氏みづ からの歌なるべし﹂と述べている⇔征8)。ここで由豆流は﹁船の をさしける翁﹂について、貰之説と船長説(注9)を提示し、﹁さ だめがたし﹂と判断を保留しているのであるが、﹁歌がらを見るに﹂ 以下、m只之説に傾いているようなのは、﹃土左日記﹄を貫之自,身の 旅H記ととらえる近也鄭国学者の立場をよくあらわしている。それ にしても、貝ウ続とは別に船長説を濳想したのは、おそらく﹁しけ る﹂倫義に鴛tたもので、鋭い着眼といぇよう。 Ξ 前節において、一打十八旦水の﹁船のをさしける翁﹂について、 船小における判小などに携わる射河安全の賀任者であり前国守 (甜)とは別人であると考えた。このように考えることにょって、 ﹁船のをさしける翁﹂が和歌に堪能であり、前国守(船料)か和歌 を苦乎とする人物であることを、矛盾なく理解することができるの である。 ところで、前国守(船君)を作中一賀して和歌が不鰍品な人物と して定位することができるならぱ、先に取り上げた、﹁なぞただご となる﹂﹁船汲のからくひねりいだして﹂七1れている一首(二 村一日条)や、﹁からくしてあやしき歌ひねりいだせり﹂として紹介される二首(二河七日久木)のみならず、十二刀二十六H条の一首 についても、その評価について改めて考えなくてはならない。なお、 前国守(船君)にょって詠まれたことが明記されているのは以上四 首であり、前倒守(船ゑ)の歌としてはこの四首のみを考察の対象 とすべきであると考えている。一月二十一日条の﹁わがかみの ﹂の一首については後述する。 さて、前日の十二月二十五U条には﹁守のたちょりよびにふみも て来たなり。よばれていたりて、日ひと日、よひとよ、とかくあそ ぶやうにて明けにけり﹂とある。新国{寸から招待状が届き、新国守 、様の送別の要に出向いたというのであるが、ここにはいくつか注 目すべき記述が見られる。 まず﹁よびにふみもて秀なり﹂であるが、これを﹁よくまあ、 呼びになんか、手紙を持たせて、使者を寄越したものだ﹂と、新国 守に対する不満をぶちまけたものと解する禦あるが(﹃全袈﹄ など)、いかがなものであろうか。これは位階を有する官人同士の 正式な送別の宴であるから、それは礼法に則ってなされねばなら ず、招符状を携えた使者を造わして、同司の館に正しくしつらえた 要席に招くのは当然の作法ではないだろうか。新国守が酒府を挑え て前国守の滞在先を訪れるといった略儀は、あってはならない失礼 であろう。十二月二十六日条の末尾に、新旧両国守が﹁手とりかは して、ゑひごとにこころよげなることして、いでいりにけり﹂とあ るのも、礼節にかなった行為とみなせよう(注W)。なお、﹁来たな り﹂の助動詞﹁なり﹂の愆味は、いわゆる伝聞であり、﹁作名﹂は 前国守のもとに招待状が届けられたことを、周畷の誰かから知らさ れたということになっているのである。 さて、招かれた主賓は前国守であるが、それにつながる主だった 人々も招待にあずかったらしく、﹁作者﹂もその中に含まれていた のである。﹁作者﹂は前国{茶団の中で、かなりグレードの高い位 糧にある人物として設定されていることがわかる。招待された女性 たちは、当然ながら男性たちの宴席とは別の部屋で、新国守側の女 性たちの按待を受け、繁献することになろう。﹁とかくあそぶやう にて﹂とは、男たち四輪から途切れ途切れに一蔓の音色が開こえ てくるさまを表現しているものと考えられる。 小ノ々回り道をしたが、翌十二月二十六日条極むことにしよう。 廿六日、なほ守のたちにて、あるじしののしりて、郎等までに ものかづけたり。からうたこゑあげていひけり。やまとうた、 あるじもまらうどもことひともいひあへりけり0 からうたは、 これにえかかず。やまとうた、あるじの守のよめりける みやこいでてきみにあはむとこしものをこしかひもなくわか れぬるかな となむありけれぱ、かへるさきの守のよめりける しろたへのなみぢをとほくゆきかひてわれににべきはたれな らなくに ことひとびとのもありけれど、さかしきもなかるべし。とかく いひて、さきの守、いまのも、もろともにおりて、いまのある じもさきのも、手とりかはして、ゑひごとにこころよげなるこ として、いでいりにけり。 さて、新鼎の歌﹁みやこいでて・・・・・・﹂と前県の歌﹁しろたへの -37ー
﹂であるが、諸注の多くはこの二首に価価判断を下していない。 ^^、^^^は^剛^に^いて^^^なル^^^、^﹂^との別^を^しむ 心を詠んだ歌である﹂としており、一兇、高い評側を下しているか のようであるが、器ところは、後名而国守の歌)について﹁(新
県への)街﹂展意地の秩呉之豊愆﹂ 1み取るところか
らひるがえって、新倒{寸の歌が何四特一もなく詠まれているのを ﹁純粋な気持で﹂と評したにすぎないのではないかと思われる。 ところで、あらためて新国守の歌を読んでみると、惜別の惰か明 暸に表現されており、いささか﹁ただごと歌﹂めいてはいるか、な かなかの出来栄えといってもいいのではないだろうか。歌開につい て一叉ぱ、﹁みゃこいでて﹂との荘重な出だしから一転して﹁こし ものをこしかひもなく﹂と鼎川灰複にょ 0 て帷快に展開し、﹁わか れぬるかな﹂と格嗣商く結んでいるのも好ましい何象である。この 第五句が共之昇名歌﹁むすぶ手のしづくににこる山の井のあかで も人にわかれぬるかな﹂(占今架・部別)の第丙句と例じであるのは、 畍別歌の乎本を示そ、つとする作薪賀之の慈図のあらわれであるかの ようである。この歌の真の作名は川貝之であろう。 一方、前岡{寸の返歌の出来栄えはとい、つと、その人物像に一 を將たせるためには、それは不川来な一負であるはずであるか、そ の予想は裏切られないと弓てもいいのではないだろうか。まず、 顎叢の返歌として、歌語が賄歌のそれに対応していないのは明ら かな欠点であるが、それは、帖れの席で披欝するために、和歌の苦 手な前国守かあらかじめ用,薫し左口心の作とい、つ設定ゆえと考えれ ぱ、欠点としてあげつらうにも及ぶまい。問裡下句にある。﹁我 こ以べきはたれならなくに﹂とよ、新匡勺か我(前国守)と似た" 岑力削臣、拝津勺にて、汀司冶方がまうけに併癒諦 じて、かの国の名ある所経にかかせて、さび江とい ただみね ふ所にかけりける 年をへて濁りだにせぬさび江には玉もかへりて今ぞすむ べき 遇となるはずだ三而うのであり、前興寸としては、めでたく任期を 終えるという・愆味で詠んだとしても、それは倒守としての肖らの小 鎖を誇示しているとも受け取られかねないであろう。﹃後撰集﹄ 一(三 0五)の、次のような*例は参考になる。引用は岩野大 系﹃後撰和擬﹄にょり、適{且来¥改めた。これは前国守か新国守を歓迎す会の屏最であるが、届纂珠﹂
の故事を川いて、新国{寸にょる善政を砕信するとともに、前国守の 治悩について謙遜してみせているのである。﹃士左日記﹂の今の場 合とは'お性恪か異なるか、忠岑が前国守の立場に立っ工札して いることは俳かであろ、つ。 、﹂^よう^、一剛^、^と^^ノ^と^・、^^一^^^^^^、^^^^^^^^ の美ψ乞発抑する一力、汀岡守を識えるのが礼儀に力なったやり力 たであって、あなたもいずれは私と同じ、という﹃士左H記﹄の前 国守の歌は、本人忠菌がいかなるものであれ、悲織な一首七吾 わ、ざるをえないのである。せめて、あなたとの別れは悲しいが、土 佐国の人々にとって、あなたの赴任は一荏しいことだ、といった・愆 味あいの歌が望ましいであろう。和歌か不得意な前国守か、暗れの {倫で披露する歌ということで府に力が入りすぎ、あれこれ毛えす -11, 」↓ 例 雑ぎて、如叢はないものの悲織な一首をものしてしまったという次 第なのであろう。ここに竹老貰ウにょる教訓を毓み取ることができ るとするならば、アマチユアの和歌は新凶守のように小詮に、わか りやすく詠めばいいのであって、前倒{寸のように孝えすぎてひねく り同すと候なことにはならない、といったところか。 以上、十二打二十六日条の送別の纂におけゑ出守累が、二月 一Π条や二月七H条における、翻を不得愆とする前県(船汎)、 という人物造形と矛盾しないことを硴かめることができたと思、つ。 十二月二十六Π、二月一 H、二村七日の各条における、前国守(船 君)の誤一需(計四首)について見てきたのであるが、従来の研 究においては、この人物の作としてもう一首の歌が取り上げられる ことが多い。それは一月二十一日の条にかかわる。この日、戸打は 室沙L出航し、傭お室戸岬述えをはたすのであるが、・莖の歌う舟 叫に哀れを催し、瓣蝦の秀句めいた二暴を削きとがめるなどのエピ ソードに続き、次のような記述で、このHのΠ記は閉じられるので ある。 四 かくいひつつゆくに、船沼なる人、波をみて、国よりはじめて 海賊むくいせむといふなることを思ふうえに、河のまた恐ろし けれぱ、 かしらもみなしらけぬ。ななそぢやそぢは海にあるも のなりけり。 わかかみのーいそべの裂といづれまされり沖?局守 0叫夜いへ。 この一節の解釈について、変Π朴氏は﹃全裟﹄において次のよう な紗説を捉尓され、以後の研究に決定的な影紳をラえている。 右の論述の細部について繹省ルの分かれるところもあるだろうが (注Ⅱ)、﹁国よりはじめて﹂以下﹁柵取いへ﹂までを前則寸(曾) 四嘉木とする萩谷氏の解釈のおおもとは広く受け入れられ、現代に おける通説といっても型断ではないと思われる(たとえぱ小丹益日
金、同新糾金欽岩波1系述註希文庫、﹃新璽左日記一
(おうふう)など)。そして、この解釈にょれば、﹁わがかみの﹂の 0なみをみてこれを﹁、つみのまたおそろしけれぱ、かしらもみ なしらけぬ﹂にかけて、﹁かぢとりいへ﹂までの全文を、Π記の 地の文と見るのが、諸注の通説であるが、それでは、波を見てい るうちに見る見旦援女か白くなってゆくようで、全く奇妙な現象 といわねぱなるまい。その上に、﹁ななそぢやそぢは、うみにあ るものなりけり﹂という老いを怨む一、膝や、﹁わがかみのゆき﹂ の白さも、﹁かぢとりいへ﹂という命令も、すべて作者たる女性 山身のこととなるので否である。やはり、地の文は﹁なみをみ て﹂で誇って、その次に﹁いはく﹂とか﹁いひける﹂というよ うな述染省略されていて、﹁くにょりはじめて﹂以下、和堅 含めて﹁かぢとりいへ﹂までの全文を、︹ふなぎみなるひと﹂の 話し亘来、恐らく身内の闇での私語・独白とせねば、文章の合目 的性が失われるであろう。(県U二四四ページ)-39-一首は前国寸(船君)の歌ということになり、それは彼か向らの白 髪を﹁わがかみのき七献んだという、自然な鮒釈に結びつくかの ようである。 しかし、﹁波をみて﹂のあとに﹁いはく﹂とか﹁いひける﹂など の文言が省略されていると都合よく考えるのは無理があろう。そも そも^^^Π判^においては、^^^^^^の^小^^の^北一^面^^ 歌四松を含む)に関しては全て、それが和歌、あるいは会哩父で あることが、﹁詠める﹂﹁いはく﹂﹁1といふ﹂﹁1とて﹂などの文言 にょって明.尓されている。これは一々例をあげるまでもなく明らか であろう。今剛題としている一河二十一Π条において、たとえぱ﹁船 券る人、波をみていはく、田よりはじめて・・・・・・﹂あるいは﹁ へ、とぞいふ﹂などと、それが竹中人物(船岩)の熊Uであ U ることが﹁いはく﹂﹁いふ﹂など四§にょりて咽示されていれば ともかく、そうでないのは、萩ハ介氏が否定した﹁地の文﹂四そが 正觧であるからとしか考えられないように思うのである。 このぢぇ方は、﹁わがかみの雪といそべの白波といづれまされり 沖?早﹂なる和歌にょっても袖強されるであろう。先に竺たよ 、つに、前凶守(船雲)は作中一貫して、和歌を苦手とする人物とし て造形されているのである。ところがこの一首は決して拙劣ではな むしろ上出来と一吾ってもいいのではないだろうか。わか,口髪を 0 い 雪にたとえ、それを眼前の白波と対比L、その白さはいずれがま さっているかと、古歌に学んだ.小句にょって,勗守に問いかける⇔汪 W)という詠作手法は、まことに乎馴れたもの七冒えよう。﹁地の文﹂ 説に従った上で、これを﹁作者﹂が前倒守の心になりかわって詠ん だ一首と考えたいところである。 そもそも、﹁鬮よりはじめて﹂以下を前国守(船沼)の三暴とす ると、それはこの場においてきわめて不辿切な雪凶七勇ざるをえ ないであろう。﹃全注墾の現代語訳にょれぱ﹁国府をたったはじ めっから、河賊か仕返しをするだろうというよ、つな噂を気にしてい るーに、海がまた恐ろしいものだから、頭もすっかり白くなってし まった。七十だの^ーだのという老いは、海の中にあるものだった ねえ(以下略)﹂とあるが、要するに﹁海賊稀ど﹁波が怖い﹂と い、つ繰り一.毛ある。幼い童、の八些.白ならぱともかく、一団の統ψ署で ある前国守(船君)としては、このようなぶざまな墾甫はありえな いだろう。しかもそ器言が︹作老﹂の耳に入ったということであ れば、ただでさえ、編い思いをしている女性たちの心を、どれほど 打ちのめすことであろうか。一男性としても心ない発言と一吾わざる をえない。しかも当時の人々の冏には、悪い予感を口に出したら、 それか{夫現してしまうという俗信かある(いわゆる.京慧和ご。 前 県(船君)は﹁こちごちしき人﹂(二月七日条)と﹁作者﹂に評 されているが、それはご市一嬬というものであって、これほど無小貝任 で不用﹂慈な雪西をする弐d織な人物としては造形されていないはず なのである。 前国守(船君)の至百であることが二暴にょって明示されていな いこと、和歌が彼の作としては上手すぎること、話の内容が穏当を 欠くこと、以上.二点から、当薦餅か前国守の雪口ではありえない であろうことを述べてきた。あらためて当断所について鯛釈を試 、 し みょ、つ。 ﹁かくいひつつゆくに、船君なる人、波をみて﹂までには、﹁船村﹂ が海を見つめている姿を、﹁作者﹂鳶から観察している様子が毓 取 し、
み収れる。続く﹁波をみて、国よりはじめて、海賊むくいせむとい ふなることを思ふうへに、海のまた恐ろしけれぱ﹂という文の流れ からは、﹁作者﹂が海を見つめる﹁船裂﹂の心中を想像して、海賊 と海列*故への恐れかその、心をさいなみ続けていると硫信している ことが航み取れる。そして、乗船以来、彼がその恐怖と戦い続けて きた結果が、﹁かしらもみなしらけぬ﹂という現象となって現れた のだと、﹁作者﹂は吐硲つけるのである。﹁船君なる人、波をみて﹂ は、眼前の﹁船君﹂の姿であるが、その姿に触発されて、﹁作者﹂ は時問を遡り、﹁船君﹂の乗艘来の苦悩に思いを致すこととなる のであって、こう考えれば、﹁波を見ているうちに見る見る頭髪が 白くなってゆくようで、全く太砂な現象﹂という萩ハ介氏の疑開は解 消されよ、つ。 続く﹁ななそぢやそぢは、海にあるものなりけり﹂は、人がすっ かり白髪となるのは七、八十歳の古齢に至ってからとい、つ常識とは 異なり、﹁船裂﹂の旦女の原囚は海路の苦凱にあるという判断に基 づく秀句的表現であるが、ここで地兇の多くが、ψ畔の貰之の年蛉 が六1歳台であったことに言及しているのは、いかがかと思われ る。六十歳台であれば゛尋としては立派な老人であるが、ここまで の記述から読み取れるのは、﹁船君﹂はいまだ白髪となって当然の "除ではないという設定であって、券の年齢考証とはかかわりは ないはずなのである。これまで﹃士左U記﹄の読者が前国守(船裂) を老人のイメージでとらえてきた理由の一っは、一打十八日条の ﹁船のをさしける翁﹂という記述にあるのであろうが、先に竺た ように、これは前国守(船沿)とは別人と考えるべきである。前国 守(船君)を老人(翁)と明記し発述はないし、彼を老人と考え なけれぱ理觧できない力蹄も見られない。前国守(船点)と作者紀 亨﹂を混同してはならないのである。 紕く和歌﹁わかかみの雪といそべの白波といづれまされり沖っ島 勺^は、^刑国守^肌沼^の、^中を制度した^^^^^、^になりか わってその思いを和歌にしたもので、続く﹁暢取いへ﹂との文吾と ともに、密かに日記に冉きつけられたということになっているので あろう。﹁作名﹂自身の和歌は、今の場合と同様、詠み手が明示さ れないのが淫巾であって、一阿九Π久木の﹁おもひやる:,・・・﹂、同十 三B条の﹁雲もみな・・・・・・﹂、二月三H条の﹁ををよりて・・・・・・﹂がそ れにあたる。なお、二打十六B条の﹁むまれしも・・・・・・﹂と﹁みしひ との・・・・・・﹂は、いわゆる﹁唱和歌﹂であって、﹁作者﹂自身の歌と して取り上げることは保留したい 0 本稲では、﹃士左Π記﹄一打十八日条に見える﹁船のをさしける翁﹂ なる人物に着目し、これを﹁さきの守﹂﹁船君﹂と同一人物とする 従来の説を批判して、船中で﹁船のをさ﹂なる役を務めている人物 であろうと考えた。おそらく、古記録に見える﹁船師﹂がこれに相 当しよう。ただし﹃士左日記﹄の﹁船のをさ﹂は、血出使船などの 大型船に乗組んでいた神職の役割をも兼ねているのである。 このように、前国守(船港)と﹁船のをさしける翁一とを別人と 老えることにょって、前者が和歌を不得意とする人物であり、後考 か和歌に対してそれなりの見識を持っている人物であることを、矛 盾なく理解できるのである。さらに、こうして前国{寸(船君)希 盲び
-41-歌を不得、慈とする人物として作中に'穫されるならば、彼か十ブ打 二十六H条において詠んでいる航別歌﹁しろたへの波路をとほくゆ きかひてわれににべきはたれならなくに﹂は、作者賀之にょって肪 の籬別歌にふさわしくない一首として作られ、ここに配されている ことが明らかとなろ、つ。 一貰して和歌を不従1する人物であるな 市国勺(肌沼) が作小 らぱ、一打二十一日条の*尾部分の州釈についても、あらためて考 え十旧さなければならない。萩ハ介朴氏のえキ汁釈﹄以来、この割分は
前国守(W)の啓と袈されることが多く、近年では腎説を
新たな観券ら説明することも行われている(往,しかし、そ
こに占きつけられている和歌﹁わが髪界といそべ四口波といづれ まされり沖?H§は、かなり辻者な、献み口であり、﹁作老﹂にょ る松(もちろん真の作者は凪之)と蝉創されるのであって、これ は列,凶税への右力な灰訓の一つと、論えよ、つ。 以1のように、木稿では﹃士左Π記﹄の中から、﹁船のをさ﹂と いう従来兒逃されてきた人勿キ夫北掬しさらに前住勺(癖で)力竹 - nして、和砂に不得打姜人物として造形されてしることを彬抽 した。次稿(注N)においては、﹁作者﹂の立場や人物像について 人酬じる一玉であるが、彼女と亡き女児との関係についても吾及する こととなろう。私は、﹁竹老﹂こそが、士力H記﹄の王人公として 造形されているとぢぇるものである。 5 4 ついて﹂令中古文学﹄第四十一号昭和六十三年五月)には この街が取り上げられていないので、為,条(末公開)の 木文は﹁ふねをさ﹂であり、竹谿書屋本はそれを正確に氾券 しているものと推定した。 品川和子学而X応﹄は、﹁いそふり﹂か和歌に詠み込まれ た希少な例として﹃恋慶法師染﹄(三四)の﹁いそふりに さわぐ波だに商けれぱ雌の木案も今Πはとまらじ﹂を指抽 している。この集には﹁a之が士佐の日記を絵にかきて﹂云々二九二番歌烈ごとあって、恕条﹃士左日記﹄に親しん
でいたことが明らかであるから、この薪侵歌の﹁いそふり﹂ は、﹃士左月記﹄からの面接的六影製とし工征Uされる。な お﹃士左Π起の作名について、勺礼賀之であるという硴証は ない、といった§説がまま見られるが、冠慶法師染﹄の詞 古は呉之作者説の決定四需拠といっていいであろう。 ^ハ^小^"十、^日力^大^註羽^^垢^四1一^介^"角刀1'^^ 三七ページ以.十。 ﹃延"笑﹄(大蔵告)にょれぱ、 N使那や逃劼海使辧の随貝 の中に﹁主神﹂﹁陰陽師﹂﹁卜部﹂が見出される。これらは杣 小や占い担当の人貝である。また、これらに並んで﹁船師﹂ とあるのは、現代でいぇぱ船長であろうが、迅唐使肌などと くらべると規祭小さい﹃光U記﹄の船に、これらのスタッ フが揃っていたはずはなく、おそらく﹁船師﹂に相当する﹁船 のをさ﹂が、袖器寸をも担当していたのであろう。 ^^^^^■^^^^﹂^^,^^^^は、^^H^の^^^^野 天神縁起仏奪﹄(平成.二年中央八会雜)にょってカラー図 2 1 萩谷村﹁肖考冉屋本﹃士佑Π氾﹄の極めて勘なし独陶副診に 3 注版を見ることができる(欝の場面は鼎一九ページ下段)。 なお、日^^^^田^^^^^^日、^・^^B.^^^^一^^^ の巻頭にも詞じ船出の場而が折込カラー図版として掲げられ ている。 変口朴一全輪﹄はこの﹁いでませり﹂について、﹁講師に 対して故意に晶吊な敬語を使用した理由は何であるかという と、それは、什五Π条における国司の招待を人袈に叙述する 竹名の"南を日象つけるために、刈距均に用いた賜鹿丁寧な 言葉諜であるということになる﹂(七六ページ)と竺て いるが、従いかたい。二十五日条における新国守の招待に関 する私見は、第三節においてのべる。総じゑ谷氏は、作者 の新国守に対する不般ぞ強調するが、作中、﹁作者﹂であ る女性か新国守に不戻感を抱いているとは読み取れないし、 作者紀貫之か紗国{寸局田某に対して不般キ抱く理由も考え られない。新興寸の赴任が遅延したことがしばしぱその理由 としてあげられるが、少々の器は当時倫態であるし、そ もそも貫之二打の本格的な船出が、亊実﹃土左日記﹄の記述 通り十二月二十七日(大津より浦戸へ)であったとすると、 そこまで出発か遅れたのは、冬の熊気と荒波を避け、春の訪 れまでわざと船出を遅らせたからとしか考えられない。この 年、立春は十二月二十五日であり、一士左日記﹄にょれぱ、 それはまさに新国守主催の送別会の当日にほかならない。 日本思契系一古代中世政治思想﹄(岩波書店)所収(大曽 根交ハ校注)。なお、﹃藤原保則伝﹄を貫之が読んでいなかっ たとは考えられず、同一伝﹄の国司帰京の場面は﹃土左呂記﹄ 6 に彬加しているであろう。今後の検討課題である。 北村季吟は﹃赤日記抄﹄において、﹁ふねのおさは舟長也。 船小のつかさする心也。紀氏を云べし﹂と、﹁舟長﹂の字を あててはいるが、賀之説のみを、.永していることは明らかで ある。 当時、現代語と同意の﹁船長﹂という言葉はなかったようで あるから、これは^注8^にあ^た^士、^日^^^と同^、 ﹁ふね﹂﹁をさ﹂に﹁船﹂﹁長﹂と一撃を当てたにすぎないよ うだ。しかし、﹁ただ、船長をいふ﹂という﹃士佐日記考証﹄
の張鳶士佐守(船君)とは別人烹傑していることは明
らかである。 手を取り交わすとい、?身体表現が中国起源であることにつ い ては北山円正﹁﹃克H記﹄の﹁手取り交はして﹂ 1紳仙譚 の受容について1﹂(﹃神女国文﹄二三、平成二十四年三月) 需一。なお、十二打二十七日条に、﹁かこのさきといふところ﹂ に新県の﹁はらから﹂たちが酒を携えて追って来て交歓し たとある。ここに新国守が参会していないことに、新鯏寸の 不人惰を指摘する向きがあるが(﹃全征釈﹂など)、{於の礼 法という観占一力らすれぱ、このような場に新国守か酒肴を挑 えて駆けつけるなどという鞭t、あってはならない失礼で はな力ろ、つか。 たとえば、﹁かじとりいへ﹂という命令は、貴族女性から鳶 民階屡に属する揖取への文冒としては不当とは思われない し、そもそも全てを地の文とし工哥とすると、これは珂外 されることなく、日記に古き付けられただけの文言であるか 8 7 9 Ⅱ 10-43-ら、女性﹁作者﹂四票ボとして、何ら問題にはならないだろ う0