﹃
東
披
題
践﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵上︶
塚
本 宏
は じ め に﹃東 披 題 祓﹄は蘇載︵脳∼㎜︶が書いた題鍍を後世の人が集録したものであり、六巻からなっている。巻一は文、巻二、巻三は詩、 巻 四は書、巻五は画および墨紙筆硯、巻六は琴事、琴曲、古器物、遊覧と編せられている。本稿は巻四のみをその範囲と限定し、その 中の二王の扱われ方を中心に見ていきたい。 蘇 載、字は子謄、眉州眉山︵四川省︶の人、東披居士と号す。これは︸説に黄州に流されたときに湖北省黄岡県の東にある東披に居 たので、その地名をとって名付けたと言われる。二十二歳で進士に合格、二十六歳から二十九歳まで鳳翔府の次官、三十歳のときに首 都 汗 京 ︵ 開封︶で史館に勤務、三十四歳、朝廷にて監官告院、三十六歳、杭州通判、三十九歳、密州知事、四十一歳、河中知事に任命 されたが赴任しないうちに徐州知事、四十四歳まで在任した。四十四歳の三月から七月まで湖州知事、そして、新法党の王安石︵1 ∼08︶ と対立し、その策謀によって朝廷を誹諺した罪で逮捕、黄州に左遷、約四年間の逆境生活を送り、日々の生活にも最も苦しんだ。この 間に仏教思想の探求﹃赤壁賊﹄を書いた。また﹁黄州寒食詩巻﹂は四十七歳、四十九歳のとき常州居住、そして、神宗が崩御されたの で 旧法党が再起拾頭し、礼部郎中に召された。五十歳、都に到着し、中書舎人、翰林学士となり、五十四歳、杭州知事、五十六歳、頴 州知事、五十七歳、揚州知事の後に兵部尚書に召された。五十八歳、定州知事、五十九歳、新法党によって英州知事に左遷され、その 毛
和 洋 女 子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ ⇒天 後 恵 州に流され、六十二歳に海南島に移された。六十五歳、哲宗崩御、朝奉郎に復帰したが、六十六歳七月、都への帰途、常州で没し た。 東披は新法党と旧法党の両党のイデオロギーの間にあって実に苦しい一生であった。外任を何度も乞いはしたが、召還されまた左遷 されるというわあただしく、波瀾に富んだ生涯であったにもかかわらず、その中で秀れた才能を発揮し、深く学問を積み重ね、文学、 芸 術に打ち込めたというこの境地は、宋代にあって大きな存在であった。文学では唐宋八大家の一人として、書道に於いては宋の四大 家の一人として後世に大きな影響を与えている。 さて、﹃東披題微﹄巻四は、総題祓数=一二題ではあるが、その中から本稿で扱う二王に何らかの関係があるものを抜き出してみる と、次のように二十六題となる。︵頭の数字は巻四全体の通し番号である。︶ 1 書華本蘭亭後︵墓本の蘭古7の後に書す︶ 2 題蘭亭記︵蘭亭記に題す︶ 3 題逸少帖︵逸少帖に題す︶ 4 題遺教経︵遺教経に題す︶ 6 題二王書︵二王の書に題す︶ 7 題晋人帖︵晋人の帖に題す︶ 8 題粛子雲帖︵薫子雲帖に題す︶ 9 祓楮辞臨帖︵緒・醇の臨帖に祓す︶ 10 辮法帖︵法帖を辮ず︶ 12 疑二王書︵二王の書を疑う︶ 13 題 逸 少 書︵脱少の書に題す︶ 14 又︵又︶ 15 又︵又︶
16 題 子 敬 書︵子敬の書に題す︶ 22 祓庚征西帖︵庚征西の帖に祓す︶ 26 書逸少竹葉帖︵逸少の竹葉帖に書す︶ 29 践葉致遠所藏永輝師千文︵葉致遠蔵する所の永禅師千文に祓す︶ 31 題 顔 公 書 蓋讃︵顔公の書せる画讃に題す︶ 36 書張長史草書︵張長史の草書に書す︶ 39 賊 胡 需然書厘後︵胡需然の書厘の後に蹟す︶ 42 書 所 作 字 後 ︵ 作 る所の字の後に書す︶ 68 評楊氏所藏欧察書︵楊氏蔵する所の欧察の書を評す︶
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蹟山谷草書︵山谷の草書に蹟す︶ 皿 蹟希白書︵希白の書に践す︶m
論 沈 遼 米 帝書︵沈遼・米帝の書を論ず︶ ㎜ 書唐氏六家書後︵唐氏六家の書の後に書す︶ 蘇 東披が最初の﹁書墓本蘭亭後﹂を記したのが、治平四年︵一〇六七年︶九月十五日、即ち三十二歳の時である。今、東披が手元で 見 て いるこの墓本蘭亭序は、以前に東披自身が見た別の一本よりも秀れていて、東披の頭の中でその別本と比較しながらこの祓文を書 い て いる。そして、以前に見たことがある蘭亭序はどんなものであったかについてはこの鍍文に、 又 嘗見﹁本、比此微加楷。 とあり、目下、手元にある蘭亭序よりも楷書の雰囲気が加わっていたと比較視している。またさらに説明を加えて、 疑 此 起 草 也。然放暖自得、不及此本遠 。 ﹃東波題祓﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 莞和 洋 女 子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 四〇 とある。即ち、恐らく手元のこの蘭亭序は、草稿として書かれたものであろうと東披は推測している。草稿であるために硬さが見られ ず、自由自在な書きぶりでのびのびとしていて自ら楽しむ気分があり、嘗って見た一本には遠く及ばないという誉めようである。とい うことは、東披の書の理想としているものは﹁放暖自得﹂の精神である。これは人間存在そのものに対する東披の深い関心と興味と暖 か い愛情であり、それは東披の詩作品の奥にも常に流れているものである。即ち、人間が存在する書、人間の気の書こそ人間性が表わ された書という見識を持って、祓文を記したと言える。以前に見た一本の蘭亭序が楷書的で硬さがあったから、なおさらこの手元の蘭 亭 序 が ﹁放 暖 自得﹂に見えたのであろう。以前の一本よりも東披の心を打つものがあり、以前のものに見られない何かを発見したこと は確かであろう。そして、さらに続けて、 子 由自河朔持蹄、寳月大師惟簡請其本、令左綿僧意祀幕刻於石。 とある。子由即ち東披の弟である蘇轍︵㎜∼㎜︶が、黄河以北の河朔から持ち帰ったところ、あまりの素晴しさに寳月大師惟簡︵蘇惟 簡、寳月大師は号︶が請い求め、四川省左綿の僧の意租に命じて墓刻させたのである。弟の蘇轍も蘇惟簡も東披同様にこの蘭亭序が気 に入っていたということになる。 さて、ここで問題になることは、東披が以前に見た一本と、手元にある感銘した一本はそれぞれ具体的にどの系統の蘭亭序の墓本で あったのか、またこの蹟文が書かれていた蘭亭序︵即ち手元にある一本であろうと推測されるが︶は具体的にはどの幕本だったのであ ろうか、この考察については後にすることにして、それより以前に本践文には蘭亭序の本分中の訂正箇所及び改窟箇所の確認がなされ て いる。これは蘭亭序は元来草稿であるために若干の訂正がなされているが、その具体的な箇所について蹟文の本文通りに整理すると、 1 外寄所託←因寄︵所託︶ ︹﹁外﹂の字の上から﹁因﹂を書いた︺ ︵ 外、託する所に寄りて︶←︵託する所に因寄して︶ 2 於今所欣←向之︵所欣︶ ︹﹁於今﹂の上から﹁向之﹂を書いた︺ さ ︵ 今 の 欣 ぶ 所 に 於 て︶←︵向きの欣ぶ所に︶ 3 宣不哀哉←︵宣不︶痛哉 ︹﹁哀﹂の上から﹁痛﹂を書いた︺ ︵ 宣 に 哀 しからずや︶←︵宣に痛ましからずや︶
4 良可悲︵也︶←悲夫 ︹﹁良可﹂の二字をぬり消して、﹁也﹂の上から﹁夫﹂を書いた︺ まこと かな ︵ 良に悲しむ可し︶←︵悲しき夫︶ 5 有感於斯←︵有感於︶斯文 ︹﹁斯﹂の下に﹁文﹂を書き加えた︺ こ ︵ 斯 に感ずる有らん︶←︵斯の文に感ずる有らん︶ 以 上 の 五 箇 所 ︵ 4の﹁也﹂については本祓文は触れていない︶についてまとめて、 凡 塗 雨 字、改六字、註四字。 とある。即ち﹁塗﹂は上から塗り消したもの、﹁改﹂は書いてある字の上から太い筆画の字を書き入れる方法、﹁註﹂は小さい字で書き 入 れる方法である。具体的には ○ ﹁ 塗 爾 字﹂は﹁良可﹂の二字を上から塗り消し ○ ﹁ 改 六 字﹂は﹁外﹂を﹁因﹂に、﹁於今﹂を﹁向之﹂に、﹁哀﹂を﹁痛﹂に、﹁也﹂を﹁夫﹂に、﹁︵作︶﹂を﹁文﹂に訂正 なお、﹁︵作︶﹂については墓本によって明らかなものと、不明で記してないものとがある。本蹟文では触れてはいないが、最後の﹁文﹂ を﹁改六字﹂の中に入れるように記しているので、当然﹁作﹂の上から﹁文﹂を太い筆画で書いたと考えてよいのであろう。東披が見 て いた墓本は恐らく﹁文﹂の下には﹁作﹂は見られなかったのであろう。もし﹁作﹂がはっきりと確認できれば、この践文中に﹁有感 於 斯 作﹂を改めて﹁斯文﹂のように記したはずである。 ○ ﹁ 註 四字﹂は﹁癸﹂と﹁崇山﹂と﹁僧﹂の四字を書き入れ また、﹁僧﹂については祓文中であとに加えて、 曾 不 知 老 之 將 至、誤作僧 とあり、﹁曾﹂と書くべき所を﹁僧﹂に誤ってしまったのである。そして、この﹁僧﹂については墓本によっては入っていないものと入っ て いるものとがあり、前述の﹁斯作﹂の﹁作﹂と同じようなことが見られる。 また、﹁僧﹂同様に誤って使われているものは他に 已 爲 陳 、誤作以、亦猶今之覗昔、誤作由。 ﹃東波題祓﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 竺
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 四= と説明のあるように、﹁以爲陳 ﹂の﹁以﹂を﹁すでに︵已︶﹂と読ませ、﹁亦由今之覗昔﹂の﹁由﹂を﹁なお︵猶︶﹂と読ませるように 誤った使い方をしているとの指摘である。 しかし、この両者︵﹁以﹂と﹁由﹂︶は、厳密に誤りと言えるであろうか。﹁以﹂を﹁すでに﹂と読む具体例は他に見えないようである が、辞書によってはとり上げられ、﹃新字源﹄︵角川書店︶では、例文を挙げずに﹁すでに﹂﹁已﹂と同じといういことで扱っている。ま た、﹁由﹂を﹁なお﹂と読む例としては、 由水之就下浦然︵なほ水の下きに就きて浦然たるがことし︶ と孟子梁上の例文を挙げている。即ち、﹁由﹂は﹁なお⋮⋮のごとし﹂として﹁猶﹂と同じように使用されている。従って、この﹁以﹂ ﹁ 由﹂の誤字論は一概に誤字とは決めつけられないということになる。 また、同時使用の文字について触れている。即ち、 奮説、此文字有重者、皆構別髄、而之字最多。今此之字、頗有同者。 とあるが、同じ字が何度も重ねて出てきても皆別の形で書いているということで、義之の表現技術の多様性をむしろ誉める形としてあ るのが通常である。特に﹁之﹂の字は全体三百二十四字のうち二十字︵臼%︶も出てくるが、二十字すべてがどこかしら異なった筆使 い で 書 か れ て いる。それがむしろ蘭亭序の妙味であり、特徴の一つであるとされているのであるが、今、東披の手元にある蘭亭序の墓 本 は ﹁ 頗 有同者﹂と述べられていることは意外である。﹁之﹂などは変化があって当然だと思われるのに﹁頗有同者﹂とは、きっとその 幕 本は形の変化があまり見られないものなのであろうか。しかし、続いてその直後に﹁又嘗見一本、比此微加楷。疑此起草也。﹂とあ り、この手元の墓本は起草︵草稿︶であろうと述べているが、草稿であればむしろ形の変化は富んでいるのではないだろうか。そして、 楷 書 風 で あれば形の変化はつけにくいので東披の言も理解できるのであるが、﹁之﹂の形が﹁頗有同者﹂ということと、草稿であろうと いうことが矛盾している。となると草稿ではあるがむしろ楷書風の草稿で、﹁之﹂などは﹁頗同﹂とつじつまを合わせて理解すべきであ ろうか。ちなみに蘭亭序の中で他の同字のものは、﹁以﹂﹁所﹂﹁不﹂が各七字、﹁懐﹂が五字、﹁為﹂﹁也﹂﹁其﹂﹁亦﹂が各四字と多いも のは数えられ、﹁之﹂と同様に変化のある書法でまとめられている。
二 東披が以前に見た別本の蘭亭序は、やや楷書の気分が加わっていたが、今、手元にあるこの蘭亭序は草稿なのであろう、﹁放暖自得﹂ の 気 分 があって、以前に見た蘭亭はこの本に遠く及ばないと述べている。それでは、東披が以前に見た楷書風の蘭亭はどのようなもの か、また手元にあるこの本はどのようなものかについて調べてみると、この本は前述の如く子由︵蘇轍︶が黄河以北の地の河朔から持 ち帰ったところ、宝月大師惟簡がその本を請い求め、四川省の左綿の僧の意祖に命じて石に墓刻させたとある。時に治平四年︵一〇六 七 年︶九月十五日であった。そして、この本の名前は河朔から持ち帰ったということにちなんで﹁河朔起草本﹂とした。 ﹁ 河 朔 起 草 本﹂は、軽やかですっきりとした伸びのある線で書かれ、リズミカルな運筆が特徴となっている。いわゆる行書としての 用筆が至る所に見られる。梁聞山の践には この本は、東披題祓に見ゆ。云はく、子由之を河朔に得たるもの也と。行草、大令の筆意を参へ、圓勤愛すべし。行筆の間、誤れ る庭あり。癸至端齊等の字の如し。宣、翻を経たるの拓か、抑も本より爾くありしか。要するに皆、世間敷は見ざるの物、倶に實と すべき也。 とある。大令の筆意即ち王献之を思わせる用筆で、全体的に逸気があり媚趣があり、圓勤の風に満ちている。献之の用筆を思わせると いう評は梁聞山の見識であり、一理ある見方である。また、草稿を思わせるという証拠に、癸至濡齊などの誤字が認められる。これは 単 なる誤字でありそれほど問題にはならないことである。しかし、多くある拓の中では珍品であり、宝とすべきものであると付言して りこ いる。また、趙烈文は﹁河朔起草本﹂について 子 由、河朔より持蹄るや、費月大師本を請うて石に墓せりと、董廣川の實月本の駿に云はく、費月、蘭亭序を刻し、東披、譜を後 に つくれり。蓋し子由、中山の奮石を得たるなり。今、幕するところは濁り蜀中に傳ふと。これを観れば即ち起草とは乃ち披公が意 度 の辮、河朔はまた祓中の文語なり、當時自ら實月本と構し、河朔起草の名なかりき。 と述べ、﹁河朔起草本﹂の名は東披の践文の中の文語に基いたものであり、当時は﹁費月本﹂と称し、﹁河朔起草本﹂の名はなかったと ヨ の ことである。また、宗源潜の微には ﹃東 披 題 祓﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 四主
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 四四 東 披 題 して起草本といへり。即ち董廣川題して實月本とせるもの、廣川はこれを以て湯普徹の墓するところとなし、推重甚だしく、 典 刑存するあり。中山本は蓋しその一なりと謂ふに至れり。宋初定州を以て定武軍を爲し、後、中山府に升し、河北西路に圃す。こ れ 河朔・中山は皆定武を指す。東披謂ふ、別の一本、これに比ぶれば楷を加ふと。當に即ちこれ世の共に知るところの定武なり。而 して定武別にこの一本あり、顧みるに知れるものなし。子由之を河朔に得、寳月之を子由に得たり。披老既に題して起草といひ、寳 月之を刻して河朔起草本と名つく、案ぞ不可ならんや。桑考披の祓を載せ、既に標して河朔本といひ、披老已に評して放噴自得とい へり。後人の更に異議あるを容さず。 とあるように、東披の謂う﹁別の一本これに比ぶれば楷を加ふ﹂は即ち、楷書風の別の一本は定武本のことであると宗源潜は断定して いる。定武本ということではあっても、何種類かありどの定武本かということがさらに問題となる。宋の趙子固の旧蔵本である落水本 は 蘭 亭 中の第一とされ、韓珠船本︵今は中村不折秘蔵︶は古意があり品格があり、趙子昂が臨書した猫弧僧本など、定武本の中にも秀 れたものは沢山ある。従って宗源潜が言う定武本は、定武本系統のものということであろう。また、﹁河朔起草本﹂に関して銚痛の陵は 乾 隆 辛丑秋同年蒋立菟在院出蘭亭奮拓三本見示、余於書淺学不足評古帖且此帖已。有梁聞山題顕所論精當 。立巷携此東蹄將更使 王 夢 棲 敗之。余於京師別聞山十飴年於揚州別夢棲亦三年 。今歳夢櫻爲余祓穎上蘭亭始嵜至故人易散難聚。惟其翰墨風流時可見耳。 爾 頼 立 巷毎相親今又與此帖倶遠爲帳然題而婦之。 とある。
治 平 四年九月十五日に子由が河朔から持ち帰ったところ、實月大師惟簡︵2﹁O肚∼0911︶がその本を請い求め、左綿の僧の意祖に命じて石 に 幕 刻 したいというのでこの日にこの微を書いたのである。この年東披は三十二歳、この年九月に帰郷して父の喪に服している時であっ た。實月大師惟簡は、姓は蘇氏、字は宗可、また宗古、賓月大師と号した。四川省眉州眉山県の出身で東披の父淘と親交があった。そ の 影 響 で東披も親しく交わった。 三 眞本已入昭陵、世徒見此而已。然此本最善。日月愈遠、此本當復訣壊、則後生所見、愈微愈疎 。
この駿﹁題蘭亭記﹂は、具体的に何の本の蘭亭記に題したのか、また年次は何時なのかも記してないので不明である。蘭亭記と言っ た場合は何延之の﹁蘭亭記﹂を言うが、ここでは一般的に言う蘭亭序、あるいは蘭亭詩序のことであるとされている。書かれている内 容 か ら考えれば蘭亭序のことを述べて題していることは明確である。 ら さて、﹁眞本已入昭陵﹂の昭陵に殉葬したことについては、唐の劉飯の階唐嘉話に 太 宗 の秦王たりし日、揚本を見て驚喜し、乃ち貴償もて、大王の書を市はれしが、蘭亭は終に至らず。辮師の庭にあるを知るに及 び て、粛翼をして越州に就いて之を求得せしめ、武徳四年を以て秦府に入れり。貞観十年、乃ち十本を揚して以て近臣に賜へり。帝 崩ず。中書令楮遂良奏すらく、蘭亭は先帝の重ぜられし所なれぼ留むべからずと。遂に昭陵に秘めたり。 と伝えられ述べられている。また、宋の銭易の南部新書には 蘭 亭は武徳四年、欧陽詞越曾に就いて之を求め、始めて秦王府に入れり。麻道崇、教を奉じて雨本を揚す。一を辮才に送り、一を 秦王自ら牧められる。崇、私に 本を揚せり。時に天下草創、秦王親ら掘戎たりしと難も、蘭亭は肘腋を去らず。即位の後に及んで は、學びて愈々倦まざりき。貞観二十三年、楮遂良請うて昭陵に入れしかば、天下見る所は但撫本のみ。 とあり、惰唐嘉話の薫翼の代わりに南部新書では欧陽詞になっているが、これも両説あるようである。何延之の蘭亭記では薫翼となっ て いる。この両説はともかくとして、昭陵殉葬に関しては一致しているから事実であろうと言われる。また、この昭陵殉葬についても ハア 太 宗が高宗に求められたと言う説と、中書令緒遂良の奏によったと言う説とがある。また、宋の欧陽修の集古録祓尾には 右 蘭 亭修襖序。世に傳はる所の本、尤も多くして皆同じからず。蓋し唐の敷家の臨せる所なり。其の韓た相博幕して、眞を失へる こと彌々遠し。然も時々猶喜ぶべき慮あり。宣其の筆法、其の︸二を得たるにあるか。其の邑興蹟の如何なるべきを想ふべきかな。世 に言ふ眞本は葬りて昭陵にありしが、唐宋の乱に昭陵は温輻の姿く所となり、其の所蔵の書垂旦は、皆その装軸の金玉を別取して之を 棄てたり。是に於て魏晋以来の諸賢の墨蹟は遂に復人間に流落せりと。太宗皇帝の時、購募して得たる所を、集めて以て十巻となし、 之 を墓傳せしめて、敷々近臣に分賜せり。今公卿の家にある所の法帖是なり。然れども猫り蘭亭の眞本は亡し。故に法帖に列して以 て 今 に 博 ふるを得ず。余が得たる所は皆人家の奮くより所蔵せし者なり。︵後略︶ とあり、義之の真跡は蘭亭に限らずすべて昭陵に葬ったのであるが、唐末の乱で昭陵は開かれ、魏晋以来の諸賢の墨蹟は流落したがそ ﹃東披題蹟﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 四五
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 四六 の 中に蘭亭の真本はなかったのである。 本 践 文 は つ づ いて、﹁世徒見此而巳。然此本最善。﹂とあるが、これは具体的には何本の蘭亭のことを言っているのか、﹁此本最善﹂と しているのであるから、具体的には定武本系の幕本に題したのであろうか。この賊文だけからでは不明である。定武本は欧陽詞が臨墓 ヨ したもので、真を奪うようによく出来ていると言われる。宋の黄山谷の祓に 王 右 軍 の 襖 飲 序 の 草 は、號して最も得意の書と構せらる。宋齊以來臓せられて秘府に在りしがごとし。士大夫間に構述せしを聞か ず。宣未だ大盗兵火を経ざりし時、蓋し墨跡の蘭亭の右にある者ありしならん。薫氏宇文に及びては、焚蕩の除千に一も存せず。永 師晩出し、見たる所の妙 は、唯、蘭亭ありしのみ。ゆゑに虞楮が輩これを道ひ、太宗は之を求むること百万、必得を期せし所以な コ コ ロ の コ お ゆ コ コ ロ お ロ ゆ ロ ロ り。其の後公私相盗み、今寛に之を失へり。書家晩れて定武本を得、蓋し髪髭として古人の筆意を存す。 ハ ということで、定武本の位置が高まり、有難さが増したと言われた。また、姜白石は定武本は真蹟から出て居るとして 蘭 亭 の 石 刻 は唐の諸名手の臨したものから出てをるので固より同じからず。その中、定武本は鋒、藏し董勤く、筆端の巧妙なる庭 は、終身之に効うても其の髪髭をだに得ることは出來ぬ。世に定武本は欧陽詞臨する所と謂ふけれど予は然らじとおもふ。欧の書は 一律に寒嶋である。どうして此のやうに八面愛化があらう。此の本は必ず眞蹟上より幕出したのに疑ひ無い。 と、欧陽詞の臨墓説を否定している。欧陽詞の書風は﹁寒哨﹂である。しかも﹁一律﹂としている。定武本は八面の変化がある書法で ある。どうしてあの欧陽詞がこの変化ある定武本を書き得ようかという説には一見の価値はある。しかし、東披は祓文で﹁最善﹂と題 しているが、恐らく前後の評者の意を取り入れつつ定武本系の何かに対して述べたのであろう。最善の蘭亭、それは定武本という考え があったのであろう。そして、本微文の後半の﹁日月愈遠、此本當復訣壊、則後生所見、愈微愈疎 。﹂は、東披の感傷主義からの↓文 である。ますます真を失なってしまうことの一沫の淋しさにも似たものを感じているのであろう。これは東披だけでなく誰でも現実の 流 れ の 中での当然の変化には気付くことであろう。ということはそれだけ、今、東披の手元にある多分定武本であろう蘭亭が、きっと 素 晴 しい姿で存在しているからであろう。今が充実し素晴しければ素晴しいほど今後の行く末が気になり、この本の真の姿が尊く感じ られるのであろう。そして、今の形がくずれてしまえば、益々かけはなれたものとなってしまうであろうことを大いに憂えているので ある。今、手元にある蘭亭のその姿が、東披の心を打ち感激の 本であればあるほど、時代が過ぎると、それから多くの人々が拓本を
採ったりして長い間には変化し、いたんでしまうことが考えられる。その美しい姿をそのまま変わることなく後世の人々にも見てもら いたいという東披の気持が込められた内容である。﹁愈微愈疎 ﹂になってしまうことを東披は最も心配しているのである。 ぶら また、東披のこの精神とほとんど同じ内容のものに、清の姜辰英が書いた﹃湛園題践﹄の﹁祓自書蘭亭叙﹂がある。それは 定 武 本を欧書と為す。之を緒登善の臨する所に比するに、特に端楷と為す。近惟だ東陽何氏蔵する所の刻のみ、其の真を得たりと 為す。然れども揚久しくして漫憩す。余、特に意を以て之を墓す。大抵、古を去ること愈々遠ければ、則ち真を失すること益々甚だ し。古人が書を作る、倶に口訣面授有り。今、既に得可からず。但だ審らかに用筆の法を知らば、臨書の時、自ら手腕の間の消息に 於 て、古人遠からざるに庶からん。 とある。この場合は定武蘭亭のうち東陽本︵梅華本︶の石刻について触れて東披と同じことを述べている。﹁拓本が久しくたって漫憩し て いる。私はとくに意をもってこれを華したが、大抵、古を去ること遠くなればなるほど真を失うことは、益々甚しくなる。﹂というの である。やはり今の情態が素晴しいのであるが、後世にはその生々しい素晴しさが伝えられなくなってしまう。今存在しているこの真 が 失 な わ れ てしまということに姜震英も東披と同様に憂えているのである。真や美は何年経過しても不変なはずであるが、石刻や拓本 の 場 合 は自然の流れにはどうしても逆えないということであろう。 四 東披題蹟の三番目は﹁題逸少帖﹂である。逸少帖については具体的には不明であるが、この題敗から推測すると王義之が官界から去 り、大自然の中に帰って山水遊牧の楽しみの生活に入るあたりの心境を述べた書状なのであろうか。これは義之が最も希望していた生 活 であり、芸術家としての当然の考え方である。一刻もはやく俗界から逃れて、自然の懐の中で自由に思いきり余生をすごすという義 之 のこの夢は、人間として生きるための心からの要求である。祓文は 逸 少 爲王述所因、自誓去官、超然於事物之外。嘗自言、吾當卒以樂死。然欲一游眠嶺、勤勤如此、而至死不果。乃知山水遊牧之樂、 自是人生難必之事。況於市朝替懸之徒、而出山林掲往之言、固已疎奏。 で あるが、この中で義之の身辺で考察すべきことを分析すると、ω王述の人柄と義之との関係 ω義之の去官 ③父母への誓墓文 ω ﹃東披題微﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 四七
和 洋 女 子 大 学 紀 要 第三十二集︵文系編︶ 四八 眠 嶺 ︵四川・甘粛両省︶への憧憬 ⑤山水遊牧の生活などが考えられる。 まず、﹁逸少爲王述所因﹂とあるように、結果的には王述に精神的に苦しめられたのである。義之とは血縁関係にはないが、義之が臨 折 ︵ 山東省︶出身の娘邪王氏であるのに対し、王述は晋陽︵山西省︶出身の太原王氏であり、両方とも名家であった。王述は字は懐祖、 藍 田、宛陵、王承の子、東晋の標騎将軍、宛陵令、会稽内史、揚州刺史、尚書令などを歴任した。王述については﹃世説新語﹄︵以下略 して﹃世説﹄︶の各編、及び﹃晋書﹄巻75に詳細はある。また﹃晋書﹄巻80王義之伝にも王述は顔を出している。﹃晋書﹄巻75の﹁承子 述﹂︵承の子述︶の冒頭には 述、字は懐祖、少くして孤なり。母に事へて孝を以て聞え、貧を安じ約を守て聞達を求めず。性は沈静なり。坐客馳辮し、異端競 起 する毎に、述、之に庭して悟如たり。少くして父の爵を襲ぐ。年三十にして尚ほいまだ名を知られず。人は或は之を擬と謂う。 とある。王述は若い時に親孝行で敢えて出世などは求めなかった。性格は沈静であったが、坐客の馳辮や異端者の競起などは平気でう まく処理した。若い時に父の爵を継いだが名は世間には知られなかった。それを世間の人は痴と評していた。王述に対しての痴という 評 は、﹃世説﹄賞誉第八62に 王 藍 田 は人と爲り晩成、時人乃ち之を嬢と謂ふ。王丞相、其の東海の子なるを以て、辟して橡と爲す。常て集聚するに、王公言を 嚢 する毎に、衆人競って之に賛す。述、末座に於いて曰く、主は尭舜に非ず。何ぞ事事皆是なるを得ん、と。丞相、甚だ相歎賞す。 とあるように、王述は痴ではあっても骨のある所を見せている。大器晩成型の人物だったので、若い時ははっきりとしない所もあった の であろう。当時の人々は痴れ者と呼んでいた。しかし、丞相の王導だけは彼を熱い眼で見ていた。王承の息子であるということで、 橡 という地方官に任用した。ある時、集会の席で、王導が発言するとそのたびごとに競って王導に賛同しもちあげた。ところが王述だ けは違っていた。末席に居て﹁あなた様はかの尭舜ではありませんのにどうして事毎にすべてが正しいことがありましょうか。﹂と言っ た。王導はこの王述の言に大いに感心したというのである。しかし、王述は自分のことはよく知っていたようで、﹁痴﹂についてもそれ ほど気にしてはいなかったようである。﹃世説﹄簡傲第二十四10に 謝 中郎は是れ王藍田の女婿なり。嘗て白給巾を箸け、肩輿にして径ちに揚州の聴事に至り、王を見て直ちに言ひて曰く、人は君侯 を癬なりと言ふ。君侯は信に自ら擬なり、と。藍田曰く、此の論無きに非ず。但晩令なるのみ。と。
とあるが、何も﹁白輪巾を箸け、肩輿にして径ちに揚州の聴事に至る﹂ぐらいのことで﹁痴﹂などと騒ぐことはない。世間の評判がた とえそのようであったとしても、そういう評判がないわけでもないが、たいしたことではない。ただ晩成なだけなのだと自分で言い切っ て いる。きっと痴者と言われるくらい王述は人間的に純粋なものをもっていたのではないだろうか。なお、謝中郎とは謝万のことであ り王述の娘婿である。義之の親友の謝安の弟である。その謝安は桓温の司馬となり、侍中、吏部尚書、尚書僕射、そして太保を歴任し たが、王述のことを誉めている。即ち﹃世説﹄賞誉第八78に 謝 公、藍田を禰すらく、皮を扱れば皆眞なり。と。 と真正面から誉めている。しかも﹁皮を綴れば中はすべて眞だ﹂という言い方は実に自信に満ちた言い方である。これも王述の人間的 な純真な面をしっかりと観察していると言える。また簡文帝︵司馬呈︶が﹃世説﹄賞誉第八91で 簡 文、王懐岨を道ふ。才既に長ぜず。榮利に於いて又淡ならず。直し眞率少許なるを以て、便ち人の多多許に封するに足る。と。 と評し、王述の﹁眞率少許﹂なる人柄、即ちひたむきな所を長所として挙げている。このひたむきな所が他の人の多くの長所に十分に 対 抗 できると述べている。また、謝安が同じく賞誉第八珊で、﹁王述は學髄常人の事無し﹂と王恭に告げる形で誉めている。即ち、体中 どこをとっても普通の人とは違っていると語っている。また、﹃世説﹄品藻第九23では王導が王述を橡︵地方官︶の役︵前述の賞誉第八 62 と同じ︶につけたので、中書令の庚亮は﹁王述はどうですか﹂と王導にたずねた。王導は 眞濁簡貴なるは父租に減ぜず。然れども暖澹の慮は、故より當に如かざるべきのみ。と。 と答えている。﹁眞猫簡貴﹂即ち王述は真率で、自己中心で、簡素で、高貴な点では父︵王承︶祀︵王湛︶に劣らない。しかし、心が広 く物事にとらわれない点ではかなわないに決まっていると父祖と比較して王述の人柄を述べている。なお、﹁然噴澹庵﹂は宋本では﹁暖 コ の 然 澹慮﹂であるが、﹃晋書﹄巻75王述伝では﹁但噴淡微不及耳﹂となっている。またその前の﹁眞濁簡貴﹂は﹁清貞簡貴﹂と﹃晋書﹄は なっている。また、王述にはせっかちではあるが、寛容な一面もある。﹃世説﹄盆猜第三十一5に 謝 無 変 は 性 農 彊 なり。事の相得ざるを以て自ら往きて王藍田を敷め、言を蝉にして極めて罵る。王色を正しうして壁に面して敢て 動かざること半日。謝去り良久しうして、頭を陣じ左右の小吏に問ひて曰く、去りしや未だしや、と。答へて云ふ、已に去れり、と。 エ コ ロ げ エ ロ ロ コ ロ コ 然 る後坐に復す。時人其の性急なれども能く容るる所有るを歎ず。 ﹃東 披 題駿﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 四九
和 洋 女 子 大 学 紀 要 第三十二集︵文系編︶ 五〇 とある。王述の人柄、性格については以上であるがこれらをまとめてみると、世間的には痴れ者と評されてはいたが、むしろ晩成型の 人 間であり、自分でもはっきりと自覚していた。丞相の王導は全人的に認めていて将来に託していた。また謝安は﹁綴皮而皆眞﹂﹁無拳 髄 常人事﹂と誉めている。また簡文帝は王述のことを﹁眞率﹂なる人柄と称し、謝安と同じ﹁眞﹂という表現をしている。王導は﹁眞 猫 簡 貴﹂としている。そして、自己中心的ではあっても悪い意味ではなく、しかも簡素、簡明で、品があってせっかちな所はあっても 寛 容 な一面もあり、出世とともに人格が形成されてきている。 さて、このような性格の持ち主である王述が、義之との接触点においてどのように対処し、どのような感情を持ったかということは、 義 之 を研究していく上でも重要である。即ち、義之と反対側の王述の側から見た義之の存在についても、一種の新しい場面が開かれる はずである。王述と義之の対面は﹃世説﹄には三話ある。まず品藻第九47には 王 脩齢、王長史に問ふ、我が家の臨川は、卿が家の宛陵に何如、と。長史未だ答へざるに、脩齢曰く、臨川は讐れ貴し、と。長史 曰く、宛陵も未だ貴からずと爲さず、と。 とある。王脩齢は王胡之で瑛邪出身の義之の従弟、王長史は王濠で太原出身、臨川は義之、宛陵は王述である。このエピソードは王述 と義之の直接対面ではなく、話題に登場した間接対面である。直接対話しているのは王胡之と王隊である。評判が高い義之と評判が高 くないわけではない王述という比較であるが、両人を比べる時に大分お互いに意識しあっているのであろうか。これは王述のほうが少 ロ し分が悪いという見方もあろう。また、葱掲第三十一2は有名な卵事件である。 王 藍 田 性 急なり。嘗て難子を食はんとし、筋を以て之を刺すに得ず。便ち大いに怒り、拳げて以て地に榔つに、錐子地に於て圓韓 して未だ止まず。伍りて地に下り、履歯を以て之を躍まんとするに、又得ず。瞑ること甚しく、復た地に於て取りて口中に内れ、誓 み 破 りて即ち之を吐く。王右軍聞きて大いに笑ひて曰く、安期をして此の性有らしむとも、猶ほ當に一豪の論ず可きこと無かるべし。 況 ん や 藍 田をや、と。 とある。同じことを少し変えて﹃晋書﹄巻75王述伝にもある。 但 性 急 なるを累となす。嘗て鶏子を食て筋を以て之を刺せども得ず。便ち大いに怒りて地に榔つに鶏子圓韓して止まず。便ち林よ り下りて履歯を以て之を踏むに又得ず。瞑ること甚し。綴りて口中に内れて誓み破りて之を吐く。
とあるが、変えている所は、どういうわけか﹃晋書﹄には義之とのことが触れられていない。王述がいかに性急であったかを述べてい るだけであるから、単なる性格の説明で別に問題にはならない。﹃世説﹄では義之が﹁これを聞いて大いに笑いて﹂そして一言加えてい る。実はその一言が問題なのである。しかも安期、即ち王述の父王承をひきあいに出している。これは王述への皮肉ととられ、二人の 間の不和の原因となることは目に見えている。﹁大いに笑いて﹂というこの義之の険悪な笑いは、二人の間をそのままにはしておかない という何かを予測させる。しかも義之はこの卵事件を実際に目撃しているのではなく、あくまでも人から聞いたことであるからなおさ ら王述には障るものがあり、怨念がのこるであろう。しかし、ここで義之は何故このように大笑いしたのであろうか。単なる快活な笑 い ではなく、含みのある、後に何かをのこす嘲笑である。﹁清貴簡正﹂な性格の王述にとってはあざわらわれたと感じたのであろう。以 前に王述に対して何かがあったのであろうか。娘邪王氏と太原王氏の名家同志の目には見えない昔からのライバル意識があったのであ ろうか。それとも官界に於ける地位がいつの間にか義之よりも王述のほうが上になり、朝廷との通りが義之よりもよくなっていたりし て、義之自信のストレスのためなのであろうか。とにかく王述に対して日頃から面白くないものがたまっていたのであろう。従ってこ の東披題蹟の﹁逸少爲王述所因﹂は、義之が王述のために苦しめられて、即ち王述が高い地位についたことに落胆させられ、自分から 父 母 の 墓 前に誓って官界を退いたのであるから、王述に対しては根深い感情があったのであろう。しかし、義之はもとより王述を軽ん レ じていたのである。﹃世説﹄仇陳第三十六5に あた 王 右軍素より藍田を輕んず。藍田は晩節論讐韓た重く、右軍尤も平かならず。藍田會稽に於て歎に丁り、山陰に停まクて喪を治む。 いた すす 右軍代りて郡と爲り、屡々出でて弔せんと言ふも、連日果たさず。後門に詣りて自ら通じ、主人既に叩犬するも、前まずして去り、以 て之を陵辱す。是に於て彼此の嫌陳大いに構ふ。後藍田揚州に臨むに、右軍尚ほ郡に在り。初め消息を得て、一参軍をして朝廷に詣 らしめ、會稽を分ちて越州と爲さんことを求む。使人意を受けて旨を失し、大いに時賢の笑ふ所と爲る。藍田密かに從事をして其の 郡 の諸の不法を敷へしめ、先に陳有るを以て、自ら其の宜しきを爲さしむ。右軍遂に疾と稿して郡を去り、憤慨を以て終りを致す。 と、王述との悲しい経過がある。王述の親の死にあい、口ではたびたび弔問に行くと言いながら行けず、しかも後日、門まで出向いて 来意を告げ、王述が実礼したのに義之は霊前に進まないで立ち去り彼を恥ずかしめた。これが両人の間の不和の原因であった。その後、 王 述 は揚州刺史に出世し、義之はそのまま会稽内史であった。そこで義之は決定的なマイナス点をのこしてしまった。それは王述が揚 ﹃東 披 題祓﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ ≡
和 洋 女 子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 五ゴ 州刺史になるとのうわさを耳にすると、一人の参軍を朝廷に派遣し、会稽郡を揚州から分離させ、新たに越州とするように頼ませた。 これは義之自身は新提案をしてよいことをしたつもりになっていた。しかし、その使いの者が義之の主旨にそえず、当時の名士の笑い 者にされまったく認められなかった。もしこの時に義之本人が参上していたらどうであったろうか。そのあたりは義之には後悔はない の であろうか。本人参上であったらあるいはお揃いの名士の面前でもっと惨めだったろうか。その後、王述は部下に命じて会稽郡の内 情 を調査し、不法行政を摘発し、以前から不仲であったことも手伝って、義之に自分から進退を決めさせた。義之はやがて病と称して 郡 の 長 官を辞任し、憤慨の中に死んだのであった。実に残念な心苦しい義之の最期であるが、この原因は前述のように、両人の間の不 和、不和から生じた誤解、不和のために意志の疎通がはかれなかったこと、そして誤解から不信感へと移り、義之の誠意も伝わらず逆 手 に 取 られて不正、不法という最悪の情勢となってしまったのである。きっと王述は最後まで義之に対して不信の念で一杯だったので あろう。 義 之 の 最 期 に つ い て ﹃世説﹄の扱いは以上であるが、最後の部分は﹃晋書﹄巻80王義之伝とは違っている。次表のように比較してみ ると ﹃世 説﹄ ﹃晋 書﹄ 義之が官界を辞す契機︵原因︶ 王 述 が させた 王 述 が 郡 の 義 之 はそれを深く恥じたので 義 之 の 最 期 に つ 遂 に 病 気 憤 慨 の中に死んだ 遂 に 病 義 之 り固く辞した となり、両者の違いがわかる。﹃世説﹄は官界を去った後に即座に死すということで結んでいるが、﹃晋書﹄は去官後の自然との悠々自 適 の 生 活 が書かれていて、釣、服食、薬石などを楽しみ、﹁私は卒に楽しみのうちに死ぬだろう﹂と歎じている。そして、五十九歳で亡 すとさらりと書かれ、病気だったのかどうかも具体的にははっきりと記されてはいない。
五 ﹁ 自誓去官﹂は、義之自身が父母の墓前で誓って官界を去るという意味であるが、具体的には去官のその時の心境と決意を一篇の文 ︵13︶ ︵ 誓 墓 文︶にしてささげたのである。永和十一年三月、義之四十九歳︵生年を細年とした場合︶であった。この誓墓文の主旨は後半にあっ て よ か むさぼ かりそめ 今 自りの後、敢へて此の心を楡へ、貧冒りて筍に進まば、是れ尊を無みするの心有りて、子たらざるなり。子にして子たらざるは、 天 地 の 覆 載 せ ざるところ、名教の容すを得ざるところなり。信誓の誠、激日の如き有り。 とあるが、この中で義之が誓う﹁信誓の誠﹂とはどういうことかということが問題となる。要するに官界を去って、もうこれ以上の高 い官職につくことは願わないという誓いである。もしもさらにかりそめの昇進などを倉るような気持を起したならば、これは父母をな い が しろにするものであり、子とはいえない。子であって子でないものは、この世に生きていく資格などはないと考えて誓ったのであ る。﹁王述所困、自誓去官﹂とは、義之が王述に苦しめられ、それが原因で自分から誓いをたてて官を去るということである。となると ﹁ 王 述 所 困﹂とはどういうことか、これは前述のように王述が義之よりも高い地位についたことに失望したから困しめられたのである。 日頃の不和も手伝ってとにかく義之は王述のことが面白くなかったのである。しかし、王述に苦しめられ、憎く思ううちに自分自身を 穴 の 中に自然に閉じ込めてしまっていたのではないだろうか。もし王述と不和でなかったならば、もっと義之は気持を大きくして晩年 を生きられたかもしれない。また、考え方を変えてみると、義之はきっかけがあればなるべくはやく官を去ろうと心中に思っていたの で、王述とのことを官を去る正統な理由にしたともとれる。ある意味で王述を利用したことになる。従って義之は王述と運命的な出会 いをしたことになるが、この出会いは官界を去って世俗の欲望を捨て、俗世間のことにとらわれずに逸民生活の理想郷に入っていくた め の 口実と考えられる。また、父母への﹁誓墓文﹂は人生の一つの区切りではあるが、これも理想郷への自己弁護である。筋を通して 曲がった考え方をしないという儒教的な考えのあらわれであることはわかるが、要するに義之は官界を去るに当っては精神的にあまり 恵 まれていなかったので、はやく辞任したかったし、それにはそれなりの表向きの理由と説明が必要だったのである。 従って、義之中心に見ると王述は悪人に見えるふしもあるが、見方を変えると一概に悪人と決めつけられない面が見えてくる。しか ﹃東披題賊﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 五三
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 五四 し、義之はこの時に官界を去ることが生きる道の最善の方法だったのであり、その正統な理由もあって結果的にはよかったのではない だろうか。 東 披 題 微 はさらに﹁嘗自言、吾當卒以樂死。然欲一游眠嶺、勤勤如此、而至死不果。﹂と続く。自然を相手にした自由な逸民生活も、 義 之 にとっては考えていたほど簡単に思うようには出来なかったのである。具体的には以前から憧れの地としていた四川省の眠嶺に、 とうとう一度も行けず、努力はしたが死ぬまでそれを果すことができなかったのである。官を去る時も悔の残る残念な辞任であったの と同様に、退官後も心残りの生活であった。﹁吾當卒以樂死﹂については、﹃晋書﹄巻80王義之伝に 義 之 の 既 に官を去るや、東土の人士と山水の游びを蓋くし、ざ釣を娯しみと爲す。又た道士許遇と、共に服食を修め、藥石を採り て 千 里 を遠しとせず。偏く東中の諸郡に游び、諸名山を窮め、澹海に淀び、歎じて曰く、﹁我は卒に當に樂しみを以て死すべし﹂と。 とある。﹃世説﹄の﹁右軍遂に疾と称して郡を去り、憤慨を以て終わりを致す﹂とある退官即最期とは大分違っている。退官後も逸民生 活 を楽しみ、そして楽しみのうちに死にたいと言っているのである。そして﹁然欲一游眠嶺﹂については、その本当の義之の気持を蜀 ︵14︶ ︵15︶ 都 の周撫あての手紙の中に書いている。それが﹃十七帖﹄の十三番目にある蜀都帖︵遊目帖︶である。即ち 足 下 の 別 疏 を省るに彼の土の山川諸奇を旦ハにす。揚雄の蜀都、左太沖の三都も、殊に備悉せずと爲す。彼れ故多奇爲り。益々其の ロ ロ ロ コ ロ ロ ら ロ つ コ コ コ コ コ ゆ ロ ロ コ コ コ ザ 遊 目の意をして足らしむるなり。︵中略︶卿の彼に在るに及び波領、峨眉に登りて旋らんことを欲するを要す。實に不朽の盛事なり。 但 だ 之 を言へば、心すでに彼に馳す。 とあるように、義之は周撫からの手紙に対してはっきりとこのように遊目の意をあらわしている。蜀へ行く時には少人数でよいから出 迎 えの者を頼むとまで言っている。そして、周撫の当地での在任期間中に波領や峨眉山に上り周遊したい。もし実現すればこの旅は不 朽 の 盛 事 だと好調で気持のよい所を表現している。 しかし、東披題駿の通り義之の希望通りにはいかなかったのである。退官後もあくせくと毎日をすごすことは以前と同じで、とうと う死ぬまでそれを実行できなかった。要するに山水遊牧などの楽しみは人生において実現することは意外に難しいということがわかっ た。ましてや都会生活に憧れた人たちが世俗を捨てて山林で一人で暮したいなどと言っても、ほとんど実行できないものであろう。と 東 披 は ﹁ 題 逸 少 帖﹂の中で述べている。また義之が逸民になりたいという夢は﹃十七帖﹄の二番目の逸民帖にある。
吾 は前に東し、粗ぼ佳観を作すに足る。吾は逸民の懐ひを爲すこと久し。足下、何を以てか方に復た此に及び、夢中の語に似たり とする耶。言面するに縁無きを歎きと爲す。書は何ぞ能く悉さんや。 ︹16︶ とあり、これは義之の義兄の都惜︵字は方回︶あての書状である。都信は東晋の臨海太守であったが天師道を信仰して政務を怠り、一 時 漸 江 省 の 章 安 に 隠 棲 した。その後再び仕え、平北将軍、会稽内史、司空となった人物であるから、義之よりも割り切った人生を歩ん で いる。この書状の中では、具体的には永和七年︵襯年︶に義之は会稽内史となったが、いずれは内史をやめて会稽地方の風光明媚な 山水の中で余生を送ろうと考えていたようであるが、決心はできなかったのである。内史は永和十]年︵纈年︶にやめているので、こ の 書 状 は 退 官の直後に書いたものであろう。 ﹃東披題祓﹄巻四の全体は前述の通り一二二題あるが、その内、王義之父子即ち二王に関係があるものは二十六題である。本稿はそ の 中から特に三題について考察を試みた。はじめの﹁書墓本蘭亭後﹂は、蘭亭序について草稿であるために具体的な訂正箇所、改鼠箇 所 及 び 註 記 箇所の確認からはじまり、誤字の指摘、同字の書法変化、そして東披が嘗って見た定武系の墓本と、手元にある﹁河朔起草 本﹂との比較がなされ、﹁放暖自得﹂などの東披の書に対する理念が論じられている。また、次の﹁題蘭亭記﹂では、蘭亭の﹁眞本已入 昭 陵﹂からはじまり、多分定武系の墓本であろう某本に﹁然此本最善﹂と蹟を書いている。きっと美しい本に対して最善と称している の であろうが、しかし、この素晴しいと東披の眼にうつっている蘭亭の美も、月日が過ぎれば欠け壊れて、いつの間にか変化してしま い、後世の人々が見るときには益々その美とかけ離れたものになってしまうという東披の憂いは、現代人の感傷にも酷似している..ま たその次の﹁題逸少帖﹂は、義之の晩年にスポットを当てている。特に王述との不和関係、退官、蜀都への憧憬、そして逸民とこての 山水遊牧の生活などである。結局、義之は思っていることをやり抜いて人生を悔いなく生きたかということは疑問であり、また、現実 的 に 画 に 描 いたように、世俗を脱する生活はなかなか難しいということを東披は感じている。なお、この﹁逸少帖﹂とは旦ハ体的にどの ようなものなのかは不明であるが、義之の字︵逸少︶に﹁帖﹂を付したものであるから、誰かに宛てた書状かもしれない。これは今後 の 研 究 課 題 の一つとなる事項である。 また、本稿は題祓三題までしか原稿枚数の関係で扱えなかったので﹁上巻﹂と称し、以後続篇としてまとめる所存である。 ﹃東 披 題践﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 五五
和洋女子大学紀要 第三十二集︵文系編︶ 五六 な お、最後になりましたが、本稿をまとめるに当り次の著者の方々の書籍を参考にいたしました。ここに記して慎しんで感謝の気持 を表したいと思います。 ﹃中國書論大系﹄ ︵第四巻︶ 東披題祓巻四 杉村邦彦詳 二 玄 社 ﹃芸術論集﹄ 東披論集 福永光司著 朝日新聞社
﹃書苑﹄ 第二巻第四号︵蘭亭号論文︶ 池田醇一・藤原楚水著 三 省堂
﹃東披題祓﹄ ︵書芸篇︶ 高畑常信訳 木 耳 社﹃王義之全書翰﹄ 森野繁夫・佐藤利行著白帝社刊
﹃晋書﹄ 中華書局
﹃晋書﹄ ︵和刻本正史︶ 汲古書院 ﹃世説新語﹄ 目加田誠著 明治書院 ﹃世説新語﹄ 竹田 晃訳 学習研究社 ﹃未央﹄ 第二号 未央刊行会 ﹃書道研究﹄ ︵蘇東披の人と書︶ 萱原書房 注 ω ﹃書苑﹄第二巻・第四号所収 論文﹁現存せる蘭亭の主なる刻本﹂ 抱残守訣生著 ② ③ ω 同右 ㈲ ﹃書苑﹄第二巻・第四号所収 論文﹁蘭亭叙の由来﹂ 池田醇↓著 ⑥ ⑦ 同右 ⑧ ﹃中國書論大系﹄第四巻所収 ﹃山谷題祓﹄巻之四﹁践蘭亭﹂ 足立豊詳 ⑨ ⑤と同じo︾ ﹃中國書論大系﹄第一一巻所収 ⑪ ﹁﹃十七帖﹄中の登場人物の考察四﹂拙稿︵和洋國文研究・第25号所収︶ 働 ⑪と同じ ⑬ ﹁誓墓文﹂書き下し文 ﹃王義之全書翰﹄附録﹃晋書﹄巻80﹁王義之伝﹂所収 森野繁夫・佐藤利行著 ⑭ ﹁﹃十七帖﹄中の登場人物の考察付﹂拙稿︵和洋國文研究・第21号所収︶ ㈲ ﹁﹃十七帖﹄中の登場人物の考察⇔﹂拙稿︵和洋國文研究・第22号所収︶ ㈹ ⑭と同じ ︵ 本学助教授︶ ﹃東波題蹟﹄巻四に於ける二王の存在に関する考察︵塚本︶ 毛