現代的租税システムの構築とその挫折
~高橋財政期における租税政策の限界~
井 手 英 策
*(横浜国立大学大学院国際社会科学研究科助教授)
1.問題の焦点
近年,景気の回復傾向が力強さを増す一方で,財政支出削減論と消費税増税論とがせめぎ合いを見せな がら財政再建論議が高まりつつある。本稿は,このような現状を念頭に,システム転換期の租税政策,と くに,長期停滞の脱出過程における税制改革のあり方とその限界を歴史的視点から分析することを課題と している。 わが国の昭和恐慌からの脱出過程において,大規模なスペンディングポリシーが行われた事実は広く知 られている。この点に関して,金本位制度の停止と管理通貨制度への事実上の移行,弾力的な通貨制度改 革と新規国債の日銀引受発行(以下,日銀引受)の開始,フィスカルポリシーによる農村救済と景気回復, これら一連の政策展開を中心に膨大な研究が積みあげられてきた1)。また,近年,その成功を念頭に,日 銀引受による財政金融政策が政策レジームや市場期待を大胆に変化させ,デフレ経済からの脱却に寄与し た可能性が指摘され,当時の政策の現代的な意義を問う研究も増えている2)。 このように,高橋財政の研究は,質・量ともに圧倒的な水準にあるといえる。しかしながら,積極的な スペンディングと恐慌からの回復過程に問題関心が集中する一方,景気回復後の財政健全化を実現するた めの手段,とくに租税政策については,あまり分析が行われて来なかったのが現状である3)。その理由の ひとつとしては,高橋の在任期間(1931 年 12 月~36 年 2 月)において,財政支出の積極拡大の一方で, 大規模な増税が行われなかったことがあげられる。とりわけ,高橋財政と並び称されるニューディール財 政では,ルーズベルト大統領が均衡財政,増税にかなりの段階まで固執したこともあり(井手[2004]), 高橋財政の非増税主義を基調とする積極政策はケインズ政策のさきがけとしての評価をより高めることと なったのである。 以上の意味では,高橋財政期の租税政策を検討することは,それ自体,研究史の空白を埋めることを意 味している。しかし,ケインズ政策の再評価,それとは反対に,政治過程における各主体の合理的選択が 過大な予算計上をもたらすという公共選択論の伝統的な批判,両者を踏まえつつ一歩進めて当該期の租税 政策を検討すると,以下の2 つの論点が浮上することとなる。 まずは,ケインズ政策としての高橋財政の再定義の必要性である。周知のように,ケインズはスペンデ * 1972 年生まれ。2000 年東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。日本銀行金融研究所,東北学院大学経済学部を経て現職。 1) 基本的な文献としては,日本銀行調査局[1970]大蔵省昭和財政史編集室[1965]などがある。最近の研究史に限定しても,中村[1981],原[1981], 三和[1979=2003][1980=2003]などの日本経済史研究,島[1983],永廣[1991],井手[1998],武田[2000]などの財政史,金融史研究 が存在する。 2) Cargill[2000],岡田=安達=岩田[2002],岩田[2004]など。 3) その数少ない例として神野[1979][1987],迎[2000]があるが,いずれも高橋財政期の租税政策そのものを対象としたものではない。ィングポリシーによる有効需要の創出を主張したが,それと同時に,財政政策に対する抑制的な考え方を 有していた側面が近年指摘されている。たとえば,公共投資による財政赤字を削減すべく,所得と税収を 増大させる必要性が念頭に置かれ乗数効果が位置づけられていたこと(玉井[1999:197]),予算制度に 関して通常(経常)予算,資本予算からなるいわゆる二重予算を主張し,前者の厳密な均衡維持が強調さ れていたことなどを指摘した研究がその例である(小峯[2003:17])。このようなケインズ再評価の妥 当性はそれ自体が考察されるべき対象であるが,その点はひとまず措いておくとしても,中長期的な財政 均衡を前提とする限りにおいて短期的な財政支出の増大が正当化されるという見方は,その後の補整的財 政政策論によって明示化され,今日の財政論者においても広く受け入れられてきた4)。景気回復局面での 税収増を可能とするカウンターシクリカルな租税制度を「現代的な租税システム」とここでは呼ぶとする と,ケインジアンポリシーとしての高橋財政を評価するためには,財政出動による景気回復のみではなく, 景気の回復局面において豊富な税収をもたらしうるような税制の確立の成否も含めて検討する必要が生じ てくる5)。 もうひとつは,ケインズは死んだ,といわれる今日の文脈から見た,高橋財政期の租税政策の位置づけ である。高橋財政期においては,抜本的な税制改革がたびたび俎上にのせられたが,結局,臨時的な小規 模の増税が実施されたに過ぎなかった。いまさら繰り返すまでもなく,Buchanan=Wagner[1977=1979] による画期的な問題提起以降,公共選択論では,ハーヴェイロードの前提あるいは財政錯覚の批判を通じ て,景気回復局面での増税の困難さが再三指摘されてきた。これらの批判を踏まえると,蔵相高橋是清の 政策思想,大蔵省の制度設計,財界,金融界,市場参加者の政策要求,相互の関連のもとで,経済成長の 果実を吸収しうる新たな租税制度がどのように構想され,どのようにその導入が挫折したのかが検討され なければならない。 以上の問題提起をもとに,高橋財政期における租税政策を追いながら,システム転換期におけるわが国 の増税政策の先進性と限界を明らかにしていくこととしたい。
2.租税政策をめぐる対抗
A)戦前型従量税体系とその限界 まず,本論の理解の一助として,高橋財政の歴史的位置づけ,当時の租税政策の概要を簡単に説明して おく。 犬養毅首相に請われ,6 度目の大蔵大臣に就任した高橋是清は,1931 年 12 月金本位制度の離脱を断行 し,翌32 年 6 月の発券制度改革を経て,わが国は事実上の管理通貨制度へと移行した。これら通貨発行 の弾力化を背景に,高橋は新規国債の日銀引受による財源調達を行い,31 年 9 月に勃発した満州事変の費 用ならびに不況に苦しむ農村向けの公共事業の費用(時局匡救事業費)を大胆に予算計上した6)。こうし て,恐慌の淵であえいでいた日本経済は見事に息を吹き返すのだが,さらに,景気の回復基調が鮮明にな 4) 補整的財政論に関しては Hansen[1941=1950],今日の財政論者による整理としては井堀[2000:219]を参照せよ。 5) ただし,以上にいう現代性に関しては 2 つの意味で限定が必要である。1 つは,ケインズが財政政策に積極的に言及するのは 1940 年「戦費調達論」 (Keynes[1940=1971])以降であり,資本課税,所得税の課税最低限の設定,強度の累進税率の導入といった今日と類似した租税制度の導入がう たわれたのは,いわゆるケインジアンポリシーとは異なる文脈であったということである。いま1つは,大蔵官僚が初めてケインズ理論と接触したの は1934 年頃といわれている(浅井[2000:209])。時期的には微妙であるが,本稿は大蔵官僚がケインズ理論を認識し,租税制度の現代化を意図的 に実現しようとしたということを主張するものではない。中長期的な財政均衡を前提にすると論理的に求められる税制を示し,大蔵官僚の増税案がそ の基準から見てどのように評価できるのかを問おうとするものである。 6) 緊縮路線で名高い若槻内閣下の井上財政で作成された 1932 年度概算は歳出 14 億 7990 万 3000 円であり,高橋はこれに時局匡救費 1 億 6321 万 6000 円,満州事変費2 億 8850 万円をそれぞれ追加計上した(大蔵省昭和財政史編集室編[1955:140])。当時は,世界的な潮流として均衡予算への執着が 強かった時代である(Studenski&Krooss[1963],井手[2004])。にもかかわらず,財政赤字を許容し,積極的なスペンディングを行った点は,まさ にフィスカルポリシーの先駆けとして高橋財政が面目を施したゆえんといえよう。ったと見て取るや,高橋は,国債発行の漸減,健全財政への回帰を唱導し,財政政策の一大転換をも試み る。これが,わが国の財政史上に名高い「高橋財政」である。しかし,1936 年 2.26 事件で発せられた弾 丸は老蔵相とともにわが国の健全財政の命をも葬り去り,軍靴が財政を蹂躙する時代へと突入していくこ とになる。 以上の過程で改めて注意を喚起しておきたいのは,高橋の在任期間では,歴史的な積極財政が展開され たと同時に,緊縮政策への転換が試みられていたという事実である 7)。じつは,高橋は,帝人事件による 内閣総辞職を受け,いったん大蔵大臣の職を辞し,1934 年 7 月藤井真信にその後任を託している。大蔵 次官であった藤井の大臣就任は,大蔵省の健全財政路線に弾みをつけ,高橋の就任以来,省内でくすぶっ ていた増税論議は一気に活発化する。ところが,大臣就任直後,藤井は病魔に侵され,わずか4 ヵ月後の 11 月には高橋の再登場が余儀なくされる。このような経緯の後に,藤井の在任時の置き土産として創設さ れたのが「臨時利得税」である。同税は,財政健全化という観点から行われた高橋財政期唯一の増税であ り 8),規模は 3000 万円程度のものであったが,そこには歴年にわたる大蔵省の省内論議,健全財政志向 が凝縮されていた。同時に,これに対する猛烈ともいえる社会の反応は,景気の回復途上における増税の 難しさを象徴するものであった。 それでは,早速,租税の分析に入ろう。 まず,高橋財政に前後する井上財政期(1929~31 年)から馬場財政期(1936~37 年)に至るまでの税 収の動向を示した図表1 を見てみよう。 高橋財政が本格化する 1932 年は,昭和恐慌以降の税収のボトムに位置している。国税滞納者の増大振 りに象徴されるように9),30 年以降,直接税を中心に税収の落ち込みが著しく,そのことは大蔵省の財政 運営に危機的な状況をもたらしていた。たとえば,井上財政期の31 年度予算編成過程では,1 億 2000 万 円の経常収入減を当初より見込んでいたにもかかわらず,31 年 5 月には早々に 6000 万円の減収見込みが 明らかになった。その後,再三にわたる歳出節約案,官吏の減俸を決定・実施したが歳入減少予想額を埋 められないという自体に直面している(大蔵省百年史編集室[1969:19])。 かかる厳しい環境のもと,1931 年 11 月,打ち続く減収を補うべく,井上蔵相は税制整理ならびに増税 案の作成を大蔵省に命じている。その内容は,3 ヶ年の臨時措置によって主として所得税の増徴が図られ, 32 年度 3093 万円,平年度 4121 万円の増収措置を予定したものだった(大蔵省昭和財政史編集室 [1957:277ff.])10)。しかし,翌 12 月には若槻内閣が総辞職,犬養新内閣のもとで蔵相に就任した高橋 は増税案の撤回と日銀引受に基づく大胆な財政出動を選択する。こうして景気の回復が次第に明らかにな り,33 年には税収も増勢を描くこととなるのである。 続いて,同図表より当時の税制の特徴を確認しておこう。 まずは,直間比率である。一目見れば明らかなように,高橋財政期には間接税収が直接税収を上回って いること,とりわけ,酒税と関税が税収の重要な位置を占めていたことが分かる。1932 年度における直間 7) 国債発行の削減による財政健全化の過程を論じたものとしては井手[1998]を参照せよ。 8) 厳密には,1932 年 6 月に関税の従量税率の引き上げが行われているが,これは,金本位制度からの離脱によって為替相場の下落が続くなか,輸入品 の価格高騰が続き,従価税による税収と従量税によるそれとのバランスが崩れたことへの対応として行われた増税である。以上に関しては,大蔵省昭 和財政史編集室[1957:286ff.]。当時の為替の低落は大胆なものであり,財政スペンディング以上に輸出の伸長を通じて経済成長に寄与したとの指摘 もある。たとえば,Okura and Teranishi[1994]を見よ。
9) 昭和 12 年度版の大蔵省年報によると,国税滞納者は 1929 年 579,900 人から 30 年 876,370 人,31 年 1,101,561 人,32 年 1,213,986 人へと急増している。 10) ルーズベルトは,就任当初,均衡予算に固執しており,ニューディール財政の 1 年目には均衡財政論者のフーバーを下回る予算計上しか行われなか った(井手[2004:54])。この点,井上財政が緊縮財政のもとで増税案を作成した事実は,ニューディール初期の政策運営との連続性を想起させる。 これに対し,高橋財政1 年目の予算のそれ以前との非連続性は特筆すべきものがある。井上財政と高橋財政の共通性を資本の利害との関連から強調す る見方はかねてより存在するが(島[1948],遠藤[1954],宮本[1968]),以上に述べた基本的相違を見落とすべきではないというのが筆者の立 場である。
図表 1 高橋財政期における租税構造 1929 年 1930 年 1931 年 1932 年 1933 年 1934 年 1935 年 1936 年 1937 年 直接税 所得税合計 200,760 202,679 146,106 137,718 160,975 196,577 227,566 270,442 476,763 第1種 54,183 62,894 33,251 37,709 51,002 70,203 92,687 120,741 206,033 第2種 30,487 29,515 27,330 26,249 26,526 25,341 25,362 25,415 39,900 第3種 116,090 110,270 85,525 73,760 83,447 101,033 109,517 124,286 230,830 資本利子税 16,242 15,725 14,836 14,298 14,688 14,870 15,093 15,067 27,384 臨時利得税 - - - - - - 27,319 44,832 102,713 地租 75,412 76,024 65,235 65,600 65,778 65,919 65,919 66,181 56,498 営業収益税 56,283 54,961 38,366 35,620 40,322 48,905 57,992 72,207 91,067 その他 30,922 63,630 65,909 29,613 25,051 48,345 35,899 42,311 45,578 直接税計 379,619 413,019 330,452 282,849 306,814 374,616 429,788 511,040 800,003 間接税 酒税 239,671 189,154 176,263 200,051 213,358 202,602 206,757 223,224 259,406 関税 147,336 113,174 111,760 108,481 115,598 137,982 152,706 161,215 196,994 砂糖消費税 81,222 76,761 76,450 68,604 73,140 78,682 83,975 96,772 101,806 織物消費税 35,972 34,152 33,046 27,916 30,280 37,152 40,722 43,323 39,473 その他 9,685 8,781 7,533 7,936 9,377 12,150 12,137 16,188 34,210 間接税計 513,886 422,022 405,052 412,988 441,753 468,568 496,297 540,722 631,889 直間比率 42.50% 49.50% 44.90% 40.60% 41.00% 44.40% 46.40% 48.60% 55.90% 合計 893,505 835,041 735,504 695,837 748,567 843,184 926,085 1,051,762 1,431,892 1.大蔵省年報昭和 14 年度版及び昭和 12 年予算参考書より作成 2.登録税,骨牌税,狩猟免許税,印紙税等印紙収入に属するものは含まず。 3.酒税は,酒造税と麦酒税の合計額。 4.合計額は収入済み額をもって計算した。単位千円。 比率は40.6%対 59.4%であり,全税収に占める割合も所得税 19.8%に対して,酒税は 28.7%,関税は 15.6% に達していた。織物消費税や砂糖消費税の存在も合わせて考えると,従量税を中心とする間接税体系であ ったことが当時の特徴として第一に押さえられる必要がある。いわゆる戦前型従量税体系と言われる租税 体系である(神野直彦[1987])。 次に各税目の動きを簡単に見ておくと,直接税については,所得税が 1932 年度 1 億 3771 万 8000 円か ら35 年度 2 億 2756 万 6000 円へと大きく伸びていることが分かる。ただ,そうは言っても,井上財政期 の水準にようやく回復した程度のものであり,本格的な税収増は,馬場財政期以降に待たれねばならない11)。 その他の税目では,営業収益税が所得税同様,32 年度のボトムの後,順調な回復を見せていること,これ に対して,地租は31 年以降ほぼ横ばいであり,相対的にその地位を低下させていることが目を惹く12)。 間接税では,酒税の税収の伸びが停滞気味であることが分かる。これは税収の非弾力性に基づくものであ るが,同時に1934 年 9 月に発生した台風の影響で関西を中心とした主要酒造地に大きな被害が発生した こととも関連している(朝日新聞社経済部編[1935:25])。一方,関税の方は 33 年以降漸増傾向にある が,32 年 6 月関税法の一部改正によって従量税の税率引き上げが行われたことを勘案すれば緩やかな増勢 と見るべきであろう13)。 11) 2.26 事件を契機として成立した廣田内閣のもとでは馬場鍈一蔵相によって所得税増税を基調とした大税制改革が企図された。馬場財政の歴史的位置 づけについては林[1979]を,同改革の詳細な内容に関しては神野[1979]を参照。結局,馬場税制改革は未実現に終わるが,後継の結城蔵相のもと, 1937 年度以降,臨時租税増徴法によって所得税等の増税のほか法人資本税や外貨債特別税などの創設が行われることとなる。 12) 第 59 議会において課税標準を地価から賃貸価格へと変更する減税案が成立した。しかし,市街地に関していえば,地租負担はかえって重くなるな ど,全体としての負担軽減は軽度に止まったとの指摘がある。大蔵省百年史編集室[1969:23]および昭和財政史編集室[1957:第 1 章第 5 節]参照。 13) 関税法改正の経済的意義については,三和[1979:132f.=2003]参照。
図表 2 総税収に対する直接税・間接税の寄与度および寄与率 1930年度 1931年度 1932年度 1933年度 1934年度 1935年度 1936年度 1937年度 総税収対前年度伸び率 -6.6% -11.9% -5.4% 7.6% 12.6% 9.8% 13.6% 36.1% 直接税の寄与度 3.7% -9.9% -6.5% 3.4% 9.1% 6.5% 8.8% 27.5% 間接税の寄与度 -10.3% -2.0% 1.1% 4.1% 3.6% 3.3% 4.8% 8.7% 直接税の寄与率 -56.1% 83.1% 120.4% 45.3% 72.2% 66.3% 64.7% 76.2% 間接税の寄与率 156.1% 16.8% -20.4% 54.3% 28.6% 33.7% 35.3% 24.1% 出所:図表1をもとに筆者算出。 図表 3 直接税の対前年度伸び率に対する所得税の寄与度および寄与率 1930年度 1931年度 1932年度 1933年度 1934年度 1935年度 1936年度 1937年度 直接税対前年度伸び率 8.8% -20.0% -14.4% 8.5% 22.1% 14.7% 18.9% 56.5% 所得税の寄与度 0.5% -13.7% -2.5% 8.2% 11.6% 8.3% 10.0% 40.4% 所得税の寄与率 5.7% 68.5% 17.4% 96.5% 52.5% 56.5% 52.9% 71.5% 出所:図表1をもとに筆者算出。 図表 4 間接税の対前年度伸び率に対する酒税・関税の寄与度および寄与率 1930年度 1931年度 1932年度 1933年度 1934年度 1935年度 1936年度 1937年度 間接税対前年度伸び率 -17.9% -4.0% 2.0% 7.0% 6.1% 5.9% 9.0% 16.9% 酒税の寄与度 -9.8% -3.1% 5.9% 3.2% -2.4% 0.9% 3.3% 6.7% 関税の寄与度 -6.6% -0.3% -0.8% 1.7% 5.1% 3.1% 1.7% 6.6% 酒税の寄与率 54.7% 77.5% 295.0% 45.7% -39.3% 15.3% 36.7% 39.6% 関税の寄与率 36.9% 7.5% -40.0% 24.3% 83.6% 52.5% 18.9% 39.1% 出所:図表1をもとに筆者算出。 図表 5 所得税の対前年度伸び率に対する各種所得税の寄与度および寄与率 1930年度 1931年度 1932年度 1933年度 1934年度 1935年度 1936年度 1937年度 所得税対前年度伸び率 1.0% -27.9% -5.7% 16.9% 22.1% 15.8% 18.8% 76.3% 第一種の寄与度 4.3% -14.6% 3.1% 9.7% 11.9% 11.4% 12.3% 31.5% 第二種の寄与度 -0.5% -1.1% -0.7% 0.2% -0.7% 0.0% 0.0% 5.4% 第三種の寄与度 -2.9% -12.2% -8.1% 7.0% 10.9% 4.3% 6.5% 39.4% 第一種の寄与率 452.1% 52.3% -54.4% 57.4% 53.8% 72.2% 65.4% 41.3% 第二種の寄与率 -50.0% 3.9% 12.3% 1.2% -3.2% 0.0% 0.0% 7.1% 第三種の寄与率 -302.1% 43.7% 142.1% 41.4% 49.3% 27.2% 34.6% 51.6% 出所:図表1をもとに筆者算出。 以上のおおまかな推移を踏まえたうえで,当時の税収構造をもう少し細かく見ておこう。図表 2~5 は それぞれの税目が税収の動向にどの程度貢献しているかを分析したものである。各図表では,いくつかの 税収の対前年度伸び率に対する各税目の寄与度および寄与率が示されている。これらをもとに次の2 点を 検討しておきたい。第1 は,直接税と間接税の寄与度・寄与率の格差,第 2 は,所得税の内部における寄 与度・寄与率の格差である。 まず,第 1 の点である。直接税と間接税の寄与度の関係については,1933 年前後で区別することがで きる。33 年を境として景気の底入れが鮮明となり,税収の伸び率がプラスに転じるとともに,景気感応性 の高い直接税が税収の伸びを規定することとなった。これは,34 年度以降の総税収の伸びに対する直接税 の優位な寄与率によって確かめることができる(図表2)。
しかしながら,以上の直接税の貢献を認めたとしても,当時の租税構造の基本が戦前型従量税体系であ ることに変わりない。すなわち,直接税を中心とした租税システムに比べれば弾力性に欠けることはいう までもないし,それは,臨時租税増徴法,北支事件特別税法によって所得税中心の増税が行われた 1937 年に直接税の寄与度,寄与率が跳ね上がっていることに見て取れる。さらに言えば,従量税体系では,物 価の上昇に対する実行税率の緩和が引き起こされ,課税商品に対する租税負担はむしろ軽減される(石 [1976:193])。つまり,同じ間接税体系でも従価税体系が整備されていれば,景気の回復局面において よりいっそうの税収増を期待できたことが予想されるのである14)。 以上の点を補足するために,直接税に対する所得税の,間接税に対する酒税,関税の寄与度・寄与率を それぞれ見てみよう。図表3 からは,1934-36 年度と 37 年度以降の明らかな断絶を見出すことが出来る。 これは,37 年増税が直接税のなかでも所得税を中心とした増税であったことに対応している。また,図表 4 からは,32 年における酒税の非連続的な寄与率の高さが観察されるが,それ以降に関して言えば,従量 税体系である酒税の停滞は明らかである。一方,これに対して,為替低落による従価税の増収にくわえて, 従量税の増税が実施された関税の方は寄与率が安定していることを見て取れる。 次に,第 2 の点,所得税の内部における寄与度の格差である。図表 1 を再度見てみると分かるように, 所得税収の太宗は,第3 種所得税(現,個人所得税)である。しかしながら,図表 5 をもとに総税収の伸 びへの寄与率を見てみると,景気の回復が鮮明になる1933 年以降,むしろ総税収の伸びは,第 1 種所得 税(現,法人税)に規定されていることが分かる。税収の対GDP 比率で見た景気感応性は一般に第 3 種 所得税が第1 種所得税よりも高いのであるが,逆の結果が得られている理由としては次の 2 つが考えられ る。 まず,景気の回復が跛行的であったことである。大蔵省主税局統計年報をもとに1932 年度および 35 年 度に関して,法人所得の合計額上位3 県と下位 3 県の差額を取って総税収に対する比率を見てみると,32 年度65.6%,35 年度 69.9%となる。ちなみに,個人所得のそれは 32 年度 43.1%,35 年度 44.8%であっ た。富裕県と非富裕県の法人所得格差が個人所得格差と比べてきわめて大きいこと,そして,景気の回復 とともに法人所得における所得格差が増大していることが読み取れる。こうした法人所得の増大は,地方 や農村よりも都市部における景況の好転が景気回復のけん引役であったことを示唆している。その結果, 課税所得を見てみると,税収が都市部に集中する第1 種所得税の課税所得が 1932 年度の 6 億 6840 万円 から35 年度 12 億 3620 万円へと 84.9%の伸びを示したのに対し,第 3 種所得税の課税所得は 16 億 6482 万円から22 億 6310 万円へと 35.9%しか伸びていない(「大蔵省年報」昭和 12 年度版)。このような法 人所得の伸張が第1 種所得税の伸びへとつながったのである。 次に,課税標準そのものにも問題があった。法人所得に対しては,一時所得はもちろん資産価格の増減 にいたるまで帳簿書類や財産目録によって把握され課税の対象となっていた。これに対し,個人所得にお いては,所得の源泉ごとに収入金額から経費を控除して所得を計算するので,一時所得,資産の増減,家 事上の諸経費が織り込まれておらず課税ベースが過小に評価されていたのである(大蔵省主税局調査課 [1955])。 さて,以上の概観から高橋財政期の基本的な租税構造が明らかになった。その特徴を整理しておけば, 1.「戦前型従量税体系」であり,従価税体系ないし直接税体系のような弾力性に欠けていたこと,2.税 収は第1 種所得税への依存が強く,第 3 種所得税収の非弾力性が税収全体の伸びを低めていること,3.2 と関連して,課税所得の伸びの跛行性,課税標準の把握の低さによって第3 種所得税収の伸びが押しとど 14) 1937 年以降になると都市負担率の高い個別消費税が次々と導入され,従価税形態の間接税体系が定着していくこととなる。神野[1987:64]を参照。
められていたこと,と要約できる。 ところで,個人所得税が税制の現代化のカギとなる点は租税原則論から見れば明らかである。ワグナー は周知の租税原則において国民経済上の原則を示し,経常経費財源としての所得課税の重要性,資本課税 の原則禁止を定式化した(井藤[1935:330ff.])。これに対し,所得課税の重要性をフィスカルポリシー の確立,完全雇用と経済成長という第二次世界大戦後の文脈のもとで再構成したのがノイマルクである。 ノイマルクは,国庫収入上,財政政策上の原則,経済政策的原則等において弾力的な租税制度の重要性, とくに,個人所得税の重要性を指摘している(佐藤[1978])。この点は,先進国の税制において個人所 得 税 は 例 外 な く 法 人 税 に よ る 税 収 を 上 回 っ て い る と い う 事 実 か ら も 支 持 さ れ よ う ( 佐 藤 = 伊 東 [1994:99])。 このように,高橋財政期における租税システムの現代性を検討する場合,個人所得税を中心とした租税 体系の整備,不整備が一つの基準となる。次節では,この観点をもとに政策当事者(高橋・大蔵省)の認 識,制度設計を明らかにしておこう。 B)高橋是清の租税思想 まずは,高橋の租税思想である。高橋が,蔵相在任中において増税に反対し続けた事実は広く知られて いる15)。その理由としては,以下の2 点があげられる。 まずは,増税のタイミングである。そもそも高橋自身は増税の必要性を否定していたわけではない。1934 年時点での高橋の発言を見てみよう。いわく, 「増税は軽々しくすべきものではない。併しそう云ったからとて,35 年,6 年が終って皆が安心するまで増税 計画をせぬと断言するのではない。八九分通りも其の見据えがつく様になれば初めて皆安心するであろう」。 しかし,ポイントは,その増税を行う時期の問題である。いわく, 「一方で増税をした。又他方に於ては赤字公債を出して行かなければならぬ,而もそれが減るといふことが確 かでなくして,幾らかづつ増えるといふような懸念があり,又何時頃になったらならば,此赤字公債を発行す る必要がなくなるであろうといふような見当が凡そ将来つかなければ,私は国民に対して増税すると云ふ事を 言ふ理由が立派に立たないと思ふ」(以上,引用は,高橋[1936:46])。 ここで強調されているのは,増税を行う前提として国債発行の抑制が不可欠であるという視点であり, そのときこそが増税実施のタイミングだという高橋の認識である。ちなみに,高橋は日銀引受による歳入 補てん公債の発行開始時に,減債基金への一般,特別両会計からの繰入れを従来の国債総額116/10000 か らその1/3 へと減額し,一般会計からの前々年度剰余金繰入も停止している。このときの論理は,国債発 行を避けられない状況のなかで減債基金への繰り入れを行うことは,国債の発行額を増大させるだけであ るというものであった(大蔵省昭和財政史編集室[1954:234])。高橋の政策体系において国債政策の反 転が重視されていたこと,増税もその転換を踏まえる必要があったことが理解できる。 ただし,この基準にもとづく増税の実現可能性はあまり高くはなかったというべきであろう。それは 1936 年度予算編成過程において緊縮政策への転換が行われたが,自然増収分の国債漸減が表明される一方 で,増税は初期の省内論議の段階で排除されているからである 16)。この予算の提出後,高橋は2.26 事件 によって絶命を余儀なくされるから,その後の増税の可能性は想像でしか論じえない。しかし,財政の健 15) 主税官僚松隈秀雄は「それ(増税の試案-引用者)をつくって,高橋蔵相にみせるのだけど,増税なんていうのは,これはよほどの非常時でなけれ ばやるべきではないというのです」と述懐している(内政史研究会[1971])。 16) 1935 年 6 月 3 日「昭和 11 年度一般会計予算編成方針」(『賀屋文書 昭和 11 年度予算 1-3』1935 年 6 月 3 日)では,増税のかわりに,各省の新規 予算増加案を既定経費の節約案,増収案とともに大蔵省へ送付することが義務づけられている。
全化のためには,軍事費の抑制を至上命題とせざるを得ない状況において,増税による収入の増大は軍部 に対して財源の所在を示すことに他ならなかった17)。この点を勘案すれば,2.26 事件以降の増税もけっし て容易ではなかったものと思われる。これは,その後,軍部の発言力が決定的になった段階で,馬場蔵相 による大規模な増税案が提案されたこととも表裏の問題でもある。 一方,後者の租税体系については,高橋は税制改革に関する明確なビジョンを持っていた点が指摘され ねばならない。 「税制整理の根本方針は,一口にいへば総合累進租税主義といふ所に置かなければなるまいと信ずる。総合累 進課税は原内閣時代から私が考へてゐたことで,今尚ほ根本精神に変りはない…累進課税制度を採用したのは 所得税が主なものであったが,負担の公平といふ点から考へて,どうしても所得税だけでは公平を欠くからし て,これに財産税を加へる必要があり,其の外に関税,消費税,これだけが国税で,後は皆地方に移してしま ふといふ考へを以て,例の総合所得税制度を出したわけだ(高橋[1936:645])」。 1920 年代に,政友会は,地租および営業税の地方委譲案からなる「両税委譲」を党是として,憲政会(の ちに,民政党)と激しい政策論争を展開していた18)。高橋の念頭にある租税体系は,基本的にこれと同様 のものであり,累進所得税を根幹とし財産税でそれを補完する累進所得税を基礎にすえ,地租および営業 税の地方委譲を通じた抜本的税制改革を意図していたのである。皮肉な言い方をすれば,増税に関心をも たないがゆえに,大正期以来,租税政策に関する見解を変えていないと言えなくもないが,先の増税のタ イミングとも勘案すれば,単なる収支均衡という観点から行われる目先の増税に批判的だったことは,少 なくとも間違いないだろう。 このような,増税のタイミングの問題(いわゆる,「時期尚早論」)と高橋の持つ租税体系(「抜本的税制 改革論」)は,渾然一体となって当時の増税回避の力学に大きな影響を与えることとなる。次に,前節まで において示された戦前型従量税体系の改善,第3 種所得税中心主義への転換という観点と,以上の高橋の 租税思想を踏まえながら,大蔵省の増税計画について分析を進めていこう。 C) 大蔵省の増税計画と藤井真信の登場 高橋財政において本格的な税制改革論議が開始されたのは,1932 年 12 月 27 日の閣議で設置が決定さ れた税制調査委員会(後に税制改正準備委員会と改名)においてである19)。この委員会は,「我国の現行 租税制度に適当なる改正を加へ国民負担の公正を期すると共に歳入の増加を計り国及地方の税制及財政を 整備する20)」ことを目的とし,具体的には「新税創設の可否並びに其の利害得失,諸外国の諸税制等に関 し調査研究21)」を実施するという趣旨で設立されたものであった。 本委員会では,1933 年 5 月 23 日に「財産税要綱」,同 5 月 24 日「製造者消費税要綱」,同 5 月 25 日「一般取引高税要綱」「奢侈税要綱」,同6 月 8 日「所得税改正要綱」と,次々に増税案が構想されて いる22)。新税の創設が目につくが,ここでは,本項の問題意識に即して,「昭和8 年 6 月 26 日 税制整 理案23)」を取りあげる。 同案については国税課の職員によって5000 万円,1 億円,1 億 5000 万円,2 億円と 4 段階の増税案が 17) ダイヤモンド誌も増税問題の特集のなかで「財源を捻出すれば,各省の新規要求は,それ以上に増大する処がある。各省の自制を促すには,増税の 困難な事実を了解せしむる他はない」点を指摘している(ダイヤモンド[1939:14])。同様の指摘は有竹[1969:97]にも見られる。 18) 両税委譲論争については多くの研究蓄積が行われている。ここでは,宮本[1961],金澤[1984],池上[1986]をあげておく。 19) 戦前の租税政策一般における大蔵省の役割を論じたものとしては迎[2000]を参照。 20) 「税制改正準備第 1 回委員会大蔵大臣挨拶」昭和財政史資料 3-22-5。 21) 「第 66 回帝国議会想定問答(国税課の分)一般の部 甲」『戦時利得税臨時利得税関係調査書』濱田徳海資料 0-1-13。以下に用いられる濱田徳 海資料の性質に関しては,「濱田徳海資料目録」を参照せよ。目録ならびに資料は東京大学経済学部図書館に所蔵されている。 22) 『税制改正調査書類綴 其の三』濱田徳海資料 0-1-3。神野[1979]もあわせて参照せよ。 23) 「昭和 8 年 6 月 26 日 税制整理案」『税制改正調査書類綴 其の一』濱田徳海資料 0-1-1。
検討されている。図表6 を見てみよう。これは高橋の増税尚早声明前後の税制整理案を比較したものであ る。ここでは6 月 26 日案を便宜上A案,声明後の 7 月 24 日に作成された「昭和 8 年 7 月 24 日 税制整 理案24)」をB案と記載している25)。 図表 6 1億5千万円増税案各案比較 図表 7 税制整理案要綱 A案 B案 税目 初年度 平年度 税目 石渡国税課長 松隈事務官 国税課案 第一種所得税 8,500 13,100 所得税 40,500 33,000 69,500 第二種所得税 6,400 7,500 地租 0 -12,000 -10,000 第三種所得税 17,800 17,800 営業収益税 0 0 300 その他 13,500 13,500 資本利子税 12,000 12,000 12,000 小計 46,200 51,900 相続税 0 5,600 388 地租 -6,500 -7,500 小計 52,500 38,600 72,188 営業収益税 300 300 酒税 7,600 8,000 33,600 資本利子税 5,000 5,400 織物消費税 3,000 4,800 6,000 相続税 500 8,900 砂糖消費税 10,000 0 5,000 小計 -700 7,100 取引所税 0 4,600 0 酒税 2,500 5,100 小計 20,600 17,400 44,600 織物消費税 2,900 3,400 新税 取引所税 6,200 6,800 燐寸税 0 0 7,000 小計 11,600 15,300 ガソリン税 11,000 10,000 11,000 新税 奢侈税 10,000 10,000 10,000 燐寸税 4,900 11,700 有価証券移転税 8,000 0 8,000 ガソリン税 8,200 10,900 財産税 70,000 80,000 0 化粧品税 7,000 5,900 地方財政 特別利得税 9,000 10,000 調整交付金 0 0 0 小計 29,100 38,500 小計 99,000 100,000 36,000 合計 86,200 112,800 合計 172,100 156,000 152,788 1.「昭和九年八月税制改正と租税の限度」 1.「昭和八年税制改正調査書類其の一」より作成。 より作成。 2. 単位は千円。 2. 単位は千円。 A案において注目すべきは財産税の導入である。内容は,個人に対しては,動産,不動産その他の財産 権に,法人に対しては,払込資本金額,出資金額,基金または積立金の合計金額から繰越欠損金を控除し たものに課税を行うというもので26),その導入の根拠は,「非常時に当り財産を所有する資産階級に其の 財産を標準としてこの際一時的財産税を創設することは最も適当なりと認めらるる 27)」という点にあっ た。要は,現行直接税の税率引き上げが各所得階層間の負担不均衡をもたらすことを懸念し,同時に歳入 欠陥の補充も実現するものとして創設がもくろまれたのである28)。 図表6 に示された A 案を見てみると,じつに増税額の過半(7000 万円および 8000 万)が本税に求めら れていることが分かる。先に見たように,財産税の導入は高橋の「抜本的税制改革論」に即したものであ った。しかしながら,国債発行の削減を政策転換の基準としていた高橋にしてみれば,前期高橋財政のピ ークであり,国債発行削減にまったくメドの立っていなかった 1933 年時点で「抜本的な税制改革」を実 24) 「昭和 8 年 7 月 24 日 税制整理案」『税制改正調査書類綴 其の一』濱田徳海資料 0-1-1。 25) B案には 2 億円増税の試案が存在していない。これは高橋の非増税方針を受けて増税の規模が縮小されたことと何らかの関係があったと推察される が,それはひとまず措き,ここではそれに次ぐ1 億 5000 万円増税案について比較することとした。 26) 「昭和 8 年 5 月 26 日 財産税要綱」『税制改正調査書類綴 其の三』濱田徳海資料 0-1-3。先に見た 5 月 23 日付の財産税要綱では,法人に対し ては法人資本税を課税することが検討されていた。 27) 「財産税の利害得失」『税制改正調査書類綴 其の三』濱田徳海資料 0-1-3。 28) 「昭和 8 年 5 月 23 日 財産税要綱」『税制改正調査書類綴 其の一』濱田徳海資料 0-1-1。
施することは論外であった。結局,各種要綱案ならびにA 案は彼の容れるとはならず,7 月 5 日,委員会 席上において高橋は「増税時期尚」を言明することとなる29)。 一方,大蔵省は高橋の発言によって増税案の作成自体を断念したわけではなかった。ただ,増税方針を 一変させたことは事実である。B 案を見てみよう。増税の中心を既存の税目,とりわけ酒税を中心とした 間接税へと変更しつつ財産税の導入を断念している点でA案との違いが際立っている。むろん,現代的な 租税システムとの関連で言えば,所得税を7218 万 8000 円へと増徴している点は一定の評価が与えられる のであるが,依然,酒税への依存が相当に強い点から考えて,B 案では当時の租税構造が抱えていた欠点 は十分に修正できていないと考えるべきであろう。 以上の評価をもう少し細かく見ておこう。「増税案各案比較30)」をもとに,A 案における増税案 4 案に まで広げて改正内容を見てみると以下の点が明らかになる。まず,全増税案に共通して言えるのは,第 1 種所得税の税率上昇幅が1%~5%程度であったのに対して,第 3 種所得税の税率上昇幅は 5%~30%に達 していたという事実である。最大2 億円にも達する巨額の増税案が第 3 種所得税の増徴を通じて実現され ようとした点は強調するに値する。ただ,図表6 では明らかではないが,じつは,B 案においても所得税 増税のうち第1 種所得税は 2000 万円,第 3 種所得税は 2500 万円が占めていた31)。その意味では,B 案 も含め,第3 種所得税の強化という意味に限定すれば現代的な租税システムへの接近が観察されていたの である。 しかし,A,B 両案の違いは明瞭である。A 案における 1 億 5000 万円増税案,2 億円増税案を見てみる と,5000 万円~8000 万円程度の財産税にくわえ,ガソリン税(1000 万円~2000 万円)や奢侈税(1000 万円~1500 万円)の新設が提唱されている。すなわち,所得税そのものの累進性強化が企図されたわけで はないが,富裕者を狙い撃ちにした租税制度が構想されていたのである。しかしながら,こうした側面は, B 案においてはだいぶ抑制され,財産税の削除による収入減を逆進性の高い酒税の大幅増税,燐寸税の新 設でまかなうというA 案とは正反対の制度設計が行われることとなる。高橋の声明を境に「国民負担の公 正を期すると共に歳入の増加を計」るという税制改正準備委員会の設立当初のねらいは大きく後退するこ ととなったのである。 このように,高橋の増税時期尚早論によって大蔵省ないし税制改正準備委員会の増税案は大きな変更を 迫られ,一時は現代的な租税システムへの接近が志向されたにもかかわらず,最終的に,戦前型従量税体 系への回帰が図られることとなった。それどころか,この後,準備委員会の活動自体が形骸化してしまい (朝日新聞社経済部編[1933:30]),高橋の強い反対の前に増税論議は事実上封印されてしまう。 ところが,1934 年 7 月 3 日に帝人事件をきっかけとして斉藤内閣が総辞職,その後,岡田内閣のもと で藤井大蔵次官が大臣に就任してから事態は急変する。岡田内閣は同年7 月 20 日に発表した十大政綱に おいて財政の健全化を明言(大蔵省百年史編集室[1969:46]),これを受けて,増税を含む健全財政路 線が大蔵省内で台頭し,主税局において極秘裏に増税試案の作成が再び活発化するのである32)。 主税局では1934 年 7 月 25 日の「税制整理案」を皮切りに,8 月 8 日,20 日と同じ名称で試案を作成 し,最終的には8 月 24 日「税制整理案要綱」というかたちで一応の増税案完成にこぎつけている33)。24 29) 1933 年 7 月 5 日付東京朝日新聞は,「高橋蔵相は増税を肯んぜず」との題で以下の高橋発言を掲載した。「いまだ安心して各種産業に対し資本を投 下する機運には至らず,全般的に見て経済界が立ち直ったとはいえぬ,たとえ余裕ある資本が生じつつあるとするもこの際増税することは折角回復に 向かいかけている産業を圧迫することになって,その結果は面白くない」。 30) 「増税案各案比較」『税制改正調査書類綴 其の三』濱田徳海資料 0-1-3。各案の作成者は,国税課長,谷口書記官,松隈,田中,氏家各事務官, 第一係であるが,作成者が複数いるため,以下,金額表示の際には幅を持たせて記述している点に注意されたい。 31) 「税制整理に因る税額増減見込概算」『税制整理に関する調査』濱田徳海資料 0-1-4。 32) ただしこの時点では,藤井は非増税方針を明確に示していた。3-A を参照。 33) 「税制整理案要綱」『税制改正と租税の限度』濱田徳海資料 0-1-4。
日「税制整理案要綱」の内容とこれを要約した図表7 をもとにその概要を追っていこう。 図表7 を一見して明らかなように,「税制整理案要綱」は,所得税が増徴されている(初年度 4620 万 円,平年度5190 万円)点,財産税が断念された点において前掲 B 案との連続性を見出すことができる。 しかし,その内容はまったく異なるものというべきである。まず,注目すべきは,第3 種所得税の増徴が 所得金額1 万円以下 10%,同 10 万円以下 20%,同 10 万円超 30%と累進性の強化をともなって提案され た点である。さらに,図表ではその他と記載されているが,その内訳が第3 種所得税の課税最低限引き下 げ,株式配当所得の控除率引き下げであることを勘案すると,所得税の増税の大部分が第3 種所得税の増 徴からなることが理解できる34)。累進性の強化による富裕者課税の強化だけではなく,課税最低限と控除 の引き下げによる大衆課税が志向された点は,前掲A 案との比較において留意すべきであるが,間接税の 増税がほぼ後景に退くなど戦前型従量税体系の欠陥に的確に対応した改革案と言える35)。 このような累進性の強化を伴う第3 種所得税の大幅な増徴については,「極秘」とのみ押印された 1934 年9 月 4 日付無題資料36)によってその意図を確認することができる。この資料の内容を要約すれば以下の 通りである。 1200 円以上の所得を有する世帯は全体の 5%であり,その所得の総額は 18 億 2400 万円に達している。 これに対し,1200 円を下回る所得の世帯は,大部分が農民,漁民,商工業者,労務者等であり,この方面 には現在以上の負担を課すこと難しく,すでに課税の対象となっている層への課税強化を基本とせざるを 得ない。一方,法人は配当性向が高く,内部留保は2 億円程度にすぎず,これへの課税は法人の経営の基 礎を薄弱なものにしてしまう。個人所得に総合されない第2 種の所得に関しては,約 3 億 2000 万円が存 在しているが,免税点以下の所得階層に属するものの預金利子等を多分に含んでおりこれへの課税も困難 である。以上の理由から,第3 種所得税の現納税者を増税の対象とすることがもっとも適切だと結論づけ ているのである。 このように,財政再建を志向する藤井財政のもとで,大蔵省は累進性の強化された第3 種所得税に増税 の軸点を置く現代的な租税システムを構想していた。1934 年後半の緊縮路線への転換過程では国債発行の 削減が実施されたが,じつは,そのきっかけとなったのも藤井の蔵相在任時の大蔵省内論議であった(井 手[1998])。以上の点において,藤井財政は,わずか 4 ヶ月あまりの短命に終わったが,わが国の財政 史上少なからぬ意義を持つものだったのである。
3.抜本的な税制改革から臨時利得税の創設へ
A)財界・金融界の反応と臨時利得税 さて,次に検討されるべきは,以上に確認された新たな租税制度の構想がどのように制度化されたのか, という点である。 結論から先に言えば,第 3 種所得税を中心とした抜本的な増税計画は先送りされ,3000 万円規模の臨 時利得税の創設をもって決着することとなった。この臨時利得税とは,法人の利得および個人の営業利益 に関して1929 年~31 年の平均利益を算出し,それを上回る「利得」に対して法人 10%,個人 8%の税率 34) 所得税法では,法人より受ける利益,利息の配当,剰余金の分配は個人所得の一部として定義されていた。 35) その他に興味深い点として以下の 2 点がある。まず,「税制整理案要綱」には鉛筆による書き込みがあり,第 2 種所得税(利子所得課税)の第 3 種所得税への総合課税化が検討されている。この点は,1936 年 9 月閣議決定「税制整理案要綱(上記とは同名の別案件)」において明文化されたが, 利子所得の総合課税化は大正時代からの懸案であり,高橋財政期においても引き続き議論されていたことが分かる。次に,燐寸税,ガソリン税,化粧 品税といった新税が再び登場し,さらに,後に制度化される臨時利得税とほぼ同趣旨の特別利得税が提案された点が目を惹く。ちなみに,ガソリン税, 燐寸税などは従量税であり,戦前型従量税体系の改善という点からは後退を意味しているが,その額は僅少である。 36) 「無題」『税制改正と租税の限度』濱田徳海資料 0-1-4。で課税するというものである37)。本節では,株式市場の動向,経済界の要求,政党による政府の追求など を手がかりに,臨時利得税の導入として決着した税制改革の評価を行っておきたい。まずは,成立までの 経緯である。 主税局において極秘裏に増税試案が作成された事実の一方で,1934 年 8 月 4 日の記者会談席上で岡田 首相は非増税の方針を明言していた。藤井もこの非増税方針を支持したが,増税の実施をめぐる憶測は市 場にくすぶり続け,9 月 12 日,13 日には株式市場の「恐慌的暴落」をみ,その際も増税問題が原因とし て市場関係者に取りざたされるなど不安定な状況が続いていた(東洋経済新報[1934A:27ff.])。そのよ うな折,藤井は非公式ながら増税の決意を表明,10 月 29 日新聞各社はこれを大々的に取りあげるところ となった。岡田首相は高橋に相談の後,増税支持に翻意,11 月 4 日大蔵省予算省議での最終決定を受けて, 「臨時利得税案要綱38)」が発表されるのである。非増税方針から増税方針への転換は経済界に大きな衝撃 を与え,10 月 29 日~11 月 1 日にかけて再び株式市場の暴落を引き起こすこととなる39)。 以上に示された 2 度にわたる市場の暴落は政府に対して大きなインパクトを与え,抜本的な税制改革案 を舞台から消し去るうえで重要な背景をなした。株式市価の変動を見てみると,1934 年下期の証券市場は 「証券恐慌」といわれるほどの記録的な価格下落を示している。株式市場は増税案,五分利債低利借換え 論の台頭とともに大崩落を起こし,一流株のなかでも6 分内外の買い叩きにあうものが現れ,国債市場で も上期比4 円の暴落が生じたと言われている40)。 ここで,主要株の年中最高値と月中最安値とからなる下落率を見ておくと,9 月暴落期,日本産業-22.5 %,帝国人絹-13.6%,日本鋼管-12.1%,10 月暴落期(11 月 1 日発会引値)日本産業-30.3%,帝国 人絹-19.3%,日本鋼管-31.1%となっている(日本銀行調査局[1964:82]および東洋経済新報 [1934B:23])。ちなみに,1934 年 7~8 月期には,コール金利の急騰が世情をにぎわせたが,それは, 低金利の浸透によって収益上不利となっていたコールマネーを回収して,証券投資を増大させていた結果 であった(短資協会編[1966:164f.])。このような市場の活況のもとで「証券恐慌」が生じたという事 実は,増税に対する証券界の懸念がきわめて強いものであったことを明確に示している。 ただ,9 月ないし 10 月暴落が深刻な影響を市場参加者に与えた一方で,両者の間ではそれらを取り巻く 環境が微妙に異なっている点は見逃せない。まず,前者に関しては,増税懸念が悪材料として数えられた ことは事実であるが,政府が非増税方針を打ち出していた時期である。実際,市場関係者の発言を見ても 将来株価に対する楽観論は根強く,「財界の根底事情を一変させ,景気の方向を転換させるほどの大問題 ではない・・・増税は爾々のものに対して何程といふ様に,其内容が明瞭になれば,それを知って萎縮してゐ るようなことは無い」(東洋経済新報[1934A:28]),「担税力のある部分よりの増税は恟々不安がる程 の反動を伴ふものとは思はれない」(東洋経済新報[1934A:33])といった具合で,抜本的な政策転換な らばいざ知らず,軽微な増税であれば問題は少ないというのが基本的な考え方であった。 一方,10 月暴落に関しては,政府の方針転換が明らかになり,税制改革の規模,内容が一斉に各誌に公 表された後の暴落である。しかし,奇妙なのは,増税効果に関する詳細な検討がいくつかの経済誌におい 37) 法人の課税最低限は 1000 円である。個人に関しては,営業利益が 6000 円以上,10000 円未満の場合にのみ利得から 2000 円の控除を行うこととさ れ,また,利益が10000 円以上で利得が 1000 円未満のものは非課税とされた。制度の詳細については久保[1935:380ff.]参照。 38) 「臨時利得税を創設する理由及同税綱要」昭和財政史資料 6-19-10。 39) 以上の記述に関して,大蔵省百年史は 8 月 4 日を 8 月 8 日,10 月 29 日を 11 月 29 日と記載している。また,有竹[1969]も 10 月 29 日を 10 月 20 日と記載している。本稿の記載は,朝日新聞の縮刷版で確認したものである。 40) 「昭和 10 年 2 月 27 日 昭和 9 年の本邦金融界の概要」津島文書『公債消化問題』。松隈秀雄は「当時約二十幾円くらい株の値下りがあった。そこ で,株を持っておる人は皆,大蔵省やこれを立案した藤井さんを恨んだのです・・・藤井さんのところへ,お前がおれの財産を奪った元凶だというような ことを書いて投書した人があり,一時藤井さんの私邸を警戒したことがあったくらい不穏な空気があった」と回顧している(大蔵省大臣官房調査企画 課[1978:118])。
て行われているが,企業におよぼす税負担は軽微であるとの評価が大半だった点である41)。前段の引用も あわせて評価すると分かるように,この増税案自体が株式市場の暴落を引き起こしたわけではなかった。 10 月暴落は具体的な増税のインパクトを嫌ってのものではなく,将来の緊縮財政,大増税政策への転換が 現実のものになりつつある,そうした懸念を織り込んだ下落だったのである42)。 以上を踏まえると,大蔵省にとって本格的な財政赤字削減を示唆する抜本的増税案を9 月暴落前後の時 期に提出することはきわめて困難だったと考えられる43)。この点は,財界,金融界,政党による以下の増 税批判を同時に検討するといっそう明らかになる。 たとえば,財界は時期尚早を根拠に増税絶対反対のスタンスを示していた。臨時利得税は,当時,景況 回復の著しかった輸出産業および軍需産業を主なターゲットとしていた。その際,輸出産業は,各国の対 日輸入規制の強化によって輸出停滞の傾向が鮮明になっており,増税による生産原価の高騰がさらなる輸 出抑制につながると批判した(東京朝日新聞1934 年 10 月 30 日付)。軍需産業も資本金の大幅な削減に よって利益率が名目的に上昇していること,内部留保の蓄積が不十分であり,増税は設備資金拡張や将来 予想される景気後退への抵抗力培養を阻害すると指摘した(エコノミスト[1934:10])。 一方,金融機関は,増税に対して時期尚早のスタンスを取っている点では財界と同じであったが,国債 の価格維持が最大の関心事であり,国債発行の削減や低利借換えの延期に力点を置いていた(1934 年 9 月 28 日付東京朝日新聞)。その代表として,安田銀行副頭取,東京銀行集会所副会長を務めた森廣蔵の 主張を見てみよう。森にとって今回の増税は,「一部産業に向かって増税するも其額は僅少であり産業の 殷賑に伴ふ自然増収と比すれば大した問題じゃあるまい」という評価であった(銀行通信録[1934:186])。 しかし,深刻なのは,非増税方針を増税方針へと覆した政府の姿勢であり,五分利公債の低利借換えを否 定する声明を出したにもかかわらずそれが覆されるのではないかという懸念が金融界に与えた衝撃であっ た。それゆえ,森は「公債市価が不安動揺するとすれば,更に其上多額の新規公債の増発は果して円滑に 行ひ得るだろうか。公債市価が根本的に動揺してくるとすれば,今既に多額の有価証券を所有する金融界 は,迷惑なくしてすまし得るだろうか」(同[1934:185])と政府の方針を強くけん制するのである。 このように,増税反対という点では共通しているとはいえ,基本的には積極財政の維持を要求する財界 と,財政健全化を要求する金融機関とは,異なるスタンスを取っていたことがまずは指摘されるべきであ る44)。ただ,その違いを踏まえれば,大規模な本格増税には双方とも反対していたということは言えるし, さらに,議会での政府質問もこの本格増税の実施如何に人々の関心が集まった45)。 臨時利得税法案の審議に際して,もっとも舌鋒鋭く政府に迫ったのは,政友会の松村光三である。松村 は,同税に関する懸念を政府の非増税方針の転換,負担の不公平性,増税の時期尚早と表現する46)。その うえで,本会議では「半年或は一年の後に確乎たる所の成案を得て,茲に新なる増税計画,新なる税制整 理案として提出することこそ,然るべきではないか47)」と臨時利得税の性急さを批判し,委員会席上でも 41) 東洋経済新報[1934B]ならびにエコノミスト[1934]の特集に,事業ごとの税負担,増税の利潤,配当への影響等が詳細に検討されている。 42) 当時の経済誌を通覧すると,第 1 に高橋の非増税方針への財界の信頼が藤井の増税によって裏切られたこと,第 2 に,緊縮財政,インフレ抑制方針 への転換を市場が警戒したことを株価暴落の理由としてあげている(東洋経済新報[1934B:23])。ダイヤモンド[1934]の増税特集もあわせて見よ。 43) 大蔵省は第 66 帝国議会に備えて作成した想定問答集のなかで,一般的増税計画を行わない理由として,景気の跛行性,経済的弱者の税負担を勘案 した場合,国民経済に及ぼす影響が大きすぎることを指摘している。「昭和9 年 11 月 第 66 回帝国議会想定問答(国税課の分)一般の部 甲」『戦 時利得税臨時利得税関係調査書』濱田徳海資料0-1-13。 44) 以上の相違に関して,1935 年 8 月 29 日付の報知新聞は,金融機関が「国債の価格に一割の下落があれば,我国の金融資本家は五億の損失を負担し なければならぬ」ことから「国債発行額の減少を希望せざるを得ない立場におかれた」一方で,財界は,「巨額の兵備改善費の支出せられることは彼等 の最大の利益である。為替相場の低落と通過の膨張は彼等の最も希望する所である。彼等には何等健全財政を希望する理由がない」と鋭く指摘してい る。 45) 昭和財政史は「一般的増税の先駆をなすかどうか」が議会最大の関心事であったと述べている(大蔵省昭和財政史編集室[1957:306])。 46) 大蔵省主税局「第 67 回帝国議会 臨時利得税法案議事録」pp.10-15。 47) 大蔵省主税局「第 67 回帝国議会 臨時利得税法案議事録」p.15。
「此増税というものは税制整理と不可分のものではないか48)」と何度も政府に詰め寄っている。 政府側はこれに対して,抜本的な増税を行う意思がないことを繰り返し強調した。たとえば,岡田首相 は増税への翻意を松村に「二枚舌」と強く批判されていたが,自然災害の被害者を救済する必要が生じた ことへの対応としての臨時課税であり,一般的な増税を行う意思がないと応じた49)。高橋も今回の課税は 臨時課税であり,一般的な増税についてここで論じることは不適切であると答弁している50)。これらのや りとりが藤井の没後すなわち高橋の再登場後に行われたことの意味は後に検討するが,議会における追及 の矛先も財界や金融界と同じく抜本的な増税への反対に向けられていたのである。 さて,以上を整理,検討しておこう。まず,高橋蔵相のもとで数々の増税案を作成し,次官出身である 藤井を蔵相に迎え税制改革案を再度作成した経緯からすれば,藤井蔵相のイニシアティブのもとで抜本的 な増収策を講じることに大蔵省の最大の課題があったと言って良いだろう。しかしながら,政府の増税方 針をめぐる憶測が株式市場のボラティリティを高め,財界が時期尚早を理由に強い増税反対を主張してい た状況にあって,これらの懸念を全く無視した増税案の提出は困難であった。一方,金融機関は,追加的 な財政支出がもたらすインフレへの懸念,軍事費の増大をけん制する形での国債市価維持の要求が根底に あり,その限りにおいて増税には一定の理解を示していたが,本格的な増税に対してはこれも反対の姿勢 であった。くわえて,議会への法案提出を控え,国民の強い反発も予想された。このような状況のもとで は,3000 万円程度の臨時利得に対する課税案が大蔵省の提示しうるもっとも現実的な案だったのであ る51)。 こうして,「戦前型従量税体系」からの脱却,カウンターシクリカルな租税システムの構築は,先送り されることとなった。しかしながら,抜本的増税の回避の一方で,臨時利得税は時限措置であり,一般的 な所得税改正への布石であるという見方は根強く残っていた点に注意しなければならない52)。それは,す でに指摘したように,議会での政党からの執拗な追及にも表れているし,わずか3000 万円という金額に もかかわらず株式市場が大混乱を来たしたことの背景として,緊縮財政への本格的な転換への懸念があっ たことからも裏づけられる。だとすれば,最後の問いはこうである。現代的な租税システムとの関係にお いて臨時利得税がどのように位置づけられていたのか,藤井の病死,高橋の再登場によってその位置づけ がどのように変化したのか,あるいはしなかったのか。 B) 臨時利得税の性格の変化 まず,臨時利得税の導入意図を見ておこう。同税をめぐっては,大蔵省内部で主税局を中心とした負担 均衡を根拠とする見解と,理財局を中心とした赤字公債発行の限度・収支均衡の回復を根拠とする見解が 並存していた(朝日新聞社経済部編[1935:30])。先の主税局増税案にも示されたように,大蔵省の増 税意図として負担の均衡が強く意識されていた一方,金融機関の国債保有が飽和状態に近づきつつあると いう危機感から,理財局は国債発行の縮減,財政収支の均衡化を主張したのである。その結果,主税局作 48) 大蔵省主税局「第 67 回帝国議会 臨時利得税法案議事録」p.426。この時の松村の政府追及は手厳しいものであった。松村の問いに対し,高橋は, 抜本的な増税と臨時利得税は不可分の関係にないこと,軍事費の抑制の見込みが立たなければ本格増税は困難であることを答弁した。これを受けて, 松村は,陸海軍両大臣から近い将来には軍事費の削減は難しいとの予想通り、、、、の答弁を引き出したうえで,高橋に「税制整理は一体出来ると御考であり ますか」と詰めよった。これにはさすがの高橋も「言葉尻を取って責めることは止めて下さい,私は話が下手なんです」と逃げるしかなかった。大蔵 省主税局「第67 回帝国議会 臨時利得税法案議事録」pp.426-430。 49) 大蔵省主税局「第 67 回帝国議会 臨時利得税法案議事録」p.20。 50) 大蔵省主税局「第 67 回帝国議会 臨時利得税法案議事録」pp.23-24。 51) 有竹修二は,この増税案が暦年にわたって主税局スタッフが検討してきた成果であり,財界などへの影響を十二分に考慮した卒のない案であったと 指摘している。ただし,藤井の提案の仕方はあまりにも拙劣であったとの批判も同時に行っている(有竹[1969:102f.])。 52) エコノミスト誌は,臨時利得税は,実質的には第 1 種所得税における超過利潤課税強化,第 3 種所得税における累進性強化で対応可能だったと指摘 し,「特別利得税」の形式をとることで財界や政党からの反対を軽減し,社会的支持を得ることにねらいがあったと述べている(エコノミスト[1934:13])。