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ミレナ・イェセンスカーのモード論(二)(ライフスタイル編)―1920年代チェコに関する文化論的考察―

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ミレナ・イェセンスカーのモード論(二)(ライフ

スタイル編)―1920年代チェコに関する文化論的考

察―

著者

半田 幸子

雑誌名

ヨーロッパ研究

14

ページ

77-103

発行年

2020-03-27

URL

http://hdl.handle.net/10097/00131604

(2)

(ライフスタイル編)

—1920 年代チェコに関する文化論的考察 —

半 田 幸 子

キーワード: ミレナ・イェセンスカー/ 1920 年代/チェコ文化史/ライフ スタイル/シンプル

はじめに

 本研究は、両大戦間期チェコスロヴァキアで活躍したジャーナリスト、 ミレナ・イェセンスカー(Milena Jesenská, 1896-1944)の 1920 年代の記事 を取り上げ、彼女がモードという対象とどのように向き合い、どのように 捉えていたのか、またモードを通していかなるメッセージを読者に発信し ていたのかについて考察するものである。  イェセンスカーに関する先行研究については、本誌前号(『ヨーロッパ研 究』第13 号)に掲載の拙稿「ミレナ・イェセンスカーのモード論(一)(服 装編)―1920 年代チェコに関する文化論的考察―」に記したため、本 稿ではごく簡単にまとめておく。イェセンスカーに関する研究は、フランツ・ カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)との関係が研究者やカフカの愛読者の関 心を引き寄せ、そこから、彼女の劇的な生涯にも関心が及ぶという過程を 経てきた。彼女のジャーナリズムに関する研究は、チェコスロヴァキアの 体制転換後の1990 年代以降に資料に当たりやすくなり、2000 年代以降に なってようやく成果が出始めたところである。  筆者は、前編に引き続き、イェセンスカーが1920 年代に多くの数を手が けたモード記事に注目し、彼女のジャーナリストとしての活動の一端を明

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らかにしようと企図しているが、前編では、服装論に焦点を当てたのに対 して、本稿では、1920 年代の女性のライフスタイルに関する分野に光を当 てる。1920 年代の女性のライフスタイルもファッションと同様に、とりわ け日本ではほとんど取り上げられることがない。彼女がどのようなライフ スタイルを提案していたのか、それがどのような背景のもとに展開された のかについて明らかにする。ただし、彼女のライフスタイル論は、モード 記者として執筆された記事のなかで展開されたものであり、時代や記事の 傾向は前回の服装論で詳述したものと大きな差異があるわけではないため、 それらについての考察は本稿では割愛する。  ここで、ライフスタイルの定義を確認しておきたい。ライフスタイルとは、 『広辞苑』第七版では、「生活様式。特に、趣味・交際などを含めた、その 人の個性を表すような生き方」とされ、『大辞林』第三版では、単に「生活 の仕方。生活様式」とされており、含有する意味が幅広く想定される言葉 である。ただし、特定の分野における辞典および事典では、定義がより限 定されたものにもなる。本稿では、イェセンスカーの記事を分析する上で 筆者が「ライフスタイル」として捉える範囲をもっとも適切に表現した、『日 本国語大辞典』における定義「生活の様式・仕方。また、人生観・価値観・ 習慣などを含めた個人の生き方」を用いることとする。  本稿の構成は次のとおりである。まず、イェセンスカーがもっとも信奉 した「シンプル」を軸に、彼女が求めた理想的な精神論を時代背景との観 点から考察する。次に、大量生産・大量消費の時代を背景に、彼女が「個性」 をどのように捉えたのかについて検討する。精神性を確認した上で、生活 の仕方の具体例として身体の手入れや衛生、スポーツを取り上げ、「シンプ ル」の精神論がいかに反映されていたのかを明らかにする。最後に、人生観・ 価値観・習慣などのすべてが含まれる個人の生き方として、彼女が理想と したモダンな女性像について考察し、女性読者に向けていかなる理想を提 示していたのかを明らかにする。

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1.精神論におけるシンプル

 1920 年代を通して、イェセンスカーにとって「シンプル」は重要なキーワー ドであった。彼女にとってのシンプルとは、装飾を排除し、実用性や合理 性を重視することと言い換えることができるが、それは、モードやインテ リアといった物理的な場面においてだけでなく、思考や精神といった観念 的な側面においても重視されるものであった。  背景には、イェセンスカーの20 歳前後(18 歳から 22 歳)での戦争体験 の影響が大きかったものと考えられる。1923 年初出のエッセイ「原因、あ るいは結果?」の冒頭の一段落からは、イェセンスカーが戦後という時代 をどのように捉えていたのかを読み取ることができる。     活発で能力のある人がこれほど少ないというのは確かにただの偶然 ではない。戦中戦後のあらゆる混乱を経て、うわべだけのそれなりの 平穏とごまかしの安定のなかに私たち全員がいて、その精神的な成長 は、「どう生きるか」というどうすることもできない問いとともに過去 10 年のうちに過ぎ去った。私たちの世代は、エネルギーや有益な才能 の代わりに知的な葛藤の苦悶という行動的な無知を、幼少期に与えら れた。古い世界が崩壊する様を私たちは見てきた。私たちの目の前に あるのはまだ新しい世界ではない。新しい世界を創造するよう私たち に託されている。だが、私たちは、まさにこの大惨事によって精神的 に打撃を受けた唯一の世代である。人間を作り変えることは不可能だ が―少なくとも生まれ変わる必要はあるだろう―行動するために。人 間は、行動するために生まれるのだ。私たちは傾いた表面上にあるボー ルであり、大崩壊の結果としてただ転がり落ちていくばかりで、だか らこそ、崩壊してしまった世界に、思考的にも精神的にもいまだに留 まり続けているのである(1) 歴史上、初めての総力戦ともなった第一次世界大戦が市民の精神に与えた

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影響は計り知れないものである。イェセンスカーが冒頭で指摘するように、 「うわべだけ」は平穏が訪れ、「ごまかしの」安定が保たれてはいたが、精 神的には疲弊し、生きることで精一杯だった時代を経て、呆然としている 様子がうかがえる。それだけ、戦争の影響を大きく受けていたことはこの 一節から明らかである。  だが、これは、あくまでも自らの体験を含め、時代を物語った前置きで ある。この次の段落でイェセンスカーは、この戦争という大惨事の結果誕 生した精神分析論について言及している。フロイトやアドラーの精神分析 学や潜在意識を取り上げ、潜在意識を認識することの不可能性や、自己や 他者の欠点の原因を探ることの無意味さを主張している。引用にもある通 り、自分たちの世代が立て直さなければならないことは認識していた。ま た精神分析論を取り上げていることからも分かるように、精神分析や潜在 意識への関心は間違いなく高かったといえる。  一方で、新中間層の拡大に伴って生じた人間関係の複雑化にも関心は向 けられた。人との距離感の問題について、1923 年 5 月の記事において、「気 をつけなさい、どの相手であっても細心の注意を払いなさい。それから、 人と人との距離は目眩がするほど遠く、見渡せないほど遠いのだというこ とを認識しなさい(2)」と諭している。また、その遠さについては、「強い自 制によって一瞬にして近づくことはできるが、たった一つの小さな仕打ち によって永遠に離れてしまうぐらいの距離(3)」と付け加える。イェセンス カーの時代より、はるかに複雑化した現代社会を生きるわれわれにも通じ る真理をつく表現であろう。そのような距離感を意識するからこそ、読者 には、嫉妬深くならず、他人を非難せず、相手を賞賛し、相手を気遣うよ うにと説く。その根底には何があるかといえば、先の戦争および戦後の体 験による社会構造および人間関係の変化に対応する術が必要とされたので はないだろうか。  精神論におけるシンプルとは何を指すのだろうか。端的にいえば、芯を 持つこと、内面の自信を持つことである。内面の自信について、次のよう に語っている。

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   穏健とはしかしながら、もっとも複雑な性質であり、もっとも難しい 美徳である。なぜなら、内面の自信もそこに含まれるからである。だ が、生まれながらに自信のある人間はいない。自信とは勝ち取るもの であり、美しいもの、賞賛に値するもの、取り戻すもの、それから自 信には、すべての価値に対する自覚的で正しい評価が含まれるのだ。 それを手に入れる人とは、絶望することなく失うということを学んだ 人、多くを欲張るとか自分の貪欲さの穴埋めのためだとかでなく手に 入れることのできる人、そういう人たちなのだ。分かち合うことを学 んだ人、それから人間の自信が物的価値のなかにあるのではなく、広 く開かれた心のなかにあるのだということを最終的に知った人である。 広く開かれた心は常に間違いなく本物の芯のもとに引き寄せられ、そ れは、どんな状況であっても、ほんの些細なことであっても、重要な ことであっても、最奥のもっとも簡明な基礎部分を注意深く確かめる。 確認する場所が深ければ深いほど、認識の範囲は狭まり、最終的には 磁石のようにもっとも明快でシンプルなところで止まるのだ。(4) つまり、内面の自信というのは、心を広くし、自らの貪欲に屈せずありの ままを受け入れる人こそが手に入れられるものだというのである。広く開 かれた心というのもまた、キーワードとなるであろう。人と分かち合うこ とを学び、互いに受け入れ合い、どんな状況であっても、根底の部分を注 意深く観察し、物事を見極めることができれば、内面の自信を手に入れら れたといっても良いということだろう。また、その根底の部分を、奥深く 見ていけば、明快でシンプルなところにたどり着けるというのが、このイェ センスカーの内面の自信とシンプルな精神に関する考察である。精神論に おけるシンプルの追求とは、共和国としての独立、第一次世界大戦の惨劇 や戦後の混乱のなかでの社会構造の転換、大量生産・大量消費社会への突入、 科学技術の発達、急速な都市化による人間関係の複雑化がもたらした産物 とも言えるかもしれない。

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2.大量生産・大量消費時代における個性のあり方

 イェセンスカーが、『論壇』に記事を書き始めたのが1920 年、モードの 特集ページを組む別刷りの「モード評」として発行が始まったのが1921 年 5 月である。このときは戦後から 2、3 年で、まだモードが紙面を増やすこ とに対して一部では抵抗もあった。だが、1920 年代も半ばになると、戦後 不況から脱し、新しい技術も次々に誕生し、世の中は明るい未来に希望を 抱いて浮き足立つ面も見られた。世界規模で「狂乱の時代」と後に呼ばれ るほど、技術や文化が発展した時代である。なかでも、大量生産・大量消 費が可能となり、また新中間層が誕生し、都市化が進み、社会構造が急激 に変化したことはこの時代の特徴であるといえよう。女性の社会進出も然 りである。  「ロボット」という言葉を生み出したことで有名なカレル・チャペッ ク(Karel Čapek, 1890-1938)の SF 劇『ロボット R.U.R. (Rossum’s Universal

Robots)』(1920)は、1921 年 1 月 25 日に行われた国民劇場での上演が初演 である。この戯曲の邦訳書には、ロボットという言葉の由来にまつわるチャ ペックの言説が3 つ紹介されている。その中の一つに、1924 年 6 月 2 日付 のロンドンの『イヴニング・スタンダード』に掲載されたものがある。    近代的な条件というものは、本来人間が慣れ親しんでいる気持ちのい い生産状況を意識させなくするということに気がついて、私はびっく りさせられた。電車の中も、立席も、羊が並ぶようにではなく、機械 が並ぶようにぎっしりと詰まっていた。そこで人間について、個人と してではなく、機械として考えることを始めた。家に帰ってから働く 能力はあるが、考えることのできないものをどう表現したらいいのか 考えてみた。このアイディアがチェコ語の言葉―ロボット―で表 現されたのである(5)。 この描写からは、都市化が進み、満員の電車の中に押し込められた個性を

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失った人々の様子が目に浮かぶ。さらに、その様子から連想されるのは、人々 が日々機械のように働き、そのようにして働いた結果、さまざまなものが 大量に生産され、またそれが大量に消費される社会である。人間がそれ以 前までに慣れ親しんできた生産環境とは明らかに異なるものへと変化し、 その環境を近代的な条件として受け入れていかなければならなくなったの である。時代の変化に敏感な作家が、すでに積極的に受容されている機械 文明に対して、脅威を感じ、不安を抱いたことが読み取れる。  同じ頃、イェセンスカーは大量生産社会や機械文明に対して、チャペッ クのような悲観的な見方ではなく、大きな関心や希望、夢を抱いていた。 たとえば、鉄道や映画について、たびたび好意的に取り上げた。1923 年 8 月11 日の記事「10 コルナ以内の喜び」の中では、地下鉄について、次のよ うに述べている。    目的なしに、時間の海とともに終着駅まで行くのは幸せではないだろ うか?ほとんど明かりのないトンネル、汽笛、看板、知らない人々。 列車はしばし深みから上がり、地上に姿を現し、通りの一部に轟音を 立て、少し新鮮な空気を拾い上げる(6)。 この描写では、通勤に使う無機質な乗り物としての地下鉄ではなく、どこ か夢見心地な、ロマンティックな乗り物という印象である。機械文明に対 してある種のロマンを抱いていた。また、機械文明がもたらした大量生産・ 大量消費社会に対する世間の不安について認識こそはしていたが、イェセ ンスカー自身はことさら不安視するのではなく、冷静に受け止めていた。 そのことを明確に記した記事がある。     現在、世の中には大きな不安が横たわっている。それは、個人主義 はどうなるのだろうか、ということである。大量生産や集団教育は、 人口の増加とともに拡大し、われわれの数はますます増加し、下から は人々が成長し、上からは人々が衰退してきて、人々は平均化し、製

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品と思考の大量生産に支配され、工場生産は千単位で同じ製品を産出 する。われわれが持つものはどれも同時に他者のものでもあり、ある いは少なくとも他者のものにもなりうるものでもあり、多くの人にとっ て入手可能なもので、決して自分だけのものを持つことなどあり得な い。また、何かを指して、これは私だけのものだとも言い得ない、と いう印象を私は抱いている。アメリカから帰国した人々は、大量の同 じものや、同じ環境で同じ教育を受けた大衆に対して不満を募らせて いる。彼らは、個人の成長を組織的に消し去ることによって文化が衰 退すると指摘している。さらに、私たちが皆同じになる時代に世界が 消えると主張し、未来への懸念を表明している(7)。 人口の増加や機械文明の進歩、都市化、新中間層の拡大により、大量生産、 集団教育の時代を迎え、個性が埋没する恐れを人々が抱き始め、世間的に 大きな不安となっていたことが窺い知れる。これに対して彼女自身は、悲 観とは程遠い持論を展開した。不安に対して次のように述べている。    私にはそれが大げさな不安のように思われ、私に言わせれば、それは それほど重要なことではない。私が思うのは、何よりもまず、いわゆ る個性を私たちがあまりにも過大評価しているということだ(8)。 「いわゆる個性」とは、イェセンスカーの言葉で言えば、「ちっぽけな個性」 であり、「それを発揮するためにこのような手段[訳注:外見]を用いる」 ものと説明される(9)。世の中が、この「いわゆる個性」すなわち見せかけ の外見の個性を重視することを警戒したのである。彼女にすれば、本当に 個性的な人は「外見で表現するのではなく、その行いで示す(10)」ものだと いうのである。具体的には次のように説明する。    [風変わりな人は]普通ではないものを作り、自分の仕事を風変わりに こなし、話し方や行動方法が確立されていて、その人たらしめる何ら

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かの秘密の法則が存在するのだ。それから本当に自分らしくいるほか なく、することすべてにその人らしさが出るのである。 外見が画一化することに対する世間の恐怖に対して、外見の心配をする前 に、自分自身を確立し、自分らしくいることに集中すれば、外見が画一化 したとしても個性は保たれるという主張である。モード記者でありながら、 外見の画一性を心配しないあたりが、モード記者としてまさに風変わりと も言えるが、この外見の画一性については、別の記事でも肯定的に述べて いる。     シンプルなデザインが流行しているならば、裕福な家庭の女性も店 の若い女性も良い服を着るだろうし、今日の街の通りを見たならば、 おしゃれなワンピースを身にまとい、短いストレートヘアにシンプル な帽子をかぶった綺麗なお嬢さんをたくさん見かけるだろう。外見の 体系的な単純化によってこの姿にたどり着いたのだ。少女は皆ほとん ど同じ見た目で、まるで制服のようだが、しかしそれが綺麗ならば、 これ幸いである。それを外見の最大の文化的進歩とみなそうではない か(11)。 下線で示したように、ほとんど同じ見た目だとしても、見た目が綺麗ならば、 それでいいというのである。見た目の綺麗さとは、シンプルなヘアスタイ ルと服装なのであって、それはすべて洗練された結果だからである。つまり、 チャペックが大量生産、大量消費に代表されるようなマスの時代の到来に 対して、本来の人間社会が持つ自然法則との不一致という点を危惧した一 方で、イェセンスカーの視線は、人間の中身や外見が洗練されているかど うかという点に注がれていたわけである。  加えて、外見が画一化することは、社会階層の外見的区別がなくなる点 でも好ましいと捉えていたと考えられる。それは、前号でも取り上げたこ とわざ「服が人を作る(12)」の流行と、イェセンスカーがそれを反転して多

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用した表現の関係性において示されている。着る服によって社会的地位も 上下するという文意のことわざを反転させて広めようとする彼女の姿勢は、 彼女がこのことわざに対して否定的だったことを示している。したがって、 ことわざに対する否定的な姿勢と、先に述べた外見の画一化に対する肯定 とを合わせて考えると、社会階層の外見的区別がなくなること自体を肯定 していたと考えることができる。  技術の進歩によって、人間が人間らしさを失っていくかもしれないと危 惧され始めた時代に、イェセンスカーは人間らしさを失うかどうかは、自 分次第だと主張した。現代のファッション業界でも崇められているココ・ シャネル(Coco(本名 Gabrielle)Chanel, 1883-1971)もまた、マスの力を肯 定した(13)。イェセンスカーもシャネルも、外見の突出した個性を求めてい ない点で共通している。外見の画一化によって個性が失われるという考え を両者とも否定していたのである。その根底にあるのは、個性において重 要なのは外見ではなく内側の核たる芯の部分だと考えていたからではない だろうか。加えて、イェンスカーは、社会階層の外見的区別が目立たなく なる点においても、外見の画一化を歓迎していたのであろう。  既製服の普及によって外見が画一化し、分業制が広まり、人々が組織の 一部として機械のように働くようになった現代社会の始まりにおいて、急 激な変化に不安を感じるのが一般的であったなか、個性を失わずにいられ るかどうかはすべてその人次第だとする考えは、先を見据えた先進的なも のと言える。また、大量生産・大量消費社会突入という未知なる時代の不 安を読み取りながらも、イェセンスカー自身が、世間に押し寄せる不安に 飲み込まれずに、自らの考えを主張し続けたこと自体が、個性を失わない でいるための意志の強さの体現とも言えるだろう。

3.身体の手入れと衛生

 1924 年 1 月号のモード雑誌『エレガントなプラハ(14)』には、家庭で熱い お湯のシャワーを浴びることのできる設備の広告が掲載されている。「熱い

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シャワー型温泉をご家庭で(15)」というタイトルのもと、左右にイラストを 添え、中央には、「新製品、ここではほとんど知られていないが、先進国で は何万という家庭ですでに実証済みの快適な入浴方法で、理想的な水治療 の家庭用設備(16)」という広告文が添えられている。当時、チェコの家庭で はまだシャワー設備は普及していなかったが、工業の発展に伴い他のヨー ロッパ諸国と同様に19 世紀から衛生面の重要性に人々が関心を向け始めて いた。そのことがこの広告文にも示されている。  イェセンスカーもまた、ギムナジウム時代から、衛生面に強い関心を寄 せていた。彼女が理想とする未来の女子ギムナジウムにおいては、特に衛 生面の徹底を重んじるとした。全校生徒に手、顔、首、耳、髪、身体、服 の清潔さを求め、毎回の授業後には手洗いを徹底するのだと綴られている。 その理由について、イェセンスカーは次のように述べている。    もし誰かの身体が汚れていたら、その人の精神も汚れています―そし て手や首が汚れている人は、―けっして清潔[純粋]な人間ではあり ません―ただ、気づいてほしいのです―女性―と汚れ―私には 分かりません、―どうしたらその二つが相容れるのかが―(17)。 イェセンスカーは、すでにこの頃から衛生観念の重要性に気づき、それを 自身の慕う教師に熱く説くほどであった。また、外面的な衛生観念と精神 面とを結びつける点は、その後のイェセンスカーの記事にも反映されてい る。  身体の手入れや衛生に関しては、具体的な記述を残している。たとえば、 1927 年に自ら編集刊行したエッセイ集『人が服を作る(18)』の巻頭エッセイ として収録された記事「浴室、身体、エレガンス」は、1923 年 1 月 28 日に『国 民新聞』に掲載されたのだが、そのなかで、身体の洗い方について、詳細 に説明している。     からだを洗うのに、最低 30 分は必要です。30 分に加えて、良質の

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石けん、良質の水、大きなスポンジ、硬いブラシ。からだ用のブラシ は硬ければ硬いほど、肌は柔らかくなります。もしハリのある健康的 な肌を手に入れたいのであれば、冷たい水でからだを洗い流した後に 文字通りからだ全体をふきとれるほど大きな持ち手のブラシを1 日最 低5 分間使ってください。大事な衣類を洗うように、少なくともそん な風に上手に、注意深く、念入りに、からだをケアしてください。皮 膚には石けん、それもたくさんの石けん、マッサージ、動き、温水と 冷水、水に次ぐ水が必要なのです。水はいつだって足りないものです。 悪影響を及ぼすほどの量の水なんてものは存在しないのです(19)。 このように、身体を水や石けんで洗い流し、皮膚環境を清潔に保つことと 同時に、ブラシで皮膚を刺激し、ハリを与えることを身体の手入れとして 大事にしていた。身体や肌のケアに対して、大事な衣類を扱うのと同じよ うに細心の注意を払うべきだと考えていたのである。同様に、髪の毛の手 入れに関しても、衛生的な観点から、女性の短い髪がすでに定着し始めて いることを指摘し、加えてその良さを改めて説明している。    短く切った髪を奨励する必要はもうないと思っています。われわれは ほとんど皆、髪を短くしていないあなたも、少なくとも知ってはいる でしょう。その利点がいかなるものであるか、いかに清潔で、こぎれ いで、きちんとしているかということを。また、短くカットし、一日 置きに洗える髪と、長い三つ編みを垂らし、そのお下げ髪は2 週間に 一度しか水に出会えず、頭の中にピンや櫛などが入っている髪型との 間にどれほどの違いがあるかということを(20)。 短い髪とは、当時世界的に大流行したボブカットのことである。日本でも、 大正末期から昭和初期にかけてモガ(モダンガール)のヘアスタイルとし て流行した、あのヘアスタイルである。  記事のタイトルにもなるほどのこの髪型の利点は、何といっても衛生的

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であるということであった。髪が短ければ、その分、洗髪に使う水の量も 少なく、頻繁に洗うことが可能である。清潔さを保つことができるのは大 きな利点だ。このように、イェセンスカーの記事には、衛生的な生活を送 ることが何よりも重要視されていたのである。  背景には、第一次世界大戦を経て衛生環境が向上したこと、また戦争で 男性が戦地へと赴き、男性の働き手が不足したため女性の社会進出が促さ れ、その結果、活動のしやすさから女性の短髪化が進んだことなどがある。 そのような時代的な流行に合致するように、イェセンスカーもまた、新中 間層の女性たちに、衛生的な生活、身体の手入れや短髪を推奨したのである。  このような衛生的な生活には、換気や食生活の改善、運動、自然の中で の生活、日光浴なども含まれていた。次項とも関連するが、特に、太陽と 海水の力を信じ、それらの力は病気を予防するものとして捉えていた。    私は、海水と太陽の癒しの力を熱烈に信じています。それに、あらゆ る病気の半数は、誤った生活習慣、閉め切った窓、重い食事、運動不 足、明らかな鍛錬不足に起因するのだから、海水と太陽が病気の半分 を治すことができると確信しています。太陽と海水は、われわれの街 での怠惰な生活やほぼ中世のような偏見によって一年後にはダメにし てしまうようなものを驚異的に矯正してくれるのです。肺をきれいに し、肌を焼灼し、神経をほぐしてくれるのです(21)。 身体の手入れや衛生観念には、このように、自然の力を取り入れることも 含まれている。換気や食生活の見直し、運動の習慣化に加え、日光浴や海 水浴によって、自然治癒力をもたらしてくれるのだと信じていた。このよ うな身体の手入れや衛生観念の提言は、1920 年代のイェセンスカーの記事 において、重要なテーマであった。それは、時代の潮流を反映するもので もあり、イェセンスカーの記事がその点において、特別個性を放っていた わけではない。だが、先にも見たように、衛生観念については、学生時代 にも見られるものであり、したがって、単に時代のトレンドとして伝えて

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いたのではなく、彼女自身の信念に基づいて発信されたものであったこと は確かであろう。  加えて言うならば、身体の手入れも衛生観念も、先のシンプルを重視す る思考法とのつながりを持っている。第一に、身体を包む服装は当然とし てシンプルなものが好まれるなか、そのシンプルな装いを纏うにあたって 中身となる身体の手入れが必須とされるからである。つまり、外観がシン プルであるからこそ、内側もシンプルすなわち滑らかでないと、シンプル な外観に響いてその内側の不具合を露呈してしまうからである。第二に、 衛生観念の普及に伴って得られたショートヘアは、シンプルの象徴でもあ る。ショートヘアが広まる以前の女性の髪型は、腰の位置ほどまでに伸ば した髪を、年齢に応じて編み込みながら髪を結い上げるのが一般的であっ た。つまり、毎朝の髪の手入れに複雑な工程を重ねる面倒な手間がかかる ものだったのである。ボブカットはその点、髪を頻繁に洗って衛生的に保 てる上、朝の身支度の際も、手間のかからないスタイルであった。第三に、 換気や運動、自然の中での生活、日光浴、海水浴なども、いずれも、複雑 な動作や機械を必要とせず、ただ自然の中に身を委ねるだけのシンプルな 生活スタイルである。  したがって、自らの身体をありのまま受け入れ、その手入れを入念にし、 また自然をありのまま受け入れるという身体の手入れや衛生の観念とは、 先に述べたイェセンスカーのシンプルを重視する姿勢がまさに反映された ものだったと言えるだろう。

4.スポーツ

 スポーツの概念が広まったのは近代以降である。近代スポーツの世界的 普及のきっかけとなったのが、1896 年に第 1 回近代オリンピックアテネ大 会であることは周知のことだ。競技スポーツは、この大会を機に20 世紀初 頭にかけて、近代国家の市民にも普及していった。スポーツを歴史的に遡 ると、競技スポーツの普及以前は娯楽として親しまれていたが、さらに遡

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ると、その起源は19 世紀半ばに体育の概念が広まったことにある。  体育の普及によって、体を鍛えて健康を維持することが、国力を支える 大事な要素として捉えられるようになった。つまり、体育は兵士の肉体鍛 錬とも連関する。チェコにおいても19 世紀半ばには体育を普及させるため の活動が始まった。1862 年には、「ソコル Sokol」(「隼」の意)という名の 民族的体育運動団体が設立された。「ソコル」は、体育を目的とすると同時 に民主主義や自由主義、進歩主義の教育も目的とするものであった。また、 「ソコル」以外にも、「労働者体育連盟DTJ(Dělnických tělocvičných jednot)」 や、ドイツ系の団体もいくつか設立された。したがって、チェコでの体育は、 民主主義のみならず、民族教育および思想教育とも一体化したものでもあっ た。  話を競技スポーツに戻すと、1890 年にはチェコオリンピック委員会が設 立された。チェコでの競技スポーツの普及は比較的早かったと言えるだろ う。1920 年代にはすでに 23 の競技連盟が存在した(22)。現在もチェコで人 気のあるテニスやサッカー、アイスホッケーは、単に人気があっただけで なく、世界的にもトップの実力を誇る選手もいた。イェセンスカーより一 つ年上のカレル・コジェルフ(Karel Koželuh, 1895-1950)は、サッカーでは プロ選手としてだけでなく、チェコスロヴァキア代表としても活躍し、そ の上、アイスホッケー選手としてもヨーロッパ選手権を制し(1925 年)、さ らにテニスでは全米オープンで三度(1929 年、1932 年、1937 年)および全 仏オープンでも一度(1930 年)優勝するなど、現代では考えられない偉業 を成し遂げたスポーツ選手である。この偉業は、競技人口の増加と競技の 細分化が進んだ現在では考えられないが、翻って、当時が競技スポーツの 萌芽期であり、アスリート数自体が少なかったことの表れともいえる。ただ、 コジェルフの例が示すのは、チェコスロヴァキアが第一共和国時代からす でに、世界レベルのアスリートを有するほど、スポーツの盛んな国であっ たということでもある。  そのような背景のなかでイェセンスカーの記事にもよくスポーツが登場 した。スポーツは、前項の身体の手入れと地続きの関係にある。イェセン

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スカーがもっとも重要視する身体面と精神面のどちらも鍛えることが可能 となるレジャーであり、読者にあらゆる形で推奨するものであった。その ため、スポーツウェアを紹介する記事では、ウェアの紹介はごくわずかに とどめ、当該スポーツの説明やメリットなどに多くの紙幅を割いた。よく 登場したスポーツは、テニス、水泳、スキー、ハイキング(23)、自転車、自 動車である。ゴルフや乗馬も時折登場するが、とりわけ前者6 つはスポー ツといえば必ず取り上げられていた。  スポーツは実際にすでに第一次世界大戦前から、大人の女性や少女たち の間でも生活の楽しみのひとつになっており、新中間層の若い女性たちの 間でも、夏冬のスポーツ、サイクリング、テニスなどが気軽に行われてい た(24)。大前提として、当時のスポーツはすべてアウトドアで行うものであ る。イェセンスカー自身も、冬はスキーをしに山へ出かけ、夏の休暇には、 山や海、あるいは田舎へ出かけることが多く、読者にもスキーやハイキン グは特に推奨していた。スキーをしに山へ出かけることの利点を含め、そ の目的を次のように説明している。    結局、確かに、心地よさを得るためにスキー遠足に出かけるわけでは ない。わたしたちは、天気と取り組み、肺を新鮮な空気で満たし、風 に当たり、身体を動かして筋肉を鍛え、喜びで心臓を鍛えるために出 かけるのだ。わたしたちは、乗り越える喜びのために障害を据え、休 憩の楽しみのために疲労を経験するのである(25)。 スキーに出かける目的は、心地よさを得ることではなく、心身を鍛錬し、 乗り越える喜びを得ること、疲労した後の休息を楽しむことだというので ある。スキーは、単に身体を動かすというだけでなく、雪山や天候など人 間の統制の効かない自然の中で行うものである。そのため、自分の身体と 向き合うだけでなく、雪山の状態や天候とも向き合わなければならない。 その結果、身体だけでなく精神も鍛えられるのである。目の前の困難を乗 り越えることによって、より大きな喜びが得られると考えていたのである。

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それゆえに、スキーやハイキング、あるいは海水浴のような自然の中での スポーツは、精神的な幸せをもたらすものとされた。  スキーの他に、海水浴から得られる喜びや幸せについてもよく語られた。 1924 年 5 月 8 日付『国民新聞』5 面掲載の記事「水の中へ(26)」においては、 水に浸かることで得られる喜びについて詳細に記述されている。    水に仰向けになって浮かび、天、青色の断片、ちぎれ雲のかけら、遥 か彼方の高みを仰ぎ見て、太陽を直接顔に浴びたら、幸せだ。わりと 原始的に、ばかみたいに幸せで、心配事や混乱のすべてが整然と、一 列に揃う。すると、人生が正しく前へ進むには何が必要なのかたちま ち分かるのだ。それから途端に、際限なく多くのことを知るのだ。自 分の静脈や筋肉、規則的に鼓動する心臓の喜び、波に戯れる肌の喜びが、 生理的に賢く、思考やひらめきや理性なしに賢くしてくれるのだ。水、 大地、風、花、動物がそうであるように(27) 仰向けになって水の上に浮かぶことによって、現代人が抱える心配事やス トレスがどうでもいいものと感じられるようになり、心の悩みから解放さ れ、ただ生きることに喜びを感じるというのだ。原始的で動物的な感覚で あって、理性や思考を伴うものではなく、自分を自然の一部として受け入 れることで得られる喜びである。このような種類の喜びは、まさにアウト ドアにおいてしか得られないものである。アウトドアを文化として、ある いはスポーツを文化や娯楽として喜びや楽しみとして親しまれるように なった時代の中で、イェセンスカーは、アウトドアのスポーツを女性読者 に盛んに推奨していたのである。特に、アウトドアの楽しみを、単にその 瞬間の楽しさとして捉えるのではなく、精神にも喜びや賢さをもたらすも のとして、また精神と身体を同時に鍛えるものとして捉えたのである。  このような考えもまた、記者になってからのものではなく、すでに高校 時代に抱いていた考えである。先の教師への手紙のなかでも、リトミック 教育論を構築したことで第一次大戦前にはよく知られていたウィーン生ま

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れのスイスの音楽教育家ダルクローズ(Émile Jaques-Dalcroze, 1865-1950) の名を挙げ、彼が設立した学校のようにT シャツを着て体操をすることを 理想の体育教育として熱弁しており、身体を動かすことの重要性を意識し ていた。この身体の鍛錬が重要であるとの認識が後に、特に都市化や機械化、 新中間層の拡大が急速に進んだ1920 年代においては、休暇に海や山など自 然の中へと出かけエネルギーを蓄えることが、心身を整え、鍛える手段と して重要なことだと認識するに至り、読者に伝えていたのである。  スポーツに対する心構えだけでなく、当然モード記者として、スポーツ 用の服装についても記述している。本稿はライフスタイル編ではあるが、 彼女のスポーツに関する記事においては服装とライフスタイルが交差する 点が顕著であるため、ここでは服装についても触れておきたい。スポーツ 用の服装の要点について端的に述べられたものとしては、1922 年の次の記 述がある。    スポーツの服装は―それがどんなスポーツであっても―心地よいもの で、目的に適っていて、実用的でなければならない。あらゆる流行、 ファッション性、派手さは脇に置くものである。スポーツは、私たち が服を着るために存在するわけではない。そうではなくて、私たちが 心地よくスポーツを行うために服を着るのだ。スポーツは心身の動き であり、衛生なのだ。そして服装は、それらのほんの付き添いに過ぎ ないのだ。(28) スポーツをするときの服装の要素として、まずは、心地よさ、合理性、実 用性が必須項目として挙げられる。流行性やファッション性、華やかさは「脇 に置くもの」、つまり二の次であり、それほど重要ではない、という。スポー ツの服装の目的を意識し、快適にスポーツを行える服装であることが第一 の条件であったことがわかる。  同じ記事では、この引用の後「あなたの気に入るように強いる必要はまっ たくない」ともいい、また「紳士服の要素が半分」入ったものが「正しく」

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「美しい」とされる(29)。あなたの気に入るように強いる必要とは、つまり、 自分がそのデザインを気に入るかどうかということである。デザイン的に 気に入るかどうかではなく、動きの点において適しているかどうかがより 重要であることを繰り返し説明していたのである。また、紳士服の要素に 触れられている点は、男性向けの服装が、合理性や実用性という点において、 理想的な服装であったからであろう。  具体的にイメージするために、服装の記述の一例も挙げてみよう。例えば、 靴については、スポーツをするときはどんなときでもヒールの低いものを 選ぶ。これは鉄則である。テニスであれば白いキャンバス地のもの、散策 や自動車運転には茶色の革製のプレーンなショートブーツが良い。ヒール は低く、男性用の靴とほぼ同じタイプのものを推奨する(30)。その理由は当然、 動きやすさを重視しているためである。ストッキングは、テニス用には白 のウールのもの、散策にはグレーあるいは茶色のウールを勧める(31)。  服装は、テニスには白い上下セット、たとえばウールの白いスカートに バチストの白いブラウス、またはセーターである。ハイキング(観光)に は、イギリスの生地でできたツーピースが定番であり、ポケット付きのも のを推奨する。また、コートは丈の長いものもよく、裏地は男性用のもの で、革のベルトをポケットより上の位置で締める。ブラウスの襟も男性用 のシャツのものと同じタイプで、ネクタイとベストを着用することをすす める。また、自動車運転には、革製品のみを推し、その色は、緑、茶、黒、 赤などで、テニス用の白色と違って、一つには限定はしないのである(32)。 ちなみに、このように具体的な記述を仔細に見てみると、イェセンスカー の推奨するスポーツウェアは、あらためて、決して流行から外れたもので はないことがわかる。シンプルを信奉したイェセンスカーにとっては皮肉 なことに、イェセンスカーとモードとの関係はまったく複雑なものでもあっ たのである。しかしながら、イェセンスカーがスポーツにおいて推奨した スポーツウェアを見ても、機能的で装飾のないシンプルなものを推奨して いたことは明らかであり、そのようなウェアが時代の流行とも合致してい たということである。

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 スポーツについてまとめると、特にアウトドアで行うものを想定してお り、太陽の光、風、雨や海の水に触れることによって、心を解放し、また 心身両面を鍛えるものとして読者には特に熱く推奨したライフスタイルの 一つだった。彼女がその重要性を信じたのも確かであるが、同時にそれは 時代に即したものでもあったのである。

5.モダンな女性の理想像

 さて、ここまで、イェセンスカーがいかにシンプルを重視し、それが彼 女の理想とするライフスタイルの具体例として反映されていたかを考察し てきた。冒頭で述べたように、本稿ではライフスタイルを「人生観・価値 観・習慣などを含めた個人の生き方」との定義に依拠している。本章では、 この定義に基づくライフスタイルのなかでも、彼女の主たる読者である「女 性」の理想的なライフスタイルには彼女のシンプルを重視する考えがどの ように反映されていたのかという視点から、彼女の理想的な女性像につい て考察したい。  イェセンスカーは、さまざまな場面で、たびたび「モダン」という言葉 を用いた。新しい社会を生きる理想的な女性像についても「モダンな女性」 として理想を詳しく述べた。と同時に、それと対比させた古い女性像とし て「淑女」についても言及することがあった。「淑女とモダンな女性」とい うタイトルの記事もある(33)。  淑女という言葉の響きについては、「古風で綺麗な言い回しの賞賛の意の こもった礼儀正しい言葉(34)」だとして、「イギリスの絵入り雑誌の女性(35) 像を想像すると述べた。イギリスの絵入り雑誌の挿絵によく見られる光景 は、深い日陰がさすような古木が植えられた公園があって、そのそばに落 ち着いた面持ちの正面玄関に壁には肖像画がかけられたような古い一軒家 のある光景といったものを指す。その家の中に先祖代々受け継いできた肘 掛け椅子やティーカップがあるような、伝統的で貴族的な生活の中に描か れた女性像が「イギリスの絵入り雑誌の女性」像ということになる。その

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ような女性は、「夕方遅い時間に1 人で通りを歩いたり、赤紫の帽子をかぶっ たり、罵り言葉を使ったり、生まれもったおしとやかな純真さがあるのだ から分別のない冗談を理解したりすることも決してない(36)、そのような 女性を「淑女」と定義づけた。したがって、「淑女」という言葉は、イェセ ンスカーの定義では、古き時代の女性像であったといえる。加えて、この ような女性にとっては、「世の中の発展に参加することが決して叶うことが ない(37)」と断じた。つまり、フェミニズム運動には近づかなかったイェセ ンスカーだが、保守的な女性像に対しても批判的であったのである。  さて、彼女は「モダンな女性」を理想としたのだが、では、それがいっ たいどのような女性像だったのであろうか。新しい時代に生きる理想的な 女性像について、詳しく述べている一節がある。    皆さんは、まったく新しい、本当にモダンな美しいタイプの女性、あ なたの目の前で歌ってくれる女性のことを忘れている、いや知りもし ないのである。精神的に自立していて、働きものの、揺るがない勇敢 な女性、男性の同志、仲間にもなることができて、サポートもできる、 かつ自らの責任と努力によって生きていくこともできる、そういう女 性たちのことを。恐れることなく、仕事に怯まず、カウンターや仕事 机や機械の前で忍耐強く、効率よく、効果的に一日中男性同様に立ち 続ける女性、それから、人生を注意深くあるがままをしっかり見つめ、 深い感受性に満ちた女性でいるために「女性らしさのおしろい」(つま り人工的な温室育ちの無知のこと)を必要としない女性。女性は、働 いていようと、人生とは何かを知っていようと、女性らしさを失うと いうことはないのである。むしろ反対に、表面的な感傷主義的な女性 らしさを、もっと内奥の純度の高い源泉と生きる原動力を持つ女性ら しさへと深めるのだ(38)。 モダンな女性の理想像とは、つまり、男性との表面上の同等とか平等とか を目指すのではなく、まず自分自身の精神的自立を確立し、男性と対等な

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立場で協力し合える関係性を持てる女性像であった。端的に言えば、人生 を男性任せにして受け身で生きるのではなく、自分の人生として捉え主体 的に生きていく姿に、深みのある女性像を見出していたといえるだろう。 それは、「1. 精神論におけるシンプル」で取り上げた「内面の自信」とつな がるものである。つまり、シンプルな精神とは、女性としての人生観や価 値観ともまさに直結するものなのである。  イェセンスカーは、理想とするモダン女性の内面的な女性らしさと、見 た目でわかる表面的な女性らしさとの違いに関しても幾度か言及している。 先述の通り、1920 年代に世界中で一大旋風を巻き起こした短髪のボブカッ トに対する男性からの批判に対して憤りを露わにした。    二つ目の反論は男性によるものである。曰く、わたしたちは女性らし さを失っているらしい。それについては長い記事を書く必要があるだ ろう。何が女性らしいのかということに関して。その人がどんな内面 なのか、どんな精神なのか、数え切れないほどの人々がそれぞれどん なオーラを持っているのか、ということについて。それからそれぞれ の特質が長いおさげ髪かどうか次第だと主張するのが、なんと馬鹿げ ていて繊細さに欠けているかということについて。世の中がいかに変 わるかということについても、女性らしさは何を意味するのかについ ても、それがどう変わるのかということについても書かなければなら ない。ルーベンスの女性たち、フランス革命の女性たち、改革派の女 性たち、今日の女性たちについても。髪の長さ、外見、知識、職業な どによって、女性を「女性らしい」と「女性らしくない」に分類する 男性がいかに軽率で勝手かということについても書かなければならな い。しばしば話題に上る意味においての、いわゆる「女性の繊細さ」や「清 潔さ」は、思考の怠慢さと保守主義の影響ゆえに他ならないというこ とについても書かなければならない(39) 先にも述べたが、近代諸国で女性の髪の長さが肩よりも短くなったのは、

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20 世紀に入ってからのことである。それも広く拡大し定着しはじめたのが 1920 年代になってからであった。それ以前は、女性の髪は肩よりも長いの が一般的であり、皆、普段は長い髪を結ってまとめていたのである。シン プルの象徴でもある短い髪が世界的に爆発的な流行を生んだ背景には、シャ ネルの影響もあるかもしれないが、これもまた、第一次世界大戦がもたら した影響とも言える。この記事が書かれた1925 年頃は、すでに流行しては いたが、まだ過渡期にあったともいえる。そのため、男性からの批判も見 られたのだろう。記事には、それに対する憤りと葛藤が見られる。  以上をまとめると、イェセンスカーの理想とするモダンな女性像は、内 面から自立し主体的に男性と協力して生きていける姿であり、その内面の 強さに新しい時代の女性らしさを見出していたといえる。その女性らしさ はまた、本稿の最初に取り上げたシンプルを重視するという考えが鮮やか に顕在化したものでもあったのである。

おわりに

 本稿では、イェセンスカーが、読者に向けて、「シンプル」をキーワード にした精神論、外見的な個性よりも内面を磨くことの重要性、と同時に身 体の鍛錬やその方法としての自然の中でのスポーツを推奨していたこと、 また女性の生き方としては精神的自立の重要性を説いていたことを明らか にした。  イェセンスカーは、シンプルの重要性を固く信じ、読者に訴えていた。 精神論におけるシンプルが意味するところは、貪欲にならず心を広くして、 ありのままを受け入れるだけの内面の自信を身につけることにあった。そ うすることで、もっともシンプルなところにある本質を見極めることがで きるという。その考えには時代背景が大きく反映されており、社会が複雑 化していくことの反動として、ある種必然的に生まれた考えだといえる。 だからこそ、たとえば衣服が大量生産されるようになり、それによってデ ザインが簡素化、均一化されていくなかで「個性」が失われるのではない

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かと危惧する人々も多かった一方で、イェセンスカーは中身こそがしっか りしていれば、外見にとらわれる必要はないと考えたのである。加えて、 外見が画一化されることで社会階層の格差が狭まることを是としたものと いえる。また、時代的に衛生観念が育まれるなかで、身体の手入れや日光 浴や海水浴といった自然の力や人間の治癒力、ショートヘアといった習慣 のなかにも、彼女のシンプル重視の考え方は反映されていたことが確認さ れた。その具体例の一つが、自然のなかでのスポーツでもあり、スポーツ ウェアにもシンプルを重要とする考えが生かされた。さらに、モダンな女 性像には、最初に提示したシンプルの精神がまさに反映されており、精神 的自立や人生を主体的に生きていく姿に理想を見出していたことが明らか となった。  イェセンスカーのモード論については、服装やライフスタイルだけでも、 ここで取り上げた観点以外にもまだ多くの角度から考察する余地を残して いる。今後もさらに考察の範囲を広げ、かつより深く掘り下げることで、 1920 年代のチェコの文化史をより明るくするとともに、現代の私たちのラ イフスタイルの原点でもある1920 年代に彼女が発信したさまざまな叡智に 学んでいきたい。 註

1 ) Milena Jesenská. „Příčina nebo účinek? “(「原因あるいは結果?」). Národní listy. 12.6.1923, s. 1.

2 ) MILENA. „Několik společenských zákonů. “(「社会的ルール」). Národní listy. 27.5.1923, s. 4.3 ) Ibid.

4 ) Milena Jesenská. „Cesta k jednoduchosti. “(「シンプルへの道」). Topičův sborník, listopad 1925, s. 36-37.

(5 ) カレル・チャペック『ロボット(R.U.R.)』千野栄一訳、岩波書店、1989 年、

198-199 頁。

6 ) Milena JESENSKÁ. „Radosti do deseti korun. “(「10 コルナ以内の喜び」). Národní

listy, 11.8.1923, s. 1.

7 ) „Individualismus a individualisté“(「個人主義と個人主義者」). In: Milena. Cesta k

(26)

ンプルへの道』での書き下ろしの可能性が高い。 (8 ) Ibid.

9 ) Ibid., s. 82.10) Ibid.

11) „Standardní oblékání nebo rozmarné modní novinky“(「標準的な服あるいは気まぐ れな流行の新作」). In: Milena. Člověk dělá šaty. Praha: F. Topič, 1927, s. 25. 記事の

所在が確認されていないため、『人が衣装を作る』での書き下ろしの可能性が 高い。 (12) 拙稿「ミレナ・イェセンスカーのモード論(一)(服装編)―1920 年代チェ コに関する文化論的考察―」『ヨーロッパ研究』第13 号、東北大学国際文化 研究科ヨーロッパ研究会、2019 年 3 月、59 頁。 (13) 1947 年にシャネルが話した内容をノートに書きとめ、後にまとめたモランの著 書には、シャネルの言葉として次のように記されている。「フランス人は、マ スのセンスに欠けている。イギリス庭園で、ベゴニアやマーガレットの花が一 面に植えられていると、不思議と素晴らしい美しさになるあのセンスである。 それが、一本一本植えられてあったなら、全然美しくない。そんな考えは、ひ とりの女の個性を殺してしまうと思われるだろうが、それが間違いなのだ。女 たちは、一緒にいるときこそ、ひとりひとりが、その美しさを発揮するのだ。」(モ ラン、『獅子座の女シャネル』秦早穂子訳、文化出版局、1995(1977)年、69 頁。)

14) Elegantní Praha, Praha: Josef Svoboda, 1922-1925.15) Elegantní Praha. 1.1924, č. 4, s. 1.

16) Ibid.

17) Alena Wagnerová (ed.). Dopisy Mileny Jesenské. Praha: Prostor, 1998, s. 29.18) Milena. Člověk dělá šaty. Praha: F. Topič, 1927.

19) Milena Jesenská. „Koupelna, tělo a elegance“(「浴室、からだ、エレガンス」). Národní

listy, 28.1.1923, s. 4.

20) Milena. „Především to mikádo“(「なによりもまずボブ」). Národní listy, 6.9.1925, s. 10.

21) Milena. „Voda, zázrak Boží.“(「水、神の奇跡」). Národní listy, 14.6.1925, s. 9.22) Zdeněk Kárník, Malé dějiny československé (1867-1939) Praha: Dokořán, 2008, s. 199.

23) 原語では tristika であり、「観光」とも訳されるが、ハイキングの意味としても

捉えられ、スポーツに含まれる。イェセンスカーの記事で用いられる際には、 ハイキングの場合もあれば、市内観光も含まれるものもあるが、いずれにせよ、 スポーツとして扱われている。

(27)

Olympia, The Museum of Decorative Arts in Prague, 1996, p. 14.

25) Milena. „Na lyže.“(「スキーへ」). Národní listy. 6.12.1923, s. 5. ちなみに、「ス

キー」がタイトルに入っている記事は、上記2 編含め、7 編ある。(Milena. „Na

lyže.“(「スキーへ」). Národní listy, 6.12.1923, s. 5, Milena. „Na lyže.“(「スキーへ」).

Národní listy., 27.11.1924, s. 6, M. „Lyžařská výbava.“(「 ス キ ー 用 具 」). Národní listy, 13.12.1925, s. 17, Milena. „Lyžařský závodní klub.“(「スキー競技クラブ」). Národní listy, 5.12.1926, s. 13, Milena. „Do sněhu, na hory, na lyže!“(「雪へ、山へ、

ス キ ー へ!」). Pestrý týden, 22.12.1926, s. 3, Milena. „Malí hoši na lyžích.“(「 ス キーを履いた少年たち」). Národní listy, 26.12.1928, s. 12, Milena. „Žena a lyže, čili jak dlouho ještě?“(「女性とスキー、つまりあとどれくらい?」). Světozor, 29.11.1928, s. 181-182.

(26) 水にも関心が高く、「水」がタイトルに含まれる記事も 5 編ある。(Milena. „Do

vody.“(「水のなかへ」). Národní listy, 21.6.1923, s. 4, Milena. „Do vody.“(「水のな かへ」). Národní listy, 8.5.1924, s. 5, Milena. „K vodě.“(「水辺へ」). Národní listy, 29.6.1924, s. 10, Milena. „Voda, zázrak Boží.“(「 水、 神 の 奇 跡 」). Národní listy, 14.6.1925, s. 9, Milena. „Voda s hůry čili jak vznikají idiosynkrasie.“(「頭からの水あ るいは特異性がいかに発生するか」). Lidové noviny, 29.12.1929, s. 18.)

27) Milena. „Do vody.“(「水の中へ」). Národní listy. 8.5.1924, s. 5.

28) Milena. „Oblékání ke sportu“(「スポーツ用の服装」). Tribuna - Modní revue, 7.5.1922, s. 1.29) Ibid.

30) Ibid.31) Ibid.32) Ibid., s. 2.

33) Milena. „Dáma a „moderní“ žena.“ Národní listy. 14.1.1926, s. 5.34) Ibid.

35) Ibid.36) Ibid.37) Ibid.38) Ibid.

(28)

Fashion Journalism in the Articles of Milena Jesenská (2)

(Lifestyle):

A Consideration in the Study of Czech Culture in the 1920s

H

ANDA

Sachiko

This paper is a sequel to the paper titled “Fashion Journalism in the Articles of Milena Jesenská: A Consideration in the Study of Czech Culture in the 1920s.” This study analyzes fashion articles by Milena Jesenská to clarify her views on lifestyle. “Lifestyle” in this paper, refers to the Shogakukan Japanese Dictionary definition, which can be translated as follows: “the style or the way of life; also, the individual’s way of living, including their view of life, their sense of values, customs etc.”

In this paper, I first examine what she considered an ideal spirit with the keyword “simplicity” from the perspective of the period background. Second, I analyze how she considered “individuality” in the early days of large-scale production and consumption. I then focus on aspects such as personal grooming, sanitation, and sports as examples of ways of life, and examine how the spirit of “simplicity” reflected in those lifestyles. Finally, I clarify her ideal image of modern women as described in the above-mentioned definition of lifestyle.

This paper concludes that Jesenská emphasized the importance of simplicity and the inner self over outer appearances and promoted the idea of bodily discipline, which fits with her recommendation of participating in outdoor sports. Moreover, it concludes that she emphasized the importance of psychological independence as a way of life for women.

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