Thomas
Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について
一運動と時間の研究 I- 1 。“
'岡 崎 文 明
On Coタiversio and Tempusd Instansin St. Thomas Aquinas
-A Study of Movement and Time l -一一
Fumiaki Okazaki 梗 概 I.序論 〔1〕∼〔3〕 n. conversioが瞬間的である理由 〔4〕∼〔16〕 1.考察の観点 〔4〕 2.「形相」の側から観る (i)性質的変化はsuccessiveである〔5〕 (iO実体的変化はsubitoである 〔6〕 3.「基体」の側から観る (i)性質的変化と「態勢」 `〔7〕 (ii)上の例示 〔8〕 (iii)性質的変化における一つの問題 〔9〕 (iv)その解決一態勢はsuccessive, 形相受容はsubito 〔10〕 (vy上の例示 1 〔11〕 (vi)上の例示 2 〔12〕 4.以上のまとめ 〔13〕 5.実体的変化におけるsuccessive 〔14〕 6.「作動者」の側から観る 〔15〕 7.結論-converSioが瞬間的である根 拠について 〔16〕 Ⅲ.瞬間的変化であるconversioの時間的 移行過程について 〔17〕∼〔41〕 1.converSioが継次的であるという主 張一異論- 〔17〕 2.異論に対する反論第一説 〔18〕 3.反論第一説に対するThomasの批判〔19〕 4.反論第二説 〔20〕 5.反論第二説に対するThomasの批判 〔21〕∼〔22〕 6.反論第三説 〔23〕∼〔24〕 7.反論第三説に対するThomaSの批判〔25〕 8.反論第四説 〔26〕 9。反論第四説に対するThomasの批判 10.以上のまとめ 11. Thomasの見解 〔27〕 〔28〕 〔29〕∼〔41〕 (j)conversioが自然本性的な変化と 同じ時間的移行過程を持つ理由 〔29〕 (ii)時間は不可分な時間から複合されて いない一時間の構造- 〔30〕 1)連続的複合について 、〔31〕 2)接触的複合について 〔32〕 3)継続的複合について 〔33〕∼〔34〕 (iii)運動と時間・瞬間について 1)生成の時点は「より後」なる時間に 属する 〔35〕∼〔36〕 2)上の例示 〔37〕 (iv) conversioにおける二つの瞬間 〔38〕 (V)「パンの実体の最後の瞬間」は存在 しない (vi)「最後の時間」に対する一つの解釈 (vii) Thomasの見解のまとめ Ⅳ.結 論 V.使用テキスト VI.註 I ︱ \ I ︱ \ I ︱ \ 9 0 1 3 4 4 C C C 〔42〕 〔43〕 〔44〕
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〔1〕時間は運動と離れては存在し得ない.それ故時間の探究は運動の探究と共になされねぱな らない.拙論はThomas Aquinas におけるconversioが時間においていかに遂行されるかをテー マとしている.ここで言うconversioは運動の一種であっで「聖変化」と訳される.「聖変化」と は秘蹟(sacramentum)の聖体に関する事柄である. Thomasによれば,ミサの時に,聖体のパ ン(panis)とブドウ酒(vinum)がキリストの体(cひrpusj)と血(sanguis)に変化する.この変 化を称して「聖変化(conversio)」と言うのである(1)_≒ ,. ● ・ ・ 「聖変化」は神学上の事柄である.そしてそれ自体をと・つてみれ,ばsupernaturalisのordoに 属している.してみればこれはnaturalisのordo・’と何等の係りをも持っていない事柄であるか のように見える.しかしconversioは後に見られるようにその時間的な移行過程はnaturalisな この世界に属している.なぜならそれは,或る種の実体的変化であり,とりわけ「司祭の言葉の 発声」と密接な繋がりを持っているという事情かおるからである(2)それ故この限りにおいて conversioは自然本性的な変化(mutatio naturalis)‘の一種として考察され得るのである.ここに Thomasの時間の把握の一端を見て取ることかできる.従って我々はconversioというsupernat-uralisな事柄に題材を採りつつも,考察の対象はThomas' i.Cおけ湊「運動(motus)或いは変化 (mutatio)」と「時間(tempus)・瞬間(instans)」の関係という極めてnaturalisな事柄となる. 〔2〕conversioという一見特殊な人間(たとえば,司祭や神学者等)を除いては通常関心さえ 持たれないような事柄に運動と時間の考察の題材を見い出しだのは, conversioという事態は運動 と時間の考察のために或る一つの特別なヶ−スを我々に提供して下れるからである.時間とか瞬間 は本来,運動一般に随伴して自然界において我々によって看取されるものである.これらを自然界 の中で,我々の日常的な経験の範囲内から眺めて,その本性有探ることは決して易しいことではな い. だがもしこの自然界を越える場があり,その場からこの,自然界を眺めることか出来るとすれ ,ば,運動や時間・瞬間の本性はより明確に見られ得るであろう.とは言え,自然界を完全に越えき った所-もしそれが可能とすれば,今の場合,永遠(aeternitas)という所になろうーがら見 たとしても,見られたものは見る者にとって意味の無いものとなろう.更にまた我々人間かそのよ うな所に立つことは,可能であるとしても,おそらく極めて難しいことであろう.しかし我々か 今,立って眺めたいと考えている場は自然界を完全比越えきうた所ではなくて, naturalisな領域と supefnaturalisな領域とが重なり合った所,つまりnatura!iSめ,領域の上限,そしてsupernaturalis の領域の下方なのである.ここに立つ時,我々が日常性に埋没してより明確に見ることが出来なか った運動や時間の或る本性を,より細部に亘って見る.ことが出来る.そしてconversioがその場 を提供して下れるのである. 〔3〕しかし以上のような立場に立って考察することはに少なくとも自然学上の運動と時間を考 察する上では,無意味だという批判かあるかも知れない.しかしそれはあたらない.なぜなら,例 えば物理学の領域においても,ある仮説が正しいか否かを判定する時に採られる一つの方法は,そ の仮説かカバーする領域で最も極端なケース,つまり通常には殆どおこらないし,また在り得ない とさえ考えられる様な特別なケースについてその仮説に従って予言して,人工的にその特別なケー スを作り出して実験したり,或いは今まで観測かできなかっjた領域を観測することができる装置を 作って観測したりして,両者をつき合わせてみる方法であ・る.,(幾つかの理論的予言と実験ないし 観測とかよく一致していれば,物理学者はその仮説を妥当なものと認めるであろう.)このように して或る理論か自然の或る極端なケースを説明することによ,つて自然の構造が,今迄知られていた よりも細部に亘ってより明確にそしてより豊かに知られるようになる.
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について (岡崎) 87 我々も今ここに,言わば極端なヶ−スとして,一見日常性とかけ離れたconversioという, Tho-maSにおいては,自然界の限界領域にあると思われる一種の運動(motus)を材料に Thomasに おける運勁と時間の把握の一端を明らかにしてみたいと思う. 〔4〕拙論が扱うThomasのテキストの中心的な箇所はSumma Theologiae第三部第七十五問 第七項である.第七十五問は「パンとブドウ酒のキリストの体と血への聖変化について」(3’という 題名を持っている.その中の第七項では「その聖変化は瞬間においてなされるのか,それとも継次 的になされるのか」(oと問われている.,ところでThmasは「このconversioは瞬間において行 われる」と主張する.何故こう主張されるのであろうか.その考察からはいらねばならない. Thomasは最も広い意味での運動(或いは「動」と言うべきか)をAristotelesに従って四つの範 鴎において存在するものにのみ認めるC5J四つの範鴎とは「実体」「性質」「m」「場所」である る. そして各範鴎に対応して運動は区別される.第一は動くものが実体の範鴎において動く場合 で,実体の「生成」と「消滅」がそれである.第二は動くものが性質の範鴎において動く場合で. 「性質的変化」がそれである.第三はmにおいて動く場合で,量の「増大」と「減少」である.第 四は場所において動く場合で「場所的変化」であるC6) ところで今問題となっているconversioは明らかに量的な変化でも,場所的な変化でもあり得な い.それ故この二つの範瞭の運動は目下の考察の対象からはずされる.従ってconversioは「実体 的な変化」かそれとも「性質的な変化」かのいずれかになる.そこでThomaSは「実体」と「性 質」の二つの範瞭について,そこに属する運動と時間の関係一一運動か継次的(successive)かそ れとも瞬間的(instantaneus)か一一について次の三つの観点から考察する.第一の観点は「形相 の側から(ex parte formae)」であり,第二の観点は「基体の側から(ex parte subiecti)」であ り,そして第三の観点は「作動者の側から(ex parte agentis)」である. ところで運動には「動かすもの(movenS)」と「動かされるもの(motum)」の二つが識別され る.第一と第二の観点は「動かされるもの」に属する観点である.第三の観点は「動かすもの」に 属する観点である.さて順次各観点を見てゆこう. 〔5〕第一の観点である「形相の側から」と言われる形相とは一体何であろうか.それは「変化 の終端(terminus mutationis)」であると言われている(7)従ってここで言う形相とは動かされる ものである.つまり形相が動くのである.しかし形相が動くと言っても一つの形相そのものが変質 するという動き方をするのではない.一つの形相はそれ自体をとってみれば,質的に或いは本質に おいては不動のものだからである.「形相が動く」と言う意味は,変化(mutatio)の末にその変化 の目的点或いは終着点に到達しで,そこで以前にはなかった一つの形相が獲得されるという意味で ある.つまりそれ自体変化する事のない形相を目指して運動が生じ,その運動の末に,まさに目指 された形相を獲得するのである.かかる意味で「変化の終端」として形相か語られている. ところでこの形相は「より多い・より少ない(magis et minus)」を受け入れるものと,受け 入れないものとの二つに分かたれる. 前者の形相は「性質」の範鴫に属するいわゆる附帯的形相 (forma accidentalis)である<". Thomasはここで「健康(sanitas)」という性質を例として挙げ
ている. (しかし性質に属するものがすべて「より多い・・より少ない」を受入れるのではない. 例えば「三角形」「四角形」等は受入れない(9いそして「より多い・より少ない」を受入れる形相 は,基体(subiectum)に対しては,継次的に(successive)獲得されると語られている(10)従っ て性質的変化は,このような形相の場合,継次的になされることになる.たとえば病人が次第に健 康人になっていくように.
88 高知大学学術研究報告 第27巻.人文科学 結論として,性質の範鴫に属していて,更に「より多い・より少ない」を受入れる形相を変化の 巷端としているものの運動(motuS)は継次的な仕方で遂行されると言えよう. 〔6〕ところで以上に対して「より多い・より少ない」を受容しない形相か他にある.それは「実 体」の範暗に属するいわゆる実体的形相(forma substantialis)である.なぜなら例えば人間とい う実体の場合,それ自身においても又他者との間においても「より人間である」とは語られ得な いからである(11)実体的形相は質料に受け入れられて,実体Csubstantia)となる.従ってこの実 体的形相を終端とする変化は既述の如く〔4〕,生成と消滅の変化である.又この変化は「より多い・ より少ない」を受入れないのであるから,継次的に遂行されるのではなくて,「突然(subito)」 遂行される(12)例えば「気(aer)」から「火(ignis)」が生成したり「人間」が生まれたりする ように. 結論として,実体の範暗に属している形相は「より多い.“より少ない」を受容しない.従ってこ の形相を最終の目的として変化する運動は瞬間的(instantaneus)である. 〔フ〕さて〔5〕において見られたように「より多い・より少ない」を受入れる或る種の形相は基 体に継次的に獲得される.よってかかる形相を変化の最終目的にしている運動は継次的であると結 論された.しかしながら継次的に動くということは一体いかなる事態を指しているのであろうか. 更にこれを詳しく分析してゆかねばならない.そこで「基体の側から」と言われる第二の観点の検 討にはいろう.これも第一の観点と同様に「動かされるもの」に属する. ここで語られている基体(subiectum)とは,いかなる基体であろうか.それは「或る時点で形 相の受容に向けて継次的に準備される所のもの」(13)と言う限定の付いた基体である.又ここで言 われている形相とは勿論実体のそれではなくて,「性質」の範鴫に属していて,しかもその中でも 「より多い・より少ない」を受容する附帯的形相でなくてはならない(〔5〕を参照).この場合, 基体の実体的形相が動くのではなくて,基体に附帯する形相が動く.つまり基体の性質が変化する のである. さて上記の傍点を施した「継次的に準備がなされる」とは一体いかなることであろうか.それは 「基体に,それの目的とする形相を受容するための準備(praeparatio)が継次的に加えられる」と いうことを意味している.その準備か基体に加えられることによって,目指す形相を受容するため の「態勢(dispositio)」が基体に出来上がってゆくのである.その準備が継次的であれば「態勢」 も継次的に出来上がってゆく.従って性質的変化か継次的に遂行されるのは,基体に態勢か継次的 に準備されているからに外ならない. しかしかかる事態はただ単に「性質」の範鴫に属する運動(性質的変化)においてのみに見出 されるのではない. Thomasによれば運動一般において見い出される. Thomasはこう言ってい ●●● ●●● ● ● ●● ● ●● ●● ●● ●●● ● ● ● る.「或る時間全体に亘って動くということはその時間のあらゆる時間において同一の態勢におい てあることではない.……例えば生成(generatio)は質料の変化(alteratio)の終端(terminus) であり,照明(illuminatio)は照明体(corpus illuminans)の場所的な運動の終端である」(14)傍 点の「その時間のあらゆる瞬間において同一の態勢においてあることではない」という部分の意味 は,我々の今の表現を使うなら「態勢が継次的に準備されてゆく」ということになるであろう. 〔8〕しかし以上の事態を性質的な変化に限定して具体的な例に即して検討してみよう.水が火 によって熱せられる場合を考えてみよう(15J「水」という基体は「熱い」という附帯的形相を受容 するために「加熱する(calefacio)」という作用が加えられていく.そしてそれと共に「熱い」と
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について (岡崎) 89 いう形相を受容する「態勢(disposito)」が出来上がってゆく.この場合加熱する「火(ignis)」 は作動者(agens)である. もう一つめ例として,病気の人間が医師によって治療を加えられて徐々に健康になっていく場合 を考えよう.ここでは「人間」が基体で,「健康」が目的とする形相であり,「治療」が健康という 形相を受容するための作用である.そしてその作用と同時に健康の形相を受容する「態勢(dispo-sitio)」が出来上がっていく.そして治療を加える「医師」は作動者である. これらの作動者につ いでは後程言及されるであろう(16) さて結論としてJ以下の事柄が明らかになった.「性質」の範鴫に属する 「より多い・より少ない い」を受容する形相は基体に継次的に獲得される.つまりかかる性質的変化は継次的である.その わけは,基体が形相に対して継次的に態勢(dispositio)を準備するからである. しかしこのような事態は性質的変化にとどまらず運動一般に見い出される. 〔9〕ところで我々は目下,性質的変化に考察の対象を絞ることにしよう.性質的変化は継次的 である.基体は目指す形相を継次的に獲得する.では基体は目的とする形相を一体どの時点で獲得 するのであろうか.その時点を正確に同定することは現実問題として困難な場合が少なくない. たとえば水の加熱の場合では水は徐々に熱くなるのであるから一体「何時」熱くなったのか,又病 人の加療の場合でも病人は徐々に健康になっていくのであるから一体「何時」健康になったのか, これらの時点を同定することは現実問題として不可能と言わねばならないであろう.なぜなら基体 は継次的変化を行っているからである. しかしながら,基体が目的の形相を獲得した「時点」は,現実に同定できないとしても,存在し ているし,・又存在していなければならない.なぜなら,その基体が以前持っていなかった形相を今 持っているからには,「或る時点で」それを得たに違いないからである(17) もっと一般的に言うな ら,先に(prius)「非有(non ens)」であり,その後に(postea)「有(ens)」となるものは総て 或る時に(aliquando)有(ens)となることが必然であるのだからである.従って,そのものが生 じる時点(瞬間)は必ず存在している(18)例えば,熱くなかった水が熱くなりつつあった時には, 未だ「熱い」とは言えない.未だその形相を受けていないからである.しかし熱くなってしまった なら,「いづれかの時点で」熱くなったのであり,その時点で瞬間的に形相を受容したのだ,としな ければならないであろう.それ故,形相を受容した時点は,現実に同定できないとしても存在する. とすればここに一つの問題が生じるように思われる.つまり一方では基体が目的とする形相を 「或る時点で」獲得したからには「瞬間的に」獲得したことになろう.ところか他方では既述の 如く〔5〕この形相は「継次的に」得られる(10)即ち性質的変化は「継次的に」遂行される.従って 同一の基体における同一の変化において,形相は「瞬間的に」得られると同時に「継次的に」得ら れるということになり,「瞬間的に」と「継次的に」は相容れないように思われる.かかる事態は Thomasにおいて,いかに考えられているのであろうか. 〔10〕この問題はThomasの目下のテキストの言葉から理解されると思われる. Thomasは既 に挙げた「基体は或る時点で形相の受容に向けて継次的に準備される(IS)」と言う言葉に続けて水 の加熱の例を挙げた後「ところが基体そのものが形相に対して最後の態勢(ultima dispositio)に ある時に,基体は突然(subito)形相を受ける(20)」と語っている.この二つの文が先の問題を解いて 下れると思われる.前の文の意味は既述の如く〔フ〕,形相を受容するための準備が基体に継次的に進 められている,ということであった.そしてその準備が,いわゆる「態勢(dispositio)」と言われ るものをつくってゆく.そして後の文は以上を受けて解釈されねばならない.文中の傍点を施した
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「基体そのものが形相に対して最後の態勢にある(ipsum subiectum est in ultima dispositione)」 とは,形相を受取るための態勢が基体に完全に出来上がっていることを指している.そしてその時 点で形相は基体に受容される.しかも「突然に「subitd)」受容されるのである. Thomasによれば,運動する基体には必ずその迎動のための態勢か相伴って変化している. そ れ故,性質的変化の場合も,そのための態勢が作られてゆき最後に形相を受けるまでの全期間を, 「動いている(或いは,変化している)」と見れば,この変化は継次的になされているように見え るであろう.しかしたとえ外見上継次的に変化していると見えようとも,最後の時点において,瞬 間的に目的とする形相か獲得されているのである. それ故〔9〕において提出された問題は解決されたことになる.‘「継次的に」推移するのは「態勢」 である.そして「瞬間的に」受容されるのは「形相」である. 基体に対する態勢の継次的な形成と,基体への形相の瞬間的な受容とを含めた全体か,いわゆる 性質変化と言われる所の「性質」の範鴫における継次的な運動である. 〔11〕さて具体的な例において,Jぷ上を検討してみよう.’水の加熱を考えよう.「水」という基 体に「熱が加えられる」という作用が継次的になされて,「熱い」という附帯的形相を受容する態 勢が継次的につくられてゆく.そして水は徐々に温められて態勢が出来上がり,現実には同定でき ない或る時点において水は「熱い」という形相を受容する. 「加熱」が或る時点で始まり,そして ・ ● ● ● ● ● ● ●別の時点で「熱くなる」迄の全期間において基体は継次的に変化しているのである.病人か健康に なっていく変化も同様である. しかしかかる例示では形相を受容する時点を現実に同定することはできない. だか形相を受容す る時点は,既述の如く〔9〕,存在する.そこでThomasは,形相を受容する瞬間を同定できる別 の例として,透明体(diaphanum)の照明(illuminatio)を取り上げている(21し当時一般の自然学 の照明理論は次のようであったと察せられる(22)光の無い大気(aer)は暗黒体である.光が射 ● ● ’ ● ●し込むと暗黒の大気は透明体となる.この場合大気に着目すると,暗黒(tenebrosus)から透明 (diaphanus)への性質的変化か見られる(23)暗黒の大気は√もし照明された場合には,透明の大 気に変化するための「態勢」にあると見なされる(24)/それ故,その暗黒の大気が照明された場合に は,照明の瞬間において大気は突然(subito)透明体となる.つまり照明の瞬間において「透明」 の附帯的形相を受けるのである.この例において,我々は瞬間的に形相を受容する時点を同定する ことかできる.この点で,この例は先の水の加熱の例よりも適当であると言える.しかしながら, この例では,形相受容のための態勢か継次的に変化しているわけではない.なぜなら大気は既にそ のままで最後の態勢にあるのだからである.我々は目下,性質的変化における継次と瞬間について 具体例において考察しているのであるのだから,別の,それにふさわしい例を挙げねばならない. 〔12〕その例を我々は独自にとり上げよう(Thomas自身か挙げているわけではないか……).そ れは「水の加熱」である.水が,継次的に熱を加えられて徐々に温度を上げて100°Cに到達したと しよう. 100°Cに到達しても熱を加え続けると,水は液体から気体(水蒸気)に突然(subito)変 質する,いわゆる気化という現象である.気体になっても水は液体のそれと実体的な区別はない. 水が液体から水蒸気に変わる変化は実体的変化ではないからである.なぜなら気体の水も液体の永 もH20という化学組成には変わりがないからである.こう考えれば「気化」と呼ばれる現象は性 質的変化の一種と考えられる. .. そこでこの気化という変化に着目しよう.「水」は基体である.「加熱」は水が気化するために 必要な作用である.この作用によって,気体の形相を受けるための「態勢」が継次的につくられて
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について(岡崎) 91 実は,質料 (agens)は また態勢を いく.そして100° Cに到達した時には,水は気体の形相を受容するための「最後の態勢(ultima dispositio)」にある.即ち気化のための準備は完了しているのである.そこで,加熱作用を継続す ると,水は瞬間において沸騰し始める.つまり気体(水蒸気)の形相を受容する.そして我々は気 体の形相の受容の時点を,観察することによって現実的に同定することかできるのである. 以上の例によって,性質的変化における継次と瞬間が明示されたと思われる.結論的に言えば, 100°Cまでの温度上昇は,気体の形相を受容するための態勢を継次的に変化させて最終段階に迄も ってゆく.その段階に達した時に,突然水の気化が始まるのである.つまり突然気体の形相が受容 されるのである. 〔13〕さて〔4〕∼〔12〕を結論としてまとめよう. 運動(motus)は四つの範鴫において見い出される.「実体」「性質」「m」「場所」である. 今ここで問題とするのは「実体」と「性質」の二つの範鴫における運動である(以上〔4〕) Thomasは運動を形相獲得の過程と見る.「実体」の範鴫における運動は,質料に対する実体 的形相の獲得の過程である.そしてこれは「生成」と呼ばれる.ところで実体的形相は「より多い ・より少ない(magis et minus)」を受容しない.従ってそれの質料への導入は瞬間的となる.そ れ故,生成は瞬間において行なわれる(25).(以上〔6〕) ところで「性質」の範鴫における運動は,基体に対する附帯的形相の獲得の過程である.そして これは「性質的変化」と呼ばれる.性質の範瞬に属する形相のうちで或る形相は「より多い・より 少ない」を受け入れる. 従って基体に獲得されるその過程は継次的に(successive)行われる.そ れ故,性質的変化は継次的に遂行される.(以上〔勾〕 しかし変化が継次的に行われるとはいかな・る事態を指しているのであろうか. Thomasは更に分 析を続けて,「態勢(dispositio)」という概念を導入する.変化において,基体か目指す形相を獲得 するためには,まずその準備が基体に加えられなくてはならない.加えられてゆくと,目的とする 形相を受け入れるための「態勢(dispositio)」が基体につくられてゆく.その過程は継次的であ る. そしてその態勢か最終段階に達した時に,基体は瞬間において(subito)目的とする形相を 受容する.従って.「態勢」がつくられていく段階と,形相を瞬間的に受容した段階とを合わせて全 体として見るなら,基体は継次的に形相を獲得すると言える.従って性質的変化は継次的であると 言えよう.(以上〔7〕∼〔12〕) 〔14〕しかしながら性質的変化においてのみ運動か態勢と共にあるのではない. Thomasは総 ての運勁を,「態勢」のもとに見る. Thomasは,「もの(res)」が運動状態にあるということはそれ の「態勢」が断えず変化していることであると語っている(26)従って外見上瞬間的に動くように 見える実体的変化一一一生成一であっても,形相に対する「質料」が継次的に変化している.つま り質料に形相受容の態勢が,継次的に7つくられてゆくのである.(しかしそれは外見上現れず,見ら れ得ないかも知れない.)それ故,実体的形相の質料への受容という如き瞬間的変化も, の連続的運勁の終端なのである(27)従って質料への態勢の継次的な変化と, 瞬間における質料へ ● ●● ●● ● の実体的形相の受容との両方を合わせて実体的変化と見なすのであれば,実体的変化も性質的変化 と同様に継次的な変化と言い得るであろう.基体の代わりに質料か,附帯的形相の代わりに実体的 形相かあるに過ぎないのだからである. 〔15〕最後に第三の「作動者の側から」と言われる観点の検討にはいろう.作動者 「働き(actio)」をなすものである.従って作動者は働きの原因(causa)でもあり,
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作る原因でもある.先の〔8〕例によれば,火・医師(medicus)がそれである.そしてそれらは近
接因(causa proxima)と考えられよう.しかしもし運動の作動者が「無限の力(virtus infinita)」 を持った者であり,かつそれが近接因となっている場合には,その運動は瞬間的となる.それに反 して,火とか医師等の作動者は,有限の力しか持っていない.従って態勢の準備も継次的にしかな され得ない.ところが無限の力を持った者は「直ちに(statim)」形相に対して質料を準備するこ と(diSponere)ができる(28) この場合,質料に対する形相であるからこの形相は実体的形相である.従ってこの変化は実体的 変化一生成一を意味している.しかしながら注目すべき事がある.我々が先で[14]見たよう に,自然本性的な実体的変化では,その質料の準備(態勢ミ)は継次的であった.ところが,今我々 が見ている所の「無限の力を持った作動者」か直に引きおこす実体的変化は,質料の準備(態勢) までも瞬間的なのである.ここに,純粋に自然本性的な実体的変化と,無限の力によっておこされ た実体的変化の大きな相違か見られる. Thomasはその例としてマルコ伝七章(34∼35)の記事を引用している.それは,キリストが 「エパタ(開け)!」という声をかけると「直ちに(statim)」つんぽの耳か開き,おしの舌か解け たという記事である(29) (この例によるとThomasは,つんぼの耳か聞えるようになる変化や,お しがロをきくようになる変化を生成(generatio)の一種としてとらえていることか窺える.) 無限の力を持った作動者が,途中にいかなる自然本性的な媒介者も通さずに,直に作用する場合 にはその運動は瞬間的となる.そしてその運動はsupernaturalisの領域にはいると言えよう.な ぜなら,まず第一に,その運動の近接因(causa proxima)が自然界(rerum natura)には存在せ ず,いきなりそれを超えたところの第一原因(causa prima)となっているばかりか,第二に,質 料への形相受容のためになされる「態勢」までもが瞬間的に整えられるからである. 〔16〕Thomasは以上の三つの観点より見てconversioは瞬間的であると結論する(3 0)理由は 第一に, conversioはパンの実体がキリストの体の実体に変化するいわゆる実体的変化である. 無論キリストの体の実体の形相は「より多い・より少ない」を受け入れない(31゛.第二に, conver-Sioには,継次的に準備される基体がない(3゛. 従ってこのconversioは性質的変化ではない.以 上の二つの理由からすれば, conversioは実体的変化として外見上瞬間的な変化をするが,実質的 には継次的な変化であるとも考えられる.なぜなら実体的変化も質料か形相に対して準備される過 程を入れれば継次的変化と考えられると結論されたからである〔14〕.ところがconversioは自然 界には見られない仕方で瞬間的である.それは第三の理由による. conversioは神の無限の力によ ってなされる(33)・ 従って質料か形相に対して準備されるのは継次的では無い.「直ちに(statim)」 準備される.つまり「直ちに」質料に対して形相受容のための最後の態勢(ultima dispositio) がつくられる.従ってconversioは実体的変化であるにしてもnaturalisな変化-この場合, 質料の準備は継次的であるーにとどまるのではなくてsupernaturalisの変化である.それ故, conversioは純粋に瞬間的である.このような瞬間的変化はnaturalisの領域には存在しないと言 えよう.しかしながらconversioは上記の如く明らかに実体的変化でもある.従ってnaturalisの 領域にも位置している. それ故conversioはsupernaturalisとnaturalisの重複領域にあると言えよう. 〔17〕以上迄でconversioが純粋に瞬間的であることの理由か明らかにされた.次にそれでは conversioはどのような仕方で瞬間的に遂行されるのか,その時間的な経過のいわばメカニズムが 検討されねばならない. f︱ | ゝ
inasにおけるconversioと時間・瞬間について(岡崎) 9ろ Thomasはそのために「conversioは継次的に(successive)行なわれる」と主張する第一異論 を取り上げて,それを検討することによって上記の問に答えてゆく.そこで第一異論の主張の論拠 から見てゆこう. (i) conversio においては,まず最初にパンの実体がある.そしてその後にキリストの体の実 体がある(34).(ii)ここにパンの実体の「最後の瞬間」とキリストの体の実体か生じた「最初の瞬 間」の二つの瞬間がある(35).(iii)どんな二つの瞬間の中間にも,中間的な時間がある(36).(iv) それ故このconversioは二つめ瞬間の中間を時間の継次に従って行われる<37)_ 以上が第一異論の主張と論拠である(図1を参照). successio temporis ↓
(tempus in quo est substantia panis.}A B (tempus in quo est substantia corporis Christi.)
uttimum instansquo estビ jprimum instansquo est
Ibi panis. ↑ ibi corpusChristi. .
tempus medium
*時間は左から右へ進む.Aはパンの実体の最後の瞬間を,Bはキリストの体の実体の
最初の瞬間を示す点である.AとBの中間には,中間的な時間か存在している. AB
間をパンからキリストの体へsuccessio temporis に従ってconverSioか遂行され
る. 図一1 〔18〕しかしThomasの主張は「このconversioは瞬間的に行われる」であった.これと同じ 主張をなす一群の人々が居る.しかし彼等の主張は,結論は同じであっても,その論拠は必ずしも 一致してはいない. Thomasはそれらの主張を四つ取上げ吟味し,最後に自説を提出して上記の 異論に答えている.
まず初めに, Thomasの師Albertus Magnus やBonaventura等の説(38)を取り上げて「この 説は誤っている」(39)と断定する.そこで彼等の説一一一これを異論に対する反論第一説と言おうー を見てみよう.この第一説は異論の前提(iii)「どんな二つの瞬間の中間にも,中間的な時間がある」 を端的には認めない(40)ことによって異論に対する反駁を試みる. 即ち彼等は「この命題が妥当 するのは同じ運動にかかわる二つの瞬間においてであって,異なるものにかかわる二つの瞬間に おいては妥当しない」という条件を附す(41)この条件をつけた背景には,各運動にはそれぞれ固 有の時開かあるが異種の運動間にはそれらを共通的に媒介する尺度としての時間は無いという考 えがある.例えば或るものが「静止の状態」から「運動の状態」に移行する場合には「静止の状 態」と「運動の状態」の二つの状態がある.この二つは異なるものである.そしてこの二つの異な るものを共通的に媒介する尺度である時間はない.従って「静止の最後の瞬間」と「運動の最初の 瞬間」は異なるものにかかわる二つの瞬間であるから一個の尺度たる時間軸上における二つの瞬間 ではない.前者の属する時間と後者の属する時間は互いに異なる時間であって,その間には何の関 係もないからである.従って両方の瞬間の中間には中間的な時間は無いC42)_ 以上が第一説の異論. 反駁である.今問題となっているconversioに適用すれば, conversioは「パンの実体」から「キ リストの体の実体」への移行であって,二つの異なるものにかかわる運動である.それ故,この conversioにおける「パンの実体の最後の瞬間」と「キリストの体の実体の最初の瞬間」との中 間には,中間的な時間は存在せず,従って瞬間における(in instanti)変化となる(図2・3を参 照).
94 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学
- (quiesの状態の時閻) instans quod mensurat finem quietis.
tempus medii!mは無い
。 ハ
ー − 1、motusの我態の時間)
instans quod mensural
principium motus-*A点は静止の状態の最後の瞬間である.B点は運動の状態の最初の瞬間である.静止 の状態の時間と運動の状態の時間は異なる.従ってAB間には中間的な時間はない. 静止から運動へ移行する時はAからBへ飛ぷごとになる. 図一2 , (substantia panisの時川) teinpusme(!iumは無い A ↓
!3 (substanりa corporis Christiの時間)
Å
[mcnsuraj
-(motusの状態)
instans ciuoclmensurat
aliauod signum ・motus.
uiti°urninstansquo estビ j primum instansquo est ibi panis- ibicorpusChristi.
*時間は左から右へ進むぐ矢印).A点はsubstantia panisの最初の瞬間であり,B
点はsubstantia corporis Christiの最初の瞬間である.上図と同じ理由で,Aから Bへの移行には飛跳かはいる. 図一3 〔19〕ThomaSか第一説を誤まりとするのは,第一説が異論前提(iii)に対して附した条件,「異 論前提(iii)の命題が妥当するのは同じ運動に係る二つの瞬間についてであって,異なるものに 係る二つの瞬間については妥当しない」(41)が誤っているからである. その論拠はAristotelesに 従っている(.*3) Thomasによると二つの異なった状態一一例えば静止と運動-は各自の固有の 運動によって測られるのではない.それら二つの異った状態を共通的に媒介する尺度は存在する. それは天体の第一運動(primus motus caeli)である.この天体の第一運動か動や静を測る尺度と なる.そして又時間や瞬間もそれによって測られるf44)それ故この天体の第一運動か動と静の異 なる二つの状態を共通的に媒介する尺度となる.従ってどの二づの瞬間をとってみても,その中間 には必ず中間的な時間(tempus medium)が存在することになる.このようにThomasは異論の 前提(Hi)を無条件的に認めることによって第一説を誤りとなすか,とすれば異論の結論は必然の
[pl・imus motus cacti]
((luiesの状態) instans(luod mcnsurat aliquod signum quietis.
tempus mediumは有る ムレ
/
alir│U0(lsignumquietis aliquodsignum motus
*A点は,静止の状態における或る点であって,それを天体の第一運動によって測った 時間の点(瞬間)かA’点である.同様にB点は助の状態における或る点であって,そ れを天体の第一運動によって測った点がが点である.このように,静と動を共通
的に媒介する尺度(mensura)として,天体の第一運動(primus motus caeli) ii ある.従って, A' B’間には中間的な時間(tempus medium)は存在する.
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について(岡崎) 95 ように思われる.しかしThomas自身の見解は異論とは反対である.果してThomasは,異論の 前提(iii)を認めながら,異論とは逆の結論へいかに導いてゆくのであろうか.それは最後〔29以 下〕に見るであろう(図4参照). 〔20〕Thomasは二つの異なる運動状態を共通的に媒介する連続的な尺度一つまり天体の第一 運動-一一か存在することを指摘することによって第一説の不備を突いた. この指摘を考慮に容れて 反論の第二説を提出する(<5)_ 第二説を見てみよう.それによれば,〔19〕で述べられたThomasの批判か妥当するのは,天体 の第一運動に依存する運動を測る時間においてのみである(46) 即ち時間によって測定されて一つ の連続的時間軸に同定できるのは天体の第一運動に依存する諸々の運動のみである.そして自然本 性的な運動(mutationes sive motus naturales)は総てこれに属する.しかし運動するものは総 て天体の第一運動に依存するとは限らない.第一運動に依存せず,従ってその時間によっても測 られない運動かある(47;その運動は例えば天使の運動や目下のconversioがそれである.従って これらの運動は異種の状態下にある運動であるからその間には共通的な媒介尺度は存在しない.そ れ故この場合,二つの瞬間の中間には中間的な時間は存在し得ない(48)_ 以上が第二説の主張であ る(図5を参照). motus supernaturalisに属する primus motus caeli に依存しな (substantia panisの時間)
/
motus naturalis に属する primus motus caeli に依存する
*Aはパンの実体がある最後の瞬間(ultimum instans quo est substantia panis)) Bはキリストの体の実体かある最初の瞬間(primum instans quo est substantia corporis Christi)である.パンの実体かある時間は自然本性的な運動をし天体の第 一運動に従がうか,キリストの体の実体かある時間は supernaturalisな領域に属 し,天体の第一運動に依存しない. ’ 図一5 〔21〕Thomasは,第二説を誤りとはせずに,目下問題とされているconversioの場合にはあた らないとする(49)その理由は,成程この変化はそれ自体をとってみればsupernaturalisの領域の 事柄であるから,天体の第一運動と関係を持ってはいない. しかしこの変化は「司祭によるキリス
トの言葉の発声(prolatio verborum SaCerdote)(5o)」に従属している.そして言葉の発声は天体の第
一運動によって測られる(51)つまりこのconversioは本質的には(secundum Se)時間を共通的 な媒介尺度とする必要はないけれども, conversioを遂行する司祭の言葉の発声は時間において行 われる.従ってこのconversioは時間を超えたものでありながら,しかし司祭の言葉を介して, 言わば時間軸に投影され,現れの上では時間において行われる自然本性的な変化と同じものとなっ て,その結果時間によって測られる.従ってこのconversioにおいてしるしづけられる二つの瞬間 があれば,それがどんな二つの瞬間であってもそれらの中間には中間的な時間(tempus medium) が必然的に存在することになる(52)このようにしてThomasは第二説の「このconversioは天体 の第一運動に依存しない」はあたらないと示すことによって第二説を退ける. 〔22〕Thomasは,司祭の言葉の発声がconversioに関与していることを見い出すことによっ て「このconversioも天体の第一運動に依存する」として,第二説はこの場合にはあたらないとし た.
% 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学 第一説も第二説も原理的には同じ観点に立っている/そしぞ又同じ不備も持っている.即ち「パ ンの実体である時間とキリストの体である時間の間には,両者を媒介する共通の尺度は存在しな い」という主張であった.それに対しThomasは「そうではない.媒介する共通の尺度は見い出 せる.それは天体の第一運動である」と主張する.そして両説に対して「二つの瞬間の中間には中 間的な時間は見い出せる」と言う.とすれば異論のように,このconversioは継次的(successive) であると結論されるように思われる.しかしThomasはこれに反対している. いかにして異論と 逆の結論に導くのであろうか. 〔23〕さて先の二つの説と異なる観点から反論の第三番目の説を提出して吟味にかける.これは Albertus Magnus やBonaventura等のものと言われている(53Jこの説はconversioの際に「パ ンが在る最後の瞬間」と「キリストの体が在る最初の瞬間」を二つの異,なった観点から見て分析す る. 第一の観点は「測られるもの(mensuratum)」との対比(comparatio)である.つまり二つの 瞬間を「測られるもの」と見立てる時である.この観点によりすれば二つの瞬間は確かに「二つ」 と見て取られる(図6参照). duo instantia (substantia pan is の時川〉 ↓ ノ
u】timum instans in quo est pan is‘
primuminstansin quo estc‘orpusChristi. *A点,B点は,前図と同じである.パンの実体と,キリストの体の実体とはmen surafumとしては異なる.従って, A, Bもmensuraturriとしては異なる. 図一6 ところが第二の観点かある.これは尺度たる「測る時間(tempus mensurans)」 る. つまり測定する時間から二つの瞬間を見た時には丁一う」と、して見られる(54) 重なっているからである(図7参照).
fsubstantia panis の時川3 (substantia corporis Christiの時田D
との対比であ 二つの瞬間は ¨’i¨t¨;{ゴニごごに二言ここc h,。i JI * A, Bj^it,「竺?でF?認;1ごる二つのterapus mensurans 上においては’AとB 図一7
〔24〕以上と幾何学の「相交わる二つの線(duae lineae se contiりgentia)」という例を取上げ, 並べて論じる(55)
第一の観点は「二つの線の側から(ex parte duarum linearum)」である.この場合交点は「二 つの点」として看取できる.なぜなら二つの線の各々に一点づつあって,これらが重なり合って一 つの交点を作っているからである.それ故,各線に着目した場合,そこに各一点ずつが見て取ら
れ,計二つの点か存在することになる.ここで「二つの線」に「パンが在る時間」と「キリストの 体が在る時間」が比せられている.
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について(岡崎) -一一
97
第二の観点よりすれば,「相交わる二つの線」の交点は一つである.第二の観点とは「その交点 を含んでいる場所の側から(ex parte loci continentis)」である.二つの線の各点は重なり合って 交点を作っているのであるから「一つの場所」を占めている.よって交点を包む「場所」という観 点からすれば二つの線の各点は「一点」として見て取られる.この場合「場所(locus)」に「測る
時間」が比せられている. それは「場所」も「測る時間」も共に「尺度(mensura)」と考えられ ているからである(図8参照).
〔exparte loci continentis〕
b
〔ex parte duarum linearum〕
⇔ *点A,B共にーつの場所を占めてい る.従って, unum punctum と 看取される. 図一8 A linea b 1 / 〆 / 1 / B *二つの線を離すと点A,Bも共に離 れ,上図の様に,各線に位置を持ち duo puncta と看取される. 以上「conversio」と「相交わる二つの線」の並行関係を比例式でまとめてみよう. (i)〔線a〕:〔線b〕=〔パンの実体か在る時間〕:〔キリストの体の実体が在る時間〕 (ii)〔線a上の点A〕:〔線b上の点B〕=〔パンの実体の最後の瞬間〕:〔キリストの体の実体の 最初の最間〕 (iii)〔場所〕:〔点〕=〔測る時間〕:〔測られる瞬間〕=〔尺度〕:〔測られるもの〕
(iv)〔exparte loci continentis〕:〔ex pane duarum linearum〕=〔per comparationem ad tempus mensurans〕:〔per comparationem ad mensurata〕=〔一つ〕:〔二つ〕……これは観点の並 行関係式である. 〔25〕’この第三説は, Thomasの第一説・第二説批判一一天体の第一運動を基準とする時間は異 種の運動をも共通的に測定する尺度になる一一を比例式(iv)で示される観点の区別を導入して認 めた上で,かの二つの瞬間には中間的な時間は存在しない(なぜなら二つの瞬間は一点に重なって しまうから)ことを示した. しかしThomasは「conversio」と「相交わる二つの線」とは似ていないと言う(58)どの点で
non simile であるかと言えば,上記比例式の(iii)がnon simile である. Thomasは比例式(iii) で述べられているように,「場所」と「時間」を「尺度」に,「点」と「瞬間」を「測られるもの」 に対応させる考え方を受け入れない.なぜならThomasによれば「場所」「点」「時間」「瞬間」 はいづれも「尺度」であり,そしてそれらによって測られるものは「物体」であり「運動」である
のだからである.
更にThomasによれば,尺度(mensura)には二種類ある. mensura intrinseca (内的尺度) とmensura extrinseca(外的尺度)である. mensura intrinseca とは本質的な基準,或いは第一 の基準の意味であり, mensura extrinseca とは第二次的な基準或いは副次的な基準の意味である と解せられる.ところで「場所」や「時間・瞬間」はmensura extrinseca である. そして「場 所」によって測られるものは「物体」,一般には「場所に包まれたもの」である.また「時間・瞬
98 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学 一
源的な尺度かある.それは「物体」に対しては「点・線」というmensura intrinseca である(57)
では「運動」を測るmensura intrinseca は何であろうか.この箇所では直接言及されて,はいない
か「天体の第一運動」がそれであると解せられる. mensura intrinsecaはmensura extrinsecaの
基準になるところのより本質的な尺度である. 以上のThomasの考えを先と同様に比例式で表してみよう. 0)〔場所〕:〔物体〕=〔瞬間・時間〕:〔運動〕=〔mensura extrinseca〕:〔mensuratum〕 OI)〔点・線・面〕(57):〔物体〕=〔天体の第一運動〕:「運動」=〔mensura intrinseca〕:〔mensur-atum〕 (Ⅲ)〔点・線・面〕:〔場所〕=〔天体の第一運動〕:〔時間・瞬間〕=〔mensura intrinseca〕:〔men-sura extrinseca〕 となる.
これよりすれば第三説はmensura intrinseca と mensura extrinseca の区別か無いのみなら
ず,比例式(iii)で示されている様に「尺度」と「測られるもの」の混同や位置の逆転か見られる. 従って第三説の二つの観点も並行しない.よって比例式(iv)も成立しない.従ってconversioは
幾何学の例とnon simile であるとThomasは言う(5゛),
〔26〕最後にThomasは反論の第四番目の説を挙げる(58)これも先の場合と同様に,見る観点 の区別をする.これによるとconversioは二つの観点から見られる. 第一の観点は「事物の側から(ex parte rei)」見る場合である.つまり事実ある所の瞬間自体 に目を留める場合である.この観点から見た時には[パンの実体か在る最]後の瞬間」と「キリスト の体の実体が在る最初の瞬間」は同じもの(idem)となる.つまり重なって一つのもの(unum) となるのである.この一点においては「パンの実体」と「牛リストの体の実体」とか同時に存在し ていることになる(図9参照).
(substantiapanisの時間・ AB・・(.substantiacorporisChristiの時川
idem instans ‘
ultimuminstans in quo est panis.=" primum instans in QUO est corpus Christi.
* A, Bの各点は図7と同じである.二点は,重なって一点となっている.この点では 「パンの実体」と「キリストの体の実体」とは同時に存在する. 図一9 第二の観点は「概念の側から(ex parte rationis)」見る場合である,この場合には,この瞬間 は,二つ(duo)の瞬間となる.即ち「実際には(re)」一つ(Unリm)の瞬間しか存在しないけれ ども,これを「概念的に(ratione)」区別すれば異なる瞬間として看取できるのである.なぜなら, conversioの一つの瞬間は,上記の如く「パンの実体が在る最後の瞬間」と「キリストの体の実体 が在る最初の瞬間」という概念的区別か可能であるからである(59)しかし,事物の側からすれば このconversioは一つの瞬間において行われることになる(図10参照). (substantia pan is の11抑j) aliud instans―^―≫ A − B
(subs、lantifl corporis Christi(7)時│川
* A, Bの各瞬間は実在的には(realiter)重なって一つであるか,しかし概念上(rati- one)二つに区別できる.
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間叱ついて(岡崎) 99 以上が反論の第四説である. 〔27〕Thomasはこれに対して「この説に従えば実在的に対立しているもの(opposita)が同時 に存在することになってしまう(このようなことは実際にはあり得ない)」と語る(6 01「対立して いるもの(opposita)」は同一のものに,しかも同時に存在することは出来ない(eijなぜなら一つ の質料(materia)が同時に二つの実体的形相を取ることができないからである. 目下問題となっているconversioにおいて,「パンの実体の最後の瞬間」の時刻をt1とし「キ リストの体の最初の瞬間」の時刻をt2としよう.ところで「キリストの体の実体」に成るという ことは「パンの実体」であることを止めることである.従って時刻tlにおいては「パンの実体」が 在り,時刻t2においては「パンの実体」は無くなって,「キリストの体の実体」が存在しているの である. ところで「事物の側から」すれば, tl = t2である.従ってこの瞬間においては「パンの実体かあ る」ことと「パンの実体か無い(なぜなら,それはキリストの体の実体になっているのだから)」 ことづ両方が一つの同じ質料の中に,しかも同時に存在していることになる.この対立は明らかに 「あり(esse)」かつ「あらぬ(non esse)」が同時に同一物に存在しているという矛盾的対立と言 わねばならない.そしてこのような事は上述の如く実際にはあり得ないのである.ところか第四説 では「事物の側から」すれば二つの瞬間は同一であると主張されていた(59) これは在り得ざる不 可能事を主張していると言わねばならない.たとえ「概念的に(ratione)」一つの瞬間を二つに区 別したとしても,その区別は,「事実の側」には何の影響も及ぼさず,実在的に(realiter)存在す る「ありかつあらぬ」の矛盾的対立が,解決されるのでも,回避されるのでもないからである(62)・ 従って第四説め第一の観点は矛盾を含み,第二の観点は無意味であると言わねばならない. 〔28〕以上四つの説に対するトマスの批判の中で運動と時間・瞬間に関する事項だけをまとめて みよう. 第一説批判……〔19〕 各運動は,自分自身の運動が,時間・瞬間の尺度となるのではなくて,「天体の第一運動」が総て の勁と静−一広い意味での運動と言えるー一一の尺度である. . 第二説批判‥…・〔21〕 conversioは,それ自体は天体の第一運動に関係を持たない. しかし「司祭の言葉の発声」によっ て完遂されるのであるから,このconversioの時間の推移過程は完全に「天体の第一運動」に従 属していて,それによって測られる, 第三説批判…・べ25〕 時間は瞬間を測る尺度ではない.瞬間は時間と共に尺度である.測られるものは運勁である.瞬間 ・時間はmensura extrinseca と言われる尺度であって,これらの基準となるもっと本質的な尺度 がある.それはmensura intrinseca と言われる「天体の第一運動」である. 第四説批判……〔27〕 conversioの際の二つの瞬間一一パンの実体か在る最後の瞬間と牛リストの体の実体が在る最初の 瞬間-が「実在的に(re sive realiter)」同一(idem)であるとすれば「『あり』かつ『あらぬ』」 の矛盾的対立が生じる・
以上かまとめである.ここで主要概念を関係付けてみよう.「conversio」は「自然本性的な変化・ 運動(mutatio sive motus naturalis)」の一種である.’これは「瞬間・時間」という「mensura extrinseca」によって測られる.しかしこれらは更に本質的な尺度に従う.それは「天体の第一運 動」・という「mensura intrinseca」である.ここにconversio − motus (=mensuratum)
100 高知大学学術研究報告 第27巻 人文科学
instans et tempus (=mensura extrinseca) ― primus motus caeli (=mensura intrinseca)とい う一連の関係を看取することができる.
したしconversioが天体の第一運動に従うと言っても,それは,「mensuratum (測られるも の)」に対する「mensura (尺度)或はmensurans (測るもの)」という関係においてであって, 「motum(動かされるもの)」に対する「movens (Mかすもの)」という関係においてではない.
なぜならconversioの作動因(causa agens)は天体の第一連勁には依存せず,却って第一原因 (causa prima)である無限の力(virtus infinita)を持った作動者(agens)に負うているのだか らである〔16〕. 〔29〕さていよいよ最後に,以下Thomas自身の考えを見ることにしよう. Thomasが,「con-versioは瞬間においてなされる」と考えるのは,既述の意味で, conversioと言えども自然本性 的な変化に従属する,という事情かあるからである.それは第一に, conversioは質料(materia) が実体的形相(forma substantialis)を受け入れるという実体的変化であり〔16〕,第二に,司祭の 言葉の発声によって完遂される〔21〕,という二つめ理由からである.従ってconversioはそれ自 体をとってみればsupernaturalisな出来事ではあるにしても,司祭の言葉の発声を合図に質料が 実体的形相を受入れる限りnaturalisなordoに従って遂行されることか必然的となる.それ故と りわけこのconversioに関しては,自然本性的な変化と同様の時間的移行過程を見て取ることが できる.では果してconversioは時間的にどのような仕方で変化するのであろうか. [30]我々はそれを知るためにまず時間の成り立ち,換言すれば時間の構造を考察しなければな らない.そこでAristotelesの「自然学(Physica)」に対するThomasの註解書“Exposito in octo libros physicorum Aristotelis”を援用しよう.
「時間(tempus)」は「連続しているもの(continuum)」である. ところで「時間は不可分な時間から複合されている(従ってまた不可分な時間へ分割もできる)」 という見解と,「不可分な時間から複合されていない(従って不可分な時間へ分割することもでき ない)」という見解の二つがみられる. ThomasはAristotelesの立場を受入れて,前者を退け後 者を採る.なぜであろうか.その理由を見てみなければならない/ もし「時間が不可分な時間(tempora indivisibilia)から連続体(continuum)に複合されてい る」としよう.・この場合その複合のされ方に三種類あり得る.
第一は,隣り合う不可分な時間か「連続という仕方(per modum continuationis)」で在ること 第二は,それらか「接触という仕方(per modum contactus)」で在ること
第三は,それらが「継続という仕方(per modutn consequenter se habitum)」で在ること である.これら三つは詳細に検討された後,結果的には杏定される(63)そこで我々はこれらの各 々について見てゆかねばならない. ところでThomasはそれらを検討する時には Aristote!eSに従って,連続体(continuum)の 例として「時間」よりも「線(linea)」を主として念頭においているようであるか,我々はここ で,「時間」を主として念頭におきつつ検討を加えていこう.両者共,紛れもなく連続体であり, かつ両者は, ThomasやAristotelesによって多くの箇所で並行して例に取上げられて論じられて いるからである.そこでまず,重要と思われる用語の定義を述べておこう. 「不可分なもの(indivisibile)」とは端(ultima)も部分(partes)も持たないものであって, 従ってこれ以上分割することができないものである.例えば時間における「瞬間(instans)」「今 (nunc)」「時点Csignum temporis)」「時間の端点Cterminus temporis)」等と表現されている
Thomas Aquinas におけるconversioと時間・瞬間について(岡崎) 101
ものがそれであり,線においては「点(punctum)」と語られているものがそれであ右.
次に(1)「連続(continuum, <tiルεバ○)(2)「接触(contactus, oik「陥9(ル)」(3)「継続(con-sequenter, Iffls^f;?)」とはいかなる意味かを見よう. (1)二つのものが「連続している(continua sunt)」ということは,それらの各端(ultima)が 一つ(unum)であることである・ . (2)二つのものが「接触している(contacta sunt)」ということは,それらの各端(ultima)が 同時に(simul)在ることである. (3)二つのものか「継続している(consequenter sunt)」ということは,それらの中間に,それ らと同じ類(genus)に属するものが存在しないことである(64). 〔31〕さて,これら三種類のいづれの複合の仕方で連続体は成り立っているのかを検討してみよ う. 第一に,連続体(continuum)は「連続という仕方」で不可分なもの(indivisibilia, atoma)か ら複合されているのであろうか.否,そうではない.なぜなら,或る不可分なものとそれに直接続 いているもう一つの不可分なものの各端(ultima)は一つ(unum)ではないからである.と言う のは,端は部分を持つものについて語られるが,先述したように〔30〕,不可分なものには端である 部分は存在しないしまた端とは別の部分も存在しないからである(65) つまりもし端を持つものか あれば,必ずもう一つの端か,それとも,当の端でない別の部分が存在し,そしてそのものは一つ の拡がりを待ったものとなり,もはやそれは分割することができるもの(divisibile)となってし まうからである.それ故不可分なものは端を持たない.そして持たない故にまた二つの端か一つで あることもない.従って連続体は「連続という仕方」で不可分なものから複合され得ないことにな る. 〔32〕第二に,連続体は「接触という仕方」で不可分なものから複合されているのであろうか, 否である.なぜなら,上記のように,二つの不可分なものの各端は同時に(simul)にあるのでは ないからである. と言うのは既述の如く不可分なものには端と端でない部分の区別は存在しないか らである.従って不可分なものは端を持たない故に,端が同時に(simul)あることもない.よっ て連続体は不可分なものから接触(contactus, tangere)という仕方でも複合されているのではな いことになる(66) しかしThomasはこの事態を更に分析する.もし不可分なものが接触し合うとすれば,三つの 場合が考えられる. 第一は,一方の不可分なものの全体と他方の不可分なものの全体が接触する場合 第二は,一方の部分が他方の部分に接触する場合 第三は,一方の部分が他方の全体に接触する場合 である.ところで上述のように,不可分なものは部分を持たない故に,・第二と第三の場合はあり 得ない. 残る所,もし不可分なものが接触し合って連続体を複合するとすれば全体が全体に接触 するという第一の場合となる. この場合,全体か全体に即して(secundum toturn)接触し合っ ているのであるから,不可分なものか仮に点であれば,それは場所的にも位置的にも区別できない し,又不可分なものが瞬間であれば,時間的に区別できないことになる.ところかそれに反して連 続しているものは,諸部分に分かたれ,一方はあちらに他方はこちらに位置を占`めている.従って 各部分は場所的に,或は時間的に区別することが出来る. しかし不可分なものが接触し合っても, それは一点或は一瞬を作るのであって,決して連続体を複合することは出来ないと言わねばならな