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アジア社会のグラスルーツの構造と変動に関する比較研究-日本とインドネシアの比較-

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(2)

アジア社会のグラスルーツの構造と変動に関する比較研究

一日本とインドネシアの比較-課題番号 11694021

平成1 1年度∼平成1 3年度科学研究費補助金(基盤研究(心(2))成果研究報告書

平成15年1月

研究代表者 吉原直樹(東北大学大学院文学研究科教授)

(3)

は し が き

アジア社会の発展と停滞が叫ばれるこんにち、グローバルとローカルが交差する地平で

、アジア社会の内発的発展の可能性と課題を開示することが強く求められている。本研究

は、文化の相対比較に立つ文脈で、アジア社会におけるグラスルーツの構造と変動のあり

様を日本とインドネシアに的を絞り、浮き彫りにすることによって、上記の課題にせまっ

たものである。 本研究によって明らかにされたfindingsによって、これまで空白であったインドネシア

社会におけるグラスルーツの構造と変動に関する研究に新たな局面がきりひらかれるとと

もに、当該社会の歴史的、文化的構造に立脚した社会設計の方法にたいする有力な視点が

構成されることになったことは幸である。同時に、インドネシア社会におけるグラスルー

ツの構造と変動のあり様を日本社会におけるそれと比較させることによって、通文化的な

文脈でアジア的社会発展モデルの構築に寄与し得ることが明らかになった。

とはいえ、未解決の課題は数多く残されている。今後、ひとつひとつをさらに丹念に検

討したうえで、それぞれの精査を通して共同研究をすすめていくつもりである。

なお、本報告書作成にいたるまでの文献・資料収集の様々な段階において、インドネシ

ア国立図書館、インドネシア大学総合図書館、インドネシア政府統計局、 CS I S図書館

、ジェトロ・アジア経済研究所、京都大学東南アジア研究センター、東京大学東洋文化研

究所、国立国会図書館等にお世話になった。また、調査の現場では無数の善意あるインフ

ォーマントの協力を得ることができた。感謝して記す。

研究代表者 吉原直樹

研究組織

研究代表者:吉 原 直 樹(東北大学大学院文学研究科教授)

研究分担者:高 城 和 義(東北大学大学院文学研究科教授)

研究分担者:長 谷 部  弘(東北大学大学院経済学研究科教授)

研究分過者;永 井  彰」東北大学大学院文学研究科助教度)…

海外共同研究者

海外共同研究者

海外共同研究者

海外共同研究者

海外共同研究者

研究交付金(配分額)

Medelina K.Hendytio (CSIS研究員)

Heru Nugroho Soegiarto (ガジヤマダ大学社会政治学部講師) Gumilar Somantri (インドネシア大学社会政治学部講師)

Ignasius lsmanto (CSIS研究員)

Raphaella D.Dwianto (アトマジヤヤ大学講師)

(合計単位:千円)

直接経曹 兌y ニ " 合計 平成11年度 縱 0 縱 平成12年度 釘 0 釘 平成13年度 釘紊 1,320 迭縱# 総計 " 1.320 2經#

(4)

研究発表

(1)学会誌等

吉原直樹・ラフアエラ D.ドウイアント 「DKIジャカルタにおけるグラス ルーツの一存在形態(5) -プダガン・クリリンについての素描-」 『東北 大学文学研究科紀要』第51号、 2 0 0 2年2月

長谷部 弘「地域住民組織の歴史的位相一仙台市を事例とする歴史的検討の

試み-」東北都市学会『仙台都市研究』第1号、 2002年7月

ラフアエラ D.ドウイアント 「地域住民組織の今日的形態一盛岡市の二つ

の事例をめぐって-」 『日本都市学会年報』第34号、 200 1年4月

ラフアエラ D.ドウイアント・斎藤綾美・吉原直樹「アジアメガシティに

おける地域医療活動の一存在形態-DKIジャカルタのボシアンドゥを中心と

して-」 『日本都市学会年報』第35号、 2002年4月

(2)口答発表

吉原直樹「グラスルーツと地域住民組織-ジャカルタを事例として-」

日本都市社会学会大会テーマ報告、 2 0 0 2年9月 (3)出版物

吉原直樹『アジアの地域住民組織一町内会・街坊会・ RT/RW-』御茶の水

書房、 2000年11月

Yoshihara, Naoki, et al.(eds.), Grss Roots and the Neighborhood AssoclL

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目    次 序一日本インドネシアのグラスルーツの比較に向けて一   吉原 直樹

第1章 地域住民組織の歴史的位相一仙台市を事例とする歴史的検討の試み-長谷部 弘

第2章 地域住民組織の今日的形態一盛岡市の二つの事例をめぐって-ラフアエラ D.ドウイアント

第3章 ジャカルタにおける地域住民組織とグラスルーツ  吉原 直樹

第4章 The Existence of lヵcal Institution within a Changing Society : In

the view point of grass root community in Jakarta

Hem Nugroho

第5章Inventing Participation : The Dynamics of PKK, An'san and Keda

bakt・1'in the Context of Urban Jakart

Vidhyandika Perkasa Modjarto & Medelina K.Hendytio

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38

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序一日本とインドネシアのグラスルーツの比較に向けてI 吉原直樹(東北大学) 1.草の根民主主義と草の根保守主義 本報告書は日本とインドネシアのグラスルーツの構造と変動の諸側面を、日本とインドネ シアの複数都市の事例研究によって比較社会学的に考察しようとするものである。そこで まずグラスルーツをどうおさえるかについて述べることにする。 一般にグラスルーツについては、二つの考え方が存在する。一つはグラスルーツ・デモ クラシーの文脈でとらえるものである。これはりリエンソール(ulientha】, D.王.)の『TV A : Democracy ontheMarch』で強調され(LiJienthal,1944)、その後アメリカ社会のみなら ず、世界中にひろがった考え方である。住民の政治への直接的かかわりが積極的に主張さ れ、そこに本来の民主主義の精神が見出されるというものである。ここではグラスルーツ が、市民運臥市民参加、政治参加などの文脈においてポジテイヴに位置づけられる。近 年、その活動がめざましいNGO、 NPO、 VAなどは、基本的にはこのグラスルーツ・デモク

ラシーをになうものとして把握される。グラス・ルーツに関するいまひとつの考え方は、 草の根保守主義(grassroot conservatism)の文脈でとらえるものである。これは少数派の立 場であるが、その典型的な論者である官本憲一によれば、それは「政治が末端にゆくほど 保守的となり、体制を擁護(まもること)ことになる」 (宮本,1967:268)状況を示してい る。そしてこの立場に立てば、町内会に代表されるような地域住民組織は草の根保守主義 の典型事例とされる。インドネシアのⅣr/RW、 PKKなども、この立場からすれば、開発独 裁の末端をになっているということで、草の根保守主義に位置づけられることになる。実 際、インドネシア人でも、アメリカ流の草の根民主主義になじんでいる研究者たちは、こ うしたとらえかたをする人が多い。 これまでグラスルーツというと、以上の二つの考え方が鋭く対立していたというのが実 情である。しかしグラスルーツを、このように草の根民主主義vs草の根保守主義という二 項対立図式でとらえるパラダイムは、 1980年代になって急速に有効性が問われるようにな った。そしてカステルの都市社会運動論(caslells,1983)に象徴的にみられるように、グラ スルーツの基底に存在する文化の構造をくぐりぬける政治社会化の方向が模索されるよう

になった。さらに1990年代後半になると、 progressive commonplaces, like global responsibility,

human rights, the autonomy of the individual, and democracyに対してはっきり距離をとるポス

トモダニズム的な立場が台頭するとともに、グラスルーツの基底にある文化の土壌を再考 する動きがあらわれた(EstevaandPrakash,1998)。日本では、一種のヴァナキュラリズムの 立場から、草の根の背後にかくれている共生の地層を浮かびあがらせようとする鳥越浩之 のような立場が,現在、徐々に力を得ている(鳥越, 2001)。いずれにせよ、草の根といえ ば、草の根民主主義か草の根保守主義であるといった二分法的なとらえかたは、いまや少 数派になりつつある。もちろん、具体的な分析のレヴェルでは、どこに力点を置くかによ

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って、草の根民主主義もしくは草の根保守主義のいずれか一方がクローズアップされると いうことはある。この点は、以下の叙述からも証明される。しかしそうした場合でも、草 の根の一つの側面に焦点を据えているにすぎない。 2.多様な草の根 グラスルーツの構造を一連の地域住民組織に限定して検討する場合でも、基本的には以 上と同じことがいえる。たとえば、自治体広報のあり様に焦点を据えると、行政下請(し たうけ)組織としての地域住民組織の側面が浮かびあがり、結局のところ、草の根保守主 義の性格が強調されることになる。こんにち、自治体広報については、汀化の進展-イン ターネットの積極的な活用に見られるように、情報チャンネルがより多様化しつつある。 しかし実態としては、多くの自治体で依然として町内会を主要なメディアとして利用して いる。しかもその場合、政策決定済みの情報を広報紙を通じて伝えるという方式がとられ ている。それは戦時中の回覧板による徹底事項の上意下達を連想させるものである。ちな みに、日本占鏡下のジャワでも隣組の下で同じ方式がとられていた(倉滞, 1992)。いずれ にせよ、こうした場合、松下圭一が指摘するように、町内会が中央政府に導かれたハイア ラーキカルなシステムの最末端に位置づけちれることになるのである(松下, 1999)。イン ドネシアでもRTrRW、 PKKなどが同じ理由で開発志向の政府の最末端に位置づけられる可 能性があるのは、先に指摘した通りである。 しかし以上の点は、地域住民組織の一つの側面を示しているにすぎない。本書の以下の 叙述にみられるように、町内会はコンミューナルな側面を同時にもっている。しかもそれ は、町内会が立地する地域が何らかの問題に直面したときに、あらわれる傾向にある(あ らわれがちである)。そしてわれわれのフィールドサーベイの結果によれば(青原and Dwianto, 1997)、 DKIジャカルタのRT/RWについても同じことがいえるのである。むろ んこの場合、上からの支配の論理が微妙にからんでいる。つまり、支配の論理と生活の論 理の弁証法的な関係が地域住民組織を貫いているのである。 さて以上のことを踏まえるなら、グラスルーツおよび地域住民組織の一方向的な定式化 は非現実的であるだけでなく、ナンセンスでもあろう。重要なことは、歴史のそれぞれの 段階において地域住民組織の見せる顔が違ってくるということである。あるときには、タ テのハイアラーキカルな側面、つまり上から規定される側面が前面に立ちあらわれるであ ろうし、またあるときにはヨコのコンミューナルな側面が表出するであろう。ガバナビリ ティがどの程度であるかによっても、地域住民組織の存在様式は違ってこざるを得ない。 さらにグローバル化の進展とともに立ちあらわれているガヴァナンス・システムの変化に よっても、当然、グラスルーツおよび地域住民組織は影響を受けることになるだろう。そ れらに分水嶺が見出されるとすれば、それはもはや民主主義vs保守主義という枠内にとど まらないであろう。 もちろん、こうしたことは地域住民組織が、 (1)本来的に特定の挽能ではなくて、多面

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的/包括的機能をはたすものであること、 (2)組織の構成員、世帯の職業の違い、思想、 信条、宗教の違いにかかわりなく、その地域の住民みんなにとって共通のイッシューをと りあげ活動する生活機能集団であること、 (3)そこには民衆意識のあり様が反映されてい ること、 (4)良くも悪くも、行政と住民の「間」に存在すること、を否定するものではな い。われわれがとりあげる地域住民組織の具体的姿がどうであれ、それらを仔細に分析す ると共通に浮かびあがってくるのは、以上の4つのファクターである。繰り返すまでもな く、歴史的状況によって、あるいは文化的条件によって、この4つのファクターのいずれ かが顔を出すのである。そしてそうした事態にたいして、これまでは伝統的であるとかモ ダンであるなどとラベリングしてきたのである。 3.比較の手法 それでは、われわれはどのようにすれば、こうしたラベリングから回避することができ るのであろうか。同じ草の根といっ七も、それは社会によって多様性、異質性をもってい る。したがって草の根の構造を研究する場合、 (われわれは草の根が)西洋起源のデモクラ シー観念では解明することのできない異質的な複合性をもっていることを認鼓しなければ ならない。いうまでもなく、世界にはさまざまな特性をもつ文化圏が存在しており、草の 根にも文化的特性が大きな影をおとしている。したがって何よりも重要なことは、とりあ げる社会の「文化的コンテクスト」に即して、草の根の個性的独自性を明らかにすること である。しかしこのことは、対象地域の草の根の個別的独自性をとらえるのに、アド・ホ ックな記述や解釈に終始すればよいというのではない。シルズが指摘しているように、

territorial and epochparochiarilyに陥ることは避けねばならない(shi】S, 1963)。また解釈の基

準を「歴史的に偶然のもの」に置かないことが求められる(間苧谷, 1983)。ここであらた めて重要になってくるのが比較研究である。 ここでいう比較は、方法論的にはパイクのいう emics と elicsの相互関係の上にある (pike,1967)。比較は基本的には、外部観察者の分析的なパースぺクテイヴに立った「外側 から」の記述であるelicsにもとづく。だから比較をより豊かなものにするためには、この eticsを推赦し、システム化する必要がある。しかしeticsを推赦しシステム化するためには、 民俗的視点に立った「内側から」の記述であるemicsを着実に積み上げていくしかない。こ うして、充実した比較はemicsとeticsの相互作用の上になりたつのである。したがって、 こうした比較にもとづいている本書は、草の根の構造に関するクロスカルチュラルな一般 理論を提示するものでもなければ、二つの社会にだけあてはまる孤立的なモノグラフを作 成するものでもない。二つの社会の内部から立ち上がってくる草の根の内発的契機を踏ま えながら、草の根の多元的な型をできるだけ「生身の」の形で、しかも比較可能な枠組で 提示することが、本報告書の目的である。 文献

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Estava,G.and M.S.Prakash、 1998 GrassT1001S Post潮Odernism:Remaking the soil o/culture, Zed

倉浮愛子,1992 『日本占鏡下のジャワ農村の変容』草思社

同学谷栄,1983 『現代インドネシア研究』勤草書房

松下圭一, 1999 『自治体は変わるか』岩波書店(新書)

宮本憲一, 1967 『社会資本論』有斐閣

Lilienthal, D.E.,1944 TVA:Democracy on the Much, Overseas edition

Pike, K.L., 1967 Language ln Relation to a Umfied T九eol・y Of the SEructure Of Human Behavior,2nd TleV. ed. Mouton.

shils,E., 1963 'On the Comparative Sbdy of the New States,'inC.Geertz (ed.), Old Societies and

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第1章 地域住民組織の歴史的位相

一仙台市を事例とする歴史的検討の試み-地域住民組織としての町内会は、その歴史的な由 来を近代以前の日本社会における「五人組」制度に 持つといわれる。しかし、その歴史的連関や「地域 住民組織」の実態を正面からとりあげた歴史学的研 究は意外なほど少ない。本袷では、この町内会の「前 史」に焦点を絞って若干の考秦を試みる。まず、最 初に伝統的な隣保組織である「五人組」についての 研究史を辿り、学鋭史的検討を試みる。次に第二次 大戦後の占領期に作成・報告されたGHQ民政情報 教育局調査分析部「日本における隣保組織-隣組 の予備的考察」 (1948年1月23日)を手がかりに、 日本における地域住民組織・制度の歴史を概観する。 この報告の持つ`「隣保組織観」を浮き彫りにし、学 貌史上の位置を確羅するためである。さらに、仙台 市を事例として、 「町内会」的地域住民組織の結成 が比較的遅いとされてきた地方都市の地域住民組織 が、実際はどのような歴史的変遷を辿ってきたのか、 それを明らかにする。城下町時代から戦後にいたる までの歴史を検討するまなざしは、人々の共同性に 立脚する住民組織と権力支配の按合点である行政組 織との関係性如何に置かれる。これらの作業を通じ、 町内会につながる地域住民組織的な共同性がすぐれ て近現代的な産物であること、それにもかかわらず 地域住民組織のr住琴」的生活諸関係は前近代社会 から引継いだものが大きいこと、そしてそのような 住民組織が第二次世界大戦期の戦時体制下の強力な 組織化によって再編成され、戦後の町内会結成-と つながってきた事が指摘される。 キーワード:町内会、五人組、地域住民組織、 城下町、仙台市

1日本における地域住民組織の歴史的性格

1. 1日本における地域住民組織の歴史研究状況 歴史学研究の世界では、日本の隣保制度の歴史的

長谷部 弘

東北大学大学院経済学研究科教授 実態に関する研究蓄積は、驚くほど手薄である。た とえば、伝統的な隣保制度とされてきた「五人組制 度」に限った制度史的な研究をみても、本格的な成 果は1920年代から戦時中までの時期に出された穂 積陳重や野村謙太郎らの資料蒐集的な研究に限定さ れる。戦後はいくつかの傑出したモノグラフの中に 兄いだされるものを除いて本格的な五人組研究はみ あたらない(1)。このような研究状況の主たる原因は、 地域住民組織の研究が主に世界大恐慌から戦時体制 -の移行を取り扱う近現代史研究の一環としてしか 行われてこなかったからである。 日本近代史上「五人組」制度の由来や歴史的実態 について大きな姶議を呼んだ時期は、 1930年代以降 敗戦時までの「十五年戦争」期と重なりあう。まさ にこの時期、国策としての地域住民組織の組織化・ 再編成が、全国的規模で遂行されたのであった。周 知のように1930年代前半は、 「五人組」や「隣組」 が大不況(昭和恐慌)脱出をめざす「農山漁村経済 更正運動」の一環として組織化、再編成された時期 である。さらに1930年代末以降の時期は、都市や 農村の町内会・隣組を国家総動員体制の末端機構と して住民を組織編成し、戦争政策を強力に推進した 時期であった。旧時代の「五人組J制度をめぐる歴 史論議は、 ・これら一連の地域住民組織の再編政策を 国民的運動として展開するなかで生まれたものであ った。この時期、政府当局ならびに各地の市町村の 手によって移しい数の指導・教育用パンフレットが 作成・頒布されたが、そのいずれも近代以前の「隣 保制度」を前提としている也)。ただし、その歴史認 織の基本的部分は、 1920年代までの穂積らの制度史 的研究に依拠したものにすぎず、新しい歴史的研究 が展開されたわけではなかった。そのことからも、 当該時期の「五人組」制度論議が国策を色濃く反映 した「時局もの」にすぎなかった事実を確認するこ とができるのである。 地域住民組織に関する本格的な歴史学的研究は、

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戦後になって再度活発に行われるようになった。そ れは、もっぱら戦時体制研究の一環として行われ、 戦前戦後をめぐる連続説ないし断絶税の大きな論争 を惹起した事はよく知られている(8)。しかし、それ らの歴史的研究の多くは、 「五人組」等、前近代社 会における地域住民組織をも広く射程にいれて史料 分析的に行われたものではなかった。むしろ、その ほとんどは十五年戦争下、新たに組織化されたり再 編成されたりした「五人組」ないし「隣組」を取り 上げるにとどまる、あくまで近現代中心の歴史研究 であったといってよい。 本来、地域住民組織の歴史は、まず前近代におけ る生活共同組織との断絶と連続の問題が明らかにさ れなければならない。そのような意味で、地域住民 組織の歴史は、本格的な文献調査と実態分析を必要 とする歴史学上の重要な研究瓢題として積み残しと されているのである。 1. 2前近代社会における共同性と地域住民組織 「五人組」や「十人組」といった前近代社会にお ける住民組織は、しばしば町内会など近現代におけ る地域住民組織の先駆とされてきた。もちろん、歴 史学的立場からみた場合、そのような言税が必ずし も誤った事実帯織とはいえない。しかし、もしそれ らの住民組織が近現代社会における文脈と同様の意 味でr地縁」 ・ 「住縁」組織であったと考えるので あるなら、そこに歴史的な事実瓢織の大きな訳解が あることを指摘しておかなければならない。少なく とも近代以前の日本社会における農村や都市の「五 人組」的住民組織とは、人々が時代状況に規制され つつ日常生活の中でつくりだす様々な共同の機能組 織、社会的諸関係が相互に織りなして形成していた 「共同性」の一部分をなすにすぎないものだったの である。繰り返すが、時期や地域によって濃淡を持 ちつつも、人々は他の様々な共同の原理に服すこと なく「住まう」論理のみに依拠して生活することは できなかった。人々は様々な共同の諸関係・諸組織 の中に組み込まれ、その中で一定の役割を果たし、 種々の社会的な共同活動に参与することによっては じめてr生きる」ことが可能となり、またその結果 「住まう」ことも可能となったのである。したがっ て、 「五人組」制度に依拠する「隣保」的共同性は、 けっして人々の生活世界における広範な要素から成 りたつ前近代的共同性の中心をなすものとはなりえ なかったといわねばならない。 しかし、このような「指摘」は歴史具体的な根拠 に基づいて語られなければ説得力をもちえない。以 下、まず歴史研究が進んでいる農村地域社会の共同 性について考えてみよう。 近代以前の農村地域における共同組織の実態に関 しては、戦後の1950-60年代に試みられた中村富 治らの大規模な歴史学的実態調査研究(岩手県矢巾 町煙山)によって、その実相が初めて詳細に明らか にされた(4)。そこで特に光があてられたのは、農村 地域の家々が取り結ぶ「共同体」の構造であった。 煙山村に昔から住んでいた人々の家同士の関係は、 家々の地縁的( 「住縁」的)関係が中心ではなかっ た。むしろ、生活を支える生業(なりわい)たる農 業生産活動を維持するためにつくりあげた労働、水 利、山林、土地、土地貸借といったさまざまな機能 毎の結びつきこそが「共同体」の現実億だった。そ こでは機能毎に家同士の結合組織がつくられており、 典型的「共同体」一一すべての機能組織が特定の家 集団内部で自己完結するような「共同体」 -とは 異なった、複雑に分散し、重畳的に結びついた家々 による「共同体」の現実の姿があったのである。 さらに、地縁関係に先行する社会的結合関係とさ れてきた「血縁関係」も、煙山村では依然として「共 同体」を支える規範的関係の要素であり続けていた。 しかしその「血縁」とは、実際の生物的・親族的な 血縁関係を意味するわけではなかった。非血縁者で も家族的な血縁関係の内部に入りえたのである。 「血 縁」は、組織の補強機能を果たす「意識規範」とし て「共同体」を支える役割を担っていた(6)。 総じて、近代以前の農村社会では、地縁的な住縁 関係は家々を結びつける共同的要素の一つにすぎず、 背後では農村の生活を支えるさまざまな結合要素が 集合的に重なり合いながら「共同体」を構成してい たといえる。家々の集合力の強弱はこれら機能毎の 結合組織の重なり具合によって様々であり、地域差 が存在した。煙山村は比較的集合力が強かったが、 長野県諏訪地方のような市場経済化が早期に展開し た地域では、この家々の集合力はかなり早期に弱体 化していた(6)。また、城下町等近世都市における武 家や町人たちもまた都市固有のありかたで独自の共 同性を形成していた。近世都市の「五人組」はその 組織としての存在感が希薄であったといわれるが、 都市に生きる住民としての共同性は、 「五人組」と は別の次元の生活世界において生み出され、保持さ れていたのである。その点は農村地域の実情と本質 的な違いはなかったと考えられよう。 1. 3地域住民組織の歴史学的研究隈溜 以下に考察するように、日本の歴史において「五 人組」的な隣保制度が全国的規模で実施された時期 は、古代律令体制期と近世幕藩体制期、そして第二

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次世界大戦期の三度である。前者二期が2- 3世紀 の長期にわたる制度であったのに対し、大戦期の組 織化は戦時期を頂点とする十年前後の期間にすぎな い。いずれの時期も強大な政治権力を背景として、 全国各地で地域住民組織の制度的組織化が強制的に 実施された。重要な点はそこで制度化された「五人 組」的住民組織は、三度とも人々の日常生活的必要 から作り出したさまざまな「共同性」の契機を必ず しも十分すくいとって制度化できたわけではなかっ たということである。むしろ、前近代における二度 にわたった制度化の経験では、制度化の目的自体、 人々が構成していた生活組織全体を組織化しようと するところにはおかれなかった。治安や土地制度の 維持、貢租納入といった政策を実現するために、人々 の「共同性」が強制的に設定されたのである。した がって、いずれの時代の隣保制度も、行政的・政治 的強制力が脆弱化したり喪失したりすることによっ て制度や組織自体も消滅し、解体していくこととな った。 最後の戦時体制期における組織化は、すぐれて近 現代的な文脈で実施されたことに注目しなければな らない。前近代社会において支配的であった人々の 生活世界におけるさまざまな共同性は、 1930年代の 日本社会において、近代化の内実である市場経済化 と工業化の嵐の中でおおかたが失われつつあった。 前近代社会に様々な形をとって満ちあふれていた r共同性」が、ここでは残浮としてr住縁」関係-と集約的に引き継がれることになった。青い換えれ ば、前近代社会から引き継がれた共同性は、もはや 住まうこと- 「住縁」において発現するよりはかな かったのである。その意味で、地域住民組織はすぐ れて近代的な存在であるといってよい。 20世紀には いってから日本の社会を葬った何度かの危機は、共 同性を失い始めた社会に生きる人々に、新たな社会 的共同性の創出を迫った。震災等自然災事や経済不 況の度ごとに農村や都市で、隣保組合や町内会とい った地域住民組織が結成され、また県・市・町・村 といった行政機関もそれを後押しした。 1930年代に おける十五年戦争下の町内会、隣組、それに類した 各地の隣保組織形成の動きは、そのような地域住民 組織を大恐慌- r体制危機」脱出と総力戦遂行のた めに再編成するためのものに他ならなかったのであ る。この時期の地域住民組鰍ま、その意味ですぐれ て近現代的な機能性を発挿し、戦争遂行に寄与した のであった。しかし、そのような隣保組織のありよ うが、かつての日本社会に生きた人々のつくりだし た共同性とは異質なものであった事実には着目して おかなければならない。 ところで、前近代における隣保制度が長期的・効 果的に機能した事例も散見しうる。実態の解明は実 証研究の成果に待たなければならないが、一般的に いえば、それは制度的な隣保組織と事実上の生活組 織がうまく重なった場合か、または事実上の生活組 織が消失し、制度的な行政組織が人々の日常的な「共 同性」の核となった場合であると考えられる。した がって、地域住民組織の歴史的考察とは、行政的な 制度的組織と人々の日常生活におけるr共同性」と の反発と交錯が織りなす多様性のうちにすすめられ なければならないことが理解できるであろう。

2地域住民組織r五人組」の歴史学的考察

2. 1歴史学的考察の必要性 吉原直樹は、戦後日本の町内会をめぐる論争(特 に近代化論争)を総括して、 「何よりも論争を通し て明らかになったことは、支配か共同かといった二 分法的な問題設定の限界であり、それを歴史分析と してどのように克服するかという裸題である。近代 化論が強調してやまなかったタテの系列-支配、そ してそれとシンクロしながら立ち現れてくるヨコの 関係-共同は、いうまでもなく歴史の折々において 異なった顔をみせている。だからこそ、歴史分析が 重要になってくるのである」としている(吉原2000: 241) 。そして一連の歴史的検討作業を行ったうえ で、 「町内会の歴史分析から明らかになった点は、 まず借粂とか利益による結合を前もって相対化して いる地縁の胎理によって裏打ちされた、歴史貫通的 な近隣組織が存在し(-共時態) 、それが日本近代 という特殊歴史的な条件の下で立ち現れたのが町内 会であること、そしてそこには常に権力の慈意が見 え隠れしていることである(-通時億)」 (吉原2000: 243)と興味深い指摘をする。 吉原の行った歴史的な検討は、主に近代以降の地 域住民組織を対象とするものであった。そこで「地 方自治制度の外側に行かれた」 (吉原2000: 242) とされる<地縁の基層>とは、近世社会以来続いて きた「生活上の地区単位としての部落や町内」のこ とである。日本社会の基層部分に滴養維持されてき た意織や関係性を「住まう」論理の中に兄いだそう とする視点は卓抜しているといわなければならない。 しかし、われわれの歴史的認織からすれば、前近代 社会においてかようなく地縁の基層>を独自に想定 することは耗しい。すでに指摘したように前近代社 会の<共同性>自身、多様な共同諸関係の重層性の なかに存在していたのであり、 <地縁>はその重層 性を構成する一つの契機でしかなかったからである。

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以下、その点を確認するために、吉原が歴史分析の ために用いたGHQ r日本における隣保組織-隣 組の予備的考察」の叙述を手がかりにして日本の近 隣組織の歴史を概観し、同時にそこで想定されてい る「五人組-隣保組織」という仮定がどのような類 のものであったのかを検討してみよう。 2. 2日本における隣保組織の歴史 2.2.1 GHQ 「日本における隣保組軌における 隣保組織概念の検討 GHQ民政情報教育局調査分析部「日本における 隣保組織-隣組の予備的考熟は、戦後占領期の 1948年1月23日付で報告されたものである(7)。そ の目的は、 1940年から47年まで日本人の日常生活 を管理した国家統制機構としての隣組制度の歴史と 構造の全容を明らかにしようとするところにあった。 この報告書では、隣保制度を、相互扶助・連帯責 任・命令伝達といった三つの機能を持つ制度組織で あると考え、古代律令体制以前の時代から現代に至 るまで「これらの3機能が滞然一体となって隣組が 存続してきた」としている。このような理解は、戦 前から戦中にかけての時期に、隣組を伝統的な隣保 制度として組織化しようとしたイデオローグたちの 理解をそのまま踏襲したものと考えてよい。さらに、 そのような帯織を支えていたのが、古代律令体制時 代に人々の生活共同関係が「血縁から地縁-」と移 行し、 「遠くの親戚より近くの他人」といった社会 関係が一般化した、という歴史罷織である。つまり、 すでに7-8世紀の時点において、日本の農村に生 活する人々同士の関係は血縁関係ではなく地縁関係 であった、とする理解である。もちろん、生活世界 における共同諸組織の存在がいっさい考慮されてい ない。現代の歴史学研究の水準からみると事実関係 としては支持しがたい歴史罷識であるといえよう。 だが、このような認織に立つ執合、隣保組織は容易 に<地縁の基層>として醐牢されてしまうこととな る。 すでに述べたように、前近代の農村社会では、人々 の生活の実体が、農業経営を主体としたイエムラ的 家連合組織にあった。当然の事ながらこのような認 故が当時の学界に存在しなかったわけではない。戦 前の時点で、すでに岩手県石神村の実態調査によっ て大家族制度や同族団といった家連合に関する研究 成果が有賀喜左衛門らによって公にされていたから である。しかし、この報告では、それらの言説-の 言及はない。むしろ穂積陳重(1921)の指摘に依拠 しながら、人々の形成する地縁組織・地縁共同体と して「結」と「講」を取り出し、それを近隣組織の 歴史社会的母胎と考えている。 いうまでもなく、 「結」とは家相互の非商品経済 的労働力交換制度であり、大量の共同労働を必要と する農業労働力の融通慣習である。この報告ではそ れを共同体組織であると考えている。さらにここで あげている「軌とは神道仏教等における宗教活動 の協働組織である。近年の経済史研究で注目されて いる商取引や金融組織としての経済許は、ここでは 想定の外にある。地縁・住縁組織としての「五人軌 が「軌と「講」を取り込んで、隣保組織として前 近代社会を通じて農村や都市の共同性の中心となっ た、とも理解できる叙述がなされているわけである。 もちろん、このような村落内の「共同性」の理解は 歴史的事実とは異なるが、すくなくとも戦前以来の 「五人組」研究の系譜を正統に引き継ぐものであり、 また戦前∼戦時期に総力戦体制下の隣組推進論者の 理解と認織をほぼ共有していることだけは確認でき るであろう。 以上のような理解にたって、このGHQ報告では、 日本の五人組制度を次のように考える。すなわち、 様式としては大化改新期に中国から導入した隣保制 度に基礎を置くものであるが、制度自体はそれ以前 から存在していたものであり、日本古来の共同組織 として理解できる、というのである。このような理 解から、われわれは、このGHQ報告の歴史罷織の 枠組みが、けっして戦後民主主義的近代化論と同質 なものでないことに気づかされる。繰り返すことに なるが、この報告書は当時の時代思潮となりつつあ った近代化給によってではなく、むしろ戦前期以来 日本の隣組論研究の世界で共有化されてきた、日本 古来の伝統性をもった共同組織としての隣保組織-五人組-隣組という視点で全体が叙述されているの である(8)。 報告書では、日本の隣保制度の歴史を三つに時期 区分し、その歴史的特徴と盛衰を叙述している。そ の時期区分法は歴史学的にみて大きな問題はない。 以下この報告書の叙述を手がかりにして、隣保制度 の歴史を概観しておこう。 2. 2. 2大化改新期から封建社会初期まで 隣保制度に関する最初の記録は、日本書紀の孝徳 天皇期652年に発見でき、大宝律令(701年)と養 老律令(718)年によってより明瞭に制度化された。 そこでは、法令として治安維持・経済的連帯責任・ 相互扶助等の義務が明示されていた。隣保組織は百 人規模の大きなものであり、 「隣軌というよりは 村の規模に近かったが、基本的に血縁的ではなく地 縁的な組織化がなされていた。しかしその制度の具

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体的実施運営を知る手だてはなく、実際は実施が困 難であったために9世紀未には制度自体の廃絶がな されたのではないかと考えられている。封建社会初 期である鎌倉時代(12世紀)の記録(武家名目抄) では、すでに内実を失い、制度的体裁だけが残って いると記されている。報告書では、隣保制度弱体化 の主な理由が律令的土地制度(班田収授法)の衰退 にあったと考えている。思うに、この古代律令体制 下の隣保制度自身、古代律令王朝による民衆支配を 目的とした権力的組織化であったため、実際の社会 経済的な生活組織を必ずしも反映しない形態で制度 的組織化をはかったものであろう。耕地配分・再配 分制度が解体するのと並行して隣保組織が弱体化し たのも、それが人々の生活組織とは帝離していた証 左と考えられるのである。 2.2.3 「封建制」下の日本 隣保制度としての五人組は、鎌倉時代初期に消え 去って以降、戦国時代に復活するまで「休止期間が 続いた」とされる。ただし、これは五人組制度の記 録がない、ということであって、住民の地域的な生 活組織が存在していなかったことを意味するわけで はないことが留意されるべきであろう。 16世紀から17世紀前半といった戦国未から近世 初期にかけての時期、近世的な村制度が形成される 過程で、五人組もまた記録のなかに兄いだされるよ うになる。これらは、当初は戦乱の無法に対する治 安維持の手段として制度化され、全国諸藩の帝権力 の確立とともに各地-と広められていった。さらに、 徳川時代初期の三代将軍家光の時代には、隣保制度 に特別な関心が向けられ、幕領のみならず、諸藩の 領地においても五人組が積極的に整備された。その 目的は、キリシタン禁教政策、戦国時代以来の浪人 の取り締まり、年貫徴収の徹底化、といった民衆統 治強化にあった。 しかし、 18世紀後半以降になると、隣保組織とし ての五人組は、その機能を大きく変えていくことに なる。制度機能の比重を治安・年貫負担機能から次 第に「道徳的経済的」な「諸管理機能」 -と移して いったからである。耕地の利用から住居や衣服の規 制、そして奪惨や怠業賭博の禁止にいたるまで、そ の規制の対象は農民や町人の生活全般にまで及んで いった。そのような規制は、五人組の連帯責任機能 を行使して実施されたのであった。 確かに、近世期の五人組や十人組といった組織は、 歴史学研究の分野からみてもその実態はつかみがた い。非血縁的組織でありながら、特定の家系集団組 織であり、また近隣組織でありながら必ずしも居住 集団ではなかった。われわれは、隣保組織として制 度化された「五人組」の実態が、必ずしも近隣集団 ではないという矛盾した事実が指摘されざるをえな かった点に、この報告の依拠した諸研究の限界があ ったことを指摘せざるをえない。ちなみに、このよ うな近世期の五人組はその多様な機能の中でもっと も重要なものとして年貢の負担機能が指摘されてい る。都市部よりは農村部の隣保組織が制度的に徹底 した支配の対象となり、都市部の隣保制度は「名目 的なものにすぎなかった」のであり、 「十分に発展 しなかった」とされている点は、歴史的事実認織と して充分注目すべきである。 2. 2. 4明治維新後第二次世界大戦期まで 明治初期の地方行政制度の揺藍期、隣保組織は地 方制度として統治の対象からはずされ、冠婚葬条、 協働労働、相互補助といった「純粋に自発的な近隣 集団」となったとされる。 まず最初に指摘されるのが、明治維新(1868年) の直後、五人組制度が廃止されたことである。これ は旧幕藩体制的な地方行政制度の解体と新しい行政 制度の構築の過程で実施されたことであるが、結果 的にこの制度そのものは衰退し、残存しても国民生 活と行政制度の中でごく小さな部分しか占めなくな った。もちろん、地域社会における治安維持を目的 とする五人組制度復権の動きも散発的にみられたが、 大枠では制度の復活はなく、 1888年の市制町村制の 施行に際しても、五人組制度は行政制度に組み込ま れることはなかった。 しかし日露戦争(1904・05)後、この五人組制度 が各地で復活し始める。戦後不況の中で農村の荒廃 が深刻化する中、 「日露戦後経営」とよばれる積極 政策とならんで地方改良運動が展開され、その運動 の中で各地の農村で「五人組」復活論が再登場した のである。しかし、その後1914年から始まった「大 戦景気」の波の中や農村社会も好景気を享受し、運 動もさほど長続きしなかった。他方、都市部では、 1923年の関東大震災をきっかけとして、東京をはじ めとする諸都市で隣保共助と親睦をはかる「町内会」 創設の動きが活発となった。旧藩時代の終鳶ととも に表だった組織を形成しなかった都市の地域住民相 互の共同関係が、このような形で組織されはじめた のである。 世界大恐慌の影響を受けた1930年昭和恐慌は、 日本の産業や農業に大きな打撃を与え、不況脱出を めざして農山漁村経済吏正運動が全国的に展開され た。このなかで再び農村地域を中心として「五人組」 による地域住民の組織化が叫ばれ、都市部の町内会

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運動とともに、 1930年代後半以降本格化し始める戦 時体制の動きの中にまきこまれていった。 1940年9月11日、内務省から「近隣組織に関す る省令(訓令一七号) 」が出された。これによって 東京・大阪・京都といった巨大都市を中心に町内会・ 隣組といった地域住民組織が戦時動員体制の末端行 政組織として組み込まれることになった。以後、近 隣組織は、生活物資の配給制度や軍事国債の引き受 け、また防空体制の末端活動など、戦時体制を担う 住民組織として大きな役割を呆たした。その後敗戦 にいたるまで、隣保制度は、銃後の必要にあわせて 立法化され、全国的に制度化されることになったの である。

3地方都市仙台における地域住民組織の

歴史的変遷

3. 1城下町仙台における近世期の地域住民組織 3. 1. 1城下町仙台の侍屋敷と町屋敷 仙台が近世的地方都市として建設が開始されたの は1601年のことであった。東北地方有数の戦国大 名であった伊達政宗がこの地に築城を企図し、家臣 団を集任させるための城下町を逐次建設していった のである。その結果、 17世紀後半には、ほぼ近世を 通じて維持されることになる城下町仙台の原型が完 成した。 城下町仙台の近世期における人口規模・構成・変 動の詳細を直接伝える資料は残存しない。しかし大 まかな推計によれば、 17世紀後半(寛文年間)で武 家・町人家族あわせて3万人余であったと考えられ、 以後漸次増加して18世紀半ばには4.5万人余となる。 しかし1780年代(天明期)と1830年代(天保期) の凶作・飢健の影響によって人口増加に抑制力が働 き、以後幕末までほぼこの人口規模を維持すること になった。ちなみに明治初期の人口は5万人余であ った(9)。 近世期の伊達辞(規模は現在の宮城県+ α)にお いて、武家・寺社・町人等を含む城下町人口は、藩 内人口の1割程度であったといわれる。近世期の城 下町の構成は、一般的に、大きく侍屋敷地(丁)と 寺社地、職人屋敷地、そして町屋敷(町)に分けら れていた。仙台城下の場合、何故か残された城下図 面によると、大部分が侍屋敷地として軍川振られ、 若干の寺社地・職人町が置かれた以外の残りは町屋 敷地であった。町屋敷地は城下の主要な大路の両側 に沿って割り当てられており、いったん大路から小 路に入ったり城下の周辺部にいくと、そのほとんど は侍屋敷地として割り振られていた。武家と町人の 人口比はおよそ2 : 1で一定していたので、人口密 度は町屋敷地がはるかに桐密であった。概して近世 期の仙台城下は、樹木や庭地の豊かな侍屋敷が一面 に広がり、主要な通りの両側に密集した町屋敷がた ちならぶ地方城下町のたたずまいをその景観の特徴 としていたのである。 もちろん城下の土地は、すべて伊達藩から拝領し たもので、武家も町人も土地の最終的処分権は持た なかった。土地を拝領する町人は義務として役を負 担した。しかし18世紀後半以降になると町屋敷地 を中心として屋敷地の売買や貸借が複雑に行われ、 町屋敷地は屋敷地の所有者・居住者・借地人が複雑 に混在することとなった。 3. 1. 2侍屋敷地における地域住民組織 伊達家の家臣武家は、辞内部の職制に従って最小 単位としての「五人組」に束ねられた。武家は本来、 戦時の軍隊組織として編成されていた。しかし、平 時にはその組織がそのまま帝の官僚組織として機能 したため、武家は藩の行政事務一般を担当した。し たがって武家の「五人組」はあくまで官僚制度のな かの末端組織にほかならなかった。 侍屋敷地は城下の多くの町域を占めていた。しか し、 「TJ名が職制によって定められているにもか かわらず、武家が津から拝領する屋敷地の配置は、 必ずしも武家の職制に基づく「五人組」を単位とし ていたわけではなかった。そのため、武家は居住す る「TJや「小路」ごとに、家並みに沿った「家並 五人組」という地縁的な住民組織を編成することが 命じられた。 この「家並五人組」は、治安と相互扶助を目的と する地域住民組織であった。しかし、それら組内部 における相互の日常生活上の共同性はけっして強い ものではなかったといわれる。たとえば屋敷前の喧 嘩の仲裁とか行き倒れ者の通報、また藩主参観時の 道路清掃や閉門を命じられた家への緊急時の援助な どのような生活道徳の義務が求められた程度であっ た。これは、武家の生活が事実上近隣関係を中心と してではなく、職制を中心として組み立てられてい たからである。さらに、近世を通じてみられた現象 であるが、伊達藩の家臣は地方知行がみとめられて いたため、かならずしも城下に屋敷を構えなければ ならないという強制はなかった。したがって、特に 18世紀後半の天明の凶作・飢健をきっかけとしてみ られたことであるが、家臣武家が城下の屋敷に居住 せず、 r家並五人組」に属さない家臣武家も少なか らず存在するようになったのである。その結果、北

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七番丁から北十番丁あたりにかけての侍屋敷地には 空き地が多くみられるようになった(仙台市史編纂 委員会1997: 118) 。 ただし治安上の機能は重要で、城下の道路辻毎に 置かれた「辻番所」の勤め番が「家並五人組」単位 で義務化されていた。城下には60-70の「辻番所」 が配置され、城下の治安維持に大きな役割を果たし たが、それを支える組織がこのような武家「家並五 人組」にはかならなかった(仙台市史編纂委員会 1955: 113・123) 。 3.1.3町屋敷地における地域住民組織 商人層を中心とする「町人」は町屋敷地に居住し、 一括して町奉行の支配下に置かれた。城下には主要 な大通り沿いに24の「町」がおかれ、 「町列」と 呼ばれる序列原則にもとづいて支配された。城下の 目抜き通りであった「大町三四五町目」 、 「肴町」 、 「南町」、 「立町」、 「柳町」、 「荒町」の6つの 町は最も高い格付けがあたえられた。 町毎に役人として「検断」と「肝軌がおかれ、 町民と町奉行との間の支配行政や町人からの上申処 理などの町内行政事務にあたった。この役職は世葬 職であり、最も高い格付の「大町三四五丁目」では 青山家・只野家が代々検断をつとめたことが有名で ある。 町屋敷地においても「五人組」が置かれ、町内に おける行改支配の末端に位置する住民組織として機 能した。この「五人組」組織は、治安維持や相互扶 助よりも「町役」 (労役や役銭)徴収の役割が最も 重要なものとされていた。したがって、この組織は しばしば「屋主組合」などとよばれ、屋敷地を名詩 している町人だけが組の成負となった。時代がくだ るにつれて屋敷地の売買や貸借が多数行われるよう になると町内の住民構成も複雑になり、 18世紀後半 以降になると、町内に居住してはいても「五人組」 の成員にはなっていない住民もその数を増してきた。 また大店の商人など、同じ人物の名前が町内外の複 数の「五人組」の中に成員として登録されている事 例も多くみられるようになり、当時の「五人組」が 隣保共助の地域住民組織的性格をほとんど持たない ものであったことを知ることができる(仙台市史編 纂委員会1954:134) 。 現実の町人の生活世界において大きな力を持って いた共同組織は、行政支配の末端組織である「五人 組」というよりはむしろ職業毎に形成された仲間組 織であった。特に店持ち商人の多かった仙台にあっ ては、各種商人仲間が商いの分野においても日常生 活の領域でも大きな力を持ち、町人生活の共同性を 代表する存在であった。塩釜許のような許組織に属 さないと江戸の問屋層との商取引が叶わない例もあ り、そこでは塩竃で毎年3月に開催される寄り合い が重要な商人仲間維持のための機能を果たしたので ある。 3. 2明治維新以降における行政機構の改変と地域 住民組織 3. 2. 1城下町仙台の解体と行政組織の近代的再編 1860年代未の明治維新によって、伊達藩は廃棄さ れ、新しい地方行政機構が形成された。版籍奉還、 廃滞置県といった幕藩体制の廃棄手続きによって、 旧城下町の構造は制度的に一変することになる。ま ず、洋から拝領していた侍屋敷地および町屋敷地は、 地租改正の過程で、旧伊達家臣であった士族および 町人の所有地とされた。その後、士族は秩禄処分な ど身分制度撤廃にかかわる一連の政策の結果、旧町 民とかわらない平民身分となり、旧侍屋敷地もまた 次第に住民構成を変えていった。 明治維新直後の1872 (明治5)年における戸数は ll,855戸、総人口は52,808人であった。そこでの 武家(士族・卒族等)と町人(平民)との人口比は、 ほぼ55:45であった。近世期を通じ、次第に町人人 口が増大していた事実を読みとることができる。た だし、武家は町人とは異なる共同組織と地域住民組 織とを形成していたわけであるから、明治維新によ って武家組織が解体され、なんら特権を持たない平 民として町人世界と同質化せざるをえなくなると、 旧武家・町人は都市地域仙台に、 「共に住まう」者 として均質な「住縁」関係を作り上げざるをえなか くなった。人々は、壊れゆく旧社会の共同性を継受 しつつも、旧藩体制の秩序組織とは異なる新たな地 域住民相互の関係と新たな生活秩序とを創り出すし かなかったのである。 他方、地方行政制度の変化は大きかった。簡単に その動きを辿ると、まず1872年(明治5)年4月、 全国的に「大区小区制」が施行されこととなった。 仙台でも「区制」がしかれることとなり、旧城下(市 井を含む)一円がr第-大区」として一つの行政区 とされた。その行政区内部は、旧武家屋敷地が′J、一 区から小五区まで五つに区分され、旧町人屋敷地 (24町)が小六区と小七区の二つに区分された。こ の区分は「戸籍区」ともよばれ、明治政府による戸 籍調査目的の便宜的な作業として行われた区分であ った。そのため、旧町(丁)の町制はほとんど無視 され、七つの小区は、旧藩時代のさまざまな地域行 政的遺産をほとんど引き継ぐことがなかった。しか し、この大区・ /ト区に新たな行政単位としての機能

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がなし崩し的に付与されると同時に、旧城下の町制 にそって維持されてきた旧来の地域住民秩序との間 でさまざまな乱按を生み出すこととなった。 このような問題は大なり小なり全国各地で生じて いたことであったから、政府は地方行政組織の抜本 的再編成を全国規模で迫られることとなった。そこ で実施されたのが、市制・町村制の先駆けである「三 新法」体制である。これは、 1878 (明治11)年の 太政官布告第17号「郡区町村編制法」 、同年7月 22日布告第19号「地方税規則」 、および区町村に とっては1880 (明治13)年4月布告第18号「区 町村会法」 (通例は1878年の「府県会規則」 )の 三つの法令によって実施された地方行政組織再編政 策である。 「郡区町村編制法」第二条は「那町村ノ 区域名称ハ総テ旧二依ル」と定め、この条項に基づ いて、旧仙台城下第1大区は「仙台区」として新た な行政組織を立てあげたが、その組織は必ずしも旧 城下の町割りや住民の地域秩序を反映するものでは なかった。というのも、仙台区は一人の区長による 一つの行政単位として他の町村と同様の行政組織を 形成したからである。区内は旧城下一円であったか らこれを五つの「部」に区分したが、必ずしも旧町 割りを反映していたわけではなかったし、各部には 「町場持」とよぶ担当者を4-6名配置されただけ で独立の行政単位とされたわけではなかった。した がって、 1882年10月になると各町を組合制として 組毎に組長を置く旧来の地域秩序を反映する行政組 織が「復活」した。その組合数は1885年に140組、 翌86年にこれを改組して56組とし、少しずつ手直 ししていった。 3.2.2仙台市の誕生と区制時代の地域住民組織 明治初期における地方行政組織の再編制は、 1889 年の市制町村制の施行によってほぼ終了した。この 年、全国で36ヶ所に「市」が誕生したが、その中 の一つとして宮城県の仙台市が誕生したのである。 仙台市の市域は仙台区をそのまま踏襲し、同時に 「組」を廃止して、市内226の「字」を50の「区」 に再編成した。各区には行政事務担当者としての区 長(1名)がおかれたが、以後何度か「区」分けの 改正が行われ、 1896年には区長が廃止され、かわっ て吏員が配置されることとなった。だがわずか二年 後の1898年に、市内のr区」を半分以下の20に再 編統合すると同時にふたたび区長制を敷いた。明治 維新直後から30年以上にわたって行われてきた仙 台市内「行政区」の改廃再編作業はここでほぼ終了 し、以後周辺地域の合併・行政区の新設以外、区域 は固定することになった。しかし、このような頻繁 な市内行政区の改廃作業をせざるをえなかったのも、 この間市域の急激な人口増大(1889年時点で仙台の 人口は90,231人、戸数16,806戸で、 17年間で二倍 近くの規模になり、全国上位8番目の都市となった) をみたことと、行政が旧城下において継受されてき た地域住民の社会秩序をどのように統合処理するか、 試行錯訳せざるをえなかったからである。 一連の「区」の改廃統合のプロセスから透けて見 えるのは、末端の行政組織化に際してできるだけ旧 来の地域住民秩序を利用しようとする試みと、それ とは切り離された新たな行政秩序を作り上げようと する試みのせめぎ合いである。結果的に、仙台市で は、末端の地域住民の生活秩序を行政組織から切り 離し、新たな広域的な行政機構を作り上げることに なった。それが1898年以降の行政区制度であった といえよう。人々が旧城下時代から継受した地域住 民生活秩序は、以後、行政組織とは位相を異にする 日常的生活世界の「共同性」として市民生活の<地 縁の基層>をなしていくこととなったのである。 市民生活と関わる行政的施策と地域住民秩序の間 に生じた敵肺の事例をあげておこう。仙台市は1895 年、市内を10の衛生区にわけて区毎に衛生組合を 組織し、補助金を交付して奨励につとめた。しかし、 このように行政区とも旧来の地域住民秩序とも区別 された衛生組合の組織化は仙台市の行政主導で進め られたが、地域住民による積極的な協力が得られず、 衛生組合間の調整にあたる連合組織の結成も成功し なかった。その結果1905年に伝染病の流行をみる こととなった。また1900年の汚物掃除法に基づい て5つの掃除区を中心に市内の清掃が定期的に実施 されるようになったが、これも地域住民の参加協力 がなかなか得られず、行政主導で行われざるを得な かっ.た。これら市民生活に直接関わる諸事業がなか なか市民協力・参加型にならなかった大きな原因は、 すでに述べたような歴史的経過によって「行政区」 と地域住民の共同性との間に生じていた「隙間」の 存在にはかならなかったのである。 3. 3戦時体制下の行政組織と住民組織 3.3. 1戦時体制下の「公会制」 1920年代半ばから30年代前半にかけて、仙台市 内では自警団が結成されはじめた。 1940年代に市内 133団(団員2万2千余名)を数えるようになる自 警団組織は、各町またはその内部の有志を単位とし て自発的に結成されたものとされ、犯罪予防・災害 防止と救済・衛生思想の普及などその目的を多面的 にもちながら警察・消防と密接な連携して運営され たといわれる。だが、この背景には行政側からの強

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い後押しがあったことが指摘されなければならない。 この自警団結成とあいまって戸主会の結成も相次い だのであるが、これは1932年仙台市教育委員会の 建議にもとづいて準則を示すことにより、仙台市が 各町内在住の「戸主」に自主的な結成を促したもの であった。町内戸主間の「融和親善を図り共存共栄 の実を挙ぐるを以て目的とした」というこの組織臥 翌1933年12月に自警団と一緒になって「連合戸主 会」を組織した。事務所を市役所に置き、創立総会 と評議員会を開いて会長に仙台市長を推薦したとい うから、自主的な町内会組織というよりは、むしろ 事実上の官製組織であったと考えて良い。 1934年5 月には戸主全数70、自警団43,その他6合計119 を数え、さらに1940年8月になると戸主会119、 自警団84で合計190を数えたとされる(10)。 ところで、 1935年4月以降配布されるようにな った仙台市広報の配布先は庁内、市会議員、区長、 市内区要所、奉仕委員、戸主会、衛生組合長などで あったとされる。しかしその発行部数はわずか720 部にすぎず、当時の広報なるものが、市域全体各世 帯に広く配布されたものではなかったことを確認で きる(仙台市史編纂委員会1955: 221) 。当時の市 行政が地域住民とつながる公式のルートはきわめて 限られたものだったのである。またそうであるが故 に、地域住民-の行政情報の伝達は、きわめてイン フォーマルで不定形な非行政組織としての住民組織 ないし日常的共同性に依存するものにならざるをえ なかった。すでに京都や大阪といった大都市では、 1920年代後半以降、関東大東災をきっかけとして自 警目的で結成されはじめた町内会組織が広汎なひろ がりをみつあった。仙台市では、 1933年以降ようや く行政主導で「戸主会Jなる官製の町内会的住民組 織が形成されはじめたわけである。しかしそのよう な行政主導の戸主会的地域住民組織の活動にはおの ずと限界があり、他のインフォーマルな地域住民の 「共同性」とでもいうべきさまざまな生活関係によ って支えられる必要があったと考えられるべきであ ろう(ll)。 1940 (昭和15)年9月、日中戦争の長期化が自 覚され、戦時体制が強化され始めると同時に、内務 省訓令第17号「部落会町内会整備要領」が出され、 各市町村に国策透徹隣保団結国民経済生活の地域的 統制単位として部落会ないし町内会の結成が要請さ れた。仙台市では要領で想定していた町内会組織が 存在していなかったこともあってか、すでに8月時 点で予め「仙台市公会及び連合公会設置規定」を策 定可決し9月になると即それを公布した。11月未ま でにそれぞれの学区毎に341の公会が結成され、こ れが18の連合公会に分属して仙台市「固有」の町 内会制度である「公会制」が発足したのである。そ れに先んじ、仙台市が誕生した1889年以来半世紀 の歴史を持つ「区長制」は廃止され、その下で行政 を補完した「戸主会」も9月9日の「連合戸主会総 会」で廃止された。従来戸主会的な地域住民組織で は充分組織化が徹底できなかった地域住民の共同性 は、隣組を末端組織とするより徹底した全国一律の 部落会・町内会制度によって組織化が再度試みられ たのである。翌年、周辺の市内農村地域でも43の 農家組合が改組して38の農事実行組合に法人化さ れた。これは都市部の公会と同等のものとされ、連 合関係を保つこととされた。さらに戦時体制下の地 域隣保互助体制に基づき、それぞれ防空団長-防空 地区長-防空郡長を委嘱され、地区防空組織として の機能を担うこととなった。 敗戦色が次第に濃くなる状況の中で、仙台市は 1943年11月「仙台市公会設置規定及同規約準則」 を定め、公会隣組の組織強化を図った。具体的には 公会の構成を町・部落を中心とした500戸程度の規 模とし、従来の連合公会を廃して、公会長による「市 常会」を組織する。これによって国策の浸透と上意 下達の徹底を目指し、また各公会の内部運営に必要 な部門制を導入し事務員を置くことにした。これら は、戦時体制下に生活必需物資の配給機関を整備徹 底するための処置であった。結果として市内および 支所管内あわせて164の公会が置かれ、運営される こととなった。 これら「公会制」は、総じて、町や部落といった 旧城下以来の共同の近隣秩序をできるだけすくい取 るかたちで組織化・再編成を行おうとしたものであ った。しかし、生活物資の配給問題などにしばしば 乱棟が生じたことからもわかるように、個々の家々 が生活の必要から作り出した近隣的共同性としての さまざまな生活関係を充分すくい取ることができず、 政策遂行と組織実態との間にさまざまなずれが生じ たのであった。 3. 3. 2戦時体制の舶境と占領下の公会組織 1945年8月の敗戦の後、一連の戦後処理、およ び戦後物価動乱期の統制経済時にも戦時中の公会制 がそのまま動員され、一定の経済政策的な役割を果 たしたということができる。もちろん、ヤミ価格と 統制価格の差が歴然と存在する中で、物価統制政策 や配給制度が充分機能しなかったことからも明らか なように、戦時中と同様、仙台市の公会制もまた人々 の生活上の必要性を充分満たすような機能を果たす ことは事実上不可能であった。人々の共同性とのギ

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