Svacitta-dharmat
A
としての
Vij
JA
na-m
A
tratva
──宇井伯寿博士の見解をめぐって──
北 野 新 太 郎
1.問題の所在
初期瑜伽行唯識派の主要な教義の一つに三性説があるが,三性とは,いうまで もなく,遍計所執性,依他起性,円成実性の三つである.三性説は,存在論的な 段階から,唯識説と結合した唯識三性説の段階に至るまで,構造的な変化を っ たのであるが,筆者は以前,「円成実性には二つの意味がある」ということを拙 稿の中で,以下のように論じたことがある. 「実は,あまり知られていないことであるが,円成実性には(認識主観における意識状態の 違いとの関係で)二つの意味がある.このことは,「唯識無境」に二つの意味があること と呼応しており,具体的にいえば,TK第25偈において示される真如(tathatA)としての円成実性に対応するものが,常に存在する vijJapti-mAtratA すなわち,「唯識実性」であり,
これは,われわれの心の迷・悟にかかわりなく,常に,存在するものである.そして,TK
第26偈,TK第27偈において示される段階の唯識は,いわば,〈机上の唯識論〉とでもいう
べきものに他ならない.それに対して,依他起性に相当する宗教的主体としてのvijJAna
の上に,真如であるところの円成実性が入無相方便の実修を通して体得された状態がTK
第28偈において示される vijJAna-mAtratva である1).」
中学生が解く英語の問題などで,「空欄に適語を入れよ」という形で,前後の 文脈からみて妥当な言葉を空欄に入れる問題があるのであるが,例えば,
TriMCikAkArikA (=TK=『唯識三十頌』)の中に三箇所ある「唯識であること」という
箇所の中で,一つだけ,vijJAna-mAtra-tva という言葉を入れることが可能である
箇所を指摘せよ,というような問題があったとすると,前後の文脈(特に直前の,
「現前に何らかのものを立てている[=表象している(≒vijJapayati)](sthApayann agrataH
kiMcit)」ようではダメだ,というTK第27偈との関係)からみて,
vijJAna-mAtra-tva を使用できる箇所は,TK第28偈c句以外にはあり得ないのである.そして
vijJAna-mAtra-tve が使用されている,というそのことは,少し考えるとわかるこ となのではあるが,書写の段階での単なる「写し間違い」などでは決してなく, (仮にその箇所が後代の改変箇所であったとしても)直前のTK第27偈からの思想的必 然性を意識した上での「確信犯的な」ものであった,と考えざるを得ないのであ る. しかしながら,筆者の尊敬する勝呂信静博士でさえも,
「現行本にはvijJanamAtratvaとあるが,vijJaptimAtratvaと訂正すべきである.山口益・野澤
静證『世親唯識の原典解明』p. 3982).」
といわれており,TK第28偈のvijJAna-mAtratvaという言葉の思想的必然性を看過
されているようなのであるが,写本自体の当該箇所は,明らかに,vijJAnamAtratve
となっており,以前,学会のさいに筆者が芳村博実教授と口頭で意見交換させて
いただいたときのことや,rnam par rig pa tsam laという西蔵語訳に機械的に従っ
ているだけであるとみられるHartmut Buescherによる当該箇所の校訂も含めて, 上記の点についての vijJAna-mAtra-tva という言葉の思想的必然性に気づいてい るのは,筆者だけなのではないだろうか,というようにも考えていたのである が,宇井伯寿博士の『安慧護法唯識三十頌釈論』の「梵文正誤訂正表」の当該箇 所に,vijJAnamAtratveからvijJaptimAtratveへの訂正が,なされていないことが, やや気になってはいたことも確かであった.その後,『安慧護法唯識三十頌釈論』 を パ ラ パ ラ と み て い る と,329頁 の9行 目 に「vijJAnamAtratva= 自 心 法 性 svacittadharmatA」と記されている箇所を見つけるに至った.この一行は,問題意 識をもっていない研究者がみると,そのまま読み流してしまうのではないか,と 考えられるのであるが,数年前からこの点にこだわっていた筆者は,思想的に深 く考えるタイプの勝呂博士ではなく,文献学者として高名な宇井博士の方がこの 点を意識していた,ということに衝撃的な印象を受けたのである. 本稿の目的は,輪 の主体でもあり,修道の主体でもある識転変の上に唯識と い う こ と を 体 得 し た 状 態 を 意 味 す るvijJAnamAtratvaと い う 言 葉 が svacitta-dharmatAという言葉で表現されているという宇井伯寿博士による非常に短い指摘 に着目し,『唯識三十頌』における自心法性と法性との違いについての検討を深 めることを通して,唯識派の存在理由とでもいうべき,輪 的生存における流転 から還滅への移行の立場を再び明確なものとするという特徴について考察するこ とに他ならない.
2
.法性(
dharmatA
)と自心法性(
svacitta-dharmatA
)
スティラマティは,TK第28偈の直後の説明箇所において,svacitta-dharmatA
(自心法性)という言葉を以下のように,二回,使用している.
yasmin kAle deCanAlambanam avavAdAlambanaM prAkRtaM vA rUpaCabdAdy-AlambanaM vijJAnaM bahiC cittAt nopalabhate na paCyati na gRhNAti nAbhiniviCate / yathAbhUtArthadarCanAt na tu jAtyandhavat / tasmin kAle vijJAnagrAhasya prahANaM svacittadharmatAyAM ca pratiSThito bhavati / atraiva kAraNam Aha / grAhyAbhAve tadagrahAd iti / grAhye sati grAhako bhavati na tu grAhyAbhAva iti / grAhyAbhAve grAhakAbhAvam api pratipadyate / na kevalaM grAhAbhAvaM / evaM hi sama-samAlambyAlambakaM nirvikalpaM lokottaraM jJAnam utpadyate / grAhyagrAhakAbhiniveCAnuCayAH prahIyante svacitta-dharmatAyAM ca cittam eva sthitaM bhavati3) //
「教説という所縁,あるいは教誡という所縁,あるいは自然的な色声等という「所縁を識 が」心より外に「認識しない」[すなわち]見ない,とらえない,執着しないときには,対 象を如実に見るからであって,生来の盲目のようにではないのであるが,そのときには, 識の執着を捨てていることと,自らの心法性において定まっていることとがあるのであ る.まさにこの点について理由をいったのである.「認識される対象(所取)が存在しな いときには,それを認識することはないからである」と.認識される対象があるときには, 認識主観がある.しかし,認識される対象がないときには,[認識主観は]ないのである. 認識される対象がないときには,認識主観がないこともまた,知るのであって,ただ単に 認識される対象がないことだけ[を知るの]ではないのである.このようにして,実に, 所縁と能縁とが平等な無分別の出世間智が生じ,認識される対象と認識主観とに執着する 随眠は捨て去られ,そして,自らの心法性において,心そのものが安定するのである.」 ここでは,TK第28偈において,入無相方便の修習の結果として,心が自心よ りも外に対象志向性をはたらかせない状態になったときに,自らの心法性におい て心が安定した状態が示されている.TK第25偈で示される真如と同義語の「唯 識実性」は,われわれの迷・悟とは無関係に,常に(sarvakAlam)存在するもので あり,それは中観派の説く CUnyatAに近い性質を有するところのものであったと いえるのであるが,それに対して,入無相方便の修習の結果として「対象を前に 立てない(表象しない)」意識状態に入った状態をsvacitta-dharmatAという,単な
るdharmatA(=vijJapti-mAtratA=唯識実性)とは異なる言葉によって表現しようとし
3
.「唯識実性」とは何か?
TKにおいて「唯識であること」と訳し得るサンスクリット語が示されるのは, 三 箇 所, す な わ ちTK第25偈 のvijJapti-mAtratA(唯 識 実 性)とTK第26偈 の vijJapti-mAtratva(唯識性)とTK第28偈のvijJAna-mAtratva(唯識)であるが,接尾 辞が-tAなのか,-tvaなのかという区別まで視野に入れて考えると,三箇所すべ てが異なる語形を示している,ということは,看過すべからざる要注意点である といえるであろう.括弧内はそれぞれのサンスクリットに対する玄奘訳である. TK第25偈とTK第26偈は「唯識」に相当する箇所は通常通りのvijJapti- である のに対して,TK第28偈だけは,vijJAnaとなっていることが確認できる.先にも 触れたように,宇井博士は,(その意図自体を明確に論じられてはいないのではあるが) 意図的にvijJAnaの方を採用しているようなのである.また,TK第25偈だけは, 接尾辞が-tAであるが,TK第26偈とTK第28偈の接尾辞は-tvaとなっている.玄 奘訳にみられる「唯識実性」,「唯識性」,「唯識」という訳し分けは,意図的にな されたものであるようである.例えば,『成唯識論』をみてみると,「唯識実性」 という訳語を示すことの意図について,次のような説明がなされている. 「此性は即ち是,唯識実性なり.謂く唯識性に略して二種有り.一には虚妄.謂く遍計所 執.二には真実.謂く円成実性なり.虚妄を簡ばんが為に実性という言を説く.復二性有 り.一には世俗.依他起を謂う.二には勝義.円成実を謂う.世俗を簡ばんが為の故に実 性と説く4).」 上記の説明箇所から,玄奘による「唯識実性」という訳語は,TK第25偈にお けるvijJapti-mAtratAという言葉が真如と同義語の円成実性を意味している,とい うことを意識した上での意図的なものであり,特別な意味が付与されている,と いうことが確認できるのである.しかしながら,世俗と乖離した勝義というもの は,いわば「絵に描いた 」のようなものであって,それをわれわれの宗教的主 体としての(依他起性の)識の上に体得しなければ,「世俗と勝義とをつなぐもの」 を示すという瑜伽行唯識派の存在理由を確立したことにはならないであろう.そ して,先に確認したsvacitta-dharmatA(自心法性)こそが,われわれ自身が修習を通して真如(tathatA=vijJapti-mAtratA=唯識実性=世俗とは乖離した絵に描いた のような
真理)を自心の上に体得した状態であり,その状態がvijJAna-mAtratvaという言葉
結論
上記の検討の結果として,以下のようなことがいえるであろう.まず,玄奘訳 『唯識三十頌』第25偈の「唯識実性」という訳語は,TK第25偈のvijJapti-mAtratA が,円成実性を意味している,というヴァスバンドゥの意図を意識した上で,単 なる「唯識性」と区別するという明確な意図に基いて示されたものである,とい うことが『成唯識論』の説明箇所から確認できる.TK第28偈のvijJAna-mAtratva については,これも単なる「唯識性」とは区別されるべきものであるが,宇井伯 寿博士は,S. Léviが校訂に使用した写本通りのvijJAna-mAtratvaの方を明らかに 意図的に採用しており,そのvijJAna-mAtratvaをsvacittadharmatA(自心法性)と同 一視されている,ということが確認できる.これは,われわれの心の迷いと悟り とに無関係に常に存在する真如と同義語の法性であるところのvijJapti-mAtratA と,われわれ自身が入無相方便の実修を通して自心の上に法性(=真如)を体得 した状態を意味するvijJAna-mAtratvaとを区別する意図を宇井博士自身がもって いたことを意味しているといえるであろう.また,「-tAは本質的(抽象的)な事 態を表すのに対して,-tvaは,より具体的な事態を表す」という,後藤敏文教授 や田中典彦教授による御教示をも視野に入れて考えるならば,TK第25偈では-tA が使用されており,それに対してTK第28偈では-tvaが使用されている,という ことも,ヴァスバンドゥによる意図的な使い分けではないかとも考えられる.図 式化すると,以下のようになるであろう. ①法性=真如=唯識実性=vijJapti-mAtra-tA=(到達目標)=一つめの円成実性 ②自心法性=vijJAna-mAtra-tva=二つめの円成実性=体得された円成実性 1)北野2013, p. 195, ll. 1–12. 2)勝呂1975, p. 265, ll. 9–10. 3)Tbh, p. 43, ll. 12–20. 4)『新導成唯識論』p. 393, ll. 6–9. 〈一次文献と略号〉TK (Tbh) TriMCikAbhASya. VijJaptimAtratAsiddhi: Deux Traités de Vasubandhu, ViMCatikA(la Ving-taine) accompagnée d une Explication en Prose et TriMCikA(la Trentaine) avec la commetaire de Sthiramati. Ed. Sylvain Lévi.I. Paris: H. Champion, 1925.
MV MadhyAntavibhAga-bhASya. Ed. Gadjin M. Nagao. Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1964.
Three Works of Vasubandhu in Sanskrit Manuscript, The TrisvabhAvanirdeCa, the ViMCatikA with its
Akira Yuyama. Tokyo: The Centre for East Cultural Studies, The Toyo Bunko, 1989.
〈参考文献〉
Hartmut Buescher. 2007. Sthiramati s TriMCikAvijJaptibhASya:Critical Editions of the Sanskrit Text and its Tibetan Translation. Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften.
宇井伯寿 1952 『安慧護法唯識三十頌釈論』岩波書店.
勝呂信静 1975 「唯識と法性」平川彰博士還暦記念会編『平川彰博士還暦記念論集 仏教
における法の研究』春秋社,265.
北野新太郎 2008 「『唯識三十頌』第28偈について―VijJAna-mAtratve をめぐって―」
『印度学仏教学研究』57(1): 195–199.
― 2010 「VijJapti-mAtratAとVijJapti-mAtratvaとVijJAna-mAtratva―玄奘による 唯識
実性・唯識性・唯識 という訳し分けの意図をめぐって―」『印度学仏教学研究』59(1): 132–137. ― 2012 「 唯識三十頌 第28偈におけるJJAnaとVijJAna―ab句の校訂と訳語に関 する ねじれの関係 をめぐって―」『印度学仏教学研究』61(1): 130–135. ― 2013 「唯識の思想と実践―〈単純構造〉と入無相方便との関係を中心として―」 『日本仏教学会年報』78: 189–225.
〈キーワード〉 vijJaptimAtratA, vijJAnamAtratva,唯識実性, dharmatA, svacitta-dharmatA, 宇井伯寿 (九州大学非常勤講師,博士(文学)) 新刊紹介 グレゴリー・ショペン 著 小谷信千代 訳